いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第十四巻_前秦_苻堅下(王猛・苻融・苻朗)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。この巻は予言や童謡が多く出てきますが、表面的な翻訳に留まっている部分があります。

苻堅下

原文

太元七年、堅饗羣臣於前殿、樂奏賦詩。秦州別駕天水姜平子詩有「丁」字、直而不曲。堅問其故、平子曰、「臣丁至剛、不可以屈、且曲下者不正之物、未足獻也」。堅笑曰、「名不虛行」。因擢為上第。
堅兄法子東海公1.陽、與王猛子散騎侍郎皮謀反、事洩、堅問反狀、陽曰、「禮云、父母之仇、不同天地。臣父哀公、死不以罪、齊襄復九世之仇、而況臣也」。皮曰、「臣父丞相有佐命之勳、而臣不免貧餧、所以圖富也」。堅流涕謂陽曰、「哀公之薨、事不在朕、卿寧不知之」。讓皮曰、「丞相臨終、託卿以十具牛為田、不聞為卿求位。知子莫若父、何斯言之徵也」。皆赦不誅、徙陽於高昌、皮於朔方之北。苻融以位忝宗正、不能肅遏姦萌、上疏請待罪私藩。堅不許。將以融為司徒、融固辭。堅銳意荊揚、將謀入寇、乃改授融征南大將軍・開府儀同三司。
新平郡獻玉器。初、堅即偽位、新平王彫陳說圖讖、堅大悅、以彫為太史令。嘗言於堅曰、「謹案讖云、『古月之末亂中州、洪水大起健西流、惟有雄子定八州。』此即三祖・陛下之聖諱也。又曰、『當有艸付・臣又土、滅東燕、破白虜、氐在中、華在表。』案圖讖之文、陛下當滅燕、平六州。願徙汧隴諸氐於京師、三秦大戶置之於邊地、以應圖讖之言」。堅訪之王猛、猛以彫為左道惑眾、勸堅誅之。彫臨刑上疏曰、「臣以趙建武四年、從京兆劉湛學、明于圖記、謂臣曰、『新平地古顓頊之墟、里名曰雞閭。記云、此里應出帝王寶器、其名曰延壽寶鼎。顓頊有云、河上先生為吾隱之於咸陽西北、吾之孫有艸付臣又土應之。』湛又云、『吾嘗齋於室中、夜有流星大如半月、落於此地、斯蓋是乎。』願陛下誌之、平七州之後、出於壬午之年」。至是而新平人得之以獻、器銘篆書文題之法、一為天王、二為王后、三為三公、四為諸侯、五為伯子男、六為卿大夫、七為元士。自此已下、考載文記、列帝王名臣、自天子王后、內外次序、上應天文、象紫宮布列、依玉牒版辭、不違帝王之數。從上元人皇起、至中元、窮於下元、天地一變、盡三元而止。堅以彫言有徵、追贈光祿大夫。
幽州蝗、廣袤千里、堅遣其散騎常侍劉蘭持節為使者、發青・冀・幽・并百姓討之。
以苻朗為使持節・都督青徐兗三州諸軍事・鎮東將軍・青州刺史、以諫議大夫裴元略為陵江將軍・西夷校尉・巴西梓潼二郡太守、密授規模、令與王撫備舟師於蜀、將以入寇。
車師前部王彌窴・鄯善王休密馱朝於堅、堅賜以朝服、引見西堂。窴等觀其宮宇壯麗、儀衞嚴肅、甚懼、因請年年貢獻。堅以西域路遙、不許、令三年一貢、九年一朝、以為永制。窴等請曰、「大宛諸國雖通貢獻、然誠節未純、請乞依漢置都護故事。若王師出關、請為鄉導」。堅於是以驍騎呂光為持節・都督西討諸軍事、與陵江將軍姜飛・輕騎將軍彭晃等配兵七萬、以討定西域。苻融以虛秏中國、投兵萬里之外、得其人不可役、得其地不可耕、固諫以為不可。堅曰、「二漢力不能制匈奴、猶出師西域。今匈奴既平、易若摧朽、雖勞師遠役、可傳檄而定、化被崑山、垂芳千載、不亦美哉」。朝臣又屢諫、皆不納。

1.東海公の名である「陽」は、周虓伝では「苞」に作る。

訓読

太元七年に、堅 羣臣を前殿に饗し、賦詩を樂奏す。秦州別駕の天水の姜平子 詩に「丁」の字有り、直として曲げず。堅 其の故を問ふに、平子曰く、「臣の丁は至剛なり、以て屈す可からず、且つ曲下する者 不正の物なり、未だ獻ずるに足るなり」と。堅 笑ひて曰く、「名 虛行せず」と。因りて擢して上第と為す。
堅が兄たる法の子の東海公陽、王猛の子たる散騎侍郎の皮と與に謀反し、事 洩る。堅 反狀を問ふに、陽曰く、「禮に云はく、父母の仇は、天地を同にせずと。臣が父の哀公、死するに罪を以てせず。齊襄は九世の仇を復す、而るに況んや臣をや」と。皮曰く、「臣が父の丞相 佐命の勳有り、而れども臣は貧餧を免れず。富を圖る所以なり」と。堅 流涕して陽に謂ひて曰く、「哀公の薨、事は朕に在らず、卿 寧ぞ之を知らざる」と。皮を讓めて曰く、「丞相 臨終に、卿を託するに十具の牛もて田と為すを以てし、卿が為に位を求むるを聞かず。子を知らば父が若きこと莫く、何ぞ斯言の徵あるや」と。皆 赦して誅さず、陽を高昌に、皮を朔方の北に徙す。苻融 位は宗正を忝くするも、姦萌を肅遏する能はざるを以て、上疏して罪を私藩に待たんことを請ふ。堅 許さず。將に融を以て司徒と為さんとするも、融 固辭す。堅 意を荊揚に銳くし、將に入寇せんと謀り、乃ち改めて融に征南大將軍・開府儀同三司を授く。
新平郡 玉器を獻ず。初め、堅 偽位に即くや、新平の王彫 圖讖を陳說し、堅 大いに悅び、彫を以て太史令と為す。嘗て堅に言ひて曰く、「謹みて讖を案ずるに云ふらく、『古月の末に中州に亂あり、洪水 大いに起りて健 西に流れ、惟だ雄子のみ八州を定むる有り』と。此れ即ち三祖・陛下の聖諱なり。又 曰く、『當に艸付・臣又土有るべし。東燕を滅し、白虜を破り、氐 中に在り、華 表に在り』と。圖讖の文を案ずるに、陛下 當に燕を滅し、六州を平らげん。願はくは汧隴の諸氐を京師に徙し、三秦の大戶もて之を邊地に置き、以て圖讖の言に應せよ」と。堅 之を王猛に訪ぬるに、猛 彫を以て左道もて眾と惑はすと為し、堅に之を誅せんことを勸む。彫 刑に臨みて上疏して曰く、「臣 趙の建武四年を以て、京兆の劉湛より學び、圖記に明るし。臣に謂ひて曰く、『新平の地 古の顓頊の墟なり、里は名づけて雞閭と曰ふ。記に云はく、此の里 應に帝王の寶器を出すべし。其れ名づけて延壽の寶鼎と曰ふ。顓頊 云ふ有り、河上先生 吾が為に之を咸陽の西北を隱し、吾の孫の艸付・臣又土有りて之に應ず』と。湛 又 云はく、『吾 嘗て室中に齋すに、夜に流星の大にして半月が如き有り、此の地に落つ、斯れ蓋し是なり』と。願はくは陛下 之を誌し、七州を平らぐるの後、壬午の年に出でん」と。是に至て新平の人 之を得て以て獻じ、器銘の篆書の文題の法は、一は天王為り、二は王后為り、三は三公為り、四は諸侯為り、五は伯子男為り、六は卿大夫為り、七は元士為り。此より已下、文記を考載するに、帝王の名臣を列し、天子の王后より、內外 次序たりて、上は天文に應じ、紫宮の布列を象り、玉牒の版辭に依り、帝王の數に違はず。上元の人皇より起ち、中元に至り、下元を窮め、天地 一變し、三元を盡くして止む。堅 彫が言を以て徵有りとし、光祿大夫を追贈す。
幽州 蝗あり、廣袤なること千里なり。堅 其の散騎常侍の劉蘭を遣はして持節して使者と為し、青・冀・幽・并の百姓を發して之を討つ。
苻朗を以て使持節・都督青徐兗三州諸軍事・鎮東將軍・青州刺史と為し、諫議大夫の裴元略を以て陵江將軍・西夷校尉・巴西梓潼二郡太守と為し、密かに規模を授け、王撫と與に舟師を蜀に備へしめて、將に以て入寇せんとす。
車師前部王の彌窴・鄯善王の休密馱 堅に朝し、堅 賜はるに朝服を以てし、引きて西堂に見ゆ。窴ら其の宮宇の壯麗にして、儀衞の嚴肅なるを觀て、甚だ懼れ、因りて年年の貢獻を請ふ。堅 西域の路 遙かなるを以て、許さず、三年ごとに一貢、九年ごとに一朝せしめ、以て永制と為す。窴ら請ひて曰く、「大宛の諸國 貢獻を通ずると雖も、然れども誠節は未だ純ならず。漢の都護を置きしの故事に依らんことを請乞ふ。若し王師 關を出づれば、請ふ鄉導と為らんことを」と。堅 是に於て驍騎の呂光を以て持節・都督西討諸軍事と為し、陵江將軍の姜飛・輕騎將軍の彭晃らと與に兵七萬を配し、以て西域を討定せしむ。苻融 中國を虛秏し、兵を萬里の外を投ずれども、其の人を得ても役ある可からず、其の地を得ても耕す可からざるを以て、固く諫めて以て不可と為す。堅曰く、「二漢の力 匈奴を制する能はざるに、猶ほ師を西域に出す。今 匈奴 既に平らぎ、易きこと摧朽が若し。師を勞はせ遠役すと雖も、傳檄して定む可し。化は崑山を被ひ、垂は千載に芳し、亦た美ならざるや」と。朝臣 又 屢々諫むるも、皆 納れず。

現代語訳

太元七年、苻堅は群臣と前殿で饗宴し、賦詩を作って詠唱した。秦州別駕の天水の姜平子は詩のなかに「丁」字があり、まっすぐ書いて曲げなかった。苻堅がその理由を問うと、平子は、「臣の丁(の字)は剛強なもので、曲げられません。曲げ下ろしたもの正しくないので、献上に値しません」と言った。苻堅は笑って、「名はいたずらなものではない」と言った。抜擢して上第(最上)とした。
苻堅の兄である苻法の子の東海公陽は、王猛の子である散騎侍郎の王皮とともに謀反を計画したが、これが漏洩した。苻堅が謀反の理由を聞くと、苻陽は、「『礼記』(檀弓上)に、父母の仇とは、天地をともにしないとある。わが父の哀公(苻法)は、無罪で殺された。斉の襄公は九世前の仇を報復した、まして(子の)私ならば尚更だ」と言った。王皮は、「わが父の丞相は佐命の勲があったが、私は貧困に苦しんでいる。富貴になるために謀反をした」と言った。苻堅は涙を流して苻陽に、「哀公の薨去は、わが責任ではない。どうして分かってくれないのか」と言った。王皮を責めて、「丞相(王猛)は臨終のとき、きみのことを託して耕牛と田地を求めたが、官位の斡旋を頼まなかった。子を知れば父と別人だというが、この言葉の通りではないか」と言った。二人を赦して誅さず、苻陽を高昌に、王皮を朔方の北に移した。苻融は宗正の官位にありながら、反乱の兆しを防げなかったとして、上疏して(辞職し)罪の裁きを封国で待つと言った。苻堅は許さなかった。苻融を司徒にしようとしたが、苻融は固辞した。苻堅は荊州と揚州(東晋)に鋭く関心が向かい、侵攻を計画して、改めて苻融に征南大将軍・開府儀同三司を授けた。
新平郡が玉器を献上した。かつて、苻堅が偽位に即いたとき、新平の王彫は図讖の説を述べ、苻堅は大いに悦び、王彫を太史令とした。あるとき(王彫は)苻堅に、「謹んで讖文を点検しますに、『古月の末に中州で乱があり、大きな洪水が起きて健は西に流れ、ただ雄子だけが八州を平定する』とあります。これは三祖(苻洪・苻健・苻雄)と陛下の聖諱を表しています。さらに、『艸付・臣又土(苻・堅)が現れるだろう。東燕を滅ぼし、白虜を破り、氐族のなかから、中華に出現する』とあります。図讖の文を解釈しますに、陛下が燕を滅ぼし、六州を平定する予言です。どうか汧隴の諸氐を京師に移住させ、三秦の豪族を辺境の地に置き、図讖の文に対応させなさい」と言った。苻堅が王猛に意見を求めると、王猛は王彫を左道によって人々を惑わすものだといい、苻堅に誅殺を勧めた。王彫は刑に臨んで上疏し、「私は趙の建武四年に、京兆の劉湛から学び、図讖に精通しています。(師の劉湛は)私に、『新平の地はいにしえの顓頊の都で、里の名前は鶏閭という。図讖によると、この里は帝王の宝器を出す。その名を延寿の宝鼎という。顓頊は、河上先生が自分のために宝器を西北に隠し、わが子孫の艸付・臣又土(苻・堅)がこれに対応すると言った』と言いました。劉湛はさらに、『私がかつて室内で祭りをしていると、夜に大きな流星が現れて月の半分ほどで、この地に落ちたが、恐らく(流星が)この宝器だ』と言いました。どうか陛下はこれを記録して下さい。七州を平定した後、壬午の年に(宝器が)出現するでしょう」と言った。この時期になって新平の人が宝器を献上し、器の銘に篆書の祭文に、一は天王、二は王后、三は三公、四は諸侯、五は伯子男、六は卿大夫、七は元士がみえた。これより以下、記載を検討すると、(前秦の)帝王の名臣を書き連ね、天子の王后より、内外の序列に沿い、上は天文に応じ、紫宮の配列をかたどり、玉牒の版辞に基づいて、帝王の代数と一致した。上元の人皇より始まり、中元に至り、下元をきわめて、天地が一変し、三元を尽くすまでが書かれていた。苻堅は王彫の言葉が的中したと見なし、光禄大夫を追贈した。
幽州で蝗害があり、千里にわたり作物が食い尽くされた。苻堅は散騎常侍の劉蘭を派遣して持節して使者とし、青・冀・幽・并州の百姓を動員して駆除させた。
苻朗を使持節・都督青徐兗三州諸軍事・鎮東将軍・青州刺史とし、諫議大夫の裴元略を陵江将軍・西夷校尉・巴西梓潼二郡太守とし、密かに計略を授け、王撫とともに水軍を蜀で整備させて、(東晋に)入寇しようとした。
車師前部王の弥窴と鄯善王の休密馱が苻堅に朝見した。苻堅は朝服を賜与し、招いて西堂で謁見した。弥窴らは前秦の宮殿が壮麗で、儀礼の衛兵が厳粛であるのを見て、とても懼れ、毎年貢献することを申し出た。苻堅は西域の道程が遠いため、許さず、三年ごとに一貢、九年ごとに一朝とし、これを永久の定めとした。弥窴らは、「大宛の諸国は貢献を通じていますが、忠誠と節度が純粋なものではなありません。漢帝国のように(西域)都護を設置して下さい。もし王の軍が関を出れば、私たちが郷導を務めます」と言った。苻堅はこれを受けて驍騎の呂光を持節・都督西討諸軍事とし、陵江将軍の姜飛と軽騎将軍の彭晃らとともに兵七万を配備し、西域を討伐し平定させた。苻融は中原が損耗しており、兵を万里のかなたに投入しても、人民を得たところで役務を負担させられず、領地を得たところで耕作ができないとして、固く諫めて反対した。苻堅は、「二漢の力では匈奴を制圧できなかったが、それでも軍を西域に出した。いま匈奴の平定が終わり、(西域の経営は)朽ち木を壊すほど容易である。軍を動員して遠征するが、書簡を発給するだけで平定が終わるだろう。教化が崑山をおおい、事績が千年の先まで伝えられる、素晴らしいではないか」と言った。朝臣もまた口々に諫めたが、みな却下された。

原文

晉將軍朱綽焚踐沔北屯田、掠六百餘戶而還。堅引羣臣會議、曰、「吾統承大業垂二十載、芟夷逋穢、四方略定、惟東南一隅未賓王化。吾每思天下不一、未嘗不臨食輟餔、今欲起天下兵以討之。略計兵杖精卒、可有九十七萬、吾將躬先啟行、薄伐南裔、於諸卿意何如」。祕書監朱彤曰、「陛下應天順時、恭行天罰、嘯咤則五嶽摧覆、呼吸則江海絕流、若一舉百萬、必有征無戰。晉主自當銜璧輿櫬、啟顙軍門、若迷而弗悟、必逃死江海、猛將追之、即可賜命南巢。中州之人、還之桑梓。然後迴駕岱宗、告成封禪、起白雲於中壇、受萬歲於中嶽、爾則終古一時、書契未有」。堅大悅曰、「吾之志也」。
左僕射權翼進曰、「臣以為晉未可伐。夫以紂之無道、天下離心、八百諸侯不謀而至、武王猶曰彼有人焉、迴師止旆。三仁誅放、然後奮戈牧野。今晉道雖微、未聞喪德、君臣和睦、上下同心。謝安・桓沖、江表偉才、可謂晉有人焉。臣聞師克在和、今晉和矣、未可圖也」。堅默然久之、曰、「諸君各言其志」。
太子左衞率石越對曰、「吳人恃險偏隅、不賓王命、陛下親御六師、問罪衡越、誠合人神四海之望。但今歲鎮星守斗牛、福德在吳。懸象無差、弗可犯也。且晉中宗、藩王耳、夷夏之情、咸共推之、遺愛猶在於人。昌明、其孫也、國有長江之險、朝無昏貳之釁。臣愚以為利用修德、未宜動師。孔子曰、『遠人不服、修文德以來之。』願保境養兵、伺其虛隙」。堅曰、「吾聞武王伐紂、逆歲犯星。天道幽遠、未可知也。昔夫差威陵上國、而為句踐所滅。仲謀澤洽全吳、孫晧因三代之業、龍驤一呼、君臣面縛、雖有長江、其能固乎。以吾之眾旅、投鞭於江、足斷其流」。越曰、「臣聞紂為無道、天下患之。夫差淫虐、孫晧昏暴、眾叛親離、所以敗也。今晉雖無德、未有斯罪、深願厲兵積粟以待天時」。羣臣各有異同、庭議者久之。堅曰、「所謂築室于道、沮計萬端、吾當內斷於心矣」。
羣臣出後、獨留苻融議之。堅曰、「自古大事、定策者一兩人而已、羣議紛紜、徒亂人意、吾當與汝決之」。融曰、「歲鎮在斗牛、吳越之福、不可以伐一也。晉主休明、朝臣用命、不可以伐二也。我數戰、兵疲將倦、有憚敵之意、不可以伐三也。諸言不可者、策之上也、願陛下納之」。堅作色曰、「汝復如此、天下之事吾當誰與言之。今有眾百萬、資杖如山、吾雖未稱令主、亦不為闇劣。以累捷之威、擊垂亡之寇、何不克之有乎。吾終不以賊遺子孫、為宗廟社稷之憂也」。融泣曰、「吳之不可伐昭然、虛勞大舉、必無功而反。臣之所憂、非此而已。陛下寵育鮮卑・羌・羯、布諸畿甸、舊人族類、斥徙遐方。今傾國而去、如有風塵之變者、其如宗廟何。監國以弱卒數萬留守京師、鮮卑・羌・羯攢聚如林、此皆國之賊也、我之仇也。臣恐非但徒返而已、亦未必萬全。臣智識愚淺、誠不足採。王景略一時奇士、陛下每擬之孔明、其臨終之言不可忘也」。堅不納。
游於東苑、命沙門道安同輦。權翼諫曰、「臣聞天子法駕、侍中陪乘、清道而行、進止有度。三代末主、或虧大倫、適一時之情、書惡來世。故班姬辭輦、垂美無窮。道安毀形賤士、不宜參穢神輿」。堅作色曰、「安公道冥至境、德為時尊、朕舉天下之重、未足以易之。非公與輦之榮、此乃朕之顯也」。命翼扶安升輦、顧謂安曰、「朕將與公南游吳越、整六師而巡狩、謁虞陵於疑嶺、瞻禹穴於會稽、泛長江、臨滄海、不亦樂乎」。安曰、「陛下應天御世、居中土而制四維、逍遙順時、以適聖躬、動則鳴鑾清道、止則神栖無為、端拱而化、與尭舜比隆、何為勞身於馳騎、口倦於經略、櫛風沐雨、蒙塵野次乎。且東南區區、地下氣癘、虞舜游而不返、大禹適而弗歸、何足以上勞神駕、下困蒼生。詩云、『惠此中國、以綏四方。』苟文德足以懷遠、可不煩寸兵而坐賓百越」。堅曰、「非為地不廣・人不足也、但思混一六合、以濟蒼生。天生蒸庶、樹之君者、所以除煩去亂、安得憚勞。朕既大運所鍾、將簡天心以行天罰。高辛有熊泉之役、唐堯有丹水之師、此皆著之前典、昭之後王。誠如公言、帝王無省方之文乎。且朕此行也、以義舉耳、使流度衣冠之冑、還其墟墳、復其桑梓、止為濟難銓才、不欲窮兵極武」。安曰、「若鑾駕必欲親動、猶不願遠涉江淮、可暫幸洛陽、明授勝略、馳紙檄於丹楊、開其改迷之路。如其不庭、伐之可也」。堅不納。
先是、羣臣以堅信重道安、謂安曰、「主上欲有事於東南、公何不為蒼生致一言也」。故安因此而諫。苻融及尚書原紹・石越等上書面諫、前後數十、堅終不從。堅少子中山公詵有寵於堅、又諫曰、「臣聞季梁在隨、楚人憚之。宮奇在虞、晉不闚兵。國有人焉故也。及謀之不用、而亡不淹歲。前車之覆軌、後車之明鑒。陽平公、國之謀主、而陛下違之。晉有謝安・桓沖、而陛下伐之。是行也、臣竊惑焉」。堅曰、「國有元龜、可以決大謀。朝有公卿、可以定進否。孺子言焉、將為戮也」。
所司奏、劉蘭討蝗幽州、經秋冬不滅、請徵下廷尉詔獄。堅曰、「災降自天、殆非人力所能除也。此自朕之政違所致、蘭何罪焉」。

訓読

晉の將軍の朱綽 沔北の屯田を焚踐し、六百餘戶を掠めて還る。堅 羣臣を引きて會議して、曰く、「吾が統 大業を承けて二十載に垂とし、夷を芟し穢を逋し、四方 略ぼ定まり、惟だ東南の一隅のみ未だ王化に賓せず。吾 每に天下 一ならざるを思ひ、未だ嘗て食に臨みて輟餔せず。今 天下の兵を起こして以て之を討たんと欲す。兵杖精卒を略計するに、有九十七萬可りなり。吾 將に躬ら先んじて啟行し、南裔を薄伐せんとす。諸卿の意に於て何如」と。祕書監の朱彤曰く、「陛下 天に應じ時に順ひ、天罰を恭行し、嘯咤すれば則ち五嶽すら摧覆し、呼吸すれば則ち江海すら絕流す。若し一たび百萬を舉ぐれば、必ず征有りて戰ひ無からん。晉主 自ら當に銜璧して輿櫬し、軍門に啟顙すべきも、若し迷て悟らざれば、必ず江海に逃死せん。猛將 之を追はば、即ち命を南巢に賜る可し。中州の人、之を桑梓に還さん。然る後に駕を岱宗に迴し、成を告げて封禪せば、白雲を中壇より起こし、萬歲を中嶽に受けん。爾らば則ち終古の一時、書契 未だ有らざるなり」と。堅 大いに悅びて曰く、「吾の志なり」と。
左僕射の權翼 進みて曰く、「臣 以為へらく晉は未だ伐つ可からず。夫れ紂の無道にして、天下 離心するを以て、八百の諸侯 謀らずして至り、武王 猶ほ彼に人有りと曰ひ、師を迴して旆を止む。三仁 誅放し、然る後に戈を牧野に奮ふ。今 晉道は微なると雖も、未だ德を喪へると聞かず、君臣は和睦し、上下は同心す。謝安・桓沖、江表の偉才にして、晉に人有りと謂ふ可し。臣 聞くに師の克は和に在らば、今 晉は和なり、未だ圖る可からざるなり」と。堅 默然として久之し、曰く、「諸君 各々其の志を言へ」と。
太子左衞率の石越 對へて曰く、「吳人 險を恃みて偏隅し、王命に賓せず。陛下 親ら六師を御し、罪を衡越に問はば、誠に人神の四海の望に合はん。但だ今歲は鎮星 斗牛を守り、福德は吳に在り。懸象 差ふこと無く、犯す可からざるなり。且も晉の中宗は、藩王なるのみに、夷夏の情、咸 共に之を推し、遺愛 猶ほ人に在り。昌明は、其の孫なり。國に長江の險有り、朝に昏貳の釁無し。臣愚 以為へらく用を利し德を修めて、未だ宜しく師を動かすべからず。孔子曰く、『遠人 服せざれば、文德を修めて以て之を來たらしむ』と。願はくは境を保ち兵を養ひ、其の虛隙を伺へ」と。堅曰く、「吾 聞くに武王 紂を伐せしとき、歲に逆ひて星を犯す。天道は幽遠にして、未だ知る可からざるなり。昔 夫差の威 上國を陵ぎ、而れども句踐の滅す所と為る。仲謀 澤洽して吳を全し、孫晧 三代の業に因るに、龍驤 一呼せば、君臣 面縛す。長江有りと雖も、其れ能く固むるや。吾の眾旅を以て、鞭を江に投ずれば、其の流れを斷つに足る」と。越曰く、「臣 聞くに紂は無道を為し、天下 之を患ふ。夫差は淫虐、孫晧は昏暴なり。眾は叛し親は離るるは、敗るる所以なり。今 晉は德無しと雖も、未だ斯の罪有らず。深く願ふ兵を厲まし粟を積みて以て天の時を待て」と。羣臣 各々異同有りて、庭議する者は久之なり。堅曰く、「所謂 室を道に築くに、沮計 萬端たり。吾 當に內に心を斷ずべし」。
羣臣 出づる後に、獨り苻融を留めて之を議す。堅曰く、「古より大事は、定策する者は一兩人なるのみ。羣議 紛紜とし、徒らに人の意を亂す。吾 當に汝と之を決せん」と。融曰く、「歲鎮 斗牛に在り、吳越の福なるは、以て伐つ可からざるの一なり。晉主 休明にして、朝臣 命を用ふるは、以て伐つ可からざるの二なり。我 數々戰ふに、兵は疲れて將はは倦み、敵を憚るの意有るは、以て伐つ可からざるの三なり。諸々の不可を言ふは、策の上なり。願はくは陛下 之を納れよ」と。堅 色を作して曰く、「汝 復た此の如くんば、天下の事 吾 當に誰と與に之を言はん。今 眾は百萬有り、資杖は山の如し。吾 未だ令主と稱へられざると雖も、亦た闇劣為らず。累捷の威を以て、垂亡の寇を擊つ。何ぞ之に克たざること有るや。吾 終に賊を以て子孫を遺さず、宗廟社稷の憂と為るなり」と。融 泣きて曰く、「吳の伐つ可からざるは昭然として、虛しく大舉を勞さば、必ず功無くして反らん。臣の憂ふるは、此にのみに非ず。陛下 鮮卑・羌・羯を寵育し、諸々の畿甸に布き、舊人の族類、斥きて遐方に徙る。今 國を傾けて去らば、風塵の變有るが如し、其れ宗廟を如何せん。監國は弱卒の數萬を以て京師を留守し、鮮卑・羌・羯 攢聚すること林が如し。此れ皆 國の賊なり、我の仇なり。臣 但だ徒らに返るのみに非ず、亦た未だ必ずしも萬全ならざるを恐る。臣の智識 愚淺にして、誠に採るに足らず。王景略 一時の奇士なり。陛下 每に之を孔明に擬ふ。其の臨終の言 忘る可からざるや」と。堅 納れず。
東苑に游び、沙門の道安に命じて同輦せしむ。權翼 諫めて曰く、「臣 聞くに天子の法駕は、侍中 陪乘し、道を清めて行き、進止は度有り。三代の末主は、或いは大倫を虧き、一時の情に適し、惡を來世に書す。故に班姬は輦を辭し、美を無窮に垂る。道安は毀形の賤士にして、宜しく參じて神輿を穢すべからず」と。堅 色を作して曰く、「安公の道は至境に冥く、德は時尊為り。朕 天下の重を舉ぐれども、未だ以て之に易ふるに足らず。公 輦に與るの榮に非ず、此れ乃ち朕の顯なり」と。翼に命じて安を扶けて輦に升らしめ、顧みて安に謂ひて曰く、「朕 將に公と與に南して吳越に游ばん。六師を整へて巡狩し、虞陵を疑嶺に謁し、禹穴を會稽に瞻て、長江を泛し、滄海に臨まん。亦た樂しからずや」と。安曰く、「陛下 天に應じて世を御し、中土に居りて四維を制す。逍遙として時に順ひ、以て聖躬に適ひ、動かば則ち鑾を鳴し道を清め、止まれば則ち神は無為に栖み、端拱して化し、尭舜と隆を比ぶ。何為れぞ身を馳騎に勞はせ、經略を倦むことを口にし、櫛風沐雨し、蒙塵野次せんや。且つ東南は區區たりて、地下は氣癘なり。虞舜 游びて返らず、大禹 適きて歸らず。何ぞ以て上は神駕を勞し、下は蒼生を困らすに足るや。詩に云はく、『此を中國に惠み、以て四方を綏す』と。苟も文德 以て遠を懷けるに足らば、寸兵を煩さずして坐して百越を賓せしむ可し」と。堅曰く、「地もて廣からず、人もて足らざると為すに非ざるなり、但だ六合を混一して、以て蒼生を濟はんと思ふのみ。天は蒸庶を生み、之を君に樹つるは、煩を除き亂を去る所以なり。安んぞ得て勞を憚せんか。朕 既に大運の鍾る所、將に天心を簡して以て天罰を行はんとす。高辛 熊泉の役有り、唐堯 丹水の師有り。此れ皆 之を前典に著はし、之を後王に昭す。誠に公の言が如くんば、帝王 方を省る文無からんか。且つ朕が此れ行ふや、義を以て舉ぐるのみ。流度せし衣冠の冑をば、其の墟墳に還し、其の桑梓に復せしめん。止だ難を濟ひ才を銓するを為すのみにして、兵を窮め武を極めんと欲せず」と。安曰く、「若し鑾駕 必ず親ら動かんと欲せども、猶ほ遠く江淮を涉るを願はず、暫く洛陽に幸き、明に勝略を授し、紙檄を丹楊に馳せ、其の迷を改むるの路を開く可し。如し其れ庭せずんば、之を伐つこと可なり」と。堅 納れず。
是より先、羣臣 堅の道安を信重するを以て、安に謂ひて曰く、「主上は事を東南に有らんと欲す。公 何ぞ蒼生の為に一言を致さざるや」と。故に安 此に因りて諫む。苻融及び尚書の原紹・石越ら上書して面諫し、前後すること數十。堅 終に從はず。堅が少子の中山公詵 寵の堅に有り、又 諫めて曰く、「臣 聞くに季梁 隨に在れば、楚人 之を憚る。宮奇 虞に在れば、晉 兵を闚はず。國に人有るが故なり。之を謀りて用ひざるに及び、而して亡は歲を淹(とど)めず。前車の覆軌は、後車の明鑒なり。陽平公は、國の謀主なり、而れども陛下 之に違ふ。晉に謝安・桓沖有り、而れども陛下 之を伐つ。是に行くは、臣 竊かに焉に惑ふ」と。堅曰、「國に元龜有り、以て大謀を決す可し。朝に公卿有り、以て進否を定む可し。孺子 焉を言はば、將に戮を為さんとす」と。
所司 奏すらく、劉蘭 蝗を幽州に討つに、秋冬を經て滅せず、請ふ徵して廷尉の詔獄に下さんことを。堅曰く、「災 降るは天よりす、殆ど人力の能く除く所に非ざるなり。此れ朕の政の違へるより致る所なれば、蘭 何の罪あらんか」と。

