いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第二十一巻_後蜀_李雄・李班・李期・李寿・李勢

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。『華陽国志』の編者である常璩(じょうきょ)が、一度だけ登場していました。

李雄

原文

李雄字仲儁、特第三子也。母羅氏、夢雙虹自門升天、一虹中斷、既而生蕩。後羅氏因汲水、忽然如寐、又夢大蛇繞其身、遂有孕、十四月而生雄。常言吾二子若有先亡、在者必大貴。蕩竟前死。雄身長八尺三寸、美容貌。少以烈氣聞、每周旋鄉里、識達之士皆器重之。有劉化者、道術士也、每謂人曰、「關隴之士皆當南移、李氏子中惟仲儁有奇表、終為人主。」
特起兵於蜀、承制、以雄為前將軍。流死、雄自稱大都督・大將軍・益州牧、都於郫城。羅尚遣將攻雄、雄擊走之。李驤攻犍為、斷尚運道、尚軍大餒、攻之又急、遂留牙門1.羅特固守、尚委城夜遁。特開門內雄、遂克成都。于時雄軍飢甚、乃率眾就穀於郪、掘野芋而食之。蜀人流散、東下江陽、南入七郡。雄以西山范長生巖居穴處、求道養志、欲迎立為君而臣之。長生固辭。雄乃深自挹損、不敢稱制、事無巨細、皆決於李國・李離兄弟。國等事雄彌謹。
諸將固請雄即尊位、以永興元年僭稱成都王、赦其境內、建元為建興、除晉法、約法七章。以其叔父驤為太傅、兄始為太保、折衝李離為太尉、建威李雲為司徒、翊軍李璜為司空、材官李國為太宰、其餘拜授各有差。追尊其曾祖2.武曰巴郡桓公、祖慕隴西襄王、父特成都景王、母羅氏曰王太后。范長生自3.(山西)〔西山〕乘素輿詣成都、雄迎之於門、執版延坐、拜丞相、尊曰范賢。長生勸雄稱尊號、雄於是僭即帝位、赦其境內、改年曰4.太武。追尊父特曰景帝、廟號始祖、母羅氏為太后。加范長生為天地太師、封西山侯、復其部曲不豫軍征、租稅一入其家。雄時建國草創、素無法式、諸將恃恩、各爭班位。其尚書令閻式上疏曰、「夫為國制法、5.勳尚仍舊。漢晉故事、惟太尉・大司馬執兵、太傅・太保父兄之官、論道之職、司徒・司空掌五教九土之差。秦置丞相、總領萬機。漢武之末、越以大將軍統政。今國業初建、凡百未備、諸公大將班位有差、降而競請施置、不與典故相應、宜立制度以為楷式。」雄從之。

1.「羅特」は、『資治通鑑』巻八十五は「張羅」に作るが、『資治通鑑考異』によるとこれは『華陽国志』に基づいたもの。ただし中華書局本は疑義を残している。
2.「武」は、『華陽国志』は「虎」に作る。『晋書』の避諱。
3.中華書局本に従い、「山西」を「西山」に改める。
4.『資治通鑑』巻八十六は、「改元晏平、國號大成」とする。『資治通鑑考異』によると『十六國春秋目錄』及び『華陽国志』巻八によると、李雄は「建興」と年号を立てて「晏平」に改元したという。『晋書』載記の本文は「大成」と年号と捉え、「成」が「武」に変成したと考えられるという。今本『華陽国志』は「太武」に作るが、これは後世の人が『晋書』載記の誤りを踏襲したものという。
5.『晋書斠注』は「勳」の下に「元は動に作る」とあり、恐らく「動」が正しいという。

訓読

李雄 字は仲儁、特の第三子なり。母の羅氏、夢に雙虹ありて門より天に升り、一虹 中斷し、既にして蕩を生む。後に羅氏 汲水に因り、忽然と寐るが如く、又 夢に大蛇ありて其の身に繞し、遂に孕む有り、十四月にして雄を生む。常に言ふ吾が二子 若し先に亡すること有れば、在する者 必ず大いに貴ならんと。蕩 竟に前に死す。雄 身長八尺三寸、容貌を美とす。少くして烈氣を以て聞こえ、每に鄉里を周旋し、識達の士 皆 之を器重とす。劉化なる者有り、道術の士なり、每に人に謂ひて曰く、「關隴の士 皆 當に南移すべし、李氏の子中 惟だ仲儁のみ奇表有り、終に人主と為らん」と。
特 兵を蜀に起こし、承制するに、雄を以て前將軍と為す。流 死し、雄 自ら大都督・大將軍・益州牧を稱し、郫城に都す。羅尚 將を遣はして雄を攻め、雄 擊ちて之を走らす。李驤 犍為を攻め、尚の運道を斷ち、尚の軍 大いに餒え、之を攻むるに又 急にして、遂に牙門の羅特を留めて固守し、尚 城を委てて夜に遁ぐ。(羅)特 門を開きて雄を內(い)れ、遂に成都に克つ。時に雄の軍 飢えること甚しく、乃ち眾を率ゐて郪に於て穀に就き、野芋を掘りて之を食す。蜀人 流散し、東のかた江陽に下り、南のかた七郡に入る。雄 西山の范長生 巖居穴處し、道を求めて志を養ふを以て、迎へて立てて君と為して之に臣たらんと欲す。長生 固辭す。雄 乃ち深く自ら挹損し、敢て稱制せず、事 巨細と無く、皆 李國・李離の兄弟に決す。國ら雄に事へること彌々謹たり。
諸將 固く雄に尊位に即くことを請ひ、永興元年を以て成都王を僭稱し、其の境內を赦し、建元して建興と為し、晉法を除き、法七章を約す。其の叔父の驤を以て太傅と為し、兄の始を太保と為し、折衝の李離を太尉と為し、建威の李雲を司徒と為し、翊軍の李璜を司空と為し、材官の李國を太宰と為し、其の餘 拜授すること各々差有り。其の曾祖武に追尊して巴郡桓公と曰ひ、祖の慕を隴西襄王、父の特を成都景王、母の羅氏を王太后と曰ふ。范長生 西山より素輿に乘りて成都に詣り、雄 之を門に迎へ、版を執りて坐を延き、丞相を拜し、尊びて范賢と曰ふ。長生 雄に尊號を稱することを勸め、雄 是に於て僭して帝位に即き、其の境內を赦し、改年して太武と曰ふ。父の特を追尊して景帝と曰ひ、廟號は始祖、母の羅氏を太后と為す。范長生に加へて天地太師と為し、西山侯に封じ、其の部曲に復して軍征に豫ずして、租稅 一に其の家に入る。雄の時に建國草創にして、素より法式無く、諸將 恩に恃み、各々班位を爭ふ。其の尚書令たる閻式 上疏して曰く、「夫れ國を為りて法を制め、勳すれば尚ほ舊に仍る。漢晉の故事、惟だ太尉・大司馬 兵を執り、太傅・太保 父兄の官にして、道を論ずるの職、司徒・司空 五教九土の差を掌る。秦 丞相を置き、萬機を總領す。漢武の末、越へて大將軍を以て統政す。今 國業 初めて建ち、凡そ百 未だ備はらず、諸公大將の班位 差有り、降りて競ひて施置を請ひ、典故と相 應ぜず、宜しく制度を立てて以て楷式を為るべし」と。雄 之に從ふ。

現代語訳

李雄は字を仲儁といい、李特の第三子である。母の羅氏は、夢に二つの虹があって門から天に昇っており、一つは中断し、やがて李蕩を生んだ。後に羅氏は汲水のほとりで、忽然と意識を失い、夢に大蛇があって体に巻きつき、妊娠し、十四ヵ月で李雄が生まれた。いつも私の二人の子の片方が先に死ねば、生き残ったほうはきっと高貴になると言っていた。(同母兄の)李蕩が先に死んだ。李雄は身長八尺三寸、容貌が美しかった。若くして激しい気性によって評判が高く、いつも郷里で面倒をみて、鑑識眼のある人はみな器量を見抜いた。劉化という、道術の士がおり、いつも人に、「関隴の士はきっと南に移住するが、李氏の子のなかで仲儁(李雄)だけが特別な兆候がみえ、最後には君主になる」と言っていた。
(父の)李特が蜀で兵を起こし、承制すると、李雄を前将軍とした。李流が死ぬと、李雄は自ら大都督・大将軍・益州牧を称し、郫城を都とした。羅尚は将を派遣して李雄を攻めたが、李雄は撃破した。李驤が犍為を攻め、羅尚の輸送路を断つと、羅尚の軍は大いに飢え、厳しく攻め立てると、牙門の羅特を留めて堅守し、羅尚は城を捨てて夜に(成都大城から)逃げた。羅特は門を開いて李雄を入れ、こうして成都を獲得した。このとき李雄の軍もひどく飢え、軍勢を連れて郪で穀物にありつかせ、野芋を掘って食べた。蜀人は分散し、東のかた江陽に下り、南のかた七郡に入った。李雄は西山の范長生が洞穴のなかで生活し、道術の修行をして志を養っているので、彼を君主に迎えて臣従しようとした。長生は固辞した。李雄は深く謙遜し、敢えて称制せず、事案の大小に拘わらず、全て李国・李離の兄弟に決定させた。李国らはますます李雄を尊重した。
諸将は李雄に尊位に即くよう要請し、永興元(三〇四)年に成都王を僭称し、領内を赦し、建興の年号を立て、晋王朝の法規を除き、法七章を約束した。李雄の叔父の李驤を太傅とし、兄の李始を太保とし、折衝(将軍)の李離を太尉とし、建威(将軍)の李雲を司徒とし、翊軍(将軍)の李璜を司空とし、材官(将軍)の李国を太宰とし、その他の任命は差等があった。曾祖父の李武(李虎)に追尊して巴郡桓公といい、祖父の李慕を隴西襄王、父の李特を成都景王、母の羅氏を王太后といった。范長生は西山から質素な輿に乗って成都にきて、李雄が門に出迎え、笏(木札)を持って座席を敷き、丞相を拝し、尊んで范賢と呼んだ。范長生は李雄に帝号を勧め、李雄は帝位に即き、領内を赦し、太武(正しくは晏平)と改元した。父の李特を追尊して景帝といい、廟号を始祖とし、母の羅氏を太后とした。范長生に天地太師の称号を加え、西山侯に封じ、彼の部曲を免税して軍征に参加させず、租税はすべて家計に納めた。李雄は建国したばかりで、法制がなく、諸将は恩を頼りに、席次を争った。尚書令の閻式が上疏し、「国を作り法を定めるとき、ややすれば旧例に則るものです。漢晋の故事によれば、ただ太尉・大司馬は兵員を監督し、太傅・太保は父兄が就く官で、道理を論ずる職であり、司徒・司空は政事と教化や統治を掌ります。秦は丞相を置き、政務全般を任せました。漢の武帝の末期、飛びこえて大将軍が政務を統括しました。いま国家の事業が始まったばかりで、百官は備わらず、諸公や大将の席次には差があり、争ってポストを設置したがり、先例から乖離しています、制度を定めて序列を整えなさい」と言った。李雄はこれに従った。

原文

遣李國・李雲等率眾二萬寇漢中、梁州刺史張殷奔于長安。國等陷南鄭、盡徙漢中人于蜀。先是、南土頻歲饑疫、死者十萬計。南夷校尉李毅固守不降、雄誘建寧夷使討之。毅病卒、城陷、殺壯士三千餘人、送婦女千口於成都。時李離據梓潼、其部將羅羕・張金苟等殺離及閻式、以梓潼歸于羅尚。尚遣其將向奮屯安漢之宜福以逼雄、雄率眾攻奮、不克。時李國鎮巴西、其帳下文碩又殺國、以巴西降尚。雄乃引還、遣其將張寶襲梓潼、陷之。會羅尚卒、巴郡亂、李驤攻涪、又陷之、執梓潼太守譙登、遂乘勝進軍討文碩、害之。雄大悅、赦其境內、改元曰玉衡。
雄母羅氏死、雄信巫覡者之言、多有忌諱、至欲不葬。其司空趙肅諫、雄乃從之。雄欲申三年之禮、羣臣固諫、雄弗許。李驤謂司空上官惇曰、「今方難未弭、吾欲固諫、不聽主上終諒闇、君以為何如。」惇曰、「三年之喪、自天子達於庶人、故孔子曰、『何必高宗、古之人皆然。』但漢魏以來、天下多難、宗廟至重、不可久曠、故釋縗絰、至哀而已。」驤曰、「任回方至、此人決於行事、且上常難違其言、待其至、當與俱請。」及回至、驤與回俱見雄。驤免冠流涕、固請公除。雄號泣不許。回跪而進曰、「今王業初建、凡百草創、一日無主、天下惶惶。昔武王素甲觀兵、晉襄墨絰從戎、豈所願哉。為天下屈己故也。願陛下割情從權、永隆天保。」遂強扶雄起、釋服親政。
是時南得漢嘉・涪陵、遠人繼至、雄於是下寬大之令、降附者皆假復除。虛己愛人、授用皆得其才、益州遂定。偽立其妻任氏為皇后。氐王楊難敵兄弟為劉曜所破、奔葭萌、遣子入質。隴西賊帥陳安又附之。遣李驤征越嶲、太守李釗降。驤進軍由小會攻寧州刺史王遜、遜使其將姚岳悉眾距戰。驤軍不利、又遇霖雨、驤引軍還、爭濟瀘水、士眾多死。釗到成都、雄待遇甚厚、朝廷儀式、喪紀之禮、皆決於釗。
楊難敵之奔葭萌也、雄安北李稚厚撫之、縱其兄弟還武都、難敵遂恃險多為不法、稚請討之。雄遣中領軍琀及將軍樂次・費他・李乾等由白水橋攻下辯、征東李壽督琀弟玝攻陰平。難敵遣軍距之、壽不得進、而琀・稚長驅至武街。難敵遣兵斷其歸道、四面攻之、獲琀・稚、死者數千人。琀・稚、雄兄蕩之子也。雄深悼之、不食者數日、言則流涕、深自咎責焉。

