翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。「¥」の記号は、関連する巻の翻訳が終わったのち、内容を確認して補う予定です。とくに、巻末の「史臣曰」は、慕容垂の事績に言及しており、この部分は、慕容垂載記の完成後に修正します。
この巻の翻訳は、主催者が2022年10月の完成に向けて準備していましたが、2022年9月に前倒しして公開しています(後期の大学院の授業期間中は多忙が見込まれるため、夏休み期間中に完了させました)。
翻訳していて一番おもしろかったのは、「盛 詩歌を聽きて周公の事に及ぶや……」に始まる部分です。慕容盛が周公旦と伊尹について、経書の評価を覆しながら歴史上の人物を論じています。
慕容寶字道祐、垂之第四子也。少輕果無志操、好人佞己。苻堅時為太子洗馬・萬年令。堅淮肥之役、以寶為陵江將軍。及為太子、砥礪自修、敦崇儒學、工談論、善屬文、曲事垂左右小臣、以求美譽。垂之朝士翕然稱之、垂亦以為克保家業、甚賢之。
垂死、其年寶嗣偽位、大赦境內、改元為永康。以其太尉庫辱官偉為太師・左光祿大夫、段崇為太保、其餘拜授各有差。遵垂遺令、校閱戶口、罷諸軍營分屬郡縣、定士族舊籍、明其官儀、而法峻政嚴、上下離德、百姓思亂者十室而九焉。
初、垂以寶冢嗣未建、每憂之。寶庶子清河公會多材藝、有雄略、垂深奇之。及寶之北伐、使會代攝宮事、總錄・禮遇一同太子、所以見定旨也。垂之伐魏、以龍城舊都、宗廟所在、復使會鎮幽州、委以東北之重、高選僚屬以崇威望。臨死顧命、以會為寶嗣。而寶寵愛少子濮陽公策、意不在會。寶庶長子長樂公盛自以同生年長、恥會先之、乃盛稱策宜為儲貳、而非毀會焉。寶大悅、乃訪其趙王麟・高陽王隆、麟等咸希旨贊成之。寶遂與麟等定計、立策母段氏為皇后、策為皇太子、盛・會進爵為王。策字道符、年十一、美姿貌、而惷弱不慧。
魏伐并州、驃騎1.(李)農逆戰、敗績、還于晉陽、司馬慕輿嵩閉門距之。農率騎數千奔歸中山、行及潞川、為魏追軍所及、餘騎盡沒、單馬遁還。寶引羣臣于東堂議之。中山尹苻謨曰、「魏軍強盛、千里轉鬭、乘勝而來、勇氣兼倍、若逸騎平原、形勢彌盛、殆難為敵、宜度險距之」。中書令2.(畦邃)〔眭邃〕曰、「魏軍多騎、師行剽銳、馬上齎糧、不過旬日。宜令郡縣聚千家為一堡、深溝高壘、清野待之、至無所掠、資食無出、不過六旬、自然窮退」。尚書封懿曰、「今魏師十萬、天下之勍敵也。百姓雖欲營聚、不足自固、是則聚糧集兵以資強寇、且動眾心、示之以弱。阻關距戰、計之上也」。慕容麟曰、「魏今乘勝氣銳、其鋒不可當、宜自完守設備、待其弊而乘之」。於是修城積粟、為持久之備。
魏攻中山不克、進據博陵魯口、諸將望風奔退、郡縣悉降于魏。寶聞魏有內難、乃盡眾出距、步卒十二萬、騎三萬七千、次于曲陽3.(柏津)〔柏肆〕。魏軍進至新梁。寶憚魏師之銳、乃遣征北隆夜襲魏軍、敗績而還。魏軍方軌而至、對營相持、上下兇懼、三軍奪氣。農・麟勸寶還中山、乃引歸。魏軍追擊之、寶・農等棄大軍、率騎二萬奔還。時大風雪、凍死者相枕于道。寶恐為魏軍所及、命去袍杖戎器、寸刃無返。
魏軍進攻中山、屯于芳林園。其夜尚書慕容晧謀殺寶、立慕容麟。晧妻兄蘇泥告之、寶使慕容隆收晧、晧與同謀數十人斬關奔魏。麟懼不自安、以兵劫左衞將軍・北地王精、謀率禁旅弒寶。精以義距之、麟怒、殺精、出奔丁零。
1.中華書局本の校勘記に従い、「李」一字を削除する。ここでは慕容農を指す。
2.中華書局本の校勘記に従い、「畦邃」を「眭邃」に改める。
3.中華書局本の校勘記に従い、「柏津」を「柏肆」に改める。
慕容寶 字は道祐、垂の第四子なり。少くして輕果にして志操無く、人の己に佞するを好む。苻堅の時に太子洗馬・萬年令と為る。堅 淮肥の役に、寶を以て陵江將軍と為す。太子と為るに及び、砥礪し自ら修め、儒學を敦崇し、談論を工にし、屬文を善くす。垂の左右の小臣に曲事し、以て美譽を求む。垂の朝士 翕然として之を稱し、垂も亦た以て克く家業を保つと為し、甚だ之を賢とす。
垂 死し、其の年に寶 偽位を嗣ぎ、境內を大赦し、改元して永康と為す。其の太尉の庫辱官偉を以て太師・左光祿大夫と為し、段崇もて太保と為し、其餘 拜授は各々差有り。垂の遺令に遵ひ、戶口を校閱し、諸々の軍營を罷めて郡縣に分屬せしめ、士族の舊籍を定め、其の官儀を明らかにす。而れども法は峻にして政は嚴たれば、上下 德を離れ、百姓 亂を思ふ者は十室あれば九なり。
初め、垂 寶が冢嗣 未だ建てざるを以て、每に之を憂ふ。寶の庶子の清河公會 材藝多く、雄略有り、垂 深く之を奇とす。寶の北伐するに及び、會をして宮事を代攝せしめ、總錄・禮遇 一に太子に同じく、所以に定旨を見はす。垂の魏を伐つや、龍城は舊都にして、宗廟の所在なるを以て、復た會をして幽州に鎮せしめ、委ぬるに東北の重を以てし、僚屬を高選して以て威望を崇む。死に臨みて顧命し、會を以て寶の嗣と為す。而れども寶 少子の濮陽公策を寵愛し、意は會に在らず。寶の庶長子の長樂公盛 自ら同生の年長なるを以て、會 之に先んずるを恥ぢ、乃ち盛 策をば宜しく儲貳と為すべしと稱し、而して會を非毀せり。寶 大いに悅び、乃ち其の趙王麟・高陽王隆を訪ふ。麟ら咸 旨を希みて之に贊成す。寶 遂に麟らと與に計を定め、策の母の段氏を立てて皇后と為し、策を皇太子と為し、盛・會 爵を進めて王と為す。策 字は道符なり、年は十一、姿貌美しく、而れども惷弱にして慧ならず。
魏 并州を伐つや、驃騎の農 逆戰し、敗績し、晉陽に還り、司馬の慕輿嵩 門を閉ぢて之を距ぐ。農 騎數千を率ゐて奔りて中山に歸るに、行きて潞川に及び、魏の追軍の及ぶ所と為り、餘騎 盡く沒し、單馬もて遁げ還る。寶 羣臣を東堂に引きて之を議す。中山尹の苻謨曰く、「魏軍 強盛にして、千里 轉た鬭ひ、勝に乘じて來たり、勇氣 兼倍す。若し騎を平原に逸(はな)たば、形勢 彌々盛んにして、殆ど敵と為し難し。宜しく險に度して之を距げ」と。中書令の眭邃曰く、「魏軍 騎多く、師行 剽銳なり。馬上に糧を齎し、旬日を過ぎず。宜しく郡縣をして千家を聚めて一堡と為し、溝を深くし壘を高くし、野を清めて之を待たしむべし。掠むる所無きに至り、資食 出づる無ければ、六旬を過ぎずして、自然と窮まりて退かん」と。尚書の封懿曰く、「今 魏師は十萬、天下の勍敵なり。百姓 聚を營まんと欲すと雖も、自ら固むるに足らず。是れ則ち糧を聚め兵を集めて以て強寇を資くなり。且つ眾心を動かし、之に示すに弱きを以てす。關を阻みて距戰するは、計の上なり」と。慕容麟曰く、「魏は今 勝に乘じて氣は銳く、其の鋒 當たる可からず。宜しく自ら守を完し設備し、其の弊を待ちて之に乘ずべし」と。是に於て城を修め粟を積み、持久の備を為す。
魏 中山を攻めて克たず、進みて博陵魯口に據る。諸將 風を望みて奔退し、郡縣 悉く魏に降る。寶 魏に內難有るを聞き、乃ち眾を盡くして出でて距み、步卒十二萬、騎三萬七千もて、曲陽の柏肆に次す。魏軍 進みて新梁に至る。寶 魏師の銳なるを憚り、乃ち征北の隆を遣はして魏軍を夜襲せしむるに、敗績して還る。魏軍 方軌して至り、營に對ひて相 持し、上下 兇懼し、三軍 氣を奪はる。農・麟 寶に中山に還ることを勸め、乃ち引き歸る。魏軍 之を追擊し、寶・農ら大軍を棄て、騎二萬を率ゐて奔還す。時に大いに風雪あり、凍死する者 相 道に枕す。寶 魏軍の及ぶ所と為るを恐れ、命じて袍杖戎器を去り、寸刃すら返る無し。
魏軍 進みて中山を攻め、芳林園に屯す。其の夜に尚書の慕容晧 寶を殺して、慕容麟を立てんと謀る。晧の妻兄の蘇泥 之を告げ、寶 慕容隆をして晧を收めしめ、晧 同に謀る數十人と與に關を斬りて魏に奔る。麟 懼れて自安せず、兵を以て左衞將軍・北地王精を劫し、禁旅を率ゐて寶を弒せんと謀る。精 義を以て之を距む。麟 怒りて、精を殺し、丁零に出奔す。
慕容宝は字を道祐といい、慕容垂の第四子である。若いときは軽挙で勇敢で志操がなく、他人が自分にへつらうのを好んだ。苻堅のときに太子洗馬・萬年令となった。苻堅は淮肥の役(淝水の戦い)のときに、慕容宝を陵江将軍とした。(後燕の)太子となると、自己研鑽にはげみ、儒学を尊重し、談論を巧みにし、属文を得意とした。慕容垂の側近の下級役人にこび、自分を賞賛してくれと頼んだ。慕容垂の朝臣は同調して慕容宝を賞賛し、慕容垂もまた慕容宝こそ家業を守り立てる人物だと考え、賢者とみとめた。
慕容垂が死ぬと、その年に慕容宝が偽位を嗣ぎ、領内を大赦し、改元して永康とした。その太尉の庫辱官偉を太師・左光禄大夫とし、段崇を太保とし、それ以下の任命にはそれぞれ差等があった。慕容垂の遺令に従い、人民の戸籍を点検し、諸々の軍営(軍戸)を廃止して郡県に分属させ、士族の旧籍(族譜)を定め、官の典儀を明らかにした。しかし法の運用が厳格で政治に恩恵が少なかったので、上下は求心力を失い、万民のうち乱を望むものは十室のうち九室にのぼった。
これよりさき、慕容垂は慕容宝が後嗣を建てないことを、つねに心配していた。慕容宝の庶子の清河公の慕容会は才能が豊かで、雄略であり、高く評価されていた。慕容宝が北伐すると、慕容会に宮廷の政治を代摂させ、統率権や儀礼の待遇をすべて太子と同じとし、ゆえに後嗣選びが定まったかに見えた。慕容垂が北魏を討伐すると、龍城は(燕国の)旧都であり、宗廟のありかなので、あらためて慕容会を幽州に出鎮させ、東北の重要な権限を委任し、属僚を厳選して威望を高めた。(慕容垂が)死に臨んで遺言し、慕容会を慕容宝の後嗣とさせた。しかし慕容宝は少子の濮陽公の慕容策を寵愛しており、心が慕容会から離れていた。慕容宝の庶長子の長楽公の慕容盛は自分が(慕容会の)同母兄であるにも拘わらず、慕容会の下位に置かれることを恥じ、慕容策こそ太子とすべきですと唱えて、慕容会を誹謗した。慕容宝は大いに悦び、趙王の慕容麟と高陽王の慕容隆のもとを訪れた。慕容麟らもみな賛成し協力を申し出た。慕容宝は慕容麟らとともに計画を定め、慕容策の母の段氏を皇后に立て、慕容策を皇太子とし、慕容盛と慕容会の爵位を進めて王とした。慕容策は字を道符といい、このとき十一歳で容貌が美しいが、落ち着きがなく軟弱で知能が劣った。
北魏が并州を討伐すると、驃騎将軍の慕容農が迎え撃ったが、敗北した。慕容農は晋陽に帰還し、司馬の慕輿嵩が門を閉じて魏軍を防いだ。慕容農は数千騎を率いて逃げて中山に帰ろうとしたが、潞川に差しかかり、北魏軍に追いつかれた。自分以外の騎兵がすべて捕らわれ、自身は単騎で逃げ還った。慕容宝は群臣を東堂に集めて議論した。中山尹の苻謨は、「魏軍は強盛であり、千里を転戦して、勝ちに乗じて到来し、勇猛さと士気が倍加しています。もしも騎馬を平原に放てば、形勢がますます盛んとなり、まず対抗できません。険阻な地に拠って防ぎましょう」と言った。中書令の眭邃は、「魏軍は騎兵が多く、進軍は鋭くて高速です。馬上で食糧を運び、十日分もありません。郡県に命じて千家ずつを集めて一堡とし、溝を深くし土塁を高くさせ、野を清めて待ち受けましょう。現地で略奪ができず、食糧の供給源がなければ、(魏軍は)六十日も経たずに、自然と窮乏して撤退するでしょう」と言った。尚書の封懿は、「いま魏軍は十万おり、天下無敵の軍です。万民がとりでを造営しても、(恐怖で)持ち堪えられません。これでは食糧と人員を寄せ集めて敵軍に差し出すようなものです。しかも人民を動揺させ、わが国の弱みを示すことになります。関所を封鎖して防戦するのが、上計であります」と言った。慕容麟は、「魏軍はいま勝ちに乗じて士気が鋭く、正面から戦えません。守りを完璧に固め、敵軍の疲労を待って戦うべきです」と言った。ここにおいて城を修繕して穀物を蓄積し、持久戦の備えをした。
北魏は中山を攻めたが勝てず、進んで博陵魯口に拠った。諸将は日和見して逃げ去り、郡県はすべてが北魏に降った。慕容宝は北魏に内部対立があると聞き、全軍を出陣させて防戦して、歩兵は十二万、騎兵は三万七千で、曲陽の柏肆に駐屯した。魏軍が進んで新梁に到着した。慕容宝は魏軍の精鋭ぶりを憚り、征北将軍の慕容隆を派遣して魏軍を夜襲させたが、敗北して帰還した。魏軍はわだちを並べて襲来し、軍営に向いて対峙した。(燕軍の)上下は恐惶して、三軍は士気を奪われた。慕容農と慕容麟は慕容宝に中山に帰還することを勧め、撤退して帰った。魏軍がこれを追撃すると、慕容宝と慕容農らは大軍を棄て、二万騎だけで逃げ還った。このとき吹雪が強く、凍死者が道に折り重なった。慕容宝は魏軍に追いつかれることを恐れ、軍袍や杖や兵器を捨てて、一寸の刀すら持ち帰らなかった。
魏軍が進んで中山を攻め、芳林園に駐屯した。その夜に尚書の慕容晧は慕容宝を殺して、慕容麟を立てようと謀った。慕容晧の妻の兄の蘇泥がこれを(慕容宝に)告げたので、慕容宝は慕容隆に慕容晧を捕らえさせた。慕容晧はともに計画を立てた数十人とともに関門を破って北魏に逃げた。慕容麟は懼れて不安となり、兵を動員して左衛将軍・北地王の慕容精を脅迫し、禁軍を率いて慕容宝を誅殺しようと計画した。慕容精は義に背くとしてこれを拒絶した。慕容麟は怒って、慕容精を殺し、丁零に出奔した。