現代語訳

晋の将軍の朱綽が沔北の屯田を焼いて踏み荒らし、六百戸あまりを拉致して還った。苻堅は群臣を招いて一堂に会し、「私が秦帝国の大業を継承して二十年(正しくは三十年)になろうとしている。夷狄を討伐し悪人を捕らえ、四方はほぼ平定が完了したが、ただ東南の一隅だけがまだ王化を拒絶している。私はいつも天下が一つでないことを気に病み、食事をしても喉を通らない。いま天下の兵を起こして討伐しようと思う。軍事物資と精兵の数量を見積もったところ、九十七万人を動員できそうだ。私が先頭を切って進み、南の果てを討伐しようと思う。諸卿の意見を聞かせてくれ」と言った。秘書監の朱彤は、「陛下は天の時に呼応し、天罰を正しく行い、叱りつければ五嶽ですら崩壊し、息をすれば長江と海ですら流れが絶えます。ひとたび百万の兵を挙げれば、征伐において戦闘は起きないでしょう(敵国は自壊します)。晋主は本来ならば璧を口に含んで棺を担ぎ、軍門に額をつけるべきですが、もし血迷ったならば、長江や海を必死に逃げ回るでしょう。猛将が追撃して、南巣で(捕獲し)王命を聞くでしょう。(永嘉の乱で南に逃れた)中原の人は、郷里に帰してやれます。その後に車駕を泰山に回し、成果を報告して封禅すれば、白雲が中壇より起こり、永遠の国運を中嶽で受けられます。いにしえから今日まで、これほど盛大なことの記録はありません」と言った。苻堅は大いに悦んで、「私の考えと同じだ」と言った。
左僕射の権翼が進み出て、「私が考えますに晋はまだ征伐できません。殷の紂王が無道で、天下の心が離れると、八百の諸侯は計らずとも集まりましたが、周の武王はそれでも殷には人材がいると言い、軍を帰還させ旗を降ろしました。(殷が)三仁を誅殺し追放した後に、はじめて戈を牧野で奮いました。いま晋の国運は微弱ですが、まだ徳を失ったとは聞かず、君臣は調和し、上下は団結しています。謝安と桓沖は、江表の偉大な才人であり、晋には人材がいると言えましょう。私が聞きますに軍の勝敗は和にあり、いま晋には和があるので、いまだ攻略できません」と言った。苻堅は長く黙りこくってから、「諸君らの考えを述べよ」と言った。
太子左衛率の石越が答えて、「呉人は土地の険阻さを頼みに辺境に籠もり、王命に従いません。陛下がみずから六師を統率し、罪を衡越の地で詰問すれば、まことに人や神の四海の望みに合致するでしょう。ただ今年は鎮星が斗牛を守り、福徳が呉にあります。天体の形は誤ることがなく、逆らえません。しかも晋の中宗(元帝の司馬睿)は、藩王に過ぎませんでしたが、(永嘉の乱後に)胡漢の支持を集めて、みなに推戴され、その輿望がまだ残っています。昌明(孝武帝)は、その孫です。国土に長江の険しさがあり、朝廷に謀反の対立がありません。私が思いますに武器を研いで徳を修めるべきで、まだ兵を動かしてはいけません。孔子は、『遠方の人が屈服しないなら、文徳を修めて相手から来させる』と言いました。どうか国境を維持して兵士を訓練し、東晋の空隙を窺いなさい」と言った。苻堅は、「私が聞くに周の武王が殷の紂王を討伐したとき、歳星にむかって星を犯したという。天道はかすかで深遠なもので、簡単には分からない。むかし(呉王)夫差の威勢が上位の国をしのぎ、それでも(越王)句践に滅ぼされた。仲謀(孫権)は恩沢を施して呉全土を統一し、孫晧は三代の事業を継承したが、龍驤将軍(王濬)が喊声をあげると、君臣は面縛して降服をした。長江があっても、防衛が固いとは限らない。わが軍隊を率い、鞭を長江に投げ込めば、その流れを断つことができる」と言った。石越は、「私が聞きますに紂王は無道をなし、天下は彼に苦しめられました。夫差は淫乱で悪逆、孫晧は愚かで残虐でした。兵が離叛して親族が裏切ったのが、(殷と二つの呉の)敗北の原因です。いま東晋は徳がないが、さほどの罪はありません。どうぞ兵を励まして糧食を蓄えて天の時をお待ちなさい」と言った。群臣はおのおの意見があり、宮廷での議論が長引いた。苻堅は、「住居を道に築くとき、損なう計画を万全にするという。私の心のなかで決断しよう」と言った。
群臣が退出した後、苻融だけを留めて相談した。苻堅は、「いにしえから重大なことは、一人か二人で判断をするものだ。群臣の議論が紛々とし、いたずらに人々の考えを乱した。きみと二人で決断したい」と言った。苻融は、「歳星と鎮星が斗牛にあり、呉越にとって福であることが、討伐不可の論拠の一つめです。晋主が聡明であり、朝臣が命令に従っているのは、討伐不可の論拠の二つめです。私はしばしば戦ってきましたが、兵は疲れて将軍は意欲が下がり、敵を恐れる気持ちがあります。討伐不可の論拠の三つめです。討伐不可の意見は、説得力があります。陛下は認めて下さい」と言った。苻堅は顔色を変えて、「きみまで反対するなら、天下のことは誰に相談したらよいのか。いま兵士が百万人おり、資財も山のようにある。私は明君と称賛されておらずとも、暗愚ではない。連戦連勝の兵威に乗って、滅亡寸前の反逆者を攻撃する。どうして勝てないことがあろうか。子孫の時代にまで賊を残存させたくない、宗廟や社稷にとって脅威になるから」と言った。苻融は泣いて、「呉の討伐が不可なのは明らかであり、いたずらに大挙して力を行使すれば、戦功なく帰還することになります。私の心配は、それだけではありません。陛下は鮮卑や羌族や羯族を大切に養い、国土の中枢に配置し、代わりに旧来のわが種族は、退けて遠方に移住しました。いま国を傾けて遠征すれば、戦乱の芽を育てるようなもので、宗廟はどうなるでしょう。監国(太子)が弱兵の数万人だけで京師を留守していれば、鮮卑や羌族や羯族が林のように群れ集まってきます。彼らはすべて国家の賊であり、われらの仇敵です。わが軍が手ぶらで帰ってくるだけでなく、国家が存続できないことを恐れます。私の知恵は愚かで浅く、採用に値しません。王景略(王猛)は当代の奇士でした。陛下は彼をいつも諸葛孔明に擬えていました。彼の臨終の言葉をお忘れではないですね」と言った。苻堅は聞き入れなかった。
(苻堅は)東苑に出かけ、沙門の道安に命じて輦に同乗させた。権翼が諫めて、「聞きますに天子の法駕は、侍中が陪乗して、道を清めて行くもので、車の進止は秩序に従うべきものです。ところが三代(夏殷周)の末代の主君は、大いなる人倫に欠いて、一時の感情にまかせ、悪事が将来に伝わりました。ゆえに班姫(班倢伃)は(前漢の成帝の)輦に同乗することを辞退し、美事が後世に伝えられました。道安は形をそこなった賤しい士ですから、同乗させ神聖な輿を穢してはいけません」と言った。 苻堅は不快感を表し、「安公(道安)の仏道は幽遠の極致にあり、彼の徳は当世でもっとも尊い。朕が天下の重要人物を挙げても、代わりを務まるものがいない。道安は輦に同乗することを誉れとせず、むしろ朕にとっての誉れなのだ」と言った。権翼に命じて道安を助けて輦に登らせた。振り返って道安に、「あなたと一緒に南下して呉越に外遊しよう。六軍の兵士を整えて遠征し、舜の陵墓に疑嶺で参り、禹の陵墓に会稽で詣で、長江を渡り、滄海に臨もう。楽しいではないか」と言った。 道安は、「陛下は天命に応じて世を支配し、中原にあって四方を統御しておいでです。逍遙として時運に従えば、古の聖人たちに匹敵します。動けば先触れをして道を清め、止まれば心は無為の境地に留まります。無為のまま教化をすれば、尭舜と偉大さが並ぶでしょう。どうして軍役に身を投じ、経略を練ることを怠り、風雨に身体をさらし、塵をかぶって野営するのですか。それに東南は狭隘な土地で、土地の気が不吉で穢れています。舜は出かけて帰らず、禹も赴いて(現地で没し)帰りませんでした。どうして上は天子の神々しい車駕を煩わせ、下は民草を疲弊させるほどの価値が(東晋に)ありましょうか。『詩経』(大雅 民労)に、『これを中原に恵み、四方を安んじる』とあります。もし文徳が遠方を懐かせるのに十分であれば、僅かな兵すら用いずに百越を服従させられるでしょう」と言った。 苻堅は、「(東晋の)土地が広くなく、人口が少ないと見なすことはなく、天地四方を統一し、万民を救いたいと考える。天が万民を生じ、君がその上に立つのは、患いと乱を除くためである。どうして苦労を惜しもうか。朕はすでに大いなる時運を授けられ、天の意思を確かめて天罰を行おうとしている。高辛氏は熊泉の軍役をおこない、尭にも丹水の遠征があって、どちらも古の書物に記され、後世の王の教訓となった。もしあなたの言う通り(遠征を慎むべき)ならば、帝王が地方を気にかけた記録が残るだろうか。それに朕が遠征を行うのは、ただ義を挙げようと思うからだ。流亡している士人の子孫(東晋の人々)を、祖先の墳墓の地に帰還させ、故郷に再び移住させてやろう。ただ苦難にある人々を救って才能を測ろうとするだけで、軍事力を極限に高めたいわけではない」と言った。道安は、「天子の車がみずから動くにせよ、遠く長江や淮水を渡ってはなりません。しばし洛陽に行き、勝利の戦略を授け、(降伏勧告の)書簡を丹楊に送り、迷い込んだ(東晋の)人々に正しい道を示せば十分です。それでも帰服しないなら、討伐もやむを得ませんが」と言った。苻堅は聞き入れなかった。
これより先、群臣は苻堅が道安を信頼し重用しているので、道安に、「主上は東南の征伐をやりたがっている。どうして民草のために一言を申し上げないのか」と言った。だから道安は(征伐を)諫止したのである。苻融及び尚書の原紹と石越らも上書して対面で諫め、前後で数十回に及んだ。苻堅は結局は従わなかった。苻堅の末子の中山公の苻詵は苻堅から寵愛されていた。苻詵も諫めて、「私が聞きますに(戦国時代に)季梁が隨にいたので、楚人はこれを憚りました。(春秋時代に)宮之奇が虞にいたので、晋は兵を止めました。敵国に人材がいたためです。計略で人材を退けさせると、滅亡まで一年も要しませんでした。前をゆく車が転倒した軌は、後ろをゆく車の鑑となります。陽平公は、国の謀主ですが、陛下は彼を退けました。晋には謝安と桓沖(という人材)がいますが、陛下は討伐を計画しています。いま決行するのは、私も賛成しかねます」と言った。苻堅は、「国に元亀があり、(亀甲で占って)大謀を決める。朝廷に公卿がいて、進退を決定する。孺子が口を挟めば、殺すからな」と言った。
担当官は、劉蘭が蝗を幽州で退治しているが、秋冬を経ても終わらないので、徴して廷尉の詔獄に下すようにと上奏した。苻堅は、「災害は天から降るもので、人の力で除けるものではない。これは朕の政治の過失が原因で到来したものであり、劉蘭にどんな罪があるだろうか」と言った。

原文

明年、呂光發長安、堅送於建章宮、謂光曰、「西戎荒俗、非禮義之邦。羈縻之道、服而赦之、示以中國之威、導以王化之法、勿極武窮兵、過深殘掠」。加鄯善王休密馱使持節・散騎常侍・都督西域諸軍事・寧西將軍、車師前部王彌窴使持節・平西將軍・西域都護、率其國兵為光鄉導。
是年、益州西南夷・海東諸國皆遣使貢其方物。
堅南游灞上、從容謂羣臣曰、「軒轅、大聖也、其仁若天、其智若神、猶隨不順者從而征之、居無常所、以兵為衞、故能日月所照、風雨所至、莫不率從。今天下垂平、惟東南未殄。朕忝荷大業、巨責攸歸、豈敢優游卒歲、不建大同之業。每思桓溫之寇也、江東不可不滅。今有勁卒百萬、文武如林、鼓行而摧遺晉、若商風之隕秋籜。朝廷內外、皆言不可、吾實未解所由。晉武若信朝士之言而不征吳者、天下何由一軌。吾計決矣、不復與諸卿議也」。太子宏進曰、「吳今得歲、不可伐也。且晉主無罪、人為之用。謝安・桓沖兄弟皆一方之儁才、君臣勠力、阻險長江、未可圖也。但可厲兵積粟、以待暴主、一舉而滅之。今若動而無功、則威名損於外、資財竭於內。是故聖王之行師也、內斷必誠、然後用之。彼若憑長江以固守、徙江北百姓於江南、增城清野、杜門不戰、我已疲矣。彼未引弓、土下氣癘、不可久留、陛下將若之何」。堅曰、「往年車騎滅燕、亦犯歲而捷之。天道幽遠、非汝所知也。昔始皇之滅六國、其王豈皆暴乎。且吾內斷於心久矣、舉必克之、何為無功。吾方命蠻夷以攻其內、精甲勁兵以攻其外、內外如此、安有不克」。道安曰、「太子之言是也、願陛下納之」。堅弗從。
冠軍慕容垂言於堅曰、「陛下德侔軒唐、功高湯武、威澤被於八表、遠夷重譯而歸。司馬昌明因餘燼之資、敢距王命、是而不誅、法將安措。孫氏跨僭江東、終併於晉、其勢然也。臣聞小不敵大、弱不御強、況大秦之應符、陛下之聖武、強兵百萬、韓白盈朝、而令其偷魂假號、以賊虜遺子孫哉。詩云、『築室于道謀、是用不潰于成。』陛下內斷神謀足矣、不煩廣訪朝臣以亂聖慮。昔晉武之平吳也、言可者張杜數賢而已、若採羣臣之言、豈能建不世之功。諺云憑天俟時、時已至矣、其可已乎」。堅大悅、曰、「與吾定天下者、其惟卿耳」。賜帛五百匹。
彗星掃東井。自堅之建元十七年四月、長安有水影、遠觀若水、視地則見人、至是則止。堅惡之。上林竹死、洛陽地陷。
晉車騎將軍桓沖率眾十萬伐堅、遂攻襄陽。遣前將軍劉波・冠軍桓石虔・振威桓石民攻沔北諸城。輔國楊亮伐蜀、攻拔伍城、進攻涪城、龍驤胡彬攻下蔡。鷹揚郭銓攻武當。沖別將攻萬歲城、拔之。堅大怒、遣其子征南叡及冠軍慕容垂・左衞毛當率步騎五萬救襄陽、揚武張崇救武當、後將軍張蚝・步兵校尉姚萇救涪城。叡次新野、垂次鄧城。王師敗長崇於武當、掠二千餘戶而歸。叡遣垂及驍騎石越為前鋒、次於沔水。垂・越夜命三軍人持十炬火、繫炬於樹枝、光照十數里中。沖懼、退還上明。張蚝出斜谷、楊亮亦引兵退歸。
堅下書悉發諸州公私馬、人十丁遣一兵。門在灼然者、為崇文義從。良家子年二十已下、武藝驍勇、富室材雄者、皆拜羽林郎。下書期克捷之日、以帝為尚書左僕射、謝安為吏部尚書、桓沖為侍中、並立第以待之。良家子至者三萬餘騎。其秦州主簿金城趙盛之為建威將軍・少年都統。遣征南苻融・驃騎張蚝・撫軍苻方・衞軍梁成・平南慕容暐・冠軍慕容垂率步騎二十五萬為前鋒。堅發長安、戎卒六十餘萬、騎二十七萬、前後千里、旗鼓相望。堅至項城、涼州之兵始達咸陽、蜀漢之軍順流而下、幽冀之眾至於彭城、東西萬里、水陸齊進。運漕萬艘、自河入石門、達於汝潁。

訓読

明年、呂光 長安を發し、堅 建章宮に送る。光に謂ひて曰く、「西戎 荒俗にして、禮義の邦に非ず。羈縻の道は、服さば之を赦して、示すに中國の威を以てし、導くに王化の法を以てす。武を極め兵を窮め、過ぎて殘掠を深むる勿れ」と。鄯善王の休密馱に使持節・散騎常侍・都督西域諸軍事・寧西將軍、車師前部王彌窴に使持節・平西將軍・西域都護を加へ、其の國兵を率ゐて光の鄉導と為す。
是の年、益州の西南夷・海東の諸國 皆 使を遣はして其の方物を貢す。
堅 南のかた灞上に游び、從容として羣臣に謂ひて曰く、「軒轅は、大聖なり。其の仁は天が若く、其の智は神が若し。猶ほ順はざる者に隨ひて從りて之を征し、居は常所無く、兵を以て衞と為し、故に能く日月の照らす所、風雨の至る所にして、率從せざる莫し。今 天下 平に垂とし、惟だ東南のみ未だ殄せず。朕 忝くも大業を荷ひ、巨責の歸する攸なり。豈に敢て優游して歲を卒し、大同の業を建てざるや。每に桓溫の寇を思ふや、江東は滅さざる可からず。今 勁卒百萬有り、文武は林の如く、鼓行して遺晉を摧くは、商風の秋籜を隕すが若し。朝廷の內外、皆 不可なりと言ひ、吾 實に未だ由る所を解せず。晉武 若し朝士の言を信じて吳を征たざれば、天下 何に由りて一軌たりしか。吾が計 決せり、復た諸卿と議せざるなり」と。太子宏 進みて曰く、「吳 今 歲を得れば、伐つ可からざるなり。且つ晉主 罪無く、人 之が用を為す。謝安・桓沖の兄弟 皆 一方の儁才にして、君臣 力を勠せ、險を長江に阻む。未だ圖る可からざるなり。但だ兵を厲し粟を積して、以て暴主を待たば、一舉すれば之を滅す可し。今 若し動きて功無くんば、則ち威名もて外に損ひ、資財もて內に竭きん。是の故に聖王の行師するや、內斷必誠にして、然る後に之を用ふ。彼 若し長江を憑りて以て固守し、江北の百姓を江南に徙し、城を增し野を清め、門を杜ざして戰はざれば、我 已に疲れん。彼 未だ弓を引かず、土下の氣は癘にして、久しく留まる可からず。陛下 將た之を若何せん」と。堅曰く、「往年に車騎 燕を滅し、亦た歲を犯して之に捷つ。天道は幽遠にして、汝の知る所に非ざるなり。昔 始皇の六國を滅すや、其の王 豈に皆 暴なりしか。且つ吾 心に內斷して久し、必ず之に克たんことを舉ぐ、何為れぞ功無きか。吾 方に蠻夷に命じて以て其の內を攻めしめ、精甲勁兵もて以て其の外を攻め、內外 此の如くんば、安んぞ克たざること有らん」と。道安曰く、「太子の言 是なり、願はくは陛下 之を納れよ」と。堅 從はず。
冠軍の慕容垂 堅に言ひて曰く、「陛下の德 軒唐を侔ち、功は湯武より高く、威澤は八表を被ひ、遠夷は重譯して歸す。司馬昌明 餘燼の資に因りて、敢て王命を距み、是れありて誅さざれば、法は將た安措せん。孫氏 江東に跨僭し、終に晉に併せらるは、其の勢 然るなり。臣 聞くに小は大に敵せず、弱は強を御せずと。況んや大秦の應符、陛下の聖武、強兵の百萬、韓白 朝に盈ち、而れども其の魂を偷み號を假ましめて、賊虜を以て子孫を遺さしむや。詩に云はく、『室を築くに道に謀り、是を用て成に潰せず』と。陛下の內斷神謀 足れり。廣く朝臣に訪ねて以て聖慮を亂すに煩さず。昔 晉武の吳を平らぐるや、可と言ふ者は張杜の數賢のみ、若し羣臣の言を採らば、豈に能く不世の功を建つるや。諺に云ふ、天に憑りて時を俟ち、時 已に至らば、其れ已む可きや」と。堅 大いに悅び、曰く、「吾と與に天下を定むる者は、其れ惟だ卿のみ」と。帛五百匹を賜ふ。
彗星 東井を掃す。堅の建元十七年四月より、長安に水影有り、遠く觀るに水の若く、地を視みれば則ち人を見て、是に至りて則ち止む。堅 之を惡む。上林の竹 死し、洛陽の地 陷つ。
晉の車騎將軍の桓沖 眾十萬を率ゐて堅を伐ち、遂に襄陽を攻む。前將軍の劉波・冠軍の桓石虔・振威の桓石民を遣はして沔北の諸城を攻めしむ。輔國の楊亮 蜀を伐ち、伍城を攻拔し、進みて涪城を攻め、龍驤の胡彬 下蔡を攻む。鷹揚の郭銓 武當を攻む。沖が別將 萬歲城を攻め、之を拔く。堅 大いに怒り、其の子の征南叡及び冠軍の慕容垂・左衞の毛當を遣はして步騎五萬を率ゐて襄陽を救はしめ、揚武の張崇をして武當を救ひ、後將軍の張蚝・步兵校尉の姚萇をして涪城を救はしむ。叡 新野に次り、垂 鄧城に次る。王師 長崇を武當に敗り、二千餘戶を掠めて歸る。叡 垂及び驍騎の石越を遣はして前鋒と為し、沔水に次らしむ。垂・越 夜に三軍の人に命じて十の炬火を持たしめ、炬を樹枝に繫ぎ、光は十數里中を照す。沖は懼れ、退きて上明に還る。張蚝 斜谷を出で、楊亮も亦た兵を引きて退き歸る。 堅 書を下して悉く諸州の公私の馬を發し、人十丁ごとに一兵を遣せしむ。門に灼然在る者は、崇文義從と為す。良家の子の年二十より已下、武藝 驍勇にして、富室材雄なる者は、皆 羽林郎を拜す。書を下して克捷の日を期し、帝を以て尚書左僕射と為し、謝安もて吏部尚書と為し、桓沖もて侍中と為し、並びに第を立てて以て之を待せんとす。良家の子 至る者は三萬餘騎なり。其の秦州主簿たる金城の趙盛之もて建威將軍・少年都統と為す。征南の苻融・驃騎の張蚝・撫軍の苻方・衞軍の梁成・平南の慕容暐・冠軍の慕容垂を遣はして步騎二十五萬を率ゐて前鋒と為す。堅 長安を發し、戎卒は六十餘萬、騎は二十七萬、前後千里、旗鼓 相 望む。堅 項城に至り、涼州の兵 始めて咸陽に達するや、蜀漢の軍 流に順ひて下り、幽冀の眾 彭城に至り、東西萬里、水陸 齊しく進む。運漕は萬艘、河より石門に入り、汝潁に達す。

