いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第二十七巻_南燕_慕容徳

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。「¥」の記号は、関連する巻の翻訳が終わったのち、内容を確認して補う予定です。

慕容德

原文

慕容德字玄明、皝之少子也。母公孫氏夢日入臍中、晝寢而生德。年未弱冠、身長八尺二寸、姿貌雄偉、額有日角偃月重文。博觀羣書、性清慎、多才藝。慕容儁之僭立也、封為梁公、歷幽州刺史・左衞將軍。及暐嗣位、改封范陽王、稍遷魏尹、加散騎常侍。俄而苻堅將苻雙據陝以叛、堅將苻柳起兵枹罕、將應之。德勸暐乘釁討堅、辭旨慷慨、識者言其有遠略。暐竟不能用。德兄垂甚壯之、因共論軍國大謀、言必切至。垂謂之曰、「汝器識長進、非復吳下阿蒙也」。枋頭之役、德以征南將軍與垂擊敗晉師。及垂奔苻堅、德坐免職。後遇暐敗、徙于長安、苻堅以為張掖太守、數歲免歸。
及堅以兵臨江、拜德為奮威將軍。堅之敗也、堅與張夫人相失、慕容暐將護致之、德正色謂暐曰、「昔楚莊滅陳、納巫臣之諫而棄夏姬。此不祥之人、惑亂人主、戎事不邇女器、秦之敗師當由於此。宜掩目而過、奈何將衞之也」。暐不從、德馳馬而去之。還次滎陽、言於暐曰、「昔句踐棲於會稽、終獲吳國。聖人相時而動、百舉百全。天將悔禍、故使秦師喪敗、宜乘其弊以復社稷」。暐不納。乃從垂如鄴。
及垂稱燕王、以德為車騎大將軍、復封范陽王、居中鎮衞、參斷政事。久之、遷司徒。于時慕容永據長子、有眾十萬、垂議討之。羣臣咸以為疑、德進曰、「昔三祖積德、1.遺(訓)〔詠〕在耳、故陛下龍飛、不謀而會、雖由聖武、亦緣舊愛、燕趙之士樂為燕臣也。今永既建偽號、扇動華戎、致令羣豎從橫、逐鹿不息、宜先除之、以一眾聽。昔光武馳蘇茂之難、不顧百官之疲、夫豈不仁。機急故也。兵法有不得已而用之、陛下容得已乎」。垂笑謂其黨曰、「司徒議與吾同。二人同心、其利斷金、吾計決矣」。遂從之。垂臨終、敕其子寶以鄴城委德。寶既嗣位、以德為使持節・都督冀兗青徐荊豫六州諸軍事・特進・車騎大將軍・冀州牧、領南蠻校尉、鎮鄴、罷留臺、以都督專總南夏。

1.中華書局本の校勘記に従い、「訓」を「詠」に改める。

訓読

慕容德 字は玄明、皝の少子なり。母の公孫氏 夢に日 臍中に入り、晝に寢ねて德を生む。年 未だ弱冠ならざるに、身長八尺二寸、姿貌は雄偉にして、額に日角偃月の重文有り。博く羣書を觀て、性は清慎、才藝多し。慕容儁の僭立するや、封ぜられて梁公と為り、幽州刺史・左衞將軍を歷す。暐 位を嗣ぐに及び、改めて范陽王に封ぜらる、稍く魏尹に遷り、散騎常侍を加ふ。俄かにして苻堅の將の苻雙 陝に據りて以て叛し、堅の將の苻柳 兵を枹罕に起し、將に之に應ぜんとす。德 暐に釁に乘じて堅を討たんことを勸め、辭旨は慷慨たりて、識者 其の遠略有るを言ふ。暐 竟に用ふ能はず。德の兄の垂 甚だ之を壯とし、因りて共に軍國の大謀を論じ、言は必切の至たり。垂 之に謂ひて曰く、「汝の器識 長進し、復た吳下の阿蒙に非ざるなり」と。枋頭の役に、德 征南將軍たるを以て垂と與に擊ちて晉師を敗る。垂 苻堅に奔るに及び、德 坐して免職せらる。後に暐の敗るるに遇ひ、長安に徙り、苻堅 以て張掖太守と為し、數歲にして免ぜられて歸る。
堅 兵を以て江に臨むに及び、德を拜して奮威將軍と為す。堅の敗るるや、堅 張夫人と相 失し、慕容暐 將に之を護致せんとするに、德 色を正して暐に謂ひて曰く、「昔 楚莊 陳を滅すに、巫臣の諫を納れて夏姬を棄つ。此れ不祥の人なり、人主を惑亂す。戎事 女器を邇づけず。秦の敗師 當に此に由るべし。宜しく目を掩ひて過ぐべし、奈何ぞ將た之を衞らんや」と。暐 從はず、德 馬を馳せて之を去る。還りて滎陽に次ぢ、暐に言ひて曰く、「昔 句踐 會稽に棲み、終に吳國を獲る。聖人 時に相ひて動き、百舉して百全す。天 將に禍を悔いんとし、故に秦師をして喪敗せしむ。宜しく其の弊に乘じて以て社稷を復すべし」と。暐 納れず。乃ち垂に從ひて鄴に如く。
垂 燕王を稱するに及び、德を以て車騎大將軍と為し、復た范陽王に封じ、中の鎮衞に居り、政事を斷ずるに參ぜしむ。久之、司徒に遷る。時に慕容永 長子に據り、眾十萬有り、垂 之を討たんと議す。羣臣 咸 以て疑ひを為すに、德 進みて曰く、「昔 三祖 德を積み、遺詠 耳に在り。故に陛下 龍飛すれば、謀らずして會す。聖武に由ると雖も、亦た舊愛に緣り、燕趙の士 燕臣為ることを樂しむなり。今 永 既に偽號を建て、華戎を扇動し、羣豎をして從橫せしむるに致り、逐鹿 息まず。宜しく先に之を除き、以て眾聽を一にせよ。昔 光武 蘇茂の難に馳するとき、百官の疲を顧みざるは、夫れ豈に不仁なるか。機急なるが故なり。兵法に已むを得ずして之を用ふる有り、陛下 已むを得るを容れんか」と。垂 笑ひて其の黨に謂ひて曰く、「司徒の議 吾と同じなり。二人 心を同にすれば、其の利 金を斷つ。吾が計 決せり」と。遂に之に從ふ。垂 終に臨み、其子の寶に敕して以て鄴城もて德に委ねしむ。寶 既に位を嗣ぐや、德を以て使持節・都督冀兗青徐荊豫六州諸軍事・特進・車騎大將軍・冀州牧と為り、南蠻校尉を領せしめ、鄴に鎮し、留臺を罷め、都督を以て南夏を專總せしむ。

現代語訳

慕容徳は字を玄明といい、慕容皝の少子(末子)である。母の公孫氏は太陽が胎内に入る夢を見て、昼寝をしたのちに慕容徳を生んだ。慕容徳は年齢が弱冠(二十歳)となる前から、身長が八尺二寸あり、姿貌がすぐれて立派で、額に日角(額の中央の骨が日のかたちに隆起した相)と偃月(おもに女性に出る三日月状の高貴の相)がどちらも表れた。ひろく群書を読み、性格は清らかで慎み深く、才芸が豊かであった。慕容儁が不当に即位すると、梁公に封建され、幽州刺史・左衛将軍を歴任した。慕容暐が位を嗣ぐと、范陽王に改封され、やがて魏尹に遷り、散騎常侍を加えられた。あるとき苻堅の将の苻双が陝に拠って叛乱すると、苻堅の将の苻柳が兵を枹罕で起こし、苻双に呼応しようとした。慕容徳は慕容暐に対して(前秦の)隙に乗じて苻堅を討ちましょうと勧めた。その言葉は気概を奮い起こしたもので、識者は慕容徳には遠略が備わっていると評価した。慕容暐は結局これを採用できなかった。慕容徳の兄の慕容垂は慕容徳の勇壮さを認め、ともに軍事や国家の大きな計画を論じ、その発言は研ぎ澄まされたものであった。慕容垂は慕容徳に、「きみの器量や見識は進歩しており、きみもまた呉下の阿蒙ではない(という三国時代の故事と同じだ)な」と言った。枋頭の戦役では、慕容徳は征南将軍として慕容垂とともにに東晋軍を破った。慕容垂が苻堅のもとに逃げ込むと、慕容徳は連坐して免職された。のちに慕容暐が敗北すると、長安に移った。苻堅は慕容徳を張掖太守とし、数年で罷免されて帰郷した。
苻堅が軍をひきいて長江に臨むと(淝水の戦い)、慕容徳は奮威将軍を拝した。苻堅が敗れると、苻堅は張夫人とはぐれ、慕容暐はこれを護送しようとしたが、慕容徳は顔色を正して慕容暐に、「むかし(前五九八年)楚の荘王が陳を滅したとき、巫臣の諫言を聞き入れて夏姫を棄てました。彼女は不祥の人であり、君主を惑乱しました。軍事には婦女の道具類を近づけないと言いますが(『左伝』僖公二十二年)、前秦の敗北はこれが原因です。目を覆って見逃すべきであり、まさか護衛をしてはいけません」と言った。慕容暐が従わなかったので、慕容徳は馬を馳せて慕容暐のもとから去った。還って滎陽に駐屯し、慕容暐に、「むかし句践が会稽を住処とし、最終的に呉国を奪いました。聖人は時流に合わせて動くもので、百回の行動で百回の成果を上げます。天は差配の誤りに悔い、前秦に敗北を与えました。(前秦の)衰退を利用して(燕国の)社稷を復興すべきです」と言った。慕容暐は聞き入れなかった。慕容徳は慕容垂に従って鄴に行った。
慕容垂が燕王を称すると、慕容徳を車騎大将軍とし、また范陽王に封建し、首都の守備を担当させ、政策決定に参加させた。しばらくして、司徒に遷った。このとき慕容永は長子(地名)に拠り、十万の軍がおり、慕容垂が慕容永討伐について議論した。群臣は疑問を唱えるものがいたが、慕容徳は進言し、「むかし(燕国の)三祖は徳を積み、先代の詩歌は耳に残っています。ゆえに陛下が龍のように立ち上げれば、示し合わせずとも集合しました。これは(陛下の)聖なる武のおかげですが、先代の遺愛のおかげでもあり、燕や趙の人士は燕臣となることを喜んでいます。いま慕容永はすでに偽の称号を建て、華族と胡族を扇動し、短慮な者たちを暴れさせ、逐鹿(覇権争い)がやみません。先にこれを排除し、人々の支持を一本化すべきです。むかし(後漢の)光武帝が(離叛した)蘇茂の兵難の平定に向かうとき、百官の疲れを考慮しなかったのは、不仁であったのでしょうか。緊急であったためです。兵法(『孫子』謀攻篇)にはやむを得ずして用いるとあります、陛下もやむを得ないことを受け入れませんか」と述べた。慕容垂は笑って、その部下に、「司徒の建議はわが意見と同じだ。二人の心が結びつけば、その鋭さは金属すら断ち切る。わが計略は決まった」と言った。こうして進言に従った。慕容垂は臨終のときに、その子の慕容宝に命じて鄴城を慕容徳に委任させた。慕容宝が位を嗣ぐと、慕容徳を使持節・都督冀兗青徐荊豫六州諸軍事・特進・車騎大将軍・冀州牧し、南蛮校尉を領させ、鄴に鎮し、留台を廃止して、都督として南夏の全権を統括させた。

