翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。「¥」の記号は、内容を確認して補う予定です。
この巻の翻訳は、主催者が2022年12月の完成に向けて準備していましたが、2022年9月に前倒しして公開しています(後期の大学院の授業期間中は多忙が見込まれるため、夏休み期間中に完了させました)。
慕容垂字1.道明、屠書雖偽、或別有所據。皝之第五子也。少岐嶷有器度、身長七尺七寸、手垂過膝。皝甚寵之、常目而謂諸弟曰、「此兒闊達好奇、終能破人家、或能成人家」。故名霸、字道業、恩遇踰于世子儁、故儁不能平之。以滅宇文之功、封都鄉侯。石季龍來伐、既還、猶有兼并之志、遣將鄧恒率眾數萬屯于樂安、營攻取之備。垂戍徒河、與恒相持、恒憚而不敢侵。垂少好畋遊、因獵墜馬折齒。慕容儁僭即王位、改名𡙇、外以慕郤𡙇為名、內實惡而改之。尋以讖記之文、乃去夬、以「垂」為名焉。
石季龍之死也、趙魏亂、垂謂儁曰、「時來易失、赴機在速、兼弱攻昧、今其時矣」。儁以新遭大喪、不許。慕輿根言於儁曰、「王子之言、千載一時、不可失也」。儁乃從之、以垂為前鋒都督。儁既克幽州、將坑降卒、垂諫曰、「弔伐之義、先代常典。今方平中原、宜綏懷以德、坑戮之刑不可為王師之先聲」。儁從之。及儁僭稱尊號、封垂吳王、徙鎮信都、以侍中・右禁將軍錄留臺事、大收東北之利。又為征南將軍・荊兗二州牧、有聲於梁楚之南。再為司隸、偽王公已下莫不累迹。時慕容暐嗣偽位、慕容恪為太宰。恪甚重垂、常謂暐曰、「吳王將相之才十倍於臣、先帝以長幼之次、以臣先之、臣死之後、願陛下委政吳王、可謂親賢兼舉」。及敗桓溫于枋頭、威名大振。慕容評深忌惡之、乃謀誅垂。垂懼禍及己、與世子2.全奔于苻堅。
自恪卒後、堅密有圖暐之謀、憚垂威名而未發。及聞其至、堅大悅、郊迎執手、禮之甚重。堅相王猛惡垂雄略、勸堅殺之。堅不從、以為冠軍將軍、封3.賓都侯、食華陰之五百戶。王猛伐洛、引全為參軍。猛乃令人詭傳垂語於全曰、「吾已東還、汝可為計也」。全信之、乃奔暐。猛表全叛狀、垂懼而東奔、及藍田、為追騎所獲。堅引見東堂、慰勉之曰、「卿家國失和、委身投朕。賢子志不忘本、猶懷首丘。書不云乎、『父父子子、無相及也。』卿何為過懼而狼狽若斯也」。於是復垂爵位、恩待如初。
1.中華書局本の校勘記によると、慕容徳載記は、慕容鍾の字もまた「道明」とする。兄弟で同じ字であるとか考えられない。屠喬孫本『十六国春秋』慕容垂伝では、字を叔仁」とする。
2.中華書局本の校勘記によると、『資治通鑑』巻一百二は、「全」を「令」に作る。以後、『晋書』慕容宝載記に見える慕容「全」の記事を、すべて『資治通鑑』は慕容「令」として記す。
3.『資治通鑑』巻一百二は、「賓都」を「賓徒」に作る。
慕容垂 字は道明、皝の第五子なり。少くして岐嶷にして器度有り、身長七尺七寸、手 垂るれば膝を過ぐ。皝 甚だ之を寵し、常に目して諸弟に謂ひて曰く、「此の兒 闊達にして好奇、終に能く人の家を破る、或いは能く人の家を成さん」と。故に霸と名づけ、字は道業、恩遇は世子の儁を踰え、故に儁 之に平なる能はず。宇文を滅すの功を以て、都鄉侯に封ぜらる。石季龍 來伐するや、既に還り、猶ほ兼并の志有り、將の鄧恒を遣はして眾數萬を率ゐて樂安に屯し、攻取の備を營す。垂 徒河を戍り、恒と相 持す。恒 憚りて敢て侵さず。垂 少くして畋遊を好み、因りて獵して馬を墜ちて齒を折る。慕容儁 僭して王位に即し、名を𡙇と改め、外は郤𡙇を慕ふを以て名と為すも、內は實に惡みて之を改む。尋いで讖記の文を以て、乃ち夬を去りて、「垂」を以て名と為す。
石季龍の死するや、趙魏 亂る。垂 儁に謂ひて曰く、「時來は失ひ易し、機に赴くは速きに在り、弱を兼し昧を攻むるは、今 其の時なり」と。儁 新たに大喪に遭ふを以て、許さず。慕輿根 儁に言ひて曰く、「王子の言、千載の一時なり。失ふ可からざるなり」と。儁 乃ち之に從ひ、垂を以て前鋒都督と為す。儁 既に幽州に克ち、將に降卒を坑せんとす。垂 諫めて曰く、「弔伐の義は、先代の常典なり。今 方に中原を平らげんとす、宜しく綏懷するに德を以てせよ。坑戮の刑 王師の先聲と為す可からず」と。儁 之に從ふ。儁 尊號を僭稱するに及び、垂を吳王に封じ、鎮を信都に徙し、侍中・右禁將軍錄留臺事を以て、大いに東北の利を收めしむ。又 征南將軍・荊兗二州牧と為し、梁楚の南に聲有り。再び司隸と為し、偽王公より已下 累迹せざる莫し。時に慕容暐 偽位を嗣ぎ、慕容恪 太宰と為る。恪 甚だ垂を重んじ、常に暐に謂ひて曰く、「吳王の將相之才 臣に十倍す。先帝 長幼の次を以て、臣を以て之に先んぜしむ。臣 死するの後に、願はくは陛下 政を吳王に委ねよ。親賢 兼舉すと謂ふ可し」と。桓溫を枋頭に敗るに及び、威名 大いに振ふ。慕容評 深く之を忌惡し、乃ち垂を誅せんと謀る。垂 禍 己に及ぶを懼れ、世子全と與に苻堅に奔る。
恪 卒するの後より、堅 密かに暐を圖るの謀有るも、垂の威名を憚りて未だ發せず。其の至れるを聞くに及び、堅 大いに悅びて郊迎し手を執り、之を禮すること甚だ重し。堅の相の王猛 垂の雄略を惡み、堅に之を殺すことを勸む。堅 從はず、以て冠軍將軍と為し、賓都侯に封じ、華陰の五百戶を食ましむ。王猛 洛を伐つや、全を引きて參軍と為す。猛 乃ち人をして詭りて垂の語を全に傳へしめて曰く、「吾 已に東還す、汝 計を為す可きなり」と。全 之を信じ、乃ち暐に奔る。猛 全の叛狀を表す。垂 懼れて東に奔り、藍田に及び、追騎の獲ふる所と為る。堅 東堂に引見し、之を慰勉して曰く、「卿の家國 和を失ひ、身を委てて朕に投ず。賢子の志は本を忘れず、猶ほ首丘を懷く。書に云はざるや、『父は父なり子は子なり、相 及ぶ無きなり』と〔一〕。卿 何為れぞ過りて懼れて狼狽すること斯の若きや」と。是に於て垂の爵位を復し、恩待 初めの如し。
〔一〕『春秋左氏伝』昭公 伝二十年に、「在康誥曰、父子兄弟、罪不相及、況在羣臣」とあり、関わりが窺われる。現行『尚書』康誥に、一致度の高い文はない。
慕容垂は字を道明(叔仁か)といい、慕容皝の第五子である。若くして知恵が秀でて器量をそなえ、身長は七尺七寸あり、手を垂れれば膝を過ぎた。慕容皝はこれを寵愛し、つねに弟たちに目配せし、「この子は心が広くて奇異なことを好む、最後には人の家を破滅させるか、あるいは人の家を大成させる力があるだろう」と言った。ゆえに霸と名づけ、字を道業とし、恩愛と寵遇は世子の慕容儁をこえ、ゆえに慕容儁は納得ができなかった。宇文を滅した功績により、都郷侯に封建された。石季龍が攻めてきて、いちどは帰還したが、(石季龍には)依然として併合の志があったので、(後趙の)将の鄧恒を派遣して数万の兵を率いて楽安に駐屯させ、(慕容氏を)攻めとる構えをとった。慕容垂は徒河を守り、鄧恒と対峙した。鄧恒はあえて憚って侵略をしなかった。慕容垂は若くして狩猟を好み、そのなかで落馬して歯を折った。慕容儁が不当に王位を即くと、(歯が欠けているので)名を𡙇と改めさせた。(慕容垂は)対外的には郤𡙇にあやかった名前だと言いつつも、内心では(慕容儁に付けられた)この名前を嫌っていたので改めた。讖記の文に基づいて、「𡙇」から「夬」を除いて、「垂」を名とした。
石季龍が死ぬと、趙魏は混乱した。慕容垂は慕容儁に、「時節は失いやすく、好機は迅速に駆けつけるべきです。弱くて愚かなものを攻め取るのは、今がその機会です」と言った。慕容儁は大喪に遭った(親を失った)ばかりなので、許さなかった。慕輿根は慕容儁に、「王子の言葉は、千載一遇を告げています。逃してはいけません」と言った。慕容儁はこれに従い、慕容垂を前鋒都督とした。慕容儁が幽州を打ち破ると、降服した兵を穴埋めにしようとした。慕容垂は諫めて、「弔伐の義(敵国の君主を討ち民を慰問する方法)は、古来より規則があります。これから中原を平定するのですから、(敵国の民を)徳によって安んじ懐かせるべきです。穴埋めの刑は王の軍隊の先触れとすべきではありません」と言った。慕容儁はこれに従った。慕容儁が尊号を僭称すると、慕容垂を呉王に封建し、鎮所を信都に移し、侍中・右禁将軍録留台事として、大いに東北の利を回収させた。さらに征南将軍・荊兗二州牧とし、梁楚の南に声望があった。ふたたび司隷校尉とし、燕国の王公より以下は足跡を重ね(付き従わ)ないものがなかった。このとき慕容暐が偽位を嗣ぎ、慕容恪は太宰となった。慕容恪はとても慕容垂を重んじ、つねに慕容暐に、「呉王の将軍や宰相としての才覚は私の十倍あります。先帝は長幼の序列により、私を優先しました。私が死んだ後は、どうか陛下は政治を呉王に委ねて下さい。血縁が親しくかつ賢いものを登用したことになるでしょう」と言った。桓温を枋頭で破ると、慕容垂の威名は大いに振るった。慕容評はひどく忌み嫌い、慕容垂を誅殺しようと計画した。慕容垂は禍いが自分に及ぶことを懼れ、世子の慕容全とともに苻堅のもとに逃げこんだ。
慕容恪が死んでから、苻堅はひそかに慕容暐の討伐を狙っていたが、慕容垂の威名を憚って実行に移さずにいた。慕容垂が(前秦に)来たと聞くと、苻堅は大いに悦んで郊外に出迎えて手を握り、とても厚く礼遇した。苻堅の相の王猛は慕容垂の雄略を警戒し、苻堅にかれを殺すように勧めた。苻堅は従わず、慕容垂を冠軍将軍とし、賓都侯に封建し、華陰県の五百戸を食邑とした。王猛が洛陽を討伐すると、(慕容垂の子の)慕容全を招いて参軍とした。王猛は慕容垂の言葉であると偽って、「私はもう東(燕国)に帰った、お前も(前秦から離叛する)計略を実行せよ」と慕容全に告げた。慕容全はこれを(慕容垂の言葉であると)信じ、慕容暐のもとに逃げた。王猛は慕容全の謀反のさまを上表した。慕容垂は懼れて東に逃亡し、藍田に着いたところで、追っ手の騎兵に捕らえられた。苻堅は東堂に招いて面会し、慕容垂を慰めて励まし、「あなたの家族と国は和を失ったので、身を投げ出して朕を頼ってきた。あなたの子(慕容全)は生国を忘れず、故郷を慕い続けてのたのだ。『書』に言うだろう、『父は父で子は子である、互いの罪は及ばない』と。どうしてあなたは不必要なまでに懼れて狼狽をするのか」と言った。ここにおいて慕容垂の爵位を回復し、恩寵と待遇は従来のままだった。
及堅擒暐、垂隨堅入鄴、收集諸子、對之悲慟、見其故吏、有不悅之色。前郎中令高弼私於垂曰、「大王以命世之姿、遭無妄之運、迍邅棲伏、艱亦至矣。天啟嘉會、靈命暫遷、此乃鴻漸之始、龍變之初、深願仁慈有以慰之。且夫高世之略必懷遺俗之規、方當網漏吞舟、以弘苞養之義。收納舊臣之冑、以成為山之功。奈何以一怒捐之。竊為大王不取」。垂深納之。垂在堅朝、歷位京兆尹、進封泉州侯、所在征伐、皆有大功。