現代語訳

翌年、呂光が長安を出発し、苻堅は建章宮で見送った。呂光に、「西戎は風俗が荒んでおり、礼義をそなえた国ではない。羈縻の政策とは、服従をすれば赦し、中国の威勢を示し、王化の法で導くものである。軍事力を極限まで行使し、あやまって残虐な略奪をしてはならない」と言った。鄯善王の休密馱に使持節・散騎常侍・都督西域諸軍事・寧西将軍を加え、車師前部王弥窴に使持節・平西将軍・西域都護を加え、その国の兵を率いて呂光の郷導を務めさせた。
この年、益州の西南夷と海東の諸国はいずれも使者を派遣して名産を献上した。
苻堅は南の灞水のほとりに出かけ、落ち着いた様子で群臣に、「軒轅氏は、大聖である。その仁は天のようで、その智は神のようだった。服従しないものが現れたら征伐し、居場所は固定されず、兵を護衛につけたので、(野営して)日月に照らされ、風雨に晒され、(軒轅氏に)服従しない者がいなかった。いま天下が太平を目前にし、ただ東南(東晋)だけが滅びていない。朕は忝くも大業を預かり、重い責任を負っている。どうしてむだに年月を費やし、大同の業を建てずに居られよう。いつも桓温の侵略を思うたび、江東を滅さねばならないと感じる。いま強兵の百万がおり、文官と武官は人材が豊富で、軍鼓を打てば晋の残党を挫くのは、秋風が(もろい)竹の皮を剥がすようなものだ。朝廷の内外は、全員が反対するが、私はその理由が分からない。晋の武帝(司馬炎)がもしも朝廷の群臣の意見を信じて孫呉を征伐しなければ、どうして天下が統一されただろう。私の考えは決まった、もうきみたちと議論しない」と言った。 太子の苻宏が進み出て、「呉の地域は今年の収穫を終えたので、討伐は困難です。しかも晋主には罪がなく、群臣が協調しています。謝安と桓沖の兄弟は一角の俊才であり、君臣が力を合わせ、長江の険阻さに守られています。まだ制圧できません。もっぱら兵を訓練して兵糧を備蓄し、晋に暴君が現れるのを待ったならば、兵を起こせば直ちに滅ぼせます。いまもしも兵を動員して功績がなければ、威名が国外で損なわれ、資財が国内で尽きるでしょう。ですから聖王が兵を動かすときは、確証をもって決断し、その後に実行します。彼らがもし長江に依って固く守り、江北の百姓を江南に移し、城内を満たして野を空っぽにし、門を閉ざして戦わなければ、わが軍は疲弊するでしょう。彼らが弓を引かずとも、土地の気は瘴癘であり、長く滞陣できません。いったい陛下はどのように対処するのですか」と言った。 苻堅は、「前年に車騎将軍が燕を滅し、年をまたいでも諦めずに勝利した。天の道は幽遠であり、お前には分かるまい。むかし始皇帝が六国を滅ぼしたとき、敵国の王は暴君であったのか。しかも私は結論を心に決めてから久しく、どうして戦功が得られないものか。蛮夷に命じて国内から攻撃させ、武装した精鋭で国外から攻撃し、内外から締め上げれば、まさか勝てないことはあるまい」と言った。道安は、「太子の言葉に賛成です、どうか陛下はお聞き入れを」と言った。苻堅は従わなかった。
冠軍の慕容垂が苻堅に、「陛下の徳は軒轅氏や唐尭に等しく、功績は殷の湯王や周の武王よりも高く、威勢と恩沢は全土をおおい、遠き蛮夷が翻訳を重ねて帰順しました。司馬昌明(孝武帝)は燃え残った資財を頼りにし、あえて王命を拒絶しています。存続を許して誅殺しなければ、法規の運用がどうして安定しましょうか。孫氏が江東を支配して僭称しながらも、最後は西晋に併合されたのは、形勢として必然でした。私が聞きますに小国は大国に敵わず、弱国は強国に対抗できないとのこと。まして大いなる前秦が符命に応じ、陛下は聖なる武をそなえ、百万の強兵と、韓信や白起のような名将が朝廷に満ちています。それでも(東晋が)魂を盗んで帝号を僭称することを黙認し、賊の国を(苻堅の)子孫の代に遺すのですか。『詩経』小雅 小旻に、「建物を作るのに路傍の人に相談し、なかなか完成しない』とあります。陛下の決断と神算はすでに完成しています。広く朝臣に意見を聞いて聖なる判断を乱してはなりません。むかし西晋の武帝が孫呉を平定するとき、賛成したのは張華と杜預らの数人の賢人のみでした。もし群臣の意見を採用すれば、どうして不世出の功績を建てられたでしょうか。諺にも、天に頼って時を待ち、時が到来すれば、どうして中止するものかとあります」と言った。苻堅は大いに悦び、「私とともに天下を定めるものは、きみ一人だけだ」と言った。帛五百匹を賜わった。
彗星が東井を横切った。苻堅の建元十七年四月から、長安に水影(蜃気楼)があり、遠くから見ると水のようで、(発生源の)地面を見れば人がおり、この時期(開戦の決断)に至って消えた。苻堅はこれを憎んだ。上林の竹が枯れて、洛陽で地が陥没した。
東晋の車騎将軍の桓沖が兵十万を率いて苻堅を討伐し、襄陽を攻めた。(桓沖は)前将軍の劉波と冠軍の桓石虔と振威の桓石民を派遣して沔水の北の諸城を攻めさせた。輔国の楊亮が蜀を討伐し、伍城を攻めて抜き、進んで涪城を攻め、龍驤の胡彬が下蔡を攻めた。鷹揚の郭銓が武当を攻めた。桓沖の別将が万歳城を攻め、ここを抜いた。苻堅は大いに怒り、子の征南の苻叡および冠軍の慕容垂と左衛の毛当を派遣して歩騎五万を率いて襄陽を救わせ、揚武の張崇に武当を救わせ、後将軍の張蚝と歩兵校尉の姚萇に涪城を救わせた。苻叡は新野に野営し、慕容垂は鄧城に野営した。東晋の軍が張崇を武当で破り、二千戸あまりを掠めて帰った。苻叡は慕容垂と驍騎の石越を前鋒に任命し、沔水に駐屯させた。慕容垂と石越は夜に三軍の兵士に命じて十本ずつ松明をもたせ、松明を木の枝に繋ぎ、光は十数里の一帯を照らした。桓沖は懼れ、退いて上明に還った。張蚝が斜谷を出で、楊亮もまた兵を率いて撤退した。
苻堅は書状を下して諸州から公私の馬をすべて調発し、成人十人につき一人を徴兵した。一門に輝かしい手柄があれば、(部隊名を)崇文義従とした。良家の子の二十歳より以下で、武芸が優れて勇敢であり、財産を才能をそなえた者は、みな羽林郎を拝命した。書簡を下して必勝の日を約束し、(東晋の孝武)帝を尚書左僕射、謝安を吏部尚書、桓沖を侍中と(降服後の待遇を決定)し、彼らのために邸宅を建てて迎える準備をした。良家の子で参加したものは三万騎あまりであった。その秦州主簿である金城の趙盛之を建威将軍・少年都統とした。征南の苻融と驃騎の張蚝と撫軍の苻方と衛軍の梁成と平南の慕容暐と冠軍の慕容垂に歩騎二十五万を率いさせ前鋒とした。苻堅は洛陽を出発し、歩兵は六十万あまり、騎兵は二十七万で、前後の千里にわたり、軍旗と旗が望まれた。苻堅は項城に到達し、涼州の兵がはじめて咸陽に到達し、蜀漢の軍が流れに乗って下り、幽州と冀州の兵が彭城に到達し、東西の万里にわたり、水陸の軍が同時に進んだ。輸送船は一万双で、黄河から石門に入り、汝潁に到達した。

原文

融等攻陷壽春、執晉平虜將軍徐元喜・安豐太守王先。垂攻陷1.(項城)〔鄖城〕、害晉將軍王太丘。梁成與其揚州刺史王顯・弋陽太守王詠等率眾五萬、屯於洛澗、柵淮以遏東軍。成頻敗王師。晉遣都督謝石・徐州刺史謝玄・豫州刺史桓伊・輔國謝琰等水陸七萬、相繼距融、去洛澗二十五里、憚成不進。龍驤將軍胡彬先保硤石、為融所逼、糧盡、詐揚沙以示融軍、潛遣使告石等曰、「今賊盛糧盡、恐不見大2.(將)軍」。融軍人獲而送之。融乃馳使白堅曰、「賊少易俘、但懼其越逸、宜速進眾軍、掎禽賊帥」。堅大悅、恐石等遁也、捨大軍於項城、以輕騎八千兼道赴之、令軍人曰、「敢言吾至壽春者拔舌」。故石等弗知。晉龍驤將軍劉牢之率勁卒五千、夜襲梁成壘、克之、斬成及王顯・王詠等十將、士卒死者萬五千。謝石等以既敗梁成、水陸繼進。堅與苻融登城而望王師、見部陣齊整、將士精銳、又北望八公山上草木、皆類人形、顧謂融曰、「此亦勍敵也、何謂少乎」。憮然有懼色。初、朝廷聞堅入寇、會稽王道子以威儀鼓吹求助於鍾山之神、奉以相國之號。及堅之見草木狀人、若有力焉。
堅遣其尚書朱序說石等以眾盛、欲脅而降之。序詭謂石曰、「若秦百萬之眾皆至、則莫可敵也。及其眾軍未集、宜在速戰。若挫其前鋒、可以得志」。石聞堅在壽春也、懼、謀不戰以疲之。謝琰勸從序言、遣使請戰、許之。時張蚝敗謝石於肥南、謝玄・謝琰勒卒數萬、陣以待之。蚝乃退、列陣逼肥水。王師不得渡、遣使謂融曰、「君懸軍深入、置陣逼水、此持久之計、豈欲戰者乎。若小退師、令將士周旋、僕與君公緩轡而觀之、不亦美乎」。融於是麾軍卻陣、卻因其濟水、覆而取之。軍遂奔退、制之不可止。融馳騎略陣、馬倒被殺、軍遂大敗。王師乘勝追擊、至於青岡、死者相枕。堅為流矢所中、單騎遁還於淮北、飢甚、人有進壺飧豚髀者、堅食之、大悅、曰、「昔公孫豆粥何以加也」。命賜帛十匹、緜十斤。辭曰、「臣聞白龍厭天池之樂而見困豫且、陛下目所覩也、耳所聞也。今蒙塵之難、豈自天乎。且妄施不為惠、妄受不為忠。陛下、臣之父母也、安有子養而求報哉」。弗顧而退。堅大慚、顧謂其夫人張氏曰、「朕若用朝臣之言、豈見今日之事邪。當何面目復臨天下乎」。潸然流涕而去。聞風聲鶴唳、皆謂晉師之至。其僕射張天錫・尚書朱序及徐元喜等皆歸順。初、諺言「堅不出項」、羣臣勸堅停項、為六軍聲鎮、堅不從、故敗。
諸軍悉潰、惟慕容垂一軍獨全、堅以千餘騎赴之。垂子寶勸垂殺堅、垂不從、乃以兵屬堅。初、慕容暐屯鄖城、姜成等守漳口、晉隨郡太守夏侯澄攻姜成、斬之、暐棄其眾奔還。堅收離集散、比至洛陽、眾十餘萬、百官威儀軍容粗備。未及關而垂有貳志、說堅請巡撫燕岱、并求拜墓、堅許之。權翼固諫以為不可、堅不從。尋懼垂為變、悔之、遣驍騎石越率卒三千戍鄴、驃騎張蚝率羽林五千戍并州、留兵四千配鎮軍毛當戍洛陽。堅至自淮南、次於長安東之行宮、哭苻融而後入、告罪於其太廟、赦殊死已下、文武增位一級、厲兵課農、存卹孤老、諸士卒不返者皆復其家終世。贈融大司馬、諡曰哀公。
衞軍從事中郎丁零翟斌反於河南、長樂公苻丕遣慕容垂及苻飛龍討之。垂南結丁零、殺飛龍、盡坑其眾。豫州牧・平原公苻暉遣毛當擊翟斌、為斌所敗、當死之。垂子農亡奔列人、招集羣盜、眾至萬數千。丕遣石越擊之、為農所敗、越死之。垂引丁零・烏丸之眾二十餘萬、為飛梯地道以攻鄴城。
慕容暐弟燕故濟北王泓先為北地長史、聞垂攻鄴、亡命奔關東、收諸馬牧鮮卑、眾至數千、還屯華陰。慕容暐乃潛使諸弟及宗人起兵於外。堅遣將軍強永率騎擊之、為泓所敗、泓眾遂盛、自稱使持節・大都督陝西諸軍事・大將軍・雍州牧・濟北王、推叔父垂為丞相・都督陝東諸軍事・領大司馬・冀州牧・吳王。

1.中華書局本の校勘記に従い、「項城」を「鄖城」に改める。
2.中華書局本の校勘記に従い、「將」一字を削る。

訓読

融ら攻めて壽春を陷し、晉の平虜將軍の徐元喜・安豐太守の王先を執ふ。垂 攻めて鄖城を陷し、晉の將軍の王太丘を害す。梁成 其の揚州刺史の王顯・弋陽太守の王詠らと與に眾五萬を率ゐ、洛澗に屯し、淮に柵して以て東軍を遏す。成 頻りに王師を敗る。晉は都督の謝石・徐州刺史の謝玄・豫州刺史の桓伊・輔國の謝琰ら水陸七萬を遣はして、相 繼いで融を距ぐも、洛澗を去ること二十五里、成を憚りて進まず。龍驤將軍の胡彬 先に硤石に保し、融の逼る所と為るに、糧 盡き、揚沙を詐はりて以て融の軍に示し、潛かに使を遣はして石らに告げて曰く、「今 賊は盛なるも糧は盡く、恐らくは大軍を見ざるなり」と。融が軍の人 獲へて之を送る。融 乃ち使を馳せて堅に白せしめて曰く、「賊は少なく俘し易し。但だ其の越逸を懼る。宜しく速やかに眾軍を進め、賊帥を掎禽すべし」と。堅 大いに悅び、石らの遁るるを恐れ、大軍を項城に捨て、輕騎八千を以て兼道して之に赴く。軍人に令して曰く、「敢て吾 壽春に至ると言ふ者は舌を拔く」。故に石ら知らず。晉の龍驤將軍の劉牢之 勁卒五千を率ゐ、梁成の壘を夜襲し、之に克ち、成及び王顯・王詠ら十將を斬り、士卒の死せる者は萬五千なり。謝石ら既に梁成を敗るを以て、水陸 繼進す。堅 苻融と與に城に登りて王師を望み、部陣は齊整にして、將士は精銳なるを見て、又 北のかた八公山の上の草木を望むに、皆 人形に類たり。顧みて融に謂ひて曰く、「此れ亦た勍敵なり。何ぞ少なしと謂はんや」と。憮然として懼るる色有り。初め、朝廷 堅の入寇せるを聞くや、會稽王道子 威儀鼓吹を以て鍾山の神を助け、奉るに相國の號を以てせんと求む。堅の草木の人を狀(かたど)るを見るに及び、力有るが若し。
堅 其の尚書の朱序を遣はして石らに說くに眾の盛んなるを以てし、脅して之を降さんと欲す。序 詭きて石に謂ひて曰く、「若し秦の百萬の眾 皆 至らば、則ち敵す可き莫きなり。其の眾軍 未だ集はざるに及び、宜しく速戰在るべし。若し其の前鋒を挫かば、以て志を得可し」と。石 堅の壽春に在るを聞くや、懼れ、戰はずして以て之を疲れしめんと謀る。謝琰 序が言に從はんことを勸め、使を遣はして戰はんことを請ふに、之を許す。時に張蚝 謝石を肥南に敗り、謝玄・謝琰 卒數萬を勒し、陣して以て之に待す。蚝 乃ち退くや、陣を列して肥水に逼る。王師 渡るを得ず、使を遣はして融に謂ひて曰く、「君 懸軍して深入し、陣を置くに水に逼る。此れ持久の計なり、豈に戰はんと欲する者か。若し小しく師を退き、將士をして周旋せしめば、僕 君公と轡を緩めて之を觀ん、亦た美ならざるか」と。融 是にて軍を麾して陣を卻し、卻き因りて其の水を濟り、覆りて之を取らんとす。軍 遂に奔退し、之を制すれども止む可からず。融 騎を馳せて略陣すれども、馬は倒れ殺され、軍 遂に大敗す。王師 勝に乘じて追擊し、青岡に至り、死する者 相 枕す。堅 流矢の中たる所と為り、單騎もて遁げて淮北に還る。飢 甚しく、人の壺を進めて豚髀を飧する者有り、堅 之を食らふひ、大いに悅びて、曰く、「昔の公孫の豆粥 何を以て加へんや」と。命じて帛十匹、緜十斤を賜ふ。辭して曰く、「臣 聞くらく白龍 天池の樂を厭みて豫且に困せらるるは、陛下の目 覩る所なり、耳 聞く所なり。今 蒙塵の難は、豈に天よりするや。且つ妄りに施さば惠為らず、妄りに受くれば忠為らず。陛下は、臣の父母なり、安んぞ子の養ひて報を求むるもの有るや」と。顧みずして退く。堅 大いに慚み、顧みて其の夫人の張氏に謂ひて曰く、「朕 若し朝臣の言を用ふれば、豈に今日の事を見んや。當に何の面目ありて復た天下に臨むべきか」と。潸然として流涕して去る。風聲鶴唳を聞くに、皆 晉師の至れると謂ふ。其の僕射の張天錫・尚書の朱序及び徐元喜ら皆 歸順す。初め、諺言に「堅 項を出でず」と。羣臣 堅に項に停まり、六軍の聲鎮と為ることを勸む。堅 從はず、故に敗る。
諸軍 悉く潰え、惟だ慕容垂の一軍のみ獨り全く、堅 千餘騎を以て之に赴く。垂が子の寶 垂に堅を殺さんことを勸むれども、垂 從はず、乃ち兵を以て堅に屬す。初め、慕容暐 鄖城に屯し、姜成ら漳口を守るに、晉の隨郡太守の夏侯澄 姜成を攻め、之を斬り、暐 其の眾を棄てて奔り還る。堅 離を收め散を集め、洛陽に至る比に、眾は十餘萬あり、百官の威儀軍容は粗ぼ備ふ。未だ關に及ばずして垂 貳志有り、堅に說きて燕岱を巡撫することを請め、并せて墓に拜せんことを求め、堅 之を許す。權翼 固く諫めて以て不可と為すも、堅 從はず。尋いで垂の變を為すを懼れ、之を悔い、驍騎の石越を遣はして卒三千を率ゐて鄴を戍らしめ、驃騎の張蚝をして羽林五千を率ゐて并州を戍らしめ、兵四千を留めて鎮軍の毛當に配して洛陽を戍らしむ。堅 淮南より至り、長安の東の行宮に次り、苻融に哭して後に入り、罪を其の太廟に告げ、殊死より已下を赦し、文武は位一級を增し、兵を厲まし農を課し、孤老を存卹し、諸々の士卒の返らざる者は皆 其の家に復すこと終世なり。融に大司馬を贈り、諡して哀公と曰ふ。
衞軍從事中郎たる丁零の翟斌 河南に反し、長樂公の苻丕 慕容垂及び苻飛龍を遣はして之を討たしむ。垂 南のかた丁零と結び、飛龍を殺し、盡く其の眾を坑す。豫州牧・平原公の苻暉 毛當を遣はして翟斌を擊つも、斌の敗る所と為り、當 之に死す。垂が子の農 亡して列人に奔り、羣盜を招集し、眾は萬數千に至る。丕 石越を遣はして之を擊つも、農の敗る所と為り、越 之に死す。垂 丁零・烏丸の眾二十餘萬を引き、飛梯地道を為りて以て鄴城を攻む。
慕容暐が弟の燕の故の濟北王たりし泓 先に北地長史と為り、垂 鄴を攻むるを聞き、亡命して關東に奔り、諸馬を收めて鮮卑を牧し、眾は數千に至り、還りて華陰に屯す。慕容暐 乃ち潛かに諸弟及び宗人をして兵を外に起たしむ。堅 將軍の強永を遣はして騎を率ゐて之を擊つも、泓の敗る所と為る。泓が眾 遂に盛なりて、自ら使持節・大都督陝西諸軍事・大將軍・雍州牧・濟北王と稱し、叔父の垂を推して丞相・都督陝東諸軍事・領大司馬・冀州牧・吳王と為す。

現代語訳

苻融らが寿春を攻め落とし、東晋の平虜将軍の徐元喜と安豊太守の王先を捕らえた。慕容垂は鄖城を攻め落とし、東晋の将軍の王太丘を殺害した。梁成は前秦の揚州刺史の王顕と弋陽太守の王詠らとともに五万の兵を率い、洛澗に駐屯し、淮水に柵を作って東方からくる軍を阻害した。梁成はたびたび東晋軍を破った。東晋は都督の謝石と徐州刺史の謝玄と豫州刺史の桓伊と輔国の謝琰らに水陸七万の軍を率いさせ、前後に相次いで苻融を防いだが、洛澗から二十五里の地点で、梁成を憚って進軍を停止した。龍驤将軍の胡彬は先に硤石を拠点としたが、苻融に圧迫され、食糧が尽きたので、砂煙をつくって(大軍の到着を偽装し)苻融の軍に見せつけ、ひそかに使者を送って謝石らに告げ、「いま賊は盛んだが(賊軍の)食糧は尽きた。恐らくは大軍(前秦の援軍)を見ることはないだろう」と言った。苻融の兵士がこれを捕らえて苻融のもとに送った。 苻融は急ぎの使者を送って苻堅に報告し、「賊(東晋)軍は少なく生け捕りにするのは容易です。ただその逸脱が心配です。速やかに大軍を進め、賊の指揮官を捕虜にすべきです」と言った。苻堅は大いに喜び、謝石らが逃げることを警戒し、大軍を項城に残したまま、軽騎の八千で倍速で戦地に赴いた。兵士に命令し、「寿春に向かうと口にした者は舌をぬく」と言った。ゆえに謝石らは(前秦軍の接近を)知らなかった。 東晋の龍驤将軍の劉牢之は強兵五千を率い、梁成の防塁を夜襲し、これを破り、(前秦の)梁成及び王顕と王詠ら十将を斬り、兵士は一万五千が死んだ。謝石らは梁成が破れたので、水陸に連なって進んだ。 苻堅は苻融とともに城壁に登って東晋軍を遠望した。隊列は整然とし、将士が精鋭であるのが見えて、また北のかた八公山の上の草木を眺めると、すべて兵士の影のように見えた。振り返って苻融に、「山上にも強敵がいる。どうして少ないと言えようか」と言った。心配をして懼れた。これよりさき、朝廷では苻堅が侵略すると聞くと、会稽王道子(司馬道子)が儀仗兵と鼓吹を鍾山の神にそなえ、相国の号を授けると告げた。苻堅が草木を兵士と誤認したのは、その効力であろう。
苻堅は前秦の尚書の朱序(もとは東晋からの降伏者)を派遣して謝石に(前秦の)軍の強盛さを説かせ、脅迫し降服させようとした。朱序は(前秦を裏切って)跪いて謝石に、「もし前秦の百万の兵がすべて到着すれば、(東晋は)対抗できません。前秦の軍が集合する前に、速戦に持ち込むべきです。もし彼らの前鋒を挫けば、志を得る(東晋が勝つ)ことができます」と言った。謝石は苻堅が寿春にいると聞いて、恐怖し、戦わずに疲弊させようという方針であった。謝琰が朱序の言葉に従うように勧め、(建康に)使者を送って戦いの許可を求め、許可が下りた。このとき張蚝は謝石を肥南で破り、謝玄と謝琰は数万の兵をまとめ、陣を敷いて待ち受けていた。張蚝が退くと、陣を並べて肥水に逼った。(ところが)東晋の軍は肥水を渡ることができず、(敵将の)苻融に使者を送って、「きみは孤立した軍で深入りし、川のそばに陣を敷いている。これは持久の計略であり、(あなたはすぐに)戦うつもりはあるまい。もし少しだけ軍を後退させ、将士の持ち場を交替させるなら、私は轡をゆるめて一緒に眺めよう、それもまた良いことではないか」と言った。苻融はこれを受けて軍に指図をして陣を引き返し、退きつつ肥水を渡ると、(東晋の軍は)反転してこれを攻撃した。前秦の軍はこのとき入り乱れて撤退し、制御できなくなった。苻融が騎兵を馳せて陣を整えようとしたが、馬が倒れて殺され、前秦の軍は大いに敗れた。東晋の軍は勝ちに乗じて追撃し、青岡に至り、死者が折り重なった。 苻堅は流矢に当たり、単騎で逃げて淮北に帰還した。ひどく飢え、人から壺入りの豚もも肉の干物を進められると、苻堅はこれを食べ、とても悦んで、「むかしの(馮異が後漢の光武帝に振る舞った)公孫の豆粥ですらこれほど美味くはない」と言った。命じて帛十匹と、綿十斤を賜わった。その人が辞退し、「私が聞きますに白龍が天池の楽しさに飽きて(魚に化けたところ、漁師の)豫且に捕らえられたことは、陛下ご自身の目で見て、ご自身の耳で聞いたとおりです。現在の天子がさまよう災難は、天から生じたことでしょうか。しかも妄りに施すことは恩恵ではなく、妄りに受けることは忠正ではありません。陛下は、臣の父母です、どうして親を養って報酬を求める子がいるでしょうか」と言った。振り返らずに立ち去った。苻堅はとても恥じ入り、顧みて夫人の張氏に、「朕がもし朝臣の意見を用いれば、今日の事態は起きただろうか。いかなる面目があって再び天下に臨めるだろう」と言った。さめざめと涙を流して去った。風の音や鶴の声を聞くたび、みな東晋の軍が到来したと錯覚した。前秦の僕射の張天錫と尚書の朱序及び徐元喜らはみな(東晋に)帰順した。これよりさき、諺言があって「堅は項を出ない」とあった。群臣は苻堅に項に留まり、六軍を後方から督戦するように勧めた。苻堅は従わず、そして敗れた。
諸軍がすべて潰走し、ただ慕容垂の一軍だけが完全であったので、苻堅は千騎あまりでそこに赴いた。慕容垂の子の慕容宝が苻堅の殺害を勧めたが、慕容垂は従わず、兵を苻堅の配下につけた。これよりさき、慕容暐が鄖城に駐屯し、姜成らが漳口を守っていたが、東晋の隨郡太守の夏侯澄が姜成を攻めて、これを斬り、慕容暐はその兵を棄てて逃げ帰った。苻堅は離散した兵を集め、洛陽に到着するころには、兵は十万あまりで、百官の威儀と軍容はほぼ整備された。函谷関に到着する前に慕容垂が二心を抱き、苻堅に(慕容垂が)燕岱の方面を巡って慰撫したいと要請し、さらに祖先の墓参りをしたいと求めた。苻堅はこれを許した。権翼が固く諫めて反対したが、苻堅は従わなかった。すぐに慕容垂が兵変を起こすことを懼れ、行かせたことを後悔し、驍騎の石越を派遣して三千の兵を率いて鄴を守らせ、驃騎の張蚝に羽林の兵五千を率いて并州を守らせ、兵四千を留めて鎮軍の毛当に洛陽を守らせた。苻堅は淮南から帰還すると、長安の東の行宮に泊まり、苻融に哭礼をした後に(宮殿に)入り、罪を苻氏の太廟に告げ、死罪より以下を赦し、文武の官は一級ずつ爵位を上げ、兵を励まして農業を推進し、孤児や老人を救済し、もろもろの兵士の帰還しなかった家には永久に税を免除した。(肥水で戦死した)苻融に大司馬を贈り、諡して哀公とした。
衛軍従事中郎である丁零の翟斌が河南で反乱すると、長楽公の苻丕は慕容垂及び苻飛龍にこれを討伐させた。慕容垂は南のかた丁零と結び、符飛龍を殺し、符飛龍の兵士をすべて穴埋めにした。豫州牧・平原公の苻暉が毛当を派遣して翟斌を攻撃したが、翟斌に破られ、毛当は戦死した。慕容垂の子の慕容農が逃亡して列人に奔り、群盗をかき集め、人数が一万数千になった。符丕は石越に攻撃をさせたが、慕容農に破られ、石越は戦死した。慕容垂は丁零と烏丸の兵二十万あまりを率い、飛梯や地道を作って鄴城を攻撃した。
慕容暐の弟でかつて燕では済北王であった慕容泓は北地長史になっていたが、慕容垂が鄴を攻撃していると聞き、亡命して関東に奔り、諸々の馬を手に入れて鮮卑を配下に入れ、その軍勢は数千に至り、引き返して華陰に駐屯した。慕容暐はひそかに弟たちや宗族に命じて城外で起兵をさせた。苻堅は将軍の強永に騎兵を率いて(慕容氏を)攻撃させたが、慕容泓に敗れた。慕容泓の兵勢はかくして盛んとなり、自ら使持節・大都督陝西諸軍事・大将軍・雍州牧・済北王と称し、叔父の慕容垂を推戴して丞相・都督陝東諸軍事・領大司馬・冀州牧・呉王とした。

