いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第二十巻_後蜀_李特・李流(李庠)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。李特載記の部分(この巻の前半)のみ、『解體晉書』というサイトに翻訳があります。私が翻訳を作成した後、そのサイトに基づいて改変を加えた場合は、注記しました。

李特

原文

李特字玄休、巴西宕渠人、其先廩君之苗裔也。昔武落鍾離山崩、有石穴二所、其一赤如丹、一黑如漆。有人出於赤穴者、名曰務相、姓巴氏。有出于黑穴者、凡四姓、曰曎氏・樊氏・1.(柏氏)〔相氏〕・鄭氏。五姓俱出、皆爭為神、於是相與以劍刺穴屋、能著者以為廩君。四姓莫著、而務相之劍懸焉。又以土為船、雕畫之而浮水中、曰、「若其船浮存者、以為廩君。」務相船又獨浮。於是遂稱廩君、乘其土船、將其徒卒、當夷水而下、至於鹽陽。鹽陽水神女子止廩君曰、「此魚鹽所有、地又廣大、與君俱生、可止無行。」廩君曰、「我當為君求廩地、不能止也。」鹽神夜從廩君宿、旦輒去為飛蟲、諸神皆從其飛、蔽日晝昏。廩君欲殺之不可、別又不知天地東西。如此者十日、廩君乃以青縷遺鹽神曰、「嬰此、即宜之、與汝俱生。弗宜、將去汝。」鹽神受而嬰之。廩君立2.碭石之上、望膺有青縷者、跪而射之、中鹽神。鹽神死、羣神與俱飛者皆去、天乃開朗。廩君復乘土船、下及夷城、夷城石岸曲、泉水亦曲。廩君望如穴狀、歎曰、「我新從穴中出、今又入此、奈何。」岸即為崩、廣三丈餘、而階陛相乘、廩君登之。岸上有平石方一丈、長五尺、廩君休其上、投策計算、皆著石焉、因立城其旁而居之。其後種類遂繁。秦并天下、以為黔中郡、薄賦斂之、口歲出錢四十。巴人呼賦為賨、因謂之賨人焉。及漢高祖為漢王、募賨人平定三秦、既而求還鄉里。高祖以其功、復同豐沛、不供賦稅、更名其地為巴郡。土有鹽鐵丹漆之饒、俗性剽勇、又善歌舞。高祖愛其舞、詔樂府習之、今巴渝舞是也。漢末、張魯居漢中、以鬼道教百姓、賨人敬信巫覡、多往奉之。值天下大亂、自巴西之宕渠遷于漢中楊車坂、抄掠行旅、百姓患之、號為楊車巴。魏武帝克漢中、3.特祖將五百餘家歸之、魏武帝拜為將軍、遷於略陽、北土復號之為4.巴氐

1.『晋書斠注』の指摘に従い、「柏氏」を「相氏」に改める。
2.中華書局本によると、「陽石」に作るべきか。
3.『華陽国志』・『晋書』李雄載記に従い、李特の祖父の名として「武」を補い、「特祖武」に作るべきか。
4.『華陽国志』に従い、「巴氐」は「巴氏」に作るべきか。

訓読

李特 字は玄休、巴西宕渠の人なり、其の先 廩君の苗裔なり。昔 武落の鍾離山 崩れ、石に穴二所有り、其の一は赤きこと丹の如く、一は黑きこと漆の如し。人の赤穴より出づる者有り、名づけて務相と曰ひ、姓は巴氏なり。黑穴より出づる者有り、凡そ四姓なり、曎氏・樊氏・相氏・鄭氏と曰ふ。五姓 俱に出で、皆 神と為ることを爭ひ、是に於て相 與に劍を以て穴屋〔一〕に刺し、能く著なる者を以て廩君と為す。四姓 著なること莫く、而るに務相の劍 焉に懸れり。又 土を以て船を為り、之を雕畫して水中に浮べて、曰く、「若し其の船 浮き存せん者を、以て廩君と為す」と。務相の船 又 獨り浮く。是に於て遂に廩君と稱し、其の土船に乘りて、其の徒卒を將ゐ、夷水に當りて下り、鹽陽に至る。鹽陽の水神の女子 廩君を止めて曰く、「此 魚鹽の有る所にして、地 又 廣大なり、君と與に俱にありて生きん、止まりて行くこと無かる可し」と。廩君曰く、「我 當に君が為に廩地を求むべし、止まること能はざるなり」と。鹽神 夜に廩君に從ひて宿し、旦に輒ち去りて飛蟲と為り、諸神 皆 其の飛ぶに從ひ、日を蔽ひて晝に昏し。廩君 之を殺さんと欲すれども可からず、別に又 天地東西を知らず。此の如くなる者十日、廩君 乃ち青縷を以て鹽神に遺りて曰く、「此を嬰(かけ)て、即ち之に宜しくんば、汝と與に俱に生きん。宜しからざれば、將に汝を去らんとす」と。鹽神 受けて之を嬰(か)く。廩君 碭(たう)石の上に立ち、膺に青縷有る者を望みて、跪きて之を射て、鹽神に中つ。鹽神 死し、羣神の與に俱に飛ぶ者 皆 去り、天 乃ち開朗なり。廩君 復た土船に乘りて、下りて夷城に及び、夷城の石岸 曲れり、泉水 亦た曲れり。廩君 望むに穴の狀の如く、歎じて曰く、「我 新たに穴中より出で、今 又 此に入る、奈何」と。岸 即ち為に崩れ、廣さ三丈餘、而して階陛 相 乘じ、廩君 之に登る。岸上に平石有りて方一丈、長さ五尺なり、廩君 其の上に休み、策を投じて計算し、皆 石に著にし、因りて城を其の旁に立ちて之に居す。其の後 種類 遂も繁し。秦 天下を并はせて、以て黔中郡と為し、賦を薄くして之を斂め、口ごとに歲ごとに錢四十を出す。巴人 賦を呼びて賨と為し、因りて之を賨人と謂ふ。漢高祖 漢王と為るに及び、賨人を募りて三秦を平定し、既にして鄉里に還ることを求む。高祖 其の功を以て、復た豐沛に同にし、賦稅を供せず、其の地を名を更めて巴郡と為す。土に鹽鐵丹漆の饒有り、俗性 剽勇にして、又 歌舞を善くす。高祖 其の舞を愛して、樂府に詔して之を習はしむ、今の巴渝舞 是なり。漢末、張魯 漢中に居し、鬼道を以て百姓を教へ、賨人 巫覡を敬信し、多く往きて之に奉ず。天下 大亂に值りて、巴西の宕渠より漢中の楊車坂に遷り、行旅を抄掠し、百姓 之を患ひ、號して楊車巴と為す。魏武帝 漢中に克ち、特祖 五百餘家を將ゐて之に歸し、魏武帝 拜して將軍と為し、略陽に遷し、北土 復た之を號して巴氐と為す。

〔一〕『解體晉書』によると、「穴屋」を「穴の天井」とする。これに従う。

現代語訳

李特は字を玄休、巴西宕渠の人であり、その祖先は廩君の後裔である。むかし武落の鍾離山が崩れ、石に穴が二つあり、一つは丹のように赤く、一つは漆のように黒かった。赤穴から出てきた人は、務相という名で、姓は巴氏である。黒穴から出てきた人は、四姓がおり、曎氏・樊氏・相氏・鄭氏といった。五姓が同時に出てきて、みな神になろうと争い、剣を穴の天井に刺し、成功した者を廩君にしようと取り決めた。四姓は失敗し、務相の剣だけが突き立った。さらに土で船を作り、彫刻して水面に浮かべ、「船が浮き続けた者を、廩君にしよう」と取り決めた。務相の船だけが浮いた。そこで(赤穴の務相を)廩君とし、その土船に乗り、部下を率いて、夷水を下り、塩陽に至った。塩陽の水神である女子が廩君を止め、「ここは魚と塩を産出し、土地は広大です、あなたとここで生活したい、留まって下さい」と言った。廩君は、「私は君(君主、もしくはあなた)のために廩地(廩君の領土、もしくは耕作地)を探さねばならない、留まれない」と言った。塩神(水神の女子)は夜に廩君と過ごし、翌朝に去って飛虫となると、他の神々もそれに従って飛び、日光を覆って昼でも暗かった。廩君はこれを殺そうとしたができず、さらに上下左右も分からなくなった。こうして十日後、廩君は青糸を塩神に贈り、「これを身に着けろ、それでよければ、あなたと一緒に生活しよう。嫌ならば、あなたのもとを去ろう」と言った。塩神は受け取って(青糸を)身に着けた。廩君は碭石の上に立ち、胸に青糸を提げた者を探し、跪いてそれを射て、塩神に当てた。塩神が死ぬと、一緒に飛んでいた神々は皆が去り、空が明るくなった。廩君はふたたび土船に乗り、流れを下って夷城に及んだが、夷城の石岸は歪曲し、泉水もまた歪曲していた。見ると穴の形状に似ており、廩君は歎じて、「せっかく穴から出てきたのに、また穴に入るのか、なんということだ」と言った。すると石岸が崩れ、広さは三丈餘り、階段状となり、廩君はそこに登った。岸の上に平たい石があり一丈四方、高さは五尺であった、廩君はその上で休み、筮竹を投げて占うと、いずれもこの石を示したので、そばに築城して拠点とした。のちに種族が集住するようになった。秦が天下を併合すると、ここを黔中郡としたが、税率は低く設定され、一人が一年に四十銭を納めた。巴人はこの賦税を賨(そう)と呼び、だから彼らは賨人と呼ばれた。漢高祖が漢王となると、賨人を募って三秦を平定し、平定し終わると帰郷を求めた。高祖はその功績により、(高祖自身の故郷である)豊沛と同様、賦税を免除し、ここの地名を巴郡に改めた。塩と鉄と丹と漆の名産地で、気性は強く勇敢で、歌舞も得意とした。高祖はその歌舞を愛し、楽府に詔して習得させた。いまの巴渝舞である。漢末、張魯が漢中に割拠し、鬼道で百姓を教化すると、賨人も巫術を信仰し、多くが駆けつけて仕えた。天下が大乱すると、巴西の宕渠から漢中の楊車坂に移り、通行者を襲ったので、みな苦しめられ、楊車巴と呼んだ。魏武帝が漢中を平定すると、李特の祖父は五百餘家を率いて帰順し、魏武帝は彼を将軍とし、略陽に移住させ、北方では巴氐と呼んだ。

