いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第十六巻_後秦_姚弋仲・姚襄・姚萇

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。可能な範囲で『晋書』の文意を拾ったつもりですが、史実を確定させるならば、『十六国春秋』との比較検証が必要となると思われます。

姚弋仲

原文

姚弋仲、南安赤亭羌人也。其先有虞氏之苗裔。禹封舜少子於西戎、世為羌酋。其後燒當雄於洮罕之間、七世孫填虞、漢中元末寇擾西州、為楊虛侯馬武所敗、徙出塞。虞九世孫遷那率種人內附、漢朝嘉之、假冠軍將軍・西羌校尉・歸順王、處之於南安之赤亭。那玄孫柯迴為魏鎮西將軍・綏戎校尉・西羌都督。迴生弋仲、少英毅、不營產業、唯以收恤為務、眾皆畏而親之。永嘉之亂、東徙榆眉、戎夏繈負隨之者數萬、自稱護西羌校尉・雍州刺史・扶風公。
劉曜之平陳安也、以弋仲為平西將軍、封平襄公、邑之于隴上。及石季龍克上邽、弋仲說之曰、「明公握兵十萬、功高一時、正是行權立策之日。隴上多豪、秦風猛勁、道隆後服、道洿先叛、宜徙隴上豪強、虛其心腹、以實畿甸。」季龍納之、啟勒以弋仲行安西將軍・六夷左都督。後晉豫州刺史祖約奔於勒、勒禮待之、弋仲上疏曰、「祖約殘賊晉朝、逼殺太后、不忠於主、而陛下寵之、臣恐姦亂之萌、此其始矣。」勒善之、後竟誅約。
勒既死、季龍執權、思弋仲之言、遂徙秦雍豪傑於關東。弋仲率部眾數萬遷于清河、拜奮武將軍・西羌大都督、封襄平縣公。及季龍廢石弘自立、弋仲稱疾不賀。季龍累召之、乃赴、正色謂季龍曰、「奈何把臂受託而反奪之乎」。季龍憚其強正而不之責。遷持節・十郡六夷大都督・冠軍大將軍。性清儉鯁直、不修威儀、屢獻讜言、無所迴避、季龍甚重之。朝之大議、靡不參決、公卿亦憚而推下之。武城左尉、季龍寵姬之弟也、曾擾其部、弋仲執尉、數以迫脅之狀、命左右斬之。尉叩頭流血、左右諫、乃止。其剛直不回、皆此類也。

訓読

姚弋仲、南安赤亭の羌人なり。其の先 有虞氏の苗裔なり。禹 舜の少子を西戎に封じ、世々羌酋と為る。其の後 燒當 洮罕の間に雄たり、七世孫の填虞、漢の中元末 西州を寇擾し、楊虛侯馬武の為に敗られ、徙りて塞を出づ。虞の九世孫たる遷那 種人を率ゐて內附し、漢朝 之を嘉し、假冠軍將軍・西羌校尉・歸順王とし、之を南安の赤亭に處らしむ。那の玄孫たる柯迴 魏の鎮西將軍・綏戎校尉・西羌都督と為る。迴 弋仲を生み、少くして英毅なり、產業を營まず、唯だ收恤を以て務めと為し、眾 皆 畏れて之に親しむ。永嘉の亂に、東のかた榆眉に徙り、戎夏 繈負して之に隨ふ者 數萬、護西羌校尉・雍州刺史・扶風公を自稱す。
劉曜の陳安を平するや、弋仲を以て平西將軍と為し、平襄公に封じ、之を隴上に邑す。石季龍 上邽に克つに及び、弋仲 之に說きて曰く、「明公 兵十萬を握り、功は一時に高く、正に是れ行權立策の日なり。隴上 豪多く、秦風 猛勁にして、道 隆くして後に服し、道 洿(よご)れて先に叛す、宜しく隴上の豪強を徙し、其の心腹を虛にし、以て畿甸を實すべし」と。季龍 之を納れ、勒に啟して弋仲を以て行安西將軍・六夷左都督とす。後に晉の豫州刺史の祖約 勒に奔り、勒 禮もて之に待し、弋仲 上疏して曰く、「祖約 晉朝に殘賊たり、逼りて太后を殺し、主に忠たらず、而れども陛下 之を寵す、臣 姦亂の萌、此に其れ始まるを恐る」と。勒 之を善とし、後に竟に約を誅す。
勒 既に死し、季龍 權を執り、弋仲の言を思ひ、遂に秦雍の豪傑を關東に徙す。弋仲 部眾數萬を率ゐて清河に遷り、奮武將軍・西羌大都督を拜し、襄平縣公に封ぜらる。季龍 石弘を廢して自立するに及び、弋仲 疾と稱して賀せず。季龍 累りに之を召し、乃ち赴き、色を正して季龍に謂ひて曰く、「奈何 臂を把りて託を受けながら反りて之を奪ふか」と。季龍 其の強正を憚りて之を責めず。持節・十郡六夷大都督・冠軍大將軍に遷る。性は清儉鯁直にして、威儀を修めず、屢々讜言を獻じ、迴避する所無く、季龍 甚だ之を重んず。朝の大議、參決せざる靡く、公卿も亦た憚りて推して之に下る。武城の左尉は、季龍の寵姬の弟なり、曾て其の部を擾がし、弋仲 尉を執へ、數(せ)むるに迫脅の狀を以てし、左右に命じて之を斬らしむ。尉 叩頭し流血し、左右 諫め、乃ち止む。其の剛直不回、皆 此の類なり。

現代語訳

姚弋仲は、南安の赤亭の羌人である。祖先は有虞氏の末裔。禹が舜の幼子を西戎に封建すると、代々羌族の酋長となった。子孫の焼当羌が洮罕の間の支配者になり、七世孫の填虞は、漢の中元末(-西暦五七)に西州を侵略し、楊虚侯の馬武に敗れ、塞外に出た。填虞の九世孫である遷那は種族を率いて臣従し、漢王朝に歓迎され、仮冠軍将軍・西羌校尉・帰順王となり、南安の赤亭に住まわされた。遷那の玄孫である柯迴は魏の鎮西将軍・綏戎校尉・西羌都督となった。柯迴が弋仲を生み、弋仲は若くして勇敢で壮健であり、生業を営まず、賑恤を行い、みな畏敬した。永嘉の乱のとき、東のかた榆眉に移り、漢族も胡族もこぞって数万が従い、護西羌校尉・雍州刺史・扶風公を自称した。
劉曜が陳安を平定すると、弋仲を平西将軍とし、平襄公に封じ、隴上を食邑とした。石季龍が上邽を破ると、弋仲は、「明公は兵十万を握り、功績が当世に高く、政権を作り戦略を打ち立てる時期です。隴上は豪族が多く、秦の風土は勇強なので、道義が高まれば服従しますが、道義が廃れれば真っ先に裏切ります、隴上の豪族を移住させ、彼らの本拠地の人口を減らし、中心地に補充しなさい」と言った。石季龍は採用し、石勒に推薦して弋仲を行安西将軍・六夷左都督とした。のちに晋王朝の豫州刺史である祖約が石勒のもとに逃げ込み、石勒が礼遇したが、弋仲は上疏し、「祖約は晋王朝の残虐な悪党です、迫って太后を殺した、不忠者ですが、陛下は寵遇しています、私は禍乱の兆しが、彼から始まるのが心配です」と言った。石勒は頷き、のちに祖約を誅殺した。
石勒が死に、石季龍が執権すると、弋仲の提言を思い出し、秦州と雍州の豪族を関東に移住させた。弋仲は配下の数万を率いて清河に遷り、奮武将軍・西羌大都督を拝し、襄平県公に封じられた。石季龍が石弘を廃位して自立すると、弋仲は病気と称して祝賀しなかった。季龍がしつこく召すと、会って、顔色を正して石季龍に、「なぜ腕を握って(後事を)託されたのに簒奪したのですか」と言った。季龍はまっすぐさを憚って反論しなかった。持節・十郡六夷大都督・冠軍大将軍に遷った。性格は清らかで慎ましく剛直であり、権威にひれ伏さず、しばしば直言し、遠慮がないので、季龍に重んじられた。朝廷の重要な議題は、必ず決裁に関わり、公卿も憚って意見に従った。武城の左尉は、季龍の寵姫の弟であったが、部下が争議を起こしたので、弋仲は左尉を捕らえ、脅迫をしたとして、左右に斬れと命じた。左尉が叩頭して流血し、左右が諫めたので、死刑を見合わせた。その剛直で折れない性格は、このようであった。

原文

季龍末、梁犢敗李農於滎陽、季龍大懼、馳召弋仲。弋仲率其部眾八千餘人屯于南郊、輕騎至鄴。時季龍病、不時見弋仲、引入領軍省、賜其所食之食。弋仲怒不食、曰、「召我擊賊、豈來覓食邪。我不知上存亡、若一見、雖死無恨。」左右言之、乃引見。弋仲數季龍曰、「兒死來愁邪。乃至於疾。兒小時不能使好人輔相、至令相殺。兒自有過、責其下人太甚、故反耳。汝病久、所立兒小、若不差、天下必亂。當宜憂此、不煩憂賊也。犢等因思歸之心、共為姦盜、所行殘賊、此成擒耳。老羌請效死前鋒、使一舉而了。」弋仲性狷直、俗無尊卑皆汝之、季龍恕而不責、於坐授使持節・侍中・征西大將軍、賜以鎧馬。弋仲曰、「汝看老羌堪破賊以不。」於是貫鉀跨馬于庭中、策馬南馳、不辭而出、遂滅梁犢。以功加劍履上殿、入朝不趨、進封西平郡公。
冉閔之亂、弋仲率眾討閔、次於混橋。石祗僭號于襄國、以弋仲為右丞相、待以殊禮。祗與閔相攻、弋仲遣其子襄救祗、戒襄曰、「汝才十倍於閔、若不梟擒、不須復見我也。」襄擊閔於1.常盧澤、大破之而歸。弋仲怒襄之不擒閔也、杖之一百。弋仲部曲馬何羅博學有文才、張豺之輔石世也、背弋仲歸豺、豺以為尚書郎。豺敗、復歸、咸勸殺之。弋仲曰、「今正是招才納奇之日、當收其力用、不足害也。」以為參軍。其寬恕如此。
弋仲有子四十二人、常戒諸子曰、「吾本以晉室大亂、石氏待吾厚、故欲討其賊臣以報其德。今石氏已滅、中原無主、自古以來未有戎狄作天子者。我死、汝便歸晉、當竭盡臣節、無為不義之事。」乃遣使請降。永和七年、拜弋仲使持節・六夷大都督・2.都督江淮諸軍事・車騎大將軍・儀同三司・大單于、封高陵郡公。八年、卒、時年七十三。子襄之入關也、為苻生所敗、弋仲之柩為生所得、生以王禮葬之於天水冀縣。萇僭位、追諡曰景元皇帝、廟號始祖、墓曰高陵、置園邑五百家。

1.「常盧澤」は「長盧澤」に作るのが正しい。後秦の史官が、姚萇の避諱をしたものが、改められず残ったという。
2.「江淮」は、『太平御覧』巻百二十三に引く『後秦録』と『資治通鑑』巻九十九は「江北」に作り、胡三省注は「河北」とするべきか、と指摘している。支配領域に鑑み、胡三省と思われるという。