原文

堅謂權翼曰、「吾不從卿言、鮮卑至是。關東之地、吾不復與之爭、將若泓何」。翼曰、「寇不可長。慕容垂正可據山東為亂、不暇近逼。今暐及宗族種類盡在京師、鮮卑之眾布於畿甸、實社稷之元憂、宜遣重將討之」。堅乃以廣平公苻熙為使持節・都督雍州雜戎諸軍事・鎮東大將軍・雍州刺史、鎮蒲坂。徵苻叡為都督中外諸軍事・衞大將軍・司隸校尉・錄尚書事、配兵五萬、以左將軍竇衝為長史、龍驤姚萇為司馬。討泓於華澤。平陽太守慕容沖起兵河東、有眾二萬、進攻蒲坂、堅命竇衝討之。苻叡勇果輕敵、不恤士眾。泓聞其至也、懼、率眾將奔關東、叡馳兵要之。姚萇諫曰、「鮮卑有思歸之心、宜驅出關、不可遏也」。叡弗從、戰於華澤、叡敗績、被殺。堅大怒。萇懼誅、遂叛。竇衝擊慕容沖於河東、大破之、沖率騎八千奔於泓軍。
泓眾至十餘萬、遣使謂堅曰、「秦為無道、滅我社稷。今天誘其衷、使秦師傾敗、將欲興復大燕。吳王已定關東、可速資備大駕、奉送家兄皇帝並宗室功臣之家。泓當率關中燕人、翼衞皇帝、還返鄴都、與秦以武牢為界、分王天下、永為鄰好、不復為秦之患也。鉅鹿公輕戇銳進、為亂兵所害、非泓之意」。堅大怒、召慕容暐責之曰、「卿父子干紀僭亂、乖逆人神、朕應天行罰、盡兵勢而得卿。卿非改迷歸善、而合宗蒙宥、兄弟布列上將・納言、雖曰破滅、其實若歸。奈何因王師小敗、便猖悖若此。垂為長蛇於關東、泓・沖稱兵內侮。泓書如此、卿欲去者、朕當相資。卿之宗族、可謂人面獸心、殆不可以國士期也」。暐叩頭流血、泣涕陳謝。堅久之曰、「書云、父子兄弟無相及也。卿之忠誠、實簡朕心、此自三豎之罪、非卿之過」。復其位而待之如初。命暐以書招喻垂及泓・沖、使息兵還長安、恕其反叛之咎。而暐密遣使者謂泓曰、「今秦數已終、長安怪異特甚、當不復能久立。吾既籠中之人、必無還理。昔不能保守宗廟、致令傾喪若斯、吾罪人也、不足復顧吾之存亡。社稷不輕、勉建大業、以興復為務。可以吳王為相國、中山王為太宰・領大司馬、汝可為大將軍・領司徒、承制封拜。聽吾死問、汝便即尊位」。泓於是進向長安、改年曰燕興。是時鬼夜哭、三旬而止。
堅率步騎二萬討姚萇於北地、次於趙氏塢、使護軍楊璧游騎三千、斷其奔路、右軍徐成・左軍竇衝・鎮軍毛盛等屢戰敗之、仍斷其運水之路。馮翊游欽因淮南之敗、聚眾數千、保據頻陽、遣軍運水及粟、以饋姚萇、楊璧盡獲之。萇軍渴甚、遣其弟鎮北尹買率勁卒二萬決堰。竇衝率眾敗其軍於鸛雀渠、斬尹買及首級萬三千。萇眾危懼、人有渴死者。俄而降雨於萇營、營中水三尺、周營百步之外、寸餘而已、於是萇軍大振。堅方食、去案怒曰、「天其無心、何故降澤賊營」。萇又東引慕容泓為援。
泓謀臣高蓋・宿勤崇等以泓德望後沖、且持法苛峻、乃殺泓、立沖為皇太弟、承制行事、自相署置。
姚萇留其弟征虜緒守楊渠川大營、率眾七萬來攻堅。堅遣楊璧等擊之、為萇所敗、獲楊璧・毛盛・徐成及前軍齊午等數十人、皆禮而遣之。
苻暉率洛陽・陝城之眾七萬歸於長安。益州刺史王廣遣將軍王蚝率蜀漢之眾來赴難。堅聞慕容沖去長安二百餘里、引師而歸、使撫軍苻方戍驪山、拜苻暉使持節・散騎常侍・都督中外諸軍事・車騎大將軍・司隸校尉・錄尚書、配兵五萬距沖、河間公苻琳為中軍大將軍、為暉後繼。沖乃令婦人乘牛馬為眾、揭竿為旗、揚土為塵、督厲其眾、晨攻暉營於鄭西。暉出距戰、沖揚塵鼓譟、暉師敗績。堅又以尚書姜宇為前將軍、與苻琳率眾三萬、擊沖於灞上、為沖所敗、宇死之、琳中流矢、沖遂據阿房城。初、堅之滅燕、沖姊為清河公主、年十四、有殊色、堅納之、寵冠後庭。沖年十二、亦有龍陽之姿、堅又幸之。姊弟專寵、宮人莫進。長安歌之曰、「一雌復一雄、雙飛入紫宮」。咸懼為亂。王猛切諫、堅乃出沖。長安又謠曰、「鳳皇鳳皇止阿房」。堅以鳳皇非梧桐不栖、非竹實不食、乃植桐竹數十萬株於阿房城以待之。沖小字鳳皇、至是、終為堅賊、入止阿房城焉。

訓読

堅 權翼に謂ひて曰く、「吾 卿の言に從はず、鮮卑 是に至る。關東の地は、吾 復た之と爭はず、將た泓を若何せん」と。翼曰く、「寇 長からしむ可からず。慕容垂 正に山東に據りて亂を為すも、近逼する暇あらざる可し。今 暐及び宗族の種類 盡く京師に在り、鮮卑の眾 畿甸に布す。實に社稷の元憂にして、宜しく重將を遣はして之を討つべし」と。堅 乃ち廣平公の苻熙を以て使持節・都督雍州雜戎諸軍事・鎮東大將軍・雍州刺史と為し、蒲坂に鎮せしむ。苻叡を徵して都督中外諸軍事・衞大將軍・司隸校尉・錄尚書事と為し、兵五萬を配し、左將軍の竇衝を以て長史と為し、龍驤の姚萇もて司馬と為す。泓を華澤に討つ。平陽太守の慕容沖 兵を河東に起こし、眾二萬有り、進みて蒲坂を攻む。堅 竇衝に命じて之を討たしむ。苻叡は勇果にして敵を輕んじ、士眾を恤まず。泓 其の至れるを聞くや、懼れ、眾を率ゐて將に關東に奔らんとす。叡 兵を馳せて之を要す。姚萇 諫めて曰く、「鮮卑に思歸の心有り、宜しく驅りて關を出だしむべし。遏す可からざるなり」と。叡 從はず、華澤に戰ふ。叡 敗績し、殺さる。堅 大いに怒る。萇 誅せられんことを懼れ、遂に叛す。竇衝 慕容沖を河東に擊ち、大いに之を破る。沖 騎八千を率ゐて泓の軍に奔る。
泓の眾 十餘萬に至り、使を遣はして堅に謂ひて曰く、「秦は無道を為し、我が社稷を滅せり。今 天は其の衷を誘ひ、秦師をして傾敗せしめ、將に大燕を興復せんと欲す。吳王 已に關東を定む。速やかに大駕を資備し、家兄の皇帝並びに宗室の功臣の家を奉送す可し。泓 當に關中の燕人を率ゐ、皇帝を翼衞し、鄴都に還返し、秦と武牢を以て界と為し、王の天下を分け、永く鄰好を為し、復た秦の患と為らざるなり。鉅鹿公 輕戇にして銳進し、亂兵の害する所と為る、泓の意に非ざるなり」と。堅 大いに怒り、慕容暐を召して之を責めて曰く、「卿の父子 干紀僭亂し、人神に乖逆す。朕 天に應じて罰を行ひ、兵勢を盡くして卿を得たり。卿 迷を改め善に歸するに非ざるに、而れども宗を合せ宥を蒙り、兄弟は上將・納言に布列す。破滅と曰ふと雖も、其の實は歸するが若し。奈何ぞ王師の小敗に因りて、便ち猖悖すること此の若きか。垂 長蛇を關東に為し、泓・沖 兵を稱へて內侮す。泓の書 此の如し。卿 去らんと欲さば、朕 當に相 資くべし。卿の宗族、人面獸心と謂ふ可し、殆ど國士を以て期する可からず」。暐 叩頭流血し、泣涕陳謝す。堅 久之して曰く、「書に云ふ、父子兄弟 相 及ぶ無きなりと〔一〕。卿の忠誠、實に朕が心を簡す。此れ自ら三豎の罪なり、卿の過に非ず」と。其の位を復して之を待すること初の如し。暐に命じて書を以て垂及び泓・沖を招喻し、兵を息めて長安に還せしめ、其の反叛の咎を恕す。而れども暐 密かに使者を遣はして泓に謂ひて曰く、「今 秦の數 已に終はる、長安の怪異 特に甚だし。當に復た能く久しく立つべからず。吾 既に籠中の人なれば、必ず還るの理無し。昔 宗廟を保守する能はず、傾喪せしむること斯の若きに致り、吾 罪人なり。復た吾の存亡を顧るに足らず。社稷は輕からず、勉めて大業を建て、興復を以て務と為せ。吳王を以て相國と為し、中山王もて太宰・領大司馬と為す可し。汝もて大將軍・領司徒と為し、承制封拜す可し。吾が死問を聽かば、汝 便ち尊位に即け」と。泓 是に於て進みて長安に向かひ、年を改めて燕興と曰ふ。是の時 鬼は夜に哭き、三旬にして止む。
堅 步騎二萬を率ゐて姚萇を北地に討ち、趙氏塢に次ぢ、護軍の楊璧の游騎三千をして、其の奔路を斷ぜしめ、右軍の徐成・左軍の竇衝・鎮軍の毛盛ら屢 戰ひて之を敗り、仍りて其の運水の路を斷つ。馮翊の游欽 淮南の敗に因りて、眾數千を聚め、頻陽に保據するに、軍を遣はして運水もて粟を及ぼし、以て姚萇に饋するに、楊璧 盡く之を獲ふ。萇の軍 渴すること甚しく、其の弟の鎮北の尹買を遣はして勁卒二萬を率ゐて堰を決せしむ。竇衝 眾を率ゐて其の軍を鸛雀渠に敗り、尹買及び首級萬三千を斬る。萇の眾 危懼し、人の渴して死する者有り。俄かにして萇が營に降雨し、營中の水は三尺、營を周ること百步の外は、寸餘なるのみ。是に於て萇の軍 大いに振ふ。堅 方に食はんとするに、案を去りて怒りて曰く、「天 其れ心無し。何故に澤を賊營に降すや」と。萇 又 東して慕容泓を引きて援と為す。
泓が謀臣の高蓋・宿勤崇ら泓の德望 沖に後れ、且つ法を持すること苛峻なるを以て、乃ち泓を殺し、沖を立てて皇太弟と為し、承制行事し、自ら相 署置す。
姚萇 其の弟の征虜の緒を留めて楊渠川の大營を守らしめ、眾七萬を率ゐて來たりて堅を攻む。堅 楊璧らを遣はして之を擊つも、萇の敗る所と為り、楊璧・毛盛・徐成及び前軍の齊午ら數十人を獲らへ、皆 禮して之を遣る。
苻暉 洛陽・陝城の眾七萬を率ゐて長安に歸る。益州刺史の王廣 將軍の王蚝を遣はして蜀漢の眾を率ゐて來たりて赴難せしむ。堅 慕容沖の長安を去ること二百餘里なるを聞き、師を引きて歸り、撫軍の苻方をして驪山を戍らしめ、苻暉に使持節・散騎常侍・都督中外諸軍事・車騎大將軍・司隸校尉・錄尚書を拜せしめ、兵五萬を配して沖を距ましむ。河間公の苻琳 中軍大將軍と為り、暉の後繼と為す。沖 乃ち婦人をして牛馬に乘りて眾と為し、竿を揭げて旗と為し、土を揚げて塵を為らしむ。其の眾を督厲し、晨に暉の營を鄭西に攻む。暉 出でて距戰し、沖 塵を揚げて鼓譟し、暉の師 敗績す。堅 又 尚書の姜宇を以て前將軍と為し、苻琳と與に眾三萬を率ゐて、沖を灞上に擊ち、沖の敗る所と為り、宇 之に死し、琳 流矢に中たり、沖 遂に阿房城に據る。初め、堅の燕を滅すや、沖の姊 清河公主為りて、年は十四、殊色有り、堅 之を納れ、寵は後庭に冠たり。沖は年十二にして、亦た龍陽の姿有り、堅 又 之を幸す。姊弟 寵を專らにし、宮人 進む莫し。長安 之を歌ひて曰く、「一雌 復た一雄、雙つながら飛びて紫宮に入る」と。咸 亂を為すを懼る。王猛 切諫し、堅 乃ち沖を出す。長安 又 謠して曰く、「鳳皇よ鳳皇、阿房に止まる」と。堅 鳳皇は梧桐に栖むに非ず、竹實は食すに非ざるを以て、乃ち桐竹の數十萬株を阿房城に植えて以て之を待す。沖の小字は鳳皇なれば、是に至り、終に堅の賊と為り、入りて阿房城に止まれり。

〔一〕『春秋左氏伝』昭公 伝二十年に、「在康誥曰、父子兄弟、罪不相及」とある。ただし、現行『尚書』康誥にこの文は見えない。

現代語訳

苻堅は権翼に、「私があなたの意見に従わず、鮮卑がこのように(反乱を起こすに)至った。函谷関より東の地は、彼らと争奪しても勝てまい。そして慕容泓をどのように待遇したものか」と言った。権翼は、「寇害を長引かせてはいけません。慕容垂は山東を拠点として乱を起こしましたが、(函谷関を超えて長安に)接近し脅かすまで猶予がありません。いま慕容暐及び宗族はすべて京師(長安)におり、鮮卑の種族は畿内に分布しています。これこそが社稷にとって脅威の元凶であり、重鎮の将軍に討伐させるべきです」と言った。苻堅はそこで広平公の苻熙を使持節・都督雍州雑戎諸軍事・鎮東大将軍・雍州刺史とし、蒲坂に鎮させた。苻叡を徴召して都督中外諸軍事・衛大将軍・司隸校尉・録尚書事とし、兵五万を割りあて、左将軍の竇衝を(苻叡の配下の)長史とし、龍驤の姚萇を司馬とした。慕容泓を華沢で討伐した。平陽太守の慕容沖が兵を河東で起こし、兵数は二万で、進んで蒲坂を攻撃した。苻堅は竇衝に命じてこれを討伐させた。苻叡は勇猛果敢で敵を軽んじ、兵士を大切にしなかった。慕容泓は苻叡の到着を聞くと、懼れ、兵を率いて関東に逃げようとした。苻叡は兵を馳せて追い詰めた。姚萇が諫めて、「鮮卑は故郷に帰ろうとしている、追い立てて函谷関から出してしまいなさい。道を塞いではいけない」と言った。苻叡は従わず、華沢で戦った。苻叡は敗北し、殺された。苻堅は大いに怒った。姚萇は誅殺を懼れ、かくして叛乱をした。竇衝は慕容沖を河東で攻撃し、大いにこれを破った。慕容沖は騎兵八千を率いて慕容泓の軍に逃げ込んだ。
慕容泓は兵が十万あまりになると、使者を送って苻堅に、「前秦は無道をおこない、わが(前燕の)社稷を滅ぼした。いま天はわが真心にこたえて、秦の軍を傾け敗北させ、大燕を復興させようとしている。呉王(慕容垂)はすでに関東を平定した。速やかに大駕を準備し、わが家の兄の皇帝(慕容暐)並びに宗室の功臣の家族を(長安から関東へ)送り届けよ。この慕容泓は関中にいる燕の民を率い、皇帝を助け守り、鄴都に帰還させよう。前秦とは武牢を境界とし、王として天下を分割し、友好の隣国となって、二度と前秦の脅威とならないであろう。鉅鹿公(苻叡)は軽率で愚かなために猛進し、乱兵に殺害された。彼を殺すつもりはなかった」と言った。苻堅は大いに怒り、慕容暐を召してこれを責め、「きみの父子は(前燕の主として)乱を起こして僭逆し、人や神に背いた。朕は天に応じて罰を執行し、兵勢を尽くしてきみを捕らえた。きみたちは迷いを改めて善良さに帰着したのではないが、しかし(前秦は)一族の処罰を見送り、きみたち兄弟は上将や納言(といった前秦の高官)に並んだ。(前燕は)破滅したというが、実態は(前秦に)帰順したようなものだ。しかし王師(前秦の軍)の小さな敗北をきっかけに、今日のように狂って不義をなすというのか。慕容垂は長蛇(邪悪なこと)を関東で行い、慕容泓と慕容沖は兵を用いて国内で反逆した。そして慕容泓の書状はこれほど無礼である。きみが(慕容氏から)離脱したいなら、朕は手を貸してやろう。きみの宗族は、人面獣心と言うべきだ。国の人士から支持を得られまいぞ」と言った。慕容暐は叩頭して流血し、落涙して謝罪した。苻堅はしばらくして、「『尚書』には、父子兄弟の罪は及ばないとある。きみの忠誠は、朕の心はよく分かっている。これは三人の豎子の罪であり、きみの過失ではない」と言った。慕容暐の地位をもどして従来どおり待遇した。慕容暐に命じて文書を送って慕容垂及び慕容泓と慕容沖を説得して招き、兵を収めて長安に帰らせ、その叛乱の罪を赦すと伝えた。しかし慕容暐はひそかに使者を送って慕容泓に、「いま前秦の命数はすでに終わった。長安では怪異が大量に現れている。もう二度と安定した国家とはなるまい。私は籠のなかの囚人なので、もう帰れる道筋がない。むかし(前秦に敗れて)宗廟を守り保つことができず、傾覆し失わせてしまって今日の状況を招いた。私は(慕容氏の祖先に対する)罪人である。私の生死を気にかける必要はない。社稷は軽いものではない、努めて大いなる事業を打ち立て、復興を使命とするように。呉王(慕容垂)を相国とし、中山王を太宰・領大司馬とせよ。お前(慕容泓)を大将軍・領司徒とし、承制封拝(皇帝の代理として官爵の発行)をしてよい。私が死んだという連絡を聞いたら、お前が帝位に即け」と言った。慕容泓はここにおいて進んで長安に向かい、年号を改めて燕興とした。このとき鬼(死者)が夜に哭き、三十日で止んだ。
苻堅は歩騎の二万を率いて姚萇を北地で討伐し、趙氏塢に駐屯した。護軍の楊璧に遊撃の騎兵三千で、敵軍(慕容氏)の逃げ道を遮断させ、右軍の徐成と左軍の竇衝と鎮軍の毛盛らは何度も戦ってこれを破り、さらに敵軍の給水路を遮断した。馮翊の游欽は淮南の敗戦を受け、数千の兵を集めて、頻陽を拠点に(前秦に対抗)して水路から穀物を輸送し、姚萇に補給していたが、楊璧がそのすべてを横取りした。姚萇の軍はひどく水が不足し、その弟で鎮北の姚尹買に強兵二万を率いて堰を決壊させようとした。竇衝は兵を率いてその軍を鸛雀渠で破り、姚尹買及び一万三千の首級を斬った。姚萇の軍は危ぶみ懼れ、水が足りずに死者も出た。にわかに姚萇の軍営に雨が降り、軍営のなかでは降水量が三尺であるが、軍営の周囲から百歩を外れると、降水量はごく僅かだった。ここにおいて姚萇の軍が大いに士気を回復した。苻堅は食事をしていたが、机を押し退けて怒り、「天には心がない。なぜ恵みの雨を賊の軍営に降らせたのか」と言った。姚萇はまた東にゆき慕容泓を招いて救援とした。
慕容泓の謀臣の高蓋と宿勤崇らは慕容泓の徳望が慕容沖よりも劣り、しかも法規の運用が苛烈すぎるので、慕容泓を殺し、慕容沖を立てて皇太弟とし、承制行事とし、自分たちで官職を任命しあった。
姚萇は その弟の征虜の姚緒を留めて楊渠川の大営を守らせ、七万の兵を率いて苻堅に攻め寄せた。苻堅は楊璧らを派遣して攻撃したが、姚萇に敗れ、楊璧・毛盛・徐成及び前軍の斉午ら数十人が捕らえられた。(姚萇は)全員を礼節をもって解放した。
苻暉は洛陽と陝城に置かれた七万の兵を率いて長安に帰った。益州刺史の王広は将軍の王蚝を派遣し蜀漢の兵を率いて(前秦の)危難に駆けつけた。苻堅は慕容沖が長安から二百里あまりに迫っていると聞き、軍を率いて帰還した。撫軍の苻方に驪山を守らせ、苻暉に使持節・散騎常侍・都督中外諸軍事・車騎大将軍・司隸校尉・録尚書を拝させ、五万の兵を割りあてて慕容沖を防がせた。河間公の苻琳は中軍大将軍となり、苻暉の後続の軍となった。慕容沖は婦人を牛馬に乗せて兵士に見せかけ、竿を掲げて軍旗とし、土を巻きあげて(軍馬の)土煙とした。兵士を督励し、朝に苻暉の軍営を鄭西において攻撃した。苻暉が出て防戦したが、慕容沖が土煙を上げて軍鼓を叩き騒いだので、苻暉の軍は敗北した。苻堅はさらに尚書の姜宇を前将軍とし、苻琳とともに三万の兵を率いて、慕容沖を灞上において攻撃した。しかし慕容沖に破られ、姜宇は戦死し、苻琳は流矢に当たった。慕容沖はかくして阿房城を自軍の拠点とした。これよりさき、苻堅が前燕を滅ぼしたとき、慕容沖の姉は清河公主といったが、十四歳で容姿が美しかった。苻堅はこれをめとり、寵愛は後庭で筆頭であった。慕容沖はそのとき十二歳で、また(戦国時代の魏の)龍陽のような容姿をもち、苻堅はこれも可愛がった。姉と弟が寵愛を独占し、その他の宮人は近づけなかった。長安ではこの様子を歌って、「一羽のメスと一羽のオスが、連れだって紫宮に飛んで入った」と言った。みな乱の発生を懼れた。王猛がきつく諫めたので、苻堅は慕容沖を後宮から出した。長安ではまた童謡があり、「鳳皇よ鳳皇、阿房に止まる」と言った。苻堅は鳳皇が梧桐に住まず、竹の実を食べないとされるので、桐竹の数十万株を植えてこれに対処した。慕容沖の小字は鳳皇であったが、このときに至り、結局は苻堅の仇敵となり、入って阿房城に止まることになった。

原文

晉西中郎將桓1.(石民)〔石虔〕進據魯陽、遣河南太守高茂北戍洛陽。晉冠軍謝玄次於下邳、徐州刺史趙遷棄彭城奔還。玄前鋒張願追遷及於碭山、轉戰而免。玄進據彭城。
時呂光討平西域三十六國、所獲珍寶以萬萬計。堅下書以光為使持節・散騎常侍・都督玉門以西諸軍事・安西將軍・西域校尉、進封順鄉侯、增邑一千戶。
劉牢之伐兗州、堅刺史張崇棄鄄城奔於慕容垂。牢之遣將軍劉襲追崇、戰於河南、斬其東平太守楊光而退。牢之遂據鄄城。
慕容沖進逼長安、堅登城觀之、歎曰、「此虜何從出也。其強若斯」。大言責沖曰、「爾輩羣奴正可牧牛羊、何為送死」。沖曰、「奴則奴矣、既厭奴苦、復欲取爾見代」。堅遣使送錦袍一領遺沖、稱詔曰、「古人兵交、使在其間。卿遠來草創、得無勞乎。今送一袍、以明本懷。朕於卿恩分如何、而於一朝忽為此變」。沖命詹事答之、亦稱「皇太弟有令、孤今心在天下、豈顧一袍小惠。苟能知命、便可君臣束手、早送皇帝、自當寬貸苻氏、以酬曩好、終不使既往之施獨美於前」。堅大怒曰、「吾不用王景略・陽平公之言、使白虜敢至於此」。
苻丕在鄴糧竭、馬無草、削松木而食之。會丁零叛慕容垂、垂引師去鄴、始具西問、知苻叡等喪敗、長安危逼、乃遣其陽平太守邵興率騎一千、將北引重合侯苻謨・高邑侯苻亮・阜城侯苻定于常山、固安侯苻鑒・中山太守王兗於中山、以為己援。垂遣將軍張崇要興、獲之於襄國南。又遣其參軍封孚西引張蚝・并州刺史王騰於晉陽、蚝・騰以眾寡不赴。丕進退路窮、乃謀於羣僚。司馬楊膺唱歸順之計、丕猶未從。會晉遣濟北太守丁匡據碻磝、濟陽太守郭滿據滑臺、將軍2.顏肱・劉襲次於河北、丕遣將軍桑據距之、為王師所敗。襲等進攻黎陽、克之。丕懼、乃遣從弟就與參軍焦逵請救於謝玄。丕書稱假途求糧、還赴國難、須軍援既接、以鄴與之、若西路不通、長安陷沒、請率所領保守鄴城。乃羈縻一方、文降而已。逵與參軍姜讓密謂楊膺曰、「今禍難如此、京師阻隔、吉凶莫審、密邇寇仇、三軍罄絕、傾危之甚、朝不及夕。觀公豪氣不除、非救世之主、既不能竭盡誠款、速致糧援、方設兩端、必無成也。今日之殆、疾於轉機、不容虛設、徒成反覆。宜正書為表、以結殷勤。若王師之至、必當致身。如其不從、可逼縛與之。苟不義服、一人力耳。古人行權、寧濟為功、況君侯累葉載德、顯祖初著名於晉朝、今復建崇勳、使功業相繼、千載一時、不可失也」。膺素輕丕、自以力能逼之、乃改書而遣逵等、并遣濟南毛蜀・毛鮮等分房為任於晉。