訓読

李國・李雲らを遣はして眾二萬を率ゐて漢中に寇し、梁州刺史の張殷 長安に奔る。國ら南鄭を陷し、盡く漢中の人を蜀に徙す。是より先、南土 頻歲に饑疫あり、死者十萬を計ふ。南夷校尉の李毅 固守して降らず、雄 建寧の夷を誘ひて之を討たしむ。毅 病卒するや、城 陷し、壯士三千餘人を殺し、婦女千口を成都に送る。時に李離 梓潼に據り、其の部將たる羅羕・張金苟ら離及び閻式を殺し、梓潼を以て羅尚に歸す。尚 其の將たる向奮を遣はして安漢の宜福に屯せしめて以て雄に逼り、雄 眾を率ゐて奮を攻むるとも、克たず。時に李國 巴西に鎮し、其の帳下たる文碩 又 國を殺し、巴西を以て尚に降る。雄 乃ち引還し、其の將の張寶を遣はして梓潼を襲ひて、之を陷す。會 羅尚 卒し、巴郡 亂れ、李驤 涪を攻め、又 之を陷し、梓潼太守の譙登を執へ、遂に勝に乘じて進軍して文碩を討ち、之を害す。雄 大いに悅び、其の境內を赦し、改元して玉衡と曰ふ。
雄の母 羅氏 死し、雄 巫覡者の言を信じ、多く忌諱有り、葬らざることを欲するに至る。其の司空たる趙肅 諫め、雄 乃ち之に從ふ。雄 三年の禮を申さんと欲し、羣臣 固く諫め、雄 許はず。李驤 司空の上官惇に謂ひて曰く、「今 方難 未だ弭まず、吾 固く諫め、主上をして諒闇を終へることを聽さざらんと欲す、君 以て何如と為す」と。惇曰く、「三年の喪、天子より庶人に達す、故に孔子曰く、『何ぞ必しも高宗のみならん、古の人 皆 然り』と〔一〕。但だ漢魏以來、天下 多難にして、宗廟 至重なり、久曠す可からず、故に縗絰を釋き、哀を至すのみ」と。驤曰く、「任回 方に至り、此の人 事を行ふに決す、且つ上 常に其の言に違ふこと難し、其の至るを待ち、當に俱に請ふべし」と。回 至るに及び、驤 回とともに雄に見ゆ。驤 免冠して流涕し、固く公除を請ふ。雄 號泣して許さず。回 跪きて進みて曰く、「今 王業 初めて建ち、凡百 草創なり、一日 主無くんば、天下 惶惶とす。昔 武王 素甲にて兵を觀、晉襄 墨絰にて戎に從ふ、豈に願ふ所なるや。天下の為に己を屈する故なり。願はくは陛下 情を割きて權に從ひ、永く天保を隆くせよ」と。遂に強ひて雄を扶け起し、服を釋きて親政せしむ。
是の時 南のかた漢嘉・涪陵を得、遠人 繼至し、雄 是に於いて寬大の令を下し、降附する者 皆 假に復除す。己を虛にし人を愛し、授用 皆 其の才を得、益州 遂に定む。偽りて其の妻任氏を立てて皇后と為す。氐王の楊難敵が兄弟 劉曜の為に破られ、葭萌に奔り、子を遣りて質に入る。隴西の賊帥たる陳安 又 之に附す。李驤を遣はして越嶲を征し、太守の李釗 降る。驤 進軍して小會に由りて寧州刺史の王遜を攻め、遜 其の將たる姚岳をして眾を悉くして距戰せしむ。驤の軍 利あらず、又 霖雨に遇ひ、驤 軍を引きて還り、爭ひて瀘水を濟り、士眾 多く死す。釗 成都に到るに、雄 待遇すること甚厚し、朝廷の儀式、喪紀の禮、皆 釗に決せらる。
楊難敵の葭萌に奔るや、雄の安北たる李稚 厚く之を撫し、其の兄弟を縱(ゆる)して武都に還し、難敵 遂に險に恃みて多く不法を為し、稚 之を討つことを請ふ。雄 中領軍の琀及び將軍の樂次・費他・李乾らを遣はして白水橋に由りて下辯を攻め、征東の李壽 琀が弟の玝を督して陰平を攻む。難敵 軍を遣はして之を距み、壽 進むことを得ず、而して琀・稚 長驅して武街に至る。難敵 兵を遣りて其の歸道を斷ち、四面に之を攻め、琀・稚を獲て、死者數千人なり。琀・稚は、雄が兄たる蕩の子なり。雄 深く之を悼み、食はざること數日、言へば則ち流涕し、深く自ら責を咎む。

〔一〕『論語』憲問篇が出典。孔子の弟子の子張が、殷の高宗が崩御したときについて質問した一節。

現代語訳

李国・李雲らが二万を率いて漢中に侵攻し、梁州刺史の張殷は長安に逃げた。李国らは南鄭を陥落させ、漢中の人を全て蜀に移住させた。これより先、南方は連年の飢饉と疫病があり、死者は十万を数えた。南夷校尉の李毅は堅守したが、李雄は建寧郡の夷(異民族)を誘って彼を討伐させた。李毅が病没すると、城が陥落し、兵士三千餘を殺し、婦女千人を成都に送った。このとき李離は梓潼を拠点としたが、配下の部将である羅羕・張金苟らが李離及び閻式を殺し、梓潼城ごと(西晋の)羅尚に帰順した。羅尚は将の向奮を安漢の宜福に駐屯させて李雄を圧迫し、李雄は向奮を攻めたが、勝てなかった。ときに李国は巴西を守っていたが、帳下の文碩が李国を殺し、巴西城ごと羅尚に降服した。李雄は撤退して還り、将の張宝を派遣して梓潼を襲い、ここを陥落させた。ちょうど羅尚が死に、巴郡が乱れたので、李驤が涪を攻め、陥落させ、梓潼太守の譙登を捕らえ、勝ちに乗じて進軍して文碩を討ち、殺害した。李雄は大いに悦び、領内を赦し、玉衡と改元した。
李雄の母である羅氏が死ぬと、李雄は巫覡者の言いなりになり、多くのことを忌み嫌い、埋葬を拒絶した。司空の趙粛が諫めたので、李雄は埋葬を行った。李雄は三年喪をやり遂げようとし、郡臣が諫めたが、聞き入れなかった。李驤が司空の上官惇に、「いま国家的な課題が多いので、諫め、主上には三年喪を断念して頂きたいが、どう思うか」と言った。上官惇は、「三年の喪は、天子から庶人に達するもので、孔子も、『どうして殷の高宗だけが行うのか、上古には全員がやった』と仰っている。ただ漢魏より、天下には課題が多く、宗廟(の存続)は最優先なので、長く政務を空席にできず、ゆえに縗絰を脱ぎ、哀を至すだけになった」と言った。李驤は、「任回がもうすぐ来る、彼には発言力があるが、主上は言い出したら聞かぬ人だ、任回の到着を待ち、ともに(三年喪を辞めるよう)請願しよう」と言った。任回が到着すると、李驤は連れだって李雄に会った。李驤は冠を脱いで流涕し、喪の解除を願った。李雄は号泣して拒絶した。任回が跪いて進み、「いま王業が始まったばかりで、百官も草創期なので、一日でも君主が不在であれば、天下は恐怖を感じます。むかし周の武王が白い鎧で閲兵し、晋の襄公が喪服を墨染めにして出陣したのは、本意からでしょうか。天下のために(喪の完遂という)希望を曲げたのです。どうか陛下も私情を妥協させて時世を優先し、国家を永続させますように」と言った。強引に李雄を助け起こし、喪服を脱がせて親政をさせた。
このとき南方では漢嘉・涪陵を獲得し、遠来の人が押し寄せたので、李雄は寛大な命令を下し、降服し帰付した者には一時的に税負担を免除した。虚心に人と接し、人材登用は才能に釣り合い、とうとう益州は平定された。妻の任氏を皇后とした。氐王の楊難敵の兄弟が劉曜に破られて、葭萌に逃げ、子を人質に送ってきた。隴西の賊帥である陳安も帰付した。李驤を派遣して越嶲を征伐すると、太守の李釗が降服した。李驤は進軍して小会(地名)を足場として寧州刺史の王遜を攻めたが、王遜は将の姚岳に全軍で防戦をさせた。李驤は敗れ、長雨に降られ、撤退するとき、争って瀘水を渡り、兵士は多くが死んだ。李釗が成都に来ると、李雄はとくに厚遇し、朝廷の儀式や、喪紀の礼は、全て李釗に決めてもらった。
楊難敵が葭萌に逃げてくると、李雄の安北将軍である李稚(李雄の従子)は手厚くもてなし、楊氏の兄弟を解き放って武都に還らせたが、楊難敵は険阻な地で不法をなすようになったので、李稚は討伐を願った。李雄は中領軍の李琀及び将軍の楽次・費他・李乾らを派遣して白水橋から下辯を攻め、征東将軍の李寿は李琀の弟である李玝を督して陰平を攻めた。楊難敵が防戦すると、李寿は進めなくなり、李琀・李稚に長駆して武街に行かせた。楊難敵はその帰路を断ちきり、四方から攻めたので、李琀・李稚は捕らわれ、数千人が死んだ。李琀・李稚は、李雄の兄である李蕩の子である。李雄は心配し、数日間食べず、口を開けば涙を流し、責任を感じた。

原文

其後將立蕩子班為太子。雄有子十餘人、羣臣咸欲立雄所生。雄曰、「起兵之初、舉手扞頭、本不希帝王之業也。值天下喪亂、晉氏播蕩、羣情義舉、志濟塗炭、而諸君遂見推逼、處王公之上。本之基業、功由先帝。吾兄適統、丕祚所歸、恢懿明叡、殆天所命、大事垂克、薨于戎戰。班姿性仁孝、好學夙成、必為名器。」李驤與司徒王達諫曰、「先王樹冢適者、所以防篡奪之萌、不可不慎。吳子捨其子而立其弟、所以有專諸之禍。宋宣不立與夷而立穆公、卒有宋督之變。猶子之言、豈若子也。深願陛下思之。」雄不從、竟立班。驤退而流涕曰、「亂自此始矣。」
張駿遣使遺雄書、勸去尊號、稱藩于晉。雄復書曰、「吾過為士大夫所推、然本無心於帝王也、進思為晉室元功之臣、退思共為守藩之將、掃除氛埃、以康帝宇。而晉室陵遲、德聲不振、引領東望、有年月矣。會獲來貺、情在闇室、有何已已。知欲遠遵楚漢、尊崇義帝、春秋之義、於斯莫大。」駿重其言、使聘相繼。巴郡嘗告急、云有東軍。雄曰、「吾嘗慮石勒跋扈、侵逼琅邪、以為耿耿。不圖乃能舉兵、使人欣然。」雄之雅譚、多如此類。
雄以中原喪亂、乃頻遣使朝貢、與1.(晉)穆帝分天下。張駿領秦梁、先是、遣傅穎假道于蜀、通表京師、雄弗許。駿又遣治中從事張淳稱藩于蜀、託以假道。雄大悅、謂淳曰、「貴主英名蓋世、土險兵強、何不自稱帝一方。」淳曰、「寡君以乃祖世濟忠良、未能雪天下之恥、解眾人之倒懸、日昃忘食、枕戈待旦。以琅邪中興江東、故萬里翼戴、將成桓文之事、何言自取邪。」雄有慚色、曰、「我乃祖乃父亦是晉臣、往與六郡避難此地、為同盟所推、遂有今日。琅邪若能中興大晉於中夏、亦當率眾輔之。」淳還、通表京師、天子嘉之。

1.「晉」が衍字であり、穆帝は拓跋猗廬(代国の君主)を指すとされ、この指摘に従い「晋」一字を除く。しかし翻訳者(佐藤)が考えるに、文脈において拓跋氏は関係がなく、「穆帝」ではないにせよ、東晋の皇帝と見なすのが妥当ではないか。李雄の没年は334年で、東晋の穆帝の在位は344年から始まり、重複期間はない。

