いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第十七巻_後秦_姚興上

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。お気づきの点がございましたら、ご指摘くださいませ。

姚興上

原文

姚興字子略、萇之長子也。苻堅時為太子舍人。萇之在馬牧、興自長安冒難奔萇、萇立為皇太子。萇出征討、常留統後事。及鎮長安、甚有威惠。與其中舍人梁喜・洗馬范勖等講論經籍、不以兵難廢業、時人咸化之。
萇死、興祕不發喪、以其叔父緒鎮安定、碩德鎮陰密、弟崇守長安。碩德將佐言於碩德曰、「公威名宿重、部曲最強、今喪代之際、朝廷必相猜忌、非永安之道也。宜奔秦州、觀望事勢。」碩德曰、「太子志度寬明、必無疑阻。今苻登未滅而自尋干戈、所謂追二袁之蹤、授首與人。吾死而已、終不若斯。」及至、興優禮而遣之。
興自稱大將軍、以尹緯為長史、狄伯支為司馬、率眾伐苻登。咸陽太守劉忌奴據避世堡以叛、興襲忌奴、擒之。苻登自六陌向廢橋、始平太守姚詳據馬嵬堡以距登。登眾甚盛、興慮詳不能遏、乃自將精騎以迫登、遣尹緯領步卒赴詳。緯用詳計、據廢橋以抗登。登因急攻緯、緯將出戰、興馳遣狄伯支謂緯曰、「兵法不戰而制人者、蓋為此也。苻登窮寇、宜持重、不可輕戰。」緯曰、「先帝登遐、人情擾懼、今不因思奮之力、梟殄逆豎、大事去矣。緯敢以死爭。」遂與登戰、大破之、登眾渴死者十二三、其夜大潰、登奔雍。興乃發喪行服。太元十九年、僭即帝位于槐里、大赦境內、改元曰皇初、遂如安定。
先是、苻登使弟廣守雍、子崇屯胡空堡、聞登敗、各棄守走。登無所投據、遂奔平涼、率其餘眾入馬毛山。興自安定如涇陽、與登戰于山南、斬登。散其部眾、歸復農業。徙陰密三萬戶于長安、分大營戶為四、置四軍以領之。

訓読

姚興 字は子略、萇の長子なり。苻堅 時に太子舍人と為る。萇の馬牧に在るとき、興 長安より難を冒して萇に奔り、萇 立ちて皇太子と為る。萇 征討に出で、常に留めて後事を統めしむ。長安に鎮するに及び、甚だ威惠有り。其の中舍人の梁喜・洗馬の范勖らと經籍を講論し、兵難を以て廢業せず、時人 咸 之に化す。
萇 死し、興 祕して喪を發せず、其の叔父緒を以て安定に鎮し、碩德を陰密に鎮し、弟の崇に長安を守らしむ。碩德の將佐 碩德に言ひて曰く、「公の威名 宿より重く、部曲 最も強く、今 喪代の際、朝廷 必ず相 猜忌せん、永安の道に非ざるなり。宜しく秦州に奔り、事勢を觀望せよ」と。碩德曰く、「太子の志度 寬明なり、必ず疑阻無し。今 苻登 未だ滅せざるに自ら干戈を尋(つ)がば、所謂 二袁の蹤を追ひ、首を授けて人に與ふなり。吾 死する而已、終に斯の若くせず」と。至るに及び、興 優禮もて之を遣る。
興 大將軍を自稱し、尹緯を以て長史と為し、狄伯支を司馬と為し、眾を率ゐて苻登を伐つ。咸陽太守の劉忌奴 避世堡に據りて以て叛し、興 忌奴を襲ひ、之を擒とす。苻登 六陌より廢橋に向かひ、始平太守の姚詳 馬嵬堡に據りて以て登を距ぐ。登の眾 甚だ盛んにして、興 詳の遏ぐ能はざるを慮り、乃ち自ら精騎を將ゐて以て登に迫り、尹緯を遣はし步卒を領して詳に赴く。緯 詳が計を用ひ、廢橋に據りて以て登に抗す。登 因りて緯に急攻し、緯 將に出戰せんとし、興 馳せて狄伯支を遣はして緯に謂ひて曰く、「兵法 戰はずして人を制するとは、蓋し此を為(い)ふなり。苻登は窮寇なり、宜しく持重すべし、輕々しく戰ふ可からず」と。緯曰く、「先帝 登遐して、人情 擾懼し、今 思奮の力に因り、逆豎を梟殄せずんば、大事 去らん。緯 敢て死を以て爭はん」と。遂に登と戰ひ、大いに之を破り、登の眾 渴死する者 十に二三、其の夜 大いに潰え、登 雍に奔る。興 乃ち喪を發して服を行ふ。太元十九年、僭して帝位に槐里に于いて即き、境內を大赦し、改元して皇初と曰ひ、遂に安定に如く。
是より先、苻登 弟の廣をして雍を守らしめ、子の崇をして胡空堡に屯せしめ、登 敗るると聞き、各々守を棄てて走る。登 投據する所無く、遂に平涼に奔り、其の餘眾を率ゐて馬毛山に入る。興 安定より涇陽に如き、登と山南に戰ひ、登を斬る。其の部眾を散じ、農業に歸復せしむ。陰密の三萬戶を長安に徙し、大營の戶を分けて四と為し、四軍を置いて以て之を領す。

現代語訳

姚興は字を子略といい、姚萇の長子である。ときに苻堅は太子舍人であった。姚萇が馬牧にいるとき、姚興は困難を顧みず姚萇のもとに奔って、姚萇の皇太子に立てられた。姚萇が外征すると、つねに留守を任せた。長安に鎮し、大いに威恵を施した。中舎人の梁喜・洗馬の范勖らと経籍を購読し、兵難があっても学業をやめず、当時の人を感化した。
姚萇が死ぬと、姚興は死を隠して喪を発せず、叔父の姚緒を安定に、碩徳を陰密に出鎮させ、弟の姚崇に長安を守らせた。碩徳の補佐官は碩徳に、「公の威名はかねて重く、部曲は最も強く、いまの代替わりで、朝廷では猜疑心が高まり、(朝廷に残るのは)安全な処世ではない。秦州に移り、時勢を観望しなさい」と言った。碩徳は、「太子(姚興)の志と度量は広く明るく、政変など起こさぬ。まだ苻登が滅びておらず自ら(姚氏が)内部対立すれば、二袁(袁紹の家)の轍を踏み、首を他人に差し出すようなもの。私は政権に命を捧げた、そんなことはしない」と言った。到着すると、姚興は優礼により迎えた。
姚興は大将軍を自称し、尹緯を長史とし、狄伯支を司馬とし、苻登を討伐した。咸陽太守の劉忌奴は避世堡を拠点にして反乱し、姚興は忌奴を襲い、捕らえた。苻登が六陌から廃橋に向かい、始平太守の姚詳は馬嵬堡を拠点として苻登を食い止めた。苻登軍は士気が高く、姚興は姚詳では対抗できぬと考え、自ら精騎を率いて苻登に立ち向かい、尹緯に歩兵を率いて姚詳のもとに行かせた。尹緯は姚詳の計略を用い、廃橋を拠点として苻登に対抗した。苻登は尹緯を急襲し、尹緯が出撃しようとすると、姚興は狄伯支を遣って尹緯に、「兵法に戦わずに人を制するというが、今の状況を言うのだ。苻登は追い詰められた寇賊だ、慎重に対処し、軽々しく戦うな」と忠告した。尹緯は「先帝が崩御し、世論は憂懼しています、いま死力を尽くし、逆賊を抹殺せねば、帝業は失敗します。私は敢えて突撃します」と言った。こうして苻登と戦い、大いに破り、苻登軍は水不足により二割か三割が死に、その夜に潰走し、苻登は雍に逃げた。姚興は崩御を公表し服喪した。太元十九(三九四)年、槐里で帝位に即き、領内を大赦し、皇初と改元し、安定に行った。
これより先、苻登は弟の苻広に雍を守らせ、子の苻崇を胡空堡に駐屯させ、苻登が敗れたと聞くと、それぞれ持ち場を棄てて逃げた。苻登は頼る先がなく、平涼に奔り、その残兵を率いて馬毛山に入った。姚興は安定から涇陽に行き、苻登と山南で戦い、苻登を斬った。その配下を分散させ、農業に従事させた。陰密の三萬戸を長安に移し、大営(後秦の君主の兵民)の戸を四つに分けて、四軍を置いて統括した。

原文

安南強熙・鎮遠楊多叛、推竇衝為盟主、所在擾亂。興率諸將討之、軍次武功、多兄子良國殺多而降。衝弟彰武與衝離貳、衝奔強熙。熙聞興將至、率戶二千奔秦州。竇衝走汧川、汧川氐仇高執送之。衝從弟統率其眾降于興。封征虜緒為晉王、征西碩德為隴西王、征南靖等及功臣尹緯・齊難・楊佛嵩等並為公侯、其餘封爵各有差。鮮卑薛勃於貳城為魏軍所伐、遣使請救、使姚崇赴救。魏師既還、薛勃復叛、崇伐而執之、大收其士馬而還。興追尊其庶母孫氏為皇太后、配饗太廟。
楊盛保仇池、遣使請命、拜使持節・鎮南將軍・仇池公。鮮卑越質詰歸率戶二萬叛乞伏乾歸、降于興、興處之于成紀、拜使持節・鎮西將軍・平襄公。姚碩德討平涼胡金豹于洛城、克之。初、上邽姜乳據本縣以叛、自稱秦州刺史。碩德進討之、乳率眾降。以碩德為秦州牧、領護東羌校尉、鎮上邽。徵乳為尚書。強熙及略陽豪族1.權干城率眾三萬圍上邽、碩德擊破之。熙南奔仇池、遂假道歸晉。碩德西討干城、干城降。
興令郡國各歲貢清行孝廉一人。慕容永既為慕容垂所滅、河東太守柳恭等各阻兵自守、興遣姚緒討之。恭等依河距守、緒不得濟。鎮東薛彊先據楊氏壁、引緒從龍門濟河、遂入蒲坂。恭勢屈、請降。徙新平・安定新戶六千于蒲坂。
興母虵氏死、興哀毀過禮、不親庶政。羣臣議請依漢魏故事、既葬即吉。興尚書郎李嵩上疏曰、「三王異制、五帝殊禮。孝治天下、先王之高事也、宜遵聖性、以光道訓。既葬之後、應素服臨朝、率先天下、仁孝之舉也。」尹緯駁曰、「帝王喪制、漢魏為準。嵩矯常越禮、愆于軌度、請付有司、以專擅論。既葬即吉、乞依前議。」興曰、「嵩忠臣孝子、有何咎乎。尹僕射棄先王之典、而欲遵漢魏之權制、豈所望於朝賢哉。其一依嵩議。」