初、寶聞魏之來伐也、使慕容會率幽并之眾赴中山。麟既叛、寶恐其逆奪會軍、將遣兵迎之。麟侍郎段平子自丁零奔還、說麟招集丁零、軍眾甚盛、謀襲會軍、東據龍城。寶與其太子策及農・隆等萬餘騎迎會于薊、以開封公慕容詳守中山。會傾身誘納、繕甲厲兵、步騎二萬、列陣而進、迎寶薊南。寶分其兵給農・隆、遣西河公庫辱官驥率眾三千助守中山。會以策為太子、有恨色。寶以告農・隆、俱曰、「會一年少、專任方事、習驕所致、豈有他也。臣當以禮責之」。幽平之士皆懷會威德、不樂去之、咸請曰、「清河王天資神武、權略過人、臣等與之誓同生死、感王恩澤、皆勇氣自倍。願陛下與皇太子・諸王止駕薊宮、使王統臣等進解京師之圍、然後奉迎車駕」。寶左右皆害其勇略、譖而不許、眾咸有怨言。左右勸寶殺會、侍御史仇尼歸聞而告會曰、「左右密謀如是、主上將從之。大王所恃唯父母也、父已異圖。所杖者兵也、兵已去手、進退路窮、恐無自全之理。盍誅二王、廢太子、大王自處東宮、兼領將相、以匡社稷」。會不從。寶謂農・隆曰、「觀會為變、事當必然、宜早殺之。不爾、恐成大禍」。農曰、「寇賊內侮、中州紛亂、會鎮撫舊都、安眾寧境、及京師有難、萬里星赴、威名之重、可以振服戎狄。又逆跡未彰、宜且隱忍。今社稷之危若綴旒然、復內相誅戮、有損威望」。寶曰、「會逆心已成、而王等仁慈、不欲去之、恐一旦釁發、必先害諸父、然後及吾。事敗之後、當思朕言」。農等固諫、乃止。會聞之彌懼、奔于廣都黃榆谷。會遣仇尼歸等率壯士1.(二千)〔二十〕餘人分襲農・隆、隆是夜見殺、農中重創。既而會歸于寶、寶意在誅會、誘而安之、潛使左衞慕輿騰斬會、不能傷。會復奔其眾、於是勒兵攻寶。寶率數百騎馳如龍城、會率眾追之、遣使請誅左右佞臣、并求太子、寶弗許。會圍龍城、侍御郎高雲夜率敢死士百餘人襲會、敗之、眾悉逃散、單馬奔還中山、乃踰圍而入、為慕容詳所殺。
詳僭稱尊號、置百官、改年號。荒酒奢淫、殺戮無度、誅其王公以下五百餘人、內外震局、莫敢忤視。城中大飢、公卿餓死者數十人。麟率丁零之眾入中山、斬詳及其親黨三百餘人、復僭稱尊號。中山飢甚、麟出據新市、與魏師戰於義臺、麟軍敗績。魏師遂入中山、麟乃奔鄴。
1.中華書局本の校勘記に従い、「二千」を「二十」に改める。
初め、寶 魏の來伐するを聞くや、慕容會をして幽并の眾を率ゐて中山に赴かしむ。麟 既に叛し、寶 其れ會の軍を逆奪するを恐れ、將に兵を遣ゐて之を迎へんとす。麟の侍郎の段平子 丁零より奔還し、麟に丁零を招集せんことを說き、軍眾 甚だ盛んなれば、會の軍を襲ひて、東のかた龍城に據らんことを謀る。寶 其の太子策及び農・隆らと與に萬餘騎もて會を薊に迎へ、開封公の慕容詳を以て中山を守らしむ。會 身を傾けて誘ひ納れ、甲を繕ひ兵を厲し、步騎二萬、陣を列べて進み、寶を薊の南に迎ふ。寶 其の兵を分けて農・隆に給し、西河公の庫辱官驥を遣はして眾三千を率ゐて助けて中山を守らしむ。會 策を以て太子と為さば、恨色有り。寶 以て農・隆に告ぐるに、俱に曰く、「會は一年少なり、專ら方事を任ずれば、習驕 致す所なれば、豈に他有らんや。臣 當に禮を以て之を責むべし」と。幽平の士 皆 會の威德に懷き、之より去るを樂まず、咸 請ひて曰く、「清河王 天資は神武たりて、權略は人に過ぎ、臣ら之と與に生死を同にせんことを誓ひ、王の恩澤に感じ、皆 勇氣 自倍す。願はくは陛下 皇太子・諸王と與に駕を薊宮に止め、王をして臣らを統べて進みて京師の圍を解き、然る後に車駕を奉迎せしめよ」と。寶の左右 皆 其の勇略を害とし、譖りて許さず、眾 咸 怨言有り。左右 寶に會を殺さんことを勸め、侍御史の仇尼歸 聞きて會に告げて曰く、「左右の密謀 是の如し。主上 將に之に從はんとす。大王 恃む所は唯だ父母のみ。父 已に圖を異にす。杖る所の者は兵なり。兵 已に手を去り、進退 路に窮はり、自全の理無きを恐る。盍し二王を誅し、太子を廢して、大王 自ら東宮に處り、兼せて將相を領して、以て社稷を匡すべし」と。會 從はず。寶 農・隆に謂ひて曰く、「會 變を為すを觀るに、事 當に必ず然るべきなり、宜しく早く之を殺すべし。爾らずんば、恐らく大禍と成らん」と。農曰く、「寇賊 內侮し、中州 紛亂す。會 舊都を鎮撫し、眾を安んじ境を寧んず。京師 難有るに及び、萬里 星赴し、威名の重、以て戎狄を振服す可し。又 逆跡 未だ彰らかならざれば、宜しく且に隱忍すべし。今 社稷の危は綴旒の然が若し。復た內に相 誅戮せば、威望を損なふ有らん」と。寶曰く、「會の逆心 已に成り、而れども王ら仁慈たりて、之を去ることを欲せず。恐らく一旦 釁 發さば、必ず先に諸父を害し、然る後に吾に及ばん。事 敗るるの後に、當に朕の言を思ふべし」と。農ら固く諫むれば、乃ち止む。會 之を聞きて彌々懼れ、廣都の黃榆谷に奔る。會 仇尼歸らを遣はして壯士二十餘人を率ゐて分かれて農・隆を襲ひ、隆 是の夜に殺され、農 重創に中つ。既にして會 寶に歸し、寶の意は會を誅を在るに、誘ひて之を安んじ、潛かに左衞の慕輿騰をして會を斬らしむ。傷つくる能はず。會 復た其の眾に奔り、是に於て兵を勒して寶を攻む。寶 數百騎を率ゐて馳せて龍城に如き、會 眾を率ゐて之を追ひ、使を遣はして左右の佞臣を誅せんことを請ひ、并せて太子を求むるに、寶 許さず。會 龍城を圍み、侍御郎の高雲 夜に敢死の士 百餘人を率ゐて會を襲ひ、之を敗る。眾 悉く逃散し、單馬もて奔りて中山に還り、乃ち圍みを踰て入り、慕容詳の殺す所と為る。
詳 尊號を僭稱し、百官を置き、年號を改む。荒酒して奢淫し、殺戮は度無く、其の王公より以下 五百餘人を誅し、內外は震局し、敢て忤視する莫し。城中 大いに飢え、公卿の餓死する者 數十人なり。麟 丁零の眾を率ゐて中山に入り、詳及び其の親黨の三百餘人を斬り、復た尊號を僭稱す。中山の飢 甚しく、麟 出でて新市に據り、魏師と義臺に戰ひ、麟の軍 敗績す。魏師 遂に中山に入り、麟 乃ち鄴に奔る。
これよりさき、慕容宝は北魏が攻め寄せていると聞き、慕容会に幽州と并州の兵を率いて中山に赴かせた。慕容麟が叛乱すると、慕容宝は慕容会の軍が慕容麟に略奪されることを恐れ、兵を率いて(慕容会の軍を)回収しようとした。慕容麟の侍郎の段平子が丁零から逃げ還り、慕容麟に丁零を招集しなさいと説得した。(段平子は丁零の)兵士がとても精強なので、慕容会の軍を襲って、東方の龍城に拠るという計画を立てた。慕容宝はその太子の慕容策及び慕容農と慕容隆らとともに一万騎あまりで慕容会を薊で迎え、開封公の慕容詳に中山を守らせた。慕容会は全力で(慕容宝を)受け入れ、武具を繕って兵士を励まし、歩騎二万が、陣形をならべて進み、慕容宝を薊の南で出迎えた。慕容宝はその兵を分けて慕容農・慕容隆に支給し、西河公の庫辱官驥を派遣して兵三千を率いて中山を支えて守らせた。慕容会は(自分でなく)慕容策が太子に選ばれたので、恨みの気配があった。慕容宝がこれを慕容農と慕容隆に告げたところ、二人とも、「慕容会は一歳下であるが、方面指揮官に任命された経験から、馴れあって傲慢になりました。恨みはそれが原因に他なりません。私たちが礼(年齢の序列)を説明して叱責します」と言った。さて幽州と平州の兵士はみな慕容会の威徳に心服し、かれが現地から離任することを喜ばず、みなで(慕容宝に)願い出て、「清河王(慕容会)は天賦の神がかりの武の資質をもち、権略は人よりすぐれます。私たちはかれ(慕容会)と生死とともにしようと誓いました。清河王の恩沢に感じ入り、みな有力と士気が倍増しています。どうか陛下は皇太子や諸王とともに薊の宮に留まり(中山を現状維持とし)、清河王を私たちの指揮官としたまま進軍して京師の包囲を解き、その後に車駕を奉迎(中山の明け渡し)をさせてください」と言った。
慕容宝の側近はみな慕容会の勇略が脅威になるとし、讒言して(中山への留任に)反対したので、(中山の)兵士は怨み言をいった。側近は慕容宝に慕容会殺害を勧めた。侍御史の仇尼帰はこれを聞きつけて慕容会に告げ、「側近の密謀はこの通りです。主上(慕容宝)はこれに従おうとしています。大王(慕容会)が頼りにできるのは父母のみです。しかし父はすでに守る気がありません。つぎに頼れるのは兵士です。しかし兵士はすでに手を離れ、進退の道は窮まり、自己保全の道が断たれました。ですから(生き残りのために)二王を誅殺し、太子を廃位して、大王みずから東宮に居り(太子となり)、併せて将軍や宰相を兼務し、社稷を正すべきです」と言った。慕容会は従わなかった。慕容宝は慕容農と慕容隆に、「慕容会が叛乱を計画するのは、当然の帰結であろう、早く殺すべきだ。さもなくば、大きな禍いとなろう」と言った。慕容農は、「寇賊が国内で暴れ、中原は混乱しています。慕容会は旧都を鎮圧して慰撫し、兵士を安んじ国境を静めました。もし京師に兵難があれば、(慕容会は)万里を流星のように駆け、かれの威名は重く、戎狄を圧倒し服従させるのに十分です。しかも叛乱の行動はまだ顕在化しておりませんから、我慢して黙過すべきです。いま社稷は綴旒(旗あし)のように秩序が不安定です。この上で国内で誅戮をすれば、国家の威望を損なうでしょう」と言った。
慕容宝は、「慕容会の反逆の心はすでに確定している。しかし王らは慈しみにより、かれの排除に反対した。ひとたび(慕容会が)決起すれば、必ずに真っ先に諸侯を殺害し、その次に私に(凶刃が)及ぶだろう。取り返しがつかなくなってから、朕の言葉を思い出すがよい」と言った。慕容農らが強く諫めたので、(慕容会の処罰は)中止になった。慕容会はこれを聞いてますます懼れ、広都の黄榆谷に逃れた。慕容会は仇尼帰を派遣して壮士の二十人あまりを率いて(二手に)分かれて慕容農と慕容隆を襲わせた。慕容隆は同日夜に殺され、慕容農は重症を負わされた。(襲撃を終えると)慕容会は慕容宝に帰順した。慕容宝は慕容会を誅殺するつもりであったので、かりそめに誘って安心させ、ひそかに左衛の慕輿騰に慕容会を斬らせた。しかし傷つけることができなかった。慕容会は配下の兵のもとに逃げ、かくして部隊を整えて慕容宝を攻撃した。慕容宝は数百機を率いて龍城へと馳せた。慕容会は兵を率いてこれを追い、使者を派遣して(慕容宝に)左右の佞臣の誅殺を求め、あわせて太子の位を欲したが、慕容宝は許さなかった。慕容会は龍城を包囲した。侍御郎の高雲は夜に敢死の士の百人あまりを率いて慕容会を襲い、これを破った。兵士がすべて逃散し、(慕容会は)単馬で逃げて中山に還り、包囲を越えて入城したが、慕容詳に殺された。
慕容詳が尊号を僭称し、百官を置き、年号を改めた。酒乱であり荒淫し、殺戮は節度がなく、王公より以下の五百人あまりを誅殺した。内外は震え上がり、屈さずに正視するものがいなかった。城中は大いに飢え、公卿で餓死する者が数十人いた。慕容麟は丁零の兵を率いて中山に入り、慕容詳及び其の親党の三百人あまりを斬ったが、かれもまた尊号を僭称した。中山は飢えがひどいので、慕容麟は(中山を)出て新市を拠点とし、魏軍と義台で戦ったが、慕容麟の軍は敗北した。魏軍はこうして中山に入城し、慕容麟は鄴に逃げた。
慕容德遣侍郎李延勸寶南伐、寶大悅。慕容盛切諫、以為兵疲師老、魏新平中原、宜養兵觀釁、更俟他年。寶將從之。撫軍慕輿騰進曰、「今眾旅已集、宜乘新定之機以成進取之功。人可使由之、而難與圖始、惟當獨決聖慮、不足廣採異同、以沮亂軍議也」。寶曰、「吾計決矣、敢諫者斬」。寶發龍城、以慕輿騰為前軍大司馬、慕容農為中軍、寶為後軍、步騎三萬、次于乙連。長上段速骨・宋赤眉因眾軍之憚役也、殺司空・樂浪王宙、逼立高陽王崇。寶單騎奔農、仍引軍討速骨。眾咸憚征幸亂、投杖奔之。騰眾亦潰、寶・農馳還龍城。蘭汗潛與速骨通謀、速骨進師攻城、農為蘭汗所譎、潛出赴賊、為速骨所殺。眾皆奔散、寶與慕容盛・慕輿騰等南奔。蘭汗奉太子策承制、遣使迎寶、及子薊城。寶欲還北、盛等咸以汗之忠款虛實未明、今單馬而還、汗有貳志者、悔之無及。寶從之、乃自薊而南。至黎陽、聞慕容德稱制、懼而退。遣慕輿騰招集散兵于鉅鹿、慕容盛結豪桀于冀州、段儀・段溫收部曲于內黃、眾皆響會、剋期將集。會蘭汗遣左將軍蘇超迎寶、寶以汗垂之季舅、盛又汗之壻也、必謂忠款無貳、乃還至龍城。汗引寶入于外邸、弒之、時年四十四、在位三年、即1.隆安三年也。汗又殺其太子策及王公卿士百餘人。汗自稱大都督・大將軍・大單于・昌黎王。盛僭位、偽諡寶惠愍皇帝、廟號烈宗。
皝之遷于龍城也、植松為社主。及秦滅燕、大風吹拔之。後數年、社處忽有桑二根生焉。先是、遼川無桑、及廆通于晉、求種江南、平州桑悉由吳來。廆終而垂以吳王中興、寶之將敗、大風又拔其一。
1.中華書局本の校勘記によると、「隆安二年」に作るべきである。
慕容德 侍郎の李延を遣はして寶に南伐せんことを勸め、寶 大いに悅ぶ。慕容盛 切諫し、以為へらく兵は疲れ師は老たりて、魏 新たに中原を平らぐ、宜しく兵を養ひ釁を觀て、更めて他年を俟てと。寶 將に之に從はんとす。撫軍の慕輿騰 進みて曰く、「今 眾旅 已に集ふ。宜しく新定の機に乘じて以て進取の功を成すべし。人は之に由らしむ可し、而して與に始めを圖るは難し。惟だ當に獨り聖慮を決すべし。廣く異同を採りて、以て軍議を沮亂するに足らざるなり」と。寶曰く、「吾が計 決せり、敢て諫むる者は斬る」と。寶 龍城を發し、慕輿騰を以て前軍大司馬と為し、慕容農もて中軍と為し、寶もて後軍と為し、步騎三萬、乙連に次づ。長上の段速骨・宋の赤眉 眾軍の役を憚るに因り、司空・樂浪王宙を殺し、逼りて高陽王崇を立つ。寶 單騎もて農に奔り、仍ち軍を引きて速骨を討つ。眾 咸 征を憚かり亂を幸とし、杖を投じて之に奔る。騰の眾も亦た潰え、寶・農 馳せて龍城に還る。蘭汗 潛かに速骨と謀を通じ、速骨 師を進めて城を攻む。農 蘭汗の譎る所と為り、潛かに出でて賊に赴き、速骨の殺す所と為る。眾 皆 奔散し、寶 慕容盛・慕輿騰らと與に南奔す。蘭汗 太子の策を奉りて承制とし、使を遣はして寶を迎へ、薊城に及ぶ。寶 北に還らんと欲するに、盛ら咸 汗の忠款は虛實 未だ明らかならざるを以て、今 單馬にして還り、汗に貳志有らば、之を悔ひても及ぶ無しといふ。寶 之に從ひ、乃ち薊より南す。黎陽に至り、慕容德 稱制するを聞き、懼れて退く。慕輿騰を遣はして散兵を鉅鹿に招集す。慕容盛 豪桀と冀州に結び、段儀・段溫 部曲を內黃に收め、眾 皆 響會し、期を剋めて將に集はんとす。會々蘭汗 左將軍の蘇超を遣はして寶を迎へしむ。寶 汗垂の季舅にして、盛 又 汗の壻なるを以て、必ず忠款 無貳なるを謂ひ、乃ち還りて龍城に至らしむ。汗 寶を引きて外邸に入らしめ、之を弒す。時に年は四十四、在位三年なり。即ち隆安三年なり。汗 又 其の太子策及び王公卿士の百餘人を殺す。汗 自ら大都督・大將軍・大單于・昌黎王を稱す。盛 僭位するや、偽りて寶に惠愍皇帝と諡し、廟を烈宗と號す。