訓読

季龍の末、梁犢 李農を滎陽に敗り、季龍 大いに懼れ、馳せて弋仲を召す。弋仲 其の部眾八千餘人を率ゐて南郊に屯し、輕騎もて鄴に至る。時に季龍 病み、時に弋仲に見えず、引きて領軍省に入れ、其の食らふ所の食を賜ふ。弋仲 怒りて食はず、曰く、「我を召すは賊を擊つなり、豈に來りて食を覓(もと)むるや。我 上の存亡を知らず、若し一たび見れば、死すると雖も恨み無し」と。左右 之を言ひ、乃ち引きて見る。弋仲 季龍を數めて曰く、「兒 死して來(この)かた愁ふや、乃ち疾に至る。兒小 時に好人をして輔相せしむ能はず、相 殺さしむに至る。兒に自ら過有り、其の下人を責むること太だ甚し、故に反すのみ。汝 病みて久し、立つる所 兒小なり、若し差(い)えざれば、天下 必ず亂れん。當に宜しく此を憂ふべし、賊を憂ふことに煩はざれ。(梁)犢ら因りて歸を思ふの心、共に姦盜を為し、行ふ所は殘賊にして、此れ擒と成すのみ。老羌 請ふ死を前鋒に效し、一舉して了はらしむ」と。弋仲の性は狷直にして、俗に尊卑と無く皆 之を汝といひ、季龍 恕して責めず、坐に於て使持節・侍中・征西大將軍を授け、賜ふに鎧馬を以てす。弋仲曰く、「汝 老羌 賊を破るに堪ふるや以不(いなや)」と。是に於て庭中に鉀を貫き馬に跨り、馬に策ちて南馳し、辭せずして出で、遂に梁犢を滅す。功を以て劍履上殿、入朝不趨を加へ、進みて西平郡公に封ず。
冉閔の亂に、弋仲 眾を率ゐて閔を討ち、混橋に次る。石祗 襄國に僭號し、弋仲を以て右丞相と為し、待するに殊禮を以てす。祗 閔と相 攻め、弋仲 其の子たる襄を遣はして祗を救ふに、襄を戒めて曰く、「汝の才 閔に十倍す、若し梟擒せざれば、須らく復た我に見るべからず」と言った。襄 閔を常盧澤に擊ち、大いに之を破りて歸る。弋仲 襄の閔を擒へざるを怒るや、之を杖すること一百なり。弋仲の部曲たる馬何羅 博學にして文才有り、張豺の石世を輔するや、弋仲に背きて豺に歸し、豺 以て尚書郎と為す。豺 敗れ、復た歸り、咸 之を殺すことを勸む。弋仲曰く、「今 正に是れ才を招き奇を納るるの日なり、當に其の力を收めて用ふ、害するに足らざるなり」と。以て參軍と為す。其の寬恕たること此の如し。
弋仲 子四十二人有り、常に諸子に戒めて曰く、「吾 本は晉室の大亂し、石氏 吾を待すること厚きを以て、故に其の賊臣を討ちて以て其の德に報いんと欲す。今 石氏 已に滅び、中原に主無く、自古以來 未だ戎狄にして天子と作る者有らず。我 死せば、汝 便ち晉に歸し、當に臣節を竭盡し、不義の事を為す無かれ」と。乃ち使を遣はして降らんことを請ふ。永和七年、弋仲に使持節・六夷大都督・都督江淮諸軍事・車騎大將軍・儀同三司・大單于を拜し、高陵郡公に封ず。八年、卒し、時に年七十三なり。子の襄の關に入るや、苻生の為に敗られ、弋仲の柩 生の為に得られ、生 王禮を以て之を天水冀縣に葬る。萇 位を僭するや、追諡して景元皇帝と曰ひ、廟を始祖と號し、墓を高陵と曰ひ、園邑五百家を置く。

現代語訳

石季龍の末期、梁犢が(後趙の)李農を滎陽で破り、季龍は大いに懼れ、馬を飛ばして弋仲を召した。弋仲は配下八千餘人を率いて南郊に駐屯し、軽騎で鄴に到着した。ときに季龍は病み、すぐに会えず、弋仲は領軍省に招かれ、彼らと同じ食料を与えられた。弋仲は怒って食わず、「私を召したのは賊を撃つためだ、なぜ食料をねだろうか。私は主上(季龍)の病状が分からぬ、もし一目でも会えれば、死んでも恨まぬ」と言った。左右が報告し、面会できた。弋仲は季龍を責め、「小児(幼君)を死なせたことを後悔し、病んだのか。幼君に適任の補佐官を付けられず、殺害という結果となった。幼君自身に問題があったが、補佐官に大きな責任があったから、謀反となってしまった。汝(お前)は病んで久しく、現在の君主も幼少だ、もし癒えねば、天下は乱れる。これを心配すべきであり、賊(梁犢)を心配する必要はない。(梁)犢らは帰郷を願い、盗賊のように、残虐な行為をした、捕らえれば片付こう。この老羌(弋仲)が前鋒で死戦を引き受けよう、すぐ終わらせる」と言った。弋仲の性格はまっすぐで、相手の身分に関係なく汝(お前)と呼ぶが、季龍はとがめず、その場で使持節・侍中・征西大将軍を授け、鎧馬を賜った。弋仲は、「汝はこの老羌が賊を破るまで死なずに待てるか」と言った。庭中で鎧に袖を通して馬にまたがり、鞭うって南に駆け、挨拶せず城を去り、梁犢を滅ぼした。功績により剣履上殿、入朝不趨を加へ、西平郡公に進めた。
冉閔が反乱すると、弋仲がこれを討伐し、混橋に停泊した。石祗が襄國で僭号すると、弋仲を右丞相とし、殊礼で待遇した。石祗が冉閔と抗争したので、弋仲は子の姚襄を派遣して石祗を救わせたが、姚襄に、「汝の才は冉閔に十倍する、もし捕獲できねば、もう帰ってくるな」と釘を刺した。姚襄は冉閔を常盧沢(長盧沢)で攻撃し、大いに撃破して帰った。弋仲は姚襄が冉閔を捕らえ損ねたのを怒り、杖で百回叩いた。弋仲の部曲である馬何羅は博学で文才があったが、張豺が石世を補佐すると、弋仲に背いて張豺のもとに移り、張豺は彼を尚書郎とした。張豺が敗れると、出戻ったが、みな馬何羅を殺せと勧めた。弋仲は、「今日は才能ある人を招き用いるべき時期だ、彼の有能さを活用しよう、殺害するには及ばぬ」と言った。参軍とした。弋仲の寛容さはこのようであった。
弋仲は四十二人の子がおり、つねに子供たちを戒め、「晋王朝が大いに乱れ、私は石氏から厚遇されたから、石氏にとっての賊臣を討って恩徳に報いたいと考えた。もう石氏が滅び、中原に君主がおらず、先古より戎狄出身で天子になった者はいない。私が死ねば、お前たちは東晋に帰順し、臣節を尽くせ、不義を働くな」と言った。降服の使者を(東晋に)送った。永和七(三五一)年、弋仲に使持節・六夷大都督・都督江淮(正しくは河北か)諸軍事・車騎大将軍・儀同三司・大単于を拝し、高陵郡公に封じた。永和八(三五二)年、卒し、七十三歳であった。子の姚襄が関中に入ると、苻生に敗れ、弋仲の柩は苻生に奪われ、苻生は王礼で天水冀県に葬った。姚萇が即位すると、追諡して景元皇帝といい、廟を始祖と号し、墓を高陵といい、園邑五百家を置いた。

姚襄

原文

襄字景國、弋仲之第五子也。年十七、身長八尺五寸、臂垂過膝、雄武多才藝、明察善撫納、士眾愛敬之、咸請為嗣。弋仲弗許、百姓固請者日有千數、乃授之以兵。石祗僭號、以襄為使持節・驃騎將軍・護烏丸校尉・豫州刺史・新昌公。晉遣使拜襄持節・平北將軍・并州刺史・即丘縣公。
弋仲死、襄祕不發喪、率戶六萬南攻陽平・元城・發干、皆破之、殺掠三千餘家、屯於碻磝津。以太原王亮為長史、天水尹赤為司馬、略陽伏子成為左部帥、南安斂岐為右部帥、略陽王黑那為前部帥、強白為後部帥、太原薛讚・略陽權翼為參軍。南至滎陽、始發喪行服。與高昌・李歷戰於麻田、馬中流矢死、賴其弟萇以免。晉處襄於譙城、遣五弟為任、單騎度淮、見豫州刺史謝尚於壽春。尚命去仗衞、幅巾以待之、一面交款、便若平生。
襄少有高名、雄武冠世、好學博通、雅善談論、英濟之稱著于南夏。中軍將軍・楊州刺史殷浩憚其威名、乃因襄諸弟、頻遣刺客殺襄、刺客皆推誠告實、襄待之若舊。浩潛遣將軍魏憬率五千餘人襲襄、襄乃斬憬而并其眾。浩愈惡之、乃使將軍劉啟守譙、遷襄于梁國蠡臺、表授梁國內史。襄遣權翼詣浩、浩曰、「姚平北每舉動自由、豈所望也。」翼曰、「將軍輕納姦言、自生疑貳、愚謂猜嫌之由、不在於彼。」浩曰、「姚君縱放小人、盜竊吾馬、王臣之禮固若是乎。」翼曰、「將軍謂姚平北以威武自強、終為難保、校兵練眾、將懲不恪、取馬者欲以自衞耳。」浩曰、「何至是也。」浩遣謝萬討襄、襄逆擊破之。浩甚怒、會聞關中有變、浩率眾北伐、襄乃要擊浩於山桑、大敗之、斬獲萬計、收其資仗。使兄益守山桑壘、復如淮南。浩遣劉啟・王彬之伐山桑、襄自淮南擊滅之、鼓行濟淮、屯于盱眙、招掠流人、眾至七萬、分置守宰、勸課農桑、遣使建鄴、罪狀殷浩、并自陳謝。

訓読

襄 字は景國、弋仲の第五子なり。年十七にして、身長八尺五寸、臂 垂れて膝を過ぎ、雄武にして才藝多く、明察にして善く撫納し、士眾 之を愛敬し、咸 嗣を為すことを請ふ。弋仲 許さず、百姓 固く請ふ者 日に千數有り、乃ち之を授くるに兵を以てす。石祗 僭號するや、襄を以て使持節・驃騎將軍・護烏丸校尉・豫州刺史・新昌公と為す。晉 使を遣はして襄に持節・平北將軍・并州刺史・即丘縣公を拜す。
弋仲 死し、襄 祕して喪を發せず、戶六萬を率ゐて南のかた陽平・元城・發干を攻め、皆 之を破り、三千餘家を殺掠し、碻磝津に屯す。太原の王亮を以て長史と為し、天水の尹赤を司馬と為し、略陽の伏子成を左部帥と為し、南安の斂岐を右部帥と為し、略陽の王黑那を前部帥と為し、強白を後部帥と為し、太原の薛讚・略陽の權翼を參軍と為す。南のかた滎陽に至り、始めて喪を發して服を行ふ。高昌・李歷と麻田に戰ひ、馬 流矢に中りて死し、其の弟たる萇を賴りて以て免る。晉 襄を譙城に處し、五弟を遣はして任と為し、單騎にて淮を度り、豫州刺史の謝尚に壽春に於いて見ゆ。尚 命じて仗衞を去り、幅巾して以て之に待し、一面の交款、便ち平生の若し。
襄 少くして高名有り、雄武 世に冠たり、學を好み博通し、雅より談論を善くし、英濟の稱 南夏に著はる。中軍將軍・楊州刺史の殷浩 其の威名を憚り、乃りて襄の諸弟を因(とら)へ、頻りに刺客を遣はして襄を殺し、刺客 皆 誠を推して實を告げ、襄 之を待すること舊の若し。浩 潛かに將軍の魏憬を遣はして五千餘人を率ゐて襄を襲ひ、襄 乃ち憬を斬りて其の眾を并す。浩 愈々之を惡み、乃ち將軍の劉啟をして譙を守らしめ、襄を梁國蠡臺に遷し、表して梁國內史を授く。襄 權翼を遣りて浩に詣り、浩曰く、「姚平北 每に舉動は自由なり、豈に望む所あらんや」と。翼曰く、「將軍 輕々しく姦言を納れ、自ら疑貳を生む、愚 謂へらく猜嫌の由、彼に在らず」と。浩曰く、「姚君 小人を縱放にし、吾が馬を盜竊す、王臣の禮 固より是の若きや」と。翼曰く、「將軍 謂へらく姚平北の威武を以て自強にして、終に保ち難きと為り、兵を校(あ)てて眾を練し、將に不恪を懲らさんとす、馬を取る者は以て自衞せんと欲するのみ」と。浩曰く、「何にして是に至るや」と。浩 謝萬を遣はして襄を討たしめ、襄 逆擊して之を破る。浩 甚だ怒り、會 關中 變有りと聞き、浩 眾を率ゐて北伐するに、襄 乃ち浩を山桑に要擊し、大いに之を敗り、斬獲すること萬を計へ、其の資仗を收む。兄の益をして山桑壘を守らしめ、復た淮南に如く。浩 劉啟・王彬を遣はして山桑を伐ち、襄 淮南より之を擊滅し、鼓行して淮を濟り、盱眙に屯し、流人を招掠し、眾 七萬に至り、分ちて守宰を置き、農桑を勸課し、使を建鄴に遣はし、殷浩を罪狀し、并せて自ら陳謝す。