訓読

其の後 將に蕩が子の班を立てて太子と為さんとす。雄 子十餘人有り、羣臣 咸 雄の生む所を立てんと欲す。雄曰く、「起兵の初、手を舉し頭を扞き、本は帝王の業を希はざるなり。天下の喪亂するに值たり、晉氏 播蕩するに、羣情 義舉して、塗炭を濟ふことを志し、而して諸君に遂に推逼せられ、王公の上に處る。之を基業に本るに、功は先帝に由る。吾が兄 適統にして、丕祚の歸する所、恢懿明叡、殆ど天の命ずる所、大事 克に垂として、戎戰に薨ず。班 姿性は仁孝にして、學を好み夙成なり、必ず名器と為らん」と。李驤 司徒の王達と與に諫めて曰く、「先王 冢適を樹るは、篡奪の萌を防ぐ所以なり、慎まざる可からず。吳子 其の子を捨てて其の弟を立つるは、專諸が禍〔一〕有る所以なり。宋宣 與夷を立てずして穆公を立て、卒に宋督が變〔二〕有り。子の猶きの言、豈に子の若ならんや。深く願はくは陛下 之を思へ」と。雄 從はず、竟に班を立つ。驤 退きて流涕して曰く、「亂 此より始まらん」と。
張駿 使を遣はして雄に書を遺り、尊號を去り、晉に稱藩することを勸む。雄 書を復して曰く、「吾 過て士大夫の為に推され、然るども本は帝王に心無きなり、進みては晉室の元功の臣と為り、退きては共に守藩の將と為らんと思ひ、氛埃を掃除して、以て帝宇を康ぜんことを思ふ。而れども晉室 陵遲し、德聲 振はず、領を引きて東に望むこと、年月有り。會 來貺を獲て、情 闇室に在り、何の已已こと有らん。遠く楚漢の、義帝を尊崇するに遵はんと欲するを知り、春秋の義、斯より大なるは莫し」と。駿 其の言を重とし、使聘 相 繼ぐ。巴郡 嘗て急を告げ、東軍有ると云ふ。雄曰く、「吾 嘗て石勒の跋扈し、琅邪を侵逼するを慮り、以て耿耿と為す。圖らざりき乃ち能く兵を舉げて、人をして欣然たらしむ」と。雄の雅譚、多きこと此の類の如し。
雄 中原の喪亂するを以て、乃ち頻りに使を遣りて朝貢し、穆帝と天下を分けんとす。張駿 秦梁を領し、是より先、傅穎を遣はして道を蜀に假り、表を京師に通ぜんとすれども、雄 許さず。駿 又 治中從事の張淳を遣はして蜀に稱藩し、託するに道を假ることを以てす。雄 大いに悅び、淳に謂ひて曰く、「貴主の英名にして世を蓋ひ、土は險にして兵は強く、何ぞ自ら一方に稱帝せざる」と。淳曰く、「寡君 乃(か)の祖世 忠良を濟ふを以て、未だ天下の恥を雪ぎ、眾人の倒懸を解くこと能はず、日昃に食を忘れ、戈に枕し旦を待つ。琅邪 江東に中興するを以て、故に萬里 翼戴して、將に桓文の事を成さんとす、何ぞ自ら取ることを言ふや」と。雄 慚色有り、曰く、「我 乃の祖と乃の父も亦た是れ晉臣なり、往きて六郡と與に難を此の地に避け、同盟を為して推す所、遂に今日有り。琅邪 若し能く大晉を中夏に中興せば、亦た當に眾を率ゐて之を輔けん」と。淳 還り、表を京師に通じ、天子 之を嘉す。

〔一〕専儲は、春秋呉の公子光の側近。『史記』刺客列伝に見える。
〔二〕宋督は、華父督のこと。春秋宋の太宰。

現代語訳

やがて李蕩の子である李班を皇太子に立てようとした。李雄は十餘人の子がおり、郡臣は李雄の実子を後嗣に望んだ。李雄は、「起兵した当初、手を挙げて頭を覆い、帝業をなそうとは思っていなかった。天下が喪乱し、晋王朝が迷走すると、世論は義挙を待望し、塗炭の苦しみから救おうと、諸君に推戴され、王公の上(帝位)に即いてしまった。わが家の事業は、先帝のものである。兄こそが嫡統であり、大いなる祝福を受け、輝かしき素質に恵まれるのは、天の差配であるが、帝業の完成間近に、(兄の李蕩は)戦没してしまった。(李蕩の子)李班は仁孝な人柄で、学を好んで成長も早く、きっと名君の器量がある」と言った。李驤は司徒の王達とともに諫め、「古来より王が太子を立てるのは、簒奪の可能性を排除するためです、よくお考え下さい。春秋呉で子でなく弟が即位したのは、専儲の禍い(暗殺)のせいです。宋宣公は(子の)与夷を立てず(弟の)穆公を立てたばかりに、宋督の変が起きました。あなたの発言は、その通りにはなりません。どうか陛下は考え直して下さい」と言った。李雄は従わず、結局李班を立てた。李驤は退席してから流涕し、「乱の兆しだ」と言った。
張駿(前涼の君主)が使者をやって李雄に文書を贈り、帝号を除き、晋への称藩せよと勧めた。李雄は返書して、「私は士大夫に推戴されましたが、本来は帝王になるつもりはなく、進んでは晋王朝の元勲となり、退いては守藩の将になりたいと思い、ほこりを払って、帝室の領土を平穏にしたいと思ってきました。しかし晋王朝は衰亡し、有徳の評判を聞かず、領土を東に押し込め、年月が経ちました。書簡を頂戴し、暗い気持ちになりましたが、出来ることがありません。むかし楚漢(項羽と劉邦)が義帝を尊重した故事に見習いたく、春秋の正義は、これより偉大なものはありません」と言った。張駿はこの発言を重んじ、使者を次々に送った。かつて巴郡が緊急事態を告げ、東晋軍が攻めてきたと言った。李雄は「私はかつて石勒が跋扈し、琅邪(王の司馬睿)に侵攻したと聞き、心配したものだ。まさか(東晋がわが国に対し)兵を挙げ、他人(石勒)を悦ばせるとはね」と言った。李雄の優れた受け答えは、このように多かった。
李雄は中原が喪乱するので、頻繁に使者を送り穆帝(?)と天下を分割しようとした。(前涼の)張駿は秦州と梁州を領有しており、これより先、傅穎を派遣して蜀(李雄の領土)を通過し、東晋に上表したいと願い出たが、李雄は許さなかった。張駿はさらに治中従事の張淳を派遣して蜀に称藩するから、通過をさせてくれと頼んだ。李雄は歓迎し、張淳に、「あなたの君主(張駿)の英名は知れわたり、領土は険しく兵士は強いのだ、どうして一地方の皇帝にならぬのか」と言った。張淳は、「わが君は祖先より忠良な人々を助けてきたが、天下の恥を雪ぎ、みなを苦難から救出できておらず、日夜食事を忘れ、戈に枕して夜明けを待っています。琅邪王(司馬睿)が江東で中興しており、遠方から助力し、桓公や文公になりたいと思います、どうして帝位を自ら取るものですか」と言った。李雄は恥じつつ、「わが祖父や父も晋王朝の臣であったが、六郡の人々とともに避難し、合意を得て推戴され、今日のように(皇帝に)なった。もし琅邪王が晋王朝を中原に再興するなら、私も軍勢を連れて駆けつけよう」と言った。張淳は帰還し、上表を京師(東晋)に届け、天子は喜んだ。

原文

時李驤死、以其子壽為大將軍・西夷校尉、督征南費黑・征東任1.[石巳]攻陷巴東、太守楊謙退保建平。壽別遣費黑寇建平、晉巴東監軍毋丘奧退保宜都。雄遣李壽攻朱提、以費黑・2.卬攀為前鋒、又遣鎮南任回征木落、分寧州之援。寧州刺史尹奉降、遂有南中之地。雄於是赦其境內、使班討平寧州夷、以班為撫軍。咸和3.八年、雄生瘍於頭、4.六日死、時年六十一、在位5.三十年。偽諡武帝、廟曰太宗、墓號安都陵。
雄性寬厚、簡刑約法、甚有名稱。氐苻成・6.(文隗)〔隗文〕既降復叛、手傷雄母、及其來也、咸釋其罪、厚加待納。由是夷夏安之、威震西土。時海內大亂、而蜀獨無事、故歸之者相尋。雄乃興學校、置史官、聽覽之暇、手不釋卷。其賦男丁歲穀三斛、女丁半之、戶調絹不過數丈、緜數兩。事少役稀、百姓富實、閭門不閉、無相侵盜。然雄意在招致遠方、國用不足、故諸將每進金銀珍寶、多有以得官者。丞相楊褒諫曰、「陛下為天下主、當網羅四海、何有以官買金邪。」雄遜辭謝之。後雄嘗酒醉而推中書令、杖太官令、褒進曰、「天子穆穆、諸侯皇皇、安有天子而為酗也。」雄即捨之。雄無事小出、褒於後持矛馳馬過雄。雄怪問之、對曰、「夫統天下之重、如臣乘惡馬而持矛也、急之則慮自傷、緩之則懼其失、是以馬馳而不制也。」雄寤、即還。雄為國無威儀、官無祿秩、班序不別、君子小人服章不殊。行軍無號令、用兵無部隊、戰勝不相讓、敗不相救、攻城破邑動以虜獲為先。此其所以失也。

1.石巳(石偏に巳)で一文字。「邵」「昭」にも作る史料が存在する。
2.『華陽国志』は「卬攀」を「邵攀」に作る。
3.「八年」は「九年」に作るのが正しい。
4.「六日」は「六月」に作るのが正しい。
5.「三十年」は「三十一年」に作るのが正しい。
6.中華書局本に従い、字の反転を改める。

訓読

時に李驤 死し、其の子たる壽を以て大將軍・西夷校尉と為し、督征南の費黑・征東の任[石巳] 攻めて巴東を陷し、太守の楊謙 退きて建平に保す。壽 別に費黑を遣はして建平を寇し、晉の巴東監軍たる毋丘奧 退きて宜都に保す。雄 李壽を遣はして朱提を攻め、費黑・卬攀を以て前鋒と為し、又 鎮南の任回を遣はして木落を征し、寧州の援を分かつ。寧州刺史の尹奉 降り、遂に南中の地を有つ。雄 是に於て其の境內に赦し、班をして寧州夷を討平せしめ、班を以て撫軍と為す。咸和八年、雄 瘍を頭に生じ、六日にして死し、時に年六十一、在位すること三十年なり。偽りて武帝と諡し、廟を太宗と曰ひ、墓を安都陵と號す。
雄の性 寬厚にして、刑を簡にし法を約にし、甚だ名稱有り。氐の苻成・隗文 既に降りて復た叛し、手づから雄の母を傷つけ、其の來るに及ぶや、咸 其の罪を釋き、厚く待納を加ふ。是に由り夷夏 之を安んじ、威 西土を震はす。時に海內 大亂し、而れども蜀のみ獨り無事なり、故に之に歸する者 相 尋ぬ。雄 乃ち學校を興し、史官を置き、聽覽の暇あれば、手に卷を釋かず。其の賦 男丁は歲ごとに穀三斛、女丁は之を半とし、戶調の絹は數丈を過ぎず、緜は數兩なり。事は少なく役は稀にして、百姓 富實たり、閭門 閉じざるとも、相 侵盜するもの無し。然して雄の意 遠方を招致するに在り、國用 足らず、故に諸將 每に金銀珍寶を進め、多く以て官を得る者有り。丞相の楊褒 諫めて曰く、「陛下 天下の主と為り、當に四海を網羅すべし、何ぞ官を以て金を買ふこと有るや」と。雄 辭を遜して之に謝る。後に雄 嘗て酒に醉ひて中書令を推し、太官令を杖うち、(楊)褒 進みて曰く、「天子 穆穆たれば、諸侯 皇皇とす、安んぞ天子にして酗を為すこと有らんや」と。雄 即ち之を捨つ。雄 事無きに小しく出で、褒 後に於て矛を持して馬を馳せて雄を過ぐ。雄 怪みて之に問ふに、對へて曰く、「夫れ天下の重を統ぶるは、臣が惡馬に乘りて矛を持つが如きなり、之を急にすれば則ち自ら傷かんことを慮り、之を緩にすれば則ち其の失せんことを懼る、是を以て馬 馳すれども制せざるなり」と。雄 寤り、即ち還る。雄 國を為りて威儀無く、官 祿秩無く、班序 別たず、君子小人 服章は殊ならず。行軍に號令無く、用兵に部隊無く、戰ひて勝てども相 讓らず、敗るれども相 救はず、城を攻め邑を破りて動とするは虜獲を以て先を為とす。此れ其の失する所以なり。

