いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第二十六巻_南涼_禿髪烏孤・禿髪利鹿孤・禿髪傉檀

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。お気づきの点がございましたら、ご指摘くださいませ。

禿髮烏孤

原文

禿髮烏孤、河西鮮卑人也。其先與後魏同出。八世祖匹孤率其部自塞北遷于河西、其地東至麥田・牽屯、西至濕羅、南至澆河、北接大漠。匹孤卒、子壽闐立。初、壽闐之在孕、母胡掖氏因寢而產於被中、鮮卑謂被為「禿髮」、因而氏焉。壽闐卒、孫樹機能立、壯果多謀略。泰始中、殺秦州刺史胡烈於萬斛堆、敗涼州刺史蘇愉于金山、盡有涼州之地、武帝為之旰食。後為馬隆所敗、部下殺之以降。從弟務丸立。死、孫推斤立。死、子思復鞬立、部眾稍盛。烏孤即思復鞬之子也。及嗣位、務農桑、修鄰好。呂光遣使署為假節・冠軍大將軍・河西鮮卑大都統・廣武縣侯。烏孤謂諸將曰、「呂氏遠來假授、當可受不。」眾咸曰、「吾士眾不少、何故屬人。」烏孤將從之、其將石真若留曰、「今本根未固、理宜隨時。光德刑修明、境內無虞、若致死于我者、大小不敵、後雖悔之、無所及也。不如受而遵養之、以待其釁耳。」烏孤乃受之。
烏孤討乙弗・折掘二部、大破之、遣其將石亦干築廉川堡以都之。烏孤登廉川大山、泣而不言。石亦干進曰、「臣聞主憂臣辱、主辱臣死、大王所為不樂者、將非呂光乎。光年已衰老、師徒屢敗。今我以士馬之盛、保據大川、乃可以一擊百、光何足懼也。」烏孤曰、「光之衰老、亦吾所知。但我祖宗以德懷遠、殊俗憚威、盧陵・契汗萬里委順。及吾承業、諸部背叛、邇既乖違、遠何以附、所以泣耳。」其將苻渾曰、「大王何不振旅誓眾、以討其罪。」烏孤從之、大破諸部。呂光封烏孤廣武郡公。又討意云鮮卑、大破之。
光又遣使署烏孤征南大將軍・益州牧・左賢王。烏孤謂使者曰、「呂王昔以專征之威、遂有此州、不能以德柔遠、惠安黎庶。諸子貪淫、三甥肆暴、郡縣土崩、下無生賴。吾安可違天下之心、受不義之爵。帝王之起、豈有常哉。無道則滅、有德則昌。吾將順天人之望、為天下主。」留其鼓吹羽儀、謝其使而遣之。

訓読

禿髮烏孤は、河西の鮮卑の人なり。其の先 後魏と同出なり。八世祖の匹孤 其の部を率ゐ塞北より河西に遷り、其の地は東のかた麥田・牽屯に至り、西のかた濕羅に至り、南のかた澆河に至り、北のかた大漠に接す。匹孤 卒し、子の壽闐 立つ。初め、壽闐の孕に在るや、母の胡掖氏 因りて寢ねて被中に產み、鮮卑 被を謂ひて「禿髮」と為し、因りて焉を氏とす。壽闐 卒し、孫の樹機能 立ち、壯果にして謀略多し。泰始中、秦州刺史の胡烈を萬斛堆に殺し、涼州刺史の蘇愉を金山に敗り、盡く涼州の地を有ち、武帝 之の為に旰食す。後に馬隆の為に敗られ、部下 之を殺して以て降る。從弟の務丸 立つ。死し、孫の推斤 立つ。死し、子の思復鞬 立ち、部眾 稍く盛なり。烏孤 即ち思復鞬の子なり。位を嗣ぐに及び、農桑に務め、鄰好を修む。呂光 使を遣して署して假節・冠軍大將軍・河西鮮卑大都統・廣武縣侯と為す。烏孤 諸將に謂ひて曰く、「呂氏 遠來して假授す、當に受くる可きや不や」と。眾 咸 曰く、「吾が士眾 少からず、何故に人に屬すか」と。烏孤 將に之に從はんとし、其の將たる石真若 留めて曰く、「今 本根 未だ固からず、理は宜しく時に隨ふべし。光の德刑 修明なり、境內 虞無く、若し死を我に致さば、大小 敵せず、後に之を悔ゆると雖も、及ぶ所無きなり。受けて之に遵養し、以て其の釁を待つに如かず」と。烏孤 乃ち之を受く。
烏孤 乙弗・折掘二部を討ち、大いに之を破り、其の將の石亦干を遣はし廉川堡を築きて以て之に都す。烏孤 廉川の大山に登り、泣きて言はず。石亦干 進みて曰く、「臣 聞くに主は憂へば臣は辱ぢ、主 辱づれば臣は死すと、大王 為す所 樂まざるは、將た呂光に非ざるか。光 年は已に衰老たり、師 徒に屢々敗る。今 我 士馬の盛を以て、大川に保據し、乃ち一を以て百を擊つ可し、光 何ぞ懼るるに足らんや」と。烏孤曰く、「光の衰老、亦た吾 知る所なり。但だ我が祖宗 德を以て遠を懷け、殊俗 威を憚り、盧陵・契汗 萬里に委順す。吾 業を承るに及び、諸部 背叛し、邇きは既に乖違せば、遠きは何を以て附さん、泣く所以なり」と。其の將たる苻渾曰く、「大王 何ぞ振旅して眾に誓ひ、以て其の罪を討たざるか」と。烏孤 之に從ひ、大いに諸部を破る。呂光 烏孤を廣武郡公に封ず。又 意云鮮卑を討ち、大いに之を破る。
光 又 使を遣はし烏孤を征南大將軍・益州牧・左賢王に署す。烏孤 使者に謂ひて曰く、「呂王 昔 專征の威を以て、遂に此の州を有ち、德を以て遠を柔し、黎庶を惠安すること能はず。諸子 貪淫にして、三甥 肆暴なり、郡縣 土崩し、下に生賴無し。吾 安んぞ天下の心に違ひ、不義の爵を受く可きか。帝王の起つや、豈に常有るや。無道なれば則ち滅し、有德なれば則ち昌ゆ。吾 將に天人の望に順ひ、天下の主と為らんとす」と。其の鼓吹羽儀を留め、其の使に謝して之を遣はす。

現代語訳

禿髪烏孤は、河西の鮮卑である。祖先は後魏(北魏)と同族である。八世祖の匹孤は部族を率いて塞北から河西に遷り、その領土の東は麦田・牽屯、西は濕羅、南は澆河に至り、北は砂漠に接した。匹孤が死に、子の壽闐が立った。壽闐が誕生するとき、母の胡掖氏は寝ており被(布団)のなかで産んだが、鮮卑は被のことを「禿髮」と呼ぶので、これを氏姓とした。壽闐が死ぬと、孫の樹機能が立ち、武勇があり果敢で謀略が多かった。泰始中(二六五-二七四)、秦州刺史の胡烈を萬斛堆で殺し、涼州刺史の蘇愉を金山で破り、涼州全域を領有し、武帝はこのために忙殺された。のちに馬隆に破られ、部下に殺され(晋王朝)降服した。従弟の務丸が立った。死ぬと、孫の推斤が立った。死ぬと、子の思復鞬が立ち、部族は徐々に盛んになった。烏孤は思復鞬の子である。位を嗣ぐと、農桑に努め、周囲と外交を結んだ。(後涼の)呂光は使者を送って仮節・冠軍大将軍・河西鮮卑大都統・広武県侯とした。烏孤は諸将に、「呂氏は遠くから官爵をくれたが、受けるべきか否か」と言った。みなは、「わが兵数は少なくない、なぜ他人に服属するのか」と言った。烏孤が官爵を拒否しかけたが、将の石真若が留め、「いま国家の基礎は強固でなく、一時的に服従するのが合理的です。呂光は徳刑が明確であり、領内に綻びがなく、もし討伐を受けたら、兵数で圧倒されます、後悔しても、間に合いません。官爵を受けて従順を装い、後涼の隙を待つほうがよい」と言った。烏孤は受納した。
烏孤は乙弗・折掘という二部族を、大いに破り、将の石亦干を遣わして広川堡を築いてここを都とした。烏孤は廉川の大山に登ったが、泣いて黙った。石亦干が進んで、「主が憂えば臣は恥じ、主が恥じれば臣は死ぬと聞きます、大王が事業を楽しまぬのは、呂光がいるからですか。呂光は老年で衰弱し、軍は連敗しています。わが士馬は盛んです、大川を本拠地とすれば、一人で百人を倒せます、呂光など懼れるに足りません」と言った。烏孤は、「呂光の衰老は、私も知っている。わが祖先が遠方を徳で懐かせ、他の部族は威勢を憚り、盧陵・契汗 萬里が帰順した。ところが私が事業を継承すると、諸部が離叛し、近くは裏切り、遠くは味方せず、だから泣いたのだ」と言った。将の苻渾は、「なぜ大王は軍を動かして兵に誓い、罪人(不服従の部族)を討伐せぬのですか」と言った。烏孤はこれに従い、大いに諸部を破った。呂光は烏孤を広武郡公に封じた。意云鮮卑を討ち、大いに破った。
呂光は使者を送って烏孤を征南大将軍・益州牧・左賢王とした。烏孤は使者に、「呂王はむかし専ら武力のみで、この州を制圧しただけで、徳により遠方を懐柔し、万民に恩恵を施すことはなかった。(呂氏の)諸子は貪欲であり、三人の甥は暴虐であり、郡県は土のように崩壊し、民は生計が立たない。私はなぜ天下の期待を裏切り、不義の爵位を受け取ろうか。帝王が出発するとき、常道はない。(主筋が)無道ならば討滅し、有徳ならば共存する。私は天と人の希望に沿い、天下の主になろう」と言った。(独立国としての)鼓吹や羽儀を残し、使者に頭を下げてから返した。

原文

隆安元年、自稱大都督・大將軍・大單于・西平王、赦其境內、年號太初。曜兵廣武、攻克金城。光遣將軍竇苟來伐、戰于街亭、大敗之。降光樂都・湟河・澆河三郡、嶺南羌胡數萬落皆附之。光將楊軌・王乞基率戶數千來奔。烏孤更稱武威王。1.後三歲、徙于樂都、署弟利鹿孤為驃騎大將軍・西平公、鎮安夷、傉檀為車騎大將軍・廣武公、鎮西平。以楊軌為賓客。金石生・時連珍、四夷之豪雋。陰訓・郭倖、西州之德望。楊統・楊貞・衞殷・麴丞明・郭黃・郭奮・史暠・鹿嵩、文武之秀傑。梁昶・韓疋・張昶・郭韶、中州之才令。金樹・2.薛翹・趙振・王忠・趙晁・蘇霸、秦雍之世門、皆內居顯位、外宰郡縣。官方授才、咸得其所。
烏孤從容謂其羣下曰、「隴右區區數郡地耳。因其兵亂、分裂遂至十餘。乾歸擅命河南、段業阻兵張掖、虐氐假息、偷據姑臧。吾藉父兄遺烈、思廓清西夏、兼弱攻昧、三者何先。」楊統進曰、「乾歸本我所部、終必歸服。段業儒生、才非經世、權臣擅命、制不由己、千里伐人、糧運懸絕、且與我鄰好、許以分災共患、乘其危弊、非義舉也。呂光衰老、嗣紹沖闇、二子纂・弘、雖頗有文武、而內相猜忌。若天威臨之、必應鋒瓦解。宜遣車騎鎮浩亹、鎮北據廉川、乘虛迭出、多方以誤之、救右則擊其左、救左則擊其右、使纂疲於奔命、人不得安其農業。兼弱攻昧、於是乎在、不出二年、可以坐定姑臧。姑臧既拔、二寇不待兵戈、自然服矣。」烏孤然之、遂陰有吞并之志。
段業為呂纂所侵、遣利鹿孤救之。纂懼、燒氐池・張掖穀麥而還。以利鹿孤為涼州牧、鎮西平、追傉檀入錄府國事。是歲、烏孤因酒墜馬傷脅、笑曰、「幾使呂光父子大喜。」俄而患甚、顧謂羣下曰、「方難未靜、宜立長君。」言終而死。在王位三年、偽諡武王、廟號烈祖。弟利鹿孤立。

1.中華書局本によれば、「後三歲」とあるが、二つの出来事は一年しか離れていない。
2.中華書局本によれば、「薛翹」は「蘇翹」に作るべきか。

訓読

隆安元年、自ら大都督・大將軍・大單于・西平王を稱し、其の境內を赦し、年を太初と號す。兵を廣武に曜せ、攻めて金城に克つ。光 將軍の竇苟を遣はして來伐し、街亭に戰ひ、大いに之を敗る。光の樂都・湟河・澆河三郡を降し、嶺南の羌胡の數萬落 皆 之に附す。光の將たる楊軌・王乞基 戶數千を率ゐて來奔す。烏孤 更めて武威王を稱す。後三歲、樂都に徙り、弟の利鹿孤を署して驃騎大將軍・西平公と為し、安夷に鎮し、傉檀を車騎大將軍・廣武公と為し、西平に鎮せしむ。楊軌を以て賓客と為す。金石生・時連珍、四夷の豪雋なり。陰訓・郭倖、西州の德望なり。楊統・楊貞・衞殷・麴丞明・郭黃・郭奮・史暠・鹿嵩、文武の秀傑なり。梁昶・韓疋・張昶・郭韶、中州の才令なり。金樹・薛翹・趙振・王忠・趙晁・蘇霸、秦雍の世門なり、皆 內に顯位に居り、外に郡縣に宰たり。官方 才に授け、咸 其の所を得たり。
烏孤 從容として其の羣下に謂ひて曰く、「隴右 區區たる數郡の地なるのみ。其の兵亂に因り、分裂して遂に十餘に至る。乾歸 命を河南に擅にし、段業 兵を張掖に阻み、虐氐 息を假り、偷みて姑臧に據る。吾 父兄の遺烈を藉り、西夏を廓清し、弱を兼せ昧を攻めんことを思ふ、三者 何れか先とせん」と。楊統 進みて曰く、「乾歸 本は我の部する所、終に必ず歸服せん。段業 儒生なり、才は經世に非ず、權臣 命を擅にし、制は己に由らず、千里に人を伐たば、糧運 懸絕ならん、且つ我と鄰好ありて、許に以て災を分け患を共にし、其の危弊に乘ぜば、義舉に非ざるなり。呂光 衰老なり、嗣の紹 沖闇なり、二子の纂・弘、頗る文武有ると雖も、而れども內に相 猜忌す。若し天威ありて之に臨せば、必ず鋒に應じて瓦解せん。宜しく車騎鎮の浩亹を遣し、北に鎮して廉川に據らしめ、虛に乘して迭に出れば、多方に以て之を誤らしめ、右を救へば則ち其の左を擊ち、左を救へば則ち其の右を擊ち、纂をして奔命に疲れしめ、人 其の農業を安ずることを得ず。弱を兼せ昧を攻むるは、是に於てや在り、二年を出でず、以て坐して姑臧を定む可し。姑臧 既に拔かば、二寇 兵戈を待たず、自然に服す」と。烏孤 之を然りとし、遂に陰かに吞并の志有り。
段業 呂纂の為に侵せられ、利鹿孤を遣して之を救ふ。纂 懼れ、氐池・張掖の穀麥を燒きて還る。利鹿孤を以て涼州牧と為し、西平に鎮し、傉檀を追ひて入りて府國の事を錄せしむ。是の歲、烏孤 酒に因りて馬を墜ちて脅を傷つけ、笑ひて曰く、「幾ど呂光父子をして大いに喜ばしむ」と。俄にして患 甚しく、顧みて羣下に謂ひて曰く、「方難 未だ靜ならず、宜しく長君を立つべし」と。言 終はりて死す。王位に在ること三年、偽して武王と諡し、廟を烈祖と號す。弟の利鹿孤 立つ。

