いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第十八巻_後秦_姚興下(尹緯)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。お気づきの点がございましたら、ご指摘くださいませ。

姚興下

原文

1.義熙二年、平北將軍・梁州督護苻宣入漢中、興梁州別駕2.呂營・漢中徐逸・席難起兵應宣、求救於楊盛。盛遣軍臨濜口、南梁州刺史王敏退守武興。楊盛復通於晉。興以太子泓錄尚書事。慕容超司徒・北地王鍾、右僕射・濟陽王嶷、高都公始、皆來奔。華山郡地涌沸、廣袤百餘步、燒生物皆熟、歷五月乃止。
赫連勃勃殺高平公沒奕于、收其眾以叛。先是、魏主拓跋珪送馬千匹、求婚于興、興許之。以魏別立后、遂絕婚、故有柴壁之戰。至是、復與魏通和、魏放狄伯支・姚伯禽・唐小方・姚良國・康宦還長安、皆復其爵位。
時禿髮傉檀・沮渠蒙遜迭相攻擊、傉檀遂東招河州刺史西羌彭奚念、奚念阻河以叛。蜀譙縱遣使稱藩、請桓謙、欲令順流東伐劉裕。興以問謙、謙請行、遂許之。
使中軍姚弼・後軍3.斂成・鎮遠乞伏乾歸等率步騎三萬伐傉檀、左僕射齊難等率騎二萬討勃勃。吏部尚書尹昭諫曰、「傉檀恃遠、輕敢違逆、宜詔蒙遜及李玄盛、使自相攻擊。待其斃也、然後取之、此卞莊之舉也。」興不從。勃勃退保河曲。弼濟自金城、弼部將姜紀言於弼曰、「今王師聲討勃勃、傉檀猶豫、未為嚴防、請給輕騎五千、掩其城門、則山澤之人皆為吾有、孤城獨立、坐可克也。」弼不從、進拔昌松、長驅至姑臧。傉檀嬰城固守、出其兵擊弼、弼敗、退據西苑。興又遣衞大將軍姚顯率騎二萬、為諸軍節度。至高平、聞弼敗績、兼道赴之、撫慰河外、率眾而還。傉檀遣使人徐宿詣興謝罪。齊難為勃勃所擒。興遣平北姚沖・征虜狄伯支・輔國斂曼嵬・鎮東楊佛嵩率騎四萬討勃勃。沖次于嶺北、欲回師襲長安、伯支不從、乃止、懼其謀泄、遂鴆殺伯支。

1.「義熙二年」は、『資治通鑑』巻百十四はこれを義熙三年のこととする。
2.「呂營」は、『資治通鑑』巻百十四は「呂瑩」に作る。
3.中華書局本によると、「斂成」は「姚斂成」に作るべきである。以下同じ。

訓読

晉の義熙二年、平北將軍・梁州督護の苻宣 漢中に入り、興の梁州別駕の呂營・漢中の徐逸・席難 兵を起して宣に應じ、救を楊盛に求む。盛 軍を遣はして濜口に臨み、南梁州刺史の王敏 退きて武興を守る。楊盛 復た晉に通ず。興 太子の泓を以て錄尚書事とす。慕容超の司徒・北地王の鍾、右僕射・濟陽王の嶷、高都公の始、皆 來奔す。華山郡の地 涌沸し、廣袤百餘步、生物を燒きて皆 熟し、五月を歷て乃ち止む。
赫連勃勃 高平公の沒奕于を殺し、其の眾を收めて以て叛す。是より先、魏主の拓跋珪 馬千匹を送り、婚を興に求め、興 之を許す。魏 以て別に后を立つれば、遂に婚を絕ち、故に柴壁の戰有り。是に至り、復た魏と和を通じ、魏 狄伯支・姚伯禽・唐小方・姚良國・康宦を放ちて長安に還らしめ、皆 其の爵位を復す。 時に禿髮傉檀・沮渠蒙遜 迭りて相 攻擊し、傉檀 遂に東のかた河州刺史たる西羌の彭奚念を招き、奚念 河を阻みて以て叛す。蜀の譙縱 使を遣はして稱藩し、桓謙を請ひ、流に順ひて東のかた劉裕を伐たしめんと欲す。興 以て謙に問ひ、謙 行くことを請ひ、遂に之を許す。
中軍の姚弼・後軍の斂成・鎮遠の乞伏乾歸らをして步騎三萬を率ゐて傉檀を伐たしめ、左僕射の齊難らをして騎二萬を率ゐて勃勃を討たしむ。吏部尚書の尹昭 諫めて曰く、「傉檀 遠きを恃みて、輕々しく敢て違逆す、宜しく蒙遜及び李玄盛に詔して、自ら相 攻擊せしむべし。其の斃を待つや、然る後 之を取れ、此れ卞莊の舉なり〔一〕」と。興 從はず。勃勃 退きて河曲を保つ。弼 金城より濟り、弼の部將の姜紀 弼に言ひて曰く、「今 王師 聲(なら)して勃勃を討ち、傉檀 猶豫して、未だ嚴防を為さず、請ふ輕騎五千を給せよ、其の城門を掩はば、則ち山澤の人 皆 吾が有と為り、孤城 獨立せば、坐して克つ可きなり」と。弼 從はず、進みて昌松を拔き、長驅して姑臧に至る。傉檀 城を嬰りて固守し、其の兵を出して弼を擊ち、弼 敗れ、退きて西苑に據る。興 又 衞大將軍の姚顯を遣りて騎二萬を率ゐ、諸軍の節度と為らしむ。高平に至り、弼の敗績するを聞き、兼道して之を赴き、河外を撫慰し、眾を率ゐて還る。傉檀 使人の徐宿を遣りて興に詣りて謝罪せしむ。齊難 勃勃の為に擒はる。興 平北の姚沖・征虜の狄伯支・輔國の斂曼嵬・鎮東の楊佛嵩を遣はし騎四萬を率ゐて勃勃を討たしむ。沖 嶺北に次り、師を回して長安を襲はんと欲し、伯支 從はず、乃ち止み、其の謀 泄るるを懼れ、遂に伯支を鴆殺す。

〔一〕『史記』巻七十 張儀列伝によると、魯の卞荘は、二匹の虎が争って傷つけあうのを待ってから、少ない労力で二匹の虎を倒したという逸話がある。

現代語訳

東晋の義熙二(四〇六)年、平北将軍・梁州督護の苻宣が漢中に入ると、姚興(後秦)の梁州別駕である呂営(呂瑩)・漢中の徐逸・席難は兵を起こして兵を起して苻宣に呼応し、楊盛に救いを求めた。楊盛は軍を送って濜口に臨み、南梁州刺史の王敏が退いて武興を守った。楊盛が再び東晋と通好した。姚興は太子の姚泓を録尚書事とした。慕容超の司徒・北地王の慕容鍾、右僕射・済陽王の慕容嶷、高都公の慕容始が、いずれも(後秦に)逃げ込んだ。華山郡で地面が沸騰し、面積は百餘歩にわたり、生物を焼いて煮立ち、五ヶ月で止んだ。
赫連勃勃が高平公の没奕于を殺し、軍勢を奪って叛した。これより先、魏主の拓跋珪が馬千匹を送り、姚興に婚姻を求め、これを認めた。北魏が別に后を立てて、婚姻を解消したので、柴壁の戦いが起きた(四〇二年)。このとき再び北魏と和平を結ぶと、北魏は狄伯支・姚伯禽・唐小方・姚良国・康宦を解放して長安に帰らせ、みな爵位を復した。
このとき禿髪傉檀・沮渠蒙遜が代わる代わる攻撃し、傉檀は東のかた河州刺史である西羌の彭奚念を招き、彭奚念は黄河を境界として叛した。蜀の譙縦が使者を寄越して称藩し、桓謙の返還を求め、江水の流れに乗って東のかた劉裕を討伐しようとした。姚興は桓謙に意思を確認し、行きたいと言ったので、桓謙を行かせた。
(姚興は)中軍将軍の姚弼・後軍将軍の斂成(姚斂成)・鎮遠将軍の乞伏乾帰らに歩騎三万を率いて傉檀を討伐させ、左僕射の斉難らに騎二万を率いて勃勃を討伐させた。吏部尚書の尹昭が諫め、「傉檀は遠隔地にいるので、軽々しく違背しました、蒙遜及び李玄盛に詔し、(傉檀を)攻撃させなさい。潰し合うのを待ち、その後に征伐すれば、卞荘の行いとなります」と言った。姚興は従わなかった。勃勃は退いて河曲を保った。姚弼が金城から河を渡ると、姚弼の部将の姜紀が、「いま皇軍(後秦の軍)は声高に勃勃を討伐し、傉檀は油断し、まだ防御を固めていません、軽騎五千を私に預けて下さい、彼の城門を抑えれば、山沢の人々は全てわが軍のものなり、敵の城を孤立させれば、容易に勝てます」と言った。姚弼は従わず、進んで昌松を抜き、長駆して姑臧に至った。傉檀は城を堅守し、兵を出して姚弼を攻撃したところ、姚弼は敗れ、退いて西苑に拠った。姚興はさらに衛大将軍の姚顕に騎二万を率いさせ、諸軍の節度とした。高平に至り、姚弼の敗北を聞き、倍速で駆けつけ、河外を慰撫し、残兵を率いて帰った。傉檀は使者の徐宿を姚興に寄越して謝罪した。斉難が勃勃に捕らわれた。姚興は平北将軍の姚沖・征虜将軍の狄伯支・輔国将軍の斂曼嵬・鎮東将軍の楊仏嵩を遣わして騎四万を率いて勃勃を討伐させた。姚沖は嶺北に駐屯すると、軍を転換して長安を襲撃しようと考えたが、狄伯支が従わず、中止となり、謀略が漏れることを恐れ、狄伯支を鴆殺した。

原文

時王師伐譙縱、大敗之、縱遣使乞師于興。興遣平西姚賞・南梁州刺史王敏率眾二萬救之、王師引還。縱遣使拜師、仍貢其方物。興遣其兼司徒韋華持節策拜縱為大都督・相國・蜀王、加九錫、備物典策一如魏晉故事、承制封拜悉如王者之儀。
興自平涼如朝那、聞沖謀逆、以其弟中最少、雄武絕人、猶欲隱忍容之。斂成泣謂興曰、「沖凶險不仁、每侍左右、臣常寢不安席、願早為之所。」興曰、「沖何能為也。但輕害名將、吾欲明其罪於四海。」乃下書賜沖死、葬以庶人之禮。
晉河間王子國璠・章武王子叔道來奔、興謂之曰、「劉裕匡復晉室、卿等何故來也。」國璠等曰、「裕與不逞之徒削弱王室、宗門能自修立者莫不害之。是避之來、實非誠款、所以避死耳。」興嘉之、以國璠為建義將軍・揚州刺史、叔道為平南將軍・1.兗州刺史、賜以甲第。
興如貳城、將討赫連勃勃、遣安遠姚詳及斂曼嵬・鎮軍彭白狼分督租運。諸軍未集而勃勃騎大至、興欲留步軍、輕如嵬營。眾咸惶懼、羣臣固以為不可、興弗納。尚書郎韋宗希旨勸興行、蘭臺侍御史姜楞越次而進曰、「韋宗傾險不忠、沮敗國計、宜先腰斬以謝天下。脫車駕動軫、六軍駭懼、人無守志、取危之道也。宜遣單使以徵詳等。」興默然。右僕射韋華等諫曰、「若車騎輕動、必不戰自潰、嵬營亦未必可至、惟陛下圖之。」興乃遣左將軍姚文宗率禁兵距戰、中壘齊莫統氐兵以繼之。文宗與莫皆勇果兼人、以死力戰、勃勃乃退。留禁兵五千配姚詳守貳城、興還長安。

