いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第二十二巻_後涼_呂光・呂纂・呂隆

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。お気づきの点がございましたら、ご指摘くださいませ。

呂光

原文

呂光字世明、略陽氐人也。其先呂文和、漢文帝初、自沛避難徙焉、世為酋豪。父婆樓、佐命苻堅、官至太尉。光生于枋頭、夜有神光之異、故以光為名。年十歲、與諸童兒游戲邑里、為戰陣之法、儔類咸推為主。部分詳平、羣童歎服。不樂讀書、唯好鷹馬。及長、身長八尺四寸、目重瞳子、左肘有肉印。沈毅凝重、寬簡有大量、喜怒不形于色。時人莫之識也、惟王猛異之、曰、「此非常人。」言之苻堅、舉賢良、除美陽令、夷夏愛服。遷鷹揚將軍。從堅征張平、戰于銅壁、刺平養子蚝、中之、自是威名大著。
苻雙反于秦州、堅將楊成世為雙將苟興所敗、光與王鑒討之。鑒欲速戰、光曰、「興初破成世、姦氣漸張、宜持重以待其弊。興乘勝輕來、糧竭必退、退而擊之、可以破也。」二旬而興退、諸將不知所為、光曰、「揆其姦計、必攻榆眉。若得榆眉、據城斷路、資儲復贍、非國之利也、宜速進師。若興攻城、尤須赴救。如其奔也、彼糧既盡、可以滅之。」鑒從焉、果敗興軍。從王猛滅慕容暐、封都亭侯。
苻重之鎮洛陽、以光為長史。及重謀反、苻堅聞之、曰、「呂光忠孝方正、必不同也。」馳使命光檻重送之。尋入為太子右率、甚見敬重。蜀人李焉聚眾二萬、攻逼益州。堅以光為破虜將軍、率兵討滅之、遷步兵校尉。苻洛反、光又擊平之、拜1.(驃騎)〔驍騎〕將軍。

1.中華書局本に従い、「驃騎」を「驍騎」に改める。

訓読

呂光 字は世明、略陽の氐人なり。其の先たる呂文和、漢文帝の初、沛より難を避けて焉に徙り、世々酋豪と為る。父の婆樓、苻堅を佐命し、官は太尉に至る。光 枋頭に生まれ、夜に神光の異有り、故に光を以て名と為す。年に十歲、諸童兒と邑里に游戲し、戰陣の法を為り、儔類 咸 推して主と為す。部分 詳平にして、羣童 歎服す。讀書を樂まず、唯だ鷹馬を好む。長ずるに及び、身長八尺四寸、目は重瞳子にして、左肘に肉印有り。沈毅にして凝重、寬簡にして大量有り、喜怒 色に形はさず。時人 之を識るもの莫く、惟だ王猛のみ之を異とし、曰く、「此れ非常の人なり」と。之を苻堅に言ひ、賢良に舉げ、美陽令に除し、夷夏 愛服す。鷹揚將軍に遷る。堅に從ひて張平を征し、銅壁に戰ひ、平が養子の蚝を刺し、之に中て、是より威名 大いに著はる。
苻雙 秦州に反するや、堅の將たる楊成世 雙の將たる苟興の為に敗られ、光 王鑒と與に之を討つ。鑒 速戰せんと欲し、光曰く、「興 初めて成世を破り、姦氣 漸張し、宜しく持重して以て其の弊を待つべし。興 勝に乘じて輕々しく來れば、糧 竭きて必ず退かん、退かば之を擊てば、以て破る可きなり」と。二旬にして興 退き、諸將 為す所を知らず、光曰く、「其の姦計を揆し、必ず榆眉を攻めん。若し榆眉を得れば、城に據りて路を斷ち、資儲 復た贍し、國の利に非ざるなり、宜しく速やかに師を進むべし。若し興 城を攻むれば、尤も須らく救ひに赴くべし。如し其れ奔らば、彼の糧 既に盡き、以て之を滅す可し」と。鑒 焉に從ひ、果して興の軍を敗る。王猛に從ひて慕容暐を滅し、都亭侯に封ぜらる。
苻重の洛陽に鎮するや、光を以て長史と為す。重 謀反するに及び、苻堅 之を聞き、曰く、「呂光 忠孝方正にして、必ず同ぜざるなり」と。使を馳せて光に命じて重を檻じて之を送らしむ。尋いで入りて太子右率と為り、甚だ敬重せらる。蜀人の李焉 眾二萬を聚め、攻めて益州に逼る。堅 光を以て破虜將軍と為し、兵を率ゐて討ちて之を滅さしめ、步兵校尉に遷る。苻洛 反し、光 又 擊ちて之を平げ、驍騎將軍を拜す。

現代語訳

呂光は字を世明といい、略陽の氐人である。祖先の呂文和は、前漢の文帝の初め、沛から難を避けてここに移住し、代々酋豪(氐の豪族)となった。父の婆楼は、苻堅の建国を助け、官位は太尉に至った。呂光が枋頭で生まれたとき、夜に神々しい光の怪異があり、ゆえに光と名付けられた。十歳のとき、子供たちと邑里で遊び、陣を組んで模擬戦をしたが、皆から首長に推された。部隊の指揮が的確だったので、子供たちは心服した。読書を好まず、ただ鷹と馬だけを好んだ。成長すると、身長は八尺四寸、瞳孔が二つあり、左腕にこぶがあった。冷静沈着であり、寛大で度量があり、喜怒を顔に出さなかった。誰も評価しなかったが、王猛だけが見出して、「並みの人間ではない」と言った。これを苻堅に伝え、賢良に挙げられ、美陽令となり、漢族も胡族にも慕われた。鷹揚将軍に遷った。苻堅に従って張平を征伐し、銅壁で戦い、張平の養子である張蚝を刺して、命中し、これにより威名を知られた。
苻双が秦州で(前秦に)反すると、苻堅の将である楊成世が苻双の将である苟興に破られ、呂光は王鑒とともに苟興を討伐した。王鑒がすぐに戦おうとしたが、呂光は、「苟興は楊成世を破ったばかりで、士気が膨張しています、自重して落ち着くのを待ちなさい。苟興が勝ちに乗じて軽々しく出てくるなら、糧食が尽きて撤退する証拠です、そこを叩けば、破ることができます」と言った。二十日で苟興が撤退したが、諸将はどうしてよいか分からず、呂光が、「(苟興は)姦計を発動させ、榆眉を攻めるつもりです。榆眉を取られたら、城を拠点に街道を確保され、彼らの軍資が充足するので、わが国にとって不利です、速やかに進軍すべきです。もし苟興が(榆眉)城の攻略に着手したら、必ず救援せねばなりません。彼らが(城を攻略しそこねて)撤退したら、糧食が尽きた証拠であり、滅ぼすことができます」と言った。王鑒はその通りにし、苟興の軍を破った。王猛に従軍して慕容暐を滅し、都亭侯に封じられた。
苻重が洛陽に出鎮すると、呂光を長史とした。苻重が謀反すると、苻堅はこれを聞き、「呂光は忠孝方正である、絶対に(謀反に)同調しない」と言った。使者を送って呂光に命じて苻重を護送させた。ほどなく太子右率となり、敬愛し尊重された。蜀人の李焉が兵二万を集め、攻めて益州に逼った。苻堅は呂光を破虜將軍とし、兵を率いて討伐し滅ぼさせ、歩兵校尉に遷った。苻洛が反すると、呂光はこれを撃って平定し、驍騎将軍を拝した。

原文

堅既平山東、士馬強盛、遂有圖西域之志、乃授光使持節・都督西討諸軍事、率將軍姜飛・彭晃・杜進・康盛等總兵七萬、鐵騎五千、以討西域。以隴西董方・馮翊郭抱・武威賈虔・弘農楊穎為四府佐將。堅太子宏執光手曰、「君器相非常、必有大福、宜深保愛。」行至高昌、聞堅寇晉、光欲更須後命。部將杜進曰、「節下受任金方、赴機宜速、有何不了、而更留乎。」光乃進及流沙、三百餘里無水、將士失色。光曰、「吾聞李廣利精誠玄感、飛泉涌出、吾等豈獨無感致乎。皇天必將有濟、諸君不足憂也。」俄而大雨、平地三尺。進兵至焉耆、其王泥流率其旁國請降。龜茲王帛純距光、光軍其城南、五里為一營、深溝高壘、廣設疑兵、以木為人、被之以甲、羅之壘上。帛純驅徙城外人入于城中、附庸侯王各嬰城自守。
至是、光左臂內脈起成字、文曰「巨霸」。營外夜有一黑物、大如斷堤、搖動有頭角、目光若電、及明而雲霧四周、遂不復見。旦視其處、南北五里、東西三十餘步、鱗甲隱地之所、昭然猶在。光笑曰、「黑龍也。」俄而雲起西北、暴雨滅其跡。杜進言於光曰、「龍者神獸、人君利見之象。易曰、『見龍在田、德施普也。』斯誠明將軍道合靈和、德符幽顯。願將軍勉之、以成大慶。」光有喜色。
又進攻龜茲城、夜夢金象飛越城外。光曰、「此謂佛神去之、胡必亡矣。」光攻城既急、帛純乃傾國財寶請救獪胡。獪胡弟吶龍・侯將馗率騎二十餘萬、并引溫宿・1.(尉須)〔尉頭〕等國王、合七十餘萬以救之。胡便弓馬、善矛矟、鎧如連鎖、射不可入、以革索為羂、策馬擲人、多有中者。眾甚憚之。諸將咸欲每營結陣、案兵以距之。光曰、「彼眾我寡、營又相遠、勢分力散、非良策也。」於是遷營相接陣、為勾鎖之法、精騎為遊軍、彌縫其闕。戰于城西、大敗之、斬萬餘級。帛純收其珍寶而走、王侯降者三十餘國。光入其城、大饗將士、賦詩言志。見其宮室壯麗、命參軍京兆段業著龜茲宮賦以譏之。胡人奢侈、厚於養生、家有蒲桃酒、或至千斛、經十年不敗、士卒淪沒酒藏者相繼矣。諸國憚光威名、貢款屬路、乃立帛純弟震為王以安之。光撫寧西域、威恩甚著、桀黠胡王昔所未賓者、不遠萬里皆來歸附、上漢所賜節傳、光皆表而易之。

1.中華書局本に従い、「尉須」を「尉頭」に改める。

訓読

堅 既に山東を平らげ、士馬 強盛にして、遂に西域を圖るの志有り、乃ち光に使持節・都督西討諸軍事を授け、將軍の姜飛・彭晃・杜進・康盛らを率ゐて兵七萬、鐵騎五千を總べ、以て西域を討たしむ。隴西の董方・馮翊の郭抱・武威の賈虔・弘農の楊穎を以て四府の佐將と為さしむ。堅の太子たる宏 光の手を執りて曰く、「君の器相 常に非ず、必ず大福有り、宜しく深く保愛すべし」と。行きて高昌に至り、堅 晉を寇するを聞き、光 更めて後命を須たんと欲す。部將の杜進曰く、「節下 任を金方に受け、機に赴きて宜しく速にすべし、何ぞ了らざる有りて、而して更めて留まるか」と。光 乃ち進みて流沙に及び、三百餘里 水無く、將士 色を失ふ。光曰く、「吾 聞く李廣利 精誠 玄感にして、飛泉 涌出す、吾ら豈に獨り感致すること無きか。皇天 必ず將に濟ひ有らんとす、諸君 憂ふに足らざるなり」と。俄にして大雨あり、平地三尺なり。兵を進めて焉耆に至り、其の王たる泥流 其の旁國を率ゐて降を請ふ。龜茲王の帛純 光を距ぎ、光 其の城南に軍し、五里ごとに一營を為り、溝を深くし壘を高くし、廣く疑兵を設け、木を以て人と為し、之に被るに甲を以てし、之を壘上に羅す。帛純 驅けて城外の人を徙して城中に入れ、附庸の侯王 各々城を嬰して自守す。
是に至り、光の左臂の內に脈ありて起りて字と成り、文に「巨霸」と曰ふ。營外に夜に一黑物有り、大なること堤を斷つが如く、搖動して頭角有り、目の光 電が若く、明に及びて四周に雲霧し、遂に復た見ず。旦 其の處を視るに、南北五里、東西三十餘步、鱗甲 地に隱すの所、昭然として猶ほ在るがごとし。光 笑ひて曰く、「黑龍なり」と。俄にして雲 西北に起り、暴雨 其の跡を滅す。杜進 光に言ひて曰く、「龍は神獸なり、人君 見るに利あるの象なり。易曰く、『見龍 田に在りは、德の施し普(あまね)きなり』と〔一〕。斯れ誠に明けし將軍の道 靈和に合ひ、德 幽顯に符するなり。願はくは將軍 之に勉めよ、以て大慶と成らん」と。光 喜色有り。
又 進みて龜茲城を攻め、夜に金象 飛び城外に越ゆるを夢みる。光曰く、「此れ佛神 之を去ると謂ふ、胡ぞ必ず亡びんか」と。光 城を攻むること既に急にして、帛純 乃ち國の財寶を傾けて救ひを獪胡に請ふ。獪胡の弟たる吶龍・侯將の馗 騎二十餘萬を率ゐ、并せて溫宿・尉頭らの國王を引き、合せて七十餘萬 以て之を救ふ。胡 弓馬に便なり、矛矟を善くし、鎧 連鎖の如く、射るとも入る可からず、革索を以て羂と為し、馬を策ちて人を擲ち、多く中る者有り。眾 甚だ之を憚る。諸將 咸 營每に陣を結ばんと欲し、兵を案じて以て之を距ぐ。光曰く、「彼は眾く我は寡なし、營 又た相 遠ければ、勢は分かれ力は散ず、良策に非ざるなり」と。是に於て營を遷して相 陣を接し、勾鎖の法を為し、精騎を遊軍と為し、其の闕を彌縫す。城西に戰ひ、大いに之を敗り、萬餘級を斬る。帛純 其の珍寶を收めて走り、王侯の降る者 三十餘國なり。光 其の城に入り、大いに將士を饗し、詩を賦して志を言ふ。其の宮室 壯麗なるを見て、參軍たる京兆の段業〔二〕に命じて龜茲宮賦を著して以て之を譏る。胡人 奢侈にして、養生に厚く、家に蒲桃酒有り、或いは千斛に至り、十年を經て敗せず、士卒 酒藏に淪沒する者 相 繼げり。諸國 光の威名を憚り、貢款 路に屬ぎ、乃ち帛純が弟の震を立てて王と為して以て之を安んず。光 西域を撫寧し、威恩 甚だ著はれ、桀黠たる胡王 昔 未だ賓せざる所の者、萬里を遠しとせず皆 來りて歸附し、漢の賜る所の節傳を上り、光 皆 表して之を易ふ。

〔一〕『周易』乾に「見龍在田、德施普也」とあり、出典。
〔二〕段業は、『晋書』載記第二十九巻_北涼_沮渠蒙遜にも見える。

現代語訳

苻堅は山東を平定し終えると、兵馬が強盛なので、いよいよ西域への野心を持ち、呂光に使持節・都督西討諸軍事を授け、将軍の姜飛・彭晃・杜進・康盛らを率いて兵七万、鉄騎五千を統率させて、西域を討伐した。隴西の董方・馮翊の郭抱・武威の賈虔・弘農の楊穎を四府の佐将とした。苻堅の太子である苻宏は呂光の手をとり、「きみの器量は特別だ、きっと大きな福がある、くれぐれも自愛してくれ」と言った。高昌に到達したとき、苻堅が東晋を攻撃すると聞き、呂光は次の(東晋の討伐)命令を待とうとした。部将の杜進が、「あなたは西方の任務を受け、臨機応変に動くべきだ、なぜ(西域平定の)任務が終わる前に、留まって待っているのか」と言った。呂光は進みて流沙(砂漠)に及び、三百餘里にわたり水がなく、将士は絶望した。呂光は、「聞けば(前漢の)李広利は清新を研ぎ澄ませ、飛泉が湧き出したという、われらも感得できるはずだ。皇天はきっと救ってくれる、諸君らは心配いらぬ」と言った。にわかに大雨が降り、平地に三尺であった。兵を焉耆に進め、焉耆王の泥流(人名)が周辺国を率いて降服を願った。亀茲王の帛純が呂光に抵抗し、呂光はかの城の南に軍を展開し、五里ごとに一営を作り禹、溝を深くし塁を高くし、広く偽装の兵をおき、木を人に見せかけ、鎧を着せ、防塁の上に並べた。帛純は駆けて城外の人を城内に収容し、衛星国の侯王も城を閉ざして防衛した。
このとき、呂光の左腕の内側が盛り上がって文字となり、「巨霸」と読めた。軍営の外に夜に一つの黒いものが現れ、堤防を横切るほど大きく、揺れ動いて頭と角があり、目は雷のように輝き、明け方に四方に霧散して、消えてしまった。朝にその場所を見ると、南北五里、東西三十餘歩の大きさがあり、鱗甲が地を覆っていた範囲が、くっきりと分かった。呂光は笑って、「黒龍だ」と言った。雲が西北に起こり、にわか雨がその形跡を流した。杜進が呂光に、「龍は神獣です、人君が見るのが吉です。『易経』に『龍が地上に姿を現したのは、徳があまねく行き渡ったという意味である』と言います。明らかに将軍の事業(西域の攻略)が神霊に歓迎され、幽冥にも徳行が届いている証拠です。がんばって下さい、めでたき結果になるでしょう」と言った。呂光は喜んだ。
さらに進んで亀茲城を攻めると、夜に金の象が城外を飛びこえて出てゆく夢を見た。呂光は、「これは(城を守る)神仏が去った夢だと思う、きっと滅びる」と言った。呂光が城を締め上げると、(亀茲王)帛純は国の財宝を吐き出して獪胡に救いを求めた。獪胡の弟である吶龍・侯将の馗は二十餘万騎を率い、温宿・尉頭らの国王とともに、合計で七十餘万で救援にきた。胡族は弓馬を使いこなし、矛や長槍を得意とし、鎧は鎖を繋いだようで、矢で射ても通さず、革ひもで縛り、馬を鞭で打って人を突撃させ、多くの者が餌食になった。呂光の軍はひどく恐れた。諸将はみな軍営ごとに(個別に)陣を固め、兵を寄せて防ごうとした。呂光は、「敵軍は多く自軍は少ない、軍営同士が遠ければ、勢力が分散する、よい手ではない」と言った。そこで軍営を移して隣接させ、勾鎖の戦法を用い、騎馬の精兵を遊軍とし、あいだの弱点を埋めさせた。城西で戦って、大いに連合軍を破り、万餘級を斬った。帛純は珍宝を持って逃げ、三十餘国の王侯が降服した。呂光は亀茲城に入り、大いに将士を饗応し、詩を作って志を述べた。宮室が壮麗すぎるので、参軍である京兆の段業に命じて亀茲宮賦を作って批判をさせた。胡人は奢侈であり、保養に熱心で、家に葡萄酒があり、千斛に至ることもあり、十年たっても腐らず、酒蔵に入り浸る士卒が相次いだ。諸国は呂光の威名を憚り、献上の使者が道路に連なり、帛純の弟の震を亀茲王に立てて安堵した。呂光は西域を綏撫して安寧とし、威恩が大いに表れ、昔から中華に服従したことがない狡猾な胡族の王たちも、万里を遠しとせず帰順し、漢王朝が与えた節伝を返上し、呂光は上表して(節伝を)更新した。