現代語訳

隆安元(三九七)年、自ら大都督・大将軍・大単于・西平王を称し、領内を赦し、太初と改元した。兵を広武に整列させ、金城を攻め落とした。呂光は将軍の竇苟を討伐に向かわせたが、街亭で戦い、大いにこれを破った。呂光領内の楽都・湟河・澆河という三郡を降し、嶺南の羌胡の数万落は全て服従した。呂光の将である楊軌・王乞基は数千戸を連れて逃げてきた。烏孤は改めて武威王を称した。三年後(正しくは翌年か)、楽都に本拠地を移し、弟の利鹿孤(後の二代目)を驃騎大将軍・西平公とし、安夷を鎮守し、傉檀(後の三代目)を車騎大将軍・広武公とし、西平を鎮守させた。楊軌を賓客とした。金石生・時連珍は、四夷の豪俊である。陰訓・郭倖は、西州の徳望である。楊統・楊貞・衛殷・麴丞明・郭黄・郭奮・史暠・鹿嵩は、文武の秀傑である。梁昶・韓疋・張昶・郭韶は、中原の才人である。金樹・薛翹(蘇翹)・趙振・王忠・趙晁・蘇霸は、秦州や雍州の世族であり、みな朝廷内では高位におり、外では郡県の長となった。才能に見合った官職を授け、それぞれ活躍の場を得た。
烏孤はゆったりと群下に、「隴右は狭小な数郡だけの地だ。兵乱のせいで、十以上に分割された。乾帰は河南を支配し、段業は張掖に立てこもり、残虐な氐族(後涼の呂氏)が隙を突いて、姑臧を盗み取っている。私は父兄の偉業を継承し、西夏を平定し、衰弱した国から攻略したいが、三者のどれを優先すべきか」と質問した。楊統は進んで、「乾帰は元来はわれらの部下で、結局は帰服するはず。段業は儒生であり、世を治める才覚はなく、権臣(沮渠氏)が主権を操り、統制が取れず、千里の遠征をしたら、補給が途絶える恐れがあり、しかも友好関係にあり、苦難を共有しているので、彼らの危機に乗ずるのは、義挙とは言えません。呂光は衰弱した老人で、後嗣の呂紹は幼く愚かで、二子の呂纂・呂弘は、文武に優れているが、内部で疑いあっています。天の威光をもって臨めば、戦わずとも瓦解させられます。車騎鎮の浩亹を派遣し、北を守って廉川に拠らせ、虚に乗じて代わる代わる出撃すれば、敵軍を兵力配分を誤らせ、右を救えば左を撃ち、左を救えば右を討って、呂纂を振り回せば、彼らは農業どころではありません。衰弱した国の攻略は、このようにやればよく、二年とかからず、姑臧を入手できましょう。姑臧さえ抜けば、残りの二寇(乾帰・姑臧)は、自然と服属します」と言った。烏孤は同意し、併呑する志を抱いた。
段業が呂纂に侵略されると、利鹿孤に救援させた。呂纂は懼れ、氐池・張掖の備蓄穀物を焼いて撤退した。利鹿孤を涼州牧とし、西平に出鎮させ、追って傉檀には府国の事を録させた。この歳、烏孤は酒に酔って落馬し肋骨を折り、「呂光父子を喜ばせてしまうな」と笑っていた。急に悪化し、群下を顧みて、「戦乱は静まっていない、年長の君主を立てよ」と言った。言い終わると死んだ。王位にあること三年、不当に武王と諡され、廟を烈祖と号した。弟の利鹿孤が立った。

禿髮利鹿孤

原文

利鹿孤以隆安三年即偽位、赦其境內殊死已下、又徙居于西平。使記室監麴梁明聘于段業。業曰、「貴主先王創業啟運、功高先世、宜為國之太祖、有子何以不立。」梁明曰、「有子羌奴、先王之命也。」業曰、「昔成王弱齡、周召作宰。漢昭八歲、金霍夾輔。雖嗣子沖幼、而二叔休明、左提右挈、不亦可乎。」明曰、「宋宣能以國讓、春秋美之。孫伯符委事仲謀、終開有吳之業。且兄終弟及、殷湯之制也、亦聖人之格言、萬代之通式、何必胤己為是、紹兄為非。」業曰、「美哉。使乎之義也。」
利鹿孤聞呂光死、遣其將金樹・蘇翹率騎五千屯于昌松漠口。既逾年、赦其境內、改元曰建和。二千石長吏清高有惠化者、皆封亭侯・關內侯。呂纂來伐、使傉檀距之。纂士卒精銳、進度三堆、三軍擾懼。傉檀下馬據胡牀而坐、士眾心乃始安。與纂戰、敗之、斬二千餘級。纂西擊段業、傉檀率騎一萬、乘虛襲姑臧。纂弟緯守南北城以自固。傉檀置酒于朱明門上、鳴鍾鼓以饗將士、耀兵于青陽門、虜八千餘戶而歸。
乞伏乾歸為姚興所敗、率騎數百來奔、處之晉興、待以上賓之禮。乾歸遣子謙等質于西平。鎮北將軍俱延言於利鹿孤曰、「乾歸本我之屬國、妄自尊立、理窮歸命、非有款誠。若奔東秦、必引師西侵、非我利也。宜徙於乙弗之間、防其越逸之路。」利鹿孤曰、「吾方弘信義以收天下之心、乾歸投誠而徙之、四海將謂我不可以誠信託也。」俄而乾歸果奔于姚興。利鹿孤謂延曰、「不用卿言、乾歸果叛、卿為吾行也。」延追乾歸至河、不及而還。

訓読

利鹿孤 隆安三年を以て偽位に即き、其の境內の殊死已下を赦し、又 居を西平に徙す。記室監の麴梁明をして段業に聘せしむ。業曰く、「貴主の先王 創業して啟運し、功は先世に高く、宜しく國の太祖と為すべし、子有りて何ぞ以て立てざる」と。梁明曰く、「子の羌奴有れども、先王の命なり」と。業曰く、「昔 成王 弱齡にして、周召 宰と作る。漢昭 八歲にして、金霍 夾輔す。嗣子 沖幼と雖も、而れども二叔 休明なり、左提右挈、亦た可からざるか」と。明曰く、「宋宣 能く國を以て讓り、春秋 之を美とす。孫伯符 事を仲謀に委ね、終に有吳の業を開く。且つ兄 終はりて弟 及ぶは、殷湯の制なり、亦た聖人の格言、萬代の通式なり、何ぞ必ずしも己に胤とするを是を為とし、兄を紹ぐを非と為すか」と。業曰く、「美なるかな。使乎の義なり」と。
利鹿孤 呂光 死すると聞き、其の將の金樹・蘇翹を遣はして騎五千を率ゐて昌松の漠口に屯す。既に逾年し、其の境內を赦し、改元して建和と曰ふ。二千石の長吏 清高にして惠化有る者は、皆 亭侯・關內侯に封ず。呂纂 來伐し、傉檀をして之を距がしむ。纂の士卒は精銳にして、進みて三堆を度り、三軍 擾懼す。傉檀 馬を下り胡牀に據りて坐り、士眾の心 乃ち始めて安んず。纂と戰ひ、之を敗り、二千餘級を斬る。纂 西のかた段業を擊ち、傉檀 騎一萬を率ゐ、虛に乘じて姑臧を襲ふ。纂の弟たる緯 南北の城を守りて以て自固す。傉檀 朱明門上に置酒し、鍾鼓を鳴して以て將士を饗し、兵を青陽門に耀せ、八千餘戶を虜として歸る。
乞伏乾歸 姚興の為に敗られ、騎數百を率ゐて來奔し、之を晉興に處し、上賓の禮を以て待す。乾歸 子の謙らを遣はして西平に質とす。鎮北將軍の俱延 利鹿孤に言ひて曰く、「乾歸 本は我の屬國なり、妄りに自ら尊立し、窮を理めて命に歸す、款誠有るに非ず。若し東秦に奔らば、必ず師を引て西のかた侵し、我が利に非ざるなり。宜しく乙弗の間に徙し、其の越逸の路を防ぐべし」と。利鹿孤曰く、「吾 方に信義を弘めて以て天下の心を收めんとす、乾歸 誠に投じて之に徙せば、四海 將に我を誠を以て信託す可からずと謂はんとす」と。俄にして乾歸 果して姚興に奔る。利鹿孤 延に謂ひて曰く、「卿の言を用ひず、乾歸 果して叛す、卿 吾の為に行ふなり」と。延 乾歸を追ひて河に至り、及ばずして還る。

現代語訳

利鹿孤は隆安三(三九九)年に君位に即き、領内の死罪以下を赦し、西平に本拠地を移した。記室監の麴梁明に段業を訪問させた。段業は、「先代(烏孤)は国運を開始させ、功績は昔から高い、国の太祖にすべきで、なぜ彼の息子を立てないのか」と言った。梁明は、「羌奴という子がいるが、(弟を立てるのが)先王の命でした」と言った。段業は、「むかし周成王は若年なので、周公旦と召公奭が宰相になった。前漢の昭帝は八歳なので、金日磾と霍光が補佐した。嗣子が幼くても、二人の叔父が、左右を補佐すれば、よいではないか」と言った。梁明は、「(春秋の)宋宣公は(子でなく弟に)国を譲り、春秋はこれを美事としています。(三国呉の)孫伯符は仲謀(弟の孫権)に委任し、呉王朝が開かれた。兄が死んで弟が継ぐのは、殷湯王の制度でもあり、聖人の格言、万代の通例なので、父子継承だけが正しく、兄弟継承が悪いとは言えません」と言った。段業は、「素晴らしい、使者の手本である」と言った。
利鹿孤は呂光が死んだと聞き、将の金樹・蘇翹に五千騎を率いて昌松の漠口に駐屯させた。即位して年をまたぎ、領内を赦し、建和と改元した。二千石の長吏のうち高潔で善政をしている者を、亭侯・関内侯に封じた。呂纂が討伐に来たので、傉檀に防がせた。呂纂の兵士は精鋭であり、進んで三堆を渡ると、三軍は騒ぎ懼れた。傉檀が馬を下りて胡牀に座ると、士衆の心はようやく安定した。呂纂と戦って、これを破り、二千餘級を斬った。呂纂が西のかた段業を攻撃すると、傉檀は一万騎を率い、虚に乗じて姑臧を襲った。呂纂の弟である呂緯は南北の城で守りを固めた。傉檀は朱明門上に置酒し、鍾鼓を鳴らして将士を饗応し、兵を青陽門で見せつけ、八千餘戸を捕らえて帰った。
乞伏乾帰が姚興に破られ、数百騎で逃げてきたので、これを晋興に配置し、上賓の礼で待遇した。乾帰は子の謙らを西平に人質として(利鹿孤に)預けた。鎮北将軍の俱延は利鹿孤に、「乾帰は元来はわが属国でありながら、みだりに自立したが、進退窮まって帰順しました、誠意があるとは言えません。もし東秦(後秦)に逃げられたら、きっと軍を率いて西方から侵略し、わが国の利益を損ねます。(鮮卑の)乙弗部のなかに移し、逃走の道を塞ぎなさい」と言った。利鹿孤曰く、「私は信義を広めて天下の心を得たい、誠意を持って頼ってきた乾帰を(遠隔地に)移せば、四海は私のことを誠意がなく信用できないと言うだろう」と言った。にわかに乾帰は姚興(後秦)に逃げた。利鹿孤は俱延に、「あなたの意見を用いず、乾帰が結局は叛いた、助言をしてくれたのに」と言った。俱延は俱延を追って黄河に至ったが、追い付けずに還った。

原文

利鹿孤立二年、龍見于長寧、麒麟游于綏羌、於是羣臣勸進、以隆安五年僭稱河西王。其將鍮勿崘進曰、「昔我先君肇自幽朔、被髮左衽、無冠冕之儀、遷徙不常、無城邑之制、用能中分天下、威振殊境。今建大號、誠順天心。然寧居樂土、非貽厥之規。倉府粟帛、生敵人之志。且首兵始號、事必無成、陳勝・項籍、前鑒不遠。宜置晉人於諸城、勸課農桑、以供軍國之用、我則習戰法以誅未賓、若東西有變、長算以縻之。如其敵強於我、徙而以避其鋒、不亦善乎。」利鹿孤然其言。
於是率師伐呂隆、大敗之、獲其右僕射楊桓。傉檀謂之曰、「安寢危邦、不思擇木、老為囚虜、豈曰智也。」桓曰、「受呂氏厚恩、位忝端貳、雖洪水滔天、猶欲濟彼俱溺、實恥為叛臣以見明主。」傉檀曰、「卿忠臣也。」以為左司馬。
利鹿孤謂其羣下曰、「吾無經濟之才、忝承業統、自負乘在位、三載于茲。雖夙夜惟寅、思弘道化、而刑政未能允中、風俗尚多凋弊。戎車屢駕、無闢境之功。務進賢彥、而下猶蓄滯。豈所任非才、將吾不明所致也。二三君子其極言無諱、吾將覽焉。」祠部郎中史暠對曰、「古之王者、行師以全軍為上、破國次之、拯溺救焚、東征西怨。今不以綏寧為先、惟以徙戶為務、安土重遷、故有離叛、所以斬將克城、土不加廣。今取士拔才、必先弓馬、文章學藝為無用之條、非所以來遠人、垂不朽也。孔子曰、『不學禮、無以立。』宜建學校、開庠序、選耆德碩儒以訓冑子。」利鹿孤善之、於是以田玄沖・趙誕為博士祭酒、以教冑子。

訓読

利鹿孤 立つこと二年、龍 長寧に見れ、麒麟 綏羌に游び、是に於て羣臣 勸進し、隆安五年を以て僭して河西王を稱す。其の將たる鍮勿崘 進みて曰く、「昔 我が先君 幽朔より肇め、被髮左衽し、冠冕の儀無く、遷徙 常ならず、城邑の制無く、用て能く天下を中分し、威 殊境に振ふ。今 大號を建つるは、誠に天心に順ふ。然れども樂土に寧居するは、貽厥の規に非ず。倉府の粟帛、敵人の志を生ず。且つ兵を首め號を始むるとも、事 必ず成る無く、陳勝・項籍、前鑒にして遠からず。宜しく晉人を諸城に置き、農桑を勸課し、以て軍國の用に供せ、我 則ち戰法を習ひて以て未賓を誅し、若し東西に變有らば、長算して以て之を縻せん。如し其の敵 我より強れば、徙りて以て其の鋒を避く、亦た善しからずや」と。利鹿孤 其の言を然りとす。
是に於て師を率ゐて呂隆を伐ち、大いに之を敗り、其の右僕射の楊桓を獲。傉檀 之に謂ひて曰く、「危邦に安寢し、木を擇ぶことを思はず、老ひて囚虜と為る、豈に智と曰ふや」と。桓曰く、「呂氏の厚恩を受け、位は端貳を忝くす、洪水滔天あると雖も、猶ほ彼を濟ひ俱に溺れんと欲す、實に恥づるは叛臣と為りて以て明主に見ゆることなり」と。傉檀曰く、「卿 忠臣なり」と。以て左司馬と為す。
利鹿孤 其の羣下に謂ひて曰く、「吾 經濟の才無く、忝くも業統を承け、負乘して位に在りてより、茲までに三載。夙夜 惟寅して、道化を弘げんと思ふと雖も、而れども刑政 未だ中に允(かな)ふこと能はず、風俗 尚ほ多く凋弊す。戎車 屢々駕し、闢境の功無し。賢彥を進むることを務め、而れども下に猶ほ蓄滯あり。豈に任ずる所 非才なりて、將た吾 不明の致す所なるや。二三君子 其れ極言して諱むこと無く、吾 將に焉を覽ぜんとす」と。祠部郎中の史暠 對へて曰く、「古の王者、師を行ひて以て軍を全するを上と為し、國を破るを之に次ぎ、溺を拯ひ焚を救ひ、東征すれば西 怨む。今 綏寧を以て先と為さず、惟だ戶を徙すを以て務と為し、安土して遷ることを重ね、故に離叛有り、將を斬り城を克ち、土 廣きを加へざる所以なり。今 士を取り才を拔くに、必ず弓馬を先にし、文章學藝を無用の條と為す、遠人を來らしめ、不朽を垂るる所以に非ざるなり。孔子曰く、『禮を學ばざれば、以て立つこと無し』と。宜しく學校を建て、庠序を開き、耆德碩儒を選びて以て冑子に訓ふべし」と。利鹿孤 之を善とし、是に於て田玄沖・趙誕を以て博士祭酒と為し、以て冑子に教ふ。

