いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第二十八巻_南燕_慕容超・慕容鍾(封孚)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。ひとりの作業には限界があるので、しばらく時間をおいて校正し、精度を上げていこうと思います。「¥」の記号は、関連する巻の翻訳が終わったのち、内容を確認して補う予定です。

慕容超

原文

慕容超字祖明、德兄北海王納之子。苻堅破鄴、以納為廣武太守、數歲去官、家于張掖。德之南征、留金刀而去。及垂起兵山東、苻昌收納及德諸子、皆誅之、納母公孫氏以耄獲免、納妻段氏方娠、未決、囚之于郡獄。獄掾呼延平、德之故吏也、嘗有死罪、德免之。至是、將公孫及段氏逃于羌中、而生超焉。年十歲而公孫氏卒、臨終授超以金刀、曰、「若天下太平、汝得東歸、可以此刀還汝叔也」。平又將超母子奔于呂光。及呂隆降于姚興、超又隨涼州人徙于長安。超母謂超曰、「吾母子全濟、呼延氏之力。平今雖死、吾欲為汝納其女以答厚惠」。於是娶之。超自以諸父在東、恐為姚氏所錄、乃陽狂行乞。秦人賤之、惟姚紹見而異焉、勸興拘以爵位。召見與語、超深自晦匿、興大鄙之、謂紹曰、「諺云『妍皮不裹癡骨』、妄語耳」。由是得去來無禁。德遣使迎之、超不告母妻乃歸。及至廣固、呈以金刀、具宣祖母臨終之言、德撫之號慟。
超身長八尺、腰帶九圍、精彩秀發、容止可觀。德甚加禮遇、始名之曰超、封北海王、拜侍中・驃騎大將軍・司隸校尉、開府、置佐吏。德無子、欲以超為嗣、故為超起第於萬春門內、朝夕觀之。超亦深達德旨、入則盡歡承奉、出則傾身下士、於是內外稱美焉。頃之、立為太子。
及德死、以義熙元年僭嗣偽位、大赦境內、改元曰太上。尊德妻段氏為皇太后。以慕容鍾都督中外諸軍・錄尚書事、慕容法為征南・都督徐兗揚南兗四州諸軍事、慕容鎮加開府儀同三司・尚書令、封孚為太尉、1.(麴)〔鞠〕仲為司空、潘聰為左光祿大夫、封嵩為尚書左僕射、自餘封拜各有差。後又以鍾為青州牧、段宏為徐州刺史、公孫五樓為武衞將軍・領屯騎校尉、內參政事。封孚言於超曰、「臣聞五大不在邊、五細不在庭。鍾、國之宗臣、社稷所賴。宏、外戚懿望、親賢具瞻。正應參翼百揆、不宜遠鎮方外。今鍾等出藩、五樓內輔、臣竊未安」。超新即位、害鍾等權逼、以問五樓。五樓欲專斷朝政、不欲鍾等在內、屢有間言、孚說竟不行。鍾・宏俱有不平之色、相謂曰、「黃犬之皮恐當終補狐裘也」。五樓聞之、嫌隙漸遘。

1.中華書局本の校勘記に従い、「麴」を「鞠」に改める。

訓読

慕容超 字は祖明、德の兄たる北海王納の子なり。苻堅 鄴を破るや、納を以て廣武太守と為す。數歲にして官を去り、張掖に家す。德の南征するや、金刀を留めて去る。垂 山東に起兵するに及び、苻昌 納及び德の諸子を收め、皆 之を誅す。納の母の公孫氏 耄を以て免るるを獲て、納の妻の段氏 方に娠すれば、未だ決せず、之を郡獄に囚ふ。獄掾 呼延平、德の故吏にして、嘗て死罪有れども、德 之を免ず。是に至て、公孫及び段氏を將ゐて羌中に逃げ、而して超を生む。年十歲にして公孫氏 卒し、終に臨みて超に授くるに金刀を以てし、曰く、「若し天下 太平たれば、汝 東歸するを得ん。此の刀を以て汝の叔に還す可し」と。平 又 超の母子を將ゐて呂光に奔る。呂隆 姚興に降るに及び、超 又 涼州人に隨ひて長安に徙る。超の母 超に謂ひて曰く、「吾が母子 全濟せしは、呼延氏の力なり。平 今 死すると雖も、吾 汝の為に其の女を納れて以て厚惠に答へんと欲す」と。是に於て之を娶る。超 自ら諸父にして東に在るを以て、姚氏の錄する所と為るを恐れ、乃ち陽狂して乞を行ふ。秦人 之を賤しみ、惟だ姚紹のみ見て焉を異とし、興に勸めて拘するに爵位を以てす。召見して與に語るに、超 深く自ら晦匿し、興 大いに之を鄙とし、紹に謂ひて曰く、「諺に云ふ、『妍皮 癡骨を裹(つつ)まず』と、妄語なるのみ」と。是に由り去來し禁無きを得たり。德 使を遣はして之を迎へ、超 母妻に告げずして乃ち歸る。廣固に至るに及び、呈するに金刀を以てし、具さに祖母の臨終の言を宣し、德 之を撫して號慟す。
超 身長は八尺、腰帶は九圍にして、精彩 秀發たりて、容止 觀る可し。德 甚だ禮遇を加へ、始め之を名づけて超と曰ひ、北海王に封じ、侍中・驃騎大將軍・司隸校尉を拜し、開府し、佐吏を置かしむ。德 子無く、超を以て嗣と為さんことを欲し、故に超の為に第を萬春門內に起て、朝夕に之を觀る。超も亦た深く德の旨に達し、入らば則ち歡を盡くして承奉し、出づれば則ち身を傾けて士に下る。是に於て內外 焉を稱美す。頃之、立ちて太子と為る。
德 死するに及び、義熙元年を以て僭して偽位を嗣ぎ、境內を大赦し、改元して太上と曰ふ。德の妻の段氏を尊びて皇太后と為す。慕容鍾を以て都督中外諸軍・錄尚書事とし、慕容法もて征南・都督徐兗揚南兗四州諸軍事と為し、慕容鎮もて加開府儀同三司・尚書令とし、封孚もて太尉と為し、鞠仲もて司空と為し、潘聰もて左光祿大夫と為し、封嵩もて尚書左僕射と為し、自餘の封拜 各々差有り。後に又 鍾を以て青州牧と為し、段宏もて徐州刺史と為し、公孫五樓もて武衞將軍・領屯騎校尉と為し、內に政事に參ぜしむ。封孚 超に言ひて曰く、「臣 聞くに五大は邊に在らず、五細は庭に在らずと〔一〕。鍾は、國の宗臣にして、社稷の賴む所なり。宏は、外戚の懿望にして、賢に親しみ具瞻す。正に應に百揆に參翼し、宜しく方外に遠鎮せしむべからず。今 鍾ら藩に出で、五樓 內に輔す。臣 竊かに未だ安ぜず」と。超 新たに即位し、鍾らの權に逼るを害し、以て五樓に問ふ。五樓 朝政を專斷せんと欲し、鍾ら內に在るを欲せざれば、屢々間言有り。孚の說 竟に行はれず。鍾・宏 俱に不平の色有り、相 謂ひて曰く、「黃犬の皮 恐るらくは當に終に狐裘を補ふべきなり」と。五樓 之を聞き、嫌隙 漸く遘す。