原文

特父慕為東羌獵將。特少仕州郡、見異當時、身長八尺、雄武善騎射、沈毅有大度。元康中、氐齊萬年反、關西擾亂、頻歲大飢、百姓乃流移就穀、相與入漢川者數萬家。特隨流人將入于蜀、至劍閣、箕踞太息、顧眄險阻曰、「劉禪有如此之地而面縛於人、豈非庸才邪。」同1.(夷)〔移〕者閻式・趙肅・李遠・任回等咸歎異之。初、流人既至漢中、上書求寄食巴蜀、朝議不許、遣侍御史李苾持節慰勞、且監察之、不令入劍閣。苾至漢中、受流人貨賂、反為表曰、「流人十萬餘口、非漢中一郡所能振贍、東下荊州、水湍迅險、又無舟船。蜀有倉儲、人復豐稔、宜令就食。」朝廷從之、由是散在益梁、不可禁止。
永康元年、詔徵益州刺史趙廞為大長秋、以成都內史耿滕代廞。廞遂謀叛、潛有劉氏割據之志、乃傾倉廩、振施流人、以收眾心。特之黨類皆巴西人、與廞同郡、率多勇壯、廞厚遇之、以為爪牙、故特等聚眾、專為寇盜、蜀人患之。滕密上表、以為流人剛剽而蜀人愞弱、客主不能相制、必為亂階、宜使移還其本。若致之險地、將恐秦雍之禍萃於梁益、必貽聖朝西顧之憂。廞聞而惡之。時益州文武千餘人已往迎滕、滕率眾入州、廞遣眾逆滕、戰于西門、滕敗、死之。
廞自稱大都督・大將軍・益州牧。特弟庠與兄弟及妹夫李含・任回・2.上官惇・扶風李攀・始平費佗・氐苻成・隗伯等以四千騎歸廞。廞以庠為威寇將軍、使斷北道。庠素東羌良將、曉軍法、不用麾幟、舉矛為行伍、斬部下不用命者三人、部陣肅然。廞惡其齊整、欲殺之而未言。長史杜淑・司馬張粲言於廞曰、「傳云五大不在邊、將軍起兵始爾、便遣李庠握強兵於外、愚竊惑焉。且非我族類、其心必異、倒戈授人、竊以為不可、願將軍圖之。」廞斂容曰、「卿言正當吾意、可謂起予者商、此天使卿等成吾事也。」會庠在門、請見廞、廞大悅、引庠見之。庠欲觀廞意旨、再拜進曰、「今中國大亂、無復綱維、晉室當不可復興也。明公道格天地、德被區宇、湯武之事、實在於今。宜應天時、順人心、拯百姓於塗炭、使物情知所歸、則天下可定、非但庸蜀而已。」廞怒曰、「此豈人臣所宜言。」令淑等議之。於是淑等上庠大逆不道、廞乃殺之、及其子姪宗族三十餘人。廞慮特等為難、遣人喻之曰、「庠非所宜言、罪應至死、不及兄弟。」以庠尸還特、復以特兄弟為督將、以安其眾。牙門將許弇求為巴東監軍、杜淑・張粲固執不許。弇怒、於廞閤下手刃殺淑・粲、3.〔淑・粲〕左右又殺弇、皆廞腹心也。

1.中華書局本に従い、「夷」を「移」に改める。
2.『晋書斠注』によると、「上官惇」は「上官晶」に作るべきである。
3.中華書局本に従い、「淑・粲」を補う。

訓読

特が父たる慕 東羌獵將と為る。特 少くして州郡に仕へ、當時に異とせられ、身長八尺、雄武にして騎射を善くし、沈毅にして大度有り。元康中、氐の齊萬年 反し、關西 擾亂し、歲を頻りに大いに飢え、百姓 乃ち流移して穀に就き、相 與に漢川に入る者 數萬家なり。特 流人に隨ひて將に蜀に入らんとし、劍閣に至るに、箕踞し太息し、險阻を顧眄して曰く、「劉禪 此の如き地有りて人に面縛す、豈に庸才に非ざるや」と。同に移る者は閻式・趙肅・李遠・任回ら咸 歎じて之を異とす。 初め、流人 既に漢中に至り、上書して巴蜀に寄食することを求め、朝議 許さず、侍御史の李苾を遣はして持節して慰勞し、且つ之を監察せしめ、劍閣に入らしめず。苾 漢中に至るや、流人の貨賂を受け、反りて表を為りて曰く、「流人十萬餘口、漢中一郡の能く振贍する所に非ず、東のかた荊州に下るにも、水湍 迅險にして、又 舟船無し。蜀に倉儲有り、人 復た豐稔たり、宜しく食に就かしむべし」と。朝廷 之に從ひ、是に由りて益梁に散在し、禁止す可からず。
永康元年、詔して益州刺史の趙廞を徵して大長秋と為し、成都內史の耿滕を以て廞に代ふ。廞 遂に謀叛し、潛かに劉氏の割據の志有り、乃ち倉廩を傾け、流人に振施し、以て眾心を收む。特の黨類 皆 巴西の人なり、廞と同郡にして、多く勇壯を率ゐて、廞 之を厚遇し、以て爪牙と為し、故に特ら眾を聚め、專ら寇盜を為し、蜀人 之を患ふ。滕密 上表すらく、以為へらく流人は剛剽にして蜀人は愞弱なり、客主 相 制する能はざれば、必ず亂階と為らん、宜しく移して其の本に還らしむべし。若し之をして險地に致らしめば、將に恐れんとす秦雍の禍 梁益に萃し、必ず聖朝の西顧の憂を貽(のこ)さん。廞 聞きて之を惡む。時に益州の文武千餘人 已に往きて滕を迎へ、滕 眾を率ゐて州に入り、廞 眾を遣はして滕を逆へ、西門に戰ひ、滕 敗れ、之に死す。
廞 自ら大都督・大將軍・益州牧を稱す。特の弟たる庠 兄弟及び妹夫の李含・任回・上官惇・扶風の李攀・始平の費佗・氐苻成・隗伯らと與に四千騎を以て廞に歸す。廞 庠を以て威寇將軍と為し、北道を斷たしむ。庠 素より東羌の良將にして、軍法に曉く、麾幟を用ひず、矛を舉げて行伍を為し、部下の用命せざる者三人を斬り、部陣 肅然たり。廞 其の齊整なるを惡み、之を殺さんと欲するとも未だ言はず。長史の杜淑・司馬の張粲 廞に言ひて曰く、「傳に云ふ五大 邊に在らず〔一〕と、將軍 兵を起めて爾に始め、便ち李庠を遣はして強兵を外に握しめば、愚 竊かに焉に惑ふ。且つ我が族類に非ざれば、其の心 必ず異なり、戈を倒にして人に授け、竊かに以て不可と為す、願はくは將軍 之を圖れ」と。廞 斂容として曰く、「卿の言 正に吾が意に當たる、予を起す者は商なり〔二〕と謂ふ可し、此れ天 卿らをして吾が事を成さしむなり」と。會 庠 門に在り、廞に見えんことを請ふ、廞 大いに悅び、庠を引きて之に見ゆ。庠 廞の意旨を觀んと欲し、再拜して進みて曰く、「今 中國 大亂す、復た綱維無し、晉室 當に復興す可からざるなり。明公 道は天地に格しく、德は區宇を被ふ、湯武の事、實に今に在らん。宜しく天時に應じ、人心に順ふべし、百姓を塗炭より拯ひ、物情をして歸する所を知らしめば、則ち天下 定む可し、但だ庸蜀のみに非ざるなり」と。廞 怒りて曰く、「此れ豈に人臣の宜しく言ふべき所や」と。淑らをして之を議せしむ。是に於いて淑ら庠の大逆不道を上し、廞 乃ち之を殺し、其の子姪宗族三十餘人に及ぶ。廞 特らの難と為るを慮り、人を遣はして之に喻して曰く、「庠 宜しく言ふべき所に非ず、罪 應に死に至るべし、兄弟に及ばず」と。庠の尸を以て特に還し、復た特の兄弟を以て督將と為し、以て其の眾を安んず。牙門將の許弇 巴東監軍と為ることを求め、杜淑・張粲 固執して許さず。弇 怒り、廞の閤下に於いて手刃もて淑・粲を殺し、淑・粲の左右 又 弇を殺す、皆 廞の腹心たり。

