いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第十五巻_前秦_苻丕・苻登(索泮・徐嵩)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。

苻丕

原文

苻丕字1.永叔、堅之長庶子也。少而聰慧好學、博綜經史。堅與言將略、嘉之、命鄧羌教以兵法。文武才榦亞于苻融、為將善收士卒情、出鎮于鄴、東夏安之。
會幽州刺史王永・平州刺史苻沖頻為垂將平規等所敗、乃遣昌黎太守宋敞焚燒和龍・薊城宮室、率眾三萬進屯壺關、遣使招丕。丕乃去鄴、率男女六萬餘口進如潞川。驃騎張蚝・并州刺史王騰迎之、入據晉陽、始知堅死問、舉哀于晉陽、三軍縞素。王永留苻沖守壺關、率騎一萬會丕、勸稱尊號、丕從之、乃以太元十年僭即皇帝位于晉陽南。立堅行廟、大赦境內、改元曰2.太安。置百官、以張蚝為侍中・司空、封上黨郡公。王永為使持節・侍中・都督中外諸軍事・車騎大將軍・尚書令、進封清河公。王騰為散騎常侍・中軍大將軍・司隸校尉・陽平郡公。苻沖為左光祿大夫・尚書左僕射・西平王。俱石子為衞將軍・濮陽公。楊輔為尚書右僕射・濟陽公。王亮為護軍將軍・彭城公。強益耳・梁暢為侍中、徐義為吏部尚書、並封縣公。自餘封授各有差。
是時安西呂光自西域還師、至于宜禾、堅涼州刺史梁熙謀閉境距之。高昌太守楊翰言于熙曰、「呂光新定西國、兵強氣銳、其鋒不可當也。度其事意、必有異圖。且今關中擾亂、京師存亡未知、自河已西迄于流沙、地方萬里、帶甲十萬、鼎峙之勢實在今日。若光出流沙、其勢難測。高梧谷口、水險之要、宜先守之而奪其水。彼既窮渴、自然投戈。如其以遠不守、伊吾之關亦可距也。若度此二要、雖有子房之策、難為計矣。地有所必爭、真此機也」。熙弗從。美水令犍為張統說熙曰、「主上傾國南討、覆敗而還。慕容垂擅兵河北、泓・沖寇逼京師、丁零雜虜、跋扈關洛、州郡姦豪、所在風扇、王綱弛絕、人懷利己。今呂光回師、將軍何以抗也」。熙曰、「誠深憂之、未知計之所出」。統曰、「光雄果勇毅、明略絕人、今以蕩西域之威、擁歸師之銳、鋒若猛火之盛於原、弗可敵也。將軍世受殊恩、忠誠夙著、立勳王室、宜在于今。行唐公洛、上之從弟、勇冠一時。為將軍計者、莫若奉為盟主、以攝眾望、推忠義以總率羣豪、則光無異心也。資其精銳、東兼毛興、連王統・楊璧、集四州之眾、掃凶逆於諸夏、寧帝室于關中、此桓文之舉也」。熙又不從。殺洛于西海、以子胤為鷹揚將軍、率眾五萬距光于酒泉。敦煌太守姚靜・晉昌太守李純以郡降光。胤及光戰于安彌、為光所敗。武威太守彭濟執熙迎光、光殺之。建威・西郡太守索泮、奮威・督洪池已南諸軍事・酒泉太守宋皓等、並為光所殺。
堅尚書令・魏昌公苻纂自關中來奔、拜太尉、進封東海王。以中山太守王兗為平東將軍・平州刺史・阜城侯、苻定為征東將軍・冀州牧・高城侯、苻紹為鎮東將軍・督冀州諸軍事・重合侯、苻謨為3.(征西)〔征北〕將軍・幽州牧・高邑侯、苻亮為鎮北大將軍・督幽并二州諸軍事、並進爵郡公。定・紹據信都、謨・亮先據常山、慕容垂之圍鄴城也、並降于垂、聞丕稱尊號、遣使謝罪。王兗固守博陵、與垂相持。左將軍竇衝・秦州刺史王統・河州刺史毛興・益州刺史王廣・南秦州刺史楊璧・衞將軍楊定、並據隴右、遣使招丕、請討姚萇。丕大悅、以定為驃騎大將軍・雍州牧、衝為征西大將軍・梁州牧、統鎮西大將軍、興車騎大將軍、璧征南大將軍、並開府儀同三司、加散騎常侍、廣安西將軍、皆進位州牧。

1.苻丕の字は史料によっては、「永敘」に作られる。
2.年号の「太安」は、史料によっては「太平」あるいは「大安」に作る。
3.中華書局本の校勘記に従い、「征西」を「征北」に改める。

訓読

苻丕は字を永叔、堅の長庶子なり。少くして聰慧にして學を好み、經史を博綜す。堅 與に將略を言ふに、之を嘉し、鄧羌に命じて教ふるに兵法を以てせしむ。文武の才榦 苻融に亞ぎ、將と為して善く士卒の情を收め、出でて鄴に鎮するや、東夏 之を安んず。
會々幽州刺史の王永・平州刺史の苻沖 頻りに垂が將の平規らの敗る所と為り、乃ち昌黎太守の宋敞を遣はして和龍・薊城の宮室を焚燒し、眾三萬を率ゐて進みて壺關に屯し、使を遣りて丕を招く。丕 乃ち鄴を去り、男女六萬餘口を率ゐて進みて潞川に如く。驃騎の張蚝・并州刺史の王騰 之を迎へ、入りて晉陽に據り、始めて堅の死問を知り、哀を晉陽に舉げ、三軍 縞素す。王永 苻沖を留めて壺關を守らしめ、騎一萬を率ゐて丕に會し、尊號を稱せんことを勸め、丕 之に從ふ。乃ち太元十年を以て僭して皇帝の位に晉陽の南に即く。堅の行廟を立て、境內を大赦し、改元して太安と曰ふ。百官を置き、張蚝を以て侍中・司空と為し、上黨郡公に封ず。王永もて使持節・侍中・都督中外諸軍事・車騎大將軍・尚書令と為し、封を清河公に進む。王騰もて散騎常侍・中軍大將軍・司隸校尉・陽平郡公と為す。苻沖もて左光祿大夫・尚書左僕射・西平王と為す。俱石子もて衞將軍・濮陽公と為す。楊輔もて尚書右僕射・濟陽公と為す。王亮もて護軍將軍・彭城公と為す。強益耳・梁暢もて侍中と為し、徐義もて吏部尚書と為し、並びに縣公に封ず。自餘の封授は各々差有り。
是の時 安西の呂光 西域より師を還し、宜禾に至るに、堅の涼州刺史の梁熙 謀りて境を閉じて之を距む。高昌太守の楊翰 熙に言ひて曰く、「呂光 新たに西國を定め、兵は強く氣は銳く、其の鋒 當たる可からず。其の事意を度するに、必ず異圖有らん。且つ今 關中は擾亂し、京師の存亡 未だ知らず。河より已西 流沙に迄るまで、地方は萬里、帶甲は十萬にして、鼎峙の勢 實に今日に在り。若し光 流沙を出づれば、其の勢 測り難し。高梧谷口は、水險の要なり、宜しく先んじて之を守りて其の水を奪ふべし。彼 既に窮渴せば、自然に戈を投ぜん。如し其れ遠きを以て守らざれば、伊吾の關も亦た距す可し。若し此の二要を度すれば、子房の策有りと雖も、計を為し難し。地には必爭する所有り、真に此の機なり」と。熙 從はず。美水令たる犍為の張統 熙に說きて曰く、「主上 國を傾けて南討し、覆敗して還る。慕容垂は兵を河北に擅にし、泓・沖は京師に寇逼す。丁零の雜虜は、關洛に跋扈し、州郡の姦豪は、所在は風扇なり。王綱 弛絕し、人 利己を懷く。今 呂光 師を回す、將軍 何を以て抗ふや」と。熙曰く、「誠に深く之を憂ふに、未だ計の出づる所を知らず」と。統曰く、「光 雄果勇毅にして、明略は絕人なり。今 西域を蕩するの威、歸師の銳を擁するを以て、鋒は猛火の原に盛なるが若し。敵す可からざるなり。將軍 世々殊恩を受け、忠誠 夙に著はる。勳を王室に立つるは、宜しく今に在るべし。行唐公の洛は、上の從弟にして、勇は一時に冠す。將軍の為に計らば、奉りて盟主と為し、以て眾望に攝するに若くは莫し。忠義を推すに羣豪を總率するを以てすれば、則ち光 異心無からん。其の精銳を資とし、東は毛興を兼せ、王統・楊璧に連なり、四州の眾を集め、凶逆を諸夏に掃し、帝室を關中に寧するは、此れ桓文の舉なり」と。熙 又 從はず。洛を西海に殺し、子の胤を以て鷹揚將軍と為し、眾五萬を率ゐて光を酒泉に距む。敦煌太守の姚靜・晉昌太守の李純 郡を以て光に降る。胤及び光 安彌に戰ひ、光の敗る所と為る。武威太守の彭濟 熙を執へて光を迎へ、光 之を殺す。建威・西郡太守の索泮、奮威・督洪池已南諸軍事・酒泉太守の宋皓ら、並びに光の殺す所と為る。
堅の尚書令・魏昌公の苻纂 關中より來奔し、太尉を拜し、封を東海王に進む。中山太守の王兗を以て平東將軍・平州刺史・阜城侯と為し、苻定もて征東將軍・冀州牧・高城侯と為し、苻紹もて鎮東將軍・督冀州諸軍事・重合侯と為し、苻謨もて征北將軍・幽州牧・高邑侯と為し、苻亮もて鎮北大將軍・督幽并二州諸軍事と為し、並びに爵を郡公に進む。定・紹は信都に據り、謨・亮は先に常山に據り、慕容垂の鄴城を圍むや、並びに垂に降り、丕 尊號を稱するを聞きて、使を遣はして謝罪す。王兗 博陵を固守し、垂と相 持す。左將軍の竇衝・秦州刺史の王統・河州刺史の毛興・益州刺史の王廣・南秦州刺史の楊璧・衞將軍の楊定、並びに隴右に據り、使を遣はして丕を招き、姚萇を討たんことを請ふ。丕 大いに悅び、定を以て驃騎大將軍・雍州牧と為し、衝もて征西大將軍・梁州牧と為し、統を鎮西大將軍、興を車騎大將軍、璧を征南大將軍とし、並びに開府儀同三司とし、散騎常侍を加ふ。廣もて安西將軍とし、皆 位を州牧に進む。

現代語訳

苻丕は字を永叔(または永叙)といい、苻堅の長庶子である。若くして聡明で学問を好み、経書や史書を広く兼修した。苻堅は将略を語りあい、苻丕には見所があると考えて、鄧羌に命じて兵法を教育させた。文武の才能が苻融に次ぎ、将として士卒の情を把握し、鄴に出鎮すると、東夏は安定した。
このとき幽州刺史の王永と平州刺史の苻沖は慕容垂の将の平規らに連戦連敗していた。昌黎太守の宋敞を派遣して和龍と薊城の宮室を焼き払い、兵三万を率いて進んで壺関に駐屯し、使者を送って苻丕を招いた。これを受けて苻丕は鄴を去り、男女六万口あまりを率いて進んで潞川に向かった。驃騎の張蚝と并州刺史の王騰がこれを迎え、晋陽に入って拠点とした。はじめて苻堅の訃報を知り、晋陽で哀悼を挙げ、三軍は白衣をつけた。王永は苻沖を留めて壺関を守らせ、騎一万を率いて苻丕に合流し、尊号を称することを勧め、苻丕はこれに従った。太元十年をもって皇帝を僭称して晋陽の南で即位した。苻堅の行廟を立て、領内を大赦し、改元して太安とした。百官を置き、張蚝を侍中・司空とし、上党郡公に封建した。王永を使持節・侍中・都督中外諸軍事・車騎大将軍・尚書令とし、封号を清河公に進めた。王騰を散騎常侍・中軍大将軍・司隸校尉・陽平郡公とした。苻沖を左光禄大夫・尚書左僕射・西平王とした。俱石子を衛将軍・濮陽公とした。楊輔を尚書右僕射・済陽公とした。王亮を護軍将軍・彭城公とした。強益耳と梁暢を侍中とし、徐義を吏部尚書とし、並びに県公に封建した。それ以下の封授は差等があった。
このとき安西将軍の呂光が西域から兵を帰還させ、宜禾に到着したが、苻堅の涼州刺史の梁熙が謀って(呂光を)関所から閉め出した。高昌太守の楊翰は梁熙に、「呂光は西域を平定したばかりで、軍は強く士気は鋭く、戦っても勝てません。呂光の意向を推察するに、きっと(前秦を裏切る)野心があります。しかも現在は関中が騒ぎ乱れ、京師の存亡が分かりません。黄河より以西の流沙に至るまで、土地は一万里四方、兵員は十万がおり、今日は(前秦・東晋・呂光の)鼎立の形勢が生じています。もし呂光が流沙から出発すれば、情勢は予測不能となります。高梧谷口は、河川の要地なので、先んじてここを守り彼らの水源を奪うべきです。水不足で窮すれば、(呂光は)おのずと戈を投げ捨てるでしょう。もしも高梧谷口が遠くて確保しづらいならば、伊吾の関も抑えるべき地点です。この二箇所を抑えれば、子房(張良)の策謀があっても、計略を出せません。戦いには必争の地というものがあり、今こそ両地点を抑えるべき時機です」と言った。梁熙は従わなかった。 美水令である犍為の張統は梁熙に説いて、「主上(苻堅)は国を傾けて南方(東晋)を征伐しましたが、軍が転覆し敗れて帰還しました。慕容垂の軍が河北を制圧し、慕容泓と慕容沖は京師で逼迫しています。丁零の諸民族は、関中や洛陽で跋扈し、州郡の豪族らは、各地で強者に靡いています。王の秩序が緩んで廃れ、人々は利得を追求しています。いま呂光の軍が帰還すれば、将軍は防ぎ止められましょうか」と言った。梁熙は、「ひどく脅威に思っているが、計略が思い付かない」と言った。張統は、「呂光は勇猛で果敢、計略も抜群です。いま西域を平定した威信があり、故郷に帰る精鋭を擁しているので、勢いは草原に燃え広がる火のように盛んです。戦っても勝てません。将軍は代々(前秦から)格別の恩を受け、かねて忠誠ぶりが顕著です。勲功を王室のために立てるのは、まさに今日であります。行唐公の苻洛は、主上の従弟であり、勇猛さは当世に随一です。将軍のために計略を練りますに、苻洛を奉って盟主とし、人々の支持を集めるのが良いでしょう。忠義を押し出して諸勢力を統合すれば、呂光は反逆の心を持たないでしょう。呂光の精鋭を味方につけ、東は毛興をあわせ、王統と楊璧に連なり、四州の軍を集め、凶逆なものを中原で掃討し、帝室を関中で安定させることが、桓公や文公の類いの行動です」と言った。梁熙はこれにも従わなかった。苻洛を西海で殺し、子の苻胤を鷹揚将軍とし、五万の兵を率いて呂光に酒泉で対抗した。敦煌太守の姚静と晋昌太守の李純が郡をあげて呂光に降った。苻胤と呂光は安弥で戦い、呂光に敗れた。武威太守の彭済が梁熙を捕らえて呂光を迎え入れたが、呂光は彭済を殺した。建威・西郡太守の索泮と、奮威・督洪池已南諸軍事・酒泉太守の宋皓らは、みな呂光に殺された。
苻堅の尚書令・魏昌公の苻纂が関中から逃げてきて、太尉を拝し、封号を東海王に進めた。中山太守の王兗を平東将軍・平州刺史・阜城侯とし、苻定を征東将軍・冀州牧・高城侯とし、苻紹を鎮東将軍・督冀州諸軍事・重合侯とし、苻謨を征北将軍・幽州牧・高邑侯とし、苻亮を鎮北大将軍・督幽并二州諸軍事とし、みなの爵位を郡公に進めた。苻定と苻紹は信都に拠り、苻謨と苻亮は先に常山に拠ったが、慕容垂が鄴城を囲むと、いずれも慕容垂に降り、苻丕が尊号を称したと聞いて、使者を送って謝罪した。王兗は博陵を堅守し、慕容垂と対峙した。左将軍の竇衝と秦州刺史の王統と河州刺史の毛興と益州刺史の王広と南秦州刺史の楊璧と衛将軍の楊定は、みな隴右に拠り、使者を送って苻堅を招いて、姚萇を討伐したいと告げた。苻丕は大いに悦び、楊定を驃騎大将軍・雍州牧とし、竇衝を征西大将軍・梁州牧とし、王統を鎮西大将軍とし、毛興を車騎大将軍とし、楊璧を征南大将軍とし、並びに開府儀同三司とし、散騎常侍を加えた。王広を安西將軍とし、みな官位を州牧に進めた。