原文

魏將拓拔章攻鄴、德遣南安王慕容青等夜擊、敗之。魏師退次新城、青等請擊之。別駕韓𧨳進曰、「古人先決勝廟堂、然後攻戰。今魏不可擊者四、燕不宜動者三。魏懸軍遠入、利在野戰、一不可擊也。深入近畿、頓兵死地、二不可擊也。前鋒既敗、後陣方固、三不可擊也。彼眾我寡、四不可擊也。官軍自戰其地、一不宜動。動而不勝、眾心難固、二不宜動。城郭未修、敵來無備、三不宜動。此皆兵家所忌、不如深溝高壘、以逸待勞。彼千里餽糧、野無所掠、久則三軍靡資、攻則眾旅多斃、師老釁生、詳而圖之、可以捷矣」。德曰、「韓別駕之言、良・平之策也」。於是召青還師。魏又遣遼西公賀賴盧率騎與章圍鄴、德遣其參軍劉藻請救於姚興、且參母兄之問、而興師不至、眾大懼。德於是親饗戰士、厚加撫接、人感其恩、皆樂為致死。會章・盧內相乖爭、各引軍潛遁。章司馬丁建率眾來降、言章師老、可以敗之。德遣將追破章軍、人心始固。
時魏師入中山、慕容寶出奔于薊、慕容詳又僭號。會劉藻自姚興而至、興太史令高魯遣其甥王景暉隨藻送玉璽一紐、并圖讖祕文、曰、「有德者昌、無德者亡。德受天命、柔而復剛」。又有謠曰、「大風蓬勃揚塵埃、八井三刀卒起來。四海鼎沸中山穨、惟有德人據三臺」。於是德之羣臣議以慕容詳僭號中山、魏師盛于冀州、未審寶之存亡、因勸德即尊號。德不從。會慕容達自龍城奔鄴、稱寶猶存、羣議乃止。尋而寶以德為丞相、領冀州牧、承制南夏。
德兄子麟自義臺奔鄴、因說德曰、「中山既沒、魏必乘勝攻鄴、雖糧儲素積、而城大難固、且人情沮動、不可以戰。及魏軍未至、擁眾南渡、就魯陽王和、據滑臺而聚兵積穀、伺隙而動、計之上也。魏雖拔中山、勢不久留、不過驅掠而返。人不樂徙、理自生變、然後振威以援之、魏則內外受敵、使戀舊之士有所依憑、廣開恩信、招集遺黎、可一舉而取之」。先是、慕容和亦勸德南徙、於是許之。隆安二年、乃率戶四萬・車二萬七千乘、自鄴將徙于滑臺。遇風、船沒、魏軍垂至、眾懼、議欲退保黎陽。其夕流凘凍合、是夜濟師、旦、魏師至而冰泮、若有神焉。遂改黎陽津為天橋津。及至滑臺、景星見于尾箕。漳水得白玉、狀若璽。於是德依燕元故事、稱元年、大赦境內殊死已下、置百官。以慕容麟為司空・領尚書令、慕容法為中軍將軍、慕輿拔為尚書左僕射、丁通為尚書右僕射、自餘封授各有差。初、河間有麟見、慕容麟以為己瑞。及此、潛謀為亂、事覺、賜死。其夏、魏將賀賴盧率眾附之。
至是、慕容寶自龍城南奔至黎陽、遣其中黃門令趙思召慕容鍾來迎。鍾本首議勸德稱尊號、聞而惡之、執思付獄、馳使白狀。德謂其下曰、「卿等前以社稷大計、勸吾攝政。吾亦以嗣帝奔亡、人神曠主、故權順羣議、以繫眾望。今天方悔禍、嗣帝得還、吾將具駕奉迎、謝罪行闕、然後角巾私第、卿等以為何如」。其黃門侍郎張華進曰、「夫爭奪之世、非雄才不振。從橫之時、豈懦夫能濟。陛下若蹈匹婦之仁、捨天授之業、威權一去、則身首不保、何退讓之有乎」。德曰、「吾以古人逆取順守、其道未足、所以中路徘徊、悵然未決耳」。慕輿護請馳問寶虛實、德流涕而遣之。乃率壯土數百、隨思而北、因謀殺寶。初、寶遣思之後、知德攝位、懼而北奔。護至無所見、執思而還。德以思閑習典故、將任之。思曰、「昔關羽見重曹公、猶不忘先主之恩。思雖刑餘賤隸、荷國寵靈、犬馬有心、而況人乎。乞還就上、以明微節」。德固留之、思怒曰、「周室衰微、晉鄭夾輔。漢有七國之難、實賴梁王。殿下親則叔父、位則上台、不能率先羣后以匡王室、而幸根本之傾為趙倫之事。思雖無申胥哭秦之效、猶慕君賓不生莽世」。德怒、斬之。
晉南陽太守閭丘羨・寧朔將軍鄧啟方率眾二萬來伐、師次管城。德遣其中軍慕容法・撫軍慕容和等距之、王師敗績。德怒法不窮追晉師、斬其撫軍司馬靳瓌。

訓読

魏將の拓拔章 鄴を攻むるや、德 南安王の慕容青らを遣はして夜に擊ち、之を敗る。魏師 退きて新城に次り、青ら之を擊たんことを請ふ。別駕の韓𧨳 進みて曰く、「古人 先に勝を廟堂に決し、然る後に攻戰す。今 魏 擊つ可からざる者は四あり、燕 宜しく動くべからざる者は三あり。魏 懸軍して遠く入り、利は野戰に在り、一の擊む可からざるなり。深く近畿に入り、兵を死地に頓む、二の擊つ可からざるなり。前鋒 既に敗れ、後陣 方に固めんとす、三の擊つ可からざるなり。彼は眾く我は寡なし、四の擊つ可からざるなり。官軍 自ら其の地に戰ふ、一の宜しく動べからざるなり。動きて勝たざれば、眾心 固め難し、二の宜しく動べからざるなり。城郭 未だ修めず、敵 來たらば備へ無し、三の宜しく動べからざるなり。此れ皆 兵家の忌む所にして、溝を深くし壘を高くし、逸を以て勞を待つに如かず。彼 千里に糧を餽り、野に掠むる所無く、久ければ則ち三軍 資する靡く、攻むれば則ち眾旅 多く斃れ、師は老し釁は生じ、詳にして之を圖らば、以て捷つ可し」と。德曰く、「韓別駕の言、良・平の策なり」。是に於て青を召して師を還す。魏 又 遼西公の賀賴盧を遣はして騎を率ゐて章と與に鄴を圍む。德 其の參軍の劉藻を遣はして救を姚興に請ひ、且つ母兄の問を參ぜしむるに、而れども興の師 至らず、眾 大いに懼る。德 是に於て親ら戰士を饗し、厚く撫接を加ふ。人 其の恩に感じ、皆 為に死を致すを樂しむ。會々章・盧 內に相 乖爭し、各々軍を引きて潛かに遁ぐ。章の司馬の丁建 眾を率ゐて來たりて降り、章の師 老にして、以て之を敗る可しと言ふ。德 將を遣はして追ひて章の軍を破らしめ、人心 始めて固まる。
時に魏師 中山に入り、慕容寶 出でて薊に奔り、慕容詳 又 僭號す。會々劉藻 姚興より至り、興の太史令の高魯 其の甥の王景暉を遣はして藻に隨ひて玉璽一紐、并せて圖讖祕文を送り、曰く、「德有る者は昌なり、德無き者は亡ぶ。德は天命を受け、柔にして復た剛なり」と。又 謠有りて曰く、「大風 蓬勃として塵埃を揚げ、八井三刀 卒かに起來す。四海 鼎沸して中山 穨れ、惟だ德有る人 三臺に據る」と。是に於て德の羣臣 議して以へらく、慕容詳は中山に僭號し、魏師は冀州に盛にして、未だ寶の存亡審らかならず、因りて德に尊號に即くを勸む。德 從はず。會々慕容達 龍城より鄴に奔り、寶 猶ほ存すと稱すれば、羣議 乃ち止む。尋いで寶 德を以て丞相と為し、冀州牧を領し、南夏に承制せしむ。
德の兄の子の麟 義臺より鄴に奔り、因りて德に說きて曰く、「中山 既に沒し、魏 必ず勝に乘じて鄴を攻め、糧儲 素より積むと雖も、而れども城は大にして固め難く、且つ人情 沮動し、以て戰ふ可からず。魏軍 未だ至らざるに及び、眾を擁して南渡し、魯陽王和に就き、滑臺に據りて兵を聚めて穀を積み、隙を伺ひて動くは、計の上なり。魏 中山を拔くと雖も、勢 久しく留まらず、驅掠して返るを過ぎず。人 徙るを樂まず、理として自ら變を生じ、然る後に威を振ひて以て之を援はば、魏は則ち內外に敵を受け、舊を戀ふの士をして依憑する所有らしむ。廣く恩信を開き、遺黎を招集せば、一舉して之を取る可し」と。是より先、慕容和 亦た德に南徙せんことを勸め、是に於て之を許す。隆安二年に、乃ち戶四萬・車二萬七千乘を率ゐて、鄴より將に滑臺に徙らんとす。風に遇ひ、船 沒し、魏軍 至るに垂とす。眾 懼れ、議して退きて黎陽に保せんと欲す。其の夕に流凘 凍合し、是の夜 師を濟す。旦に、魏師 至るや冰 泮(と)け、神有るが若し。遂に黎陽津を改めて天橋津と為す。滑臺に至るに及び、景星 尾箕に見る。漳水に白玉を得て、狀は璽が若し。是に於て德 燕元の故事に依りて、元年を稱し、境內の殊死より已下を大赦し、百官を置く。慕容麟を以て司空・領尚書令と為し、慕容法もて中軍將軍と為し、慕輿拔もて尚書左僕射と為し、丁通もて尚書右僕射と為し、自餘 封授は各々差有り。初め、河間に麟 見はるる有り、慕容麟 以て己の瑞と為す。此に及び、潛かに亂を為さんことを謀り、事 覺し、死を賜る。其の夏に、魏將の賀賴盧 眾を率ゐて之に附す。
是に至り、慕容寶 龍城より南して奔りて黎陽に至り、其の中黃門令の趙思を遣はして慕容鍾を召して來迎せしむ。鍾 本は首めに議して德に尊號を稱することを勸むれば、聞きて之を惡み、思を執らへて獄に付せんとし、使を馳せて狀を白す。德 其の下に謂ひて曰く、「卿ら前に社稷の大計を以て、吾に攝政を勸む。吾も亦た嗣帝の奔亡するを以て、人神 曠主たれば、故に權に羣議に順ひ、以て眾望に繫ぐ。今 天 方に禍を悔ひ、嗣帝 還る得たり、吾 將に駕を具へて奉迎し、罪を謝して闕に行き、然る後に角巾もて私第ににあらんとす。卿ら以為へらく何如と」と。其の黃門侍郎の張華 進みて曰く、「夫れ爭奪の世に、雄才に非ざれば振はず。從橫の時に、豈に懦夫 能く濟ふや。陛下 若し匹婦の仁を蹈み、天授の業を捨て、威權 一たび去らば、則ち身首 保たず、何ぞ退讓すること之れ有らんや」と。德曰く、「吾 古人の逆取順守あるも、其の道 未だ足らざるを以て、所以に中路に徘徊し、悵然として未だ決せざるのみ」。慕輿護 馳せて寶の虛實を問はんことを請ひ、德 流涕して之を遣はす。乃ち壯士數百を率ゐて、思に隨ひて北し、因りて寶を殺さんと謀る。初め、寶 思を遣はすの後、德の位に攝するを知り、懼れて北のかた奔る。護 見る所無きに至り、思を執らへて還る。德 思の典故に閑習するを以て、將に之に任ぜんとす。思曰く、「昔 關羽 曹公に重ぜんらるるに、猶ほ先主の恩を忘れず。思は刑餘の賤隸なりと雖も、國の寵靈を荷ひ、犬馬すら心有り、而るに況んや人をや。還りて上に就き、以て微節を明らかにせんことを乞ふ」と。德 固く之を留む、思 怒りて曰く、「周室 衰微するや、晉鄭は夾輔す。漢に七國の難有り、實に梁王を賴る。殿下 親は則ち叔父なり、位は則ち上台なり。羣后に率先して以て王室を匡ふ能はず、而れども根本の傾を幸として趙倫の事を為す。思 申胥の哭秦の效無しと雖も、猶ほ君賓を慕ひて莽が世に生きず」と。德 怒り、之を斬る。
晉の南陽太守の閭丘羨・寧朔將軍の鄧啟方 眾二萬を率ゐて來たりて伐し、師 管城に次づ。德 其の中軍の慕容法・撫軍の慕容和らを遣はして之を距ぎ、王師 敗績す。德 法の晉師を追ふを窮めざるに怒り、其の撫軍司馬の靳瓌を斬る。