皝の龍城に遷るや、松を植えて社主と為す。秦 燕を滅すに及び、大風 吹きて之を拔く。後の數年にして、社の處 忽と桑二根の生うる有り。是より先、遼川 桑無く、廆 晉に通ずるに及び、種を江南に求む。平州の桑は悉く吳より來たる。廆 終はりて垂 吳王を以て中興し、寶の將に敗れんとするや、大風ありて又 其の一を拔く。
慕容徳は侍郎の李延を派遣して慕容宝に南方征伐(北魏攻撃)を勧め、慕容宝は大いに悦んだ。慕容盛はきつく諫め、自軍は兵が疲れて士気が下がっている一方で、北魏は新たに中原を平定したばかりだから、自軍の兵を養って敵軍の隙を伺い、翌年以降に出直すべきだと言った。慕容宝はこれに従おうとした。撫軍の慕輿騰が進んで、「いま兵員の召集は完了しました。敵軍が(中原を)平定した直後をねらって進撃を成功させるべきです。他人とは自分に追従させるべきものであり、事業の開始を相談するには適しません。陛下のお考えのみに基づいて決断なさるべきです。広く異論を聞いて、軍議を停滞させ乱してはいけません」と言った。慕容宝は、「わたしの計画は決定した(南征をする)、あえて諫める者は斬る」と言った。慕容宝は龍城を出発し、慕輿騰を前軍大司馬とし、慕容農を中軍とし、慕容宝自身は後軍となり、歩騎三万で、乙連に停泊した。長上の段速骨と宋の赤眉は兵員徴発を負担に感じたので、司空・楽浪王の慕容宙を殺し、逼って高陽王の慕容崇を立てた。慕容宝は単騎で慕容農のところに駆け、軍を率いて段速骨を討伐した。兵士はみな戦役をいやがり(段速骨が起こした)混乱を幸いとし、武具を投げ出して段速骨のもとに奔った。慕輿騰の軍はくずれ、慕容宝・慕容農は馳せて龍城に帰還した。蘭汗はひそかに段速骨と謀略を通じ、段速骨は軍を進めて龍城を攻撃した。慕容農は蘭汗にだまされて、ひそかに城を出て賊軍のもとに赴き、段速骨の殺された。兵士はみな逃げ散り、慕容宝は慕容盛・慕輿騰らとともに南に逃げた。蘭汗は太子の慕容策を奉って承制させ、使者を派遣して慕容宝を迎えようとし、薊城に至った。慕容宝は北に還ろうとしたが、慕容盛らはみな蘭汗の忠誠心は虚実がまだ明らかでないため、いま単騎で引き返した場合、もしも蘭汗に二心があったとしたら、後悔をしても遅いと説いた。慕容宝はこれに従い、薊から南下した。黎陽に至り、慕容徳が称制したと聞いて、懼れて退いた。慕輿騰を派遣して離散した兵を鉅鹿で招集した。慕容盛は豪桀と冀州で協力し、段儀と段温は部曲を内黄に収容した。兵士をみな酒宴でもてなし、時期を決めて集合しようとした。たまたま蘭汗が左将軍の蘇超を遣わして慕容宝を迎えた。慕容宝は蘭汗が慕容垂の季舅であり、慕容盛もまた蘭汗の壻であるので、きっと忠誠心があって二心がないと考え、(蘭汗の誘いに乗って)龍城に帰還した。蘭汗は慕容宝を招いて外邸に入らせ、これを弑殺した。このとき四十四歳で、在位三年であった。この年は隆安三年である。蘭汗はさらに太子の慕容策及び王公や卿士の百人あまりを殺した。蘭汗は自ら大都督・大将軍・大単于・昌黎王を称した。慕容盛が僭位すると、不当に慕容宝に恵愍皇帝と諡し、廟を烈宗と号した。
慕容皝が龍城に遷ると、松を植えて社主とした。秦が燕を滅すと、強風が吹いて松を抜いた。その後に数年で、社のあった場所に忽然と二本のクワの木が生えた。かつて、遼川流域にクワは自生していなかった。慕容廆が東晋に通交したとき、クワの種を江南に求めた。平州のクワはすべて呉に由来する。慕容廆が亡くなって慕容垂が呉王に封建され(燕国を)中興した。慕容宝が敗れそうになると、強風が吹いてクワのうち一本を抜いた。
盛字道運、寶之庶長子也。少沈敏、多謀略。苻堅誅慕容氏、盛潛奔于沖。及沖稱尊號、有自得之志、賞罰不均、政令不明。盛年1.十二、謂叔父柔曰、「今中山王智不先眾、才不出下、恩未施人、先自驕大、以盛觀之、鮮不覆敗」。俄而沖為段木延所殺、盛隨慕容永東如長子、謂柔曰、「今崎嶇於鋒刃之間、在疑忌之際、愚則為人所猜、智則危甚巢幕、當如鴻鵠高飛、一舉萬里、不可坐待罟網也」。於是與柔及弟會間行東歸于慕容垂。遇盜陜中、盛曰、「我六尺之軀、入水不溺、在火不焦、汝欲當吾鋒乎。試豎爾手中箭百步、我若中之、宜慎爾命、如其不中、當束身相授」。盜乃豎箭、盛一發中之。盜曰、「郎貴人之子、故相試耳」。資而遣之。歲餘、永誅儁・垂之子孫、男女無遺。盛既至、垂問以西事、畫地成圖。垂笑曰、「昔魏武撫明帝之首、遂乃侯之、祖之愛孫、有自來矣」。於是封長樂公。驍勇剛毅、有伯父全之風烈。
寶即偽位、進爵為王。寶自龍城南伐、盛留統後事。及段速骨作亂、馳出迎衞。寶幾為速骨所獲、賴盛以免。盛屢進奇策於寶、寶不能從、是以屢敗。寶既如龍城、盛留在後。寶為蘭汗所殺、盛馳進赴哀、將軍張真固諫以為不可。盛曰、「我今投命、告以哀窮。汗性愚近、必顧念婚姻、不忍害我。旬月之間、足展吾志」。遂入赴喪。汗妻乙氏泣涕請盛、汗亦哀之、遣其子穆迎盛、舍之宮內、親敬如舊。汗兄提・弟難勸汗殺盛、汗不從。慕容奇、汗之外孫也、汗亦宥之。奇入見盛、遂相與謀。盛遣奇起兵于外、眾至數千。汗遣蘭提討奇。提驕很淫荒、事汗無禮、盛因間之於汗曰、「奇、小兒也、未能辦此、必內有應之者。提素驕、不可委以大眾」。汗因發怒、收提誅之、遣其撫軍仇尼慕率眾討奇。汗兄弟見提之誅、莫不危懼、皆阻兵背汗、襲敗慕軍。汗大懼、遣其子穆率眾討之。穆謂汗曰、「慕容盛、我之仇也。奇今起逆、盛必應之。兼內有蕭牆之難、不宜養心腹之疾」。汗將誅盛、引見察之。盛妻以告、於是偽稱疾篤、不復出入、汗乃止。有2.李旱・衞雙・劉志・張豪・張真者、皆盛之舊昵、蘭穆引為腹心。旱等屢入見盛、潛結大謀。會穆討蘭難等斬之、大饗將士、汗・穆皆醉。盛夜因如廁、袒而踰牆、入于東宮、與李旱等誅穆、眾皆踴呼、進攻汗、斬之。汗二子魯公和・陳公楊分屯令支・白狼、遣李旱・張真襲誅之。於是內外怗然、士女咸悅。盛謙揖自卑、不稱尊號。其年、以長樂王稱制、赦其境內、改元曰建平。諸王降爵為公、文武各復舊位。
初、慕容奇聚眾于建安、將討蘭汗、百姓翕然從之。汗遣兄子全討奇、奇擊滅之、進屯乙連。盛既誅汗、命奇罷兵、奇遂與丁零嚴生・烏丸王龍之阻兵叛盛、引軍至橫溝、去龍城十里。盛出兵擊敗之、執奇而還、斬龍・生等百餘人。盛於是僭即尊位、大赦殊死已下、追尊伯考獻莊太子全為獻莊皇帝、尊寶后段氏為皇太后、全妃丁氏為獻莊皇后、諡太子策為獻哀太子。盛幽州刺史慕容豪・尚書左僕射張通・昌黎尹張順謀叛、盛皆誅之。改年為長樂。有犯罪者、十日一自決之、無撾捶之罰、而獄情多實。
高句驪王安遣使貢方物。有雀素身綠首、集于端門、栖翔東園、二旬而去、改東園為白雀園。
1.『資治通鑑』巻一百六は「十三」に作る。
2.「李旱」は、『冊府元亀』巻二百二十六、『魏書』慕容廆伝では「李早」に作る。
盛 字は道運、寶の庶長子なり。少くして沈敏たりて、謀略多し。苻堅 慕容氏を誅するや、盛 潛かに沖に奔る。沖 尊號を稱するに及び、自得の志有り。賞罰 均しからず、政令 明らかならず。盛 年十二にして、叔父の柔に謂ひて曰く、「今 中山王 智は眾に先んぜず、才は下を出でず。恩 未だ人に施さず、先に自ら驕大なり。以へらく盛 之を觀るに、覆敗せざること鮮し」と。俄かにして沖 段木延の殺す所と為り、盛 慕容永に隨ひて東して長子に如く。柔に謂ひて曰く、「今 鋒刃の間に崎嶇し、疑忌の際に在り。愚なれば則ち人の猜する所と為り、智なれば則ち危は幕に巢するよりも甚し。當に鴻鵠の高飛せば、一舉に萬里なるが如く、坐して罟網を待つ可からざるなり」と。是に於て柔及び弟の會と與に間行して慕容垂に東歸す。盜に陜中に遇ひ、盛曰く、「我が六尺の軀、水に入りて溺れず、火に在りて焦れず。汝 吾が鋒に當たらんと欲するか。試みに爾が手中の箭を百步に豎て、我 若し之に中つれば、宜しく爾命に慎しむべし。如し其れ中たらずんば、當に身を束ねて相 授けん」と。盜 乃ち箭を豎て、盛 一發にして之を中つ。盜曰く、「郎は貴人の子なり。故に相 試みるのみ」と。資けて之を遣る。歲餘にして、永 儁・垂の子孫を誅し、男女 遺る無し。盛 既に至るや、垂 問ふに西事を以てす。地を畫きて圖を成す。垂 笑ひて曰く、「昔 魏武 明帝の首を撫で、遂に乃ち之を侯とす。祖の孫を愛するは、自來有り」と。是に於て長樂公に封ず。驍勇剛毅にして、伯父の全がごとき風烈有り。
寶 偽位に即くや、爵を進めて王と為す。寶 龍城より南伐し、盛 留まりて後事を統ぶ。段速骨 亂を作すに及び、馳せ出でて迎衞す。寶 幾ど速骨の獲る所と為るも、盛に賴りて以て免る。盛 屢々奇策を寶に進むれども、寶 從ふ能はず、是を以て屢々敗る。寶 既に龍城に如くや、盛 留まりて後に在り。寶 蘭汗の殺す所と為るや、盛 馳せ進みて哀に赴く。將軍の張真 固く諫めて以て不可と為す。盛曰く、「我 今 命を投じ、告ぐるに哀窮を以てす。汗 性は愚近なれば、必ず婚姻を顧念し、我を害するに忍びず。旬月の間に、吾が志を展ぶるに足る」と。遂に入りて喪に赴く。汗の妻の乙氏 泣涕して盛を請ひ、汗も亦た之を哀しみ、其の子の穆を遣はして盛を迎へしめ、之を宮內に舍き、親敬すること舊の如し。汗の兄の提・弟の難 汗に盛を殺さんことを勸むるも、汗 從はず。慕容奇は、汗の外孫なり。汗も亦た之を宥む。奇 入りて盛に見え、遂に相 與に謀る。盛 奇をはして兵を外に起こさしめ、眾は數千に至る。汗 蘭提を遣はして奇を討たしむ。提 驕很にして淫荒たりて、汗に事ふるに禮無く、盛 因りて之を汗に間てて曰く、「奇は、小兒なり。未だ能く此を辦ぜず。必ず內に之に應ずる者有らん。提は素より驕たり。委ぬるに大眾を以てす可からず」と。汗 因りて怒りを發し、提を收めて之を誅し、其の撫軍の仇尼慕を遣はして眾を率ゐて奇を討たしむ。汗の兄弟 提の誅せらるるを見て、危懼せざるは莫く、皆 兵を阻みて汗に背き、襲ひて慕の軍を敗る。汗 大いに懼れ、其の子の穆を遣はして眾を率ゐて之を討たしむ。穆 汗に謂ひて曰く、「慕容盛は、我の仇なり。奇 今 起ちて逆らへば、盛 必ず之に應ぜん。兼せて內に蕭牆の難有り、宜しく心腹の疾を養ふべからず」と。汗 將に盛を誅せんとし、引見して之を察す。盛の妻 以て告げ、是に於て偽りて疾篤と稱し、復た出入せず、汗 乃ち止む。李旱・衞雙・劉志・張豪・張真なる者有り、皆 盛の舊昵なるに、蘭穆 引きて腹心と為す。旱ら屢々入りて盛に見え、潛かに大謀を結ぶ。會々穆 蘭難らを討ちて之を斬り、大いに將士を饗し、汗・穆 皆 醉ふ。盛 夜に廁に如くに因り、袒して牆を踰え、東宮に入り、李旱らと與に穆を誅し、眾 皆 踴呼し、進みて汗を攻め、之を斬る。汗の二子の魯公和・陳公楊 屯を令支・白狼に分かつに、李旱・張真を遣はして襲ひて之を誅せしむ。是に於て內外 怗然たりて、士女 咸 悅ぶ。盛 謙揖して自卑し、尊號を稱せず。其の年に、長樂王を以て稱制し、其の境內を赦し、改元して建平と曰ふ。諸王 爵を降して公と為し、文武 各々舊位を復す。
初め、慕容奇 眾を建安に聚め、將に蘭汗を討たんとし、百姓 翕然として之に從ふ。汗 兄の子の全を遣はして奇を討たしむるに、奇 擊ちて之を滅し、屯を乙連に進む。盛 既に汗を誅せば、奇に命じて兵を罷め、奇 遂に丁零の嚴生・烏丸の王龍之と與に兵を阻みて盛に叛し、軍を引きて橫溝に至り、龍城を去ること十里なり。盛 兵を出して擊ちて之を敗り、奇を執へて還り、龍・生ら百餘人を斬る。盛 是に於て僭して尊位に即き、殊死より已下を大赦し、伯考の獻莊太子全を追尊して獻莊皇帝と為し、寶の后たる段氏を尊びて皇太后と為し、全の妃たる丁氏を獻莊皇后と為し、太子策に諡して獻哀太子と為す。盛の幽州刺史の慕容豪・尚書左僕射の張通・昌黎尹の張順 謀叛し、盛 皆 之を誅す。年を改めて長樂と為す。罪を犯す者有らば、十日に一たび自ら之を決し、撾捶の罰無く、而して獄情 實多し。
高句驪王安 使を遣はして方物を貢ず。雀の素身にして綠首なるもの有り、端門に集ひ、東園を栖翔し、二旬にして去る。東園を改めて白雀園と為す。
慕容盛は字を道運といい、慕容宝の庶長子である。若いときから落ちついて聡明で、謀略が巧みであった。苻堅が慕容氏を誅伐すると、慕容盛はひそかに慕容沖のもとに逃げこんだ。慕容沖が尊号を称すると、志を実現して得意になった。賞罰は均衡を損ない、政令は適切でなかった。慕容盛はこのとき十二歳で、叔父の慕容柔に、「いま中山王(慕容沖)は智恵が人々を上回らず、才能は平凡以下です。いまだ恩を人々に施す前から、傲慢になりました。私の見立てでは、(中山王のやり方で)転覆し敗れなかったものは少ない」と言った。にわかに慕容沖は段木延に殺された。慕容盛は慕容永に随って東に向かって長子(地名)に行った。慕容柔に、「いまは鋭い刃のあいだで窮迫し、相互不信の状況です。愚かであれば人にだまされ、智恵があっても幕に巣を作った鳥よりも危うい。鴻鵠が高く飛べば、ひと飛びで万里です。むざむざと網で捕獲されるのを待つべきではありません」と言った。ここにおいて慕容柔及び弟の慕容会とともに間道づたいに東に向かい慕容垂のところに帰付した。陜中で盗賊に会うと、慕容盛は、「わが六尺の体は、水に入っても溺れず、火をあびても焦げない。お前らがわが武芸に対抗するというのか。試しにお前の手にある矢を百歩先に立てよ。もし私がこれに当てることができれば、わが命令に服従せよ。もし当てられなければ、わが身を縛って差し出すだろう」と言った。盗賊は矢を(地に)突き刺したが、慕容盛は一発でこれに当てた。盗賊は、「あなたさまは貴人の子です。だから実力差を示してくれた」と言った。財物を与えて去らせた。一年あまりで、慕容永が慕容儁と慕容垂の子孫を誅殺したため、一族の男女が全滅していた。慕容盛が到着すると、慕容垂は西方の状況を質問した。地面に描くと図となった。慕容垂は笑って、「むかし魏武(曹操)は明帝(曹叡)の頭をなで、かれを侯とした。祖父が孫を愛することは、由来のあることだ」と言った。ここにおいて長楽公に封建した。勇猛で剛毅であり、伯父の慕容全のような優れた風采があった。