〔一〕『論語』季氏篇に「不學禮、無以立」とあり、出典。

現代語訳

利鹿孤が即位して二年、龍が長寧に、麒麟が綏羌に現れたので、郡臣が勧進し、隆安五年に河西王を僭称した。将の鍮勿崘が進み、「われらの祖先は朔方から出発し、ざんばら髪で衣服を左前に着け、冠をかぶる風俗もなく、定住せず、城邑を持たなかったが、天下を分割し、辺境に威を振るいました。いま大号を立てることは、天の心に適います。しかし安住の地にいることは、子孫のためになりません。穀物や布帛を備蓄すれば、敵対者から狙われます。兵を起こして号を立てても、必ず成功するとは限らず、陳勝・項籍は、反面教師です。晋人(漢族)を諸城に置き、農桑を推進し、軍国の原資としなさい、私は兵法を習って不服従勢力を誅し、東西に事変があれば、計略を用いて従わせましょう。もし敵が強ければ、移転して鋭鋒を避けるのも、良いではありませんか」と言った。利鹿孤は同意した。
軍を率いて呂隆を討伐し、大いに破り、その(後涼の)右僕射の楊桓を捕獲した。傉檀は彼に、「危うい国家で安眠をむさぼり、主君を選ぶ手間を惜しみ、老いて捕虜になった、それを智者と言えるのかね」と言った。楊桓は、「呂氏から厚恩を受け、端貳(尚書僕射)の位を頂戴した、水が溢れて天まで沈もうとも、なお呂氏のために働いて一緒に溺れる覚悟である、本当に恥ずべきは叛臣として名君に会うことだ」と言った。傉檀は、「卿は忠臣である」と。(南涼の)左司馬とした。
利鹿孤は配下に、「私は統治の才能がないが、王業を継承し、不相応な位に即き、三年が経過した。朝晩に努力し、教化を広げようと願うが、刑政が適切でなく、治安は荒廃している。戦車が頻繁に出動しても、領土は広がっていない。賢才の登用に努めているが、在野には遺賢が多い。非才な者を任命し、悪政を進めてよいものか。諸君は遠慮なく発言してくれ、私が閲覧するだろう」と言った。祠部郎中の史暠が答え、「先古の王者は、動員した軍隊を保全することを上策とし、敵国を破るのを次策としました、どれだけ奮闘しても、東を征伐すれば西に怨みが生じます。いま平穏を優先せず、ただ住民の移住ばかりを行い、戸籍の操作をくり返したから、離叛する者がおり、敵の将軍や城を破っても、領土が広がらないのです。領土を奪って才能を抜擢するときに、武芸を優先し、文章や学芸を無用と見なしているので、遠くから人が集まらず、国家の永続に寄与しません。孔子は、『礼を学ばねば、成り立たぬ』と言います。学校を建て、学びの場を開き、徳の高い碩学の儒者を選んで子弟を教育しなさい」と言った。利鹿孤は同意し、田玄沖・趙誕を博士祭酒とし、子弟に教育をした。

原文

時利鹿孤雖僭位、尚臣姚興。楊桓兄經佐命姚萇、早死、興聞桓有德望、徵之。利鹿孤餞桓于城東、謂之曰、「本期與卿共成大業、事乖本圖、分歧之感、實情深古人。但鯤非溟海、無以運其軀。鳳非修梧、無以晞其翼。卿有佐時之器、夜光之寶、當振纓雲閣、耀價連城、區區河右、未足以逞卿才力。善勖日新、以成大美。」桓泣曰、「臣往事呂氏、情節不建。陛下宥臣於俘虜之中、顯同賢舊、每希攀龍附鳳、立尺寸之功。龍門既開、而臣違離、公衡之戀、豈曰忘之。」利鹿孤為之流涕。
遣傉檀又攻呂隆昌松太守孟禕于顯美、克之。傉檀執禕而數之曰、「見機而作、賞之所先。守迷不變、刑之所及。吾方耀威玉門、掃平秦隴、卿固守窮城、稽淹王憲、國有常刑、於分甘乎。」禕曰、「明公開翦河右、聲播宇內、文德以綏遠人、威武以懲不恪。況禕蔑爾、敢距天命。釁鼓之刑、禕之分也。但忠於彼者、亦忠於此。荷呂氏厚恩、受藩屏之任、明公至而歸命、恐獲罪於執事、惟公圖之。」傉檀大悅、釋其縛、待之客禮。徙顯美・麗靬二千餘戶而歸。嘉禕忠烈、拜左司馬。禕請曰、「呂氏將亡、聖朝之并河右、昭然已定。但為人守而不全、復忝顯任、竊所未安。明公之恩、聽禕就戮於姑臧、死且不朽。」傉檀義而許之。
呂隆為沮渠蒙遜所伐、遣使乞師、利鹿孤引羣下議之。尚書左丞婆衍崘曰、「今姑臧饑荒殘弊、穀石萬錢、野無青草、資食無取。蒙遜千里行師、糧運不屬、使二寇相殘、以乘其釁。若蒙遜拔姑臧、亦不能守、適可為吾取之、不宜救也。」傉檀曰、「崘知其一、未知其二。姑臧今雖虛弊、地居形勝、河西一都之會、不可使蒙遜據之、宜在速救。」利鹿孤曰、「車騎之言、吾之心也。」遂遣傉檀率騎一萬救之。至昌松而蒙遜已退、傉檀徙涼澤・段冢五百餘家而歸。
利鹿孤寢疾、令曰、「內外多虞、國機務廣、其令車騎嗣業、以成先王之志。」在位1.三年而死、葬于西平之東南、偽諡曰康王。弟傉檀嗣。

1.中華書局本によると、「三年」は「四年」に作るべきである。

訓読

時に利鹿孤 僭位すると雖も、尚ほ姚興に臣たり。楊桓の兄たる經 姚萇に佐命し、早く死し、興 桓に德望有ると聞き、之を徵す。利鹿孤 桓を城東に餞し、之に謂ひて曰く、「本は卿と共に大業を成さんと期し、事 本圖を乖れ、分歧の感あり、實に情は古人より深し。但だ鯤 溟海に非ざれば、以て其の軀を運らすこと無し。鳳 修梧に非ざれば、以て其の翼を晞すること無し。卿 佐時の器有り、夜光の寶なり、當に纓を雲閣に振へ、價を連城に耀かせ、區區たる河右、未だ以て卿の才力を逞くするに足らず。善く勖て日に新にして、以て大美を成せ」と。桓 泣きて曰く、「臣 往 呂氏に事へ、情節 建たず。陛下 臣を俘虜の中に宥し、顯とすること賢舊に同し、每に龍に攀り鳳に附し、尺寸の功を立つることを希ふ。龍門 既に開き、而れども臣 違離す、公衡の戀、豈に之を忘るると曰はんか」と。利鹿孤 之の為に流涕す。
傉檀を遣はして又 呂隆の昌松太守の孟禕を顯美に攻め、之に克つ。傉檀 禕を執へて之を數めて曰く、「機を見て作すは、賞の先とする所なり。迷を守りて變へざるは、刑の及ぶ所なり。吾 方に威を玉門に耀せ、秦隴を掃平す、卿 窮城を固守し、王憲を稽淹す、國に常刑有り、分に於て甘するか」と。禕曰く、「明公 河右を開翦し、聲 宇內に播し、文德は以て遠人を綏し、威武は以て不恪を懲す。況んや禕が蔑爾なる、敢て天命を距まんか。鼓に釁るの刑〔一〕、禕の分なり。但だ彼に忠あらば、亦た此に忠あり。呂氏の厚恩を荷し、藩屏の任を受け、明公 至りて歸命せば、恐らくは罪を執事に獲ん、惟だ公 之を圖れ」と。傉檀 大いに悅び、其の縛を釋き、之を客禮に待す。顯美・麗靬の二千餘戶を徙して歸る。禕の忠烈を嘉し、左司馬を拜す。禕 請ひて曰く、「呂氏 將に亡びんとす、聖朝の河右を并するは、昭然として已に定まる。但だ人の為に守りて全せず、復た顯任を忝くす、竊かに未だ安ぜざる所なり。明公の恩、禕に姑臧を戮するに就くことを聽せば、死して且つ朽ちず」と。傉檀 義として之を許す。
呂隆 沮渠蒙遜の為に伐たれ、使を遣はして師を乞ひ、利鹿孤 羣下を引て之を議す。尚書左丞の婆衍崘曰く、「今 姑臧 饑荒して殘弊し、穀 石ごとに萬錢、野に青草無く、資食 取る無し。蒙遜 千里に行師し、糧運 屬がず、二寇をして相 殘ぜしめ、以て其の釁に乘ず。若し蒙遜 姑臧を拔かば、亦た守る能はず、適に吾が為に之を取る可し、宜しく救ふべからざるなり」と。傉檀曰く、「崘 其の一を知り、未だ其の二を知らざるなり。姑臧 今 虛弊すると雖も、地 形勝に居り、河西の一都の會なり、蒙遜をして之を據らしむ可からず、宜しく速救在るべし」と。利鹿孤曰く、「車騎の言、吾の心なり」と。遂に傉檀を遣はし騎一萬を率ゐて之を救ふ。昌松に至りて蒙遜 已に退き、傉檀 涼澤・段冢の五百餘家を徙して歸る。
利鹿孤 疾に寢ね、令して曰く、「內外 虞多し、國機 廣に務め、其れ車騎をして業を嗣がしめ、以て先王の志を成せ」と。在位三年にして死し、西平の東南に葬り、偽して諡して康王と曰ふ。弟の傉檀 嗣ぐ。

〔一〕『春秋左氏伝』僖公三十三年に、「君之惠、不以纍臣釁鼓」と見える。

現代語訳

利鹿孤は王を僭称しつつも、姚興に臣従していた。楊桓の兄である楊経は(後秦の)姚萇の建国を助け、早く死に、(姚萇を継いだ)姚興は楊桓に徳望があると聞き、彼を徴した。利鹿孤は楊桓と城東で餞別し、楊桓に、「あなたと大業を成したがったが、事業は本筋から外れたが、別れに寄せる思いは、古人よりも深い。だが鯤(巨大な魚)は溟海におらねば、泳げない。鳳は修梧におらねば、翼を伸ばせない。あなたは王佐の器があり、夜に輝く宝であるから、朝廷で高官に上り、(何氏の璧のように)複数の城の価値を表してほしい、狭苦しい河右(南涼)では、あなたの才能には物足りぬ。毎日励み、美事を成し遂げよ」と言った。楊桓は泣いて、「私はかつて呂氏(後涼)に仕え、情義が通じませんでした。陛下は私を捕虜から解放し、旧臣のように抜擢してくれました、龍や鳳の仕事に協力し、功績を立てたい願っていました。飛躍の糸口が生まれた途端、私は去らねばなりません、別れが惜しく、忘れられません」と言った。利鹿孤は彼のために涙を流した。
傉檀を送って呂隆(後涼)の昌松太守の孟禕を顕美で攻撃させ、これを破った。傉檀は孟禕を捕らえて彼を責め、「時機を見極めれば、賞賛される。混迷して固執すれば、刑罰を受ける。わが兵威を玉門に輝かせ、秦隴地方を掃討したが、あなたは窮迫した城に籠もって、わが軍を妨害した、国には刑法がある、罰を受けようというのか」と言った。孟禕は、「明公は河右を切り開きし、声望を天下に広め、文徳により遠方を懐かせ、威武が悪者を懲らしめています。私のような軽輩が、天命を拒むはずもない。鼓に血を塗る刑が、私には相応しいでしょう。だがそちらに忠があれば、こちらにも忠がある。呂氏から厚恩を受け、藩屏の任を受けながら、すぐに降服したら、職責を果たさぬ罪となる、分かってほしい」と言った。傉檀は悦び、縛めを解き、客礼で待遇した。顕美・麗靬の二千餘戸を移して帰還した。孟禕の忠烈を評価し、左司馬を拝した。孟禕は、「呂氏が滅びそうです、聖朝(南涼)が河右を併合するのは、もう既定路線です。しかし私は預かった城を守り抜けなかった、再び高官となるのは、落ち着きません。明公の恩により、姑臧の攻略を任せてくれたら、死んでも成し遂げます」と願い出た。傉檀は義に感じて許した。
呂隆が沮渠蒙遜に攻撃されると、(南涼に)援軍を求め、利鹿孤は配下と議論した。尚書左丞の婆衍崘は、「いま姑臧は飢えて荒廃し、穀物は一斛あたり一万銭となり、野草もなく、兵糧を現地調達できません。蒙遜は千里の遠征をして、兵糧が続かぬでしょう、二寇(後涼と北涼)を潰しあわせ、その隙に乗じなさい。もし蒙遜が姑臧を奪っても、守り続けられず、われらが奪えます、(呂隆を)救う必要はありません」と言った。傉檀は、「婆衍崘は一を知って、二を知らぬ。姑臧は当面は疲弊しているが、地形は要衝にあり、河西の中心地である、蒙遜に拠らせてはならない、速やかに救援すべきだ」と言った。利鹿孤は、「車騎(傉檀)に、私も同意する」と言った。傉檀に一万騎を率いて救援させた。昌松に至るころ蒙遜がすでに撤退したので、傉檀は涼沢・段冢の五百餘家を移して帰還した。
利鹿孤が病気に臥せり、遺令に、「内外に脅威が多い、国運を広めるため、車騎(傉檀)に継承させ、先王の志を成就させよ」と言った。在位三年(正しくは四年)で死に、西平の東南に葬り、不当に康王と諡した。弟の傉檀が嗣いだ。

禿髮傉檀

原文

傉檀少機警、有才略。其父奇之、謂諸子曰、「傉檀明識榦藝、非汝等輩也。」是以諸兄不以授子、欲傳之於傉檀。及利鹿孤即位、垂拱而已、軍國大事皆以委之。以元興元年僭號涼王、遷于樂都、改元曰弘昌。
初、乞伏乾歸之在晉興也、以世子熾磐為質。後熾磐逃歸、為追騎所執、利鹿孤命殺之。傉檀曰、「臣子逃歸君父、振古通義、故魏武善關羽之奔、秦昭恕頃襄之逝。熾磐雖逃叛、孝心可嘉、宜垂全宥以弘海岳之量。」乃赦之。至是、熾磐又奔允街、傉檀歸其妻子。
姚興遣使拜傉檀車騎將軍・廣武公。傉檀大城樂都。姚興遣將齊難率眾迎呂隆于姑臧、傉檀攝昌松・魏安二戍以避之。
興涼州刺史王尚遣主簿宗敞來聘。敞父燮、呂光時自湟河太守入為尚書郎、見傉檀于廣武、執其手曰、「君神爽宏拔、逸氣陵雲、命世之傑也、必當克清世難。恨吾年老不及見耳、以敞兄弟託君。」至是、傉檀謂敞曰、「孤以常才、謬為尊先君所見稱、每自恐有累大人水鏡之明。及忝家業、竊有懷君子。詩云、『中心藏之、何日忘之。』不圖今日得見卿也。」敞曰、「大王仁侔魏祖、存念先人、雖朱暉眄張堪之孤、叔向撫汝齊之子、無以加也。」酒酣、語及平生。傉檀曰、「卿魯子敬之儔、恨不與卿共成大業耳。」