1.「權干城」は、『資治通鑑』巻百八は「權千城」に作る。

訓読

安南の強熙・鎮遠の楊多 叛し、竇衝を推して盟主と為し、所在 擾亂す。興 諸將を率ゐて之を討ち、軍 武功に次り、多が兄の子たる良國 多を殺して降る。衝の弟たる彰武 衝と離貳あり、衝 強熙に奔る。熙 興の將に至らんとするを聞き、戶二千を率ゐて秦州に奔る。竇衝 汧川に走り、汧川氐の仇高 執へて之を送る。衝が從弟たる統 其の眾を率ゐて興に降る。征虜の緒を封じて晉王とし、征西の碩德を隴西王と為し、征南の靖ら及び功臣尹緯・齊難・楊佛嵩ら並びに公侯と為し、其の餘 封爵 各々差有り。鮮卑の薛勃 貳城に於いて魏軍の為に伐たれ、使を遣はして救を請ひ、姚崇をして救に赴かしむ。魏師 既に還り、薛勃 復た叛し、崇 伐ちて之を執へ、大いに其の士馬を收めて還る。興 其の庶母たる孫氏を追尊して皇太后と為し、太廟に配饗す。
楊盛 仇池に保し、使を遣はして命を請ひ、使持節・鎮南將軍・仇池公を拜す。鮮卑の越質詰歸 戶二萬を率ゐて乞伏乾歸に叛し、興に降り、興 之を成紀に處し、使持節・鎮西將軍・平襄公に拜す。姚碩德 平涼胡の金豹を洛城に討ち、之に克つ。初め、上邽の姜乳 本縣に據りて以て叛し、秦州刺史を自稱す。碩德 進みて之を討ち、乳 眾を率ゐて降る。碩德を以て秦州牧と為し、護東羌校尉を領し、上邽に鎮す。乳を徵して尚書と為す。強熙及び略陽の豪族たる權干城 眾三萬を率ゐて上邽を圍み、碩德 之を擊破す。熙 南のかた仇池に奔り、遂に道を假りて晉に歸す。碩德 西のかた干城を討ち、干城 降る。
興 郡國に令して各歲ごとに清行孝廉一人を貢せしむ。慕容永 既に慕容垂の為に滅ぼされ、河東太守の柳恭ら各々兵を阻みて自守し、興 姚緒を遣はして之を討たしむ。恭ら河に依りて距守し、緒 濟るを得ず。鎮東の薛彊 先に楊氏壁に據り、緒を引きて龍門より濟河し、遂に蒲坂に入る。恭の勢 屈し、降を請ふ。新平・安定の新戶六千を蒲坂に徙す。
興の母たる虵氏 死し、興の哀毀 禮を過ぎ、庶政を親らせず。羣臣 議すらく漢魏の故事に依ることを請ひ、既に葬りて吉に即(つ)かんとす。興の尚書郎たる李嵩 上疏して曰く、「三王 制に異にし、五帝 禮を殊にす。孝にして天下を治むるは、先王の高事なり、宜しく聖性に遵ひ、以て道訓を光にせよ。既に葬るの後、應に素服して臨朝すべし、天下に率先するは、仁孝の舉なり」と。尹緯 駁して曰く、「帝王の喪制、漢魏 準と為る。嵩 常を矯めて禮を越え、軌度を愆てり、請ふ有司に付して、專擅を以て論ぜん。既に葬して吉に即かんといふ、乞ふらくは前議に依らんことを」と。興曰く、「嵩 忠臣にして孝子なり、何の咎有らんか。尹僕射 先王の典を棄て、而れども漢魏の權制に遵はんと欲す、豈に朝賢の望む所なるや。其れ一に嵩の議に依れ」と。

現代語訳

安南(将軍)の強熙・鎮遠(将軍)の楊多が叛して、竇衝を盟主に推戴し、その地を混乱させた。姚興は諸将を率いて討伐し、武功に停泊していると、楊多の兄の子である楊良国が楊多を殺して降った。竇衝の弟である竇彰武が竇衝と対立し、竇衝が強熙のもとに逃れた。強熙は姚興の接近を知り、戸二千を率いて秦州に逃げた。竇衝が汧川に逃げると、汧川氐の仇高が彼を捕らえて送ってきた。竇衝の従弟である竇統が軍勢を率いて姚興に降った。征虜将軍の姚緒を晋王に封じ、征西将軍の姚碩徳を隴西王とし、征南将軍の姚靖ら及び功臣の尹緯・斉難・楊仏嵩らを並びに公侯とし、それ以外の封爵は差等があった。鮮卑の薛勃が貳城で北魏軍に伐たれ、救援を求める使者を寄越したので、姚崇を援軍として行かせた。北魏軍が撤退すると、薛勃は再び叛いたので、姚崇が彼を討伐して執え、大いにその兵士と馬を収容して還った。姚興は庶母の孫氏に皇太后と追尊し、太廟に配饗(合祀)した。
楊盛が仇池に割拠し、服従の使者を寄越し、使持節・鎮南将軍・仇池公を拝した。鮮卑の越質詰帰が戸二万を率いて乞伏乾帰に叛し、姚興に降り、姚興はこれを成紀に配置し、使持節・鎮西将軍・平襄公に拝した。姚碩徳は平涼胡の金豹を洛城で討伐し、勝利した。これより先、上邽の姜乳は本籍の県に拠って叛し、秦州刺史を自称した。姚碩徳は進んで討伐し、羌乳は軍勢を率いて降った。姚碩徳を秦州牧とし、護東羌校尉を領し、上邽を鎮護させた。羌乳を徴して尚書とした。強熙及び略陽の豪族である権干城(権千城)は三万の軍で上邽を包囲したが、姚碩徳がこれを撃破した。強熙は南のかた仇池に逃れ、結局は道を借りて東晋に帰順した。姚碩徳は西のかた権干城を討伐し、権干城は降服した。
姚興は郡国に命じて年ごとに清行孝廉を一人ずつ挙げさせた。慕容永が慕容垂に滅ぼされると、河東太守の柳恭らがそれぞれ外敵を防ぎ守りを固めたので、姚興は姚緒を遣って討伐させた。柳恭らが黄河を境にして防衛し、姚緒は渡れなかった。鎮東将軍の薛彊が先に楊氏壁に拠り、姚緒を引き入れて龍門から渡河させたので、蒲坂に入った。柳恭の軍は士気が衰え、降服を願い出た。新平・安定で新たに編入した六千戸を蒲坂に移した。
姚興の母である虵氏が死ぬと、姚興の哀惜は礼制を超え、政務を執らなかった。郡臣は漢魏の故事に従い、埋葬を終えて(短期間で)吉礼に戻せと求めた。姚興の尚書郎である李嵩が上疏し、「三王と五帝は、それぞれ礼制が異なりました。孝行な人が天下を統治するのは、先王が重んじたことです、陛下の好きなだけ悲しみ、孝の教えを明らかになさい。埋葬を終えたら、喪服で臨朝すればよく、天下に率先して、仁と孝を実践して下さい」と言った。尹緯が反対し、「帝王の喪制は、漢魏が基準となります。李嵩の意見は通例と異なり礼制から逸脱し、基準を誤っています、担当官に命じ、彼の独善を裁いて下さい。埋葬して吉礼に戻し、最初の議論の通りになさいませ」と言った。姚興は、「李嵩は忠臣であり孝子であり、何の罪があろう。尹僕射は先王の教えを棄て、漢魏の便宜的な規則に従えというが、それが朝廷や賢者の望みだろうか。もっぱら李嵩の言う通りにせよ」と言った。

原文

鮮卑薛勃叛奔嶺北、上郡・貳川雜胡皆應之、遂圍安遠將軍姚詳於金城。遣姚崇・尹緯討之。勃自三交趣金城、崇列營掎之、而租運不繼、三軍大飢。緯言於崇曰、「輔國彌姐高地・建節杜成等皆諸部之豪、位班三品、督運稽留、令三軍乏絕、宜明置刑書、以懲不肅。」遂斬之。諸部大震、租入者五十餘萬。興率步騎二萬親討之、勃懼、棄其眾奔于高平公沒奕于、于執而送之。
泫氏男姚買得欲因興葬母虵氏殺興、會有告之者、興未之信、遣李嵩詐往。買得具以告嵩。嵩還、以聞、興乃賜買得死、誅其黨與。興下書禁百姓造錦繡及淫祀。興率眾寇湖城、晉弘農太守陶仲山・華山太守董邁皆降於興。遂如陝城、進寇上洛、陷之。遣姚崇寇洛陽、晉河南太守夏侯宗之固守金墉、崇攻之不克、乃陷柏谷、徙流人西河嚴彥・河東裴岐・韓襲等二萬餘戶而還。興下書、令士卒戰亡者守宰所在埋藏之、求其近親為之立後。武都氐屠飛・啖鐵等殺隴東太守姚迴、略三千餘家、據方山以叛。興遣姚紹等討之、斬飛鐵。遣狄伯支迎流人曹會・牛壽萬餘戶于漢中。
興留心政事、苞容廣納、一言之善、咸見禮異。京兆杜瑾・馮翊吉默・始平周寶等上陳時事、皆擢處美官。天水姜龕・東平淳于岐・馮翊郭高等皆耆儒碩德、經明行修、各門徒數百、教授長安、諸生自遠而至者萬數千人。興每於聽政之暇、引龕等于東堂、講論道藝、錯綜名理。涼州胡辯、苻堅之末、東徙洛陽、講授弟子千有餘人、關中後進多赴之請業。興敕關尉曰、「諸生諮訪道藝、修己厲身、往來出入、勿拘常限。」於是學者咸勸、儒風盛焉。給事黃門侍郎古成詵・中書侍郎王尚・尚書郎馬岱等、以文章雅正、參管機密。詵風韵秀舉、確然不羣、每以天下是非為己任。時京兆韋高慕阮籍之為人、居母喪、彈琴飲酒。詵聞而泣曰、「吾當私刃斬之、以崇風教。」遂持劍求高。高懼、逃匿、終身不敢見詵。興遣將鎮東楊佛嵩攻陷洛陽。

訓読

鮮卑の薛勃 叛して嶺北に奔り、上郡・貳川の雜胡 皆 之に應じ、遂に安遠將軍の姚詳を金城に圍む。姚崇・尹緯を遣りて之を討つ。勃 三交より金城に趣き、崇 營を列して之に掎し、而れども租運 繼がず、三軍 大いに飢う。緯 崇に言ひて曰く、「輔國の彌姐高地・建節の杜成ら皆 諸部の豪にして、位班は三品なるとも、督運は稽留し、三軍をして乏絕せしむ、宜しく刑書を明置し、以て不肅を懲せ」と。遂に之を斬る。諸部 大いに震え、租 入るる者は五十餘萬なり。興 步騎二萬を率ゐて親ら之を討ち、勃 懼れ、其の眾を棄てて高平公の沒奕于に奔り、于 執へて之を送る。
泫氏男姚買得 興の母虵氏を葬るに因りて興を殺さんと欲し、會 之を告ぐる者有り、興 未だ信を之ぜず、李嵩をして詐りて往かしむ。買得 具さに以て嵩に告ぐ。嵩 還り、以て聞き、興 乃ち買得に死を賜ひ、其の黨與を誅す。興 書を下して百姓に錦繡を造ること及び淫祀を禁ず。興 眾を率ゐて湖城に寇し、晉の弘農太守たる陶仲山・華山太守たる董邁 皆 興に降る。遂に陝城に如き、進みて上洛を寇し、之を陷す。姚崇をして洛陽を寇せしめ、晉の河南太守たる夏侯宗之 金墉を固守し、崇 之を攻めて克たず、乃ち柏谷を陷し、流人たる西河の嚴彥・河東の裴岐・韓襲ら二萬餘戶を徙して還る。興 書を下し、士卒の戰亡の者をして守宰 所在に之を埋藏せしめ、其の近親を求めて之が為に後を立つ。武都氐の屠飛・啖鐵ら隴東太守の姚迴を殺し、三千餘家を略し、方山に據りて以て叛す。興 姚紹らをして之を討たしめ、飛鐵を斬る。狄伯支をして流人の曹會・牛壽の萬餘戶を漢中に迎へしむ。
興 心を政事に留め、一言の善も、苞容して廣納し、咸 禮異せらる。京兆の杜瑾・馮翊の吉默・始平の周寶ら時事を上陳し、皆 擢を美官に處す。天水の姜龕・東平の淳于岐・馮翊の郭高ら皆 耆儒碩德にして、經明に行修し、各々門徒は數百、長安に教授し、諸生 遠きより至る者 萬數千人なり。興 每に聽政の暇に、龕らを東堂に引き、道藝を講論し、名理を錯綜せしむ。涼州の胡辯、苻堅の末、東のかた洛陽に徙り、弟子千有餘人に講授し、關中の後進 多く之に赴きて業を請ふ。興 關尉に敕して曰く、「諸生 道藝に諮訪し、己を修め身を厲し、往來し出入するは、常限に拘る勿かれ」と。是に於いて學者 咸 勸め、儒風 盛焉たり。給事黃門侍郎の古成詵・中書侍郎の王尚・尚書郎の馬岱ら、文章の雅正を以て、機密に參管す。詵は風韵秀舉にして、確然として羣れず、每に天下の是非を以て己が任と為す。時に京兆の韋高 阮籍の人と為りを慕ひ、母の喪に居し、彈琴し飲酒す。詵 聞きて泣きて曰く、「吾 當に私に刃もて之を斬り、以て風教を崇すべし」と。遂に劍を持ちて高を求む。高 懼れ、逃匿し、終身 敢て詵に見えず。興 將の鎮東の楊佛嵩を遣りて洛陽を攻陷せしむ。