原文

堅聞光平西域、以為使持節・散騎常侍・都督玉門已西諸軍事・安西將軍・西域校尉、道絕不通。光既平龜茲、有留焉之志。時始獲鳩摩羅什、羅什勸之東還、語在1.西夷傳。 光於是大饗文武、博議進止。眾咸請還、光從之、以駝二萬餘頭致外國珍寶及奇伎異戲・殊禽怪獸千有餘品、駿馬萬餘匹。而苻堅高昌太守楊翰說其涼州刺史梁熙距守2.高桐・伊吾二關、熙不從。光至高昌、翰以郡迎降。初、光聞翰之說、惡之、又聞苻堅喪敗、長安危逼、謀欲停師。杜進諫曰、「梁熙文雅有餘、機鑒不足、終不能納善從說也、願不足憂之。聞其上下未同、宜在速進、進而不捷、請受過言之誅。」光從之。及至玉門、梁熙傳檄責光擅命還師、遣子胤與振威姚皓・別駕衞翰率眾五萬、距光于酒泉。光報檄涼州、責熙無赴難之誠、數其遏歸師之罪。遣彭晃・杜進・姜飛等為前鋒、擊胤、大敗之。胤輕將麾下數百騎東奔、杜進追擒之。於是四山胡夷皆來款附。武威太守彭濟執熙請降。光入姑臧、自領涼州刺史・護羌校尉、表杜進為輔國將軍・武威太守、封武始侯、自餘封拜各有差。
光主簿尉祐、姦佞傾薄人也、見棄前朝、與彭濟同謀執梁熙、光深見寵任、乃譖誅南安姚皓・天水尹景等名士十餘人、遠近頗以此離貳。光尋擢祐為寧遠將軍・金城太守。祐次允吾、襲據外城以叛、祐從弟隨據鸇陰以應之。光遣其將魏真討隨、隨敗、奔祐、光將姜飛又擊敗祐眾。祐奔據興城、扇動百姓、夷夏多從之。飛司馬張象・參軍郭雅謀殺飛應祐、發覺、逃奔。
初、苻堅之敗、張天錫南奔、其世子大豫為長水校尉王穆所匿。及堅還長安、穆將大豫奔禿髮思復鞬、思復鞬送之魏安。是月、魏安人焦松・齊肅・張濟等起兵數千、迎大豫於揟次、陷昌松郡。光遣其將杜進討之、為大豫所敗。大豫遂進逼姑臧、求決勝負、王穆諫曰、「呂光糧豐城固、甲兵精銳、逼之非利。不如席卷嶺西、厲兵積粟、東向而爭、不及朞年、可以平也。」大豫不從、乃遣穆求救於嶺西諸郡、建康太守李隰・祁連都尉嚴純及閻襲起兵應之。大豫進屯城西、王穆率眾三萬及思復鞬子奚于等陣于城南。光出擊、破之、斬奚于等二萬餘級。光謂諸將曰、「大豫若用王穆之言、恐未可平也。」諸將曰、「大豫豈不及此邪。皇天欲贊成明公八百之業、故令大豫迷於良算耳。」光大悅、賜金帛有差。大豫自西郡詣臨洮、驅略百姓五千餘戶、保據俱城。光將彭晃・徐炅攻破之、大豫奔廣武、穆奔建康。廣武人執大豫、送之、斬于姑臧巿。

1.「西夷傳」は「藝術傳」に作るべきである。『晋書』内部で、巻の参照関係を誤っている。
2.「高桐」は、符丕載記は「高梧」に作る。

訓読

堅 光 西域を平らぐと聞き、以て使持節・散騎常侍・都督玉門已西諸軍事・安西將軍・西域校尉と為せども、道 絕えて通ぜず。光 既に龜茲を平らげ、留焉の志有り。時に始めて鳩摩羅什を獲、羅什 之に東還を勸め、語は西夷傳に在り。
光 是に於て大いに文武を饗し、博く進止を議せしむ。眾 咸 還ることを請ひ、光 之に從ひ、駝二萬餘頭を以て外國の珍寶を致し奇伎異戲・殊禽怪獸千有餘品、駿馬萬餘匹に及ぶ。而れども苻堅が高昌太守の楊翰 其の涼州刺史の梁熙に說きて高桐・伊吾の二關を距守せしめんとし、熙 從はず。光 高昌に至り、翰 郡を以て迎へ降る。初め、光 翰の說を聞き、之を惡み、又 苻堅 喪敗し、長安 危逼するを聞き、謀りて師を停めんと欲す。杜進 諫めて曰く、「梁熙 文雅にして餘有り、機鑒 足らず、終に善を納れて說に從ふこと能はざるなり、願はくは之を憂ふに足らず。聞くに其の上下 未だ同からず、宜しく速進在るべし、進みて捷たざれば、過言の誅を受けんことを請ふ」と。光 之に從ふ。玉門に至るに及び、梁熙 檄を傳へて光の命を擅にし師を還すことを責め、子の胤を遣りて振威の姚皓・別駕の衞翰と與に眾五萬を率ゐ、光を酒泉に距ぐ。光 檄を涼州に報し、熙の赴難の誠無きを責め、其の歸師を遏するの罪を數む。彭晃・杜進・姜飛らを遣はして前鋒と為し、胤を擊ち、大いに之を敗る。胤 輕將麾下の數百騎 東のかた奔り、杜進 追ひて之を擒ふ。是に於て四山の胡夷 皆 來りて款附す。武威太守の彭濟 熙を執へて降を請ふ。光 姑臧に入り、自ら涼州刺史・護羌校尉を領し、杜進をして輔國將軍・武威太守と為し、武始侯に封じ、自餘の封拜 各々差有り。
光の主簿の尉祐、姦佞にして傾薄なる人なり、前朝に棄られ、彭濟と與に同謀して梁熙を執へ、光に深く寵任せられ、乃ち譖りて南安の姚皓・天水の尹景ら名士十餘人を誅し、遠近 頗る此を以て離貳す。光 尋いで祐を擢して寧遠將軍・金城太守と為す。祐 允吾に次り、襲ひて外城に據りて以て叛し、祐の從弟たる隨 鸇陰に據りて以て之に應ず。光 其の將の魏真を遣はして隨を討たしめ、隨 敗れ、祐に奔り、光の將 姜飛 又 擊ちて祐眾を敗る。祐 奔りて興城に據り、百姓を扇動し、夷夏 多く之に從ふ。飛の司馬の張象・參軍の郭雅 謀りて飛を殺して祐に應じ、發覺し、逃奔す。
初め、苻堅の敗るるや、張天錫 南のかた奔り、其の世子の大豫 長水校尉の王穆の為に匿はる。堅 長安に還るに及び、穆 大豫を將ゐて禿髮思復鞬に奔り、思復鞬 之を魏安に送る。是の月、魏安の人たる焦松・齊肅・張濟ら兵數千を起し、大豫を揟次に迎へ、昌松郡を陷す。光 其の將の杜進を遣はして之を討たしめ、大豫の為に敗らる。大豫 遂に進みて姑臧に逼り、勝負を決せんと求し、王穆 諫めて曰く、「呂光の糧は豐かにして城は固く、甲兵は精銳なり、之に逼るは利非ず。嶺西を席卷し、兵を厲し粟を積み、東のかた向ひて爭ふに如かず、朞年に及ばず、以て平らぐ可きなり」と。大豫 從はず、乃ち穆を遣はして救を嶺西諸郡に求め、建康太守の李隰・祁連都尉の嚴純及び閻襲 兵を起して之に應ず。大豫 進みて城西に屯し、王穆 眾三萬及び思復鞬の子たる奚于らを率ゐて城南に陣す。光 出擊し、之を破り、奚于ら二萬餘級を斬る。光 諸將に謂ひて曰く、「大豫 若し王穆の言を用ゐれば、恐らくは未だ平らぐ可からず」と。諸將曰く、「大豫 豈に此に及ばざるや。皇天 明公の八百の業を贊成せんと欲し、故に大豫をして良算に迷はしむのみ」と。光 大いに悅び、金帛を賜ふこと差有り。大豫 西郡より臨洮に詣り、百姓五千餘戶を驅略し、保して俱城に據る。光の將たる彭晃・徐炅 之を攻破し、大豫 廣武に奔り、穆 建康に奔る。廣武の人 大豫を執へ、之を送り、姑臧の巿に斬る。

現代語訳

苻堅は呂光が西域を平定したと聞き、使持節・散騎常侍・都督玉門已西諸軍事・安西将軍・西域校尉としたが、使者が辿り着けなかった。呂光は亀茲を平定し終えると、ここへの残留を考えた。このとき鳩摩羅什と出会い、羅什が東帰を勧めたが、それは西夷伝(正しくは藝術伝)に記載がある。
呂光は文武の官を大いに饗応し、進退について議論させた。みな帰還を願ったので、呂光はこれに従い、駱駝の二万餘頭で外国の珍宝を運んで奇抜な遊戯をする芸人・珍妙な動物の千餘りと、駿馬一万餘をもたらした。だが苻堅(前秦)の高昌太守である楊翰は涼州刺史の梁熙に説いて高桐(または高梧)・伊吾の二関を封鎖させようとし、梁熙は従わなかった。呂光が高昌に至ると、楊翰は郡をあげて迎え入れて降服した。これより先、呂光は楊翰が二関の封鎖を唱えたことを聞き、彼を警戒し、さらに苻堅が(肥水で)敗北して、長安が不安定になったことを知り、部隊をここに留めようとした。杜進は諫め、「梁熙は文雅ですが、機略が足りず、楊翰の善言(二関の封鎖)を実行できませんでした、脅威ではありません。彼のところは統制が取れておりません、速やかに進撃すべきです、速戦して勝てなければ、私が死んで詫びます」と言った。呂光はこれに従った。玉門に至ると、梁熙は檄文を回付して呂光が西域から無断で撤退したことを責め、子の梁胤を送って振威将軍の姚皓・別駕の衛翰とともに兵五万を率い、呂光を酒泉で食い止めさせた。呂光は反論の檄を涼州に回付し、梁熙は国家(前秦)の危機に赴かず、さらに凱旋の軍を妨害した罪を責めた。彭晃・杜進・姜飛らを先鋒とし、梁胤を撃って、大いにこれを破った。梁胤は軽騎数百で東に逃げ、杜進が追って彼を捕らえた。かくて四山の異民族たちは全て呂光を訪ねて帰服した。武威太守の彭済は梁熙を捕らえて降服を求めてきた。呂光は姑臧に入り、自ら涼州刺史・護羌校尉を領し、杜進を輔国将軍・武威太守とし、武始侯に封じ、それ他の官爵には差等があった。
呂光の主簿である尉祐は、へつらって侫邪で軽薄であり、前秦で生きてゆけず、彭済と示しあわせて梁熙を捕らえたので、呂光に寵用され、南安の姚皓・天水の尹景ら名士十餘人を譏って命を奪い、遠近の心が(呂光から)離れた。ほどなく呂光は尉祐を抜擢して寧遠将軍・金城太守とした。尉祐が允吾に駐屯し、外城を襲ってここを拠点として叛し、尉祐の従弟である尉随は鸇陰を拠点として叛して呼応した。呂光は将の魏真に尉随を討伐させ、尉隨が敗れると、尉祐のもとに逃げこみ、呂光の将である姜飛は尉祐の軍を破った。尉祐は逃げて興城を拠点とし、百姓を扇動し、胡族や漢族の多くが従った。姜飛の司馬の張象・参軍の郭雅が姜飛を殺害して尉祐に味方し、発覚すると、逃げ去った。
これより先、苻堅が敗れると、張天錫は南へと出奔し、その世子の張大豫は長水校尉の王穆に匿われた。苻堅が長安に還ると、王穆は大豫をつれて禿髪思復鞬のもとに奔り、思復鞬は彼を魏安に送った。この月、魏安の人である焦松・斉粛・張済らが数千で起兵し、大豫を揟次に迎え、昌松郡を陥落させた。呂光は将の杜進に討伐をさせたが、大豫に敗れた。大豫は進んで姑臧に逼り、(呂氏との)決着を望んだが、王穆が諫めて、「呂光の兵糧は豊かで城の守りが堅く、兵士は精鋭なので、決着を急ぐのは不利です。嶺西をめぐって味方につけ、兵員と軍糧を充実させてから、東に向かって対抗したほうがよく、一年以内に、呂光を平定できます」と言った。大豫は従わず、王穆を派遣して嶺西の諸郡に助けを求めると、建康太守の李隰・祁連都尉の厳純及び閻襲が呼応した。大豫は進んで城(呂光の本拠)の西に駐屯し、王穆は兵三万及び思復鞬の子である奚于らを率いて城の南に着陣した。呂光が出撃して、これを破り、奚于ら二万餘級を斬った。呂光は諸将に、「もし大豫が王穆の助言に従えば、私は勝てなかった」と言った。諸将は、「なぜ大豫は誤ったのでしょうか。皇天があなたの帝業を応援しているので、大豫に良計を退けさせたのです」と言った。呂光は大いに悦び、それぞれ金帛を賜わった。大豫が西郡から臨洮に至り、百姓五千餘戸を掠奪し、俱城で再起をはかった。呂光の将である彭晃・徐炅がこれを攻め破り、大豫は広武に逃げ、王穆は建康に逃げた。広武の人が大豫を捕らえて、(呂光に)送って来たので、姑臧の市で斬った。

原文

光至是始聞苻堅為姚萇所害、奮怒哀號、三軍縞素、大臨于城南、偽諡堅曰文昭皇帝、長吏百石已上服斬縗三月、庶人哭泣三日。光於是大赦境內、建元曰1.太安、自稱使持節・侍中・中外大都督・督隴右河西諸軍事・大將軍・領護匈奴中郎將・涼州牧・酒泉公。王穆襲據酒泉、自稱大將軍・涼州牧。時穀價踊貴、斗直五百、人相食、死者太半。光西平太守康寧自稱匈奴王、阻兵以叛、光屢遣討之、不捷。
初、光之定河西也、杜進有力焉、以為輔國將軍・武威太守。既居都尹、權高一時、出入羽儀、與光相亞。光甥石聰至自關中、光曰、「中州人言吾政化何如。」聰曰、「止知有杜進耳、實不聞有舅。」光默然、因此誅進。光後讌羣僚、酒酣、語及政事。時刑法峻重、參軍段業進曰、「嚴刑重憲、非明王之義也。」光曰、「商鞅之法至峻、而兼諸侯。吳起之術無親、而荊蠻以霸、何也。」業曰、「明公受天眷命、方君臨四海、景行堯舜、猶懼有弊、奈何欲以商申之末法臨道義之神州、豈此州士女所望於明公哉。」光改容謝之、於是下令責躬、及崇寬簡之政。
其將徐炅與張掖太守彭晃謀叛、光遣師討炅、炅奔晃。晃東結康寧、西通王穆、光議將討之、諸將咸曰、「今康寧在南、阻兵伺隙、若大駕西行、寧必乘虛出于嶺左。晃・穆未平、康寧復至、進退狼狽、勢必大危。」光曰、「事勢實如卿言。今而不往、當坐待其來。晃・穆共相脣齒、寧又同惡相救、東西交至、城外非吾之有、若是、大事去矣。今晃叛逆始爾、寧・穆與之情契未密、及其倉卒、取之為易。且隆替命也、卿勿復言。」光於是自率步騎三萬、倍道兼行。既至、攻之二旬、晃將寇顗斬關納光、於是誅彭晃。王穆以其黨索嘏為敦煌太守、既而忌其威名、率眾攻嘏。光聞之、謂諸將曰、「二虜相攻、此成擒也。」光將攻之、眾咸以為不可。光曰、「取亂侮亡、武之善經、不可以累征之勞而失永逸之舉。」率步騎二萬攻酒泉、克之、進次涼興。穆引師東還、路中眾散、穆單騎奔騂馬、騂馬令郭文斬首送之。