現代語訳

ときに李驤が死に、その子である李寿を大将軍・西夷校尉とし、督征南(将軍)の費黒・征東(将軍)の任[石巳]が巴東を攻略し、太守の楊謙が退いて建平で守った。李寿は費黒を別働隊として建平を攻め、東晋の巴東監軍である毋丘奧が退いて宜都で守った。李雄は李寿に朱提を攻撃させ、費黒・卬攀を前鋒とし、さらに鎮南(将軍)の任回に木落を征伐させ、寧州の連携を分断した。寧州刺史の尹奉が降服し、こうして南中の地を領有した。李雄は領内に赦し、李班に寧州の夷を平定させ、李班を撫軍(将軍)とした。咸和八(三三三)年(正しくはその翌年)、李雄は頭に腫瘍ができ、六日(正しくは六ヶ月か)で死に、六十一歳であった、在位は三十年(正しくは三十一年)。不当に武帝と諡し、廟を太宗といい、墓を安都陵と号した。
李雄の性格は寛大で温厚であり、刑罰や法規を簡約にして、声望が高かった。氐の苻成・隗文は降服したのち再び反乱し、李雄の母を手ずから傷つけたが、李雄のもとに来ると、前科を水に流し、厚遇された。おかげで異民族は安心し、李雄の勢威は西方を震わせた。ときに天下は大乱したが、蜀だけが平穏なので、帰順者が連れ立った。李雄は学校を作り、史官を置き、政務のいとまに、書物を手放さなかった。租税は成人男性は一年に穀三斛、成人女性はその半分で、戸調の絹は数丈未満、綿は数両であった。公共事業が少なく、百姓は富貴となり、戸締まりせずとも、盗難がなかった。李雄の関心は遠方から人々を招致することで、国家財政は乏しく、諸将が金銀や珍宝を納め、代わりに官位を発行した。丞相の楊褒が諫め、「陛下は天下の主として、四海全域を支配すべきを、なぜ官職と金品を交換しているのですか」と。李雄はへりくだって謝った。のちに李雄は酒に酔って中書令に促し、太官令を杖で打つと、楊褒が進み出て、「天子が穆穆と温和であれば、諸侯は皇皇と威信が輝きます、天子が酒乱でよいのですか」と諫めた。李雄は杖を捨てた。李雄は用事がないとき忍んで外出し、楊褒は後ろから矛を持って馬で追い越した。李雄が真意を問うと、答えて、「天下の統治という重責は、私が悪馬に乗り矛を持っているようなものです、急げば自らを傷つけ、緩めれば失速します、ですから馬を馳せて制御しかねたのです」と言った。李雄は悟り、すぐに還った。李雄は国を作ったが威儀を整えず、官僚は秩禄がなく、席次に区別がなく、君子も小人も服章が同じだった。行軍するとき号令がなく、用兵するとき編成せず、戦いに勝てば(手柄を)譲らず、負けても救わず、城邑を撃破したときは捕虜の数で勲功を判定した。これが伸び悩んだ原因である。

李班

原文

班字世文。初署平南將軍、後立為太子。班謙虛博納、敬愛儒賢、自何點・李釗、班皆師之、又引名士王嘏及隴西董融・天水文夔等以為賓友。每謂融等曰、「觀周景王太子晉・魏太子丕・吳太子孫登、文章鑒識、超然卓絕、未嘗不有慚色。何古賢之高朗、後人之莫逮也。」為性汎愛、動修軌度。時諸李子弟皆尚奢靡、而班常戒厲之。每朝有大議、雄輒令豫之。班以古者墾田均平、貧富獲所、今貴者廣占荒田、貧者種殖無地、富者以己所餘而賣之、此豈王者大均之義乎。雄納之。及雄寢疾、班晝夜侍側。雄少數攻戰、多被傷夷、至是疾甚、痕皆膿潰、雄子越等惡而遠之。班為吮膿、殊無難色、每嘗藥流涕、不脫衣冠、其孝誠如此。
雄死、嗣偽位、以李壽錄尚書事輔政。班居中執喪禮、政事皆委壽及司徒何點・尚書令王瓌等。越時鎮江陽、以班非雄所生、意甚不平。至此、奔喪、與其弟期密計圖之。李玝勸班遣越還江陽、以期為梁州刺史、鎮葭萌。班以未葬、不忍遣、推誠居厚、心無纖芥。時有白氣二道帶天、太史令韓豹奏、宮中有陰謀兵氣、戒在親戚。班不悟。咸和九年、班因夜哭、越殺班于殯宮、時年四十七、在位一年、遂立雄之子期嗣位焉。

訓読

班 字は世文。初め平南將軍を署し、後に立ちて太子と為る。班 謙虛にして博納、儒賢を敬愛し、何點・李釗自り、班 皆 之を師とし、又 名士の王嘏及び隴西の董融・天水の文夔等を引きて以て賓友と為す。每に融等に謂ひて曰く、「周景王の太子晉・魏の太子丕・吳の太子孫登を觀るに、文章の鑒識、超然に卓絕し、未だ嘗て慚色有らず。何ぞ古賢の高朗、後人の逮ぶこと莫きや」と。性と為りは汎愛にして、動やすれば軌度を修む。時に諸李の子弟 皆 奢靡を尚び、而るに班 常に之を戒厲す。朝に大議有る每に、雄 輒ち之に豫らしむ。班 古は墾田 均平にして、貧富 所を獲る以て、今 貴なる者は廣く荒田を占め、貧しき者 種殖するに地無く、富なる者 己の餘る所を以て之を賣り、此れ豈に王者の大いに之を均しくするの義ならんやと。雄 之を納る。雄 寢疾するに及び、班 晝夜に侍側す。雄 少くして數々攻戰し、多く傷夷を被り、是に至りて疾 甚しく、痕 皆 膿潰し、雄の子たる越等 惡みて之を遠ざく。班 為に膿を吮ひ、殊に難色無く、每に藥を嘗めて流涕し、衣冠を脫がず、其の孝誠 此の如し。
雄 死し、偽位を嗣ぎ、李壽を以て錄尚書事とし輔政せしむ。班 中に居り喪禮を執り、政事 皆 壽及び司徒何點・尚書令王瓌等に委ぬ。越 時に江陽に鎮し、班の雄の生む所に非ざるを以て、意 甚だ平らかならず。此に至りて、喪に奔り、其の弟たる期と與に密かに之を圖らんと計る。李玝 班に勸めて越を遣りて江陽に還し、期を以て梁州刺史と為し、葭萌に鎮せしむ。班 未だ葬らざるを以て、遣るに忍びず、誠を推して厚に居り、心に纖芥無し。時に白氣の二道に帶天する有り、太史令の韓豹 奏し、「宮中に陰謀の兵氣有り、戒 親戚に在り」と。班 悟らず。咸和九年、班 因りて夜に哭すに、越 班を殯宮に殺し、時に年四十七、在位一年、遂に雄の子たる期を立てて位を嗣がしむ。

現代語訳

李班は字を世文という。初め平南将軍となり、後に太子に立てられた。李班は謙虚で博識であり、儒者を敬愛し、何點・李釗に、師事して学び、名士の王嘏及び隴西の董融・天水の文夔らを招いて賓友とした。いつも董融らに、「周の景王の太子晋・魏の太子丕・呉の太子孫登を参照するに、文章の見識は、特別に卓越し、遅れを取ったことがない。どうして先古の賢者たちに、後世の人が及ぶものか」と言っていた。博愛の性向があり、法規を重んじた。ときに諸李(皇族)の子弟は奢侈を好んだが、李班だけが引き締めた。朝廷で大きな議題があるたび、李雄は李班に参加させた。李班が(考えるに)先古は耕田が均等であり、貧富の偏りが適切に配分されていたが、現代は富める者が荒田を買い集め、貧しき者は農業をする土地がなく、富貴な者が余剰作物を販売しているが、これは王者が実現すべき公平性であろうかと問題提起した。李雄は耳を傾けた。李雄が臥せると、李班は昼夜問わず看病した。李雄は若年から連戦し、多く傷を受けてきたが、これが悪化し、傷が破れて膿があふれ、李雄の実子の李越らは嫌がって逃げた。李班は膿を口で吸い、一切顔色を変えず、薬を舐めて涙を流し、衣冠を脱がず、孝行と誠実さはこれほどであった。
李雄が死ぬと、李班が帝位を嗣ぎ、李寿を録尚書事として輔政させた。李班は籠もって喪礼を行い、政事はすべて李寿及び司徒の何點・尚書令の王瓌らに委ねた。(李雄の実子)李越は江陽を鎮護し、李班が李雄の実子でないから、不平であった。ここに至り、死体に走り寄り、実弟の李期とともに李班の殺害を計画した。李玝は李班に対して李越を江陽に還らせ、李期を梁州刺史とし、葭萌に出鎮させよと勧めた。李班は(李雄の)埋葬がまだなので、遠方に行かせるのが忍びなく、誠意を持って厚遇し、やましさが微塵もなかった。ときに白い気が天に二本かかり、太史令の韓豹が、「宮中に陰謀の兵気があります、親族が害意を持っています」と上奏した。李班は悟らなかった。咸和九(三三四)年、李班が夜に哭していると、李越は(李雄の)殯宮で李班を殺した、時に四十七歳、在位は一年、結局は李雄の実子である李期が位を嗣いだ。

李期

原文

期字世運、雄第四子也。聰慧好學、弱冠能屬文、輕財好施、虛心招納。初為建威將軍、雄令諸子及宗室子弟以恩信合眾、多者不至數百、而期獨致千餘人。其所表薦、雄多納之、故長史列署頗出其門。
既殺班、欲立越為主、越以期雄妻任氏所養、又多才藝、乃讓位于期。于是僭即皇帝位、大赦境內、改元玉恆。誅班弟都。使李壽伐都弟玝于涪、玝棄城降晉。封壽漢王、拜梁州刺史・東羌校尉・中護軍・錄尚書事。封兄越建寧王、拜相國・大將軍・錄尚書事。立妻閻氏為皇后。以其衞將軍尹奉為右丞相・驃騎將軍・尚書令、王瓌為司徒。期自以謀大事既果、輕諸舊臣、外則信任尚書令景騫・尚書姚華・田褒。褒無他才藝、雄時勸立期、故寵待甚厚。內則信宦豎許涪等。國之刑政、希復關之卿相、慶賞威刑、皆決數人而已、于是綱維紊矣。乃誣其尚書僕射・武陵公李載謀反、下獄死。先是、晉建威將軍司馬勳屯漢中、期遣李壽攻而陷之、遂置守宰、戍南鄭。
雄子霸・保並不病而死、皆云期鴆殺之、於是大臣懷懼、人不自安。天雨大魚于宮中、其色黃。又宮中豕犬交。期多所誅夷、籍沒婦女資財以實後庭、內外兇兇、道路以目、諫者獲罪、人懷苟免。期又鴆殺其安北李攸。攸、壽之養弟也。於是與越及景騫・田褒・姚華謀襲壽等、欲因燒市橋而發兵。期又累遣中常侍許涪至壽所、伺其動靜。及殺攸、壽大懼、又疑許涪往來之數也、乃率步騎一萬、自涪向成都、表稱景騫・田褒亂政、興晉陽之甲、以除君側之惡。以李奕為先登。壽到成都、期・越不虞其至、素不備設、壽遂取其城、屯兵至門。期遣侍中勞壽、壽奏相國・建寧王越、尚書令・河南公景騫、尚書田褒・姚華、中常侍許涪、征西將軍李遐及將軍李西等、皆懷姦亂政、謀傾社稷、大逆不道、罪合夷滅。期從之、於是殺越・騫等。壽矯任氏令、廢期為邛都縣公、幽之別宮。期歎曰、「天下主乃當為小縣公、不如死也。」咸康1.三年、自縊而死、時年二十五、在位2.三年。諡曰幽公。及葬、賜鸞輅九旒、餘如王禮。雄之子皆為壽所殺。