現代語訳

鮮卑の薛勃が反乱して嶺北に奔り、上郡・貳川の雑胡がみな呼応し、安遠将軍の姚詳を金城で包囲してしまった。姚崇・尹緯を派遣して討伐させた。薛勃が三交から金城に向かうと、姚崇は軍営をならべて敵軍を後方から牽制したが、軍糧の供給が続かず、三軍が大いに飢えた。尹緯は姚崇に、「輔国将軍の弥姐高地・建節将軍の杜成らは諸部の豪族で、三品の位階にありますが、兵糧輸送が停滞し、三軍を欠乏させました、刑罰を明らかにし、怠慢を罰しなさい」と言った。彼らを斬った。諸部は震撼し、兵糧が五十餘万も運び込まれた。姚興が歩騎二万を率いて自ら討伐すると、薛勃は懼れ、配下を棄てて高平公の没奕于のもとを頼ったが、没奕于は彼を捕らえて(姚興に)送った。
泫氏男姚買得は姚興が母の虵氏を葬るときを利用して姚興殺害を計画し、告発者がいたが、姚興は信用せず、李嵩に(殺害に賛成だと)偽らせて訪問させた。買得が細かく計画を告げた。李嵩はもどって、報告し、姚興は買得に死を賜り、その仲間を誅殺した。姚興は命令を下して百姓に錦繍の製作と淫祀を禁止した。姚興が軍勢を率いて湖城に侵攻すると、東晋の弘農太守の陶仲山・華山太守の董邁は二人とも姚興に降服した。つぎに陝城に進んで、上洛を侵略し、陥落させた。姚崇に洛陽を攻略させたが、東晋の河南太守である夏侯宗之が金墉城を堅守し、姚崇は勝てなかったが、柏谷を陥落させ、流人である西河の厳彦・河東の裴岐・韓襲ら二万餘戸を移して還った。姚興は文書を下し、戦死した兵士を現地長官に埋葬させ、親族を探して家を継がせた。武都氐の屠飛・啖鉄らが隴東太守の姚迴を殺し、三千餘家を掠奪し、方山に拠って反乱した。姚興は姚紹らに討伐を命じ、屠飛と啖鉄を斬った。狄伯支に命じて流人の曹会・牛寿の万餘戸を漢中で迎えさせた。
姚興は政治に熱心で、一片の善言であっても、聞き入れて採用し、みなに礼意を払った。京兆の杜瑾・馮翊の吉黙・始平の周宝が時事について提言し、顕官に抜擢された。天水の姜龕・東平の淳于岐・馮翊の郭高らは徳を積んだ儒者で、経籍に明るく実践が伴い、それぞれ門徒が数百人おり、長安で教授し、遠くから学生が一万数千人も押し寄せた。姚興は政治の手が空くと、姜龕らを東堂に招き、学問や技芸について議論し、活発に討論をさせた。涼州の胡辯は、(前秦の)苻堅の末期、東のかた洛陽に移り、弟子一千餘人に講授し、関中の弟子たちが指導を受けに行った。姚興は関尉に敕し、「諸生が学芸のため訪問し、身を修めて励んでいる、関所の出入りに、特例を設けよ(通行を許せ)」と言った。こうして学問を振興し、儒教が盛んになった。給事黄門侍郎の古成詵・中書侍郎の王尚・尚書郎の馬岱らは、文章が模範的であり、機密に参与した。古成詵は風雅を備えて秀逸で、定見を持って人と群れず、いつも天下の是非を論じることを自らの役割とした。ときに京兆の韋高が阮籍の生き様を慕い、母の喪中に、琴を弾いて酒を飲んだ。古成詵はこれを聞いて泣き、「私が斬り殺し、風教を守らねば」と言った。剣を持って韋高を探した。韋高は懼れ、逃げ隠れ、生涯二度と古成詵に会わなかった。姚興は鎮東将軍の楊仏嵩に洛陽を攻撃させた。

原文

班命郡國、百姓因荒自賣為奴婢者、悉免為良人。興以日月薄蝕、災眚屢見、降號稱王、下書令羣公卿士將牧守宰各降一等。於是其太尉1.(趙旻公)〔趙公旻〕等五十三人上疏諫曰、「伏惟陛下勳格皇天、功濟四海、威靈振於殊域、聲教暨於遐方、雖成湯之隆殷基、武王之崇周業、未足比喻。方當廓靖江吳、告成中岳、豈宜過垂沖損、違皇天之眷命乎。」興曰、「殷湯・夏禹德冠百王、然猶順守謙沖、未居崇極、況朕寡昧、安可以處之哉。」乃遣旻告于社稷宗廟、大赦、2.改元弘始。賜孤獨鰥寡粟帛有差、年七十已上加衣杖。始平太守周班・槐里令李𩇕皆以黷貨誅、於是郡國肅然矣。洛陽既陷、自淮漢已北諸城、多請降送任。
興下書聽祖父母昆弟得相容隱。姚緒・姚碩德以興降號、固讓王爵、興弗許。京兆韋華・譙郡夏侯軌・始平龐眺等率襄陽流人一萬叛晉、奔于興。興引見東堂、謂華曰、「晉自南遷、承平已久、今政化風俗何如。」華曰、「晉主雖有南面之尊、無總御之實、宰輔執政、政出多門、權去公家、遂成習俗。刑網峻急、風俗奢宕。自桓溫・謝安已後、未見寬猛之中。」興大悅、拜華中書令。
興如河東。時姚緒鎮河東、興待以家人之禮。下書封其先朝舊臣姚驢磑・趙惡地・王平・馬萬載・黃世等子為五等子男。命百僚舉殊才異行之士、刑政有不便於時者、皆除之。兵部郎金城邊熙上陳軍令煩苛、宜遵簡約。興覽而善之、乃依孫吳誓眾之法以損益之。興立律學于長安、召郡縣散吏以授之。其通明者還之郡縣、論決刑獄。若州郡縣所不能決者、讞之廷尉。興常臨諮議堂聽斷疑獄、于時號無寃滯。
姚緒・姚碩德固讓王爵、許之。緒・碩德威權日盛、興恐姦佞小人沮惑之、乃簡清正君子為之輔佐。興以司隸校尉郭撫・扶風太守強超・長安令魚佩・槐里令彭明・倉部郎王年等清勤貞白、下書褒美、增撫邑一百戶、賜超爵關內侯、佩等進位一級。使碩德率隴右諸軍伐乞伏乾歸、興潛軍赴之、乾歸敗走、降其部眾三萬六千、收鎧馬六萬匹。軍無私掠、百姓懷之。興進如枹罕、班賜王公以下、徧於卒伍。興之西也、沒奕于密欲乘虛襲安定、長史皇甫序切諫乃止。于自恨失言、陰欲殺序。乞伏乾歸以窮蹙來降、拜鎮遠將軍・河州刺史・歸義侯、復以其部眾配之。

1.中華書局本に従い、「趙旻公」を「趙公旻」に改める。
2.中華書局本によると、「弘始」と改元した年と史料中の繋年について疑義が多い。詳細な検討は省く。

訓読

郡國に班命し、百姓の荒に因りて自賣して奴婢と為る者は、悉く免じて良人と為す。興 日月の薄蝕し、災眚 屢々見るを以て、號を降して王と稱し、書を下して羣公卿士將牧守宰をして各々一等を降せしむ。是に於て其の太尉の趙公旻ら五十三人 上疏して諫めて曰く、「伏して惟るに陛下の勳は皇天に格しく、功は四海を濟ひ、威靈 殊域に振ひ、聲教 遐方に暨び、成湯の殷基を隆くし、武王の周業を崇むる雖も、未だ比喻するに足らず。方に當に江吳を廓靖し、中岳に告成すべし、豈に宜しく過ぎて沖損を垂れ、皇天の眷命に違ふや」と。興曰く、「殷湯・夏禹 德は百王に冠たり、然れども猶ほ順守して謙沖し、未だ崇極に居らず、況んや朕 寡昧にして、安んぞ以て之に處る可きや」と。乃ち旻を遣はして社稷宗廟に告げしめ、大赦し、弘始と改元す。孤獨鰥寡に粟帛を賜はること差有り、年七十已上に衣杖を加ふ。始平太守の周班・槐里令の李𩇕 皆 貨に黷なるを以て誅し、是に於て郡國 肅然たり。洛陽 既に陷し、淮漢より已北の諸城、多く降を請ひて任を送る。
興 書を下して祖父母昆弟に聽(ゆる)して相 容隱すること得しむ。姚緒・姚碩德 興の降號を以て、固く王爵を讓し、興 許さず。京兆の韋華・譙郡の夏侯軌・始平の龐眺ら襄陽の流人一萬を率ゐて晉に叛し、興に奔る。興 引きて東堂に見え、華に謂ひて曰く、「晉 南遷してより、承平 已に久しく、今 政化風俗 何如や」と。華曰く、「晉主 南面の尊有ると雖も、總御の實無く、宰輔 執政し、政 多門より出で、權 公家を去り、遂に習俗と成る。刑網 峻急にして、風俗 奢宕なり。桓溫・謝安より已後、未だ寬猛の中を見ず」と。興 大いに悅び、華に中書令を拜す。
興 河東に如く。時に姚緒 河東に鎮し、興 待するに家人の禮を以てす。書を下して其の先朝の舊臣たる姚驢磑・趙惡地・王平・馬萬載・黃世らの子を封じて五等の子男と為す。百僚に命じて殊才異行の士を舉げしめ、刑政 時に便ならざる者有らば、皆 之を除く。兵部郎たる金城の邊熙 軍令 煩苛なれば、宜しく簡約に遵ふべしと上陳す。興 覽じて之を善とし、乃ち孫吳の誓眾の法に依りて以て之を損益す。興 律學を長安に立て、郡縣の散吏を召して以て之に授く。其の通明なる者は之の郡縣に還し、刑獄を論決せしむ。若し州郡縣の決する能はざる所は、之を廷尉に讞す。興 常に諮議堂に臨みて疑獄を聽斷し、時に于て寃滯無しと號す。
姚緒・姚碩德 固く王爵を讓り、之を許す。緒・碩德 威權 日に盛なり、興 姦佞小人の之を沮惑するを恐れ、乃ち清正君子を簡びて之の輔佐と為す。興 司隸校尉の郭撫・扶風太守の強超・長安令の魚佩・槐里令の彭明・倉部郎の王年ら清勤貞白なるを以て、書を下して褒美し、撫の邑一百戶を增し、超に爵關內侯を賜ひ、佩ら位一級を進む。碩德をして隴右の諸軍を率ゐて乞伏乾歸を伐ち、興 軍を潛めて之に赴き、乾歸 敗走し、其の部眾三萬六千を降し、鎧馬六萬匹を收む。軍に私掠無く、百姓 之に懷く。興 進みて枹罕に如き、王公以下を班賜し、卒伍に徧し。興の西するや、沒奕于 密かに虛に乘じて安定をを襲はんと欲し、長史の皇甫序 切諫して乃ち止む。于 自ら失言を恨み、陰かに序を殺さんと欲す。乞伏乾歸 窮蹙を以て來降し、鎮遠將軍・河州刺史・歸義侯に拜し、復た其の部眾を以て之に配す。