〔一〕『春秋左氏伝』昭公 伝十一年に、「臣聞五大不在邊。五細不在庭。親不在外。羈不在內」とあり、出典。杜預注に、「古言故云五大也言五官之長專盛過節則不可居邊細弱不勝任亦不可居朝廷」とある。

現代語訳

慕容超は字を祖明といい、慕容徳の兄である北海王慕容納の子である。苻堅が鄴を破ると、慕容納を広武太守とした。数年で官職を去り、張掖に家を置いた。慕容徳が南征するとき、金刀を留めていった。慕容垂が山東で起兵すると、苻昌は慕容納及び慕容徳の子たちを捕らえ、全員を誅殺した。慕容納の母の公孫氏は老齢を理由に見逃された。慕容納の妻の段氏は妊娠しており、(誅殺するか)決定がなされず、彼女を郡獄に囚えた。獄掾の呼延平は、慕容徳の故吏であり、かつて死罪を犯したが、慕容徳から助けられたことがあった。ここにおいて、公孫氏と段氏を連れて羌族のなかに逃げこみ、そこで慕容超を生んだ。慕容超が十歳のとき公孫氏が亡くなり、臨終のときに慕容超に(慕容徳の)金刀を託して、「もし天下が太平ならば、お前は東に帰れるだろう。この刀をお前の叔父(慕容徳)に返還しなさい」と言った。呼延平はさらに慕容超の母子を連れて呂光のもとに逃げた。呂隆が姚興に降服したとき、慕容超もまた涼州人に随って長安に移った。慕容超の母は慕容超に、「わが母子がどちらも生き残れたのは、呼延氏のおかげだ。呼延平はいま死んだが、かれの娘をお前に娶らせて厚い恩に報いたいと思う」と言った。そこで呼延氏を娶った。慕容超はおじたちが東方にいるので、姚氏に身柄を拘束され(人質とな)ることを恐れ、狂ったふりをして物乞いをした。秦人はかれを賤しんだが、姚紹だけが資質を見抜き、姚興に勧めて爵位を与えて引き止めようと言った。召して語りあったが、慕容超は韜晦したので、姚興は卑しい人材だと思い、姚紹に、「諺に、『妍皮(美しい皮)は癡骨(愚かな骨)を包まない』(美しい風采の人は才能も立派だ)というが、妄語だな」と言った。これにより行動の制約が外された。慕容徳が使者を送ってかれを迎えると、慕容超は母と妻に告げずに(東方に)帰った。広固に至ると、金刀を差し出し、祖母(慕容徳の母)の臨終のことばを詳しく伝えた。かれを撫でて慕容徳は慟哭した。
慕容超は身長は八尺、胴まわりは九囲で、風采が輝かんばかりに麗しく、容姿が美しかった。慕容徳は大いに礼遇し、かれに超という名前を与え、北海王に封建し、侍中・驃騎大将軍・司隷校尉を拝し、開府して、佐吏を置かせた。慕容徳には子がないので、慕容超を後嗣にしようと思い、ゆえに慕容超のために邸宅を万春門内に建てて、朝夕に会った。慕容超もまた慕容徳の期待にこたえ、朝廷に入れば全力で慕容超の歓心を買い、朝廷を出れば身を傾けて人士に遜った。ここにおいて内外から賛美された。しばらくして、太子に立てられた。
慕容徳が死ぬと、義熙元年において不当に(南燕の)偽位を嗣ぎ、領内を大赦し、改元して太上とした。慕容徳の妻の段氏を尊んで皇太后とした。慕容鍾を都督中外諸軍・録尚書事とし、慕容法を征南・都督徐兗揚南兗四州諸軍事とし、慕容鎮を加開府儀同三司・尚書令とし、封孚を太尉とし、鞠仲を司空とし、潘聡を左光禄大夫とし、封嵩を尚書左僕射とし、それ以下の封拝には差等があった。のちにまた慕容鍾を青州牧とし、段宏を徐州刺史とし、公孫五楼を武衛将軍・領屯騎校尉とし、朝廷で政事に参与させた。封孚は慕容超に、「私が聞きますに五大は辺境に置かず、五細は内庭に置かないといいます(『春秋左氏伝』昭公十一年)。慕容鍾は、国の宗臣であり、社稷が頼みとする人物です。段宏は、人望のある外戚であり、賢者に親しみ仰ぎ見られています。中央の政務全般に参加させるべきで、遠い地方に出鎮させてはいけません。いま慕容鍾らが藩屏として転出し、公孫五楼が朝廷を助けています。この事態に安心ができません」と言った。慕容超が新たに即位すると、慕容鍾らが権力に接近するのを妨害し、公孫五楼に意見を求めた。公孫五楼は朝政を専断しようと思い、慕容鍾らを中央に置きたくないので、しばしば讒言を吹き込んだ。こうして封孚の提言は実行に移されなかった。慕容鍾と段宏はともに不平に思って、互いに、「黄色い犬の皮が狐裘(貴重で高貴な衣)を繕うことになる」と言った。公孫五楼はこれを聞いて、対立がますます深まった。