現代語訳

姚襄は字を景国といい、弋仲の第五子である。十七歳のとき、身長は八尺五寸、腕を垂らすと膝を超え、武雄をそなえて才芸が多く、判断力に優れて人材を歓迎し、士衆から敬愛されて、みなが後継者に推した。弋仲が許さぬと、推薦者が日ごとに千を数えたので、兵を授けた。石祗が僭号すると、姚襄を使持節・驃騎将軍・護烏丸校尉・豫州刺史・新昌公とした。東晋は使者を遣わして姚襄に持節・平北将軍・并州刺史・即丘県公を拝した。
弋仲が死ぬと、姚襄は喪を発せず、六万戸を率いて南下して陽平・元城・発干を攻め、これらを破り、三千餘家から掠奪と殺害をして、碻磝津に駐屯した。太原の王亮を長史とし、天水の尹赤を司馬とし、略陽の伏子成を左部帥とし、南安の斂岐を右部帥とし、略陽の王黒那を前部帥とし、強白を後部帥とし、太原の薛讃・略陽の権翼を参軍とした。南下して栄陽に至り、初めて喪を発してこれに服した。高昌・李歴と麻田で戦い、馬が流矢に当たって死んだので、弟の姚萇を頼って脱出した。東晋が姚襄を譙城に配置すると、五人の弟を質任として送り、(姚襄は)単騎で淮水を渡り、豫州刺史の謝尚と寿春で面会した。謝尚が命じて護衛を去らせ、幅巾を着けて会い、一目会って話せば、親友のようであった。
姚襄は若くして高名があり、武勇は当世の筆頭であり、学を好み博識で、談論を得意とし、英雄の呼び声が江南に知れわたった。中軍将軍・楊州刺史の殷浩は彼の威名を憚り、姚襄の弟らを捕らえ、何度も姚襄に刺客を送ったが、刺客は説得されて白状してしまい、姚襄は旧知のように刺客と接した。殷浩は秘かに将軍の魏憬に五千餘人を率いて姚襄を襲わせたが、姚襄は魏憬を斬って軍勢を吸収した。殷浩はますます警戒し、将軍の劉啓に譙を守らせ、姚襄を梁国の蠡台に遷し、上表して梁国内史を授けた。姚襄は権翼を殷浩のもとに送り、殷浩が、「姚平北(平北将軍の姚襄)はいつも行動が自由だが、他意があるのだろう」と言った。権翼は、「将軍(殷浩)は軽々しく姦言を信じ、勝手に疑いを持っています、私が思うに嫌疑の原因は、彼(姚襄)の側にはありません」と言った。殷浩は、「姚君はつまらぬ人物を野放しにし、わが馬を盗んだが、それが王臣の礼かね」と言った。権翼は、「将軍は姚平北が武威を強め、制御不能になると思い、軍勢を対抗させて訓練し、不敬を咎めようとしています、馬を奪ったのは自衛のためです」と言った。殷浩は、「なぜこうなってしまった」と言った。殷浩は謝萬に姚襄を討伐させたが、姚襄が迎撃して破った。殷浩は激怒して、ちょうど関中に事変があったので、殷浩が北伐に取り掛かったが、姚襄がこれを山桑で襲撃し、大いに破り、斬獲したものは万を数え、軍事物資を手に入れた。兄の姚益に山桑塁を守らせ、再び淮南に行った。殷浩は劉啓・王彬に山桑を討伐させたが、姚襄は淮南を起点にして彼らを撃滅し、軍鼓を鳴らして淮水を渡り、盱眙に駐屯し、流浪者を収容し、軍勢が七万に至ったので、部隊を編成して守宰を置き、農桑に従事させ、使者を建鄴に送り、殷浩の罪を報告し、合わせて非を詫びた。

原文

流人1.郭斁等千餘人執晉2.堂邑內史劉仕降于襄、朝廷大震、以吏部尚書周閔為中軍將軍、緣江備守。襄將佐部眾皆北人、咸勸襄北還。襄方軌北引、自稱大將軍・大單于、進攻外黃、為晉邊將所敗。襄收散卒而勤撫恤之、於是復振。乃據許昌、將如河東以圖關右、自許遂攻洛陽、踰月不克。其長史王亮諫襄曰、「公英略蓋天下、士眾思效力命、不可損威勞眾、守此孤城。宜還河北、以弘遠略。」襄曰、「洛陽雖小、山河四塞之固、亦是用武之地。吾欲先據洛陽、然後開建大業。」俄而亮卒、襄哭之甚慟、曰、「天將不欲成吾事乎。王亮捨我去也。」
晉征西大將軍桓溫自江陵伐襄、戰於伊水北、為溫所敗、率麾下數千騎奔于北山。其夜、百姓棄妻子隨襄者五千餘人、屯據陽鄉、赴者又四千餘戶。襄前後敗喪數矣、眾知襄所在、輒扶老攜幼奔馳而赴之。時或傳襄創重不濟、溫軍所得士女莫不北望揮涕。其得物情如此。先是、弘農楊亮歸襄、襄待以客禮。後奔桓溫、溫問襄於亮、亮曰、「神明器宇、孫策之儔、而雄武過之。」其見重如是。
襄尋徙北屈、將圖關中、進屯杏城、遣其從兄輔國姚蘭略地鄜城、使其兄益及將軍王欽盧招集北地戎夏、歸附者五萬餘戶。苻生遣其將苻飛拒戰、蘭敗、為飛所執。襄率眾西引、生又遣苻堅・鄧羌等要之。襄將戰、沙門智通固諫襄、宜厲兵收眾、更思後舉。襄曰、「二雄不俱立、冀天不棄德以濟黎元、吾計決矣。」會羌師來逼、襄怒、遂長驅而進、戰于三原。襄敗、為堅所殺、時年二十七、是歲晉升平元年也。苻生以公禮葬之。萇僭號、追諡魏武王、封襄孫延定為東城侯。

1.「郭斁」は、穆帝紀では「郭敞」に作る。
2.「堂邑」は、穆帝紀では「陳留」に作る。

訓読

流人の郭斁ら千餘人 晉の堂邑內史たる劉仕を執へて襄に降り、朝廷 大いに震へ、吏部尚書の周閔を以て中軍將軍と為し、江に緣りて備守せしむ。襄の將佐部眾 皆 北人たれば、咸 襄に北のかた還ることを勸む。襄 軌に方ひて北のかた引き、自ら大將軍・大單于を稱し、外黃に進攻し、晉の邊將の為に敗らる。襄 散卒を收めて勤めて之を撫恤し、是に於て復た振ふ。乃ち許昌に據り、將に河東に如きて以て關右を圖らんとし、許自り遂に洛陽を攻むれども、月を踰て克たず。其の長史たる王亮 襄を諫めて曰く、「公の英略 天下を蓋ひ、士眾 力命を效さんと思ふ、威を損じ眾を勞れしめ、此の孤城を守る可からず。宜しく河北に還り、以て遠略を弘くせよ」と。襄曰く、「洛陽 小なると雖も、山河四塞の固にして、亦た是れ用武の地なり。吾 先に洛陽に據り、然る後に大業を開建せんと欲す」と。俄かにして(王)亮 卒し、襄 之に哭すること甚だ慟し、曰く、「天 將に吾が事を成すことを欲せざるか。王亮 我を捨てて去るなり」と。
晉の征西大將軍たる桓溫 江陵より襄を伐ち、伊水の北に戰ひ、溫の為に敗られ、麾下數千騎を率ゐて北山に奔る。其の夜、百姓 妻子を棄てて襄に隨ふ者は五千餘人、陽鄉に屯據するに、赴く者 又 四千餘戶なり。襄 前後に敗喪すること數々なるとも、眾 襄の所在を知れば、輒ち老を扶け幼を攜へて奔馳して之に赴く。時に或ひと襄の創 重く濟はざると傳へ、溫の軍 得る所の士女 北望して揮涕せざる莫し。其の物情を得ること此の如し。是より先、弘農の楊亮 襄に歸し、襄 待するに客禮を以てす。後に桓溫に奔り、溫 襄を亮に問ふに、亮曰く、「神明の器宇、孫策の儔なり、而も雄武 之に過ぐ」と。其の重んぜらること是の如し。
襄 尋いで北屈に徙り、將に關中を圖らんとし、進みて杏城に屯し、其の從兄たる輔國の姚蘭を遣はして鄜城に略地し、其の兄たる益及び將軍の王欽盧をして北地の戎夏を招集し、歸附する者 五萬餘戶なり。苻生 其の將たる苻飛を遣はして拒戰せしめ、(姚)蘭 敗れ、飛の為に執はる。襄 眾を率ゐて西のかた引き、(苻)生 又 苻堅・鄧羌らを遣はして之を要す。襄 將に戰はんとするに、沙門智通 固く襄を諫め、宜しく兵を厲まし眾を收め、更めて後舉を思ふべしと。襄曰く、「二雄 俱に立たず、天 德を棄てず以て黎元を濟ふことを冀ふ、吾が計 決せり」と。會 羌師 來逼し、襄 怒り、遂に長驅して進み、三原に戰ふ。襄 敗れ、堅の為に殺され、時に年二十七なり、是の歲 晉の升平元年なり。苻生 公禮を以て之を葬る。萇 僭號するに、魏武王と追諡し、襄の孫たる延定を封じて東城侯と為す。

現代語訳

流人の郭斁(郭敞)ら千餘人が東晋の堂邑(陳留)内史である劉仕を捕らえて姚襄に降ったので、東晋の朝廷は震撼し、吏部尚書の周閔を中軍将軍とし、江水沿いを防衛した。姚襄の配下の将士はみな北部出身なので、姚襄に北帰を勧めた。姚襄は計画に従って北に移り、大将軍・大単于を称し、外黄に進攻したが、東晋の地方軍に敗れた。姚襄は敗残の兵を集めて面倒を見たから、勢力が復活した。許昌を拠点とし、河東を経由して関中を狙うため、許昌を起点に洛陽を攻めたが、月をまたいでも勝てなかった。長史の王亮が姚襄を諌め、「公の英略は天下を覆い、士卒は力と命を捧げています、勢いを削いで士卒を疲れさせ、この孤立した城に拘るのは得策ではありません。河北に還り、戦略を練り直しなさい」と言った。姚襄は、「洛陽は小さいが、四方を山河に囲まれて堅固な、用武の地である。まず洛陽を拠点とし、その後に大いなる事業を始めたい」と言った。王亮が突然死に、姚襄はひどく哀哭し、「天は私の事業を邪魔するか、王亮が私を残して死んでしまった」と言った。
東晋の征西大将軍である桓温が江陵から姚襄を討伐し、伊水の北で戦い、(姚襄は)桓温に破られ、麾下の数千騎を率いて北山に逃げた。その夜、五千人が妻子を捨てて姚襄に従い、陽郷に駐屯すると、さらに四千餘戸が合流した。姚襄は前後にしばしば敗れて行方不明となったが、配下は姚襄の居場所を知ると、老幼を連れて駆けつけた。姚襄が重傷で助からぬと伝わると、桓温が捕らえた(もと姚襄の)民たちは北を見て泣かぬものがなかった。このように人心を獲得していた。以前、弘農の楊亮が姚襄に帰すると、客礼で待遇された。後に楊亮が桓温のもとに来て、桓温は姚襄のことを質問すると、楊亮は、「神のように明るい器量は、孫策の類いです、しかも雄武は孫策より上です」と言った。このように重んじられた。
姚襄はほどなく北屈に移り、関中を窺い、進んで杏城に駐屯し、従兄の輔国(将軍)の姚蘭に鄜城を侵略させ、兄の姚益及び将軍の王欽盧に北地の胡漢を招集させると、五万餘戸が帰付した。苻生は将の苻飛に防がせると、姚蘭は敗れ、符飛に捕らわれた。姚襄は軍勢を率いて西に撤退し、苻生はさらに苻堅・鄧羌らに待ち受けさせた。姚襄が戦おうとすると、沙門智通が、兵を励まして取りまとめ、出直しなさいと諌めた。姚襄は、「両雄は並び立たず、天は有徳者を見棄てずに万民を救おうとする、わが計略は決まっているのだ」と言った。ちょうど羌族の軍が迫ったので、姚襄は怒り、長駆して進み、三原で戦った。姚襄は敗れ、苻堅に殺され、ときに二十七歳、これは東晋の升平元(三五七)年であった。苻生は公の礼で葬った。姚萇が僭号すると、魏武王と追諡し、姚襄の孫である姚延定を東城侯に封じた。