1.中華書局本によると、「太安」は、「大安」に作るのが正しい。大安は(前秦)符丕の年号であり、これを用いただけなので、呂氏による改元ではない。

訓読

光 是に至り始めて苻堅 姚萇の為に害せらるを聞き、奮怒して哀號し、三軍 縞素し、大いに城南に臨み、偽して堅に諡りて文昭皇帝と曰ひ、長吏百石已上 斬縗を服すること三月、庶人 哭泣すること三日。光 是に於て境內を大赦し、建元して太安と曰ひ、自ら使持節・侍中・中外大都督・督隴右河西諸軍事・大將軍・領護匈奴中郎將・涼州牧・酒泉公を稱す。王穆 襲ひて酒泉に據り、自ら大將軍・涼州牧を稱す。時に穀價 踊貴し、斗 五百に直り、人 相 食み、死者 太半なり。光の西平太守たる康寧 自ら匈奴王を稱し、兵を阻みて以て叛し、光 屢々遣して之を討ち、捷たず。
初め、光の河西を定むるや、杜進 力有り、以て輔國將軍・武威太守と為す。既に都尹に居り、權 一時に高く、出入羽儀、光と相 亞ぐ。光が甥の石聰 關中より至り、光曰く、「中州の人 吾が政化 何如と言ふ」と。聰曰く、「杜進有るを知る止まるのみ、實に舅有るを聞かず」と。光 默然とし、此に因りて進を誅す。光 後に羣僚と讌し、酒 酣し、語は政事に及ぶ。時に刑法 峻重にして、參軍の段業 進みて曰く、「刑を嚴にし憲を重くするは、明王の義に非ざるなり」と。光曰く、「商鞅の法 至峻なり、而れども諸侯を兼す。吳起の術 親無く、而れども荊蠻に以て霸たり、何ぞや」と。業曰く、「明公 天の眷命を受け、方に四海に君臨し、堯舜に景行し、猶ほ弊有るを懼る、奈何ぞ商申の末法を以て道義の神州に臨まんと欲す、豈に此の州の士女 明公に望む所なるか」と。光 容を改めて之に謝し、是に於て令を下して躬を責め、寬簡の政を崇ぶに及る。
其の將たる徐炅 張掖太守の彭晃と與に謀叛し、光 師を遣りて炅を討ち、炅 晃に奔る。晃 東のかた康寧と結び、西のかた王穆に通じ、光 議して將に之を討たんとす、諸將 咸 曰く、「今 康寧 南に在り、兵を阻みて隙を伺ひ、若し大駕 西のかた行かば、寧 必ず虛に乘じて嶺左に出でん。晃・穆 未だ平らがず、康寧 復た至れば、進退 狼狽し、勢 必ず大いに危ふからん」と。光曰く、「事勢 實に卿の言が如し。今にして往かず、當に坐して其の來るを待つべし。晃・穆 共に相 脣齒なり、寧 又 惡を同にして相 救ふ、東西 交至すれば、城外 吾の有に非ず、是の若くんば、大事 去らん。今 晃の叛逆 爾に始まり、寧・穆 之と與に情契 未だ密ならず、其の倉卒に及べば、之を取ること易為り。且つ隆替は命なり、卿 復た言ふこと勿れ」と。光 是に於て自ら步騎三萬を率ゐ、倍道し兼行す。既に至り、之を攻むること二旬、晃の將たる寇顗 關を斬りて光を納れ、是に於て彭晃を誅す。王穆 其の黨たる索嘏を以て敦煌太守と為し、既にして其の威名を忌み、眾を率ゐて嘏を攻む。光 之を聞き、諸將に謂ひて曰く、「二虜 相 攻む、此れ擒と成すなり」と。光 將に之を攻めんとし、眾 咸 以て不可と為す。光曰く、「亂を取り亡を侮るは、武の善經なり、累征の勞を以て永逸の舉を失ふ可からず」と。步騎二萬を率ゐて酒泉を攻め、之に克ち、進みて涼興に次る。穆 師を引て東のかた還り、路中に眾 散じ、穆 單騎にて騂馬に奔り、騂馬令の郭文 首を斬りて之に送る。

現代語訳

呂光は苻堅が姚萇に殺害されたのを知ると、激怒して哀しみ号泣し、三軍は縞素を身に着け(喪に服し)、大軍で城南に臨み、不当に苻堅に文昭皇帝と諡し、長吏百石以上は斬縗を三ヶ月間身に着け、庶人は三日間哭泣した。呂光は領内を大赦し、(符丕の)太安という年号を用い、自ら使持節・侍中・中外大都督・督隴右河西諸軍事・大将軍・領護匈奴中郎将・涼州牧・酒泉公を称した。王穆が酒泉を襲ってそこを拠点とし、自ら大将軍・涼州牧を称した。穀物価格が急騰し、一斗あたり五百銭、人は食らい合い、大半が死んだ。呂光の西平太守である康寧は自ら匈奴王を称し、兵を使って対抗し、呂光はしばしば討伐したが、勝てなかった。
これより先、呂光が河西を平定するとき、杜進に功績があり、輔国将軍・武威太守とした。杜進は都尹(首都の長官)となり、影響力が一段と高く、権威のありようは、呂光に次いだ。おいの石聡が関中から来ると、呂光は、「中原の人はわが政治をどう言っていたか」と質問した。石聡は、「杜進が知られているだけで、おじ(呂光)は認知されていません」と言った。呂光は黙然とし、杜進を殺した。後に呂光が群僚と酒を飲み、盛り上がって、政事の話題になった。このとき刑法は厳しく重かったが、参軍の段業が進み、「刑罰を重くするのは、名君のやり方ではありません」と言った。呂光は、「(戦国秦の)商鞅の法は極めて厳しいが、諸侯を併合できた。(戦国楚の)呉起も同様だが、荊蛮の覇者となった、なぜだ」と反問した。段業は、「あなたは大いなる天命を受け、四海に君臨しようとし、尭舜を踏襲しているのに、なぜ迷って、商鞅や(戦国韓の)申不害のような悪法でこの道義の優れた国を治めようというのですが、それがこの国の士女があなたに望んでいることでしょうか」と言った。呂光は態度を改めて謝り、法令を下して己の責任を問い、寛大な刑政を重んじるようになった。
呂光の将である徐炅が張掖太守の彭晃とともに謀叛し、呂光が徐炅を討伐すると、彼は彭晃を頼った。彭晃が東では康寧、西では王穆と連携したので、呂光は討伐を議論したが、諸将はみな、「いま康寧が南におり、隙を窺っています、もし大駕(呂光)が西に向かえば、康寧は隙に乗じ嶺左に現れます。彭晃・王穆の平定がまだなのに、康寧まで出てこれば、わが軍は進退窮まり、危険に晒されます」と言った。呂光は、「状況はきみらの言うとおりだ。今は遠征をせず、彼らが来るのを待つべきだ。しかし彭晃・王穆は唇歯の関係であり、さらに康寧も(わが国への)対抗心を共有して助けあうから、東西から攻撃されたら、この城以外の領土を失い、そうなれば、国家は立ち行かぬ。いま彭晃は反逆を始めたばかりで、康寧・王穆との同盟は緊密ではないから、急襲すれば、攻略できよう。盛衰は運命が決めることだ、反対意見は受け付けぬ」と言った。呂光は自ら歩騎三万を率い、倍速で向かった。到着し、二十日間攻撃し、彭晃の将である寇顗が関守を斬って呂光軍を招き入れたので、彭晃を誅殺した。王穆は党与の索嘏を敦煌太守にしたが、彼の威名を嫌い、索嘏に攻撃を加えた。呂光はこれを聞き、諸将に、「敵同士が攻め合っている、捕獲できるぞ」と言った。呂光が攻撃に移ろうとすると、みな反対した。呂光は、「混乱して滅亡しそうな国家を奪うのは、戦略の定石である、遠征疲れを理由にして好機を逃してはならぬ」と言った。歩騎二万で酒泉を攻め、撃ち破り、進んで涼興に駐屯した。王穆は東に撤退したが、途中で軍勢が解散したので、王穆は単騎で騂馬に逃げたが、騂馬令の郭文が首を斬って呂光に送って寄越した。

原文

是時麟見金澤縣、百獸從之、光以為己瑞、以孝武太元十四年僭即三河王位、置百官自丞郎已下、赦其境內、年號麟嘉。光妻石氏・子紹・弟德世至自仇池、光迎于城東、大饗羣臣。遣1.其子左將軍他・武賁中郎將纂討北虜匹勤于三巖山、大破之。立妻石氏為王妃、子紹為世子。讌其羣臣于內苑新堂。太廟新成、追尊其高祖為敬公、曾祖為恭公、祖為宣公、父為景昭王、母曰昭烈妃。其中書侍郎楊穎上疏、請依三代故事、追尊呂望為始祖、永為不遷之廟、光從之。
是歲、張掖督郵傅曜考覈屬縣、而2.丘池令尹興殺之、投諸空井。曜見夢於光曰、「臣張掖郡小吏、案校諸縣、而丘池令尹興贓狀狼藉、懼臣言之、殺臣投於南亭空井中。臣衣服形狀如是。」光寤而猶見、久之乃滅。遣使覆之如夢、光怒、殺興。著作郎段業以光未能揚清激濁、使賢愚殊貫、因療疾于天梯山、作表志詩九歎・七諷十六篇以諷焉。光覽而悅之。
南羌彭奚念入攻白土、都尉孫峙退奔興城。光遣其南中郎將呂方及其弟右將軍呂寶・振威楊範・強弩竇苟討乞伏乾歸于金城。方屯河北、寶進師濟河、為乾歸所敗、寶死之。武賁呂纂・強弩竇苟率步騎五千南討彭奚念、戰于盤夷、大敗而歸。光親討乾歸・奚念、遣纂及揚武楊軌・建忠沮渠羅仇・建武梁恭軍于左南。奚念大懼、于白土津累石為堤、以水自固、遣精兵一萬距守河津。光遣將軍王寶潛趣上津、夜渡湟河。光濟自石堤、攻克枹罕、奚念單騎奔甘松、光振旅而旋。
初、光徙西海郡人於諸郡、至是、謠曰、「朔馬心何悲。念舊中心勞。燕雀何徘徊。意欲還故巢。」頃之、遂相扇動、復徙之於西河樂都。羣議以高昌雖在西垂、地居形勝、外接胡虜、易生翻覆、宜遣子弟鎮之。光以子覆為使持節・鎮西將軍・都督玉門已西諸軍事・西域大都護、鎮高昌、命大臣子弟隨之。

1.中華書局本によると、「子」という字は「弟」に作るべきである。
2.中華書局本によると、「丘池」は「氐池」に作るべきである。

訓読

是の時 麟 金澤縣に見れ、百獸 之に從ひ、光 以て己の瑞と為し、孝武太元十四年を以て僭して三河王の位に即き、百官 丞郎より已下を置き、其の境內を赦し、年を麟嘉と號す。光の妻たる石氏・子の紹・弟の德世 仇池より至り、光 城東に迎へ、大いに羣臣を饗す。其の子たる左將軍の他・武賁中郎將の纂を遣はして北虜の匹勤を三巖山に討ち、大いに之を破る。妻の石氏を立てて王妃と為し、子の紹を世子と為す。其の羣臣と內苑新堂に讌す。太廟 新たに成し、其の高祖を追尊して敬公と為し、曾祖を恭公と為し、祖を宣公と為し、父を景昭王と為し、母を昭烈妃と曰ふ。其の中書侍郎たる楊穎 上疏し、三代の故事に依り、呂望を追尊して始祖と為し、永に不遷の廟と為すことを請ひ、光 之に從ふ。
是の歲、張掖の督郵たる傅曜 屬縣を考覈し、而れども丘池令の尹興 之を殺し、諸を空井に投ず。曜 夢に見れて光に曰く、「臣 張掖郡の小吏なり、諸縣を案校す、而れども丘池令の尹興 贓狀して狼藉し、臣 之を言ふを懼れ、臣を殺して南亭の空井中に投ず。臣の衣服形狀 是の如し」と。光 寤めて猶ほ見、久之 乃ち滅す。使を遣すに之を覆すること夢の如く、光 怒り、興を殺す。著作郎の段業 光の未だ激濁を揚清して、賢愚をして貫を殊にせしむる能はざるを以て、因りて疾を天梯山に療し、表を作りて志詩して九歎・七諷十六篇を以て焉を諷す。光 覽じて之を悅ぶ。
南羌の彭奚念 入りて白土を攻め、都尉の孫峙 退きて興城に奔る。光 其の南中郎將の呂方及び其の弟たる右將軍の呂寶・振威の楊範・強弩の竇苟を遣はして乞伏乾歸を金城に討つ。方 河北に屯し、寶 師を進めて河を濟り、乾歸の為に敗られ、寶 之に死す。武賁の呂纂・強弩の竇苟 步騎五千を率ゐて南のかた彭奚念を討ち、盤夷に戰ひ、大いに敗りて歸る。光 親ら乾歸・奚念を討ち、纂及び揚武の楊軌・建忠の沮渠羅仇・建武の梁恭を遣はして左南に軍す。奚念 大いに懼れ、白土津に于て石を累ねて堤と為し、水を以て自固し、精兵一萬を遣はして河津を距守す。光 將軍の王寶を遣して潛かに上津に趣き、夜に湟河を渡る。光 石堤より濟り、枹罕を攻克し、奚念 單騎にて甘松に奔り、光 振旅して旋す。
初め、光 西海の郡人を諸郡に徙し、是に至り、謠に曰く、「朔馬の心 何ぞ悲しき。舊中を念ひて心勞す。燕雀 何ぞ徘徊するや。意 故巢に還らんと欲す」と。頃之、遂に相 扇動し、復た之を西河の樂都に徙す。羣 議すらく高昌の西垂に在ると雖も、地は形勝に居り、外は胡虜に接し、翻覆を生じ易きを以て、宜しく子弟を遣はして之を鎮すべしと。光 子の覆を以て使持節・鎮西將軍・都督玉門已西諸軍事・西域大都護と為し、高昌に鎮し、大臣の子弟に命じて之に隨はしむ。

現代語訳

このとき麟が金沢県に現れ、百獣が従っており、呂光はこれを自分の祥瑞と捉え、孝武帝の太元十四(三八九)年に不当に三河王の位に即き、百官は丞郎より以下を置き、領内を赦し、麟嘉と改元した。呂光の妻である石氏・子の呂紹・弟の呂徳世が仇池から来て、呂光は彼らを城東で迎え、大いに酒宴を開いた。この子(正しくは弟)である左将軍の呂他・武賁中郎将の呂纂を送って北虜の匹勤を三巖山で討伐し、大いに破った。妻の石氏を王妃に立て、子の呂紹を世子とした。郡臣と内苑の新堂で宴飲した。太廟を新たに作り、高祖父を追尊して敬公とし、曾祖父を恭公とし、祖父を宣公とし、父を景昭王とし、母を昭烈妃といった。中書侍郎の楊穎が上疏し、三代の故事に従い、呂望を追尊して始祖とし、永遠に不毀の廟にせよと提案し、採用された。
この年、張掖の督郵である傅曜は属県を調査したが、丘池(氐池)令の尹興が彼を殺し、空井戸に死体を投げ込んだ。傅曜は呂光の夢に現れ、「私は張掖郡の小吏です、諸県を調査して回っていると、丘池令の尹興が他人の財産を侵害しており、告発されるのを恐れ、私を殺して南亭の井戸に投げ込みました。私の衣服や外見はこうです」と言った。呂光が目覚めてもまだ見えて、しばらくして消滅した。使者を送って調査させると夢の通りだったので、呂光は怒って、傅曜を殺した。著作郎の段業が呂光がまだ激しい濁流(政敵ら)を平定して、賢愚を結集できないので、天梯山で療養し、九篇の歎・七篇の諷の合計十六篇を作り提出して論評した。呂光はこれを見て悦んだ。
南羌の彭奚念が白土に侵入すると、都尉の孫峙が退いて興城に逃げた。呂光は南中郎将の呂方及びその弟である右将軍の呂宝・振威将軍の楊範・強弩将軍の竇苟に命じて乞伏乾帰を金城において討伐させた。呂方は河北に駐屯し、呂宝は進軍して河を渡り、乾歸に敗れ、呂宝は戦死した。武賁将軍の呂纂・強弩将軍の竇苟は歩騎五千を率いて南のかた彭奚念を討ち、盤夷で戦って、大いに破って帰還した。呂光はみずから乾帰・奚念を討ち、呂纂及び揚武将軍の楊軌・建忠将軍の沮渠羅仇・建武将軍の梁恭を左南に進軍させた。奚念は大いに懼れ、白土津で石を積んで堤防を作り、川の水を利用して防御し、精兵一万を送って河津を守らせた。呂光は将軍の王宝にひそかに上津に行かせ、夜に湟河を渡った。呂光は石堤から渡り、枹罕を攻め破り、奚念は単騎で甘松に逃げ、呂光は凱旋した。
これより先、呂光は西海の郡人を諸郡に移住させたが、このときに至り、「朔馬の心は何と悲しいことか。故郷を思って疲弊している。燕雀はなぜ飛び回るのか。古巣に帰りたいからだ」と謠言があった。しばらくして扇動し、彼らを西河の楽都に移住させた。郡臣は、高昌が西の辺境にあるが、重要な地理にあり、外は胡族と隣接し、統治が転覆しやすいので、(呂氏の)子弟に鎮護させるだと言った。呂光は子の呂覆を使持節・鎮西将軍・都督玉門已西諸軍事・西域大都護とし、高昌に鎮護させ、大臣の子弟に命じて随行させた。

原文

光於是以太元二十一年僭即天王位、大赦境內、改年龍飛。立世子紹為太子、諸子弟為公侯者二十人。中書令王詳為尚書左僕射、段業等五人為尚書。
乾歸從弟軻彈來奔、光下書曰、「乾歸狼子野心、前後反覆。朕方東清秦趙、勒銘會稽、豈令豎子鴟峙洮南。且其兄弟內相離間、可乘之機、勿過今也。其敕中外戒嚴、朕當親討。」光於是次于長最、使呂纂率楊軌・竇苟等步騎三萬攻金城。乾歸率眾二萬救之。光遣其將王寶・徐炅率騎五千邀之、乾歸懼而不進。光又遣其將梁恭・金石生以甲卒萬餘出陽武下峽、與秦州刺史沒奕于攻其東、光弟天水公延以枹罕之眾攻臨洮・武始・河關、皆克之。呂纂克金城、擒乾歸金城太守衞鞬、鞬瞋目謂光曰、「我寧守節斷頭、不為降虜也。」光義而免之。
乾歸因大震、泣歎曰、「死中求生、正在今日也。」乃縱反間、稱乾歸眾潰、東奔成紀。呂延信之、引師輕進。延司馬耿稚諫曰、「乾歸雄勇過人、權略難測、破王廣、克楊定、皆羸師以誘之、雖蕞爾小國、亦不可輕也。困獸猶鬭、況乾歸而可望風自散乎。且告者視高而色動、必為姦計。而今宜部陣而前、步騎相接、徐待諸軍大集、可一舉滅之。」延不從、與乾歸相遇、戰敗、死之。耿稚及將軍姜顯收集散卒、屯于枹罕。光還于姑臧。
光荒耄信讒、殺尚書沮渠羅仇・三河太守沮渠麴粥。羅仇弟子蒙遜叛光、殺中田護軍馬邃、攻陷臨松郡、屯兵金山、大為百姓之患。蒙遜從兄男成先為將軍、守晉昌、聞蒙遜起兵、逃奔貲虜、扇動諸夷、眾至數千、進攻福祿・建安。寧戎護軍趙策擊敗之、男成退屯樂涫。呂纂敗蒙遜于1.忽谷。酒泉太守壘澄率將軍趙策・趙陵步騎萬餘討男成于樂涫、戰敗、澄・策死之。男成進攻建康、說太守段業曰、「呂氏政衰、權臣擅命、刑罰失中、人不堪役、一州之地、叛者連城、瓦解之勢、昭然在目、百姓嗷然、無所宗附。府君豈可以蓋世之才、而立忠於垂亡之世。男成等既唱大義、欲屈府君撫臨鄙州、使塗炭之餘蒙來蘇之惠。」業不從。相持二旬而外救不至、郡人高逵・史惠等言於業曰、「今孤城獨立、臺無救援、府君雖心過田單、而地非即墨、宜思高算、轉禍為福。」業先與光侍中房晷・僕射王詳不平、慮不自容、乃許之。男成等推業為大都督・龍驤大將軍・涼州牧・建康公。光命呂纂討業、沮渠蒙遜進屯臨洮、為業聲勢。戰于合離、纂師大敗。