訓読

傉檀 少くして機警にして、才略有り。其の父 之を奇とし、諸子に謂ひて曰く、「傉檀 識に明るく藝に榦あり、汝らの輩に非ざるなり」と。是を以て諸兄 子に授くるを以てせず、之を傉檀に傳へんと欲す。利鹿孤 即位するに及び、垂拱して已み、軍國の大事 皆 以て之に委ぬ。元興元年を以て僭して涼王を號し、樂都に遷し、改元して弘昌と曰ふ。
初め、乞伏乾歸の晉興に在るや、世子の熾磐を以て質と為す。後に熾磐 逃歸し、為に騎を追ひて執へられ、利鹿孤 命じて之を殺す。傉檀曰く、「臣子 逃れて君父に歸するは、振古の通義なり、故に魏武 關羽の奔を善とし、秦昭 頃襄の逝を恕す。熾磐 逃叛すると雖も、孝心 嘉す可し、宜しく全宥を垂れて以て海岳の量を弘むべし」と。乃ち之を赦す。是に至りて、熾磐 又 允街に奔り、傉檀 其の妻子を歸す。
姚興 使を遣して傉檀に車騎將軍・廣武公を拜す。傉檀 大いに樂都に城く。姚興 將の齊難を遣はして眾を率ゐて呂隆を姑臧に迎へ、傉檀 昌松・魏安二戍を攝りて以て之を避く。
興の涼州刺史の王尚 主簿の宗敞を遣はして來聘す。敞の父たる燮、呂光の時 湟河太守より入りて尚書郎と為り、傉檀に廣武に見え、其の手を執りて曰く、「君の神爽 宏拔なり、逸氣 雲を陵ぎ、命世の傑なり、必ず當に世難を克清すべし。吾が年老にして見ること及ばざるを恨むのみ、敞の兄弟を以て君に託す」と。是に至り、傉檀 敞に謂ひて曰く、「孤 常才を以て、謬りて尊先君の為に稱せられ、每に自ら大人の水鏡の明を累はすこと有るを恐る。家業を忝くするに及び、竊かに君子を懷くこと有り。詩に云く、『中心に之を藏し、何の日か之を忘れん』と〔一〕。圖らざりき今日 得て卿に見ゆるなり」と。敞曰く、「大王の仁 魏祖に侔しく、先人を存念するに、朱暉 張堪が孤を眄み、叔向 汝齊が子を撫すると雖も、以て加ふるもの無きなり」と。酒 酣なるとき、語 平生に及ぶ。傉檀曰く、「卿 魯子敬の儔なり、恨らくは卿と共に大業を成さざることのみ」と。

〔一〕『毛詩』小雅 隰桑に「中心藏之、何日忘之」とある。

現代語訳

傉檀は若くして機知に優れ、才略があった。父はこれを見出し、子たちに、「傉檀には判断力と才芸がある、お前たちとは違う」と言った。だから兄たちはわが子でなく、傉檀に地位を継承させようと考えた。利鹿孤が即位すると、実務をせず、軍国の重要事項を全て傉檀に委任した。元興元(四〇二)年に不当に涼王を号し、楽都に本拠地を移し、弘昌と改元した。
これより先、(西秦の)乞伏乾帰が晋興にいるとき、世子の熾磐を(南涼の)人質にした。のちに熾磐が逃げ帰ったが、騎馬で追って捕らえ、利鹿孤はこれを殺せと命じた。傉檀は、「臣や子が逃げて君や父のもとに帰るのは、古来からの通例だ。だから魏武(曹操)は関羽の出奔を美談とし、(戦国)秦の昭王は楚の頃襄王(が病気になると人質に帰還)を許した。熾磐は叛いて逃げたが、彼の孝心を褒め、命を助けて度量の大きさを示すべきだ」と言った。これを赦した。さらに、熾磐が允街に奔ると、傉檀はその妻子を帰してやった。
姚興は使者を送って傉檀に車騎将軍・広武公を拝した。傉檀は楽都に大規模な城を築いた。姚興は将の斉難を遣わして兵を率いて呂隆を姑臧に迎え、傉檀は昌松・魏安という二つの防衛拠点を抑えて(斉難・呂隆を)避けた。
姚興(後秦)の涼州刺史の王尚が主簿の宗敞を派遣して(傉檀を)来聘した。宗敞の父である宗燮は、呂光(後涼)のとき湟河太守から(朝廷に)入って尚書郎となり、(その途中で)傉檀と広武で会い、その手を執って、「きみの精神は広く傑出し、優れた気質は雲をしのぎ、天命を受けた英雄だ、きっと当代を平定する。私は老年なので活躍を見られぬが、宗敞の兄弟(息子たち)をきみに託したい」と言った。このときに至り、傉檀は宗敞に、「私は平凡ながら、誤ってあなたの父に称賛され、その人物鑑定を台無しにすることを恐れてきた。(南涼の)事業を嗣ぎ、ひそかに君子を求めてきた。『詩』にいう、『中心にそれがあり、きっと忘れない』である。幸運にも今日あなたに会えたぞ」と言った。宗敞は、「大王の仁は魏祖に等しく、先人を思い返せば、(後漢初の)朱暉が張堪の子を託され、(春秋晋の)叔向が汝斉の子を養った前例であろうと、これほどではありません」と言った。酒席が盛り上がり、対等の言葉遣いになった。傉檀は、「あなたは魯子敬(魯粛)のような人だ、あなたと大業を成せないのが残念だ」と言った。

原文

傉檀以姚興之盛、又密圖姑臧、乃去其年號、罷尚書丞郎官、遣參軍關尚聘于興。興謂尚曰、「車騎投誠獻款、為國藩屏、擅興兵眾、輒造大城、為臣之道固若是乎。」尚曰、「王侯設險以自固、先王之制也、所以安人衞眾、預備不虞。車騎僻在遐藩、密邇勍寇、南則逆羌未賓、西則蒙遜跋扈、蓋為國家重門之防、不圖陛下忽以為嫌。」興笑曰、「卿言是也。」
傉檀遣其將文支討南羌・西虜、大破之。上表姚興、求涼州、不許、加傉檀散騎常侍、增邑二千戶。傉檀於是率師伐沮渠蒙遜、次于氐池。蒙遜嬰城固守、芟其禾苗、至于赤泉而還。獻興馬三千匹、羊三萬頭。興乃署傉檀為使持節・都督河右諸軍事・車騎大將軍・領護匈奴中郎將・涼州刺史、常侍・公如故、鎮姑臧。傉檀率步騎三萬次于五澗、興涼州刺史王尚遣辛晁・孟禕・彭敏出迎。尚出自清陽門、鎮南文支入自涼風門。宗敞以別駕送尚還長安、傉檀曰、「吾得涼州三千餘家、情之所寄、唯卿一人、奈何捨我去乎。」敞曰、「今送舊君、所以忠於殿下。」傉檀曰、「吾今新牧貴州、懷遠安邇之略、為之若何。」敞曰、「涼土雖弊、形勝之地、道由人弘、實在殿下。段懿・孟禕、武威之宿望。辛晁・彭敏、秦隴之冠冕。裴敏・馬輔、中州之令族。張昶、涼國之舊胤。張穆・邊憲・文齊・楊班・梁崧・趙昌、武同飛羽。以大王之神略、撫之以威信、農戰並修、文教兼設、可以從橫於天下、河右豈足定乎。」傉檀大悅、賜敞馬二十匹。於是大饗文武於謙光殿、班賜金馬各有差。
遣西曹從事史暠聘于姚興。興謂暠曰、「車騎坐定涼州、衣錦本國、其德我乎。」暠曰、「車騎積德河西、少播英問、王威未接、投誠萬里。陛下官方任才、量功授職、彝倫之常、何德之有。」興曰、「朕不以州授車騎者、車騎何從得之。」暠曰、「使河西雲擾、呂氏顛狽者、實由車騎兄弟傾其根本。陛下雖鴻羅遐被、涼州猶在天網之外。故征西以周召之重、力屈姑臧。齊難以王旅之盛、勢挫張掖。王尚孤城獨守、外逼羣狄、陛下不連兵十年、殫竭中國、涼州未易取也。今以虛名假人、內收大利、乃知妙算自天、聖與道合、雖云遷授、蓋亦時宜。」興悅其言、拜騎都尉。

訓読

傉檀 姚興の盛なるを以て、又 密かに姑臧を圖り、乃ち其の年號を去り、尚書丞郎の官を罷め、參軍の關尚を遣はして興に聘す。興 尚に謂ひて曰く、「車騎 誠を投じ款を獻じて、國の藩屏と為るとも、擅に兵眾を興して、輒ち大城を造り、臣の道を為すこと固に是の若きか」と。尚曰く、「王侯 險を設けて以て自固するは、先王の制にして、人を安んじ眾を衞り、不虞に預備する所以なり。車騎 僻りて遐藩に在り、勍寇に密邇す、南は則ち逆羌 未だ賓せず、西は則ち蒙遜 跋扈し、蓋し國家の重門の防と為る、圖らざりき陛下 忽に以て嫌と為さんとは」と。興 笑ひて曰く、「卿の言 是なり」と。
傉檀 其の將の文支を遣はして南羌・西虜を討ち、大いに之を破る。姚興に上表し、涼州を求め、許さず、傉檀に散騎常侍を加へ、邑二千戶を增す。傉檀 是に於て師を率ゐて沮渠蒙遜を伐ち、氐池に次る。蒙遜 城を嬰して固守し、其の禾苗を芟り、赤泉に至りて還る。興に馬三千匹、羊三萬頭を獻ず。興 乃ち傉檀を署して使持節・都督河右諸軍事・車騎大將軍・領護匈奴中郎將・涼州刺史と為し、常侍・公 故の如く、姑臧に鎮せしむ。傉檀 步騎三萬を率ゐて五澗に次り、興の涼州刺史たる王尚 辛晁・孟禕・彭敏を遣はして出迎す。尚 清陽門より出で、鎮南の文支 涼風門より入る。宗敞 別駕を以て尚を送りて長安に還り、傉檀曰く、「吾 涼州三千餘家を得て、之を寄る所を情ふに、唯だ卿一人なり、奈何ぞ我を捨てて去るか」と。敞曰く、「今 舊君を送るは、殿下に忠たる所以なり」と。傉檀曰く、「吾 今 新たに貴州に牧たりて、遠を懷け邇を安ずるの略、之を若何と為す」と。敞曰く、「涼土 弊すると雖も、形勝の地なり、道は人に由りて弘まり、實に殿下に在り。段懿・孟禕、武威の宿望なり。辛晁・彭敏、秦隴の冠冕なり。裴敏・馬輔、中州の令族なり。張昶、涼國の舊胤なり。張穆・邊憲・文齊・楊班・梁崧・趙昌、武は飛羽に同じ。大王の神略を以て、之を撫するに威信を以てし、農戰 並びに修め、文教 兼せて設け、以て天下を從橫す可し、河右 豈に定むるに足らんか」と。傉檀 大いに悅び、敞に馬二十匹を賜ふ。是に於て大いに文武を謙光殿に饗し、金馬を班賜すること各々差有り。
西曹從事の史暠を遣はして姚興に聘す。興 暠に謂ひて曰く、「車騎 坐して涼州を定め、錦を本國に衣る、其れ我を德とするか」と。暠曰く、「車騎 德を河西に積み、少くして英問を播し、王威 未だ接せず、誠を萬里に投ず。陛下の官方 才に任じ、功を量りて職を授け、彝倫の常、何の德といふこと有るか」と。興曰く、「朕 州を以て車騎に授けずんば、車騎 何くに從りてか之を得ん」と。暠曰く、「河西をして雲擾し、呂氏をして顛狽せしむるは、實に車騎兄弟の其の根本を傾くるに由る。陛下 鴻羅 遐に被しむと雖も、涼州 猶ほ天網の外に在り。故に征西 周召の重を以て、力は姑臧に屈す。齊難 王旅の盛なるを以て、勢 張掖に挫く。王尚 孤城もて獨守し、外に羣狄に逼られ、陛下 兵を十年に連ねず、中國を殫竭し、涼州 未だ取ること易からず。今 虛名を以て人に假し、內に大利を收むるは、乃ち知りぬ妙算 天よりし、聖 道に合ひ、遷授と云ふと雖も、蓋し亦た時宜なり」と。興 其の言を悅び、騎都尉を拜す。

現代語訳

傉檀は姚興が盛んであり、また密かに姑臧を狙い、年号と、尚書丞郎といった官僚組織を廃止し、參軍の関尚を姚興のもとに派遣した。姚興は関尚に、「車騎(傉檀)は誠意を約束し、国(後秦)の藩屏となったが、かってに兵を起こし、大規模に城を修築した、臣下としていかがなものか」と言った。関尚は、「王侯が拠点を整備するのは、古来の制度にあり、人民を安心させて防衛するのは、不測の事態に備えるためです。車騎(傉檀)は遠い僻地に藩土をもち、悪辣な異民族と隣接し、南は羌族が反乱し、西に蒙遜が跋扈しているため、国家(後秦)の防壁となる役割があります、まさかこれを咎められるとは」と言った。姚興は笑って、「その通りだ」と言った。
傉檀は将の文支に南羌・西虜を討伐させ、大いにこれを破った。姚興に上表して、涼州(長官の地位)を請求したが、認められず、傉檀は散騎常侍を加えられ、邑二千戸を増した。傉檀は軍を率いて沮渠蒙遜を討伐し、氐池に駐屯した。蒙遜は城の守りを固め、収穫前の穀物を刈ったので、赤泉に至って帰還した。姚興に馬三千匹、羊三万頭を献上した。姚興は傉檀を使持節・都督河右諸軍事・車騎大将軍・領護匈奴中郎将・涼州刺史とし、常侍・公は従来通りとし、姑臧を鎮守させた。傉檀が歩騎三万を率いて五澗に停泊すると、姚興の(後秦における前任の)涼州刺史であった王尚が辛晁・孟禕・彭敏に(傉檀を)出迎えさせた。王尚は清陽門から出て、鎮南将軍(傉檀の配下)の文支が涼風門から入った。宗敞が別駕として王尚を長安に送り届けようとしたので、傉檀は、「私は涼州の三千餘家を得て(新任の長官となり)、頼りになる人材は、あなた(宗敞)だけだ、なぜ私を捨て(都の長安に)行ってしまうのか」と言った。宗敞は、「いま前任者を送り届けるのは、殿下(傉檀)に忠だからです」と言った。傉檀は、「私は新たにあなたの州の長官となった、遠近を味方にするには、どうすべきか」と聞いた。宗敞は、「涼州は疲弊しているが、形勝の地です、道義は人材が広めるもので、殿下の手に掛かっております。段懿・孟禕は、武威の伝統的な名望家です。辛晁・彭敏は、秦隴地方の人材の筆頭です。裴敏・馬輔は、中原の名族です。張昶は、涼国の旧族です。張穆・辺憲・文斉・楊班・梁崧・趙昌は、武力が張飛や関羽に等しい。大王の神略をもって、威信により彼らを使いこなし、農業と戦争を両立させ、文化と教育を充足すれば、天下すら思い通りにできます、河右の支配は成就します」と言った。傉檀は大いに悦び、宗敞に馬二十匹を贈った。大いに文武の官を謙光殿で饗応し、金や馬を下賜して差等があった。
西曹従事の史暠を姚興への使者とした。姚興は史暠に、「車騎(傉檀)は何もせずとも涼州長官に任命され、本国に錦を飾った、私に感謝しているか」と言った。史暠は、「車騎は徳を河西に積み、若くして英才が広まり、王威(後秦の権威)の恩恵を受ける前から、万里に支持を得ていました。陛下による任命は才能に応じたもので、功績に見合った官職を授けるのは、当然の措置でした、ありがたくは思いません」と言った。姚興は、「朕が涼州を授けてやらねば、車騎はいかにしてこの地を獲得したか」と言った。史暠は、「河西を雲のように騒がせ、呂氏(後涼)を動揺させたのは、車騎の兄弟(南涼の歴代)がその基礎を脅かしたからです。陛下は遠方まで統治していますが、涼州に実効支配が及んでいませんでした。ですから征西(未詳)は周公旦や召公奭の重職にあっても、姑臧を屈服させられませんでした。斉難は王の軍が盛んであっても、張掖で勢いを挫かれました。王尚は孤立した城を守り、外から異民族に圧迫され、陛下の(涼州平定)軍は十年も続かぬうちに、中原の備蓄が枯渇し、涼州を容易に支配できませんでした。いま虚名(涼州長官の肩書き)を人(傉檀)に与えただけで、国家が大きな利益を得るのは、優れた計略であり、聖王の方法ですが、任命とは言うが、一時的な便宜に過ぎぬのです」と言った。姚興はその発言を悦び、騎都尉を拝した。