原文

初、超自長安行至梁父、慕容法時為兗州、鎮南長史悅壽還謂法曰、「向見北海王子、天資弘雅、神爽高邁、始知天族多奇、玉林皆寶」。法曰、「昔成方遂詐稱衞太子、人莫辯之、此復天族乎」。超聞而恚恨、形于言色。法亦怒、處之外館、由是結憾。及德死、法又不奔喪、超遣使讓焉。法常懼禍至、因此遂與慕容鍾・段宏等謀反。超知而徵之、鍾稱疾不赴、於是收其黨侍中慕容統・右衞慕容根・散騎常侍段封誅之、車裂僕射封嵩於東門之外。西中郎將封融奔于魏。
超尋遣慕容鎮等攻青州、慕容昱等攻徐州、慕容凝・韓範攻梁父。昱等攻莒城、拔之、徐州刺史段宏奔于魏。封融又集羣盜襲石塞城、殺鎮西大將軍餘鬱、青土振恐、人懷異議。慕容凝謀殺韓範、將襲廣固。範知而攻之、凝奔梁父。範并其眾、攻梁父克之、凝奔姚興、慕容法出奔于魏。慕容鎮克青州、鍾殺其妻子、為地道而出、單馬奔姚興。
于時超不恤政事、畋游是好、百姓苦之。其僕射韓𧨳切諫、不納。超議復肉刑・九等之選、乃下書於境內曰、「陽九數纏、永康多難。自北都傾陷、典章淪滅、律令法憲、靡有存者。綱理天下、此焉為本、既不能導之以德、必須齊之以刑。且虞舜大聖、猶命咎繇作士、刑之不可已已也如是。先帝季興、大業草創、兵革尚繁、未遑修制。朕猥以不德、嗣承大統、撫御寡方、致蕭牆釁發、遂戎馬生郊、典儀寢廢。今四境無虞、所宜修定、尚書可召集公卿。至如不忠不孝若封嵩之輩、梟斬不足以痛之、宜致烹轘之法、亦可附之律條、納以大辟之科。肉刑者、乃先聖之經、不刊之典、漢文易之、輕重乖度。今犯罪彌多、死者稍眾。肉刑之于化也、濟育既廣、懲慘尤深、光壽・建興中二祖已議復之、未及而晏駕。其令博士已上參考舊事、依呂刑及漢・魏・晉律令、消息增損、議成燕律。五刑之屬三千、而罪莫大于不孝。孔子曰、『非聖人者無法、非孝者無親、此大亂之道也。』轘裂之刑、烹煮之戮、雖不在五品之例、然亦行之自古。渠彌之轘、著之春秋。哀公之烹、爰自中代。世宗都齊、亦愍刑罰失中、咨嗟寢食。王者之有刑糾、猶人之左右手焉。故孔子曰、『刑罰不中、則人無所措手足。』是以蕭何定法令而受封、叔孫通以制儀為奉常。立功立事、古之所重。其明議損益、以成一代準式。周漢有貢士之條、魏立九品之選、二者孰愈、亦可詳聞」。羣下議多不同、乃止。