現代語訳

北魏の将の拓抜章が鄴を攻めると、慕容徳は南安王の慕容青らを派遣して夜襲をしかけ、これを破った。魏軍が退いて新城に駐留すると、慕容青らは魏軍を攻撃したいと言った。別駕の韓𧨳が進言し、「いしにえの人は先に勝利を廟堂で確定させてから、攻撃に移りました。いま魏軍を攻撃すべきでない要素が四つあり、わが燕軍が動いてはいけない要素が三つあります。魏軍は懸軍して(援軍が続かず)敵地に深入りし、野戦をしたほうが有利です、これが攻撃すべきでない要素の一つめです。深く(燕の)首都圏に入りこみ、兵を死地に追い込んでいます、要素の二つめです。前鋒がすでに敗れ、後方の陣を固めようとしています、要素の三つめです。魏軍は数が多く燕軍は少ない、これが要素の四つめです。官軍(燕軍)は自国の領地で戦っています、これが動くべきでない要素の一つめです。もしも動いて勝てなければ、兵や民の心が動揺します、これが要素の二つめです。城郭の修築が終わらず、敵軍が来たら防備が不十分です、これが要素の三つめです。これはすべて兵家が(敗北を招くとして)忌む状況ですから、いまは溝を深くし防塁を高くし、自軍を安逸とし敵軍の疲労を待つのが良いでしょう。敵軍は千里の距離から兵糧を輸送し、現地で略奪できません。長期戦となれば三軍への補給が不足します。攻めれば大軍は多くが倒れ、疲弊して隙が生じます。詳らかに状況を見極めれば、勝利できるでしょう」と言った。慕容徳は、「韓別駕(韓𧨳)の言葉は、張良や陳平に匹敵する策である」と言った。ここにおいて慕容青を召還して軍を退けた。魏軍はまた遼西公の賀頼盧に騎兵を率いさせて拓抜章とともに鄴を包囲させた。慕容徳はその参軍の劉藻を派遣して救いを姚興に要請し、かつ(前秦に留まった)母や兄の様子を伺わせたが、姚興の援軍は到来せず、兵士たちは大いに懼れた。慕容徳はみずから兵士らと酒宴を開き、ていねいに慰めて労った。人々はその恩に感じ入り、みな決死の覚悟を決めた。たまたま拓抜章と賀頼盧が内部抗争を起こし、それぞれ軍を率いて秘かに逃げた。拓抜章の司馬の丁建は兵を率いて(慕容徳に)降服し、拓抜章の軍が疲弊しており、撃破可能ですと教えた。慕容徳は将を使わして拓抜章の軍を破り、人々の心ははじめて固まった。
このとき魏軍が中山に入り、慕容宝が出て薊に逃げ込み、慕容詳もまた位号を僭称した。たまたま劉藻が姚興のもとから(帰って)来て、姚興の太史令の高魯がその甥の王景暉を派遣して劉藻に随って玉璽一紐と贈り、あわせて図讖の秘文を伝え、「徳ある者は昌(さか)んとなり、徳なき者は滅亡する。徳は天命を受け、柔であるが剛でもある」と言った。また歌謡があり、「大風が蓬勃と吹いて塵埃をまき揚げ、八井三刀でにわかに立ち上がる。四海が鼎のように沸きたって中山が崩壊し、ただ徳のある人だけが三台に拠る」とあった。ここにおいて慕容徳の群臣は議論するには、慕容詳は中山で僭号し、魏軍は冀州(八井三刀)で盛んであり、まだ慕容宝の生死が不詳であるため、慕容徳に尊号に即くことを勧めた。慕容徳は従わなかった。たまたま慕容達が龍城から鄴に逃げてきて、慕容宝が存命だと告げたので、群議は中止された。ほどなく慕容宝は慕容徳を丞相とし、冀州牧を領し、南夏に承制させた。
慕容徳の兄の子の慕容麟が義台から鄴に逃げこみ、慕容徳に説いて、「中山はすでに陥落し、魏軍は必ずや勝ちに乗じて鄴を攻めるでしょう。兵糧をふだんから備蓄していても、城は大きくて防備を固めづらく、人心は揺れ動き、魏軍と戦えません。魏軍が到着したならば、軍を擁して(黄河を)南に渡り、魯陽王の慕容和を頼りなさい。滑台を拠点にして兵をあつめて穀物を積み上げ、敵軍の隙を伺って動くのが、上計であります。魏軍は中山を抜きましたが、その勢いは持続せず、略奪をして引き返すだけでしょう。人は移住を嫌いますから、理としておのずと異変が生じます。その後で兵威を振るってここを救援すれば、魏軍は内外に敵を抱えることになり、旧態を懐かしむ人士はこちらを頼りにするでしょう。広く恩信をひらき、遺民を招き集めれば、一度の行動で奪えるでしょう」と言った。これより先、慕容和もまた慕容徳に南への移動を勧めたので、ここにおいて許諾した。隆安二年に、四万戸と車二万七千乗を率いて、鄴から滑台に移ろうとした。強風にあい、船が沈没し、魏軍が目前に迫った。兵も民も懼れ、退いて黎陽に籠もろうとした。その夕方に寒波がきて川が凍結し、その夜に軍を(歩いて)川を渡すことができた。明け方に、魏軍が到着すると氷が溶け、まるで神秘的な加護のようであった。そこで黎陽津を改名して天橋津とした。滑台に到着すると、景星が尾箕に現れた。漳水で白玉を手に入れ、形状は玉璽のようであった。ここにおいて慕容徳は燕元(前燕の慕容儁の年号)の故事に従って、元年と称し、領内において死刑より以下を大赦し、百官を設置した。慕容麟を司空・領尚書令とし、慕容法を中軍将軍とし、慕輿抜を尚書左僕射とし、丁通を尚書右僕射とし、それ以下の封授もそれぞれ差等があった。これよりさき、河間で麒麟が現れて、慕容麟はこれを自分のための瑞祥と見なした。ここに及び、ひそかに乱を起こそうと謀ったが、計画が露見し、死を賜わった。その夏に、魏将の賀頼盧が兵を率いて帰付した。
ここに至り、慕容宝が龍城から南下して黎陽に逃げ込んだ。(慕容宝は)その中黄門令の趙思を派遣し(慕容徳のもとから)慕容鍾を迎えに来させた。この慕容鍾は最初に慕容徳に尊号を称することを勧めた人物なので、(慕容宝は)これを聞いて(慕容鍾を)憎んだ。趙思に命じて慕容鍾を捕らえて獄に下し、使者を送って罪状を告げた。慕容徳は臣下たちに、「以前あなたたちは社稷の大計として、私に政治を執行せよと勧めた。私もまた嗣帝(慕容宝)が逃亡して、天地に君主が不在なので、かりそめに群議に従い(即位し)、人々の(燕国への)支持を繋ぎとめた。いま天が禍いを下したことを反省し、嗣帝(慕容宝)は生還することができた。私は馬車を整えて奉迎し、罪を謝って裁きを受け、その後で角巾をつけて私邸に居ようと思う。あなたたちの考えはいかに」と言った。 その黄門侍郎の張華は進言し、「武力争奪の世に、雄々しい才覚なければ権勢は振るいません。縦横の計略がめぐる時代に、惰弱な男が救済できましょうか。陛下がもし小人や女子のような仁を実践し、天が授けた事業を捨て、威権を一度手放せば、首と体が繋がってはいられません。どうして辞退し引退ができると思われるのか」と言った。慕容徳は、「古人(殷の湯王と周の武王)は逆取(放伐)をして順守(仁政)をしたが、私はそれに則る覚悟がないないから、事業の半ばでうろうろと迷い、嘆かわしく思って決断ができないのだ」と言った。 慕輿護は馳せて慕容宝の虚実(本心)を問い質したいといい、慕容徳は涙を流して慕輿護を送り出した。(慕輿護は)壮士数百人を率い、趙思に随って北上し、慕容宝を殺害しようと謀った。これよりさき、慕容宝が趙思を派遣した後、慕容徳が君位に摂したことを知り、懼れて北方に逃亡した。慕輿護は(慕容宝に)面会(し暗殺)できないので、趙思を捕らえて帰還した。慕容徳は趙思が儀礼の故事に習熟しているので、かれに官職を与えようとした。趙思は、「むかし関羽が曹公(曹操)に重んじられたが、それでも先主(劉備)の恩を忘れなかった。私は刑を受けた死に損ないの賎者であったが、国家(慕容宝)から恩と寵愛を受けた。犬馬ですら(主人への)忠誠心がある、ましてや人間ならば尚更である。わが君主のもとに帰り、なけなしの節義を明らかにしたい」と言った。慕容徳が強く引き止めたが、趙思は怒って、「周室が衰微すると、晋国や鄭国はこれを支えた。前漢で(呉楚)七国の兵難があると、梁王が頼りになった。殿下は血縁が(慕容宝の)叔父であり、官位は上台(府の長官)である。群臣に率先して王室を救うことができず、かえって根本の傾きを幸いに(西晋の)趙王の司馬倫と同じことをやった。私は申包胥が秦で哭し(て呉への援軍を要請し)たほどの功績はなかったが、それでも君賓(王莽の簒奪に抵抗した龔勝)を慕って王莽(のような慕容徳)の世には生きない」と言った。慕容徳は怒り、かれを斬った。
東晋の南陽太守の閭丘羨と寧朔将軍の鄧啓方は二万の軍を率いて(南燕の)討伐におとずれ、軍が管城に駐屯した。慕容徳はその中軍の慕容法と撫軍の慕容和らを派遣してこれを防ぎ、王師(東晋軍)は敗北した。慕容徳は慕容宝が東晋軍を十分に追撃しなかったことに怒り、その撫軍司馬の靳瓌を斬った。