堅之敗於淮南也、垂軍獨全、堅以千餘騎奔垂。垂世子寶言於垂曰、「家國傾喪、皇綱廢弛、至尊明命著之圖籙、當隆中興之業、建少康之功。但時來之運未至、故韜光俟奮耳。今天厭亂德、凶眾土崩、可謂乾啟神機、授之于我。千載一時、今其會也、宜恭承皇天之意、因而取之。且夫立大功者不顧小節、行大仁者不念小惠。秦既蕩覆1.(二)〔三〕京、竊辱神器、仇恥之深、莫甚於此、願不以意氣微恩而忘社稷之重。五木之祥、今其至矣」。垂曰、「汝言是也。然彼以赤心投命、若何害之。苟天所棄、圖之多便。且縱令北還、更待其釁、既不負宿心、可以義取天下」。垂弟德進曰、「夫鄰國相吞、有自來矣。秦強而并燕、秦弱而圖之、此為報仇雪辱、豈所謂負宿心也。昔鄧祁侯不納三甥之言、終為楚所滅。吳王夫差違子胥之諫、取禍句踐。前事之不忘、後事之師表也。願不棄湯武之成蹤、追韓信之敗迹、乘彼土崩、恭行天罰、斬逆氐、復宗祀、建中興、繼洪烈、天下大機、弗宜失也。若釋數萬之眾、授干將之柄、是卻天時而待後害、非至計也。語曰、『當斷不斷、反受其亂。』願兄無疑」。垂曰、「吾昔為太傅所不容、投身於秦主、又為王猛所譖、復見昭亮、國士之禮每深、報德之分未一。如使秦運必窮、曆數歸我者、授首之便、何慮無之。關西之地、會非吾有、自當有擾之者、吾可端拱而定關東。君子不怙亂、不為禍先、且可觀之」。乃以兵屬堅。初、寶在長安、與韓黃・李根等因讌摴蒱、寶危坐整容、誓之曰、「世云摴蒱有神、豈虛也哉。若富貴可期、頻得三盧」。於是三擲盡盧、寶拜而受賜、故云五木之祥。
1.中華書局本の校勘記に従い、「二」を「三」に改める。三京は、慕容廆が都とした大棘城と、龍城及び鄴である。
堅 暐を擒ふるに及び、垂 堅に隨ひて鄴に入り、諸子を收集し、之に對ひて悲慟し、其の故吏を見るや、不悅の色有り。前の郎中令の高弼 垂に私して曰く、「大王 命世の姿を以て、無妄の運に遭ふ。迍邅して棲伏し、艱 亦た至れり。天 嘉會を啟き、靈命 暫く遷る。此れ乃ち鴻漸の始、龍變の初なり。深く願はくは仁慈もて以て之を慰むる有らんことを。且つ夫れ高世の略 必ず遺俗の規を懷き、方に當に網もて吞舟を漏らし、以て苞養の義を弘む。舊臣の冑を收納し、以て為山の功を成せ。奈何ぞ一怒を以て之を捐てんか。竊かに大王の為に取らざるなり」と。垂 深く之を納る。垂 堅の朝に在り、京兆尹を歷位し、封を泉州侯に進め、所在に征伐し、皆 大功有り。
堅 淮南に敗るるや、垂の軍 獨り全く、堅 千餘騎を以て垂に奔る。垂の世子の寶 垂に言ひて曰く、「家國 傾喪し、皇綱 廢弛し、至尊の明命 之を圖籙に著はし、當に中興の業を隆くし、少康の功を建つべし。但だ時來の運 未だ至らず、故に光を韜みて奮ふを俟つのみ。今 天 亂德に厭き、凶眾 土崩す。乾 神機を啟き、之を我に授くと謂ふ可し。千載の一時、今 其の會なり。宜しく恭みて皇天の意を承け、因りて之を取るべし。且つ夫れ大功を立つる者は小節を顧みず、大仁を行ふ者は小惠を念はず。秦 既に三京を蕩覆し、神器を竊辱す。仇恥の深、此より甚しきは莫し。願はくは微恩を意氣するを以て社稷の重を忘るべからず。五木の祥、今 其れ至らん」と。垂曰く、「汝の言 是なり。然れども彼 赤心を以て命を投ず。若何ぞ之を害せん。苟し天の棄つる所なれば、之を圖るに便多からん。且つ縱に北還せしめ、更めて其の釁を待て。既に宿心に負かざれば、義を以て天下を取る可し」と。垂の弟の德 進みて曰く、「夫れ鄰國 相 吞すること、自來有り。秦 強ければ燕を并せ、秦 弱ければ之を圖る。此れ報仇雪辱為(た)り、豈に所謂 宿心に負くや。昔 鄧祁侯 三甥の言を納めず、終に楚の滅す所と為る。吳王夫差 子胥の諫に違ひ、禍を句踐に取る。前事の忘れず、後事の師表とす。願はくは湯武の蹤を成すを棄てず、韓信の迹を敗るを追はず、彼の土崩に乘じ、恭みて天罰を行ひ、逆氐を斬り、宗祀を復し、中興を建て、洪烈を繼げ。天下の大機、宜しく失なふべからず。若し數萬の眾を釋き、干將の柄を授くれば、是れ天の時に卻きて後害を待つ。至計に非ざるなり。語に曰く、『當に斷ずべきに斷ぜざれば、反りて其の亂を受く』と。願はくは兄よ疑ふこと無かれ」と。垂曰く、「吾 昔 太傅の容れざる所と為り、身を秦主に投ず。又 王猛の譖る所と為るに、復た昭亮せられ、國士の禮 每に深く、報德の分 未だ一ならず。如し秦運 必ず窮し、曆數 我に歸さしむれば、首を授くるの便、何の慮 之れ無からん。關西の地、會々吾が有に非ず、自ら之を擾す者有るに當たらば、吾 端拱して關東を定む可し。君子 亂に怙(したが)はず、禍の先を為さず。且つ之を觀る可し」と。乃ち兵を以て堅に屬せしむ。初め、寶 長安に在り、韓黃・李根らと與に讌に因りて摴蒱し、寶 危坐して容を整へ、之に誓ひて曰く、「世に云ふ摴蒱に神有り、豈に虛あらざるか。若し富貴 期す可くんば、頻りに三盧を得ん」と。是に於て三たび擲して盡く盧たれば、寶 拜して賜を受け、故に五木の祥と云ふ。
苻堅が(燕国を滅ぼして)慕容暐を捕らえると、慕容垂は苻堅に随って鄴に入城した。(慕容氏の)諸子が収容して集められると、(慕容垂は親族と)対面して悲しんで泣いたが、故吏を会うと、不快そうな顔をした。前の郎中令の高弼が慕容垂に耳打ちして、「大王(慕容垂)は世に秀でた雄姿を備えておりながら、(燕の国内で)無妄の(思いがけない)不運に出会いました。行き悩んで雌伏していましたが、艱難がまた到来しました。やがて天はめでたき巡り合わせをもたらし、神霊の命令が(慕容垂に)移りました。これは鴻漸の(徐々に昇進する)契機であり、龍のように変化する端緒であります。どうか深く仁慈によって故吏を慰めて下さいませ。世に名高い戦略家は必ず(亡国の)風俗を尊重し、網をかけても大魚を見逃し、寛容さの持ち主であることを周知します。旧臣の面々を配下に抱え、山を作るほどの大功を立てなさい。どうして一時の怒りによって彼らを排除するのですか。それは大王のためになりません」と言った。慕容垂は深くこの助言を受け入れた。慕容垂は苻堅の朝廷(前秦)に仕え、京兆尹などを歴任し、封号を泉州侯に進め、各地で征伐をするたび、大きな戦功を立てた。
苻堅が淮南で(淝水の戦いに)敗れると、慕容垂の軍だけが万全であったので、苻堅は千騎あまりで慕容垂のもとに逃げ込んだ。慕容垂の世子の慕容宝は慕容垂に、「(慕容氏の燕では)家と国が傾いて失われ、統治が緩んで廃れましたが、とても尊く明らかなる天命が図讖に現れました。中興の事業をおこし、(夏王朝の)少康のような功績を建てるべきです。これまで(前秦のもとで)時運が巡りあわず、光を包んで興隆の機を待ってきました。いま天は乱れた徳(前秦)に愛想を尽かし、凶悪な軍は土のように崩壊しました。天が神明の機をもたらし、私たちに授けたと言えましょう。千載一遇、いまがその時期です。どうか慎んで皇天の意にこたえ、これを奪い取るべきです。そもそも大きな功績を立てるものは小さな節度を顧みず、大いなる仁を行うものは小さな恵みに惑わされません。前秦はすでに燕国の三つの都(大棘城と龍城と鄴)を転覆させ、神器を盗んで辱めました。仇と恥において、これより深いものはありません。どうか父上は(苻堅からの)微かな恩に拘泥して(燕国の)社稷の重みを忘れないで下さい。五木の吉祥(後述)は、もう到来しています」と言った。慕容垂は、「お前の言葉は正しい。しかし苻堅は真心によって命を預けにきた。どうして危害を加えてよいものか。もし天が(苻氏を)棄てるなら、かれを殺す機会はいくらでも来る。自由に北(長安)に還らせ、改めて隙を待てばよい。私が旧恩に背かなければ、義によって天下を取ることができよう」と言った。
慕容垂の弟の慕容徳は進み出て、「そもそも隣国が併呑しあうことは、古くからの通例です。秦が強ければ燕を併合し、秦が弱ければ燕がこれを狙います。今回のことは報仇と雪辱であり、旧恩に背くこととは違います。むかし(春秋時代の)鄧祁侯は三人の甥の言葉を採用せず、結局は楚に滅ぼされました。呉王夫差は呉子胥の諫言にそむき、句践から禍いを受けました。前例を忘れず、後世の手本とするのです。どうか殷の湯王や周の武王を踏襲する道を棄てず、韓信のように事績を台無しにせず、秦国の崩壊に乗じ、恭んで天罰を行い、反逆の氐族(苻氏)を斬り、宗祀を回復し、中興を建て、大いなる事業を継ぎなさい。天の下した好機を、失ってはなりません。もし数万の兵を手放し、矛を逆さまに差し出せば、天の時に背いて後日の害を待つことになります。最上の計ではありません。ことわざに、『断ずべきところで断ぜねば、かえって乱れる』とあります。どうか兄は迷うことのないように」と言った。慕容垂は、「私はかつて太傅と(燕の国内で)相容れず、身を秦主(苻堅)に投じた。王猛に陥れられ(慕容全とともに謀反の嫌疑を受け)たときも、実態を明らかにしてもらった。国士として深く礼遇され、その徳には十分の一も報いていない。もし秦の国運が必ず窮まり、暦数が私に帰着するならば、(苻堅の)首を取ることに、何の不便があろうか。関西の地(関中)は、わが旧領ではない。自らそこを騒がすものがいれば、私は端拱して(何もせずとも)関東を平定できよう。君子は乱に便乗せず、乱の始まりも作らない。しばらく見守るべきだ」と言った。そこで自軍の兵を苻堅の配下として属させた。これよりさき、慕容宝は長安におり、韓黄や李根らと酒宴の席にて摴蒱(博弈の一種)で遊び、慕容宝は姿勢を正して座り、誓いを立てて、「世に摴蒱には神が宿るという、出目に嘘があるものか。もし(慕容氏に)富貴を期待できるならば、三回とも盧(五つの賽を投げて五つとも黒い目が揃うこと)となるだろう」と言った。こうして三回投げるとすべて盧だったので、慕容宝は拝して賞賜を受け、ゆえに五木(五つの賽の目)の吉祥と言ったのである。
堅至澠池、垂請至鄴展拜陵墓、因張國威刑、以安戎狄。堅許之。權翼諫曰、「垂爪牙名將、所謂今之韓白、世豪東夏、志不為人用。頃以避禍歸誠、非慕德而至、列土1.(干)〔千〕城未可以滿其志、冠軍之號豈足以稱其心。且垂猶鷹也、飢則附人、飽便高颺、遇風塵之會、必有陵霄之志。惟宜急其羈靽、不可任其所欲」。堅不從、遣其將李蠻・閔亮・尹國率眾三千送垂、又遣石越戍鄴、張蚝戍并州。
時堅子丕先在鄴、及垂至、丕館之于鄴西、垂具說淮南敗狀。會堅將苻暉告丁零翟斌聚眾謀逼洛陽、丕謂垂曰、「翟斌兄弟因王師小失、敢肆凶勃、子母之軍、殆難為敵、非冠軍英略、莫可以滅也。欲相煩一行可乎」。垂曰、「下官殿下之鷹犬、敢不惟命是聽」。於是大賜金帛、一無所受、惟請舊田園。丕許之、配垂兵二千、遣其將苻飛龍率氐騎一千為垂之副。丕戒飛龍曰、「卿王室肺腑、年秩雖卑、其實帥也。垂為三軍之統、卿為謀垂之主、用兵制勝之權、防微杜貳之略、委之於卿、卿其勉之」。垂請入鄴城拜廟、丕不許。乃潛服而入、亭吏禁之、垂怒、斬吏燒亭而去。石越言於丕曰、「垂之在燕、破國亂家、及投命聖朝、蒙超常之遇、忽敢輕侮方鎮、殺吏焚亭、反形已露、終為亂階。將老兵疲、可襲而取之矣」。丕曰、「淮南之敗、眾散親離、而垂侍衞聖躬、誠不可忘」。越曰、「垂既不忠於燕、其肯盡忠於我乎。且其亡虜也、主上寵同功舊、不能銘澤誓忠、而首謀為亂、今不擊之、必為後害」。丕不從。越退而告人曰、「公父子好存小2.(人)〔仁〕、不顧天下大計、吾屬終當為鮮卑虜矣」。
垂至河內、殺飛龍、悉誅氐兵、召募遠近、眾至三萬、濟河焚橋、令曰、「吾本外假秦聲、內規興復。亂法者軍有常刑、奉命者賞不踰日。天下既定、封爵有差、不相負也」。