原文

於是王永宣檄州郡曰、「大行皇帝棄背萬國、四海無主。征東大將軍・長樂公、先帝元子、聖武自天、受命荊南、威振衡海、分陝東都、道被夷夏、仁澤光于宇宙、德聲侔于下武。永與司空蚝等謹順天人之望、以季秋吉辰奉公紹承大統、銜哀即事、栖谷總戎、枕戈待旦、志雪大恥。慕容垂為封豕于關東、泓・沖繼凶于京邑、致乘輿播越、宗社淪傾。羌賊姚萇、我之牧士、乘釁滔天、親行大逆、有生之巨賊也。永累葉受恩、世荷將相、不與驪山之戎・滎澤之狄共戴皇天、同履厚土。諸牧伯公侯或宛・沛宗臣、或四七勳舊、豈忍捨破國之醜豎、縱殺君之逆賊乎。主上飛龍九五、實協天心、靈祥休瑞、史不輟書、投戈效義之士三十餘萬、少康・光武之功可旬朔而成。今以衞將軍俱石子為前軍師、司空張蚝為中軍都督。武將猛士、風烈雷震、志殄元兇、義無他顧。永謹奉乘輿、恭行天罰。君臣終始之義、在三忘軀之誠、勠力同之、以建晉鄭之美」。
先是、慕容驎攻王兗于博陵、至是糧竭矢盡、郡功曹張猗踰城聚眾應驎。兗臨城數之曰、「卿、秦之人也。吾、卿之君也。起眾應賊、號稱義兵、何名實相違之甚。卿兄往合鄉宗、親逐城主、天地不容、為世大戮。身滅未幾、卿復續之。卿見為吾吏、親尋干戈、競為戎首、為爾君者、不亦難乎。今人1.(何)〔可〕取卿一切之功、寧能忘卿不忠不孝之事。古人有云、求忠臣必出孝子之門、卿母在城、不能顧之、何忠義之可望。惡不絕世、卿之謂也。不圖中州禮義之邦、而卿門風若斯。卿去老母如脫屣、吾復何論哉」。既而城陷、兗及固安侯苻鑒並為驎所殺。
丕復以王永為司徒・錄尚書事、徐義為尚書令、加右光祿大夫。
初、王廣還自成都也、奔其兄秦州刺史統。及長安不守、廣攻河州牧毛興于枹罕。興遣建節將軍・臨清伯衞平率其宗人千七百夜襲廣軍、大敗之。王統復遣兵助廣、興於是嬰城固守。既而襲王廣、敗之、廣亡奔秦州、為隴西鮮卑匹蘭所執、送詣姚萇。興既敗王廣、謀伐王統、平上邽。枹罕諸氐皆窘於兵革而疲不堪命、乃殺興、推衞平為使持節・安西將軍・河州刺史、遣使請命。
刁雲殺慕容忠、乃推慕容永為使持節・大都督中外諸軍事・大將軍・大單于・雍秦梁涼四州牧・錄尚書事・河東王、稱藩于垂。征東苻定・鎮東苻紹・征北苻謨・鎮北苻亮皆降于慕容垂。
丕又進王永為左丞相、苻纂為大司馬、張蚝為太尉、王騰為驃騎大將軍・儀同三司、徐義為司空、苻沖為車騎大將軍・尚書令・儀同三司、俱石子為衞大將軍・尚書左僕射、領官皆如故。永又檄州郡曰、「昔夏有窮夷之難、少康起焉。王莽毒殺平帝、世祖重光漢道。百六之運、何代無之。天降喪亂、羌胡猾夏、先帝晏駕賊庭、京師鞠為戎穴、神州蕭條、生靈塗炭。天未亡秦、社稷有奉。主上聖德恢弘、道侔光武、所在宅心、天人歸屬、必當隆中興之功、復配天之美。姚萇殘虐、慕容垂凶暴、所過滅戶夷煙、毀發丘墓、毒徧存亡、痛纏幽顯、雖黃巾之害于九州、赤眉之暴于四海、方之未為甚也。今素秋將及、行師令辰、公侯牧守、壘主鄉豪、或勠力國家、乃心王室、各率所統、以孟冬上旬會大駕于臨晉」。於是天水姜延・馮翊寇明・河東王昭・新平張晏・京兆杜敏・扶風馬郎・建忠高平牧官都尉王敏等咸承檄起兵、各有眾數萬、遣使應丕。皆就拜將軍・郡守、封列侯。冠軍鄧景擁眾五千據彭池、與竇衝為首尾、擊萇平涼太守金熙。安定北部都尉鮮卑沒奕于率鄯善王胡員吒・護羌中郎將梁苟奴等、與萇左將軍姚方成・鎮遠強京戰于孫丘谷、大敗之。 枹罕諸氐以衞平年老、不可以成事業、議廢之、而憚其宗強、連日不決。氐有啖青者、謂諸將曰、「大事宜定、東討姚萇、不可沈吟猶豫。一旦事發、反為人害。諸軍但請衞公會集眾將、青為諸軍決之」。眾以為然。於是大饗諸將、青抽劍而前曰、「今天下大亂、豺狼塞路、吾曹今日可謂休戚是同、非賢明之主莫可濟艱難也。衞公朽耄、不足以成大事、宜反初服、以避賢路。狄道長苻登雖王室疏屬、而志略雄明、請共立之、以赴大駕。諸君若有不同者、便下異議」。乃奮劍攘袂、將斬貳己者、眾皆從之、莫敢仰視。於是推登為帥、遣使于丕請命。丕以登為征西大將軍・開府儀同三司・南安王・持節及州郡督、因其所稱而授之。又以徐義為右丞相。
丕留王騰守晉陽、楊輔戍壺關、率眾四萬進據平陽。王統以秦州降姚萇。慕容永以丕至平陽、恐不自固、乃遣使求假道還東、丕弗許。遣王永及苻纂攻之。以俱石子為前鋒都督、與慕容永戰于襄陵。王永大敗、永及石子皆死之。
初、苻纂之奔丕也、部下壯士三千餘人、丕猜而忌之。及永之敗、懼為纂所殺、率騎數千南奔東垣。晉揚威將軍馮該自陝要擊、敗之、斬丕首、執其太子寧・長樂王壽、送于京師、朝廷赦而不誅、歸之于苻宏。徐義為慕容永所獲、械埋其足、將殺之。義誦觀世音經、至夜中、土開械脫、於重禁之中若有人導之者、遂奔楊佺期、佺期以為洛陽令。苻纂及弟師奴率丕餘眾數萬、奔據杏城。苻登稱尊號、偽諡丕為哀平皇帝。丕之臣佐皆沒慕容永、永乃進據上黨之長子、僭稱大號、改元曰中興。丕在位二年而敗。

1.中華書局本の校勘記に従い、「何」を「可」に改める。

訓読

是に於て王永 檄を州郡に宣して曰く、「大行皇帝 萬國を棄背し、四海 主無し。征東大將軍・長樂公は、先帝の元子にして、聖武は天よりし、命を荊南に受け、威は衡海に振ひ、東都に分陝として、道は夷夏を被ひ、仁澤は宇宙に光き、德聲は下武に侔し。永 司空の蚝らと與に謹みて天人の望に順ひ、季秋の吉辰を以て公を奉じて大統を紹承し、哀を銜み事に即き、谷に栖み戎を總べ、戈に枕し旦を待ち、大恥を雪がんことを志す。慕容垂 封豕を關東に為し、泓・沖 凶を京邑に繼ぎ、乘輿 播越し、宗社 淪傾するに致る。羌賊の姚萇、我の牧士なるに、釁に乘じて滔天し、親ら大逆を行ひ、有生の巨賊なり。永 累葉に恩を受け、世々將相を荷ふに、驪山の戎・滎澤の狄を與にして共に皇天を戴き、同に厚土を履まず。諸々の牧伯公侯 或ものは宛・沛の宗臣、或ものは四七の勳舊なるに、豈に國を破るの醜豎を捨て、君を殺すの逆賊を縱にするに忍びんや。主上 飛龍九五、實に天心に協ひ、靈祥休瑞、史は書を輟さず、戈を投じ義に效ふの士 三十餘萬あり、少康・光武の功すら旬朔にして成る可きか。今 衞將軍の俱石子を以て前軍師と為し、司空の張蚝もて中軍都督と為す。武將猛士、風烈雷震、志は元兇を殄し、義は他顧する無し。永 謹みて乘輿を奉じ、恭みて天罰を行はん。君臣 終始の義、在三忘軀の誠、力を勠して之を同にし、以て晉鄭の美を建てん」と。
是より先、慕容驎 王兗を博陵に攻め、是に至り糧は竭き矢は盡き、郡の功曹の張猗 城を踰えて眾を聚めて驎に應ず。兗 城に臨みて之を數めて曰く、「卿は、秦の人なり。吾は、卿の君なり。眾を起こして賊に應じ、號して義兵と稱す、何ぞ名實の相 違ふことの甚しきや。卿の兄 往に鄉宗を合はせ、親ら城主を逐ふ。天地 容れず、世の大戮と為る。身 滅びて未だ幾もなく、卿 復た之に續く。卿 見るに吾が吏と為るに、親しく干戈を尋ね、競ひて戎首と為る。爾の君と為るは、亦た難からざらん。今 人 卿の一切の功を取る可けれども、寧ろ能く卿の不忠不孝の事を忘れんか。古人 云ふ有り、忠臣を求むれば必ず孝子の門より出すと。卿の母 城に在り、之を顧る能はず、何なる忠義 之れ望む可きか。惡は世に絕えずとは、卿の謂ひなり。圖らざりし中州は禮義の邦、而れども卿の門風 斯の若し。卿 老母を去ること屣を脫するが如し、吾 復た何をか論ぜんや」と。既にして城 陷ち、兗及び固安侯の苻鑒 並びに驎の殺す所と為る。
丕 復た王永を以て司徒・錄尚書事と為し、徐義もて尚書令と為し、右光祿大夫を加ふ。
初め、王廣 成都より還るや、其の兄の秦州刺史統に奔る。長安 守らざるに及び、廣 河州牧の毛興を枹罕に攻む。興 建節將軍・臨清伯の衞平を遣はして其の宗人千七百を率ゐて廣の軍を夜襲し、大いに之を敗る。王統 復た兵を遣はして廣を助け、興 是に於て嬰城し固守す。既にして王廣を襲ひ、之を敗り、廣 秦州に亡奔し、隴西の鮮卑の匹蘭の執ふる所と為り、送られて姚萇に詣る。興 既に王廣を敗り、王統を伐たんと謀り、上邽を平らぐ。枹罕の諸氐 皆 兵革に窘し疲れて命に堪えず、乃ち興を殺し、衞平を推して使持節・安西將軍・河州刺史と為し、使を遣はして命を請ふ。
刁雲 慕容忠を殺し、乃ち慕容永を推して使持節・大都督中外諸軍事・大將軍・大單于・雍秦梁涼四州牧・錄尚書事・河東王と為し、藩を垂に稱す。征東の苻定・鎮東の苻紹・征北の苻謨・鎮北の苻亮 皆 慕容垂に降る。
丕 又 王永を進めて左丞相と為し、苻纂もて大司馬と為し、張蚝もて太尉と為し、王騰もて驃騎大將軍・儀同三司と為し、徐義もて司空と為し、苻沖もて車騎大將軍・尚書令・儀同三司と為し、俱石子もて衞大將軍・尚書左僕射と為し、官を領すること皆 故の如し。永 又 州郡に檄して曰く、「昔 夏に窮夷の難有り、少康 焉に起つ。王莽 平帝を毒殺するや、世祖 漢道に光を重ぬ。百六の運、何代に之れ無きか。天 喪亂を降し、羌胡 夏を猾し、先帝 賊庭に晏駕し、京師 鞠(きは)まりて戎穴と為り、神州 蕭條として、生靈 塗炭たり。天 未だ秦を亡ぼさず、社稷 奉ずる有り。主上の聖德 恢弘にして、道は光武に侔しく、所在は心を宅(お)き、天人 歸屬す。必ず當に中興の功を隆し、配天の美を復すべし。姚萇 殘虐なり、慕容垂 凶暴なり、過ぐる所は戶を滅し煙を夷し、丘墓を毀發し、毒は存亡に徧し、痛は幽顯を纏ひ、黃巾の九州を害す。赤眉の四海を暴すと雖も、之を方ぶるに未だ甚と為さざるなり。今 素秋 將に及ばんとし、師を行ふの令辰なり。公侯牧守、壘主鄉豪、或いは力を國家に勠し、乃ち王室に心し、各々統ぶる所を率ゐ、孟冬の上旬を以て大駕に臨晉に會せ」と。是に於て天水の姜延・馮翊の寇明・河東の王昭・新平の張晏・京兆の杜敏・扶風の馬郎・建忠高平牧官都尉の王敏ら咸 檄を承けて起兵し、各々眾數萬有り、使を遣はして丕に應ず。皆 將軍・郡守を就拜し、列侯に封ぜらる。冠軍の鄧景 眾五千を擁して彭池に據り、竇衝と首尾と為り、萇の平涼太守の金熙を擊つ。安定北部都尉の鮮卑の沒奕于 鄯善王の胡員吒・護羌中郎將の梁苟奴らを率ゐて、萇の左將軍の姚方成・鎮遠の強京と孫丘谷に戰ひ、大いに之を敗る。
丕 又 王永を進めて左丞相と為し、苻纂もて大司馬と為し、張蚝もて太尉と為し、王騰もて驃騎大將軍・儀同三司と為し、徐義もて司空と為し、苻沖もて車騎大將軍・尚書令・儀同三司と為し、俱石子もて衞大將軍・尚書左僕射と為し、官を領すること皆 故の如し。永 又 州郡に檄して曰く、「昔 夏に窮夷の難有り、少康 焉に起つ。王莽 平帝を毒殺するや、世祖 漢道に光を重ぬ。百六の運、何代に之れ無きか。天 喪亂を降し、羌胡 夏を猾し、先帝 賊庭に晏駕し、京師 鞠(きは)まりて戎穴と為り、神州 蕭條として、生靈 塗炭たり。天 未だ秦を亡ぼさず、社稷 奉ずる有り。主上の聖德 恢弘にして、道は光武に侔しく、所在は心を宅(お)き、天人 歸屬す。必ず當に中興の功を隆し、配天の美を復すべし。姚萇 殘虐なり、慕容垂 凶暴なり、過ぐる所は戶を滅し煙を夷し、丘墓を毀發し、毒は存亡に徧し、痛は幽顯を纏す。黃巾の九州を害し、赤眉の四海を暴すと雖も、之を方ぶるに未だ甚と為さざるなり。今 素秋 將に及ばんとし、師を行ふの令辰なり。公侯牧守、壘主鄉豪、或いは力を國家に勠し、乃ち王室に心し、各々統ぶる所を率ゐ、孟冬の上旬を以て大駕に臨晉に會せ」と。是に於て天水の姜延・馮翊の寇明・河東の王昭・新平の張晏・京兆の杜敏・扶風の馬郎・建忠高平牧官都尉の王敏ら咸 檄を承けて起兵し、各々眾數萬有り、使を遣はして丕に應ず。皆 將軍・郡守を就拜し、列侯に封ぜらる。冠軍の鄧景 眾五千を擁して彭池に據り、竇衝と首尾と為り、萇の平涼太守の金熙を擊つ。安定北部都尉の鮮卑の沒奕于 鄯善王の胡員吒・護羌中郎將の梁苟奴らを率ゐて、萇の左將軍の姚方成・鎮遠の強京と孫丘谷に戰ひ、大いに之を敗る。
枹罕の諸氐 衞平の年老なるを以て、以て事業を成す可からざれば、之を廢するを議し、而れども其の宗 強なるを憚かり、連日に決せず。氐の啖青といふ者有り、諸將に謂ひて曰く、「大事 宜しく定むべし、東のかた姚萇を討ち、沈吟し猶豫し可からず。一旦 事 發さば、反りて人の害と為らん。諸軍 但だ衞公に請ひて眾將を會集し、青 諸軍の為に之を決せよ」と。眾 以て然りと為す。是に於て大いに諸將を饗し、青 劍を抽きて前みて曰く、「今 天下 大いに亂れ、豺狼 路を塞ぐ。吾曹は今日 休戚 是れ同じと謂ふ可し、賢明の主に非ざれば艱難を濟ふ可きこと莫きなり。衞公 朽耄にして、以て大事を成すに足らず。宜しく初服を反し、以て賢路を避くべし。狄道長の苻登 王室の疏屬と雖も、而れども志略 雄明なれば、共に之を立て、以て大駕に赴かんことを請ふ。諸君 若し同じからざる者有らば、便ち異議を下せ」と。乃ち劍を奮ひて袂を攘し、將に己に貳ある者を斬らんとし、眾 皆 之に從ひ、敢て仰視する莫し。是に於て登を推して帥と為し、使を遣はして丕に命を請ふ。丕 登を以て征西大將軍・開府儀同三司・南安王・持節及び州郡督と為して、其の稱する所に因りて之を授く。又 徐義を以て右丞相と為す。
丕 王騰を留めて晉陽を守らしめ、楊輔をして壺關を戍らしめ、眾四萬を率ゐて進みて平陽に據る。王統 秦州を以て姚萇に降る。慕容永 丕の平陽に至るを以て、恐れて自ら固めず、乃ち使を遣はして道を假りて東に還らんことを求むれども、丕 許さず。王永及び苻纂を遣はして之を攻めしむ。俱石子を以て前鋒都督と為し、慕容永と襄陵に戰ふ。王永 大いに敗れ、永及び石子 皆 之に死す。
初め、苻纂の丕に奔るや、壯士三千餘人を部下すれば、丕 猜して之を忌む。永の敗るるに及び、纂の殺す所と為るを懼れ、騎數千を率ゐて南して東垣に奔る。晉の揚威將軍の馮該 陝より要擊し、之を敗り、丕の首を斬り、其の太子寧・長樂王壽を執らへ、京師に送る。朝廷 赦して誅せず、之を苻宏に歸せしむ。徐義 慕容永の獲ふる所と為り、械もて其の足を埋め、將に之を殺さんとす。義 觀世音經を誦するに、夜中に至り、土 開きて械 脫し、重禁の中に於て人の之を導く者有るが若く、遂に楊佺期に奔り、佺期 以て洛陽令と為す。苻纂及び弟の師奴 丕の餘眾數萬を率ゐ、奔りて杏城に據る。苻登 尊號を稱するや、偽りて丕に諡して哀平皇帝と為す。丕の臣佐 皆 慕容永に沒す。永 乃ち進みて上黨の長子に據りて、大號を僭稱し、改元して中興と曰ふ。丕 在位二年にして敗る。