原文

初、苻登既為姚興所滅、登弟廣率部落降於德、拜冠軍將軍、處之乞活堡。會熒惑守東井、或言秦當復興者、廣乃自稱秦王、敗德將慕容鍾。時德始都滑臺、介于晉魏之間、地無十城、眾不過數萬。及鍾喪師、反側之徒多歸于廣。德乃留慕容和守滑臺、親率眾討廣、斬之。
初、寶之至黎陽也、和長史李辯勸和納之、和不從。辯懼謀洩、乃引晉軍至管城、冀德親率師、於後作亂。會德不出、愈不自安。及德此行也、辯又勸和反、和不從。辯怒、殺和、以滑臺降于魏。時將士家悉在城內、德將攻之、韓範言於德曰、「魏師已入城、據國成資、客主之勢、翻然復異、人情既危、不可以戰。宜先據一方、為關中之基、然後畜力而圖之、計之上也」。德乃止。德右衞將軍慕容雲斬李辯、率將士家累二萬餘人而出、三軍慶悅。德謀於眾曰、「苻廣雖平、而撫軍失據、進有強敵、退無所託、計將安出」。張華進曰、「彭城阻帶山川、楚之舊都、地嶮人殷、可攻而據之、以為基本」。慕容鍾・慕輿護・封逞・韓𧨳等固勸攻滑臺、潘聰曰、「滑臺四通八達、非帝王之居。且北通大魏、西接強秦、此二國者、未可以高枕而待之。彭城土曠人稀、地平無嶮、晉之舊鎮、必距王師。又密邇江淮、水路通浚、秋夏霖潦、千里為湖。且水戰國之所短、吳之所長、今雖克之、非久安之計也。青齊沃壤、號曰『東秦』、土方二千、戶餘十萬、四塞之固、負海之饒、可謂用武之國。三齊英傑、蓄志以待、孰不思得明主以立尺寸之功。廣固者、曹嶷之所營、山川阻峻、足為帝王之都。宜遣辯士馳說于前、大兵繼進于後。辟閭渾昔負國恩、必翻然向化。如其守迷不順、大軍臨之、自然瓦解。既據之後、閉關養銳、伺隙而動、此亦二漢之有關中・河內也」。德猶豫未決。沙門朗公素知占候、德因訪其所適。朗曰、「敬覽三策、潘尚書之議可謂興邦之術矣。今歲初、長星起於奎婁、遂掃虛危、而虛危、齊之分野、除舊布新之象。宜先定舊魯、巡撫琅邪、待秋風戒節、然後北轉臨齊、天之道也」。德大悅、引師而南、兗州北鄙諸縣悉降、置守宰以撫之。存問高年、軍無私掠、百姓安之、牛酒屬路。
德遣使喻齊郡太守辟閭渾、渾不從、遣慕容鍾率步騎二萬擊之。德進據琅邪、徐兗之士附者十餘萬、自琅邪而北、迎者四萬餘人。德進寇莒城、守將任安委城而遁、以潘聰鎮莒城。鍾傳檄青州諸郡曰、「隆替有時、義列昔經。困難啟聖、事彰中籙。是以宣王龍飛於危周、光武鳳起於絕漢、斯蓋曆數大期、帝王之興廢也。自我永康多難、長鯨逸網、華夏四分、黎元五裂。逆賊辟閭渾父蔚、昔同段龕阻亂淄川、太宰東征、勦絕凶命。渾於覆巢之下、蒙全卵之施、曾微犬馬識養之心、復襲凶父樂禍之志、盜據東秦、遠附吳越、割剝黎元、委輸南海。皇上應期、大命再集、矜彼營丘、暫阻王略、故以七州之眾二十餘萬、巡省岱宗、問罪齊魯。昔韓信以裨將伐齊、有征無戰。耿弇以偏軍討步、克不移朔。況以萬乘之師、掃一隅之寇、傾山碎卵、方之非易。孤以不才、忝荷先驅、都督元戎一十二萬、皆烏丸突騎、三河猛士、奮劍與夕火爭光、揮戈與秋月競色。以此攻城、何城不克。以此眾戰、何敵不平。昔竇融以河西歸漢、榮被於後裔。彭寵盜逆漁陽、身死於奴僕。近則曹嶷跋扈、見擒於後趙。段龕干紀、取滅於前朝。此非古今之吉凶、已然之成敗乎。渾若先迷後悟、榮寵有加。如其敢抗王師、敗滅必無遺燼。稷下之雄、岱北之士、有能斬送渾者、賞同佐命。脫履機不發、必玉石俱摧」。渾聞德軍將至、徙八千餘家入廣固。諸郡皆承檄降于德。渾懼、將妻子奔于魏。德遣射聲校尉劉綱追斬於莒城。渾參軍張瑛常與渾作檄、辭多不遜。及此、德擒而讓之。瑛神色自若、徐對曰、「渾之有臣、猶韓信之有蒯通。通遇漢祖而蒙恕、臣遭陛下而嬰戮、比之古人、竊為不幸。防風之誅、臣實甘之、但恐堯舜之化未弘於四海耳」。德初善其言、後竟殺之。德遂入廣固。

訓読

初め、苻登 既に姚興の滅す所と為り、登の弟の廣 部落を率ゐて德に降り、冠軍將軍を拜し、之を乞活堡に處らしむ。會々熒惑 東井を守し、或ひと言ふらく秦 當に復興する者なるべしと。廣 乃ち自ら秦王を稱し、德の將の慕容鍾を敗る。時に德 始めて滑臺に都し、晉魏の間に介し、地は十城すら無く、眾 數萬を過ぎず。鍾 師を喪ふに及び、反側の徒 多く廣に歸す。德 乃ち慕容和を留めて滑臺を守らしめ、親ら眾を率ゐて廣を討ち、之を斬る。
初め、寶の黎陽に至るや、和の長史の李辯 和に之を納るることを勸むれども、和 從はず。辯 謀の洩るるを懼れ、乃ち晉軍を引きて管城に至り、德 親ら師を率ゐ、後に於て亂を作さんことを冀ふ。會々德 出でず、愈々自ら安ぜず。德 此に行くに及ぶや、辯 又 和に反せんことを勸むれども、和 從はず。辯 怒り、和を殺し、滑臺を以て魏に降る。時に將士の家 悉く城內に在り、德 將に之を攻めんとするに、韓範 德に言ひて曰く、「魏師 已に城に入り、國に據り資と成し、客主の勢、翻然と復た異なり、人情 既に危ふく、以て戰ふ可からず。宜しく先に一方に據り、關中の基と為し、然る後に力を畜へて之を圖ふべし。計の上なり」と。德 乃ち止む。德の右衞將軍の慕容雲 李辯を斬り、將士の家累 二萬餘人を率ゐて出で、三軍 慶悅す。德 眾に謀りて曰く、「苻廣 平らぐと雖も、而れども撫軍は據を失ふ。進まば強敵有り、退かば託る所無し。計 將た安くにか出でん」と。張華 進みて曰く、「彭城は山川に阻帶せられ、楚の舊都なり。地は嶮く人は殷く、攻めて之に據り、以て基本と為す可し」と。慕容鍾・慕輿護・封逞・韓𧨳ら固く滑臺を攻めんことを勸む。潘聰曰く、「滑臺は四通八達し、帝王の居に非ず。且つ北は大魏に通じ、西は強秦に接す。此の二國は、未だ以て枕を高くして之に待する可からず。彭城は土は曠く人は稀にして、地は平らかなりて嶮無し。晉の舊鎮にして、必ず王師を距むなり。又 江淮に密邇たりて、水路は通浚たり。秋夏に霖潦し、千里に湖と為る。且つ水戰は國の短とする所にして、吳の長ずる所なり。今 之に克つと雖も、久安の計に非ざるなり。青齊は沃壤にして、號して『東秦』と曰ふ。土は方二千、戶は餘十萬なり。四塞の固、負海の饒、用武の國と謂ふ可し。三齊の英傑、志を蓄ふるに待を以てし、孰れか明主を得て以て尺寸の功を立てんことを思はざるか。廣固なる者は、曹嶷の營する所なり。山川は阻峻、帝王の都と為すに足る。宜しく辯士を遣はして馳せて前に說かしめ、大兵 繼ぎて後に進ましむべし。辟閭渾 昔に國恩を負ひ、必ず翻然として化に向はん。如し其の迷を守りて順はずんば、大軍 之に臨むや、自然と瓦解せん。既に據るの後に、關を閉ぢて銳を養ひ、隙を伺ひて動かば、此れ亦た二漢の關中・河內を有つなり」と。德 猶豫して未だ決せず。沙門の朗公 素より占候を知り、德 因りて其の適く所に訪ふ。朗曰く、「敬みて三策を覽ずるに、潘尚書の議 興邦の術と謂ふ可し。今 歲初なり、長星 奎婁に起ち、遂に虛危を掃く。而して虛危は、齊の分野なり、舊を除きて新を布くの象なり。宜しく先に舊魯を定めて、琅邪を巡撫し、秋風の戒節を待つべし。然る後に北のかた轉じて齊に臨めば、天の道なり」と。德 大いに悅び、師を引きて南し、兗州の北鄙の諸縣 悉く降り、守宰を置きて以て之を撫す。高年を存問し、軍は私掠する無く、百姓 之に安んじ、牛酒もて路に屬す。
德 使を遣はして齊郡太守の辟閭渾を喻するに、渾 從はず。慕容鍾を遣はして步騎二萬を率ゐて之を擊たしむ。德 進みて琅邪に據り、徐兗の士の附する者 十餘萬、琅邪より北し、迎ふる者は四萬餘人なり。德 進みて莒城を寇するや、守將の任安 城を委てて遁げ、潘聰を以て莒城に鎮せしむ。鍾 青州の諸郡に檄を傳へて曰く、「隆替は時有り、義は昔經に列す。難に困りて聖を啟き、事は中籙に彰はる。是を以て宣王 危ふき周に龍飛し、光武は絕ゆる漢に鳳起す。斯れ蓋し曆數の大期にして、帝王の興廢なり。我 永康に多難にして、長鯨に網を逸(に)げしより、華夏は四分し、黎元は五裂す。逆賊 辟閭渾が父の蔚は、昔 段龕と同じく淄川に阻亂するや、太宰 東征し、凶命を勦絕す。渾 覆巢の下に於て、全卵の施を蒙る。曾ち犬馬の養を識るの心微く、復た凶父の禍を樂しむの志を襲ひ、盜みて東秦に據り、遠く吳越に附き、黎元を割剝し、南海に委輸す。皇上 期に應じ、大命 再び集ひ、彼の營丘もて、暫く王略を阻むことを矜る。故に七州の眾 二十餘萬を以て、岱宗を巡省して、罪を齊魯に問ふ。昔 韓信 裨將なるを以て齊を伐つも、征有りて戰ふ無し。耿弇 偏軍なるを以て步を討つすら、克つに朔を移さず。況んや萬乘の師を以て、一隅の寇を掃かば、山を傾け卵を碎き、之を方ぶるに易(やす)きに非ず。孤 不才なるを以て、忝くも先驅を荷ひ、元戎一十二萬を都督す。皆 烏丸の突騎、三河の猛士なり。劍を奮ひて夕火と光を爭ひ、戈を揮ひて秋月と色を競ふ。此を以て城を攻むるに、何なる城ぞ克たざる。此の眾を以て戰はば、何なる敵ぞ平らがざる。昔 竇融 河西を以て漢に歸し、榮は後裔を被ふ。彭寵 盜みて漁陽に逆らひ、身は奴僕に死す。近きは則ち曹嶷 跋扈し、後趙に擒はる。段龕 紀を干し、滅を前朝に取る。此れ古今の吉凶にして、已然の成敗に非ざるや。渾 若し先に迷ひ後に悟らば、榮寵 加ふ有らん。如し其れ敢て王師に抗せば、敗滅して必ず遺燼無からん。稷下の雄、岱北の士、能く斬りて渾を送る者有らば、賞は佐命に同じ。脫(も)し機を履きて發せざれば、必ず玉石 俱に摧けん」と。渾 德の軍 將に至らんとするを聞き、八千餘家を徙して廣固に入る。諸郡 皆 檄を承けて德に降る。渾 懼れ、妻子を將ゐて魏に奔る。德 射聲校尉の劉綱を遣はして追ひて莒城に斬らしむ。渾の參軍の張瑛 常に渾と與に檄を作り、辭に不遜なる多し。此に及び、德 擒へて之を讓(せ)む。瑛 神色は自若たりて、徐ろに對へて曰く、「渾の臣有るは、猶ほ韓信の蒯通有るがごとし。通 漢祖に遇ひて恕を蒙る。臣 陛下に遭ひて戮に嬰(くは)ふれば、之を古人に比ぶるに、竊かに不幸為らん。防風の誅、臣 實に之に甘んず、但だ堯舜の化 未だ四海に弘まらざるを恐るるのみ」と。德 初め其の言を善とするも、後に竟に之を殺す。德 遂に廣固に入る。