姚萇

原文

萇字景茂、弋仲第二十四子也。少聰哲、多權略、廓落任率、不修行業、諸兄皆奇之。隨襄征伐、每參大謀。襄之寇洛陽也、夢萇服袞衣、升御坐、諸酋長皆侍立。旦謂將佐曰、「吾夢如此、此兒志度不恒、或能大起吾族。」襄之敗于麻田也、馬中流矢死、萇下馬以授襄、襄曰、「汝何以自免。」萇曰、「但令兄濟、豎子安敢害萇。」會救至、俱免。
及襄死、萇率諸弟降於苻生。苻堅以萇為揚武將軍、歷左衞將軍、隴東・汲郡・河東・武都・武威・巴西・扶風太守、寧・幽・兗三州刺史、復為揚武將軍、步兵校尉、封益都侯。為堅將、累有大功。初、萇隨楊安伐蜀、嘗晝寢水旁、上有神光煥然、左右咸異之。及苻堅寇晉、以萇為龍驤將軍・督益梁州諸軍事、謂萇曰、「朕本以龍驤建業、龍驤之號未曾假人、今特以相授、山南之事一以委卿。」堅左將軍竇衝進曰、「王者無戲言、此將不詳之徵也、惟陛下察之。」堅默然。
堅既敗於淮南、歸長安、慕容泓起兵叛堅。堅遣子叡討之、以萇為司馬。為泓所敗、叡死之。萇遣龍驤長史趙都詣堅謝罪、堅怒、殺之。萇懼、奔於渭北、遂如馬牧。西州豪族尹詳・趙曜・王欽盧・牛雙・狄廣・張乾等率五萬餘家、咸推萇為盟主。萇將距之、天水尹緯說萇曰、「今百六之數既臻、秦亡之兆已見、以將軍威靈命世、必能匡濟時艱、故豪傑驅馳、咸同推仰。明公宜降心從議、以副羣望、不可坐觀沈溺而不拯救之。」萇乃從緯謀、以太元九年自稱大將軍・大單于・萬年秦王、大赦境內、年號白雀、稱制行事。以天水尹詳・南安龐演為左右長史、南安姚晃・尹緯為左右司馬、天水狄伯支・焦虔・梁希・龐魏・任謙為從事中郎、1.姜訓・閻遵為掾屬、王據・焦世・蔣秀・尹延年・牛雙・張乾為參軍、王欽盧・姚方成・王破虜・楊難・尹嵩・裴騎・趙曜・狄廣・党刪等為帥。

1.「姜訓」は、『資治通鑑』巻百五は「羌訓」に作る。

訓読

萇 字は景茂、弋仲の第二十四子なり。少くして聰哲にして、權略多く、廓落任率、行業を修めず、諸兄 皆 之を奇とす。襄の征伐に隨ひ、每に大謀に參ず。襄の洛陽を寇するや、夢に萇 袞衣を服し、御坐に升り、諸々の酋長 皆 侍立す。旦に將佐に謂ひて曰く、「吾が夢 此の如し、此の兒の志度 恒ならず、或いは能く大いに吾が族を起さん」と。襄の麻田に敗るるや、馬 流矢に中りて死し、萇 下馬して以て襄に授け、襄曰く、「汝 何を以て自ら免ぜん」と。萇曰く、「但だ兄をして濟はしむ、豎子 安んぞ敢て萇を害せんか」と。會 救 至り、俱に免ず。
襄 死するに及び、萇 諸弟を率ゐて苻生に降る。苻堅 萇を以て揚武將軍と為し、左衞將軍、隴東・汲郡・河東・武都・武威・巴西・扶風太守、寧・幽・兗三州刺史を歷し、復た揚武將軍、步兵校尉と為り、益都侯に封ず。堅の將と為り、累りに大功有り。初め、萇 楊安に隨ひて蜀を伐ち、嘗て水旁に晝寢す、上に神光 煥然たる有り、左右 咸 之を異とす。苻堅 晉を寇するに及び、萇を以て龍驤將軍・督益梁州諸軍事と為し、萇に謂ひて曰く、「朕 本は龍驤を以て建業し、龍驤の號 未だ曾て人に假さず、今 特に以て相 授く、山南の事 一に以て卿に委ぬ」と。堅の左將軍 竇衝 進みて曰く、「王者に戲言無し、此れ將に不詳の徵とならんとす、惟だ陛下 之を察せよ」と。堅 默然とす。
堅 既に淮南に敗れ、長安に歸り、慕容泓 兵を起して堅に叛す。堅 子の叡を遣はして之を討ち、萇を以て司馬と為す。泓の為に敗られ、叡 之に死す。萇 龍驤長史の趙都を遣はして堅に詣りて罪を謝らしめ、堅 怒り、之を殺す。萇 懼れ、渭北に奔り、遂に馬牧に如く。西州の豪族たる尹詳・趙曜・王欽盧・牛雙・狄廣・張乾ら五萬餘家を率ゐて、咸 萇を推して盟主と為す。萇 將に之を距まんとするに、天水の尹緯 萇に說きて曰く、「今百六の數 既に臻り、秦亡の兆 已に見はる、將軍の威靈命世を以て、必ず能く時艱を匡濟す、故に豪傑 驅馳し、咸 同に推仰す。明公 宜しく心を降して議に從ひ、以て羣望に副へ、坐して沈溺を觀て之を拯救せざる可からず」と。萇 乃ち緯が謀に從ふ、太元九年を以て大將軍・大單于・萬年秦王を自稱し、境內に大赦し、年を白雀と號し、稱制行事す。天水の尹詳・南安の龐演を以て左右長史と為し、南安の姚晃・尹緯を左右司馬と為し、天水の狄伯支・焦虔・梁希・龐魏・任謙を從事中郎と為し、姜訓・閻遵を掾屬と為し、王據・焦世・蔣秀・尹延年・牛雙・張乾を參軍と為し、王欽盧・姚方成・王破虜・楊難・尹嵩・裴騎・趙曜・狄廣・党刪らを帥と為す。

現代語訳

姚萇は字を景茂といい、弋仲の第二十四子である。若くして聡明で、権略が多く、ゆったりと飾り気がなく、生業を治めず、諸兄から評価された。姚襄の征伐に従い、いつも大きな計画に参加した。姚襄が洛陽に進攻すると、夢のなかで姚萇が袞衣(天子の衣装)を着て、玉座に登り、族長たちが侍立していた。朝に将佐に、「こんな夢を見た、この子の志と度量は普通ではない、わが一族を隆盛させるのでは」と言った。姚襄が麻田で敗れると、馬が流矢に当たって死に、姚萇が下馬して譲ると、姚襄は、「お前はどうやって逃げるのだ」と聞いた。姚萇は、「兄を救いたいだけで、敵軍は私のような子供を狙うまい」と言った。ちょうど救援が到着し、二人とも逃げられた。
姚襄が死ぬと、姚萇は弟たちを率いて苻生に降った。苻堅は姚萇を揚武将軍とし、左衛将軍、隴東・汲郡・河東・武都・武威・巴西・扶風太守、寧・幽・兗三州刺史を歴任させ、さらに揚武将軍、歩兵校尉とし、益都侯に封じた。苻堅の将として、たびたび大功を立てた。これより先、姚萇が楊安に随って蜀を伐つとき、水辺で昼寝したが、天から神々しい光が降り注ぎ、左右の者はびっくりした。苻堅が東晋に進攻するとき、姚萇を龍驤将軍・督益梁州諸軍事として、姚萇に、「かつて朕は龍驤将軍として事業を始めた、龍驤の称号を人に与えたことがない、いま特別に授けよう、山南のことは一任する」と言った。苻堅の左将軍である竇衝が進み、「王者に戯言はありません、これは不吉の前兆となります、陛下はよくお考えを」と言った。苻堅は黙然とした。
苻堅が淮南(肥水)で敗れ、長安に帰ると、慕容泓が兵を起して苻堅に叛いた。苻堅は子の苻叡に討伐をさせ、姚萇を司馬とした。慕容泓に敗れ、苻叡が死んだ。姚萇は龍驤長史の趙都を遣って苻堅に謝罪したが、苻堅は怒り、趙都を殺した。姚萇は懼れ、渭北に逃れ、馬牧に向かった。西州の豪族である尹詳・趙曜・王欽盧・牛双・狄広・張乾らは五万餘家を率い、みなで姚萇を盟主に推戴した。姚萇が断ろうとすると、天水の尹緯が、「いま災難が押し寄せ、前秦の滅亡は明らかです、将軍の権威と天命があれば、当世の難を救済できます、だから豪族が駆けつけ、奉戴するのです。明公は折り合って、皆の期待に応えなさい、滅亡を見過ごしてはいけません」と言った。姚萇は尹緯の計画に従い、太元九(三八四)年に大将軍・大単于・万年秦王と自称し、領内に大赦し、年号を白雀とし、称制行事(官職の任免権を行使)した。天水の尹詳・南安の龐演を左右長史とし、南安の姚晃・尹緯を左右司馬とし、天水の狄伯支・焦虔・梁希・龐魏・任謙を従事中郎とし、姜訓(羌訓)・閻遵を掾属とし、王拠・焦世・蒋秀・尹延年・牛双・張乾を参軍とし、王欽盧・姚方成・王破虜・楊難・尹嵩・裴騎・趙曜・狄広・党刪らを帥とした。

原文

時慕容沖與苻堅相攻、眾甚盛。萇將西上、恐沖遏之、乃遣使通知、以子崇為質於沖、進屯北地、厲兵積粟、以觀時變。苻堅先徙晉人1.(李祥)〔李詳〕等數千戶于敷陸、至是、降於萇、北地・新平・安定羌胡降者十餘萬戶。堅率諸將攻之、不能克。
萇聞慕容沖攻長安、議進趨之計、羣下咸曰、「宜先據咸陽以制天下。」萇曰、「燕因懷舊之士而起兵、若功成事捷、咸有東歸之思、安能久固秦川。吾欲移兵嶺北、廣收資實、須秦弊燕迴、然後垂拱取之。兵不血刃、坐定天下、此卞莊得二之義也。」堅寧朔將軍宋方率騎三千從雲中將赴長安、萇自貳縣要破之、方單馬奔免、其司馬田晃率眾降萇。萇遣諸將攻新平、克之、因略地至安定、嶺北諸城盡降之。
時苻堅為慕容沖所逼、走入五將山。沖入長安。堅司隸校尉權翼・尚書趙遷・大鴻臚皇甫覆・光祿大夫薛讚・扶風太守段鏗等文武數百人奔於萇。萇遣驍騎將軍吳忠率騎圍堅、萇如新平。俄而忠執堅、送之。慕容沖遣其車騎大將軍高蓋率眾五萬來伐、戰於新平南、大破之、蓋率麾下數千人來降、拜散騎常侍。沖既率眾東下、長安空虛。盧水郝奴稱帝於長安、渭北盡應之。扶風王驎有眾數千、保據馬嵬。奴遣弟多攻驎。萇伐驎、破之、驎走漢中。執多而進攻奴、降之。
以太元十一年萇僭即皇帝位于長安、大赦、改元曰建初、國號大秦、改長安曰常安。立妻虵氏為皇后、子興為皇太子、置百官。自謂以火德承苻氏木行、服色如漢氏承周故事。徙安定五千餘戶于長安。以弟征虜緒為司隸校尉、鎮長安。
萇如安定、擊平涼胡金熙・鮮卑沒奕于、大破之。遂如秦州、與苻堅秦州刺史王統相持、天水屠各・略陽羌胡應萇者二萬餘戶、統懼、乃降。因饗將士于上邽、南安人古成詵進曰、「臣州人殷地險、雋傑如林、用武之國也。王秦州不能收拔賢才、三分鼎足、而坐玩珠玉、以至于此。陛下宜散秦州金帛以施六軍、旌賢表善以副鄙州之望。」萇善之、擢為尚書郎。拜弟碩德都督隴右諸軍事・征西將軍・秦州刺史、領護東羌校尉、鎮上邽。萇還安定、修德政、布惠化、省非急之費、以救時弊、閭閻之士有豪介之善者、皆顯異之。