現代語訳

ここにおいて王永は檄を州郡に広げて、「大行皇帝(苻堅)は万国をお棄てになり(崩御し)、四海には皇帝がいない。征東大将軍・長楽公(苻丕)は、先帝の元子(嫡子)であり、聖なる武を天から授かり、命令を荊南で受け、威勢が衡海に達し、東の都を分割統治しているが、道義が胡漢をおおい、仁沢は宇宙に輝き、徳声は(周の武王が文王を継いだことを歌った)『詩経』下武に等しい。この王永は司空の毛蚝らとともに謹んで天と人の望みに従い、晩秋の吉日に長楽公を奉じて大統を継がせ、哀悼して即位し、谷に駐屯して軍を統率し、戈を枕にして朝を待ち、大恥を雪ぐことを志そう。慕容垂は関東で豚のように貪り、慕容泓と慕容沖は京邑で凶逆を重ね、天子の乗輿は移りゆき、宗廟が傾覆するに至った。羌賊の姚萇は、わが国の地方官であるが、隙に乗じてはびこり、自ら大逆を行い、人民の巨賊となった。わたくしは累世に恩を受け、将軍や宰相を務めてきたが、(周の幽王が殺された)驪山や(衛の懿公が戦死した)滎沢のような異民族との戦いに参加してともに皇天を戴き、天子の戦場に居合わせることがなかった。諸々の牧伯や公侯は(後漢の)宛や沛の宗臣や、四七の勲旧(雲台二十八将)にあたるが、国を破った醜い反逆者を野放しにし、君主を殺害した逆賊を自由にしておくことに耐えられようか。主上は飛龍のごとき皇帝で、まことに天の心に合致し、神秘的な瑞祥は、記録に書き切れず、戈を投じて義に向かう士が三十万以上いる。(夏王朝の)少康や(後漢の)光武帝の軍功ですら十日で完成したであろうか。いま衛将軍の俱石子を前軍師とし、司空の張蚝を中軍都督とする。強い将軍や勇猛な兵士は、強風と雷鳴のようであり、元凶を滅ぼすことを志し、義は迷うことがない。謹んで乗輿を奉じ、恭んで天罰を実行しよう。君臣の関係は不変であり、君と父と師の恩に報いる身を顧みない誠意で、全霊で協力し、(周の再建を助けた)晋や鄭のような美事を打ち立てよう」と言った。
これより先、慕容驎が王兗を博陵で攻撃していたが、ここに至って食糧と矢が底をつき、郡の功曹の張猗が城壁を越えて兵を集めて慕容驎に呼応した。王兗は城壁に臨んでかれを咎め、「きみは、秦の人だ。私は、きみの上官だ。兵を起こして賊に呼応し、義兵を自称しているが、名目と実態がなんと乖離していることか。きみの兄はかつて郷里の宗族を集め、自ら城主を追い出した。天地の間に居場所がなく、当時は皆殺しにされた。兄の一族が滅んで間もないのに、きみも兄の行動に続いた。きみは私の部下なのに、自ら武器を手にして、競って反乱軍を作った。きみの上官でいることは、なんと困難なことか。いま人々はきみの一時の功績を認めるだろうが、不忠や不孝を忘れないだろう。古人は(『孝経緯』で)、忠臣を求めるなら孝子の門から出すと言った。きみは母が城内にいるのに、顧みることがなく、(不孝者に)いかなる忠義を望めるだろう。悪事は世から消えないというが、きみのことである。まさか中原は礼義をわきまえた地域であるのに、きみの一族は裏切りに満ちている。きみは草履を脱ぐように老母を捨てた、もう論じるべきことはない」と言った。やがて城が陥落し、王兗及び固安侯の苻鑒はどちらも慕容驎に殺された。
苻丕はまた王永を司徒・録尚書事とし、徐義を尚書令とし、右光禄大夫を加えた。
これよりさき、王広が成都から帰還すると、その兄の秦州刺史の王統を頼った。長安を守り切れなくなると、河州牧の毛興を枹罕で攻撃した。毛興は建節将軍・臨清伯の衛平を派遣してその宗人千七百を率いて王広の軍を夜襲し、大いにこれを破った。王統はまた兵を派遣して王広を助けたので、毛興は籠城して固守した。やがて毛興が王広を襲って、これを破ると、王広は秦州に逃げ込んだが、隴西の鮮卑の匹蘭に捕らえられ、姚萇のもとに送られた。毛興は王広を破ってから、王統の討伐を計画し、上邽を平定した。枹罕の諸氐はみな軍役に疲弊して命令に耐えられないので、毛興を殺し、衛平を推戴して使持節・安西将軍・河州刺史とし、使者を送って王命を求めた。
刁雲は慕容忠を殺し、慕容永を推戴して使持節・大都督中外諸軍事・大将軍・大単于・雍秦梁涼四州牧・録尚書事・河東王とし、慕容垂の藩屏を称した。征東の苻定・鎮東の苻紹・征北の苻謨・鎮北の苻亮はみな慕容垂に降った。
苻丕はまた王永を左丞相に昇進させ、苻纂を大司馬とし、張蚝を太尉とし、王騰を驃騎大将軍・儀同三司とし、徐義を司空とし、苻沖を車騎大将軍・尚書令・儀同三司とし、俱石子を衛大将軍・尚書左僕射とし、官を領することは現状のままとした。王永はふたたび州郡に檄文を発し、「むかし夏王朝が異民族に脅かされると、少康が立ち上がった。王莽が平帝を毒殺すると、世祖光武帝が漢帝国を再興し輝かせた。百六の厄災の運が、いつの時代にもあったのである。天が喪乱を降し、羌胡が中華を乱し、先帝(苻堅)は賊の領土で崩御し、京師は窮迫して戎狄の巣穴となり、神州(前秦の領土)は物寂しく、万民の命は塗炭の苦しみにあるが、天はまだ秦帝国を滅ぼさず、社稷を奉じている。主上(苻丕)の聖徳は広大であり、行動は光武帝に等しいので、各地で支持が集まり、天も人も帰属している。中興の事業を成功させ、祖先の天への配祀を復活させるだろう。姚萇は残虐であり、慕容垂は凶暴であり、軍が通過したところは民家を滅ぼして炊煙がなく、墳墓を発掘し、害毒が生者にも死者にも及び、痛みがあの世とこの世を包んでいる。(後漢末に)黄巾が九州を侵害し、(前漢末に)赤眉が四海で暴動したが、姚萇と慕容垂に比べればひどかったとは言えない。いま秋が訪れようとし、軍を起こすには適した季節だ。公侯や牧守、塢主や郷里の豪族は、国家のために力を尽くし、王室に心を寄せるものは、それぞれ配下を率い、冬の始まりを期日として大駕(苻丕)のもとに臨晋で集まるように」と言った。ここにおいて天水の姜延・馮翊の寇明・河東の王昭・新平の張晏・京兆の杜敏・扶風の馬郎・建忠高平牧官都尉の王敏らはみな檄文を受けて起兵し、それぞれ軍が数万おり、使者を送って苻丕に呼応した。みな将軍や郡守を拝命し、列侯に封建された。冠軍の鄧景は五千の兵を擁して彭池に拠り、竇衝と前後に連携し、姚萇の平涼太守の金熙を攻撃した。安定北部都尉の鮮卑の没奕于は鄯善王の胡員吒・護羌中郎将の梁苟奴らを率いて、姚萇の左将軍の姚方成・鎮遠の強京と孫丘谷で戦い、大いにこれを破った。
枹罕の氐族たちは衛平が老齢なので、事業を成し遂げられないと考え、(盟主から)引きずり下ろすことを議論した。しかし衛平の一族が強いことを憚り、連日にわたり結論が出なかった。氐族に啖青というものがいて、諸将に、「重大な決断をするべきだ。東のかた姚萇を討伐するのに、検討し迷っている猶予はない。(決断せず)事業を始めれば、かえって被害を出すだろう。諸軍はただ衛公に申し入れて諸将を集合させよ。この啖青が諸軍のために結論を出すだろう」と言った。みなは合意した。ここにおいて大いに諸将を饗宴でもてなし、啖青は剣を抜いて進み出て、「いま天下が大いに乱れ、豺狼が道路を塞いでいる。今日われらは禍福をともにし、賢明な盟主でなければ艱難を救えない。衛公は枯れ木の老人であり、事業を成功させるには力不足だ。取り掛かった役割を返上し、賢者のために道を譲るべきだ。狄道長の苻登は王室の傍流であるが、志と軍略が優れて聡明なので、ともにこれを立てて、大駕のもとに赴いたらどうか。諸君に同意できないものがいたら、意見を述べてくれ」と言った。剣を振るって腕まくりし、反対するものを斬ろうとした。人々は全員が従い、あえて顔を上げるものがいなかった。ここにおいて苻登を推薦して盟主とし、使者を送って苻丕に命令を求めた。苻丕は苻登を征西大将軍・開府儀同三司・南安王・持節及び州郡督として、各々が称するままに官位を授けた。また徐義を右丞相とした。
苻丕は王騰を留めて晋陽を守らせ、楊輔に壺関を守らせ、四万の兵を率いて進んで平陽に拠った。王統は秦州をあげて姚萇に降った。慕容永は苻丕が平陽に到着したので、恐れて守りを固めることなく、使者を寄越して道を借りて東に還りたいと要請したが、苻丕は許さなかった。王永及び苻纂にこれを攻撃させた。俱石子を前鋒都督とし、慕容永と襄陵で戦った。王永は大いに敗れ、慕容永及び俱石子はどちらも戦死した。
これよりさき、苻纂が苻丕のもとに逃げ込むと、壮士三千人あまりの配下がいたため、苻丕は疑い警戒した。慕容永が敗れると、苻纂に殺されることを懼れ、数千騎を率いて南下して東垣に逃げた。東晋の揚威将軍の馮該が陝から要撃し、これを破り、苻丕の首を斬り、その太子の苻寧と長楽王の苻寿を捕らえ、京師(建康)に送った。朝廷は赦して誅さず、二人を苻宏のもとに返還した。徐義が慕容永に捕らえられると、足かせを付けて土に埋められ、殺されそうになった。徐義が観世音経を読んでいると、夜中になり、土が開いて足かせが抜け、厳重な警戒のなかを誰かに導かれているように進み、楊佺期のもとに逃げ込むことができ、楊佺期は徐義を洛陽令とした。苻纂及び弟の苻師奴は苻丕の残兵の数万を率い、杏城に逃げ込んだ。苻登が尊号を称すると、不当に苻丕に諡して哀平皇帝とした。苻丕の側近はみな慕容永に捕らえられた。慕容永は進んで上党の長子を拠点とし、大号を僭称し、中興と改元した。苻丕は在位二年で敗れた。