〔一〕『春秋左氏伝』昭公十一年が出典。
〔二〕『論語』八佾篇が出典。商は、孔子の弟子である子夏のこと。

現代語訳

李特の父である李慕は東羌猟将となった。李特は若くして州郡に仕え、同時代の人から特異な才能だと評価され、身長は八尺、勇敢で武力があって騎射を得意とし、落ち着きがあり大きな度量をそなえた。元康中(二九一-二九九)、氐族の斉万年が反乱し、関西が混乱すると、連年食糧が不足し、百姓は流離して穀物を求め、数万家が漢川に入った。李特は流人に随って蜀に入ろうとし、剣閣に至ると、足を投げ出して溜息をつき、剣閣を見渡して、「劉禅はこれほどの土地を領有しながら(敗北を悟り)人の前に面縛し(降服を選択し)た、凡才だったのだな」と言った。同行者である閻式・趙粛・李遠・任回らは皆が感心して(李特を)並みの人物ではないと考えた。 これより先、流人が漢中に到達すると、上書して巴蜀の食料にありつきたいと申請したが、朝議は許可せず、侍御史の李苾(ひつ)に持節して慰労をさせ、同時に監察もさせ、剣閣から先に進ませなかった。李苾が漢中に来ると、流人から貨賂を受けとり、却って上表を作成して、「流人は十万餘人おり、漢中一郡では養えません、東下して荊州に行こうにも、水流が激しく、船もありません。蜀には食料備蓄があり、人々は豊穣です、そちらで食料にありつかせますように」と言った。朝廷がこれに従ったので、こうして(流人が)益州や梁州に散在し、管理不能になった。
永康元(三〇〇)年、詔して益州刺史の趙廞を徴して大長秋とし、成都内史の耿滕を趙廞の後任とした。とうとう趙廞が謀叛し、ひそかに劉氏(劉備)のように割拠する志を抱き、穀倉を開き、流人に振給し、支持を集めた。李特の党類はみな巴西郡の人で、趙廞と同郷なので、勇壮な人々を率い、趙廞のもとで厚遇され、兵員となり、こうして李特は仲間を集めて、盗賊行為をして、蜀人を苦しめた。滕密が上表し、「流人は剛健ですが蜀人は惰弱です、移住者を制御できねば、必ず混乱を招きます、移住元(略陽付近)に帰すべきです。もし険阻な地に籠もられたら、秦州や雍州の災厄が梁州や益州に及び、きっと聖朝にとって西方の脅威となります」と言った。趙廞はこの上表を聞いて滕密を憎んだ。このとき益州の文武千餘人はもう耿滕を迎えにゆき、耿滕は軍勢を率いて益州に入っていたので、趙廞は耿滕を迎え討ち、西門で戦い、耿滕が敗れて、戦死した。
趙廞は自ら大都督・大将軍・益州牧を称した。李特の弟である李庠は兄弟及び妹の夫である李含・任回・上官惇・扶風の李攀・始平の費佗・氐苻成・隗伯らとともに四千騎を連れて趙廞に帰順した。趙廞は李庠を威寇将軍とし、北への道を断たせた。李庠はもとより東羌の良将であり、軍法に明るく、軍旗を使わずとも、矛を挙げるだけで隊列を制御し、命令に従わぬ部下を三人斬り、軍陣が粛然とした。趙廞はその統制力を憎み、彼を殺そうとしたがまだ口には出さなかった。長史の杜淑・司馬の張粲が趙廞に、「左氏伝に五大には辺にないとあります、将軍はいま起兵し、外部で李庠に強軍を掌握させていますが、私たちは心配です。彼は異民族ですから、その心根は異なります、戈を逆さまにして人に授けるのは、良くありません、将軍はご再考下さい」と言った。趙廞は顔つきを引き締め、「同じことを考えていた、私を啓発するのは商だと言ったものだ、天があなたたちを遣わして私に成功をさせようとしている」と言った。ちょうど李庠が門前におり、趙廞への面会を求めたので、趙廞は大いに悦び、李庠を招いた。李庠は趙廞の意思を確かめようと、再拝して進み、「いま中原が乱れ、秩序がなく、晋王朝は復興できません。あなたは道義が天地に等しく、仁徳は地域を被い、殷の湯王・周の武王の事業が、再来しようとしています。天の時に応じ、人の心に従いなさい、万民を塗炭の苦しみから救い、万物にあるべき姿を教えれば、天下を平定できます、(領土は)庸蜀だけに限定されません」と言った。趙廞は怒って、「人臣が言ってよいことか」と言った。杜淑らに討議をさせた。杜淑らは「李庠は大逆不道です」と言い、そこで趙廞は李庠を殺し、その子や甥などの宗族三十餘人にも罪を及ぼした。趙廞は李特らとの対立を恐れ、人を遣って説得し、「李庠には不適切な発言があり、死罪に相当したが、兄弟には罪を及ぼさぬ」と言った。李庠の死体を李特に返還し、また李特の兄弟を督将とし、その軍勢を安心させた。牙門将の許弇は巴東監軍になりたがったが、杜淑・張粲が断固反対した。許弇は怒り、趙廞の席のもとで杜淑・張粲を斬り殺し、(報復として)杜淑・張粲の側近も許弇を殺し、いずれも趙廞の腹心となった。

原文

特兄弟既以怨廞、引兵歸緜竹。廞恐朝廷討己、遣長史費遠・犍為太守李苾・督護常俊督萬餘人斷北道、次緜竹之石亭。特密收合得七千餘人、夜襲遠軍、遠大潰、因放火燒之、死者十八九。進攻成都。廞聞兵至、驚懼不知所為。李苾・張徵等夜斬關走出、文武盡散。廞獨與妻子乘小船走至廣都、為下人朱竺所殺。特至成都、縱兵大掠、害西夷護軍姜發、殺廞長史1.袁洽及廞所置守長、遣其牙門王角・李基詣洛陽陳廞之罪狀。
先是、惠帝以2.(涼州)〔梁州〕刺史羅尚為平西將軍・領護西夷校尉・益州刺史、督牙門將王敦・上庸都尉義歆・蜀郡太守徐儉・廣漢太守辛冉等凡七千餘人入蜀。特等聞尚來、甚懼、使其弟驤於道奉迎、并貢寶物。尚甚悅、以驤為騎督。特及弟流復以牛酒勞尚於緜竹。王敦・辛冉並說尚曰、「特等流人、專為盜賊、急宜梟除、可因會斬之。」尚不納。冉先與特有舊、因謂特曰、「故人相逢、不吉當凶矣。」特深自猜懼。
尋有符下秦・雍州、凡流人入漢川者、皆下所在召還。特兄輔素留鄉里、託言迎家、既至蜀、謂特曰、「中國方亂、不足復還。」特以為然、乃有雄據巴蜀之意。朝廷以討趙廞功、拜特宣威將軍、封長樂鄉侯、流為奮威將軍・武陽侯。璽書下益州、條列六郡流人與特協同討廞者、將加封賞。會辛冉以非次見徵、不願應召、又欲以滅廞為己功、乃寢朝命、不以實上。眾咸怨之。羅尚遣從事催遣流人、限七月上道。辛冉性貪暴、欲殺流人首領、取其資貨、乃移檄發遣。又令梓潼太守張演於諸要施關、搜索寶貨。特等固請、求至秋收。流人布在梁益、為人傭力、及聞州郡逼遣、人人愁怨、不知所為。又知特兄弟頻請求停、皆感而恃之。且水雨將降、年穀未登、流人無以為行資、遂相與詣特。特乃結大營於緜竹、以處流人、移冉求自寬。冉大怒、遣人分牓通逵、購募特兄弟、許以重賞。特見、大懼、悉取以歸、與驤改其購云、「能送六郡之豪李・任・閻・趙・楊・上官及氐・叟侯王一首、賞百匹。」流人既不樂移、咸往歸特、騁馬屬鞬、同聲雲集、旬月間眾過二萬。流亦聚眾數千。特乃分為二營、特居北營、流居東營。

1.「袁洽」を「袁治」に作る版本がある。
2.『晋書斠注』の指摘により「涼州」を「梁州」に改める。

訓読

特の兄弟 既に廞を怨むを以て、兵を引きて緜竹に歸る。廞 朝廷 己を討つことを恐れ、長史の費遠・犍為太守の李苾・督護の常俊を遣はして萬餘人を督して北道を斷たしめ、緜竹の石亭に次る。特 密かに收合して七千餘人を得て、夜に(費)遠の軍を襲ひ、遠 大いに潰え、因りて放火して之を燒き、死者十に八九なり。進みて成都を攻む。廞 兵の至るを聞き、驚懼して為す所を知らず。李苾・張徵ら夜に關を斬りて走り出で、文武 盡く散る。廞 獨り妻子と與に小船に乘りて走りて廣都に至り、下人の朱竺の為に殺さる。特 成都に至り、兵を縱にして大掠し、西夷護軍の姜發を害し、廞の長史たる袁洽及び廞の置く所の守長を殺し、其の牙門たる王角・李基を遣はして洛陽に詣り廞の罪狀を陳ぶ。
是より先、惠帝 梁州刺史の羅尚を以て平西將軍・領護西夷校尉・益州刺史と為し、督牙門將の王敦・上庸都尉の義歆・蜀郡太守の徐儉・廣漢太守の辛冉ら凡そ七千餘人 蜀に入らしむ。特ら尚の來たるを聞き、甚だ懼れ、其の弟の驤をして道に奉迎せしめ、并せて寶物を貢ぐ。尚 甚だ悅び、驤を以て騎督と為す。特及び弟の流 復た牛酒を以て尚を緜竹に勞ふ。王敦・辛冉 並びに尚に說きて曰く、「特ら流人なり、專ら盜賊を為す、急ぎ宜しく梟除すべし、會に因りて之を斬る可し」と。尚 納れず。(辛)冉 先に特と舊有り、因りて特に謂ひて曰く、「故人 相 逢ふ、吉ならずんば當に凶なるべし」と。特 深く自ら猜懼す。
尋いで符の秦・雍州に下す有り、凡そ流人の漢川に入る者は、皆 所在に下して召還せよと。特の兄たる輔 素より鄉里に留まり、言に家を迎ふるといふに託し、既にして蜀に至り、特に謂ひて曰く、「中國 方に亂れん、復た還るに足らず」と。特 以て然りと為し、乃ち巴蜀に雄據するの意有り。朝廷 趙廞を討つの功を以て、特に宣威將軍を拜し、長樂鄉侯に封じ、流を奮威將軍・武陽侯と為す。璽書 益州に下し、六郡の流人を條列せしめ特と與に協同して廞を討つ者は、將に封賞を加へんとす。辛冉 非次を以て徵さるるに會ひ、召に應ずることを願はず、又 廞を滅ぼすを以て己の功と為さんと欲し、乃ち朝命を寢し、實を以て上せず。眾 咸 之を怨む。羅尚 從事を遣はして流人を催遣し、七月を限りて道に上げしむ。辛冉 性は貪暴にして、流人の首領を殺し、其の資貨を取らんと欲し、乃ち檄を移して發遣す。又 梓潼太守の張演をして諸要に關を施けしめ、寶貨を搜索す。特ら固く請ひ、秋收に至らんことを求む。流人 梁益に布在し、人の傭力と為り、州郡 逼遣するを聞くに及び、人人 愁怨し、為す所を知らず。又 特の兄弟 頻りに請ひて停まることを求むると知り、皆 感じて之を恃む。且つ水雨 將に降らんとし、年穀 未だ登らず、流人 以て行資と為すもの無く、遂に相 與に特に詣る。特 乃ち大營を緜竹に結び、以て流人を處らしめ、冉に移して自寬せんことを求む。冉 大いに怒り、人を遣りて分ちて通逵に牓して、特が兄弟を購募し、許に重賞を以てす。特 見て、大いに懼れ、悉く取りて以て歸り、驤と與に其の購を改めて云はく、「能く六郡の豪たる李・任・閻・趙・楊・上官及び氐・叟侯の王を送るものは一首ごとに百匹を賞す」と。流人 既に移ることを樂しまず、咸 往きて特に歸し、馬を騁して鞬を屬け、聲を同じうして雲集し、旬月の間に眾 二萬を過ぐ。流 亦た眾數千を聚む。特乃ち分ちて二營と為し、特 北營に居り、流 東營に居る。