現代語訳

郡国に布告し、貧窮して身柄を自ら売り奴婢になった百姓を、全て解放して良人とした。姚興は日月の光が薄くなって蝕し、災異がしばしば現れるので、君号を王に降格し、公卿や士将や牧守宰に命じて一階級を降格させた。これを受けて太尉の趙公旻ら五十三人が上疏して「陛下の勲は皇天に等しく、功は四海を救い、威霊は異域に振るい、声教は遠方に及んでおり、成湯の殷王朝、武王の周王朝の創始ですら、比較になりません。江呉(東晋)を粛清し、中岳に報告すべきであり、なぜ過度に謙遜し、皇天の命令に背くのですか」と諫めた。姚興は、「殷湯・夏禹の徳は百王の頂点にあったが、道義を守って謙譲し、帝位に登らなかった、まして朕は蒙昧だ、なぜ帝位にいて良いものか」と言った。趙公旻を遣わして社稷と宗廟に報告させ、大赦し、弘始と改元した。親無し子と未婚や未亡人に粟帛を賜わり、七十歳以上に衣と杖を与えた。始平太守の周班・槐里令の李𩇕が財貨に貪欲なので誅し、郡国は粛然となった。洛陽が陥落すると、淮漢より以北の諸城は、多くが降服を願い質任を送ってきた。
姚興は文書を下して祖父母の兄弟に(罪人を)かくまうことを許した。姚緒・姚碩徳は姚興が帝号を返上したので、自身の王爵を辞退したが、姚興は許さなかった。京兆の韋華・譙郡の夏侯軌・始平の龐眺らが襄陽の流人一万を率いて東晋に叛き、姚興を頼った。姚興は東堂に招き、韋華に、「晋王朝が南遷してから、長く平和が続いているが、政治や風俗はどうだ」と質問した。韋華は、「晋主は南面して帝号にありますが、統御の実態はなく、宰相が執政し、政治は諸家が持ち回り、権力は司馬氏から去って、これが常態化しています。刑罰は厳しすぎ、風俗は奢侈です。桓温・謝安より後、寛政と猛政のバランスが取れた政治家はいません」と言った。姚興は大いに悦び、韋華に中書令を拝した。
姚興は河東に向かった。姚緒(姚興の叔父)が河東を鎮護しており、姚興は家人の礼で接した。文書を下して先朝の旧臣である姚驢磑・趙悪地・王平・馬萬載・黄世らの子を封じて五等爵の子男とした。百僚に命じて才能があり行動の優れた人士を挙げさせ、刑政が時宜を得ない者は、全てを除いた。兵部郎である金城の辺熙が軍令が煩雑なので、簡潔にして下さいと上言した。姚興は読んで納得し、孫呉の誓衆の法を参考にして(軍令を)増減させた。姚興は律(刑法)の学問所を長安に立て、郡県の散吏を召して学ばせた。通暁した者はもとの郡県に帰し、刑獄を議決させた。もし州郡県で判決が下せねば、(中央で)廷尉に判断させた。姚興はつねに諮議堂に臨んで裁判に立ち会い、おかげで冤罪や滞留がないと言われた。
姚緒・姚碩徳が王爵の返上を強く求め、許された。姚緒・姚碩徳の威権が日ごとに盛んになると、姚興は姦悪な小人に野心を唆されることを恐れ、清廉で公正な君子を選んで補佐につけた。姚興は司隸校尉の郭撫・扶風太守の強超・長安令の魚佩・槐里令の彭明・倉部郎の王年らが精勤をして誠実なので、文書を下して称賛し、郭撫の邑一百戸を増やし、強超に爵関内侯を賜り、魚佩らの爵位を一級進めた。姚碩徳に隴右の諸軍を率いて乞伏乾帰を討伐させ、姚興は軍を潜めて向かったが、乾帰が敗走し、配下三万六千が降服し、鎧馬六万匹を獲得した。軍が勝手に掠奪しなかったので、百姓は(姚興軍に)懐いた。姚興は枹罕に進み、王公以下に賜与をして、卒伍まで行き渡った。姚興が西に向かうと、没奕于が虚に乗じて安定襲撃を計画したが、長史の皇甫序が切諫して辞めさせた。没奕于は自分の失言を悔やみ、ひそかに皇甫序を殺そうとした。乞伏乾帰が追い詰められて降服すると、鎮遠将軍・河州刺史・帰義侯に拝し、その配下を返還してやった。

原文

興下書、將帥遭大喪、非在疆埸嶮要之所、皆聽奔赴、乃朞、乃從王役。臨戎遭喪、聽假百日。若身為邊將、家有大變、交代未至、敢輒去者、以擅去官罪罪之。遣晉將軍劉嵩等二百三十七人歸于建鄴。
魏人襲沒奕于、于棄其部眾、率數千騎與赫連勃勃奔于秦州。魏軍進次瓦亭、長安大震、諸城閉門固守。魏平陽太守貳塵入侵河東。興於是練兵講武、大閱于城西、榦勇壯異者召入殿中、引見羣臣于東堂、大議伐魏。羣臣咸諫以為不可、興不從。司隸姚顯進曰、「陛下天下之鎮、不宜親行、可使諸將分討、授以廟勝之策。」興曰、「王者正以廓土靖亂為務、吾焉得而辭之。」興立其子泓為皇太子、大赦境內、賜男子為父後者爵一級。
遣姚平・狄伯支等率步騎四萬伐魏、姚碩德・姚穆率步騎六萬伐呂隆。平等軍次河東、興遣其光遠党娥・立節雷星・建忠王多等率杏城及嶺北突騎自和寧赴援、越騎校尉1.唐〔小〕方・積弩姚良國率關中勁卒為平後繼、姚緒統河東見兵為前軍節度、姚紹率洛東之兵、姚詳率朔方見騎、並集平望、以會于興。使沒奕于權鎮上邽、中軍・廣陵公歛權鎮洛陽、姚顯及尚書令姚晃輔其太子泓、入直西宮。
碩德至姑臧、大敗呂隆之眾、俘斬一萬。隆將呂他等率眾二萬五千、以東苑來降。先是、禿髮利鹿孤據西平、沮渠蒙遜據張掖、李玄盛據敦煌、與呂隆相持。至是、皆遣使隆。興率戎卒四萬七千、自長安赴姚平。平攻魏乾城、陷之、遂據柴壁。魏軍大至、攻平、截汾水以守之。興至蒲坂、憚而不進。時碩德攻呂隆、撫納夷夏、分置守宰、節糧積粟、為持久之計。隆懼、遂降。碩德軍令齊整、秋毫無犯、祭先賢、禮儒哲、西土悅之。
姚平糧竭矢盡、將麾下三十騎赴汾水而死、狄伯支等十將四萬餘人、皆為魏所擒。興下書、軍士戰沒者、皆厚加褒贈。魏軍乘勝進攻蒲坂、姚緒固守不戰、魏乃引還。興徙河西豪右萬餘戶于長安。

1.中華書局本に従い、「小」一字を補う。

訓読

興 書を下し、將帥 大喪に遭ひ、疆埸嶮要の所に在るに非ざれば、皆 奔赴するを聽し、朞に乃びて、乃ち王役に從ふ。戎に臨みて喪に遭へば、假百日を聽す。若し身ら邊將為りて、家に大變有り、交代 未だ至らず、敢て輒ち去る者は、擅に官を去るの罪を以て之に罪す。晉の將軍劉嵩ら二百三十七人を遣はして建鄴に歸(をく)らしむ。
魏人 沒奕于を襲ひ、于 其の部眾を棄て、數千騎を率ゐて赫連勃勃と秦州に奔る。魏軍 進みて瓦亭に次り、長安 大いに震え、諸城 閉門して固守す。魏の平陽太守たる貳塵 河東に入侵す。興 是に於て練兵講武し、大いに城西に閱し、榦勇壯異の者 召して殿中に入れ、引きて羣臣に東堂に見て、大いに伐魏を議す。羣臣 咸 諫めて以て不可と為し、興 從はず。司隸の姚顯 進みて曰く、「陛下は天下の鎮、宜しく親ら行くべからず、諸將をして分ちて討たしめ、授くるに廟勝の策を以てす可し」と。興曰く、「王者 正に廓土の靖亂を以て務と為す、吾 焉ぞ得て之に辭するや」と。興 其の子の泓を立てて皇太子と為し、境內を大赦し、男子の父の後と為る者に爵一級を賜ふ。
姚平・狄伯支らを遣はし步騎四萬を率ゐて魏を伐ち、姚碩德・姚穆 步騎六萬を率ゐて呂隆を伐つ。平らの軍 河東に次り、興 其の光遠の党娥・立節の雷星・建忠の王多らを遣はして杏城及び嶺北の突騎を率ゐて和寧より援に赴かしめ、越騎校尉の唐小方・積弩の姚良國 關中の勁卒を率ゐて平の後繼と為り、姚緒 河東の見兵を統べて前軍節度と為り、姚紹 洛東の兵を率ゐ、姚詳 朔方の見騎を率ゐ、並びに平望に集ひ、以て興に會す。沒奕于をして權に上邽に鎮せしめ、中軍・廣陵の公歛 權に洛陽に鎮せしめ、姚顯及び尚書令の姚晃 其の太子の泓を輔し、入りて西宮に直せしむ。
碩德 姑臧に至り、大いに呂隆の眾を敗り、俘斬すること一萬。隆の將たる呂他ら眾二萬五千を率ゐ、東苑を以て來降す。是より先、禿髮利鹿孤 西平に據り、沮渠蒙遜 張掖に據り、李玄盛 敦煌に據り、呂隆と與に相 持す。是に至り、皆 使を隆に遣ず。興 戎卒四萬七千を率ゐ、長安より姚平に赴く。平 魏を乾城に攻め、之を陷し、遂に柴壁に據る。魏軍 大いに至り、平を攻め、汾水を截ちて以て之を守る。興 蒲坂に至り、憚りて進まず。時に碩德 呂隆を攻め、夷夏を撫納し、守宰を分置し、糧を節して粟を積み、持久の計を為す。隆 懼れ、遂に降る。碩德の軍令は齊整にして、秋毫も犯すもの無く、先賢を祭り、儒哲を禮し、西土 之を悅ぶ。
姚平 糧は竭き矢は盡き、麾下三十騎を將ゐて汾水に赴きて死し、狄伯支ら十將四萬餘人、皆 魏の為に擒へらる。興 書を下し、軍士の戰沒する者は、皆 厚く褒贈を加ふ。魏軍 勝に乘じて蒲坂に進攻し、姚緒 固守して戰はず、魏 乃ち引還す。興 河西の豪右萬餘戶を長安に徙す。