翟斌聞垂之將濟河也、遣使推垂為盟主。垂距之曰、「吾父子寄命秦朝、危而獲濟、荷主上不世之恩、蒙更生之惠、雖曰君臣、義深父子、豈可因其小隙、便懷二三。吾本救豫州、不赴君等、何為斯議而及於我」。垂進欲襲據洛陽、故見苻暉以臣節、退又未審斌之誠款、故以此言距之。垂至洛陽、暉閉門距守、不與垂通。斌又遣長史河南郭通說垂、乃許之。斌率眾會垂、勸稱尊號、垂曰、「新興侯、國之正統、孤之君也。若以諸君之力、得平關東、當以大義喻秦、奉迎反正。無上自尊、非孤心也」。謀于眾曰、「洛陽四面受敵、北阻大河、至於控馭燕趙、非形勝之便、不如北取鄴都、據之而制天下」。眾咸以為然。乃引師而東、遣建威將軍王騰起浮橋于石門。
初、垂之發鄴中、子農及兄子楷・紹、弟子宙、為苻丕所留。及誅飛龍、遣田生密告農等、使起兵趙魏以相應。於是農・宙奔列人、楷・紹奔辟陽、眾咸應之。農西招庫辱官偉于上黨、東引乞特歸于東阿、各率眾數萬赴之、眾至十餘萬。丕遣石越討農、為農所敗、斬越于陳。
1.中華書局本の校勘記に従い、「干」を「千」に改める。千城は、縣侯のこと。
2.中華書局本の校勘記に従い、「人」を「仁」に改める。
堅 澠池に至り、垂 鄴に至りて陵墓に展拜せんこと請ひ、因りて國の威刑を張し、以て戎狄を安んぜんとす。堅 之を許す。權翼 諫めて曰く、「垂は爪牙の名將なり、所謂 今の韓白なり。世々東夏に豪たりて、志は人の用と為らず。頃 禍を避くるを以て誠に歸するも、德を慕ひて至るに非ず。列土千城あるとも未だ以て其の志を滿たす可からず、冠軍の號あるとも豈に以て其の心を稱ふるに足るか。且つ垂 猶ほ鷹のごときなり、飢えれば則ち人に附き、飽くれば便ち高颺し、風塵の會に遇ひ、必ず陵霄の志有り。惟ふに宜しく急ぎ其れ羈靽し、其の欲する所に任ず可からず」と。堅 從はず、其の將の李蠻・閔亮・尹國を遣はして眾三千を率ゐて垂を送らしめ、又 石越を遣はして鄴を戍らしめ、張蚝をして并州を戍らしむ。
時に堅の子の丕 先に鄴に在り、垂 至るに及び、丕 之を鄴西に館し、垂 具さに淮南の敗狀を說く。會々堅の將の苻暉、丁零の翟斌 眾を聚めて謀りて洛陽に逼ると告ぐ。丕 垂に謂ひて曰く、「翟斌の兄弟 王師の小失に因りて、敢て凶勃を肆にす。子母の軍、殆ど敵と為し難し、冠軍の英略に非ざれば、以て滅す可きこと莫きなり。相 一行を煩さんと欲す、可ならんか」と。垂曰く、「下官は殿下の鷹犬なり、敢て惟命 是れ聽かざるや」と。是に於て大いに金帛を賜ふも、一に受くる所無く、惟だ舊の田園を請ふ。丕 之を許し、垂に兵二千を配し、其の將の苻飛龍を遣はして氐騎一千を率ゐて垂の副と為す。丕 飛龍を戒めて曰く、「卿は王室の肺腑なり。年秩は卑なると雖も、其の實は帥なり。垂 三軍の統為(た)らば、卿 垂を謀るの主為(た)り。用兵制勝の權、防微杜貳の略、之を卿に委ぬ、卿 其れ之に勉めよ」と。垂 鄴城に入りて拜廟せんことを請ふも、丕 許さず。乃ち潛服して入り、亭吏 之を禁ずれば、垂 怒り、吏を斬り亭を燒きて去る。石越 丕に言ひて曰く、「垂の燕に在るは、國を破り家を亂す。命を聖朝に投ずるに及び、超常の遇を蒙り、忽ち敢て方鎮を輕侮し、吏を殺して亭を焚き、反形 已に露はり、終に亂階と為らん。將は老ひ兵は疲るれば、襲ひて之を取る可し」と。丕曰く、「淮南の敗に、眾は散じ親は離れ、而れども垂 聖躬に侍衞す。誠は忘る可からず」と。越曰く、「垂 既に燕に忠たらず、其れ肯て忠を我に盡くすや。且つ其の亡虜なるや、主上の寵 功舊に同じけれども、澤を銘し忠を誓ふ能はず、而れども首めに謀りて亂を為す、今 之を擊たざれば、必ず後害と為らん」と。丕 從はず。越 退きて人に告げて曰く、「公の父子 好みて小仁を存し、天下の大計を顧みず。吾が屬 終に當に鮮卑の虜と為るべし」と。
垂 河內に至るや、飛龍を殺し、悉く氐兵を誅し、遠近を召募し、眾は三萬に至り、河を濟たりて橋を焚き、令して曰く、「吾 本は外には秦の聲を假り、內には興復を規す。法を亂す者あらば軍に常刑有り、命を奉ずる者は賞は日を踰えず。天下 既に定まらば、封爵 差有り、相 負かず」と。
翟斌 垂の將に河を濟らんとするを聞くや、使を遣はして垂を推して盟主と為す。垂 之を距みて曰く、「吾が父子 命を秦朝に寄せ、危ふくとも濟はるるを獲たり。主上の不世の恩を荷り、更生の惠を蒙る。君臣と曰ふと雖も、義は父子より深し。豈に其の小隙に因りて、便ち二三を懷く可きや。吾 本は豫州を救はんとす、君らに赴くにあらず、何為れぞ斯の議もて我に及ぼすや」と。垂 進みて襲ひて洛陽に據らんと欲し、故に苻暉に見ゆるに臣節を以てし、退ては又 未だ斌の誠款を審らかにせず、故に此の言を以て之を距む。垂 洛陽に至るや、暉 門を閉ぢて守を距み、垂と通ぜず。斌 又 長史の河南の郭通を遣はして垂に說かしめ、乃ち之を許す。斌 眾を率ゐて垂に會し、尊號を稱せんことを勸む。垂曰く、「新興侯は、國の正統にして、孤の君なり。若し諸君の力を以て、關東を平らぐるを得れば、當に大義を以て秦に喻して、奉迎し反正せしむべし。無上し自尊するは、孤の心に非ざるなり」と。眾に謀りて曰く、「洛陽 四面に敵を受け、北は大河を阻む。燕趙を控馭するに至り、形勝の便に非ず。北して鄴都を取り、之に據りて天下を制するに如かず」と。眾 咸 以て然りと為す。乃ち師を引きて東し、建威將軍の王騰を遣はして浮橋を石門に起さしむ。
初め、垂の鄴中を發するや、子の農及び兄の子の楷・紹、弟の子の宙、苻丕の留むる所と為る。飛龍を誅するに及び、田生を遣はして密かに農らに告げ、兵を趙魏に起こして以て相 應ぜしむ。是に於て農・宙 列人に奔り、楷・紹 辟陽に奔り、眾 咸 之に應ず。農 西のかた庫辱官偉を上黨に招き、東のかた乞特歸を東阿に引く。各々眾數萬を率ゐて之に赴き、眾 十餘萬に至る。丕 石越を遣はして農を討たしむるも、農の敗る所と為り、越を陳に斬る。
苻堅が澠池に到着すると、慕容垂は鄴にゆき陵墓に参拝したいと申し出て、そこで国家(前秦)の威刑を拡張し、戎狄を安定させてきますと言った。苻堅はこれを許した。権翼は諫めて、「慕容垂は爪牙の名将であり、いわゆる今日の韓白(韓信や白起)です。代々中原の東方の豪勇であり、他人の指図を受けません。近年に(燕の国内での)禍いを避けるために正義の国家(前秦)に帰順しましたが、徳を慕って来たのではありません。千城(県侯)の食邑だけでは志が充足せず、冠軍の称号があっても満足しません。しかも慕容垂は鷹のような男で、飢えれば人に懐きますが、腹が膨れれば高く飛び上がり、塵を巻きあげる風を受け、天空に飛翔する志があります。急ぎ慕容垂を繋ぎとめるべきです。希望どおりの役割を与えてはいけません」と言った。苻堅は従わず、その将の李蛮と閔亮と尹国を派遣して三千の兵を率いて慕容垂を見送らせた。また石越に鄴を守らせ、張蚝に并州を守らせた。
このとき苻堅の子の苻丕は以前から鄴におり、慕容垂が到着すると、苻丕はかれに鄴城の西に館を宛がった。慕容垂はつぶさに淮南の敗北のさまを説いた。たまたま苻堅の将の苻暉が、丁零の翟斌が(前秦に)謀反し兵を集めて洛陽に接近していると告げた。苻丕は慕容垂に、「翟斌の兄弟は王者の軍の小さな失敗に付けこみ、あえて凶悪な行動を起こした。(前秦の)大小の各軍では、ほぼ翟斌に敵わず、筆頭の軍略の持ち主でなければ、(翟斌を)滅ぼすことができない。このたび出陣を願いたいが、どうだろうか」と言った。慕容垂は、「下官(私)は殿下の(狩りで使役される)鷹や犬です、ご命令のとおりに働きます」と言った。ここにおいて大いに金帛を賜わったが、まったく受け取らず、ただ旧領の田地だけを求めた。苻丕はこれを許し、慕容垂に兵二千を配置し、その将の苻飛龍に氐騎一千を率いさせて慕容垂の副官とした。苻丕は苻飛龍を戒めて、「きみは王室の肺腑(皇族)だ。(遠征の軍において)年齢や席次は(慕容垂の)下であるが、実態は司令官である。慕容垂が三軍の統率者であるなら、きみは慕容垂の監察者である。兵を用いて勝ちを得る権限、微かな異変を防いで裏切りを塞ぐ計略は、すべてきみに委ねる、くれぐれも努力するように」と言った。慕容垂は(出陣にあたり)鄴城に入って祖先の廟に拝謁したいと願ったが、苻丕は許さなかった。そこで(慕容垂は)潜伏して(慕容氏の廟に)進入した。亭吏がこれを引き止めると、慕容垂は怒って、亭吏を斬って亭を焼いて去った。石越は苻丕に、「慕容垂は燕国にいたとき、自分の国を破り家を乱しました。生命を聖朝(前秦)に預けると、格別の待遇を受けましたが、たちまち方鎮(鄴を鎮護する苻丕)を軽んじて侮り、吏を殺して亭を焼きました。謀反の姿勢がすでに露わとなり、騒乱の端緒であります。(慕容氏は)将が老いて兵が疲れているので、襲撃すれば奪い取ることができます」と言った。苻丕は、「淮南の敗北のとき、わが兵は散って親しい者と離れたが、慕容垂が皇帝の御身を護衛した。その誠意を忘れることはできない」と言った。石越は、「慕容垂はかつて(出身の)燕国に忠ではなったのに、(他国の)われらに忠を尽くすでしょうか。かれが(燕から秦に)亡命したとき、主上(苻堅)が与えた恩寵は功臣や旧臣と同等であったが、恩沢を刻みつけて忠誠を誓うことがなく、(廟に乱入し)手始めの反乱を起こしました。いま攻撃しなければ、必ず後日の害となります」と言った。苻丕は従わなかった。石越は退いて人に告げ、「公の父子(苻堅と苻丕)は小手先の仁を大切にし、天下の大計を顧みない。われらは鮮卑(慕容氏)の捕虜となるだろう」と言った。
慕容垂は河内に到着すると、苻飛龍を殺し、すべての氐族の兵を誅してから、遠近から兵を召して募った。軍勢は三万に到達した。慕容垂は黄河を渡ってから橋を焼いた。令を発して、「これまで私は外では秦国の声望を借りていたが、内では(燕国の)復興を目指してきた。法を乱す者がいれば軍の刑法を適用する。わが命を奉じる者には日を跨がずに褒賞を与える。天下を平定したら、各々に爵位を与える。約束を破ることはない」と言った。
翟斌は慕容垂が黄河を渡ろうとしているのを聞くと、使者を送って慕容垂を盟主に推戴しようとした。慕容垂はこれを断って、「わが父子は身命を秦王朝にあずけ、危ういところを救われた。主上(苻堅)から稀代の恩を受け、命を助けられた。(形式上は)君臣というが、義は父子よりも深い。どうして小さな隙に乗じ、二心を抱いてよいものか。私は本来は豫州を救いに来たのであり、きみたちのところに赴いたのではない。なぜそのような提案を私にもたらすのか」と言った。慕容垂は進軍し襲撃して洛陽に拠ることを目指し、ことさらに苻暉に対して臣下としての節度をわきまえ、(苻氏の前から)退いても翟斌の真心に答える気配を見せず、あえてこの言葉によって拒絶をした。慕容垂が洛陽に到達すると、苻暉は門を閉じて締め出し、慕容垂との連絡を絶った。翟斌はまた長史の河南の郭通を派遣して慕容垂を説得したところ、これ(前秦からの離脱)に同意した。翟斌は兵を率いて慕容垂に合流し、尊号を称することを勧めた。慕容垂は、「新興侯(¥)は、国の正統であり、私の君主である。もし諸君の力によって、関東の平定が成功すれば、大義によって秦を説得し、奉迎して正しい地位に復帰させるべきだ。最上の位について自らを尊ぶのは、私の本心とは異なる」と言った。人々に相談し、「洛陽は四面に敵を受け、北は大河に隔てられている。燕趙を制圧するにあたり、有利な地勢ではない。北上して鄴都を奪い、そこを本拠地にして天下を制圧するのが最良である」と言った。人々はみな合意した。兵を退いて東に向かい、建威将軍の王騰を派遣して浮橋を石門に作らせた。