原文

傉檀讌羣僚于宣德堂、仰視而歎曰、「古人言作者不居、居者不作、信矣。」孟禕進曰、「張文王築城苑、繕宗廟、為貽厥之資、萬世之業、秦師濟河、漼然瓦解。梁熙據全州之地、擁十萬之眾、軍敗於酒泉、身死于彭濟。呂氏以排山之勢、王有西夏、率土崩離、銜璧秦雍。寬饒有言、『富貴無常、忽輒易人。』此堂之建、年垂百載、十有二主、唯信順可以久安、仁義可以永固、願大王勉之。」傉檀曰、「非君無以聞讜言也。」傉檀雖受制于姚興、然車服禮章一如王者。以宗敞為太府主簿・錄記室事。
傉檀偽游澆河、襲徙西平・湟河諸羌三萬餘戶于武興・番禾・武威・昌松四郡。徵集戎夏之兵五萬餘人、大閱于方亭、遂伐沮渠蒙遜、入西陝。蒙遜率眾來距、戰于均石、為蒙遜所敗。傉檀率騎二萬、運穀四萬石以給西郡。蒙遜攻西郡、陷之。其後傉檀又與赫連勃勃戰于陽武、為勃勃所敗、將佐死者十餘人、傉檀與數騎奔南山、幾為追騎所得。傉檀懼東西寇至、徙三百里內百姓入于姑臧、國中駭怨。屠各成七兒因百姓之擾也、率其屬三百人叛傉檀於北城。推梁貴為盟主、貴閉門不應。一夜眾至數千。殿中都尉張猛大言於眾曰、「主上陽武之敗、蓋恃眾故也。責躬悔過、明君之義、諸君何故從此小人作不義之事。殿內武旅正爾相尋、目前之危、悔將無及。」眾聞之、咸散。七兒奔晏然、殿中騎將白路等追斬之。軍諮祭酒梁裒・輔國司馬邊憲等七人謀反、傉檀悉誅之。

訓読

傉檀 羣僚と宣德堂に讌し、仰視して歎じて曰く、「古人の言 作る者は居らず、居る者は作らず、信なるか」と。孟禕 進みて曰く、「張文王 城苑を築き、宗廟を繕ひ、貽厥の資、萬世の業を為るに、秦師 河を濟り、漼然と瓦解す。梁熙 全州の地にり、十萬の眾を擁し、軍 酒泉に敗れ、身は彭濟に死す。呂氏 排山の勢を以て、王として西夏を有し、率土 崩離し、璧を秦雍に銜ふ。寬饒に言有り、『富貴 常無く、忽ち輒ち人を易ふ』と。此の堂の建つるは、年は百載、十有二主に垂とし、唯だ信順 以て久安す可し、仁義 以て永固す可し、願はくは大王 之に勉めよ」と。傉檀曰く、「君に非ざれば以て讜言を聞くこと無し」と。傉檀 制を姚興に受くると雖も、然れども車服禮章 一に王者の如し。宗敞を以て太府主簿・錄記室事と為す。
傉檀 偽りて澆河に游び、襲ひて西平・湟河の諸羌三萬餘戶を武興・番禾・武威・昌松四郡に徙す。戎夏の兵五萬餘人を徵集し、大いに方亭に閱し、遂に沮渠蒙遜を伐ち、西陝に入る。蒙遜 眾を率ゐて來距し、均石に戰ひ、蒙遜の為に敗らる。傉檀 騎二萬を率ゐ、穀四萬石を運びて以て西郡に給す。蒙遜 西郡を攻めて、之と陷す。其の後 傉檀 又 赫連勃勃と陽武に戰ひ、勃勃の為に敗られ、將佐の死する者十餘人、傉檀 數騎と與に南山に奔り、幾ど追騎の為に得らる。傉檀 東西に寇 至るを懼れ、三百里內の百姓を徙して姑臧に入れ、國中 駭怨す。屠各成七兒 百姓の擾ぐに因りて、其の屬三百人を率ゐて傉檀に北城に叛す。梁貴を推して盟主と為すとも、貴 閉門して應ぜず。一夜に眾 數千に至る。殿中都尉の張猛 眾に大言して曰く、「主上 陽武の敗、蓋し眾を恃むが故なり。躬を責め過を悔ゆるは、明君の義なり、諸君 何故に此の小人に從ひて不義の事を作すか。殿內の武旅 正に爾く相 尋ぎ、目前の危、悔いても將に及ぶこと無からんとす」と。眾 之を聞き、咸 散ず。七兒 晏然に奔り、殿中騎將の白路ら追ひて之を斬る。軍諮祭酒の梁裒・輔國司馬の邊憲ら七人 謀反し、傉檀 悉く之を誅す。

現代語訳

傉檀は群僚と宣徳堂で宴飲し、仰ぎ見て、「古人がいうには作る者は居らず、居る者は作らずというか、そうかな」と歎じた。孟禕が進んで、「張文王(前涼の張駿か)が城苑を築き、宗廟を繕い、子孫のため、財産と基盤を作りましたが、前秦の軍が河をわたると、涙を流して崩壊しました。(前秦の)梁熙が涼州全域を支配し、十万の軍を擁したが、酒泉で敗北し、彭済で死にました。呂氏(後涼)は山を抜く勢いがあり、西夏の王者となりましたが、領土がくずれ、秦雍で(後秦に)降服をしました。(前漢の)蓋寛饒は、『富貴は留まらず、すぐに持ち主を移る』と言いました。この宣徳堂が建てられ、百年ほど、十二人の主がおりましたが、ただ信順があれば保持し、仁義があれば永続できましょう、大王は努力して下さい」と言った。傉檀は、「きみがおらねば善言を聞けなかった」と言った。傉檀は姚興の支配下にあったが、車服や礼章は王者と全く同じであった。宗敞を太府主簿・録記室事とした。
傉檀は澆河をめぐると偽り、襲撃して西平・湟河の諸羌三万餘戸を武興・番禾・武威・昌松の四郡に移住させた。戎夏の兵五万餘人を召集し、方亭で閲兵し、沮渠蒙遜を討伐するため、西陝に入った。蒙遜は軍勢を率いて防ぎ、均石で戦い、蒙遜に破られた。傉檀は騎二万を率い、穀四万石を西郡に運び込んだ。蒙遜が西郡を攻め、ここを陥落させた。その後に傉檀がさらに赫連勃勃と陽武で戦い、勃勃に破られ、十餘人の将佐が死に、傉檀が数騎とともに南山に奔り、追い付かれそうになった。傉檀は東西から侵攻されることを懼れ、三百里内の百姓を移して姑臧の城に入れたので、国中が驚いて怨んだ。屠各成七児が混乱に乗じて、部下三百人を率いて北城で傉檀に叛いた。梁貴を盟主に推戴しようとしたが、梁貴は閉門して拒絶した。叛乱者は一夜で数千人に膨らんだ。殿中都尉の張猛は人々に、「主上(傉檀)が陽武で敗れたのは、兵が多くて油断したからだ。責任を感じて反省するのは、名君の振る舞いである、諸君はなぜ取るに足らぬ人物(七児)に従って不義を働くのか。殿内の武旅(南涼軍)は体制が万全である、今回の過ちを、後悔しても遅くなるぞ」と叫んで説いた。人々はこれを聞きに、解散した。七児は晏然に逃げたが、殿中騎将の白路らが追って斬った。軍諮祭酒の梁裒・輔国司馬の辺憲ら七人が謀反し、傉檀は全員を誅した。

原文

姚興以傉檀外有陽武之敗、內有邊・梁之亂、遣其尚書郎韋宗來觀釁。傉檀與宗論六國從橫之規、三家戰爭之略、遠言天命廢興、近陳人事成敗、機變無窮、辭致清辯。宗出而歎曰、「命世大才、經綸名教者、不必華宗夏士。撥煩理亂、澄氣濟世者、亦未必八索・九丘。五經之外、冠冕之表、復自有人。車騎神機秀發、信一代之偉人、由余・日磾豈足為多也。」
宗還長安、言於興曰、「涼州雖殘弊之後、風化未穨。傉檀權詐多方、憑山河之固、未可圖也。」興曰、「勃勃以烏合之眾尚能破之、吾以天下之兵、何足克也。」宗曰、「形移勢變、終始殊途、陵人者易敗、自守者難攻。陽武之役、傉檀以輕勃勃致敗。今以大軍臨之、必自固求全、臣竊料羣臣無傉檀匹也。雖以天威臨之、未見其利。」興不從、乃遣其將姚弼及斂成等率步騎三萬來伐、又使其將姚顯為弼等後繼、遺傉檀書云、「遣尚書左僕射齊難討勃勃、懼其西逸、故令弼等於河西邀之。」傉檀以為然、遂不設備。
弼眾至漠口、昌松太守蘇霸嬰城固守、弼喻霸令降、霸曰、「汝違負盟誓、伐委順之藩、天地有靈、將不祐汝。吾寧為涼鬼、何降之有。」城陷、斬霸。弼至姑臧、屯于西苑。州人王鍾・宋鍾・王娥等密為內應、候人執其使送之。傉檀欲誅其元首、前軍伊力延侯曰、「今強敵在外、內有姦豎、兵交勢踧、禍難不輕、宜悉坑之以安內外。」傉檀從之、殺五千餘人、以婦女為軍賞。命諸郡縣悉驅牛羊於野、斂成縱兵虜掠。傉檀遣其鎮北俱延・鎮軍敬歸等十將率騎分擊、大敗之、斬首七千餘級。姚弼固壘不出、傉檀攻之未克、乃斷水上流、欲以持久斃之。會雨甚、堰壞、弼軍乃振。姚顯聞弼敗、兼道赴之、軍勢甚盛。遣射將孟欽等五人挑戰於涼風門、弦未及發、材官將軍宋益等馳擊斬之。顯乃委罪斂成、遣使謝傉檀、引師而歸。

訓読

姚興 傉檀の外に陽武の敗有り、內に邊・梁の亂有るを以て、其の尚書郎の韋宗を遣はして來りて釁を觀しむ。傉檀 宗と六國從橫の規、三家戰爭の略を論じ、遠く天命の廢興を言ひ、近く人事の成敗を陳ぶるに、機變 窮する無く、辭 致 清辯なり。宗 出でて歎じて曰く、「命世の大才にして、名教を經綸する者は、必ずしも華宗の夏士にあらず。煩を撥し亂を理め、氣を澄め世を濟ふ者は、亦た未だ必ずしも八索・九丘にあらず。五經の外、冠冕の表、復た自ら人有り。車騎の神機 秀發にして、信に一代の偉人にして、由余・日磾 豈に多と為るに足るや」と。
宗 長安に還り、興に言ひて曰く、「涼州 殘弊の後と雖も、風化 未だ穨せず。傉檀の權詐 多方にして、山河の固に憑り、未だ圖る可からず」と。興曰く、「勃勃 烏合の眾を以て尚ほ能く之を破る、吾 天下の兵を以て、何ぞ克つに足るや」と。宗曰く、「形は移ろひ勢は變はり、終始 途を殊にす、人を陵る者は敗れ易し、自守する者は攻め難し。陽武の役、傉檀 勃勃を輕ずるを以て敗に致る。今 大軍を以て之に臨まば、必ず自固して全を求め、臣 竊かに料るに羣臣 傉檀に匹するもの無きなり。天威を以て之に臨むと雖も、未だ其の利を見ず」と。興 從はず、乃ち其の將たる姚弼及び斂成らを遣はして步騎三萬を率ゐて來伐し、又 其の將たる姚顯をして弼らの後繼と為さしめ、傉檀に書を遺りて云く、「尚書左僕射の齊難を遣はして勃勃を討つ、其の西のかた逸するを懼る、故に弼らをして河西に之を邀はしむ」と。傉檀 以て然りと為し、遂に備を設けず。
弼の眾 漠口に至り、昌松太守の蘇霸 城を嬰して固守し、弼 霸に喻して降らしめ、霸曰く、「汝 盟誓に違負し、委順の藩を伐つ、天地に靈有れば、將に汝を祐けず。吾 寧ろ涼の鬼と為ろうとも、何ぞ降ること之 有らんか」と。城 陷ち、霸を斬る。弼 姑臧に至り、西苑に屯す。州人の王鍾・宋鍾・王娥ら密かに內應を為し、候人 其の使を執へて之を送る。傉檀 其の元首を誅せんと欲し、前軍の伊力延侯曰く、「今 強敵 外に在り、內に姦豎有り、兵 勢踧を交へ、禍難 輕からず、宜しく悉く之を坑して以て內外を安んずべし」と。傉檀 之に從ひ、五千餘人を殺し、婦女を以て軍賞と為す。諸々の郡縣に命じて悉く牛羊を野に驅り、斂成 兵を縱にして虜掠す。傉檀 其の鎮北の俱延・鎮軍敬歸ら十將を遣はして騎を率ゐて分擊し、大いに之を敗り、斬首すること七千餘級。姚弼 壘を固めて出でず、傉檀 之を攻めて未だ克たず、乃ち水を上流に斷ち、持久を以て之を斃れしめんと欲す。會 雨 甚しく、堰 壞れ、弼の軍 乃ち振す。姚顯 弼 敗るると聞き、兼道して之に赴き、軍勢 甚だ盛なり。射將の孟欽ら五人を遣はして戰を涼風門に挑み、弦 未だ發するに及ばず、材官將軍の宋益ら馳せて擊ちて之を斬る。顯 乃ち罪を斂成に委ね、使を遣はして傉檀に謝り、師を引きて歸る。

現代語訳

姚興は傉檀が外では陽武で敗北し、内では辺憲・梁崧の反乱があったので、尚書郎の韋宗に隙を偵察させた。傉檀は韋宗とともに戦国時代の外交戦略や、三家の兵法について論じ、遠くは天命の興廃、近くは人事の成否について述べたが、機略はのびのびとし、言辞は明瞭であった。韋宗は退出して歎じ、「命世の大才であり、名教を構築するのは、必ずしも漢民族ではないのか。混乱を収束させ、秩序を回復するのは、必ずしも八索・九丘(古い地理書)に記された内地の出身者ではない。儒学が伝わらず、礼や文化を共有しない外部にも、人材がいるものだ。車騎(傉檀)の頭脳は秀逸で、まことに一代の偉人であり、(春秋秦の)由余・(前漢の)金日磾にすら匹敵する」と言った。
韋宗が長安に還ると、姚興に、「涼州は疲弊しているが、風教までは廃れていません。傉檀は権謀術数を得意とし、領土は山河が強固です、まだ攻略できません」と言った。姚興は、「勃勃は烏合の衆であるが(傉檀を)破った、私が天下の兵を用いれば、勝てぬはずがない」と言った。韋宗は「形勢はめまぐるしく、結果はさまざま、他人を侮る者は破りやすく、自重する者は攻めにくい。陽武の軍役で、傉檀は勃勃を軽んじたから敗れた。いま大軍で傉檀に当たれば、必ず慎重を期します、わが軍は傉檀に敵いません。天の威光をかざしても、こちらが不利です」と言った。姚興は従わず、将の姚弼及び斂成らに歩騎三万で討伐させ、さらに将の姚顕を姚弼らの後詰めとし、傉檀に文書を送り、「尚書左僕射の斉難に勃勃を討伐させる、われらは西方が手薄になるといけないから、姚弼らを河西に向かわせる」と言った。傉檀は信用し、防備を緩めた。
姚弼軍が漠口に至ると、昌松太守の蘇霸が籠城したので、姚弼は蘇霸に降服せよと説得したところ、蘇霸は、「貴国(後秦)は盟約を破り、恭順した藩国(南涼)を討伐した、天地に神霊があれば、あなたを助けまい。私は涼州の鬼になろうと、降服などするものか」と言った。城が陥落し、蘇霸が斬られた。姚弼は姑臧に至り、西苑に駐屯した。州人の王鍾・宋鍾・王娥らが内通したが、(姚弼配下の)役人はその使者を捕らえて(傉檀に)送り返した。傉檀が首謀者だけを殺そうとすると、前軍の伊力延侯は、「いま強敵が外におり、内通者が出てしまい、軍勢が衝突し、禍難は深刻です、彼らを穴埋めにして内外を安定させなさい」と言った。傉檀はこれに従い、五千餘人を殺し、婦女を褒賞とした。諸郡県に全て牛羊を野に放たせ、(姚弼配下の)斂成軍に好きなだけ奪わせた。傉檀は鎮北将軍の俱延・鎮軍将軍の敬帰らの十将に分かれて出撃させ、大いに斂成軍を撃ち破り、七千餘級を斬首した。姚弼は防塁を固めて出撃しなかったので、傉檀がこれを攻め切れず、上流の川をせき止め、持久戦で締め上げようとした。ちょうど大雨が降り、堤防が壊れ、姚弼の軍は回復した。姚顕や姚弼の敗北を聞き、急いで駆けつけ、士気が盛り返した。射将の孟欽ら五人に涼風門で戦いを挑ませ、矢を射る前に、材官将軍の宋益らに討ち取らせた。姚顕は(後秦が南涼を攻めたことを)斂成一人の責任とし、使者を送って傉檀に謝罪し、軍を撤退させた。