苻登 索泮 徐嵩

原文

登字文高、堅之族孫也。父敞、健之世為太尉司馬・隴東太守・建節將軍、後為苻生所殺。堅即偽位、追贈右將軍・涼州刺史、以登兄同成嗣。毛興之鎮上邽、以為長史。登少而雄勇、有壯氣、粗險不修細行、故堅弗之奇也。長而折節謹厚、頗覽書傳。拜殿上將軍、稍遷羽林監・揚武將軍・長安令、坐事黜為狄道長。
及關中亂、去縣歸毛興。同成言於興、請以登為司馬、常在營部。登度量不羣、好為奇略、同成常謂之曰、「汝聞、不在其位、不謀其政、無數干時、將為博識者不許。吾非疾汝、恐或不喜人妄豫耳、自是可止。汝後得政、自可專意」。時人聞同成言、多以為疾登而抑蔽之。登乃屏迹不妄交遊。興有事則召之、戲謂之曰、「小司馬可坐評事」。登出言輒析理中、興內服焉、然敬憚而不能委任。姚萇作亂、遣其弟碩德率眾伐毛興、相持久之。興將死、告同成曰、「與卿累年共擊逆羌、事終不克、何恨之深。可以後事付卿小弟司馬、殄碩德者、必此人也。卿可換攝司馬事」。
登既代衞平、遂專統征伐。是時歲旱眾飢、道殣相望、登每戰殺賊、名為熟食、謂軍人曰、「汝等朝戰、暮便飽肉、何憂於飢」。士眾從之、噉死人肉、輒飽健能鬭。姚萇聞之、急召碩德曰、「汝不來、必為苻登所食盡」。碩德於是下隴奔萇。
及丕敗、丕尚書寇遣奉丕子渤海王懿・濟北王昶自杏城奔登。登乃具丕死問、於是為丕發喪行服、三軍縞素。登請立懿為主、眾咸曰、「渤海王雖先帝之子、然年在幼沖、未堪多難。國亂而立長君、春秋之義也。三虜跨僭、寇旅殷強、豺狼梟鏡、舉目而是、自古厄運之極、莫甚于斯。大王挺劍西州、鳳翔秦隴、偏師暫接、姚萇奔潰、一戰之功、可謂光格天地。宜龍驤武奮、拯拔舊京、以社稷宗廟為先、不可顧曹臧・吳札一介微節、以失圖運之機、不建中興之業也」。登於是以太元十一年僭即皇帝位、大赦境內、改元曰太初。
立堅神主于軍中、載以輜軿、羽葆青蓋、車建黃旗、武賁之士三百人以衞之、將戰必告、凡欲所為、啟主而後行。繕甲纂兵、將引師而東、乃告堅神主曰、「維曾孫皇帝臣登、以太皇帝之靈恭踐寶位。昔五將之難、賊羌肆害于聖躬、實登之罪也。今合義旅、眾餘五萬、精甲勁兵、足以立功、年穀豐穰、足以資贍。即日星言電邁、直造賊庭、奮不顧命、隕越為期、庶上報皇帝酷冤、下雪臣子大恥。惟帝之靈、降監厥誠」。因歔欷流涕。將士莫不悲慟、皆刻鉾鎧為「死休」字、示以戰死為志。每戰以長矟鉤刃為方圓大陣、知有厚薄、從中分配、故人自為戰、所向無前。
初、長安之將敗也、堅中壘將軍徐嵩・屯騎校尉胡空各聚眾五千、據險築堡以自固、而受姚萇官爵。及萇之害堅、嵩等以王禮葬堅于二堡之間。至是、各率眾降登。拜嵩鎮軍將軍・雍州刺史、空輔國將軍・京兆尹。登復改葬堅以天子之禮。又僭立其妻毛氏為皇后、弟懿為皇太弟。遣使拜苻纂為使持節・侍中・都督中外諸軍事・太師、領大司馬、進封魯王、纂弟師奴為撫軍大將軍・并州牧・朔方公。纂怒謂使者曰、「渤海王世祖之孫、先帝之子、南安王何由不立而自尊乎」。纂長史王旅諫曰、「南安已立、理無中改。賊虜未平、不可宗室之中自為仇敵、願大王遠蹤光武推聖公之義、梟二虜之後、徐更圖之」。纂乃受命。於是貳縣虜帥彭沛穀・屠各董成・張龍世・新平羌雷惡地等盡應之、有眾十餘萬。纂遣師奴攻上郡羌酋金大黑・金洛生、大黑等逆戰、大敗之、斬首五千八百。
登以竇衝為車騎大將軍・南秦州牧、楊定為大將軍・益州牧、楊璧為司空・梁州牧。

1.中華書局本の校勘記によると、『資治通鑑』一百七は「遷」を「還」に作っており、「還」に作るべきである。

訓読

登 字は文高、堅の族孫なり。父の敞は、健の世に太尉司馬・隴東太守・建節將軍と為り、後に苻生の殺す所と為る。堅 偽位に即くや、右將軍・涼州刺史を追贈し、登の兄の同成を以て嗣がしむ。毛興の上邽に鎮するや、以て長史と為す。登 少くして雄勇にして、壯氣有りて、粗險にして細行を修めず、故に堅 之を奇とせず。長じて折節し謹厚にして、頗る書傳を覽ず。殿上將軍を拜し、稍く羽林監・揚武將軍・長安令に遷り、事に坐して黜せられて狄道長と為る。
關中 亂るるに及び、縣を去りて毛興に歸す。同成 興に言ひ、登を以て司馬と為し、常に營部に在ることを請ふ。登の度量 羣れず、好みて奇略を為し、同成 常に之に謂ひて曰く、「汝 聞くや、其の位に在らざれば、其の政を謀らず、數々時を干(もと)むること無くんば、將た博識たる者の為に許さずと。吾 汝を疾むに非ず、或ひと人の妄りに豫ることを喜ばざることを恐るのみ、是より止む可し。汝 後に政を得れば、自ら意を專らにす可し」と。時人 同成の言を聞きて、多く以為へらく登を疾みて之を抑蔽ふと。登 乃ち迹を屏ひて妄りに交遊せず。興 事有らば則ち之を召し、戲れに之に謂ひて曰く、「小司馬 坐して事を評す可し」と。登 言を出さば輒ち理の中を析し、興 內に焉に服し、然れども敬憚して委任する能はず。姚萇 亂を作すや、其の弟の碩德を遣はして眾を率ゐて毛興を伐たしめ、相 持すること久之たり。興 將に死せんとし、同成に告げて曰く、「卿と累年に共に逆羌を擊つに、事 終に克たず、何の恨みか之れ深からん。後事を以て卿の小弟の司馬に付す可し。碩德を殄する者は、必ず此の人なり。卿 司馬の事を換攝す可し」と。
登 既に衞平に代はり、遂に專ら征伐を統ぶ。是の時 歲は旱にして眾は飢え、道殣 相 望み、登 戰ひ賊を殺す每に、名づけて熟食と為ひ、軍人に謂ひて曰く、「汝ら朝に戰はば、暮に便ち肉に飽かん、何ぞ飢えを憂はんや」と。士眾 之に從ひ、死人の肉を噉ひ、輒ち飽健して能く鬭ふ。姚萇 之を聞き、急ぎ碩德を召して曰く、「汝 來たらざれば、必ず苻登の食らひ盡す所と為らん」と。碩德 是に於て隴を下りて萇に奔る。
丕の敗るるに及び、丕の尚書の寇遣 丕の子たる渤海王懿・濟北王昶を奉じて杏城より登に奔る。登 乃ち丕が死問を具さにし、是に於て丕の為に喪を發し服を行ひ、三軍 縞素す。登 懿を立てて主と為さんことを請ふに、眾 咸 曰く、「渤海王 先帝の子なると雖も、然れども年は幼沖に在り、未だ多難に堪へず。國 亂るれば長君を立つるは、春秋の義なり。三虜 跨僭し、寇旅 殷強たり、豺狼 梟鏡し、目を舉ぐるは是なり。古より厄運の極は、斯より甚しきは莫し。大王 劍を西州に挺し、秦隴に鳳翔せば、偏師 暫く接し、姚萇 奔潰し、一戰の功、光は天地に格しと謂ふ可し。宜しく龍のごとく驤し武(とら)のごとく奮ひ、舊京を拯拔し、社稷宗廟を以て先と為し、曹臧・吳札の一介微節を顧みて、以て圖運の機を失ひ、中興の業を建てざる可からざるなり」と。登 是に於て太元十一年を以て僭して皇帝の位に即き、境內を大赦し、改元して太初と曰ふ。
堅の神主を軍中に立て、載するに輜軿を以てし、羽葆青蓋あり、車に黃旗を建て、武賁の士三百人もて以て之を衞り、將に戰はんとして必ず告げ、凡そ為す所あらんと欲さば、主に啟して後に行ふ。甲を繕ひ兵を纂し、將に師を引きて東せんとするに、乃ち堅の神主に告げて曰く、「維れ曾孫皇帝たる臣登、太皇帝の靈を以て恭みて寶位を踐む。昔 五將の難に、賊羌 肆に聖躬を害せり、實に登の罪なり。今 義旅を合し、眾は餘五萬、精甲勁兵ありて、以て功を立つるに足り、年穀は豐穰にして、以て贍を資するに足る。即日に星言に電邁し、直ちに賊庭に造り、奮ひて命を顧みず、隕越を期と為し、庶はくは上は皇帝の酷冤に報ひ、下は臣子の大恥を雪がん。惟ふに帝の靈、厥の誠を降監せよ」と。因りて歔欷して流涕す。將士 悲慟せざる莫く、皆 鉾鎧に刻みて「死休」字を為り、戰ひて死するを以て志を為さんことを示す。每に戰ふに長矟・鉤刃を以て方圓の大陣を為し、厚薄有るを知らば、中に從ひて分配し、故に人 自ら戰ひを為し、向ふ所に前無し。
初め、長安の將に敗れんとするや、堅の中壘將軍の徐嵩・屯騎校尉の胡空 各々眾五千を聚め、險に據り堡を築きて以て自固し、而れども姚萇の官爵を受く。萇の堅を害するに及び、嵩ら王禮を以て堅を二堡の間に葬る。是に至り、各々眾を率ゐて登に降る。嵩を鎮軍將軍・雍州刺史に拜し、空を輔國將軍・京兆尹とす。登 復た改めて堅を葬るに天子の禮を以てす。又 其の妻の毛氏を僭立して皇后と為し、弟の懿を皇太弟と為す。使を遣はして苻纂に拜して使持節・侍中・都督中外諸軍事・太師と為し、大司馬を領し、封を魯王に進め、纂の弟の師奴を撫軍大將軍・并州牧・朔方公と為す。纂 怒りて使者に謂ひて曰く、「渤海王は世祖の孫にして、先帝の子なり、南安王は何に由りて立てずして自尊するか」と。纂の長史の王旅 諫めて曰く、「南安 已に立たば、理は中に改むるに無し。賊虜 未だ平らがず、宗室の中に自ら仇敵と為る可からず、願はくは大王 遠く光武の聖公を推すの義を蹤み、二虜を梟するの後、徐ろに更めて之を圖れ」と。纂 乃ち命を受く。是に於て貳縣の虜帥の彭沛穀・屠各の董成・張龍世・新平羌の雷惡地ら盡く之に應じ、眾十餘萬有り。纂 師奴を遣はして上郡羌酋の金大黑・金洛生を攻め、大黑ら逆戰するも、大いに之を敗り、斬首すること五千八百なり。
登 竇衝を以て車騎大將軍・南秦州牧と為し、楊定もて大將軍・益州牧と為し、楊璧もて司空・梁州牧と為す。