1.「兗州刺史」を、『資治通鑑』巻百十五は「交州刺史」に作る。

訓読

時に王師 譙縱を伐ち、大いに之を敗り、縱 使を遣はして師を興に乞ふ。興 平西の姚賞・南梁州刺史の王敏を遣はして眾二萬を率ゐて之を救はして、王師 引還す。縱 使を遣はして師に拜し、仍て其の方物を貢す。興 其の兼司徒の韋華を遣はして持節し策もて縱に拜して大都督・相國・蜀王と為し、九錫を加へ、備物典策 一に魏晉の故事が如く、承制封拜 悉く王者の儀が如くす。
興 平涼より朝那に如き、沖 謀逆すると聞き、其の弟中の最少にして、雄武 人に絕ゆるを以て、猶ほ隱忍して之を容れんと欲す。斂成 泣きて興に謂ひて曰く、「沖 凶險にして不仁なり、每に左右に侍り、臣 常に寢て席を安ぜず、願はくは早く之が所を為せ」と。興曰く、「沖 何ぞ能く為さんや。但だ輕々しく名將を害し、吾 其の罪を四海に明らかにせんと欲す」と。乃ち書を下して沖に死を賜ひ、葬るに庶人の禮を以てす。
晉の河間王の子たる國璠・章武王の子たる叔道 來奔し、興 之に謂ひて曰く、「劉裕 晉室を匡復す、卿ら何なる故に來るや」と。國璠ら曰く、「裕 不逞の徒と王室を削弱し、宗門 能く自ら修立する者 之を害せざる莫し。是に之を避けて來るは、實に誠款に非ず、死を避くる所以なるのみ」と。興 之を嘉し、國璠を以て建義將軍・揚州刺史と為し、叔道を平南將軍・兗州刺史と為し、賜ふに甲第を以てす。
興 貳城に如き、將に赫連勃勃を討たんとし、安遠の姚詳及び斂曼嵬・鎮軍の彭白狼を遣はして分ちて租運を督せしむ。諸軍 未だ集はずして勃勃の騎 大いに至り、興 步軍を留め、輕く嵬の營に如かんと欲す。眾 咸 惶懼し、羣臣 固より以て不可なりと為すも、興 納れず。尚書郎の韋宗 希旨し興に行くことを勸め、蘭臺侍御史の姜楞 次を越えて進みて曰く、「韋宗 傾險にして不忠なり、國計を沮敗す、宜しく先に腰斬して以て天下に謝すべし。脫(も)し車駕 軫を動かさば、六軍 駭懼し、人 守志無く、取危の道なり。宜しく單使を遣はして以て詳らを徵すべし」と。興 默然とす。右僕射の韋華ら諫めて曰く、「若し車騎 輕々しく動かば、必ず戰はずして自潰し、嵬の營も亦 未だ必ずしも至る可からず、惟だ陛下 之を圖れ」と。興 乃ち左將軍の姚文宗を遣はして禁兵を率ゐて距戰せしめ、中壘の齊莫 氐兵を統べて以て之に繼ぐ。文宗 莫と與に皆 勇果 兼人にして、死力を以て戰ひ、勃勃 乃ち退く。禁兵五千を留めて姚詳に配して貳城を守らしめ、興 長安に還る。

現代語訳

ときに皇軍(東晋の軍)が譙縦を討伐し、大いにこれを破ったので、譙縦は使者を遣わして姚興の援軍を求めた。姚興が平西将軍の姚賞・南梁州刺史の王敏を遣わして兵二万で救援させると、皇軍は引き返した。譙縦は使者を遣わして援軍に拝礼し、名産品を貢納した。姚興は兼司徒の韋華を派遣して持節して策書をもたらし譙縦を大都督・相国・蜀王とし、九錫を加え、備物と典策はもっぱら魏晋の故事に基づき、承制と封拝は王者の儀礼とした。
姚興が平涼から朝那に行くと、姚沖が謀逆したと聞いたが、彼は最年少の弟であり、雄武が抜群なので、我慢して見逃そうとした。斂成(姚斂成)が泣いて姚興に、「姚沖は凶悪で不仁な人物であり、いつも左右に侍り、生きた心地がしません、早く処置をお願いします」と言った。姚興は、「なぜ姚沖が(謀逆を)できよう。軽々しく名将を殺害したから、その罪を四海に明らかにするのだ」と言った。文書を下して姚沖に死を賜り、庶人の礼で葬った。
東晋の河間王の子である司馬国璠・章武王の子である司馬叔道が(後秦に)駆け込み、姚興は彼らに、「劉裕が晋王朝を補佐し復興させている、なぜ来たのか」と質問した。司馬国璠らは、「劉裕は不逞のやからと王室の力を削ぎ、自活できる皇族は全て殺害されている。劉裕を避けてきたのは、彼に誠意がないからであり、死を回避したのです」と答えた。姚興は喜び、司馬国璠を建義将軍・揚州刺史、司馬叔道を平南将軍・兗州刺史とし、立派な邸宅を賜った。
姚興は貳城に行き、赫連勃勃を討伐しようとし、安遠将軍の姚詳及び斂曼嵬・鎮軍将軍の彭白狼を遣わして分かれて兵糧輸送を監督させた。諸軍が集結する前に勃勃の騎兵が大いに襲来し、姚興は歩兵を留め、軽々しく斂曼嵬の軍営に行こうとした。軍勢全体が恐慌状態となり、郡臣は制止したが、姚興は聞き入れなかった。尚書郎の韋宗が上意に沿って(斂曼嵬の軍営に)行くことを勧めると、蘭台侍御史の姜楞が席次を越えて進言し、「韋宗は危うい不忠者です、国家の大計を台無しにします、先に腰斬して天下に謝りなさい。もし(姚興の)馬車が軽々しく動けば、六軍は驚き懼れ、人は防御の意欲を失います、危険な選択です。使者を送って姚詳らを徴しなさい」と唱えた。姚興は黙ってしまった。右僕射の韋華らが諫め、「もし(姚興の)車騎が軽々しく動けば、戦わずして自然崩壊し、斂曼嵬の軍営にも辿り着けなくなります、陛下はご再考下さい」と言った。姚興は左将軍の姚文宗に禁兵(中央軍)を率いて防戦させ、中塁将軍の斉莫が氐兵を統率してこれに続いた。姚文宗は斉莫とともに人の数倍の勇敢さを備え、死力をもって戦い、勃勃は撤退した。禁兵五千を留めて姚詳に配備して貳城を守らせ、姚興は長安に還った。

原文

譙縱遣其侍中譙良・太常楊軌朝於興、請大舉以寇江東。遣其荊州刺史桓謙・梁州刺史譙道福率眾二萬東寇江陵。興乃遣前將軍苟林率騎會之。謙屯1.(支江)〔枝江〕、林屯江津。謙、江左貴族、部曲徧於荊楚、晉之將士皆有叛心。荊州刺史劉道規大懼、嬰城固守。雍州刺史魯宗之率襄陽之眾救之、道規乃留宗之守江陵、率軍逆戰。謙等舟師大盛、兼列步騎以待之。大戰枝江、謙敗績、乘輕舸奔就苟林、晉人獲而斬之。苟林懼而引歸。
興以國用不足、增關津之稅、鹽竹山木皆有賦焉。羣臣咸諫、以為天殖品物以養羣生、王者子育萬邦、不宜節約以奪其利。興曰、「能踰關梁通利於山水者、皆豪富之家。吾損有餘以裨不足、有何不可。」乃遂行之。興從朝門游於文武苑、及昏而還、將自平朔門入。前驅既至、城門校尉王滿聰被甲持杖、閉門距之、曰、「今已昏闇、姦良不辨、有死而已、門不可開。」興乃迴從朝門而入。旦而召滿聰、進位二等。
乞伏乾歸以眾叛、攻陷金城、執太守任蘭。蘭厲色責乾歸以背恩違義、乾歸怒而囚之、蘭遂不食而死。
赫連勃勃遣其將胡金纂將萬餘騎攻平涼。興如貳城、因救平涼、纂眾大潰、生擒纂。勃勃遣兄子提攻陷定陽、執北中郎將姚廣都。興將曹熾・曹雲・王肆佛等各將數千戶避勃勃內徙、興處佛于湟山澤、熾・雲於陳倉。勃勃寇隴右、攻白崖堡、破之、遂趣清水。略陽太守姚壽都委守奔秦州、勃勃又收其眾而歸。興自安定追之、至壽渠川、不及而還。

1.中華書局本に従い、「支江」を「枝江」に改める。

訓読

譙縱 其の侍中の譙良・太常の楊軌を遣はして興に朝し、大舉して以て江東を寇することを請ふ。其の荊州刺史の桓謙・梁州刺史の譙道福を遣はして眾二萬を率ゐて東のかた江陵を寇す。興 乃ち前將軍の苟林を遣はして騎を率ゐて之に會す。謙 枝江に屯し、林 江津に屯す。謙、江左の貴族なり、部曲 荊楚に徧く、晉の將士 皆 叛心有り。荊州刺史の劉道規 大いに懼れ、城を嬰して固守す。雍州刺史の魯宗之 襄陽の眾を率ゐて之を救ひ、道規 乃ち宗之を留めて江陵を守らしめ、軍を率ゐて逆戰す。謙らの舟師 大いに盛なり、兼せて步騎を列して以て之を待つ。大いに枝江に戰ひ、謙 敗績し、輕舸に乘りて奔りて苟林に就くに、晉人 獲て之を斬る。苟林 懼れて引歸す。
興 國用の足らざるを以て、關津の稅を增し、鹽竹山木 皆 賦有り。羣臣 咸 諫め、以為へらく天 品物を殖して以て羣生を養ひ、王者 萬邦を子として育つ、宜しく節約するに以て其の利を奪ふべからずと。興曰く、「能く關梁を踰え利を山水に通ずる者は、皆 豪富の家なり。吾 有餘を損じて以て不足を裨く、何ぞ不可なること有らんか」と。乃ち遂に之を行ふ。興 朝門より文武苑に游び、昏に及びて還り、將に平朔門より入らんとす。前驅 既に至り、城門校尉の王滿聰 甲を被て杖を持し、閉門して之を距み、曰く、「今 已に昏闇なり、姦良 辨ぜず、死有るのみ、門 開く可からず」と。興 乃ち迴りて朝門より入る。旦にして滿聰を召して、位二等を進む。
乞伏乾歸 眾を以て叛し、攻めて金城を陷し、太守の任蘭を執ふ。蘭 色を厲まし乾歸を責むるに恩に背き義に違ふを以てし、乾歸 怒りて之を囚へ、蘭 遂に食はずして死す。
赫連勃勃 其の將の胡金纂を遣はし萬餘騎を將ゐて平涼を攻む。興 貳城に如き、因りて平涼を救ひ、纂の眾 大いに潰え、生きながらに纂を擒ふ。勃勃 兄が子の提を遣はして攻めて定陽を陷し、北中郎將の姚廣都を執ふ。興の將たる曹熾・曹雲・王肆佛ら各々數千戶を將ゐて勃勃を避けて內徙し、興 佛を湟山澤、熾・雲を陳倉に處す。勃勃 隴右に寇し、白崖堡を攻め、之を破り、遂に清水に趣く。略陽太守の姚壽都 守を委てて秦州に奔り、勃勃 又 其の眾を收めて歸る。興 安定より之を追ひ、壽渠川に至りて、及ばずして還る。

現代語訳

譙縦は侍中の譙良・太常の楊軌を遣わして姚興に朝見し、江東への大規模侵略を要請した。(譙縦は)その荊州刺史の桓謙・梁州刺史の譙道福を遣わして兵二万を率いて東のかた江陵を侵略した。姚興は前将軍の苟林を遣わして騎兵を率いて合流させた。桓謙は枝江に駐屯し、苟林は江津に駐屯した。桓謙は、江東の貴族であり、部曲が荊楚にあまねく、東晋の将士はみな(桓氏に同調して東晋に)叛意を抱いた。荊州刺史の劉道規は大いに懼れ、城を堅守した。(東晋の)雍州刺史の魯宗之が襄陽の軍勢を率いて救援し、劉道規は魯宗之を留めて江陵を守らせ、軍を率いて迎撃した。桓謙らの水軍はとても精強で、歩騎も並べて待ち受けた。大いに枝江で戦い、桓謙が敗北し、軽舸に乗って苟林を頼って逃げたが、東晋軍に捕獲され斬られた。苟林は懼れて引き還した。
姚興は財政健全化のため、関所と渡し場に通行税を課し、塩竹山木にも課税するとした。郡臣はみな諫め、天の恵みが万民を養い、王者は万邦を子のように育てるべきであり、財政のため万民の利を奪ってはならぬと述べた。姚興は、「関所や渡し場を通過して山水から利益を上げているのは、みな富豪の家である。彼らの余財を削って国庫に当てる、これでよいのだ」と言った。課税を施行した。姚興は朝門から文武苑に出かけ、夕方に帰ると、平朔門から入ろうとしたが、先触れが到着すると、城門校尉の王満聡は武装し、閉門して通行を拒否し、「もう暗いから、(通行者は)善悪に拘わらず、殺すぞ、門は開けられぬ」と言った。姚興は迂回して朝門から入った。翌朝に王満聡を召して、位二等を進めた。
乞伏乾帰が軍勢を連れて反乱し、金城を攻めて陥落させ、太守の任蘭を捕らえた。任蘭は乞伏乾歸が恩義に叛いたことを叱り飛ばし、乾帰が怒って逮捕すると、任蘭はものを食わずに死んだ。
赫連勃勃が将の胡金纂を遣わして万餘騎を率いて平涼を攻めた。姚興は貳城にゆき、平涼を救ったので、胡金纂の軍勢は大いに潰走し、胡金纂を捕らえた。勃勃は兄の子である赫連提を遣わして定陽を攻めて陥落させ、北中郎将の姚広都を捕らえた。姚興の将である曹熾・曹雲・王肆仏らはそれぞれ数千戸をひきいて勃勃を避けて内地に移住し、姚興は王肆仏を湟山沢に、曹熾・曹雲を陳倉に住まわせた。勃勃が隴右に進攻し、白崖堡を攻め、ここを破り、清水に向かった。略陽太守の姚寿都は守りを捨てて秦州に逃げ、勃勃はその配下を収容して帰った。姚興は安定からこれを追ったが、寿渠川に至り、追いつけずに帰還した。