現代語訳

これよりさき、苻登が姚興に滅ぼされると、苻登の弟の苻広は種族を率いて慕容徳に降った。苻広に冠軍将軍を拝させ、これを乞活堡に居らせた。たまたま熒惑が東井に守し(位置し)、あるひとが秦が復興する予兆だと言った。苻広は自ら秦王を称し、慕容徳の将の慕容鍾を破った。このとき慕容徳は滑台に都を置いたばかりで、東晋と北魏のあいだに挟まれ、領地は十城すら無く、軍勢は数万に過ぎなかった。慕容鍾の軍が統制を失うと、離叛した人々は多くが苻広に帰属した。慕容徳は慕容和を留めて滑台を守らせ、みずから兵を率いて苻広を討伐し、これを斬った。
これよりさき、慕容宝が黎陽に至ると、慕容和の長史の李辯は慕容和にかれを城内に入れることを勧めたが、慕容和は従わなかった。李辯は計画が洩れることを懼れ、東晋の軍を率いて管城に至り、もしも慕容徳が軍を率いて出たら、後方で乱を起こしたいと考えた。たまたま慕容徳が城を出ず、ますます不安になった。(苻広平定のために)慕容徳が出発すると、李辯はまた慕容和に反乱を勧めたが、慕容和は従わなかった。李辯は怒り、慕容和を殺し、滑台をあげて北魏に降服した。このとき将士の家がすべて城内にあった。慕容徳は滑台を攻めようとしたが、韓範が慕容徳に、「魏軍がすでに城に入り、国(城)に拠って軍資としており、主客の勢は、翻然と入れ替わりました。人々の心はすでに危うく、戦うべきではありません。先にどこかに拠点を設け、関中の基礎とし、その後に力を蓄えて滑台を狙うのが宜しい。これが上計です」と言った。慕容徳は奪還を中止した。慕容徳の右衛将軍の慕容雲が李辯を斬り、将士の家族や係累の二万人あまりを率いて(滑台から)出たので、三軍は喜悦した。慕容徳は群臣に相談し、「苻広をすでに平定したが、撫軍(慕容和)は居城(滑台)を失った。進めば強敵がおり、退けば拠る場所がない。いかなる計略があるだろう」と言った。張華が進んで、「彭城は山川の険阻さに守られ、楚の旧都です。地形が険しく人口が多く、ここを攻めて取れば、本拠地に適しています」と言った。慕容鍾・慕輿護・封逞・韓𧨳らは(張華に反対して)強く滑台を攻めることを勧めた。 潘聡は、「滑台は四通八達の地であり、帝王の居には適しません。しかも北は大魏に通じ、西は強秦に接しています。この二国は、いまだ枕を高くして待ち受けられるような相手ではありません。彭城は土地が広く人口が疎らで、地は平坦で険阻さがありません。晋の旧鎮ですから、王師(南燕軍)を拒絶するでしょう。また長江や淮水と近く、水路が繋がっています。秋夏に長雨が降れば水位が上がり、千里にわたり湖となります。しかも水戦はわが国が不得意とし、呉(東晋)が得意とします。いま彭城を奪取できても、長く安定する方策ではありません。青斉の地は肥沃であり、『東秦』と呼ばれます。土地は方二千里、民戸は十万以上あります。四方を要塞に囲まれ、海に接して豊穣で、用武の国と言うことができます。(現地の)三斉の英傑は、志を蓄えて機会を待っています。だれが明君を迎えて尺寸の功績を立てることを願わずにいるでしょう。広固という城は、(五胡十六国の初期に)曹嶷が本拠地を構えたところです。山川は険峻であり、帝王の都とするに十分です。能弁の士を派遣して先に説得させ、大軍をそれに続けて送り込みなさい。辟閭渾はかつて国恩を被っていますから、きっと翻然と教化を受け入れるでしょう。もしも逡巡して従わずとも、大軍が接近すれば、自然と瓦解します。そこに拠った後に、関門を閉じて精鋭を養い、敵の隙を窺って動けば、前漢の関中や後漢の河内と等しく(補給源と)なります」と。慕容徳は迷って決断できなかった。沙門の朗公が占候ができるので、慕容徳は行き先を占わせた。 朗公は、「謹んで三つの策(滑台の奪回、彭城への移動、広固への移動)を見ますに、潘尚書の議論(広固への移動)が国家を振興する方法と言えましょう。いまは年の初めで、長星が奎婁にたち、虚危をかすめました。虚危は、斉の分野であり、旧を除いて新を広げる形象です。さきに旧魯を平定し、琅邪を巡って慰撫し、秋風の軍務に適した季節を待ちなさい。その後に北方に転進して斉に臨むことが、天の道です」と言った。慕容徳は大いに喜び、軍を率いて南下した。兗州の北辺の諸県がすべて降服し、守宰(長官)を設置してそこを支配した。高齢者を見舞い、軍は略奪をせず、百姓はおかげで安定し、牛酒をもって道に迎えた。
慕容徳は使者を送って斉郡太守の辟閭渾を説得したが、辟閭渾は従わなかった。そこで慕容鍾に歩騎二万を率いて攻撃させた。慕容徳は進んで琅邪に拠ると、徐州と兗州の士で帰付するものは十万人あまりであった。琅邪から北上すると、迎えたものは四万人あまりであった。慕容徳が進んで莒城を攻撃すると、守将の任安は城を捨てて逃げたので、潘聡を莒城に鎮護させた。慕容鍾は青州の諸郡に檄を伝えて、「隆盛と衰退には時運があり、その道理はむかしの経典に列挙されている。困難にあっても聖なる事業をひらき、事績が神秘的な文に予言される。そうであるから周の宣王(厲王の子)は危うい周王朝に龍のように登場し、光武帝は断絶した漢帝国で鳳皇のように決起した。これは暦数の大いなる定めであり、帝王の興廃のあり方である。私は永康(後燕の年号、三九六~三九八年)に災難にあい、長鯨(貪欲な悪人)の捕捉を逃れてから、中華は四分し、万民は五裂した。逆賊の辟閭渾の父の辟閭蔚が、むかし段龕とともに淄川で反乱を起こすと、太宰(¥)が東征し、凶悪な連中を根絶させた。辟閭渾は覆った鳥の巣のもとで(親の災いで子が傷つき)、卵を生き存えさせる施しを受けた。犬や馬のような擁護者の恩義に感じる心すらなく、凶悪な父から災厄を楽しむ志を継承し、盗んで東秦(斉郡)を拠点とし、遠く呉越(東晋)に味方し、民草を迫害して分断し、南海に貢ぎ物を送っている。わが皇帝(慕容徳)は時節に巡りあい、大いなる命令のもと再び集ったが、この地の営丘において、(辟閭渾が)王者の軍略を阻害したことを憐れんでいる。ゆえに七州の軍の二十万あまりで、岱宗の地域(青州)を巡って視察し、(辟閭渾の)罪を斉魯の民に問いかけた。むかし(前漢の)韓信が一部将として斉を征伐すると、戦いが起こらず勝利した。(後漢の)耿弇が偏軍の将として張歩を討伐したときでも、戦闘は月を跨がなかった。まして(慕容徳が)万乗の師(天子の軍)で、一隅の盗賊(辟閭渾)を掃討すれば、山を傾けて卵を砕くようなもので、簡単すぎて比較にならない。私(慕容鍾)は不才であるが、忝くも先駆を担い、十二万の精鋭を都督している。配下はみな烏丸の突騎や、三河の猛士である。剣を奮って夕日に映える火と明るさを競い、戈を振るって秋の月と色の鮮やかさを競う。この形勢で城を攻めれば、どんな城だって撃破できる。この軍隊で戦えば、どんな敵だって平定できる。むかし(後漢の初め)竇融が河西をあげて後漢に帰順し、繁栄は子孫を覆った。(同じく後漢の初め)彭寵が漁陽を盗み取って逆らい、当人は奴隷として死んだ。近くは(五胡十六国時代の初期)曹嶷が跋扈し、後趙に捕らわれた。段龕が規律を乱し、前代の王朝(慕容儁)に滅ぼされた。これが古今の(身の振り方に伴う)吉凶であり、明白な成功と失敗の事例ではなかろうか。辟閭渾がもし最初は迷っても後で悟れば、栄寵を加えられるだろう。もしあえて王者の軍に抵抗するならば、敗滅して燃えかすも残らないだろう。稷下(斉)の英雄や、岱北の人士のうち、もしも辟閭渾を斬って送り届ける者がいたら、賞誉は佐命の臣と同じである。もし時機にあたって対処しなければ、玉石がともに砕けるだろう」と言った。辟閭渾は慕容徳の軍が目前に迫ると聞き、八千家あまりを移して広固に入った。諸郡はみな檄文を受け取って慕容徳に降った。 辟閭渾は懼れ、妻子をつれて北魏に逃げた。慕容徳は射声校尉の劉綱を派遣して追って莒城で斬った。辟閭渾の参軍の張瑛はつねに辟閭渾とともに檄文を作り、言葉づかいに(慕容徳にとって)不遜なものが多かった。ここに及び、慕容徳は張瑛を捕らえて追及した。張瑛の態度は落ちついたもので、ゆったりと、「辟閭渾のもとに私がいるのは、韓信のもとに蒯通がいたのと同じだ。蒯通は(韓信とともに国家を裏切ったが)漢祖(劉邦)に会って目こぼしを受けた。私が陛下(慕容徳)にお目にかかって誅戮されるなら、これを古の人と比べるに、不幸なことだと思う。(禹は遅れて帰参した)防風氏を誅殺したが、それと同じ処置を甘んじて受けよう。残念ながら尭舜のような教化がまだ四海に広がっていないようだ」と言った。慕容徳は初めはその言葉を善しとしたが、後からかれを殺した。かくして慕容徳は広固城に入った。

原文

1.四年、僭即皇帝位于南郊、大赦、改元為建平。設行廟於宮南、遣使奉策告成焉。進慕容鍾為司徒、慕輿拔為司空、封孚為左僕射、慕輿護為右僕射。遣其度支尚書封愷・中書侍郎封逞觀省風俗、所在大饗將士。以其妻段氏為皇后。建立學官、簡公卿已下子弟及二品士門二百人為太學生。
後因讌其羣臣、酒酣、笑而言曰、「朕雖寡薄、恭己南面而朝諸侯、在上不驕、夕惕於位、可方自古何等主也」。其青州刺史鞠仲曰、「陛下中興之聖后、少康・光武之儔也」。德顧命左右賜仲帛千匹。仲以賜多為讓、德曰、「卿知調朕、朕不知調卿乎。卿飾對非實、故亦以虛言相賞。賞不謬加、何足謝也」。韓範進曰、「臣聞天子無戲言、忠臣無妄對。今日之論、上下相欺、可謂君臣俱失」。德大悅、賜範絹五十匹。自是昌言競進、朝多直士矣。
德母兄先在長安、遣平原人杜弘如長安問存否。弘曰、「臣至長安、若不奉太后動止、便即西如張掖、以死為效。臣父雄年踰六十、未沾榮貴、乞本縣之祿、以申烏鳥之情」。張華進曰、「杜弘未行而求祿、要利情深、不可使也」。德曰、「吾方散所輕之財、招所重之死、況為親尊而可吝乎。且弘為君迎親、為父求祿、雖外如要利、內實忠孝」。乃以雄為平原令。弘至張掖、為盜所殺、德聞而悲之、厚撫其妻子。
明年、德如齊城、登營丘、望晏嬰冢、顧謂左右曰、「禮、大夫不逼城葬。平仲古之賢人、達禮者也、而生居近市、死葬近城、豈有意乎」。青州秀才晏謨對曰、「孔子稱臣先人平仲賢、則賢矣。豈不知高其梁、豐其禮。蓋政在家門、故儉以矯世。存居湫隘、卒豈擇地而葬乎。所以不遠門者、猶冀悟平生意也」。遂以謨從至漢城陽景王廟、讌庶老于申池、北登社首山、東望鼎足、因目牛山而歎曰、「古無不死」。愴然有終焉之志。遂問謨以齊之山川丘陵、賢哲舊事。謨歷對詳辯、畫地成圖。德深嘉之、拜尚書郎、立冶於商山、置鹽官于烏常澤、以廣軍國之用。
德故吏趙融自長安來、始具母兄凶問。德號慟吐血、因而寢疾。其司隸校尉慕容達因此謀反、遣牙門皇璆率眾攻端門、殿中2.師侯赤眉開門應之。中黃門孫進扶德踰城、隱於進舍。段宏等聞宮中有變、勒兵屯四門。德入宮、誅赤眉等、達懼而奔魏。慕容法及魏師戰于濟北之摽榆谷、魏師敗績。