これよりさき、慕容垂が鄴の城中から出発するとき、子の慕容農及び兄の子の慕容楷と慕容紹、弟の子の慕容宙は、苻丕に(任子として)留め置かれた。(慕容垂は)苻飛龍を誅すると、田生を派遣して秘かに慕容農らに告げ、兵を趙魏で起こして互いに呼応させた。ここにおいて慕容農と慕容宙は列人に逃げ、慕容楷と慕容紹は辟陽に逃げ、人々はみな連絡を取りあった。慕容農は西にゆき庫辱官偉を上党で招き、東にゆき乞特帰を東阿に招いた。それぞれ数万の兵を率いて駆けつけ、兵数は十万以上となった。苻丕は石越に慕容農を討伐させたが、慕容農に敗れ、(慕容農は)石越を陳で斬った。
垂引兵至滎陽、以太元八年自稱大將軍・大都督・燕王、承制行事、建元曰燕元。令稱統府、府置四佐、王公已下稱臣、凡所封拜、一如王者。以翟斌為建義大將軍、封河南王。翟檀為柱國大將軍・弘農王。弟德為車騎大將軍・范陽王。兄子楷征西大將軍・太原王。眾至二十餘萬、濟自石門、長驅攻鄴。農・楷・紹・宙等率眾會垂。立子寶為燕王太子、封功臣為公侯伯子男者百餘人。
苻丕乃遣侍郎姜讓謂垂曰、「往歲大駕失據、君保衞鑾輿、勤王誠義、邁蹤前烈。宜述修前規、終忠貞之節、奈何棄崇山之功、為此過舉。過貴能改、先賢之嘉事也。深宜詳思、悟猶未晚」。垂謂讓曰、「孤受主上不世之恩、故欲安全長樂公、使盡眾赴京師、然後修復家國之業、與秦永為鄰好。何故闇於機運、不以鄴見歸也。大義滅親、況於意氣之顧。公若迷而不返者、孤亦欲窮兵勢耳。今事已然、恐單馬乞命不可得也」。讓厲色責垂曰、「將軍不容於家國、投命於聖朝、燕之尺土、將軍豈有分乎。主上與將軍風殊類別、臭味不同、奇將軍於一見、託將軍以斷金、寵踰宗舊、任齊懿藩、自古君臣冥契之重、豈甚此邪。方付將軍以六尺之孤、萬里之命、奈何王師小敗、便有二圖。夫師起無名、終則弗成、天之所廢、人不能支。將軍起無名之師、而欲興天所廢、竊未見其可。長樂公主上之元子、聲德邁于唐衞、居陝東之任、為朝廷維城、其可束手輸將軍以百城之地。大夫死王事、國君死社稷、將軍欲裂冠毀冕、拔本塞源者、自可任將軍兵勢、何復多云。但念將軍以七十之年、懸首白旗、高世之忠、忽為逆鬼、竊為將軍痛之」。垂默然。左右勸垂殺之、垂曰、「古者兵交、使在其間、犬各吠非其主、何所問也」。乃遣讓歸。
垂 兵を引きて滎陽に至り、太元八年を以て大將軍・大都督・燕王を自稱し、承制行事し、建元して燕元と曰ふ。令を統府と稱し、府に四佐を置き、王公より已下 臣と稱し、凡そ封拜する所、一に王者の如し。翟斌を以て建義大將軍と為し、河南王に封ず。翟檀もて柱國大將軍・弘農王と為す。弟の德もて車騎大將軍・范陽王と為す。兄の子の楷もて征西大將軍・太原王とす。眾は二十餘萬に至り、石門より濟り、長驅して鄴を攻む。農・楷・紹・宙ら眾を率ゐて垂に會す。子の寶を立てて燕王太子と為し、功臣を封じて公侯伯子男と為す者は百餘人なり。
苻丕 乃ち侍郎の姜讓を遣はして垂に謂ひて曰く、「往歲に大駕 據を失ひ、君 鑾輿を保衞し、勤王の誠義、前烈を邁蹤す。宜しく前規を述修し、忠貞の節を終へよ。奈何ぞ崇山の功を棄て、此の過舉を為すか。過は能く改むるを貴ぶ、先賢の嘉事なり。深く宜しく詳思すべし。悟らば猶ほ未だ晚からず」と。垂 讓に謂ひて曰く、「孤 主上の不世の恩を受け、故に長樂公を安全せんと欲し、眾を盡くして京師に赴かしむ。然る後に家國の業を修復し、秦と永く鄰好と為らん。何の故に機運を闇にし、鄴を以て歸さざるや。大義は親を滅す、況んや意氣の顧に於てをや。公 若し迷ひて返さざれば者、孤も亦た兵勢を窮めんと欲するのみ。今 事は已に然り、單馬に命を乞ひても得る可からざるを恐るなり」と。讓 色を厲まし垂を責めて曰く、「將軍 家國に容れられず、命を聖朝に投ず。燕の尺土、將軍 豈に分有らんや。主上 將軍と風は殊なり類は別にして、臭味 同じからざるに、將軍を一見に奇とし、將軍に託するに斷金を以てし、寵は宗舊を踰へ、任は懿藩に齊し。古より君臣の冥契の重、豈に此より甚しからんや。方に將軍に付するに六尺の孤、萬里の命を以てするに、奈何ぞ王師 小敗あるや、便ち二圖有らんや。夫れ師 起ちて名無くんば、終に則ち成す弗く、天の廢する所にして、人の支ふ能はざるものなり。將軍 無名の師を起こし、而して天の廢する所を興さんと欲す。竊かに未だ其の可なるを見ず。長樂公は主上の元子なり、聲德 唐衞に邁く、陝東の任に居り、朝廷の維城と為る。其れ手を束ぬれば將軍に輸するに百城の地を以てす可し。大夫は王事に死し、國君は社稷に死す。將軍 冠を裂き冕を毀き、本を拔き源を塞がんと欲する者なり。自ら將軍に任ず可きの兵勢、何ぞ復た多しとしか云ふか。但だ念ずらく將軍 七十の年を以て、首を白旗に懸け、高世の忠、忽ち逆鬼と為る。竊かに將軍の為に之を痛むなり」と。垂 默然たり。左右 垂に之を殺さんことを勸むるに、垂曰く、「古者に兵 交はり、使 其の間に在り。犬 各々其の主に非ざるを吠ゆ。何ぞ問ふ所なるか」と。乃ち讓を遣はして歸らしむ。
慕容垂は兵を引いて滎陽に至り、太元八年に大将軍・大都督・燕王を自称し、承制行事して、年号を立てて燕元とした。令を統府と称し、府に四佐を置き、王公より以下は臣と称し、封建と任命は、すべて王者と同じであった。翟斌を建義大将軍とし、河南王に封建した。翟檀を柱国大将軍・弘農王とした。弟の慕容徳を車騎大将軍・范陽王とした。兄の子の慕容楷を征西大将軍・太原王とした。兵数は二十万あまりに至り、石門から渡り、長駆して鄴を攻めた。慕容農・慕容楷・慕容紹・慕容宙らは兵を率いて慕容垂に合流した。子の慕容宝を立てて燕王太子とし、功臣を封建して公侯伯子男となったものは百人あまりいた。
苻丕は侍郎の姜譲を使者として慕容垂のもとに送り、「前年に大駕(苻堅)が足場を失ったが、きみは帝王の輿を護衛した。勤王の誠意と義は、前代の人物たちに等しい。先人に学んで身を修め、忠節をやり遂げるように。どうして崇山のように高い功績を棄て、このような誤りを犯すのか。過ちは改めることが大事だ、というのが先賢の教えである。深く反省するように。(過ちを)悟るならばまだ遅くはない」と言った。慕容垂は姜譲に、「私は主上から稀代の恩を受け、ゆえに長楽公(苻丕)を危険から遠ざけようと、兵を尽くして京師に赴いた。この(役割を終えた)後にわが家と国(慕容氏の燕国)を再建し、前秦と友好な隣国になろうと思っていた。どうして形勢の成り行きに逆らい、鄴城をわれらに返還しないのか。大義のためには親族すら捨てるというが、ましてや(血縁がなく)心理的な繋がりだけならば尚更である。あなたが迷って返還しないならば、私もまた軍勢を駆使(して苻丕から鄴を奪取)するだけだ。状況は以上の通りであるから、(苻丕が)単騎で命乞いをしても認めてやれないかも知れない」と言った。姜譲は顔色をかえて慕容垂を責め、「将軍は燕の国内で身の置き場がなく、命を聖朝に預けた。燕のわずかな土地ですら、将軍の(正当な)持ち物ではない。主上は将軍と習俗が異なり、臭いや味も同じでない(民族が異なる)が、一度会っただけで将軍を認め、断金の友情を持ちかけ、恩寵は宗族や旧臣を上回り、任務は藩屏と同じとした。古より君臣の意気投合において、これよりも重いものがあろうか。将軍に六尺の孤(後嗣の苻丕)を託して、万里の任務(遠征の指揮権)を与えたのに、どうして王者の軍が少し敗れただけで、離叛を計画するのか。軍を起こすときに名分がなければ、成功することができず、天に廃されるのであり、人間には支えられない。将軍は名分なき軍を起こし、天に廃される事業を起こそうとしている。私はこれが成功するとは思えない。長楽公(苻丕)は主上の嫡子であり、唐や衛の地域で声望と徳が高く、陝東(関東)の統括の任務にあり、朝廷の維城(藩屏)となっている。もしも手を束ね(帰順す)れば将軍(慕容垂が)に百城の地を与え(諸侯とする)ることができる。大夫は王事のために死に、国君は社稷のために死ぬものだ。将軍は(諸侯の)かぶりものを引き裂き、(名分の)根源を台無しにしている。将軍として動員できる軍勢が、(前秦から離叛した後も)多いと思っているのか。私が気掛かりなのは将軍(慕容垂)が七十歳になったとき、首級を白旗に懸けられ、世に名高い忠臣が、一転して反逆者の霊となることである。将軍のために残念に思う」と言った。慕容垂は黙っていた。左右は慕容垂に姜譲を殺しましょうと勧めたが、慕容垂は、「古くから軍が交戦すれば、使者がその間を往来する。犬は銘々に自分の主人以外を吠える。問い詰めることはない」と言った。そして姜譲を(解放して)帰らせた。
垂上表于苻堅曰、「臣才非古人、致禍起蕭牆、身嬰時難、歸命聖朝。陛下恩深周漢、猥叨微顧之遇、位為列將、爵忝通侯、誓在勠力輸誠、常懼不及。去夏桓沖送死、一擬雲消、迴討鄖城、俘馘萬計、斯誠陛下神算之奇、頗亦愚臣忘死之效。方將飲馬桂州、懸旌閩會、不圖天助亂德、大駕班師。陛下單馬奔臣、臣奉衞匪貳、豈陛下聖明鑒臣單心、皇天后土實亦知之。臣奉詔北巡、受制長樂。然丕外失眾心、內多猜忌、令臣野次外庭、不聽謁廟。丁零逆豎寇逼豫州、丕迫臣單赴、限以師程、惟給弊卒二千、盡無兵杖、復令飛龍潛為刺客。及至洛陽、平原公暉復不信納。臣竊惟進無淮陰功高之慮、退無李廣失利之愆、懼有青蠅交亂白黑。丁零夷夏以臣忠而見疑、乃推臣為盟主。臣受託善始、不遂令終、泣望西京、揮涕即邁。軍次石門、所在雲赴、雖復周武之會於孟津、漢祖之集于垓下、不期之眾、實有甚焉。欲令長樂公盡眾赴難、以禮發遣、而丕固守匹夫之志、不達變通之理。臣息農收集故營、以備不虞、而石越傾鄴城之眾、輕相掩襲、兵陣未交、越已隕首。臣既單車懸軫、歸者如雲、斯實天符、非臣之力。且鄴者臣國舊都、應即惠及、然後西面受制、永守東藩、上成陛下遇臣之意、下全愚臣感報之誠。今進師圍鄴、并喻丕以天時人事。而丕不察機運、杜門自守、時出挑戰、鋒戈屢交、恒恐飛矢誤中、以傷陛下天性之念。臣之此誠、未簡神聽、輒遏兵止銳、不敢窮攻。夫運有推移、去來常事、惟陛下察之」。
堅報曰、「朕以不德、忝承靈命、君臨萬邦、三十年矣。遐方幽裔、莫不來庭、惟東南一隅、敢違王命。朕爰奮六師、恭行天罰、而玄機不弔、王師敗績。賴卿忠誠之至、輔翼朕躬、社稷之不隕、卿之力也。詩云、『中心藏之、何日忘之』。方任卿以元相、爵卿以郡侯、庶弘濟艱難、敬酬勳烈、何圖伯夷忽毀冰操、柳惠倏為淫夫。覽表惋然、有慚朝士。卿既不容於本朝、匹馬而投命、朕則寵卿以將位、禮卿以上賓、任同舊臣、爵齊勳輔、歃血斷金、披心相付。謂卿食椹懷音、保之偕老。豈意畜水覆舟、養獸反害、悔之噬臍、將何所及。誕言駭眾、誇擬非常、周武之事、豈卿庸人所可論哉。失籠之鳥、非羅所羈。脫網之鯨、豈罟所制。翹陸任懷、何須聞也。念卿垂老、老而為賊、生為叛臣、死為逆鬼、侏張幽顯、布毒存亡、中原士女、何痛如之。朕之曆運興喪、豈復由卿。但長樂・平原以未立之年、遇卿於兩都、慮其經略未稱朕心、所恨者此焉而已」。