慕容宝が偽位に即くと、爵を進めて王となった。慕容宝が龍城より南方を征伐すると、慕容盛は留まって後事を統括した。段速骨が乱を起こすと、城から馳せ出て(慕容宝を)迎えて護衛した。慕容宝は段速骨に捕らわれる寸前であったが、慕容盛のおかげで免れた。慕容盛はしばしば奇策を慕容宝に進めたが、慕容宝は採用できず、そのせいで敗戦をくり返した。
慕容宝が龍城に行くと、慕容盛は留まって後方にいた。慕容宝が蘭汗に殺されると、慕容盛は遺体のもとに駆けつけた。将軍の張真がきつく諫めて反対したが、慕容盛は、「私はいま命を投げ出し、哀悼の窮まりを告げる。蘭汗は愚かで馴れあう性質があり、私とは婚姻を結んでいるから、私を殺害しないだろう。旬月の間に、わが志(慕容宝の仇討ち)を実現できる」と言った。入城して遺体のもとに赴いた。蘭汗の妻の乙氏はむせび泣いて慕容盛と会いたがり、蘭汗もまた悲しみに共感し、子の蘭穆を派遣して慕容盛を迎えさせた。慕容盛を宮内に住まわせ、親しみと敬愛は従来のままであった。
蘭汗の兄の蘭提と弟の蘭難が慕容盛を殺すように勧めたが、蘭汗は従わなかった。慕容奇は、蘭汗の外孫である。蘭汗は慕容奇にも気を許していた。慕容奇が訪問して慕容盛に会い、二人で(蘭汗殺害の)謀略を話しあった。慕容盛は慕容奇に城外で兵を決起させ、兵士は数千に至った。蘭汗は蘭提に慕容奇を討伐させた。蘭提は傲慢で不遜なうえに荒淫をしており、蘭汗に仕える態度が無礼であった。慕容盛は蘭汗と蘭提の関係を裂くために、「慕容奇は、小さな子供です。まだ事態がよく理解できません。(この決起には)きっと内応者がいるのでしょう。蘭提はふだんから驕慢です。大軍をかれに委ねてはいけません」と言った。蘭汗はこれを聞いて怒りだし、蘭提を捕らえて誅殺し、その撫軍の仇尼慕を派遣して兵を率いて慕容奇を討伐させた。
蘭汗の兄弟は蘭提が誅殺されたのを見て、危ぶんで懼れないものはなく、みな兵で対抗して蘭汗に背き、襲って仇尼慕の軍を破った。蘭汗は大いに懼れ、その子の蘭穆に兵を率いて(離叛者を)討伐させた。蘭穆は蘭汗に、「慕容盛は、わが仇敵です。慕容奇がいま起兵して反乱すれば、慕容盛はきっと呼応するでしょう。われらは内部に対立者(慕容盛)を抱えています。体内の病気を放置してはいけません」と言った。蘭汗は慕容盛を誅殺しようとし、招いて取り調べようとした。慕容盛の妻がこれを告げたので、慕容盛は重病だと称して、邸宅からの外出をやめた。蘭汗は(呼び出しを)中止した。李旱・衛雙・劉志・張豪・張真というものがおり、みな慕容盛と旧知であったが、蘭穆はかれらを召して腹心としていた。李旱らはしばしば慕容盛を訪問し、ひそかに大きな計画を練っていた。たまたま蘭穆が(蘭汗の弟の)蘭難らを討伐して斬ったとき、大いに将士と饗宴し、蘭汗と蘭穆はどちらも酒に酔った。慕容盛は夜に厠所に行くふりをして、肌ぬぎになって壁を越え、東宮に入り、李旱らとともに蘭穆を誅殺した。兵士はみな勇躍して呼応し、進んで蘭汗を攻め、これを斬った。蘭汗の二子の魯公和と陳公楊が駐屯地を令支と白狼に分けていたので、李旱と張真を派遣して二箇所を襲って誅殺した。ここにおいて内外は平穏となり、士女はみな悦んだ。慕容盛は謙遜して自ら卑しみ、尊号を称さなかった。この年に、長楽王として称制し、領内を大赦し、建平と改元した。諸王は爵を降して公とし、文武の官はそれぞれ従来の位に復した。
これよりさき、慕容奇が兵を建安で集め、蘭汗を討伐しようとすると、百姓は続々と集まって従った。蘭汗は兄の子の蘭全を派遣して慕容奇を討伐させたが、慕容奇はこれを攻撃して滅ぼし、駐屯地を乙連に進めた。慕容盛が蘭汗の誅殺を終えると、慕容奇に命じて軍隊の編成を解かせたが、慕容奇は丁零の厳生や烏丸の王龍之とともに抗戦して慕容盛に叛乱し、軍を率いて横溝に到達した。(横溝は)龍城から十里の位置である。慕容盛は兵を出してこれを撃ち破り、慕容奇を捕らえて還り、王龍之や厳生ら百人あまりを斬った。慕容盛はここにおいて僭上して尊位に即き、死刑より以下を大赦し、おじの献荘太子の慕容全を追尊して献荘皇帝とし、慕容宝の后である段氏を尊んで皇太后とし、慕容全の妃である丁氏を献荘皇后とし、太子の慕容策に諡して献哀太子とした。慕容盛の幽州刺史の慕容豪と尚書左僕射の張通と昌黎尹の張順が謀叛したが、慕容盛はすべて誅殺した。年号を長楽に改めた。罪を犯した者がいれば、十日に一回は直接判決を下し、刑罰で打ち殺すことがなく、判決は実態に即したものが多かった。
高句驪王安が使者を派遣して名産品を献上した。からだが白くて首が緑色の雀がおり、端門につどい、東園をすみかにして飛び、二十日で去った。東園を白雀園と改名した。
盛聽詩歌及周公之事、顧謂羣臣曰、「周公之輔成王、不能以至誠感上下、誅兄弟以杜流言、猶擅美於經傳、歌德於管絃。至如我之太宰桓王、承百王之季、主在可奪之年、二寇闚𨵦、難過往日、臨朝輔政、羣情緝穆、經略外敷、闢境千里、以禮讓維宗親、德刑制羣后、敦睦雍熙、時無二論。勳道之茂、豈可與周公同日而言乎。而燕詠闕而不論、盛德掩而不述、非所謂也」。乃命中書更為燕頌以述恪之功焉。又引中書令常忠・尚書陽璆・祕書監郎敷于東堂、問曰、「古來君子皆謂周公忠聖、豈不謬哉」。璆曰、「周公居攝政之重、而能達君臣之名、及流言之謗、致烈風以悟主、道契神靈、義光萬代、故累葉稱其高、後王無以奪其美」。盛曰、「常令以為何如」。忠曰、「昔武王疾篤、周公有請命之誠、流言之際、義感天地、楚撻伯禽以訓就王德。周公為臣之忠、聖達之美、詩書已來未之有也」。盛曰、「異哉二君之言。朕見周公之詐、未見其忠聖也。昔武王得九齡之夢、白文王、文王曰、『我百、爾九十、吾與爾三焉。』及文王之終、已驗武王之壽矣。武王之算未盡而求代其死、是非詐乎。若惑于天命、是不聖也。據攝天位而丹誠不見、致兄弟之間有干戈之事。夫文王之化自近及遠、故曰刑于寡妻、至于兄弟。周公親違聖父之典而蹈嫌疑之蹤、戮罰同氣以逞私忿、何忠之有乎。但時無直筆之史、後儒承其謬談故也」。忠曰、「啟金縢而返風、亦足以明其不詐。遭二叔流言之變、而能大義滅親、終安宗國、復子明辟、輔成大業、以致太平、制禮作樂、流慶無窮、亦不可謂非至德也」。盛曰、「卿徒因成文而未原大理、朕今相為論之。昔周自后稷積德累仁、至于文武。文武以大聖應期、遂有天下。生靈仰其德、四海歸其仁。成王雖幼統洪業、而卜世修長、加呂・召・毛・畢為之師傅。若無周公攝政、王道足以成也。周公無故以安危為己任、專臨朝之權、闕北面之禮。管蔡忠存王室、以為周公代主非人臣之道、故言公將不利於孺子。周公當明大順之節、陳誠義以曉羣疑、而乃阻兵都邑、擅行誅戮。不臣之罪彰于海內、方貽王鴟鴞之詩、歸非於主、是何謂乎。又周公舉事、稱告二公、二公足明周公之無罪而坐觀成王之疑、此則二公之心亦有猜於周公也。但以疏不間親、故寄言於管蔡、可謂忠不見於當時、仁不及於兄弟。知羣望之有歸、天命之不在己、然後返政成王、以為忠耳。大風拔木之徵、乃皇天祐存周道、不忘文武之德、是以赦周公之始愆、欲成周室之大美。考周公之心、原周公之行、乃天下之罪人、何至德之謂也。周公復位、二公所以杜口不言其本心者、以明管蔡之忠也」。
又謂常忠曰、「伊尹・周公孰賢」。忠曰、「伊尹非有周公之親而功濟一代、太甲亂德、放於桐宮、思愆改善、然後復之。使主無怨言、臣無流謗、道存社稷、美溢來今。臣謂伊尹之勳有高周旦」。盛曰、「伊尹以舊臣之重、顯阿衡之任、太甲嗣位、君道未洽、不能竭忠輔導、而放黜桐宮、事同夷羿、何周公之可擬乎」。郎敷曰、「伊尹處人臣之位、不能匡制其君、恐成湯之道墜而莫就、是以居之桐宮、與小人從事、使知稼穡之艱難、然後返之天位、此其忠也」。盛曰、「伊尹能廢而立之、何不能輔之以至於善乎。若太甲性同桀紂、則三載之間未應便成賢后。如其性本休明、義心易發、當務盡匡規之理以弼成君德、安有人臣幽主而據其位哉。且臣之事君、惟力是視、奈何挾智藏仁以成君惡。夫太甲之事、朕已鑒之矣。太甲、至賢之主也、以伊尹歷奉三朝、績無異稱、將失顯祖委授之功、故匿其日月之明、受伊尹之黜、所以濟其忠貞之美。夫非常之人、然後能立非常之事、非常人之所見也、亦猶太伯之三讓、人無德而稱焉」。敷曰、「太伯三以天下讓、至仲尼而後顯其至德。太甲受謗於天下、遭陛下乃申其美」。因而談讌賦詩、賜金帛各有差。
盛 詩歌を聽きて周公の事に及ぶや、顧みて羣臣に謂ひて曰く、「周公の成王を輔するや、至誠を以て上下を感ぜしむる能はず、兄弟を誅して以て流言を杜ぐ。猶ほ美を經傳に擅にし、德を管絃に歌はる。我が太宰桓王の如きに至り、百王の季を承け、主たりて奪ふ可きの年に在り、二寇 闚𨵦し、難 往日に過ぎず、臨朝し輔政して、羣情は緝穆たりて、經略は外敷し、境を闢くこと千里、禮讓を以て宗親に維し、德刑 羣后を制め、敦睦雍熙、時に二論無し。勳道の茂なる、豈に周公と同日にして言ふ可けんや。而れども燕詠 闕きて論ぜず、盛德 掩ひて述べず、謂ふ所非ざるや」と。乃ち中書に命じて更めて燕頌を為らしめて以て恪に功を述べしむ。
又 中書令の常忠・尚書の陽璆・祕書監の郎敷を東堂に引き、問ひて曰く、「古來 君子 皆 周公の忠聖を謂ふ、豈に謬ならざるや」と。璆曰く、「周公 攝政の重に居り、而して能く君臣の名を達し、流言の謗に及び、烈風を致して以て主を悟らせ〔一〕、道は神靈を契び、義は萬代を光す。故に累葉 其の高きを稱し、後王 以て其の美を奪ふ無し」と。盛曰く、「常令 以為へらく何如と」。
忠曰く、「昔 武王 疾篤ありて、周公 請命の誠有り、流言の際に、義は天地を感じ、伯禽を楚撻して以て王の德を訓就す。周公 臣為るの忠、聖達の美、詩書より已來 未だ之れ有らざるなり」と。
盛曰く、「異なるかな二君の言。朕 周公の詐を見るに、未だ其の忠聖を見ざるなり。昔 武王 九齡の夢を得て、文王に白す。文王曰く、『我は百、爾は九十。吾 爾に三を與ふ』と〔二〕。文王の終に及び、已に武王の壽を驗す。武王の算 未だ盡くさずして其の死に代はらんことを求め、是れ詐りに非ざるや。若し天命に惑はば、是れ聖ならざるなり。天位に據攝して丹誠 見れず、兄弟の間に干戈の事有るに致る。夫れ文王の化 近きより遠きに及び、故に曰ふ寡妻を刑し、兄弟に至ると〔三〕。周公 親ら聖父の典に違ひて嫌疑の蹤を蹈み、同氣を戮罰して以て私忿を逞くす。何の忠 之れ有らんや。但だ時に直筆の史無く、後儒 其の謬談を承くる故なり」と。
忠曰く、「金縢を啟きて返風す、亦た以て其の詐ならざるを明らかにするに足る。二叔 流言の變に遭ひて、而れども能く大義に親を滅し、終に宗國を安んじ、子に明辟を復し、大業を輔成し、以て太平を致し、制禮作樂し、慶を無窮に流す。亦た至德に非らざると謂ふ可からざるなり」と。
盛曰く、「卿 徒らに成文に因りて未だ大理を原せず、朕 今 相 為に之を論ず。昔 周 后稷より德を積み仁を累ね、文武に至る。文武 大聖を以て期に應じ、遂に天下を有つ。生靈 其の德を仰ぎ、四海 其の仁に歸す。成王 幼なると雖も洪業を統べ、而して世を卜さば修長なり〔四〕。加へて呂・召・毛・畢 之の為に師傅たり。若し周公の攝政無くんば、王道 以て成すに足るなり。周公 故無くして安危を以て己が任と為し、臨朝の權を專らにし、北面の禮を闕く。管蔡が忠 王室に存り、以て周公 主に代はりて人臣の道に非ざると為し、故に言ふ公 將に孺子に利あらずと〔五〕。周公 當に大順の節を明らかにし、誠義を陳べて以て羣疑を曉らかにすべし。而れども乃ち兵を都邑に阻び、擅に誅戮を行ふ。不臣の罪 海內に彰はれ、方に王に鴟鴞の詩を貽り、非を主に歸す〔六〕。是れ何の謂ひぞや。
又 周公 事を舉ぐるに、二公に稱告す。二公 周公の無罪を明らかにするに足るに、坐して成王の疑を觀る。此れ則ち二公の心も亦た周公を猜ふに有り。但だ疏なるを以て親に間せず、故に言を管蔡に寄す。忠 當時に見れず、仁 兄弟に及ばざると謂ふ可きなり。羣望の歸する有り、天命の己に在らざるを知り、然る後に政を成王に返して、以て忠と為すのみ。大風 木を拔くの徵、乃ち皇天 周道を存するを祐けて、文武の德を忘れず。是を以て周公の始めの愆を赦し、周室の大美と成さんと欲す。周公の心を考へ、周公の行を原ぬるに、乃ち天下の罪人なり、何ぞ至德の謂ひあるや。周公 位を復し、二公 口を杜ざして其の本心を言はざる所以は、以て管蔡の忠を明らかにすればなり」と。