1.「忽谷」は、『資治通鑑』巻一〇九は「怱谷」に作る。

訓読

光 是に於て太元二十一年を以て僭して天王の位に即き、境內を大赦し、年を龍飛と改む。世子の紹を立てて太子と為し、諸子弟の公侯と為す者二十人なり。中書令の王詳もて尚書左僕射と為し、段業ら五人を尚書と為す。
乾歸の從弟たる軻彈 來奔し、光 書を下して曰く、「乾歸 狼子の野心あり、前後 反覆す。朕 方に東のかた秦趙を清め、銘を會稽に勒す、豈に豎子をして洮南に鴟峙せしめんや。且つ其の兄弟 內に相 離間す、之に乘ずるの機、今を過す勿かる可し。其れ中外に敕して戒嚴し、朕 當に親ら討つべし」と。光 是に於て長最に次り、呂纂をして楊軌・竇苟ら步騎三萬を率ゐて金城を攻めしむ。乾歸 眾二萬を率ゐて之を救ふ。光 其の將たる王寶・徐炅を遣はして騎五千を率ゐて之に邀はしめ、乾歸 懼れて進まず。光 又 其の將の梁恭・金石生を遣はして甲卒萬餘を以て陽武下峽に出でしめ、秦州刺史の沒奕于と與に其の東を攻め、光の弟たる天水公の延 枹罕の眾を以て臨洮・武始・河關を攻め、皆 之に克つ。呂纂 金城に克ち、乾歸の金城太守たる衞鞬を擒へ、鞬 目を瞋らせ光に謂ひて曰く、「我 寧ろ節を守り頭を斷つとも、降虜と為らざるなり」と。光 義もて之を免ず。
乾歸 因りて大いに震へ、泣歎して曰く、「死中に生を求むるは、正に今日に在るなり」と。乃ち反間を縱にして、乾歸の眾 潰し、東のかた成紀に奔ると稱す。呂延 之を信じ、師を引して輕々しく進む。延の司馬たる耿稚 諫めて曰く、「乾歸の雄勇 人に過ぎ、權略 測り難し、王廣を破り、楊定に克つは、皆 師を羸して以て之を誘ふ、蕞爾たる小國と雖も、亦た輕ず可からず。困獸すら猶ほ鬭ふ、況んや乾歸にして風を望みて自ら散ずる可きか。且つ告ぐる者 高を視て色 動ず、必ず姦計為り。而れば今 宜しく部陣して前み、步騎 相 接すべし、徐ろに諸軍の大集を待たば、一舉にして之を滅する可きなり」と。延 從はず、乾歸と相 遇し、戰敗し、之に死す。耿稚及び將軍の姜顯 散卒を收集し、枹罕に屯す。光 姑臧に還る。
光 荒耄にして讒を信じ、尚書の沮渠羅仇・三河太守の沮渠麴粥を殺す。羅仇が弟の子たる蒙遜 光に叛し、中田護軍の馬邃を殺し、攻めて臨松郡を陷し、兵を金山に屯し、大いに百姓の患と為る。蒙遜が從兄たる男成 先に將軍と為り、晉昌を守し、蒙遜 起兵すると聞き、逃げて貲虜に奔り、諸夷を扇動し、眾 數千に至り、福祿・建安に進攻す。寧戎護軍の趙策 擊ちて之を敗り、男成 退きて樂涫に屯す。呂纂 蒙遜を忽谷に敗る。酒泉太守の壘澄 將軍の趙策・趙陵 步騎萬餘を率ゐて男成を樂涫に討ち、戰ひて敗れ、澄・策 之に死す。男成 建康に進攻し、太守の段業に說きて曰く、「呂氏の政 衰へ、權臣 命を擅にす、刑罰 中を失ひ、人 役に堪へず、一州の地、叛者 城を連ね、瓦解の勢、昭然として目に在り、百姓 嗷然とし、宗附する所無し。府君 豈に蓋世の才を以て、而れども忠を垂亡の世に立つる可きか。男成ら既に大義を唱へ、府君に屈して撫して鄙州に臨み、塗炭の餘をして來蘇の惠に蒙らしめんと欲す」と。業 從はず。相 持すること二旬にして外救 至らず、郡人の高逵・史惠ら業に言ひて曰く、「今 孤城 獨り立ち、臺の救援無く、府君 心は田單に過ぐると雖も、地は即墨に非ず、宜しく高算を思ひ、禍を轉じて福と為せ」と。業 先に光の侍中の房晷・僕射の王詳と平ならず、自容せざるを慮り、乃ち之を許す。男成ら業を推して大都督・龍驤大將軍・涼州牧・建康公と為す。光 呂纂に命じて業を討たしめ、沮渠蒙遜 進みて臨洮に屯し、業の聲勢と為る。合離に戰ひ、纂の師 大敗す。

現代語訳

呂光は太元二十一(三九六)年をに不当に天王の位に即き、領内を大赦し、龍飛と改元した。世子の呂紹を太子に立て、諸々の子弟は二十人を公侯となった。中書令の王詳を尚書左僕射とし、段業ら五人を尚書とした。
乾帰の従弟である軻弾が(呂光を頼って)逃げてきたので、呂光は文書を下し、「乾帰は狼のような野心があり、反乱を継続してきた。朕は東のかた秦趙を掃討し、銘を会稽に刻もう(東晋を征服しよう)と思う。どうして豎子(乾帰)を洮南に割拠させておくものか。彼らの兄弟は内紛している、この好機を、逃してなるものか。内外に命じて出撃態勢を取り、朕が親征する」と言った。呂光は長最に進軍し、呂纂に楊軌・竇苟ら歩騎三万を率いて金城を攻撃させた。乾帰は兵二万で(金城を)救おうとした。呂光は将の王宝・徐炅に騎五千を率いてこれに向かわせ、乾帰は懼れて停止した。呂光はさらに将の梁恭・金石生に甲兵一万餘で陽武下峽を出て、秦州刺史の没奕于とともに東方を攻めさせ、呂光の弟である天水公の呂延は枹罕の軍で臨洮・武始・河関を攻め、全てに勝利した。呂纂は金城を撃ち破り、乾帰の任命した金城太守である衛鞬を捕らえたが、衛鞬は目を怒らせて呂光に、「私は臣節を守って首を切られようとも、捕虜にはならぬ」と言った。呂光は義に感じて免じた。
乾帰は大いに震え、「死中に生を求めるのは、まさに今だ」と泣いて歎じた。情報を操作し、乾帰の軍は潰走し、東のかた成紀に逃げると流布した。呂延はこれを信じ、軽々しく軍を向けた。呂延の司馬である耿稚が、「乾帰は雄勇が人より優れ、権略は測りがたく、王広を破り、楊定に勝ったときは、軍の弱みを見せて誘ったのです、(乾帰が)微細な小国でも、油断してはいけません。追い詰められた獣ですら戦うのです、まして乾帰が不利になると自分から解散するでしょうか。しかも情報提供者は高官を見て顔色が変わりました、きっと姦計です。陣を引き締めて進み、歩騎を近づけなさい、諸軍の集合を待てば、一挙に滅ぼせます」と言った。呂延は従わず、乾帰と遭遇し、敗れて、戦死した。耿稚及び将軍の姜顕は敗兵を集め、枹罕に駐屯した。呂光は姑臧に還った。
呂光は粗野で蒙昧な性格であったから讒言を信じ、尚書の沮渠羅仇・三河太守の沮渠麴粥を殺してしまった。羅仇の弟の子である蒙遜が呂光に叛し、中田護軍の馬邃を殺し、臨松郡を攻め落とし、兵を金山に駐屯させ、百姓の脅威となった。蒙遜の従兄である男成がこれより先に将軍となり、晋昌を守っていたが、蒙遜が起兵したと聞き、貲虜に逃げ込み、諸種の異民族を扇動し、兵は数千に至り、福禄・建安に進攻した。寧戎護軍の趙策が撃ち破り、男成は退いて楽涫に屯営した。呂纂は蒙遜を忽谷で破った。酒泉太守の塁澄は将軍の趙策・趙陵と歩騎一万餘を率いて男成を楽涫で討伐したが、敗北し、塁澄・趙策は戦死した。男成は建康に進攻し、太守の段業に、「呂氏の政事は衰え、権臣が命をほしいままにし、刑罰はでたらめで、人々は労役に堪えられず、一州の地に、叛する者が城を連ねており、瓦解の勢いは、はっきりと目に見え、百姓は騒然とし、頼る相手がいません。府君は蓋世の才を持ちながら、滅亡する王権(呂氏)の忠臣となるのですか。沮渠男成らは大義を唱え、府君に臣従してこの州を統治し、途端の苦しみを生き延びた人々に蘇生の恵みを施したいと考えています」と説いた。段業は従わなかった。二十日間対峙しても(呂光から建康に)援軍が来ず、郡人の高逵・史恵らは段業に、「いま孤立した郡城に、中央から救援が来ません、府君の心が(戦国斉の)田単より優れていても、ここは(田単が守った)即墨ではありません、どうぞ損得を考え、禍いを福に転じなさい」と言った。段業は以前から呂光(後涼)の侍中の房晷・僕射の王詳と不仲であり、我慢ができず、(沮渠氏への)降服を決めた。男成らは段業を推戴して大都督・龍驤大将軍・涼州牧・建康公とした。呂光が呂纂に命じて段業を討伐させると、沮渠蒙遜は進んで臨洮に駐屯し、段業を遠くから援護した。合離で戦い、呂纂の軍は大敗した。

原文

光散騎常侍・太常郭黁明天文、善占候、謂王詳曰、「於天文、涼之分野將有大兵。主上老病、太子沖闇、纂等凶武、一旦不諱、必有難作。以吾二人久居內要、常有不善之言、恐禍及人、深宜慮之。田胡1.王氣乞機部眾最強、二苑之人多其故眾。吾今與公唱義、推機為主、則二苑之眾盡我有也。克城之後、徐更圖之。」詳以為然。夜燒光洪範門、二苑之眾皆附之、詳為內應。事發、光誅之。黁遂據東苑以叛。光馳使召纂、諸將勸纂曰、「業聞師迴、必躡軍後。若潛師夜還、庶無後患矣。」纂曰、「業雖憑城阻眾、無雄略之才、若夜潛還、張其姦志。」乃遣使告業曰、「郭黁作亂、吾今還都。卿能決者、可出戰。」於是引還。業不敢出。
纂司馬楊統謂其從兄桓曰、「郭黁明善天文、起兵其當有以。京城之外非復朝廷之有、纂今還都、復何所補。統請除纂、勒兵推兄為盟主、西襲呂弘、據張掖以號令諸郡、亦千載一時也。」桓怒曰、「吾聞臣子之事君親、有隕無二、吾未有包胥存救之效、豈可安榮其祿、亂增其難乎。呂宗若敗、吾為弘演矣。」統懼、至番禾、遂奔郭黁。黁遣軍邀纂于白石、纂大敗。光西安太守石元良率步騎五千赴難、與纂共擊黁軍、破之、遂入于姑臧。黁之叛也、得光孫八人于東苑。及軍敗、恚甚、悉投之于鋒刃之上、枝分節解、飲血盟眾、眾皆掩目不忍視之、黁悠然自若。
黁推後將軍楊軌為盟主、軌自稱大將軍・涼州牧・西平公。呂纂擊黁將王斐于城西、大破之、自是黁勢漸衰。光遺楊軌書曰、「自羌胡不靖、郭黁叛逆、南藩安否、音問兩絕。行人風傳、云卿擁逼百姓、為黁脣齒。卿雅志忠貞、有史魚之操、鑒察成敗、遠侔古人、豈宜聽納姦邪、以虧大美。陵霜不彫者松柏也、臨難不移者君子也、何圖松柏彫於微霜、雞鳴已於風雨。郭黁巫卜小數、時或誤中、考之大理、率多虛謬。朕宰化寡方、澤不逮遠、致世事紛紜、百城離叛。勠力一心、同濟巨海者、望之於卿也。今中倉積粟數百千萬、東人戰士一當百餘、入則言笑晏晏、出則武步涼州、吞黁咀業、綽有餘暇。但與卿形雖君臣、心過父子、欲全卿名節、不使貽笑將來。」軌不答、率步騎二萬北赴郭黁。至姑臧、壘于城北。軌以士馬之盛、議欲大決成敗、黁每以天文裁之。呂弘為段業所逼、光遣呂纂迎之。軌謀於眾曰、「呂弘精兵一萬、若與光合、則敵強我弱。養獸不討、將為後患。」遂率兵邀纂、纂擊敗之。郭黁聞軌敗、東走魏安、遂奔于乞伏乾歸。楊軌聞黁走、南奔廉川。
光疾甚、立其太子紹為天王、自號太上皇帝。以呂纂為太尉、呂弘為司徒。謂紹曰、「吾疾病唯增、恐將不濟。三寇闚𨵦、迭伺國隙。吾終之後、使纂統六軍、弘管朝政、汝恭己無為、委重二兄、庶可以濟。若內相猜貳、釁起蕭牆、則晉趙之變旦夕至矣。」又謂纂・弘曰、「永業才非撥亂、直以正嫡有常、猥居元首。今外有強寇、人心未寧、汝兄弟緝穆、則貽厥萬世。若內自相圖、則禍不旋踵。」纂・弘泣曰、「不敢有二心。」光以安帝隆安三年死、時年2.六十三、在位3.十年。偽諡懿武皇帝、廟號太祖、墓號高陵。

1.「王氣乞機」は、『晋書』の他の巻では「王乞基」に作る。
2.中華書局本によると、「六十三」は「六十二」に作るべきである。
3.中華書局本によると、「十年」は「十一年」に作るべきである。

訓読

光の散騎常侍・太常の郭黁 天文に明るく、占候を善くし、王詳に謂ひて曰く、「天文に於て、涼の分野に將に大兵有らんとす。主上 老病にして、太子 沖闇なり、纂ら凶武にして、一旦 不諱あらば、必ず難作有らん。以ふに吾二人 久しく內要に居り、常に不善の言有り、禍 人に及ぶを恐れ、深く宜しく之を慮るべし。田胡の王氣乞機が部眾 最強にして、二苑の人 多く其の故眾なり。吾 今 公と義を唱へ、機を推して主と為せば、則ち二苑の眾 盡く我が有なり。克城の後、徐ろに更めて之を圖れ」と。詳 以て然りと為す。夜に光の洪範門を燒き、二苑の眾 皆 之に附し、詳 內應を為す。事 發し、光 之を誅す。黁 遂に東苑に據りて以て叛す。光 使を馳せて纂を召すに、諸將 纂に勸めて曰く、「業 師の迴するを聞き、必ず軍後を躡まん。若し師を潛めて夜に還れば、庶はくは後患無からん」と。纂曰く、「業 城に憑き眾を阻むと雖も、雄略の才無し、若し夜に潛かに還れば、其の姦志を張せん」と。乃ち使を遣はして業に告げて曰く、「郭黁 亂を作し、吾 今 都に還る。卿 能く決するならば、出で戰ふ可し」と。是に於て引還す。業 敢て出でず。
纂の司馬たる楊統 其の從兄の桓に謂ひて曰く、「郭黁 天文に明善たり、兵を起して其れ當に以て有るべし。京城の外 復た朝廷の有に非ず、纂 今 都に還り、復た何ぞ補ふ所あらん。統 纂を除くことを請ひ、兵を勒して兄を推して盟主と為し、西のかた呂弘を襲ひ、張掖に據りて以て諸郡に號令せば、亦た千載一時なり」と。桓 怒りて曰く、「吾 聞くに臣子の君親に事ふるに、隕有りて二無し、吾 未だ包胥が存救の效有らず、豈に安んじて其の祿に榮え、亂して其の難を增す可きか。呂宗 若し敗るれば、吾 弘演と為らん」と。統 懼れ、番禾に至り、遂に郭黁に奔る。黁 軍を遣りて纂を白石に邀へ、纂 大敗す。光の西安太守たる石元良 步騎五千を率ゐて難に赴き、纂と共に黁の軍を擊ち、之を破り、遂に姑臧に入る。黁の叛するや、光の孫八人を東苑に得たり。軍 敗るるに及び、恚り甚しく、悉く之を鋒刃の上に投じ、枝分節解し、血を飲みて眾に盟ひ、眾 皆 目を掩ひて之を視るに忍びず、黁 悠然自若たり。
黁 後將軍の楊軌を推して盟主と為し、軌 自ら大將軍・涼州牧・西平公を稱す。呂纂 黁の將たる王斐を城西に擊ち、大いに之を破り、是より黁の勢 漸く衰ふ。光 楊軌に書を遺りて曰く、「羌胡 靖ならざるより、郭黁 叛逆し、南藩の安否、音問 兩ながら絕ゆ。行人の風傳、云はく卿 百姓に擁逼せられ、黁の脣齒と為ると。卿 雅より志は忠貞にして、史魚の操有り、成敗を鑒察し、遠く古人に侔(ひと)しく、豈に宜しく姦邪を聽納し、以て大美を虧(か)くべきか。霜を陵ろし彫まざる者は松柏なり〔一〕、難に臨みて移らざるは君子なり、何ぞ松柏を微霜に彫み、雞鳴して風雨に已むことを圖るか。郭黁は巫卜小數なり、時に或いは誤りて中り、之を大理に考ふるに、率に虛謬多し。朕の化は寡方に宰し、澤は遠に逮ばず、世事紛紜たりて、百城離叛するに致る。力を勠せ心を一にし、同に巨海を濟ふは、之を卿に望むなり。今 中倉の積粟 數百千萬、東人の戰士 一當百餘、入れば則ち言笑して晏晏たり、出れば則ち涼州に武步し、黁を吞し業を咀み、綽として餘暇有り。但だ卿と與に形は君臣と雖も、心は父子に過ぎ、卿の名節を全せんと欲し、笑を將來に貽さしめず」と。軌 答へず、步騎二萬を率ゐて北のかた郭黁に赴く。姑臧に至り、城北に壘す。軌 士馬の盛を以て、議して大いに成敗を決さんと欲し、黁 每に天文を以て之を裁す。呂弘 段業の為に逼られ、光 呂纂を遣はして之を迎ふ。軌 眾に謀りて曰く、「呂弘の精兵一萬、若し光と合せば、則ち敵は強く我は弱し。獸を養ひて討たざれば、將に後患と為らん」と。遂に兵を率ゐて纂に邀ひ、纂 擊ちて之を敗る。郭黁 軌の敗るるを聞き、東のかた魏安に走り、遂に乞伏乾歸に奔る。楊軌 黁の奔るを聞き、南のかた廉川に奔る。
光 疾ひ甚しく、其の太子紹を立てて天王と為し、自ら太上皇帝と號す。呂纂を以て太尉と為し、呂弘を司徒と為す。紹に謂ひて曰く、「吾が疾病 唯だ增し、恐らくは將に濟はず。三寇 闚𨵦し、迭に國隙を伺ふ。吾が終の後、纂をして六軍を統べ、弘をして朝政を管し、汝 己を恭くして無為とし、重を二兄に委ね、庶はくは以て濟ふ可し。若し內に相 猜貳あれば、釁 蕭牆に起てば、則ち晉趙の變 旦夕に至らん」と。又 纂・弘に謂ひて曰く、「永業の才 撥亂に非ず、直だ正嫡を以て常有り、猥りに元首に居るのみ。今 外に強寇有り、人心 未だ寧からず、汝兄弟 穆を緝めれば、則ち厥れ萬世に貽(のこ)さん。若し內に自ら相 圖れば、則ち禍 旋踵せず」と。纂・弘 泣きて曰く、「敢て二心有らず」と。光 安帝の隆安三年を以て死し、時に年六十三、在位十年なり。偽して懿武皇帝と諡し、廟を太祖と號し、墓を高陵と號す。