現代語訳

李特の兄弟は趙廞を怨んでおり、兵を率いて緜竹に帰った。趙廞は朝廷から討伐を受けることを恐れ、長史の費遠・犍為太守の李苾・督護の常俊を派遣して万餘人を取りまとめ北道を断絶させ、緜竹の石亭に駐屯した。李特はひそかに兵員を集めて七千餘人を得て、夜に費遠の軍を襲ったので、費遠は総崩れになり、火を放って(営所を)焼き、十人のうち八九人が死んだ。(李特は)進んで成都を攻めた。趙廞は兵の接近を聞き、驚き懼れて為す術がなかった。李苾・張徴らは夜に関守を斬って逃走し、文武の官は全員散った。趙廞は妻子だけを小舟に乗せて広都に来たが、下人の朱竺に殺された。李特は成都に到着し、兵に掠奪を好き勝手させ、西夷護軍の姜発を殺害し、趙廞の長史である袁洽及び趙廞の設置した(諸県の)守長を殺し、その牙門である王角・李基を洛陽に派遣して趙廞の罪状を報告した。
これより先、恵帝は梁州刺史の羅尚を平西将軍・領護西夷校尉・益州刺史とし、督牙門将の王敦・上庸都尉の義歆・蜀郡太守の徐倹・広漢太守の辛冉らとともに七千餘人を連れて蜀に入らせた。李特らは羅尚が来ると聞き、ひどく懼れ、弟の李驤に道で出迎えさせ、宝物を献上した。羅尚はとても悦び、李驤を騎督とした。李特及び弟の李流はさらに牛酒を献上して緜竹で羅尚をもてなした。王敦・辛冉は羅尚に、「李特らは流民であり、盗賊でしかありません、すぐに死刑にすべきです、面会の場で斬りなさい」と言った。羅尚は聴き入れなかった。辛冉は李特と旧知であり、李特に、「旧知が再会するとき、吉でなければ凶だろう」と言った。李特は(害意を悟り)深く猜疑して懼れた。
ほどなく書簡が秦州・雍州に下され、漢川に移入した流民は、本籍地に召還せよと命じた。李特の兄である李輔は郷里に留まっていたが、家族を迎えることを口実に、蜀にやって来て、李特に、「中原は乱れ、帰還しても生活できぬ」と言った。李特は同意し、巴蜀に割拠する意思を抱いた。朝廷は趙廞を討った功績により、李特に宣威将軍を拝して、長楽郷侯に封じ、李流を奮威将軍・武陽侯とした。璽書を益州に下し、六郡の流民を列挙して李特と協力して趙廞を討った者に、封賞を加えようとした。辛冉は序列を超えて徴され、また中央に召されたくなく、さらに趙廞を滅ぼした手柄を独占しようと考え、朝廷の命令を握りつぶし、実態を報告しなかった。みな(辛冉に)怨みを持った。羅尚は従事を派遣して流民に(秦州・雍州への)帰還を催促し、七月を締め切りに、出発させようとした。辛冉は貪欲で乱暴なので、流民の首領を殺し、彼らの財産を奪うべく、檄を回付して出発を促した。さらに梓潼太守の張演に要地に関所を作らせ、財貨を没収しようとした。李特らは(羅尚に)、秋の収穫まで待ってほしいと懇願した。流民は梁州や益州に散らばり、人に雇われていたが、州郡が出発を急かしていると知り、不安となり怨んだが、為す術がなかった。李特の兄弟が必死に延期交渉をしていると知り、みな感謝して頼りにした。大雨が降りそうで、収穫がまだなので、流民は携行できる食料がないため、連れだって李特のもとに来た。李特は大きな営所を緜竹に作り、流人を収容し、辛冉に要求緩和を求めた。辛冉は大いに怒り、大通りに掲示し、李特の兄弟に、莫大な懸賞金をかけた。李特はこれを見て、大いに懼れ、掲示を全て持ち帰り、李驤ともに募集内容を改変し、「六郡の豪族である李・任・閻・趙・楊・上官氏及び氐・叟侯の王の身柄を送るものは一人ごとに(絹織物)百匹を褒賞する」とした。流民は移住にうんざりし、李特のもとに集まり、馬を彼のもとに繋いで、声を掛けて一斉に集まり、旬月の間に二万人を超えた。李流も数千を集めた。李特は分けて二営を編成し、李特が北営に、李流が東営をつかさどった。

原文

特遣閻式詣羅尚、求申期。式既至、見冉營柵衝要、謀揜流人、歎曰、「無寇而城、讎必保焉。今而速之、亂將作矣。」又知冉及李苾意不可迴、乃辭尚還緜竹。尚謂式曰、「子且以吾意告諸流人、今聽寬矣。」式曰、「明公惑於姦說、恐無寬理。弱而不可輕者百姓也、今促之不以理、眾怒難犯、恐為禍不淺。」尚曰、「然。吾不欺子、子其行矣。」式至緜竹、言於特曰、「尚雖云爾、然未可必信也。何者。尚威刑不立、冉等各擁強兵、一旦為變、亦非尚所能制、深宜為備。」特納之。冉・苾相與謀曰、「羅侯貪而無斷、日復一日、流人得展姦計。李特兄弟並有雄才、吾屬將為豎子虜矣。宜為決計、不足復問之。」乃遣廣漢都尉曾元・牙門張顯・劉並等潛率步騎三萬襲特營。羅尚聞之、亦遣督護田佐助元。特素知之、乃繕甲厲兵、戒嚴以待之。元等至、特安臥不動、待其眾半入、發伏擊之、殺傷者甚眾、害田佐・曾元・張顯、傳首以示尚・冉。尚謂將佐曰、「此虜成去矣、而廣漢不用吾言、以張賊勢、今將若之何。」
於是六郡流人推特為主、特命六郡人部曲督李含・上邽令任臧・始昌令閻式・諫議大夫李攀・陳倉令李武・陰平令李遠・將兵都尉楊褒等上書、請依梁統奉竇融故事、推特行鎮北大將軍、承制封拜、其弟流行鎮東將軍、以相鎮統。於是進兵攻冉於廣漢。冉眾出戰、特每破之。尚遣李苾及費遠率眾救冉、憚特不敢進。冉智力既窘、出奔1.江陽。特入據廣漢、以李超為太守、進兵攻尚於成都。閻式遺尚書、責其信用讒構、欲討流人、又陳特兄弟立功王室、以寧益土。尚覽書、知特等將有大志、嬰城固守、求救於梁・寧二州。於是特自稱使持節・大都督・鎮北大將軍、承制封拜一依竇融在河西故事。兄輔為驃騎將軍、弟驤為驍騎將軍、長子始為武威將軍、次子蕩為鎮軍將軍、少子雄為前將軍、李含為西夷校尉、含子國離・任回・李恭・上官晶・李攀・費佗等為將帥、任臧・上官惇・楊褒・楊珪・王達・麴歆等為爪牙、李遠・李博・夕斌・嚴檉・上官琦・李濤・王懷等為僚屬、閻式為謀主、何巨・趙肅為腹心。時羅尚貪殘、為百姓患、而特與蜀人約法三章、施捨振貸、禮賢拔滯、軍政肅然。百姓為之謠曰、「李特尚可、羅尚殺我。」尚頻為特所敗、乃阻長圍、緣水作營、自都安至犍為七百里、與特相距。

1.「江陽」は、『華陽国志』及び『資治通鑑』巻八十四は「德陽」に作る。「德陽」が正しいと思われ、德陽県は廣漢郡に属し、李特は辛冉を廣漢郡で攻撃していたから、そばの城に逃げたと考えるのが整合的であろうという。