現代語訳

苻登は字を文高といい、苻堅の族孫である。父の苻敞は、苻健の時代に太尉司馬・隴東太守・建節将軍となり、後に苻生に殺された。苻堅が偽位に即くと、右将軍・涼州刺史を追贈し、苻登の兄の苻同成に嗣がせた。毛興が上邽に鎮すると、苻同成を長史とした。苻登は若くして勇猛で、意気盛んであり、粗暴で細事を気にかけなかったので、苻堅から評価されなかった。成人してからは態度を改めて慎み深くなり、多くの経史を読んだ。殿上将軍を拝し、やがて羽林監・揚武将軍・長安令に遷ったが、事案により降格され狄道長となった。
関中が乱れると、(苻登は)狄道県を去って毛興のもとに身を寄せた。苻同成は毛興に頼んで、苻登を司馬として、いつも軍営に置いてくれと言った。苻登の度量は人より優れ、好んで奇策を発案したが、苻同成はいつも、「お前は聞いたことがないか、その役職にいなければ、政務の意見を言わないと。しばしば立場に不相応なことをすれば、博識な者であっても容認されない。私がお前を疎ましく思うのではない、お前が口を挟むことを嫌がるひとがいるのが心配なだけだ、以後は慎むように。お前が立場を得たら、思うとおりにすればよい」と言った。当時の人々は苻同成の発言を聞き、多くが(苻同成が)苻登に嫉妬して抑圧したものと感じた。苻登は行動を控えて妄りに交遊しなかった。毛興は判断すべきことがあれば苻登を召し、戯れに、「小司馬は(地位がないが)ここにいて意見を言えばよい」といった。苻登の発言はいつも物事の中心を突いたもので、毛興は内心で感服していたがが、敬遠して職務の委任まではできなかった。姚萇が乱を起こし、弟の姚碩徳に軍を率いて毛興を討伐させると、対峙が長期化した。毛興は死の直前に、苻同成に告げて、「あなたと連年協力して反逆した羌族を攻撃してきたが、結局は勝利できなかった、なんとも深い怨みが残った。後事をあなたの小弟の司馬(苻登)に託すように。姚碩徳を滅ぼすのは、きっと彼である。あなたは司馬の仕事を交代し見守るように」と言った。
苻登は衛平と交代してから、もっぱら征伐の軍を統率した。この年は日照りで民が飢え、道路に餓死者が多かった。苻登は戦って賊を殺すたびに、熟食(調理済みの食べ物)だと呼称し、兵士たちに、「お前たちは朝に戦えば、夕方には肉を飽きるほど食える、どうして飢餓の心配があろうか」と言った。士卒はこれに従い、死人の肉を食らい、満腹の体力で戦った。姚萇はこれを聞き、急ぎ姚碩徳を召して、「きみが(援軍に)来なければ、きっとわが軍は苻登に食い尽くされる」と言った。姚碩徳はここにおいて隴を下って姚萇のもとに駆けつけた。
苻丕が敗れると、苻丕の尚書の寇遣は苻丕の子である渤海王の苻懿と済北王の苻昶を奉じて杏城から苻登のもとに逃げ込んだ。苻登は苻丕の死にざまを詳しく聞いて、ここにおいて苻丕のために喪に発し、三軍は白い喪服をつけた。苻登は苻懿を立てて君主にしようとしたが、人々はみな、「渤海王(苻懿)先帝の子であるが、しかし幼年であり、多難に堪えられません。国が乱れれば年長の君主を立てるのが、春秋の義です。三種の胡族が僭越にはびこり、敵軍は盛んで強く、豺狼は梟鏡であり(父母を食らうほど凶悪で、『詩経』大雅 瞻卬)、目を挙げるとはこの状況を指します。古より厄災の巡りは、今日よりひどいことがありません。大王が剣を西州で抜き、秦隴で鳳皇のように翔ければ、一部隊が交戦しただけで、姚萇は逃げて潰走し、一戦で立てられる功績は、輝きが天地に等しいでしょう。龍のように躍りあがり虎のように奮闘し、旧京を救出し、社稷や宗廟の復興を優先すべきです。曹の臧(成公の子)や呉の季札のような一介の男の小さな節義を大切にして(君位を辞退し)、絶好の機会を逃してはならず、中興の事業を実行すべきです」と言った。苻登はここにおいて太元十一年に不当に帝位に即き、領内を大赦し、改元して太初とした。
苻堅の神主(位牌)を軍中に立て、輜軿(四方に覆いを掛けた車)に載せ、羽葆と青蓋をもうけ、車に黄旗を建て、武賁の士の三百人で(神主を)護衛し、戦いに臨むときは必ず報告し、実行したいことがあれば、神主に奏上してから実行した。武具を修理して兵士を整え、軍を率いて東に向かうにあたり、苻堅の神主に告げて、「曾孫皇帝である臣(わたくし)登は、太皇帝の霊を謹んで受けて帝位を践みました。むかし五将の難のとき、賊の羌族がほしいままに天子の玉体を傷つけましたが、それは私の罪です。いま義軍を集め、兵は五万以上おり、武具を備えた強兵なので、功績を立てるに十分であり、秋の収穫は豊作で、兵糧の準備は万端です。即日に星のもとで素早く出発し、すぐに賊の領土に到着し、命を顧みずに奮闘し、切願を必ずかなえます。上には太皇帝の無念の死に報復し、下には私たち臣下の大いなる恥を雪いでみせます。どうか太皇帝の霊は、われらの誠意を天から見守って下さい」と言った。むせび泣き涙を流した。将士は悲しみ慟哭しないものがなく、みな鋒と鎧に「死休」という文字を刻み、戦死しようと志を成し遂げる覚悟を示した。戦うときはいつも長矟と鉤刃で方形や円形の大きな陣を作り、(陣形の)薄い箇所に気づけば、補って兵を再分配し、人は自律的に戦い、向かうところ敵なしだった。
これよりさき、長安が敗れそうになると、苻堅の中塁将軍の徐嵩と屯騎校尉の胡空はそれぞれ五千の兵を集め、険しい地形に堡を築いて自衛し、しかし同時に姚萇から官爵を受けた。姚萇が苻堅を殺害すると、徐嵩らは王礼によって苻堅を二つの堡のあいだに葬った。ここに至り、それぞれ軍を率いて苻登に降った。徐嵩を鎮軍将軍・雍州刺史とし、胡空を輔国将軍・京兆尹とした。苻登はまた改めて苻堅を天子の礼で葬った。さらに妻の毛氏を不当に皇后に立て、弟の苻懿を皇太弟とした。使者を送って苻纂を使持節・侍中・都督中外諸軍事・太師とし、大司馬を領させ、封号を魯王に進めた。苻纂の弟の苻師奴を撫軍大将軍・并州牧・朔方公とした。苻纂は怒って使者に、「渤海王(苻懿)は世祖の孫であり、先帝の子だ。南安王(苻丕)はなぜ(苻懿を帝位に)立てずに自分が帝位に立つのか」と言った。苻纂の長史の王旅が諫めて、「南安王(苻丕)がすでに立ちました、これを途中で変更する道理がありません。賊虜がまだ平定されず、宗室のなかで仇敵を作ってはいけません、どうか大王は(後漢の)光武帝が聖公(更始帝)を推戴した前例を踏まえ、二虜をさらし首にした後、じっくりと帝位を狙いなさい」と言った。苻纂は官爵を受け入れた。ここにおいて弐県の虜帥の彭沛穀・屠各の董成・張龍世・新平羌の雷悪地らはすべて呼応し、兵は十万を超えた。苻纂は師奴を派遣して上郡の羌酋の金大黒と金洛生を攻め、大黒らが迎え撃ったが、大いにこれを敗り、五千八百人を斬首した。
苻登は竇衝を車騎大将軍・南秦州牧とし、楊定を大将軍・益州牧とし、楊璧を司空・梁州牧とした。

原文

苻纂敗姚碩德于涇陽、姚萇自陰密距纂、纂退屯敷陸。竇衝攻萇汧・雍二城、克之、斬其將軍姚元平・張略等。又與萇戰于汧東、為萇所敗。登次于瓦亭。萇攻彭沛穀堡、陷之、沛穀奔杏城、萇1.遷陰密。登征虜・馮翊太守蘭犢率眾二萬自頻陽入于和寧、與苻纂首尾、將圖長安。師奴勸其兄纂稱尊號、纂不從、乃殺纂、自立為秦公。蘭犢絕之、皆為姚萇所敗。
登進據胡空堡、戎夏歸之者十有餘萬。姚萇遣其將軍姚方成攻陷徐嵩堡、嵩被殺、悉坑戎士。登率眾下隴入朝那、姚萇據武都相持、累戰互有勝負。登軍中大饑、收葚以供兵士。立其子崇為皇太子、弁為南安王、尚為北海王。姚萇退還安定。登就食新平、留其大軍于胡空堡、率騎萬餘圍萇營、四面大哭、哀聲動人。萇惡之、及命三軍哭以應登、登乃引退。
登征虜・馮翊太守蘭犢率眾二萬自頻陽入于和寧、與苻纂首尾、將圖長安。師奴勸其兄纂稱尊號、纂不從、乃殺纂、自立為秦公。蘭犢絕之、皆為姚萇所敗。
登進據胡空堡、戎夏歸之者十有餘萬。姚萇遣其將軍姚方成攻陷徐嵩堡、嵩被殺、悉坑戎士。登率眾下隴入朝那、姚萇據武都相持、累戰互有勝負。登軍中大饑、收葚以供兵士。立其子崇為皇太子、弁為南安王、尚為北海王。姚萇退還安定。登就食新平、留其大軍于胡空堡、率騎萬餘圍萇營、四面大哭、哀聲動人。萇惡之、及命三軍哭以應登、登乃引退。
萇以登頻戰輒勝、謂堅有神驗、亦於軍中立堅神主、請曰、「往年新平之禍、非萇之罪。臣兄襄從陝北渡、假路求西、狐死首丘、欲暫見鄉里。陛下與苻眉要路距擊、不遂而沒。襄敕臣行殺、非臣之罪。苻登陛下末族、尚欲復讎、臣為兄報恥、於情理何負。昔陛下假臣龍驤之號、謂臣曰、『朕以龍驤建業、卿其勉之。』明詔昭然、言猶於耳。陛下雖過世為神、豈假手于苻登而圖臣、忘前征時言邪。今為陛下立神象、可歸休于此、勿計臣過、聽臣至誠」。登進師攻萇、既而升樓謂萇曰、「自古及今、安有殺君而反立神象請福、望有益乎」。大呼曰、「殺君賊姚萇出來、吾與汝決之、何為枉害無辜」。萇憚而不應。萇自立堅神象、戰未有利、軍中每夜驚恐、乃嚴鼓斬象首以送登。
登將軍竇洛・竇于等謀反發覺、出奔于萇。登進討彭池不克、攻彌姐營及繁川諸堡、皆克之。萇連戰屢敗、乃遣其中軍姚崇襲大界、登引師要之、大敗崇于安丘、俘斬二萬五千。進攻萇將吳忠・唐匡于平涼、克之、以尚書苻碩原為前禁將軍・滅羌校尉、戍平涼。登進據苟頭原以逼安定。萇率騎三萬夜襲大界營、陷之、殺登妻毛氏及其子弁・尚、擒名將數十人、驅掠男女五萬餘口而去。
登收合餘兵、退據胡空堡、遣使齎書加竇衝大司馬・驃騎將軍・前鋒大都督・都督隴東諸軍事、楊定左丞相・上大將軍・都督中外諸軍事、楊璧大將軍・都督隴右諸軍事。遣衝率見眾為先驅、自繁川趣長安。登率眾從新平逕據新豐之千戶固。使定率隴上諸軍為其後繼、璧留守仇池。又命其并州刺史楊政・冀州刺史楊楷率所統大會長安。萇遣其將軍王破虜略地秦州、楊定及破虜戰于清水之格奴坂、大敗之。登攻張龍世于鴦泉堡、姚萇救之、登引退。萇密遣其將任瓫・宗度詐為內應、遣使招登、許開門納之。登以為然。雷惡地馳謂登曰、「姚萇多計略、善御人、必為姦變、願深宜詳思」。登乃止。萇聞惡地之詣登也、謂諸將曰、「此羌多姦智、今其詣登、事必無成」。登聞萇懸門以待之、大驚、謂左右曰、「雷征東其殆聖乎。微此公、朕幾為豎子所誤」。萇攻陷新羅堡。1.萇扶風太守齊益男奔登。登將軍路柴・強武等並以眾降於萇。登攻萇將張業生于隴東、萇救之、不克而退。登將軍魏褐飛攻姚當成于杏城、為萇所殺。

1.中華書局本の校勘記によると、「萇」一字は衍字が疑われる。齊益男は、苻登が任命した扶風太守と考えられるという。

訓読

苻纂 姚碩德を涇陽に敗り、姚萇 陰密より纂を距み、纂 退きて敷陸に屯す。竇衝 萇の汧・雍の二城を攻め、之に克ち、其の將軍の姚元平・張略らを斬る。又 萇と汧東に戰ひ、萇の敗る所と為る。登 瓦亭に次づ。萇 彭沛穀の堡を攻め、之を陷し、沛穀 杏城に奔り、萇 陰密に遷る。登の征虜・馮翊太守の蘭犢 眾二萬を率ゐて頻陽より和寧に入り、苻纂と與に首尾し、將に長安を圖らんとす。師奴は其の兄の纂に尊號を稱せんことを勸め、纂 從はず、乃ち纂を殺し、自ら立ちて秦公と為る。蘭犢 之と絕し、皆 姚萇の敗る所と為る。
登 進みて胡空堡に據り、戎夏の之に歸する者は十有餘萬なり。姚萇 其の將軍の姚方成を遣はして攻めて徐嵩堡を陷し、嵩 殺され、悉く戎士を坑にす。登 眾を率ゐて隴を下りて朝那に入り、姚萇 武都に據りて相 持し、累りに戰ひて互いに勝負有り。登の軍中 大いに饑え、葚を收めて以て兵士に供す。其の子の崇を立てて皇太子と為し、弁もて南安王と為し、尚もて北海王と為す。姚萇 退きて安定に還る。登 食に新平に就き、其の大軍を胡空堡に留め、騎萬餘を率ゐて萇の營を圍み、四面に大哭し、哀聲は人を動す。萇 之を惡み、命を三軍に及ぼし哭して以て登に應じ、登 乃ち引き退く。
萇 登の頻りに戰はば輒ち勝つを以て、堅に神驗有りと謂ひ、亦た軍中に堅の神主を立てて、請ひて曰く、「往年の新平の禍は、萇の罪に非ず。臣が兄の襄 陝より北渡し、路を假りて西せんことを求むるに、狐死首丘、暫く鄉里を見んと欲す。陛下 苻眉と與に要路して距擊し、遂げずして沒す。襄 臣に殺を行ふを敕せしは、臣の罪に非ず。苻登は陛下の末族なり、尚ほ復讎せんと欲し、臣 兄の為に恥に報ゆ、情理に於て何ぞ負けん。昔 陛下 臣に龍驤の號を假し、臣に謂ひて曰く、『朕 龍驤を以て建業す、卿 其れ之に勉めんか』と。明詔 昭然たりて、言は猶ほ耳にあるがごとし。陛下 過世し神と為ると雖も、豈に手を苻登に假して臣を圖り、前征の時の言を忘るるや。今 陛下の為に神象を立つ、此こに歸休す可し、臣の過を計る勿れ、臣が至誠を聽け」と。登 師を進めて萇を攻め、既にして樓に升りて萇に謂ひて曰く、「古より今に及ぶまで、安ぞ君を殺して反りて神象を立てて福を請ひ、益有るを望むもの有りや」と。大呼して曰く、「殺君の賊の姚萇 出で來る、吾 汝と之を決せん。何為れぞ害を無辜に枉せんか」と。萇 憚りて應ぜず。萇 自ら堅の神象を立て、戰ふも未だ利有らず、軍中 夜ごとに驚恐し、乃ち嚴鼓して象の首を斬りて以て登に送る。
登の將軍の竇洛・竇于ら謀反ありて發覺し、萇に出奔す。登 進みて彭池を討つも克たず、彌姐營及び繁川諸堡を攻め、皆 之に克つ。萇 連戰して屢々敗れ、乃ち其の中軍の姚崇を遣はして大界に襲はしむ。登 師を引きて之を要し、大いに崇を安丘に敗り、俘斬すること二萬五千なり。進みて萇の將の吳忠・唐匡を平涼に攻め、之に克ち、尚書の苻碩原を以て前禁將軍・滅羌校尉と為し、平涼を戍らしむ。登 進みて苟頭原に據りて以て安定に逼る。萇 騎三萬を率ゐて大界の營を夜襲し、之を陷し、登の妻の毛氏及び其の子の弁・尚を殺し、名將數十人を擒へ、男女五萬餘口を驅掠して去る。
登 餘兵を收合し、退きて胡空堡に據り、使を遣はして書を齎して竇衝に大司馬・驃騎將軍・前鋒大都督・都督隴東諸軍事を加へ、楊定もて左丞相・上大將軍・都督中外諸軍事とし、楊璧もて大將軍・都督隴右諸軍事とす。衝を遣はして見眾を率ゐて先驅と為し、繁川より長安に趣く。登 眾を率ゐて新平より逕して新豐の千戶固に據る。定をして隴上の諸軍を率ゐて其の後繼と為らしめ、璧をして留まりて仇池を守らしむ。又 其の并州刺史の楊政・冀州刺史の楊楷に命じて統ぶる所を率ゐて大いに長安に會せしむ。萇 其の將軍の王破虜を遣はして秦州を略地せしめ、楊定及び破虜は清水の格奴坂に戰ひ、大いに之を敗る。登 張龍世を鴦泉堡に攻め、姚萇 之を救ひ、登 引き退く。萇 密かに其の將の任瓫・宗度を遣はして詐はりて內應を為さしめ、使を遣はして登を招き、開門して之を納るるを許す。登 以て然りと為す。雷惡地 馳せて登に謂ひて曰く、「姚萇は計略多く、善く人を御す。必ず姦變を為さん、願はくは深く宜しく詳思すべし」と。登 乃ち止む。萇 惡地の登に詣るを聞くや、諸將に謂ひて曰く、「此の羌 姦智多し。今 其の登に詣らば、事 必ず成る無し」と。登 萇の懸門して以て之を待つを聞き、大いに驚き、左右に謂ひて曰く、「雷征東 其れ殆ど聖なるや。此の公微(な)かりせば、朕 幾ど豎子の誤る所と為る」と。萇 攻めて新羅堡を陷す。萇の扶風太守の齊益男 登に奔る。登の將軍の路柴・強武ら並びに眾を以て萇に降る。登 萇の將の張業生を隴東に攻め、萇 之を救ひ、克ずして退く。登の將軍の魏褐飛 姚當成を杏城に攻め、萇の殺す所と為る。