又 常忠に謂ひて曰く、「伊尹・周公 孰れか賢なるか」と。忠曰く、「伊尹は周公の親有るに非ずして功は一代を濟ひ、太甲 德を亂すや、桐宮に放ち、愆を思ひて善を改め、然る後に之を復す。主をして怨言無く、臣をして流謗無からしめ、道は社稷に存し、美は來今に溢る。臣 謂へらく伊尹の勳 周旦より高き有り」と。盛曰く、「伊尹 舊臣の重を以て、阿衡の任に顯たり、太甲 位を嗣ぐや、君道 未だ洽からず、忠を竭くし輔導する能はず、而れども桐宮に放黜す。事は夷羿に同じ。何ぞ周公もて之に擬ふる可きや」と。郎敷曰く、「伊尹 人臣の位に處り、其の君を匡制する能はず、成湯の道 墜ちて就く莫きを恐る。是を以て之を桐宮に居らしめ、小人と與に從事し、稼穡の艱難を知らしめ、然る後に之に天位を返す。此れ其の忠なり」と。盛曰く、「伊尹 廢して之を立つること能ふ。何ぞ之を輔するに善に至るを以てすること能はざるや。若し太甲 性は桀紂に同じければ、則ち三載の間に未だ應に便ち賢后と成すべからず。如し其の性 本は休明にして、義心 發し易ければ、當に務めて匡規の理を盡くして以て君の德を弼成すべし。安ぞ人臣の主を幽して其の位に據るもの有るや。且つ臣の君に事ふるや、惟だ力のみ是れ視る。奈何ぞ智を挾みて仁を藏して以て君の惡を成すや。夫れ太甲の事、朕 已に之を鑒たり。太甲は、至賢の主なり。伊尹 三朝を歷奉し、績 異稱無きを以て、將に顯祖 委授の功を失はんとし、故に其の日月の明を匿し、伊尹の黜を受く。其の忠貞の美を濟ふ所以なり。夫れ非常の人あらば、然る後に能く非常の事を立つ。常人の見る所に非ざるなり。亦た猶ほ太伯の三讓のごときは、人 德ありて稱する無し」と。敷曰く、「太伯 三たび天下を讓るを以て、仲尼に至りて後に其れ至德を顯す。太甲 謗を天下に受くれども、陛下 乃ち其の美を申すに遭ふ」と。因りて讌賦の詩を談じ、金帛を賜ふこと各々差有り。
〔一〕『尚書』周書 金滕篇に、「秋、大熟、未獲、天大雷電以風、禾盡偃、大木斯拔、邦人大恐。王與大夫盡弁以啟金滕之書……」とあるのを踏まえる。
〔二〕『礼記』文王世子に、「文王謂武王曰、女何夢矣。武王對曰、夢帝與我九齡。文王曰、女以為何也。武王曰、西方有九國焉、君王其終撫諸。文王曰、非也。古者謂年齡、齒亦齡也。我百、爾九十。吾與爾三焉。文王九十七乃終。武王九十三而終」とあり、出典である。
〔三〕『毛詩』大雅 思齊に、「刑于寡妻。至于兄弟。以御于家邦」とある。
〔四〕『春秋左氏伝』宣公 伝三年に、「成王定鼎于郟鄏。卜世三十。卜年七百。天所命也。周德雖衰。天命未改。鼎之輕重。未可問也」とある。
〔五〕『尚書』周書 金滕に、「武王既喪。管叔及其羣弟。乃流言於國曰。公將不利於孺子」とある。
〔六〕『尚書』周書 金滕に、「公乃為詩以貽王。名之曰鴟鴞。王亦未敢誚公」とある。
慕容盛は詩歌を聴いており周公旦の事績をうたった部分に差しかかると、顧みて群臣に、「周公が成王を輔政したとき、至誠を上下に感得させられず、兄弟を誅殺して流言を塞いだ。ところが経伝で存分に賞賛され、管絃の曲でその徳を歌われている。わが一族の太宰・桓王(慕容恪)に至っては、百王の末を継承し、君位を奪える状況で、二者の強敵が野望を抱き、困難は現実のものであったが、(慕容恪が)臨朝し輔政したところ、群臣は協調し、統治が国外に広がり、千里にわたって領土を開き、礼によって謙譲して君主の一族を支え、恩徳と刑罰によって諸侯の秩序を定め、親しく仲睦まじかったことは、当時において異論がなかった。勲功の立派さは、周公と同列と言えないことがなかろうか。しかし(慕容恪の徳をうたう)燕詠が存在せず、盛んな徳が称揚されていない、おかしいとは思わないか」と言った。そこで中書に命じて更めて燕頌を作らせて慕容恪の功績を述べさせた。
また(慕容盛は)中書令の常忠と尚書の陽璆と秘書監の郎敷を東堂に招き、「古より君子はみな周公は忠聖であるというが、誤りではないか」と質問した。陽璆は、「周公が居摂の重任を担うと、君臣の名分をわきまえ、流言で(簒奪の野心があると)誹謗されると、烈風が吹いて成王に(周公の忠を)悟らせ、その道は神霊と約束し、義は万代を照らしました。ゆえに代々その素晴らしさを称え、後世の王がその美名を奪うことがなかったのです」と言った。慕容盛は、「常令はどう思うか」と言った。
常忠は、「むかし武王が危篤になると、周公は命を賭けて平癒の願掛けをし、(簒奪の)流言があったとき、その義に天地が感応し、(子の)伯禽を勉励して王の徳を訓戒しました。周公の臣下としての忠と、諸侯王としての恩恵は、『詩経』『尚書』に書かれてより以来、これほどのものはありません」と言った。
慕容盛は、「二人の発言は間違っている。朕には周公の詐りが見えるが、忠聖は見えない。むかし武王が九齢の夢(天帝から九十年の寿命を付与された夢)を見て、文王に報告した。文王は、『わが寿命は百で、お前は九十だ。お前に三年を分けてやろう』と言った(『礼記』文王世子)。文王が(九十七歳で)死去したとき、すでに武王の寿命は(九十三歳まであると)判明していた。武王の寿命が(病気では)まだ尽きないことが明白なのに(周公旦は)身代わりになると言ったが、これは(身の安全を保証された上での)詐りではないか。もしも天帝が与えた寿命を疑うなら、聖人ではない。周王に居摂しても誠意は明らかでないから、兄弟のあいだで武力闘争が起きた(管叔と蔡叔の乱)。文王の教化は近くから遠くまで及び、ゆえに処罰は嫡妻や兄弟に及んだ(『毛詩』大雅 思斉)。周公は聖なる父(文王)の典籍にそむいて疑わしい行動をし、同気(兄弟)を誅罰して私的な怨みを晴らした。周公のどこが忠なのか。ただ当時は直筆をする史官がおらず、後世の儒者が誤った伝説を継承したのだ」と言った。
常忠は、「(周公が武王平癒の祈願文を封印した)金滕を開いたとき(倒れた穀物を起こす)逆むきの風が吹き、周公に詐りがないことが証明されました。二叔(管叔と蔡叔)があらぬ流言を広めると、大義によって親族を滅ぼし、周王朝を安定させ、成王に政権を返還し、大いなる事業を助けて完成させ、泰平をもたらし、礼楽を制定し、善事を永久に伝えました。至徳でないとは言えません」と言った。
慕容盛は、「きみたちは経書ばかりに頼って根本的な筋道が分かっていない。朕がいま論じてみよう。むかし周王朝は(始祖の)后稷の代から徳を積んで仁をかさね、文王と武王の代に至った。文王と武王は大聖として時運に応じ、天下を領有した。万物の霊はその徳を仰ぎ、四海はその仁に帰順した。成王は幼年であったが大業を統べ、王朝が何代続くかを占ったところ長いことが分かった(『春秋左氏伝』宣公 伝三年)。しかも太公望・召公奭・毛叔鄭・畢公高らが成王の指導役を務めた。かりに周公が摂政せずとも、王道を実現するには十分であった。周公は必然性がないのに政治の安定をおのれの任務とし、朝政の権限を専有し、北面の(臣下の)礼を欠いた。管蔡は周王朝に忠誠心があり、周公が君主に代わることは人臣の道に反すると考え、ゆえに周公が孺子(成王)に危害を加えると唱えた(『尚書』周書 金滕)。周公は道に準拠して節義をあきらかにし、誠意をもって人々から向けられた疑いを晴らすべきであった。しかし兵で都邑で動員し、ほしいままに誅戮を実行した。不臣の罪は海内に表れ、成王に鴟鴞(悪鳥)の詩を贈り、責任を君主に帰属させた。なんということだろう。
また周公は行動を起こすとき、二公(太公望と召公奭)に通告した。二公は周公の無罪を証明できる人物であるが、何もせずに成王の(周公に対する)疑いを見守った。これは二公の心もまた周公を疑っていた証拠である。ただ血縁が遠いので周王の親族争いに介入せず、管蔡に意見を託したのである。周公の忠は当時において表れず、仁は兄弟(管蔡)にすら及んでいないと言うべきだ。群臣が心を(成王に)寄せ、天命が自分にないことを知ってから、政治を成王に返却し、忠臣を装ったのである。強風が吹いて木を抜き倒したという現象(『尚書』金滕篇)は、皇天が周の存続を助け、文王と武王の徳を忘れなかったことを意味する(周公のための徴証ではない)。天は強風を吹かせて周公の当初の罪(簒奪の野心)を許し、周室の美事いう解釈を与えたのである。周公の心を考え、周公の行動を点検すると、天下の罪人であり、どうして至徳などと言えようか。周公が位を返還すると、二公が口を閉ざしてその本心を言わなかったのは、(口を開けば)管蔡の忠が明らかになるからである」と言った。
また常忠に、「(ともに一時的な簒奪の疑いがある)伊尹と周公はどちらが勝るだろうか」と言った。常忠は、「伊尹は周公のように王族ではないが一時代を支えた功績があり、太甲(殷の太宗)が徳を乱すと、桐宮に放逐し、罪を反省して悔い改めた後、復位させました。(放逐された)君主は怨みを言わず、(同時代の)臣下に誹謗されず、道を正して社稷を存続させ、賛美は古今に溢れています。伊尹の勲功は周公より高いと思います」と言った。
慕容盛は、「伊尹は(殷の)旧臣という重要な立場で、阿衡(宰相)の任に昇進した。太甲が位を嗣ぐと、君主としての道が不十分なのに、忠を尽くして輔佐し導くことができず、(自分の責任を顧みずに君主を)桐宮に追放した。やっていることは(夏王朝を滅ぼした)夷羿と同じだ。どうして周公と比較するに値しようか」と言った。郎敷は、「伊尹は人臣の位にいたため、君主を矯正することができず、(殷の)成湯の道が堕落して失われることを恐れました。だから(太甲を一時的に)桐宮に居らせ、下層のものと生産活動をさせて、農耕の苦労を知らしめ、その後に天位を返したのです。これが伊尹なりの忠です」と言った。
慕容盛は、「伊尹は君主の廃立をする実力があったのに、なぜ輔佐して善君に導くことができなかったのか。もし太甲の性質が桀紂に等しければ、(幽閉するまでの)三年間すら君位に即けてはいけなかった。もし性質が穏やかであり聡明で、義の心を掘り起こせるならば、矯正に努めて君主としての徳を練ればよかった。どうして君主を幽閉してその地位を(一時的にせよ伊尹が)代行してよいのだろうか。臣下が君主に仕えるのは、ただ力を尽くすだけである。どうして(わざわざ)知恵を回し仁を隠して君主に悪事を働かせたのか。そもそも太甲の事績について、朕は結論が出ている。太甲は、最上の賢い君主であった。伊尹は三代の朝廷に仕え、かれの治績に対する批判がなかった。伊尹が始祖の名君(殷の湯王)から委任された功業を裏切ろうと(簒奪しようと)しているから、あえて日や月のような聡明さを隠し、伊尹からの追放を受け入れた。伊尹がもつ忠貞の美名を守るためである。そもそも非凡な人間は、のちに非凡な事業を達成する。凡人には理解できない。周の太伯が三たび禅譲した事例のように、なかなか徳を認めて称賛する人がいない」と言った。郎敷は、「太伯が三たび天下を譲ったことは、仲尼(孔子)によって後世に至徳として顕彰されました。太甲は天下に誹謗されましたが、陛下によってその美点を発掘されました」と言った。こうして讌賦(酒盛り)の詩を談じ、金帛をそれぞれに賜った。
遼西太守李朗在郡十年、威制境內、盛疑之、累徵不赴。以母在龍城、未敢顯叛、乃陰引魏軍、將為自安之計、因表請發兵以距寇。盛曰、「此必詐也」。召其使而詰之、果驗、盡滅其族、遣輔國將軍李旱率騎討之。師次建安、召旱旋師。朗聞其家被誅也、擁三千餘戶以自固。及聞旱中路而還、謂有內變、不復為備、留其子養守令支、躬迎魏師于北平。旱候知之、襲克令支、遣廣威孟廣平率騎追朗、及于無終、斬之。初、盛之追旱還也、羣臣莫知其故。旱既斬朗、盛謂羣臣曰、「前以追旱還者、正為此耳。朗新為叛逆、必忌官威、一則鳩合同類、劫掠良善、二則亡竄山澤、未可卒平、故非意而還、以盈怠其志、卒然掩之、必克之理也。羣臣皆曰、「非所及也」。
李旱自遼西還、聞盛殺其將衞雙、懼、棄軍奔走。既而歸罪、復其爵位。盛謂侍中孫勍曰、「旱總三軍之任、荷專征之重、不能杖節死綏、無故逃亡、考之軍正、不赦之罪也。然當先帝之避難、眾情離貳、骨肉忘其親、股肱失忠節、旱以刑餘之體、效力盡命、忠款之至、精貫白日。朕故錄其忘身之功、免其丘山之罪耳」。
盛去皇帝之號、稱1.庶人大王。
魏襲幽州、執刺史盧溥而去。遣孟廣平援之、無及。
盛率眾三萬伐高句驪、襲其新城・南蘇、皆克之、散其積聚、徙其五千餘戶于遼西。
盛引見百僚于東堂、考詳器藝、超拔者十有二人。命百司舉文武之士才堪佐世者各一人。立其子遼西公定為太子、大赦殊死已下。讌其羣臣于新昌殿、盛曰、「諸卿各言其志、朕將覽之」。七兵尚書丁信年十五、盛之舅子也、進曰、「在上不驕、高而不危、臣之願也」。盛笑曰、「丁尚書年少、安得長者之言乎」。盛以威嚴馭下、驕暴少親、多所猜忌、故信言及之。
盛討庫莫奚、大虜獲而還。左將軍慕容國與殿中將軍秦輿・段讚等謀率禁兵襲盛、事覺、誅之、死者五百餘人。前將軍・思悔侯段璣・輿子興・讚子泰等、因眾心動搖、夜於禁中鼓譟大呼。盛聞變、率左右出戰、眾皆披潰。俄而有一賊從闇中擊傷盛、遂輦升前殿、申約禁衞、召叔父河間公熙屬以後事。熙未至而盛死、時年二十九、2.在位三年。偽諡昭武皇帝、墓號興平陵、廟號中宗。
盛幼而羇賤流漂、長則遭家多難、夷險安危、備嘗之矣。懲寶闇而不斷、遂峻極威刑、纖芥之嫌、莫不裁之於未萌、防之於未兆。於是上下振局、人不自安、雖忠誠・親戚亦皆離貳、舊臣靡不夷滅、安忍無親、所以卒于不免。是歲隆安五年也。
1.中華書局本の校勘記によると、『太平御覧』巻一百二十五に引く『後燕録』は、「庶民天王」に作る。李校によると、『晋書』五行志及び『資治通鑑』と『十六国春秋』はすべて「天王」に作る。『北魏書』慕容廆伝もまた「庶民大王」に作る。「人」は唐代の避諱。「大王」と「天王」のどちらが正しいかは未詳である。
2.中華書局本の校勘記によると、「在位四年」に作るべである。