現代語訳

姚興は文書を下し、将帥の親が死ねば、険要の戦地にいない限り、持ち場を離れることを許し、喪が明けたら、軍役に従うものとした。軍役の途中で親が死ねば、百日の休暇を与えた。ただし辺境の将軍が、家族に不幸があり、後任者の到着前に、持ち場を離れたら、役務の罪を適用した。東晋の将軍である劉嵩ら二百三十七人を建鄴に送り届けた。
北魏が没奕于を襲い、没奕于は配下を棄て、数千騎を率いて赫連勃勃とともに秦州に逃げ込んだ。北魏が瓦亭に進駐すると、長安は震撼し、諸城は閉門して守りを固めた。北魏の平陽太守である貳塵が河東に侵入した。姚興は兵を訓練して兵法を教え、城西で大規模な閲兵をして、勇敢な壮士を殿中に召し入れ、郡臣を東堂に集め、大いに伐魏を議論した。郡臣はみな諫めて反対したが、姚興は従わなかった。司隸の姚顕が進み、「陛下は天下の重鎮です、親征はいけません、諸将に分かれて討伐させ、(陛下は)必勝の計略を授けて下さい」と言った。姚興は、「王者は領内の平穏を保つのが務めだ、どうして他人に任せられよう」と言った。姚興は子の姚泓を皇太子に立て、領内に大赦し、父の後嗣となっている男子に爵一級を賜わった。
姚平・狄伯支らを遣わして歩騎四万を率いて北魏を討伐し、姚碩徳・姚穆は歩步騎六万を率いて呂隆の討伐に向かった。姚平らの軍が河東に駐屯すると、姚泓は光遠将軍の党娥・立節将軍の雷星・建忠将軍の王多らを遣わして杏城及び嶺北の突騎を率いて和寧から救援に向かわせ、越騎校尉の唐小方・積弩将軍の姚良国は関中の強兵を率いて姚平の後詰めとなり、姚緒は河東の見兵を統べて前軍の節度となり、姚紹は洛東の兵を率い、姚詳は朔方の見騎を率いて、一斉に平望に集まり、姚興の前に勢揃いした。没奕于にかりに上邽を鎮護させ、中軍将軍・広陵の公歛にかりに洛陽を鎮護させ、姚顕及び尚書令の姚晃に太子の姚興を補佐させ、西宮に入り留守を任せた。
姚碩徳が姑臧に至って、大いに呂隆の軍を破り、一万を捕虜にして斬った。呂隆の将である呂他らは二万五千を率い、東苑で降服した。これより先、禿髪利鹿孤が西平に拠り、沮渠蒙遜が張掖に拠り、李玄盛が敦煌に拠り、呂隆と争っていた。このとき(姚碩徳の進攻)に至り、みな使者を呂隆に送った。姚興は戎卒四万七千を率い、長安から姚平のもとに赴いた。姚平は北魏を乾城で攻め、陥落させ、柴壁に拠った。北魏の軍が大挙して、姚平を攻めたが、汾水の堰を切って守った。姚興は蒲坂に至ったが、憚って進まなかった。このとき姚碩徳は呂隆を攻め、胡漢を慰撫して受け入れ、各署に守宰を設置し、兵糧を節約して粟を積み上げ、持久の計略を取った。呂隆は懼れ、ついに降服した。姚碩徳の軍令は行き届き、僅かでも違反せず、先賢を祭り、儒家の賢者を礼遇し、西方の人々から歓迎された。
姚平は兵糧も矢も尽き、麾下三十騎を連れて汾水に赴いて死に、狄伯支ら十将と四万餘人は、すべて北魏に捕らわれた。姚興は文書を下し、戦没した軍士に、漏れなく手厚い褒賞を与えた。北魏軍は勝ち乗じて蒲坂に進攻し、姚緒が固く守って戦わず、魏軍は引き返した。姚興は河西にいる豪族万餘戸を長安に移した。

原文

晉輔國將軍袁虔之・寧朔將軍劉壽・冠軍將軍高長慶・龍驤將軍郭恭等貳于桓玄、懼而奔興。興臨東堂引見、謂虔之等曰、「桓玄雖名晉臣、其實晉賊、其才度定何如父也。能辦成大事以不。」虔之曰、「玄藉世資、雄據荊楚、屬晉朝失政、遂偷竊宰衡。安忍無親、多忌好殺、位不才授、爵以愛加、無公平之度、不如其父遠矣。今既握朝權、必行篡奪、既非命世之才、正可為他人驅除耳。此天以機便授之陛下、願速加經略、廓清吳楚。」興大悅、以虔之為大司農、餘皆有拜授。虔之固讓、請疆埸自效、改授假節・寧南將軍・廣州刺史。
興立其昭儀張氏為皇后、封子懿・弼・洸・宣・諶・愔・璞・質・逵・裕・國兒皆為公。遣其兼大鴻臚梁斐、以新平張構為副、拜禿髮傉檀車騎將軍・廣武公、沮渠蒙遜鎮西將軍・沙州刺史・西海侯、李玄盛安西將軍・高昌侯。興遣鎮遠趙曜率眾二萬西屯金城、建節王松忩率騎助呂隆等守姑臧。松忩至魏安、為傉檀弟文真所圍、眾潰、執松忩、送于傉檀。傉檀大怒、送松忩還長安、歸罪文真、深自陳謝。
興下書、錄馬嵬戰時將吏、盡擢敘之、其堡戶給復二十年。興性儉約、車馬無金玉之飾、自下化之、莫不敦尚清素。然好游田、頗損農要。京兆杜挻以僕射齊難無匡輔之益、著豐草詩以箴之、馮翊相雲作德獵賦以諷焉。興皆覽而善之、賜以金帛、然終弗能改。
晉順陽太守彭泉以郡降興、興遣楊佛嵩率騎五千、與其荊州刺史趙曜迎之、遂寇陷南鄉、擒建威將軍劉嵩、略地至于梁國而歸。又遣其兼散騎常侍席確詣涼州、徵呂隆弟超入侍、隆遣之。呂隆懼禿髮傉檀之逼、表請內徙。興遣齊難及鎮西姚詰・鎮遠乞伏乾歸・鎮遠趙曜等步騎四萬、迎隆于河西。難至姑臧、以其司馬王尚行涼州刺史、配兵三千鎮姑臧、以將軍閻松為倉松太守、郭將為番禾太守、分戍二城、徙隆及其宗室僚屬于長安。沮渠蒙遜遣弟1.如子貢其方物。王尚綏撫遺黎、導以信義、百姓懷其惠化、翕然歸之。北部鮮卑並遣使貢款。

1.中華書局本によると、「如子」は「挐子」に作るのが正しい。

訓読

晉の輔國將軍の袁虔之・寧朔將軍の劉壽・冠軍將軍の高長慶・龍驤將軍の郭恭ら桓玄に貳あり、懼れて興に奔す。興 東堂に臨みて引見し、虔之らに謂ひて曰く、「桓玄 名は晉臣と雖も、其の實は晉賊なり、其の才度 定めて父に何如や。能く大事を辦成せんや以不や」と。虔之曰く、「玄 世の資を藉り、荊楚に雄據し、晉朝の失政に屬(あひ)て、遂に宰衡を偷竊す。安忍にして親無し、忌多く殺を好み、位 才もて授けず、爵 愛を以て加へ、公平の度無く、其の父に如かざること遠し。今 既に朝權を握り、必ず篡奪を行ひ、既に命世の才非ず、正に他人の為に驅除す可し。此れ天の機を以て便ち之を陛下に授く、願はくは速やかに經略を加へ、吳楚を廓清せよ」と。興 大いに悅び、虔之を以て大司農と為し、餘 皆 拜授有り。虔之 固く讓し、疆埸 自效を請ひ、改めて假節・寧南將軍・廣州刺史を授く。
興 其の昭儀の張氏を立てて皇后と為し、子の懿・弼・洸・宣・諶・愔・璞・質・逵・裕・國兒を封じて皆 公と為す。其の兼大鴻臚の梁斐を遣はし、新平の張構を以て副と為し、禿髮傉檀に車騎將軍・廣武公、沮渠蒙遜に鎮西將軍・沙州刺史・西海侯、李玄盛に安西將軍・高昌侯を拜す。興 鎮遠の趙曜を遣して眾二萬を率ゐて西のかた金城に屯し、建節の王松忩をして騎を率ゐて呂隆らを助けて姑臧を守らしむ。松忩 魏安に至り、傉檀の弟の文真の為に圍はれ、眾 潰え、松忩を執へ、傉檀に送る。傉檀 大いに怒り、松忩を送りて長安に還し、罪を文真に歸し、深く自ら陳謝す。
興 書を下し、馬嵬の戰時の將吏を錄し、盡く之を擢敘し、其の堡戶をば給復すること二十年。興の性 儉約にして、車馬 金玉の飾無く、自下(しもつかた)之に化し、清素を敦尚せざる莫し。然るに游田を好みて、頗る農要を損ず。京兆の杜挻 僕射の齊難 匡輔の益無きを以て、豐草詩を著して以て之を箴め、馮翊の相雲 德獵賦を作りて以て焉を諷す。興 皆 覽じて之を善とし、賜ふに金帛を以てし、然るに終に改むること能はず。
晉の順陽太守の彭泉 郡を以て興に降り、興 楊佛嵩をして騎五千を率ゐ、其の荊州刺史の趙曜と與に之を迎へ、遂に南鄉を寇陷し、建威將軍の劉嵩を擒へ、略地して梁國に至りて歸る。又 其の兼散騎常侍の席確をして涼州に詣らしめ、呂隆が弟の超を徵して入侍せしめ、隆 之を遣る。呂隆 禿髮傉檀の逼を懼れ、表して內徙を請ふ。興 齊難及び鎮西の姚詰・鎮遠の乞伏乾歸・鎮遠の趙曜ら步騎四萬を遣はし、隆を河西に迎ふ。難 姑臧に至り、其の司馬の王尚を以て行涼州刺史とし、兵三千を配して姑臧に鎮し、將軍の閻松を以て倉松太守と為し、郭將を番禾太守と為し、分けて二城を戍り、隆及び其の宗室の僚屬を長安に徙す。沮渠蒙遜 弟の如子を遣はして其の方物を貢ず。王尚 遺黎を綏撫し、導くに信義を以てし、百姓 其の惠化に懷き、翕然として之に歸す。北部鮮卑 並びに使を遣はして貢款す。