原文

傉檀於是僭即涼王位、赦其境內、改年為嘉平、置百官。立夫人折掘氏為王后、世子1.武臺為太子・錄尚書事、左長史趙晁・右長史郭倖為尚書左右僕射、鎮北俱延為太尉、鎮軍敬歸為司隸校尉、自餘封署各有差。
遣其左將軍枯木・駙馬都尉胡康伐沮渠蒙遜、掠臨松人千餘戶而還。蒙遜大怒、率騎五千至于顯美方亭、破車蓋鮮卑而還。俱延又伐蒙遜、大敗而歸。傉檀將親率眾伐蒙遜、趙晁及太史令景保諫曰、「今太白未出、歲星在西、宜以自守、難以伐人。比年天文錯亂、風霧不時、唯修德責躬可以寧吉。」傉檀曰、「蒙遜往年無狀、入我封畿、掠我邊疆、殘我禾稼。吾蓄力待時、將報東門之恥。今大軍已集、卿欲沮眾邪。」保曰、「陛下不以臣不肖、使臣主察乾象、若見事不言、非為臣之體。天文顯然、動必無利。」傉檀曰、「吾以輕騎五萬伐之、蒙遜若以騎兵距我、則眾寡不敵。兼步而來、則舒疾不同。救右則擊其左、赴前則攻其後、終不與之交兵接戰、卿何懼乎。」保曰、「天文不虛、必將有變。」傉檀怒、鎖保而行、曰、「有功當殺汝以徇、無功封汝百戶侯。」
既而蒙遜率眾來距、戰于窮泉、傉檀大敗、單馬奔還。景保為蒙遜所擒、讓之曰、「卿明於天文、為彼國所任、違天犯順、智安在乎。」保曰、「臣匪為無智、但言而不從。」蒙遜曰、「昔漢祖困于平城、以婁敬為功。袁紹敗于官渡、而田豐為戮。卿策同二子、貴主未可量也。卿必有婁敬之賞者、吾今放卿、但恐有田豐之禍耳。」保曰、「寡君雖才非漢祖、猶不同本初、正可不得封侯、豈慮禍也。」蒙遜乃免之。至姑臧、傉檀謝之曰、「卿、孤之蓍龜也、而不能從之、孤之深罪。」封保安亭侯。

1.「武臺」は唐代の避諱であり、『資治通鑑』は「虎臺」に作る。

訓読

傉檀 是に於て僭して涼王の位に即き、其の境內を赦し、年を改めて嘉平と為し、百官を置く。夫人の折掘氏を立てて王后と為し、世子の武臺を太子・錄尚書事と為し、左長史の趙晁・右長史の郭倖を尚書左右僕射と為し、鎮北の俱延を太尉と為し、鎮軍の敬歸を司隸校尉と為し、自餘の封署 各々差有り。
其の左將軍の枯木・駙馬都尉の胡康を遣はして沮渠蒙遜を伐ち、臨松人の千餘戶を掠して還る。蒙遜 大いに怒り、騎五千を率ゐて顯美の方亭に至り、車蓋鮮卑を破りて還る。俱延 又 蒙遜を伐ち、大いに敗りて歸る。傉檀 將に親ら眾を率ゐて蒙遜を伐たんとし、趙晁及び太史令の景保 諫めて曰く、「今 太白 未だ出でず、歲星 西に在り、宜しく以て自守すべし、以て人を伐ち難し。比年 天文 錯亂し、風霧 時ならず、唯だ德を修め躬を責めて以て寧吉と可し」と。傉檀曰く、「蒙遜 往年 無狀なり、我が封畿に入り、我が邊疆を掠め、我が禾稼を殘す。吾 力を蓄へて時を待ち、將に東門の恥を報ぜんとす。今 大軍 已に集ひ、卿 眾を沮まんと欲するや」と。保曰く、「陛下 臣を以て不肖とせず、臣をして乾象を主察せしめ、若し事を見て言はざれば、臣の體為るに非ず。天文 顯然とし、動かば必ず利無し」と。傉檀曰く、「吾 輕騎五萬を以て之を伐つ、蒙遜 若し騎兵を以て我を距がば、則ち眾寡 敵せず。步を兼せて來れば、則ち舒疾 同からず。右を救はば則ち其の左を擊ち、前に赴かば則ち其の後を攻め、終に之と交兵接戰せず、卿 何をか懼るるか」と。保曰く、「天文 虛ならず、必ず將に變有らんとす」と。傉檀 怒り、保を鎖して行き、曰く、「功有らば當に汝を殺して以て徇ふべし、功無くば汝を百戶侯に封ぜん」と。
既にして蒙遜 眾を率ゐて來りて距し、窮泉に戰ひ、傉檀 大いに敗れ、單馬にて奔還す。景保 蒙遜の為に擒へられ、之を讓して曰く、「卿 天文に明るく、彼の國の為に任ぜられ、天に違して順を犯す、智 安にか在るか」と。保曰く、「臣 無智為るに匪ず、但だ言へども從はず」と。蒙遜曰く、「昔 漢祖 平城に困し、婁敬を以て功と為す。袁紹 官渡に敗れ、而れども田豐 戮と為す。卿の策 二子に同じく、貴主 未だ量る可からざるなり。卿 必ず婁敬の賞する者有らば、吾 今 卿を放ち、但だ田豐の禍有あるを恐るるのみ」と。保曰く、「寡君 才は漢祖に非ざると雖も、猶ほ本初に同じからず、正に封侯を得る可からず、豈に禍を慮るるや」と。蒙遜 乃ち之を免ず。姑臧に至り、傉檀 之に謝りて曰く、「卿、孤の蓍龜なり、而れども之に從ふこと能はず、孤の深罪なり」と。保を安亭侯に封ず。

現代語訳

傉檀が涼王を僭号し、領内を赦し、嘉平と改元し、百官を設置した。夫人の折掘氏を王后とし、世子の武台(虎台)を太子・録尚書事とし、左長史の趙晁・右長史の郭倖を尚書左右僕射とし、鎮北将軍の俱延を太尉とし、鎮軍将軍の敬帰を司隸校尉とし、以下の任命と封爵はそれぞれ差等があった。
左将軍の枯木・駙馬都尉の胡康に沮渠蒙遜を討伐させ、臨松の住民の千餘戸を掠奪して還った。蒙遜は大いに怒り、騎五千を率いて顕美の方亭に至り、車蓋鮮卑を破って還った。俱延も蒙遜を伐ち、大いに破って帰った。傉檀が自ら蒙遜を討伐しようと計画すると、趙晁及び太史令の景保が諫めて、「まだ太白が現れず、歳星が西にあるため、自守すべきであり、外敵の討伐に適しません。近年は天文が錯乱し、風や霧も不規則に起こるので、徳を修め研鑽して安寧を心がけるべきです」と言った。傉檀は、「蒙遜は前年にでたらめを働き、わが首都圏に侵入し、わが辺境を掠め取り、作物を台無しにした。力を蓄えて時を待ち、東門の恥を雪ごうと思う。もう大軍が集まった、邪魔をするのか」と言った。景保は、「陛下は私を見出し、天文の観測を担当させて下さいました、もし異常を報告せねば、役割を果たせません。天文は明らかに、出陣に不利です」と言った。傉檀は、「私が軽騎五万で討伐する、蒙遜が騎兵で防げば、数で圧倒できる。歩兵を混ぜてこれば、速度に差が生じる。右を救えば左を撃ち、前に行けば後ろを攻めれば、近接戦をせずにすむ、何の心配があろうか」と言った。景保は、「天文には意味があります、必ず不測の事態があります」と言った。傉檀は怒り、景保を鎖で拘束し、「勝利したらお前を殺して(不適切な進言をした罪を)明らかにする、敗北したら百戸侯に封建してやる」と言った。
蒙遜が防戦に駆けつけ、窮泉で戦い、傉檀は大いに敗れ、単騎で逃げ還った。景保は蒙遜に捕らえられ、「あなたは天文に精通し、(南涼で)公職に任じられたが、天文と道理に逆らい(傉檀の出撃を制止しなかった)、知恵がないのか」と言った。景保は、「わが無智ではなく、(傉檀が)進言に従わなかったのだ」と言った。蒙遜は、「むかし前漢の高祖は平城で追い詰められ、(匈奴討伐を諫止した)婁敬の功績を認めた。袁紹が官渡で敗れると、(曹操討伐を諫止した)田豊を死刑とした。あなたの進言は二者と同じだが、貴国の主君(傉檀)の器量はどの程度だろう。もし婁敬のように賞賛されるなら、逃がしてもよい、だが、田豊の二の舞とならぬか気掛かりだ」と言った。景保は、「わが君は才能は漢祖ほど優れていないが、本初(袁紹)ほど悪くもない、(約束どおりの)封侯は無理だろうが、ご懸念は無用だ」と言った。蒙遜は(景保を)解放した。姑臧に至ると、傉檀が彼に謝って、「あなたは、私の蓍亀(占いに用いる道具を指す)であるが、助言に従わなかったのは、私の深い罪だ」と言った。景保を安亭侯に封じた。

原文

蒙遜進圍姑臧、百姓懲東苑之戮、悉皆驚散。曡掘・麥田・車蓋諸部盡降于蒙遜。傉檀遣使請和、蒙遜許之、乃遣司隸校尉敬歸及子他為質、歸至胡坑、逃還、他為追兵所執。蒙遜徙其眾八千餘戶而歸。右衞折掘奇鎮據石驢山以叛。傉檀懼為蒙遜所滅、又慮奇鎮克嶺南、乃遷于樂都、留大司農成公緒守姑臧。傉檀始出城、1.焦諶・王侯等閉門作難、收合三千餘家、保據南城。諶推焦朗為大都督・龍驤大將軍、諶為涼州刺史、降于蒙遜。鎮軍敬歸討奇鎮於石驢山、戰敗、死之。
蒙遜因克姑臧之威來伐、傉檀遣其安北段苟・左將軍雲連乘虛出番禾以襲其後、徙三千餘家於西平。蒙遜圍樂都、三旬不克、遣使謂傉檀曰、「若以寵子為質、我當還師。」傉檀曰、「去否任卿兵勢。卿違盟無信、何質以供。」蒙遜怒、築室返耕、為持久之計。羣臣固請、乃以子安周為質、蒙遜引歸。
吐谷渾樹洛干率眾來伐、傉檀遣其太子武臺距之、為洛干所敗。傉檀又將伐蒙遜、邯川護軍孟愷諫曰、「蒙遜初并姑臧、凶勢甚盛、宜固守伺隙、不可妄動。」不從。五道俱進、至番禾・苕藋、掠五千餘戶。其將屈右進曰、「陛下轉戰千里、前無完陣、徙戶資財、盈溢衢路、宜倍道旋師、早度峻險。蒙遜善於用兵、士眾習戰、若輕軍卒至、出吾慮表、大敵外逼、徙戶內攻、危之道也。」衞尉伊力延曰、「我軍勢方盛、將士勇氣自倍、彼徒我騎、勢不相及、若倍道旋師、必捐棄資財、示人以弱、非計也。」屈右出而告其諸弟曰、「吾言不用、天命也。此吾兄弟死地。」俄而昏霧風雨、蒙遜軍大至、傉檀敗績而還。蒙遜進圍樂都、傉檀嬰城固守、以子染干為質、蒙遜乃歸。久之、遣安西紇勃耀兵西境。蒙遜侵西平、徙戶掠牛馬而還。

1.「焦諶・王侯」は、『資治通鑑』巻一一五は「侯諶」に作る。

訓読

蒙遜 進みて姑臧を圍み、百姓 東苑の戮に懲り、悉く皆 驚き散ず。曡掘・麥田・車蓋の諸部 盡く蒙遜に降る。傉檀 使を遣して和を請ひ、蒙遜 之を許し、乃ち司隸校尉の敬歸及び子の他を遣して質と為し、歸りて胡坑に至り、逃げ還り、他 追兵の為に執へらる。蒙遜 其の眾八千餘戶を徙して歸る。右衞の折掘奇鎮 石驢山に據して以て叛す。傉檀 蒙遜の為に滅せらるるを懼れ、又 奇鎮 嶺南に克つことを慮れ、乃ち樂都に遷し、大司農の成公緒を留めて姑臧を守らしむ。傉檀 始めて城を出で、焦諶・王侯ら閉門して難を作し、三千餘家を收合し、南城を保據す。諶 焦朗を推して大都督・龍驤大將軍と為し、諶 涼州刺史と為り、蒙遜に降る。鎮軍の敬歸 奇鎮を石驢山に討ち、戰ひて敗れ、之に死す。
蒙遜 姑臧に克てるの威に因りて來伐し、傉檀 其の安北の段苟・左將軍の雲連を遣はして虛に乘じて番禾に出でて以て其の後を襲ひ、三千餘家を西平に徙す。蒙遜 樂都を圍ひ、三旬にして克たず、使を遣はして傉檀に謂ひて曰く、「若し寵子を以て質と為せば、我 當に師を還すべし」と。傉檀曰く、「去否は卿の兵勢に任す。卿 盟に違ひて信無く、何の質ありて以て供せん」と。蒙遜 怒り、室を築きて耕に返し、持久の計を為す。羣臣 固く請ひ、乃ち子の安周を以て質と為し、蒙遜 引て歸る。
吐谷渾の樹洛干 眾を率ゐて來伐し、傉檀 其の太子たる武臺を遣はして之を距ましめ、洛干の為に敗らる。傉檀 又 將に蒙遜を伐たんとするに、邯川護軍の孟愷 諫めて曰く、「蒙遜 初めて姑臧を并せ、凶勢 甚だ盛なり、宜しく固守し隙を伺ひ、妄りに動く可からず」と。從はず。五道 俱に進み、番禾・苕藋に至り、五千餘戶を掠す。其の將たる屈右進曰く、「陛下 轉戰すること千里、前に完陣無く、戶の資財を徙し、衢路に盈溢す、宜しく倍道して師を旋し、早く峻險を度るべし。蒙遜 用兵に善く、士眾 戰に習ふ、若し輕軍もて卒かに至らば、吾が慮表に出でん、大敵 外に逼るに、戶を徙して內に攻むるは、危の道なり」と。衞尉の伊力延曰く、「我が軍勢 方に盛んなり、將士の勇氣 自倍す、彼は徒なり我は騎なり、勢 相 及ばず、若し倍道して師を旋せば、必ず資財を捐棄し、人に示すに弱を以てす、計に非ざるなり」と。屈右 出でて其の諸弟に告げて曰く、「吾が言 用ゐざるは、天命なり。此 吾が兄弟の死地なり」と。俄かにして昏霧風雨あり、蒙遜の軍 大いに至り、傉檀 敗績して還る。蒙遜 進みて樂都を圍み、傉檀 城を嬰して固守し、子の染干を以て質と為し、蒙遜 乃ち歸る。久之、安西の紇勃を遣はして兵を西境に耀かす。蒙遜 西平を侵し、戶を徙し牛馬を掠して還る。