垂 苻堅に上表して曰く、「臣の才 古人に非ず、禍を致して蕭牆に起こり、身 時の難を嬰(めぐ)らせ、命を聖朝に歸す。陛下の恩 周漢より深く、微顧の遇を猥叨(みだり)にし、位は列將と為り、爵は通侯を忝くし、誓ひは力を勠し誠を輸すに在り、常に及ばざるを懼る。去る夏に桓沖 送死し、一に雲消に擬へ、迴して鄖城を討ち、俘馘するもの萬もて計へ、斯れ誠に陛下の神算の奇にして、頗る亦た愚臣 忘死の效なり。方將に馬を桂州に飲し、旌を閩會に懸け、圖らずして天 亂德を助け、大駕 師を班す。陛下 單馬もて臣に奔り、臣 奉衞して貳匪らず。豈に陛下の聖明 臣が單心を鑒て、皇天后土 實に亦た之を知らざるや。臣 詔を奉じて北巡し、制を長樂に受く。然れども丕 外は眾心を失ひ、內は猜忌多く、臣をして外庭に野次せしめ、謁廟を聽さず。丁零の逆豎 豫州を寇逼して、丕 臣に單もて赴くことを迫り、限るに師程を以てし、惟だ弊卒二千を給ひ、盡く兵杖無く、復た飛龍をして潛かに刺客と為らしむ。洛陽に至るに及び、平原公暉 復た信納せず。臣 竊かに惟ふに進みては淮陰の功高の慮無く、退きては李廣の失利の愆無く、懼らくは青蠅 白黑を交亂する有り。丁零の夷夏 臣の忠にして疑はるるを以て、乃ち臣を推して盟主と為す。臣 託を受くれば始を善しとするも、令終を遂げず。泣きて西京を望み、涕を揮ひて即ち邁む。軍 石門に次するや、所在に雲のごとく赴き、復た周武の孟津に會し、漢祖の垓下に集ふと雖も、期せざるの眾、實に焉より甚しきこと有らん。長樂公をして眾を盡くして難に赴き、禮を以て發遣せしめんと欲せども、而れども丕 匹夫の志を固守して、變通の理に達せず。臣が息の農 故營を收集し、以て不虞に備へ、而れども石越 鄴城の眾を傾けて、輕々しく相 掩襲し、兵陣 未だ交らざるに、越 已に首を隕す。臣 既に單車もて懸軫すれども、歸する者 雲の如く、斯れ實に天符にして、臣の力に非ず。且つ鄴は臣が國の舊都にして、應に即ち惠 及ぼすべし。然る後に西面して制を受け、永く東藩を守らん、上は陛下の遇臣の意を成し、下は愚臣の感報の誠を全せん。今 師を進めて鄴を圍み、并せて丕に喻するに天時人事を以てす。而れども丕 機運を察せず、門を杜ざして自守せば、時に出でて戰ひを挑み、鋒戈 屢々交はらば、恒に飛矢 誤りて中たりて、以て陛下の天性の念を傷つくることを恐る。臣の此の誠、未だ神聽を簡(おろそか)にせざれば、輒ち兵を遏め銳を止め、敢て窮攻せざらん。夫れ運に推移有り、去來は常事なり、惟だ陛下 之を察せよ」と。
堅 報ゐて曰く、「朕 不德を以て、忝くも靈命を承け、萬邦に君臨すること、三十年なり。遐方幽裔、來庭せざるは莫く、惟だ東南の一隅のみ、敢て王命に違ふ。朕 爰に六師を奮ひ、恭みて天罰を行ひ、而れども玄機 弔せず、王師 敗績す。卿が忠誠の至、朕の躬を輔翼するに賴る。社稷の隕せざるは、卿の力なり。詩に云ふ、『中心に之を藏(よみ)し、何日か之を忘れん』と〔一〕。方に卿に任ずるに元相を以てし、卿に爵するに郡侯を以てし、庶はくは弘く艱難を濟ひ、敬みて勳烈に酬ひん。何ぞ伯夷 忽に冰操を毀ち、柳惠 倏ち淫夫と為るを圖らんか。表を覽じて惋然たりて、朝士に慚づる有り。卿 既に本朝に容れず、匹馬もて命に投ず。朕 則ち卿を寵するに將位を以てし、卿を禮するに上賓を以てす。任は舊臣に同じく、爵は勳輔に齊しく、血を歃りて金を斷ち、心を披きて相 付す。謂ふに卿 椹を食みて音を懷き、之を保ちて偕老す。豈に意 水を畜へて舟を覆し、獸を養ひて反りて害すや。之を悔ひて臍を噬むとも、將た何ぞ及ぶ所か。言を誕にし眾を駭かせ、誇りて非常に擬へ、周武の事、豈に卿が庸人 論ず可き所なるか。籠を失ふの鳥、羅の羈する所に非ず。網を脫するの鯨、豈に罟の制する所か。翹陸 懷に任じ、何ぞ聞を須つか。卿の垂老を念ふに、老ひて賊と為り、生きて叛臣と為り、死して逆鬼と為り、幽顯に侏張し、毒を存亡に布す。中原の士女、何なる痛みぞ之の如きか。朕の曆運の興喪、豈に復た卿に由らんか。但だ長樂・平原 未立の年なるを以て、卿を兩都に遇し、慮ふに其の經略 未だ朕の心を稱へず、恨む所の者 此焉れあるのみ」と。
〔一〕『毛詩』小雅 隰桑に、「中心藏之、何日忘之」とある。
慕容垂は苻堅に上表して、「私の才能は古の人々に劣り、禍いが親族から起こり、わが身に災難が降りかかり、命を聖朝に託しました。陛下の恩は周王や漢帝よりも深く、稀有で過分な厚遇を賜りました。官位は列将、爵位は列侯を頂戴し、尽力して誠意を発揮しようと誓い、いつも働きが不十分であることを懼れてきました。前年夏に(東晋の)桓沖を死に追いやり、まるで脅威が雲のように消えさったので、軍をめぐらせて鄖城(¥)を討伐し、万の単位で捕虜を得ました。これは陛下の神算鬼謀のおかげであり、同時に私が命がけで戦った成果でもあります。軍馬に桂州の川で水を飲ませ、軍旗を閩會(揚州)に掲げようとすると(淝水の戦い)、図らずして天が乱徳(東晋)を助け、前秦軍は引き返しました。陛下が単騎で逃げ込んだとき、私は奉戴して護衛し決して裏切りませんでした。陛下は聡明な見識によって私の忠誠心をお分かりでしょうし、天地の神々もご存知ないはずがありません。私は(苻堅の)詔を奉じて北方をめぐり、長楽公(苻丕)の指揮下に入りました。しかし苻丕は外では兵や民の心を失い、内では猜疑心をふくらませ、私を(鄴城の)外に野営させ、宗廟に謁することを禁じました。丁零の反逆者が豫州を脅かすと、苻丕は私に単独で討伐せよと迫り、十分な日程を確保せず、ただ疲弊した二千の兵だけを配属し、まったく兵器を支給せず、しかも苻飛龍にひそかに暗殺を命じました。洛陽に到着すると、平原公暉(苻暉)もまた私を信用せずに入城を拒否しました。私には長所として淮陰侯(韓信)のように高い功績への思慮がありませんが、短所として(前漢の)李広のように軍を敗北させた罪もなく、青蝿が飛び交って白黒の色を乱す(小人が冤罪をでっちあげる)ことを懼れます。丁零の兵民は私が忠臣であるにも拘わらず疑われたので、私を盟主に推戴しました。この推戴を受け入れれば(事業の)始まりはよいが、良い終わりを迎えられないと思い、泣いて西京(苻堅のいる長安)を望み、涙を振るって進軍しました。わが軍が石門に停泊すると、現地の人々が雲のように押しかけました。周の武王が孟津で(八百諸侯に)会盟し、漢祖の劉邦が垓下に(楚人の兵を)集めたときよりも、想定外に集まった人数が、まことに多かったと思われます。長楽公(苻丕)には軍勢を出し惜しみせず、礼義をわきまえて軍隊を送り出させたかったのですが、苻丕は匹夫の志を固守して、状況変化への対応ができません。私の息子の慕容農がもとの兵員を集めて、不慮の事態に備えておりますと、(苻丕の命令を受けた)石越が鄴城の兵を大量動員し、軽々しく襲いかかってきました。戦陣が交わる前に(戦うまでもなく)、石越の首は落ちていました。かつて私は一台の馬車だけで(河北に)移動しましたが、帰順するものは雲のように大量でした。これは天の思し召しであり、私の力ではありません。しかも鄴は私の国(燕)の旧都であり、(慕容氏が)恵みを施すべき土地です。その(鄴を確保した)後に西を向いて(前秦の)統制を受け、永遠に東の藩屏となろうと思います。これこそ上には陛下から私への特別な厚遇を、下には私からの報恩を成就させる体制であります。いま軍を進めて鄴を包囲し、苻丕には天時と人事について諭します。しかしながら苻丕が機運を理解せず、門を閉ざして籠城し、時には出撃して戦いを挑み、干戈が交わったならば、つねに飛矢が誤って(苻丕に)当たる恐れがあり、陛下の天来の思いを損ねることが心配です。私は誠意を抱いていますから、もしも陛下が神意を疎かにしないなら、すぐにでも軍事行動を停止し、あえて(苻丕を)追い詰めることは致しません。運は推移するもので、(運の)出入りは不変の法則です。陛下はよくお考えになりますように」と言った。
苻堅は返答して、「朕は不徳であるが、かたじけなくも天命を受け、万国に君臨すること、三十年にわたる。果てなく遠方の異民族も、来朝しないものはなく、ただ東南の一隅(東晋)だけが、あえて王命に逆らった。朕は六軍を動員し、謹んで天罰を行ったが、奥深い道理に適わず、王師(前秦の軍)は敗績した。あなた(慕容垂)は至上の忠誠により、朕の身を(敗走のとき)保護してくれた。社稷が滅びなかったのは、あなたのおかげだ。『毛詩』(小雅 隰桑)に、『心から慕っていれば、いつの日に忘れるだろうか』とある通りだ。あなたには宰相の任務と、郡侯の爵位を与えたが、広く艱難を救い、慎んで勲功に報いたいと思ったからだ。どうして(慕容垂は)伯夷がにわかに高い節操を捨て、柳恵(柳下恵)がいきなり淫夫となったように振る舞うのか。(前掲の)上表を閲読して嘆かわしく、朝廷の人々は恥じ入った。あなたはわが国から離脱し、一匹の馬(頼りない軍勢)に命を預けてしまった。朕はあなたを寵愛して将軍の位を与え、あなたを礼遇して上賓として扱った。任務は旧臣と同じで、爵位は功臣と等しく、血をすすって断金の友情を養い、真心からの信頼関係があった。椹(クワの実)を食べてを音を懐き(未詳)、そのまま一緒に老いるはずだった。どうして水を溜めて船を転覆させ、虎を育てて危害をなすのか。後悔して臍をかんでも、取り返しがつかない。大げさなことを言って万民を驚かせ、自分を不世出の人物になぞらえた。周の武王の事績(孟津の会盟)は、あなたのような平凡な人間に論じる資格があるものか。籠を失った鳥は、あみに捕らわれず、網から逃げた鯨も、あみで捕らえられまい。足を上げて(馬のように疾駆し)思い通りにしたければ、なぜ(朕に)断りを入れたのか。もはや高齢のあなたを思うに、老いてから賊となり、生きながらに叛臣となり、死んでから反逆者の亡霊となる。現世と来世にでたらめな誇張をまき散らし、毒を生者と死者の両方に広めている。中原の士女は、なんと痛ましい思いをさせられるのか。朕(前秦)の暦運の興廃は、あなたとは一切の関わりがない。ただ長楽公と平原公は未成年なので、あなたを二つの都に配置しただけだ。あなたの見通し(前秦の藩屏として燕国を立てること)は朕の考えに合致せず、ただ(慕容垂の思い上がりを)恨めしく思うだけだ」と言った。
垂攻拔鄴郛、丕固守中城、垂塹而圍之、分遣老弱於魏郡・肥鄉、築新興城以置輜重、擁漳水以灌之。
翟斌潛諷丁零及西人、請斌為尚書令。垂訪之羣僚、其安東將軍封衡厲色曰、「馬能千里、不免羈靽、明畜生不可以人御也。斌戎狄小人、遭時際會、兄弟封王、自驩兜已來、未有此福。忽履盈忘止、復有斯求、魂爽錯亂、必死不出年也」。垂猶隱忍容之、令曰、「翟王之功宜居上輔、但臺既未建、此官不可便置。待六合廓清、更當議之」。斌怒、密應苻丕、潛使丁零決防潰水。事洩、垂誅之。斌兄子真率其部眾北走邯鄲、引兵向鄴、欲與丕為內外之勢、垂令其太子寶・冠軍慕容隆擊破之。真自邯鄲北走、又使慕容楷率騎追之、戰于下邑、為真所敗、真遂屯于承營。垂謂諸將曰、「苻丕窮寇、必守死不降。丁零叛擾、乃我腹心之患。吾欲遷師新城、開其逸路、進以謝秦主疇昔之恩、退以嚴擊真之備」。於是引師去鄴、北屯新城。慕容農進攻翟嵩于黃泥、破之。垂謂其范陽王德曰、「苻丕吾縱之不能去、方引晉師規固鄴都、不可置也」。進師又攻鄴、開其西奔之路。