現代語訳

苻纂は姚碩徳を涇陽で破った。姚萇は陰密から出て苻纂を防ぎ止めたので、苻纂は退いて敷陸に駐屯した。竇衝は姚萇の汧と雍の二城を攻め、これを打ち破り、その将軍の姚元平と張略らを斬った。また姚萇と汧東で戦ったが、姚萇に敗れた。苻登は瓦亭に駐留した。姚萇は彭沛穀の堡を攻め、これを陥落させた。彭沛穀は杏城に逃げ込み、姚萇は陰密に遷った。苻登の征虜・馮翊太守の蘭犢は二万の兵を率いて頻陽から和寧に入り、苻纂とともに前後の軍となり、長安を狙おうとした。苻師奴はその兄の苻纂に尊号を称することを勧めたが、苻纂が従わなかったので、(苻師奴は)苻纂を殺し、自ら立って秦公となった。蘭犢は連携が途絶え、全軍が姚萇に敗れた。
苻登が進んで胡空の堡に拠ると、胡族と漢族で帰順するものが十数万人いた。姚萇はその将軍の姚方成を派遣して徐嵩の堡を陥落させた。徐嵩は殺され、すべての兵士が穴埋めにされた。苻登は軍を率いて隴水を下って朝那に入り、姚萇は武都に拠って(苻登と)対峙し、何度も戦って勝ったり負けたりした。苻登の軍中は大いに飢え、葚(クワの実)を集めて兵士に支給した。その子の苻崇を立てて皇太子とし、苻弁を南安王とし、苻尚を北海王とした。姚萇は退いて安定に還った。苻登は新平で食糧を求め、その大軍を胡空の堡に留め、騎兵一万あまりを率いて姚萇の軍営を囲み、四方から大声で哭き、悲しい声が姚萇の軍を動揺させた。姚萇はこれを憎み、三軍に命令を届かせて泣き叫んで苻登の軍(の泣き声に)応酬し、これを受けて苻登は撤退した。
姚萇は苻登が連戦して連勝するので、苻堅の神秘的な加護があると思い、自軍のなかにも苻堅の神主を立てて、祈りを捧げ、「往年の新平での禍い(苻堅の死)は、わが罪ではありません。私の兄の姚襄が陝水から北に渡り、道を借りて西に行きたいと言ったのは、狐が死ぬとき首を故郷に向けるように、少しでも郷里を見たいと思ったからです。ところが陛下は苻眉とともに道を塞いで挟撃し、(姚襄は)失敗して戦没しました。(殺された)姚襄が私に(陛下の)殺害を命じたのであって、私の罪ではありません。苻登は陛下の末族でありながら、(陛下の仇としての私への)復讐を狙っていますが、私は(陛下に殺された)兄のために報復する立場にあり、情理において苻登に劣るものではありません。むかし陛下は私に龍驤将軍の官号をあたえ、私に、『朕は龍驤将軍として事業を打ち立てた、きみも努力せよ』と仰いました。すぐれた詔の意味は明らかで、お言葉はまだ耳に残っています。陛下は死去して神となりましたが、どうして苻登だけに手を貸して私の戦いを妨害をし、かつての征伐時の言葉をお忘れになるのでしょう。いま陛下のために神象を立てます、ここで安らかに留まって下さい。わが罪を測るのでなく、わが至誠を聞き届け下さい」と言った。苻登は軍を進めて姚萇を攻撃し、楼に登って姚萇に、「古より今まで、君主を殺しておきながら、あべこべに神象を立てて福を求め、ご利益を望んだものがいたか」と言った。大声で叫び、「君主を殺した賊の姚萇が出てきた、私はお前と決着をつけよう。(苻堅の霊が)どうして無実のものに危害を加えるだろうか」と言った。姚萇は憚って返答しなかった。姚萇は自ら苻堅の神象を立て、戦ったが勝利できず、軍中は夜ごとに驚き恐れたので、太鼓を打って(兵士を)戒めて神象の首を斬って苻登に送りつけた。
苻登の将軍の竇洛と竇于らの謀反が発覚し、姚萇のもとに出奔した。苻登は進んで彭池を討伐したが勝たず、弥姐の営及び繁川の諸々の堡を攻め、すべて打ち破った。姚萇は連戦したが連敗し、その中軍の姚崇を派遣して大界に襲わせた。苻登は軍を率いてこれを要撃し、大いに姚崇を安丘で破り、二万五千人を捕らえて斬った。進んで姚萇の将の呉忠と唐匡を平涼で攻め、これに勝ち、尚書の苻碩原を前禁将軍・滅羌校尉とし、平涼を守らせた。苻登は進んで苟頭原に拠って安定に逼った。姚萇は三万騎を率いて大界の軍営を夜襲し、これを陥落させ、苻登の妻の毛氏及びその子の苻弁と苻尚を殺し、名将の数十人を捕らえ、男女五万人あまりを拉致して去った。
苻登は残兵をかき集め、退いて胡空の堡に拠り、使者を送って書状をもたらして竇衝に大司馬・驃騎将軍・前鋒大都督・都督隴東諸軍事を加え、楊定を左丞相・上大将軍・都督中外諸軍事とし、楊璧を大将軍・都督隴右諸軍事とした。竇衝に軍勢を率いさせて先駆とし、繁川から長安に向かわせた。苻登は兵を率いて新平から経由して新豊の千戸固に拠った。楊定に隴上の諸軍を率いさせて後続の軍とし、楊璧には留まって仇池を守らせた。またその并州刺史の楊政と冀州刺史の楊楷に命じて配下を率いて大いに長安に集合させた。姚萇はその将軍の王破虜を派遣して秦州の値を侵略させ、楊定及び破虜は清水の格奴坂で戦い、大いにこれを破った。苻登は張龍世を鴦泉堡で攻め、姚萇はこれを救い、苻登は撤退した。姚萇はひそかにその将の任瓫と宗度を派遣して詐って(苻登に)内応すると言い、使者を送って苻登を招き、開門して(苻登の軍を)城内に入れることを確約した。苻登はこれを信じた。雷悪地は馳せて苻登に、「姚萇は計略が多く、人を操るのが巧みです。きっと姦悪な事変を起こします、どうか深く再考して下さい」と言った。苻登は中止した。姚萇は雷悪地が苻登のもとに行ったと聞き、諸将に、「あの羌賊は悪い智恵がはたらく。いま彼が苻登のところに行ったので、必ず計画は失敗する」と言った。苻登は姚萇が城門をあげて待ち受けていると聞き、大いに驚き、左右のものに、「雷征東は聖人のようだ。あの人物がいなければ、朕はほとんど豎子に騙されるところであった」と言った。姚萇は攻めて新羅堡を陥落させた。姚萇の扶風太守の斉益男が苻登のもとに逃げた。苻登の将軍の路柴と強武らがどちらも兵を連れて姚萇に降った。苻登は姚萇の将の張業生を隴東で攻めたが、姚萇がこれを救ったので、勝てずに退いた。苻登の将軍の魏褐飛は姚当成を杏城で攻撃し、姚萇に殺された。

原文

馮翊郭質起兵廣鄉以應登、宣檄三輔曰、「義感君子、利動小人。吾等生逢先帝堯舜之化、累世受恩、非常伯納言之子、即卿校牧守之胤、而可坐視豺狼忍害君父。裸尸薦棘、痛結幽泉、山陵無松隧之兆、靈主無清廟之頌、賊臣莫大之甚、自古所未聞。雖茹荼之苦、銜蓼之辛、何以諭之。姚萇窮凶肆害、毒被人神、於圖讖曆數萬無一分、而敢妄竊重名、厚顏瞬息、日月固所不照、二儀實亦不育。皇天雖欲絕之、亦將假手於忠節。凡百君子、皆夙漸神化、有懷義方、含恥而存、孰若蹈道而沒乎」。眾咸然之。唯鄭縣人苟曜不從、聚眾數千應姚萇。登以質為平東將軍・馮翊太守。質遣部將伐曜、大敗而歸。質乃東引楊楷、以為聲援、又與曜戰于鄭東、為曜所敗、遂歸于萇、萇以為將軍、質眾皆潰散。
登自雍攻萇將1.金溫于范氏堡、克之、遂渡渭水、攻萇京兆太守韋范于段氏堡、不克、進據曲牢。苟曜有眾一萬、據2.逆方堡、密應登、登去曲牢繁川、次于馬頭原。萇率騎來距、大戰敗之、斬其尚書吳忠、進攻新平。萇率眾救之、登引退、復攻安定、為萇所敗、據路承堡。
是時萇疾病、見苻堅為祟。登聞之、秣馬厲兵、告堅神主曰、「曾孫登自受任執戈、幾將一紀、未嘗不上天錫祐、皇鑒垂矜、所在必克、賊旅冰摧。今太皇帝之靈降災疢于逆羌、以形類推之、醜虜必將不振。登當因其隕斃、順行天誅、拯復梓宮、謝罪清廟」。於是大赦境內、百僚進位二等。與萇將姚崇爭麥于清水、累為崇所敗。進逼安定、去城九十餘里。萇疾小瘳、率眾距登、登去營逆萇、萇遣其將姚熙隆別攻登營、登懼、退還。萇夜引軍過登營三十餘里以躡登後。旦而候人告曰、「賊諸營已空、不知所向」。登驚曰、「此為何人、去令我不知、來令我不覺、謂其將死、忽然復來、朕與此羌同世、何其厄哉」。遂罷師還雍。 以竇衝為右丞相。尋而衝叛、自稱秦王、建年號。登攻之于野人堡、衝請救于姚萇、萇遣其太子興攻胡空堡以救之。登引兵還赴胡空堡、衝遂與萇連和。
至是萇死、登聞之喜曰、「姚興小兒、吾將折杖以笞之」。於是大赦、盡眾而東、攻屠各姚奴・帛蒲二堡、克之、自甘泉向關中。興追登不及數十里、登從六陌趣廢橋、興將尹緯據橋以待之。登爭水不得、眾渴死者十二三。與緯大戰、為緯所敗、其夜眾潰、登單馬奔雍。
初、登之東也、留其弟司徒廣守雍、太子崇守胡空堡。廣・崇聞登敗、出奔、眾散。登至、無所歸、遂奔平涼、收集遺眾入馬毛山。興率眾攻之、登遣子汝陰王宗質于隴西鮮卑乞伏乾歸、結婚請援、乾歸遣騎二萬救登。登引軍出迎、與興戰于山南、為興所敗、登被殺。在位九年、時年五十二。崇奔于湟中、僭稱尊號、改元延初。偽諡登曰高皇帝、廟號太宗。崇為乾歸所逐、崇・定皆死。
始、健以穆帝永和七年僭立、至登五世、凡四十有四歲、以孝武帝太元十九年滅。