原文

初、天水人姜紀、呂氏之叛臣、阿諂姦詐、好間人之親戚。興子弼有寵於興、紀遂傾心附之。弼時為雍州刺史、鎮安定、與密謀還朝、令傾心事常山公顯、樹黨左右。至是、興以弼為尚書令・侍中・大將軍。既居將相、虛襟引納、收結朝士、勢傾東宮、遂有奪嫡之謀矣。
興以勃勃・乾歸作亂西北、傉檀・蒙遜擅兵河右、疇咨將帥之臣、欲鎮撫二方。隴東太守郭播言於興曰、「嶺北二州鎮戶皆數萬、若得文武之才以綏撫之、足以靖塞姦略。」興曰、「吾每思得廉頗・李牧鎮撫四方、使便宜行事。然任非其人、恒致負敗。卿試舉之。」播曰、「清潔善撫邊、則平陸子王元始。雄武多奇略、則建威王煥。賞罰必行、臨敵不顧、則奮武彭蚝。」興曰、「蚝令行禁止則有之、非綏邊之才也。始・煥年少、吾未知其為人。」播曰、「廣平公弼才兼文武、宜鎮督一方、願陛下遠鑒前車、近悟後轍。」興不從、以其太常索棱為太尉、領隴西內史、綏誘乾歸。政績既美、乾歸感而歸之。太史令任猗言於興曰、「白氣出於北方、東西竟天五百里、當有破軍流血。」乞伏乾歸遣使送所掠守宰、謝罪請降。興以勃勃之難、權宜許之、假乾歸及其子熾磐官爵。
姚詳時鎮杏城、為赫連勃勃所逼、糧盡、委守南奔大蘇。勃勃要之、眾散、為勃勃所執。時遣衞大將軍顯迎詳、詳敗、遂屯杏城、因令顯都督安定嶺北二鎮事。潁川太守姚平都自許昌來朝、言於興曰、「劉裕敢懷姦計、屯聚芍陂、有擾邊之志、宜遣燒之、以散其眾謀。」興曰、「裕之輕弱、安敢闚吾疆埸。苟有姦心、其在子孫乎。」召其尚書楊佛嵩謂之曰、「吳兒不自知、乃有非分之意。待至孟冬、當遣卿率精騎三萬焚其積聚。」嵩曰、「陛下若任臣以此役者、當從肥口濟淮、直趣壽春、舉大眾以屯城、縱輕騎以掠野、使淮南蕭條、兵粟俱了、足令吳兒俯仰回惶、神爽飛越。」興大悅。

訓読

初め、天水の人たる姜紀、呂氏の叛臣なり、阿諂姦詐し、人の親戚を間つを好む。興が子たる弼 興に寵有り、紀 遂に心を傾けて之に附す。弼 時に雍州刺史と為り、安定に鎮し、與に密に朝に還らんことを謀り、心を傾けて常山公の顯に事へ、黨を左右に樹てしむ。是に至り、興 弼を以て尚書令・侍中・大將軍と為す。既に將相に居りて、虛襟引納して、朝士を收結し、勢は東宮を傾け、遂に奪嫡の謀有り。
興 勃勃・乾歸の西北に亂を作し、傉檀・蒙遜 兵を河右に擅にするを以て、將帥の臣に疇咨し、二方を鎮撫せんと欲す。隴東太守の郭播 興に言ひて曰く、「嶺北二州の鎮 戶は皆 數萬、若し文武の才を得て以て之を綏撫せば、以て姦略を靖塞するに足る」と。興曰く、「吾 每に廉頗・李牧を得て四方を鎮撫し、便宜に事を行はしめんと思ふ。然るに其の人に非ざるを任じ、恒に負敗に致る。卿 試みに之を舉げよ」と。播曰く、「清潔にして善く邊を撫するは、則ち平陸子の王元始なり。雄武にして奇略多きは、則ち建威の王煥なり。賞罰 必ず行ひ、敵に臨みて顧みざるは、則ち奮武の彭蚝なり」と。興曰く、「蚝 令すれば行し禁ずれば止み則ち之有り、綏邊の才に非ざるなり。始・煥 年少にして、吾 未だ其の人と為りを知らざるなり」と。播曰く、「廣平公弼 才は文武を兼ね、宜しく一方に鎮督たらしむべし、願はくは陛下 遠く前車を鑒し、近く後轍を悟れ」と。興 從はず、其の太常の索棱を以て太尉と為し、隴西內史を領し、乾歸を綏誘せしむ。政績 既に美なり、乾歸 感じて之に歸す。太史令の任猗 興に言ひて曰く、「白氣 北方に出で、東西 天に竟ること五百里、當に軍を破りて血を流すこと有らん」と。乞伏乾歸 使を遣はして掠する所の守宰を送り、謝罪し降を請ふ。興 勃勃の難を以て、權宜に之を許し、乾歸及び其の子の熾磐に官爵を假す。
姚詳 時に杏城に鎮し、赫連勃勃の為に逼られ、糧 盡き、守を委てて南のかた大蘇に奔る。勃勃 之を要し、眾 散じ、勃勃の為に執へらる。時に衞大將軍の顯を遣はして詳を迎ふるに、詳 敗れ、遂に杏城に屯し、因りて顯をして安定嶺北二鎮事を都督せしむ。潁川太守の姚平都 許昌より來朝し、興に言ひて曰く、「劉裕 敢て姦計を懷き、芍陂に屯聚し、擾邊の志有り、宜しく之を燒かしめ、以て其の眾謀を散ずべし」と。興曰く、「裕の輕弱なる、安にか敢て吾が疆埸を闚はん。苟くも姦心有らば、其れ子孫に在らんか」と。其の尚書の楊佛嵩を召して之に謂ひて曰く、「吳兒 自知せず、乃ち非分の意有り。孟冬に至るを待ち、當に卿を遣はして精騎三萬を率ゐて其の積聚を焚かしめん」と。嵩曰く、「陛下 若し臣を任ずるに此の役を以てせば、當に肥口より淮を濟り、直ちに壽春に趣き、大眾を舉げて以て城に屯し、輕騎を縱にして以て野を掠し、淮南をして蕭條とし、兵粟 俱に了らしめば、吳兒をして俯仰して回惶し、神爽 飛越せしむに足る」と。興 大いに悅ぶ。

現代語訳

これより先、天水の人である姜紀は、呂氏(後涼)を叛いた臣下であったが、へつらって姦悪な計画をねり、人間関係を壊すことを得意とした。姚興の子である姚弼は父に可愛がられたが、姜紀は彼に熱心に取り入った。姚弼はこのとき雍州刺史となり、安定に出鎮していたが、中央への復帰を密謀し、常山公の姚顕の歓心を買い、左右に仲間を作った。ここに至り、姚弼は尚書令・侍中・大将軍となった。将相の位におり、虚心に人士を招き、朝臣を結集し、勢力が東宮(太子)を上回り、嫡子の地位を奪う野心を抱いた。
姚興は勃勃・乾帰が西北で反乱し、傉檀・蒙遜が河右で兵を勝手に動かすので、将帥の臣に人材を求め、二方面を鎮撫しようとした。隴東太守の郭播は姚興に、「嶺北二州の鎮はいずれも戸数が数万あります、文武の才能を得て綏撫すれば、姦賊の侵略を静めて防ぐことができます」と言った。姚興は、「私はいつも廉頗・李牧のような人物を得て四方を鎮撫させ、権限を付与したいと思っている。だが不適任者を任命し、ずっと負けてきた。試みに候補者を挙げよ」と言った。郭播は、「清廉で辺境を慰撫できるのは、平陸子の王元始です。雄武で奇略が多いのは、建威将軍の王煥です。賞罰を適切に行い、敵に臨んで振り返らぬのは、奮武将軍の彭蚝です」と言った。姚興は「彭蚝は命令すれば実行し禁止すれば中止するだけで、辺境を綏撫する才能がない。王元始・王煥は年少なので、まだ人となりが分からぬ」と言った。郭播は、「広平公の姚弼は才能が文武にわたり、一方面の鎮督とすべきです、陛下は先行する馬車を見て、同じ失敗をくり返さぬように」と言った。姚興は従わず、太常の索棱を太尉とし、隴西内史を領させ、乾帰を綏撫して帰順せよと誘った。優れた統治実績があるので、乾帰は期待して帰順した。太史令の任猗は姚興に、「白い気が北方に出て、東西の天を五百里も横切りました、軍が敗れて血が流れる前兆です」と言った。乞伏乾帰が使者を寄越して拉致をした(後秦の)守宰を送り返し、謝罪して降服を願い出た。姚興は勃勃の脅威があるので、便宜的に許し、乾帰及び其の子の熾磐に官爵を与えた。
姚詳は杏城に出鎮していたが、赫連勃勃に逼られて、糧食が尽き、守りを捨てて南のかた大蘇に逃げた。勃勃がこれを要撃すると、軍勢は解散し、勃勃に捕らえられた。このとき衛大将軍の姚顕を派遣して姚詳を迎えようとしたが、姚詳が敗れたので、杏城に駐屯し、姚顕に安定嶺北二鎮事を都督させた。潁川太守の姚平都が許昌から来朝し、姚興に、「劉裕が姦計を懐き、芍陂に基地を築き、国境侵略を狙っています、基地を焼き払い、彼の軍勢と計画を破って下さい」と言った。姚興は、「劉裕は軽率で弱い、わが国境を侵せるものか。姦謀があるなら、子孫の時代ではないか」と言った。尚書の楊仏嵩を召して、「呉児は身の程が分からず、不相応な意思を見せた。孟冬になるのを待ち、あなたを派遣して精騎三万で彼らの備蓄を焼却させる」と言った。楊仏嵩は、「私にお任せ頂けるなら、肥口から淮水を渡り、寿春に直行し、大軍で城に駐屯し、軽騎を駆使して野で掠奪し、淮南を廃墟にし、(敵方に)兵糧を消耗させ、呉児に恐怖を与え、精神を消し飛ばしてやりましょう」と言った。姚興は大いに悦んだ。

原文

時西胡梁國兒於平涼作壽冢、每將妻妾入冢飲讌、酒酣、升靈牀而歌。時人或譏之、國兒不以為意。前後征伐、屢有大功、興以為鎮北將軍、封平輿男、年八十餘乃死。時客星入東井、所在地震、前後一百五十六。興公卿抗表請罪、興曰、「災譴之來、咎在元首。近代或歸罪三公、甚無謂也。公等其悉冠履復位。」
仇池公楊盛叛、侵擾祁山。遣建威趙琨率騎五千為前鋒、立節1.楊伯壽統步卒繼之、前將軍陜恢・左將軍姚文宗入自鷲陝、鎮西・秦州刺史姚嵩入羊頭陜、右衞胡翼度從陰密出自汧城、討盛。興將輕騎五千、自雍赴之、與諸將軍會于隴口。天水太守王松忩言于嵩曰、「先皇神略無方、威武冠世、冠軍徐洛生猛毅兼人、佐命英輔、再入仇池、無功而還。非楊盛智勇能全、直是地勢然也。今以趙琨之眾、使君之威、準之先朝、實未見成功。使君具悉形便、何不表聞。」嵩不從。盛率眾與琨相持、伯壽畏懦弗進、琨眾寡不敵、為盛所敗、興斬伯壽而還。嵩乃具陳松忩之言、興善之。
乾歸為其下人所殺、子熾磐新立、羣下咸勸興取之。興曰、「乾歸先已返善、吾方當懷撫、因喪伐之、非朕本志也。」以楊佛嵩都督嶺北討虜諸軍事・安遠將軍・雍州刺史、率嶺北見兵以討赫連勃勃。嵩發數日、興謂羣臣曰、「佛嵩驍勇果銳、每臨敵對寇、不可制抑、吾常節之、配兵不過五千。今眾旅既多、遇賊必敗。今去已遠、追之無及、吾深憂之。」其下咸以為不然。佛嵩果為勃勃所執、絕亢而死。