〔一〕『論語』子罕篇に「歲寒、然後知松柏之後彫也」とあり、出典か。

現代語訳

散騎常侍・太常の郭黁は天文に明るく、占いを得意とし、王詳に、「天文において、涼州の分野で大きな兵乱がありそうだ。主上は老病であり、太子は幼く無能で、呂纂は凶悪な武人なので、もし不幸があれば、政難が起こる。われら二人(郭黁・王詳)は長く内朝におり、いつも善からぬ発言があった、禍いが人に及ぶのを恐れ、備えたほうがよい。田胡の王気乞機(王乞基)の部隊は最強であり、二苑の兵は多くが彼の旧知である。二人で正義を唱え、王気乞機を盟主に推戴すれば、二苑の部隊はすべて入手できる。城を破ったら、ゆっくり先のことを考えよう」と言った。王詳は合意した。夜に洪範門を焼くと、二苑の部隊がすべて(郭黁に)味方し、王詳は内応した。ことが発覚し、呂光は王詳を誅殺した。そこで郭黁は東苑に拠った。呂光は使者を送って呂纂を(沮渠氏への備えから中央に)召し返したが、諸将は呂纂に、「段業はわが軍の移動を知れば、必ず追跡してきます。軍勢を潜めて夜に都に向かえば、後の心配がありません」と言った。呂纂は、「段業は城を頼りに割拠しているが、雄略の才がない、もし夜にこっそり行けば、彼の野心を助長してしまう」と言った。そこで段業に使者を送り、「郭黁が乱を起こした、私は今から都に帰る。決断力があるなら、出てきて戦え」と告げた。かくて呂纂は都に帰った。段業は出撃しなかった。
呂纂の司馬である楊統は彼の従兄の楊桓に、「郭黁は天文に明るく、兵を起こしたのは裏づけがあるはず。京城の外はもう朝廷(後涼)の領土ではなく、呂纂がいま都に還っても、追い付きません。私が呂纂を排除し、兵をまとめて兄を盟主に推薦し、西のかた呂弘を襲い、張掖に拠って諸郡に号令すれば、千載一遇の機ではありませんか」と言った。楊統は怒り、「臣下や子が主君や親に仕えるなら、死んでも二心を抱かぬと聞く、私には(春秋楚の)申包胥のように(主君を)救出した功績がないのに、どうして俸禄を自分のために使い、国家の危難を悪化させようか。呂氏が滅亡すれば、私は弘演(春秋衛の忠臣)のようになろう」と言った。楊統は懼れ、番禾に至り、とうとう郭黁のもとに奔った。郭黁は呂纂を白石で迎え撃ち、呂纂が大敗した。西安太守である石元良は歩騎五千を率いて駆けつけ、呂纂とともに郭黁の軍を撃ち、これを破り、姑臧に入った。郭黁が叛したとき、呂光の孫八人を東苑で捕まえた。軍が敗れると、ひどく苛立ち、八人全員を鋒刃の上に投げ、ばらばらにし、血を飲んで兵たちに勝利を誓ったので、みな目を覆って見ていられず、しかし郭黁は悠然自若としていた。
郭黁は後将軍の楊軌を推して盟主とし、楊軌は自ら大将軍・涼州牧・西平公を称した。呂纂は郭黁の将である王斐を城西で撃ち、大いにこれを破り、これ以降は郭黁の勢力は徐々に衰えた。呂光は楊軌に文書を贈り、「羌胡の統治が安定せず、郭黁が叛逆し、南の同盟者の安否は、二国とも音信が絶えている。風のうわさに、あなたは百姓に無理やり推戴され、郭黁の盟友になったと聞いた。あなたの本性は忠貞であり、(春秋衛の)史魚のような節操があり、善悪を見定める力は、遠い昔の人に劣らぬのに、なぜ姦悪な申し出を聞き入れ、大きな美事を損なってよいものか。霜が降り(寒くなっても)すぐに枯れないのは松柏であり、危機に陥ってもすぐに裏切らないのが君子である、どうして僅かな霜で松柏を枯らせ、鶏鳴して(騒ぎ立てて)風雨に負けてしまうのか。郭黁は小手先の占い師であり、判断を誤ることもあり、大きな理に照らせば、結果には嘘が多いのだ。私の教化は狭い範囲に留まり、恩沢が行き渡らず、政事は騒がしく、百城が離叛した。力と合わせ心を一つにし、四海を救うことを、あなたに期待する。いま備蓄の穀物は数百千万あり、東人の戦士は一人で百人餘に匹敵し、城内では談笑して落ち着いており、出撃すれば涼州を跋渉し、郭黁と段業を併呑しても、まだまだ余裕がある。あなたと私は形は君臣だが、心は親子より近しい、あなたには名節を全うし、将来の笑いものになるな」と言った。楊軌は答えず、歩騎二万を率いて北のかた郭黁のもとに赴いた。姑臧に至り、城北に防塁を築いた。楊軌は士馬が盛んなので、堂々と決着をつけようと考え、郭黁はいつも天文により判断を加えた。呂弘が段業の軍に圧迫されると、呂光は呂纂を送ってこれを迎えさせた。楊軌は配下に、「呂弘配下の精兵一万が、もし呂光と合流すれば、敵が強く自軍が弱くなる。獣を飼って討たずにおけば、後の憂いとなる」と言った。(楊軌が)兵を率いて呂纂を迎え撃ったが、(反対に)呂纂がこれを破った。郭黁は楊軌の敗北を聞き、東のかた魏安に走り、乞伏乾帰を頼った。楊軌は郭黁が逃げたと聞き、南のかた廉川に逃げた。
呂光の病気が悪化すると、太子の呂紹を天王に立て、自ら太上皇帝と号した。呂纂を太尉とし、呂弘を司徒とした。呂紹に、「わが病気は悪くなるばかり、きっと助からぬ。三寇は隙を窺い、代わる代わる国家を狙っている。私が死んだら、呂纂に六軍を統括させ、呂光に朝政を管轄させ、お前は身を慎んで何もせず、重任を二人の兄に委ねて、生き残ってほしい。もし内部で疑い、家族が対立すれば、晋や趙のような政変がすぐに起きる」と言った。さらに呂纂・呂弘に、「永業(文脈より呂紹の字と思われる)の才能は乱の平定には不向きで、ただ正嫡だから地位を定め、天王を継がせただけ。いま外に強敵がおり、人心は安寧でない、きみたち兄弟二人が協力をすれば、万世にわたり存続できよう。もしも野心を持てば、禍いと隣り合わせだ」と言った。呂纂・呂弘は泣いて、「二心を持ちません」と誓った。呂光は安帝の隆安三(三九九)年に死に、年は六十三(正しくは六十二)、在位は十年(正しくは十一年)であった。不当に懿武皇帝と諡し、廟を太祖と号し、墓を高陵と号した。

呂纂

原文

纂字永緒、光之庶長子也。少便弓馬、好鷹犬。苻堅時入太學、不好讀書、唯以交結公侯聲樂為務。及堅亂、西奔上邽、轉至姑臧、拜武賁中郎將、封太原公。
光死、呂紹祕不發喪、纂排閤入哭、盡哀而出。紹懼為纂所害、以位讓之、曰、「兄功高年長、宜承大統、願兄勿疑。」纂曰、「臣雖年長、陛下國家之冢嫡、不可以私愛而亂大倫。」紹固以讓纂、纂不許之。及紹嗣偽位、呂超言於紹曰、「纂統戎積年、威震內外、臨喪不哀、步高視遠、觀其舉止亂常、恐成大變、宜早除之、以安社稷。」紹曰、「先帝顧命、音猶在耳、兄弟至親、豈有此乎。吾弱年而荷大任、方賴二兄以寧家國。縱其圖我、我視死如歸、終不忍有此意也、卿慎勿過言。」超曰、「纂威名素盛、安忍無親、今不圖之、後必噬臍矣。」紹曰、「吾每念袁尚兄弟、未曾不痛心忘寢食、寧坐而死、豈忍行之。」超曰、「聖人稱知機其神、陛下臨機不斷、臣見大事去矣。」既而纂見紹於湛露堂、超執刀侍紹、目纂請收之、紹弗許。
初、光欲立弘為世子、會聞紹在仇池、乃止、弘由是有憾於紹。遣尚書姜紀密告纂曰、「先帝登遐、主上闇弱、兄總攝內外、威恩被于遐邇、輒欲遠追廢昌邑之義、以兄為中宗何如。」纂於是夜率壯士數百、踰北城、攻廣夏門、弘率東苑之眾斫洪範門。左衞齊從守融明觀、逆問之曰、「誰也。」眾曰、「太原公。」從曰、「國有大故、主上新立、太原公行不由道、夜入禁城、將為亂邪。」因抽劍直前、斫纂中額。纂左右擒之、纂曰、「義士也、勿殺。」紹遣武賁中郎將呂開率其禁兵距戰于端門、驍騎呂超率卒二千赴之。眾素憚纂、悉皆潰散。

訓読

纂 字は永緒、光の庶長子なり。少くして弓馬に便にして、鷹犬を好む。苻堅の時に太學に入り、讀書を好まず、唯だ以て公侯と交結して聲樂を務と為す。堅 亂るるに及び、西のかた上邽に奔り、轉じて姑臧に至り、武賁中郎將を拜し、太原公に封ぜらる。
光 死し、呂紹 祕して喪を發せず、纂 閤を排いて入哭し、哀を盡して出づ。紹 纂の為に害せらることを懼れ、位を以て之に讓り、曰く、「兄は功は高く年は長たり、宜しく大統を承くべし、願はくは兄よ疑ふ勿かれ」と。纂曰く、「臣 年長と雖も、陛下は國家の冢嫡にして、私愛を以て大倫を亂す可からず」と。紹 固く纂に讓らんと以ひ、纂 之を許さず。紹 偽位を嗣ぐに及び、呂超 紹に言ひて曰く、「纂 戎を統むること積年、威は內外を震はし、喪に臨みて哀まず、步は高く視は遠く、其の舉止を觀るに常を亂し、恐らくは大變を成す、宜しく早く之を除き、以て社稷を安んずべし」と。紹曰く、「先帝の顧命、音 猶ほ耳に在り、兄弟は至親なり、豈に此有るか。吾 弱年にして大任を荷ひ、方に二兄を賴りて以て家國を寧んぜんとす。縱し其れ我を圖れば、我 死を視て歸するが如し、終に此の意有るに忍びず、卿 慎みて言を過つ勿れ」と。超曰く、「纂の威名 素より盛なり、安んぞ親無きを忍び、今 之を圖らざれば、後に必ず臍を噬まん」と。紹曰く、「吾 每に袁尚兄弟を念じ、未だ曾て心を痛め寢食を忘れず、寧ろ坐して死せん、豈に之を行ふに忍びざるか」と。超曰く、「聖人 機を其の神に知ると稱す、陛下 機に臨みて不斷なり、臣 大事の去るを見る」と。既にして纂 紹に湛露堂に見え、超 刀を執りて紹に侍し、纂を目して之を收むることを請ひ、紹 許さず。
初め、光 弘を立てて世子と為さんと欲し、會 紹 仇池に在ると聞き、乃ち止め、弘 是に由り紹に憾み有り。尚書の姜紀を遣りて密かに纂に告げて曰く、「先帝 登遐す、主上 闇弱たり、兄 內外を總攝し、威恩 遐邇を被ひ、輒ち遠く昌邑を廢するの義を追ひ、兄を以て中宗と為さんと欲するは何如」と。纂 是に於て夜に壯士數百を率ゐて、北城を踰え、廣夏門を攻め、弘 東苑の眾を率ゐて洪範門を斫る。左衞の齊從 融明觀を守り、逆ひて之に問ひて曰く、「誰なるや」と。眾曰く、「太原公なり」と。從曰く、「國に大故有り、主上 新たに立ち、太原公 行くに道に由らず、夜に禁城に入るは、將に亂と為さんとするや」と。因りて劍を抽きて直ちに前み、纂を斫りて額に中つ。纂の左右 之を擒へ、纂曰く、「義士なり、殺す勿れ」と。紹 武賁中郎將の呂開を遣はして其の禁兵を率ゐて端門に距戰し、驍騎の呂超 卒二千を率ゐて之に赴く。眾 素より纂を憚り、悉く皆 潰散す。

現代語訳

呂纂は字を永緒といい、呂光の庶長子である。若くして弓馬が上手く、鷹犬の狩りを楽しんだ。苻堅のときに太学に入り、読書を好まず、ただ公侯と交際してもっぱら声楽を楽しんだ。苻堅の政権が乱れると、西のかた上邽に奔り、転じて姑臧に至り、武賁中郎将を拝し、太原公に封じられた。
呂光が死ぬと、呂紹が喪を秘して発さず、呂纂は門を押し入って哭し、哀しみを尽くして退室した。呂紹は呂纂に殺害されることを恐れ、君位を彼に譲り、「兄(呂纂)は功績が高く年長です、大統を継承して下さい、お願いします」と言った。呂纂は、「私は年長ですが、陛下は国家の嫡子であり、私情により道理を乱してはいけません」と言った。なおも呂紹は呂纂に譲ろうとし、呂纂が拒否した。呂紹が偽位を嗣ぐと、呂超は呂紹に、「呂纂は連年にわたり軍隊を統率し、威勢が内外を震わせ、父の死に臨んで哀しまず、足どりは高く視線は遠く、その態度は常軌を逸し、きっと政変を起こします、早く彼を除き、社稷を安定させなさい」と言った。呂紹は、「先帝の遺命が、まだ耳に残っている、兄弟は近しい親族だ、そんなことができるものか。私は若年で大任を担い、二人の兄を頼って国家を安寧にしたい。もし彼らが私を殺すならば、私は受け入れざるを得ない、兄に危害を加えるつもりはない、もう言うな」と言った。呂超は、「呂纂の威名は以前から盛んです、疎遠な相手を大切にし、殺害をためらえば、後悔します」と言った。呂紹は、「私はいつも袁尚(袁紹の子)兄弟のことを考え、心を痛めて寝食を忘れなかったことがなく、むしろこのまま死んだとしても、兄を殺したくない」と言った。呂超は、「聖人は機微を察知すると言います、陛下は時機が到来しても決断できません、大いなる事業は失敗するでしょう」と言った。呂纂が呂紹と湛露堂で謁見したとき、呂超は刀を持って呂紹の横におり、呂纂に視線を送って(呂纂を)捕らえましょうと(呂紹に)合図したが、呂紹は許さなかった。
これより先、呂光は呂弘を世子に立てようとしたが、折りしも呂紹が仇池にいると聞き、中止したから、呂弘は呂紹を怨んでいた。尚書の姜紀を遣って密かに呂纂に、「先帝が崩御し、主上(呂紹)は闇弱です、兄が内外を統括し、威恩は遠近を覆っている、先古(前漢)の昌邑王を廃位した理屈を踏襲し、兄(呂纂)を君位に即けてはどうか」と告げた。そこで呂纂は夜に壮士数百を率い、北城を越え、広夏門を攻め、呂弘は東苑の兵を率いて洪範門を破った。左衛の斉従は融明観を守り、待ち受けて、「誰ですか」と質問した。兵は、「太原公(呂纂)である」と答えた。斉従は、「国に大喪があり、主上(呂紹)が即位したばかりで、太原公が正規の道を通らず、夜に禁城に入るのは、乱を起こそうとするからだ」と言った。剣を抜いて直進し、呂纂の額を切りつけた。呂纂の左右は彼を捕らえたが、呂纂は、「義士だ、殺すな」と言った。呂紹は武賁中郎将の呂開に禁兵を率いて端門で防戦をさせ驍騎将軍の呂超は兵二千を率いて駆けつけた。兵は普段から呂纂を憚っており、みな潰走して散った。