1.「三年」は「四年」に作るべきである。
2.「三年」は「五年」に作るべきである。

訓読

期 字は世運、雄の第四子なり。聰慧にして學を好み、弱冠にして屬文を能くし、財を輕んじ施を好み、虛心に招納す。初め建威將軍と為り、雄 諸子及び宗室の子弟をして恩信を以て眾を合はしめ、多き者 數百に至らざるも、期のみ獨り千餘人を致す。其の表薦する所、雄 多く之を納れ、故に長史 署に列びて頗る其の門を出づ。
既に班を殺し、越を立てて主と為さんと欲し、越 期の雄の妻たる任氏の養ふ所にして、又 才藝多きを以て、乃ち位を期に讓る。是に于て僭して皇帝の位に即き、境內を大赦し、玉恆と改元す。班の弟たる都を誅す。李壽をして都の弟の玝を涪に伐ち、玝 城を棄てて晉に降る。壽を漢王に封じ、梁州刺史・東羌校尉・中護軍・錄尚書事を拜す。兄の越を建寧王に封じ、相國・大將軍・錄尚書事を拜す。妻の閻氏を立てて皇后と為す。其の衞將軍たる尹奉を以て右丞相・驃騎將軍・尚書令と為し、王瓌もて司徒と為す。期 自ら大事を謀りて既に果たすを以て、諸々の舊臣を輕んじ、外に則ち尚書令の景騫・尚書の姚華・田褒を信任す。褒 他の才藝無く、雄の時 期を立てんことを勸め、故に寵待 甚だ厚し。內に則ち宦豎の許涪等を信ず。國の刑政、復た之を卿相に關することを希み、慶賞威刑、皆 數人に決するのみ、是に于て綱維 紊す。乃ち其の尚書僕射・武陵公の李載を謀反すると誣し、下獄して死す。是より先、晉の建威將軍の司馬勳 漢中に屯し、期 李壽を遣はして攻めて之を陷し、遂に守宰を置き、南鄭を戍らしむ。
雄の子たる霸・保 並びに不病にして死し、皆 期の之を鴆殺すと云ひ、是に於て大臣 懼を懷き、人 自安せず。天 大魚を宮中に雨らせ、其の色は黃なり。又 宮中の豕犬 交はる。期 多く誅夷する所、婦女資財を籍沒して以て後庭に實し、內外 兇兇とし、道路 以て目し、諫むる者 罪を獲、人 苟免を懷く。期 又 其の安北たる李攸を鴆殺す。攸は、壽の養弟なり。是に於て越及び景騫・田褒・姚華と與に壽等を襲はんと謀り、因て市橋を燒きて兵を發さんと欲す。期 又 累ねて中常侍の許涪を遣りて壽の所に至らしめ、其の動靜を伺ふ。攸を殺すに及び、壽 大いに懼れ、又 許涪 往來の數々なるを疑ひ、乃ち步騎一萬を率ゐて、涪自り成都に向ひ、表して景騫・田褒 政を亂せば、晉陽の甲を興し〔一〕、以て君側の惡を除くと稱す。李奕を以て先登と為す。壽 成都に到り、期・越 其の至るを虞れず、素より備設せず、壽 遂に其の城を取り、兵を屯して門に至る。期 侍中を遣はして壽を勞ひ、壽 相國・建寧王越、尚書令・河南公景騫、尚書田褒・姚華、中常侍許涪、征西將軍李遐及び將軍李西等、皆 姦を懷き政を亂し、社稷を傾けんと謀り、大逆不道、罪は夷滅に合ふと奏す。期 之に從ひ、是に於て越・騫等を殺す。壽 任氏の令を矯め、期を廢して邛都縣公と為し、之を別宮に幽す。期 歎きて曰く、「天下の主 乃ち當に小縣公と為るべし、死するに如かず」と。咸康三年、自ら縊して死し、時に年二十五、在位三年なり。諡して幽公と曰ふ。葬に及び、鸞輅九旒を賜り、餘は王禮が如くす。雄の子 皆 壽の殺す所と為る。

〔一〕晋陽之甲は、地方長官が中央に不満を持って、君側の官を討伐するために起こす軍のこと。『春秋公羊伝』定公十三年に見える。

現代語訳

李期は字を世運といい、李雄の第四子。聡明で学問を好み、弱冠にして文を綴るのが上手く、財を軽んじて施しを好み、虚心に人材を招いた。初め建威将軍となり、李雄の子だち及び宗室の子弟に恩信によって協力者を集めさせると、多くても数百に届かぬなか、李期だけが千餘人を動員した。彼が推薦する人材は、李雄に多く採用され、ゆえに長史は役所の門から溢れて列をなした。
李班を殺すと、李越が主君になりかけたが、李期は李雄の妻である任氏に養われた子であり、才能と教養があるため(李越は)李期に立場を譲った。こうして不当なる皇帝の位に即き、領内を大赦し、玉恒と改元した。李班の弟である李都を誅した。李寿を派遣して李都の弟である李玝を涪で討伐し、李玝は城を棄てて東晋に降った。李寿を漢王に封じ、梁州刺史・東羌校尉・中護軍・録尚書事を拝した。兄の李越を建寧王に封じ、相国・大将軍・録尚書事を拝した。妻の閻氏を皇后に立てた。衛将軍の尹奉を右丞相・驃騎将軍・尚書令とし、王瓌を司徒とした。李期は自ら大いなる計画を達成したので、旧臣たちを軽んじ、外朝では尚書令の景騫・尚書の姚華・田褒を信任した。田褒は特に才芸がないが、李雄の時代に李期を立てよと勧めたので、寵任された。内朝では宦官の許涪らを信任した。国の刑罰と政治は、公卿や大臣に任せてしまい、褒賞と刑罰を、数人だけで決めたので、秩序が紊乱した。尚書僕射・武陵公の李載が謀反したと誣告し、下獄して死なせた。これより先、東晋の建威将軍の司馬勲が漢中に駐屯しており、李期は李寿にこれを攻略して陥落させ、守宰を設置し、南鄭を守らせた。
李雄の子である李霸・李保は病気でないにも拘わらず死に、みな李期が鴆殺したと言い、こうして大臣は懼れを抱き、不安になった。天から大魚が宮中に降り、黄色であった。宮中で豚と犬が交わった。李期は大勢を誅殺し、婦女や資財を没収して後宮に満たし、内外はびくびくし、道路で目配せし、諫めれば有罪とされ、人々は無事を願った。李期は安北将軍の李攸を鴆殺した。李攸は、李寿の養弟である。かくして(李期は)李越及び景騫・田褒・姚華とともに李寿の襲撃を計画し、市橋を焼いて兵を動かそうとした。李期は重ねて中常侍の許涪を李寿のもとに派遣し、その様子を探った。李攸が殺されると、李寿は大いに懼れ、また許涪が何度も来るのを怪しみ、歩騎一万を率い、涪から成都に向かい、(李寿は)上表して景騫・田褒が政治を乱しており、晋陽の甲(地方発の軍)を興し、君側の悪を除くと唱えた。李奕に先陣を切らせた。李寿が成都に到着したが、李期・李越はその到着を警戒せず、かねて防備を怠っていたので、李寿が城を奪取し、兵を留めて門に至った。李期は侍中を派遣して李寿を労い、李寿が上奏するには相国・建寧王の李越、尚書令・河南公の景騫、尚書の田褒・姚華、中常侍の許涪、征西将軍李遐及び将軍の李西らは、いずれも姦悪な心を持って政治を乱し、社稷を傾けようとし、大逆にして不道なので、罪状は誅滅に相当すると言った。李期はこれに従い、李越・景騫らを殺した。李寿は(李期の養母である)任氏の令を偽造し、李期を廃して邛都県公とし、別宮に幽閉した。李期は、「天下の主が小さな県公になるなら、死んだほうがまし」と歎いた。咸康三(三三七)年(正しくはその翌年)、首を絞めて自殺し、ときに二十五歳、在位は三年(正しくは四年)であった。幽公と諡した。葬送のとき、鸞輅九旒を賜り、それ以外は王の礼とした。李雄の子はすべて李寿に殺害された。

李壽

原文

壽字武考、驤之子也。敏而好學、雅量豁然、少尚禮容、異於李氏諸子。雄奇其才、以為足荷重任、拜前將軍・督巴西軍事、遷征東將軍。時年十九、聘處士譙秀以為賓客、盡其讜言、在巴西威惠甚著。驤死、遷大將軍・大都督・侍中、封扶風公、錄尚書事。征寧州、攻圍百餘日、悉平諸郡、雄大悅、封建寧王。雄死、受遺輔政。期立、改封漢王、食梁州五郡、領梁州刺史。
壽威名遠振、深為李越・景騫等所憚、壽深憂之。代李玝屯涪、每應期朝覲、常自陳邊疆寇警、不可曠鎮、故得不朝。壽又見期・越兄弟十餘人年方壯大、而並有強兵、懼不自全、乃數聘禮巴西龔壯。壯雖不應聘、數往見壽。時岷山崩、江水竭、壽惡之、每問壯以自安之術。壯以特殺其父及叔、欲假手報仇、未有其由、因說壽曰、節下若能捨小從大、以危易安、則開國裂土、長為諸侯、名高桓文、勳流百代矣。壽從之、陰與長史略陽羅1.(桓)〔恒〕・巴西解思明共謀據成都、稱藩歸順。乃誓文武、得數千人、襲成都、克之、縱兵虜掠、至乃姦略雄女及李氏諸婦、多所殘害、數日乃定。
恒與思明及李奕・王利等勸壽稱鎮西將軍・益州牧・成都王、稱藩于晉、而任調與司馬蔡興・侍中李艷及張烈等勸壽自立。壽命筮之、占者曰、可數年天子。調喜曰、一日尚為足、而況數年乎。思明曰、數年天子、孰與百世諸侯。壽曰、朝聞道、夕死可矣。任侯之言、策之上也。遂以咸康四年僭即偽位、赦其境內、改元為漢興。以董皎為相國、羅恒・馬當為股肱、李奕・任調・李閎為爪牙、解思明為謀主。以安車束帛聘龔壯為太師、壯固辭、特聽縞巾素帶、居師友之位。拔擢幽滯、處之顯列。追尊父驤為獻帝、母昝氏為太后、立妻閻氏為皇后、世子勢為太子。

1.『華陽國志』九・『通鑑』九十六に従って改める。以下同じ。

訓読

壽 字は武考、驤の子なり。敏にして學を好み、雅量 豁然たり、少くして禮容を尚び、李氏の諸子と異なる。雄 其の才を奇とし、以て重任を荷ふに足ると為し、前將軍・督巴西軍事を拜し、征東將軍に遷る。時に年十九、處士の譙秀を聘きて以て賓客と為し、其の讜言を盡くし、巴西に在りて威惠 甚だ著はる。驤 死し、大將軍・大都督・侍中に遷り、扶風公に封ぜられ、錄尚書事たり。寧州を征し、攻圍すること百餘日、悉く諸郡を平らげ、雄 大いに悅び、建寧王に封ず。雄 死し、遺を受けて輔政す。期 立ち、改めて漢王に封じ、梁州五郡を食み、梁州刺史を領す。
壽の威名 遠く振ひ、深く李越・景騫等の憚る所と為り、壽 深く之を憂ふ。李玝に代はりて涪に屯し、期に應じて朝覲する每に、常に自ら邊疆 寇警にして、鎮を曠しくす可からざると陳べ、故に朝せざるを得。壽 又 期・越の兄弟十餘人の年 方に壯大たりて、並びに強兵を有つを見て、自全せざるを懼れ、乃ち數々禮もて巴西の龔壯を聘す。壯 聘に應ぜざると雖も、數々往きて壽に見ゆ。時に岷山 崩れ、江水 竭れ、壽 之を惡み、每に壯に自安の術を以て問ふ。壯 特の其父及び叔を殺し、手を假りて報仇せんと欲し、未だ其の由に有らざるを以て、因て壽に說きて曰く、「節下 若し能く小を捨て大に從はば、危を以て安に易へ、則ち國を開き土を裂き、長く諸侯と為り、名は桓文より高く、勳は百代に流れん」と。壽 之に從ひ、陰かに長史たる略陽の羅(桓)〔恒〕・巴西の解思明と共に成都に據り、稱藩して歸順するを謀る。乃ち文武に誓ひ、數千人を得て、成都を襲ひ、之に克ち、兵を縱にして虜掠し、乃ち雄の女及び李氏の諸婦を姦略するに至り、多く殘害する所あり、數日にして乃ち定む。
恒 思明及び李奕・王利等と與に壽に鎮西將軍・益州牧・成都王を稱し、晉に稱藩するを勸め、而るに任調 司馬蔡興・侍中の李艷及び張烈等と與に壽に自立を勸む。壽 命じて之を筮し、占者曰く、「數年 天子たる可し」と。調 喜びて曰く、「一日もて尚ほ足ると為す、況んや數年をや」と。思明曰く、「數年にして天子たるは、百世に諸侯たるに孰れぞ」と。壽曰、「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。任侯の言、策の上なり」と。遂に咸康四年を以て僭して偽位に即き、其の境內を赦し、改元して漢興と為す。董皎を以て相國と為し、羅恒・馬當もて股肱と為し、李奕・任調・李閎もて爪牙と為し、解思明もて謀主と為す。安車束帛を以て龔壯を聘して太師と為し、壯 固辭し、特に縞巾素帶を聽し、師友の位に居らしむ。幽滯を拔擢し、之を顯列に處す。父の驤を追尊して獻帝と為し、母昝氏もて太后と為し、妻閻氏を立てて皇后と為し、世子の勢もて太子と為す。