遼西太守の李朗 郡に在ること十年、威もて境內を制め、盛 之を疑ひ、累りに徵すも赴かず。母 龍城に在るを以て、未だ敢て顯らかに叛せず、乃ち陰かに魏軍を引きて、將に自安の計を為さんとし、因りて表して兵を發して以て寇を距まんことを請ふ。盛曰く、「此れ必ず詐なり」と。其の使を召して之を詰するに、果たして驗あり、盡く其の族を滅し、輔國將軍の李旱を遣はして騎を率ゐて之を討つ。師 建安に次ぢ、旱を召して師を旋す。朗 其の家 誅せらるるを聞くや、三千餘戶を擁して以て自ら固む。旱 中路にして還るを聞くに及び、內變有りと謂ひ、復た備へを為さず、其の子の養を留めて令支を守らしめ、躬ら魏師を北平に迎ふ。旱の候 之を知り、襲ひて令支に克ち、廣威の孟廣平を遣はして騎を率ゐて朗を追ひ、無終に及び、之を斬る。初め、盛の旱を追ひて還るや、羣臣 其の故を知る莫し。旱 既に朗を斬るや、盛 羣臣に謂ひて曰く、「前に旱を追ひて還るを以て、正に此が為なるのみ。朗 新たに叛逆を為さば、必ず官威を忌け、一に則ち同類を鳩合し、良善を劫掠し、二に則ち山澤に亡竄し、未だ卒かに平らぐ可からず。故に意に非ざれども還り、以て其の志を盈怠せしむ。卒然と之を掩ふは、必ず克つの理なり。羣臣 皆 曰く、「及ぶ所に非ざるなり」と。
李旱 遼より西還し、盛 其の將の衞雙を殺すを聞き、懼れ、軍を棄てて奔走す。既にして罪に歸し、其の爵位を復せらる。盛 侍中の孫勍に謂ひて曰く、「旱 三軍の任を總べ、專征の重を荷ふ。節に杖りて死綏する能はず、故無くして逃亡す。之を軍正に考ふるに、不赦の罪なり。然れども先帝の難を避くるに當たり、眾情 離貳し、骨肉 其の親を忘れ、股肱 忠節を失ふに、旱 刑餘の體を以て、力を效し命を盡す。忠款の至にして、精は白日を貫く。朕 故に其の忘身の功を錄し、其の丘山の罪を免ずるのみ」と。
盛 皇帝の號を去り、庶人大王を稱す。
魏 幽州を襲ひ、刺史の盧溥を執へて去る。孟廣平を遣はして之を援けしむるも、及ぶ無し。
盛 眾三萬を率ゐて高句驪を伐ち、其の新城・南蘇を襲ち、皆 之に克ち、其の積聚を散ぜしめ、其の五千餘戶を遼西に徙す。
盛 百僚に東堂に引見し、器藝を考詳し、超拔する者 十有二人なり。百司に命じて文武の士才ありて佐世に堪ふる者 各々一人を舉げしむ。其の子の遼西公の定を立てて太子と為し、殊死より已下を大赦す。其の羣臣と新昌殿に讌し、盛曰く、「諸卿 各々其の志を言へ。朕 將に之を覽ぜん」と。七兵尚書の丁信 年は十五にして、盛の舅子なり。進みて曰く、「上に在りて驕らず、高みにありて危ふからず。臣の願ひなり」と。盛 笑ひて曰く、「丁尚書 年少なるに、安にか長者の言を得るや」と。盛 威嚴を以て下を馭し、驕暴にして親少なく、多く猜忌する所なり。故に信言 之に及ぶ。
盛 庫莫奚を討つに、大いに虜獲して還る。左將軍の慕容國 殿中將軍の秦輿・段讚らと與に禁兵を率ゐて盛を襲はんと謀る。事 覺し、之を誅し、死する者 五百餘人なり。前將軍・思悔侯の段璣・輿の子の興・讚の子の泰ら、眾心 動搖するに因りて、夜に禁中に於て鼓譟大呼す。盛 變あるを聞き、左右を率ゐて出でて戰ひ、眾 皆 披潰す。俄かにして一賊 闇中より盛を擊傷するもの有り、遂に輦 前殿に升り、禁衞を申約し、叔父の河間公熙を召して屬するに後事を以てす。熙 未だ至らざるに盛 死し、時に年二十九なり。在位三年なり。偽して昭武皇帝と諡し、墓は興平陵と號し、廟は中宗と號す。
盛 幼くして羇賤にして流漂し、長ずれば則ち家の多難に遭ひ、夷險安危、備さに之を嘗む。寶 闇にして斷ぜざるに懲り、遂に峻しく威刑を極め、纖芥の嫌、之を未萌に裁き、之を未兆に防がざるは莫し。是に於て上下 振局し、人 自安せず。忠誠・親戚と雖も亦た皆 離貳し、舊臣 夷滅せざる靡し。忍に安んじ親無く、所以に免ぜざるに卒はる。是の歲 隆安五年なり。
遼西太守の李朗は郡にあること十年で、威によって領内を統治していた。慕容盛はかれを疑い、しきりに徴したが(首都の龍城に)赴かなかった。母が(人質として)龍城にいるので、明確には叛乱をせず、ひそかに北魏の軍を引き入れ、自らの安全をはかる計略をたて、上表して兵を動員して(北魏の)侵略を防ぎたいと要請した。慕容盛は、「これは必ず詐りである」と言った。使者を召して詰問すると、果たして証拠をつかんだ。李朗の一族をみな殺しにし、輔国将軍の李旱を派遣して騎兵を率いて討伐させた。軍が建安に停泊すると、(慕容盛は)李旱を召還して軍を引き返させた。李朗は家族がすべて誅殺されたと聞き、三千戸あまりを擁して自拠点を固めた。李旱が途中で引き返したと聞き、(慕容盛の軍の)内部で異変があったと思い、防備を十分にせず、子の李養を留めて令支を守らせ、自分は魏軍を北平に迎えにいった。李旱の斥候がこれを知ると、(一転して進軍し)襲撃して令支を破った。広威将軍の孟広平を派遣して騎兵を率いて李朗を追い、無終で追いついて、李朗を斬った。これよりさき、慕容盛が李旱を途中で引き返させたとき、群臣はその理由が分からなかった。李旱が李朗を斬ると、慕容盛は群臣に、「李旱を途中で反転させたのは、これが狙いであった。李朗は叛逆したばかりで、官軍の威勢を警戒していた。一つには同調者をかき集めて、善良な民から略奪し、二つには山沢に逃げ隠れ、すぐには平定できなかった。ゆえに本意ではないが引き返し、敵軍の志を満たして油断させた。(油断を突いて)急襲すれば、勝つのは当然であったのだ」と言った。群臣はみな、「思いもよりませんでした」と言った。
李旱が遼水一帯から西に還ると、(李旱は)慕容盛がその将の衛雙を殺したと聞き、懼れて、軍を棄てて逃走した。処罰を受けてから、爵位を回復された。慕容盛は侍中の孫勍に、「李旱は三軍を統率し、遠征軍の専断権を持っていた。失敗すれば死ぬべきであるのに、理由なく逃亡した。軍の規律に照らせば、赦されない罪である。しかし先帝が難を避けたとき、群臣が離叛し、親族から裏切られ、股肱の臣が忠節を失ったときに、李旱だけは刑を受けた(不具の)体であるにも拘わらず、力を尽くして命を賭けた。至高の忠と誠意の持ち主であり、その心は白日を貫くものだ。だから朕は命がけの功績を考慮し、かれの巨大な罪を免除したのである」と言った。
慕容盛は皇帝の号を去り、庶人大王を称した。
北魏が幽州を襲い、刺史の盧溥を捕らえて去った。孟広平を派遣して救援させたが、間に合わなかった。
慕容盛が三万の兵を率いて高句驪を討伐し、新城と南蘇を襲って、その二城を破り、積み上げた資財を分散させ、五千戸あまりを遼西に移した。
慕容盛は百僚を東堂に招いて面会し、度量や技術を査定し、抜擢されたものが十二人いた。百官に命じて文武の官のうちで才能があり当世の宰相に適するものを一人ずつ挙げさせた。その子の遼西公の慕容定を太子に立て、死罪より以下を大赦した。群臣と新昌殿で酒宴を開いたとき、慕容盛は、「きみたち各々の志を言え。朕が確かに聞き届けるだろう」と言った。七兵尚書の丁信は十五歳であり、慕容盛の舅の子であった。進み出て、「上位にあって驕らず、高みにありて危うくない。これが私の願いです」と言った。慕容盛は笑って、「丁尚書はまだ子供なのに、どうして老成者のようなことを言うのか」と言った。慕容盛は威厳によって臣下を統御し、驕慢で暴力的で親しみが少なく、多くの人物を疑ったので、丁信は(慕容盛に当てこすって)このように言ったのである。
慕容盛が庫莫奚を討伐し、大量に捕虜を得て帰還した。左将軍の慕容国は殿中将軍の秦輿や段讚らとともに禁兵を率いて慕容盛を襲撃しようと計画した。計画が発覚して、誅殺され、死者は五百人あまりであった。前将軍・思悔侯の段璣と秦輿の子の秦興と段讚の子の段泰らは、人々の心が動揺したことを受け、夜に禁中で軍鼓を鳴らして大声をあげた。慕容盛は異変があったと聞き、左右を率いて出て戦い、反乱軍はみな壊滅した。にわかに一人の賊が慕容盛を闇のなかから攻撃して傷つけた。慕容盛は手車に載せられて前殿にのぼり、禁衛の兵に警護を命じてから、叔父の河間公の慕容熙を召して後事を託そうとした。慕容熙が到着する前に慕容盛は死んだ。このとき二十九歳、在位三年であった。不当に昭武皇帝と諡し、墓は興平陵と号し、廟は中宗と号した。
慕容盛は幼くして故郷を離れて貧しいまま漂流し、成長すると親族が多くの困難に見舞われた。順境や逆境と安全や危険を、すべて体験しつくした。慕容宝が暗愚で決断力がなかったことに懲りて、(慕容宝を反面教師として)厳しく刑罰を執行し、ささいな嫌疑や、未発の計画であっても裁き、完全に予防しようとした。そのため上下ともに心が動揺し、人々は不安に陥った。忠臣や親族であっても離叛し、旧臣で滅亡しない者がいなかった。平気で残忍なことをして親和せず、ゆえに(暗殺という)結末を招いた。この年は隆安五年であった。
熙字道文、垂之少子也。初封河間王。段速骨之難、諸王多被其害、熙素為高陽王崇所親愛、故得免焉。蘭汗之篡也、以熙為遼東公、備宗祀之義。盛初即位、降爵為公、拜都督中外諸軍事・驃騎大將軍・尚書左僕射、領中領軍。從征高句驪・契丹、皆勇冠諸將。盛曰、「叔父雄果英壯、有世祖之風、但弘略不如耳」。
及盛死、其太后丁氏以國多難、宜立長君。羣望皆在平原公元、而丁氏意在於熙、遂廢太子定、迎熙入宮。羣臣勸進、熙以讓元、元固以讓熙、熙遂僭即尊位。誅其大臣段璣・秦興等、並夷三族。元以嫌疑賜死。元字道光、寶之第四子也。赦殊死已下、改元曰光始、改北燕臺為大單于臺、置左右輔、位次尚書。
初、熙烝于丁氏、故為所立。及寵幸苻貴人、丁氏怨恚呪詛、與兄子七兵尚書信謀廢熙。熙聞之、大怒、逼丁氏令自殺、葬以后禮、誅丁信。
熙狩于北原、石城令高和殺司隸校尉張顯、閉門距熙。熙率騎馳返、和眾皆投杖、熙入誅之。於是引見州郡及單于八部耆舊于東宮、問以疾苦。
大築龍騰苑、廣袤十餘里、役徒二萬人。起景雲山于苑內、基廣五百步、峯高十七丈。又起逍遙宮・甘露殿、連房數百、觀閣相交。鑿天河渠、引水入宮。又為其昭儀苻氏鑿曲光海・清涼池。季夏盛暑、士卒不得休息、暍死者太半。熙游於城南、止大柳樹下、若有人呼曰、「大王且止」。熙惡之、伐其樹、乃有蛇長丈餘、從樹中而出。
立其貴嬪苻氏為皇后、赦殊死已下。
熙北襲契丹、大破之。
昭儀苻氏死、偽諡愍皇后。贈苻謨太宰、諡文獻公。二苻並美而艷、好微行游讌、熙弗之禁也。請謁必從、刑賞大政無不由之。初、昭儀有疾、龍城人1.王溫稱能療之、未幾而卒。熙忿其妄也、立於公車門支解溫而焚之。其后好游田、熙從之、北登白鹿山、東過青嶺、南臨滄海、百姓苦之、士卒為豺狼所害及凍死者五千餘人矣。會高句驪寇燕郡、殺略百餘人。熙伐高句驪、以苻氏從、為衝車・地道以攻遼東。熙曰、「待剗平寇城、朕當與后乘輦而入、不聽將士先登」。於是城內嚴備、攻之不能下。會大雨雪、士卒多死、乃引歸。
擬鄴之鳳陽門、作弘光門、累級三層。
熙與苻氏襲契丹、憚其眾盛、將還、苻氏弗聽、遂棄輜重、輕襲高句驪、周行三千餘里、士馬疲凍、死者屬路。攻木底城、不克而還。
盡殺寶諸子。大城肥如及宿軍、以仇尼倪為鎮東大將軍・營州刺史、鎮宿軍、上庸公懿為鎮西將軍・幽州刺史、鎮令支。尚書劉木為鎮南大將軍・冀州刺史、鎮肥如。
為苻氏起承華殿、高承光一倍。負土於北門、土與穀同價。典軍杜靜載棺詣闕、上書極諫。熙大怒、斬之。苻氏嘗季夏思凍魚膾、仲冬須生地黃、皆下有司切責、不得、加以大辟、其虐也如此。苻氏死、熙悲號躃踊、若喪考妣、擁其尸而撫之曰、「體已就冷、命遂斷矣」。於是僵仆氣絕、久而乃蘇。大斂既訖、復啟其棺而與交接。服斬縗、食粥。制百僚於宮內哭臨、令沙門素服。使有司案檢哭者、有淚以為忠孝、無則罪之、於是羣臣震懼、莫不含辛以為淚焉。慕容隆妻張氏、熙之嫂也、美姿容、有巧思。熙將以為苻氏之殉、欲以罪殺之、乃毀其襚鞾、中有弊氊、遂賜死。三女叩頭求哀、熙不許。制公卿已下至于百姓、率戶營墓、費殫府藏。下錮三泉、周輪數里、內則圖畫尚書八坐之象。熙曰、「善為之、朕將隨后入此陵」。識者以為不祥。其右僕射韋璆等並懼為殉、沐浴而待死焉。號苻氏墓曰徽平陵。熙被髮徒跣、步從苻氏喪。轜車高大、毀北門而出。長老竊相謂曰、「慕容氏自毀其門、將不久也」。
2.(衞中)〔中衞〕將軍馮跋・左衞將軍張興、先皆坐事亡奔、以熙政之虐也、與跋從兄萬泥等二十二人結盟、推慕容雲為主、發尚方徒五千餘人閉門距守。中黃門趙洛生奔告之、熙曰、「此鼠盜耳、朕還當誅之」。乃收髮貫甲、馳還赴難。夜至龍城、攻北門不克、遂敗、走入龍騰苑、微服隱于林中、為人所執、雲得而弒之、及其諸子同殯城北。時年二十三、在位3.六年。雲葬之于苻氏墓、偽諡昭文皇帝。
垂以孝武帝太元4.八年僭立、至熙四世、凡二十四年、以安帝義熙5.二年滅。初、童謠曰、「一束藳、兩頭然、禿頭小兒來滅燕」。藳字上有艸、下有禾、兩頭然則禾艸俱盡而成高字。雲父名拔、小字禿頭、三子、而雲季也。熙竟為雲所滅、如謠言焉。
1.「王溫」は、『資治通鑑』巻一一三では「王榮」に作る。
2.中華書局本の校勘記に従い、「衞中」を「中衞」に改める。
3.中華書局本の校勘記によると、「六年」は「七年」に作るべきである。
4.中華書局本の校勘記によると、「八年」は「九年」に作るべきである。
5.中華書局本の校勘記によると、「二年」は「三年」に作るべきである。
熙 字は道文、垂の少子なり。初め河間王に封ぜられる。段速骨の難に、諸王 多く其の害を被るに、熙 素より高陽王崇の親愛する所為れば、故に免るるを得たり。蘭汗の篡するや、熙を以て遼東公と為し、宗祀の義を備へしむ。盛 初め即位するや、爵を降して公と為し、都督中外諸軍事・驃騎大將軍・尚書左僕射を拜し、中領軍を領す。高句驪・契丹を征するに從ひ、皆 勇は諸將に冠たり。盛曰く、「叔父 雄果にして英壯、世祖の風有り。但だ弘略 如かざるのみ」と。
盛 死するに及び、其の太后の丁氏 國に多難なるを以て、宜しく長君を立つべしとす。羣望 皆 平原公元に在るに、而れども丁氏 意は熙に在り。遂に太子定を廢し、熙を迎へて入宮せしむ。羣臣 勸進し、熙 以て元に讓るに、元 固く熙に讓るを以て、熙 遂に僭して尊位に即く。其の大臣の段璣・秦興らを誅し、並びに夷三族とす。元 嫌疑を以て死を賜はる。元 字は道光、寶の第四子なり。殊死より已下を赦し、改元して光始と曰ひ、北燕臺を改めて大單于臺と為し、左右の輔を置き、位は尚書に次ぐ。