1.中華書局本の校勘記に従い、「石民」を「石虔」に改める。
2.「顏肱」は、謝玄伝では「顏雄」につくる。

訓読

晉の西中郎將の桓石虔 進みて魯陽に據り、河南太守の高茂を遣はして北して洛陽を戍らしむ。晉の冠軍の謝玄 下邳に次で、徐州刺史の趙遷 彭城を棄てて奔り還る。玄の前鋒の張願 遷を追ひて碭山に及び、轉戰して免る。玄 進みて彭城に據る。
時に呂光 西域の三十六國を討平し、獲る所の珍寶 萬萬を以て計ふ。堅 書を下して光を以て使持節・散騎常侍・都督玉門以西諸軍事・安西將軍・西域校尉と為し、封を順鄉侯に進め、邑一千戶を增す。
劉牢之 兗州を伐ち、堅の刺史の張崇 鄄城を棄てて慕容垂に奔る。牢之 將軍の劉襲を遣はして崇を追ひ、河南に戰ひ、其の東平太守の楊光を斬りて退く。牢之 遂に鄄城に據る。
慕容沖 進みて長安に逼る。堅 城に登りて之を觀て、歎じて曰く、「此の虜 何こより出づるや。其の強きこと斯の若し」と。大言して沖を責めて曰く、「爾輩の羣奴 正に牛羊に牧す可し、何為れぞ死に送らん」と。沖曰く、「奴は則ち奴なり、既に奴の苦に厭き、復た爾を取りて代を見んと欲す」と。堅 使を遣はして錦袍一領を送りて沖に遺り、詔と稱して曰く、「古人は兵 交ふるに、使は其の間に在り。卿 遠く來たりて草創し、得て勞無きか。今 一袍を送り、以て本懷を明らかにす。朕 卿に恩もて分けしこと如何。而れども一朝に於て忽と此の變を為す」と。沖 詹事に命じて之に答へしめ、亦た稱す、「皇太弟 令有り、孤 今 心は天下に在り、豈に一袍の小惠を顧るや。苟し能く命を知らば、便ち君臣 手を束ね、早く皇帝を送る可し。自ら當に苻氏に寬貸して、以て曩好に酬ゆべし。終に既往の施をば獨り前に美ならしめざるなり」と。堅 大いに怒りて曰く、「吾 王景略・陽平公の言を用ひず、白虜をして敢て此に至らしむ」と。
苻丕 鄴に在りて糧は竭き、馬は草無く、松木を削りて之を食ふ。會々丁零 慕容垂に叛し、垂 師を引きて鄴を去り、始めて西問を具さにするに、苻叡らの喪敗し、長安 危逼なるをを知り、乃ち其の陽平太守の邵興を遣はして騎一千を率はし、將に北のかた重合侯の苻謨・高邑侯の苻亮・阜城侯の苻定を常山に、固安侯の苻鑒・中山太守の王兗を中山に引き、以て己が援と為さんとす。垂 將軍の張崇を遣はして興を要し、之を襄國の南に獲ふ。又 其の參軍の封孚を遣はして西して張蚝・并州刺史の王騰を晉陽に引くも、蚝・騰 眾の寡なるを以て赴かず。丕の進退 路は窮まり、乃ち羣僚に謀る。司馬の楊膺 歸順の計を唱へ、丕 猶ほ未だ從はず。會々晉 濟北太守の丁匡を遣はして碻磝に據らしめ、濟陽太守の郭滿を滑臺に據らしめ、將軍の顏肱・劉襲を河北に次らしむ。丕 將軍の桑據を遣はして之を距むに、王師の敗る所と為る。襲ら進みて黎陽を攻め、之に克ち。丕 懼れ、乃ち從弟の就を遣はして參軍の焦逵と與ひ救ひを謝玄に請ふ。丕 書して途を假りて糧を求め、還りて國難に赴かんと稱す。軍の援 既に接ぐを須ちて、鄴を以て之と與にし、若し西路 通ぜず、長安 陷沒せば、領する所を率ゐて鄴城を保守せんことを請ふ。乃ち一方を羈縻し、文もて降るのみ。 逵 參軍の姜讓と密かに楊膺に謂ひて曰く、「今 禍難 此の如し、京師は阻隔せられ、吉凶 審らかにする莫し。寇仇を密邇にし、三軍は罄絕し、傾危の甚しきは、朝なるも夕に及ばず。公の豪氣 除かざるを觀れども、救世の主に非ず。既に誠款を竭盡す能はず、速やかに糧援を致し、方に兩端を設くるも、必ず成ること無きなり。今日の殆は、轉機より疾く、虛設を容れず、徒だ反覆と成らん。宜しく書を正して表と為し、以て殷勤を結ぶべし。若し王師の至らば、必ず當に身を致すべし。如し其れ從はずんば、逼りて縛し之に與す可し。苟し義もて服さずんば、一人の力なるのみ。古人の權を行ふや、寧濟もて功と為す。況んや君侯 累葉に德を載ね、顯は祖初より晉朝に著名たり。今 復た崇勳を建て、功業をば相 繼がしむるは、千載の一時なり。失ふ可からざるなり」と。膺 素より丕を輕んじ、自ら力を以て能く之に逼るとし、乃ち書を改めて逵らに遣はし、并せて濟南の毛蜀・毛鮮らに遣りて房を分ちて任を晉に為す。

現代語訳

東晋の西中郎将の桓石虔が進軍して魯陽を拠点とし、河南太守の高茂に北上をさせて洛陽を守らせた。東晋の冠軍の謝玄が下邳に駐屯すると、(前秦の)徐州刺史の趙遷が彭城を棄てて逃げ還った。謝玄の前鋒の張願が趙遷を追って碭山で追いついたが、転戦して逃れた。謝玄が進んで彭城を拠点とした。
このとき呂光は西域の三十六国を討伐して平定し、獲得した珍宝は億の単位であった。苻堅は書状を下して呂光を使持節・散騎常侍・都督玉門以西諸軍事・安西将軍・西域校尉とし、封号を順郷侯に進め、食邑を一千戸増やした。
劉牢之が兗州を討伐すると、前秦の兗州刺史の張崇が鄄城を棄てて慕容垂のもとに奔った。劉牢之は将軍の劉襲に張崇を追わせ、河南で戦い、前秦の東平太守の楊光を斬って退いた。こうして劉牢之は鄄城を拠点とした。
慕容沖が進軍して長安に逼った。苻堅は城壁に登ってこれを見て、歎じて、「あの賊軍はどこから湧いてきたのか。これほどまでに強いとは」と言った。大声で慕容沖を責めて、「あの奴隷の集団は牛羊のように放し飼いにすれば十分で、殺す価値もない」と言った。慕容沖は、「奴隷は所詮は奴隷です、苦役を逃れたなら、代わりを見つけたら宜しい」と言った。苻堅は使者を送って錦袍一着を慕容沖に贈り、詔と称して、「古の人は兵を交えるとき、使者を交換した。きみは遠くから来て国家を創業しようというが、苦労なく成功するものか。いま一着の上着を贈って、私の真心を明らかにしよう。朕がお前にどれほどの恩を与えてきたか。それをたった一日で(肥水の敗戦を見て)手のひらを返して叛乱するなんて」と言った。慕容沖は詹事に命じてこれに返答させ、さらに(慕容沖は)、「(燕国の)皇太弟は声望があり、わが心はいま天下に向いている。どうして上着一つで恩に感じるだろう。もし天命が分かるなら、(前秦の)君臣は手を縛り、早くわが皇帝を送り返すように。苻氏に目こぼしをして、かつての恩に報いてやろう。そうすれば先年の恩が帳消しになる」と言った。苻堅はひどく怒って、「私が王景略(王猛)や陽平公の意見を用いないので、白虜にこんな暴言を許してしまった」と言った。
苻丕が鄴で(籠城して)食糧が尽き、馬は飼い葉がなく、松木を削ってこれを食べた。ちょうどこのとき丁零が慕容垂に叛し、慕容垂は軍を退いて鄴から去った。(包囲が解けた符丕が)はじめて西方の情報を詳しく知ると、苻叡らの軍は敗走して消滅し、長安が危機で逼迫しているのを知り、前秦の陽平太守の邵興に一千騎を率いさせ、北のかた重合侯の苻謨と高邑侯の苻亮と阜城侯の苻定とは常山で、固安侯の苻鑒と中山太守の王兗とは中山で合流し、自分の援軍にしようとした。慕容垂は将軍の張崇を派遣して邵興の道をふさぎ、これを襄国の南で捕らえた。また(符丕は)参軍の封孚を西に派遣して張蚝・并州刺史の王騰と晋陽において合流しようとしたが、張蚝と王騰は自軍の数が少ないので駆けつけなかった。符丕は進退の道が窮まり、群僚に相談をした。司馬の楊膺は(東晋に)帰順する計略を唱えたが、符丕は迷って従わずにいた。たまたま(東晋では)東晋の済北太守の丁匡が碻磝を拠点にし、済陽太守の郭満が滑台を拠点にし、将軍の顔肱と劉襲を河北に駐屯させていた。符丕は将軍の桑拠を派遣して東晋の軍を防いだが、これに敗れた。(東晋の)劉襲らが進んで黎陽を攻め、ここを破った。符丕は懼れ、従弟の符就を派遣して参軍の焦逵とともに救いを(東晋の)謝玄に要請した。符丕は文書を送って通行許可と食糧を求め、(長安に)帰還して(前秦の)国難に駆けつけたいと言った。援軍が続々と集まるのを待ち、(符丕の根拠地の)鄴と接続する予定で、もし(長安への)西の道が通じず、長安が陥落すれば、配下の兵を率いて鄴城を守りたいと言った。 つまり一方で(東晋を)繋ぎとめ、文面のみで降服したのである。(符丕の配下の)焦逵は参軍の姜譲とともにひそかに楊膺に告げて、「今日の禍難はひどい状況で、長安は遮断されて孤立し、吉凶は判断がつかない。仇敵が接近し、わが三軍は尽き果て、破滅は旦夕に迫っている。公(符丕)の豪気は衰えていないが、世を救えるほどではない。彼には忠正の心がないから、速やかに食糧と援軍を送らせ、東晋を味方にする交渉をしても、きっと成功するまい。今日の危うさは、回転の機械より早く、かりそめに持ち堪えることもできず、ただ転覆して終わるだろう。どうか(符丕の)文面を訂正して上表を作り、(東晋に)丁寧に伝えるべきだ。もし王師(東晋の軍)が到着したら、身を投じて頼るべきだ。もしこれに従わなければ、あなたを縛り上げて東晋に味方しよう。義に合致せねば、一人分の力しか持てない。古の人が権勢を行使するときは、安寧と救済をもたらすことを功績とした。まして君侯(楊膺)は累代に徳をかさね、祖先の代から晋朝で名声が知られている。いまは(前秦を裏切り)ふたたび高い功績を建て、事業を成し遂げられる、千載一遇の機会である。逃してはいけない」と言った。楊膺はもとより符丕を軽んじ、自分ならば対抗できると考えていたので、書面を変更して焦逵らに送り、あわせて済南の毛蜀と毛鮮らにを家族を分けて東晋に人質を送らせた。

原文

堅遣鴻臚郝稚徵處士王嘉於到獸山。既至、堅每日召嘉與道安於外殿、動靜諮問之。慕容暐入見東堂、稽首謝曰、「弟沖不識義方、孤背國恩、臣罪應萬死。陛下垂天地之容、臣蒙更生之惠。臣二子昨婚、明當三日、愚欲暫屈鑾駕、幸臣私第」。堅許之。暐出、嘉曰、「椎蘆作蘧蒢、不成文章、會天大雨、不得殺羊」。堅與羣臣莫之能解。是夜大雨、晨不果出。初、暐之遣諸弟起兵於外也、堅防守甚嚴、謀應之而無因。時鮮卑在城者猶有千餘人、暐乃密結鮮卑之眾、謀伏兵請堅、因而殺之。令其豪帥悉羅騰・屈突鐵侯等潛告之曰、「官今使侯外鎮、聽舊人悉隨、可於某日會集某處」。鮮卑信之。北部人突賢與其妹別、妹為左將軍竇衝小妻、聞以告衝、請留其兄。衝馳入白堅、堅大驚、召騰問之、騰具首服。堅乃誅暐父子及其宗族、城內鮮卑無少長及婦女皆殺之。
慕容垂復圍鄴城。焦逵既至、朝廷果欲徵丕任子、然後出師。逵固陳丕款誠無貳、并宣楊膺之意、乃遣劉牢之等率眾二萬、水陸運漕救鄴。
時長安大飢、人相食、諸將歸而吐肉以飴妻子。
慕容沖僭稱尊號於阿房、改年更始。堅與沖戰、各有勝負。嘗為沖軍所圍、殿中上將軍鄧邁・左中郎將鄧綏・尚書郎鄧瓊相謂曰、「吾門世荷榮寵、先君建殊功於國家、不可不立忠效節、以成先君之志。且不死君難者、非丈夫也」。於是與毛長樂等蒙獸皮、奮矛而擊沖軍。沖軍潰、堅獲免、嘉其忠勇、並拜五校、加三品將軍、賜爵關內侯。沖又遣其尚書令高蓋率眾夜襲長安、攻陷南門、入於南城。左將軍竇衝・前禁將軍李辯等擊敗之、斬首千八百級、分其屍而食之。堅尋敗沖於城西、追奔至於1.阿城。諸將請乘勝入城、堅懼為沖所獲、乃擊金以止軍。
是時劉牢之至枋頭。征東參軍徐義・宦人孟豐告苻丕、楊膺・姜讓等謀反、丕收膺・讓戮之。牢之以丕自相屠戮、盤桓不進。
苻暉屢為沖所敗、堅讓之曰、「汝、吾之子也、擁大眾、屢為白虜小兒所摧、何用生為」。暉憤恚自殺。關中堡壁三千餘所、推平遠將軍馮翊趙敖為統主、相率結盟、遣兵糧助堅。左將軍苟池・右將軍俱石子率騎五千、與沖爭麥、戰於驪山、為沖所敗、池死之、石子奔鄴。堅大怒、復遣領軍楊定率左右精騎二千五百擊沖、大敗之、俘掠鮮卑萬餘而還。堅怒、悉坑之。定果勇善戰、沖深憚之、遂穿馬埳以自固。
劉牢之至鄴、慕容垂北如新城。鄴中飢甚、丕率鄴城之眾就晉穀于枋頭。牢之入屯鄴城。慕容垂軍人飢甚、多奔中山、幽冀人相食。初、關東謠曰、「幽州𡙇、生當滅。若不滅、百姓絕」。𡙇、垂之本名。與丕相持經年、百姓死幾絕。
先是、姚萇攻新平、新平太守苟輔將降之、郡人遼西太守馮傑・蓮勺令馮翊等諫曰、「天下喪亂、忠臣乃見。昔田單守一城而存齊、今秦之所有、猶連州累鎮、郡國百城。臣子之於君父、盡心焉、盡力焉、死而後已、豈宜貳哉」。輔大悅、於是憑城固守。萇為土山地道、輔亦為之。或戰山峯、萇眾死者萬有餘人。輔乃詐降、萇將入、覺之、引眾而退。輔馳出擊之、斬獲萬計。至是、糧竭矢盡、外救不至、萇遣吏謂輔曰、「吾方以義取天下、豈仇忠臣乎。卿但率見眾男女還長安、吾須此城置鎮」。輔以為然、率男女萬五千口出城、萇圍而坑之、男女無遺。初、石季龍末、清河崔悅為新平相、為郡人所殺。悅子液後仕堅、為尚書郎、自表父仇不同天地、請還冀州。堅愍之、禁錮新平人、缺其城角以恥之。新平酋望深以為慚、故相率距萇、以立忠義。

1.中華書局本の校勘記によると、「阿城」は「阿房」につくるべきか。

訓読

堅 鴻臚の郝稚を遣はして處士の王嘉を到獸山より徵す。既に至るや、堅 每日 嘉を召して道安と與に外殿に於て、動靜あらば之に諮問す。慕容暐 入りて東堂に見え、稽首して謝して曰く、「弟の沖 義方を識らず、孤り國恩に背く。臣の罪 應に萬死なるべし。陛下 天地の容を垂れ、臣 更生の惠を蒙る。臣の二子 昨に婚し、明は三日に當たる。愚 暫らく鑾駕に屈せんと欲す、臣の私第に幸せ」と。堅 之を許す。暐 出づるや、嘉曰く、「椎蘆は蘧蒢と作り、文章を成さず、天の大雨に會ひて、羊を殺すを得ず」と。堅 羣臣と與に之れ能く解する莫し。是の夜に大いに雨ふり、晨 果たして出でず。初め、暐の諸弟を遣はして兵を外に起せしむるや、堅の防守 甚だ嚴にして、之に應ぜんと謀るも而れども因る無し。時に鮮卑の城に在る者は猶ほ千餘人有り、暐 乃ち密かに鮮卑の眾と結び、兵を伏して堅に請ひ、因りて之を殺さんことを謀る。其の豪帥の悉羅騰・屈突鐵侯らに令して潛かに之に告げて曰く、「官 今 侯をして外鎮せしめ、舊人 悉く隨ふを聽す。某日に於て某處に會集す可し」と。鮮卑 之を信ず。北部人の突賢 其の妹と別るるに、妹は左將軍の竇衝の小妻為り、聞きて以て衝に告げ、其の兄を留めんことを請ふ。衝 馳せ入りて堅に白し、堅 大いに驚き、騰を召して之を問ふに、騰 具さに首して服す。堅 乃ち暐の父子及び其の宗族を誅し、城內の鮮卑 少長及び婦女と無く皆 之を殺す。 慕容垂 復た鄴城を圍む。焦逵 既に至るや、朝廷 果たして丕の任子を徵し、然る後に師を出ださんと欲す。逵は固く丕の款誠 無貳なるを陳べ、并せて楊膺の意を宣し、乃ち劉牢之らを遣はして眾二萬を率ゐ、水陸に運漕して鄴を救はしむ。
時に長安 大いに飢え、人 相 食む。諸將 歸りて肉を吐きて以て妻子に飴す。
慕容沖 尊號を阿房に僭稱し、年を更始と改む。堅 沖と戰ひ、各々勝負有り。嘗て沖の軍の圍む所と為るや、殿中上將軍の鄧邁・左中郎將の鄧綏・尚書郎の鄧瓊 相 謂ひて曰く、「吾が門 世々榮寵を荷し、先君 殊功を國家に建つ。忠を立て節を效して、以て先君の志を成さざる可からず。且つ君の難に死せざる者は、丈夫に非ざるなり」と。是に於て毛長樂らと與に獸皮を蒙り、矛を奮ひて沖が軍を擊つ。沖の軍 潰え、堅 免るるを獲るや、其の忠勇を嘉し、並びに五校を拜し、三品將軍を加へ、爵關內侯を賜はる。沖 又 其の尚書令の高蓋を遣はして眾を率ゐて長安を夜襲せしめ、南門を攻陷し、南城に入る。左將軍の竇衝・前禁將軍の李辯ら擊ちて之を敗り、斬首すること千八百級。其の屍を分かちて之を食ふ。堅 尋いで沖を城西に敗り、追奔して阿城に至る。諸將 勝に乘じて入城せんことを請ふも、堅 沖の獲ふる所と為るを懼れ、乃ち金を擊ちて以て軍を止む。
是の時 劉牢之 枋頭に至る。征東參軍の徐義・宦人の孟豐 苻丕に告ぐらく、楊膺・姜讓ら謀反すと。丕 膺・讓を收めて之を戮す。牢之 丕の自ら相 屠戮するを以て、盤桓して進まず。
苻暉 屢々沖の敗る所と為り、堅 之を讓めて曰く、「汝は、吾の子なり。大眾を擁し、屢々白虜の小兒の摧す所と為る。何を生を用て為さんや」と。暉 憤恚して自殺す。關中の堡壁の三千餘所、平遠將軍の馮翊の趙敖を推して統主と為し、相 率ゐて盟を結び、兵糧を遣はして堅を助く。左將軍の苟池・右將軍の俱石子 騎五千を率ゐ、沖と麥を爭ひ、驪山に戰ひ、沖の敗る所と為る。池は之に死し、石子は鄴に奔る。堅 大いに怒り、復た領軍の楊定を遣はして左右の精騎二千五百を率ゐて沖を擊たしめ、大いに之を敗り、鮮卑の萬餘を俘掠して還る。堅 怒り、悉く之を坑す。定 果勇にして善く戰ひ、沖 深く之を憚り、遂に馬埳を穿ちて以て自ら固む。
劉牢之 鄴に至り、慕容垂 北して新城に如く。鄴中 飢えて甚しく、丕 鄴城の眾を率ゐて晉の穀に枋頭に于いて就く。牢之 入りて鄴城に屯す。慕容垂の軍人 飢えは甚しく、多く中山に奔り、幽冀の人 相 食む。初め、關東に謠ありて曰く、「幽州 𡙇(か)けて、生は當に滅すべし。若し滅せざれば、百姓 絕えん」と。𡙇は、垂の本名なり。丕と相 持すること經年、百姓 死して幾ど絕ゆ。
是より先、姚萇 新平を攻め、新平太守の苟輔 將に之に降らんとするに、郡人の遼西太守の馮傑・蓮勺令の馮翊ら諫めて曰く、「天下 喪亂し、忠臣 乃ち見はる。昔 田單 一城を守りて齊を存せしむ。今 秦の有つ所、猶ほ州を連ね鎮を累ね、郡國の百城なり。臣子の君父に於てや、心を盡し、力を盡し、死して後に已む。豈に宜しく貳あるや」と。輔 大いに悅び、是に於て城に憑きて固守す。萇 土山地道を為り、輔も亦た之を為る。或いは山峯に戰ひ、萇が眾の死者は萬有餘人なり。輔 乃ち詐りて降り、萇 將に入らんとするに、之を覺り、眾を引きて退く。輔 馳せ出でて之を擊ち、斬獲すること萬もて計ふ。是に至り、糧は竭き矢は盡き、外救は至らず、萇は吏を遣はして輔に謂ひて曰く、「吾 方に義を以て天下を取らん、豈に忠臣に仇なすか。卿 但だ率ゐて眾男女を見て長安に還れ。吾 須らく此の城に鎮を置くべし」と。輔 以て然り為し、男女萬五千口を率ゐて城を出づるや、萇 圍みて之を坑し、男女 遺る無し。初め、石季龍の末に、清河の崔悅 新平相と為り、郡人の殺す所と為る。悅の子の液 後に堅に仕へ、尚書郎と為り、自ら表すらく父の仇は天地を同にせざれば、冀州に還らんことを請ふと。堅 之を愍み、新平の人を禁錮し、其の城の角を缺きて以て之を恥とす。新平の酋望 深く以て慚と為し、故に相 率ゐて萇を距み、以て忠義を立つ。

現代語訳

苻堅は鴻臚の郝稚を遣わして処士の王嘉を到獣山から徴召した。到着すると、苻堅は毎日王嘉を道安とともに外殿に召し、動静があるたび諮問した。(あるとき)慕容暐が東堂に入って面会し、稽首して謝罪し、「弟の慕容沖は義をわきまえず、独断で国恩に背きました。私の罪は万死に値します。陛下の天地のような寛容さで、私は命を助けていただきました。私の二人の子は昨日に婚姻し、明日は三日目(の祝宴)です。天子の車駕をお招きしたいと思います、どうか私の邸宅に行幸をお願いします」と言った。苻堅はこれを承諾した。慕容暐が退出すると、王嘉は、「椎蘆が蘧蒢となり、文様を形成しない。大雨が降って、羊の殺害に失敗する」と言った。苻堅が群臣と検討しても解釈ができなかった。この夜に大雨が降り、翌朝は(慕容暐の邸宅に)出かけなかった。これよりさき、慕容暐は弟たちに(長安の)外で起兵させたが、苻堅の防備はとても厳重で、呼応して殺害する計画は頓挫していた。このとき(長安)城内にいる鮮卑は千人あまりで、慕容暐は秘かに鮮卑の兵と結託し、兵を伏せて苻堅を招き、その場で殺害しようと計画した。鮮卑の豪族の長の悉羅騰や屈突鉄侯らに内密に指示を出し、「いま国家はあなたたちに城外で鎮せよと命じ、長老はすべて受け入れた。某日に某所で集合せよ」と言った。鮮卑は同意した。北部の人の突賢はその妹と別れたが、その妹は左将軍の竇衝の小妻であった。(妹は慕容暐の)指令を聞いて竇衝に告げ、兄を止めてくれと言った。竇衝は駆け込んで苻堅に報告した。苻堅はとても驚き、悉羅騰を召して問い詰めると、悉羅騰はすべて自首して服した。苻堅はこのことから慕容暐の父子及びその宗族を誅殺し、城内の鮮卑は子供や婦女も区別なく全員を殺した。
慕容垂がふたたび鄴城を包囲した。焦逵が到着すると、(東晋の)朝廷は果たして符丕に任子を出すように求め、その後に援軍を出そうと言った。焦逵はつよく符丕の忠誠と真心が無二であることを述べ、あわせて楊膺の考えを強調したので、(朝廷は)劉牢之らを派遣して二万の兵を率い、水陸から輸送して鄴を救援した。
このとき長安はひどい飢饉で、人が食らいあった。諸将は家に帰ると(軍で食った)肉を吐き出して妻子に与えた。
慕容沖は尊号(帝号)を阿房で僭称し、更始と改元した。苻堅は慕容沖と戦い、勝ったり負けたりをくり返した。かつて(苻堅が)慕容沖の軍に包囲されると、殿中上将軍の鄧邁と左中郎将の鄧綏と尚書郎の鄧瓊がたがいに、「わが一門は代々の栄誉と寵愛を受け、父たちは特段の功績を国家のために建てた。忠節を実践し、父たちの志を完成させなければならない。しかも君主の危難において命を賭けないものは、ひとかどの人物ではない」と言った。そこで毛長楽らとともに獣の皮をかぶり、矛を奮って慕容沖の軍を攻撃した。慕容沖の軍が潰走し、苻堅の脱出が成功すると、その忠勇を評価し、みなを五校に拝し、三品将軍を加え、関内侯の爵位を賜った。慕容沖はまたその尚書令の高蓋を遣わして兵を率いて長安を夜襲させ、南門を攻め落とし、南城に進入した。左将軍の竇衝と前禁将軍の李辯らはこれを撃ち破り、千八百級を斬首し、その死体を分けあって食べた。苻堅はほどなく慕容沖を城西で破り、追撃して阿城(阿房)に到達した。諸将は勝ちに乗じて入城しましょうと言ったが、苻堅は慕容沖に捕獲されることを懼れ、鐘を鳴らして軍隊を止めた。
このとき劉牢之は枋頭に到着した。征東参軍の徐義と宦人の孟豊が苻丕に、「楊膺と姜譲らが謀反した」と告げた。符丕は楊膺と姜譲を捕らえて殺戮した。劉牢之は符丕が内部で(東晋の支持派を)殺戮したことを知り、滞留して進まなかった。
苻暉はしばしば慕容沖に敗れた。苻堅はこれを追及し、「お前は、わが子である。大軍を擁していながら、何度も白虜の小児に撃破された。どうして生きているのか」と言った。苻暉は激憤して自殺した。関中にある堡壁の三千あまりは、平遠将軍の馮翊の趙敖を推戴して統主とし、連携して同盟を結び、兵糧を送って苻堅を助けた。左将軍の苟池と右将軍の俱石子が騎兵の五千を率い、慕容沖と麦を奪いあい、驪山で戦って、慕容沖に敗れた。苟池は戦死し、俱石子は鄴に逃げた。苻堅は大いに怒り、さらに領軍の楊定を遣わして左右の精騎二千五百を率いて慕容沖を攻撃させ、大いにこれを破り、鮮卑の一万あまりを捕虜にして帰還した。苻堅は怒り、すべてを穴埋めにした。楊定は勇猛果敢で善戦したので、慕容沖は強く警戒し、馬の落とし穴を掘って防衛した。
劉牢之が鄴に到着し、慕容垂は北上して新城に向かった。鄴の城中は飢えがひどく、符丕は鄴城の人々を率いて東晋の穀物に枋頭でありついた。(符丕と入れ違いで)劉牢之が鄴城に入って駐屯した。慕容垂の兵士は飢えがひどく、多くが中山に逃げ、幽州や冀州の人々は食らいあった。これよりさき、関東で童謡があり、「幽州が𡙇(か)けて、生けるものは滅ぶ。もし滅ばなければ、万民が絶えるだろう」と言った。𡙇は、慕容垂の本名である。符丕との対峙は年をまたぎ、万民はほとんどが死滅した。
これよりさき、姚萇が新平を攻め、新平太守の苟輔は降服しようとしたが、郡人の遼西太守の馮傑と蓮勺令の馮翊らが諫めて、「天下が争乱すると、忠臣が現れる。むかし田単は一城を守って(戦国の)斉を存続させた。いま前秦の領土は、まだ州を連ねて鎮を重ね、郡国は百城がある。臣下や子が君主や父に向きあうとき、心を尽くし、力を尽くし、死ぬまで止まることがない。どうして二心を抱いて(降服して)よいだろうか」と言った。苟輔は大いに悦び、ここにおいて城の防備を固めた。姚萇が土山や地道をつくると、苟輔も同じものをつくって対抗した。あるときは山の峰で戦い、姚萇の軍の死者は一万人あまりであった。苟輔は詐って降服した。姚萇が入城しようとしたとき、詐りに悟り、兵を撤退させた。苟輔は馳せて出撃し、斬獲したものは万の単位であった。ここにいたり、兵糧と矢が尽きたが、外から救援が到着しなかった。姚萇は吏を派遣して苟輔に、「私は義によって天下を取ろうと思う、どうして忠臣に仇なすものか。あなたはただ民の男女を連れて長安に帰りたまえ。私はこの城に鎮所を設置する」と言った。苟輔は同意し、男女の一万五千人を率いて城を出たところ、姚萇は包囲して穴埋めにし、男女は一人も残らなかった。これよりさき、石季龍の末年に、清河の崔悦が新平相となったが、郡人に殺された。崔悦の子の崔液はのちに苻堅に仕え、尚書郎となり、自ら上表して、父の仇とは天地をともにできないから、冀州に還りたいと申し出た。苻堅はこれを憐れみ、新平の人を官僚から排除し、新平の城壁の角を欠けさせて恥辱を与えた。新平の有力豪族はこれを深く恥じたので、(汚名返上のため)連れだって姚萇を防ぎ、ここに忠義を立てたのである。