1.中華書局本に従い、「李祥」を「李詳」に改める。

訓読

時に慕容沖 苻堅と相 攻め、眾 甚だ盛なり。萇 將に西上せんとし、沖 之を遏(さえぎ)ることを恐れ、乃ち使を遣りて通知し、子の崇を以て質を沖に為し、進みて北地に屯し、兵を厲して粟を積み、以て時變を觀る。苻堅 先に晉人李詳ら數千戶を敷陸に徙すに、是に至りて、萇に降り、北地・新平・安定の羌胡 降る者は十餘萬戶なり。堅 諸將を率ゐて之を攻め、克つこと能はず。
萇 慕容沖 長安を攻むると聞き、進趨の計を議し、羣下 咸 曰く、「宜しく先に咸陽に據りて以て天下を制むべし」と。萇曰く、「燕 懷舊の士にして起兵するに因り、若し功 成りて事 捷てば、咸 東歸の思有り、安んぞ能く久しく秦川を固むるや。吾 兵を嶺北に移し、廣く資實を收めんと欲す、秦の弊れて燕の迴るを須ち、然る後に垂拱して之を取る。兵 刃を血せず、坐して天下を定む、此れ卞莊 二を得る〔一〕の義なり」と。堅の寧朔將軍たる宋方 騎三千を率ゐ雲中より將に長安に赴かんとし、萇 貳縣より之を要破し、方 單馬にて奔免し、其の司馬たる田晃 眾を率ゐて萇に降る。萇 諸將を遣はして新平を攻め、之に克ち、因りて略地して安定に至り、嶺北の諸城 盡く之に降る。
時に苻堅 慕容沖の為に逼られ、走りて五將山に入る。沖 長安に入る。堅の司隸校尉たる權翼・尚書の趙遷・大鴻臚の皇甫覆・光祿大夫の薛讚・扶風太守の段鏗ら文武數百人 萇に奔る。萇 驍騎將軍の吳忠を遣はして騎を率ゐて堅を圍み、萇 新平に如く。俄にして忠 堅を執へ、之を送る。慕容沖 其の車騎大將軍の高蓋を遣はして眾五萬を率ゐ來伐し、新平の南に戰ひ、大いに之を破り、蓋 麾下數千人を率ゐて來降し、散騎常侍を拜す。沖 既に眾を率ゐて東下し、長安 空虛たり。盧水の郝奴 帝を長安に稱し、渭北 盡く之に應ず。扶風の王驎 眾數千有り、馬嵬に保據す。奴 弟の多を遣はして驎を攻む。萇 驎を伐ち、之を破り、驎 漢中に走る。多を執へて進みて奴を攻め、之を降す。
太元十一年を以て萇 僭して皇帝の位に長安に于いて即き、大赦し、改元して建初と曰ひ、國を大秦と號し、長安を改めて常安と曰ふ。妻の虵氏を立てて皇后と為し、子の興を皇太子と為し、百官を置く。自ら火德を以て苻氏の木行を承ぐと謂ひ、服色 漢氏 周を承ぐの故事が如くす。安定の五千餘戶を長安に徙す。弟の征虜たる緒を以て司隸校尉と為し、長安に鎮せしむ。
萇 安定に如き、平涼胡の金熙・鮮卑の沒奕于を擊ち、大いに之を破る。遂に秦州に如き、苻堅の秦州刺史たる王統と相 持し、天水の屠各・略陽の羌胡 萇に應ずる者は二萬餘戶なれば、統 懼れ、乃ち降る。因りて將士を上邽に饗し、南安の人たる古成詵 進みて曰く、「臣の州 人は殷にして地は險なり、雋傑 林の如く、用武の國なり。王秦州 賢才を收拔し、三分鼎足すること能はず、而れども坐して珠玉を玩び、以て此に至る。陛下 宜しく秦州に金帛を散じて以て六軍に施し、賢を旌し善を表して以て鄙州の望に副へ」と。萇 之を善とし、擢でて尚書郎と為す。弟の碩德に都督隴右諸軍事・征西將軍・秦州刺史を拜し、護東羌校尉を領して、上邽に鎮せしむ。萇 安定に還り、德政を修め、惠化を布し、非急の費を省き、以て時弊を救ひ、閭閻の士 豪介の善き者有れば、皆 之を顯異とす。

〔一〕『史記』巻七十 張儀列伝によると、魯の卞荘は、二匹の虎が争って傷つけあうのを待ってから、少ない労力で二匹の虎を倒したという逸話がある。

現代語訳

このとき慕容沖が苻堅と抗争し、兵勢は盛んであった。姚萇は西に遡るとき、慕容沖に遮られることを恐れ、使者を送って通好し、子の姚崇を慕容沖の質任としてから、進んで北地に駐屯し、兵を励まし粟を積み(兵糧を整え)、情勢変化を待った。苻堅は先に晋人の李詳(李祥)ら数千戸を敷陸に移そうとしたが、ここで、姚萇に降服し、北地・新平・安定の羌胡十餘万戸が(姚萇に)降服した。苻堅は諸将を率いて攻撃したが、勝てなかった。
姚萇は慕容沖が長安を攻めると聞き、進撃を議論させ、群下はみな、「先に咸陽(長安)を拠点として天下を制圧すべきです」と言った。姚萇は、「燕(慕容氏)は故郷に帰るため起兵した、もし成功すれば、みな東に帰りたがり、どうして久しく秦川(長安付近)を守ろうか。わが軍を嶺北に移し、物資を集めよう、秦(苻堅)が疲れて燕(慕容沖)が引き返すのを待てば、何もせず(長安を)獲得できる。剣を血で汚さず、座して天下を定める、これこそ卞荘が二匹(の虎)を捕まえた方法だ」と言った。苻堅の寧朔将軍である宋方は三千騎を率いて雲中から長安に向かい、姚萇が貳県で待ち伏せて撃破すると、宋方は単騎で逃走し、彼の司馬である田晃が軍勢を率いて姚萇に降った。姚萇は諸将を派遣して新平を攻め、打ち破り、一帯を攻略して安定に至り、嶺北の諸城が全て降服した。
このとき苻堅は慕容沖に圧倒され、五将山に逃げ込んだ。慕容沖が長安に入った。苻堅の司隸校尉である権翼・尚書の趙遷・大鴻臚の皇甫覆・光禄大夫の薛讃・扶風太守の段鏗といった文武数百人が姚萇のもとに投じた。姚萇はその驍騎将軍の呉忠を送って騎兵を率いて苻堅を包囲させ、姚萇は新平に向かった。にわかに呉忠が苻堅を捕らえ、送ってきた。慕容沖は車騎大将軍の高蓋に五万を率いて征伐させ、新平の南で戦い、大いに(姚氏が)破り、高蓋は麾下数千人を率いて来降し、散騎常侍を拝した。慕容沖は軍勢を率いて東下し、長安は空城になった。盧水の郝奴が(隙を突いて)長安で皇帝を称し、渭北全体が呼応した。扶風の王驎は数千の兵を持ち、馬嵬を拠点としていた。郝奴は弟の郝多を遣って王驎を攻めた。姚萇は王驎を伐ち、これを破り、王驎は漢中に逃げた。郝多を捕らえて進み郝奴を攻め、これを降した。
太元十一(三八六)年に姚萇は長安で皇帝を僭称し、大赦し、建初と改元し、国号を大秦とし、長安を常安に改称した。妻の虵氏を皇后に立て、子の姚興を皇太子とし、百官を置いた。自ら火徳として苻氏の木徳を承ぐとし、服色は漢王朝が周王朝を承いだ故事の通りとした。安定の五千餘戸を長安に移した。弟の征虜(将軍)である姚緒を司隸校尉とし、長安を鎮護させた。
姚萇は安定に向かい、平涼胡の金熙・鮮卑の没奕于を、大いに撃破した。秦州に向かい、苻堅の秦州刺史である王統と抗争し、天水の屠各・略陽の羌胡の二万餘戸が姚萇に呼応したので、王統は懼れ、降服した。将士を上邽で饗応すると、南安の人である古成詵が進んで、「わが州は人材が豊富で地は堅固です、俊傑が林立し、用武の国です。王秦州は賢才を抜擢して、鼎立ができず、座して珠玉を玩び、破滅しました。陛下は秦州に金帛を与えて六軍に配り、賢者や優れた者を招いて州の期待に応えなさい」と言った。姚萇は賛同し、(古成詵を)尚書郎に抜擢した。弟の姚碩徳に都督隴右諸軍事・征西将軍・秦州刺史を拝し、護東羌校尉を領し、上邽を鎮護させた。姚萇は安定に還り、徳政を行い、恵みと教化を施し、不急の出費をやめ、当面の疲弊を救い、民間に豪傑がいれば、漏れなく見出した。

原文

萇復如秦州、為苻登所敗、語在登傳。以其太子興鎮長安、而與登相距。登馮翊太守蘭犢與苻師奴離貳、慕容永攻之、犢遣使請救。萇將赴救、尚書令姚旻・左僕射尹緯等言於萇曰、「苻登近在瓦亭、陛下未宜輕舉。」萇曰、「登遲重少決、每失時機、聞吾自行、正當廣集兵資、必不能輕軍深入。兩月之間、足可克此三豎、吾事必矣。」遂師次於1.渥源。師奴率眾來距、大戰、敗之、盡俘其眾。又擒蘭犢、收其士馬。萇乃掘苻堅尸、鞭撻無數、裸剝衣裳、薦之以棘、坎土而埋之。慕容永征西將軍王宣率眾降萇。
初、關西雄傑以苻氏既終、萇雄略命世、天下之事可一旦而定。萇既與苻登相持積年、數為登所敗、遠近咸懷去就之計、唯征虜齊難・冠軍徐洛生・輔國劉郭單・冠威彌姐婆觸・龍驤趙惡地・鎮北梁國兒等守忠不貳、並留子弟守營、供繼軍糧、身將精卒、隨萇征伐。時諸營既多、故號萇軍為大營、大營之號自此始也。時天大雪、萇下書深自責罰、散後宮文綺珍寶以供戎事、身食一味、妻不重綵。將帥死王事者、加秩二等、士卒戰沒、皆有褒贈。立太學、禮先賢之後。
敦煌索盧曜請刺苻登、萇曰、「卿以身徇難、將為誰乎。」曜曰、「臣死之後、深以友人隴西辛暹仰託。」萇遣之。事發、為登所殺、萇以暹為騎都尉。登進逼安定、諸將勸萇決戰、萇曰、「與窮寇競勝、兵家之下。吾將以計取之。」於是留其尚書令姚旻守安定、夜襲登輜重於大界、克之。諸將2.或欲因登駭亂3.(欲)擊之。萇曰、「登眾雖亂、怒氣猶盛、未可輕也。」遂止。萇以安定地狹、且逼苻登、使姚碩德鎮安定、徙安定千餘家于陰密、遣弟征南靖鎮之。立社稷于長安。百姓年七十有德行者、拜為中大夫、歲賜牛酒。

1.「渥源」は、『資治通鑑』巻百七は「泥源」に作り、胡三省注によると、『漢書』地理志の泥陽県にちなむため、「泥源」が正しいという。
2.『冊府元亀』・『通典』は「或」を「咸」に作る。
3.中華書局本に従い、「欲」一字を削る。