初め、熙 丁氏を烝し、故に立つる所と為る。苻貴人を寵幸するに及び、丁氏 怨恚して呪詛し、兄の子たる七兵尚書の信と與に熙を廢せんと謀る。熙 之を聞き、大いに怒り、丁氏に逼りて自殺せしめ、葬るに后禮を以てし、丁信を誅す。
熙 北原に狩し、石城令の高和 司隸校尉の張顯を殺し、門を閉ぢて熙を距ぐ。熙 騎を率ゐて馳せ返り、和の眾 皆 杖を投げ、熙 入りて之を誅す。是に於て州郡及び單于の八部の耆舊に東宮に于いて引見し、問ふに疾苦を以てす。
大いに龍騰苑を築き、廣袤は十餘里、役徒は二萬人なり。景雲山を苑內に起て、基は廣さ五百步にして、峯は高さ十七丈なり。又 逍遙宮・甘露殿を起て、房を連ぬること數百、觀閣 相 交はる。天河渠を鑿し、水を引きて宮に入れしむ。又 其の昭儀の苻氏の為に曲光海・清涼池を鑿つ。季夏に盛暑なるに、士卒 休息するを得ず、暍死する者 太半なり。熙 城南に游び、大柳樹の下に止まるに、人の呼ぶ有るが若くして曰く、「大王 且に止めよ」と。熙 之を惡み、其の樹を伐る。乃ち蛇の長さ丈餘なるもの有り、樹中より出づ。
其の貴嬪の苻氏を立てて皇后と為し、殊死より已下を赦す。
熙 北して契丹を襲ひ、大いに之を破る。
昭儀の苻氏 死し、偽して愍皇后と諡す。苻謨に太宰を贈り、文獻公と諡す。二苻 並びに美にして艷たりて、微行し游讌するを好み、熙 之を禁ぜず。謁して必ず從はんことを請ひ、刑賞の大政 之に由らざるは無し。初め、昭儀 疾有るに、龍城の人の王溫 能く之を療すと稱すれども、未だ幾もなくして卒す。熙 其の妄なるを忿り、公車門に於て溫を支解して之を焚く。其の后 游田を好み、熙 之に從ひ、北して白鹿山に登り、東して青嶺を過り、南して滄海に臨む。百姓 之に苦しみ、士卒 豺狼の害する所と為る及び凍死する者 五千餘人なり。會々高句驪 燕郡を寇し、百餘人を殺略す。熙 高句驪を伐ち、苻氏を以て從はしめ、衝車・地道を為りて以て遼東を攻む。熙曰く、「寇城を剗平するを待ち、朕 當に后と與に輦に乘りて入るべし。將士をして先登せしむるを聽(ゆる)さず」と。是に於て城內 備へを嚴くし、之を攻むれども下す能はず。會々大いに雪雨(ふ)り、士卒 多く死し、乃ち引き歸る。
鄴の鳳陽門を擬りて、弘光門を作り、級三層を累ぬ。
熙 苻氏と與に契丹を襲ひ、其の眾 盛なるを憚り、將に還らんとするに、苻氏 聽さず、遂に輜重を棄てて、輕もて高句驪を襲ひ、周行すること三千餘里なり。士馬 疲凍し、死する者 路に屬ふ。木底城を攻め、克たずして還る。
盡く寶の諸子を殺す。大いに肥如及び宿軍に城(きず)き、仇尼倪を以て鎮東大將軍・營州刺史と為し、宿軍を鎮せしめ、上庸公の懿を鎮西將軍・幽州刺史と為し、令支に鎮せしむ。尚書の劉木もて鎮南大將軍・冀州刺史と為し、肥如に鎮せじむ。
苻氏の為に承華殿を起て、高さは承光に一倍す。土を北門に負ひ、土 穀と同價なり。典軍の杜靜 棺を載せて闕に詣り、上書して極諫す。熙 大いに怒り、之を斬る。苻氏 嘗て季夏に魚膾を凍らせんと思ひ、仲冬に地黃を生ずるを須ち、皆 有司に下して切責す。得ざれば、加ふるに大辟を以てし、其の虐なるや此の如し。苻氏 死するや、熙 悲號して躃踊し、喪は考妣が若く、其の尸を擁して之を撫して曰く、「體 已に就ち冷ゆ、命 遂に斷つるか」と。是に於て僵仆して氣絕し、久しくして乃ち蘇る。大斂 既に訖はり、復た其の棺を啟きて與に交接す。斬縗を服し、粥を食らふ。百僚に宮內に哭臨するを制め、沙門をして素服せしむ。有司をして哭する者を案檢せしめ、淚有らば以て忠孝と為し、無ければ則ち之を罪す。是に於て羣臣 震懼し、辛を含みて以て淚を為さざる莫し。慕容隆の妻の張氏は、熙の嫂なり。姿容美しく、巧思有り。熙 將に以て苻氏の殉と為さんとし、罪を以て之を殺さんと欲す。乃ち其の襚鞾を毀ち、中に弊氊有れば、遂に死を賜ふ。三女 叩頭して哀を求むるに、熙 許さず。公卿より已下 百姓に至るまでに制し、戶を率ゐて墓を營み、府藏を費殫す。下は三泉を錮せ、周輪は數里なり。內に則ち尚書八坐の象を圖畫す。熙曰く、「善く之を為さば、朕 將た后に隨ひて此の陵に入らん」。識者 以て不祥と為す。其の右僕射の韋璆ら並びに殉と為るを懼れ、沐浴して死を待つ。苻氏の墓を號して徽平陵と曰ふ。熙 被髮徒跣もて、步きて苻氏の喪に從ふ。轜車 高大なれば、北門を毀ちて出づ。長老 竊かに相 謂ひて曰く、「慕容氏 自ら其の門を毀す、將に久しからざるなり」と。
中衞將軍の馮跋・左衞將軍の張興、先に皆 事に坐して亡奔し、熙が政の虐なるを以て、跋の從兄の萬泥ら二十二人と與に盟を結び、慕容雲を推して主と為し、尚方徒五千餘人を發して門を閉ぢ距守す。中黃門の趙洛生 奔りて之に告ぐ。熙曰く、「此れ鼠盜なるのみ。朕 還りて當に之を誅すべし」と。乃ち髮を收めて貫甲し、馳せ還りて難に赴く。夜に龍城に至り、北門を攻むれども克たず。遂に敗れ、走りて龍騰苑に入り、微服して林中に隱れ、人の執ふる所と為る。雲 得て之を弒し、其の諸子に及ぶまで同に城北に殯す。時に年二十三、在位六年なり。雲 之を苻氏の墓に葬り、偽して昭文皇帝と諡す。
垂 孝武帝の太元八年を以て僭立し、熙に至るまで四世、凡そ二十四年なり。安帝の義熙二年を以て滅ぶ。初め、童謠に曰く、「一束の藳、兩頭 然(も)ゆれば、禿頭の小兒 來たりて燕を滅す」と。藳の字は上に艸有り、下に禾有り。兩頭 然ゆとは則ち禾艸 俱に盡(むなし)くすれば高の字に成る。雲の父 名は拔なり、小字は禿頭なり。三子にして、雲の季なり。熙 竟に雲の滅す所と為り、謠言が如くなれり。
慕容熙は字を道文といい、慕容垂の末子である。はじめ河間王に封建された。段速骨の難で、諸王は多くがその害を被ったが、慕容熙はふだんから高陽王の慕容崇に親愛されていたため、免れることができた。蘭汗が簒奪すると、慕容熙を遼東公とし、宗室の祭祀の整備を任せた。慕容盛が即位すると、爵位を降して公となり、都督中外諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射を拝し、中領軍を領した。高句驪・契丹の征伐に従軍し、つねに勇は諸将の筆頭であった。慕容盛は、「叔父は勇猛果敢ですぐれた豪傑であり、世祖に似ている。ただ広大な計略が劣るだけだ」と言った。
慕容盛が死ぬと、太后の丁氏は国家が危難にあるため、年長の君主を立てるべきと考えた。群臣の支持は平原公の慕容元に集まっていたが、しかし丁氏は慕容熙を支持した。こうして太子の慕容定を廃位し、慕容熙を迎えて宮殿に入らせた。群臣が勧進すると、慕容熙は慕容元に譲ったものの、慕容元が強く慕容熙に譲り返したので、慕容熙は不当に尊位に即いた。(慕容盛の殺害を計画した)大臣の段璣と秦興らを誅し、夷三族とした。慕容元は嫌疑によって死を賜わった。慕容元は字を道光といい、慕容宝の第四子である。死罪より以下を赦し、改元して光始とし、北燕台を改めて大単于台とし、左右の輔(補佐官)を置き、位は尚書に次いだ。
これよりさき、慕容熙は丁氏と密通し、ゆえに(帝位に)立てられた。(慕容熙が)苻貴人を寵愛するようになると、丁氏は怨み怒って呪詛し、兄の子である七兵尚書の丁信とともに慕容熙を廃位しようと計画した。慕容熙はこれを聞き、大いに怒り、丁氏に逼って自殺させた。皇后の礼で葬り、丁信を誅殺した。
慕容熙が北原で狩りをすると、石城令の高和が司隸校尉の張顕を殺し、門を閉じて慕容熙を締め出した。慕容熙は騎兵を率いて馳せ帰った。高和の兵はみな武器を投げ捨て、慕容熙は入城して高和を誅殺した。ここにおいて州郡及び単于の八部の古老を東宮に招いて謁見し、病苦について慰問した。
大規模に龍騰苑を造営し、広さは十里四方で、動員された作業者は二万人であった。景雲山を苑内に築き、基礎の面積は五百歩で、峯の高さは十七丈であった。さらに逍遙宮と甘露殿をつくり、建物を連ねること数百で、観閣(物見台と高殿)が交わりあった。天河渠を掘削し、水を宮殿のなかに引き込んだ。また昭儀の苻氏のために曲光海と清涼池を掘った。晩夏の猛暑でも、士卒は休息を許されず、脱水で死ぬものが大半であった。慕容熙は城南に遊び、大きなヤナギの樹のもとで休憩していると、人が呼ぶような声がして、「大王は中止をせよ」と言った。慕容熙はこれを憎み、その樹を切り倒した。すると蛇の長さ一丈あまりのものが、樹のなかから出現した。
貴嬪の苻氏を立てて皇后とし、死罪より以下を赦した。
慕容熙は北上して契丹を襲撃し、大いにこれを破った。
昭儀の苻氏が死に、不当に愍皇后と諡した。苻謨に太宰を贈り、文献公と諡した。二人の苻氏はどちらも美しくて艷があり、微行して飲み歩くことを好んだが、慕容熙はこれを禁じなかった。謁見すると必ず意見を聞いてくれと頼み、刑賞の重要事項は二人の意見が反映されないものがなかった。これよりさき、昭儀が病気になると、龍城の人の王温が治療できると称したが、ほどなく(昭儀が)亡くなった。慕容熙は嘘をついたことに怒り、公車門において王温の四肢を切り離して焼いた。皇后は田猟を好み、慕容熙はこれに従った。北にいって白鹿山に登り、東にいって青嶺をよぎり、南にいって滄海に臨んだ。万民はこれに苦しみ、豺狼に殺害されたり凍死したりした士卒が五千人あまりであった。たまたま高句驪が燕郡を侵略し、百人あまりを殺して誘拐した。慕容熙は高句驪を討伐し、苻氏を従軍させ、衝車と地道をつくって遼東を攻撃した。慕容熙は、「賊軍の城を平定するのを待って、朕は皇后とともに輦に乗って入城しよう。将士は先に踏み込んではならない」と言った。ここにおいて城内は防備を厳しくし、攻略に失敗した。このとき大雪が降り、士卒は多くが死に、撤退した。
鄴の鳳陽門をまねて、弘光門を作り、級三層をかさねた。
慕容熙は(昭儀の)苻氏とともに契丹を襲撃したが、契丹の軍が強盛であることを憚り、帰還しようとした。苻氏が撤退を許さないので、輜重を後方に残し、軽騎で高句驪を襲って、三千里あまりを周行した。兵士も馬も疲労して凍え、死体が道に重なった。木底城を攻めたが、勝てずに帰った。
慕容宝の諸子をすべて殺した。大規模に肥如と宿軍に築城し、仇尼倪を鎮東大将軍・營州刺史とし、宿軍を鎮守させた。上庸公の慕容懿を鎮西将軍・幽州刺史とし、令支を鎮守させた。尚書の劉木を鎮南大将軍・冀州刺史とし、肥如を鎮守させた。
苻氏のために承華殿を建て、高さは承光殿の二倍であった。土を北門で背負い、土が穀物と同じ値段になった。典軍の杜静は棺を載せて宮殿に至り、上書してきつく諫めた。慕容熙は大いに怒り、これを斬った。苻氏はかつて晩夏に魚膾を凍らせようとし、中冬に地黄が生えるのを待ち、みな担当官に(季節外れの)命令を強制した。成功しなければ、大辟(死刑)だといい、残虐さはこのようであった。苻氏が死ぬと、慕容熙は悲しみ泣き叫んで躃踊し(親の喪のように悲しみ)、服喪は父母に対するようで、その遺体を抱いて撫でて、「体が冷たくなくなった、命がついに終わるのか」と言った。こうして卒倒して気絶し、かなり時間をおいてから意識を取り戻した。大斂が終わると、また棺を開いて交わった。斬縗(斬哀)の喪服をつけ、粥を食らった。百僚に宮内で一律に哭するように命じ、沙門(僧侶)に素服を着せた。担当官に哭泣ぶりを点検させ、涙があれば忠孝と見なし、涙がなければ有罪とした。ここにおいて群臣は震え懼れ、みな辛いものを口に含んで涙を流すことで乗り切った。慕容隆の妻の張氏は、慕容熙の兄嫁であった。姿かたちが美しく、思慮があった。慕容熙は彼女を苻氏に殉死させるため、罪を着せて殺そうとした。(苻氏の)襚鞾(葬送の衣と靴)を傷つけ、磨り減った織物を入れたとして、死刑を賜った。三人の女官が叩頭して哀れみを求めたが、慕容熙は許さなかった。公卿より以下の民草に至るまで、家族を率いて墳墓の造営をさせられ、財政の備蓄を蕩尽した。(苻氏の墓所は)下に三泉を閉ざし、輪を数里にめぐらせた。内側には尚書八坐のすがたを描いた。慕容熙は、「よいものが完成したら、朕もまた皇后とともにこの陵墓に入ろう」と言った。有識者はこれを不祥とした。(尚書)右僕射の韋璆らは殉死させられることを懼れ、沐浴して死を待った。苻氏の墓を徽平陵と号した。慕容熙は髪を束ねずに裸足で歩き、苻氏の遺体の移送に付き従った。轜車(棺を運ぶ車)は高くて大きいため、北門を壊して出た。長老はひそかに、「慕容氏は自らその城門を破却した、もう命運は長くない」と噂した。
中衛将軍の馮跋と左衛将軍の張興は、さきに罪を受けて逃げ去っていたが、慕容熙の政治があまりに残虐なので、馮跋の従兄の萬泥ら二十二人とともに誓いを結び、慕容雲を推戴して君主とするため、尚方の徒の五千人あまりを発して(龍城の)城門を閉じて守った。中黄門の趙洛生が走って慕容熙に告げた。慕容熙は、「くだらぬ盗人の所業だ。朕が帰って誅殺してやる」と言った。髪を束ねて鎧にそでを通し、帰って反乱の場に駆けつけた。夜に龍城に至り、北門を攻めたが勝てなかった。敗北し、走って龍騰苑に入り、微服して林中に隠れていたところ、捕らえられた。慕容雲(高雲)は慕容熙の身柄を得るとこれを殺し、その諸子に及ぶまでみなに城北で殯させた。このとき二十三歳で、在位六年であった。慕容雲はかれを苻氏の墓に葬り、不当に昭文皇帝と諡した。
慕容垂は(東晋の)孝武帝の太元八年(九年か)に僭立し、慕容熙に至るまで四世で、合計で二十四年間であった。安帝の義熙二年(三年か)に滅んだ。これよりさき、童謡があって、「一たばの藳の、両頭(両端)が燃えれば、禿頭の小児が来て燕を滅す」といった。藳という文字は上に艸(草かんむり)があり、下に禾がある。両頭が燃えるとは(藳から)禾と草かんむりが無くなれば高の字ができる(という意味である)。慕容雲の父は名を抜といい、小字は禿頭である。三子(三男)なので、慕容雲の末子(小児)である。慕容熙が最後に慕容雲に滅ぼされたのは、謠言の通りとなった。