1.「楊伯壽」は、『資治通鑑』巻百十六は「姚伯壽」に作る。

訓読

時に西胡の梁國兒 平涼に於て壽冢を作り、每に妻妾を將ゐて冢に入りて飲讌し、酒 酣に、靈牀に升りて歌ふ。時人 或いは之を譏り、國兒 以て意と為さず。前後 征伐し、屢々大功有り、興 以て鎮北將軍と為し、平輿男に封じ、年八十餘にして乃ち死す。時に客星 東井に入り、在る所に地震あり、前後一百五十六なり。興の公卿 表を抗て罪を請ひ、興曰く、「災譴の來るは、咎は元首に在り。近代 或いは罪を三公に歸す、甚だ謂はれ無きなり。公ら其れ冠履を悉くして位に復せ」と。
仇池公の楊盛 叛し、祁山を侵擾す。建威の趙琨を遣はし騎五千を率ゐて前鋒と為し、立節の楊伯壽 步卒を統べて之に繼ぎ、前將軍の陜恢・左將軍の姚文宗 鷲陝より入り、鎮西・秦州刺史の姚嵩 羊頭陜に入り、右衞の胡翼度 陰密に從して汧城より出て、盛を討つ。興 輕騎五千を將ゐ、雍より之に赴き、諸將の軍と隴口に會す。天水太守の王松忩 嵩に言ひて曰く、「先皇は神略 無方にして、威武 冠世たり、冠軍の徐洛生は猛毅 兼人にして、佐命の英輔なるとも、再び仇池に入りて、功無くして還る。楊盛が智勇 能全するに非ざれば、直だ是れ地勢 然りとするなり。今 趙琨の眾、使君の威を以て、之を先朝に準ふるに、實に未だ成功を見ざるなり。使君 形便を具悉にす、何ぞ表聞せざる」と。嵩 從はず。盛 眾を率ゐて琨と相 持し、伯壽 畏懦して進まず、琨の眾 寡にして敵はず、盛の為に敗られ、興 伯壽を斬りて還る。嵩 乃ち具さに松忩の言を陳べ、興 之を善とす。
乾歸 其の下人の為に殺され、子の熾磐 新たに立ち、羣下 咸 興に之を取らんことを勸む。興曰く、「乾歸 先に已に善に返り、吾 方に當に懷撫すべし、喪に因りて之を伐つは、朕の本志に非ざるなり」と。楊佛嵩を以て都督嶺北討虜諸軍事・安遠將軍・雍州刺史とし、嶺北の見兵を率ゐて以て赫連勃勃を討つ。嵩 發して數日、興 羣臣に謂ひて曰く、「佛嵩は驍勇果銳にして、每に敵に臨み寇に對し、制抑す可からず、吾 常に之を節し、兵を配すること五千を過ぎず。今 眾旅 既に多し、賊に遇はば必ず敗れん。今 去ること已に遠く、之を追ひても及ぶ無し、吾 深く之を憂ふなり」と。其の下 咸 以為へらく然らずと。佛嵩 果して勃勃の為に執はれ、亢(のど)を絕ちて死す。

現代語訳

ときに西胡の梁国児は平涼で寿冢(生前墓)を作り、いつも妻妾を連れてなかで酒宴し、盛り上がると、霊牀に登って歌った。批判する人がいたが、梁国児は意に介さなかった。前後に征伐し、しばしば大功があり、姚興は彼を鎮北将軍とし、平輿男に封じ、年八十餘で死んだ。ときに客星が東井に入り、(星座の分野に)対応する地で地震があり、前後で百五十六回であった。公卿が上表して罪を請うと、姚興が、「災譴が来るとき、罪は君主にある。近年では三公の責任とするが、根拠のないことだ。公らは服装を直して官位に戻れ」と言った。
仇池公の楊盛が反乱し、祁山を侵略した。建威将軍の趙琨を派遣し五千騎を率いて前鋒とし、立節将軍の楊伯寿(姚伯壽)が歩兵を率いて後続となり、前将軍の陜恢・左将軍の姚文宗が鷲陝から入り、鎮西将軍・秦州刺史の姚嵩が羊頭陜に入り、右衛将軍の胡翼度が陰密に従って汧城から出て、楊盛を討伐した。姚興は軽騎五千を率い、雍から向かい、諸将の軍と隴口で合流した。天水太守の王松忩は姚嵩に、「先代皇帝は神のような戦略があり、威武は当世第一で、冠軍将軍の徐洛生は勇敢さが人に数倍し、佐命の英傑でしたが、何度か仇池に入り、功績がなく帰還しました。(仇池が優勢の原因が)楊盛の智勇でないとすれば、もっぱら地勢のためです。いま趙琨の軍勢と、あなたの威名を、先代王朝と比べると、きっと仇池討伐は成功しないでしょう。使君は(このままでは勝てぬという)形勢が分かっているのに、なぜ(作戦の再検討を)上表しないのですか」と言った。姚嵩は従わなかった。楊盛は趙琨と対峙したが、楊伯寿が臆病ゆえに進まず、趙琨の軍勢は数で圧倒されて、楊盛に敗れたので、姚興は楊伯寿を斬って帰還した。姚嵩は王松忩の発言を詳しく報告し、姚興は評価した。
乾帰が部下に殺され、子の熾磐が新たに立つと、郡臣はみな姚興に討伐を勧めた。姚興は、「すでに乾帰は心を入れ替えた、私は帰順者を慰撫したい、死を利用して討伐するのは、本意ではない」と言った。楊仏嵩は都督嶺北討虜諸軍事・安遠将軍・雍州刺史として、嶺北の見兵を率いて赫連勃勃を討伐した。楊仏嵩が出発して数日後、姚興は郡臣に、「楊仏嵩は勇猛果敢で、敵軍に対峙すると、抑制が利かぬ、だから私は、五千以上の兵を与えなかった。いま彼は大軍を率いている、賊軍に遭遇したら必ず敗れよう。もう遠くに行った、追いつけぬ、とても心配だ」と言った。郡臣は否定したが、やはり楊仏嵩は勃勃に捕らえられ、喉を切って死んだ。

原文

興立昭儀齊氏為皇后。又下書以其故丞相姚緒・太宰姚碩德・太傅姚旻・大司馬姚崇・司徒尹緯等二十四人配饗於萇廟。興以大臣屢喪、令所司更詳臨赴之制。所司白興、依故事東堂發哀。興不從、每大臣死、皆親臨之。姚文宗有寵於姚泓、姚弼深疾之、誣文宗有怨言、以侍御史廉桃生為證。興怒、賜文宗死。是後羣臣累足、莫敢言弼之短。
時貳縣羌叛興、興遣後將軍斂成・鎮軍彭白狼・北中郎將姚洛都討之。斂成為羌所敗、甚懼、詣趙興太守姚穆歸罪。穆欲送殺之、成怒、奔赫連勃勃。興遣姚紹與姚弼率禁衞諸軍鎮撫嶺北。遼東侯彌姐亭地率其部人南居陰密、劫掠百姓。弼收亭地送之、殺其眾七百餘人、徙二千餘戶于鄭城。
弼寵愛方隆、所欲施行、無不信納。乃以嬖人尹沖為給事黃門侍郎、唐盛為治書侍御史、左右機要、皆其黨人、漸欲廣樹爪牙、彌縫其闕。右僕射梁喜・侍中任謙・京兆尹尹昭承間言於興曰、「父子之際、人罕得而言。然君臣亦猶父子、臣等理不容默。並后匹嫡、未始不傾國亂家。廣平公弼姦凶無狀、潛有陵奪之志、陛下寵之不道、假其威權、傾險無賴之徒、莫不鱗湊其側。市巷諷議、皆言陛下欲有廢立之志。誠如此者、臣等有死而已、不敢奉詔。」興曰、「安有此乎。」昭等曰、「若無廢立之事、陛下愛弼、適所以禍之、願去其左右、減其威權。非但弼有太山之安、宗廟社稷亦有磐石之固矣。」興默然。

訓読

興 昭儀の齊氏を立てて皇后と為す。又 書を下して其の故丞相の姚緒・太宰の姚碩德・太傅の姚旻・大司馬の姚崇・司徒の尹緯ら二十四人を以て萇が廟に配饗す。興 大臣の屢々喪ふを以て、所司に令して更めて臨赴の制を詳らかにせしむ。所司 興に白すらく、故事に依りて東堂に哀を發せしめよと。興 從はず、大臣 死する每に、皆 親ら之に臨む。姚文宗 姚泓に寵有り、姚弼 深く之を疾み、文宗に怨言有りと誣し、侍御史の廉桃生を以て證と為す。興 怒り、文宗に死を賜ふ。是の後 羣臣 足を累ね、敢て弼の短を言ふもの莫し。
時に貳縣羌 興に叛し、興 後將軍の斂成・鎮軍の彭白狼・北中郎將の姚洛都を遣りて之を討つ。斂成 羌の為に敗られ、甚だ懼れ、趙興太守の姚穆に詣りて罪に歸す。穆 送りて之を殺さんと欲し、成 怒り、赫連勃勃に奔る。興 姚紹を姚弼と與に遣はして禁衞の諸軍を率ゐて嶺北を鎮撫す。遼東侯の彌姐亭地 其の部人を率ゐて南のかた陰密に居し、百姓を劫掠す。弼 亭地を收めて之を送り、其の眾七百餘人を殺し、二千餘戶を鄭城に徙す。
弼の寵愛 方に隆く、施行せんと欲する所、信納せざる無し。乃ち嬖人の尹沖を以て給事黃門侍郎と為し、唐盛を治書侍御史と為し、左右の機要、皆 其の黨人なり、漸く爪牙を廣樹し、其の闕を彌縫せんと欲す。右僕射の梁喜・侍中の任謙・京兆尹の尹昭 間を承けて興に言ひて曰く、「父子の際は、人 得て言ふこと罕なり。然れども君臣 亦た父子の猶く、臣ら理 默するを容れず。后を並べ嫡を匹ぶれば、未だ始より國を傾け家を亂さずんばあらず。廣平公弼 姦凶にして狀無く、潛かに陵奪の志有り、陛下 之を寵すること道あらず、其の威權を假り、傾險無賴の徒、其の側に鱗湊せざる莫し。市巷の諷議、皆 言ふ陛下 廢立の志有らんと欲すと。誠に此の如くんば、臣ら死有るのみ、敢て詔を奉らず」と。興曰く、「安んぞ此有らんか」と。昭ら曰く、「若し廢立の事無くんば、陛下 弼を愛するは、適に之を禍とする所以なり、願はくは其の左右を去り、其の威權を減ぜよ。但だ弼 太山の安有るのみに非ず、宗廟社稷も亦た磐石の固有り」と。興 默然とす。

現代語訳

姚興は昭儀の斉氏を皇后に立てた。文書を下して故丞相の姚緒・太宰の姚碩徳・太傅の姚旻・大司馬の姚崇・司徒の尹緯ら二十四人を姚萇の廟に配饗(合祀)した。姚興は大臣がしばしば死ぬので、担当官に命じて死んだときの対処法を検討させた。担当官は姚興に、故事に基づき東堂で哀を発しなさいと提案した。姚興は従わず、大臣が死ぬたび、みずから遺体に臨んだ。姚文宗が姚泓と親密なので、姚弼はこれを妬み、姚文宗が怨みごとを言っていると誹り、侍御史の廉桃生に証言をさせた。姚興は怒り、姚文宗に死を賜った。この後、郡臣は好き放題をして、あえて姚弼の短所を言うものが居なくなった。
ときに貳県の羌族が姚興に叛し、後将軍の斂成・鎮軍将軍の彭白狼・北中郎将の姚洛都に討伐させた。斂成は敗れ、ひどく懼れ、趙興太守の姚穆にもとで罪を受けようとした。姚穆は(中央に)送って殺そうとし、斂成は怒って、赫連勃勃のもとに逃げた。姚興は姚紹と姚弼を派遣して禁衛の諸軍を率いて嶺北を鎮撫させた。遼東侯の弥姐亭地が配下を率いて南のかた陰密に移住し、百姓を侵略した。姚弼は弥姐亭地を捕らえて送り、兵七百餘人を殺し、二千餘戸を鄭城に移した。
(姚興から)姚弼への寵愛が高まり、希望すれば、全てが聞き入れられた。手下の尹沖を給事黄門侍郎とし、唐盛を治書侍御史とし、左右の機密は、彼の党与が仕切り、武装兵を養い、欠点をごまかそうとした。右僕射の梁喜・侍中の任謙・京兆尹の尹昭が見計らって姚興に、「父子関係は口出ししません。しかし君臣関係も父子に近く、私たちは黙認できません。皇后や嫡子を並立すれば、必ず国家を乱し傾けます。広平公弼は姦凶で善行がなく、後嗣を乗っ取る志を持ち、陛下の寵愛が度を過ぎるため、その威権を借り、凶悪で無頼のやからが、群れています。市中の風説では、陛下に廃立の意向があると言います。そうならば、私たちは死んでも、命令を受けられません」と言った。姚興は、「まさか」と言った。尹昭らは、「もし廃立せぬなら、陛下から姚弼への寵愛は、彼にとっても災いとなります、左右の党与を除き、威権を削りなさい。姚弼の身の安全だけでなく、宗廟や社稷にとっても盤石の備えです」と言った。姚興は黙然とした。