訓読

萇 復た秦州に如き、苻登の為に敗られ、語は登傳に在り。其の太子興を以て長安に鎮せしめ、而して登と相 距す。登の馮翊太守たる蘭犢 苻師奴と與に離貳し、慕容永 之を攻め、犢 使を遣はして救を請ふ。萇 將に救に赴かんとし、尚書令の姚旻・左僕射の尹緯ら萇に言ひて曰く、「苻登 近く瓦亭に在り、陛下 未だ宜しく輕舉すべからず」と。萇曰く、「登 遲重にして決少なし、每に時機を失す、吾 自ら行くを聞けば、正に當に廣く兵資を集むべし、必ず輕軍もて深入する能はず。兩月の間、此の三豎に克つ可きに足るる、吾が事 必なり」と。遂に師 渥源に次る。師奴 眾を率ゐて來りて距み、大いに戰い、之を敗り、盡く其の眾を俘とす。又 蘭犢を擒へ、其の士馬を收む。萇 乃ち苻堅の尸を掘り、鞭撻すること無數、衣裳を裸剝し、之を薦むるに棘を以てし、坎土して之を埋む。慕容永の征西將軍の王宣 眾を率ゐて萇に降る。
初め、關西の雄傑 苻氏の既に終り、萇の雄略命世を以て、天下の事 一旦にして定む可しとす。萇 既に苻登と相 持すること積年、數々登の為に敗られ、遠近 咸 去就の計を懷くとも、唯だ征虜の齊難・冠軍の徐洛生・輔國の劉郭單・冠威の彌姐婆觸・龍驤の趙惡地・鎮北の梁國兒ら忠を守りて貳あらず、並びに子弟を留めて營を守り、軍糧を供繼し、身づから精卒を將ゐ、萇に隨ひて征伐す。時に諸營 既に多く、故に萇の軍を號して大營と為し、大營の號 此より始まるなり。時に天 大いに雪り、萇 書を下して深く自ら責罰し、後宮の文綺珍寶を散じて以て戎事に供し、身に一味を食し、妻は綵を重ねず。將帥 王事に死する者は、秩二等を加へ、士卒 戰沒するは、皆 褒贈有り。太學を立て、先賢の後を禮す。
敦煌の索盧曜 苻登を刺すことを請ひ、萇曰く、「卿 身を以て難を徇ふ、將て誰の為なるか」と。曜曰く、「臣 死するの後、深く友人の隴西の辛暹を以て仰託せよ」と。萇 之を遣はす。事 發し、登の為に殺され、萇 暹を以て騎都尉と為す。登 進みて安定に逼り、諸將 萇に決戰を勸め、萇曰く、「窮寇と勝ちを競ふば、兵家の下なり。吾 將に計を以て之を取らんとす」と。是に於て其の尚書令の姚旻を留めて安定を守らしめ、夜に登の輜重を大界に襲ひ、之に克つ。諸將 或いは登 駭亂するに因りて之を擊たんと欲す。萇曰く、「登の眾 亂るると雖も、怒氣 猶ほ盛なり、未だ輕んず可からざるなり」と。遂に止む。萇 安定の地 狹く、且つ苻登に逼るを以て、姚碩德をして安定に鎮せしめ、安定の千餘家を陰密に徙し、弟の征南靖を遣して之に鎮せしむ。社稷を長安に立つ。百姓の年七十にして德行有る者は、拜して中大夫と為り、歲ごとに牛酒を賜ふ。

現代語訳

姚萇は再び秦州に向かい、苻登に敗れたことは、苻登載記を参照。太子の姚興に長安に鎮護させ、苻登と対峙した。苻登の馮翊太守である蘭犢が苻師奴と対立して離叛したので、慕容永がこれを攻め、蘭犢の使者が姚萇に救援を求めた。姚萇が救援に向かおうとすると、尚書令の姚旻・左僕射の尹緯らが、「苻登は近く瓦亭にいます、陛下は軽々しく動いてはなりません」と言った。姚萇は、「苻登は腰が重く決断力がなく、いつも好機を逃す、私が自ら(救援に)行くと聞けば、軍事物資を集めるだろう、すばやく攻撃してこない。二ヵ月あれば、この三人の豎子を破るのに十分だ、私の勝ちだ」と言った。こうして軍を渥源(泥源)に駐屯させた。苻師奴が軍勢を送って防ぐと、大いに戦い、これを破り、その軍を全て捕虜にした。さらに蘭犢を捕らえ、兵士と馬を収容した。姚萇は苻堅の遺体を掘り返し、何度も鞭を打ち、衣裳を脱がせ、棘をまとわせ、穴を掘って直接埋めた。慕容永の征西将軍の王宣が軍勢を率いて姚萇に降った。
これ以前、関西の豪族たちは苻氏の政権が終わり、姚萇には雄略と天命があるから、すぐに決着すると思っていた。姚萇と苻登が連年にわたり抗争し、しばしば苻登が勝ったので、遠近の人々はどっち付かずとなったが、征虜(将軍、以下同)の斉難・冠軍の徐洛生・輔国の劉郭単・冠威の弥姐婆觸・龍驤の趙悪地・鎮北の梁国児は忠節を守って二心を抱かず、子弟を(姚萇に)預けて軍営を守り、兵糧を継続供給し、自ら精鋭を率い、姚萇に従軍した。軍営の数が多いので、姚萇のところを大営とし、大営という呼称はここから始まった。大雪が降ると、姚萇は文書を下して自責し、後宮の絹布や珍宝を放出して軍事費用にあて、食事を質素にし、妻は重ね着をしなかった。王業のために殉職した者は、秩二等を加え、士卒が戦没したら、褒賞を贈った。太学を立て、先賢の後裔を礼遇した。
敦煌の索盧曜が苻登の暗殺を願い出ると、姚萇は、「どうして危険に身を晒すのか、誰のためなのだ」と聞いた。索盧曜は、「私の死後、友人である隴西の辛暹を宜しくお願いします」と言った。暗殺に行かせた。発覚し、索盧曜は苻登に殺されたが、姚萇は辛暹を騎都尉とした。苻登が進んで安定に逼ったので、諸将が決戦を勧めたが、姚萇は、「差し迫った敵と勝敗を競うのは、兵法の下策だ。計略で勝ってやろう」と言った。そこで尚書令の姚旻を留めて安定を守らせ、夜に苻登の輜重を大界で襲い、破壊した。諸将は苻登の軍が驚き乱れているので攻撃をしましょうと言った。姚萇は、「苻登軍は乱れたが、まだ士気が高い、軽んじるな」と言った。攻撃しなかった。姚萇は安定の地が狭く、苻登に肉迫されているので、姚碩徳に安定に鎮護させ、安定の千餘家を陰密に移し、弟の征南将軍の姚靖にここを鎮守させた。社稷を長安に立てた。年七十以上の徳行がある百姓を、中大夫に拝し、年ごとに牛酒を賜わった。

原文

尹緯・姚晃謂古成詵曰、「苻登窮寇、歷年未滅、姦雄鴟峙、所在糾扇、夷夏皆貳、將若之何。」詵曰、「主上權略無方、信賞必罰、賢能之士、咸懷樂推、豈慮大業不成、氐賊不滅乎。」緯曰、「登窮寇未滅、姦雄所在扇合、吾等寧無懼乎。」詵曰、「三秦天府之國、主上十分已有其八。今所在可慮者、苻登・楊定・雷惡地耳、自餘瑣瑣、焉足論哉。然惡地地狹眾寡、不足為憂。苻登藉烏合犬羊、偷存假息、料其智勇、非至尊之匹。霸王之起、必有驅除、然後克定大業。昔漢魏之興也、皆十有餘年、乃能一同於海內、五六年間未為久也。主上神略內明、英武外發、可謂無敵於天下耳、取登有餘力。願布德行仁、招賢納士、厲兵秣馬、以候天機。如其鴻業不成者、詵請腰斬以謝明公。」緯言之於萇、萇大悅、賜詵爵關內侯。
雷惡地率眾降萇、拜為鎮東將軍。魏褐飛自稱大將軍・衝天王、率氐胡數萬人攻安北姚當城於杏城、雷惡地應之、攻鎮東姚漢得於李潤。萇議將討之、羣臣咸曰、「陛下不憂六十里苻登、乃憂六百里褐飛。」萇曰、「登非可卒殄、吾城亦非登所能卒圖。惡地多智、非常人也。南引褐飛、東結1.董成、甘言美說以成姦謀、若得杏城・李潤、惡地據之、控制遠近、相為羽翼、長安東北非復吾有。」於是潛軍赴之。萇時眾不滿二千、褐飛・惡地眾至數萬、氐胡赴之者首尾不絕。萇每見一軍至、輒有喜色。羣下怪而問之、萇曰、「今同惡相濟、皆來會集、吾得乘勝席卷、一舉而覆其巢穴、東北無復餘也。」褐飛等以萇兵少、盡眾來攻。萇固壘不戰、示之以弱、潛遣子崇率騎數百、出其不意、以乘其後。褐飛兵擾亂、萇遣鎮遠王超・平遠譚亮率步騎擊之、褐飛眾大潰、斬褐飛及首級萬餘。惡地請降、萇待之如初。惡地每謂人曰、「吾自言智勇所施、足為一時之傑。校數諸雄、如吾之徒、皆應跨據一方、獸嘯千里。遇姚公智力摧屈、是吾分也。」惡地猛毅清肅、不可干以非義、嶺北諸豪皆敬憚之。
萇命其將當城於營處一柵孔中蒔樹一根、以旌戰功。歲餘、問之、城曰、「營所至小、已廣之矣。」萇曰、「少來鬭戰無如此快、以千六百人破三萬眾、國之事業、由此克舉。小乃為奇、大何足貴。」貳城胡曹寅・王達獻馬三千匹。以寅為鎮北將軍・并州刺史、達鎮遠將軍・金城太守。

1.「董成」は、『太平御覧』巻二百九十三に引く『十六国春秋』、『通典』巻百五十四では「董咸」に作る。

訓読

尹緯・姚晃 古成詵に謂ひて曰く、「苻登は窮寇なり、歷年 未だ滅せず、姦雄 鴟峙し、所在 糾扇し、夷夏 皆 貳あり、將て之を若何せん」と。詵曰く、「主上の權略は無方、信賞必罰あり、賢能の士、咸 樂推を懷く、豈に大業の成らず、氐賊 滅びざるを慮るか」と。緯曰く、「登 窮寇にして未だ滅せず、姦雄 所在に扇合し、吾ら寧ろ懼れ無きか」と。詵曰く、「三秦は天府の國なり、主上 十分して已に其の八を有つ。今 所在 慮る可き者は、苻登・楊定・雷惡地のみ、自餘 瑣瑣たりて、焉ぞ論ずるに足るや。然も惡地 地は狹く眾は寡なく、憂と為すに足らず。苻登 烏合の犬羊を藉り、存を偷み息を假し、其の智勇を料るに、至尊の匹に非ざるなり。霸王の起つや、必ず驅除有り、然る後に克く大業を定む。昔 漢魏の興るや、皆 十有餘年なり、乃ち能く海內を一同し、五六年の間 未だ久しきと為さざるなり。主上の神略 內に明るく、英武 外に發し、天下に無敵と謂ふ可きのみ、登を取りて餘力有り。願はくは德を布し仁を行ひ、賢を招し士を納れ、兵を厲し馬に秣し、以て天機を候て。如し其の鴻業 成らずんば、詵 腰斬して以て明公に謝せんことを請ふ」と。緯 之を萇に言ひ、萇 大いに悅び、詵に爵關內侯を賜ふ。
雷惡地 眾を率ゐて萇に降り、拜して鎮東將軍と為る。魏褐飛 自ら大將軍・衝天王を稱し、氐胡數萬人を率ゐて安北の姚當城を杏城に攻め、雷惡地 之に應じ、鎮東の姚漢得を李潤に攻む。萇 議して將に之を討たんとするに、羣臣 咸 曰く、「陛下 六十里の苻登を憂はず、乃ち六百里の褐飛を憂ふか」と。萇曰く、「登 卒かに殄ず可きに非ず、吾が城も亦た登の能く卒かに圖る所に非ず。惡地 智多く、非常の人なり。南のかた褐飛を引き、東のかた董成と結び、甘言美說もて以て姦謀を成す、若し杏城・李潤を得れば、惡地 之に據り、遠近を控制し、相 羽翼と為し、長安の東北 復た吾が有に非ざるなり」と。是に於て軍を潛めて之に赴く。萇 時に眾 二千に滿たず、褐飛・惡地の眾 數萬に至り、氐胡 之に赴く者 首尾 絕えず。萇 一軍の至るを見る每、輒ち喜色有り。羣下 怪みて之に問ふに、萇曰く、「今 同惡相濟し、皆 來りて會集す、吾 得て勝に乘じて席卷し、一たび舉げて其の巢穴を覆す、東北 復た餘無きなり」と。褐飛ら萇の兵 少きを以て、眾を盡くして來攻す。萇 壘を固くして戰はず、之に示すに弱を以てし、潛かに子の崇を遣はして騎數百を率ゐて、其の不意に出で、以て其の後に乘ず。褐飛の兵 擾亂し、萇 鎮遠の王超・平遠の譚亮を遣はして步騎を率ゐて之を擊たしめ、褐飛の眾 大いに潰え、褐飛及び首級萬餘を斬る。惡地 降を請ひ、萇 之を待すること初の如し。惡地 每に人に謂ひて曰く、「吾 自ら智勇 施す所、一時の傑と為るに足れりと言ふ。諸雄を數校するに、吾の徒の如きは、皆 應に一方に跨據し、千里に獸のごとく嘯くべし。姚公に遇はば智力 摧屈す、是れ吾が分なり」と。惡地の猛毅清肅にして、非義を以て干す可からず、嶺北の諸豪 皆 之に敬憚す。
萇 其の將たる當城に命じて營處の一柵の孔中に一根を蒔樹し、以て戰功を旌す。歲餘して、之に問ふに、城曰く、「營所 至小にして、已に之を廣ぐ」と。萇曰く、「少來 鬭戰して此の如き快無し、千六百人を以て三萬眾を破り、國の事業、此の克舉に由る。小なれば乃ち奇と為り、大なれば何ぞ貴とするに足る」と。貳城胡の曹寅・王達 馬三千匹を獻ず。寅を以て鎮北將軍・并州刺史と為し、達を鎮遠將軍・金城太守とす。