訓読

特 閻式を遣りて羅尚に詣らしめ、申期を求む。式 既に至り、冉の柵を衝要に營し、流人を揜せんと謀るを見て、歎じて曰く、「寇無くして城す、讎 必ず焉を保つ。今にして之を速やかにす、亂 將に作らんとす」と。又 冉及び李苾の意 迴す可からざるを知り、乃ち尚に辭して緜竹に還る。尚 式に謂ひて曰く、「子 且に吾が意を以て諸々の流人に告げ、今 寬を聽さん」と。式曰く、「明公 姦說に惑ひ、恐らく寬理無し。弱けれども輕んず可からざる者は百姓なり、今 之に促すに理を以てせざれば、眾 怒りて犯し難し、恐らくは禍と為ること淺からず」と。尚曰く、「然り。吾 子を欺かず、子 其れ行け」と。式 緜竹に至り、特に言ひて曰く、「尚 爾りと云ふと雖も、然れども未だ必ず信ず可からざるなり。何者ぞや。尚の威刑 立たず、冉ら各々強兵を擁し、一旦に變を為さば、亦た尚の能く制する所に非ず、深く宜しく備へを為すべし」と。特 之を納る。冉・苾 相 與に謀りて曰く、「羅侯 貪りて斷無く、日に復た一日、流人 姦計を展すを得。李特の兄弟 並びに雄才有り、吾が屬將 豎子の虜と為らん。宜しく為に計を決すべし、復た之を問ふに足らず」と。乃ち廣漢都尉の曾元・牙門の張顯・劉並らを遣はして潛かに步騎三萬を率ゐて特の營を襲ふ。羅尚 之を聞き、亦た督護の田佐を遣はして(曾)元を助けしむ。特 素より之を知れば、乃ち甲を繕ひ兵を厲まし、戒嚴して以て之を待つ。元ら至り、特 安臥して動ぜず、其の眾 半ば入るを待ち、伏を發して之を擊ち、殺傷すること甚だ眾く、田佐・曾元・張顯を害し、首を傳へて以て(羅)尚・(辛)冉に示す。尚 將佐に謂ひて曰く、「此れ虜 去ることを成さん、而れども廣漢 吾が言を用ゐず、以て賊勢を張り、今 將に之を若何せん」と。
是に於て六郡の流人 特を推して主と為し、特 六郡の人に命じて部曲督の李含・上邽令の任臧・始昌令の閻式・諫議大夫の李攀・陳倉令の李武・陰平令の李遠・將兵都尉の楊褒ら上書し、請ひて梁統 竇融を奉ずるの故事に依り、特を行鎮北大將軍に推し、承制封拜し、其の弟の流を行鎮東將軍とし、以て相 鎮統す。是に於て兵を進めて冉を廣漢に攻む。冉の眾 出でて戰ひ、特 每に之を破る。尚 李苾及び費遠を遣はして眾を率ゐて冉を救ひ、特を憚りて敢て進まず。冉の智力 既に窘し、出でて江陽に奔る。特 入りて廣漢に據り、李超を以て太守と為し、兵を進めて尚を成都に攻む。閻式 尚に書を遺り、其の信用 讒構し、流人を討たんと欲するを責め、又 特の兄弟 功を王室に立て、以て益土を寧んずるを陳ぶ。尚 書を覽じ、特ら將に大志有るを知り、城を嬰して固守し、救を梁・寧二州に求む。是に於て特 自ら使持節・大都督・鎮北大將軍を稱し、承制封拜 一に竇融 河西に在るの故事に依る。兄の輔を驃騎將軍と為し、弟の驤を驍騎將軍と為し、長子の始を武威將軍と為し、次子の蕩を鎮軍將軍と為し、少子の雄を前將軍と為し、李含を西夷校尉と為し、含の子たる國離・任回・李恭・上官晶・李攀・費佗らを將帥と為し、任臧・上官惇・楊褒・楊珪・王達・麴歆らを爪牙と為し、李遠・李博・夕斌・嚴檉・上官琦・李濤・王懷らを僚屬と為し、閻式を謀主と為し、何巨・趙肅を腹心と為す。時に羅尚 殘を貪り、百姓の患ひと為り、而れども特 蜀人と與に法三章を約し、施捨 振貸し、禮賢 拔滯し、軍政 肅然たり。百姓 之の為に謠して曰く、「李特 尚ほ可し、羅尚 我を殺す」と。尚 頻りに特の為に敗られ、乃ち長圍を阻み、水に緣りて營を作り、都安より犍為に至るまで七百里、特と相 距す。

現代語訳

李特は閻式を羅尚のもとに派遣し、延期を申請した。閻式が到着すると、辛冉の柵を要衝に構え、流民を襲撃しようとしているのを見て、「戦闘が起こる前から築城し、敵軍はここを防衛するつもりだ。早くも準備しているのだから、戦闘になるのは必至だ」と歎じた。また辛冉及び李苾には(送還の問題で)妥協の余地がないと知り、羅尚に断って緜竹に還った。羅尚は閻式に、「あなたが私の考えを流民に告げてくれたら、寛大に(延期を)許そう」と言った。閻式は「あなたは姦悪な意見に惑わされ、恐らく寛大な措置をなさるまい。弱いが軽んじてはならぬのが民草です、いま不当に急がせれば、民草は怒って制御できなくなり、きっとひどい禍いとなります」と言った。尚曰く、「そうだ。私はあなたを欺かない、(わがために流民の説得に)行け」と言った。閻式は緜竹に至り、李特に、「羅尚はこう言っていますが、信頼できません。なぜか。羅尚の威刑は振るわず、辛冉らが強兵を擁し、ひとたび暴発すれば、羅尚の命令を聞かぬからです、用心しなさい」と言った。李特は同意した。辛冉・李苾は、「羅侯は欲張りだが決断力がなく、日ごとに、流民の思い通りとなっている。李特の兄弟は雄才があるから、わが属将がやつらの捕虜となりかねん。計略を決行するのだ、迷っている暇はない」と言った。そこで広漢都尉の曾元・牙門の張顕・劉並らを送って秘かに歩騎三万を率いて李特の営所を襲った。羅尚はこれを聞き、督護の田佐を送って曾元を助けさせた。李特はとっくに見抜いていたので、武具を修理して兵士を激励し、厳戒態勢で待ち受けた。曾元らが至っても、李特は寝そべって動揺せず、軍勢の半分が入るのを待ち、伏兵を発してこれを攻撃し、多くを殺傷し、田佐・曾元・張顕を害し、首を羅尚・辛冉に送り返した。羅尚は補佐官に、「虜(流民)は去るはずだったのに、広漢(太守の辛冉)が私の言うことを聞かず、賊の勢力を拡大させてしまった、さてどうしよう」と言った。
こうして六郡の流人は李特を主に推戴し、李特は六郡の人に命令して部曲督の李含・上邽令の任臧・始昌令の閻式・諫議大夫の李攀・陳倉令の李武・陰平令の李遠・将兵都尉の楊褒らは上書し、梁統が竇融を奉戴した故事に基づき、李特を行鎮北大将軍に推し、承制封拝(官爵の発行権を行使)し、その弟の李流を行鎮東将軍とし、ともに統率をさせた。進軍して辛冉を広漢で攻めた。辛冉は出撃して戦うたび、李特に敗れた。羅尚は李苾及び費遠を派遣して辛冉の援軍としたが、李特をはばかって進まなかった。辛冉は智力を枯らし、江陽(徳陽)に出奔した。李特は広漢城に入り、李超を太守とし、進軍して成都で羅尚を攻めた。閻式は羅尚に文書を送り、信用を踏みにじり、流民を討伐したことを追及し、さらに李特の兄弟は西晋王朝のために功績があり、益州を安寧にできると述べた。羅尚はこれを読み、李特に大志が有ったことを知り、城を閉ざして固守し、梁州・寧州に救援を求めた。李特は自ら使持節・大都督・鎮北大将軍を称し、承制封拝はもっぱら竇融が河西に割拠したときの故事に基づいた。兄の李輔を驃騎将軍とし、弟の李驤を驍騎将軍とし、長子の李始を武威将軍とし、次子の李蕩を鎮軍将軍とし、少子の李雄を前将軍とし、李含を西夷校尉とし、李含の子である李国離と任回・李恭・上官晶・李攀・費佗らを将帥とし、任臧・上官惇・楊褒・楊珪・王達・麴歆らを爪牙とし、李遠・李博・夕斌・厳檉・上官琦・李濤・王懐らを僚属とし、閻式を謀主とし、何巨・趙粛を腹心とした。このとき羅尚は残虐であり、百姓を苦しめ、他方で李特は蜀人と法三章だけを約束し、積極的に振給し、賢者を礼義をもって招き、軍政は粛然としていた。百姓は彼のために歌謡を作り、「李特の方がまだましだ、羅尚には殺される」と謳った。羅尚はたびたび李特に敗北したが、長い防衛陣を作り、川に沿って軍営を築き、都安から犍為まで七百里にわたり、李特と対峙した。

原文

河間王顒遣督護衙博・廣漢太守1.張徵討特、南夷校尉李毅又遣兵五千助尚、尚遣督護張龜軍繁城、三道攻特。特命蕩・雄襲博。特躬擊張龜、龜眾大敗。蕩又與博接戰連日、博亦敗績、死者太半。蕩追博至漢德、博走葭萌。蕩進寇巴西、巴西郡丞毛植・五官襄珍以郡降蕩。蕩撫恤初附、百姓安之。蕩進攻葭萌、博又遠遁、其眾盡降於蕩。
2.太安元年、特自稱益州牧・都督梁益二州諸軍事・大將軍・大都督、改年建初、赦其境內。於是進攻張徵。徵依高據險、與特相持連日。時特與蕩分為二營、徵候特營空虛、遣步兵循山攻之、特逆戰不利、山險窘逼、眾不知所為。羅準・任道皆勸引退、特量蕩必來、故不許。徵眾至稍多、山道至狹、唯可一二人行、蕩軍不得前、謂其司馬3.王辛曰、「父在深寇之中、是我死日也。」乃衣重鎧、持長矛、大呼直前、推鋒必死、殺十餘人。徵眾來相救、蕩軍皆殊死戰、徵軍遂潰。特議欲釋徵還涪、蕩與王辛進曰、「徵軍連戰、士卒傷殘、智勇俱竭、宜因其弊遂擒之。若舍而寬之、徵養病收亡、餘眾更合、圖之未易也。」特從之、復進攻徵、徵潰圍走。蕩水陸追之、遂害徵、生擒徵子存、以徵喪還之。以騫碩為德陽太守、碩略地至巴郡之墊江。

1.『晋書斠注』によると、「張徵」は「張微」に作るべきである。
2.『資治通鑑考異』によると、この文の出来事は太安二年とすべきである。
3.『資治通鑑』巻八十四は「王幸」に作る。