原文

興寢疾、妖賊李弘反于貳原、貳原氐仇常起兵應弘。興輿疾討之、斬常、執弘而還、徙常部人五百餘戶于許昌。
興疾篤、其太子泓屯兵于東華門、侍疾於諮議堂。姚弼潛謀為亂、招集數千人、被甲伏于其第。撫軍姚紹及侍中任謙・右僕射梁喜・冠軍姚讚・京兆尹尹昭・輔國斂曼嵬並典禁兵、宿衞于內。姚裕遣使告姚懿于蒲坂、并密信諸藩、論弼逆狀。懿流涕以告將士曰、「上今寢疾、臣子所宜冠履不整。而廣平公弼擁兵私第、不以忠於儲宮、正是孤徇義亡身之日。諸君皆忠烈之士、亦當同孤徇斯舉也。」將士無不奮怒攘袂曰、「惟殿下所為、死生不敢貳。」於是盡赦囚徒、散布帛數萬匹以賜其將士、建牙誓眾、將赴長安。鎮東・豫州牧姚洸起兵洛陽、平西姚諶起兵於雍、將以赴泓之難。
興疾瘳、朝其羣臣、征虜劉羌泣謂興曰、「陛下寢疾數旬、奈何忽有斯事。」興曰、「朕過庭無訓、使諸子不穆、愧于四海。卿等各陳所懷、以安社稷。」尹昭曰、「廣平公弼恃寵不虔、阻兵懷貳、自宜置之刑書、以明典憲。陛下若含忍未便加法者、且可削奪威權、使散居藩國、以紓闚𨵦之禍、全天性之恩。」興謂梁喜曰、「卿以為何如。」喜曰、「臣之愚見、如昭所陳。」興以弼才兼文武、未忍致法、免其尚書令、以將軍・公就第。懿等聞興疾瘳、各罷兵還鎮。懿・恢及弟諶等皆抗表罪弼、請致之刑法、興弗許。

訓読

興 寢疾し、妖賊の李弘 貳原に反し、貳原氐の仇常 兵を起して弘に應ず。興 輿疾して之を討ち、常を斬り、弘を執へて還り、常の部人五百餘戶を許昌に徙す。
興 疾 篤く、其の太子泓 兵を東華門に屯し、疾を諮議堂に侍す。姚弼 潛かに亂を為さんと謀り、數千人を招集し、被甲して其の第に伏す。撫軍の姚紹及び侍中の任謙・右僕射の梁喜・冠軍の姚讚・京兆尹の尹昭・輔國の斂曼嵬 並びに禁兵を典り、內に宿衞す。姚裕 使を遣はして姚懿に蒲坂に告げ、并せて諸藩に密信し、弼の逆狀を論ず。懿 流涕して以て將士に告げて曰く、「上 今 寢疾し、臣子 宜しく冠履 整はざるべき所なり。而れども廣平公弼 兵を私第に擁し、以て儲宮に忠たらず、正に是れ孤 徇義亡身の日なり。諸君 皆 忠烈の士なり、亦 當に孤と同に斯の舉を徇ふべきなり」と。將士 奮怒し攘袂せざる無く曰く、「惟だ殿下の為す所、死生 敢て貳あらず」と。是に於て盡く囚徒を赦し、布帛數萬匹を散じて以て其の將士に賜ひ、牙を建て眾に誓ひ、將に長安に赴かんとす。鎮東・豫州牧の姚洸 兵を洛陽に起し、平西の姚諶 兵を雍に起す、將に以て泓の難に赴かんとす。
興の疾 瘳え、其の羣臣に朝するに、征虜の劉羌 泣きて興に謂ひて曰く、「陛下 寢疾すること數旬、奈何ぞ忽ち斯の事有るか」と。興曰く、「朕 過庭に訓無く、子をして穆かしめず、四海に愧づ。卿ら各々懷ふ所を陳べ、以て社稷を安んぜよ」と。尹昭曰く、「廣平公弼 寵を恃み虔まず、兵を阻みて貳を懷き、自ら宜しく之を刑書に置き、以て典憲を明らかにすべし。陛下 若し含忍して未だ便ち法を加へざれば、且に威權を削奪す可し、藩國に散居し、以て闚𨵦の禍を紓め、天性の恩を全せしめよ」と。興 梁喜に謂ひて曰く、「卿 以為へらく何如」と。喜曰く、「臣の愚見、昭の陳ぶる所が如し」と。興 弼の才 文武を兼すを以て、未だ法を致すに忍びず、其の尚書令を免じ、將軍・公を以て第に就かしむ。懿ら興の疾 瘳ゆると聞き、各々兵を罷めて鎮に還る。懿・恢及び弟の諶ら皆 抗表して弼を罪し、之に刑法を致すことを請ひ、興 許さず。

現代語訳

姚興が寝込むと、妖賊の李弘が貳原で反し、貳原氐の仇常も兵を起こして李弘に呼応した。姚興は輿に乗って討伐し、仇常を斬り、李弘を捕らえて帰還し、仇常の部人五百餘戸を許昌に移した。
姚興の病が重くなると、太子の姚興は兵を東華門に配備し、諮議堂で看病した。姚弼はひそかに乱を起こそうと、数千人を招集し、武装して邸宅に伏せた。撫軍将軍の姚紹及び侍中の任謙・右僕射の梁喜・冠軍将軍の姚讚・京兆尹の尹昭・輔国将軍の斂曼嵬が禁兵をつかさどり、殿内に宿衛した。姚裕が蒲坂にいる姚懿に使者を送り、さらに諸藩に密書を送って、姚弼の反逆を説明した。姚懿は涙を流して将士に告げ、「主上は病気になり、臣子は(主上を心配し)衣服すら整わぬ時期のはず。しかし広平公の姚弼は兵を私邸に集め、太子に不忠である、義に殉じるべき日である。諸君は忠烈の士だ、私に協力してくれ」と言った。将士全員が奮怒して袖をめくり、「殿下の行動には、命がけで従う」と言った。全ての囚人を解放し、布帛の数万匹を将士にばらまき、牙旗を立てて将兵に誓い、長安に向かおうとした。鎮東将軍・豫州牧の姚洸は洛陽で起兵し、平西将軍の姚諶は雍で起兵し、姚泓の苦難に駆けつけようとした。
姚興の病が癒え、郡臣に朝見すると、征虜将軍の劉羌が泣いて、「陛下が数十日病床におられ、なぜこんな事件が起きてしまったのか」と言った。姚興は、「朕が家庭教育に失敗し、子が不仲であり、四海に恥ずかしく思う。きみたちは意見を述べ、社稷を安定させてくれ」と言った。尹昭は、「広平公の姚弼は寵愛を頼みにして慎まず、兵を囲って二心を抱きました、刑罰を執行し、法規を明らかにして下さい。もし(謀反を)容認して執行をためらうなら、せめて威権を削ぎ、藩国に赴任させ、野心をくじき、天性の恩を全うさせなさい」と言った。姚興は梁喜に、「卿はどう思うか」と言った。梁喜は、「私も、尹昭と同意見です」と言った。姚興は姚弼が文武の才能を兼ね備えているから、法を執行したくなく、彼を尚書令から免官し、将軍・公として邸宅に帰らせた。姚懿らは姚興の病気が癒えたと聞き、兵を解除して鎮所に還った。姚懿・陜恢及び弟の陜諶らは姚弼を有罪とし、刑法を適用せよと上表したが、姚興は許さなかった。

原文

時魏遣使聘于興、且請婚。會平陽太守姚成都來朝、興謂之曰、「卿久處東藩、與魏鄰接、應悉彼事形。今來求婚、吾已許之、終能分災共患、遠相接援以不。」成都曰、「魏自柴壁克捷已來、戎甲未曾損失、士馬桓桓、師旅充盛。今修和親、兼婚姻之好、豈但分災共患而已、實亦永安之福也。」興大悅、遣其吏部郎嚴康報聘、并致方物。
時姚懿・姚洸・姚宣・姚諶來朝、使姚裕言於興曰、「懿等今悉在外、欲有所陳。」興曰、「汝等正欲道弼事耳、吾已知之。」裕曰、「弼苟有可論、陛下所宜垂聽。若懿等言違大義、便當肆之刑辟、奈何距之。」於是引見諮議堂。宣流涕曰、「先帝以大聖起基、陛下以神武定業、方隆七百之祚、為萬世之美、安可使弼謀傾社稷。宜委之有司、肅明刑憲。臣等敢以死請。」興曰、「吾自處之、非汝等所憂。」
先是、大司農竇溫・司徒左長史王弼皆有密表、勸興廢立。興雖不從、亦不以為責。撫軍東曹屬姜虬上疏曰、「廣平公弼懷姦積年、謀禍有歲、傾諂羣豎為之畫足、釁成逆著、取嗤戎裔。文王之化、刑于寡妻。聖朝之亂、起自愛子。今雖欲含忍其瑕、掩蔽其罪、而逆黨猶繁、扇惑不已、弼之亂心其可革耶。宜斥散凶徒、以絕禍始。」興以虬表示梁喜曰、「天下之人莫不以吾兒為口實、將何以處之。」喜曰、「信如虬言、陛下宜早裁決。」興默然。

訓読

時に魏 使を遣はして興に聘し、且つ婚を請ふ。會 平陽太守の姚成都 來朝し、興 之に謂ひて曰く、「卿 久しく東藩に處り、魏と鄰接す、應に彼の事形を悉くすべし。今 來りて求婚す、吾 已に之を許し、終に能く災を分け患を共にし、遠く相 接援せんや以て不なるや」と。成都曰く、「魏 柴壁に克捷してより已來、戎甲 未だ曾て損失せず、士馬 桓桓とし、師旅 充盛たり。今 和親を修め、婚姻の好を兼すは、豈に但だ災を分け患を共にするのみならんや、實に亦た永安の福なり」と。興 大いに悅び、其の吏部郎の嚴康を遣はして報聘し、并せて方物を致す。
時に姚懿・姚洸・姚宣・姚諶 來朝し、姚裕をして興に言はしめて曰く、「懿ら今 悉く外に在り、陳ぶる所有らんと欲す」と。興曰く、「汝ら正に弼の事を道はんと欲するのみ、吾 已に之を知る」と。裕曰く、「弼 苟くも論ず可き有らば、陛下 宜しく垂聽すべき所なり。若し懿らの言 大義に違はば、便ち當に之に刑辟を肆にするとも、奈何ぞ之を距まん」と。是に於て諮議堂に引見す。宣 流涕して曰く、「先帝 大聖を以て基を起し、陛下 神武を以て業を定め、方に七百の祚を隆くし、萬世の美と為り、安ぞ弼をして社稷を傾くるを謀らしむ可きか。宜しく之を有司に委ね、刑憲を肅明にすべし。臣ら敢て死を以て請ふ」と。興曰く、「吾 自ら之に處せり、汝らの憂ふ所に非ず」と。
是より先、大司農の竇溫・司徒左長史の王弼 皆 密表有り、廢立を興すことを勸む。興 從はざると雖も、亦た以て責と為さず。撫軍東曹屬の姜虬 上疏して曰く、「廣平公弼 姦を懷くこと積年、禍を謀ること歲有り、傾諂の羣豎 之の為に足を畫(えが)き、釁 成り逆 著はれて、嗤を戎裔に取る。文王の化、寡妻を刑し、聖朝の亂、愛子より起る。今 其の瑕を含忍し、其の罪を掩蔽せんと欲すると雖も、而れども逆黨 猶ほ繁く、扇惑 已まず、弼の亂心 其れ革むる可きや。宜しく凶徒を斥散し、以て禍始を絕つべし」と。興 虬の表を以て梁喜に示して曰く、「天下の人 吾が兒を以て口實と為さざる莫し、將に何を以て之に處さん」と。喜曰く、「信に虬が言の如し、陛下 宜しく早く裁決せよ」と。興 默然とす。

現代語訳

北魏が姚興に使者を送り、婚姻を求めた。ちょうど平陽太守の姚成都が来朝したので、姚興は彼に、「卿は久しく東藩におり、北魏と隣接してきた、かの国の状況を熟知しておろう。いま婚姻を求められ、私は合意した、災患を共有し、助け合えると思ったがどうか」と質問した。姚成都は、北魏は柴壁の戦いに勝ってから、軍備が損傷を受けず、士馬は勇ましく、師旅は充足しています。いま和親を修め、婚姻を結んだのは、災患の共有に留まらず、長き平穏の福をもたらします」と言った。姚興は大いに喜び、吏部郎の厳康を返答の使者とし、名産品を贈り届けた。
このとき姚懿・姚洸・姚宣・姚諶が来朝しており、姚裕から姚興に、「姚懿らは全て地方にいますが、言いたいことがあります」と伝えた。姚興は、「姚弼のことだろう、分かっている」と言った。姚裕は、「姚弼について論題があるとお思いなら、陛下は聞いて下さい。もし姚懿らの発言が大義にそむけば、死刑とされても、構いません」と言った。諮議堂で引見した。姚宣が流涕し、「先帝は大聖により基礎を起こし、陛下は神武により事業を安定させ、七百年の天祚を高くし、万世の美事となりましたが、なぜ姚弼に社稷を傾ける謀略を許すのですか。担当官に任せ、刑罰を明らかにしなさい。死を覚悟でお願いをします」と言った。姚興は、「もう私が処置した、きみたちは心配いらぬ」と言った。
これより先、大司農の竇温・司徒左長史の王弼が密かに上言し、廃立を勧めた。姚興は従わないが、咎めもしなかった。撫軍東曹属の姜虬が上疏し、「広平公の姚弼は連年にわたり姦計を懐き、長年ずっと禍害を謀り、国家を傾ける者どもが彼に協力し、反逆はすでに明らかです、国外の異民族から笑われています。文王の教化は、寡妻を殺し、聖朝の乱は、可愛がった子から起こります。いま彼の失点を容認し、罪を黙過なさっていますが、なお逆賊は活発で、煽動を辞めず、姚弼の悪心は改まりましょうか。凶徒を排斥して解散させ、禍根を断つべきです」と言った。姚興は姜虬の上表を梁喜に示し、「天下の人はわが子のことに口を出す、どうしたものか」と言った。梁喜は、「まことに姜虬の言う通りです、陛下は早く処断なされよ」と言った。姚興は黙然とした。