訓読

初め、超 長安より行きて梁父に至り、慕容法 時に兗州為り、鎮南長史の悅壽 還りて法に謂ひて曰く、「向に北海王の子を見るに、天資 弘雅にして、神爽 高邁なり。始めて天族 奇多く、玉林 皆 寶なるを知る」と。法曰く、「昔 成方遂 詐りて衞太子を稱し、人 之を辯ずる莫し。此に復た天族あるや」と。超 聞きて恚恨し、言色に形はす。法 亦た怒り、之を外館に處らしめ、是に由り憾を結ぶ。德 死するに及び、法 又 喪に奔らず、超 使を遣はして焉に讓る。法 常に禍の至るを懼れ、此に因りて遂に慕容鍾・段宏らと謀反す。超 知りて之を徵すに、鍾 疾を稱して赴かず、是に於て其の黨たる侍中の慕容統・右衞の慕容根・散騎常侍の段封を收めて之を誅し、僕射の封嵩を東門の外に車裂にす。西中郎將の封融 魏に奔る。
超 尋いで慕容鎮らを遣はして青州を攻め、慕容昱らをして徐州を攻め、慕容凝・韓範をして梁父を攻めしむ。昱ら莒城を攻め、之を拔き、徐州刺史の段宏 魏に奔る。封融 又 羣盜を集めて石塞城を襲ひ、鎮西大將軍の餘鬱を殺し、青土 振恐し、人 異議を懷く。慕容凝 韓範を殺さんことを謀り、將に廣固を襲はんとす。範 知りて之を攻め、凝 梁父に奔る。範 其の眾を并せ、梁父を攻めて之に克つ。凝 姚興に奔り、慕容法 出でて魏に奔る。慕容鎮 青州に克ち、鍾 其の妻子を殺し、地道を為りて出で、單馬もて姚興に奔る。
時に超 政事を恤まず、畋游 是れ好み、百姓 之に苦しむ。其の僕射の韓𧨳 切諫するも、納れず。超 肉刑・九等の選を復さんことを議し、乃ち書を境內に下して曰く、「陽九 數々纏ひ、永康 多難なり。北都 傾陷してより、典章 淪滅し、律令法憲、存する者有る靡し。天下を綱理するは、此焉れ本と為し、既に之を導くに德を以てする能はず、必ず須らく之を齊ふるに刑を以てすべし。且つ虞舜の大聖、猶ほ咎繇に命じて士と作らしめ、刑の已已たる可からざること是の如し。先帝 季興して、大業 草創し、兵革 尚ほ繁く、未だ修制する遑あらず。朕 猥りに不德を以て、大統を嗣承し、撫御 方寡なく、蕭牆 釁發するに致り、遂に戎馬 郊に生じ、典儀 寢廢す。今 四境 虞れ無く、宜しく修定すべき所なり。尚書 公卿を召集す可し。如し不忠不孝 封嵩の輩が若きに至らば、梟斬するとも以て之を痛むに足らず。宜しく烹轘の法を致し、亦た之に律條を附し、納するに大辟の科を以てす可し。肉刑は、乃ち先聖の經、不刊の典なり。漢文 之を易え、輕重 乖度す。今 犯罪 彌々多く、死者 稍く眾し。肉刑の化に于けるや、濟育 既に廣く、懲慘 尤も深し。光壽・建興の中二祖 已に之を復せんことを議するに、未だ及ばずして晏駕す。其れ博士より已上をして舊事を參考し、呂刑及び漢・魏・晉の律令に依り、消息 增損して、燕律を成すことを議せ。五刑の屬は三千、而れども罪は不孝より大なるは莫し。孔子曰く、『聖人を非(そし)る者は法を無(なみ)し、孝を非る者は親を無す、此れ大亂の道なり』と〔一〕。轘裂の刑、烹煮の戮、五品の例に在らざると雖も、然れども亦た之を行ふは古よりす。渠彌の轘、之を春秋に著す〔二〕。哀公の烹、爰れ中代よりす。世宗 齊に都し、亦た刑罰を愍みて中を失ひ、咨嗟し寢食す。王者の刑糾有るは、猶ほ人の左右の手がごときなり。故に孔子曰く、『刑罰 中ならずんば、則ち人 手足を措く所無し』と〔三〕。是を以て蕭何 法令を定めて封を受け、叔孫通 儀を制むるを以て奉常と為る。立功立事は、古の重ずる所なり。其れ明に損益を議し、以て一代の準式を成せ。周漢は貢士の條有り、魏は九品の選を立つ。二者 孰れか愈えん、亦た詳聞す可し」と。羣下の議 多くして同じからず、乃ち止む。

〔一〕『孝経』五刑章に、「子曰、五刑之屬三千、而罪莫大於不孝。要君者無上。非聖人者無法。非孝者無親。此大亂之道也」とあり、出典。
〔二〕『春秋左氏伝』桓公 伝十八年に、「而轘高渠彌」とある。
〔三〕『論語』子路篇に、「刑罰不中。則民無所錯手足」とあり、出典。