現代語訳

李寿は字を武考といい、李驤の子。明敏で学問を好み、度量は広々とし、若くして礼義正しさを身に着け、李氏(皇族)の諸子と異なった。李雄はその才能に着目し、重任を担えると考え、前将軍・督巴西軍事を拝し、征東将軍に遷った。時に年は十九、処士の譙秀を賓客に招き、その道理の通った助言を聞き、巴西において威恵が顕著であった。李驤が死ぬと、大将軍・大都督・侍中に遷り、扶風公に封じられ、録尚書事となった。寧州を征伐し、攻撃し包囲すること百餘日、全ての郡を平定し、李雄はとても悦び、建寧王に封じた。李雄が死ぬと、遺言により輔政した。李期が即位すると、改めて漢王に封ぜられ、梁州五郡を食邑とし、梁州刺史を領した。
李寿の威名は遠くまで聞こえたので、李越・景騫らに警戒をされ、危機感を募らせた。李玝に代わって涪に駐屯し、期日を決めて朝廷に拝謁するたび、いつも国境を警戒したが、出鎮の守りを手薄にすべきでないと提言し、朝廷への参内を免除された。李寿はさらに李期・李越の兄弟が十餘人いて壮年に達し、強兵を擁しているので、身の危険を感じ、しばしば礼を尽くして巴西の龔壮を招聘した。龔壮は招きに応じ(臣従し)なかったが、たびたび訪問して李寿と会ってくれた。ときに岷山が崩れ、江水が枯れたので、李寿はこれを不吉とし、つねに龔壮に生き残りの方法の助言を求めた。龔壮は李特にその父及び叔父を殺され、手を借りて報仇しようとしたが、(龔氏の怨みでは李寿を動かす)理由にならぬことから、李寿に説いて、「あなたが小事を捨て大事に従えば、危難を安全に変え、国を開き土地を割き、長く(東晋の)諸侯となり、名望は桓公や文公よりも高く、勲功は百世に伝わるでしょう」と言った。李寿はこれに従い、ひそかに長史である略陽の羅恒・巴西の解思明とともに成都を拠点とし、称藩して(東晋に)帰順しようと計画した。文武の官に誓い、数千人の味方を得て、(李期のいる)成都を襲い、これに勝利し、兵に掠奪を許し、李雄の女及び李氏の女性に暴行し、多くを惨殺し、数日で収まった。
羅恒は解思明及び李奕・王利らとともに李寿に鎮西将軍・益州牧・成都王を称し、東晋に称藩することを勧めたが、任調は司馬蔡興・侍中の李艷及び張烈らとともに李寿に自立を勧めた。李寿はこれを筮竹で占わせ、占者は、「数年間は天子でいられる」と答えた。任調は喜び、「一日でも十分というが、数年とは凄いではないか」と言った。解思明は、「数年間だけ天子になるのと、百代にわたり(東晋の)諸侯でいるのとどちらが良いか」と言った。李寿は、「(論語に)朝に道を聞けば、夕に死んでもよいという。任侯の意見のほうが、優れている」と言った。そこで咸康四(三三八)年に不当に皇位に即き、領内を赦し、漢興と改元した。董皎を相国とし、羅恒・馬当を股肱とし、李奕・任調・李閎を爪牙とし、解思明を謀主とした。安車束帛で龔壮を招聘して太師としたが、龔壮は固辞し、特別に縞巾素帯を身に着けることを許し、師友の位とした。隠逸の士を抜擢し、高位に置いた。父の李驤に追尊して献帝とし、母の昝氏を太后とし、妻の閻氏を皇后に立て、世子の李勢を太子とした。

原文

有告廣漢太守李乾與大臣通謀、欲廢壽者。壽令其子廣與大臣盟于前殿、徙乾漢嘉太守。大風暴雨、震其端門。壽深自悔責、命羣臣極盡忠言、勿拘忌諱。
遣其散騎常侍王嘏・中常侍王廣聘於石季龍。先是、季龍遺壽書、欲連橫入寇、約分天下。壽大悅、乃大修船艦、嚴兵繕甲、吏卒皆備糇糧。以其尚書令馬當為六軍都督、假節鉞、營東場大閱、軍士七萬餘人、舟師泝江而上。過成都、鼓譟盈江、壽登城觀之。其羣臣咸曰、我國小眾寡、吳會險遠、圖之未易。」解思明又切諫懇至、壽於是命羣臣陳其利害。龔壯諫曰、「陛下與胡通、孰如與晉通。胡、豺狼國也。晉既滅、不得不北面事之。若與之爭天下、則強弱勢異。此虞虢之成範、已然之明戒、願陛下熟慮之。」羣臣以壯之言為然、叩頭泣諫、壽乃止、士眾咸稱萬歲。
遣其鎮東大將軍李奕征牂柯、太守謝恕保城距守者積日、不拔。會奕糧盡、引還。壽以其太子勢領大將軍・錄尚書事。
壽承雄寬儉、新行篡奪、因循雄政、未逞其志欲。會李閎・王嘏從鄴還、盛稱季龍威強、宮觀美麗、鄴中殷實。壽又聞季龍虐用刑法、王遜亦以殺罰御下、並能控制邦域、壽心欣慕、人有小過、輒殺以立威。又以郊甸未實、都邑空虛、工匠器械、事未充盈、乃徙旁郡戶三丁已上以實成都、興尚方御府、發州郡工巧以充之、廣修宮室、引水入城、務於奢侈。又廣太學、起讌殿。百姓疲於使役、呼嗟滿道、思亂者十室而九矣。其左僕射蔡興切諫、壽以為誹謗、誅之。右僕射李嶷數以直言忤旨、壽積忿非一、託以他罪、下獄殺之。壽疾篤、常見李期・蔡興為祟。1.八年、壽死、時年四十四、在位2.五年。偽諡昭文帝、廟曰中宗、墓曰安昌陵。
壽初為王、好學愛士、庶幾善道、每覽良將賢相建功立事者、未嘗不反覆誦之、故能征伐四克、闢國千里。雄既垂心於上、壽亦盡誠於下、號為賢相。及即偽位之後、改立宗廟、以父驤為漢始祖廟、特・雄為大成廟、又下書言與期・越別族、凡諸制度、皆有改易。公卿以下、率用己之僚佐、雄時舊臣及六郡士人、皆見廢黜。壽初病、思明等復議奉王室、壽不從。李演自越嶲上書、勸壽歸正返本、釋帝稱王、壽怒殺之、以威龔壯・思明等。壯作詩七篇、託言應璩以諷壽。壽報曰、「省詩知意。若今人所作、賢哲之話言也。古人所作、死鬼之常辭耳。」動慕漢武・魏明之所為、恥聞父兄時事、上書者不得言先世政化、自以己勝之也。

1.「八年」は「九年」に作るのが正しい。
2.「五年」は「六年」に作るのが正しい。

訓読

廣漢太守の李乾 大臣と通謀し、壽を廢せんと欲すると告ぐる有り。壽 其の子廣をして大臣と前殿に盟はしめ、乾を漢嘉太守に徙す。大風暴雨、其の端門を震はす。壽 深く自ら悔責し、羣臣に命じて極盡忠言、忌諱を拘る勿かれとす。
其の散騎常侍の王嘏・中常侍の王廣を遣はして石季龍に聘せしむ。是より先、季龍 壽に書を遺り、連橫して入寇し、約して天下を分けんと欲す。壽 大いに悅び、乃ち大いに船艦を修め、兵を嚴にし甲を繕ひ、吏卒 皆 糇糧を備ふ。其の尚書令たる馬當を以て六軍都督と為し、節鉞を假し、東場に營して大いに閱せしめ、軍士七萬餘人、舟師 江を泝上す。成都を過り、鼓譟 江に盈ち、壽 城に登りて之を觀る。其の羣臣 咸 曰く、「我が國は小さく眾は寡なく、吳會 險遠たれば、之を圖ること未だ易からず」と。解思明 又 切諫して懇至し、壽 是に於て羣臣に命じて其の利害を陳べしむ。龔壯 諫めて曰く、「陛下 胡と通じ、晉と通ずるに孰如(いづれ)ぞ。胡、豺狼の國なり。晉 既に滅し、北面して之に事へざるを得ず。若し之と天下を爭へば、則ち強弱 勢は異なる。此れ虞虢〔一〕の成範、已然の明戒にして、願はくは陛下 之を熟慮せよ」と。羣臣 壯の言を以て然りと為し、叩頭して泣諫し、壽 乃ち止み、士眾 咸 萬歲を稱す。
其の鎮東大將軍李奕を遣はして牂柯を征し、太守の謝恕 城に保して距守すること積日、拔かず。會 奕の糧 盡き、引還す。壽 其の太子たる勢を以て大將軍・錄尚書事を領せしむ。
壽 雄の寬儉を承け、新たに篡奪を行ひ、因りて雄の政に循ひ、未だ其の志欲を逞しくせず。會 李閎・王嘏 鄴從り還り、盛んに季龍の威強にして、宮觀は美麗、鄴中は殷實なるを稱ふ。壽 又 季龍 刑法を虐用し、王遜 亦 殺罰を以て下を御し、並びに能く邦域を控制するを聞き、壽 心に欣慕し、人に小過有れば、輒ち殺して以て威を立つ。又 郊甸 未だ實らず、都邑 空虛にして、工匠器械、事 未だ充盈せざるを以て、乃ち旁郡の戶三丁已上を徙して以て成都に實たし、尚方の御府を興し、州郡の工巧を發して以て之に充たし、廣く宮室を修め、水を引きて城に入れ、奢侈に務む。又 太學を廣くし、讌殿を起つ。百姓 使役に疲れ、呼嗟 道に滿ち、亂を思ふ者 十室ありて九なり。其の左僕射たる蔡興 切諫し、壽 以て誹謗と為し、之を誅す。右僕射の李嶷 數々直言を以て旨に忤ひ、壽 忿を積むこと一に非ず、他罪を以て託け、下獄して之を殺す。壽 疾 篤く、常に李期・蔡興 祟を為すを見る。八年、壽 死し、時に年四十四、在位五年なり。偽りて昭文帝と諡し、廟を中宗と曰ふ、墓を安昌陵と曰ふ。
壽 初め王と為るや、學を好み士を愛し、善道を庶幾し、每に良將賢相の功を建て事を立つる者を覽じ、未だ嘗て反覆して之を誦せずんばあらず、故に能く征伐して四克し、國を千里に闢く。雄 既に心を上に垂れ、壽も亦 誠を下に盡し、號して賢相と為す。偽位に即くの後に及び、改めて宗廟を立て、父の驤を以て漢の始祖廟と為し、特・雄もて大成廟と為し、又 書を下して期・越に與へ族を別にすと言ひ、凡そ諸制度、皆 改易すること有り。公卿以下、率て己の僚佐に用ひ、雄の時の舊臣及び六郡士人、皆 廢黜せらる。壽 初めて病み、思明等 復た王室を奉ることを議し、壽 從はず。李演 越嶲自り上書し、壽に正に歸し本に返し、帝を釋きて王を稱するを勸め、壽 怒りて之を殺し、以て龔壯・思明等を威す。壯 詩七篇を作り、言を應璩に託けて以て壽を諷す。壽 報ゐて曰く、「詩を省て意を知る。若し今人 作る所ならば、賢哲の話言なり。古人の作る所ならば、死鬼の常辭なるのみ」と。動すれば漢武・魏明の所為を慕ひ、父兄の時の事を恥聞し、上書する者 先世の政化を言ふを得ず、自ら以へらく己を之に勝れりとす。