原文

時有羣烏數萬、翔鳴於長安城上、其聲甚悲、占者以為鬭羽不終年、有甲兵入城之象。沖率眾登城、堅身貫甲冑、督戰距之、飛矢滿身、血流被體。時雖兵寇危逼、馮翊諸堡壁猶有負糧冒難而至者、多為賊所殺。堅謂之曰、「聞來者率不善達、誠是忠臣赴難之義。當今寇難殷繁、非一人之力所能濟也。庶明靈有照、禍極災返、善保誠順、為國自愛、蓄糧厲甲、端聽師期、不可徒喪無成、相隨獸口」。三輔人為沖所略者、咸遣使告堅、請放火以為內應。堅曰、「哀諸卿忠誠之意也、何復已已。但時運圮喪、恐無益於國、空使諸卿坐自夷滅、吾所不忍也。且吾精兵若獸、利器如霜、而衄於烏合疲鈍之賊、豈非天也。宜善思之」。眾固請曰、「臣等不愛性命、投身為國、若上天有靈、單誠或冀一濟、沒無遺恨矣」。堅遣騎七百應之。而沖營放火者為風焰所燒、其能免者十有一二。堅深痛之、身為設祭而招之曰、「有忠有靈、來就此庭。歸汝先父、勿為妖形」。歔欷流涕、悲不自勝。眾咸相謂曰、「至尊慈恩如此、吾等有死無移」。沖毒暴關中、人皆流散、道路斷絕、千里無煙。堅以甘松護軍仇騰為馮翊太守、加輔國將軍、與破虜將軍蜀人蘭犢慰勉馮翊諸縣之眾。眾咸曰、「與陛下同死共生、誓無有貳」。
每夜有人周城大呼曰、「楊定健兒應屬我、宮殿臺觀應坐我、父子同出不共汝」。旦尋而不見人跡。城中有書曰古符傳賈錄、載「帝出五將久長得」。先是、又謠曰、「堅入五將山長得」。堅大信之、告其太子宏曰、「脫如此言、天或導予。今留汝兼總戎政、勿與賊爭利、朕當出隴收兵運糧以給汝。天其或者正訓予也」。於是遣衞將軍楊定擊沖於城西、為沖所擒。堅彌懼、付宏以後事、將中山公詵・張夫人率騎數百出如五將、宣告州郡、期以孟冬救長安。宏尋將母妻宗室男女數千騎出奔、百僚逃散。慕容沖入據長安、縱兵大掠、死者不可勝計。
初、秦之未亂也、關中土然、無火而煙氣大起、方數十里中、月餘不滅。堅每臨聽訟觀、令百姓有怨者舉煙於城北、觀而錄之。長安為之語曰、「欲得必存當舉煙」。又為謠曰、「長鞘馬鞭擊左股、太歲南行當復虜」。秦人呼鮮卑為白虜。慕容垂之起於關東、歲在癸未。堅之分氐戶於諸鎮也、趙整因侍、援琴而歌曰、「阿得脂、阿得脂、博勞舊父是仇綏、尾長翼短不能飛、遠徙種人留鮮卑、一旦緩急語阿誰」。堅笑而不納。至是、整言驗矣。
堅至五將山、姚萇遣將軍吳忠圍之。堅眾奔散、獨侍御十數人而已。神色自若、坐而待之、召宰人進食。俄而忠至、執堅以歸新平、幽之於別室。萇求傳國璽於堅曰、「萇次膺符曆、可以為惠」。堅瞋目叱之曰、「小羌乃敢干逼天子、豈以傳國璽授汝羌也。圖緯符命、何所依據。五胡次序、無汝羌名。違天不祥、其能久乎。璽已送晉、不可得也」。萇又遣尹緯說堅、求為堯舜禪代之事。堅責緯曰、「禪代者、聖賢之事。姚萇叛賊、奈何擬之古人」。堅既不許萇以禪代、罵而求死、萇乃縊堅於新平佛寺中、時年四十八。中山公詵及張夫人並自殺。是歲、太元十年也。
宏之奔也、歸其南秦州刺史楊璧於下辯、璧距之、乃奔武都氐豪1.(張)〔強〕熙、假道歸順、朝廷處宏於江州。宏歷位輔國將軍。桓玄篡位、以宏為2.(涼)〔梁〕州刺史。義熙初、以謀叛被誅。
初、堅強盛之時、國有童謠云、「河水清復清、苻詔死新城」。堅聞而惡之、每征伐、戒軍候云、「地有名新者避之」。時又童謠云、「阿堅連牽三十年、若後欲敗當在江淮間」。堅在位二十七年、因壽春之敗、其國大亂、後二年、竟死於新平佛寺、咸應謠言矣。丕僭號、偽追諡堅曰世祖宣昭皇帝。

1.中華書局本の校勘記に従い、「張」を「強」に改める。「強」は氐族の大姓。
2.中華書局本の校勘記に従い、「涼」を「梁」に改める。

訓読

時に羣烏數萬有り、長安城上に翔鳴し、其の聲は甚だ悲しく、占者は以為へらく、鬭羽は年を終へず、甲兵の入城するの象有りと。沖 眾を率ゐて城に登り、堅 身ら甲冑を貫き、督戰して之を距む。飛矢 滿身なりて、血流は體を被ふ。時に兵寇 危逼すると雖も、馮翊の諸々の堡壁 猶ほ糧を負ひ難を冒して至る者有り、多く賊の殺す所と為る。堅 之に謂ひて曰く、「聞くに來る者は率ち善く達せず、誠に是れ忠臣の難に赴くの義なり。當今 寇難は殷繁にして、一に人の力の能く濟ふ所に非ざるなり。庶はくは明靈の照す有らば、禍は極まり災は返り、善く誠順を保ち、國の為に自愛し、糧を蓄へ甲を厲し、端に師期を聽き、徒らに喪ひて成す無く、相 獸口に隨ふ可からず」と。三輔の人 沖の略する所と為る者は、咸 使を遣はして堅に告げ、放火して以て內應を為さんと請ふ。堅曰く、「諸卿が忠誠の意を哀しむなり、何ぞ復た已已なるや。但だ時運 圮喪し、恐るらくは益の國無く、空しく諸卿をして坐して自ら夷滅せしむるを。吾 忍びざる所なり。且つ吾が精兵 獸が若く、利器は霜の如し。而らば烏合の疲鈍の賊を衄(やぶ)るは、豈に天に非ざるや。宜しく善く之を思ふべし」と。眾 固く請ひて曰く、「臣ら性命を愛(をし)まず、身を投じて國が為にす。若し上天に靈有らば、誠を單にし冀はくは一濟或らんことを。沒してすら遺恨無し」と。堅 騎七百を遣りて之に應ぜしむ。而れども沖の營 放火する者 風焰の為に燒く所なりて、其れ能く免るる者は十に一二有るのみ。堅 深く之を痛み、身ら為に祭を設けて之を招きて曰く、「忠有りて靈有あらば、來たりて此の庭に就け。汝が先父に歸せしめ、妖形と為る勿れ」と。歔欷し流涕し、悲しみ自ら勝へず。眾 咸 相 謂ひて曰く、「至尊の慈恩 此の如し、吾ら死有りても移る無し」と。沖 關中を毒暴し、人 皆 流散し、道路は斷絕し、千里に煙無し。堅 甘松護軍の仇騰を以て馮翊太守と為し、輔國將軍を加へ、破虜將軍の蜀人の蘭犢と與に馮翊の諸縣の眾を慰勉せしむ。眾 咸 曰く、「陛下と與に死を同にし生を共にせん。誓ひて貳有る無し」と。
每夜 人の城を周りて大呼する有りて曰く、「楊定の健兒 應に我に屬すべし、宮殿臺觀 應に我に坐すべし、父子 同に出づれば汝を共にせず」と。旦に尋いで人跡を見ず。城中に書有りて曰く古符傳賈錄に、載すらく「帝 五將に出づれば久長をば得ん」と。是より先、又 謠ありて曰く、「堅 五將山に入れば長をば得ん」と。堅 大いに之を信じ、其の太子宏に告げて曰く、「脫し此の言が如くんば、天 或いは予を導くなり。今 汝を留めて戎政を兼總せしむ。賊と利を爭ふ勿れ。朕 當に隴に出でて兵を收め糧を運びて以て汝に給すべし。天 其れ或いは正に予に訓ふなり」と。是に於て衞將軍の楊定を遣はして沖を城西に擊つも、沖の擒ふる所と為る。堅 彌々懼れ、宏に付すに後事を以てし、中山公詵・張夫人を將ゐて騎數百を率ゐて出でて五將に如き、州郡に宣告し、期するに孟冬を以て長安を救はんと。宏は尋いで母妻宗室の男女を將ゐて數千騎もて出奔し、百僚 逃散す。慕容沖 入りて長安に據り、兵を縱にして大掠し、死者 勝て計ふ可からず。
初め、秦の未だ亂れざるや、關中の土 然(も)え、火無くして煙氣 大いに起ち、方數十里中に、月餘なるも滅せず。堅 每に聽訟觀に臨み、百姓の怨み有る者をして煙を城北に舉げしめ、觀て之を錄す。長安 之が為に語りて曰く、「必ず存するを得んと欲すれば當に煙を舉ぐべし」と。又 謠を為りて曰く、「長鞘の馬鞭 左股を擊ち、太歲は南行して當に復た虜ふべし」と。秦人 鮮卑を呼びて白虜と為す。慕容垂の關東に起つや、歲は癸未に在り。堅の氐戶を諸鎮に分くるや、趙整 侍に因りて、琴を援けて歌ひて曰く、「阿得脂、阿得脂、博勞の舊父 是れ仇綏、尾は長く翼は短く飛ぶ能はず、遠く種人を徙して鮮卑を留め、一旦に緩急あらば阿誰(たれ)に語らん」と。堅 笑ひて納れず。是に至て、整ひて言 驗あり。
堅 五將山に至るや、姚萇 將軍の吳忠を遣はして之を圍む。堅の眾 奔散し、獨り侍御の十數人あるのみ。神色は自若たりて、坐して之を待ち、宰人を召して食を進めしむ。俄かにして忠 至り、堅を執へて以て新平に歸り、之を別室に幽す。萇 傳國璽を堅に求めて曰く、「萇の符曆に次膺し、以て惠を為す可し」。堅 目を瞋らせ之を叱りて曰く、「小羌 乃ち敢て天子に干逼す。豈に傳國璽を以て汝羌に授くるや。圖緯符命、何ぞ依據する所あらんか。五胡の次序に、汝羌の名無し。天に違ふは不祥なり、其れ能く久しからんや。璽 已に晉に送る、得る可からざるなり」と。萇 又 尹緯を遣はして堅を說かしめ、堯舜禪代の事を為さんことを求む。堅 緯を責めて曰く、「禪代とは、聖賢の事なり。姚萇は叛賊なり、奈何ぞ之を古人に擬へんか」と。堅 既に萇の以て禪代するを許さず、罵りて死を求む。萇 乃ち堅を新平の佛寺中に縊し、時に年は四十八なり。中山公詵及び張夫人 並びに自殺す。是の歲、太元十年なり。
宏の奔るや、其の南秦州刺史の楊璧に下辯に歸するに、璧 之を距み、乃ち武都氐豪の強熙に奔る。道を假りて歸順し、朝廷 宏を江州に處す。宏 輔國將軍を歷位す。桓玄 篡位するや、宏を以て梁州刺史と為す。義熙の初に、謀叛を以て誅せらる。
初め、堅 強盛なるの時、國に童謠有りて云はく、「河水 清くして復た清み、苻詔は新城に死す」と。堅 聞きて之を惡み、征伐する每に、軍候に戒めて云く、「地に名の新なる者有らば之を避けよ」と。時に又 童謠に云はく、「阿堅 連牽すること三十年、若し後に敗れんと欲するは當に江淮の間に在るべし」と。堅 在位すること二十七年、壽春の敗に因り、其の國 大いに亂れ、後に二年にして、竟に新平の佛寺に死し、咸 謠の言に應ず。丕 僭號するや、偽りて堅を追諡して世祖宣昭皇帝と曰ふ。

現代語訳

このとき数万の鳥の大群がおり、長安城の上で飛んで鳴き、その声はとても悲しく、占い師は、戦う鳥は寿命を縮める、武装した兵が城に入る予兆だと言った。慕容沖が兵を率いて城壁に登ると、苻堅は自ら甲冑をつけて、督戦して防いだ。飛矢が全身に刺さり、流血が体をおおった。このとき兵の侵略が迫っていたが、馮翊の各地にある堡壁はそれでも兵糧を背負って(前秦のために)危険を冒すものがおり、多くが賊に殺された。苻堅は彼らに、「来ても到達できないものがいると聞くが、まさしく忠臣が危難に赴くという義を体現するものだ。いま盗賊の暴虐がひどく、人間の力だけでは救済できない。明らかな霊験があるなら、禍乱が終わり災難が去るだろう。どうか誠と従順さを保ち、国家のために自愛し、食糧を蓄えて兵士を鍛え、戦端の機会を待つように。むだに消耗して手柄を失い、猛獣の口に飛び込んではならない」と言った。三輔の人は慕容沖に略奪され、みな使者を送って苻堅に報告し、(慕容沖の陣に)火を放って内側から呼応したいと申し出た。苻堅は、「きみたちの忠誠心を憐れみ悲しく思う、どうして更なることを言うのか。ただ時の運を毀損し、国家にとって便益がない。きみたちを虚しく自滅させることに、私には耐えられない。それにわが精兵は虎のようで、鋭い武器は霜のようだ。(犠牲の大きな火計をしなくても)疲弊し鈍った烏合の衆を撃破できるのは、天命でなかろうか。これをよく心得てほしい」と言った。しかし三輔の人々が強く要請し、「私たちは生命を惜しまず、身を投じて国のために働きたい。もし上天に霊験があるなら、誠意をもっぱらにし救済があることを願います。死んでも遺恨はありません」と言った。苻堅は七百騎を派遣してこの作成を実行させた。こうして慕容沖の軍営に火を放ったものは熱風に焼き殺され、生き延びたのは十人に一人か二人であった。苻堅はこれを痛み、戦死者のために自ら祭祀をして魂を招き、「忠義のものたちに霊があるなら、この祭祀の場に来い。父祖のもとに帰そう、異形となるな」と言った。むせび泣き流涕し、悲しみに押し潰された。人々はみなで、「至尊(苻堅)の慈恩はこれほどだ、われらは死んでも心変わりしない」と言いあった。慕容沖が関中で害毒をまき散らしたので、人々はみな流浪して散り、道路は遮断され、千里にわたり炊煙が上がらなかった。苻堅は甘松護軍の仇騰を馮翊太守とし、輔国将軍を加え、破虜将軍の蜀人の蘭犢とともに馮翊の諸県の人民を慰撫させて励ました。人々はみな、「陛下とともに生死を共にする。誓って二心を抱かない」と言った。
夜ごとに城壁を巡って大声で叫ぶひとがいて、「楊定の壮士は私に続くべきだ、宮殿や高楼は私に留まるべきだ、父子がまとめて出ればお前と一緒にいられない」と言った。翌朝に探したが痕跡がなかった。城中に書物があり、『古符伝賈録』に、「帝が五将に出れば長久を得るだろう」とあるとされた。これ以前に、童謡があって、「苻堅が五将山に入れば長命を得るだろう」といった。苻堅は大いにこれを信じ、彼の太子の苻宏に告げて、「もしこの言葉どおりなら、天はあるいは私を導いたのではないか。いまお前を留めて軍政を総覧させる。(当面は)賊と利を争ってはならない。朕は隴に出て兵をまとめ兵糧を運んでお前に供給しよう。天は私たちに教訓を与えているのだろう」と言った。ここにおいて衛将軍の楊定を遣わして慕容沖を城西で攻撃させたが、慕容沖に捕らえられた。苻堅はいよいよ懼れ、苻宏に後事を託して、中山公詵(苻宣詵)と張夫人を連れて数百の騎馬を率いて(長安城を)出て五将山にゆき、州郡に告知し、きっと孟冬に長安を救うだろうと約束した。苻宏はほどなく母や妻と宗室の男女を連れて数千騎で脱出し、百僚は逃げ散った。慕容沖は長安に入城してここを拠点とし、兵に大いに略奪を許可し、死者は数え切れなかった。
これよりさき、前秦がまだ乱れる前に、関中で土が燃え、火がなくとも煙が大いに立ち、数十里の四方に発生し、一ヵ月あまり消えなかった。苻堅はいつも聴訟観に臨んだとき(裁判をして)、百姓で怨みあるものに煙を城北で上げさせ、それを見て判決を下した。長安はこれを語り、「必ず生き残りたいなら煙を上げるとよい」と言った。さらに童謡を作って、「長い鞘の馬鞭は左足を撃ち、太歳は南に移動してまた捕らえる」と言った。秦人は鮮卑を白虜と呼んでいた。慕容垂が関東で起兵したのは、太歳は癸未にあった。苻堅は氐族の民を各地の鎮に分置したが、趙整は近侍しており、琴に乗せて歌って、「阿得脂、阿得脂、博労の旧父は仇綏である、尾は長く翼は短く飛べない、遠く同族(氐族)を移して(異種の)鮮卑を近くに留める、もし不測の事態があれば誰に相談できるだろう」と言った。苻堅は笑って(婉曲した諫言を)聞き入れなかった。ここにおいて完全に言葉の通りになった。
苻堅が五将山に到着すると、姚萇は将軍の呉忠に包囲させた。苻堅の兵は逃げ散り、ただ侍御の十数人がいるだけであった。苻堅の態度は平生と変わらず、座って待ち、料理人に食事を進めさせた。にわかに呉忠が到着し、苻堅を捕らえて新平に帰り、彼を別室に幽閉した。姚萇は伝国璽を苻堅に求め、「私は天命に符合した、私によこせ」と言った。苻堅は目を怒らせて叱り、「小羌のくせに天子を脅迫するか。どうして伝国璽をお前のような羌族に授けるものか。図讖や符命に、どんな根拠があろうか。五胡の順序に、お前たち羌族の名はない。天に逆らうのは不祥である、長持ちするまい。伝国璽はもう東晋に送った、入手できない」と言った。姚萇はさらに尹緯を送って苻堅を説得させ、尭舜のように禅譲をせよと求めた。苻堅は尹緯を責めて、「禅譲は、聖賢の行いだ。姚萇は叛乱した賊である、どうして古の人物に擬えられよう」と言った。苻堅は姚萇の受禅を許さず、罵って死を求めた。姚萇は苻堅を新平の仏寺でくびり殺し、このとき四十八歳であった。中山公詵と張夫人も自殺した。この年は、太元十年である。
苻宏は出奔し、その(前秦の)南秦州刺史の楊璧に下辯で頼ったが、楊璧が拒絶したので、武都の氐豪の強熙を頼った。道を借りて(東晋に)帰順し、朝廷は苻宏を江州に置いた。苻宏は輔國将軍などを歴任した。桓玄が簒奪すると、苻宏を梁州刺史とした。義熙年間の初め、謀叛によって誅された。
これよりさき、苻堅の権勢がまだ強大だったとき、国に童謡があり、「黄河の水が清んでから再び清んだとき、苻詔は新城で死ぬ」と言った。苻堅はこれを聞いて憎み、征伐するたびに、軍の斥候に厳命して、「新という地名があれば(進軍経路から)避けろ」と言った。同じころに童謠があり、「阿堅が引っぱり続けて三十年、もし後に敗北するならば江淮の間のことだろう」とあった。苻堅は在位すること二十七年で、寿春の敗戦のために、国内が大いに乱れ、その二年後、新平の仏寺で死んだ。すべて童謡の通りであった。符丕が僭号するや、不当に苻堅に追諡して世祖宣昭皇帝とした。

王猛

原文

王猛字景略、北海劇人也、家於魏郡。少貧賤、以鬻畚為業。嘗貨畚於洛陽、乃有一人貴買其畚、而云無直、自言家去此無遠、可隨我取直。猛利其貴而從之、行不覺遠、忽至深山、見一父老、鬚髮皓然、踞胡牀而坐、左右十許人、有一人引猛進拜之。父老曰、「王公何緣拜也」。乃十倍償畚直、遣人送之。猛既出、顧視、乃嵩高山也。
猛瓌姿儁偉、博學好兵書、謹重嚴毅、氣度雄遠、細事不干其慮、自不參其神契、略不與交通、是以浮華之士咸輕而笑之。猛悠然自得、不以屑懷。少游於鄴都、時人罕能識也。惟徐統見而奇之、召為功曹。遁而不應、遂隱於華陰山。懷佐世之志、希龍顏之主、斂翼待時、候風雲而後動。桓溫入關、猛被褐而詣之、一面談當世之事、捫蝨而言、旁若無人。溫察而異之、問曰、「吾奉天子之命、率銳師十萬、杖義討逆、為百姓除殘賊、而三秦豪傑未有至者何也」。猛曰、「公不遠數千里、深入寇境、長安咫尺而不渡灞水、百姓未見公心故也、所以不至」。溫默然無以酬之。溫之將還、賜猛車馬、拜高官督護、請與俱南。猛還山諮師、師曰、「卿與桓溫豈並世哉。在此自可富貴、何為遠乎」。猛乃止。
苻堅將有大志、聞猛名、遣呂婆樓招之、一見便若平生、語及廢興大事、異符同契、若玄德之遇孔明也。及堅僭位、以猛為中書侍郎。時始平多枋頭西歸之人、豪右縱橫、劫盜充斥、乃轉猛為始平令。猛下車、明法峻刑、澄察善惡、禁勒強豪。鞭殺一吏、百姓上書訟之、有司劾奏、檻車徵下廷尉詔獄。堅親問之、曰、「為政之體、德化為先、莅任未幾而殺戮無數、何其酷也」。猛曰、「臣聞宰寧國以禮、治亂邦以法。陛下不以臣不才、任臣以劇邑、謹為明君翦除凶猾。始殺一姦、餘尚萬數、若以臣不能窮殘盡暴、肅清軌法者、敢不甘心鼎鑊、以謝孤負。酷政之刑、臣實未敢受之」。堅謂羣臣曰、「王景略固是夷吾・子產之儔也」。於是赦之。
遷尚書左丞・咸陽內史・京兆尹。未幾、除吏部尚書・太子詹事、又遷尚書左僕射・輔國將軍・司隸校尉、加騎都尉、居中宿衞。時猛年三十六、歲中五遷、權傾內外、宗戚舊臣皆害其寵。尚書仇騰・丞相長史席寶數譖毀之、堅大怒、黜騰為甘松護軍、寶白衣領長史、爾後上下咸服、莫有敢言。頃之、遷尚書令・太子太傅、加散騎常侍。猛頻表累讓、堅竟不許。又轉司徒・錄尚書事、餘如故。猛辭以無功、不拜。
後率諸軍討慕容暐、軍禁嚴明、師無私犯。猛之未至鄴也。劫盜公行、及猛之至、遠近帖然、燕人安之。軍還、以功進封清河郡侯、賜以美妾五人、上女妓十二人、中妓三十八人、馬百匹、車十乘。猛上疏固辭不受。
時既留鎮冀州、堅遣猛於六州之內聽以便宜從事、簡召英儁、以補關東守宰、授訖、言臺除正。居數月、上疏曰、「臣前所以朝聞夕拜、不顧艱虞者、正以方難未夷、軍機權速、庶竭命戎行、甘驅馳之役、敷宣皇威、展筋骨之效、故僶俛從事、叨據負乘、可謂恭命於濟時、俟太平於今日。今聖德格于皇天、威靈被于八表、弘化已熙、六合清泰、竊敢披貢丹誠、請避賢路。設官分職、各有司存、豈應孤任愚臣、以速傾敗。東夏之事、非臣區區所能康理、願徙授親賢、濟臣顛墜。若以臣有鷹犬微勤、未忍捐棄者、乞待罪一州、效盡力命。徐方始賓、淮汝防重、六州處分、府選便宜、輒以悉停。督任弗可虛曠、深願時降神規」。堅不許、遣其侍中梁讜詣鄴喻旨、猛乃視事如前。
俄入為丞相・中書監・尚書令・太子太傅・司隸校尉、持節・常侍・將軍・侯如故。稍加都督中外諸軍事。猛表讓久之。堅曰、「卿昔螭蟠布衣、朕龍潛弱冠、屬世事紛紜、厲士之際、顛覆厥德。朕奇卿於暫見、擬卿為臥龍、卿亦異朕於一言、迴考槃之雅志、豈不精契神交、千載之會。雖傅巖入夢、姜公悟兆、今古一時、亦不殊也。自卿輔政、幾將二紀、內釐百揆、外蕩羣凶、天下向定、彜倫始敘。朕且欲從容於上、望卿勞心於下、弘濟之務、非卿而誰」。遂不許。
其後數年、復授司徒。猛復上疏曰、「臣聞乾象盈虛、惟后則之。位稱以才、官非則曠。鄭武翼周、仍世載詠。王叔昧寵、政替身亡、斯則成敗之殷監、為臣之炯戒。竊惟鼎宰崇重、參路太階、宜妙盡時賢、對揚休命。魏祖以文和為公、貽笑孫后。千秋一言致相、匈奴吲之。臣何庸狷、而應斯舉。不但取嗤鄰遠、實令為虜輕秦。昔東野窮馭、顏子知其將弊。陛下不復料度臣之才力、私懼敗亡是及。且上虧憲典、臣何顏處之。雖陛下私臣、其如天下何。願迴日月之鑒、矜臣後悔、使上無過授之謗、臣蒙覆燾之恩」。堅竟不從。猛乃受命。軍國內外萬機之務、事無巨細、莫不歸之。
猛宰政公平、流放尸素、拔幽滯、顯賢才、外修兵革、內崇儒學、勸課農桑、教以廉恥、無罪而不刑、無才而不任、庶績咸熙、百揆時敘。於是兵強國富、垂及升平、猛之力也。堅嘗從容謂猛曰、「卿夙夜匪懈、憂勤萬機、若文王得太公、吾將優游以卒歲」。猛曰、「不圖陛下知臣之過、臣何足以擬古人」。堅曰、「以吾觀之、太公豈能過也」。常敕其太子宏・長樂公丕等曰、「汝事王公、如事我也」。其見重如此。
廣平麻思流寄關右、因母亡歸葬、請還冀州。猛謂思曰、「便可速裝、是暮已符卿發遣」。及始出關、郡縣已被符管攝。其令行禁整、事無留滯、皆此類也。性剛明清肅、於善惡尤分。微時一餐之惠、睚𥈐之忿、靡不報焉、時論頗以此少之。
其年寢疾、堅親祈南北郊・宗廟・社稷、分遣侍臣禱河嶽諸祀、靡不周備。猛疾未瘳、乃大赦其境內殊死已下。猛疾甚、因上疏謝恩、并言時政、多所弘益。堅覽之流涕、悲慟左右。及疾篤、堅親臨省病、問以後事。猛曰、「晉雖僻陃吳越、乃正朔相承。親仁善鄰、國之寶也。臣沒之後、願不以晉為圖。鮮卑・羌虜、我之仇也、終為人患、宜漸除之、以便社稷」。言終而死、時年五十一。堅哭之慟。比斂、三臨、謂太子宏曰、「天不欲使吾平一六合邪。何奪吾景略之速也」。贈侍中、丞相餘如故。給東園溫明祕器、帛三千匹、穀萬石。謁者僕射監護喪事、葬禮一依漢大將軍1.〔霍光〕故事。諡曰武侯、朝野巷哭三日。