現代語訳

東晋の輔国将軍の袁虔之・寧朔将軍の劉寿・冠軍将軍の高長慶・龍驤将軍の郭恭らが桓玄と対立し、懼れて姚興を頼った。姚興は東堂で引見し、袁虔之らに、「桓玄は名目は晋臣だが、実態は晋賊だ、彼の才覚と度量は、父(桓温)と比べてどうか。大事を達成できるか否か」と質問した。袁虔之は、「桓玄は父の七光りで、荊楚に割拠し、晋王朝の失政を受け、宰相の地位を盗みました。残忍で優しさがなく、疑い深くて殺人を好み、才能ではなく、愛着により官位を授け、公平でなく、父に遠く及びません。朝権を握り、必ずや簒奪しますが、世を救う才能を持たず、他人に駆逐されるでしょう。天が陛下に好機を与えています、速やかに計画を立て、呉楚を平定なさいませ」と言った。姚興は大いに悦び、袁虔之を大司農とし、その他も任命した。袁虔之は辞退し、領域の統治権を求めたので、仮節・寧南将軍・広州刺史を授けた。
姚興は昭儀の張氏を皇后に立て、子の懿・弼・洸・宣・諶・愔・璞・質・逵・裕・国児を全て公に封じた。兼大鴻臚の梁斐を使者とし、新平の張構を副使とし、禿髪傉檀に車騎将軍・広武公、沮渠蒙遜に鎮西将軍・沙州刺史・西海侯、李玄盛に安西将軍・高昌侯を拝命した。姚興は鎮遠将軍の趙曜に二万を率いて西のかた金城に駐屯させ、建節将軍の王松忩に騎兵を率いて呂隆らの助けとして姑臧を守らせた。王松忩が魏安に至ると、禿髪傉檀の弟の文真に包囲され、軍勢は潰走し、王松忩は捕らえられ、傉檀のもとに送られた。傉檀は大いに怒り、王松忩を長安に送り返し、文真の罪とし、深く自ら陳謝した。
姚興は文書を下し、馬嵬の戦いに参加した将吏を記録させ、全員を抜擢して任用し、その堡戸は租税を二十年免除した。姚興は倹約を好み、車馬は金玉の飾りがなく、部下も感化され、質素を尊んだ。しかし狩猟を好み、農時を妨げた。京兆の杜挻は僕射の斉難に宰相としての働きがないので、豊草詩を著して彼を批判し、馮翊の相雲は徳猟賦を作って諷刺した。姚興は作品を評価し、金帛を賜ったが、結局は改善しなかった。
東晋の順陽太守である彭泉が郡をあげて姚興に降ると、姚興は楊仏嵩に騎五千を率い、その荊州刺史の趙曜とともに受け入れ、さらに南郷を陥落させ、建威将軍の劉嵩を捕らえ、領地を奪って梁国まで到達してから帰った。また兼散騎常侍の席確を涼州に行かせ、呂隆の弟の呂超を徴して入侍させると、呂隆は送って寄越した。呂隆は禿髪傉檀を脅威に感じ、上表して内地への移住を願った。姚興は斉難及び鎮西将軍の姚詰・鎮遠将軍の乞伏乾帰・鎮遠将軍の趙曜らに歩騎四万で向かわせ、呂隆を河西で迎えた。斉難が姑臧に至ると、彼の司馬の王尚を行涼州刺史とし、兵三千を配置して姑臧を鎮守させ、将軍の閻松を倉松太守とし、郭将を番禾太守とし、分かれて二城を守らせ、呂隆及びその宗室の僚属を長安に移らせた。沮渠蒙遜が弟の如子(挐子)を派遣して献上品をもたらした。王尚は遺民の面倒をみて、信義によって導くと、百姓は教化に懐き、まとめて帰順した。北部の鮮卑たちが使者を送って貢献した。

原文

桓玄遣使來聘、請辛恭靖・何澹之。興留恭靖而遣澹之、謂曰、「桓玄不推計曆運、將圖篡逆、天未忘晉、必將有義舉、以吾觀之、終當傾覆。卿今馳往、必逢其敗、相見之期、遲不云遠。」初、恭靖至長安、引見興而不拜、興曰、「朕將任卿以東南之事。」靖曰、「我寧為國家鬼、不為羌賊臣。」興怒、幽之別室。至是、恭靖亦踰牆遁歸。興遣其將姚碩德・姚斂成・姚壽都等率眾三萬、伐楊盛于仇池。壽都等入自宕昌、斂成從下辯而進。盛遣其弟壽距成、從子斌距都。都逆擊擒之、盡俘其眾。楊壽等懼、率眾請降。碩德還師。晉汝南太守趙策委守奔于興。
興如逍遙園、引諸沙門于澄玄堂聽鳩摩羅什演說佛經。羅什通辯夏言、尋覽舊經、多有乖謬、不與胡本相應。興與羅什及沙門僧略・僧遷・道樹・僧叡・道坦・僧肇・曇順等八百餘人、更出大品、羅什持胡本、興執舊經、以相考校、其新文異舊者皆會於理義。續出諸經并諸論三百餘卷。今之新經皆羅什所譯。興既託意於佛道、公卿已下莫不欽附、沙門自遠而至者五千餘人。起浮圖於永貴里、立波若臺于中宮、沙門坐禪者恒有千數。州郡化之、事佛者十室而九矣。
使姚碩德及冠軍徐洛生等伐仇池、又遣建武趙琨自宕昌而進、遣其將斂俱寇漢中。時劉裕誅桓玄、迎復安帝、玄衞將軍・新安王桓謙、臨原王桓怡、雍州刺史桓蔚、左衞將軍桓謐、中書令1.桓胤、將軍何澹之等奔于興。劉裕遣大參軍衡凱之詣姚顯、請通和、顯遣吉默報之、自是聘使不絕。晉求南鄉諸郡、興許之。羣臣咸諫以為不可、興曰、「天下之善一也、劉裕拔萃起微、匡輔晉室、吾何惜數郡而不成其美乎。」遂割南鄉・順陽・新野・舞陰等十二郡歸於晉。

1.桓彞伝によると、このとき桓胤は後秦に来ておらず、誤りであるという。

訓読

桓玄 使を遣はして來聘し、辛恭靖・何澹之を請ふ。興 恭靖を留めて澹之を遣はし、謂ひて曰く、「桓玄 曆運を推計せず、將に篡逆を圖らんとす、天 未だ晉を忘れず、必ず將に義舉有り、以て吾 之を觀ん、終に當に傾覆すべし。卿 今 馳往し、必ず其の敗に逢はん、相 見の期、遲くとも遠しと云はず」と。初め、恭靖 長安に至り、興に引見して拜せず、興曰く、「朕 將に卿に任ずるに東南の事を以てせんとす」と。靖曰く、「我 寧ろ國家の鬼と為るとも、羌の賊臣と為らず」と。興 怒り、之を別室に幽す。是に至り、恭靖 亦た牆を踰え遁歸す。興 其の將の姚碩德・姚斂成・姚壽都らを遣はし眾三萬を率ゐ、楊盛を仇池に伐つ。壽都ら宕昌より入り、斂成 下辯より進む。盛 其の弟たる壽を遣はして成を距み、從子の斌をして都を距ましむ。都 逆擊して之を擒へ、盡く其の眾を俘す。楊壽ら懼れ、眾を率ゐて降を請ふ。碩德 師を還す。晉の汝南太守の趙策 守を委てて興に奔る。
興 逍遙園に如き、諸沙門を澄玄堂に引き鳩摩羅什の佛經を演說するを聽く。羅什 夏言に通辯し、尋いで舊經を覽ずるに、多く乖謬有り、胡本と相 應ぜず。興 羅什及び沙門の僧略・僧遷・道樹・僧叡・道坦・僧肇・曇順ら八百餘人と與に、更めて大品を出し、羅什 胡本を持し、興 舊經を執り、以て相 考校し、其の新文の舊と異なる者は皆 理義を會す。續きて諸經并に諸論三百餘卷を出す。今の新經 皆 羅什の譯する所なり。興 既に意を佛道に託し、公卿已下 欽附せざる莫く、沙門 遠きより至る者は五千餘人なり。浮圖を永貴里に起し、波若臺を中宮に立て、沙門の坐禪する者 恒に千數有り。州郡 之に化し、佛に事ふる者 十室ありて九なり。
姚碩德及び冠軍徐洛生らをして仇池を伐たしめ、又 建武の趙琨をして宕昌より進み、其の將の斂俱をして漢中を寇せしむ。時に劉裕 桓玄を誅し、迎へて安帝を復し、玄の衞將軍・新安王の桓謙、臨原王の桓怡、雍州刺史の桓蔚、左衞將軍の桓謐、中書令の桓胤、將軍の何澹之ら興に奔る。劉裕 大參軍の衡凱之を遣はして姚顯に詣り、和を通ぜんことを請ひ、顯 吉默を遣はして之に報い、是より聘使 絕えず。晉 南鄉の諸郡を求め、興 之を許す。羣臣 咸 諫めて以て不可と為し、興曰く、「天下の善は一なり、劉裕 萃に拔き微を起し、晉室を匡輔し、吾 何ぞ數郡を惜みて其の美を成さざるや」と。遂に南鄉・順陽・新野・舞陰ら十二郡を割きて晉に歸す。

現代語訳

桓玄が使者を送って来朝し、辛恭靖・何澹之の返還を求めた。姚興は辛恭靖を留めて何澹之を送り返し、彼に、「桓玄は暦数を測らず、簒逆を狙っているが、天はまだ晋王朝を忘れていない、きっと義挙があり、私の見ている間に、結果的に失敗するはずだ。あなたが東晋に帰れば、きっと滅亡に立ち会う、私との再会は、それほど先ではない」と言った。これより先、辛恭靖が長安に至ると、姚興に面会をしたが頭を下げず、姚興は、「朕はあなたに東南のことを任せたいのだが」と言った。辛恭靖は、「私は国家(東晋)のために死んでも、羌族(後秦)の賊臣にはならぬ」と言った。姚興が怒り、別室に幽閉した。このとき、辛恭靖は壁を踏みこえて東晋に逃げ帰った。姚興は将の姚碩徳・姚斂成・姚寿都らを遣はして三万を率い、楊盛を仇池において討伐した。姚寿都らは宕昌から入り、姚斂成は下辯から進んだ。楊盛は弟の楊寿を遣わして姚斂成を食い止め、従子の楊斌に姚寿都を防がせた。姚寿都は迎撃して彼を捕らえ、軍勢を全て捕獲した。楊寿らは懼れ、軍勢を率いて降服を申し出た。姚碩徳は軍勢を撤退させた。東晋の汝南太守の趙策が任地を棄てて姚興のもとに逃げ込んだ。
姚興は逍遙園に行き、沙門たちを澄玄堂に招き鳩摩羅什の説法を聞いた。羅什は中国語に精通しており、旧経を見ると、多くの差異や誤りがあり、胡本と食い違った。姚興は羅什及び沙門の僧略・僧遷・道樹・僧叡・道坦・僧肇・曇順ら八百餘人とともに、改めて大部の経典を出し、羅什が胡本を持ち、姚興が旧経を持ち、引き比べ、新文と旧文が異なる箇所は全て再検討した。続いて諸経ならびに諸論三百餘巻を出した。今の新経は全て羅什の手による翻訳である。姚興は仏道に帰依し、公卿以下も帰服せぬ者がなく、遠くから沙門五千餘人が訪れた。仏図を永貴里に作り、波若台を中宮に立て、座禅する沙門がつねに千を数えた。州郡は教化され、仏教徒は十室のうち九であった。
姚碩徳及び冠軍将軍の徐洛生らに仇池を伐たせ、又 建武将軍の趙琨に宕昌から進ませ、将の斂俱に漢中へ進攻させた。このとき劉裕が桓玄を誅し、安帝を復位させ、桓玄王朝の衛将軍・新安王の桓謙、臨原王の桓怡、雍州刺史の桓蔚、左衛将軍の桓謐、中書令の桓胤、将軍の何澹之らが姚興を頼ってきた。劉裕は大参軍の衡凱之を派遣して姚顕を訪問し、通好を申し出たので、姚顕は吉黙を返礼の使者とし、これ以降は(劉裕が主催する東晋と)使者の往来が絶えなかった。東晋は南郷一帯の諸郡の返還を求め、姚興は許した。郡臣が諫止したが、姚興は、「天下の善事は一つであり、劉裕は衰微した者を助け、晋王朝を匡輔した、どうして数郡を惜しんでこの美事に協力せぬものか」と言った。かくして南郷・順陽・新野・舞陰ら十二郡を割いて東晋に返還した。