現代語訳

これよりさき、慕容超が長安から梁父に到着すると、慕容法はこのとき兗州刺史であったが、鎮南長史の悦寿が還ってきて慕容宝に、「さきに北海王(慕容納)の子(慕容超)を見るに、天賦の資質はゆったりと上品で、心持ちは高邁でした。はじめて天族(皇族)には逸材が多く、玉林はすべてが宝であると知りました」と言った。慕容法は、「むかし(前漢で)成方遂が詐って(亡き)衛太子を自称したが、人々は真偽を判定できなかった。これも天族(の資質が自ずと表れる事例)といえるのか」と言った。慕容超はこれを聞いて怒り怨み、言葉や顔色に感情が表れた。慕容法もまた怒り、彼を城外の館に住まわせ、この出来事のせいで怨みが生じた。慕容徳が死ぬと、慕容法は遺体のもとに駆けつけなかったが、慕容超は使者をやって慕容法に地位を譲ろうとした。慕容法はつねに禍いが至ることを懼れ、そのために慕容鍾と段宏らと(慕容超に対して)謀反した。慕容超はこれを知って徴したが、慕容鍾は病気と称して赴かなかった。ここにおいて慕容法の党与である侍中の慕容統と右衛の慕容根と散騎常侍の段封を捕らえて誅殺し、僕射の封嵩を東門の外で車裂の刑にした。西中郎将の封融は北魏に逃げた。
慕容超はほどなく慕容鎮らを派遣して青州を攻め、慕容昱らに徐州を攻めさせ、慕容凝と韓範に梁父を攻めさせた。慕容昱らは莒城を攻め、ここを突破し、徐州刺史の段宏は北魏に逃げた。封融もまた群盜を集めて石塞城を襲い、鎮西大将軍の餘鬱を殺したので、青州の地域は震え恐れ、人々の支持勢力が分裂した。慕容凝は韓範を殺そうとし、広固の襲撃を試みた。韓範はこれを知ると却って攻め、慕容凝は梁父に逃げた。韓範はその軍を合わせ、梁父を攻めて破った。慕容凝は(後秦の)姚興のもとに逃げこみ、慕容法は城を出て北魏に奔った。慕容鎮が青州を打ち破ると、慕容鍾はその妻子を殺し、地道を掘って城外に出て、単馬で姚興に奔った。
このとき慕容超は政事を大切にせず、狩猟を好み、万民はこれに苦しんだ。その僕射の韓𧨳がきつく諫めたが、聞き入れなかった。慕容超は肉刑と九等の選(九品中正制)の再設置について議論し、文書を領内に下して、「陽九(災難)にしばしば覆われ、長い安寧は難が襲われた。北の都(¥)が陥落してから、制度や文物は消滅し、律令や法制は残っていない。天下の秩序を保つことが、統治の基本であり、これを徳だけで導くことができなければ、刑によって正すしかない。虞舜のような偉大な聖人ですら、(その臣下の)咎繇を任命して司法官としたように、刑罰はやむを得ないものである。先帝は晩年に国家を興し、大いなる事業を開始したが、軍事が頻繁であり、法整備の余裕がなかった。朕は不徳の身にして、国家を継承したが、平定の戦いで頻繁にあり、身内の抗争も絶えず、ゆえに軍隊を郊外で編制するばかりで、制度を後回しにしてきた。いま国土の四方から脅威が消えたので、法整備をすべきである。尚書は公卿を召集せよ。もし封嵩のように不忠不孝なものがいれば、斬って晒すことも過罰とは思わない。煮殺しや車裂きの法を適用し、これを条文に追加して、大辟(死刑)の法に含めるように。肉刑は、先聖の決めたことで、削るべきでない方法である。前漢の文帝がこれを変更し、刑の軽重が逆転した。いま犯罪者がいよいよ増え、死刑も増加している。肉刑の教化における大きな効果は、民を救い養って、後悔し反省を促すことにある。光寿年間と建興年間に二祖(慕容儁と慕容垂)が肉刑復活を議論したが、実現せずに崩御した。そこで博士より以上に前例を調査させ、呂刑及び漢・魏・晋の律令に依り、実態に合わせて増減させ、燕律を制定することを議論するように。五刑の罪は三千あるが、しかし不孝より大きな罪はない。孔子は、『聖人を批判するものは法を蔑ろにし、孝を批判するものは親を蔑ろにする、これは大乱の道だ』と言った(『孝経』五刑章)。車裂きの刑、煮殺しの罰は、五品の列には含まれないが、しかし古より実際に行われてきた。高渠彌(鄭の大夫)が車裂きにされたことは、『春秋』にある(『左氏伝』桓公 伝十八年)。(斉の)哀公が(周の夷王に)煮殺されたことは、当時として行われたことだ。世宗(慕容徳)が斉に都を設置し、刑罰を惜しんだばかりに適正さを欠き、歎息して寝食を送っている。王者が刑罰で世を正すことは、人間の左右の手のようなものだ。ゆえに孔子は、『刑罰が適正さを失えば、人民は手足の置きどころがない』と言った(『論語』子路篇)。そのため蕭何は法令を定めて封爵を受け、叔孫通は儀礼を整えて奉常となった。功績と事績を立てることは、古から重んじられたことである。よくよく刑の増減について議論し、当代の基準を完成させよ。周と漢には(人材登用に)貢士の制度があり、曹魏は九品中正を始めた。二者のどちらが優れているか、詳しく報告するように」と言った。群下の議論は百出して一致をみず、中止された。