訓読

河間王顒 督護の衙博・廣漢太守の張徵を遣はして特を討ち、南夷校尉の李毅も又 兵五千を遣はして尚を助け、尚 督護の張龜を遣はして繁城に軍し、三道より特を攻む。特 蕩・雄に命じて(衙)博を襲はしむ。特 躬ら張龜を擊ち、龜の眾 大いに敗る。蕩 又 博と接戰すること連日、博も亦た敗績し、死者 太半なり。蕩 博を追ひて漢德に至り、博 葭萌に走る。蕩 進みて巴西を寇し、巴西郡丞の毛植・五官の襄珍 郡を以て蕩に降る。蕩 初めて附くものを撫恤し、百姓 之を安とす。蕩 進みて葭萌を攻め、博 又 遠く遁し、其の眾 盡く蕩に降る。
太安元年、特 自ら益州牧・都督梁益二州諸軍事・大將軍・大都督を稱し、年を建初と改め、其の境內を赦す。是に於て進みて張徵を攻む。徵 高に依り險に據り、特と相 持すること連日なり。時に特 蕩と分ちて二營と為り、徵 特の營 空虛なるを候ち、步兵を遣はして山に循ひて之を攻め、特 逆戰するとも利あらず、山險 窘逼し、眾 為す所を知らず。羅準・任道 皆 引退するを勸め、特 蕩の必ず來ることを量り、故に許さず。徵の眾 至るもの稍く多く、山道 至狹たり、唯だ一二人可り行き、蕩の軍 前むを得ず、其の司馬の王辛に謂ひて曰く、「父 深寇の中に在り、是れ我が死するの日なり」と。乃ち重鎧を衣し、長矛を持し、大呼して直ちに前み、鋒を推して死を必し、十餘人を殺す。徵の眾 來りて相 救ひ、蕩の軍 皆 殊に死戰し、徵の軍 遂に潰す。特 徵を釋きて涪に還らんと欲するを議するに、蕩 王辛と進みて曰く、「徵の軍 連戰し、士卒 傷殘す、智勇 俱に竭き、宜しく其の弊に因りて遂に之を擒ふべし。若し舍てて之を寬さば、徵 病を養ひて亡を收め、餘眾 更めて合し、之を圖るに未だ易からざるなり」と。特 之に從ひ、復た進みて徵を攻め、徵 圍を潰して走る。蕩 水陸に之を追ひ、遂に徵を害し、生きながらに徵が子の存を擒り、徵の喪を以て之に還す。騫碩を以て德陽太守と為し、碩 略地して巴郡の墊江を至る。

現代語訳

河間王顒(司馬顒)は督護である衙博・広漢太守の張徴(張微)を派遣して李特を討伐し、南夷校尉の李毅も兵五千を送って羅尚を助け、羅尚は督護の張亀を派遣して繁城に進軍させて、三道から李特を攻めた。李特は李蕩・李雄に命じて衙博を襲わせた。李特は自ら張亀を撃ち、張亀の軍勢は大敗した。李蕩もまた衙博と連日にわたり戦闘し、衙博は敗北し、大半が死んだ。李蕩は衙博を追って漢徳に至り、衙博は葭萌に逃げた。李蕩は進軍して巴西に侵入し、巴西郡丞の毛植・五官の襄珍は郡をあげて李蕩に降服した。李蕩は帰付したばかりの者を大切に扱ったので、百姓は安堵した。李蕩は進んで葭萌を攻め、衙博はさらに遠くに逃げ、彼の軍勢は全て李蕩に降った。
太安元(三〇二)年(正しくは太安二(三〇三)年)、李特は自ら益州牧・都督梁益二州諸軍事・大将軍・大都督を称し、年号を建初と改め、領内で赦をおこなった。進軍して張徴(張微)を攻めた。張徵は高所や険しい地形を利用し、李特と連日対峙した。このとき李特は李蕩と分かれて二営を作っていたが、張徴は李特の軍営が手薄になるのを待ち、歩兵に山を巡らせて攻めたので、李特は迎え討ったが勝てず、山地の険しさが迫り、軍勢は身動きが取れなかった。羅準・任道はみな撤退を勧めたが、李特は李蕩がきっと来てくれると期待し、撤退を拒んだ。張徴の軍勢が続々と駆けつけたが、山道は極めて狭く、一人か二人しか通行できず、李蕩の軍勢は前進できず、(李蕩は)その司馬の王辛(王幸)に、「父(李特)は敵軍の奥深くにいる、今日が私の命日である」と言った。重鎧を身に着け、長矛を持ち、叫んで直進し、鋒を押しのけて決死の戦いを挑み、十餘人を殺した。張徴の軍勢が集まって助けあったが、李蕩の軍が死戦したので、張徴の軍はとうとう潰走した。李特は張徴を見逃して涪に帰還しようと考えたが、李蕩は王辛とともに、「張徴軍は連戦し、士卒は傷ついて疲弊し、智勇は尽きています、その疲れたところを生け捕りになさい。もし見逃して解き放てば、疲れを回復して逃げた兵を収容し、残存兵力を合わせて、手強くなるでしょう」と進言した。李特は同意し、さらに進んで張徴を攻め、張徴は囲みを突破して逃げた。李蕩は水路と陸路から追い、ついに張徴を殺害し、張徴の子の張存を生け捕りにし、張徴の死体を返還した。騫碩を徳陽太守とし、騫碩は地域を平定して巴郡の墊江を至った。

原文

特之攻張徵也、使李驤與李攀・任回・李恭屯軍毗橋、以備羅尚。尚遣軍挑戰、驤等破之。尚又遣數千人出戰、驤又陷破之、大獲器甲、攻燒其門。流進次成都之北。尚遣將張興偽降於驤、以觀虛實。時驤軍不過二千人、興夜歸白尚、尚遣精勇萬人銜枚隨興夜襲驤營。李攀逆戰死、驤及將士奔于流柵、與流并力迴攻尚軍。尚軍亂、敗還者十一二。晉梁州刺史許雄遣軍攻特、特陷破之、進擊、破尚水上軍、遂寇成都。蜀郡太守徐儉以小城降、特以1.李瑾為蜀郡太守以撫之。羅尚據大城自守。流進屯江西、尚懼、遣使求和。
是時蜀人危懼、並結邨堡、請命于特、特遣人安撫之。益州從事2.任明說尚曰、「特既凶逆、侵暴百姓、又分人散眾、在諸邨堡、驕怠無備、是天亡之也。可告諸邨、密剋期日、內外擊之、破之必矣。」尚從之。明先偽降特、特問城中虛實、明曰、「米穀已欲盡、但有貨帛耳。」因求省家、特許之。明潛說諸邨、諸邨悉聽命。還報尚、尚許如期出軍、諸邨亦許一時赴會。
二年、惠帝遣荊州刺史宋岱・建平太守孫阜救尚。阜已次德陽、特遣蕩督李璜助任臧距阜。尚遣大眾奄襲特營、連戰二日、眾少不敵、特軍大敗、收合餘卒、引趣新繁。尚軍引還、特復追之、轉戰三十餘里。尚出大軍逆戰、特軍敗績、斬特及李輔・李遠、皆焚尸、傳首洛陽。在位二年。其子雄僭稱王、追諡特景王、及僭號、追尊曰景皇帝、廟號始祖。

1.「李瑾」は『資治通鑑』巻八十五は「李璜」に作り、下文及び李雄載記でも「李璜」に作るため、「李璜」に作るべきである。
2.「任明」は、『資治通鑑』巻八十五は「任叡」に作る。『資治通鑑考異』によると、羅尚伝は「任銳」に作るが、『華陽国志』に従い「任叡」に作ったという。

訓読

特の張徵を攻むるや、李驤をして李攀・任回・李恭と與に軍を毗橋に屯し、以て羅尚に備へしむ。尚 軍を遣りて挑戰し、驤ら之を破る。尚 又 數千人を遣はして出でて戰ひ、驤 又 陷して之を破り、大いに器甲を獲、攻めて其の門を燒く。流 進みて成都の北に次る。尚 將の張興を遣はして偽りて驤に降り、以て虛實を觀しむ。時に驤の軍 二千人を過ぎず、(張)興 夜 歸りて尚に白し、尚 精勇萬人を遣はして枚を銜みて興に隨ひて驤の營を夜襲す。李攀 逆戰して死し、驤及び將士 流の柵に奔り、流と與に力を并せて迴りて尚の軍を攻む。尚の軍 亂れ、敗れて還る者は十に一二なり。晉の梁州刺史の許雄 軍を遣はして特を攻め、特 之を陷破し、進擊し、尚の水上の軍を破り、遂に成都を寇す。蜀郡太守の徐儉 小城を以て降り、特 李瑾を以て蜀郡太守と為して以て之を撫せしむ。羅尚 大城に據りて自守す。流 進みて江西に屯し、尚 懼れ、使を遣はして和を求む。
是の時 蜀人 危懼し、並びに邨堡を結び、命を特に請ひ、特 人を遣はして之を安撫せしむ。益州從事の任明 尚に說きて曰く、「特 既に凶逆なり、百姓を侵暴し、又 人を分けて眾を散じ、諸々の邨堡に在り、驕怠にして備へ無く、是れ天の之を亡すなり。諸邨に告ぐ可し、密かに期日を剋り、內外に之を擊たば、之を破ること必なり」と。尚 之に從ふ。(任)明 先に偽りて特に降り、特 城中の虛實を問ふに、明曰く、「米穀 已に盡きんと欲し、但だ貨帛有るのみ」と。因りて家に省ることを求め、特 之を許す。明 潛かに諸邨に說き、諸邨 悉く命を聽く。還りて尚に報じ、尚 期の如く軍を出すことを許し、諸邨も亦た一時に赴會することを許す。
二年、惠帝 荊州刺史の宋岱・建平太守の孫阜を遣はして尚を救はしむ。阜 已に德陽に次り、特 蕩の督の李璜を遣はして任臧を助けて(孫)阜を距がしむ〔一〕。尚 大眾を遣はして奄かに特の營を襲ひ、連戰すること二日、眾 少なくして敵はず、特の軍 大敗し、餘卒を收合し、引きて新繁に趣く。尚の軍 引き還し、特 復た之を追ひ、轉戰すること三十餘里なり。尚 大軍を出して逆戰し、特の軍 敗績し、特及び李輔・李遠を斬り、皆 尸を焚き、首を洛陽に傳ふ。在位二年。其の子たる雄 王を僭稱するに、特に景王と追諡し、僭號するに及び、追尊して景皇帝と曰ひ、廟は始祖と號す。