原文

纂入自青角門、升于謙光殿。紹登紫閣自殺、呂超出奔廣武。纂憚弘兵強、勸弘即位。弘曰、「自以紹弟也而承大統、眾心不順、是以違先帝遺敕、慚負黃泉。今復越兄而立、何面目以視息世間。大兄長且賢、威名振于二賊、宜速即大位、以安國家。」纂以隆安1.四年遂僭即天王位、大赦境內、改元為咸寧。諡紹為隱王。以弘為使持節・侍中・大都督・都督中外諸軍事・大司馬・車騎大將軍・司隸校尉・錄尚書事、改封番禾郡公、其餘封拜各有差。
纂謂齊從曰、「卿前斫我、一何甚也。」從泣曰、「隱王先帝所立、陛下雖應天順時、而微心未達、惟恐陛下不死、何謂甚也。」纂嘉其忠、善遇之。纂遣使謂征東呂方曰、「超實忠臣、義勇可嘉、但不識經國大體、權變之宜。方賴其忠節、誕濟世難、可以此意諭之。」超上疏陳謝、纂復其爵位。
呂弘自以功名崇重、恐不為纂所容、纂亦深忌之。弘遂起兵東苑、劫尹文・楊桓以為謀主、請宗燮俱行。燮曰、「老臣受先帝大恩、位為列棘、不能隕身授命、死有餘罪、而復從殿下、親為戎首者、豈天地所容乎。且智不能謀、眾不足恃、將焉用之。」弘曰、「君為義士、我為亂臣。」乃率兵攻纂。纂遣其將焦辨擊弘、弘眾潰、出奔廣武。纂縱兵大掠、以東苑婦女賞軍、弘之妻子亦為士卒所辱。纂笑謂羣臣曰、「今日之戰何如。」其侍中房晷對曰、「天禍涼室、釁起戚藩。先帝始崩、隱王幽逼、山陵甫訖、大司馬驚疑肆逆、京邑交兵、友于接刃。雖弘自取夷滅、亦由陛下無棠棣之義。宜考己責躬、以謝百姓、而反縱兵大掠、幽辱士女。釁自由弘、百姓何罪。且弘妻、陛下之弟婦也。弘女、陛下之姪女也、奈何使無賴小人辱為婢妾。天地神明、豈忍見此。」遂歔欷悲泣。纂改容謝之、召弘妻及男女于東宮、厚撫之。呂方執弘繫獄、馳使告纂、纂遣力士康龍拉殺之。是月、立其妻楊氏為皇后、以楊氏父桓為散騎常侍・尚書左僕射・涼都尹、封金城侯。

1.中華書局本によると、「四年」は「三年」に作るのが正しい。隆安三年十二月に収まるという。

訓読

纂 青角門より入り、謙光殿に升る。紹 紫閣に登りて自殺し、呂超 出でて廣武に奔る。纂 弘の兵 強きを憚り、弘に即位を勸む。弘曰く、「自ら紹の弟なるを以て而れども大統を承くれば、眾心 順はず、是を以て先帝の遺敕に違ひ、慚ぢて黃泉に負ふ。今 復た兄を越して立てば、何の面目ありて以て世間に視息せん。大兄 長にして且つ賢たり、威名 二賊に振ひ、宜しく速やかに大位に即き、以て國家を安んずべし」と。纂 隆安四年を以て遂に僭して天王の位に即き、境內を大赦し、改元して咸寧と為す。紹に諡して隱王と為す。弘を以て使持節・侍中・大都督・都督中外諸軍事・大司馬・車騎大將軍・司隸校尉・錄尚書事と為し、改めて番禾郡公に封じ、其の餘 封拜 各々差有り。
纂 齊從に謂ひて曰く、「卿 前に我を斫る、一に何ぞ甚しきや」と。從 泣きて曰く、「隱王は先帝の立つる所なり、陛下 天に應じ時に順ふと雖も、而れども微心 未だ達せず、惟だ陛下 死せざるを恐る、何ぞ甚しきと謂ふや」と。纂 其の忠を嘉し、善く之を遇す。纂 使を遣はして征東の呂方に謂ひて曰く、「超 實に忠臣なり、義勇 嘉す可し、但だ經國の大體、權變の宜を識らず。方 其の忠節を賴り、誕に世難を濟ひ、此の意を以て之を諭す可し」と。超 上疏して陳謝し、纂 其の爵位を復す。
呂弘 自ら功名 崇重なるを以て、纂の容るる所と為らざるを恐れ、纂 亦た深く之を忌む。弘 遂に兵を東苑に起し、尹文・楊桓を劫して以て謀主と為し、宗燮に請ひて俱に行く。燮曰く、「老臣 先帝の大恩を受け、位は列棘と為り、身を隕し命を授くる能はず、死して餘罪有り、而れども復た殿下に從ひ、親ら戎首と為るは、豈に天地 容るる所なるか。且つ智 謀ること能はず、眾 恃むに足らず、將に焉ぞ之を用ゐんか」と。弘曰く、「君 義士為り、我 亂臣為り」と。乃ち兵を率ゐて纂を攻む。纂 其の將の焦辨を遣はして弘を擊ち、弘の眾 潰え、出でて廣武に奔る。纂 兵を縱にし大掠し、東苑の婦女を以て軍に賞し、弘の妻子 亦た士卒の為に辱めらる。纂 笑ひて羣臣に謂ひて曰く、「今日の戰 何如」と。其の侍中の房晷 對へて曰く、「天 涼室に禍し、釁 戚藩に起る。先帝 始めて崩し、隱王 幽逼し、山陵 甫めて訖り、大司馬 驚疑して肆逆す、京邑 兵を交へ、友と刃に接す。弘 自ら夷滅を取ると雖も、亦た陛下の棠棣の義無きに由る。宜しく己を考し躬を責め、以て百姓に謝すべし、而れども反りて兵を縱に大掠し、士女を幽辱す。釁 自ら弘に由り、百姓 何の罪あるか。且つ弘の妻、陛下の弟婦なり。弘の女、陛下の姪女なり、奈何ぞ小人を賴りて辱めて婢妾と為ることを無からしめんか。天地神明、豈に忍びて此を見るや」と。遂に歔欷して悲泣す。纂 容を改めて之に謝し、弘の妻及び男女を東宮に召し、厚く之を撫す。呂方 弘を執へて獄に繫ぎ、使を馳せて纂に告ぐるに、纂 力士の康龍を遣はして拉して之を殺す。是の月、其の妻の楊氏を立てて皇后と為し、楊氏の父たる桓を以て散騎常侍・尚書左僕射・涼都尹と為し、金城侯に封ず。

現代語訳

呂纂が青角門から入り、謙光殿に昇った。呂紹が紫閣に登って自殺すると、呂超は脱出して広武に逃げた。呂纂は呂弘の兵が強いのを憚り、呂弘に即位を勧めた。呂弘は、「もし私が呂紹の弟でありながら大統を承ければ、支持を得られず、先帝の違勅に逆らうことになり、あの世に恥じます。しかも兄(呂纂)を差し置いて即位すれば、世間に顔向けできません。大兄は年長で賢く、威名が二賊に振るいます、速やかに君位に即き、国家を安定させなさい」と言った。呂纂は隆安四年(正しくは三年末)に不当に天王の位に即き、領内を大赦し、咸寧と改元した。呂紹に諡して隠王とした。呂弘を使持節・侍中・大都督・都督中外諸軍事・大司馬・車騎大将軍・司隸校尉・録尚書事とし、改めて番禾郡公に封じ、その他の封拝は差等があった。
呂纂は斉従に、「あなたは私を切りつけた、何ということをしてくれた」と言った。斉従は泣いて、「隠王(呂紹)は先帝(呂光)が立てた君主です、陛下(呂纂)が天に応じ時に従っている(天王の有資格者だとしても)、私には思いもよらず、ただ陛下を仕留め損ねたことを心配しました、追及されても仕方ありません」と言った。呂纂はその忠を評価し、厚遇した。呂纂は使者を送って征東将軍の呂方に、「呂超はまことに忠臣であり、義勇がすばらしいが、国家の運営、時宜の権変(君主交替の必要性)が分からない。あなたは彼の忠節を頼りにし、大いに時難を救い、私の意図を伝えてくれないか」と言った。(呂方の取りなしにより)呂超は上疏して陳謝し、呂纂はその爵位を回復した。
呂弘は自らの功績が高く名声が重いので、呂纂から警戒されることを恐れ、呂纂もまた彼を煙たがった。とうとう呂弘が東苑で兵を起こし、尹文・楊桓を脅して謀主(参謀)とし、宗燮に頼んで巻き込もうとした。宗燮は、「老臣は先帝(呂光)から大恩を受け、位は列棘(公卿)となったが、身命を投げ出せず、死んでも償えぬ罪があるのに、さらに殿下(呂弘)に従い、首謀者となれば、天地に容認されまい。私の知恵は不十分で、手持ちの兵も頼りにならず、お役に立てません」と言った。呂弘は、「あなたは義士です、私は乱臣です」と言った。そこで兵を率いて呂纂を攻めた。呂纂は将の焦辨に呂弘を攻撃させ、呂弘の兵はくずれ、広武に逃げ出した。呂纂は自軍の兵に掠奪を許し、東苑の婦女を軍の褒賞とし、呂弘の妻子もまた士卒に辱められた。呂纂は笑って、「今日の戦い(勝ちっぷり)はどうだね」と郡臣に言った。侍中の房晷が、「天が涼王朝に禍いをもたらし、親族で対立が起きました。先帝が崩御し、陰王が自殺し、山陵が完成したばかりで、大司馬が驚き疑って反逆し、京邑で戦闘が起こり、旧友と刀を交えました。呂弘は自滅を選びましたが、陛下が棠棣(兄弟)の義がないことも理由です。きちんと自責し、百姓に謝るべきです、しかし兵を解き放って掠奪させ、士女を陵辱しました。対立の原因は呂弘です、百姓に何の罪がありますか。しかも呂弘の妻は、陛下の義妹です。呂弘の娘は、陛下の姪です、なぜ身分の低い人の婢妾としておくのですか。天地神明は、遺憾に思っております」と言った。むせび泣き悲しんだ。呂纂は態度を改めて謝り、呂弘の妻及び子女を東宮に召し、手厚く面倒をみた。呂方は呂弘を捕らえて獄に繋ぎ、使者を送って呂纂に告げ、呂纂は力士の康龍にねじ殺させた。この月、呂纂は妻の楊氏を皇后に立て、楊氏の父である楊桓を散騎常侍・尚書左僕射・涼都尹とし、金城侯に封じた。

原文

纂將伐禿髮利鹿孤、中書令楊穎諫曰、「夫起師動眾、必參之天人、苟非其時、聖賢所不為。禿髮利鹿孤上下用命、國未有釁、不可以伐。宜繕甲養銳、勸課農殖、待可乘之機、然後一舉蕩滅。比年多事、公私罄竭、不深根固本、恐為患將來、願抑赫斯之怒、思萬全之算。」纂不從。度浩亹河、為鹿孤弟傉檀所敗、遂西襲張掖。姜紀諫曰、「方今盛夏、百姓廢農、所利既少、所喪者多。若師至嶺西、虜必乘虛寇抄都下、宜且迴師以為後圖。」纂曰、「虜無大志、聞朕西征、正可自固耳。今速襲之、可以得志。」遂圍張掖、略地建康。聞傉檀寇姑臧、乃還。
即序胡安據盜發張駿墓、見駿貌如生、得真珠1.簏・琉璃榼・白玉樽・赤玉簫・紫玉笛・珊瑚鞭・馬腦鍾、水陸奇珍不可勝紀。纂誅安據黨五十餘家、遣使弔祭駿、并繕修其墓。道士句摩羅耆婆言於纂曰、「潛龍屢出、豕犬見妖、將有下人謀上之禍、宜增修德政、以答天戒。」纂納之。耆婆、即羅什之別名也。
纂游田無度、荒耽酒色、其太常楊穎諫曰、「臣聞皇天降鑒、惟德是與。德由人弘、天應以福、故勃焉之美奄在聖躬。大業已爾、宜以道守之、廓靈基於日新、邀洪福於萬祀。自陛下龍飛、疆宇未闢、崎嶇二嶺之內、綱維未振於九州。當兢兢夕惕、經略四方、成先帝之遺志、拯蒼生於荼蓼。而更飲酒過度、出入無恒、宴安游盤之樂、沈湎樽酒之間、不以寇讐為慮、竊為陛下危之。糟丘酒池、洛汭不返、皆陛下之殷鑒。臣蒙先帝夷險之恩、故不敢避干將之戮。」纂曰、「朕之罪也。不有貞亮之士、誰匡邪僻之君。」然昏虐自任、終不能改。常與左右因醉馳獵於坑澗之間、殿中侍御史王回・中書侍郎王儒扣馬諫曰、「千金之子坐不垂堂、萬乘之主清道而行、奈何去輿輦之安、冒奔騎之危。銜橜之變、動有不測之禍。愚臣竊所不安、敢以死爭。願陛下遠思袁盎攬轡之言、不令臣等受譏千載。」纂不納。

1.中華書局本によると、「簏」は「簾」に作るべきか。

訓読

纂 將に禿髮利鹿孤を伐たんとし、中書令の楊穎 諫めて曰く、「夫れ師を起し眾を動すは、必ず之を天人に參じ、苟し其の時に非ざれば、聖賢 為さざる所なり。禿髮利鹿孤の上下 用命し、國 未だ釁有らず、以て伐つ可からず。宜しく甲を繕ひ銳を養ひ、農殖を勸課し、可乘の機を待ち、然る後一舉に蕩滅すべし。比年 多事なり、公私 罄竭し、根を深め本を固めず、恐らく將來に患と為る、願はくは赫斯の怒を抑へ、萬全の算を思へ」と。纂 從はず。浩亹河を度り、鹿孤弟傉檀の為に敗られ、遂に西のかた張掖を襲ふ。姜紀 諫めて曰く、「方今 盛夏なり、百姓 農を廢し、利する所 既に少なく、喪ふ所は多し。若し師 嶺西に至れば、虜 必ず虛に乘じて都下を寇抄す、宜しく且に師を迴して以て後圖を為すべし」と。纂曰く、「虜 大志無く、朕 西征すると聞き、正に自固す可きのみ。今 速やかに之を襲はば、以て志を得可し」と。遂に張掖を圍み、建康を略地す。傉檀 姑臧を寇すと聞き、乃ち還る。
即序胡の安據 盜みて張駿の墓を發し、駿の貌を見るに生けるが如く、真珠簏・琉璃榼・白玉樽・赤玉簫・紫玉笛・珊瑚鞭・馬腦鍾を得て、水陸の奇珍なるもの勝げて紀す可からず。纂 安據の黨五十餘家を誅し、使を遣はして駿を弔祭し、并せて其の墓を繕修す。道士の句摩羅耆婆 纂に言ひて曰く、「潛龍 屢々出で、豕犬 妖を見し、將に下人の上を謀るの禍有らんとす、宜しく德政を增修し、以て天戒に答ふべし」と。纂 之を納る。耆婆は、即ち羅什の別名なり。
纂 游田すること度無く、酒色に荒耽し、其の太常たる楊穎 諫めて曰く、「臣 聞くに皇天 鑒を降し、惟だ德 是れ與にすと。德 人に由りて弘く、天は應ずるに福を以てし、故に勃焉の美 奄に聖躬に在り。大業 已に爾り、宜しく道を以て之を守り、靈基を日新に廓し、洪福を萬祀に邀へよ。陛下 龍飛してより、疆宇 未だ闢かず、二嶺の內を崎嶇にして、綱維 未だ九州に振はず。當に兢兢と夕惕して〔一〕、四方を經略し、先帝の遺志を成し、蒼生を荼蓼に拯ふべし〔二〕。而れども更めて飲酒すること度を過ぎ、出入 恒無く、游盤の樂に宴安し、樽酒の間に沈湎し、寇讐を以て慮を為さず、竊かに陛下の為に之を危ぶむ。糟丘の酒池、洛汭 返らざるは、皆 陛下の殷鑒なり。臣 先帝の夷險の恩を蒙り、故に敢て干將の戮を避けず」と。纂曰く、「朕の罪なり。貞亮の士有らずんば、誰か邪僻の君を匡さんか」と。然るに昏虐 自ら任せ、終に改むること能はず。常に左右と與に醉に因りて坑澗の間に馳獵し、殿中侍御史の王回・中書侍郎の王儒 馬を扣きて諫めて曰く、「千金の子 坐して堂に垂とせず、萬乘の主 道を清めて行く、奈何ぞ輿輦の安を去り、奔騎の危を冒すや。銜橜の變、動すれば不測の禍有り。愚臣 竊かに安ぜざる所にして、敢て死を以て爭ふ。願はくは陛下 遠く袁盎 攬轡の言を思ひ〔三〕、臣らをして譏を千載に受けしめざれ」と。纂 納れず。

〔一〕『周易』乾に、「君子終日乾乾、夕惕若厲」とあり、出典。
〔二〕『毛詩』周頌 良耜に、「以薅荼蓼。荼蓼朽止」とある。
〔三〕『史記』巻百一 袁盎伝に「文帝從霸陵上、欲西馳下峻阪。袁盎騎、並車擥轡。上曰、將軍怯邪。盎曰、臣聞千金之子坐不垂堂、百金之子不騎衡、聖主不乘危而徼幸。今陛下騁六騑、馳下峻山、如有馬驚車敗、陛下縱自輕、柰高廟、太后何」とあり、諫言の内容が踏まえられている。

現代語訳

呂纂が禿髪利鹿孤を討伐しようとすると、中書令の楊穎が諫め、「軍隊を動員するには、天と人の協力が必要であり、時期が悪ければ、聖賢は中止をします。禿髪利鹿孤は君臣が団結し、国に隙がなく、討伐できません。武具と兵員を整え、農業を勧め、討伐の好機を待ってから、一挙に討滅しなさい。近年は兵役が多く、公私の蓄えがなく、国力の基礎が弱まり、将来に悪影響があります、怒りを抑え、万全の計画を立て直しなさい」と言った。呂纂は従わなかった。浩亹河を渡り、鹿孤弟傉檀に破られると、(目標を変え)西のかた張掖を襲った。姜紀が諫めて、「いま盛夏で、百姓は農事ができず、利益は少なく、損失が大きい。もし軍が嶺西に至れば、敵は必ず虚に乗じて(後涼の)都を襲撃します、撤退して出直しましょう」と言った。呂纂は、「敵に考えなどなく、朕が西征すると聞けば、守りを固めるだけだ。速やかに襲えば計画を達成できる」と言った。張掖を囲み、建康を攻略した。傉檀が姑臧を侵略したと聞き、帰還した。
即序胡の安拠が張駿(前涼の君主)の墓を盗掘し、張駿の顔つきは生きているようで、真珠簏(真珠簾)・琉璃榼・白玉樽・赤玉簫・紫玉笛・珊瑚鞭・馬腦鍾を手に入れ、水陸から産出する珍奇な宝は記録しきれない。呂纂は安拠の一味の五十餘家を誅し、使者を送って張駿を弔祭し、墓を修復した。道士の句摩羅耆婆が呂纂に、「潜龍がしばしば現れ、豕犬が妖異を表しており、下剋上の禍の前兆です、ますます徳政を心がけ、天の戒めに答えなさい」と言った。呂纂は聞き入れた。耆婆は、句摩羅什の別名である。
呂纂は狩猟を楽し尽くし、酒色に溺れたので、太常の楊穎が諫めて、「私が聞きますに皇天は教戒を下し、有徳者がその対象です。徳は人が広げ、天はそれに福で応じます、だから突然あなたが君主になったのです。大業を始めたら、道義によって守り立て、宗廟の基礎を日ごとに固め、万世にわたり祭祀を継続させます。(ところが)陛下が即位してから、領土が広がらず、二嶺の内は土地が狭く険しく、支配が九州に及びません。恐々として精勤し、四方を攻略して、先帝の遺志を達成し、万民を辛苦から救って下さい。しかし飲酒に節度がなく、出入りは不規則で、宴会を楽しみ、酒樽に沈み、強敵を警戒せず、陛下のことが心配です。糟丘の酒池が、洛汭に返らなかった(殷紂王の故事)は、陛下の教訓です。私は先帝から特別の恩を受けたので、死刑を恐れず述べました」と言った。呂纂は、「朕の罪だ。正義の士がおらねば、だれが君主の誤りを正すのか」と言った。しかし気ままに耽り、全く改善しなかった。いつも供を連れて酔いに任せて坑澗一帯で狩猟に駆け回ったので、殿中侍御史の王回・中書侍郎の王儒が馬を引き止めて、「千金の子は(瓦が落ちる)軒先に近づかず、万乗の主は道を清めてから通ります、どうして乗輿の安全性を捨て、馬で奔走する危険を冒すのですか。落馬の事故は、けがを予測できません。心配なので、死を覚悟で申し上げます。陛下は袁盎が(前漢文帝の)馬を引き止めたときの諫言を思い、千年先から批判を受けぬようにして下さい」と言った。呂纂は聞き入れなかった。