原文

超母妻既先在長安、為姚興所拘、責超稱藩、求太樂諸伎、若不可、使送吳口千人。超下書遣羣臣詳議。左僕射段暉議曰、「太上囚楚、高祖不迴。今陛下嗣守社稷、不宜以私親之故而降統天之尊。又太樂諸伎皆是前世伶人、不可與彼、使移風易俗、宜掠吳口與之」。尚書張華曰、「若侵掠吳邊、必成鄰怨。此既能往、彼亦能來、兵連禍結、非國之福也。昔孫權重黎庶之命、屈己以臣魏。惠施惜愛子之頭、捨志以尊齊。況陛下慈德在秦、方寸崩亂、宜暫降大號、以申至孝之情。權變之道、典謨所許。韓範智能迴物、辯足傾人、昔與姚興俱為秦太子中舍人、可遣將命、降號修和。所謂屈于一人之下、申于萬人之上也」。超大悅、曰、「張尚書得吾心矣」。使範聘于興。及至長安、興謂範曰、「封愷前來、燕王與朕抗禮。及卿至也、款然而附。為依春秋以小事大之義。為當專以孝敬為母屈也」。範曰、「周爵五等、公侯異品、小大之禮、因而生焉。今陛下命世龍興、光宅西秦、本朝主上承祖宗遺烈、定鼎東齊、中分天曜、南面並帝。通聘結好、義尚謙沖、便至矜誕、苟折行人、殊似吳晉爭盟、滕薛競長、恐傷大秦堂堂之盛、有損皇燕巍巍之美、彼我俱失、竊未安之」。興怒曰、「若如卿言、便是非為大小而來」。範曰、「雖由大小之義、亦緣寡君純孝過于重華、願陛下體敬親之道、霈然垂愍」。興曰、「吾久不見賈生、自謂過之、今不及矣」。於是為範設舊交之禮、申敘平生、謂範曰、「燕王在此、朕亦見之、風表乃可、於機辯未也」。範曰、「大辯若訥、聖人美之、況爾日龍潛鳳戢、和光同塵、若使負日月而行、則無繼天之業矣」。興笑曰、「可謂使乎、延譽者也」。範承間逞說、姚興大悅、賜範千金、許以超母妻還之。慕容凝自梁父奔于姚興、言于興曰、「燕王稱藩、本非推德、權為母屈耳。古之帝王尚興師徵質、豈可虛還其母乎。母若一還、必不復臣也。宜先制其送伎、然後歸之」。興意乃變、遣使聘于超。超遣其僕射張華・給事中宗正元入長安、送太樂伎一百二十人于姚興。興大悅、延華入讌。酒酣、樂作、興黃門侍郎尹雅謂華曰、「昔殷之將亡、樂師歸周。今皇秦道盛、燕樂來庭。廢興之兆、見于此矣」。華曰、「自古帝王、為道不同、權譎之理、會于功成。故老子曰、『將欲取之、必先與之。』今總章西入、必由余東歸、禍福之驗、此其兆乎」。興怒曰、「昔齊楚競辯、二國連師。卿小國之臣、何敢抗衡朝士」。華遜辭曰、「奉使之始、實願交歡上國、上國既遺小國之臣、辱及寡君社稷、臣亦何心、而不仰酬」。興善之、于是還超母妻。
1.義熙三年、追尊其父為穆皇帝、立其母段氏為皇太后、妻呼延氏為皇后。祀南郊、將登壇、有獸大如馬、狀類鼠而色赤、集于圓丘之側、俄而不知所在。須庾大風暴起、天地晝昏、其行宮羽儀皆振裂。超懼、密問其太史令成公綏、對曰、「陛下信用姦臣、誅戮賢良、賦斂繁多、事役殷苦所致也」。超懼而大赦、譴責公孫五樓等。俄而復之。是歲廣固地震、天齊水湧、井水溢、女水竭、河濟凍合、而澠水不冰。
超正旦朝羣臣于東陽殿、聞樂作、歎音佾不備、悔送伎于姚興、遂議入寇。其領軍韓𧨳諫曰、「先帝以舊京傾沒、戢翼三齊、苟時運未可、上智輟謀。今陛下嗣守成規、宜閉關養士、以待賦釁、不可結怨南鄰、廣樹仇隙」。超曰、「我計已定、不與卿言」。于是遣其將斛穀提・公孫歸等率騎寇宿豫、陷之、執陽平太守劉千載・濟陰太守徐阮、大掠而去。簡男女二千五百、付太樂教之。