原文

太子詹事王周亦虛襟引士、樹黨東宮。弼惡之、每規陷害周。周抗志確然、不為之屈。興嘉其守正、以周為中書監。興如三原、顧謂羣臣曰、「古人有言、關東出相、關西出將、三秦饒儁異、汝潁多奇士。吾應天明命、跨據中原、自流沙已東、淮漢已北、未嘗不傾己招求、冀匡不逮。然明不照下、弗感懸魚。至於智效一官、行著一善、吾歷級而進之、不使有後門之歎。卿等宜明揚仄陋、助吾舉之。」梁喜對曰、「奉旨求賢、弗曾休倦、未見儒亮大才王佐之器、可謂世之乏賢。」興曰、「自古霸王之起也、莫不將則韓吳、相兼蕭鄧、終不採將於往賢、求相於後哲。卿自識拔不明、求之不至、奈何厚誣四海乎。」羣臣咸悅。
晉荊州刺史司馬休之據江陵、雍州刺史魯宗之據襄陽、與劉裕相攻、遣使求援。興遣姚成王、司馬國璠率騎八千赴之。
弼恨姚宣之毀己、遂譖宣於興。會宣司馬權丕至長安、興責丕以無匡輔之益、將戮之。丕性傾巧、因誣宣罪狀。興大怒、遂收宣于杏城、下獄、而使弼將三萬人鎮秦州。尹昭言於興曰、「廣平公與皇太子不平、握強兵於外、陛下一旦不諱、恐社稷必危。小不忍以致大亂者、陛下之謂也。」興弗納。赫連勃勃攻杏城、興又遣弼救之、至冠泉而杏城陷。興如北地、弼次於三樹、遣弼及斂曼嵬向新平、興還長安。
姚成王至于南陽、司馬休之等為劉裕所敗、引歸。休之・宗之等遂與譙王文思、新蔡王道賜、寧朔將軍・梁州刺史馬敬、輔國將軍・竟陵太守魯軌、寧朔將軍・南陽太守魯範奔于興。勃勃遣其將赫連建率眾寇貳縣、數千騎入平涼。姚恢與建戰于五井、平涼太守姚興都為建所獲、遂入新平。姚弼討之、戰于龍尾堡、大破之、擒建、送於長安。初、勃勃攻彭雙方于石堡、方力戰距守、積年不能克。至是、聞建敗、引歸。
休之等至長安、興謂之曰、「劉裕崇奉晉帝、豈便有闕乎。」休之曰、「臣前下都、琅邪王德文泣謂臣曰、『劉裕供御主上、克薄奇深。』以事勢推之、社稷之憂方未可測。」興將以休之為荊州刺史、任以東南之事。休之固辭、請與魯宗之等擾動襄陽・淮・漢。乃以休之為鎮南將軍・揚州刺史、宗之等並有拜授。休之將行、侍御史唐盛言於興曰、「符命所記、司馬氏應復河洛。休之既得濯鱗南翔、恐非復池中之物、可以崇禮、不宜放之。」興曰、「司馬氏脫如所記、留之適足為患。」遂遣之。

訓読

太子詹事の王周 亦た虛襟にして士を引き、黨を東宮に樹つ。弼 之を惡み、每に周を陷れ害せんと規る。周 志を抗して確然として、之が為に屈せず。興 其の守正を嘉し、周を以て中書監と為す。興 三原に如き、顧みて羣臣に謂ひて曰く、「古人 言有り、關東は相を出し、關西は將を出し、三秦は儁異に饒く、汝潁は奇士多しと。吾 天の明命に應じ、中原に跨據し、流沙より已東、淮漢より已北、未だ嘗て己を傾けて招求せず、冀匡 逮ばず。然明 下を照らさず、懸魚を感ぜず。一官に智效あり、行 一善を著はすに至る、吾 級を歷て之を進め、後門の歎を有らしめず。卿ら宜しく仄陋を明揚し、吾を助けて之を舉げよ」と。梁喜 對へて曰く、「旨の求賢するを奉じ、曾て倦を休まず、未だ儒亮の大才王佐の器を見ず、世の賢に乏しと謂ふ可し」と。興曰く、「古より霸王の起つや、將あれば則ち韓吳、相は兼(ま)た蕭鄧あらざる莫し、終に將を往賢に採り、相を後哲に求めず。卿 自ら識拔 明ならず、之を求むれども至らず、奈何ぞ厚く四海を誣するや」と。羣臣 咸 悅ぶ。
晉の荊州刺史の司馬休之 江陵に據り、雍州刺史の魯宗之 襄陽に據り、劉裕と相 攻め、使を遣はして援を求む。興 姚成王、司馬國璠を遣はし騎八千を率ゐて之に赴かしむ。
弼 姚宣の己を毀するを恨み、遂に宣を興に譖す。會 宣の司馬たる權丕 長安に至り、興 丕を責むるに匡輔の益無きを以て、將に之を戮せんとす。丕の性 傾巧なり、因りて宣の罪狀を誣す。興 大いに怒り、遂に宣を杏城に收め、獄に下し、而れども弼をして三萬人を將ゐて秦州に鎮せしむ。尹昭 興に言ひて曰く、「廣平公 皇太子と平らかならず、強兵を外に握り、陛下 一旦に不諱なれば、恐らくは社稷 必ず危ふからん。小さく忍びずして以て大亂を致すは、陛下の謂ひなり」と。興 納れず。赫連勃勃 杏城を攻め、興 又 弼を遣はして之を救はしめ、冠泉に至るとき杏城 陷つ。興 北地に如き、弼 三樹に次り、弼及び斂曼嵬を遣はして新平に向はしめ、興 長安に還る。
姚成王 南陽に至り、司馬休之ら劉裕の為に敗られ、引歸す。休之・宗之ら遂に譙王文思、新蔡王道賜、寧朔將軍・梁州刺史馬敬、輔國將軍・竟陵太守魯軌、寧朔將軍・南陽太守魯範と與に興に奔る。勃勃 其の將の赫連建を遣はして眾を率ゐて貳縣を寇し、數千騎にて平涼に入る。姚恢 建と五井に戰ひ、平涼太守の姚興都 建の為に獲はれ、遂に新平に入る。姚弼 之を討ち、龍尾堡に戰ひ、大いに之を破り、建を擒へ、長安に送る。初め、勃勃 彭雙方を石堡に攻め、方 力戰して距守し、積年 克つ能はず。是に至り、建 敗るるを聞き、引歸す。
休之ら長安に至り、興 之に謂ひて曰く、「劉裕 晉帝を崇奉す、豈に便ち闕有るか」と。休之曰く、「臣 前に都を下るとき、琅邪王德文 泣きて臣に謂ひて曰く、『劉裕 主上に供御するに、克薄にして奇深なり』と。事勢を以て之を推すに、社稷の憂 方に未だ測る可からず」と。興 將に休之を以て荊州刺史と為し、東南の事を以て任ぜんとす。休之 固く辭し、魯宗之らと與に襄陽・淮・漢を擾動せんことを請ふ。乃ち休之を以て鎮南將軍・揚州刺史と為し、宗之ら並びに拜授有り。休之 將に行かんとし、侍御史の唐盛 興に言ひて曰く、「符命 記す所、司馬氏 應に河洛を復すべし。休之 既に鱗を濯て南に翔ることを得て、恐らくは池中の物に復るに非ず、以て崇禮す可し、宜しく之を放つべからず」と。興曰く、「司馬氏 脫(も)し記す所の如くんば、之を留むれば適に患と為すに足る」と。遂に之を遣はしむ。

現代語訳

太子詹事の王周もまた謙虚に人士を招き、東宮に一派を形成した。姚弼はこれを憎み、いつも王周を陥れて殺害しようとした。王周ははっきりと抵抗し、姚弼に屈服しなかった。姚興はその守正ぶりを評価し、王周を中書監にした。姚興が三原に行くと、郡臣を顧み、「古人は言った、関東は宰相を、関西は良将を輩出し、三秦は儁異が、汝潁は奇士が多いのだと。私は天命に応じ、中原を領有しているが、流沙より以東、淮漢より以北において、本気で人材を募集したことがなく、獲得に至らない。松明はふもとを照らさず、懸魚を感じない。一つの官職に適任者がいれば、行動に一善が表れる、私はこれの段階を進め、後世の懸念をなくしたい。卿らは身分の低い賢者を探し、私のために推挙せよ」と言った。梁喜が答えて、「求賢令が出ましたが、人材募集を必死にやっても、儒学の大才や王佐の器が発見できません、当世は賢者が少ないのでは」と言った。姚興は、「先古より霸王が立つと、将軍ならば韓呉(韓信と呉漢)、宰相ならば蕭鄧(蕭何と鄧禹)が必ず仕えた、将軍や宰相を、他の時代に求めてはならぬ。きみの探索が甘いから、人材が得られぬだけだ、なぜ今という時代を貶めるのか」と言った。郡臣はみな悦んだ。
東晋の荊州刺史の司馬休之が江陵に拠り、雍州刺史の魯宗之が襄陽に拠り、劉裕と抗争して、使者を送って(後秦に)援軍を求めた。姚興は姚成王と司馬国璠に八千騎を率いて救援に行かせた。
姚弼は姚宣に悪評を流されることを怨み、とうとう姚宣を姚興に誣告した。ちょうど姚宣の司馬である権丕が長安に来ており、姚興は権丕に(国家を)匡輔した手柄がないから、殺そうとした。権丕は立ち回りがうまく、姚宣の罪状を告発した。姚興は大いに怒り、ついに姚宣を杏城で捕らえ、獄に下し、他方で姚弼に三万人を率いて秦州に出鎮させた。尹昭が姚興に、「広平公(姚弼)は皇太子と不仲であり、地方で強兵を握り、陛下にもしものことがあれば、きっと社稷は傾きます。小さな措置をしぶって大きな混乱を招くとは、陛下のことです」と言った。姚興は聞き入れなかった。赫連勃勃が杏城を攻め、姚興は姚弼に救援に向かわせたが、冠泉に着いたころ杏城が陥落した。姚興は北地に向かい、姚弼は三樹に停泊し、姚弼及び斂曼嵬を新平に派遣し、姚興は長安に還った。
姚成王が南陽に至ったが、司馬休之らが劉裕に敗れたので、撤退した。司馬休之・司馬宗之らが譙王の司馬文思、新蔡王の司馬道賜、寧朔将軍・梁州刺史の馬敬、輔国将軍・竟陵太守の魯軌、寧朔将軍・南陽太守の魯範とともに姚興のもとに逃げ込んだ。勃勃は将の赫連建を派遣して貳縣を侵略し、数千騎で平涼に入った。姚恢は赫連建と五井で戦い、平涼太守の姚興都は赫連建に捕らわれ、新平に入った。姚弼はこれを討伐し、龍尾堡で戦い、大いにこれを破り、赫連建を捕らえ、長安に送った。これより先、勃勃は彭双方を石堡で攻めたが、彭双方は健闘して防衛し、積年にわたり勝てなかった。ここに至り、赫連建が敗れたと聞き、撤退した。
司馬休之らが長安に至ると、姚興は彼らに、「劉裕は晋帝を奉戴している、何か問題があるのか」と質問した。司馬休之は、「私が都を去るとき、琅邪王の司馬徳文が泣いて私に、『劉裕が主上に仕えるさまは、酷薄であり歪つで怪しげだ』と言いました。状況を察するに、社稷の憂慮は予測不能です」と答えた。姚興は司馬休之を荊州刺史とし、東南のことを一任しようとした。司馬休之は固辞し、魯宗之らとともに襄陽・淮水・漢水一帯を騒擾し(劉裕に対抗し)たいと願った。司馬休之を鎮南将軍・揚州刺史とし、司馬宗之らにも官爵を授けた。司馬休之が赴任する際、侍御史の唐盛は姚興に、「符命の予言に、司馬氏が河洛を奪還するとあります。司馬休之が鱗を洗い南方に飛翔すれば、池中の物(潜伏した龍)に戻りません、形式的に優遇して手元に残すべきです、地方に行かせてはいけません」と言った。姚興は、「司馬氏が予言どおりになるなら、中央に留めれば脅威となる」と言った。彼を行かせた。