1.中華書局本の校勘記によると、「四年」は「三年」に作るべきである。
2.中華書局本の校勘記によると、「師」は「帥」に作るべきである。

訓読

四年、僭して皇帝の位に南郊に即き、大赦し、改元して建平と為す。行廟を宮南に設け、使を遣はして策を奉じて告成す。慕容鍾を進めて司徒と為し、慕輿拔を司空と為し、封孚を左僕射と為し、慕輿護を右僕射と為す。其の度支尚書の封愷・中書侍郎の封逞を遣はして風俗を觀省せしめ、所在に大いに將士を饗す。其の妻の段氏を以て皇后と為す。學官を建立し、公卿より已下の子弟及び二品の士門二百人を簡びて太學生と為す。
後に因りて其の羣臣と讌し、酒 酣にして、笑ひて言ひて曰く、「朕 寡薄なると雖も、己を恭くして南面して諸侯を朝せしむ。上に在りて驕らず、夕にして位を惕(をそ)る〔一〕。古より何等の主に方ぶ可きか」と。其の青州刺史の鞠仲曰く、「陛下 中興の聖后にして、少康・光武の儔なり」と。德 顧みて左右に命じて仲に帛千匹を賜る。仲 賜の多きを以て讓を為す。德曰く、「卿 朕を調することを知り、朕 卿を調することを知らざるや。卿 對を飾りて實に非ず、故に亦た虛言を以て相 賞す。賞 加ふるを謬らず、何ぞ謝するに足るや」と。韓範 進みて曰く、「臣 聞くに天子に戲言無く、忠臣に妄對無し。今日の論、上下 相 欺く。君臣 俱に失すと謂ふ可し」と。德 大いに悅び、範に絹五十匹を賜る。是より昌言 競ひて進め、朝に直士多し。
德の母兄 先より長安に在り、平原人の杜弘を遣はして長安に如きて存否を問はしむ。弘曰く、「臣 長安に至り、若し太后の動止を奉ぜずんば、便即ち西して張掖に如き、死を以て效を為す。臣の父の雄 年は六十を踰え、未だ榮貴を沾(み)ず、本縣の祿を乞ひて、以て烏鳥の情を申す」と。張華 進みて曰く、「杜弘 未だ行かずして祿を求む、利を要むる情 深し。使はず可からざるなり」と。德曰く、「吾 方に輕ずる所の財を散じ、重んずる所の死を招く。況んや親尊の為に吝む可きや。且つ弘 君の為に親を迎へ、父の為に祿を求む。外は利を要むるが如しと雖も、內は實に忠孝なり」。乃ち雄を以て平原令と為す。弘 張掖に至り、盜の殺す所と為る。德 聞きて之を悲しみ、厚く其の妻子を撫す。
明年に、德 齊城に如き、營丘に登り、晏嬰の冢を望み、顧みて左右に謂ひて曰く、「禮に、大夫は城に逼らずして葬ると。平仲は古の賢人にして、禮に達する者なり。而れども生きては市に近きに居り、死しては城に近きに葬る。豈に意有らんや」と。青州の秀才の晏謨 對へて曰く、「孔子、臣が先人は平仲を賢なりと稱せば、則ち賢なり。豈に其の梁を高くし、其の禮を豐かにするを知らざらんや。蓋し政は家門に在り、故に儉 以て世を矯す。存すれば湫隘に居り、卒すれば豈に地を擇びて葬るや。門に遠からざる所以の者は、猶ほ平生の意を悟らんことを冀ふなり」と。遂に謨を以て從はしめて漢の城陽景王の廟に至らしめ、庶老を申池に讌し、北して社首山に登り、東して鼎足を望む。因りて牛山を目にして歎じて曰く、「古より死せざるは無し」と。愴然として終焉の志有り。遂に謨に問ふに齊の山川丘陵、賢哲の舊事を以てす。謨の歷對 詳辯にして、地に畫きて圖を成す。德 深く之を嘉し、尚書郎に拜し、冶を商山に立て、鹽官を烏常澤に置き、以て軍國の用を廣くす。
德の故吏の趙融 長安より來たり、始めて母兄の凶問を具さにす。德 號慟して吐血し、因りて寢疾す。其の司隸校尉の慕容達 此に因りて謀反し、牙門の皇璆を遣はして眾を率ゐて端門を攻め、殿中侯の赤眉 門を開きて之に應ず。中黃門の孫進 德を扶けて城を踰え、進の舍に隱す。段宏ら宮中 變有るを聞き、兵を勒して四門に屯す。德 宮に入り、赤眉らを誅し、達 懼れて魏に奔る。慕容法及び魏師 濟北の摽榆谷に戰ひ、魏師 敗績す。

〔一〕『周易』乾卦に、「夕惕若厲」とある。

現代語訳

¥四年、不当に皇帝の位に南郊で即き、大赦し、建平と改元した。行廟を宮南に設け、使者を送って(祖先に即位を)策文で報告した。慕容鍾を進めて司徒とし、慕輿抜を司空とし、封孚を左僕射とし、慕輿護を右僕射とした。その度支尚書の封愷と中書侍郎の封逞を派遣して風俗を視察させ、各地で大いに将士と饗宴をした。その妻の段氏を皇后とした。学官を立て、公卿より以下の子弟及び二品の士門の二百人を選抜して太学生とした。
のちに南燕の群臣と酒宴を開き、たけなわになると、笑って、「朕は寡徳であるが、畏れ多くも南面して諸侯と朝見している。上にあって驕らず、夕暮れには地位を恐れる(『周易』乾卦)。いにしえからのどの君主に相当するか」と言った。その青州刺史の鞠仲は、「陛下は中興をした聖なる帝王であり、(夏の)少康や(後漢の)光武の類いです」と言った。慕容徳は顧みて左右に命じて鞠仲に帛千匹を賜った。鞠仲は下賜品が多いとして辞退した。慕容徳は、「あなたは朕をからかった。朕もあなたをからかわないものか。あなたは回答を飾って実態を言わなかった。ゆえに虚言に対して褒賞を下すのだ。褒賞の過剰さは不当ではない、どうして辞退する必要があろうか」と言った。韓範が進んで、「私が聞きますに天子に戯言はなく、忠臣に妄対なしと言います。今日の会話は、上下ともに欺いています。君臣ともに当を失したと言うべきでしょう」と言った。慕容徳は大いに悦び、韓範に絹五十匹を賜わった。これ以降は誠実な言葉が競って提出され、朝廷に直言の士が多くなった。
慕容徳の母と兄が以前から長安におり、平原の人の杜弘を派遣して長安に行って生死を確認させた。杜弘は、「長安に到着し、もしも太后(慕容徳の母)の動静を確認できなければ、すぐに西に向かって張掖に行き、命をかけて任務を果たします。私の父の杜雄は六十歳をこえ、まだ高い地位にありません。本貫の県に俸禄を頂戴し、カラスの(親を養う)心をかなえて下さい」と言った。張華は進んで、「杜弘は出発前から俸禄を求めました、利益を追求する心が深く、使者には不向きです」と言った。慕容徳は、「私はどうでもよい財産を手放し、大切な命を救おうと思う。ましてや親尊(母と兄)のために惜しんではならない。しかも杜弘は君主のために親族を迎え、自分の父のために俸禄を求めた。表面的には利益追求に見えるが、内実は忠孝なのだ」と言った。そこで(杜弘の父の)杜雄を平原令とした。杜弘は張掖に至り、盗賊に殺された。慕容徳はこれを聞いて悲しみ、厚くかれの妻子を養育した。
翌年に、慕容徳は斉城に行き、營丘に登り、晏嬰の塚を望みみて、左右を顧みて、「礼に、大夫は城の近くに葬らないとある。平仲(晏嬰)は古の賢人であり、礼に精通した人物であった。しかし生前は市の近くに住み、死後は城の近くに葬られた。特別な意図があったのだろうか」と言った。青州の秀才の晏謨が答えて、「孔子が、わが先人の平仲は賢であると言ったのですから、晏嬰は賢者なのです。どうしてその梁を高くし、その礼を豊かにすることを知らないものでしょうか。恐らく(春秋斉の)政権が家門(陳氏)に握られたので、倹約(を示すこと)によって世を正そうとしたのです。(晏嬰は)生前は低くて狭いところに住みました、死後にどうして土地を(自分で)選んで葬れましょうか。城門が遠くない場所に葬られた理由は、(残されたものが)生前の考えを理解したいと願ったからです」と言った。これを受けて晏謨を従わせて漢の城陽景王の廟に行き、現地の老人を申池で饗宴し、北上して社首山に登り、東にゆき鼎足山を望んだ。(斉の景公が流涕したという)牛山を目にして歎じ、「古より死なない人間はいない」と言った。悲しみ傷んで終焉の志について思いを馳せた。晏謨に斉の山川や丘陵、賢哲の故事を質問した。晏謨の受け答えはどれも詳細で筋が通り、地面に図を描いて説明した。慕容徳は深く感心し、晏謨を尚書郎に拝し、冶官を商山に設け、塩官を烏常沢に置き、軍事と国家財政を満たした。
慕容徳の故吏の趙融が長安から来て、はじめて(慕容徳の)母と兄の死亡を詳しく伝えた。慕容徳は慟哭して吐血し、病気で寝込んだ。その司隷校尉の慕容達はこれを見て謀反し、牙門の皇璆に兵を率いて端門を攻撃させ、殿中侯の赤眉が門を開いて呼応した。中黄門の孫進は慕容徳を助けて城壁を越え、(慕容徳を)孫進の邸宅に隠した。段宏らは宮中で異変があったと聞き、兵を整えて四門に駐屯した。慕容徳が宮殿に入り、赤眉らを誅殺すると、慕容達は懼れて魏に逃げ込んだ。慕容法と魏軍が済北の摽榆谷で戦い、魏軍が敗北した。