1.『資治通鑑』巻一百十四では、義熙四年に繋年する。

訓読

超の母妻 既に先に長安に在り、姚興の拘ふる所と為り、超に稱藩せよと責め、太樂の諸伎を求め、若し可ならずんば、吳口千人を送らしむ。超 書を下して羣臣をして詳議せしむ。左僕射の段暉 議して曰く、「太上 楚に囚はるるも、高祖 迴(ま)げず。今 陛下 社稷を嗣守す。宜しく私親の故を以て統天の尊を降すべからず。又 太樂の諸伎 皆 是れ前世伶人にして、彼に與ふ可からず。使し風を移し俗を易ふるならば、宜しく吳口を掠めて之を與ふべし」と。尚書の張華曰く、「若し吳邊を侵掠せば、必ず鄰怨を成さん。此れ既に能く往かば、彼も亦た能く來たらん。兵 禍結を連ね、國の福に非ざるなり。昔 孫權 黎庶の命を重んじ、己を屈して以て魏に臣たり。惠施 子の頭を惜愛して、志を捨てて以て齊を尊ぶ。況んや陛下の慈德 秦に在り、方寸 崩亂す。宜しく暫らく大號を降し、以て至孝の情を申すべし。權變の道は、典謨の許す所なり。韓範の智能 物を迴り、辯は人を傾くに足る。昔 姚興と與に俱に秦の太子中舍人と為る。遣はして命を將し、號を降して和を修む可し。所謂 一人の下に屈して、萬人の上に申ぶるなり」と。超 大いに悅び、曰く、「張尚書 吾が心を得たり」と。範をして興に聘せしむ。長安に至るに及び、興 範に謂ひて曰く、「封愷 前に來たり、燕王 朕と與に禮に抗ふ。卿 至るに及ぶや、款然として附す。為(は)た春秋 小を以て大に事ふるの義に依るか。為(は)た當に專ら孝敬を以て母の為に屈するか」と。範曰く、「周爵の五等、公侯 品を異にし、小大の禮、因りて生ず。今 陛下 命世に龍興して、西秦に光宅す。本朝の主上 祖宗の遺烈を承け、鼎を東齊に定め、天曜を中分し、南面して並びて帝たり。聘を通じ好を結び、義は謙沖を尚ぶ。便ち矜誕に至り、苟し行人を折くことは、殊に吳晉 爭盟し、滕薛 競長するに似たり。恐らくは大秦の堂堂の盛を傷つけ、皇燕の巍巍の美を損ふ有り。彼我 俱に失はば、竊かに未だ之に安ぜず」と。興 怒りて曰く、「若し卿が言の如くんば、便ち是れ大小の為にして來たるに非ざるか」と。範曰く、「大小の義に由ると雖も、亦た寡君の純孝 重華に過ぐるに緣る。願はくは陛下 敬親の道を體し、霈然として愍みを垂れよ」と。興曰く、「吾 久しく賈生に見えず、自ら之に過ぐると謂へり。今 及ばず」と。是に於て範の為に舊交の禮を設け、平生を申敘す。範に謂ひて曰く、「燕王 此に在りしとき、朕 亦た之を見るに、風表 乃ち可けれども、機辯に於いて未だしなり」。範曰く、「大辯は訥が若し。聖人 之を美(よみ)す。況んや爾 日々龍のごとく潛して鳳のごとく戢し、光を和し塵を同にす。若使し日月を負ひて行かば、則ち繼天の業無し」と。興 笑ひて曰く、「使乎よ、延譽する者と謂ふ可し」と。範 間を承け逞說す。姚興 大いに悅び、範に千金を賜ひ、超の母妻を以て之を還すことを許す。慕容凝 梁父より姚興に奔り、興に言ひて曰く、「燕王 稱藩するは、本は德を推すに非ず。權に母の為に屈するのみ。古の帝王すら尚ほ師を興すに質を徵す。豈に虛しく其の母を還す可きか。母 若し一たび還らば、必ず復た臣たらざるなり。宜しく先に其の送伎を制し、然る後に之を歸らしむべし」と。興の意 乃ち變はり、使を遣はして超を聘す。超 其の僕射の張華・給事中の宗正元を遣はして長安に入らしめ、太樂の伎 一百二十人を姚興に送る。興 大いに悅び、華を延きて讌に入る。酒 酣にして、樂 作こる。興の黃門侍郎の尹雅 華に謂ひて曰く、「昔 殷の將に亡びんとするや、樂師 周に歸す。今 皇秦の道 盛にして、燕の樂 庭に來たる。廢興の兆、此に見はる」と。華曰く、「古の帝王より、道を為すは同じからず、權譎の理は、功成に會す。故に老子曰く、『將に之を取らんと欲さば、必ず先に之を與ふよ』と。今 總章 西に入らば、必ず由余 東に歸る。禍福の驗、此れ其の兆なるか」と。興 怒りて曰く、「昔 齊楚 辯を競ひ、二國 師を連ぬ。卿は小國の臣なり。何ぞ敢て朝士に抗衡するや」と。華 辭を遜りて曰く、「使を奉ずるの始め、實に上國に交歡せんことを願ふ。上國 既に小國の臣を遺(わす)れ、辱めは寡君の社稷に及ぶ。臣も亦た何の心ありて、而れども酬を仰ぐや」と。興 之を善とし、是に于て超の母妻を還す。
義熙三年、其の父を追尊して穆皇帝と為し、其の母の段氏を立てて皇太后と為し、妻の呼延氏を皇后と為す。南郊を祀り、將に登壇せんとするに、獸の大にして馬が如きもの有り、狀は鼠に類(に)て色は赤く、圓丘の側に集ひ、俄かにして所在を知れず。須庾にして大風 暴かに起り、天地 晝にして昏く、其の行宮の羽儀 皆 振裂す。超 懼れ、密かに其の太史令の成公綏に問ふに、對へて曰く、「陛下 姦臣を信用し、賢良を誅戮す。賦斂 繁多にして、事役の殷苦 致らしむる所なり」。超 懼れて大赦し、公孫五樓らを譴責す。俄かにして之を復す。是の歲に廣固 地震あり、天齊は水 湧き、井水は溢れ、女水は竭し、河濟は凍合し、而れども澠水 冰らず。
超 正旦に羣臣に東陽殿に朝し、樂作を聞き、音佾 備はらざるを歎き、伎を姚興に送りしことを悔ひ、遂に入寇せんことを議す。其の領軍の韓𧨳 諫めて曰く、「先帝 舊京 傾沒するを以て、翼を三齊に戢む。苟し時運 未だ可ならざれば、上智も謀を輟む。今 陛下 嗣ぎて成規を守る。宜しく關を閉ぢて士を養ひ、以て賦の釁を待つべし。怨を南鄰に結びて、廣く仇隙を樹つる可からず」と。超曰く、「我が計 已に定まれり、卿の言を與にせず」と。是に于て其の將の斛穀提・公孫歸らを遣はして騎を率ゐて宿豫を寇めしめ、之を陷し、陽平太守の劉千載・濟陰太守の徐阮を執へ、大いに掠して去る。男女二千五百を簡びて、太樂に付して之を教ふ。