垂將有北都中山之意、農率眾數萬迎之。羣僚聞慕容暐為苻堅所殺、勸垂僭位。垂以慕容沖稱號關中、不許。
晉龍驤將軍劉牢之率眾救苻丕、至鄴、垂逆戰、敗績、遂徹鄴圍、退屯新城。垂自新城北走、牢之追垂、連戰皆敗。又戰于五橋澤、王師敗績、德及隆引兵要之於五丈橋、牢之馳馬跳五丈澗、會苻丕救至而免。
翟真去承營、徙屯行唐、真司馬鮮于乞殺真、盡誅翟氏、自立為趙王。營人攻殺乞、迎立真從弟成為主、真子遼奔黎陽。
高句驪寇遼東、垂平北慕容佐遣司馬郝景率眾救之、為高句驪所敗、遼東・玄菟遂沒。
建節將軍徐巖叛于武邑、驅掠四千餘人、北走幽州。垂馳敕其將平規曰、「但固守勿戰、比破丁零、吾當自討之」。規違命距戰、為巖所敗。巖乘勝入薊、掠千餘戶而去、所過寇暴、遂據令支。
翟成長史鮮于得斬成而降、垂入行唐、悉坑其眾。
苻丕棄鄴城、奔于并州。
慕容農攻克令支、斬徐巖兄弟。進伐高句驪、復遼東・玄菟二郡、還屯龍城。
垂定都中山、羣僚勸即尊號、具典儀、修郊燎之禮。垂從之、以太元十一年僭即位、赦其境內、改元曰建興、置百官、繕宗廟社稷、立寶為太子。以其左長史庫辱官偉・右長史段崇・龍驤張崇、中山尹封衡為吏部尚書、慕容德為侍中・都督中外諸軍事・領司隸校尉、撫軍慕容麟為衞大將軍、其餘拜授有差。追尊母蘭氏為文昭皇后、遷皝后段氏、以蘭氏配饗。博士劉詳・董謐議以堯母妃位第三、不以貴陵姜嫄、明聖王之道以至公為先。垂不從。
遣其征西慕容楷・衞軍慕容麟・鎮南慕容紹・征虜慕容宙等攻苻堅冀州牧苻定・鎮東苻紹・幽州牧苻謨・鎮北苻亮。楷與定等書、喻以禍福、定等悉降。
垂留其太子寶守中山、率諸將南攻翟遼、以楷為前鋒都督。遼之部眾皆燕趙人也、咸曰、「太原王之子、吾之父母」。相率歸附。遼懼、遣使請降。垂至黎陽、遼肉袒謝罪、垂厚撫之。
為其太子寶起承華觀、以寶錄尚書政事、巨細皆委之、垂總大綱而已。立其夫人段氏為皇后。又以寶領侍中・大單于・驃騎大將軍・幽州牧。建留臺于龍城、以高陽王慕容隆錄留臺尚書事。時慕容暐及諸宗室為苻堅所害者、並招魂葬之。
建節將軍徐巖叛于武邑、驅掠四千餘人、北走幽州。垂馳敕其將平規曰、「但固守勿戰、比破丁零、吾當自討之」。規違命距戰、為巖所敗。巖乘勝入薊、掠千餘戶而去、所過寇暴、遂據令支。
翟成長史鮮于得斬成而降、垂入行唐、悉坑其眾。
苻丕棄鄴城、奔于并州。
慕容農攻克令支、斬徐巖兄弟。進伐高句驪、復遼東・玄菟二郡、還屯龍城。
垂 攻めて鄴の郛を拔き、丕 中城を固守す。垂 塹して之を圍み、分けて老弱を魏郡・肥鄉に遣はし、新興城を築きて以て輜重を置き、漳水を擁して以て之に灌ぐ。
翟斌は潛かに丁零及び西人に諷し、斌を尚書令と為すことを請ふ。垂 之を羣僚に訪ぬるに、其の安東將軍の封衡 色を厲まして曰く、「馬は千里を能くするも、羈靽を免れず。畜生 人を以て御す可からざるは明けし。斌は戎狄の小人にして、時に遭ひて際會せば、兄弟もて王に封ず。驩兜より已來、未だ此の福有らず。忽ち盈を履まば止を忘れ、復た斯の求め有り。魂爽 錯亂たり、必ず死すること年を出でざるなり」と。垂 猶ほ隱忍して之を容れ、令して曰く、「翟王の功 宜しく上輔に居るべし。但だ臺 既に未だ建たず、此の官 便ち置く可からず。六合 廓清するを待ちて、更めて當に之を議すべし」と。斌 怒り、密かに苻丕に應じ、潛かに丁零をして防を決して水を潰せしむ。事 洩れ、垂 之を誅す。斌の兄の子の真 其の部眾を率ゐて北して邯鄲に走り、兵を引きて鄴に向ひ、丕と內外の勢と為らんと欲す。垂 其の太子寶・冠軍の慕容隆をして之を擊破せしむ。真 邯鄲より北して走る。又 慕容楷 騎を率ゐて之を追はしめ、下邑に戰ふも、真の敗る所と為る。真 遂に承營に屯す。垂 諸將に謂ひて曰く、「苻丕は窮寇なり、必ず死を守りて降らず。丁零 叛擾するは、乃ち我が腹心の患なり。吾 師を新城に遷し、其の逸路を開かんと欲す。進まば以て秦主の疇昔の恩に謝し、退かば以て嚴しく真を擊つの備へなり」と。是に於て師を引きて鄴を去り、北して新城に屯す。慕容農 進みて翟嵩を黃泥に攻め、之を破る。垂 其の范陽王德に謂ひて曰く、「苻丕 吾 之を縱にするとも去る能はず、方に晉師を引きて鄴都を固めんと規る。置く可からざるなり」と。師を進めて又 鄴を攻め、其の西奔の路を開く。
垂 將に北して中山に都せんの意有り、農 眾數萬を率ゐて之を迎ふ。羣僚 慕容暐 苻堅の殺す所と為るを聞き、垂に僭位を勸む。垂 慕容沖 號を關中に稱するを以て、許さず。
晉の龍驤將軍の劉牢之 眾を率ゐて苻丕を救ひ、鄴に至る。垂 逆戰するも、敗績し、遂に鄴の圍を徹し、退きて新城に屯す。垂 新城より北して走り、牢之 垂を追ひ、連戰して皆 敗る。又 五橋澤に戰ひ、王師 敗績し、德及び隆 兵を引きて之を五丈橋に要し、牢之 馬を馳せて五丈澗を跳び、會々苻丕の救 至りて免かる。
翟真 承營を去り、屯を行唐に徙し、真の司馬の鮮于乞 真を殺し、盡く翟氏を誅して、自立して趙王と為る。營人 攻めて乞を殺し、真の從弟の成を迎へ立てて主と為し、真の子の遼 黎陽に奔る。
高句驪 遼東を寇するや、垂 平北の慕容佐 司馬の郝景を遣はして眾を率ゐて之を救はしむるも、高句驪の敗る所と為り、遼東・玄菟 遂に沒す。
建節將軍の徐巖 武邑に叛し、四千餘人を驅掠し、北して幽州に走る。垂 敕を其の將の平規に馳せて曰く、「但だ固守して戰ふ勿れ。丁零を破る比に、吾 當に自ら之を討つべし」と。規 命に違ひて距戰し、巖の敗る所と為る。巖 勝に乘じて薊に入り、千餘戶を掠めて去り、過ぐる所に寇暴し、遂に令支に據る。
翟成の長史の鮮于得 成を斬りて降り、垂 行唐に入り、悉く其の眾を坑す。
苻丕 鄴城を棄て、并州に奔る。
慕容農 攻めて令支に克ち、徐巖の兄弟を斬る。進みて高句驪を伐ち、遼東・玄菟の二郡を復し、還りて龍城に屯す。
慕容垂は攻撃して鄴の郛(城郭)を突破し、苻丕は中城を固く守った。慕容垂は穴を掘ってこれを囲み、老齢や弱い兵を分けて魏郡・肥郷に派遣し、新興城を築いて輜重(物資)を置き、漳水を塞いで鄴城に注いだ。
翟斌はひそかに丁零と西方出身者を扇動し、翟斌を(後燕の)尚書令にせよと要請した。慕容垂がこれを群僚に諮ると、安東将軍の封衡は顔色を変えて怒り、「千里を走る名馬でも、手綱は不可欠です。畜生は人間が制御できないのは明らかです。翟斌は戎狄の小人物であり、好機さえあれば、兄弟を王に封建する(無軌道な)人物です。(尭舜の時代の悪人の)驩兜より以来、(悪人を野放しにすると)ろくなことがありません。満足すれば自制心を失い、今回の要求を出してきました。かれの精神は錯乱しており、きっと年内に命を落とすはずです」と言った。慕容垂はそれでも忍従し、令して、「翟王の功績は上輔(宰相)となるに相応しい。しかし宮殿の建設が間に合わず、まだ尚書台を設置できない。天下が静まるのを待ってから、改めて議論しよう」と言った。翟斌は怒り、ひそかに苻丕に味方し、丁零に堤防を決壊させて水浸しにしようとした。計画が発覚し、慕容垂は翟斌を誅殺した。翟斌の兄の子の翟真は配下の民と兵を連れて北上して邯鄲に走り、また兵を率いて鄴に向かい、苻丕と内外の勢となろうと(鄴を包囲する慕容垂を挟み撃ちにしようと)した。慕容垂は太子の慕容宝と冠軍の慕容隆にこれを撃破させた。翟真は邯鄲から北へと逃げた。さらに慕容楷に騎兵を率いてこれを追わせ、下邑で戦ったが、反対に翟真に敗れた。かくして翟真は承営に駐屯した。慕容垂は諸将に、「苻丕は追い詰められた賊軍で、死んでも降服しないだろう。丁零(翟真)が叛乱し騒いでいるのは、わが腹心の患いである。私は軍を新城に遷し、移動の経路を確保しようと思う。(新城にいれば)進めば秦主の前年に恩に感謝したことになり、退けば翟真への備えを厳重にできる」と言った。ここにおいて軍を退いて鄴を去り(包囲を解除し)、北上して新城に駐屯した。慕容農は進んで翟嵩を黄泥で攻め、これを破った。慕容垂は范陽王の慕容徳に、「わが軍は苻丕の軍を蹂躙できるけれども(完全に)取り除くことができない。(苻丕は)東晋の軍を招いて鄴都を固めようとしている。かれを残置してはいけない」と言った。軍を進めて鄴を攻め、(わざと包囲に隙を作って)西に逃げる道を開いておいた。
慕容垂は北上して中山に都を置こうと考え、慕容農は数万の兵を率いてこれを迎えた。群僚は慕容暐が苻堅に殺されたことを聞き、慕容垂に君位の僭称を勧めた。慕容垂は慕容沖が君号を関中で称しているため、許さなかった。
東晋の龍驤将軍の劉牢之が軍を率いて苻丕を救い、鄴に到着した。慕容垂が迎撃したが、敗北し、鄴城の包囲を取り払い、退いて新城に駐屯した。慕容垂が新城から北に向かって走り、劉牢之が慕容垂を追ったが、連戦して毎回(劉牢之を)破った。さらに五橋沢で戦い、王師(東晋軍)が敗北した。慕容徳及び慕容隆が兵を率いて東晋軍を五丈橋で待ち伏せした。劉牢之は馬を馳せて五丈澗を跳びこえ、ちょうど苻丕の救援が来たので助かった。
翟真が承営から去り、屯所を行唐に移した。翟真の司馬の鮮于乞が翟真を殺し、すべての翟氏を誅して、自立して趙王となった。翟氏の軍営の人々は鮮于乞を攻めて殺し、翟真の従弟の翟成を迎えて君主に立てた。翟真の子の翟遼は黎陽に逃げた。
高句驪が遼東を侵略すると、慕容垂は平北将軍の慕容佐の司馬の郝景を派遣して救援に行かせたが、高句驪に敗れ、遼東郡と玄菟郡は高句驪の手に落ちた。
建節将軍の徐巌が武邑で叛乱し、四千人あまりを掠奪し、北に向かって幽州に走った。慕容垂は緊急の指令書を幽州の将の平規に届け、「もっぱら固守して戦ってはならない。丁零(翟氏)を破ったら、私が自ら討伐するだろう」と言った。平規は命令に背いて防戦し、徐巌に敗れた。徐巌は勝ちに乗じて薊城に入り、千戸あまりを連れ去った。通過した場所で略奪をはたらき、令支を本拠地とした。
翟成の長史の鮮于得が翟成を斬って降服した。慕容垂は行唐に入城し、翟氏の兵をすべて穴埋めにした。
苻丕が鄴城を棄てて、并州に逃げた。
慕容農が攻めて令支を破り、徐巌の兄弟を斬った。進んで高句驪を討伐し、遼東と玄菟の二郡を回復し、還って龍城に駐屯した。
垂定都中山、羣僚勸即尊號、具典儀、修郊燎之禮。垂從之、以太元十一年僭即位、赦其境內、改元曰建興、置百官、繕宗廟社稷、立寶為太子。1.以其左長史庫辱官偉・右長史段崇・龍驤張崇、中山尹封衡為吏部尚書、慕容德為侍中・都督中外諸軍事・領司隸校尉、撫軍慕容麟為衞大將軍、其餘拜授有差。追尊母蘭氏為文昭皇后、遷皝后段氏、以蘭氏配饗。博士劉詳・董謐議以、堯母妃位第三、不以貴陵姜嫄、明聖王之道以至公為先。垂不從。
遣其征西慕容楷・衞軍慕容麟・鎮南慕容紹・征虜慕容宙等攻苻堅冀州牧苻定・鎮東苻紹・幽州牧苻謨・鎮北苻亮。楷與定等書、喻以禍福、定等悉降。