〔一〕虞と虢は、どちらも春秋時代の国名。いずれも春秋晋に利用され滅ぼされた。ここでは、東晋と成漢がこの二国に準えられている。

現代語訳

広漢太守の李乾が大臣と通謀し、李寿を廃位しようとしたと密告があった。李寿は子の李広に大臣と前殿で(反意はないと)誓約させ、李乾を漢嘉太守に移した。大風と豪雨があり、端門を震わせた。李寿は深く反省し、郡臣にどんな直言も遠慮するなと命じた。
散騎常侍の王嘏・中常侍の王広を(後趙の)石季龍への使者とした。これより先、石季龍は李寿に文書を贈り、連携して(東晋に)侵攻し、天下の分割を持ちかけた。李寿は大いに悦び、船艦を建造し、兵と武具を整え、吏卒は兵糧を準備した。尚書令の馬当を六軍都督とし、節鉞を仮し、東場で閲兵し、軍士は七万餘人、水軍は江水を遡った。成都を通過し、軍鼓が江水に満ち、李寿は城に登って見た。郡臣はみな、「わが国は小さく兵は少なく、呉会(東晋)は険阻で遠いので、遠征は容易ではありません」と言った。解思明もきつく諫めたので、李寿は郡臣に利害を検討させた。龔壮は諫め、「陛下にとって胡族(後趙の石氏)と同盟するのは、東晋との同盟と比べてどちらが良いでしょうか。胡族は、豺狼の国です。東晋を滅亡させたら、彼らに北面して臣従せざるを得ません。もし彼らと天下を争えば、強弱の差は歴然としています。虞と虢の前例は、明らかな教戒です、陛下は熟慮なさいませ」と言った。郡臣は龔壮に賛同し、叩頭して泣いて諫めたので、李寿は思い止まり、士衆は万歳を唱えた。
鎮東大将軍の李奕に牂柯を征伐させたが、太守の謝恕は数日にわたり城を堅持し、陥落しなかった。李奕の兵糧が尽き、撤退した。李寿は太子の李勢に大将軍・録尚書事を領させた。
李寿は李雄の寛大さと倹約ぶりを継承し、新たに帝位を僭号したが、李雄の政治を踏襲し、野心は限定的であった。ちょうど李閎・王嘏が鄴(後趙)から還ると、盛んに石季龍の威権が強く、宮殿は美麗で、鄴城のなかが豊かだったと称賛した。また李寿は石季龍が刑法を濫用し、王遜が刑罰と殺害により部下に言うことを聞かせ、国土の求心力を高めていると聞き、李寿は胸中で憧れを抱き、人に小さな過ちがあれば、殺して権威を高めた。また領内が豊かでなく、都邑の蓄えが空っぽで、工人や器物ですら、十分でないから、周囲の郡の家に成人男性が三人以上いれば成都に移住させ、尚方の御府を創設し、州郡の工人をここに集め、宮室を増築し、川の水を引き入れ、奢侈に流れた。また太学を広げ、讌殿を建てた。百姓は労役に疲れ、怨嗟が道にあふれ、十人のうち九人が乱を待望した。左僕射である蔡興がきつく諫めたが、李寿は誹謗と受け取り、彼を誅殺した。右僕射の李嶷が意に沿わぬ直言をくり返すから、李寿は怨みを募らせ、他の罪にかこつけ、下獄して殺した。李寿の病気が重くなると、李期・蔡興の権威が高まった。咸康八(三四二)年(正しくは翌年)、李寿が死に、時に年四十四、在位は五年(正しくは六年)であった。昭文帝と諡し、廟を中宗といい、墓を安昌陵とした。
李寿が王になった直後は、学問を好み人士を愛し、善政を心がけ、良将や賢相が功績を立てるのを見守り、かつて前言撤回してあげつらうことがなく、だから四方を征伐して成果があり、国土を千里に開いた。李雄は上位者に敬意を抱き、李寿も下位者に誠意を尽くし、賢相と呼んだ。不当に皇位に即いた後、改めて宗廟を立て、父の李驤を漢の始祖廟とし、李特・李雄を大成廟とし、李期・李越に文書を与えて氏族を分立させ、諸制度は、ひと通り改変した。公卿以下、自分の僚佐として(朝廷に)登用し、李雄のときの旧臣及び六郡の士人は、全員が罷免された。李寿が病気になると、解思明らは再び東晋奉戴を議論したが、李寿は従わなかった。李演が越嶲から上書し、李寿に本来の道に回帰し、帝位を除いて王位に戻せと勧めたので、李寿は怒って彼を殺し、龔壮・解思明らを牽制した。龔壮は詩七篇を作り、(三国魏の)応璩の言葉に託して李寿を批判した。李寿は、「詩を見て考えが分かった。もし現代の作品ならば、賢哲の言葉である。古人の作品ならば、平凡な言葉だな」と感想を伝えた。ともすれば漢武帝・魏明帝の事業に憧れる一方、父や兄(李特・李雄)の事業を恥じたので、上書する者は先代(李氏)の政治に言及できず、(李寿は)自分のほうが(父や兄より)優れていると思っていた。

李勢

原文

勢字子仁、壽之長子也。初、壽妻閻氏無子、驤殺李鳳、為壽納鳳女、生勢。期愛勢姿貌、拜翊軍將軍・漢王世子。勢身長七尺九寸、腰帶十四圍、善於俯仰、時人異之。壽死、勢嗣偽位、赦其境內、改元曰太和。尊母閻氏為太后、妻李氏為皇后。
太史令韓皓奏熒惑守心、以宗廟禮廢、勢命羣臣議之。其相國董皎・侍中王嘏等以為景武昌業、獻文承基、至親不遠、無宜疏絕。勢更令祭特・雄、同號曰漢王。勢弟大將軍・漢王廣以勢無子、求為太弟、勢弗許。馬當・解思明以勢兄弟不多、若有所廢、則益孤危、固勸許之。勢疑當等與廣有謀、遣其太保李奕襲廣於涪城、命董皎收馬當・思明斬之、夷其三族。貶廣為臨邛侯、廣自殺。思明有計謀、強諫諍、馬當甚得人心、自此之後、無復紀綱及諫諍者。
李奕自晉壽舉兵反之、蜀人多有從奕者、眾至數萬。勢登城距戰。奕單騎突門、門者射而殺之、眾乃潰散。勢既誅奕、大赦境內、改年嘉寧。初、蜀土無獠、至此、始從山而出、北至犍為・梓潼、布在山谷、十餘萬落、不可禁制、大為百姓之患。勢既驕吝、而性愛財色、常殺人而取其妻、荒淫不恤國事。夷獠叛亂、軍守離缺、境宇日蹙。加之荒儉、性多忌害、誅殘大臣、刑獄濫加、人懷危懼。斥外父祖臣佐、親任左右小人、羣小因行威福。又常居內、少見公卿。史官屢陳災譴、乃加董皎太師、以名位優之、實欲與分災眚。

訓読

勢 字は子仁、壽の長子なり。初め、壽の妻閻氏 子無く、驤 李鳳を殺し、壽の為に鳳の女を納れ、勢を生む。期 勢の姿貌を愛し、翊軍將軍・漢王世子を拜す。勢 身長は七尺九寸、腰帶は十四圍にして、俯仰に善く、時人 之を異とす。壽 死し、勢 偽位を嗣ぎ、其の境內を赦し、改元して太和と曰ふ。母閻氏を尊びて太后と為し、妻李氏もて皇后と為す。
太史令の韓皓 熒惑 守心して、以て宗廟の禮 廢ると奏し、勢 羣臣に命じて之を議せしむ。其の相國たる董皎・侍中たる王嘏等 以為へらく景武 業を昌んにし、獻文 基を承く、至親 遠からざれば、宜しく疏絕すべきこと無しと。勢 更めて特・雄を祭らしめ、同に號して漢王と曰ふ。勢の弟たる大將軍・漢王廣 勢に子無きを以て、太弟と為ることを求め、勢 許さず。馬當・解思明 勢の兄弟 多からざるを以て、若し廢する所有れば、則ち益々孤危たれば、固く之を許すことを勸む。勢 當等 廣と謀有るを疑ひ、其の太保たる李奕をして廣を涪城に襲はしめ、董皎に命じて馬當・思明を收めて之を斬り、其の三族を夷せしむ。廣を貶めて臨邛侯と為し、廣 自殺す。思明 計謀有り、強く諫諍し、馬當 甚だ人心を得、此自りの後、復た紀綱及び諫諍する者無し。
李奕 晉壽自り舉兵して之に反き、蜀人 多く奕に從ふ者有り、眾 數萬に至る。勢 城に登りて距戰す。奕 單騎にて門に突し、門者は射て之を殺し、眾 乃ち潰散す。勢 既に奕を誅し、境內に大赦し、嘉寧と改年す。初め、蜀土 獠無けれども、此に至り、始めて山從り出で、北のかた犍為・梓潼に至り、山谷に布在し、十餘萬落、禁制す可からず、大いに百姓の患と為る。勢 既に驕吝たりて、性は財色を愛し、常に人を殺して其の妻を取り、荒淫して國事を恤まず。夷獠 叛亂し、軍守 離缺し、境宇 日に蹙む。之の荒儉に加へ、性は忌害多く、大臣を誅殘し、刑獄 濫りに加へ、人 危懼を懷く。父祖の臣佐を斥外し、左右の小人を親任し、羣小 因りて威福を行ふ。又 常に內に居り、公卿に見ゆること少し。史官 屢々災譴を陳べ、乃ち董皎に太師を加へて、名位を以て之を優し、實に災眚を與分せんと欲す。

現代語訳

李勢は字を子仁といい、李寿の長子である。初め、李寿の妻の閻氏は子がおらず、李驤が李鳳を殺すと、李寿のために李鳳の娘を娶らせ、李勢が生まれた。李期は李勢の姿貌を愛し、翊軍将軍・漢王世子とした。李勢は身長は七尺九寸、胴周りは十四囲あり、見栄えがよく、評価された。李寿が死ぬと、李勢が皇位を嗣ぎ、領内を赦し、太和と改元した。母の閻氏を太后とし、妻の李氏を皇后とした。
太史令の韓皓が熒惑(火星)が彷徨って、宗廟の礼が廃れると上奏したので、李勢は郡臣に議論させた。相国の董皎・侍中の王嘏らは景武(李特と李雄)が事業を盛んにし、献文(李驤と李寿)が基礎を継承しており、親族を大切にすれば、宗廟は廃れませんと言った。李勢は改めて李特・李雄を祭らせ、彼らにも漢王の号を贈った。李勢の弟である大将軍・漢王李広は李勢に子がいないので、皇太弟になりたいと求めたが、李勢は許さなかった。馬当・解思明は李勢の兄弟が少ないから、万一のことがあれば、断絶の恐れが増すので、太弟を立てよと勧めた。李勢は馬当らが李広と共謀していると疑い、太保の李奕に命じて李広を涪城で襲わせ、董皎に命じて馬当・解思明を捕らえて斬り、三族を皆殺しにした。李広は臨邛侯に降格されると、自殺した。解思明は戦略性をそなえ、諫言を辞さず、馬当は人心を得ていたので、これ以後、計略や諫止を唱える者がいなくなった。
李奕は晋寿から挙兵してこれに叛き、多くの蜀人がこれに従い、軍勢は数万に至った。李勢は城壁に登り防戦した。李奕は単騎で城門に突撃したが、門兵に射殺され、潰走した。李勢は李奕を誅すると、領内に大赦し、嘉寧と改元した。もともと蜀の領域に獠(異民族の名)はいなかったが、このとき、山から出てきて、北部の犍為・梓潼に至り、山谷に広がり、十餘萬落が、制御できず、百姓をとても苦しめた。李勢は驕慢で吝嗇、財貨と色を好み、人を殺して妻を奪い、荒淫して国政を顧みなかった。夷や獠が叛乱し、守りの軍が離れて不足し、領土は日々縮小した。けちで荒廃するだけでなく、嫉妬深く、大臣を誅殺し、みだりに刑罰を加え、人々は危懼を抱いた。父祖からの補佐を排斥し、身近な小人を親任し、下らぬ者どもが威権を振るった。後宮に引き籠もり、ほとんど公卿に会わなかった。史官がしばしば災異と譴責について述べ、董皎に太師を加え、名号を優遇し、災難の責任を分担させようとした。

原文

大司馬桓溫率水軍伐勢。溫次青衣、勢大發軍距守、又遣李福與昝堅等數千人從山陽趣合水距溫。謂溫從步道而上、諸將皆欲設伏於江南以待王師、昝堅不從、率諸軍從江北鴛鴦碕渡向犍為。而溫從山陽出江南、昝堅到犍為、方知與溫異道、乃迴從沙頭津北渡。及堅至、溫已造成都之十里陌、昝堅眾自潰。溫至城下、縱火燒其大城諸門。勢眾惶懼、無復固志、其中書監王嘏・散騎常侍常璩等勸勢降。勢以問侍中馮孚、孚言、「昔吳漢征蜀、盡誅公孫氏。今晉下書、不赦諸李、雖降、恐無全理。」
勢乃夜出東門、與昝堅走至晉壽、然後送降文於溫曰、「偽嘉寧二年三月十七日、略陽李勢叩頭死罪。伏惟大將軍節下、先人播流、恃險因釁、竊自汶蜀。勢以闇弱、復統末緒、偷安荏苒、未能改圖。猥煩朱軒、踐冒險阻。將士狂愚、干犯天威。仰慚府愧、精魂飛散、甘受斧鑕、以釁軍鼓。伏惟大晉、天網恢弘、澤及四海、恩過陽日。逼迫食卒、自投草野。即日到白水城、謹遣私署散騎常侍王幼奉牋以聞、并敕州郡投戈釋杖。窮池之魚、待命漏刻。」勢尋輿櫬面縛軍門、溫解其縛、焚其櫬、1.遷勢及弟福・從兄權親族十餘人于建康、封勢歸義侯。升平五年、死于建康。在位五年而敗。
始、李特以惠帝太安元年起兵、至此六世、2.凡四十六年、以穆帝永和三年滅。