1.中華書局本の校勘記に従い、「霍光」の二字を補う。

訓読

王猛 字は景略、北海劇の人なり。魏郡に家す。少くして貧賤、畚(ふご)を鬻ぐを以て業と為す。嘗て畚を洛陽に貨り、乃ち一人の貴く其の畚を買ふもの有り、而れども直無しと云ひ、自ら言ふ家は此を去ること遠きこと無し、我に隨ひて直を取る可しと。猛 其の貴きを利として之に從ひ、行きて遠を覺えず、忽として深山に至り、一父老に見る。鬚髮は皓然として、胡牀に踞して坐し、左右に十許りの人、一人 猛を引きて進みて之に拜せしむる有り。父老曰く、「王公 何に緣りて拜するや」と。乃ち十倍もて畚の直を償ひ、人を遣りて之を送る。猛 既に出で、顧視するに、乃ち嵩高山なり。
猛の瓌姿 儁偉にして、博學にして兵書を好む。謹重にして嚴毅、氣度は雄遠にして、細事は其の慮に干せず、自ら其の神契に參ぜず、略ぼ與に交通せず。是を以て浮華の士 咸 輕んじて之を笑ふ。猛 悠然自得として、屑を以て懷かず。少きとき鄴都に游び、時人 能く識る罕し。惟だ徐統のみ見て之を奇とし、召して功曹と為す。遁れて應ぜず、遂に華陰山に隱る。佐世の志を懷き、龍顏の主を希ひ、翼を斂め時を待ち、風雲を候ちて後に動く。桓溫 關に入るや、猛 褐を被て之に詣り、一面して當世の事を談じ、捫蝨して言ひ、旁若無人たり。溫 察して之を異とし、問ひて曰く、「吾 天子の命を奉りて、銳師十萬を率ゐ、義に杖り逆を討ち、百姓の為に殘賊を除く。而れども三秦の豪傑 未だ至る者有らざるは何ぞや」と。猛曰く、「公 數千里を遠しとせず、深く寇境に入り、長安の咫尺にして灞水を渡らず、百姓 未だ公の心を見ざるが故なり、至らざる所以なり」と。溫 默然として以て之に酬ゆる無し。溫の將に還らんとするや、猛に車馬を賜はり、高官督護を拜せしめ、與に俱に南せんことを請ふ。猛 山に還りて師に諮るに、師曰く、「卿 桓溫と豈に世に並ぶや。此に在らば自ら富貴たる可し、何の為に遠ざかるや」と。猛 乃ち止む。
苻堅 將に大志有り、猛の名を聞き、呂婆樓を遣はして之を招き、一たび見れば便ち平生が若く、語は廢興の大事に及ぶや、異符同契にして、玄德の孔明に遇ふが若きなり。堅 僭位するに及び、猛を以て中書侍郎と為す。時に始平に枋頭の西歸の人多く、豪右 縱橫たりて、劫盜して充斥すれば、乃ち猛を轉じて始平令と為す。猛 車を下りるや、法を明らかにして刑を峻くし、善惡を澄察し、強豪を禁勒す。一吏を鞭殺するに、百姓 上書して之を訟へ、有司は劾奏し、檻車もて徵して廷尉の詔獄に下す。堅 親ら之に問ひて、曰く、「為政の體は、德化もて先と為す。任に莅びて未だ幾ばくもならずして殺戮すること無數なり。何ぞ其れ酷なるや」と。猛曰く、「臣 聞くに寧國を宰すには禮を以てし、亂邦を治むるには法を以てす。陛下 臣の不才なるを以はず、臣を任ずるに劇邑に以てす。謹みて明君の為に凶猾を翦除す。始めて一姦を殺すも、餘は尚ほ萬もて數ふ。若し臣を以て殘を窮し暴を盡くし、肅清し軌法する能はざる者とせざれば、敢て鼎鑊に甘心して、以て孤負に謝せざるか。酷政の刑は、臣 實に未だ敢て之を受けざるなり」と。堅 羣臣に謂ひて曰く、「王景略 固より是れ夷吾・子產の儔なり」と。是に於て之を赦す。
尚書左丞・咸陽內史・京兆尹に遷る。未だ幾もなくして、吏部尚書・太子詹事に除せられ、又 尚書左僕射・輔國將軍・司隸校尉に遷り、騎都尉を加へ、中宿衞に居る。時に猛 年三十六にして、歲中に五たび遷り、權は內外を傾け、宗戚舊臣 皆 其の寵を害す。尚書の仇騰・丞相長史の席寶 數々之を譖毀するに、堅 大いに怒り、騰を黜けて甘松護軍、寶を白衣領長史と為す。爾後 上下は咸 服し、敢て言ふもの有る莫し。頃之、尚書令・太子太傅に遷り、散騎常侍を加ふ。猛 頻りに表して累ねて讓すも、堅 竟に許さず。又 司徒・錄尚書事に轉じ、餘は故の如し。猛 辭するに功無きを以てし、拜せず。
後に諸軍を率ゐて慕容暐を討ち、軍禁は嚴明にして、師は私犯する無し。猛の未だ鄴に至らざるや、劫盜 公行すれども、猛の至るに及び、遠近 帖然として、燕人 之に安んず。軍 還り、功を以て封を清河郡侯に進め、賜ふに美妾五人、上女妓十二人、中妓三十八人、馬百匹、車十乘を以てす。猛 上疏して固辭して受けず。
時に既に留めて冀州に鎮し、堅 猛を六州の內に遣はして聽くに便宜の從事を以てし、簡びて英儁を召して、以て關東の守宰を補し、授け訖はるや、臺の除正を言ふ。居ること數月にして、上疏して曰く、「臣 前に朝に聞し夕に拜し、艱虞を顧ざる所以は、正に方難の未だ夷せず、軍機 權速なるを以て、命を竭して戎行し、驅馳の役に甘んじ、皇威を敷宣し、筋骨の效を展べんと庶へばなり。故に僶俛して事に從ひ、叨に負乘に據り、命を濟時に恭み、太平を今日に俟つと謂ふ可し。今 聖德は皇天に格り、威靈は八表を被ひ、弘化 已に熙はれ、六合は清泰なりて、竊かに敢て丹誠を披貢し、賢路を避けんことを請ふ。官を設けて職を分け、各々有司 存す。豈に應に孤り愚臣のみを任じ、以て傾敗を速やかにせん。東夏の事は、臣は區區にして能く康理する所に非ず。願はくは徙だ親賢に授け、臣が顛墜を濟へ。若し臣に鷹犬の微勤有るを以て、未だ捐棄するに忍びざれば、罪を一州に待ち、效して力命を盡さんことを乞ふ。徐方は始めて賓し、淮汝の防は重く、六州の處分、府選の便宜あらば、輒ち以て悉く停めよ。督任は虛曠す可からず、深く時に神規を降さんことを願ふ」と。堅 許さず、其の侍中の梁讜を遣はして鄴に詣りて喻旨し、猛 乃ち視事すること前の如し。
俄かに入りて丞相・中書監・尚書令・太子太傅・司隸校尉と為り、持節・常侍・將軍・侯は故の如し。稍く都督中外諸軍事を加ふ。猛 表して讓すること久之たり。堅曰く、「卿は昔 螭蟠の布衣にして、朕は龍潛の弱冠なり。世事の紛紜にして、厲士の際に屬ひ、厥の德を顛覆す。朕 卿を暫見に奇とし、卿を擬へて臥龍と為し、卿も亦た朕を一言に異とするに、考槃の雅志を迴らせ、豈に精をば契り神をば交ふる、千載の會ならざるか。傅巖 夢に入り、姜公 兆を悟ると雖も、今古の一時、亦た殊ならずや。卿の輔政してより、幾ど將に二紀ならんとするに、內は百揆を釐し、外は羣凶を蕩し、天下 向に定まり、彜倫 始めて敘あり。朕 且つ上に從容とせんと欲し、卿は心を下に勞するを望む。弘濟の務、卿に非ざれば誰ぞ」と。遂に許さず。
其の後 數年にして、復た司徒を授く。猛 復た上疏して曰く、「臣 聞くに乾象 虛を盈たし、惟だ后に之に則る。位の稱は才を以てし、官は則ち曠しくするに非ず。鄭武 周を翼け、仍世に載詠す。王叔は寵を昧くし、政は替り身は亡ぶ。斯れ則ち成敗の殷監は、臣の炯戒と為る。竊かに惟るに鼎宰の崇重、參路の太階なり。宜しく妙に時賢を盡し、休命に對揚せしむべし。魏祖 文和を以て公と為し、笑を孫后に貽(のこ)す。千秋の一言もて相に致り、匈奴 之を吲(わら)ふ。臣 何ぞ庸狷にして、而るに斯の舉に應ぜんか。但だ嗤ひを鄰遠に取るのみにあらず、實に虜をして秦を輕しと為しむ。昔 東野 馭を窮め、顏子 其の將に弊れんことを知る。陛下 復た臣の才力を料度せず。私かに懼るらく敗亡 是れ及ばんことを。且つ上は憲典を虧けば、臣 何の顏ありて之に處るや。陛下の臣を私すと雖も、其れ天下を如何せん。願はくは日月の鑒を迴らせ、臣が後悔を矜まば、上は過授の謗りを無からしめ、臣に覆燾の恩を蒙むらん」と。堅 竟に從はず。猛 乃ち命を受く。軍國の內外が萬機の務は、事は巨細と無く、之に歸せざるは莫し。
猛の宰政は公平にして、尸素を流放し、幽滯を拔き、賢才を顯し、外は兵革を修め、內は儒學を崇び、農桑を勸課し、教ふるに廉恥を以てし、罪無くして刑せず、才無くして任ぜず、庶績 咸熙にして、百揆は時敘たり。是に於て兵は強く國は富み、升平に及ぶに垂とするは、猛の力なり。堅 嘗て從容として猛に謂ひて曰く、「卿は夙夜に懈る匪く、萬機に憂勤す。文王 太公を得るが若し。吾 將に優游として以て歲を卒へん」と。猛曰く、「陛下 臣を知るの過なるを圖らざりし、臣 何ぞ以て古人に擬ふるに足る」と。堅曰く、「以ふに吾 之を觀るを、太公 豈に能く過ぎんや」と。常に其の太子宏・長樂公丕らに敕して曰く、「汝は王公に事ふること、我に事ふるが如くせよ」と。其の重んぜらること此の如し。
廣平の麻思 流れて關右に寄るに、母 亡して歸葬するに因り、冀州に還らんことを請ふ。猛 思に謂ひて曰く、「便ち速やかに裝す可し、是の暮までに已に卿が發遣を符せん」と。始めて關を出づるに及び、郡縣 已に符を被りて管攝す。其の令行と禁整、事として留滯する無く、皆 此の類なり。性は剛明にして清肅、善惡に尤も分あり。微時に一餐の惠、睚𥈐の忿あらば、報いざる靡く、時論 頗る此を以て之を少とす。
其の年 寢疾し、堅 親ら南北郊・宗廟・社稷に祈り、侍臣を分遣し河嶽の諸祀に禱り、周備せざる靡し。猛の疾 未だ瘳えず、乃ち其の境內の殊死より已下を大赦す。猛の疾 甚しく、因りて上疏して謝恩し、并せて時政を言ひ、益を弘むる所多し。堅 之を覽じて流涕し、左右を悲慟せしむ。疾 篤かるに及び、堅 親ら臨みて省病し、問ふに後事を以てす。猛曰く、「晉 吳越に僻陃すと雖も、乃ち正朔 相 承ぐ。親仁善鄰は、國の寶なり。臣 沒するの後、願はくは晉を以て圖を為すことをせざれ。鮮卑・羌虜は、我の仇なり、終に人患と為らん、宜しく漸く之を除けば、以て社稷に便ならん」と。言 終はりて死し、時に年五十一なり。堅 之に哭して慟し。斂むる比、三たび臨み、太子の宏に謂ひて曰く、「天 吾をして六合を平一せしむるを欲せざるや。何ぞ吾より景略を奪ふことの速やかなるや」と。侍中を贈り、丞相の餘 故の如し。東園溫明の祕器、帛三千匹、穀萬石を給はる。謁者僕射をして喪事をせしめ、葬禮は一に漢の大將軍の霍光の故事に依る。諡して武侯と曰ひ、朝野の巷 三日を哭す。

現代語訳

王猛は字を景略といい、北海劇県の人である。魏郡に住んだ。若いとき貧賤で、畚(ふご)を売って生業とした。かつて畚を洛陽で売り、ある人が高く畚を買いたいといい、しかし代金を持っておらず、わが家はここから遠くないから、私について代金を取りに来いと言った。王猛は提示された高値にひかれて付いてゆき、遠近の感覚が消えて、忽然と深い山に到着し、一人の父老に会った。ひげも髪も真っ白で、胡牀に座っており、左右に十人ばかりいた。一人が王猛を促して進み出て拝礼させた。父老は、「王公がどうして頭をお下げになるのだ」と言った。畚の代金として十倍を払い、帰り道を送らせた。王猛が山から出て、振り返ると、そこは嵩高山であった。
王猛の姿貌はすぐれて立派で、博学で兵書を好んだ。慎み深くて厳格で剛気であり、気質は雄々しく遠大で、細かいことに気を取られず、神明との合致に拘らず、ほぼ他人と交際しなかった。そのため浮華の士はみな彼を軽んじて笑った。王猛は悠然として自ら満たされ、些細なことから距離をおいた。若いとき鄴都に遊学したが、当時の人は王猛を見出すことができなかった。ただ徐統だけが評価し、召して功曹とした。王猛は逃れて応じず、華陰山に隠れた。世を救う志を抱き、龍顔の主を待望し、翼をたたんで時を待ち、風雲が立ってから動くと決めていた。桓温が(北伐して)関に入ると、王猛は粗末な服をきて訪問し、ひとたび会って当世のことを談じたが、シラミをつぶしながら喋り、まるで気兼ねしなかった。桓温はこの様子を見て凡人ではないと思い、「私は天子の命を奉り、精鋭の十万を率い、義に基づいて反逆者を討伐し、百姓のために残虐な賊を除いている。しかし三秦の豪傑がまだ駆けつけないのはなぜか」と言った。王猛は、「あなたは数千里を遠しとせず、深く敵国の領土に入ったが、長安の直前にして灞水を渡らず、万民がまだあなたの心を目の当たりにしていないからです。これが駆けつけない理由です」と言った。桓温は黙然として答えなかった。桓温が帰還しようとしたとき、王猛に車馬を賜わり、高官督護を拝命させ、一緒に南に行こうと誘った。王猛は山に還って師に相談した。師は、「きみは桓温と並び立てない。ここにいれば富貴なのに、なぜ遠くに行くのかね」と言った。王猛は(東晋に行くのを)中止した。
苻堅が大きな志を抱き、王猛の名を聞いて、呂婆楼を遣わして彼を招いた。一見すると落ち着いているが、話題が(国家の)興廃の重大事に及ぶと、言葉は違っても思想が通じあい、劉玄徳が諸葛孔明に出会ったときのようであった。苻堅が君位を僭称すると、王猛を中書侍郎とした。このとき始平郡には枋頭から西帰した人が多く、豪族の統制がとれず、略奪がはびこっていたので、王猛を始平令に転じさせた。王猛は(赴任して)馬車を降りるや否や、法を明らかにして刑を厳しくし、善悪を明確に区分し、豪族を取り締まった。(王猛が)一吏を鞭で殺したところ、万民が上書して王猛を訴え、担当官は弾劾の上奏をして、檻車で(王猛を)徴して廷尉の詔獄に下した。苻堅は自ら王猛に、「為政の根本は、徳化を優先とする。着任して間もなく無数の殺戮をした。どうしてそれほど苛酷に処置したのか」と質問した。王猛は、「私が聞きますに安寧の国を治めるには礼を用い、混乱した国を治めるには法を用います。陛下は私に才能がないことを顧みず、私を劇邑(難治の郡)に任命しました。謹んで明君のために凶悪な連中を排除したのです。一人の姦者を殺しても、まだ万単位で生き残りがいます。もし私のことを残虐で横暴なものを殲滅し、統治を清めて法を施行できないものとお考えならば、甘んじて刑罰を受け入れ、期待に背いたことに謝りましょう。(ただし)刑罰を厳しくしたことによる裁きならば、私が受け入れる理由がありません」と言った。苻堅は群臣に、「王景略はまことに夷吾(管仲)や子産の類いである」と言った。こうして赦された。
尚書左丞・咸陽内史・京兆尹に遷った。まもなく、吏部尚書・太子詹事に任命され、また尚書左僕射・輔国将軍・司隸校尉に遷り、騎都尉を加え、中宿衛に居した。このとき王猛は三十六歳で、一年以内に五回も異動し、権勢は内外を傾け、苻氏の宗族や旧臣はみなその寵愛を嫌った。尚書の仇騰と丞相長史の席宝がしばしば王猛を批判すると、苻堅は大いに怒り、仇騰を退けて甘松護軍とし、席宝を白衣領長史とした。これ以後は上下ともに感服し、異議を唱えるものはなかった。しばらくして、尚書令・太子太傅に遷り、散騎常侍を加えた。王猛はしきりに上表し重ねて辞退したが、苻堅は許すことはなかった。さらに司徒・録尚書事に転じ、それ以外は現状通りとされた。王猛は功績不足を理由に辞退し、拝命しなかった。
のちに諸軍を率いて慕容暐を討伐し、軍の禁令は厳格で明確で、兵士がかってに違反するものがなかった。王猛が鄴に到着する前まで、強盗が公然と行われていたが、王猛が到着すると、遠近は整然として落ちつき、燕人は安定を受け入れた。軍が帰還すると、功績により封号を清河郡侯に進め、美妾の五人、上女妓の十二人、中妓の三十八人、馬百匹、車十乗をを賜った。王猛は上疏し固辞して受けなかった。
このとき王猛を留めて冀州に鎮させた。苻堅は王猛に六州の内を巡らせて個別の判断を行わせ、英雄や俊才を選んで召し、関東の地方長官に補任し、任命が終わると、(鄴の)鎮台の任命と考課をさせた。滞在すること数ヵ月で、王猛は上疏し、「朝に命令を聞いて夜に従い、苦労を顧みない理由は、国難がまだ制圧されず、軍の判断は仮にでも早いほうがよいためです。生命を尽くして軍事行動をし、戦場を駆け回ることに甘んじ、皇帝の威徳を押し広げ、身を挺して功績を拡大したいと思っています。ゆえに勉励して職務を行い、不遜にも君主を代行し、時世を救うために役割を引き受け、太平の到来を待っていると言えます。いま(苻堅の)聖徳は天に到達し、威霊は全土を覆い、教化の広がりは明らかで、万物は清く整いました。ひそかに真っ赤な誠意を奉り、(立身出世の)賢者の道を避けたいと思います。官職は分けて設置され、それぞれ担当官がいます。どうして私だけに権限を集約させ、国家の転覆を早めるのでしょうか。関東の全般は、私のせまい見識では十分に処置できません。どうか信頼でき賢い者に官職を授け、私を転覆から救って下さい。もし私に鷹や犬のような僅かな功績があり、罷免することが忍びなければ、罪の判決を一州で待ち、力と生命を尽くしたいと思います。徐州方面は服従したばかりで、淮水や汝水方面の防衛は重要です。(私が)六州で実行した政策と、官署の人材選抜が時宜を得たものなら、しばらく現状を維持して下さい。監督や任命は重大なことです、時と場合ごとに(苻堅が直接)神がかりの判断を行って頂きたいと思います」と言った。苻堅は許さず、その侍中の梁讜を派遣して鄴を訪問して考えを伝えた。王猛が(関東六州を)管轄するのは現状のままとされた。
にわかに(朝廷に)入って丞相・中書監・尚書令・太子太傅・司隸校尉とし、持節・常侍・将軍・侯は現状のままとした。やがて都督中外諸軍事を加えた。王猛は上表して長く辞退をした。苻堅は、「あなたはむかし屈節した龍のごとき無位無官のひとで、朕は潜伏した龍のごとき若者であった。時世が紛々と乱れ、悪君(苻生)の時代に遭遇し、わが国の徳が転覆した。朕は短い面会であなたを見出し、臥龍(諸葛亮)のようだと考え、あなたもまた一言で私の非凡さを認めてくれた。しかし隠居を希望している。われらは心から感応しあった、千年に一度の出会いではなかったか。傅説が(殷の高宗の)夢に現れ(宰相となり)、姜公(太公望)が兆しを悟った故事と、古今の区別はなく、同じ事柄ではないか。あなたが輔政してから、二紀(二十四年)となるが、国内は万民が収まり、国外は凶悪なものを平定し、天下がさきに定まり、人倫ははじめて整えられた。朕は上にいて落ちつきたいと思い、あなたは朕のもとでの苦労を買って出た。広い救済の務めは、あなたでなければ誰に行えようか」と言った。こうして辞退を許さなかった。
そののち数年で、再び司徒を授けた。王猛はまた上疏し、「聞きますに天象は虚を満たし、遅れてこれに則るそうです。官位の称号は才覚に基づくもので、任命をいい加減に行ってはいけません。鄭の武公は周を輔佐し、後世まで詠われました。王叔(周の諸侯)は寵愛を貪り、政治を失い身を滅ぼしました。これらの成功と失敗の教訓を、私は戒めとしています。考えますに鼎宰(三公)は崇高で重い地位で、太階(の星)に擬えられます。どうか慎重に賢者を探索し、ありがたき任命に応えさせるべきです。魏祖(曹操)は文和(賈詡)を三公とし、後世から笑われました。(前漢の)田千秋は(気の利いた)一言だけで宰相となり、匈奴はこれをあざ笑いました。私は平凡で無能であり、どうして三公に相応しいでしょう。ただ笑いを隣国から買うだけでなく、敵国から前秦が軽んじられる結果となります。むかし東野畢は馬を統御する技術を極めましたが、顔子(顔回)は(馬の酷使による)失敗を予知しました(『荀子』哀公)。陛下もまた私の才能と力量を見誤っています。わが失敗が目前に迫っていることが心配です。しかも主君が(異例の抜擢で)国の規則を破れば、私はどんな態度で地位に居ればよいのですか。陛下は私を特別扱いしますが、天下全体はどうなるのでしょう。どうか慎重に検討を重ね、私の行き詰まりに配慮して下さるならば、陛下は過度な昇進をさせたという批判がなく、私はかばって頂いたという恩を受けられます」と言った。苻堅は結局は従わなかった。王猛は任命を受けた。郡国の内外の全般について、事案の大小に拘わりなく、王猛が管轄しないことがなかった。
王猛の為政は公平であり、尸素(俸禄どろぼう)を流刑とし、民間に隠れた人物を抜擢し、賢才の持ち主を昇進させた。国外では軍事を整え、国内では儒学を尊び、農桑を勧めて、(刑罰によらず)廉恥によって教化し、罪がなければ刑罰を加えず、才能がなければ任官させなかった。政治の実績は輝かしく、万事が一時の秩序を得た。こうして軍事が強まり国庫が富み、(前秦が)天下泰平の直前まで行ったのは、王猛の力である。苻堅はかつてゆったりと王猛に、「卿は朝夕に公務を怠ることがなく(『詩経』大雅 烝民)、政務全般に憂い勤めている(『詩経』周南 巻耳)。周の文王が太公望を得たようなものだ。私はゆったりと寿命を終えられる」と言った。王猛は、「陛下は私をひどく過大評価しています、どうして古の人物に擬える価値がありましょうか」と言った。苻堅は、「私がきみを見るに、太公望ですら敵わないと思うが」と言った。苻堅はつねに太子宏(苻宏)と長楽公丕(符丕)らに命じて、「王公(王猛)には、私に仕えるのと同じように仕えよ」と言っていた。以上のように尊重された。
広平の麻思は流浪して関中に留まっていたが、母が亡くなって故郷に葬りたいので、冀州に帰還したいと要請した。王猛は麻思に、「すぐに支度をしろ、本日の夕方までには出発を通知し終えている」と言った。函谷関を出てみると、郡県はすでに通知を受け取って把握していた。その命令の実行と禁止が徹底され、どんなことでも遅滞しないのは、このようであった。(王猛は)心根が強く聡明で清らかであり、善悪の判断がすぐれていた。出世する前に一食をおごられた恩や、ひと睨みされた怨みがあれば、報復しないことがなく、当時の世論はこれを批判した。
その年に(王猛は)病気に倒れ、苻堅は自ら南北郊・宗廟・社稷に祈り、侍臣を各地に派遣して河嶽で祈祷を行わせ、十全に手を尽くした。王猛の病気が癒えないので、領内の死罪より以下を大赦した。王猛の病気がいよいよ悪化すると、上疏して恩に感謝し、あわせて現代の政治について意見し、国に実益をもたらした。苻堅はこれを読んで涙を流し、左右も悲しみに震えた。危篤になると、苻堅は自ら立ち会って看病し、後事について言葉を求めた。王猛は、「晋が呉越の地域に寄りかかっていますが、正朔を継承した国家です。仁に親んで隣国と和するのは、国の宝です。私の死後、晋の攻略を諦めてください。鮮卑と羌虜は、わが国の仇敵で、彼らこそ最後に禍いとなりますから、徐々に力を削げば、社稷は安泰でしょう」と言った。言い終えて死に、このとき五十一歳だった。苻堅は慟哭した。埋葬のとき、三たび臨み、太子の苻宏に、「天は私に天下を統一させたくないのか。どうして私から王景略(王猛)をこんなに早く奪ったのだ」と言った。侍中を贈り、丞相より以下は現状どおりとした。東園温明の秘器と、帛三千匹、穀一万石を給わった。謁者僕射に葬儀を仕切らせ、葬礼はもっぱら前漢の大将軍の霍光の故事に基づいた。諡して武侯とし、朝野の巷は三日間の哭礼をした。