垂留其太子寶守中山、率諸將南攻翟遼、以楷為前鋒都督。遼之部眾皆燕趙人也、咸曰、「太原王之子、吾之父母」。相率歸附。遼懼、遣使請降。垂至黎陽、遼肉袒謝罪、垂厚撫之。
為其太子寶起承華觀、以寶錄尚書政事、巨細皆委之、垂總大綱而已。立其夫人段氏為皇后。又以寶領侍中・大單于・驃騎大將軍・幽州牧。建留臺于龍城、以高陽王慕容隆錄留臺尚書事。時慕容暐及諸宗室為苻堅所害者、並招魂葬之。
清河太守賀耕聚眾定陵以叛、南應翟遼、慕容農討斬之、毀定陵城。進師入鄴、以鄴城廣難固、築鳳陽門大道之東為隔城。
其尚書郎婁會上疏曰、「三年之喪、天下之達制、兵荒殺禮、遂以一切取士。人心奔競、苟求榮進、至乃身冒縗絰、以赴時役、豈必殉忠於國家、亦昧利于其間也。聖王設教、不以顛沛而虧其道、不以喪亂而變其化、故能杜豪競之門、塞奔波之路。陛下鍾百王之季、廓中興之業、天下漸平、兵革方偃、誠宜蠲蕩瑕穢、率由舊章。吏遭大喪、聽終三年之禮、則四方知化、人斯服禮」。垂不從。
翟遼死、子釗代立、攻逼鄴城、慕容農擊走之。垂引師伐釗于滑臺、次于黎陽津、釗于南岸距守、諸將惡其兵精、咸諫不宜濟河。垂笑曰、「豎子何能為、吾今為卿等殺之」。遂徙營就西津、為牛皮船百餘艘、載疑兵列杖、溯流而上。釗先以大眾備黎陽、見垂向西津、乃棄營西距。垂潛遣其桂林王慕容鎮・驃騎慕容國於黎陽津夜濟、壁于河南。釗聞而奔還、士眾疲渴、走歸滑臺、釗攜妻子率數百騎北趣白鹿山。農追擊、盡擒其眾、釗單騎奔長子。釗所統七郡戶三萬八千皆安堵如故。徙徐州流人七千餘戶于黎陽。
於是議征長子。諸將咸諫、以慕容永未有釁、連歲征役、士卒疲怠、請俟他年。垂將從之、及聞慕容德之策、笑曰、「吾計決矣。且吾投老、扣囊底智、足以克之、不復留逆賊以累子孫也」。乃發步騎七萬、遣其丹楊王慕容瓚・龍驤張崇攻永弟支于晉陽。永遣其將刁雲・慕容鍾率眾五萬屯潞川。垂遣慕容楷出自滏口、慕容農入自壺關、垂頓于鄴之西南、月餘不進。永謂垂詭道伐之、乃攝諸軍還杜太行軹關。垂進師入自天井關、至于壺壁。永率精卒五萬來距、阻河曲以自固、馳使請戰。垂列陣于壺壁之南、農・楷分為二翼、慕容國伏千兵于深澗、與永大戰。垂引軍偽退、永追奔數里、國發伏兵馳斷其後、楷・農夾擊之、永師大敗、斬首八千餘級、永奔還長子。慕容瓚攻克晉陽。垂進圍長子、永將賈韜等潛為內應。垂進軍入城、永奔北門、為前驅所獲、於是數而戮之、并其所署公卿刁雲等三十餘人。永所統新舊八郡戶七萬六千八百及乘輿・服御・伎樂・珍寶悉獲之、於是品物具矣。
1.中華書局本の校勘記によると、この後ろに脱文が疑われる。
垂 都を中山に定むるや、羣僚 尊號に即き、典儀を具へ、郊燎の禮を修むることを勸む。垂 之に從ひ、太元十一年を以て僭して即位し、其の境內を赦し、改元して建興と曰ひ、百官を置き、宗廟社稷を繕ひ、寶を立てて太子と為す。其の左長史の庫辱官偉・右長史の段崇・龍驤の張崇を以てし、中山尹の封衡を以て吏部尚書と為し、慕容德もて侍中・都督中外諸軍事・領司隸校尉と為し、撫軍の慕容麟もて衞大將軍と為し、其の餘の拜授 差有り。母の蘭氏を追尊して文昭皇后と為し、皝が后の段氏を遷して、蘭氏を以て配饗す。博士の劉詳・董謐 議して以へらく、堯の母 妃位は第三にして、貴を以て姜嫄を陵がざるを以て、聖王の道を明らかにして至公を以て先と為すと。垂 從はず。
其の征西の慕容楷・衞軍の慕容麟・鎮南の慕容紹・征虜の慕容宙らを遣はして苻堅の冀州牧の苻定・鎮東の苻紹・幽州牧の苻謨・鎮北の苻亮を攻めしむ。楷 定らに書を與へ、喻すに禍福を以てし、定ら悉く降る。
垂 其の太子寶を留めて中山を守らしめ、諸將を率ゐて南して翟遼を攻め、楷を以て前鋒都督と為す。遼の部眾 皆 燕趙の人なり。咸曰く、「太原王の子は、吾の父母なり」と。相 率ゐて歸附す。遼 懼れ、使を遣はして降らんことを請ふ。垂 黎陽に至り、遼 肉袒して謝罪し、垂 厚く之を撫す。
其の太子寶の為に承華觀を起こし、寶を以て尚書の政事を錄せしめ、巨細 皆 之を委ね、垂 大綱を總ぶるのみ。其の夫人の段氏を立てて皇后と為す。又 寶を以て侍中・大單于・驃騎大將軍・幽州牧を領せしむ。留臺を龍城に建て、高陽王の慕容隆を以て留臺の尚書事を錄せしむ。時に慕容暐及び諸々の宗室 苻堅の害する所と為る者、並びに招魂して之を葬る。
清河太守の賀耕 眾を聚めて定陵もて以て叛し、南のかた翟遼に應じ、慕容農 討ちて之を斬り、定陵城を毀つ。師を進めて鄴に入り、鄴城の廣く固め難きを以て、鳳陽門を大道の東に築きて隔城と為す。
其の尚書郎の婁會 上疏して曰く、「三年の喪は、天下の達制なり。兵荒 禮を殺ぎ、遂に一切を以て士を取る。人心 奔競し、苟も榮進を求むれば、乃ち身に縗絰を冒し、以て時役に赴くに至る。豈に必ずしも國家に忠たるに殉じ、亦た利を其の間に昧すものなるや。聖王 教を設け、顛沛を以て其の道を虧かず、喪亂を以て其の化を變へず。故に能く豪競の門を杜ざし、奔波の路を塞ぐ。陛下 百王の季に鍾たりて、中興の業を廓く。天下 漸く平らぎ、兵革 方に偃む。誠に宜しく瑕穢を蠲蕩し、舊章に率由すべし。吏 大喪に遭はば、三年の禮を終ふるを聽さば、則ち四方 化を知り、人 斯れ禮に服せん」と。垂 從はず。
翟遼 死し、子の釗 代はりて立ち、攻めて鄴城に逼り、慕容農 擊ちて之を走らす。垂 師を引きて釗を滑臺に伐ち、黎陽津に次ぢ、釗 南岸に于て距守す。諸將 其の兵 精なるを惡み、咸 宜しく河を濟るべからずと諫む。垂 笑ひて曰く、「豎子 何ぞ能く為すや、吾 今 卿らの為に之を殺さん」と。遂に營を徙して西津に就き、牛皮の船の百餘艘を為り、疑兵を載せて杖を列べ、流れを溯りて上る。釗 先に大眾を以て黎陽に備ふるに、垂 西津に向ふを見て、乃ち營を棄てて西のかた距す。垂 潛かに其の桂林王の慕容鎮・驃騎の慕容國を黎陽津に遣はして夜に濟らしめ、河南に壁す。釗 聞きて奔り還り、士眾 疲渴して、走りて滑臺に歸り、釗 妻子を攜へ數百騎を率ゐて北して白鹿山に趣く。農 追擊し、盡く其の眾を擒へ、釗 單騎もて長子に奔る。釗 統ぶる所の七郡の戶三萬八千もて皆 安堵すること故の如し。徐州の流人七千餘戶を黎陽に徙す。
是に於て長子を征せんことを議す。諸將 咸 諫むるに、慕容永に未だ釁有らず、連歲に征役あり、士卒 疲怠し、他年を俟たんことを請ふを以てす。垂 將に之に從はんとするに、慕容德の策を聞くに及び、笑ひて曰く、「吾が計 決せり。且つ吾 老に投じ、囊底の智を扣きて、以て之に克つに足る。復た逆賊を留めて以て子孫に累せざるなり」と。乃ち步騎七萬を發し、其の丹楊王の慕容瓚・龍驤の張崇を遣はして永の弟の支を晉陽に攻む。永 其の將の刁雲・慕容鍾を遣はして眾五萬を率ゐて潞川に屯せしむ。垂 慕容楷を遣はして滏口より出で、慕容農をして壺關より入らしめ、垂 鄴の西南に頓し、月餘なるも進まず。永 垂の詭道もて之を伐つを謂ひ、乃ち諸軍を攝りて還りて太行の軹關を杜す。垂 師を進めて天井關より入り、壺壁に至る。永 精卒五萬を率ゐて來たりて距み、河曲を阻みて以て自ら固め、使を馳せて戰はんことを請ふ。垂 陣を壺壁の南に列べ、農・楷もて分けて二翼と為し、慕容國 千兵を深澗に伏せ、永と大戰す。垂 軍を引きて偽りて退き、永 追ひて奔ること數里、國 伏兵を發して馳せて其の後を斷ち、楷・農 之を夾擊す。永の師 大いに敗れ、斬首すること八千餘級なり。永 奔りて長子に還る。慕容瓚 攻めて晉陽に克つ。垂 進みて長子を圍み、永の將の賈韜ら潛かに內應を為す。垂 軍を進めて城に入るや、永 北門に奔り、前驅の獲ふる所と為る。是に於ひて數めて之を戮し、其の署する所の公卿の刁雲ら三十餘人を并す。永の統ぶる所の新舊八郡の戶七萬六千八百及び乘輿・服御・伎樂・珍寶もて悉く之を獲て、是に於て品物 具はる。
慕容垂が都を中山に定めると、群僚は尊号(皇帝の位)に即いて、儀礼を整え、郊外で祭祀を行うように勧めた。慕容垂はこれに従い、太元十一年に不当に即位し、領内を大赦し、建興と改元し、百官を置き、宗廟と社稷を繕い、慕容宝を立てて太子とした。その左長史の庫辱官偉と右長史の段崇と龍驤の張崇を任命し、中山尹の封衡を吏部尚書とし、慕容徳を侍中・都督中外諸軍事・領司隷校尉とし、撫軍の慕容麟を衛大将軍とし、それ以下の任命には差等があった。母の蘭氏を追尊して文昭皇后とし、慕容皝の后の段氏を遷して、蘭氏とともに宗廟に祭った。博士の劉詳と董謐が建議して、尭の母は第三の妃とされ、尊貴さの序列で(先代の帝嚳の妃の)姜嫄を上回らなかったことにより、聖王の道が明らかになって至公を(血縁よりも)優先することを示したと述べた(蘭氏を段氏の下位に置くように提唱した)。慕容垂は従わなかった。
征西の慕容楷と衛軍の慕容麟と鎮南の慕容紹と征虜の慕容宙らを派遣して苻堅の(前秦の)冀州牧の苻定と鎮東の苻紹と幽州牧の苻謨と鎮北の苻亮を攻撃させた。慕容楷は苻定らに文書を送り、利害を説いたところ、苻定らは全員が降服した。
慕容垂は太子の慕容宝を留めて中山を守らせ、諸将を率いて南下して翟遼を攻め、慕容楷を前鋒都督とした。翟遼の配下の兵はすべて燕趙の出身者であった。みな、「太原王(¥)の子は、わが父母である」と言い、連れだって帰付した。翟遼は懼れ、使者を送って降服を申し出た。慕容垂は黎陽に至り、翟遼が肌脱ぎになって謝罪すると、慕容垂は寛大に慰撫した。
太子の慕容宝のために承華観を建設し、慕容宝に尚書の政事を録させ、大小となく万事を慕容宝に委任して、慕容垂は大綱をまとめるだけだった。夫人の段氏を立てて皇后した。さらに慕容宝に侍中・大単于・驃騎大将軍・幽州牧を領させた。留台を龍城に建て、高陽王の慕容隆に留台の尚書事を録させた。このとき慕容暐及び宗室の人々で苻堅に殺害されたものを、みな招魂して葬った。
清河太守の賀耕は兵を集めて定陵で叛乱し、南のかた翟遼と呼応した。慕容農は討伐してこれを斬り、定陵城を破却した。軍を進めて鄴に入り、鄴城は広くて防御を固めることが難しいため、鳳陽門を大道の東に築いて隔城とした。
尚書郎の婁会が上疏し、「三年の喪は、天下に通じた規則です。兵乱のせいで礼が失われ、人材登用がひと括りとなりました。人々は競争を激化させ、もしも栄達したければ、喪服をひっかけたまま、目先の戦役に赴くほどです。これが国家に対する忠に殉じ、私利を後回しにさせる風潮でしょうか。聖王は教えを設け、転覆しても道を欠かず、戦乱でも教えを変えませんでした。ゆえに豪族の闘争が防がれ、熾烈な競争の道は閉ざされました。陛下は百王の後継者として、中興の業を開きました。天下が徐々に平定され、軍役は落ちつきました。穢れた習俗を除き清め、本来の規則に準拠すべきです。官吏が親を亡くしたなら、三年喪をやり終えることを許したなら、四方は教化を知り、人々は礼に服するでしょう」と言った。慕容垂は(三年喪の実施に)従わなかった。