慕容雲字子雨、寶之養子也。祖父和、高句驪之支庶、自云高陽氏之苗裔、故以高為氏焉。雲沈深有局量、厚重希言、時人咸以為愚、唯馮跋奇其志度而友之。寶之為太子、雲以武藝給事1.(侍)東宮、拜侍御郎、襲敗慕容會軍。寶子之、賜姓慕容氏、封夕陽公。
熙之葬苻氏也、馮跋詣雲、告之以謀。雲懼曰、「吾嬰疾歷年、卿等所知、願更圖之」。跋逼曰、「慕容氏世衰、河間虐暴、惑妖淫之女而逆亂天常、百姓不堪其害、思亂者十室九焉、此天亡之時也。公自高氏名家、何能為他養子。機運難邀、千歲一時、公焉得辭也」。扶之而出。雲曰、「吾疾苦日久、廢絕世務。卿今興建大事、謬見推逼。所以徘徊、非為身也、實惟否德不足以濟元元故耳」。跋等強之、雲遂即天王位、復姓高氏、大赦境內殊死以下、改元曰正始、國號大燕。署馮跋侍中・都督中外諸軍事・征北大將軍・開府儀同三司・錄尚書事・武邑公、封伯・子・男、鄉・亭侯者五十餘人、士卒賜穀帛有差。熙之羣官、復其爵位。立妻李氏為天王后、子彭為太子。
越騎校尉慕輿良謀叛、雲誅之。
雲臨東堂、幸臣離班・桃仁懷劍執紙而入、稱有所啟、拔劍擊雲、雲以几距班、桃仁進而弒之。馮跋遷雲尸于東宮、偽諡惠懿皇帝。雲自以無功德而為豪桀所推、常內懷懼、故寵養壯士以為腹心。離班・桃仁等並專典禁衞、委之以爪牙之任、賞賜月至數千萬、衣食臥起皆與之同、終以此致敗云。
1.中華書局本の校勘記に従い、「侍」一字を省く。
慕容雲 字は子雨、寶の養子なり。祖父の和は、高句驪の支庶にして、自ら高陽氏の苗裔なりと云ひ、故に高を以て氏と為す。雲 沈深にして局量有り、厚重にして言ふこと希なり。時人 咸 以て愚と為し、唯だ馮跋のみ其の志度を奇とし之を友とす。寶の太子と為るや、雲 武藝を以て東宮に給事し、侍御郎を拜し、襲ひて慕容會が軍を敗る。寶 之を子とし、姓慕容氏を賜はり、夕陽公に封ず。
熙の苻氏を葬るや、馮跋 雲に詣り、之に告ぐるに謀を以てす。雲 懼れて曰く、「吾が嬰疾 年を歷るは、卿ら知る所なり。願はくは更めて之を圖らん」と。跋 逼りて曰く、「慕容氏 世々衰へ、河間 虐暴なり。妖淫の女に惑ひて天常を逆亂し、百姓 其の害に堪へず。亂を思ふ者は十室ありて九なり。此れ天亡の時なり。公 自ら高氏の名家にして、何ぞ能く他の養子と為るか。機運 邀ひ難く、千歲の一時に、公 焉んぞ辭するを得んや」と。之を扶けて出す。雲曰く、「吾 疾苦 日々久しく、世務を廢絕す。卿 今 大事を興建するに、謬りて推逼す。所以に徘徊し、身を為すに非ざるなり。實に惟れ否德 以て元元を濟ふに足らざるが故なるのみ」と。跋ら之に強ひ、雲 遂に天王の位に即き、姓を高氏に復し、境內の殊死より以下を大赦し、改元して正始と曰ひ、國を大燕を號とす。馮跋を侍中・都督中外諸軍事・征北大將軍・開府儀同三司・錄尚書事・武邑公に署し、伯・子・男、鄉・亭侯に封ずる者は五十餘人。士卒の穀帛を賜はるもの差有り。熙の羣官、其の爵位に復す。妻の李氏を立てて天王の后と為し、子の彭を太子と為す。
越騎校尉の慕輿良 謀叛し、雲 之を誅す。
雲 東堂に臨み、幸臣の離班・桃仁 劍を懷きて紙を執りて入り、啟する所有りと稱し、劍を拔きて雲を擊つ。雲 几を以て班を距ぎ、桃仁 進みて之を弒す。馮跋 雲の尸を東宮に遷し、偽して惠懿皇帝と諡す。雲 自ら功德而無きを以て豪桀の推す所と為れば、常に內に懼れを懷き、故に壯士を寵養して以て腹心と為す。離班・桃仁ら並びに禁衞を專典し、之に委ぬるに爪牙の任を以てし、賞賜 月に數千萬に至り、衣食臥起 皆 之と同じく、終に此を以て敗に致れりとしか云ふ。
慕容雲は字を子雨といい、慕容宝の養子である。祖父の高和は、高句驪の(王族の)支庶であり、自ら高陽氏の後裔であると称し、ゆえに高を氏とした。高雲(のちの慕容雲)は落ちついて器量があり、重々しくて口数が少なかった。当時の人は愚だと見なしたが、ただ馮跋だけが度量を認めて友となった。慕容宝が太子になると、高雲は武芸を買われて東宮で仕え、侍御郎を拝し、慕容会の軍を襲撃して破った。慕容宝はこれを自分の子とし、慕容氏の姓を賜わり、夕陽公に封建した。
慕容熙が苻氏を葬ったとき、馮跋が慕容雲を訪れ、謀略を告げた。慕容雲は懼れて、「わが持病は連年におよび、きみたちも知っていることだ。別の機会にしたい」と言った。馮跋は逼って、「慕容氏は代々衰え、河間公(慕容熙)は残虐です。妖艶で淫らな女に惑わされ天の道理に逆らって乱し、万民はその弊害に耐えられません。乱を思うものは十室のうち九室です。これは天が(慕容熙を)滅ぼす時期です。あなたは本来は高氏の名家でありながら、どうして他家の養子となったのですか。好機はめったに巡ってこないのに、千載一遇の機会に、どうして辞退してよいのでしょう」と言った。体を支えて出た。慕容雲は、「わが病気は長引き、世間の務めを辞めている。あなたは重大な事業を興すとき、誤って私を推戴した。(誤りであるが)ゆえに逡巡し、体が動かない。まことに私は不徳であり、万民を救済することはできない」と言った。馮跋らは強引に進め、慕容雲はかくして天王の位に即き、姓を高氏にもどした。領内の死罪より以下を大赦し、改元して正始とし、国を大燕を号した。馮跋を侍中・都督中外諸軍事・征北大将軍・開府儀同三司・録尚書事・武邑公に任命し、伯・子・男、郷・亭侯に封建されたものは五十人あまりであった。士卒に穀帛を賜わって差等があった。慕容熙の群官は、もとの爵位にもどした。妻の李氏を立てて天王の后とし、子の高彭を太子とした。
越騎校尉の慕輿良が謀叛し、慕容雲はこれを誅殺した。
高雲が東堂に臨むと、寵臣の離班と桃仁が剣を懐いたまま紙を持って入り、申し上げたいことがあると称して(接近し)、剣を抜いて高雲を攻撃した。高雲はつくえで離班をふせいだが、桃仁が前進して弑殺をした。馮跋は高雲の遺体を東宮に遷し、不当に恵懿皇帝と諡した。高雲は自分が功徳がないにも拘わらず有力者から推戴されたため、つねに内心で懼れ、そのために勇敢な青年を可愛がって腹心としていた。離班と桃仁は禁衛を掌握しており、爪牙の任務を預かり、賞賜は月に数千万に至り、衣食も寝起きも一緒であったが、結局はかように腹心と密着したために殺されたという。
史臣曰、四星東聚、金陵之氣已分。五馬南浮、玉塞之雄方擾。市朝屢改、艱虞靡息。慕容垂天資英傑、威震本朝、以雄略見猜而庇身寬政、永固受之而以禮、道明事之而畢力。然而隼質難羈、狼心自野。淮南失律、三甥之謀已構。河朔分麾、五木之祥云啟。斬飛龍而遐舉、踰石門而長邁、遂使翟氏景從、鄴師宵逸、收羅趙魏、驅駕英雄。叩囊餘奇、摧五萬於河曲。浮船祕策、招七郡於黎陽。返遼陰之舊物、創中山之新社、類帝禋宗、僭儗斯備。夫以重耳歸晉、賴五臣之功。句踐紿吳、資五千之卒。惡有業殊二霸、眾微一旅、掎拔而傾山嶽、騰嘯而御風雲。雖衞人忘亡復傳於東國、任好餘裕伊愧於西鄰、信苻氏之姦回、非晉室之鯨鯢矣。
寶以浮譽獲升、峻文御俗、蕭牆內憤、勍敵外陵、雖毒不被物而惡足自勦。盛則孝友冥符、文武不墜、韜光而夷讐賊、罪己而遜高危、翩翩然濁世之佳虜矣。熙乃地非奧主、舉因淫德。驪戎之態、取悅於匡牀。玄妻之姿、見奇於鬒髮。蕩輕舟於曲光之海、望朝涉於景雲之山、飾土木於驕心、窮怨嗟於蕞壤、宗祀夷滅、為馮氏之驅除焉。
贊曰、戎狄憑陵、山川沸騰。天未悔禍、人非與能。疾走而捷、先鳴則興。道明烈烈、鞭笞豪傑。掃燕夷魏、釗屠永滅。大盜潛移、鴻名遂竊。寶心生亂、盛清家難。熙極驕淫、人懷憤惋。孼貽身咎、災無以逭。
史臣曰く、四星 東に聚まり、金陵の氣 已に分かる。五馬 南に浮き、玉塞の雄 方に擾ぐ。市朝 屢々改まり、艱虞 息む靡し。慕容垂 天資は英傑にして、威は本朝を震はせ、雄略を以て猜せられて身を寬政に庇ふ。永固 之を受けて以て禮し、道明 之に事へて力を畢す。然れども隼質 羈し難く、狼心 自ら野なり。淮南 律を失ふや、三甥の謀 已に構す。河朔 麾を分くるや、五木の祥 云啟す。飛龍を斬りて遐に舉げ、石門を踰えて長く邁む。遂に翟氏をして景從せしめ、鄴の師 宵に逸し、趙魏を收羅し、英雄に駕驅す。叩囊の餘奇、五萬を河曲に摧す。浮船の祕策、七郡を黎陽に招く。遼陰の舊物を返し、中山の新社を創る。帝を類し宗を禋し、僭儗 斯れ備はる。夫れ以ふに重耳を晉に歸るに、五臣の功に賴る。句踐 吳に紿るに、五千の卒を資とす〔一〕。惡んぞ業は二霸に殊なる有らん。眾は一旅だに微く、掎拔して山嶽を傾け、騰嘯して風雲を御す。衞人 亡を忘ると雖も復た東國に傳へ〔二〕、任好が餘裕 伊れ西鄰に愧ぢしむ。信に苻氏の姦回にして、晉室の鯨鯢に非ず。
寶 浮譽を以て升るを獲て、峻文 俗を御し、蕭牆 內に憤り、勍敵 外に陵す。毒は物に被らざると雖も而れども惡は自ら勦するに足る。盛 則ち孝友にして冥符、文武 墜ちず、光を韜みて讐賊を夷し、己を罪して高危を遜し、翩翩然として濁世の佳虜なり。熙 乃ち地は奧主に非ざるに、舉ぐるに淫德に因る。驪戎の態、悅を匡牀に取る。玄妻の姿、奇を鬒髮に見す。輕舟を曲光の海に蕩し、朝涉を景雲の山に望み〔三〕、土木を驕心に飾り、怨嗟を蕞壤に窮め、宗祀 夷滅し、馮氏の為に驅除せらる。
贊に曰く、戎狄 憑陵し、山川 沸騰す。天 未だ禍を悔いず、人 能を與にするもの非ず〔四〕。疾走して捷ち、先に鳴らさば則ち興る。道明 烈烈として、豪傑を鞭笞す。燕を掃き魏を夷し、釗は屠り永は滅ぶ。大盜 潛移し、鴻名 遂に竊む。寶は心に亂を生じ、盛は家難を清む。熙は驕淫を極め、人は憤惋を懷く。孼は身咎を貽し、災は以て逭する無し。
〔一〕『史記』巻四十一 越王句践世家によると、句践は大夫種を呉王に派遣し、「願大王赦句踐之罪、盡入其寶器。不幸不赦、句踐將盡殺其妻子、燔其寶器、悉五千人觸戰、必有當也」と交渉をしかけ、殲滅の矛先をかわした。
〔二〕『春秋左氏伝』閔公 伝二年に、「衞國忘亡。衞文公大布之衣。大帛之冠。務材。訓農。通商。惠工。敬教。勸學。授方。任能。元年。革車三十乘。季年。乃三百乘」とある。
〔三〕『尚書』周書 泰誓下に、「斮朝涉之脛。剖賢人之心」とあり、殷の紂王の故事。
〔四〕『周易』繋辞下伝に、「天地設位。聖人成能。人謀鬼謀。百姓與能」とある。
史臣はいう、四つの星が東方に集まり、金陵(帝王)の気が分割された。五匹の馬(司馬氏)が南方の川(長江)を渡り、玉塞(玉門関)の外で英雄が騒ぎだした。世間や朝廷ではしばしば勢力が交代し、艱難が途切れずに連続した。慕容垂は天賦の資質をもった英傑であり、その勢威は本朝(東晋)を震わせ、雄略さがあって陥れられてたが寛大な政治のもとで身を庇われた。永固(前秦の苻堅)は慕容垂を受け入れて礼遇し、道明(慕容垂)はこれに仕えて尽力した。しかし猛禽のような性質は飼い慣らされず、狼の心はおのずと野生に帰るものである。淮南(淝水の戦い)で(前秦の)軍の規律が失われると、三人の甥の計画(燕国の再建)が実行に移された。河朔で旌旗が分かれ、五木の祥が現れた。苻飛龍を斬って遥かに掲げ、石門を踰えて遠くに進んだ。かくして翟斌を影のように付き従わせ、鄴の軍は夕暮れに逃げ去り、趙魏の一帯を味方に引き入れ、駕を英雄(¥)を駆った。叩囊の餘奇(¥)は、五万の兵を河曲で退けた。浮船の秘策(¥)は、七郡(¥)を黎陽に招いた。遼陰の旧物(¥)を返し、中山の新社(¥)を創った。こうして(慕容垂は)天帝と祖先を祭り、僭逆の体制を整えた。この事績を考えるに(春秋時代に)重耳が晋に帰るとき、五臣の功に頼った。(越王の)句践が呉を欺く(追撃をかわす)とき、五千の兵を元手とした。慕容垂の覇業はこの二者(重耳と句践)と異なるものであろうか。軍勢が一旅(いち部隊)すらないにも拘わらず、切りとって山嶽を傾け、唱えて風雲を制御した。衛国の人は滅亡を忘れても(『春秋左氏伝』閔公 伝二年)東国に(風俗を)伝え、任好(晋の穆公)のゆったりとした政治は西戎の諸勢力を恥じ入らせた。まことに苻氏(前秦)にとって邪悪な人物であったが、晋室にとっての極悪人ではない。
慕容宝は実態なき声望のおかげで君位に昇ったが、厳格な法運用で風俗を取り締まり、親族から対立者を生みだし、強敵(北魏)によって外から攻撃を受けた。毒とは外部から食らわなくても、自身を疲弊させるものである。慕容盛は父母兄弟によく仕えたが逆境を過ごし、文武の官の地位を保全し、自身の輝きを隠して仇敵(蘭汗)を殺害した。自分を罰して高慢になることの危うさを避け(尊号を称さず)、身のこなしが軽い乱世の好人物であった。慕容熙は(元来は)遠隔地に封建された諸王であり、淫らな女性を寵愛した。春秋晋の驪姫の乱を再来させ、後宮での喜びを優先した。絶世の美女は、つやのある黒髪をもち、(慕容熙は美女の言いなりで)小舟を曲光の海に浮かべ、朝の冷たい川を渡って景雲の山に望み、土木工事によって傲慢さを飾ったところ、民草からの怨嗟を買い、宗廟の祭りを断絶させ、馮跋によって排除されたと。
賛にいう、戎狄が人を凌ぎ、山川は沸き立った。天はまだ失敗を悔いず、人々は理に到達せずにいた。いち早く勝ち上がり、さきに名乗りをあげたものが勃興した。道明(慕容垂)は武威を振るい、豪傑を鞭打って統御した。(慕容垂は)燕の地を奪って北魏を破り、高句麗王の釗を屠って慕容永を滅ぼした。巨大な盗賊が僭称し、皇帝の号を掠め取った。慕容宝は身内に乱を生じたが、慕容盛が親族の苦難を清算した。慕容熙は驕慢であり淫行を極め、人々は憤懣を懐いた。孼(養子の慕容運)は自分から禍いを招き、災難を逃れることができなかったと。