現代語訳

尹緯・姚晃が古成詵に、「苻登は死にかけの盗賊だが、年を経ても滅びず、姦雄が割拠し、領地で糾合し、漢族も胡族も二心を抱いている、どうしたものか」と言った。古成詵は、「主上の権謀と軍略は無比で、信賞必罰をおこない、賢能の士は、自発的に従っている、なぜ帝業が完成せず、氐賊が滅びぬ心配があろうか」と言った。尹緯は、「苻登はしぶとく、姦雄が自領に拠って立つが、なぜ心配無用ですか」と言った。古成詵は、「三秦は天府の国であり、主上は十分の八を領有している。いまこの地で脅威になるのは、苻登・楊定・雷悪地だけで、これ以外は雑魚なので、論ずる必要がない。しかも雷悪地は領土が狭くて兵が少なく、無視できる。苻登は烏合の犬羊を寄せ集め、生き存えているが、彼の智勇は、至尊に匹敵しない。霸王が起業すれば、平定戦がつきもので、その後に帝業が完成する。むかし漢魏が起こるとき、十餘年をかけ、海内を統一したのだ、五年や六年では手こずっているとは言えない。主上の神略は内に明るく、英武は外に表れ、天下に無敵と言え、苻登を滅ぼしても余裕がある。徳と仁の政治をおこない、賢者を招いて用い、兵馬を養って、天与の機会を待つべきだ。もし皇業が成功せねば、私は腰斬をされて詫びよう」と言った。尹緯が報告すると、姚萇は大いに悦び、古成詵に関内侯を賜った。
雷悪地は軍勢を率いて姚萇に降り、鎮東将軍を拝した。魏褐飛は大将軍・衝天王を自称し、氐胡の数万人を率いて安北将軍の姚当城(人名)を杏城で攻めると、雷悪地はこれに呼応し、鎮東将軍の姚漢得を李潤で攻めた。姚萇が討伐を話し合うと、郡臣はみな、「陛下は六十里先にいる苻登を脅威とせず、六百里先の魏褐飛を脅威とするのですか」と言った。姚萇は、「苻登はすぐに滅ぼせず、わが城もまた苻登にすぐには攻略されない。雷悪地は智恵があり、非凡な人である。南のかた魏褐飛を招き、東のかた董成(董咸)と結び、甘言で誘って凶悪な謀略を成し、もし杏城・李潤を獲得すれば、雷悪地はここを拠点に、遠近を制圧する、羽翼として連携されたら、長安の東北はわが領土でなくなる」と言った。そこで軍を潜めて(魏褐飛の討伐に)赴いた。姚萇軍は二千に満たず、魏褐飛・雷悪地は数万に至り、氐胡が続々と参加した。姚萇は軍が(敵方に)加わるのを見るたび、喜んだ。郡臣が怪しんで理由を質問すると、姚萇は、「いま反乱勢力が団結し、一箇所に集まっている、勝って勢いづけば、巣穴ごと叩き、(長安)東北の敵を一網打尽にできる」と言った。魏褐飛は姚萇の兵が少ないので、全軍で攻め寄せた。姚萇は防塁を固めて戦わず、弱いと見せかけ、こっそり子の姚萇に騎兵数百を率いさせ、不意を突いて、後ろを襲った。魏褐飛の兵が混乱すると、姚萇は鎮遠将軍の王超・平遠将軍の譚亮に歩騎を率いて攻撃させ、魏褐飛の軍は壊滅し、魏褐飛及び万餘の首級を斬った。雷悪地は降服を願い、姚萇はもどとおり待遇した。雷悪地はいつも、「わが智勇は、一時の英傑になるに十分だと思っていた。英雄たちを吟味するに、私ほどの者は、方面に割拠し、千里に雄叫びを轟かせるものだ。だが姚公に会って智力は屈服させられ、これが私の分限であった」と話した。雷悪地は勇猛果敢であって公正で清廉であり、義の通らぬことに屈せず、嶺北の豪族たちは彼を敬愛し憚った。
姚萇は将の姚当城に命じて軍営の一柵のあなに木を植えさせ、戦功を表した。一年あまりして、様子を聞くと、姚当城は、「軍営が小さすぎたので、もう広げました」と言った。姚萇は、「幼少期から戦ってきたがこれほどの快事はない、千六百人で三万の軍を破った、国の事業の成功は、この快挙のおかげだ。小さくてこそ優れ、大きいことが素晴らしいのではない」と言った。貳城胡の曹寅・王達が馬三千匹を献上した。曹寅を鎮北将軍・并州刺史とし、王達を鎮遠将軍・金城太守とした。

原文

萇性簡率、羣下有過、或面加罵辱。太常權翼言於萇曰、「陛下弘達自任、不修小節、駕馭羣雄、苞羅儁異、棄嫌錄善、有高祖之量。然輕慢之風、所宜除也。」萇曰、「吾之性也。吾於舜之美、未有片焉。漢祖之短、已收其一。若不聞讜言、安知過也。」
南羌竇鴦率戶五千來降、拜安西將軍。萇下書、有復私仇者、皆誅之。將吏亡滅者、各隨所親以立後、振給長育之。鎮東苟曜據逆萬堡、密引苻登。萇與登戰、敗於馬頭原、收眾復戰。姚碩德謂諸將曰、「上慎於輕戰、每欲以計取之。今戰既失利、而更逼賊者、必有由也。」萇聞而謂碩德曰、「登用兵遲緩、不識虛實、今輕兵直進、逕據吾東、必苟曜豎子與之連結也。事久變成、其禍難測。所以速戰者、欲使豎子謀之未就、好之未深、散敗其事耳。」進戰、大敗之、登退屯于郿。登將1.金槌以新平降萇、萇輕將數百騎入槌營。羣下諫之、萇曰、「槌既去苻登、復欲圖我、將安所歸。且懷德初附、推款委質、吾復以不信待之、何以御物乎。」羣氐果有異謀、槌不從而止。萇如陰密攻登、敕其太子興曰、「苟曜好姦變、將為國害、聞吾還北、必來見汝、汝便執之。」苟曜果見興于長安、興遣尹緯讓而誅之。
萇大敗登于安定東、置酒高會、諸將咸曰、「若值魏武王、不令此賊至今、陛下將牢太過耳。」萇笑曰、「吾不如亡兄有四、身長八尺五寸、臂垂過膝、人望而畏之、一也。當十萬之眾、與天下爭衡、望麾而進、前無橫陣、二也。溫古知今、講論道藝、駕馭英雄、收羅雋異、三也。董率大眾、履險若夷、上下咸允、人盡死力、四也。所以得建立功業、策任羣賢者、正望算略中一片耳。」羣臣咸稱萬歲。萇下書令留臺諸鎮各置學官、勿有所廢、考試優劣、隨才擢敘。苻登驃騎將軍沒奕于率戶六千降、拜使持節・車騎將軍・高平公。

1.「金槌」は、『資治通鑑』巻百七は「強金槌」に作る。

訓読

萇の性は簡率にして、羣下 過有れば、或は面に罵辱を加ふ。太常の權翼 萇に言ひて曰く、「陛下 弘達自任にして、小節を修めず、羣雄を駕馭し、儁異を苞羅し、嫌を棄て善を錄し、高祖の量有り。然るに輕慢の風、宜しく除くべき所なり」と。萇曰く、「吾の性なり。吾 舜の美に於いて、未だ片有らず。漢祖の短、已に其の一を收む。若し讜言を聞かざれば、安んぞ過を知るや」と。
南羌の竇鴦 戶五千を率ゐて來降し、安西將軍を拜す。萇 書を下し、私仇を復する者有らば、皆 之を誅す。將吏の亡滅する者、各々親しき所に隨ひて以て後を立て、振給して之を長育す。鎮東の苟曜 逆萬堡に據りて、密かに苻登を引く。萇 登と戰ひ、馬頭原に敗れ、眾を收めて復た戰ふ。姚碩德 諸將に謂ひて曰く、「上 輕戰を慎しみ、每に計を以て之を取らんと欲す。今 戰ひ既に利を失ひ、而れども更に賊に逼るは、必ず由有るなり」と。萇 聞きて碩德に謂ひて曰く、「登の用兵 遲緩にして、虛實を識らず、今 輕兵もて直進し、逕ちに吾が東に據るは、必ず苟曜豎子 之と與に連結するならん。事 久しければ變 成り、其の禍 測り難し。速戰する所以は、豎子をして之を謀りて未だ就かず、之を好みて未だ深からず、其の事を散敗せしめんと欲するのみ」と。進みて戰ひ、大いに之を敗り、登 退きて郿に屯す。登の將たる金槌 新平を以て萇に降り、萇の輕々しく數百騎を將ゐて槌の營に入る。羣下 之を諫むるに、萇曰く、「槌 既に苻登を去り、復た我を圖らんと欲せば、將に安くにか歸する所あらん。且つ德に懷きて初附し、款を推して委質するに、吾 復た不信を以て之を待せば、何を以てか物を御せんか」と。羣氐 果して異謀有れども、槌 從はずして止む。萇 陰密に如きて登を攻め、其の太子興に敕して曰く、「苟曜 姦變を好む、將に國の害と為らん、吾 北に還ると聞き、必ず來りて汝に見ゆ、汝 便ち之を執へよ」と。苟曜 果して興に長安に見え、興 尹緯を遣はして讓して之を誅す。
萇 大いに登を安定の東に敗り、置酒高會し、諸將 咸 曰く、「若し魏武王に值れば、此の賊をして今に至らしめず、陛下の將牢 太過なるのみ」と。萇 笑ひて曰く、「吾 亡兄に如ざること四有り、身長八尺五寸、臂 垂れて膝に過ぎ、人 望みて之を畏る、一なり。十萬の眾に當り、天下と爭衡し、麾を望みて進み、前みて橫陣無し、二なり。古を溫めて今を知り、道藝を講論し、英雄を駕馭し、雋異を收羅す、三なり。大眾を董率し、險を履むこと夷が若く、上下 咸 允たり、人 死力を盡す、四なり。得て功業を建立し、羣賢を策任する所以は、正に算略中の一片を望むのみ」と。羣臣 咸 萬歲を稱ふ。萇 書を下して留臺諸鎮に令して各々學官を置かしめ、廢する所有る勿く、優劣を考試し、才に隨ひて敘に擢す。苻登の驃騎將軍たる沒奕于 戶六千を率ゐて降り、使持節・車騎將軍・高平公を拜す。