1.「金溫」は、『資治通鑑』巻一百七は「金榮」につくる。 2.「逆方堡」は、姚萇載記は「逆萬堡」につくる。

訓読

馮翊の郭質 兵を廣鄉に起して以て登に應じ、檄を三輔に宣して曰く、「義は君子に感ぜしめ、利は小人を動す。吾ら生まれて先帝の堯舜の化に逢ひ、累世に恩を受く。常伯・納言の子に非ざれば、即ち卿校・牧守の胤なり。而らば坐して豺狼の君父を忍害するを視る可からず。裸は薦棘に尸し、痛は幽泉に結び、山陵に松隧の兆無く、靈主に清廟の頌無く、賊臣 莫大の甚は、古より未だ聞く所にあらず。茹荼の苦、銜蓼の辛と雖も、何を以て之れに諭へん。姚萇は凶を窮め害を肆にし、毒は人神を被ひ、圖讖曆數に於て萬に一分すら無く、而れども敢て妄りに重名を竊み、厚顏にして瞬息、日月の固より照さず、二儀の實に亦た育まざる所なり。皇天 之を絕やさんと欲すと雖も、亦た將に手を忠節に假りんとす。凡百の君子、皆 夙に神化を漸し、義方を懷く有らば、恥を含みて存すと、道を蹈みて沒すと孰若ぞ」と。眾 咸 之を然りとす。唯だ鄭縣の人の苟曜のみ從はず、眾數千を聚めて姚萇に應ず。登 質を以て平東將軍・馮翊太守と為す。質 部將を遣はして曜を伐たしめ、大いに敗りて歸る。質 乃ち東して楊楷を引き、以て聲援と為し、又 曜と鄭東に戰ひ、曜の敗る所と為り、遂に萇に歸す。萇 以て將軍と為し、質の眾は皆 潰散す。
登 雍より萇の將の金溫を范氏堡に攻め、之に克ち、遂に渭水を渡り、萇の京兆太守の韋范を段氏堡に攻むるに、克たず、進みて曲牢に據る。苟曜 眾一萬有り、逆方堡に據り、密かに登に應じ、登 曲牢の繁川を去り、馬頭原に次づ。萇 騎を率ゐて來たりて距み、大いに戰ひて之を敗り、其の尚書の吳忠を斬り、進みて新平を攻む。萇 眾を率ゐて之を救ひ、登 引き退き、復た安定を攻め、萇の敗る所と為り、路承堡に據る。
是の時 萇 疾病ありて、苻堅の祟りを為すを見る。登 之を聞き、馬に秣し兵を厲し、堅の神主に告げて曰く、「曾孫の登 自ら任を受けて戈を執り、幾ほ將に一紀ならんとす。未だ嘗て上天は錫祐し、皇鑒は垂矜せずんばあらず、所在に必ず克ち、賊旅は冰摧す。今 太皇帝の靈 災疢を逆羌に降す。形類を以て之を推すに、醜虜 必ず將た振はず。登 當に其の隕斃に因りて、天誅を順行し、梓宮を拯復し、罪を謝し廟を清むべし」と。是に於て境內を大赦し、百僚は位二等を進む。萇が將の姚崇と麥を清水に爭ひ、累ねて崇の敗る所と為る。進みて安定に逼り、城を去ること九十餘里なり。萇の疾 小しく瘳し、眾を率ゐて登を距ぐ。登 營を去りて萇に逆ひ、萇 其の將の姚熙隆を遣はして別に登が營を攻めしむ。登 懼れ、退き還る。萇 夜に軍を引き登が營の三十餘里を過ぎて以て登が後を躡む。旦となりて候人 告げて曰く、「賊の諸營 已に空なり、向ふ所を知らず」と。登 驚きて曰く、「此れ為すは何人ぞ。去りて我をして知らじめず、來たりて我をして覺らしめず、其の將に死せんと謂ふに、忽然と復た來り、朕 此の羌と與に世を同にするは、何ぞ其れ厄ならんか」と。遂に師を罷めて雍に還る。
竇衝を以て右丞相と為す。尋いで衝 叛し、自ら秦王を稱し、年號を建つ。登 之を野人堡に攻め、衝 救ひを姚萇に請ひ、萇 其の太子興を遣はして胡空堡を攻めて以て之を救ふ。登 兵を引きて還りて胡空堡に赴き、衝 遂に萇と連和す。
是に至り萇は死し、登 之を聞きて喜びて曰く、「姚興の小兒、吾 將に杖を折りて以て之を笞せんとす」と。是に於て大赦し、眾を盡くして東し、屠各の姚奴・帛蒲の二堡を攻め、之に克ち、甘泉より關中に向ふ。興 登を追ふも及ばざること數十里、登 六陌より廢橋に趣き、興の將の尹緯 橋に據りて以て之を待つ。登 水を爭ふも得ず、眾の渴死する者は十に二三なり。緯と大いに戰ひ、緯の敗る所と為り、其の夜に眾は潰え、登 單馬もて雍に奔る。
初め、登の東するや、其の弟の司徒廣を留めて雍を守らしめ、太子崇をして胡空堡を守らしむ。廣・崇 登の敗るるを聞くや、出奔し、眾は散ず。登 至り、歸する所無く、遂に平涼に奔り、遺眾を收集して馬毛山に入る。興 眾を率ゐて之を攻め、登 子の汝陰王宗を遣はして隴西鮮卑の乞伏乾歸に質として、婚を結び援を請ふ。乾歸 騎二萬を遣はして登を救ふ。登 軍を引きて出で迎へ、興と山南に戰ひ、興の敗る所と為り、登 殺さる。在位すること九年、時に年五十二なり。崇は湟中に奔り、尊號を僭稱し、延初を改元す。偽はりて登を諡して高皇帝と曰ひ、廟號は太宗なり。崇は乾歸の逐ふ所と為り、崇・定は皆 死す。
始め、健 穆帝の永和七年を以て僭立し、登に至るまで五世、凡そ四十有四歲なり。孝武帝の太元十九年を以て滅ぶ。

現代語訳

馮翊の郭質は広郷で起兵して苻登に応じ、檄を三輔に広め、「義は君子の心を動かし、利は小人の心を動かす。われらは生まれてから先帝の尭舜のような教化に出会い、累世に恩を受けた。私たちは常伯や納言の子でなければ、卿校や牧守の子孫である。ゆえに座して豺狼が君父を残忍に殺害するのを見逃せない。肌をトゲのなかに晒し、痛みは幽泉に結ばれ、山陵に墓地が営まれず、祭主に清廟の称賛がない。これほどの賊臣の害悪は、古から存在したことがない。苦い草をゆで、蓼を口にする辛苦でも、現状には譬えられない。姚萇は凶悪さをほしいままにし、害毒を人神に及ぼし、図讖や暦数に万分の一の徴証もないのに、みだりに重大な名号をぬすみ、図々しく瞬きと呼吸をし、日月にまったく照らされず、二儀(天地)に支えられていない。皇天はかれを絶やそうとしたが、忠節なふりをして(逃れて)いる。凡百の君子で、かねて神の教化を進め、正義を抱くものならば、(姚萇のもとで)恥を含んで生存するのと、道を踏んで死没するのとどちらがよいか」と言った。全員がその通りだと考えた。ただ鄭県の人の苟曜だけが従わず、数千の兵を集めて姚萇に呼応した。苻登は(檄文を発した)郭質を平東将軍・馮翊太守とした。郭質は部将を遣わして苟曜を討伐し、大いに破って帰った。郭質はその勢いで東に行って楊楷を招き、かれを声援(遠方の友軍)とし、ふたたび苟曜と鄭東で戦ったが、苟曜に敗れて、姚萇のもとに帰順した。姚萇はかれを将軍とし、郭質の兵はみな崩れて解散した。
苻登は雍から(出撃して)姚萇の将の金温を范氏堡で攻撃し、これに勝ち、ついに渭水を渡り、姚萇の京兆太守の韋范を段氏堡で攻めたが、勝てず、進んで曲牢に拠った。苟曜は一万の兵で、逆方堡に拠り、密かに苻登に応じた。苻登は曲牢の繁川を去り、馬頭原に駐留した。姚萇は騎兵で駆けつけて防ぎ、大いに戦ってこれを破り、その尚書の呉忠を斬り、進んで新平を攻めた。姚萇は兵を率いてこれを救い、苻登が撤退し、また安定を攻めたが、姚萇に敗れて、路承堡に拠った。
このとき姚萇は持病があり、苻堅の祟りに苦しめられた。苻登はこれを聞き、馬に秣を食わせて兵を励まし、苻堅の神主に告げて、「(苻堅の)曾孫の苻登は自ら任務を受けて武器を手にとり、もうすぐ十二年が経過します。かつて上天の加護を受け、皇天が憐れまなかったことがなく、各地で必ず勝ち、賊軍を破砕してきました。いま太皇帝の霊は災厄を逆賊の羌(姚萇)に降しています。このような事態から推測するに、敵軍はきっと士気が振るわないでしょう。わたくし苻登はかれの落ち目を利用し、天誅を実行し、天子の棺を取り戻して、罪を謝り廟を清めましょう」と言った。ここにおいて領内に大赦し、百僚は位二等を進めた。姚萇の将の姚崇と麦の刈り入れをめぐって清水で争い、しばしば姚崇に敗れた。進んで安定に逼り、城から九十里あまりの距離にきた。姚萇は病気が少し癒え、軍を率いて苻登を防いだ。苻登は軍営を去って姚萇に立ち向かったが、姚萇はその将の姚熙隆を派遣して別働隊として苻登の本営を攻撃させた。苻登は懼れ、撤退して帰った。姚萇は夜に軍を退けて苻登の幕営から三十里あまりの距離をとって苻登を追跡した。明け方になって(苻登の)斥候が告げて、「賊の諸営はすでに空です、どこに行ったか分かりません」と言った。苻登は驚いて、「(姚萇は)なんという人物だ。去るときは気づかれず、接近しても悟られず、死にかけても、忽然と出現する。朕がこの羌族と同じ時代に生まれたことが、なんと不幸であろうか」と言った。かくて軍を収めて雍に帰還した。
竇衝を右丞相とした。ほどなく竇衝が離叛し、自ら秦王を称し、年号を建てた。苻登がこれを野人堡で攻めると、竇衝は救いを姚萇に求めた。姚萇はその太子の姚興を派遣して胡空の堡を攻めてこれを救った。苻登は兵を率いて(竇衝の攻撃を中止し)退いて胡空堡に赴き、竇衝は姚萇と連携し同盟した。
ここに至って姚萇が死に、苻登はこれを聞いて喜び、「姚興の小児め、私は杖を折って姚興を笞で打ってやろう」と言った。ここにおいて大赦し、兵を総動員して東に行き、屠各の姚奴と帛蒲の二堡を攻め、これを破り、甘泉から関中に向かった。姚興は苻登を追ったが数十里の間隔があって追いつけなかった。苻登が六陌から廃橋にゆくと、姚興の将の尹緯はその橋に拠って苻登を待った。苻登は川(水源)を争ったが確保できず、水不足で死んだ兵が十人に二三であった。尹緯は大いに戦い、(苻登が)尹緯に敗れて、その夜に兵がくずれ、苻登は単騎で雍に奔った。
これよりさき、苻登が東に向かうと、その弟の司徒の苻広を留めて雍を守らせ、太子の苻崇に胡空堡を守らせた。姚広と苻崇は苻登が敗れたと聞き、逃げ出して、兵士は離散した。苻登が到着すると、帰る場所がなく、かくして平涼に逃げ、残兵を集めて馬毛山に入った。姚興は兵を率いてこれを攻め、苻登は子の汝陰王の苻宗を遣わして隴西の鮮卑の乞伏乾帰のもとでの人質とし、婚姻を結んで救援を求めた。乞伏乾帰は二万騎を派遣して苻登を救った。苻登は軍を率いて出迎え、姚興と山南で戦い、姚興に敗れ、苻登は殺された。在位すること九年、時に五十二歳であった。苻崇は湟中に逃げ込み、尊号を僭称し、延初と改元した。不当に苻登に諡して高皇帝とし、廟号を太宗とした。苻崇は乞伏乾帰から放逐され、苻崇と楊定はどちらも死んだ。
はじめ、苻健が穆帝の永和七(三五一)年に不当に帝位に立ち、苻登に至るまで五世、四十四年であった。孝武帝の太元十九(三九四)年に滅んだ。

原文

索泮字德林、敦煌人也。世為冠族。泮少時游俠、及長、變節好學、有佐世才器。張天錫輔政、以泮為冠軍・記室參軍。天錫即位、拜司兵、歷位禁中錄事。執法御掾、州府肅然、郡縣改迹。遷羽林左監、有勤榦之稱。出為中壘將軍・西郡武威太守・典戎校尉。政務寬和、戎夏懷其惠、天錫甚敬之。苻堅見而歎曰、「涼州信多君子」。既而以泮河西德望、拜別駕。
呂光既克姑臧、泮固郡不降、光攻而獲之。光曰、「孤既平西域、將赴難京師、梁熙無狀、絕孤歸路、此朝廷之罪人、卿何意阻郡固迷、自同元惡」。泮厲色責光曰、「將軍受詔討叛胡、可受詔亂涼州邪。寡君何罪、而將軍害之。泮但苦力寡、不能固守以報君父之讎、豈如逆氐彭濟望風反叛。主滅臣死、禮之常也」。乃就刑于市、神色不變。
弟菱有儁才、仕張天錫為執法中郎・宂從右監。苻堅世至伏波將軍・典農都尉、與泮俱被害。

訓読

索泮 字は德林、敦煌の人なり。世々冠族為り。泮 少き時 游俠たりて、長ずるに及び、變節して學を好み、佐世の才器有り。張天錫 輔政するや、泮を以て冠軍・記室參軍と為す。天錫 即位するや、司兵を拜し、禁中の錄事を歷位す。法を執り掾を御するや、州府 肅然たりて、郡縣 迹を改む。羽林左監に遷り、勤榦の稱有り。出でて中壘將軍・西郡武威太守・典戎校尉と為る。政務は寬和にして、戎夏 其の惠に懷き、天錫 甚だ之を敬ふ。苻堅 見て歎じて曰く、「涼州 信に君子多し」と。既にして泮 河西の德望たるを以て、別駕を拜せしむ。
呂光 既に姑臧を克つに、泮 郡を固めて降らず、光 攻めて之を獲ふ。光曰く、「孤 既に西域を平らぐれば、將に難を京師に赴かんとするに、梁熙 無狀にして、孤が歸路を絕ち、此れ朝廷の罪人なり。卿 何の意ありて郡を阻むこと固迷にして、自ら元惡を同にせんか」と。泮 色を厲まして光を責めて曰く、「將軍 詔を受けて叛胡を討ち、詔を受けて涼州を亂す可きや。寡君 何の罪ありて、而して將軍 之を害すか。泮 但だ力の寡なきに苦しみ、守を固めて以て君父の讎に報ゆる能はず。豈に逆氐の彭濟に如きて風を反叛に望まん。主 滅べば臣は死するは、禮の常なり」と。乃ち刑に市に就き、神色 變はらず。
弟の菱 儁才有り、張天錫に仕へて執法中郎・宂從右監と為る。苻堅の世に伏波將軍・典農都尉に至り、泮と與に俱に害せらる。

現代語訳

索泮は字を徳林といい、敦煌の人である。代々の冠族であった。索泮は若いときに游俠であったが、成長すると、態度を改めて学問を好み、天子を輔佐する才覚があった。張天錫が輔政すると、索泮を冠軍・記室参軍とした。張天錫が即位すると、司兵を拝し、禁中の録事を歴任した。法を掌り官吏を統括すると、州府は粛然となり、郡県は行動を引き締めた。羽林左監に遷り、勤幹(勤勉で才幹がある)と称賛された。転出して中塁将軍・西郡武威太守・典戎校尉となった。政務は寛容であり、胡族も漢族も恩恵に懐き、張天錫は索泮をとても敬った。苻堅がこれを見て感歎し、「涼州にはまことに君子が多い」と言った。索泮は河西の徳望であったので、別駕を拝した。
呂光が姑臧を破ると、索泮は郡を固めて降服せず、呂光は攻撃して索泮を捕らえた。呂光は、「私はすでに西域を平定し、京師の兵難に駆けつけようとするのに、梁熙は思慮が浅く、わが(長安への)帰路を断ち切った、かれは朝廷の罪人だ。あなたはなぜ郡の守りを固めて、凶悪なもの(梁熙)に協力したのか」と言った。索泮は血相をかえて呂光を責め、「将軍(呂光)は(前秦から)詔を受けて叛乱した胡族を討伐したのに、かえって詔を受けて涼州を乱してよいのか。わが君主になんの罪があり、あなたはかれを殺害したのか。この索泮はただ力不足が悔しい、守りを固めて君父の仇敵に報復できなかった。どうして逆賊の氐の(呂光を迎え入れた武威太守)彭済のように風に靡いて叛乱に加担するものか。主君が滅べば臣下は死ぬ、これは礼の常道である」と言った。市場で死刑を執行されるときも、堂々とした態度であった。
弟の索菱は俊才があり、張天錫に仕えて執法中郎・冗従右監となった。苻堅の時代に伏波将軍・典農都尉に至り、索泮とともに殺害された。