〔一〕『解體晉書』は、督の李璜・助の任臧とし、「助」を肩書きとしている。中華書局本が、並列にしていないため、「助」を動詞で解釈した。

現代語訳

張特は張徴を攻めると、李驤に李攀・任回・李恭とともに毗橋で軍を駐屯させ、羅尚に備えた。羅尚は軍を送って戦いを挑んだが、李驤らがこれを破った。羅尚が数千人を投入して戦うと、李驤はまたこれを撃破し、大いに武器や防具を獲得し、その軍門を焼いた。李流は進軍して成都城の北に駐屯した。羅尚は(配下の)将の張興に偽って李驤に降服させ、虚実を探らせた。このとき李驤の軍は二千人に満たなかったので、張興は夜に抜け出して羅尚に報告し、羅尚は精鋭一万人に枚を噛ませて張興を案内役として李驤の軍営を夜襲した。李攀は迎撃したが戦死し、李驤及び将士は李流の陣地に逃げ込んで、李流は力を合わせて回り込んで羅尚の軍を攻めた。羅尚の軍は乱れ、十人に一人二人しか帰らなかった。西晋の梁州刺史の許雄が軍を送って李特を攻めたが、李特はこれを破って、進撃し、羅尚の水軍を破り、とうとう成都に攻撃を仕掛けた。蜀郡太守の徐倹は小城ごと降服し、李特は李瑾(李璜)を蜀郡太守としてこの城を鎮撫させた。羅尚は(成都の)大城に籠もった。李流は進んで江西に駐屯し、羅尚は懼れ、請和の使者を寄越した。
このとき蜀人は危機にあって懼れ、邨堡(塢壁)を作って、李特に命乞いしたので、李特は人を送って安堵した。益州従事の任明(任睿、任鋭)は羅尚に、「李特は凶悪であり、百姓を侵害しましたが、配下を分散させ、邨堡に置いており、油断して防備が緩んでおりますから、天が与えた好機です。諸々の邨堡に告げて、ひそかに期日を決め、内外から攻撃すれば、きっと李特を撃破できます」と言った。羅尚は従った。任明は先に偽って李特に降服し、李特が(成都)城中の実態を質問すると、任明は、「米穀を食い尽くしそうで、貨幣や布帛しか残っていない」と言った。帰宅することを求め、李特に許可された。任明はひそかに諸々の邨堡を説得し、賛同を得た。還って羅尚に報告すると、羅尚も期日に軍を出すことを許し、諸邨もまた同時に集まることを約束した。
太安二(三〇三)年、恵帝は荊州刺史の宋岱・建平太守の孫阜を派遣して羅尚を救わせた。孫阜が徳陽に駐屯すると、李特は李蕩の督である李璜を派遣して任臧を助けて孫阜を拒がせた。羅尚は大軍を送って李特の軍営を急襲し、二日にわたり連戦し、(李特は)軍勢が少ないので敵わず、李特の軍が大敗したので、残兵を集め、退いて新繁に行った。羅尚が軍を引き返すと、李特が追撃し、三十餘里にわたり転戦した。羅尚が大軍を出して迎撃すると、李特の軍が敗北し、(羅尚は)李特及び李輔・李遠を斬り、彼らの死体を焼き、首を洛陽に届けた。在位すること二年。その子であり李雄が王を僭称すると、李特に景王と追諡し、皇帝を僭称すると、追尊して景皇帝といい、廟は始祖と号した。

李流 李庠

原文

李流字玄通、特第四弟也。少好學、便弓馬、東羌校尉何攀稱流有賁育之勇、舉為東羌督。及避地益州、刺史趙廞器異之。廞之使庠合部眾也、流亦招鄉里子弟得數千人。庠為廞所殺、流從特安慰流人、破常俊於緜竹、平趙廞於成都。朝廷論功、拜奮威將軍、封武陽侯。
特之承制也、以流為鎮東將軍、居東營、號為東督護。特常使流督銳眾、與羅尚相持。特之陷成都小城、使六郡流人分口入城、壯勇督領邨堡。流言於特曰、「殿下神武、已克小城、然山藪未集、糧仗不多、宜錄州郡大姓子弟以為質任、送付廣漢、縶之二營、收集猛銳、嚴為防衞。」又書與特司馬上官惇、深陳納降若待敵之義。特不納。特既死、蜀人多叛、流人大懼。流與兄子蕩・雄收遺眾、還赤祖、流保東營、蕩・雄保北營。流自稱大將軍・大都督・益州牧。
時宋岱水軍三萬、次于墊江、前鋒孫阜破德陽、獲特所置守將騫碩、太守任臧等退屯涪陵縣。羅尚遣督護常深軍毗橋、牙門左氾・黃訇・何沖三道攻北營。流身率蕩・雄攻深柵、克之、深士眾星散。追至成都、尚閉門自守、蕩馳馬追擊、𧢻倚矛被傷死。流以特・蕩並死、而岱・阜又至、甚懼。太守李含又勸流降、流將從之。雄與李驤迭諫、不納、流遣子世及含子胡質於阜軍。胡兄含子離聞父欲降、自梓潼馳還、欲諫不及、退與雄謀襲阜軍、曰、「若功成事濟、約與君三年迭為主。」雄曰、「今計可定、二翁不從、將若之何。」離曰、「今當制之、若不可制、便行大事。翁雖是君叔、勢不得已、老父在君、夫復何言。」雄大喜、乃攻尚軍。尚保大城。雄渡江害汶山太守陳圖、遂入郫城、流移營據之。三蜀百姓並保險結塢、城邑皆空、流野無所略、士眾飢困。涪陵人范長生率千餘家依青城山、尚參軍涪陵徐轝求為汶山太守、欲要結長生等、與尚掎角討流。尚不許、轝怨之、求使江西、遂降於流、說長生等使資給流軍糧。長生從之、故流軍復振。
流素重雄有長者之德、每云、「興吾家者、必此人也。」敕諸子尊奉之。流疾篤、謂諸將曰、「驍騎高明仁愛、識斷多奇、固足以濟大事、然前軍英武、殆天所相、可共受事於前軍、以為成都王」。遂死、時年五十六。諸將共立雄為主。雄僭號、追諡流秦文王。

訓読

李流 字は玄通、特の第四弟なり。少くして學を好み、弓馬に便(なら)ひ、東羌校尉の何攀 流を賁育の勇有りと稱し、舉げて東羌督と為す。地を益州に避くるに及び、刺史の趙廞 之を器異とす。廞の庠をして部眾を合はせしむるや、流も亦た鄉里の子弟を招きて數千人を得たり。庠 廞の為に殺され、流 特に從ひて流人を安慰し、常俊を緜竹に破り、趙廞を成都に平らぐ。朝廷 功を論じ、奮威將軍を拜し、武陽侯を封す。
特の承制するや、流を以て鎮東將軍と為し、東營に居らしむ、號して東督護と為す。特 常に流をして銳眾を督せしめ、羅尚と相 持す。特の成都小城を陷するや、六郡の流人をして口を分ちて入城せしめ、壯勇なるものは邨堡を督領す。流 特に言ひて曰く、「殿下 神武にして、已に小城に克ち、然るに山藪 未だ集はず、糧仗 多からず、宜しく州郡の大姓の子弟を錄して以て質任と為し、廣漢に送付し、之を二營に縶し、猛銳を收集し、嚴に防衞と為すべし」と。又 書を特の司馬たる上官惇に與へ、深く降るものを納るることは敵を待つが若きの義なりと陳ぶ。特 納れず。特 既に死し、蜀人 多く叛し、流人 大いに懼る。流 兄が子の蕩・雄と與に遺眾を收め、赤祖に還り、流 東營を保ち、蕩・雄 北營を保つ。流 自ら大將軍・大都督・益州牧を稱す。
時に宋岱の水軍三萬、墊江に次り、前鋒の孫阜 德陽を破り、特の置く所の守將騫碩を獲、太守の任臧ら退きて涪陵縣に屯す。羅尚 督護の常深を遣はして毗橋に軍し、牙門の左氾・黃訇・何沖 三道より北營を攻む。流 身ら蕩・雄を率ゐて深柵を攻め、之に克ち、(常)深の士眾 星散す。追ひて成都に至り、尚 閉門し自守し、(李)蕩 馬を馳せて追擊し、倚てかけたる矛に𧢻りて傷を被りて死す。流 特・蕩の並びに死するを以て、而るに(宋)岱・(孫)阜 又 至り、甚だ懼る。太守の李含 又 流に降ることを勸め、流 將に之に從はんとす。雄 李驤と與に迭に諫むれども、納れず、流 子の世及び含の子胡を遣はして(孫)阜の軍に質とす。(李)胡の兄たる含が子たる離 父の降らん欲するを聞き、梓潼より馳せ還り、諫めんと欲すれども及ばず、退きて雄と與に阜の軍を襲はんと謀り、曰く、「若し功 成れば事は濟はん、君と約して三年にして迭に主と為らん」と。雄曰く、「今 計 定む可し、二翁 從はざれば、將に之を若何せん」と。(李)離曰く、「今 當に之を制すべし、若し制す可からざれば、便ち大事を行ふ。翁 是れ君の叔と雖も、勢は已むを得ず、老父 君に在らば、夫れ復た何をか言はん」と。雄 大いに喜び、乃ち(羅)尚の軍を攻む。尚 大城に保す。雄 江を渡りて汶山太守の陳圖を害し、遂に郫城に入る、流 營を移して之に據る。三蜀の百姓 並びに險を保ち塢を結び、城邑 皆 空しく、流 野に略する所無く、士眾 飢困す。涪陵の人たる范長生 千餘家を率ゐて青城山に依り、尚の參軍たる涪陵の徐轝 汶山太守と為ることを求め、要して長生らと結びて、尚と掎角として流を討たんと欲す。尚 許さず、轝 之を怨み、江西に使することを求め、遂に流に降り、長生らをして流の軍糧を資給せしむることを說く。長生 之に從ひ、故に流の軍 復た振ふ。
流 素より雄の長者の德有るを重んじ、每に云はく、「吾が家を興す者は、必ず此の人なり」と。諸の子に敕して之を尊奉せしむ。流 疾 篤く、諸將に謂ひて曰く、「驍騎 高明にして仁愛なり、斷を識り奇多し、固に以て大事を濟すに足る、然れども前軍の英武、殆ど天の相する所、共に事を前軍に受け、以て成都王と為す可し」と。遂に死し、時に年五十六なり。諸將 共に雄を立てて主と為す。雄 僭號し、追ひて流に秦文王と諡す。