現代語訳

姚萇の性格は率直であり、群下に過失があれば、面と向かって罵ることもあった。太常の権翼が姚萇に、「陛下は闊達で自然体であり、小さなことに拘らず、群雄を統御し、俊傑を統括し、悪事を棄てて善事を取り上げ、高祖の度量があります。ですが軽率なところがあるので、改めて下さい」と言った。姚萇は「これが私の性格だ。私は舜の美点を、まだ欠片も持たず、漢祖の短所を、もう一つは持っている。もし正言を聞かねば、欠点に気づかなかった」と言った。
南羌の竇鴦が五千戸を率いて来降し、安西将軍を拝した。姚萇は文書を下し、私的に報仇すれば、誅殺するとした。死に絶えた将吏の家では、親族を後嗣とし、生活費を給付して家族の成長を助けた。鎮東将軍の苟曜が逆万堡を拠点に、密かに苻登を引き入れた。姚萇は苻登と戦い、馬頭原で敗れたが、軍をまとめ直し再戦した。姚碩徳は諸将に、「上(姚萇)は軽々しく戦わず、いつも計略で勝とうとする。いま敗戦して不利だが、それでも戦うのは、きっと理由があるのだ」と言った。姚萇はこれを聞いて姚碩徳に、「苻登の用兵は緩慢であり、虚実を知らぬが、いま軽兵で直進し、わが東方に陣取ったのは、きっと苟曜のやつと連携するからだ。時間をかければ敵方の計略が成立し、被害を予測できない。速攻をかけるのは、謀略を成立させず、協調関係を深化させず、彼らの作戦を打ち壊すためだ」と言った。進んで戦い、大いに破り、苻登は退いて郿に駐屯した。苻登の将である金槌(強金槌)が新平の城ごと姚萇に降ると、姚萇は気軽に数百騎を連れて金槌の軍営に入ろうとした。群下が諌めると、姚萇は、「金槌が苻登のもとを去った、さらに私を殺そうとすれば、もう頼り先が残っていない。しかも徳を慕って帰順し、真心から臣従した者を、信用してやらねば、支持を得られない」と言った。やはり氐族たちは暗殺計画を立てていたが、金槌が実行に移さなかった。姚萇は陰密に向かって苻登を攻め、太子の姚興に命じて、「苟曜は姦計を好み、きっと国家の害になる、私が北に帰ると聞けば会いに来るから、彼を捕らえろ」と言った。苟曜は果たして長安で姚興に面会し、姚興は尹緯を派遣して彼を誅殺した。
姚萇は苻登を安定の東で大いに破り、盛大に酒宴を催すと、諸将はみな、「もし魏武王(姚襄)ならば、賊(苻登)に今まで手こずらなかったはず、陛下は慎重すぎます」と言った。姚萇は笑って、「私が四つの点で亡兄に劣り、(亡兄は)身長八尺五寸、腕を垂らして膝に過ぎ、見た目で人を圧倒する、これが一点。十万の敵にぶつかり、天下で覇権を争い、旗を見たら進み、進めば陣を横に並べ(進行を妨げない)、これが二点。古きに学んで今を知り、道義や芸術を論じ、英雄を率い、俊傑を招く、これが三点。大軍を統率し、危難を踏み越え、上下の心を一致させ、死力を引き出す、これが四点。(亡兄に劣る)私が功績を立て、賢者を任用できるのは、少し計略が的中したからだ」と言った。郡臣はみな万歳を称えた。姚萇は文書を下して留台や諸鎮に命じて学官を設置させ、廃止を禁じ、人材の優劣を試験し、才覚に応じて抜擢した。苻登の驃騎将軍である没奕于が六千戸を率いて降り、使持節・車騎将軍・高平公を拝した。

原文

萇寢疾、遣姚碩德鎮李潤、尹緯守長安、召其太子興詣行營。征南姚方成言於興曰、「今寇賊未滅、上復寢疾、王統・苻胤等皆有部曲、終為人害、宜盡除之。」興於是誅苻胤・王統・王廣・徐成・毛盛、乃赴召。興至、萇怒曰、「王統兄弟是吾州里、無他遠志、徐成等昔在秦朝、並為名將。天下小定、吾方任之、奈何輒便誅害、令人喪氣。」萇下書、兵吏從征伐、戶在大營者、世世復其家、無所豫。
苻登與竇衝相持、萇議擊之、尹緯言於萇曰、「太子純厚之稱、著于遐邇、將領英略、未為遠近所知。宜遣太子親行、可以漸廣威武、防闚𨵦之原。」萇從之、戒興曰、「賊徒知汝轉近、必相驅入堡、聚而掩之、無不克矣。」比至胡空堡、衝圍自解。登聞興向胡空堡、引還、興因襲平涼、大獲而歸、咸如萇策。使興還鎮長安。萇下書除妖謗之言及赦前姦穢、有相劾舉者、皆以其罪罪之。晉平遠將軍・護氐校尉楊佛嵩率胡蜀三千餘戶降于萇、晉將楊佺期・趙睦追之。遣姚崇赴救、大敗晉師、斬趙睦。以佛嵩為鎮東將軍。
萇如長安、至於新支堡、疾篤、輿疾而進。夢苻堅將天官使者・鬼兵數百突入營中、萇懼、走入宮、宮人迎萇刺鬼、誤中萇陰、鬼相謂曰、「正中死處。」拔矛、出血石餘。寤而驚悸、遂患陰腫、醫刺之、出血如夢。萇遂狂言、或稱「臣萇、殺陛下者兄襄、非臣之罪、願不枉臣」。至長安、召太尉姚旻・尚書左僕射尹緯・右僕射姚晃・尚書狄伯支等入、受遺輔政。萇謂興曰、「有毀此諸人者、慎勿受之。汝撫骨肉以仁、接大臣以禮、待物以信、遇黔首以恩、四者既備、吾無憂矣。」以太元十八年死、時年六十四、在位八年。偽諡武昭皇帝、廟號太祖、墓稱原陵。

訓読

萇 寢疾し、姚碩德を遣はして李潤に鎮し、尹緯をして長安を守らしめ、其の太子たる興を召して行營に詣らしむ。征南の姚方成 興に言ひて曰く、「今 寇賊 未だ滅びず、上 復た寢疾す、王統・苻胤ら皆 部曲有り、終に人の害と為らん、宜しく盡く之を除くべし」と。興 是に於て苻胤・王統・王廣・徐成・毛盛を誅し、乃ち召に赴く。興 至り、萇 怒りて曰く、「王統の兄弟 是れ吾が州里なり、他に遠志無し、徐成ら昔 秦朝に在り、並びに名將為り。天下 小しく定まれば、吾 方に之を任ぜんとす、奈何 輒ち便ち誅害し、人をして氣を喪はしむ」と。萇 書を下し、兵吏 征伐に從ひ、戶 大營に在る者は、世世 其の家に復し、豫る所無し。
苻登 竇衝と相 持し、萇 之を擊たんと議し、尹緯 萇に言ひて曰く、「太子 純厚の稱あり、遐邇に著はれ、將領の英略、未だ遠近の知る所と為らず。宜しく太子を遣はして親しく行かしめ、以て威武を漸廣し、闚𨵦の原を防がしむ可し」と。萇 之に從ひ、興に戒めて曰く、「賊徒 汝の轉近するを知り、必ず相 驅けて堡に入り、聚まりて之を掩へば、克たざる無かれ」と。胡空堡に至る比、衝の圍 自解す。登 興の胡空堡に向かふを聞き、引還し、興 因りて平涼を襲ひ、大いに獲て歸り、咸 萇が策の如し。興をして還りて長安に鎮せしむ。萇 書を下して妖謗の言及び赦前の姦穢を除かんと、相 劾舉する者有あらば、皆 其の罪を以て之を罪とす。晉の平遠將軍・護氐校尉の楊佛嵩 胡蜀三千餘戶を率ゐて萇に降り、晉將の楊佺期・趙睦 之を追ふ。姚崇を遣りて救に赴き、大いに晉師を敗り、趙睦を斬る。佛嵩を以て鎮東將軍と為す。
萇 長安に如き、新支堡に至り、疾 篤く、輿 疾くして進む。夢に苻堅 天官の使者・鬼兵數百を將ゐて營中に突入し、萇 懼れ、走りて宮に入り、宮人 萇を迎へて鬼を刺し、誤りて萇の陰に中て、鬼 相 謂ひて曰く、「正に死處に中つ」と。矛を拔くに、出血すること石餘なり。寤めて驚悸し、遂に陰腫を患ひ、醫 之を刺すに、出血すること夢の如し。萇 遂に言を狂はせ、或いは稱す「臣萇、陛下を殺すは兄の襄なり、臣の罪に非ず、願はくは臣を枉するなかれ」と。長安に至り、太尉の姚旻・尚書左僕射の尹緯・右僕射の姚晃・尚書の狄伯らを召し入れ、遺を受けて輔政せしむ。萇 興に謂ひて曰く、「此の諸人を毀る者有らば、慎しんで之を受くる勿れ。汝 骨肉を撫するに仁を以てし、大臣に接するに禮を以てし、物に待するに信を以てし、黔首に遇するに恩を以てし、四者 既に備はれば、吾 憂ひ無からん」と。太元十八年を以て死す、時に年六十四、在位八年なり。偽して武昭皇帝と諡し、廟を太祖と號し、墓を原陵と稱す。

現代語訳

姚萇が病床につくと、姚碩徳に李潤を鎮護させ、尹緯に長安を守らせ、太子の姚興を召して行営に呼んだ。征南将軍の姚方成は姚興に、「いまだ寇賊が滅びず、主上は病気になりました、王統・苻胤らは部曲を持ち、将来きっと障害となります、全員を除くべきです」と言った。これを受けて姚興は苻胤・王統・王広・徐成・毛盛を誅してから、姚萇のお召しに応じた。姚興が到着すると、姚萇は怒り、「王統の兄弟はわが同郷であり、野望などない、徐成らは秦朝に仕えて、名将であった。天下が落ち着いたら、彼らを任用しようと思っていた、なぜ誅殺し、人々の支持を失ったのか」と言った。姚萇は文書を下し、征伐に従った兵吏、大営に住む者は、代々家に帰らせ、政務から遠ざけた。
苻登が竇衝と抗争すると、姚萇は攻撃をしようと議論し、尹緯が姚萇に、「太子は純朴で温厚という呼び声が、遠近に高いですが、将軍としての英略は、まだ遠近に知られていません。太子に自ら行かせ、威武を押し広め、野心の芽を摘むべきです」と言った。姚萇は合意し、姚興に戒めて、「賊徒はお前が接近すれば、堡(とりで)に駆け入る、集まってこれを妨げれば、絶対に勝てる」と言った。胡空堡に到着すると、竇衝は自ら(苻登の)包囲を解いた。苻登は竇衝が胡空堡に向かうと聞き、引き返したので、これを受けて姚興は平涼を襲い、大きな戦果をあげて帰り、姚萇の作戦通りとなった。姚興を帰らせて長安を鎮護させた。姚萇は文書を下して怪しげな讒言や大赦直前の犯罪を防ぐため、弾劾する者がいれば、全て本来の(大赦になる前の)罪に基づいて裁くものとした。東晋の平遠将軍・護氐校尉の楊仏嵩が胡族と蜀族三千餘戸を率いて姚萇に降服し、東晋の将の楊佺期・趙睦が追ってきた。姚崇を派遣して救援させ、大いに晋軍を破り、趙睦を斬った。楊仏嵩を鎮東将軍とした。
姚萇は長安に向かい、新支堡に至ると、病状が重くなり、輿は速度を上げた。夢のなかで(旧主の)苻堅が天官の使者・鬼兵数百を率いて軍営に突入し、姚萇は懼れ、宮殿に飛び込み、宮人が姚萇を迎え入れて鬼兵を刺したが、誤って姚萇の陰部に当たり、鬼兵は、「急所に当たった」と言った。矛を抜くと、一斛あまり出血した。驚き目覚めると動悸があって、陰部にできものが生じ、医者が切り取ると、夢のように出血した。姚萇は意識が混濁し、「わたくし萇が申し上げます、陛下を殺したのは兄の姚襄であり、わが罪ではありません、冤罪であります」と言った。長安に到着し、太尉の姚旻・尚書左僕射の尹緯・右僕射の姚晃・尚書の狄伯らを召し入れ、遺詔を授けて輔政を任せた。姚萇は姚興に、「この人たちへの批判は、聞いてはならぬ。親族は仁をもって可愛がり、大臣は礼をもって接し、万物は信義をもって向きあい、庶民には恩を施すように、この四つができれば、私は心配がない」と言った。太元十八(三九三)年に死し、このとき六十四歳、在位八年であった。武昭皇帝と諡し、廟を太祖と号し、墓を原陵と称した。