原文

徐嵩字元高、盛之子也。少以清白著稱。苻堅時舉賢良、為郎中、稍遷長安令、貴戚子弟犯法者、嵩一皆考竟、請託路絕。堅甚奇之、謂其叔父成曰、「人為長吏、故當應耳。此年少落落、有端貳之才」。遷守始平郡、甚有威惠。
及壘陷、姚方成執而數之、嵩厲色謂方成曰、「汝姚萇罪應萬死、主上止黃眉之斬而宥之、叨據內外、位為列將、無犬馬識養之誠、首為大逆。汝曹羌輩豈可以人理期也。何不速殺我、早見先帝、取姚萇于地下」。方成怒、三斬嵩、漆其首為便器。登哭之哀慟、贈車騎大將軍・儀同三司、諡曰忠武。

訓読

徐嵩 字は元高、盛の子なり。少くして清白を以て著稱せらる。苻堅 時に賢良を舉げ、郎中と為り、稍く長安令に遷る。貴戚の子弟にして法を犯す者あらば、嵩 一に皆 考竟し、請託は路に絕ゆ。堅 甚だ之を奇とし、其の叔父の成に謂ひて曰く、「人 長吏と為らば、故に當に應ずるのみ。此の年少 落落として、端貳の才有り」と。遷りて始平郡に守たりて、甚だ威惠有り。
壘 陷つるに及び、姚方成 執へて之を數むるに、嵩 色を厲して方成に謂ひて曰く、「汝 姚萇の罪は萬死に應ず、主上 黃眉の斬を止めて之を宥し、叨に內外に據らしめ、位は列將為り。犬馬に識養の誠無く、首として大逆を為す。汝曹の羌輩 豈に人理を以て期する可きや。何ぞ速やかに我を殺さざる。早く先帝に見え、姚萇を地下に取らん」と。方成 怒り、三たび嵩を斬り、其の首を漆して便器を為る。登 之に哭して哀慟し、車騎大將軍・儀同三司を贈り、諡して忠武と曰ふ。

現代語訳

徐嵩は字を元高といい、徐盛の子である。若くして清廉潔白で名声を得た。苻堅が賢良な人材を挙げさせたとき、郎中となり、やがて長安令に遷った。貴戚の子弟であろうと法を犯せば、手加減なく拷問したので、ちまたから口利きが絶えた。苻堅はかれを高く評価し、叔父の苻成に、「人は長吏になれば、立場に順応する。この若者は気骨があり、端貳(尚書僕射)の資質がある」と言った。遷って始平郡の太守となり、統治には威恵があった。
防塁が陥落すると、姚方成は徐嵩を捕らえて追及した。徐嵩は顔色を励まして姚方成に、「きみたちの姚萇の罪は万死に値する、主上は苻黄眉(苻健の兄の子、『晋書』巻百十二参照)を斬るのを中止し、みだりに内外に拠り所をあたえ、列将の位とした。しかし犬馬には見識も誠意もなく、大逆の首謀者となった。きみら羌族の連中に人間としての筋道を期待できようか。どうして速やかに私を殺さない。早く先帝にまみえ、姚萇を地下で捕らえよう」と言った。姚方成は怒り、三たび徐嵩を斬り、その頭に漆を塗って便器を作った。苻登は彼のために哭礼して悲しみ、車騎大将軍・儀同三司を贈り、諡して忠武とした。

原文

史臣曰、自兩京殄覆、九土分崩、赤縣成蛇豕之墟、紫宸遷鼃黽之穴、干戈日用、戰爭方興、猶逐鹿之並驅、若瞻烏之靡定。苻洪擅蠻陬之桀黠、乘羯虜之危亡、乃附款江東而志圖關右、禍生蠆毒、未逞狼心。健既承家、克隆凶緒、率思歸之眾、投山西之隙、據億丈之巖險、總三秦之果銳、敢窺大寶、遂竊鴻名、校數姦雄、有可言矣。長生慘虐、稟自率由。覩辰象之災、謂法星之夜飲、忍生靈之命、疑猛獸之朝飢。但肆毒于刑殘、曾無心於戒懼。招亂速禍、不亦宜乎。
永固雅量瓌姿、變夷從夏、叶魚龍之謠詠、挺草付之休徵、克翦姦回、纂承偽曆、遵明王之德教、闡先聖之儒風、撫育黎元、憂勤庶政。王猛以宏材緯軍國、苻融以懿戚贊經綸、權薛以諒直進規謨、鄧張以忠勇恢威略、雋賢效足、𣏌梓呈才、文武兼施、德刑具舉。乃平燕定蜀、擒代吞涼、跨三分之二、居九州之七、遐荒慕義、幽險宅心、因止馬而獻歌、託棲鸞以成頌、因以功侔曩烈、豈直化洽當年。雖五胡之盛、莫之比也。
既而足己夸世、愎諫違謀、輕敵怒鄰、窮兵黷武。懟三正之未叶、恥五運之猶乖、傾率土之師、起滔天之寇、負其犬羊之力、肆其吞噬之能。自謂戰必勝、攻必取、便欲鳴鸞禹穴、駐蹕疑山、疏爵以侯楚材、築館以須歸命。曾弗知、人道助順、神理害盈、雖矜涿野之強、終致昆陽之敗。遂使凶渠候隙、狡寇伺間、步搖啟其禍先、燒當乘其亂極、宗社遷於他族、身首罄于賊臣、貽戒將來、取笑天下、豈不哀哉。豈不謬哉。
苻丕承亂僭竊、尋及傾敗、斯可謂天之所廢、人不能支。苻登集離散之兵、厲死休之志、雖眾寡不敵、難以立功、而義烈慷慨、有足稱矣。
贊曰、洪惟壯勇、威棱氐種。健藉世資、遂雄關隴。長生昏虐、敗不旋踵。永固禎祥、肇自龍驤。垂旒負扆、竊帝圖王。患生縱敵、難起矜強。丕登僭假、淪胥以亡。

訓読

史臣曰く、兩京 殄覆し、九土 分崩してより、赤縣 蛇豕の墟と成り、紫宸 鼃黽の穴に遷り、干戈 日々用ひ、戰爭 方に興り、猶ほ鹿を逐ふの並驅がごとく、烏を瞻るの定むる靡きが若し。苻洪は蠻陬の桀黠を擅にし、羯虜の危亡に乘ず。乃ち江東に附款して志は關右を圖り、禍は蠆毒に生ずれども、未だ狼心を逞くせず。健 既に家を承ぎ、克く凶緒を隆くし、思歸の眾を率ゐ、山西の隙に投じ、億丈の巖險に據り、三秦の果銳を總べ、敢て大寶を窺ひ、遂に鴻名を竊み、姦雄を校數するに、言ふ可きもの有り。長生は慘虐たりて、稟 自ら率由す。辰象の災を覩て、法星の夜飲を謂ひ、生靈の命を忍び、猛獸の朝に飢うるを疑ふ。但だ毒を刑殘に肆にし、曾て戒懼に心無し。亂を招き禍を速むるは、亦た宜しからずや。
永固は雅量 瓌姿にして、夷に變り夏に從ひ、魚龍の謠詠を叶き、草付の休徵を挺し、姦回を克翦し、偽曆を纂承し、明王の德教に遵ひ、先聖の儒風を闡し、黎元を撫育し、庶政に憂勤す。王猛は宏材なるを以て軍國を緯り、苻融は懿戚なるを以て經綸に贊し、權・薛は諒直なるを以て規謨を進め、鄧・張は忠勇なるを以て威略を恢き、雋賢は足を效し、𣏌梓は才を呈し、文武 兼施し、德刑 具さに舉す。乃ち燕を平らげ蜀を定らげ、代を擒し涼を吞し、三分の二を跨し、九州の七に居り、遐荒は義を慕ひ、幽險は心を宅し、止馬に因りて歌を獻じ、棲鸞を託すに頌を成すを以てし、因りて功を以て曩烈に侔しく、豈に直だ化は當年を洽ふのみならんや。五胡の盛なると雖も、之に比する莫きなり。
既にして己は世を夸するに足り、諫を愎し謀に違ひ、敵を輕んじ鄰を怒らせ、兵を窮めて武を黷す。三正の未だ叶はざるに懟し、五運の猶ほ乖るるを恥じ、率土の師を傾け、滔天の寇を起し、其の犬羊の力を負ひて、其の吞噬の能を肆にす。自ら戰はば必ず勝ち、攻むれば必ず取ると謂ひ、便ち鸞を禹穴に鳴し、蹕を疑山に駐め、爵を疏にして以て楚材を侯ち、館を築きて以て歸命を須たんと欲す。曾て知らざりし、人道は順を助くるに、神理は盈を害し、涿野の強を矜ると雖も、終に昆陽の敗に致るを。遂に凶渠をして隙を候ひ、狡寇をして間を伺はしめ、步搖 其の禍の先を啟き、燒當 其の亂の極れるに乘じ、宗社 他族に遷り、身首 賊臣に罄し、戒めを將來に貽り、笑ひを天下に取れるは、豈に哀しかずや。豈に謬ならざるや。
苻丕は亂を承けて僭竊し、尋いで傾敗に及ぶ。斯れ天の廢する所、人の支ふ能はざると謂ふ可し。苻登 離散の兵を集め、死休の志を厲ます。眾寡 敵せず、以て功を立て難しと雖も、而れども義烈慷慨は、稱するに足る有り。
贊に曰く、洪は惟れ壯勇なり、威は氐種を棱す。健は世資を藉り、遂に關隴に雄たり。長生は昏虐にして、敗れて踵を旋さず。永固は禎祥にして、龍驤より肇む。旒を垂れ扆を負ひ、帝を竊みて王を圖る。患ひは敵を縱にするより生じ、難は強きを矜るより起る。丕・登が僭假は、淪胥して以て亡ぶ。

現代語訳

史臣はいう、両京(洛陽と長安)が覆滅し、天下全域が分解し崩れてから、赤県(漢族の土地)は蛇や豕の住処となり、紫宸殿はカエルの巣穴へと変化し、干戈を日々に使い、戦争が発生して、まるで鹿を逐って馬を並走させるようで、烏を見る屋敷がなくなった(人民は拠りどころを失った、『詩経』小雅 正月)。苻洪は胡族の村落において凶暴で狡猾さを現し、羯族(後趙)の存亡の危機に乗じた。江東(東晋)に服従して関右を支配しようと志し、毒虫のような禍いを生じたが、まだ狼のような心を発揮しなかった。苻健が家を継承すると、凶悪な事業を発展させ、帰郷を願う兵を率い、山西の隙に入り込み、深く険しい山岳に籠もり、三秦の果敢な精鋭を統率し、あえて大宝(帝位)を窺い、大きな名誉を盗んだ。姦雄ぶりを比較計量すれば、見るべきものがあった。 苻長生は残虐で、生まれつきの素質のまま振る舞った。天体の異常を見て、法星の夜飲を思い、生霊の命を忍び、猛獣が朝に飢えていることを疑った(未詳)。ただ残虐な刑罰によって害毒をたれ流し、戒めや畏れの心がなかった。乱を招いて災難を早めたのは、理由のあることではないか。
永固(苻堅)は大きな度量と稀有の姿をそなえ、胡族から変じて中夏に従い、(誕生のときに)魚や龍が予言を伝え、草付がめでたい徴証を現した。姦悪なものを打倒し、胡族の暦法を継承し、明王の徳教に従い、先聖の儒風を明らかにし、万民を撫育し、政治に精勤した。王猛は逸材として軍事と国政を整え、苻融は親族として統治を支え、権翼と薛讚は誠実さにより事業を進め、鄧羌と張蚝は忠勇さにより兵略を開き、俊賢は立派に働き、杞梓(優れた人材))は才能を現し、文と武を併用し、徳と刑をどちらも実行した。こうして燕と蜀を平定し、代を捕らえて涼を併呑し、天下の三分の二にまたがり、九州のうち七を治めた。異民族は義を慕い、地の果ての人々は心を寄せ、止馬の詩を作らせて献じ(無欲を示し)、棲鸞(鳳凰の巣)を歌って称賛し(ともに『晋書』巻百十三)、勲功は先賢に等しいもので、ただ教化を同時代に浸透させただけであろうか。五胡(の諸国)が盛んであるといえども、これに匹敵するものはない。
自国が栄えて驕り高ぶると、諫言や謀略を顧みず、敵を軽んじて隣国を怒らせ、兵を動員して武を汚した。三正(夏殷周の三代)に敵わないことを怨み、五徳の運行から乖離していることに恥じ、全土の軍を傾けて、天に届くような大軍を起こし、犬羊の力を振るって、侵略の野心を露わにした。戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず奪えると自称し、鳳皇を禹の葬地で鳴かせ、先払いを疑山(舜を葬った九疑山)に留め、爵位をばら撒いて楚(東晋)の人材を待ち、邸宅を築いて帰順する者を待ち受けた。さて知らないのか、人の道は天にしたがう者を助け、神の理は増長したものを削り、涿野(未詳)で強さを誇っても、最終的に昆陽での敗北に到ったことを。凶悪なものが隙を伺い、狡猾な胡族が付け込み、歩搖(慕容氏)が災禍の先端を開き、焼当羌が混乱の極致に乗じ、宗廟と社稷が他の一族の手に移り、皇帝は賊臣のなかで滅びた。戒めを将来にのこし、笑いを天下に取ったのは、哀しいことではないか。ひどい過ちではないか。
苻丕は戦乱の後を受けて帝位を僭称したが、ほどなく傾覆し敗北した。これは天が廃位したのであり、人間には支えられなかったと言えよう。苻登は離散した兵を集めて、死ぬまでやまない志を励ました。しかし少数では多数に敵わず、功績を立てることは難しかったが、忠義の烈士たちの奮闘は、称賛に足るものであった。
賛にいう、苻洪は勇壮であり、威勢が氐族のなかで突出した。苻健は家柄の力を活用し、ついに関隴地方の第一人者となった。長生(苻生)は暗愚で残虐で、(反乱軍に)追い詰められても(泥酔して)きびすを返さず殺された。永固(苻堅)は瑞祥を受けて、龍驤将軍の地位から身を立てた。玉だれを着けて屏風を背にし、帝位を盗んで王業を行おうとした。(淝水での敗北という)患いは敵軍(東晋)を蹂躙したときに生じ、(諸族が離反する)苦難は強さを誇ったことから起こった。苻丕と苻登は帝位を僭称したが、立て続けに滅亡した。