1. 「遷勢及弟福」は、周校・桓溫傳は「勢叔父福」に作り、そちらが正しい。「弟」の上に「壽」を補うと適切となる。
2.「凡四十七年」に作るのが正しい。

訓読

大司馬桓溫 水軍を率ゐて勢を伐つ。溫 青衣に次り、勢 大いに軍を發して距守し、又 李福と昝堅等を遣はして數千人もて山陽從り合水に趣きて溫を距ぐ。溫 步道從り上ると謂ひ、諸將 皆 伏を江南に設けて以て王師を待たんと欲し、昝堅 從はず、諸軍を率ゐて江北の鴛鴦碕從り渡りて犍為に向ふ。而して溫 山陽從り江南に出で、昝堅 犍為に到り、方に溫と道を異にするを知り、乃ち迴りて沙頭津從り北のかた渡る。堅 至るに及び、溫 已に成都の十里陌に造し、昝堅の眾 自潰す。溫 城下に至り、縱に其の大城諸門を火燒す。勢眾 惶懼し、復た固志無く、其の中書監たる王嘏・散騎常侍たる常璩等 勢に降ることを勸む。勢 以て侍中の馮孚に問ふに、孚 言はく、「昔 吳漢 蜀を征し、盡く公孫氏を誅す。今 晉 書を下し、諸李を赦さず、降ると雖も、恐らくは全理無し」と。
勢 乃ち夜に東門を出で、昝堅と走りて晉壽に至り、然る後 降文を溫に送りて曰く、「偽嘉寧二年三月十七日、略陽の李勢 叩頭して死罪なり。伏して惟るに大將軍節下、人に先んじて播流し、險に恃みて釁に因り、自ら汶蜀を竊む。勢 闇弱たるを以て、復た末緒を統めず、安を偷し荏苒として、未だ能く圖を改めず。猥りに朱軒を煩はし、冒を踐み阻を險す。將士 狂愚し、天威を干犯す。仰慚して府愧し、精魂 飛散し、斧鑕を甘受し、以て軍鼓を釁す。伏して大晉を惟ふに、天網 恢弘にして、澤は四海に及び、恩は陽日に過ぐ。逼迫 食卒にして、自ら草野に投ず。即日 白水城に到り、謹みて私署たる散騎常侍の王幼を遣はして牋を奉りて以て聞こえ、并せて州郡に敕して戈を投じ杖を釋く。窮池の魚、命を漏刻に待つ」と。勢 尋いで輿櫬して軍門に面縛し、溫 其の縛めを解き、其の櫬を焚き、勢及び弟の福・從兄權 親族十餘人を建康に遷し、勢を歸義侯に封ず。升平五年、建康に死す。在位五年にして敗る。
始め、李特 惠帝の太安元年を以て兵を起し、此の六世、凡そ四十六年に至り、穆帝の永和三年を以て滅す。

現代語訳

(東晋の)大司馬の桓温が水軍を率いて李勢を討伐した。桓温が青衣に停泊すると、李勢は大軍で防ぎ止め、李福と昝堅らに数千人を率いて山陽から合水にゆき桓温を食い止めさせた。桓温は陸路から遡るとされ、諸将は伏兵を江南に設けて王師(東晋軍)を待ち受けようとしたが、昝堅が従わず、諸軍を率いて江北の鴛鴦碕から渡って犍為に向かった。桓温は山陽から江南に出たが、昝堅は犍為に到着して、桓温と擦れ違ったと気づき、方向を変え沙頭津から江北に渡った。昝堅が到着したとき、桓温はすでに成都の十里陌に到達しており、昝堅の軍勢は自壊した。桓温は(成都)城下に至り、ほしいままに大城の諸門を焼き払った。李勢の軍勢は恐懼し、定見はなく、中書監の王嘏・散騎常侍の常璩らが李勢に降服を勧めた。李勢が侍中の馮孚に質問すると、馮孚は、「むかし(後漢の光武帝の臣)呉漢が蜀を征し、公孫氏(公孫述)を皆殺しにしました。いま東晋は、諸李(皇帝李氏の一族)を赦すなという文書を下しており、降服しても、生き残れません」と。
李勢は夜に東門を出て、昝堅とともに逃げて晋寿に至り、あとで降服文書を桓温に送り、「偽嘉寧二年三月十七日、略陽の李勢は叩頭し死罪に当たります。伏して思いますに大将軍節下、(私の祖先は)人に先んじて流亡し、険阻な土地で隙を突き、汶蜀の地を掠め取りました。この李勢は闇弱で、政権を維持できず、だらだらと安逸をむさぼり、考えを改める機会を逃しました。みだりに貴人に足労をかけ、険しい地に来て頂きました。将士は愚かに狂い、天の威勢に楯突きました。心から恥じ入り、精魂が飛び散っております、刑罰の斧鉞を甘受し、軍鼓を捧げます。伏して大いなる晋王朝を思うに、天は悪事を見逃さず、恩沢は四海に及び、太陽よりも温かいものです。迫られ、自ら草野に身を投じます。即日に白水城に到り、謹んで私設の散騎常侍である王幼を派遣して文書を提出し、州郡に停戦と武装解除を命じます。せまい池の魚は、命令をお待ちします」と言った。李勢は棺を担いで軍門で面縛したが、桓温は縛りをほどき、棺を焼き、李勢及び(李寿の)弟の李福・従兄の李権といった親族十餘人を建康に遷し、李勢を帰義侯に封じた。升平五(三六一)年、建康で死んだ。在位五年で敗北した。
はじめ、李特は(西晋の)恵帝の太安元年に起兵し、君主は六世、四十六年(正しくは四十七年)間存続し、穆帝の永和三年に滅亡した。

原文

史臣曰、昔周德方隆、古公切踰梁之患。漢祚斯永、宣后興渡湟之師。是知戎狄亂華、釁深自古、況乎巴濮雜種、厥類實繁、資剽竊以全生、習獷悍而成俗。李特世傳兇狡、早擅梟雄、太息劍門、志吞井絡。屬晉綱之落紐、乘羅侯之無斷、騁馬屬鞬、同聲雲集、殲殄蜀漢、薦食巴梁、沃野無半菽之資、華陽有析骸之爨。蓋上失其道、覆敗之至於斯。
仲儁天挺英姿、見稱奇偉、1.椎鋒累載、克隆霸業。蹈玄德之前基、掩子陽之故地、薄賦而綏弊俗、約法而悅新邦、擬於其倫、實孫權之亞也。若夫立子以嫡、往哲通訓、繼體承基、前修茂範。而雄闇經國之遠圖、蹈匹夫之小節、傳大統於猶子、託強兵於厥胤。遺骸莫斂、尋戈之釁已深。星紀未周、傾巢之釁便及。雖云天道、抑亦人謀。
班以寬愛罹災、期以暴戾速禍、殊塗並失、異術同亡。武考憑藉世資、窮兵竊位、罪百周帶、毒甚楚圍、獲保歸全、何其幸也。子仁承緒、繼傳昏虐、驅率餘燼、敢距大邦。授甲晨征、則理均於困獸。斬關宵遁、則義殊於前禽。宜其懸首國門、以明大戮、遂得禮同劉禪、不亦優乎。
贊曰、晉圖弛馭、百六斯鍾。天垂伏鼈、野戰羣龍。李特窺釁、盜我巴庸。世歷五朝、年將四紀。篡殺移國、昏狂繼軌。德之不修、險亦難恃。

1.「椎」は「推」に通じ、「推」に作るほうが適切だという。

訓読

史臣曰、昔 周德 方に隆く、古公 梁を踰ゆるの患を切にす〔一〕。漢祚 斯れ永く、宣后 湟を渡るの師を興す〔二〕。是に戎狄 華を亂すを、釁 古より深きを知り、況んや巴濮の雜種、厥の類 實に繁く、剽竊に資して以て生を全し、獷悍に習ひて俗と成すをや。李特 世に兇狡を傳へ、早く梟雄を擅にし、劍門に太息して、井絡を吞することを志す。晉綱の落紐するに屬き、羅侯の無斷に乘じ、馬を騁し鞬を屬け、聲を同じうして雲集し、蜀漢を殲殄し、巴梁に薦食し、沃野 半菽の資無く、華陽 析骸の爨有り〔三〕。蓋し上は其の道を失ひ、覆敗の斯に至る。
仲儁 天に英姿に挺(ぬきん)で、奇偉とせられ、鋒を椎すこと累載、克く霸業を隆くす。玄德の前基を蹈み、子陽の故地を掩ひ、賦を薄くして弊俗を綏んじ、法を約して新邦を悅ばしめ、其の倫に擬ふるは、實に孫權に亞ぐなり。若し夫れ子を立つるに嫡を以てするは、往哲の通訓、繼體 基を承くるは、前修の茂範なり。而れども雄 經國の遠圖に闇く、匹夫の小節を蹈み、大統を猶子に傳へ、強兵を厥の胤に託す。遺骸 斂むること莫く、戈を尋くの釁 已に深し。星紀 未だ周らず、巢を傾くるの釁 便ち及ぶ。天道と云ふと雖も、抑々亦た人謀なり。
班 寬愛を以て災に罹り、期 暴戾を以て禍を速くし、塗を殊にするとも並びに失ひ、術を異にするとも同じく亡す。武考 世資に憑藉して、兵を窮めて位を竊み、罪は周帶〔四〕を百にし、毒は楚圍〔五〕よりも甚し、歸全を保つを獲たり、何ぞ其れ幸ならんや。子仁 緒に承き、繼ぎて昏虐を傳へ、餘燼を驅率して、敢て大邦を距ぐ。甲を授けて晨に征かば、則ち理 困獸に均しからん。關を斬りて宵に遁ぐれば、則ち義 前禽に殊なり。宜しく其の首を國門に懸けて、以て大戮を明らかにすべし、遂に 禮 劉禪と同じくを得て、亦た優ならざるや。
贊に曰く、晉圖 馭を弛みて、百六 斯に鍾す。天 伏鼈を垂れて、野に羣龍を戰はす。李特 釁を窺ひて、我が巴庸を盜む。世々五朝を歷し、年 四紀に將(なんな)んとす。篡殺して國を移し、昏狂 軌を繼ぐ。德の修めざるは、險も亦た恃み難し。

〔一〕『史記』巻四 周本紀に見える。
〔二〕どの史実を指すのか未詳。
〔三〕『春秋左氏伝』宣公十五年に「析骸以爨」とある。
〔四〕「周帯」は未詳。
〔五〕「楚囲」は、『戦国策』の「楚围雍氏五月」を踏まえたものか。後趙の石季龍との連携に関する文。

現代語訳

史臣がいう、むかし周王朝の徳は高まり、古公亶父が梁山を超える(本拠地の移転)という苦労を味わった。漢王朝の運が長く、宣后は湟水を渡る軍役を起こした〔一〕。戎狄が中華を乱したが、元凶は古来から根深く、まして巴濮の異民族は、種類が雑多で、盗みにより食いつなぎ、荒々しい習俗を持っているから尚更である。李特は世代を重ねて凶暴となり、残忍さを行使し、剣門で休息し、井絡を併呑しようとした。晋王朝の支配が緩み、羅侯(羅尚)に決断力がなかったので、馬を集め弓袋を結び、集合の呼び声をかけ、蜀漢を殲滅し、巴梁に寄食したので、肥沃な地は食料に欠き、華陽では燃料も尽きた。どうやら統治者が道義を失い、これほどの覆敗が起きたのである。
仲儁(李雄の字)は天与の英姿が飛び抜け、並外れて立派とされ、連年の武力征伐に取り組み、覇業を打ち立てた。玄徳(劉備)の前例を踏み、子陽(公孫述)の旧領をおおい、租税を減らして悪習を緩和し、法を簡約にして新たな領民を悦ばせ、その統治の腕前は、孫権に次ぐと言える。そもそも実子を後嗣にするのは、古来からの教訓で、事業基盤を継承させるのは、前代の規範である。しかし李雄は国家運営の経略に疎く、匹夫のこだわりを捨てず、皇統を実子でない者に伝え、(基盤である)強兵の指揮権をそちらの血統に移してしまった。(李雄の)遺骸を収容する前に、(後継者の)暗殺が起きた。星の巡りが十分でなく、国家転覆の原因となった。天道というが、結局は人の営みなのである。
李班は寛容な愛情のせいで災厄をこうむり、李期は暴戻のせいで禍害をまねき、道は異なるがどちらも失敗し、方法は同じでないがともに滅亡した。武考(李寿)は先代の遺産を頼りに、兵を虐げて皇帝の位を盗んだので、罪は周帯の百倍であり、毒は楚囲よりひどいにも拘わらず、寿命を全うできたのは、なんと幸運ではないか。子仁(李勢)は後嗣となり、悪逆な事業を継承し、残党を寄せ集め、大いなる国家(東晋)の軍に抵抗した。鎧を着せて朝に出発すれば、追い詰められた獣も同然である。関所を破って夜に逃亡すれば、事情はさきの禽獣とは異なる。彼(李勢)の首を城門にひっかけ、誅戮して法規を明らかにすべきであり、劉禅と同じように礼遇するのは、柔軟すぎる対応ではなかったか。
賛にいう、晋王朝の統制が緩み、百六(の災厄)が集まった。天は伏鼈を下し、野で群龍が戦った。李特は隙を窺い、わが巴庸を盗んだ。五世代を経て、期間は四紀(四十八年)に迫った。簒奪や殺害により権力が推移し、昏迷した狂人が皇統を継承した。徳を修めなければ、険阻な地形も頼りにならぬのである。