原文

揚武・安鄉侯康宦驅略白鹿原氐胡數百家奔上洛、太守宋林距之。商洛人黃金等起義兵以掎宦、宦乃率眾歸罪。興赦之、復其爵位。
時白虹貫日、有術人言於興曰、「將有不祥之事、終當自消。」時興藥動、姚弼稱疾不朝、集兵於第。興聞之怒甚、收其黨殿中侍御史唐盛・孫玄等殺之。泓言於興曰、「臣誠不肖、不能訓諧於弟、致弼構造是非、仰慚天日。陛下若以臣為社稷之憂、除臣而國寧、亦家之福也。若垂天性之恩、不忍加臣刑戮者、乞聽臣守藩。」興慘然改容、召姚讚・梁喜・尹昭・斂曼嵬於諮議堂、密謀收弼。時姚紹屯兵雍城、馳遣告之、數日不決。弼黨兇懼。興慮其為變、乃收弼、囚之中曹、窮責黨與、將殺之。泓流涕固請之、乃止。興謂梁喜曰、「泓天心平和、性少猜忌、必能容養羣賢、保全吾子。」於是皆赦弼黨。靈臺令張泉又言於興曰、「熒惑入東井、旬紀而返、未餘月、復來守心。王者惡之、宜修仁虛己、以答天譴。」興納之。 正旦、興朝羣臣于太極前殿、沙門賀僧慟泣不能自勝、眾咸怪焉。賀僧者、莫知其所從來也、言事皆有效驗、興甚神禮之、常與隱士數人預於讌會。

訓読

揚武・安鄉侯の康宦 白鹿原の氐胡數百家を驅略して上洛に奔らせ、太守の宋林 之を距ぐ。商洛の人たる黃金ら義兵を起して以て宦を掎(と)り、宦 乃ち眾を率ゐて罪に歸す。興 之を赦し、其の爵位を復す。
時に白虹 日を貫き、術人有りて興に言ひて曰く、「將に不祥の事有らんとす、終に當に自消すべし」と。時に興 藥動し、姚弼 疾と稱して朝せず、兵を第に集む。興 之を聞きて怒ること甚しく、其の黨たる殿中侍御史の唐盛・孫玄らを收めて之を殺す。泓 興に言ひて曰く、「臣 誠に不肖にして、弟に訓諧すること能はず、弼が是非を構造するに致り、仰ぎて天日に慚づ。陛下 若し臣を以て社稷の憂と為さば、臣を除けば國 寧なり、亦た家の福なり。若し天性の恩を垂れ、臣に刑戮を加ふること忍びざれば、乞ふ臣に守藩することを聽せ」と。興 慘然として容を改め、姚讚・梁喜・尹昭・斂曼嵬を諮議堂に召し、密かに弼を收むることを謀る。時に姚紹 兵を雍城に屯し、馳せて遣りて之を告げ、數日にして決せず。弼の黨 兇懼す。興 其の變を為すを慮り、乃ち弼を收め、之を中曹に囚へ、黨與を窮責し、將に之を殺さんとす。泓 流涕して固く之を請ひ、乃ち止む。興 梁喜に謂ひて曰く、「泓の天心 平和なり、性は猜忌少なし、必ず能く羣賢を容養し、吾が子を保全せん」と。是に於て皆 弼の黨を赦す。靈臺令の張泉 又 興に言ひて曰く、「熒惑 東井に入り、旬紀にして返り、未だ餘月ならずして、復た來りて守心す。王者 之を惡む、宜しく仁を修め己を虛にし、以て天譴に答へよ」と。興 之を納る。 正旦、興 羣臣に太極前殿に朝し、沙門の賀僧 慟泣して自ら勝へる能はず、眾 咸 焉を怪しむ。賀僧なる者は、其の從來する所を知るもの莫きなり、事を言へば皆 效驗有り、興 甚だ之を神として禮し、常に隱士數人と讌會に預る。

現代語訳

揚武将軍・安郷侯の康宦が白鹿原の氐胡数百家を駆り立てて上洛に向かわせ、太守の宋林がこれを食い止めた。商洛の人である黄金らが義兵を起こして康宦を捕らえ、康宦は配下を率いて罪を認めた。姚興は彼を赦し、その爵位を復した。
このとき白い虹が日を横切り、道術士が姚興に、「不祥の事があるが、自ずと解消されるでしょう」と言った。このとき姚興は服薬しており、姚弼が病気と称して朝廷に出席せず、兵を屋敷に集めた。姚興はこれを聞いて激しく怒り、一味である殿中侍御史の唐盛・孫玄らを捕らえて殺した。姚泓は姚興に、「私は不肖にして、弟への指導が足りず、姚弼が謀反を計画しました、仰いで天日に恥じています。もし私を社稷の弊害だと思うなら、私を死刑にして国を安寧として下さい、姚氏の家にとっても良いことです。もし天性の恩を施し、私に刑罰を加えるのが忍びないなら、私に(太子を辞して)藩を守ることをお許し下さい」と言った。姚興は悲しんで顔色を変え、姚讚・梁喜・尹昭・斂曼嵬を諮議堂に召し、密かに姚弼を捕らえることを検討させた。ときに姚紹は兵を雍城に駐屯させており、馬を飛ばして議題を告げたが、数日たっても結論が出なかった。姚弼の仲間たちは恐懼した。姚興は政変を懼れたから、姚弼を捕らえ、中曹に収容し、党与の責任を問い、殺そうとした。姚泓が涙を流して(姚弼の)助命を願い、中止になった。姚泓は梁喜に、「姚泓は生まれつき平和を好み、猜疑心が少ない、賢者たちを受け入れ、子供たちの寿命を全うさせてくれる」と言った。こうして姚弼の仲間たちを全て赦した。霊台令の張泉が姚興に、「熒惑が東井に入り、ほどなく逆行し、一ヶ月餘も経たず、再び戻って彷徨いました。王者はこれを不吉とします、仁を修めて謙虚となり、天譴に答えなさい」と言った。姚興はこれを聞き入れた。 元旦、姚興は郡臣と太極前殿で朝見したが、沙門の賀僧が慟哭して堪えきれず、郡臣はみな怪しんだ。賀僧という者は、どこから来たかを誰も知らず、予言が必ず的中し、姚興は神のように礼遇し、いつも隠士数人とともに酒宴に同席させた。

原文

興如華陰、以泓監國、入居西宮。因疾篤、還長安。泓欲出迎、其宮臣曰、「今主上疾篤、姦臣在側、廣平公每希覬非常、變故難測。今殿下若出、進則不得見主上、退則有弼等之禍、安所歸乎。自宜深抑情禮、以寧宗社。」泓從之、乃拜迎於黃龍門樽下。弼黨見興升輿、咸懷危懼。尹沖等先謀欲因泓出迎害之、尚書姚沙彌曰、「若太子有備、不來迎侍、當奉乘輿直趣公第。宿衞者聞上在此、自當來奔、誰與太子守乎。吾等以廣平公之故、陷身逆節。今以乘輿南幸、自當是杖義之理、匪但救廣平之禍、足可以申雪前愆。」沖等不從、欲隨興入殿中作亂、復未知興之存亡、疑而不發。興命泓錄尚書事、使姚紹・胡翼度典兵禁中、防制內外、遣斂曼嵬收弼第中甲杖、內之武庫。
興疾轉篤、興妹偽南安長公主問疾、不應。興少子耕兒出告其兄愔曰、「上已崩矣、宜速決計。」於是愔與其屬率甲士攻端門、殿中上將軍斂曼嵬勒兵距戰、右衞胡翼度率禁兵閉四門。愔等遣壯士登門、緣屋而入、及于馬道。泓時侍疾於諮議堂、遣斂曼嵬率殿中兵登武庫距戰、太子右衞率姚和都率東宮兵入屯馬道南。愔等既不得進、遂燒端門。興力疾臨前殿、賜弼死。禁兵見興、喜躍、貫甲赴賊、賊眾駭擾。和都勒東宮兵自後擊之、愔等奔潰、逃于驪山、愔黨呂隆奔雍、尹沖等奔于京師。興引紹及讚・梁喜・尹昭・斂曼嵬入內寢、受遺輔政。1.義熙十二年、興死、時年2.五十一、在位二十二年。偽諡文桓皇帝、廟號高祖、墓曰偶陵。

1.中華書局本によると、「義熙十二年」を「義熙十一年」とする史料もある。
2.『太平御覧』巻百二十三に引く『後秦録』は、「五十三」に作る。

訓読

興 華陰に如き、泓を以て監國とし、入りて西宮に居らしむ。疾 篤きに因り、長安に還る。泓 出て迎へんと欲し、其の宮臣曰く、「今 主上 疾 篤く、姦臣 側に在り、廣平公 每に非常を希覬し、變故 測り難し。今 殿下 若し出づれば、進めば則ち主上に見ゆるを得ず、退けば則ち弼らの禍有り、安にか歸する所あらんか。自ら宜しく深く情禮を抑へ、以て宗社を寧んずべし」と。泓 之に從ひ、乃ち黃龍門の樽下に拜迎す。弼の黨 興 輿に升るを見て、咸 危懼を懷く。尹沖ら先に謀りて泓 出迎ふるに因りて之を害せんと欲し、尚書の姚沙彌曰く、「若し太子 備へ有れば、來りて迎侍せず、當に乘輿を奉りて直ちに公第に趣くべし。宿衞の者 上 此に在ると聞かば、自ら當に來奔すべし、誰か太子と與に守るか。吾ら廣平公の故を以て、身を陷して節に逆らふ。今 乘輿を以て南のかた幸せば、自ら當に是れ杖義の理にして、但だ廣平の禍を救ふのみに匪ず、以て前愆を申雪するに足る可し」と。沖ら從はず、興に隨ひて殿中に入りて亂を作さんと欲し、復た未だ興の存亡を知らず、疑ひて發せず。興 泓に命じて錄尚書事とし、姚紹・胡翼度をして禁中に典兵し、內外を防制せしめ、斂曼嵬を遣はして弼の第中の甲杖を收めしめ、之を武庫に內す。
興 疾 轉た篤く、興の妹の偽南安長公主 疾を問ふに、應ぜず。興の少子たる耕兒 出でて其の兄の愔に告げて曰く、「上 已に崩ぜり、宜しく速やかに計を決すべし」と。是に於いて愔 其の屬と與に甲士を率ゐて端門を攻め、殿中上將軍の斂曼嵬 兵を勒して距戰し、右衞の胡翼度 禁兵を率ゐて四門を閉づ。愔ら壯士を遣はして門に登り、屋に緣りて入り、馬道に及ぶ。泓 時に疾に諮議堂に侍し、斂曼嵬を遣はして殿中の兵を率ゐて武庫に登りて距戰せしめ、太子右衞率の姚和都 東宮の兵を率ゐて入りて馬道の南に屯す。愔ら既に進むことを得ず、遂に端門を燒く。興 力疾して前殿に臨み、弼に死を賜ふ。禁兵 興を見、喜躍し、甲を貫きて賊に赴き、賊眾 駭擾す。和都 東宮の兵を勒して後より之を擊ち、愔ら奔潰し、驪山に逃げ、愔の黨たる呂隆 雍に奔り、尹沖ら京師に奔る。興 紹及び讚・梁喜・尹昭・斂曼嵬を引きて內寢に入れ、遺を受けて輔政せしむ。義熙十二年、興 死し、時に年五十一、在位二十二年なり。偽して文桓皇帝と諡し、廟を高祖と號し、墓を偶陵と曰ふ。

現代語訳

姚興は華陰に行き、姚泓を監国とし、西宮に入居させた。病気が重いので、長安に還った。姚泓が出迎えようとしたが、その宮臣が、「いま主上は重病で、姦臣がそばにおり、広平公(姚弼)はいつも非常事態を待ちわびて想定しており、政変を予測できません。もし殿下が出迎えれば、進めば主上に面会できず、退けば姚弼らに危害を加えられ、居場所を失います。どうか感情と礼を抑え、宗社の安寧を優先しなさい」と言った。姚泓はこれに従い、黄龍門の樽下で拝迎した。姚弼の仲間は姚興が輿に乗っている(健在である)のを見て、皆が危機を感じた。これより先に尹沖らは姚泓が(姚興を長安城外で)出迎えるときに殺害しようと計画したが、尚書の姚沙弥は、「もし太子に備えがあれば、出迎えない、乗輿を奉ってすぐに公第(広平公の屋敷)に行くべきだ。宿衛の者は主上がいると聞けば、そちらに駆け付けるだろう、太子の護衛は手薄になる。われらは広平公(姚弼)の縁者なので、身を貶めて節義に逆らってしまった。いま乗輿が南に行幸すれば、正義に基づいて行動し、ただ広平公の禍いを救うだけでなく、前の過ちを挽回できる」と言った。尹沖らは従わず、姚興に随って殿中に入って乱を起こそうとしたが、まだ姚興の生死が分からぬので、決起できずにいた。姚興は姚泓に命じて録尚書事とし、姚紹・胡翼度の禁中の兵を掌らせ、内外を防衛して牽制させ、斂曼嵬を動かして姚弼の屋敷の武具を回収させ、それを武庫に収納した。
姚興の病気が一転して重くなり、姚興の妹の南安長公主が病状を聞いたが、答えなかった。姚興の少子である耕児が出てきて兄の姚愔に、「主上はもう崩御した、速やかに計画を実行せよ」と告げた。そこで姚愔は配下とともに武装した兵を率いて端門を攻め、殿中上将軍の斂曼嵬が兵をまとめて防戦し、右衛の胡翼度は禁中の兵を率いて四門を閉じた。姚愔らは壮士に宮門を登らせ、屋根づたいに入り、馬道に着いた。姚泓はこのとき諮議堂で看病しており、斂曼嵬に殿中の兵を連れて武庫に入って防戦させ、太子右衛率の姚和都が東宮の兵を率いて入り馬道の南に駐屯した。姚愔らは進めず、端門に火を付けた。姚興は病を押して前殿に臨み、姚弼に死を賜った。禁中の兵は姚興を見て、喜び躍り、鎧を身に着けて賊の討伐に赴いたので、賊軍は驚き騒いだ。姚和都は東宮の兵を連れて後ろから攻撃し、姚愔らは潰走して、驪山に逃げ、姚愔の仲間の呂隆は雍に逃げ込み、尹沖らは京師に奔った。姚興は姚紹及び姚讚・梁喜・尹昭・斂曼嵬を内寝に招き入れ、遺詔を授けて輔政を命じた。義熙十二(四一六)年(あるいはその前年)、姚興が死に、時に五十一歳(あるいは五十三歳)、在位は二十二年であった。不当に文桓皇帝と諡し、廟を高祖と号し、墓を偶陵といった。