現代語訳

蒙遜が進んで姑臧を囲むと、百姓は東苑で行われた殺戮を想起し、みな驚いて散った。曡掘・麦田・車蓋の諸部はことごとく蒙遜に降った。傉檀が和睦の使者を送ると、蒙遜はこれを受け入れ、司隸校尉の敬帰及び子の禿髪他を人質として送り、胡坑に帰り着いたころ、禿髪他は追手に捕まった。蒙遜は八千餘戸を移して還った。右衛将軍の折掘奇鎮が石驢山を拠点として叛乱した。傉檀は蒙遜に滅ぼされることに恐怖し、また奇鎮が嶺南を破ることを警戒し、楽都に都を遷して、大司農の成公緒を留めて姑臧を守らせた。傉檀が城を出たところ、焦諶・王侯らが閉門して反乱し、三千餘家を集め、南城を拠点とした。焦諶は焦朗を大都督・龍驤大将軍に推し、焦諶は涼州刺史となり、蒙遜に降服した。鎮軍将軍の敬帰が奇鎮を石驢山において討伐したが、敗れ、戦死した。
蒙遜が姑臧で勝利した威勢に乗って襲来すると、傉檀は安北将軍の段苟・左将軍の雲連を派遣して虚に乗じて番禾に出て(蒙遜の)後方を襲わせ、三千餘家を西平に移した。蒙遜は(南涼の都である)楽都を包囲したが、三十日経っても攻略できず、使者を傉檀に送り、「もし寵愛している子を人質に寄越すなら、包囲軍を退いてやる」と言った。傉檀は、「進退は貴軍の勢い次第だ。あなたは盟約を破るから信頼できない、差し出すべき人質などいない」と言った。蒙遜は怒り、建物を築いて屯田し、持久の構えを見せた。郡臣が強く願ったので、子の禿髪安周を人質とし、蒙遜は引き上げた。
吐谷渾の樹洛干が攻め込み、傉檀は太子の武臺に防戦させたが、洛干に破られた。傉檀が蒙遜討伐を計画すると、邯川護軍の孟愷が諫め、「蒙遜は姑臧を併合した直後で、凶悪な勢威が盛んです、専守防衛し、みだりに動いてはいけません」と言った。従わなかった。五道を並進し、番禾・苕藋に至り、五千餘戶を掠奪した。将の屈右進が、「陛下は千里を転戦し、前方に完全な陣がなく、掠奪した資財を運び、道路に満ちあふれています、急いで帰還し、峻険の地を通過しましょう。蒙遜は用兵を得意とし、将兵は戦いに熟練しています、もし軽軍で襲来したら、不意を突かれます、強敵が接近するにも拘わらず、住民を掠奪し領内を攻めるのは、危険なやり方です」と言った。衞尉の伊力延は、「わが軍勢は強盛であり、将士の士気は倍加し、やつらは徒歩でわれらは騎馬である、圧倒されるはずがない、もし急いで帰還すれば、資財を放棄し、弱さを見せることになる、良計ではない」と言った。屈右は退出すると諸弟に、「わが意見が用いられないのは、天命だ。ここがわが兄弟の死に場所だ」と告げた。にわかに濃霧と風雨があって、蒙遜の大軍が到来し、傉檀は敗北して還った。蒙遜は進んで(首都の)楽都を囲み、傉檀が籠城し、子の染干を人質に差し出し、蒙遜は帰還した。しばらくして、安西将軍の紇勃を派遣して西の国境で兵威を見せつけた。蒙遜が西平を侵略し、住民を移して牛馬を盗んで還った。

原文

邯川護軍孟愷表鎮南・湟河太守文支荒酒愎諫、不卹政事。傉檀謂伊力延曰、「今州土傾覆、所杖者文支而已、將若之何。」延曰、「宜召而訓之、使改往修來。」傉檀乃召文支、既到、讓之曰、「二兄英姿早世、吾以不才嗣統、不能負荷大業、顛狽如是、胡顏視世、雖存若隕。庶憑子鮮存衞、藉文種復吳、卿之謂也。聞卿唯酒是耽、荒廢庶事。吾年已老、卿復若斯、祖宗之業將誰寄也。」文支頓首陳謝。
邯川人衞章等謀殺孟愷、南啟乞伏熾磐。郭越止之曰、「孟君寬以惠下、何罪而殺之。吾寧違眾而死、不負君以生。」乃密告之愷、誘章等飲酒、殺四十餘人。愷懼熾磐軍之至、馳告文支、文支遣將軍匹珍赴之。熾磐軍到城、聞珍將至、引歸。蒙遜又攻樂都、二旬不克而還。鎮南文支以湟河降蒙遜、徙五千餘戶于姑臧。蒙遜又來伐、傉檀以太尉俱延為質、蒙遜乃引還。
傉檀議欲西征乙弗、孟愷諫曰、「連年不收、上下飢弊、南逼熾磐、北迫蒙遜、百姓騷動、下不安業。今遠征雖克、後患必深、不如結盟熾磐、通糴濟難、慰喻雜部、以廣軍資、畜力繕兵、相時而動。易曰、『其亡其亡、繫於苞桑。』惟陛下圖之。」傉檀曰、「孤將略地、卿無沮眾。」謂其太子武臺曰、「今不種多年、內外俱窘、事宜西行、以拯此弊。蒙遜近去、不能卒來、旦夕所慮、唯在熾磐。彼名微眾寡、易以討禦、吾不過一月、自足周旋。汝謹守樂都、無使失墜。」傉檀乃率騎七千襲乙弗、大破之、獲牛馬羊四十餘萬。

訓読

邯川護軍の孟愷 表すらく鎮南・湟河太守の文支 酒に荒み諫に愎(もと)り、政事を卹まずと。傉檀 伊力延に謂ひて曰く、「今 州土 傾覆し、杖る所の者は文支のみ、將に之を若何せん」と。延曰く、「宜しく召して之に訓え、往を改めて來を修めしむべし」と。傉檀 乃ち文支を召し、既に到り、之を讓めて曰く、「二兄の英姿 早世し、吾 不才を以て統を嗣ぎ、大業を負荷すること能はず、顛狽 是の如し、胡なる顏ありて世を視る、存と雖も隕が若し。庶はくは子鮮 衞を存するに憑り、文種に藉りて吳を復するは、卿の謂ひなり。聞くに卿 唯だ酒のみ是れ耽じ、庶事を荒廢す。吾が年 已に老なり、卿 復た斯の若くんば、祖宗の業 將に誰か寄るや」と。文支 頓首して陳謝す。
邯川の人たる衞章ら孟愷を殺さんと謀り、南のかた乞伏熾磐に啟す。郭越 之を止めて曰く、「孟君 寬なるに下を惠むを以てし、何の罪ありて之を殺すか。吾 寧ろ眾に違ひて死すとも、君に負きて以て生きず」と。乃ち之を愷に密告し、章らを誘ひて飲酒し、四十餘人を殺す。愷 熾磐の軍の至るを懼れ、馳せて文支に告げ、文支 將軍の匹珍を遣はして之に赴かしむ。熾磐の軍 城に到り、珍の將に至らんとするを聞き、引き歸す。蒙遜 又 樂都を攻め、二旬にして克たずして還る。鎮南の文支 湟河を以て蒙遜に降り、五千餘戶を姑臧に徙す。蒙遜 又 來伐し、傉檀 太尉の俱延を以て質と為し、蒙遜 乃ち引き還す。
傉檀 議して西のかた乙弗を征せんと欲し、孟愷 諫めて曰く、「連年 收めず、上下 飢弊し、南は熾磐に逼られ、北は蒙遜に迫られ、百姓 騷動し、下 業に安ぜず。今 遠征せば克つ雖も、後患 必ず深し、如かず盟を熾磐と結び、糴を通じ難を濟ひ、雜部を慰喻して、以て軍資を廣め、力を畜へ兵を繕ひ、時に相ひて動け。易に曰く、『其れ亡びなん其れ亡びなんとて、苞桑に繫(かか)る』と〔一〕。惟だ陛下 之を圖れ」と。傉檀曰く、「孤 將に地を略せんとし、卿 眾を沮む無かれ」と。其の太子の武臺に謂ひて曰く、「今 種らざること多年、內外 俱に窘し、事 宜しく西行して、以て此の弊を拯ふべし。蒙遜 近く去り、卒かに來る能はず、旦夕に慮る所、唯だ熾磐在るのみ。彼 名は微にして眾は寡なく、以て禦を討ち易し、吾 一月を過ぎず、自ら周旋するに足る。汝 謹みて樂都を守り、失墜せしむる無かれ」と。傉檀 乃ち騎七千を率ゐて乙弗を襲ひ、大いに之を破り、牛馬羊四十餘萬を獲たり。

〔一〕『周易』否 九五に「其亡其亡、繫于苞桑」とあり、出典。

現代語訳

邯川護軍の孟愷が上表して鎮南将軍・湟河太守の文支は酒浸りで諫言を聞かず、政事に熱心でないと訴えた。傉檀は伊力延に、「いま国土が傾覆し、頼れるのは文支だけだ、どうしたらよいか」と言った。伊力延は、「彼を召して教え諭し、過去を改めて今後のため努めさせましょう」と言った。傉檀は文支を召し、到着すると、咎めて、「二兄の英雄(烏孤・利鹿孤)が早世し、私は不才ながらも継承したが、大任を担えず、このように混乱しており、世に顔向けできず、死んだも同然である。(春秋衛の太子)子鮮が国家を存続させ、(春秋越の)文種の力を頼って呉に復讐した故事こそ、あなたに期待する役割である。聞けばあなたは泥酔し、政務が荒廃しているそうだ。私は老年であり、あなたがそんな様子では、祖先の事業は誰に託したらよいのか」と言った。文支は頓首して謝罪した。
邯川の人である衛章らが孟愷を殺そうと計画し、南のかた乞伏熾磐に声を掛けた。郭越がこれを制止し、「孟君は下々に手厚く寛大な政治を行っており、何の罪があって殺すのか。私は郡臣と対立して死んでも、上官に背いて生きることはない」と言った。これを孟愷に密告し、衛章らを誘って酒宴を開き、四十餘人を殺した。孟愷は熾磐の軍が到来することを懼れ、文支に急を告げると、文支は将軍の匹珍を(救援のため)派遣した。熾磐の軍が城に到着すると、匹珍が到着間近だと聞き、引き返した。蒙遜がまた楽都を攻めたが、二十日間攻めあぐねて撤退した。鎮南将軍の文支が湟河をあげて蒙遜に降服し、五千餘戸が姑臧に移った。蒙遜がまた襲来し、傉檀は太尉の俱延を人質として差し出し、蒙遜は引き返した。
傉檀が西のかた乙弗の征伐を検討すると、孟愷が、「連年収穫がなく、上下は飢えて疲弊し、南に熾磐、北に蒙遜という脅威がおり、百姓が騒ぎ、民は生業が安定しません。いま遠征すれば勝利しても、必ず後に憂いを残します、熾磐と同盟し、穀物の交易路を開いて危機を乗りこえ、諸部を慰めて諭し、軍資を増強し、力を蓄えて武具を繕い、好機が到来したら動きなさい。『易』に、『滅亡するぞ滅亡するぞ、根元を繋ぎ止めよ』とあります。陛下はご再考下さい」と言った。傉檀は、「私は敵地を侵略するのだ、邪魔するな」と言った。太子の武台に、「数年間の実りがなく、内外は窮迫している、西方を征服し、窮状を打開しようと思う。蒙遜は撤退したばかりで、すぐには襲来できまい、当面の心配は、熾磐だけだ。彼は名声が軽く兵数が少なく、撃ち破りやすい、一ヵ月もかけず、凱旋できよう。お前は慎んで楽都を守り、失陥させぬように」と言った。傉檀は騎七千を率いて乙弗を襲い、大いに破り、牛馬羊四十餘万を獲得した。

原文

熾磐乘虛來襲、撫軍從事中郎尉肅言於武臺曰、「今外城廣大、難以固守、宜聚國人於內城、肅等率諸晉人距戰於外、如或不捷、猶有萬全。」武臺曰、「小賊蕞爾、旦夕當走、卿何慮之過也。」武臺懼晉人有二心也、乃召豪望有勇謀者閉之於內。孟愷泣曰、「熾磐不道、人神同憤。愷等進則荷恩重遷、退顧妻子之累、豈有二乎。今事已急矣、人思自效、有何猜邪。」武臺曰、「吾豈不知子忠、實懼餘人脫生慮表、以君等安之耳。」一旬而城潰。
安西樊尼自西平奔告傉檀、傉檀謂眾曰、「今樂都為熾磐所陷、男夫盡殺、婦女賞軍、雖欲歸還、無所赴也。卿等能與吾藉乙弗之資、取契汗以贖妻子者、是所望也。不爾、歸熾磐便為奴僕矣、豈忍見妻子1.在他懷抱中。」遂引師而西、眾多逃返、遣鎮北段苟追之、苟亦不還。於是將士皆散、惟中軍紇勃・後軍洛肱・安西樊尼・散騎侍郎陰利鹿在焉。
傉檀曰、「蒙遜・熾磐昔皆委質於吾、今而歸之、不亦鄙哉。四海之廣、匹夫無所容其身、何其痛也。蒙遜與吾名齊年比、熾磐姻好少年、俱其所忌、勢皆不濟。與其聚而同死、不如分而或全。樊尼長兄之子、宗部所寄、吾眾在北者戶垂2.二萬、蒙遜方招懷遐邇、存亡繼絕、汝其西也。紇勃・洛肱亦與尼俱。吾年老矣、所適不容、寧見妻子而死。」遂歸熾磐、唯陰利鹿隨之。傉檀謂利鹿曰、「去危就安、人之常也。吾親屬皆散、卿何獨留。」利鹿曰、「臣老母在家、方寸實亂。但忠孝之義、勢不俱全。雖不能西哭沮渠、申包胥之誠。東感秦援、展毛遂之操、負羈靮而侍陛下者、臣之分也。惟願開弘遠猷、審進止之算。」傉檀歎曰、「知人固未易、人亦未易知。大臣親戚皆棄我去、終始不虧者、唯卿一人。歲寒不凋、見之於卿。」傉檀至西平、熾磐遣使郊迎、待以上賓之禮。