原文

其尚書韓𧨳上疏曰、「二寇逋誅、國恥未雪、關西為豺狼之藪、揚越為鴟鴞之林、三京社稷、鞠為丘墟、四祖園陵、蕪而不守、豈非義夫憤歎之日、烈士忘身之秋。而皇室多難、威略未振、是使長蛇弗翦、封豕假息。人懷憤慨、常謂一日之安不可以永久、終朝之逸無卒歲之憂。陛下中興大業、務在遵養、矜遷萌之失土、假長復而不役、愍黎庶之息肩、貴因循而不擾。斯可以保寧于營丘、難以經措于秦越。今羣凶僭逆、實繁有徒、據我三方、伺國瑕釁。深宜審量虛實、大校成敗、養兵厲甲、廣農積糧、進為雪恥討寇之資、退為山河萬全之固。而百姓因秦晉之弊、迭相蔭冒、或百室合戶、或千丁共籍、依託城社、不懼燻燒、公避課役、擅為姦宄、損風毀憲、法所不容。但檢令未宣、弗可加戮。今宜隱實黎萌、正其編貫、庶上增皇朝理物之明、下益軍國兵資之用。若蒙採納、冀裨山海、雖遇商鞅之刑、悅綰之害、所不辭也」。德納之、遣其車騎將軍慕容鎮率騎三千、緣邊嚴防、備百姓逃竄。以𧨳為使持節・散騎常侍・行臺尚書、巡郡縣隱實、得蔭戶五萬八千。𧨳公廉正直、所在野次、人不擾焉。
德大集諸生、親臨策試。既而饗宴、乘高遠矚、顧謂其尚書魯邃曰、「齊魯固多君子、當昔全盛之時、接・慎・巴生・淳于・鄒・田之徒、蔭修檐、臨清沼、馳朱輪、佩長劍、恣1.(飛)〔非〕馬之雄辭、奮談天之逸辯、指麾則紅紫成章、俛仰則丘陵生韵。至於今日、荒草穨墳、氣消煙滅、永言千載、能不依然」。邃答曰、「武王封比干之墓、漢祖祭信陵之墳、皆留心賢哲、每懷往事。陛下慈深二主、澤被九泉、若使彼而有知、寧不銜荷矣」。
先是、妖賊王始聚眾于太山、自稱太平皇帝、號其父為太上皇、兄為征東將軍、弟征西將軍。慕容鎮討擒之、斬於都市。臨刑、或問其父及兄弟所在、始答曰、「太上皇帝蒙塵於外、征東・征西亂兵所害。惟朕一身、獨無聊賴」。其妻怒之曰、「止坐此口、以至於此、奈何復爾」。始曰、「皇后。自古豈有不破之家、不亡之國邪」。行刑者以刀鐶築之、仰視曰、「崩即崩矣、終不改帝號」。德聞而哂之。

1.中華書局本の校勘記に従い、「飛」と「非」に改める。

訓読

其の尚書の韓𧨳 上疏して曰く、「二寇 誅より逋(に)げて、國恥 未だ雪がず。關西は豺狼の藪と為り、揚越は鴟鴞の林と為る。三京の社稷、鞠して丘墟と為り、四祖の園陵、蕪(あ)れて守らず。豈に義夫 憤歎するの日にして、烈士 身を忘るるの秋に非ざるか。而れども皇室 多難にして、威略 未だ振はず。是れ長蛇をして翦せず、封豕をして假息せしむなり。人は憤慨を懷き、常に謂ふらく、一日の安あるも以て永久なる可からず、終朝の逸あるも歲を卒ふるの憂無しと。陛下の中興の大業、務めは遵養に在り、遷萌の土を失ふを矜り、長復を假りて役せず、黎庶の肩を息(やす)むるを愍み、因循を貴びて擾さず。斯れ以て營丘を保寧す可けれども、以て秦越を經措し難し。今 羣凶 僭逆し、實に繁く徒有り、我が三方に據り、國の瑕釁を伺ふ。深く宜しく虛實を審量し、成敗を大校し、兵を養ひ甲を厲し、農を廣め糧を積み、進みては恥を雪ぎ寇を討つの資と為し、退きては山河萬全の固と為すべし。而して百姓 秦晉の弊に因り、迭相に蔭冒し、或いは百室 戶を合し、或いは千丁 籍を共にす。城社に依託して、燻燒を懼れず、公に課役を避け、擅に姦宄を為し、風を損へ憲を毀ち、法の容れざる所なり。但だ檢令 未だ宣せられずんば、戮を加ふ可からず。今 宜しく隱實の黎萌あらば、其の編貫を正し、庶はくは上は皇朝 理物の明を增し、下は軍國 兵資の用を益せ。若し採納を蒙らば、冀はくは山海を裨し、商鞅が刑、悅綰が害に遇ふと雖も、辭せざる所なり」。德 之を納れ、其の車騎將軍の慕容鎮を遣はして騎三千を率ゐ、邊を緣り防を嚴くし、百姓の逃竄に備ふ。𧨳を以て使持節・散騎常侍・行臺尚書と為し、郡縣の隱實を巡り、蔭戶五萬八千を得しむ。𧨳は公廉正直にして、所在に野次するも、人 焉を擾さず。
德 大いに諸生を集め、親ら策試に臨む。既にして饗宴し、高きに乘りて遠矚し、顧みて其の尚書の魯邃に謂ひて曰く、「齊魯 固より君子多し。當昔 全盛の時に、接・慎・巴生・淳于・鄒・田の徒あり、修檐に蔭し、清沼に臨み、朱輪を馳せ、長劍を佩き、非馬の雄辭を恣にし、談天の逸辯を奮ひ、指麾すれば則ち紅紫 章を成し、俛仰すれば則ち丘陵 韵を生ず。今日に至るまで、荒草 穨墳し、氣は消え煙は滅し、永く千載を言ふ、能く依然たらざらんや」と。邃 答へて曰く、「武王 比干の墓を封じ、漢祖 信陵の墳を祭る。皆 心に賢哲を留め、每に往事を懷く。陛下 慈は二主よりも深く、澤は九泉を被ふ。若し彼をして知有らじめば、寧ろ銜荷せざらんや」と。
是より先、妖賊の王始 眾を太山に聚め、自ら太平皇帝を稱し、其の父を號して太上皇と為し、兄を征東將軍と為し、弟を征西將軍とす。慕容鎮 討ちて之を擒へ、都市に斬る。刑に臨み、或ひと其の父及び兄弟の所在を問ふ。始 答へて曰く、「太上皇帝 外に蒙塵し、征東・征西は亂兵の害する所なり。惟だ朕の一身のみ、獨り聊賴無し」と。其の妻 之に怒りて曰く、「此の口を止坐せよ。以て此に至る、奈何ぞ復た爾らんか」と。始曰く、「皇后よ。古より豈に破らざるの家、亡びざるの國有るか」と。刑を行ふ者は刀鐶を以て之を築(つ)く。仰視して曰く、「崩は即ち崩なり、終に帝號を改めず」と。德 聞きて之を哂す。

現代語訳

その尚書の韓𧨳は上疏して、「二寇は誅殺を免れ、国恥はまだ雪がれておりません。関西は豺狼の住処となり、揚越はフクロウの巣となっています。三京の社稷は、廃墟となり果て、四祖の園陵は、荒れて管理者がおりません。義夫が憤り嘆き、烈士がわが身を忘れる時期ではないでしょうか。しかし皇室は多難であり、いまだ威略が振るいません。これでは長い蛇と、大きな豚(残忍で貪欲なものの譬え)を野放しにしている状況です。人々は憤慨をいだき、つねに、一日だけの安泰は長続きせず、明け方まで持っても年を越せないと思っています。陛下の中興の大業は、道に従って志を養うことにあり、創業の地を失っていることを悲しみながらも、言い聞かせるだけで実行に移さず、民草の負担を減らすことを心掛け、現状維持を優先しています。かように營丘だけを安定的に支配しても、秦越(秦と東晋)を攻略することは困難です。いまは凶悪な連中が僭逆し、活発に動いており、わが三方を囲み、国家の隙を窺っています。どうか慎重に虚実を見極め、成功と失敗を比較し、兵士を養って武具を揃え、農業を広げて備蓄を重ね、進んでは恥を雪いで寇賊を討つための元手とし、退いては自国の山河の強固な守りとなさいませ。民草は前秦や東晋が疲弊したときに、代わるがわる隠れて移住し、あるものは百室を一戸に合わせたり、あるものは男性千人で戸籍が一つとなっています。城ややしろに隠れ、いぶり出されることを恐れず、公然と租税や労役をのがれ、ほしいままに勝手な行為をし、風紀を乱して秩序を壊しており、これは違法なことであります。しかし取り締まりが不十分で、誅戮を加えることができません。いま戸籍の編入を免れている人民がいれば、漏れなく編成して登録なさいませ。上は皇朝の優れた統治を明らかにし、下は軍事と国家の収入を増やして下さい。もし私の意見が採択されれば、山海に潜んで暮らし、(戦国秦の)商鞅のような刑罰や、(前燕の)悅綰のような殺害を被っても、避けることはありません」と言った。慕容徳はこれを聞き入れ、その車騎将軍の慕容鎮を派遣して騎三千を率い、国境に沿って守りを厳重にし、百姓の逃散に備えた。韓𧨳を使持節・散騎常侍・行台尚書とし、郡県の実態を調査し、隠れていた五万八千人を登録させた。韓𧨳は公正で廉直であり、各地で野営したが、人々は彼を妨害しなかった。
慕容徳は大いに諸生を集め、自ら策試に臨んだ。試験が終わると饗宴し、高みに登って見渡し、顧みてその尚書の魯邃に、「斉魯は君子が多い土地がらだ。かつて全盛期には、接・慎・巴生・淳于・鄒・田といった人士がおり、ひさしの下におり、すんだ沼に臨み、朱塗りの車輪にのり、長剣を身につけ、(公孫龍は)非馬の雄弁な議論をして、(鄒衍は)天を談じて突出した弁論を奮い、指し招けば紅紫は文章となり、伏し仰げば丘陵は音韻を生じた。今日に至るまで、草木が遺構を荒らし、気や煙は消失し、長く千年になるが、今日も当時のままだろうか」と言った。魯邃は答へて、「(周の)武王が(殷の王族)比干の墓に土盛りし、漢祖(劉邦)は(戦国魏の)信陵君の墳を祭りました。どちらも心に賢者をとどめ、いつも前代の賢者を思い抱きました。陛下は慈愛が二主(武王と漢祖)よりも深く、恩沢が九泉を覆っています。もし(むかしの斉魯の賢者に)知覚があれば、きっと恩義に感じ入るでしょう」と言った。
これより先、妖賊の王始が太山で兵を集め、自ら太平皇帝を称し、父を太上皇と号し、兄を征東将軍とし、弟を征西将軍とした。慕容鎮は討伐してこれを捕らえ、都の市場で斬った。処刑の際、あるひとが父と兄弟の居場所を聞いた。王始は答えて、「太上皇帝は都の外に流浪し、征東・征西将軍は乱兵に殺害された。ただ朕の一人だけが、寄る辺がない」と言った。妻がかれを叱り、「その口を閉じなさい。この期に及んで、まだ言うのですか」と言った。王始は、「皇后よ。古より破滅しない家、滅亡しない国があっただろうか」と言った。刑の執行者は刀鐶で突いた。王始は仰ぎ見て、「(わが死は)崩は崩である。最後まで帝号を改めない」と言った。慕容徳はこれを聞いて晒した。