原文

姚碩德等頻敗楊盛、盛懼、請降、遣子難當及僚佐子弟數十人為質、碩德等引還。署盛為使持節・散騎常侍・都督益寧州諸軍事・征南大將軍・開府・益州牧・武都侯。斂俱陷城固、徙漢中流人郭陶等三千餘家於關中。興班告境內及在朝文武、立名不得犯叔父緒及碩德之名、以彰殊禮。興謙恭孝友、每見緒及碩德、如家人之禮、整服傾悚、言則稱字、車馬服玩、必先二叔、然後服其次者、朝廷大政、必諮之而後行。
太史令郭黁言於興曰、「戌亥之歲、當有孤寇起於西北、宜慎其鋒。起兵如流沙、死者如亂麻、戎馬悠悠會隴頭、鮮卑・烏丸居不安、國朝疲於奔命矣。」時所在有泉水涌出、傳云飲則愈病、後多無驗。屢有妖人自稱神女、戮之乃止。興大閱、自杜郵至於羊牧。興以姚碩德來朝、大赦其境內。及碩德歸於秦州、興送之、及雍乃還。
禿髮傉檀獻興馬三千匹、羊三萬頭。興以為忠於己、乃署傉檀為涼州刺史、徵涼州刺史王尚還長安。涼州人申屠英等二百餘人、遣主簿胡威詣興、請留尚、興弗許。引威見之、威流涕謂興曰、「臣州奉國五年、王威不接、銜膽棲冰、孤城獨守者、仰恃陛下威靈、俯仗良牧惠化。忽違天人之心、以華土資狄。若傉檀才望應代、臣豈敢言。竊聞乃以臣等貿馬三千匹、羊三萬口、如所傳實者、是為棄人貴畜。苟以馬供軍國、直煩尚書一符、三千餘家戶輸一匹、朝下夕辦、何故以一方委此姦胡。昔漢武傾天下之資、開建河西、隔絕諸戎、斷匈奴右臂、所以終能屠大宛王毋寡。今陛下方布政玉門、流化西域、奈何以五郡之地資之玁狁、忠誠華族棄之虐虜。非但臣州里塗炭、懼方為聖朝旰食之憂。」興乃遣西平人車普馳止王尚、又遣使喻傉檀。會傉檀已至姑臧、普以狀先告之。傉檀懼、脅遣王尚、遂入姑臧。

訓読

姚碩德ら頻りに楊盛を敗り、盛 懼れ、降を請ひ、子の難當及び僚佐の子弟數十人を遣りて質と為し、碩德ら引還す。盛を署して使持節・散騎常侍・都督益寧州諸軍事・征南大將軍・開府・益州牧・武都侯と為す。斂俱 城固を陷し、漢中の流人郭陶ら三千餘家を關中に徙す。興 境內及び在朝の文武に班告し、名を立つるに叔父の緒及び碩德の名を犯すことを得ず、以て殊禮を彰らかにす。興 謙恭孝友にして、每に緒及び碩德に見ゆるに、家人の禮の如くし、服を整へ傾悚し、言ふときは則ち字を稱し、車馬服玩、必ず二叔を先とし、然る後 其の次なるに服へ、朝廷の大政、必ず之に諮りて後に行ふ。
太史令の郭黁 興に言ひて曰く、「戌亥の歲、當に孤寇 西北に起つこと有らん、宜しく其の鋒を慎しむべし。起る兵 流沙が如く、死者 亂麻が如く、戎馬 悠悠として隴頭に會し、鮮卑・烏丸 不安なるに居し、國朝 奔命に疲れん」と。時に所在に泉水の涌出する有り、傳へて飲めば則ち病を愈すと云ひ、後に多く驗無し。屢々妖人の神女を自稱するもの有り、之を戮して乃ち止む。興 大いに閱し、杜郵より羊牧に至る。興 姚碩德を以て來朝せしめ、其の境內を大赦す。碩德 秦州に歸るに及び、興 之を送り、雍に及びて乃ち還る。
禿髮傉檀 興に馬三千匹、羊三萬頭を獻ず。興 以て己に忠ありと為し、乃ち傉檀を署して涼州刺史と為し、涼州刺史の王尚を徵して長安に還らしむ。涼州人の申屠英ら二百餘人、主簿の胡威を遣りて興に詣り、尚を留むることを請ひ、興 許さず。威を引きて之を見るに、威 流涕して興に謂ひて曰く、「臣が州 國に奉ずること五年、王威 接せず、膽を銜み冰に棲み、孤城 獨り守るは、仰ぎて陛下の威靈を恃み、俯きて良牧の惠化を仗ればなり。忽ち天人の心に違ひ、華土を以て狄に資す。若し傉檀が才望 應に代るべくんば、臣 豈に敢て言はや。竊かに聞くに乃ち臣らを以て馬三千匹、羊三萬口に貿(か)ふと、如し傳ふる所 實ならば、是れ人を棄て畜を貴しと為すなり。苟しくも馬を軍國に供すといふを以てせば、直ちに尚書の一符を煩はし、三千餘家 戶に一匹を輸め、朝に下して夕に辦ぜん、何の故にて一方を以て此の姦胡に委するや。昔 漢武 天下の資を傾け、河西を開建し、諸戎を隔絕して、匈奴の右臂を斷つ、終に能く大宛王毋寡を屠りし所以なり。今 陛下 方に政を玉門に布き、化を西域に流す、奈何ぞ五郡の地を以て之を玁狁に資し、忠誠の華族 之を虐虜に棄つるや。但だ臣が州里 塗炭するのみに非ず、懼らくは方に聖朝が旰食の憂と為らん」と。興 乃ち西平の人たる車普を遣りて馳せて王尚を止め、又 使を遣りて傉檀に喻さしむ。會 傉檀 已に姑臧に至り、普 狀を以て先に之に告ぐ。傉檀 懼れ、脅して王尚を遣り、遂に姑臧に入る。

現代語訳

姚碩徳らが何度も楊盛を破り、楊盛が懼れて、降服を請い、子の楊難当及び僚佐の子弟数十人を送って人質とし、姚碩徳は撤退した。楊盛を使持節・散騎常侍・都督益寧州諸軍事・征南大将軍・開府・益州牧・武都侯に任命した。斂俱が城固を陥落させ、漢中の流人である郭陶ら三千餘家を関中に移した。姚興は領内及び在朝の文武官に布告し、名付けるときに(姚興の)叔父の姚緒及び姚碩徳の名(漢字)を犯すことを禁じ、彼らへの特別な敬意を明らかにした。姚興は礼義正しく敬意を払い、姚緒及び姚碩徳に会うときは、家人の礼とし、服装を整えて畏まり、諱でなく字で呼び、車馬や服玩は、必ず二人の叔父を先にし、姚興は次点を選び、朝廷の大政は、彼らの意見を聞いてから実行に移した。
太史令の郭黁が姚興に、「戌亥の歳に、前触れなく西北で反乱が起きます、攻撃に注意しなさい。起こる兵は流砂のようで、死者は乱麻のよう、戎馬は悠悠として隴頭に集まり、鮮卑・烏丸が不安定となり、皇軍は奔走させられます」と言った。このとき各地で泉水が湧き出て、飲むと病気が治ると言われ、やがて効果が無いと分かった。しばしば妖人が神女を自称したが、これを殺して静めた。姚興は大いに閲兵し、杜郵から羊牧に至った。姚興は姚碩徳に来朝させ、領内を大赦した。姚碩徳が秦州に帰るとき、姚興は見送り、雍で引き返した。
禿髪傉檀が姚興に馬三千匹と、羊三万頭を献上した。姚興は彼に忠誠心があると捉え、傉檀を涼州刺史とし、涼州刺史の王尚を長安に徴し還した。涼州人の申屠英ら二百餘人が、主簿の胡威を姚興のもとに送り、王尚の留任を求めたが、姚興は許さなかった。姚興が胡威に会うと、彼は流涕して訴え、「わが州は国家(後秦)に仕えること五年、陛下の威光が直接届かず、肝を舐めて氷を踏んでも、孤立した城を守ってきたのは、上は陛下の威霊を頼みに思い、下は優れた統治官による教化を期待したからです。このたび天と人の心に叛き、中華の地(涼州)を夷狄(禿髪傉檀)に差し出すとのこと。傉檀の才望が後任者として相応しければ、どうして抗議をしましょうか。聞けば私たちと馬三千匹、羊三萬口とを取り替えたそうですね。もし本当なら、人よりも畜生が大切ということです。馬が軍事に必要だというなら、尚書に命令書を一通作らせ、三千餘家の戸ごとに一匹ずつ供出させれば、朝に命じて夕方には届きます、なぜ(馬の代償として)涼州を姦悪な胡族に贈ってしまうのですか。むかし漢武帝が天下の資財を傾け、河西を開拓し、戎族たちを分断して、匈奴の右臂を切り落とし、大宛王の毋寡を屠りました。いま陛下は政治を玉門に布き、教化を西域に及ぼしています、なぜ五郡の地(涼州)を醜悪な胡族に差し出し、忠誠の華族を残虐な異民族に委ねるのですか。わが州里が塗炭の苦しみを味わうだけでなく、恐らくは聖朝(後秦)全体をまきこむ脅威となります」と言った。姚興は西平の人の車普を派遣して馬を飛ばして王尚を留まらせ、さらに使者を送って傉檀を説得した。ちょうど傉檀が姑臧に来ており、車普は状況を先に説明した。傉檀は懼れ、王尚を脅して行かせ、姑臧に入った。