苻融

原文

苻融字博休、堅之季弟也。少而岐嶷夙成、魁偉美姿度。健之世封安樂王、融上疏固辭、健深奇之、曰、「且成吾兒箕山之操」。乃止。苻生愛其器貌、常侍左右、未弱冠便有台輔之望。長而令譽彌高、為朝野所屬。
堅僭號、拜侍中、尋除中軍將軍。融聰辯明慧、下筆成章、至於談玄論道、雖道安無以出之。耳聞則誦、過目不忘、時人擬之王粲。嘗著浮圖賦、壯麗清贍、世咸珍之。未有升高不賦、臨喪不誄、朱彤・趙整等推其妙速。旅力雄勇、騎射擊刺、百夫之敵也。銓綜內外、刑政修理、進才理滯、王景略之流也。尤善斷獄、姦無所容、故為堅所委任。
後為司隸校尉。京兆人董豐游學三年而返、過宿妻家。是夜妻為賊所殺、妻兄疑豐殺之、送豐有司。豐不堪楚掠、誣引殺妻。融察而疑之、問曰、「汝行往還、頗有怪異及卜筮、以不」。豐曰、「初將發、夜夢乘馬南渡水、返而北渡、復自北而南、馬停水中、鞭策不去。俯而視之、見兩日在於水下、馬左白而溼、右黑而燥。寤而心悸、竊以為不祥。還之夜、復夢如初。問之筮者、筮者云、『憂獄訟、遠三枕、避三沐。』既至、妻為具沐、夜授豐枕。豐記筮者之言、皆不從之。妻乃自沐、枕枕而寢」。融曰、「吾知之矣。周易坎為水、馬為離、夢乘馬南渡、旋北而南者、從坎之離。三爻同變、變而成離。離為中女、坎為中男。兩日、二夫之象。坎為執法吏。吏詰其夫、婦人被流血而死。坎二陰一陽、離二陽一陰、相承易位。離下坎上、既濟、文王遇之囚牖里、有禮而生、無禮而死。馬左而溼、溼、水也、左水右馬、馮字也。兩日、昌字也。其馮昌殺之乎」。於是推檢、獲昌而詰之、昌具首服、曰、「本與其妻謀殺董豐、期以新沐枕枕為驗、是以誤中婦人」。
在冀州、有老母遇劫於路、母揚聲唱盜、行人為母逐之。既擒劫者、劫者返誣行人為盜。時日垂暮、母及路人莫知孰是、乃俱送之。融見而笑曰、「此易知耳、可二人並走、先出鳳陽門者非盜」。既而還入、融正色謂後出者曰、「汝真是盜、何以誣人」。其發姦摘伏、皆此類也。所在盜賊止息、路不拾遺。堅及朝臣雅皆歎服、州郡疑獄莫不折之於融。融觀色察形、無不盡其情狀。雖鎮關東、朝之大事靡不馳驛與融議之。
性至孝、初屆冀州、遣使參問其母動止、或日有再三。堅以為煩、月聽一使。後上疏請還侍養、堅遣使慰喻不許。久之、徵拜侍中・中書監・都督中外諸軍事・車騎大將軍・司隸校尉・太子太傅・領宗正・錄尚書事。俄轉司徒、融苦讓不受。融為將善謀略、好施愛士、專方征伐、必有殊功。
堅既有意荊揚、時慕容垂・姚萇等常說堅以平吳封禪之事、堅謂江東可平、寢不暇旦。融每諫曰、「知足不辱、知止不殆、窮兵極武、未有不亡。且國家、戎族也、正朔會不歸人。江東雖不絕如綖、然天之所相、終不可滅」。堅曰、「帝王曆數豈有常哉、惟德之所授耳。汝所以不如吾者、正病此不達變通大運。劉禪可非漢之遺祚、然終為中國之所并。吾將任汝以天下之事、奈何事事折吾、沮壞大謀。汝尚如此、況於眾乎」。堅之將入寇也、融又切諫曰、「陛下聽信鮮卑・羌虜諂諛之言、採納良家少年利口之說、臣恐非但無成、亦大事去矣。垂・萇皆我之仇敵、思聞風塵之變、冀因之以逞其凶德。少年等皆富足子弟、希關軍旅、苟說佞諂之言、以會陛下之意、不足採也」。堅弗納。及淮南之敗、垂・萇之叛、堅悼恨彌深。

訓読

苻融 字は博休、堅の季弟なり。少くして岐嶷にして夙成し、魁偉にして姿度美し。健の世に安樂王に封ぜられ、融 上疏して固辭し、健 深く之を奇として、曰く、「且に吾が兒をして箕山の操を成さしめん」。乃ち止む。苻生 其の器貌を愛し、常に左右に侍らしめ、未だ弱冠ならずして便ち台輔の望有り。長じて令譽 彌々高く、朝野の屬する所と為る。
堅 僭號するや、侍中を拜し、尋いで中軍將軍に除せらる。融 聰辯にして明慧、筆を下さば章を成し、玄論の道を談ずるに至り、道安と雖も以て之より出づる無し。耳に聞かば則ち誦し、目を過りて忘れず、時人 之を王粲に擬ふ。嘗て浮圖賦を著し、壯麗にして清贍、世は咸 之を珍とす。未だ升高有らざれば賦せず、喪に臨みて誄せず、朱彤・趙整ら其の妙速なるを推す。旅力して雄勇し、騎射して擊刺し、百夫の敵なり。內外を銓綜し、刑政は理を修め、才を進めて滯を理むるは、王景略の流なり。尤も斷獄を善くし、姦あれば容るる所無く、故に堅の委任する所と為る。
後に司隸校尉と為る。京兆の人たる董豐 游學して三年にして返り、過りて妻が家に宿す。是の夜 妻 賊の殺す所と為り、妻の兄 豐の之を殺せるを疑ひ、豐を有司に送る。豐 楚掠に堪えず、妻を殺すと誣引す。融 察して之を疑ひ、問ひて曰く、「汝 行きて往還するに、頗る怪異有りて卜筮するに及ぶ、以て不なるか」と。豐曰く、「初め將に發せんとし、夜に夢みて馬に乘りて南して水を渡り、返りて北渡し、復た北より南し、馬 水中に停まり、策を鞭つとも去らず。俯きて之を視るに、兩日の水下に在るを見て、馬の左は白にして溼、右は黑にして燥なり。寤ねて心は悸し、竊かに以為へらく不祥と。還りしの夜、復た夢みること初の如し。之を筮者に問ふに、筮者 云ふらく、『獄訟を憂ふ、三枕を遠ざけ、三沐を避けよ』と。既に至りて、妻 具さに沐を為し、夜に豐に枕を授く。豐 筮者の言を記さば、皆 之に從はず。妻 乃ち自ら沐し、枕を枕して寢ぬ」と。融曰く、「吾 之を知れり。周易の坎を水と為し、馬を離と為す。夢に馬に乘りて南渡し、北に旋りて南するは、坎より離に之くなり。三爻 同に變じ、變じて離を成す。離は中女為り、坎は中男為り。兩日は、二夫の象なり。坎は執法の吏為り。吏 其の夫を詰め、婦人 流血を被りて死す。坎は二陰一陽、離は二陽一陰にして、相 承けて位を易ふ。離下坎上は、既濟にして、文王 之に遇ひて牖里に囚はれ、禮有らば生き、禮無くんば死す。馬の左に溼なりて、溼は、水なり、左水右馬は、馮の字なり。兩日は、昌の字なり。其れ馮昌 之を殺すならんか」と。是に於て推檢するに、昌を獲らへて之を詰す。昌 具さに首服して、曰く、「本は其の妻と與に謀りて董豐を殺さんとし、期すらく新沐枕枕を以て驗と為し、是を以て誤まりて婦人に中たる」と。
冀州に在り、老母の劫に路に遇ふ有り、母 聲を揚げて盜と唱し、行人 母の為に之を逐ふ。既に劫する者を擒ふるに、劫する者 返りて行人を誣して盜と為す。時に日は暮に垂とし、母及び路人 孰れか是なるやを知る莫く、乃ち俱に之を送る。融 見て笑ひて曰く、「此れ知り易きのみ。二人をして並走せしむ可し。先に鳳陽門を出づる者は盜に非ず」と。既にして還りて入り、融 色を正して後れて出づる者に謂ひて曰く、「汝 真に是れ盜なり、何を以て人を誣するか」と。其の姦を發し摘伏するは、皆 此の類なり。所在の盜賊 止息し、路は拾遺せず。堅及び朝臣 雅より皆 歎服し、州郡の疑獄ありて之を融に折せざる莫し。融 色を觀て形を察し、其の情狀を盡くさざる無し。關東に鎮すると雖も、朝の大事として驛を馳せて融と之を議せざるは靡し。
性は至孝にして、初めて冀州に屆(いた)るに、使を遣はして其の母の動止を參問し、或いは日に再三有り。堅 以て煩と為し、月に一使のみを聽す。後に上疏して還りて侍養せんことを請ひ、堅 使を遣はして慰喻して許さず。久之、徵せられて侍中・中書監・都督中外諸軍事・車騎大將軍・司隸校尉・太子太傅・領宗正・錄尚書事を拜す。俄かにして司徒に轉ずれども、融 苦讓して受けず。融 將と為て謀略に善く、施を好み士を愛し、方を專にして征伐せば、必ず殊功有り。
苻融の性質はきわめて孝であり、冀州に着任した直後、使者を送って母の動静を窺わせ、一日で再三に及んだ。苻堅は煩雑すぎるとして、一ヵ月に一回の使者だけを許した。のちに上疏して帰還し(都で母の)面倒を見たいと申請したが、苻堅は使者を送って慰めて説得をして許さなかった。しばらくして、徴召されて侍中・中書監・都督中外諸軍事・車騎大将軍・司隸校尉・太子太傅・領宗正・録尚書事を拝命した。にわかに司徒に転じたが、苻融は強く辞退して受けなかった。苻融は将軍として謀略を得意とし、施しを好んで士を愛し、司令官として征伐をすれば、必ず特段の功績があった。
堅 既に意は荊揚に有り、時に慕容垂・姚萇ら常に堅に平吳を以て封禪するの事を說き、堅 謂へらく江東 平らぐ可く、寢ねて旦に暇あらずと。融 每に諫めて曰く、「足るを知りて辱ぢず、止を知りて殆からず。兵を窮め武を極めて、未だ亡びざる有らず。且つ國家は、戎族なり、正朔 會々人に歸せず。江東 絕えざること綖が如しと雖も、然るに天の相とする所、終に滅ぼす可からず」。堅曰く、「帝王の曆數 豈に常有らんや、惟だ德の授くる所なりのみ。汝 吾に如かざる所以は、正に此を病みて變通の大運に達せざればなり。劉禪 漢の遺祚に非ざる可きも、然れども終に中國の并す所と為る。吾 將に汝に任ずるに天下の事を以てす。奈何に事事に吾を折し、大謀を沮壞するや。汝 尚ほ此の如くんば、況んや眾をや」と。堅の將に入寇せんとするや、融 又 切諫して曰く、「陛下 鮮卑・羌虜が諂諛の言を聽信し、良家の少年の利口の說を採納す。臣 但だ成る無きのみに非ず、亦た大事 去らんことを恐る。垂・萇は皆 我の仇敵なり、風塵の變を聞かんと思ひ、之に因りて以て其の凶德を逞くせんと冀ふ。少年ら皆 富足の子弟なれば、軍旅に關はること希なり。苟し佞諂の言を說きて、以て陛下の意に會すれば、採るに足らざるなり」と。堅 納れず。淮南の敗るるに及びて、垂・萇の叛するや、堅の悼恨 彌々深し。

現代語訳

苻融は字を博休といい、苻堅の末弟である。早熟で幼くして大成し、容貌が立派で美しかった。苻健の時代に安楽王に封建されたが、苻融は上疏して故事した。苻健は深く感心して、「わが子に箕山(許由)の節義を実現させよう」と言い、封建を中止した。苻生はその器量と容貌を愛し、つねに左右に侍らせ、まだ二十歳にならずとも宰相の器と評判があった。成長して名声がますます高まり、朝野に期待された。
苻堅が僭号すると、侍中を拝し、すぐに中軍将軍に任命された。苻融は弁舌が爽やかで思考が明晰であり、筆を下ろせば文となり、玄学の道を談義すると、道安であっても苻融には及ばなかった。いちど聞けば暗誦し、いちど見れば忘却せず、当時の人々は彼を(後漢末の)王粲に擬えた。かつて浮図賦を著し、壮麗で清らかで豊かで、世ではこれを珍重した。高官がおらねば詩を賦さず、喪に臨んで誄を作らず、朱彤や趙整らは彼の創作の巧みさと速さを認めた。腕力を発揮すれば雄々しく、騎射して敵を撃ち貫き、百人分の強さがあった。内外を統括し、刑政は筋道が通り、才能のあるものを昇進させて停滞を是正するさまは、王景略(王猛)と同じであった。とくに裁判を得意とし、姦悪なものは容赦せず、ゆえに苻堅から信任された。
のちに司隸校尉となった。京兆の人である董豊が遊学して三年で帰郷し、途中で妻の家に泊まった。その夜に妻が賊に殺されて、妻の兄は董豊が殺したものと疑い、董豊を担当官に引き渡した。董豊は取り調べに堪えられず、事実に反して妻の殺害を自白した。苻融が吟味してこれを疑い、尋問して、「お前が(遊学を終えて)帰郷するとき、怪異があるので卜筮に占わせた。相違ないか」と言った。董豊は(怪異を肯定し)、「はじめ出発するとき、夜に夢をみて馬に乗って川を南に渡り、引き返して北に渡り直し、また北から南に渡りましたが、馬が川のなかで止まり、鞭で叩いても進みませんでした。俯いて水面を見ると、二つの日(太陽)が川のなかにあり、馬の左側の日は白くて水に濡れ、右側の日は黒くて乾いていました。目が覚めると動悸が激しく、不吉な夢だと思いました。(遊学から)帰る夜、また同じ夢を見ました。これを筮者に質問すると、筮者は、『訴訟に巻き込まれる危険がある、三枕を遠ざけ、三沐を避けよ』と言いました。到着すると、妻は沐浴を準備し、夜に私に枕をくれました。私は筮者の言葉を覚えていたので、沐浴も枕の使用も断りました。妻は自分で沐浴し、枕を使って寝ました」と言った。苻融は、「事情が分かったぞ。『周易』では(八卦の)坎を水とし、馬を離とする。夢で馬に乗って南に渡り、北に引き返してまた南に行ったのは、坎から離への変化を表している。(坎の卦の)三爻がすべて変化すると、離の卦となる。離は中女であり、坎は中男である。二つの日は、二人の男をあらわす。坎は執法の吏を指す。吏がその夫を詰問し、婦人は流血を被って死ぬ。坎は二陰一陽で、離は二陽一陰であるから、影響しあって位相を易(か)えたのだ。離下坎上は、(水火)既済であり、周の文王が牖里に捕らわれた卦で、礼があれば生き、礼がなければ死んだ。(夢で)馬の左(の日が)湿っていたが、湿るとは、水のことで、左に水を右に馬を書くと、馮の字となる。二つの日は、昌の字となる。だから馮昌が董豊を殺すことを表している」と言った。これに基づいて調査し、馮昌を捕らえて尋問した。馮昌はつぶさに自白して、「もとは董豊の妻と結託して(夫の)董豊を殺そうと思い、沐浴したばかりで枕を使っていることを(殺害の標的の)目印としていたので、間違えて婦人を殺しました」と言った。
(苻融が)冀州に赴任したとき、おばあさんが路上でひったくりにあい、声をあげて泥棒と叫んだので、居合わせた人が彼女のために捕まえた。ひったくりを捕らえると、彼はあべこべに居合わせた人こそが泥棒だと言った。このとき日が暮れかけで、おばあさんも周囲の人もどちらが泥棒か分からず、二人まとめて引き渡した。苻融は一見すると笑って、「かんたんに分かる。二人を同時に走らせろ。さきに鳳陽門を出たもの(足が速いほう)が泥棒ではない」と言った。競争をさせてから呼び戻し、苻融は威儀を正して遅れて門を出たもの(足が遅いほう)に、「お前が本当の泥棒だ、どうして虚偽で他人を陥れるのか」と言った。苻融が悪人を摘発する腕前は、この類いであった。当地で盗賊はいなくなり、道路でも落とし物を拾わなくなった。苻堅と朝臣はみな苻融の知恵に感服し、州郡で疑わしい裁判があれば苻融の意見を必ず求めた。苻融は顔色をみて様子を観察し、実情を見抜かないことがなかった。関東に出鎮していたが、朝廷の重要事項は駅馬を飛ばして苻融に相談しないことがなかった。
苻堅は荊州と揚州に関心が向き、このとき慕容垂と姚萇らはつねに苻堅に呉を平定して封禅の儀をしなさいと説いていた。苻堅は江東をすぐにでも平定できると考え、居ても立ってもいられなくなった。苻融はつねに諫めて、「充足を知って恥とせず、制止を知れば危うくない。軍事力を極限まで極め、滅びなかった国はありません。しかもわが国家は、戎狄の出身であり、正朔(天の暦数)は人(の強弱)に従属するものではありません。江東は糸のように細い命運を繋いでおりますが、天命を受けているので、結局は滅ぼすことはできません」と言った。苻堅は、「帝王の暦数に決まった法則があろうか、ただ徳のあるものが天命を受けるだけだ。きみが私より劣るのは、このことを気に病んで(前秦の正統性を信用できず)変化して通達する大いなる運命について理解ができない点である。劉禅は漢から命運を継承しなかったことはないが、最終的に中原の国に併合された。私はきみに天下の大任を授けたいと思う。もはや細かなことで水を差し、大きな計画を阻害することがないように。きみがそんな調子では、万民が(前秦の天命を信頼)できようか」と言った。苻堅が(東晋に)入寇しようとすると、苻融はまた激しく諫め、「陛下は鮮卑や羌虜のへつらいの言葉を真に受け、良家の少年の小賢しい意見を聞き入れました。私は(遠征が)成功しないだけでなく、国家の中枢までもが揺らぐことを恐れます。慕容垂と姚萇はどちらもわが国の仇敵です、風塵の変(戦闘の混乱)を期待し、その機会を利用して彼らの凶徳を発揮しようと狙っています。少年らはみな豊かに甘やかされて育ち、軍事に携わったことがありません。もし彼らがおべっかを使い、陛下の心に適ったとしても、聞くに値しません」と言った。苻堅は聞き入れなかった。淮南で敗北すると、慕容垂と姚萇が謀反し、苻堅の悔恨はいよいよ深まった。

符朗

原文

苻朗字元達、堅之從兄子也。性宏達、神氣爽邁、幼懷遠操、不屑時榮。堅嘗目之曰、「吾家千里駒也」。徵拜鎮東將軍・青州刺史、封樂安男、不得已起而就官。及為方伯、有若素士、耽翫經籍、手不釋卷、每談虛語玄、不覺日之將夕。登涉山水、不知老之將至。在任甚有稱績。
後晉遣1.淮陰太守高素伐青州、朗遣使詣謝玄於彭城求降、玄表朗許之、詔加員外散騎侍郎。既至揚州、風流邁於一時、超然自得、志陵萬物、所與悟言、不過一二人而已。驃騎長史王忱、江東之儁秀、聞而詣之、朗稱疾不見。沙門釋法汰問朗曰、「見王吏部兄弟未」。朗曰、「吏部為誰。非人面而狗心・狗面而人心2.〔兄弟〕者乎」。王忱醜而才慧、國寶美貌而才劣于弟、故朗云然。汰悵然自失。其忤物侮人、皆此類也。
謝安常設讌請之、朝士盈坐、並机褥壺席。朗每事欲誇之、唾則令小兒跪而張口、既唾而含出、頃復如之、坐者以為不及之遠也。又善識味、鹹酢及肉皆別所由。會稽王司馬道子為朗設盛饌、極江左精餚。食訖、問曰、「關中之食孰若此」。答曰、「皆好、惟鹽味小生耳」。既問宰夫、皆如其言。或人殺雞以食之、既進、朗曰、「此雞栖恒半露」。檢之、皆驗。又食鵝肉、知黑白之處。人不信、記而試之、無豪釐之差。時人咸以為知味。
後數年、王國寶譖而殺之。王忱將為荊州刺史、待殺朗而後發。臨刑、志色自若、為詩曰、「四大起何因。聚散無窮已。既過一生中、又入一死理。冥心乘和暢、未覺有終始。如何箕山夫、奄焉處東市。曠此百年期、遠同嵇叔子。命也歸自天、委化任冥紀」。著苻子數十篇行於世、亦老莊之流也。

1.中華書局本の校勘記によると、「淮陰」は、謝玄伝に基づいて「淮陵」に作るのが正しい。
2.中華書局本の校勘記に従い、「兄弟」の二字を補う。

訓読

苻朗 字は元達、堅の從兄の子なり。性は宏達にして、神氣は爽邁、幼くして遠操を懷き、時榮に屑せず。堅 嘗て之を目して曰く、「吾が家の千里の駒なり」と。徵して鎮東將軍・青州刺史を拜し、樂安男に封ぜらるるや、已むを得ずして起ちて官に就く。方伯と為るに及び、素士が若きこと有り、經籍に耽翫し、手に卷を釋かず、每に虛を談じて玄を語り、日の將に夕せんとするを覺えず。山水に登涉し、老の將に至らんとするを知らず。任に在りて甚だ稱績有り。
後に晉 淮陰太守の高素を遣はして青州を伐つに、朗 使を遣はして謝玄に彭城に詣りて降らんことを求め、玄 朗を表して之を許し、詔して員外散騎侍郎を加ふ。既に揚州に至るや、風流は一時に邁たりて、超然として自得し、志は萬物を陵ぎ、與に悟言する所は、一二人のみを過ぎず。驃騎長史の王忱は、江東の儁秀なるに、聞きて之に詣り、朗 疾と稱して見えず。沙門の釋法汰 朗に問ひて曰く、「王吏部の兄弟に見ゆるや未だしや」と。朗曰く、「吏部 誰為るか。人面にして狗心に非ざれば、狗面にして人心なる兄弟か」と。王忱 醜なれども才は慧、國寶は美貌にして才は弟に劣る、故に朗 然かと云ふ。汰 悵然として自失たり。其の物に忤らひ人を侮るは、皆 此の類なり。
謝安 常に讌を設けて之に請ひ、朝士 坐に盈ち、机褥壺席を並ぶ。朗 事ごとに之を誇らんと欲し、唾せば則ち小兒をして跪きて口を張らしめ、既に唾すれば含み出でしめ、頃して復た之が如くす。坐する者 以為へらく之に遠く及ばざるなりと。又 識味を善くし、鹹酢及び肉 皆 由る所を別く。會稽王の司馬道子 朗の為に盛饌を設け、江左の精餚を極む。食べ訖はるや、問ひて曰く、「關中の食 此に孰若れぞ」と。答へて曰く、「皆 好し、惟だ鹽味は小しく生なるのみ」と。既に宰夫に問ふに、皆 其の言が如し。或る人 雞を殺して以て之を食らひ、既に進むに、朗曰く、「此の雞の栖 恒に半露なり」。之を檢むるに、皆 驗たり。又 鵝肉を食らひ、黑白の處を知る。人 信ぜず、記して之を試みるに、豪釐の差すら無し。時人 咸 以て知味と為す。
後數年にして、王國寶 譖りて之を殺す。王忱 將に荊州刺史と為らんとするに、朗を殺すを待ちて後に發す。刑に臨び、志色は自若たりて、詩を為りて曰く、「四大 起きるは何に因るや。聚散して窮已する無し。既に一生の中を過ごし、又 一死の理に入る。冥心 和暢に乘じ、未だ覺らず終始有るを。如何なるや箕山の夫、奄焉として東市に處せらる。此の百年の期に曠く、遠く嵇叔子に同じ。命なるかな歸するに天よりし、委化は冥紀に任す」と。苻子の數十篇を著はして世に行はれ、亦た老莊の流なり。

現代語訳

苻朗は字を元達といい、苻堅の従兄の子である。性格は広く事理に通じ、心持ちは明らかですぐれ、幼くして遠大な操を抱き、その時々の栄誉に拘らなかった。苻堅はかつて彼に視線を向け、「わが家の千里の駒である」と言った。徴召されて鎮東将軍・青州刺史を拝命し、楽安男に封建されると、やむを得ずに官位に就いた。方伯になっても、無位無官の士のようで、経籍に耽溺し、手から書物を離さず、いつも虚を談じて玄を語り、日が傾くことにも気づかなかった。山水を渡り歩き、老いを感じさせなかった。任務にあっては高い成果があった。
のちに東晋が淮陰(正しくは淮陵)太守の高素に青州を討伐させると、苻朗は使者を送って謝玄に彭城に出向いて降服したいと申し入れた。謝玄は上表してこれを許し、詔して符朗に員外散騎侍郎を加えた。揚州に到着すると、風流さは当世において抜群で、超然として自ら楽しみ、志は万物をしのぎ、気安く会話をする相手は、一人か二人だけだった。驃騎長史の王忱は、江東の俊英であったが、評判を聞いて(符朗を)訪問した。苻朗は病気だと言って会わなかった。沙門の釈法汰は符朗に、「王吏部の兄弟にはもう会ったかね」と質問した。苻朗は、「吏部とは誰のことか。かたや人の顔をして犬の心を持ち、かたや犬の顔をして人の心をもった兄弟のことか」と言った。王忱は顔は醜いが聡明であり、(王忱の兄の)王国宝は顔が美しいが才能が弟に劣ったので、符朗はこのように言ったのである。釈法汰は(あまりの物言いに)あきれかえった。彼が万事に反発して他人を侮るのは、みなこの類いであった。
謝安はいつも宴席を設けて(符朗を)招待し、朝廷の士人が座席にあふれても、(符朗に専用の)机や褥と壺や席が並べられた。符朗はいつもこの待遇を誇り、唾を吐くときは小児に跪いて口で受けさせ、吐き終えると(唾を)飲み込ませて退け、しばらくしてまた同じことをくり返した。同席したものは彼には遠く及ばないと思った。また味覚が鋭く、塩みや酸っぱさと肉の味の由来を区別できた。会稽王の司馬道子は符朗のために豪華な食膳をもうけ、江左の美食を極めさせた。食べ終わると、(司馬道子は)「関中の食べ物と比べてどちらが美味いか」と聞いた。答えて、「みな美味いが、ただ塩味がわずかに生だ(混じり気がない、物足りない)」と言った。料理人に確認すると、すべて符朗の言う通りだった。あるひとが鶏を殺してこれを食べてから、差し出したが、符朗は、「この鶏のねぐらはずっと半分が屋外に晒されていた」と言った。確認すると、その通りだった。また鵞鳥の肉を食べると、(毛の色が)黒と白のどちらかを当てた。人は信用せず、記録をして試すと、わずかな誤りもなかった。当時の人々は符朗が味を知り尽くしていると認めた。
数年後に、王国宝が讒言して符朗を殺した。王忱は荊州刺史になったが、符朗の殺害を待ってから出発した。刑に臨み、顔色に動揺はなく、詩を作って、「四大(道・天・地・王)はどこから起こるのか。離合集散して止まり極まることがない。すでに一生のうちを過ごし、さらに一死のことわりに入る。心を潜めた思索は和らぎにより、いまだ極限があることを感じない。どうしたことか箕山の夫(隠者)は、息が塞がって東市で処刑される。この百年間に同じような例がなく、遠い昔の嵇叔子(嵇康)に等しい。天から与えられた運命よ、行きつく先は後世に委ねよう」と言った。『苻子』の数十篇を著わして世に広まり、(思想内容は)また老荘の系統であった。