原文

時桓玄將行篡逆、誅不附己者。冀州刺史劉軌・襄城太守司馬休之・征虜將軍劉敬宣・廣陵相高雅之・江都長張誕並內不自安、皆奔於德。於是德中書侍郎韓範上疏曰、「夫帝王之道、必崇經略。有其時無其人、則弘濟之功闕。有其人無其時、則英武之志不申。至於能成王業者、惟人時合也。自晉國內難、七載于茲。桓玄逆篡、虐踰董卓、神怒人怨、其殃積矣。可乘之機、莫過此也。以陛下之神武、經而緯之、驅樂奮之卒、接厭亂之機、譬猶聲發響應、形動影隨、未足比其易也。且江淮南北戶口未幾、公私戎馬不過數百、守備之事蓋亦微矣。若以步騎一萬、建雷霆之舉、卷甲長驅、指臨江會、必望旗草偃、壺漿屬路。跨地數千、眾踰十萬、可以西并強秦、北抗大魏。夫欲拓境開疆、保寧社稷、無過今也。如使後機失會、豪桀復起、梟除桓玄、布惟新之化、遐邇既寧、物無異望、非但建鄴難屠、江北亦不可冀。機過患生、憂必至矣。天與不取、悔將及焉。惟陛下覽之」。
德曰、「自頃數纏百六、宏綱暫弛、遂令姦逆亂華、舊京墟穢、每尋否運、憤慨兼懷。昔少康以一旅之眾、復夏配天、況朕據三齊之地、藉五州之眾、教之以軍旅、訓之以禮讓、上下知義、人思自奮、繕甲待釁、為日久矣。但欲先定中原、掃除逋孽、然後宣布淳風、經理九服、飲馬長江、懸旌隴坂。此志未遂、且韜戈耳。今者之事、王公其詳議之」。咸以桓玄新得志、未可圖、乃止。於是講武於城西、步兵三十七萬、車一萬七千乘、鐵騎五萬三千、周亘山澤、旌旗彌漫、鉦鼓之聲、振動天地。德登高望之、顧謂劉軌・高雅之曰、「昔郤克忿齊、子胥怨楚、終能暢其剛烈、名流千載。卿等既知投身有道、當使無慚昔人也」。雅之等頓首答曰、「幸蒙陛下天覆之恩、大造之澤、存亡繼絕、實在聖時、雖則萬隕、何以上報」。俄聞桓玄敗、德以慕容鎮為前鋒、慕容鍾為大都督、配以步卒二萬、騎五千、剋期將發、而德寢疾、於是罷兵。
初、德迎其兄子超于長安、及是而至。德夜夢其父曰、「汝既無子、何不早立超為太子。不爾、惡人生心」。寤而告其妻曰、「先帝神明所敕、觀此夢意、吾將死矣」。乃下書以超為皇太子、大赦境內、子為父後者人爵二級。其月死、即義熙元年也、時年七十。乃夜為十餘棺、分出四門、潛葬山谷、竟不知其尸之所在。在位1.五年、偽諡獻武皇帝。

1.中華書局本の校勘記によると、「五年」は「六年」に作るべきである。

訓読

時に桓玄 將に篡逆を行はんとし、己に附かざる者を誅す。冀州刺史の劉軌・襄城太守の司馬休之・征虜將軍の劉敬宣・廣陵相の高雅之・江都長の張誕 並びに內に自ら安ぜず、皆 德に奔る。是に於て德の中書侍郎の韓範 上疏して曰く、「夫れ帝王の道は、必ず經略を崇ぶ。其の時有りて其の人無くんば、則ち弘濟の功 闕かん。其の人有りて其の時無くんば、則ち英武の志 申せず。於に至りて能く王業を成す者は、惟れ人時 合するなり。晉國 內難ありてより、茲に于けるまで七載なり。桓玄の逆篡は、虐は董卓を踰え、神は怒り人は怨み、其の殃 積れり。乘ず可きの機、此を過ぐる莫きなり。陛下の神武を以て、經して之を緯し、樂奮の卒を驅り、厭亂の機に接すれば、譬ふれば猶ほ聲 發せば響は應じ、形 動かば影は隨ふがごとく、未だ其の易きを比ぶるに足らず。且つ江淮の南北 戶口 未だ幾ならず、公私の戎馬 數百を過ぎず、守備の事 蓋し亦た微ならん。若し步騎一萬を以て、雷霆の舉を建て、卷甲し長驅せば、指して江會に臨み、必ず旗を望みて草偃し、壺漿 路に屬せん。地を跨ぐに數千、眾は十萬を踰ゆれば、以て西は強秦を并せ、北は大魏を抗ぐ可し。夫れ境を拓き疆を開き、社稷を保寧せんと欲すれば、今を過ぐること無きなり。如使し機に後れて會を失はば、豪桀 復た起ち、桓玄を梟除し、惟新の化を布き、遐邇 既に寧なれば、物は異望無く、但だ建鄴もて屠し難きのみに非ず、江北も亦た冀ふ可からず。機 過ぎれば患 生じ、憂 必ず至らん。天の與ふるをば取らず、悔 將に及ばんとす。惟だ陛下 之を覽ぜよ」と。
德曰く、「自頃 數々百六を纏ひ、宏綱 暫く弛み、遂に姦逆をして華を亂し、舊京をば墟穢ならしめ、每に否運を尋ね、憤慨 兼に懷く。昔 少康 一旅の眾を以て、夏を復して配天せらる、況んや朕 三齊の地に據りて、五州の眾を藉り、之を教ふるに軍旅を以てし、之を訓ずるに禮讓を以てす。上下 義を知り、人々自ら奮はんと思ひ、甲を繕ひ釁を待ち、日をば久しと為す。但だ先に中原を定め、逋孽を掃除し、然る後に淳風を宣布し、九服を經理し、馬に長江を飲し、旌を隴坂に懸けんと欲す。此の志 未だ遂げずんば、且つ戈を韜(をさ)むのみ。今者の事、王公 其れ詳らかに之を議せよ」。咸 桓玄 新たに志を得て、未だ圖る可からざるを以て、乃ち止む。是に於て武を城西に講じ、步兵三十七萬、車一萬七千乘、鐵騎五萬三千、山澤を周亘し、旌旗 彌漫し、鉦鼓の聲、天地を振動す。德 高みに登りて之を望み、顧みて劉軌・高雅之に謂ひて曰く、「昔 郤克 齊に忿り、子胥 楚を怨み、終に能く其の剛烈を暢べて、名は千載に流る。卿ら既に身を投ずるを知りて道有り、當に昔人に慚ずるを無からしめよ」と。雅之ら頓首して答へて曰く、「幸ひ陛下の天覆の恩、大造の澤を蒙り、亡を存し絕を繼ぎ、實に聖時に在り。則ち萬隕すと雖も、何を以て上報せん」と。俄かに桓玄 敗るるを聞きて、德 慕容鎮を以て前鋒と為し、慕容鍾もて大都督と為し、配するに步卒二萬、騎五千を以てし、期を剋して將に發せんとするに、而れども德 寢疾し、是に於て兵を罷む。
初め、德 其の兄子の超を長安に迎へ、是に及びて至る。德 夜に其の父を夢みて曰く、「汝 既に子無し、何ぞ早く超を立てて太子と為さざる。爾らずんば、惡人 心を生ぜん」と。寤めて其の妻に告げて曰く、「先帝の神明 敕する所にして、此の夢意を觀るに、吾 將に死せんとす」と。乃ち書を下して超を以て皇太子と為し、境內を大赦し、子の父の後と為る者は人ごとに爵二級なり。其の月に死し、即ち義熙元年なり、時に年七十なり。乃ち夜に十餘棺を為り、分かれて四門を出で、潛かに山谷に葬り、竟に其の尸の所在を知らず。在位すること五年、偽りて獻武皇帝と諡す。

現代語訳

このとき桓玄が(東晋で)簒奪を決行するため、賛同しない者を誅殺した。冀州刺史の劉軌と襄城太守の司馬休之と征虜将軍の劉敬宣と広陵相の高雅之と江都長の張誕はみな内心で不安になり、みな慕容徳のもとに逃げ込んだ。ここにおいて慕容徳の中書侍郎の韓範が上疏して、「そもそも帝王の道は、必ず経略(四海の平定)を重んじます。その時節が到来しても適任の人材がおらねば、全土を救済する功績は実現しません。適任の人材がいてもその時節が到来せねば、勇敢な武の志は発揮できません。ゆえに王者の事業を成功させられるのは、人材と時節が合致した場合のみです。東晋の国内で危難があり、今年までに七年が経過しました。桓玄の謀反と簒奪は、残虐さが(後漢の)董卓を超え、神は怒り人は怨み、その罪過は蓄積しています。乗じるべき機会を、見逃してはいけません。陛下の神武によって、かの地を治めて整え、意気盛んな兵を動員し、混乱の極みに対処すれば、あたかも声を発すれば反響があり、形が動けば影が従うのと同じように、平定の容易さは比べようがありません。しかも長江や淮水の南北の人口はほとんどおらず、公私の軍馬は数百を下回るので、守備はきっと手薄であります。もし歩騎一万で、雷鳴のように進発し、武装を解いて長駆し、長江の目前に臨めば、必ず(東晋は)わが軍の旗を望んでなびき、飲み水を携えて道に迎えるでしょう。領地が数千里四方に跨がり、兵員が十万を超えれば、西は強敵の秦を併合し、北は大いなる魏を防ぐことができるでしょう。国境を広げて領土を開拓し、社稷を保全したいと思うなら、これよりも良い策はありません。もし遅れて好機を逃せば、豪桀がまた立ち上がり、桓玄を排除し、(東晋の)天命を新たにして教化を広げます。遠近が安寧となれば、万物から対立が去ります。ただ建鄴を攻略しづらくなるだけでなく、江北もまた狙えなくなります。時機が過ぎれば患いが生じ、憂いが必ず到来するでしょう。天が与えるものを取らなければ、きっと後悔をします。ただ陛下はよくお考え下さい」と言った。
慕容徳は、「近年しばしば災厄が起き、秩序が弛緩し、姦悪な逆賊が中華を乱し、旧京を廃墟にし、つねに不運にあって、憤慨を抱いてきた。むかし少康は一隊の軍だけで、夏王朝を復興して配天された、まして朕は三斉の地を拠点とし、五州の軍隊を動員し、軍事力の裏づけがあって教化し、礼義にあつく謙虚に導いている。上下は義を知り、人々は自ら奮い立ち、武具を繕って(逆賊の)間隙を待ち、一日を長しと感じている。先に中原を平定し、逃げた盗賊を排除してから、淳風を広げて布き、九服に秩序をもたらし、馬に長江で水を飲ませ、旌旗を隴坂に掲げようと思ってきた。この志がまだ実現しなければ、武器を収めるだけだ。今日のことについて、王公は詳らかに議論せよ」と言った。みな桓玄が志を得た(東晋簒奪を成功させた)直後で、敵わない相手だと考えたので、中止を唱えた。ここにおいて城西で軍を訓練し、歩兵三十七万、戦車一万七千乗、鉄騎五万三千で、山沢をめぐり、旌旗が林立し、軍の鉦鼓の音が、天地を震動させた。慕容徳は高みに登ってこれを眺め、顧みて劉軌と高雅之に、「むかし(春秋晋の)郤克が斉に怒り、(春秋呉の)子胥が楚を怨み、最終的に激しい志を実現し、名前を千年先に伝えた。あなたたちは身を投じるべき事業を知っており正道にある。昔人に恥じることがないように(桓玄を討伐)せよ」と言った。高雅之らは頓首して答え、「幸いに陛下の天を覆う恩と、大きな功績の恵みを蒙り、亡びたものを存続させ絶えたものを継がせる、聖なる好機です。どれだけ損害を出そうとも、きっと報いるでしょう」と言った。にわかに桓玄が敗れたと聞き、慕容徳は慕容鎮を前鋒とし、慕容鍾を大都督とし、歩兵二万、騎五千を配備し、時期を決めて出発しようとしたが、慕容徳が病気で寝込み、遠征を中止した。
これよりさき、慕容徳は兄の子の慕容超を長安に迎えにゆき、このときになって到着した。慕容徳は夜に父の夢を見て、「お前には子がいない、なぜ早く慕容超を太子に立てないのか。さもなくば、悪人が(簒奪の)心を持つだろう」と言った。目覚めて妻に告げて、「先帝から神秘的な命令を受けた、この夢の意味を考えるに、私はもうすぐ死ぬだろう」と言った。そこで書を下して慕容超を皇太子とし、領内を大赦し、子のうち父の後嗣となっているものは人ごとに爵二級を授けた。同月内に死に、このとき義熙元年で、七十歳であった。夜に十あまりの棺を作り、分かれて四門から出て、秘かに山谷に葬ったので、死体の位置が分からなくなった。在位すること五年で、不当に献武皇帝と諡された。