原文

纂番禾太守呂超擅伐鮮卑思盤、思盤遣弟乞珍訴超於纂、纂召超將盤入朝。超至姑臧、大懼、自結於殿中監杜尚。纂見超、怒曰、「卿恃兄弟桓桓、欲欺吾也、要當斬卿、然後天下可定。」超頓首不敢。纂因引超及其諸臣讌于內殿。呂隆屢勸纂酒、已至昏醉、乘步輓車將超等游于內。至琨華堂東閤、車不得過、纂親將竇川・駱騰倚劍於壁、推車過閤。超取劍擊纂、纂下車擒超、超刺纂洞胸、奔于宣德堂。川・騰與超格戰、超殺之。纂妻楊氏命禁兵討超、杜尚約兵舍杖。將軍魏益多入、斬纂首以徇曰、「纂違先帝之命、殺害太子、荒耽酒獵、昵近小人、輕害忠良、以百姓為草芥。番禾太守超以骨肉之親、懼社稷顛覆、已除之矣。上以安宗廟、下為太子報仇。凡我士庶、同茲休慶。」
偽巴西公呂他・隴西公呂緯時在北城、或說緯曰、「超陵天逆上、士眾不附。明公以懿弟之親、投戈而起、姜紀・焦辨在南城、楊桓・田誠在東苑、皆我之黨也、何慮不濟。」緯乃嚴兵謂他曰、「隆・超弒逆、所宜擊之。昔田恒之亂、孔子鄰國之臣、猶抗言於哀公、況今蕭牆有難、而可坐觀乎。」他將從之、他妻梁氏止之曰、「緯・超俱兄弟之子、何為舍超助緯而為禍首乎。」他謂緯曰、「超事已立、據武庫、擁精兵、圖之為難。且吾老矣、無能為也。」超聞、登城告他曰、「纂信讒言、將滅超兄弟。超以身命之切、且懼社稷覆亡、故出萬死之計、為國家唱義、叔父當有以亮之。」超弟邈有寵於緯、說緯曰、「纂殘國破家、誅戮兄弟、隆・超此舉應天人之心、正欲尊立明公耳。先帝之子、明公為長、四海顒顒、人無異議。隆・超雖不達臧否、終不以孼代宗、更圖異望也、願公勿疑。」緯信之、與隆・超結盟、單馬入城、超執而殺之。
初、纂嘗與鳩摩羅什棊、殺羅什子、曰、「斫胡奴頭。」羅什曰、「不斫胡奴頭、胡奴斫人頭。」超小字胡奴、竟以殺纂。1.纂在位三年、以元興元年死。隆既纂位、偽諡纂靈皇帝、墓號白石陵。

1.中華書局本によると、「元興元年」は「隆安五年」に作るのが正しい。隆安六年と元興元年が同じ年。

訓読

纂の番禾太守の呂超 擅に鮮卑の思盤を伐ち、思盤 弟の乞珍を遣はして超を纂に訴へ、纂 超を召して盤を將ゐて入朝せしむ。超 姑臧に至り、大いに懼れ、自ら殿中監の杜尚と結ぶ。纂 超に見え、怒曰、「卿 兄弟たるを恃みて桓桓として、吾を欺かんと欲するや、要に當に卿を斬りて、然る後に天下 定む可し」と。超 頓首して敢てせず。纂 因りて超及び其の諸臣を引て內殿に讌す。呂隆 屢々纂に酒を勸め、已に昏醉に至り、步輓車に乘りて超らを將ゐて內に游ぶ。琨華堂の東閤に至り、車 過ぐるを得ず、纂 親ら竇川・駱騰を將ゐて劍を壁に倚(よ)せかけ、車を推して閤を過ぐ。超 劍を取りて纂を擊ち、纂 車を下りて超を擒へ、超 纂を刺して胸を洞(とほ)し、宣德堂に奔る。川・騰 超と格戰し、超 之を殺す。纂の妻の楊氏 禁兵に命じて超を討ち、杜尚 兵に約して杖を舍つ。將軍の魏益多 入り、纂の首を斬りて以て徇へて曰く、「纂 先帝の命に違ひ、太子を殺害し、酒獵に荒耽し、小人を昵近し、忠良を輕害し、百姓を以て草芥と為す。番禾太守の超 骨肉の親を以て、社稷の顛覆を懼れ、已に之を除けり。上は以て宗廟を安んじ、下は太子の為に報仇す。凡そ我が士庶、同に茲に休慶せよ」と。
偽巴西公の呂他・隴西公の呂緯は時に北城に在り、或ひと緯に說きて曰く、「超 天を陵し上に逆らひ、士眾 附かず。明公 懿弟の親を以て、戈を投じて起たば、姜紀・焦辨 南城に在り、楊桓・田誠 東苑に在り、皆 我の黨なり、何をか不濟を慮らん」と。緯 乃ち兵を嚴して他に謂ひて曰く、「隆・超 弒逆し、宜しく之を擊つべき所なり。昔 田恒の亂すや、孔子は鄰國の臣なり、猶ほ言を哀公に抗す、況んや今 蕭牆に難有り、而れども坐して觀る可きか」と。他 將に之に從はんとし、他の妻の梁氏 之を止めて曰く、「緯・超 俱に兄弟の子なり、何為れぞ超を舍てて緯を助けて禍首と為るか」と。他 緯に謂ひて曰く、「超の事 已に立つ、武庫に據り、精兵を擁し、之を圖ることは難為り。且つ吾 老ひ、能く為すこと無きなり」と。超 聞き、城に登りて他に告げて曰く、「纂 讒言を信じ、將に超の兄弟を滅さんとす。超 身命の切を以て、且つ社稷の覆亡を懼れ、故に萬死の計を出し、國家の為に義を唱へり、叔父 當に以て之を亮にすること有るべし」と。超の弟たる邈 寵を緯に有り、緯に說きて曰く、「纂 國を殘し家を破り、兄弟を誅戮し、隆・超 此の舉 天人の心に應じ、正に明公を尊立せんと欲するのみ。先帝の子、明公 長為り、四海に顒顒とし、人に異議無し。隆・超 臧否に達せざると雖も、終に孼を以て宗に代へ、更に異望を圖らざるなり、願はくは公 疑ふ勿れ」と。緯 之を信じ、隆・超と結盟し、單馬にして城に入り、超 執へて之を殺す。
初め、纂 嘗て鳩摩羅什と棊し、羅什の子を殺して、曰く、「胡奴の頭を斫る」と。羅什曰く、「胡奴の頭を斫らず、胡奴 人頭を斫るなり」と。超の小字 胡奴なり、竟に以て纂を殺す。纂 在位三年、元興元年を以て死す。隆 既に纂位し、偽して纂に靈皇帝と諡し、墓を白石陵と號す。

現代語訳

番禾太守の呂超がほしいままに(呂纂の命令がないにも拘わらず)鮮卑の思盤を討伐すると、思盤は乞珍を派遣して呂纂に呂超の行いを訴えたので、呂纂は呂超を召して思盤とともに入朝させた。呂超は姑臧に至ると、大いに懼れ、殿中監の杜尚を味方にした。呂纂が呂超に会うと、怒って、「きみは(私と)兄弟だからと調子に乗り、私を欺こうとした、きみを斬ってから、天下を平定してやろう」と言った。呂超は頓首して恐縮した。(のちに)呂纂は呂超及び諸臣を連れて内殿で酒宴を開いた。呂隆はしきりに呂纂に酒を勧め、すでに酩酊すると、歩輓車に乗って呂超らを連れて宮廷内を回った。琨華堂の東閤に至ると、車が動かず、呂纂はみずから竇川・駱騰を連れて剣を壁に立てかけ、車を押して動かそうとした。呂超は剣を奪って呂纂を撃ち、纂は車を下りて呂超を擒えようとしたが、呂超は呂纂を刺して胸を貫通し、宣徳堂に逃げた。竇川・駱騰と格闘し、呂超は彼らを殺した。呂纂の妻の楊氏が禁兵に命じて呂超を討伐したが、(味方に引き入れておいた)杜尚が兵と示しあわせ武器を捨てた。将軍の魏益多が入り、呂纂の首を斬って、「呂纂は先帝の命に違い、太子を殺害し、酒と狩りに耽り、小人を近づけ、忠良を軽々しく殺し、百姓を草や芥のように扱った。番禾太守の呂超は近親者(実弟)として、社稷の転覆を恐れ、すでに彼を排除した。上は宗廟を安定させ、下は太子のために報仇した。わが国の士庶は、ともに祝福せよ」と宣言した。
後涼の巴西公の呂他・隴西公の呂緯はこのとき北城におり、あるひとが呂緯に、「呂超は天と主上に反逆し、士衆から支持をされません。明公は先帝の弟として、武器を投じて参加すれば、姜紀・焦辨は南城におり、楊桓・田誠は東苑におり、われらの仲間ですから、何の心配もいりません」と説いた。呂緯は非常時に備えてから呂他に、「呂隆・呂超が弒逆をした、討伐の対象である。むかし(春秋斉の)田恒が乱を起こすと、孔子は隣国の臣であったが、(魯の)哀公に討伐を訴えた、まして今日は身内の事件であり、見過ごせぬ」と言った。呂他が従おうとすると、呂他の妻の梁氏が止めて、「呂緯・呂超はともに兄弟(呂光)の子であり、なぜ片や呂超を捨てて片や呂緯を助けて禍いに飛び込むのですか」と言った。呂他は呂緯に、「呂超の企てはもう達成され、武器庫と、精兵を確保しているから、彼を倒すのは難しい。しかも私は老いた、協力できることはない」と言った。呂超はこれを聞き、城壁に登って呂他に、「呂纂は讒言を信じ、わが兄弟を滅ぼそうとした。私は命の危険に迫られ、かつ社稷の転覆を懼れ、決死の計画により、国家のために義を唱えたのだ、叔父はご理解ください」と言った。呂超の弟である呂邈は呂緯から寵愛されており、呂緯に、「呂纂は国と家を破壊し、兄弟を誅戮しました、呂隆・呂超の行いは天人の心に応じ、明公を君位に立てるためのものです。先帝の子にとって、明公は年長者であり、四海は仰ぎ見て、人々に異議はありません。呂隆・呂超は善悪の判断がつきませんが、傍流を宗家に代えようとし、それ以外の野心はありません、どうか公(呂緯)は、疑われませんように」と説いた。呂緯はこれを信じ、呂隆・呂超と盟約を結び、単馬で城に入ったが、呂超は彼を捕らえて殺した。
これより先、呂纂は鳩摩羅什と棊を打ち、羅什の子を殺して、「胡奴(外国人である鳩摩羅什の子)の頭を切った」と言った。羅什は、「胡奴の頭を切ったのではなく、胡奴が人の頭を切るのだ」と言った。呂超の小字は胡奴といい、結局は(呂超が)呂纂を殺した。呂纂は在位三年、元興元年(正しくは隆安五年、四〇一年)に死んだ。呂隆が即位すると、呂纂を霊皇帝と諡し、墓を白石陵と号した。

呂隆

原文

隆字永基、光弟寶之子也。美姿貌、善騎射。光末拜北部護軍、稍歷顯位、有聲稱。超既殺纂、讓位於隆、隆有難色。超曰、「今猶乘龍上天、豈可中下。」隆以安帝1.元興元年遂僭即天王位。超先於番禾得小鼎、以為神瑞、大赦、改元為神鼎。追尊父寶為文皇帝、母衞氏為皇太后、妻楊氏為皇后。以弟超有佐命之勳、拜使持節・侍中・都督中外諸軍事・輔國大將軍・司隸校尉・錄尚書事、封安定公。
隆多殺豪望、以立威名、內外囂然、人不自固。魏安人焦朗遣使說姚興將姚碩德曰、「呂氏因秦之亂、制命此州、自武皇棄世、諸子競尋干戈、德刑不恤、殘暴是先、饑饉流亡、死者太半、唯泣訴昊天、而精誠無感。伏惟明公道邁前賢、任尊分陝、宜兼弱攻昧、經略此方、救生靈之沈溺、布徽政于玉門。纂奪之際、為功不難。」遣妻子為質。碩德遂率眾至姑臧。其部將姚國方言於碩德曰、「今懸師三千、後無繼援、師之難也。宜曜勁鋒、示其威武。彼以我遠來、必決死距戰、可一舉而平。」碩德從之。呂超出戰、大敗、遁還。隆收集離散、嬰城固守。

1.中華書局本によると、「元興元年」は「隆安五年」に作るのが正しい。元興元年は四〇二年、隆安五年は四〇一年であり、一年の差異がある。

訓読

隆 字は永基、光の弟たる寶の子なり。姿貌美しく、騎射を善くす。光の末 北部護軍を拜し、稍く顯位を歷し、聲稱有り。超 既に纂を殺し、位を隆に讓るに、隆 難色有り。超曰く、「今 猶ほ龍に乘りて天に上る、豈に中に下る可きか」と。隆 安帝の元興元年を以て遂に僭して天王の位に即く。超 先に番禾に於て小鼎を得、以て神瑞と為し、大赦し、改元して神鼎と為す。父の寶を追尊して文皇帝と為し、母の衞氏を皇太后と為し、妻の楊氏を皇后と為す。弟の超 佐命の勳有るを以て、使持節・侍中・都督中外諸軍事・輔國大將軍・司隸校尉・錄尚書事を拜し、安定公に封ず。
隆 多く豪望を殺し、以て威名を立て、內外 囂然とし、人 自固せず。魏安の人たる焦朗 使を遣はして姚興の將たる姚碩德に說きて曰く、「呂氏 秦の亂に因り、命を此の州に制む、武皇 世を棄ててより、諸子 競ひて干戈を尋め、德刑 恤まず、殘暴 先を是にし、饑饉ありて流亡し、死者 太半なり、唯だ昊天に泣訴し、而れども精誠 感ずる無し。伏して惟るに明公 道は前賢を邁え、任は分陝より尊く、宜しく弱を兼せ昧を攻め、此の方を經略し、生靈の沈溺を救ひ、徽政を玉門に布せ。纂奪の際、功を為すこと難からず」と。妻子を遣して質と為す。碩德 遂に眾を率ゐて姑臧に至る。其の部將の姚國 方に碩德に言ひて曰く、「今 懸師三千、後ろに繼援無く、師の難なり。宜しく勁鋒を曜かせ、其の威武を示せ。彼 我の遠來するを以て、必ず死を決して距戰し、一舉にして平らぐ可し」と。碩德 之に從ふ。呂超 出でて戰ひ、大いに敗れ、遁げて還る。隆 離散を收集し、嬰城して固守す。

現代語訳

呂隆は字を永基といい、呂光の弟である呂宝の子である。姿形が美しく、騎射を得意とした。呂光の末期に北部護軍となり、次々と高位を歴任し、声望が高かった。呂超が呂纂を殺してから、呂隆に君位を譲ると、呂隆は難色を示した。呂超は、「いま龍に乗って天に登るのだ、なぜ途中で下りられよう」と言った。呂隆は安帝の元興元(四〇二)年に不当に天王の位に即いた(正しくはこの一年前)。かつて呂超は番禾で小鼎を見つけ、これを神瑞と捉えて、神鼎と改元した。父の呂宝を追尊して文皇帝とし、母の衛氏を皇太后とし、妻の楊氏を皇后とした。弟の呂超は即位を手助けしたので、使持節・侍中・都督中外諸軍事・輔国大将軍・司隸校尉・録尚書事を拝し、安定公に封じた。
呂隆は名望のある豪族を多く殺し、威名を立てたので、内外はざわつき、人心が安定しなかった。魏安の人である焦朗が使者を送って姚興の将である姚碩徳に、「呂氏は前秦の乱に乗じ、この州を支配しましたが、武皇(呂光)が死んでから、諸子が争って戦い、徳政が行われず、残虐なばかりで、飢饉があって流亡し、大半が死にました、皇天に(事態の改善を)泣訴しましたが、返答がありません。明公は先古の賢者以上に道理を実践し、任務は分陝(周王朝の周公旦・召公奭)より重いので、弱体化した愚者(呂氏)を攻め、この地方を支配し、万民を救済し、善政を玉門に広めて下さい。主導権を奪うのは、難しくありません」と言った。妻子を姚氏の人質とした。姚碩徳は姑臧に軍を進めた。部将の姚国が碩徳に、「いま三千を率い、後続の軍がおらず、危険です。威勢を輝かせ、武威を示しなさい。呂氏はわれらが遠征軍なので、必死に防ぐでしょう、一回の戦いで平定できます」と言った。碩徳はこれに従った。呂超が出て戦い、大いに敗れ、逃げ還った。呂隆は散った兵を集め、城を堅守した。