尹緯

原文

尹緯字景亮、天水人也。少有大志、不營產業。身長八尺、腰帶十圍、魁梧有爽氣。每覽書傳至宰相立勳之際、常輟書而歎。苻堅以尹赤之降姚襄、諸尹皆禁錮不仕。緯晚乃為吏部令史、風志豪邁、郎皆憚之。堅末年、祅星見于東井、緯知堅將滅、喜甚、向天再拜、既而流涕長歎。友人略陽桓識怪而問之、緯曰、「天時如此、正是霸王龍飛之秋、吾徒杖策之日。然知己難遭、恐不得展吾才志、是以欣懼交懷。」
及姚萇奔馬牧、緯與尹詳・龐演等扇動羣豪、推萇為盟主、遂為佐命元功。萇既敗符堅、遣緯說堅、求禪代之事。堅問緯曰、「卿於朕何官。」緯曰、「尚書令史。」堅歎曰、「宰相之才也、王景略之儔。而朕不知卿、亡也不亦宜乎。」

訓読

尹緯 字は景亮、天水の人なり。少くして大志有り、產業を營まず。身長八尺、腰帶十圍、魁梧にして爽氣有り。每に書傳を覽じて宰相 立勳の際に至り、常に書を輟めて歎ず。苻堅 尹赤の姚襄に降るを以て、諸尹 皆 禁錮して仕へず。緯 晚に乃ち吏部令史と為り、風志は豪邁にして、郎 皆 之を憚る。堅の末年、祅星 東井に見はれ、緯 堅の將に滅びんとするを知り、喜ぶこと甚し、天に向ひて再拜し、既にして流涕し長歎す。友人たる略陽の桓識 怪みて之に問ふに、緯曰く、「天の時 此の如し、正に是れ霸王龍飛の秋なり、吾が徒 杖策の日なり。然れども知己 遭に難ひ、恐くは吾が才志を展すことを得ず、是を以て欣懼 交懷す」と。
姚萇 馬牧に奔るに及び、緯 尹詳・龐演らと羣豪を扇動し、萇を推して盟主と為し、遂に佐命の元功と為る。萇 既に符堅を敗り、緯を遣りて堅に說き、禪代の事を求めしむ。堅 緯に問ひて曰く、「卿 朕に於いて何なる官か」と。緯曰く、「尚書令史なり」と。堅 歎じて曰く、「宰相の才なり、王景略の儔なり。而れども朕 卿を知らず、亡ぶや亦た宜しからずや」と。

現代語訳

尹緯は字を景亮といい、天水の人である。若くして大志を持ち、生業を営まなかった。身長は八尺、腰周りは十囲で、堂々として豪爽であった。書伝を読みながら宰相が活躍する箇所になるたび、読むのを辞めて歎息した。苻堅(前秦)は尹赤が姚襄(後秦)に降服したので、尹氏を全て禁錮して公職から排除した。尹緯は晩年に吏部令史となったが、風格は豪胆で英邁なので、吏部郎たちに憚られた。苻堅の末年、凶星が東井に現れると、尹緯は苻堅が滅亡間近だと知り、とても喜び、天に向かって再拝し、つぎに流涕し長歎した。友人である略陽の桓識が怪しんで理由を聞くと、尹緯は、「天の時はこのようで、霸王が龍飛すべき時代が到来し、われらも追随すべき時期だ。だが知己が災難に遭い、恐らくわが才能と志は十分に発揮できぬから、歓びと懼れが入り交じっている」と言った。
姚萇が馬牧にやって来ると、尹緯は尹詳・龐演らと豪族たちを扇動し、姚萇を盟主に推戴し、とうとう佐命の元勲を立てた。姚萇が符堅を破ると、尹緯を派遣して苻堅に説得し、禅譲を要請した。苻堅は尹緯に、「きみは朕の王朝(前秦)ではどんな官職にあったか」と質問した。尹緯は、「尚書令史です」と言った。苻堅は歎じて、「宰相の才を持ち、王景略(王猛)と同類である。しかし朕はきみを知らなかった、敗亡するわけだ」と言った。

原文

緯性剛簡清亮、慕張子布之為人。馮翊段鏗性傾巧、萇愛其博識、引為侍中。緯固諫以為不可、萇不從。緯屢眾中辱鏗、鏗心不平之。萇聞而謂緯曰、「卿性不好學、何為憎學者。」緯曰、「臣不憎學、憎鏗不正耳。」萇因曰、「卿好不自知、每比蕭何、真何如也。」緯曰、「漢祖與蕭何俱起布衣、是以相貴。陛下起貴中、是以賤臣。」萇曰、「卿實不及、胡為不也。」緯曰、「陛下何如漢祖。」萇曰、「朕實不如漢祖、卿遠蕭何、故不如甚也。」緯曰、「漢祖所以勝陛下者、以能遠段鏗之徒故耳。」萇默然、乃出鏗為北地太守。萇死、緯與姚興滅苻登、成興之業、皆緯之力也。歷輔國將軍・司隸校尉・尚書左右僕射・清河侯。
緯友人隴西牛壽率漢中流人歸興、謂緯曰、「足下平生自謂、『時明也、才足以立功立事。道消也、則追二疏・朱雲、發其狂直、不能如胡廣之徒洿隆隨俗。』今遇其時矣、正是垂名竹素之日、可不勉歟。」緯曰、「吾之所庶幾如是、但未能委宰衡於夷吾、識韓信於羈旅、以斯為愧耳。立功立事、竊謂未負昔言。」興聞而謂緯曰、「君之與壽言也、何其誕哉。立功立事、自謂何如古人。」緯曰、「臣實未愧古人。何則、遇時來之運、則輔翼太祖、建八百之基。及陛下龍飛之始、翦滅苻登、盪清秦雍、生極端右、死饗廟庭、古之君子、正當爾耳。」興大悅。及死、興甚悼之、贈司徒、諡曰忠成侯。

訓読

緯の性 剛簡にして清亮なり、張子布の人と為りを慕ふ。馮翊の段鏗 性は傾巧、萇 其の博識を愛し、引きて侍中と為す。緯 固く諫めて以て不可と為すも、萇 從はず。緯 屢々眾中に鏗を辱め、鏗 心に之を平ならず。萇 聞きて緯に謂ひて曰く、「卿の性 學を好まず、何為れぞ學者を憎むや」と。緯曰く、「臣 學を憎まず、鏗の不正を憎むのみ」と。萇 因りて曰く、「卿 自ら知らざるを好み、每に蕭何に比す、真に何如なるや」と。緯曰く、「漢祖 蕭何と俱に布衣より起ち、是を以て相 貴たり。陛下 貴中より起ち、是を以て臣を賤しむ」と。萇曰く、「卿 實に及ばず、胡ぞ不と為すと」と。緯曰く、「陛下 漢祖と何如」と。萇曰く、「朕 實に漢祖に如かず、卿 蕭何に遠し、故に如ざること甚しきなり」と。緯曰く、「漢祖 陛下に勝る所以は、能く段鏗の徒を遠くるを以ての故なるのみ」と。萇 默然とし、乃ち鏗を出して北地太守と為す。萇 死し、緯 姚興と與に苻登を滅し、興が業を成すは、皆 緯の力なり。輔國將軍・司隸校尉・尚書左右僕射・清河侯を歷す。
緯の友人たる隴西の牛壽 漢中の流人を率ゐて興に歸し、緯に謂ひて曰く、「足下 平生に自ら謂ふ、『時 明ならば、才 以て功を立て事を立つるに足る。道 消せば、則ち二疏・朱雲を追ひて、其の狂直を發せん、胡廣の徒の洿隆して俗に隨ふが如くなること能はず』と。今 其の時に遇ひて、正に是れ名を竹素に垂るるの日なり、勉めざる歟可きか」と。緯曰く、「吾の庶幾する所 是の如し、但だ未だ宰衡を夷吾に委ね、韓信を羈旅に識る能はず、斯を以て愧と為すのみ。功を立て事を立つること、竊かに未だ昔言に負かずと謂ふ」と。興 聞きて緯に謂ひて曰く、「君の壽に言を與ふるや、何ぞ其れ誕いなるか。功を立て事を立つるのこと、自ら古人に何如と謂へる」と。緯曰く、「臣 實に未だ古人に愧ぢず。何と則れば、時來の運に遇ひ、則ち太祖を輔翼し、八百の基を建つ。陛下 龍飛の始に及べば、苻登を翦滅し、秦雍を盪清し、生きては端右を極め、死しては廟庭に饗せられ、古の君子、正に當に爾るべきのみ」と。興 大いに悅ぶ。死するに及び、興 甚だ之を悼み、司徒を贈り、諡して忠成侯と曰ふ。

現代語訳

尹緯は剛強で素直な性格の持ち主で、張子布(張昭)の人となりを手本とした。馮翊の段鏗は狡賢いが、姚萇は段鏗の博識を愛し、招いて侍中とした。尹緯はこの任命を強く諫めたが、姚萇は聞き入れなかった。尹緯はしばしば郡臣の前で段鏗を辱めたから、段鏗は不平に思っていた。姚萇はこれを聞いて尹緯に、「きみは学問を好まない、なぜ学者(博識な段鏗)を憎むのか」と聞いた。尹緯は、「私は学問を憎みません、段鏗の不正を憎むのです」と言った。姚萇は、「きみは自己認知が甘く、いつも蕭何に準えている、どういうつもりか」と言った。尹緯は、「漢祖(劉邦)は蕭何とともに無官から出発し、一緒に偉くなりました。陛下はもともと偉いが、私を賤しめるのですね」と言った。姚萇は、「あなたは(蕭何に)全くを及ばないのに、なぜ認めないのか」と言った。尹緯は、「陛下を漢祖と比べたらいかがですか」と言った。姚萇は「朕は漢祖に及ばぬが、きみは蕭何から遠い、だから余計に(漢祖の主従に)敵わぬのだ」と言った。尹緯は、「漢祖が陛下より優れていたのは、段鏗のような連中を遠ざけたという一点のみですが」と言った。姚萇は黙然とし、段鏗を北地太守に転出させた。姚萇が死ぬと、尹緯は姚興とともに苻登を滅ぼし、姚興の成功は、みな尹緯のおかげである。輔国将軍・司隸校尉・尚書左右僕射・清河侯を歴任した。
尹緯の友人である隴西の牛寿が漢中の流人を率いて姚興に帰順し、尹緯に、「あなたは普段から、『明君の時代には、才能を活かして勲功を立てて事績を上げられる。道義が衰えれば、二人の疏氏・朱雲をまねて、正義を押し通そう、胡広のように時勢に追随などできない』と言っていた。いま時流(後秦の明君)に巡り逢い、名を竹帛に残すべき日である、がんばるしかないな」と言った。尹緯は、「私の希望はそのとおりだが、まだ(後秦では)宰相の任を夷吾(管仲)に委ねず、韓信を軍旅から見出しておらず、それが残念である。勲功と事績のことは、まだ昔の発言を破ったわけではない」と言った。姚興はこれを聞いて尹緯に、「きみが牛寿に言ったことは、なんと壮大ではないか。勲功と事績のことは、自分のことを古人にどのように言うつもりか」と言った。尹緯は、「私はまだ古人に恥じておりません。なぜなら、時代の運に遭遇したので、太祖(姚萇)を補佐し、八百の基礎を築きました。陛下(姚興)が龍のように雄飛する端緒に、苻登を殲滅し、秦州と雍州を粛清し、生きては第一の席次を得て、死ねば廟庭に祭られます、古の君子も、まさに同じではありませんか」と言った。姚興は大いに悦んだ。(尹緯が)死ぬと、姚興はひどく悼み、司徒を追贈し、忠成侯と諡した。