原文

尚既至長安、坐匿呂氏宮人、擅殺逃人薄禾等、禁止南臺。涼州別駕宗敞・治中張穆・主簿邊憲・胡威等上疏理尚曰、臣州荒裔、鄰帶寇讐、居泰無垂拱之安、運否離傾覆之難。自張氏頹基、德風絕而莫扇。呂數將終、梟鶚以之翻翔。羣生嬰罔極之痛、西夏有焚如之禍。幸皇鑒降眷、純風遠被。刺史王尚受任垂滅之州、策成難全之際、輕身率下、躬儉節用、勞逸豐約、與眾同之、勸課農桑、時無廢業。然後振王威以掃不庭、迴天波以蕩氛穢、則羣逆冰摧、不俟朱陽之曜。若秋霜隕籜、豈待勁風之威。何定遠之足高、營平之獨美。經始甫爾、會朝算改授、使希世之功不終於必成、易失之機踐之而莫展、當其時而明其事者、誰不慨然。
既遠役遐方、劬勞于外、雖效未酬恩、而在公無闕。自至京師、二旬于今、出車之命莫逮、萋斐之責惟深。以取呂氏宮人裴氏及殺逃人薄禾等為南臺所禁、天鑒玄鏡、暫免囹圄、譏繩之文、未離簡墨。裴氏年垂知命、首髮二毛、嫠居本家、不在尚室、年邁姿陋、何用送為。邊藩要捍、眾力是寄、禾等私逃、罪應憲墨、以殺止殺、安邊之義也。假若以不送裴氏為罪者、正闕奚官之一女子耳。論勳則功重、言瑕則過微。而執憲吹毛求疵、忘勞記過、斯先哲所以泣血於當年、微臣所以仰天而洒淚。
且尚之奉國、歷事二朝、能否效于既往、優劣簡在聖心、就有微過、功足相補、宜弘罔極之施、以彰覆載之恩。臣等生自西州、無翰飛之翼。久沈偽政、絕進趣之途。及皇化既沾、投竿之心冥發、遂策名委質、位忝吏端。主辱臣憂、故重繭披款、惟陛下亮之。
興覽之大悅、謂其黃門侍郎姚文祖曰、「卿知宗敞乎。」文祖曰、「與臣州里、西方之英雋。」興曰、「有表理王尚、文義甚佳、當王尚研思耳。」文祖曰、「尚在南臺、禁止不與賓客交通、敞寓於楊桓、非尚明矣。」興曰、「若爾、桓為措思乎。」文祖曰、「西方評敞甚重、優於楊桓。敞昔與呂超周旋、陛下試可問之。」興因謂超曰、「宗敞文才何如。可是誰輩。」超曰、「敞在西土、時論甚美、方敞魏之陳・徐、晉之潘・陸。」即以表示超曰、「涼州小地、寧有此才乎。」超曰、「臣以敞餘文比之、未足稱多。琳琅出于崑嶺、明珠生於海濱、若必以地求人、則文命大夏之棄夫、姬昌東夷之擯士。但當問其文彩何如、不可以區宇格物。」興悅、赦尚之罪、以為尚書。

訓読

尚 既に長安に至り、呂氏が宮人を匿し、擅に逃人の薄禾らを殺すことに坐し、南臺に禁止せらる。涼州別駕の宗敞・治中の張穆・主簿の邊憲・胡威ら上疏して尚を理めて曰く、「臣が州 荒裔にして、寇讐に鄰帶し、泰に居りても垂拱の安無く、運 否なれば傾覆の難に離(あ)ふ。張氏 基を頹してより、德風 絕えて扇ぐ莫し。呂の數 將に終らんとし、梟鶚 之を以て翻翔す。羣生 罔極の痛に嬰り、西夏に焚如の禍有り。幸にして皇鑒 眷を降し、純風 遠く被る。刺史の王尚 任を滅に垂とするの州に受け、策を全し難きの際に成し、身を輕んじ下に率ひ、儉を躬らにし用を節し、勞逸豐約、眾と之を同にし、農桑を勸課し、時に業を廢ること無し。然る後 王威を振ひて以て不庭を掃し、天波を迴して以て氛穢を蕩るときは、則ち羣逆 冰のごとく摧き、朱陽の曜を俟たず。秋霜の籜を隕すが若し、豈に勁風の威を待たん。何ぞ定遠の高なるに足り、營平の獨り美ならん。經始 甫いに爾り、朝算 改授するに會ひ、使希世の功をして必成を終へしめず、失ひ易きの機 之を踐みて展すこと莫く、其の時に當りて其の事を明らかにするは、誰か慨然とせざる。
既に遠く遐方に役して、外に劬勞す、效 未だ恩に酬いざると雖も、公に在りて闕無し。京師に至るより、今に二旬、出車の命 逮ぶ莫く、萋斐の責 惟だ深し。呂氏の宮人裴氏を取りて及び逃人の薄禾らを殺すを以て南臺の為に禁ぜらる、天鑒玄鏡にして、暫く囹圄を免れども、譏繩の文、未だ簡墨を離れず。裴氏 年に知命に垂んとし、首髮二毛、本家に嫠居して、尚が室に在らず、年は邁く姿は陋なり、何を用て送ることを為さん。邊藩の要捍、眾力 是れ寄る、禾ら私逃す、罪 憲墨に應じ、殺を以て殺に止む、邊を安ずるの義なり。假若ひ裴氏を送らざるを以て罪と為せば、正に奚官の一女子を闕くのみ。勳を論ずれば則ち功は重く、瑕を言へば則ち微に過ぐ。而れども執憲 毛を吹きて疵を求め、勞を忘れて過を記す、斯れ先哲の當年に泣血する所以にして、微臣 仰天して洒淚する所以なり。
且つ尚の國に奉じ、二朝に歷事し、能否 既往に效あり、優劣 簡するに聖心に在り、就(たと)ひ微過有りるとも、功 相 補ふに足る、宜しく罔極の施を弘くし、以て覆載の恩を彰らかにせよ。臣ら自ら西州より生じ、翰飛の翼無し。久しく偽政に沈み、進趣の途を絕てり。皇化 既に沾するに及び、投竿の心 冥に發し、遂に名を策し質を委ねて、位は吏端を忝くす。主 辱るるときは臣は憂ひ、故に繭を重ねて款を披き、惟だ陛下 之を亮にせよ」と。
興 之を覽じて大いに悅び、其の黃門侍郎の姚文祖に謂ひて曰く、「卿 宗敞を知るか」と。文祖曰く、「臣と州里にして、西方の英雋なり」と。興曰く、「表して王尚を理する有り、文義 甚だ佳し、王尚に當たりて研思せん」と。文祖曰く、「尚 南臺に在り、賓客と交通するを禁止せらる、敞 楊桓に寓す、尚に非ざること明らけし」と。興曰く、「若し爾らば、桓 為に思を措くや」と。文祖曰く、「西方 敞を評すること甚だ重く、楊桓より優る。敞 昔 呂超と周旋す、陛下 試みに之に問ふ可し」と。興 因りて超に謂ひて曰く、「宗敞が文才 何如。是れ誰が輩なる可き」と。超曰く、「敞 西土に在りて、時論 甚だ美なり、敞を魏の陳・徐、晉の潘・陸に方ぶ」と。即ち表を以て超に示して曰く、「涼州の小地、寧ぞ此の才有らんや」と。超曰く、「臣 敞の餘文を以て之を比ぶるに、未だ多と稱するに足らず。琳琅は崑嶺に出で、明珠は海濱に生ず、若し必ず地を以て人を求むれば、則ち文命は大夏の棄夫にして、姬昌は東夷の擯士なり。但だ當に其の文彩 何如を問ふべし、區宇を以て物を格ぶ可からず」と。興 悅び、尚の罪を赦し、以て尚書と為す。

現代語訳

王尚が長安に到着すると、呂氏(後涼)の宮女をかくまい、逃亡者の薄禾らを勝手に殺したという罪により、南台に禁錮された。涼州別駕の宗敞・治中の張穆・主簿の辺憲・胡威らが上疏して王尚を弁護し、「わが涼州は荒廃した地で、外敵と隣接し、泰(の卦)にあっても安心できず、否(の卦)が出れば、転覆の危機に見舞われます。張氏の国家(前涼)が傾いてから、徳の風が途絶えました。呂氏の命数(後涼)が終わり、梟雄が暴れています。庶民は際限なき痛みを味わい、西夏に火刑のような苦しみがあります。幸いにも(後秦)皇帝の庇護下に入り、純風が遠くまで吹いてきました。刺史の王尚は破綻寸前の涼州に赴任し、困難な策を成し、わが身を省みず、倹約して費用を削り、苦しみも喜びも、万民と共有し、農桑を勧進し、生業の破滅を防ぎました。その後に王の権威によって外敵を一掃し、天命の力により邪悪な者を討伐して、氷のように敵を粉砕し、夏まで待つ必要がありませんでした。秋霜が竹皮に落ちるように、強風が吹くのを待つでしょうか。王尚には定遠侯(後漢の班超)や、営平侯(前漢の趙充国)に並ぶ功業があります。以上の経緯があるにも拘わらず、朝廷は異動を決定しました、稀代の仕事を完成させず、稀少な機会を有効活用せず、適切な措置をしないので、誰もが嘆かわしく思うのです。
(王尚は)遠方の任務につき、外地で苦労しました、(姚興の)恩に報いるには功績が足りずとも、公務に失点はありません。京師(長安)に到着して、二十日、馬車を出す命令は届かず、事実無根の追及を受けています。呂氏の宮人である裴氏をかくまい逃人の薄禾らを殺したとして南台に禁錮されましたが、天の裁きは明鏡です、しばらく捕捉を免れても、判決の書簡から、逃れられません。裴氏は五十歳に近く、白髪交じりで、本家に独居し、王尚の家におらず、年かさで見栄えが悪いので、どうして彼女をかばうでしょうか。辺境の要地では、力のある者を頼りますが、薄禾はひそかに逃げたので、その罪は縄を打つことに相当します、殺人には死罪で対応させるのが、辺境の法です。もし裴氏を引き渡さないのを罪とするなら、奚官(馬を養う官署)から一人の女子を削って罰すれば(釣り合いが)十分です。功績が重いが、細かな失点を咎めています。刑務官は毛を吹いて疵を求め、苦労を忘れて過失ばかりを記録しており、これでは先哲が血の涙を流し、私たちも天を仰いで涙を振るっています。
王尚は国に仕え、二代の皇帝のために働き、能力はすでに現れ、優劣はご存知の通りでありまして、小さな過失があっても、功績はこれを補うに十分です、どうか寛大な措置で、天地を覆う恩を示して下さい。私たちは西州(涼州)に生まれ、文章は下手です。長く悪政に沈み、研鑽の機会に恵まれませんでした。大いなる教化が到達し、出仕する勇気を持ち、名を記して人質を預け、官吏の端くれになりました。主君の誤断を臣下は心配し、ゆえに苦難を乗り越えて門を叩きました、陛下のご明察を頂きたいと思います」と言った。
姚興はこれを読んで大いに悦び、黄門侍郎の姚文祖に、「あなたは宗敞を知っているか」と質問した。姚文祖は、「私と州里が同じで、西方の英儁です」と言った。姚興は、「王尚を弁護する上表があり、内容がとても良かった、王尚と(宗敞とはどちらが涼州刺史に適任か)検討したい」と言った。姚文祖は、「王尚は南台におり、賓客との交際を禁止されていますが、宗敞は楊桓に匹敵します、(適任者が)王尚でないことは明らかです」と言った。姚興は、「そうならば、楊桓のような働きを想定すればよいか」と聞いた。姚文祖は、「西方では宗敞を重く評価し、楊桓よりも勝ります。宗敞はむかし呂超の面倒を見ていました、試しに聞いてみなさい」と言った。そこで姚興は呂超に、「宗敞の文才はどれほどか。誰に比較すべきか」と聞いた。呂超は、「宗敞は西土で、時論が秀逸であり、魏の陳・徐、晋の潘・陸と同等です」と言った。そこで(王尚を称えた)上表を呂超に示し、「涼州のような小さな地で、なぜこれほど才能が(続けて)輩出されるのか」と聞いた。呂超は、「私は宗敞のそれ(時論)以外の文は、さほどでもないと思います。琳琅は崑嶺で産出し、明珠は海浜に発生しますが、土地を限定して人材を探せば、文命(禹)は大夏の棄てられた男、姫昌(周の文王)は東夷の案内役に過ぎません。文才の内実を問うべきで、出身地で見定めてはいけません」と言った。姚興は悦び、王尚の罪を赦し、尚書とした。