1.「在他懷抱中」は、殿本は「在他人抱中」に作るという。
2.「二萬」は、『資治通鑑』は「一萬」に作る。

訓読

熾磐 虛に乘じて來襲し、撫軍從事中郎の尉肅 武臺に言ひて曰く、「今 外城は廣大なり、以て固守し難し、宜しく國人を內城に聚め、肅ら諸の晉人を率ゐて外に距戰し、如し或いは捷たずとも、猶ほ萬全を有たん」と。武臺曰く、「小賊 蕞爾たり、旦夕に當に走るべし、卿 何ぞ慮ふことの過ぎたるや」と。武臺 晉人に二心有るを懼れ、乃ち豪望の勇謀有る者を召して之を內に閉す。孟愷 泣きて曰く、「熾磐 不道なり、人神 同に憤る。愷ら進めば則ち恩を荷ひて重遷し、退きては妻子の累を顧み、豈に二有らんか。今 事 已に急なり、人 自ら效ふことを思ふ、何ぞ猜ること有るか」と。武臺曰く、「吾 豈に子の忠を知らざらんや、實に餘人の脫(も)しくは慮表を生ぜんことを懼る、君らを以て之を安ずるのみ」と。一旬にして城 潰ゆ。
安西の樊尼 西平より奔りて傉檀に告げ、傉檀 眾に謂ひて曰く、「今 樂都 熾磐の為に陷せられ、男夫 盡く殺され、婦女く軍に賞せられ、歸還せんと欲すると雖も、赴く所無きなり。卿ら能く吾と乙弗の資を藉り、契汗を取りて以て妻子に贖ふ者は、是れ望む所なり。爾らずんば、熾磐に歸して便ち奴僕と為る、豈に妻子の他の懷抱中に在るを見るに忍びんか」と。遂に師を引きて西し、眾 多く逃げ返り、鎮北の段苟を遣はして之を追はしめ、苟も亦た還らず。是に於て將士 皆 散じ、惟だ中軍の紇勃・後軍の洛肱・安西の樊尼・散騎侍郎の陰利鹿のみ焉に在り。
傉檀曰く、「蒙遜・熾磐 昔 皆 吾に委質し、今にして之に歸す、亦た鄙ならざるや。四海の廣、匹夫 其の身を容るる所無く、何ぞ其れ痛ましきや。蒙遜 吾と名は齊しく年は比にして、熾磐 姻好の少年なり、俱に其れ忌む所なり、勢 皆 濟ならず。其の聚と死を同にする與(より)は、分れて或いは全からんに如かず。樊尼は長兄の子にして、宗部 寄る所、吾が眾 北に在る者 戶は二萬に垂とし、蒙遜 方に遐邇を招懷し、亡を存し絕を繼ぎ、汝 其れ西せん。紇勃・洛肱も亦た尼と俱にせよ。吾が年 老へり、適く所 容れざれば、寧ろ妻子に見えて死せん」と。遂に熾磐に歸し、唯だ陰利鹿のみ之に隨ふ。傉檀 利鹿に謂ひて曰く、「危を去り安に就くは、人の常なり。吾が親屬 皆 散ず、卿 何ぞ獨り留まるか」と。利鹿曰く、「臣の老母 家に在り、方寸 實に亂る。但だ忠孝の義、勢 俱全せず。西のかた沮渠に哭すること能はざると雖も、包胥の誠を申すなり。東のかた秦の援に感ずるとも、毛遂の操を展すなり、羈靮を負ひて陛下に侍るは、臣の分なり。惟だ願はくは遠猷を開弘し、進止の算を審らかにせよ」と。傉檀 歎じて曰く、「人を知ること固に未だ易らず、人 亦た未だ易らざることを知る。大臣の親戚 皆 我を棄てて去り、終始 虧けざるは、唯だ卿一人のみ。歲は寒にして凋(しぼ)まざるは、之を卿に見ればなり」と。傉檀 西平に至り、熾磐 使を遣して郊迎し、待するに上賓の禮を以てす。

現代語訳

熾磐が虚に乗じて(楽都に)来襲すると、撫軍従事中郎の尉粛は武台に、「いま外城は広大で、守り切れません、住民を内城に集めなさい、私たちが晋人(漢族)を率いて外で防戦をすれば、勝てずとも、城だけは残せます」と言った。武台は、「賊軍は弱小であり、朝夕に逃げるだろう、心配し過ぎだ」と言った。武台は(配下の)晋人に裏切られることを懼れ、豪族や名望家のうちで勇敢で謀略のある者を内に閉じ込めた。孟愷が泣いて、「熾磐は道義にそむき、人神ともに憤っています。孟愷らが進めば(南涼に)恩を感じており故郷を離れることを恐れ、退いては妻子に刑罰が及ぶことに鑑み、まさか二心を抱くはずがありません。事態は切迫しています、晋人は自分のために戦うのです、なぜ疑うのですか」と言った。武台は、「きみの忠節を知らぬのではない、それ以外の人に意表を突かれることが恐いのだ、彼らを見張ってくれ」と言った。たった十日で城が潰滅した。
安西将軍の樊尼が西平から奔って傉檀に報告すると、傉檀は将卒に、「いま楽都が熾磐に陥落させられ、男性は全員が殺され、女性は軍の賞賜に当てられ、撤退しようにも、帰る場所がなくなった。私と一緒に(鮮卑の)乙弗部の資財を頼り、(鮮卑の)契汗部を娶って妻子の代わりにするなら、そうしよう。さもなくば、熾磐に帰順して奴僕となるしかないが、妻子が他人に抱かれるのを見て我慢できようか」と言った。軍を西に引き返し、軍勢は多くが逃げ去り、鎮北将軍の段苟に追わせたが、段苟も帰ってこなかった。とうとう将士が解散し、ただ中軍将軍の紇勃・後軍将軍の洛肱・安西将軍の樊尼・散騎侍郎の陰利鹿のみが残った。
傉檀は、「蒙遜・熾磐はかつて私に人質を寄越したが、今は(反対に)私が帰順するというのは、つまらぬことだ。四海は広いが、私一人の身の置き所がなく、なんと痛ましいことか。蒙遜は私と名声も年齢も同じで、熾磐は姻戚の少年に過ぎず、どちらに臣従するのも厭わしく、彼らの権勢も安定していない。やつらと一緒に死ぬよりは、ばらばらになって生き延びたほうがよい。樊尼は長兄の子であり、頼りになる族長である、わが国の民は北方に二万ほどおり、蒙遜は遠近の懐柔を試み、断絶した家の継承を支援している、きみは西(蒙遜の北涼)に行くように。紇勃・洛肱もまた樊尼に同行せよ。私はもう老いた、行く先がなければ、妻子に会ってから死のう」と言った。かくして(傉檀は)熾磐に帰順し、ただ陰利鹿だけが随った。傉檀が利鹿に、「危険を避けて安定を望むのは、人の常である。わが親族や党与は全て解散した、なぜあなただけが留まってくれるのか」と質問した。利鹿は、「わが老母は家におり、方寸(胸中)が乱れています。忠と孝は、両立し得ません。西のかた沮渠に向けて哭し(熾磐の討伐を要請し)なくとも、(春秋楚の)申包胥のような誠意を表明します。東のかた後秦からの援軍を期待し、(春秋趙の)毛遂のように(他国を説得するという)を意地も発揮できます、手綱を引いて陛下に侍るのは、臣下としての節度です。どうか戦略を明らかにし、進退の計画を練って下さい」と言った。傉檀は歎じて、「他人を理解するのは簡単ではなく、他人から理解されることも簡単ではない。高官の親族はみな私から去ったが、最後まで欠けなかったのは、あなた一人だけだ。気温が低くても落胆しないのは、それをあなたから学んだからだ」と言った。傉檀が西平に至ると、熾磐は使者を送って出迎え、上賓の礼で待遇した。

原文

初、樂都之潰也、諸城皆降于熾磐、傉檀將尉賢政固守浩亹不下。熾磐呼之曰、「樂都已潰、卿妻子皆在吾間、孤城獨守、何所為也。」賢政曰、「受涼王厚恩、為國家藩屏、雖知樂都已陷、妻子為擒、先歸獲賞、後順受誅、然不知主上存亡、未敢歸命。妻子小事、豈足動懷。昔羅憲待命、晉文亮之。文聘後來、魏武不責。邀一時之榮、忘委付之重、竊用恥焉、大王亦安用之哉。」熾磐乃遣武臺手書喻政、政曰、「汝為國儲、不能盡節、面縛於人、棄父負君、虧萬世之業、賢政義士、豈如汝乎。」既而聞傉檀至左南、乃降。
熾磐以傉檀為驃騎大將軍、封左南公。歲餘、為熾磐所鴆。左右勸傉檀解藥、傉檀曰、「吾病豈宜療邪。」遂死、時年五十一、在位十三年、偽諡景王。武臺後亦為熾磐所殺。1.傉檀少子保周・臘于破羌・俱延子覆龍・鹿孤孫副周・烏孤孫承鉢皆奔沮渠蒙遜。久之、歸魏、魏以保周為張掖王、覆龍酒泉公、破羌西平公、副周永平公、承鉢昌松公。烏孤以安帝隆安元年僭立、至傉檀三世、2.凡十九年、以安帝義熙十年滅。
史臣曰、禿髮累葉酋豪、擅強邊服、控弦玉塞、躍馬金山、候滿月而窺兵、乘折膠而縱鏑、禮容弗被、聲教斯阻。烏孤納苻渾之策、治兵以討不賓。鹿孤從史暠之言、建學而延冑子。遂能開疆河右、抗衡強國。道由人弘、抑此之謂。傉檀承累捷之銳、藉二昆之資、摧呂氏算無遺策、取姑臧兵不血刃、武略雄圖、比蹤前烈。既而叨竊重位、盈滿易期、窮兵以逞其心、縱慝自貽其弊、地奪於蒙遜、勢衄於赫連、覆國喪身、猶為幸也。昔宋殤好戰、致災於華督。楚靈黷武、取殺於乾谿。異代同亡、其於傉檀見之矣。
贊曰、禿髮弟兄、擅雄羣虜。開疆河外、清氛西土。傉檀傑出、騰駕時英。窮兵黷武、喪國穨聲。

1.中華書局本によると、この部分は意味不明であり、名や区切りに異説がある。
2.中華書局本によると、「凡十九年」は「凡十八年」に作るのが正しい。

訓読

初め、樂都の潰するや、諸城 皆 熾磐に降り、傉檀の將たる尉賢政 浩亹を固守して下らず。熾磐 之に呼びて曰く、「樂都 已に潰え、卿の妻子 皆 吾が間に在り、孤城もて獨守し、何ぞ為す所なるや」と。賢政曰く、「涼王の厚恩を受け、國家の藩屏と為る、樂都 已に陷し、妻子 擒と為ることを知ると雖も、先に歸せば賞を獲け、後に順へば誅を受く、然も主上の存亡を知らず、未だ敢て歸命せざるなり。妻子は小事にして、豈に懷を動ずるに足るか。昔 羅憲 命を待ち、晉文 之を亮とす。文聘 後に來り、魏武 責めず。一時の榮に邀ひ、委付の重を忘るるは、竊かに用て焉を恥づ、大王 亦た安にか之を用ひんか」と。熾磐 乃ち武臺を遣はして手書して政を喻し、政曰く、「汝 國儲為り、節を盡すこと能はず、人に面縛し、父を棄て君に負き、萬世の業を虧く、賢政の義士、豈に汝の如くなるか」と。既にして傉檀 左南に至ると聞き、乃ち降る。
熾磐 傉檀を以て驃騎大將軍と為し、左南公に封ず。歲餘にして、熾磐の為に鴆せらる。左右 傉檀に解藥を勸むるに、傉檀曰く、「吾が病 豈に宜しく療すべきや」と。遂に死し、時に年五十一、在位十三年、偽に景王と諡す。武臺 後に亦た熾磐の為に殺さる。傉檀の少子たる保周・臘于の破羌・俱延の子たる覆龍・鹿孤の孫たる副周・烏孤の孫たる承鉢 皆 沮渠蒙遜に奔る。久之、魏に歸し、魏 保周を以て張掖王と為し、覆龍を酒泉公とし、破羌を西平公、副周を永平公、承鉢を昌松公とす。烏孤 安帝の隆安元年を以て僭立し、傉檀に至るまで三世、凡そ十九年、安帝の義熙十年を以て滅ぶ。
史臣曰く、禿髮 累葉の酋豪にして、強を邊服に擅にし、弦を玉塞に控(ひ)き、馬を金山に躍らしめ、滿月を候ちて兵を窺ひ、折膠に乘して鏑に縱し、禮容 被はしめず、聲教 斯れ阻む。烏孤 苻渾の策を納れ、兵を治めて以て不賓を討つ。鹿孤 史暠の言に從ひ、學を建てて冑子を延(まね)く。遂に能く疆(さかひ)を河右に開きて、強國に抗衡す。道は人に由りて弘しといふは、抑々此の謂なり。傉檀 累捷の銳を承け、二昆の資を藉け、呂氏を摧ちて算に遺策無く、姑臧を取りて兵 刃を血ぬらず、武略 雄圖、前烈を比蹤す。既にして重位を叨竊して、盈滿 期し易く、窮兵 以て其の心を逞しくし、慝を縱にして自ら其の弊を貽し、地は蒙遜に奪はれ、勢は赫連に衄(くぢ)かれ、國を覆へし身を喪ふこと、猶ほ幸為るなり。昔 宋殤 戰を好み、災を華督に致す。楚靈 武を黷(けが)して、殺を乾谿に取る。代を異にして亡ることを同くす、其れ傉檀に於て之を見る。
贊に曰く、禿髮の弟兄、雄を羣虜に擅にす。疆を河外に開き、氛を西土に清む。傉檀 傑出して、時英を騰駕す。兵を窮め武を黷して、國を喪ひて聲を穨(を)とす。

現代語訳

これより先、楽都が潰乱し、(南涼の)諸城はみな熾磐に降服したが、傉檀の将である尉賢政だけが浩亹を堅守して下らなかった。熾磐は、「楽都はもう陥落し、あなたの妻子は私が捕らえた、孤立した城を守っても、意味がないぞ」と呼び掛けた。賢政は、「涼王(傉檀))から厚恩を受け、国家の藩屏となった、楽都が陥落し、妻子が捕虜になったのは知っているが、先に帰順すれば賞賛されるが、後から降服したら誅殺され、しかも主上の生死が不明なので、帰順はしない。妻子のことは問題ではない、動揺するものか。むかし(三国蜀の)羅憲は命令を待ち、晋文(司馬昭)はこれを称えた。(劉表の臣)文聘は(三国魏への)帰順が遅れたが、魏武(曹操)は攻めなかった。一時の栄誉に気を取られ、任務の責任を忘れるのは、恥ずべきことだ、大王もそう思わぬか」と言った。熾磐は武台を派遣して直筆の文で賢政を説得したが、賢政は、「あなたは国家の後嗣でありながら、節を尽くせず、面縛して他人に降服し、父を棄て君に背いて、万世の事業を毀損した、義士である私は、あなたとは違う」と言った。傉檀が左南に至ったと知り、降服した。
熾磐は傉檀を驃騎大将軍とし、左南公に封じた。一年餘りして、熾磐に鴆殺された。左右は傉檀に解毒薬を勧めたが、傉檀は、「わが病いは治すものではない」と言った。亡くなったとき、五十一歳、在位は十三年、不当に景王と諡された。(太子)武台もまた熾磐に殺された。傉檀の少子である保周・臘于(未詳)の破羌・俱延の子である覆龍・鹿孤の孫である副周・烏孤の孫である承鉢はいずれも沮渠蒙遜を頼った。しばらくして、北魏に帰順し、北魏は保周を張掖王とし、覆龍を酒泉公、破羌を西平公、副周を永平公、承鉢を昌松公とした。烏孤は安帝の隆安元(三九七)年に不当に建国し、傉檀に至るまで三世、通算で十九年(正しくは十八年)、安帝の義熙十(四一四)年に滅びた。
史臣はいう、(鮮卑の)禿髮部は累世の族長であり、辺境で精強さを発揮し、弦を玉塞で引き絞り、馬を金山に躍動させ、月の満ちるのを待って兵を準備し、秋冬(中原の衰退期)に付け込んで攻め込んだが、礼義は中原の文化と異なり、政教の伝播を阻んだ。(初代)禿髪烏孤は苻渾の策を聞き入れ、兵を整えて服従しない民を討伐した。(二代目の)鹿孤は史暠の言に従い、学校を建てて諸侯の子弟を招いた。こうして領土を河右に開き、強国と対等に並んで合従連衡した。道義は人材が広めるものだと(宗敞が)言ったが、この建国史を表している。(三代目の)傉檀は連戦連勝の精鋭を引き継ぎ、二人の兄の資財を元手とし、呂氏(後涼)を撃ち破るときに失策がなく、姑臧を武力を使わずに奪い、武力と雄大な戦略は、先代たちに劣らなかった。重要な位を盗み取ったが、満ちれば欠けるものであり、窮迫した兵が野心を抱き、悪事をほしいままにして疲弊を招き、領地は(沮渠)蒙遜に奪われ、権勢は赫連(勃勃)に挫かれ、国を覆して身を失ったが、まだ幸運とすべきだ。むかし(春秋の)宋殤公は戦いを好み、華督(華父督)から災禍を受けた。(春秋の)楚霊王は武を汚し、乾谿(地名)で死を引き寄せた。時代は異なれど滅亡のさまは同じというが、まさに傉檀のことである。
賛にいう、禿髪の兄弟は、諸部族の英雄であった。領土を河外に開き、禍いを西土で清めた。傉檀は傑出しており、同時代の英俊を凌駕した。兵が窮まり武を汚し、国家を失って声望を失墜させた。