現代語訳

李流は字を玄通といい、李特の第四弟である。若くして学問を好み、弓馬に習熟したので、東羌校尉の何攀は賁育(孟賁・夏育)のような勇力があると称え、挙げて東羌督とした。益州に避難すると、刺史の趙廞にも器量を評価された。趙廞が李庠に軍勢を任せると、李流もまた郷里の子弟を招いて数千人を集めた。李庠が趙廞に殺されると、李流は李特に従って流民を慰撫し、常俊を緜竹で撃破し、趙廞を成都で平定した。(西晋の)朝廷は功績を論じ、奮威将軍を拝し、武陽侯に封じた。
李特が承制すると、李流を鎮東将軍とし、東営を任せた。東督護と号した。李特はいつも李流に精鋭を統率させ、羅尚と対峙した。李特が成都小城を陥落させると、六郡の流民を分けて入城させ、壮勇なものには防塁を守らせた。李流は李特に、「殿下の神武により、すでに小城を得ましたが、山や藪には不服従勢力がおり、糧食や軍資が多くありません、州郡の豪族の子弟を集めて質任とし、広漢に送り、豪族らを二営に居らせ、勇猛な精鋭を集め、防衛を固めましょう」と言った。さらに李特の司馬である上官惇に文書を送って、降伏者を入れることは敵を抱えることと同じだと説いた。李特は聞き入れなかった。李特が死ぬと、(李流の意見を聞かなかったばかりに)蜀人は多くが敵対し、流民は大いに懼れた。李流は兄の子である李蕩・李雄とともに残兵を集め、赤祖に還り、李流が東営を保ち、李蕩・李雄が北営を保った。李流は自ら大将軍・大都督・益州牧を称した。
このとき(西晋軍の)宋岱の水軍三万が墊江に停泊し、前鋒の孫阜が徳陽を破って、李特が設置した守将の騫碩を捕らえ、太守の任臧らが退いて涪陵県に駐屯した。羅尚は督護の常深を派遣して毗橋に布陣させ、牙門の左氾・黄訇・何沖が三道から北営(李蕩・李雄)を攻めた。李流は自ら李蕩・李雄を率いて敵陣深くの柵を突破したので、常深の軍勢は星のように散った。追って成都に至ったが、羅尚は城門を閉じて守り、李蕩は馬を駆って追撃したが、立ててある戈に接触し負傷して死んだ。李流は(親族の)李特と李蕩が死んでしまい、しかも(西晋の)宋岱・孫阜が到着したので、ひどく懼れた。太守の李含もまた李流に(羅尚への)降服を勧め、李流はそれに従おうとした。李雄は李驤と代わる代わる諫めたが、聴き入れられず、李流は子の李世及び李含の子である李胡を送って孫阜の軍に人質を出そうとした。李胡の兄である李含の子である李離は父が降服しそうだと聞き、梓潼から馳せ還り、諫めたが説得できず、退いて李雄とともに孫阜の軍を襲う計画を立て、「もし作戦が成れば事態を打開できる、君と三年ずつ交替して主君になろう」と約束した。李雄は、「計画は成就できようが、もし二翁(李流・李含)が従わないときは、どうするか」と言った。李離は、「押し切るしかない、押し切れずとも、大事を決行する。翁はきみの叔父だが、形勢はどうしようもなく、老父がきみにいても言えることはない」と言った。李雄は大いに喜び、羅尚の軍を攻撃した。羅尚は(成都の)大城で防衛した。李雄は江水を渡って汶山太守の陳図を殺害し、かくて郫城に入り、李流は軍営をそこに移した。三蜀の百姓はみな険しい地形で防衛拠点を作り、城邑は人がおらず、李流は平野で掠奪できるものがなく、味方の軍勢は飢えた。涪陵の人である范長生は千餘家を率いて青城山に依っていたが、羅尚の參軍である涪陵の徐轝が(自分が)汶山太守となり、長生らと連携して、羅尚と掎角を形成して李流を討ちたいと提案した。羅尚が許さなかったので、徐轝はこれを怨み、江西への使者を志願し、その足で李流に降服し、范長生から李流に軍糧を支援するように説いた。范長生が賛同し、李流の軍は息を吹き返した。
李流は普段から李雄に長者の徳があると考え、いつも、「わが家を興す者は、必ずこの男である」と言っていた。子供たちには李雄を頂かせた。李流の病が重くなると、諸将に、「驍騎(李驤)は徳が明らかで仁愛があり、決断力が傑出しており、大いなる事業を達成できるが、前軍(李雄)のの英雄性は、ほぼ天賦のものだから、ともに前軍の命令を聞き、彼を成都王とせよ」と言った。死去し、五十六歳であった。諸将は李雄を推戴した。李雄が皇帝号を名乗ると、李流に秦文王を追謚した。

原文

李庠字玄序、特第三弟也。少以烈氣聞。仕郡督郵・主簿、皆有當官之稱。元康四年、察孝廉、不就。後以善騎射、舉良將、亦不就。州以庠才兼文武、舉秀異、固以疾辭。州郡不聽、以其名上聞、中護軍切徵、不得已而應之、拜中軍騎督。弓馬便捷、膂力過人、時論方之文鴦。
以洛陽方亂、稱疾去官。性在任俠、好濟人之難、州黨爭附之。與六郡流人避難梁益、道路有飢病者、庠常營護隱恤、振施窮乏、大收眾心。至蜀、趙廞深器之、與論兵法、無不稱善、每謂所親曰、「李玄序蓋亦一時之關張也。」及將有異志、委以心膂之任、乃表庠為部曲督、使招合六郡壯勇、至萬餘人。以討叛羌功、表庠為威寇將軍、假赤幢曲蓋、封陽泉亭侯、賜錢百萬、馬五十匹。被誅之日、六郡士庶莫不流涕、時年五十五。

訓読

李庠 字は玄序、特の第三弟なり。少くして烈氣を以て聞こゆ。郡の督郵・主簿に仕へ、皆 當官の稱有り。元康四年、孝廉に察せられ、就かず。後に騎射を善くするを以て、良將に舉げられ、亦た就かず。州 庠の才は文武を兼ぬるを以て、秀異に舉ぐるも、固く疾を以て辭す。州郡 聽かず、其の名を以て上聞し、中護軍 切りに徵し、已むを得ずして之に應じ、中軍騎督を拜す。弓馬 便ち捷し、膂力 人に過ぎ、時論 之を文鴦に方ぶ。
洛陽 方に亂るるを以て、疾を稱して官を去る。性は任俠に在り、人の難を濟ふことを好み、州黨 爭ひて之に附す。六郡の流人と與に難を梁益に避け、道路に飢病する者有れば、庠 常に隱恤を營護し、窮乏に振施し、大いに眾心を收む。蜀に至り、趙廞 深く之を器とし、與に兵法を論じ、稱善せざること無く、每に所親に謂ひて曰く、「李玄序 蓋し亦た一時の關張なり」と。將に異志有らんとするに及び、委ぬるに心膂の任を以てし、乃ち庠を表して部曲督と為し、六郡の壯勇を招合せしめ、萬餘人に至る。叛羌を討つの功を以て、庠を表して威寇將軍と為し、赤幢曲蓋を假し、陽泉亭侯に封じ、錢百萬、馬五十匹を賜ふ。誅せらるの日、六郡の士庶 流涕せざる莫く、時に年五十五なり。

現代語訳

李庠は字を玄序といい、李特の第三弟である。若いときから激烈な気性により名を知られた。郡の督郵・主簿に仕えたが、どちらも適任と称えられた。元康四(二九四)年、孝廉に察せられたが、就官しなかった。後に騎射が得意なので、良将に挙げられたが、これも就官しなかった。州は李庠が文武の才能を併せ持つので、秀異に挙げたが、病気を理由に固辞した。州郡は(辞退を)認めず、その名を朝廷に報告し、中護軍がしきりに徴したので、やむを得ず応じて、中軍騎督を拝した。弓馬が飛び抜けて上手く、膂力は人より強く、当時の人々は文鴦(文欽の子)に準えた。
洛陽が乱れると、病気と称して官職を去った。任侠を重んじる性格で、人々の困難を救ったので、州党は争って彼を頼った。六郡の流人とともに梁州や益州に避難し、道路に飢えて病む者がいれば、李庠は保護をしてやり、窮乏する者には施しを与え、大いに支持を集めた。蜀に至ると、趙廞から器量を認められ、ともに兵法を論じ、称賛されぬことがなく、(趙廞は)いつも親しい人に、「李玄序(李庠)はかつての関羽や張飛のようだ」と言った。(趙廞が)野心を抱くと、中核の役割を与えて、李庠を部曲督とし、六郡の壮勇な男たちを編成させ、万餘人に達した。反乱した羌族を討伐した功績により、李庠を威寇将軍とし、赤幢曲蓋を仮し、陽泉亭侯に封じ、銭百万、馬五十匹を賜わった。誅殺された日、六郡の士庶は流涕しない者はなく、このとき五十五歳であった。