翟遼が死に、子の翟釗が代わって立った。翟釗が鄴城を攻撃して逼ったが、慕容農は反撃して敗走させた。慕容垂は軍を率いて翟釗を滑台において討伐するため、黎陽津に停泊すると、翟釗は(黄河の)南岸で防ぎ止めた。諸将は翟釗の兵が精強なのを嫌がり、みな黄河を渡るべきではないと諫めた。慕容垂は笑って、「豎子(翟釗)がどうして渡河を妨げられようか。私はきみらのために翟釗を殺してやろう」と言った。そこで軍営を西津に移し、牛皮で覆った船を百艘あまりを作り、疑兵(おとり兵)を載せて武器を並べ、(黄河の)流れを遡上した。翟釗はこれまで大軍で黎陽を防備していたが、慕容垂が西津に向かったのを見て、(黎陽の)軍営を捨てて西にゆき(慕容垂の渡河を)防いだ。慕容垂はひそかの桂林王の慕容鎮と驃騎の慕容国を(手薄になった)黎陽津に派遣して夜に渡らせ、黄河の南に防壁を築いた。翟釗はこれを聞いて急ぎ(黎陽津に)帰ってきたが、兵士は疲れてのどが渇き(慕容鎮らと戦っても勝てないので)、滑台に逃げ帰った。翟釗は妻子を連れて数百騎を率いて北上して白鹿山に向かった。慕容農は追撃し、全員を捕らえた。翟釗だけは単騎で長子に逃げた。翟釗が支配していた七郡の三万八千戸をすべて現状のまま安堵した。徐州の流人の七千戸あまりを黎陽に移住させた。
ここにおいて(慕容垂は)長子の征伐を議論した。諸将はみな諫めて、「(敵軍の)慕容永にはまだ隙がなく、(自軍は)連年に軍役があり、士卒は疲弊しています。年を改めて下さい」と言った。慕容垂はこれに従おうとしたが、慕容徳の策を聞くと、笑って、「わが作戦は決まった。老境にさしかかった私は、知恵袋の底を叩けば、慕容永に勝てる。逆賊を子孫の代まで残すまい」と言った。こうして歩騎の七万を動員し、丹楊王の慕容瓚と龍驤の張崇を派遣して慕容永の弟の慕容支を晋陽で攻めた。慕容永はその将の刁雲と慕容鍾を派遣して五万の兵を率いて潞川に駐屯させた。慕容垂は慕容楷を派遣して滏口から出させ、慕容農には壺関から入らせたが、慕容垂自身は鄴の西南に留まり、一ヵ月あまりも進まなかった。慕容永は慕容垂が詭道を用いると思い、諸軍に指揮をして引き返して太行山の軹関を閉ざした。慕容垂は軍を進めて天井関から入り、壺壁に到達した。慕容永は精兵の五万を率いて防ぎにきて、河曲に留まって自軍で固め、使者を送って戦いを要請した。慕容垂は陣を壺壁の南に並べ、慕容農と慕容楷を分けて二翼とし、慕容国は千の兵を深澗(深い谷川)に伏せつつ、慕容永と大いに戦った。慕容垂は偽って(劣勢のふりをして)軍を後退させた。慕容永が数里を追撃したところ、慕容国は伏兵を発動させ馳せて慕容永の後方を断ちきり、慕容楷と慕容農がこれを挟撃した。慕容永の軍は大いに敗れ、斬首すること八千級あまりであった。慕容永は逃げて長子に還った。慕容瓚は晋陽を攻め破った。慕容垂は進んで長子を包囲した。慕容永の将の賈韜らがひそかに内応した。慕容垂が軍を進めて(長子)城に入ると、慕容永は北門へと逃げたが、前駆の兵が捕らえた。ここにおいて糾弾をしてから慕容永を殺戮し、かれが任命していた公卿の刁雲ら三十人あまりを吸収した。慕容永が支配していた新旧八郡の七万六千八百戸と乗輿・服御・伎楽・珍宝をすべて獲得し、ここにおいて(後燕の宮廷に)器物が備わった。
使慕容農略地1.(河內)〔河南〕、攻廩丘・陽城、皆克之、太山・琅邪諸郡皆委城奔潰、農進師臨海、置守宰而還。垂告捷于龍城之廟。
遣其太子寶及農與慕容麟等率眾八萬伐魏、慕容德・慕容紹以步騎一萬八千為寶後繼。魏聞寶將至、徙往河西。寶進師臨河、懼不敢濟。還次參合、忽有大風黑氣、狀若隄防、或高或下、臨覆軍上。沙門支曇猛言於寶曰、「風氣暴迅、魏軍將至之候、宜遣兵禦之」。寶笑而不納。曇猛固以為言、乃遣麟率騎三萬為後殿、以禦非常。麟以曇猛言為虛、縱騎遊獵。俄而黃霧四塞、日月晦冥、是夜魏師大至、三軍奔潰、寶與德等數千騎奔免、士眾還者十一二、紹死之。初、寶至幽州、所乘車軸無故自折。術士靳安以為大凶、固勸寶還、寶怒不從、故及於敗。
寶恨參合之敗、屢言魏有可乘之機。慕容德亦曰、「魏人狃於參合之役、有陵太子之心、宜及聖略、摧其銳志」。垂從之、留德守中山、自率大眾出參合、鑿山開道、次于獵嶺。遣寶與農出天門、征北慕容隆・征西慕容盛踰青山、襲魏陳留公泥于平城、陷之、收其眾三萬餘人而還。
垂至參合、見往年戰處積骸如山、設弔祭之禮、死者父兄一時號哭、軍中皆慟。垂慚憤歐血、因而寢疾、乘馬輿而進、過平城北三十里疾篤、築燕昌城而還。寶等至雲中、聞垂疾、皆引歸。及垂至于平城、或有叛者奔告魏曰、「垂病已亡、輿屍在軍」。魏又聞參合大哭、以為信然、乃進兵追之、知平城已陷而退、還館陰山。垂至上谷之2.(俎陽)〔沮陽〕、以太元二十一年死、時年七十一、凡在位十三年。遺令曰、「方今禍難尚殷、喪禮一從簡易、朝終夕殯、事訖成服、三日之後、釋服從政。強寇伺隙、祕勿發喪、至京然後舉哀行服」。寶等遵行之。偽諡成武皇帝、廟號世祖、墓曰宣平陵。
1.中華書局本の校勘記に従い、「河內」を「河南」に改める。 2.『晋書斠注』の指摘に従い、「俎陽」を「沮陽」に改める。
慕容農をして河南を略地せしめ、廩丘・陽城を攻め、皆 之に克ち、太山・琅邪の諸郡 皆 城を委てて奔潰し、農 師を進めて海に臨み、守宰を置きて還る。垂 捷を龍城の廟に告ぐ。
其の太子寶及び農を遣はして慕容麟らと與に眾八萬を率ゐて魏を伐ち、慕容德・慕容紹 步騎一萬八千を以て寶の後繼と為す。魏 寶 將に至れるを聞き、徙りて河西に往く。寶 師を進めて河に臨み、懼れて敢て濟らず。還りて參合に次ぢ、忽ち大風黑氣有り、狀は隄防の若く、或いは高まり或いは下げ、軍上に臨覆す。沙門の支曇猛 寶に言ひて曰く、「風氣 暴かに迅し、魏軍 將に至らんとするの候なり、宜しく兵を遣はして之を禦ぐべし」と。寶 笑ひて納れず。曇猛 固く以て言を為さば、乃ち麟を遣はして騎三萬を率ゐて後殿と為し、以て非常を禦ばしむ。麟 曇猛の言を以て虛と為し、騎を縱にして遊獵す。俄かにして黃霧 四塞し、日月 晦冥たり。是の夜 魏師 大いに至り、三軍 奔潰す。寶 德らと與に數千騎もて奔免し、士眾の還る者 十一二なり。紹 之に死す。初め、寶 幽州に至り、乘る所の車軸 故無くして自ら折る。術士の靳安 以て大凶と為し、固く寶に還らんことを勸むるに、寶 怒りて從はず、故に敗るるに及ぶ。
寶 參合の敗を恨み、屢々魏に乘ず可きの機有りと言ふ。慕容德も亦た曰く、「魏人 參合の役に狃し、太子を陵ぐの心有り。宜しく聖略を及ぼし、其の銳志を摧くべし」と。垂 之に從ひ、德を留めて中山を守らしめ、自ら大眾を率ゐて參合に出で、山を鑿ち道を開き、獵嶺に次づ。寶を遣はして農と與に天門より出でしめ、征北の慕容隆・征西の慕容盛 青山を踰え、魏の陳留公泥を平城に襲ひ、之を陷し、其の眾三萬餘人を收めて還る。
垂 參合に至り、往年の戰處 骸を積むこと山の如くなるを見て、弔祭の禮を設け、死者の父兄 一時に號哭し、軍中 皆 慟す。垂 慚ぢ憤りて歐血し、因りて寢疾す、馬輿に乘りて進み、平城の北 三十里を過るとき疾 篤く、燕昌城を築きて還る。寶ら雲中に至り、垂 疾なるを聞き、皆 引き歸る。垂 平城に至るに及び、或いは叛する者有りて奔りて魏に告げて曰く、「垂 病みて已に亡し、屍を輿して軍に在り」と。魏 又 參合に大哭せしを聞き、以て信然と為し、乃ち兵を進めて之を追ひ、平城 已に陷するを知りて退き、還りて陰山に館す。垂 上谷の沮陽に至り、太元二十一年を以て死し、時に年七十一、凡そ位に在ること十三年なり。遺令に曰く、「方今 禍難 尚ほ殷んなり、喪禮 一に簡易に從り、朝に終はらば夕に殯し、事 訖はらば服を成し、三日の後、服を釋きて政に從へ。強寇 隙を伺ふ。祕して喪を發する勿かれ。京に至りて然る後に哀を舉げて服を行へ」と。寶ら遵ひて之を行ふ。偽りて成武皇帝と諡し、廟を世祖と號し、墓を宣平陵と曰ふ。
慕容農に河南の地を侵略させ、廩丘と陽城を攻め、二城を打ち破り、太山と琅邪の諸郡(の守将)はすべて城を捨てて逃げ散った。慕容農は軍を進めて海に臨み、守宰(太守と県の長官)を置いて帰還した。慕容垂は勝利を龍城の廟に報告した。
慕容垂は太子の慕容宝及び慕容農を派遣して慕容麟らとともに八万の兵を率いて北魏を討伐させ、慕容徳と慕容紹を歩騎一万八千で慕容宝の後続の軍とした。北魏は慕容宝が接近していると聞き、移って河西に向かった。慕容宝は軍を進めて黄河に臨んだが、懼れて渡ろうとしなかった。引き返して参合に駐屯していると、強風と黒気が起こり、(黒気は)堤防のような形状で、高くなったり低くなったりし、軍隊の上にかぶさった。沙門の支曇猛が慕容宝に、「風気が急激に発生するのは、北魏の軍が到来する予兆です、兵を送って防ぐべきです」と言った。慕容宝は笑って聞き入れなかった。支曇猛がつよく主張したので、慕容麟に三万騎を率いさせて後殿(殿軍)とし、非常事態に備えた。慕容麟は支曇猛の言葉は当たらないと考え、自由に騎馬を走らせて遊猟していた。にわかに黄色い霧が四方を塞ぎ、日も月も暗くなった。同日夜に魏軍が大いに殺到し、(燕国の)三軍は潰走した。慕容宝は慕容徳らとともに数千騎で走って逃れ、帰還できた士卒は十人中で一人か二人であった。慕容紹は戦死した。これよりさき、慕容宝が幽州に到着したとき、乗っていた車の軸が理由なく自ずから折れた。術士の靳安は大凶とし、慕容宝に強く帰還を勧めたが、慕容宝は怒って従わず、敗北してしまった。
慕容宝は参合の敗北を恨み(逆襲を志して)、しばしば北魏には付け込む隙があると言い続けた。慕容徳もまた、「魏人は参合の戦役(の勝利)で油断し、太子(慕容宝)を格下に見ています。どうか陛下の采配によって、敵軍の戦意を挫いて下さい」と言った。慕容垂はこれに従い、慕容徳を留めて中山を守らせ、自ら大軍を率いて参合に出て、山を切り開いて道をつくり、猟嶺に駐留した。慕容宝を派遣して慕容農とともに天門から出撃させ、征北の慕容隆と征西の慕容盛に青山を越えさせ、魏の陳留公泥を平城で襲い、そこを陥落させ、その兵士の三万人あまりを捕らえて還った。
慕容垂は参合に至り、往年の戦場に死骸が山のように積まれていることを見て、弔祭の礼を設けた。死者の父兄は一斉に号哭し、軍中はみなが悲慟した。慕容垂は敗戦を恥じて憤って吐血し、病に伏せ、馬輿に乗って進んだ。平城の北の三十里を通過するころに病気が重くなり、燕昌城を築いて還った。慕容宝らは雲中に至ったころ、慕容垂が病気であると聞いて、みな引き返した。慕容垂が平城に到着したころ、(燕国から)離叛して北魏に逃げこんで、「慕容垂はすでに病没し、死体を輿に乗せて軍中においている」と告げたものがいた。北魏では参合で大規模な哭礼があったと聞き、(慕容垂の死が)事実であると信じ、兵を進めてこれを追った。しかし平城がすでに陥落したと知って撤退し、還って陰山に館をおいた。慕容垂が上谷の沮陽に至ったころ、太元二十一年に死に、このとき七十一歳で、位にあること十三年間であった。遺令に、「いま禍難はまだ盛んである、喪礼はもっぱら簡略なものとし、朝に死ねば夕方に殯し、終われば喪服をつけ、三日後に、喪服を脱いで政務にもどれ。強敵(北魏)が隙を伺っている。わが死を公表してはならない。京に到着してからを死を公表して(正式な)喪礼を行うように」と言った。慕容宝らはそれに従った。不当に成武皇帝と諡し、廟を世祖と号し、墓を宣平陵とした。