原文

時熒惑犯帝坐、有羣雀鬭于太廟、死者數萬。東人多謀外叛、將軍魏益多又唱動羣心、乃謀殺隆・超、事發、誅之、死者三百餘家。於是羣臣表求與姚興通好、隆弗許。呂超諫曰、「通塞有時、艱泰相襲、孫權屈身於魏、譙周勸主迎降、豈非大丈夫哉。勢屈故也。天錫承七世之資、樹恩百載、武旅十萬、謀臣盈朝、秦師臨境、識者導以見機、而愎諫自專、社稷為墟。前鑒不遠、我之元龜也。何惜尺書單使、不以危易安。且令卑辭以退敵、然後內修德政、廢興由人、未損大略。」隆曰、「吾雖常人、屬當家國之重、不能嗣守成基、保安社稷、以太祖之業委之於人、何面目見先帝於地下。」超曰、「應龍以屈伸為靈、大人以知機為美。今連兵積歲、資儲內盡、強寇外逼、百姓嗷然無餬口之寄、假使張・陳・韓・白、亦無如之何。陛下宜思權變大綱、割區區常慮。苟卜世有期、不在和好。若天命去矣、宗族可全。」隆從之、乃請降。碩德表隆為使持節・鎮西大將軍・涼州刺史・建康公。於是遣母弟愛子文武舊臣、慕容筑・楊穎・史難・閻松等五十餘家質于長安、碩德乃還。
姚興謀臣皆曰、「隆藉伯父餘資、制命河外。今雖飢窘、尚能自支。若將來豐贍、終非國有。涼州險絕、世難先違、道清後順、不如因其飢弊而取之。」興乃遣使來觀虛實。

訓読

時に熒惑 帝坐を犯し、羣雀 太廟に鬭ふ有りて、死者は數萬なり。東人 多く外叛を謀り、將軍の魏益 多く又 唱へて羣心を動し、乃ち隆・超を殺さんと謀り、事 發し、之を誅し、死者三百餘家なり。是に於て羣臣 表して姚興と通好することを求め、隆 許さず。呂超 諫めて曰く、「通塞 時有り、艱泰 相 襲ひ、孫權 身を魏に屈し、譙周 主に迎降を勸め、豈に大丈夫に非ざるや。勢 屈するが故なり。天錫 七世の資を承け、恩を百載に樹て、武旅十萬、謀臣 朝に盈つるに、秦師 境に臨み、識者 導くに機を見るを以てし、而れども諫に愎り自專し、社稷 墟と為る。前鑒 遠からず、我が元龜なり。何ぞ尺書單使を惜み、危を以て安に易へざるか。且つ辭を卑くして以て敵を退けしめ、然る後に內に德政を修め、廢興 人に由り、未だ大略を損ぜず」と。隆曰く、「吾 常人と雖も、屬ひて家國の重に當り、成基を嗣守し、社稷を保安すること能はず、太祖の業を以て之を人に委つれば、何の面目ありて先帝に地下に見えんか」と。超曰く、「應に龍 屈伸を以て靈と為し、大人 知機を以て美と為るべし。今 兵を連ぬること積歲、資儲 內に盡き、強寇 外に逼り、百姓 嗷然として餬口の寄無く、假使ひ張・陳・韓・白〔一〕あるとも、亦た之を何如とすること無し。陛下 宜しく權變の大綱を思ひ、區區たる常慮を割け。苟に世を卜し期有るに、和好に在らず。若し天命 去らば、宗族 全す可し」と。隆 之に從ひ、乃ち降を請ふ。碩德 隆を表して使持節・鎮西大將軍・涼州刺史・建康公と為す。是に於て母弟愛子文武舊臣、慕容筑・楊穎・史難・閻松ら五十餘家を遣りて長安に質とし、碩德 乃ち還る。
姚興の謀臣 皆 曰く、「隆 伯父の餘資を藉り、命を河外に制む。今 飢窘すると雖も、尚ほ能く自ら支ふ。若し將來 豐贍たれば、終に國有に非ず。涼州 險絕なり、世難あれば先に違ひ、道 清ければ後に順ひ、其の飢弊に因りて之を取るに如かず」と。興 乃ち使を遣はして虛實を來觀す。

〔一〕「白」が白起を指すことは、ああだこうだ @ryoushin_16 さまに教えて頂きました。

現代語訳

ときに熒惑(火星)が帝王の分野を犯し、雀同士が太廟で戦い、(領民の)死者は数万であった。東方では多くが叛乱を望み、将軍の魏益が民衆の心を煽動して、呂隆・呂超の殺害を計画したが、発覚したので、彼を誅し、三百餘家を殺した。ここで郡臣が上表して姚興と和睦しましょうと言ったが、呂隆は認めなかった。呂超が諫め、「開閉は時と場合により、安定と不安定は移り変わります、(三国呉の)孫権は魏に屈服し、(三国蜀の)譙周は君主に降服を勧めたが、彼らは立派でないのか。不利な形勢に従っただけです。張天錫は七世にわたり天に祝福され、百年の恩を施し、軍旅は十万、謀臣が朝廷に満ちていましたが、前秦の軍が国境に来ると、識者は時機を見極めて(降服せよと)導き、しかし(張氏は)自立にこだわり、社稷は廃墟となりました。この前例は近年のことで、わが教訓となります。なぜ短い外交文書と使者の派遣を惜しみ、安全を捨てて危険を取るのですか。口先でへりくだって敵を撤退させ、その後に内政を充実させれば、国家の興廃は人次第であります、まだ戦略は傷ついておりません」と言った。呂隆は、「私は平凡な人間だが、国家を預かった、基礎を嗣いで守れず、社稷を保全できず、太祖の事業に他人に奪われたら、地下で先帝に合わせる顔がない」と言った。呂超は、「龍は一度は身を縮めるから神獣となれるし、賢者は時機を見極めます。いま連年にわたり兵を動かし、軍資を使い尽くし、強敵が外におり、百姓は騒いで生計が立ちません、もし張・陳・韓・白(張良・陳平・韓信・白起)がいても、打ち手がありません。陛下は臨機応変に対処し、せせこましい常識に捕らわれてはいけません。雄飛の時がきたら、攻勢に転じれば宜しい。もし天命がなければ、(前秦のもとで)宗族は生き残れます」と言った。呂隆はこれに従い、降服を願い出た。姚碩徳は呂隆を上表して(前秦の)使持節・鎮西大将軍・涼州刺史・建康公とした。同母弟や愛子や文武の旧臣、慕容筑・楊穎・史難・閻松ら五十餘家を長安に人質として送り、姚碩徳は(呂氏への攻撃を中止して)帰還した。
姚興の謀臣たちは、「呂隆は伯父の遺した事業を嗣ぎ、河外を支配しています。いま窮乏していますが、自立を保っています。将来豊かになれば、わが国から独立します。涼州は隔絶しており、世が乱れたら先に叛き、道理が整えば遅れて従うという土地柄です、窮乏しているうちに奪取するのが宜しい」と言った。姚興は使者を送って、虚実を観察させた。

原文

沮渠蒙遜又伐隆、隆擊敗之、蒙遜請和結盟、留穀萬餘斛以振飢人。姑臧穀價踊貴、斗直錢五千文、人相食、餓死者十餘萬口。城門晝閉、樵採路絕、百姓請出城乞為夷虜奴婢者日有數百。隆懼沮動人情、盡坑之、於是積屍盈于衢路。
禿髮傉檀及蒙遜頻來伐之、隆以二寇之逼也、遣超率騎二百、多齎珍寶、請迎于姚興。興乃遣其將齊難等步騎四萬迎之。難至姑臧、隆素車白馬迎于道旁。使胤告光廟曰、「陛下往運神略、開建西夏、德被蒼生、威振遐裔。枝嗣不臧、迭相纂弒。二虜交逼、將歸東京、謹與陛下奉訣於此。」歔欷慟泣、酸感興軍。隆率1.騎一萬、隨難東遷、至長安、興以隆為散騎常侍、公如故。超為安定太守。文武三十餘人皆擢敘之。其後隆坐與子弼謀反、為興所誅。2.呂光以孝武太元十二年定涼州、十五年僭立、至隆凡十有三載、以安帝元興3.三年滅。

1.中華書局本によると、「騎一萬」は「戶一萬」に作るのが正しい。
2.中華書局本によると、時期と年数に誤りがある。「定涼州」を、呂光が姑臧に拠り、酒泉公を称したときを指すならば、太元十年である(太元十二年ではない)。「僭立」を三河王を称したときだとすれば、太元十四年である(太元十五年ではない)。もし「天王」を称したときならば、太元二十一年である。いずれも一致しない。
3.中華書局本によると、「三年」は、「二年」に作るべきである。

訓読

沮渠蒙遜 又 隆を伐ち、隆 擊ちて之を敗り、蒙遜 和を請ひて盟を結び、穀萬餘斛を留めて以て飢人に振ふ。姑臧の穀價 踊貴し、斗ごとに錢五千文に直り、人 相 食み、餓死する者は十餘萬口なり。城門 晝に閉し、樵採の路 絕たれ、百姓 請ひて城を出て乞ひて夷虜の奴婢と為る者 日ごとに數百有り。隆 人情を沮動することを懼れ、盡く之を坑にし、是に於て屍を積みて衢路に盈す。
禿髮傉檀及び蒙遜 頻りに來りて之を伐ち、隆 二寇の逼るを以て、超を遣はして騎二百を率ゐしめ、多く珍寶を齎し、請ひて姚興を迎ふ。興 乃ち其の將の齊難らを遣はして步騎四萬にて之を迎ふ。難 姑臧に至り、隆 素車白馬もて道旁に迎ふ。胤をして光の廟に告げしめて曰く、「陛下の往に神略を運らせ、西夏を開建し、德は蒼生を被ひ、威は遐裔に振ふ。枝嗣 臧ならず、迭して相 纂弒す。二虜 交逼し、將に東京に歸せんとす、謹みて陛下と與に訣を此に奉る」と。歔欷して慟泣し、興の軍に酸感す。隆 騎一萬を率ゐ、難に隨ひて東遷し、長安に至り、興 隆を以て散騎常侍と為し、公たること故の如し。超 安定太守と為る。文武三十餘人 皆 之に擢敘せらる。其の後 隆 子の弼と謀反に坐し、興の為に誅せらる。呂光 孝武太元十二年を以て涼州を定め、十五年 僭立し、隆に至るまで凡そ十有三載、安帝の元興三年を以て滅ぶ。

現代語訳

沮渠蒙遜はまた呂隆を伐ったが、呂隆はこれを撃ち破り、蒙遜が和睦を求めて同盟を結び、穀物の万餘斛を残しておいて飢えている人々に支給した。姑臧の穀物価格は急騰し、一斗あたり銭五千文となり、人は食いあい、餓死者は十餘万人であった。城門は昼から閉ざされ、木こりの道を絶たれ、城から出たがって異民族の奴婢となることを希望する者が日ごとに数百人であった。呂隆は人々を動揺させまいと、全て穴埋めにして殺し、屍を積んで街路にあふれた。
禿髪傉檀及び蒙遜がしきりに攻撃を仕掛けてきたので、呂隆は二方面の敵に迫られ、呂超に二百騎を率いさせ、珍宝を運んで、姚興の配下となることにした。姚興は将の斉難らを派遣して歩騎四万で呂氏を迎えた。斉難が姑臧に至ると、呂隆は白木の馬車と白い馬で(死を覚悟した降服の作法で)、路傍で(斉難を)出迎えた。呂胤に命じて呂光の廟に、「かつて陛下が神のような軍略を用い、西域を開拓し、徳が万民を覆い、威は遠方まで響きました。しかし後嗣は行いが悪く、簒奪や弑殺をくり返しました。二虜(沮渠氏と禿髪氏)が交替で逼ってきたので、東の都に帰順します、謹んで陛下にお別れします」と告げさせた。むせび泣いて慟哭し、姚興の軍に悲しみが伝染した。呂隆は一万騎(正しくは一万戸)を連れて、斉難に従って東に移り、長安に到ると、姚興は呂隆を散騎常侍とし、公爵は従来通りとした。呂超は安定太守となった。文武三十餘人はみな登用された。のちに呂隆は子の呂弼とともに謀反の罪により、姚興に誅された。呂光は(東晋の)孝武帝の太元十二年に涼州を平定し、太元十五年に僭して即位し(年はいずれも誤り)、呂隆に到るまで通算十三年、(東晋の)安帝の元興三年(正しくは二年、四〇三年)に滅びた。

原文

史臣曰、自晉室不綱、中原蕩析、苻氏乘釁、竊號神州。世明委質偽朝、位居上將、爰以心膂、受脤遐征。鐵騎如雲、出玉門而長騖。琱戈耀景、捐金丘而一息。蕞爾夷陬、承風霧卷、宏圖壯節、亦足稱焉。屬永固運銷、羣雄競起、班師右地、便有覬覦。於是要結六戎、潛窺雁鼎。并吞五郡、遂假鴻名。控黃河以設險、負玄漠而為固、自謂克昌霸業、貽厥孫謀。尋而耄及政昏、親離眾叛、瞑目甫爾、釁發蕭牆。紹・纂凡才、負乘致寇。弘・超兇狡、職為亂階。永基庸庸、面縛姚氏。
昔竇融歸順、榮煥累葉。隗囂干紀、靡終身世。而光棄茲勝躅、遵彼覆車、十數年間、終致殘滅。向使矯邪歸正、革偽為忠、鳴檄而蕃晉朝、仗義而誅醜虜、則燕秦之地可定、桓文之功可立、郭黁・段業豈得肆其姦、蒙遜・烏孤無所窺其隙矣。而猥竊非據、何其謬哉。夫天地之大德曰生、聖人之大寶曰位。非其人而處其位者、其禍必速。在其位而忘其德者、其殃必至。天鑒非遠、庸可濫乎。
贊曰、金行不競、寶業斯屯。瓜分九㝢、沴聚三秦。呂氏伺隙、欺我人神。天命難假、終亦傾淪。

訓読

史臣曰く、晉室 綱ならず、中原 蕩析せしより、苻氏 釁に乘じ、號を神州に竊む。世明 偽朝に委質し、位は上將に居り、爰に心膂を以て、脤を受け遐征す。鐵騎 雲の如く、玉門を出でて長騖す。琱戈 景に耀き、金丘を捐てて一息す。蕞爾たる夷陬、風を承けて霧のごとく卷き、宏圖壯節、亦た稱するに足る。永固の運 銷るに屬ひて、羣雄 競ひ起ち、師を右地に班し、便ち覬覦有り。是に於て六戎を要結し、潛かに雁鼎を窺ふ。五郡を并吞し、遂に鴻名を假る。黃河を控するに以て險を設け、玄漠を負ひて固と為し、自ら克く霸業を昌し、厥の孫謀を貽すと謂ふ。尋いで耄して政昏に及び、親は離れ眾は叛し、目を瞑りて甫爾し、釁 蕭牆に發す。紹・纂は凡才なり、乘に負ひて寇を致す。弘・超 兇狡にして、職を亂の階と為す。永基は庸庸たり、姚氏に面縛す。
昔 竇融 順に歸ひ、榮えて累葉に煥す。隗囂 紀を干し、身世を終ふる靡し。而して光 茲の勝躅を棄て、彼の覆車に遵ひ、十數年間、終に殘滅に致る。向使し邪を矯し正に歸し、偽を革めて忠と為し、檄を鳴して晉朝に蕃となり、義に仗りて醜虜を誅せば、則ち燕秦の地 定む可し、桓文の功 立つる可し、郭黁・段業 豈に得て其の姦を肆にし、蒙遜・烏孤 其の隙を窺ふ所無からんか。而れども猥りに非を竊みて據り、何ぞ其れ謬らんか。夫れ天地の大德を生と曰ひ、聖人の大寶を位と曰ふ。其の人に非ずして其の位に處るは、其れ禍ひ必ず速やかなり。其の位に在りて其の德を忘るる者は、其れ殃 必ず至る。天鑒 遠きに非ず、庸ぞ濫する可きかと。
贊に曰く、金行 競はず、寶業 斯に屯す。瓜のごとく九㝢を分け、沴 三秦に聚まる。呂氏 隙を伺ひ、我が人神を欺く。天命 假り難く、終に亦た傾淪す。

現代語訳

史臣はいう、晋王朝の秩序が乱れ、中原が分裂してから、(前秦の)苻氏がその隙に乗じ、皇帝号を盗み取った。世明(呂光)は偽王朝に人質を預け、位は上将となり、力を尽くし、信任を受けて(西域を)遠征した。鉄騎は雲のようで、玉門を出て長駆した。干戈が日に輝き、金丘(未詳)を捨てて休息した。小さな異民族の出身ながら、風を受けて霧のように巻き上がり、広大な壮挙を成し遂げ、称賛に値する。永固(前秦の苻堅の字)の命運が消滅すると、群雄が競い立ち、軍を関右に配置し、分不相応な願いを抱いた。ここにおいて(呂光は)六軍を結束させ、ひそかに覇権を窺った。五郡を併呑し、ついに美称(三河王)を騙った。黄河を制圧して要所を押さえ、北方の砂漠を後背地とし、みずから(後涼の)覇業を打ち立て、子孫に国家を継承すると唱えた。ほどなく混乱して政権が失墜し、親族が離れて味方は反乱し、目をおおったまま、兄弟の対立が深まった。呂紹・呂纂は凡才であり、君主に叛いて兵乱を起こした。呂弘・呂超は凶悪で狡賢く、立場によって乱の原因を招いた。永基(呂隆)は凡庸であり、姚氏(姚興)のもとに面縛して降服した。
むかし(後漢初の)竇融は道理に従い、子孫が繁栄した。隗囂は秩序を破り、命運を保全できなかった。呂光は(竇融の)手本を捨て、(隗囂の)転倒した馬車を後追いし、十数年のうちに、無残にも滅亡した。もしも邪悪な心を補正し、(君号を)偽称せず忠臣となり、晋王朝の藩屏であると高らかに宣言し、正義に基づき異民族を誅せば、燕秦の地を平定でき、桓公や文公のような功績を立てられ、郭黁・段業が(反逆して)姦悪を為すことはなかったし、沮渠蒙遜(北涼)・禿髪烏孤(南涼)に隙を狙われることもなかった。ところが(呂氏は)野心を持って割拠した、何という過ちであろう。そもそも天地の大徳を生といい、聖人の大宝を位という。不適任な者が位に即けば、禍いを招き寄せる。位にあって徳を忘れた者には、必ず災厄が至る。天の監視は漏れがなく、妄りに振る舞ってはならないと。
賛にいう、金徳(晋王朝)は振るわず、帝業はこうして停滞した。瓜のように九つの地域が分割され、悪気が三秦に集まった。呂氏は隙を伺い、われらが人神を欺いた。天命は偽装できるものではなく、結局は衰亡して滅びたと。