現代語訳

慕容超の母と妻が以前から長安におり、姚興に拘束されており(人質とされ)、姚興が慕容超に称藩を迫った。(姚興は慕容超に)太楽の諸伎(宮廷音楽の演奏家)の引き渡しを求め、もし応じないならば、呉人の千人を遅れと言った。慕容超は文書を下して群臣に審議させた。左僕射の段暉は建議し、「太上(父親)が楚(項羽)に捕らわれても、高祖(劉邦)は志を曲げませんでした。いま陛下は社稷を継承し守っています。私的な親族を惜しむあまり天下を統率する偉業を損なってはいけません。また太楽の諸伎は前代における楽官にあたり、他国に譲るべきではありません。もし風俗を伝承し世を正すならば、呉人を誘拐して送って下さい」と言った。尚書の張華は、「もし呉(東晋)の辺境を侵略すれば、隣国との怨恨が生じます。自軍が攻撃できるということは、敵軍もまた襲来できることを意味します。軍事行動により禍いが連鎖するのは、国家の利益ではありません。むかし(三国呉の)孫権は万民の命を尊重し、己を屈して曹魏に臣従しました。恵施は子の頭を(石より)重いとし(『呂氏春秋』開春論 愛類篇)、志を捨てて斉を尊びました。まして陛下の慈徳(母と妻)が秦におり、御心が乱れています。一時的に(皇帝の)大号を降ろし、至孝の情を優先させなさい。臨機応変の外交術は、典籍も認めております。韓範のは智恵が万物にめぐり、弁舌は人を傾けることができます。むかし韓範は姚興とともに秦の太子中舎人となりました。韓範を使者として派遣し、君号を降格して和親を修めなさい。いわゆる一人の下に屈して、万人の上に伸びるという状況です」と言った。慕容超は大いに悦び、「張尚書はわが心を理解している」と言った。韓範を姚範への使者とした。長安に到着すると、姚興は韓範に、「さきに封愷が来たが、燕王は朕と礼をめぐって争った。あなたが来ると、打ち解けた様子で(後秦に)帰服した。さては小国が大国に仕えるという『春秋』の義に基づいたのか。もしくは親族を大切にして母のために身を屈したのか」と言った。 韓範は、「周王朝には五等爵があり、公や侯の等級が異なりました。小国と大国の礼は、その階層によって生じました。いま陛下は天命を受けて龍のように国家を興し、西の秦に徳の光を及ぼしています。本朝の主上(後燕の慕容超)は祖先の偉業を嗣ぎ、勢力を東の斉に定め、天の輝きを(後秦の姚興と)分割し、南面して皇帝として並立しています。使者を派遣して和親を通じ、謙遜の作法を大切にしています。誇って傲慢に振る舞い、使者を虐げるのは、ことさらに(春秋時代の)呉と晋が同盟相手を奪いあい、滕と薛が強さを競ったことに似ています。大いなる秦帝国の堂々たる威信を傷つけ、煌々たる燕帝国の高々とした美名を損ないます。二国ともに当を失することを、私はひそかに恐れます」と言った。姚興は怒って、「もしあなたの言うとおりなら、小国の使者として大国に服従に来たのではないのか」と言った。韓範は、「大国と小国の原理に基づくものではありますが、わが君主の純粋な孝心は重華(舜)すら凌ぎます。どうか陛下は親を大切にする(慕容徳の母を助ける)道を実現し、雨が注ぐように憐れみを垂れて下さい」と言った。 姚興は、「私は久しく賈生(諸侯王や匈奴との外交を論じた前漢の賈誼)に会うことがなく、私自身がこれに勝ると思っていたが、いま及ばないと気づいた」と言った。ここにおいて韓範のために旧交の礼を設け、共通の昔話をした。韓範に、「燕王(慕容超)がまだ秦の地にいたころ、朕は会ったことがある。風采は良かったが、弁論の機知はいまひとつだった」と言った。韓範は、「大いなる弁舌は口下手に似ており、聖人はこれを賛美しました。まして当時(慕容超は)潜った龍や羽を休めた鳳皇のように日々を過ごし、世俗に紛れて目立たぬようにしていました。もし日月を背にすれば、燕国の事業を継ぐことはできませんでした」と言った。姚興は笑って、「使者よ、あなたは祖国の名誉を高めるものであるな」と言った。韓範は次々と雄弁に話した。姚興は大いに悦び、韓範に千金を賜わり、慕容超の母と妻を返還することを許した。慕容凝が梁父から姚興のもとに逃げこみ、姚興に、「燕王が称藩したのは、帝王の徳を推したからではありません。かりそめに母を取り返すために屈服したに過ぎません。古の帝王すら軍隊を起こすときは人質を取りました。むざむざと慕容超の母を返還してはなりません。母親がもし帰還すれば、再び臣従を辞めるでしょう。どうかさきに燕国から伎人を送らせ、その後に母を帰還しなさい」と言った。姚興は考えが変化し、使者を送って慕容超に告げた。慕容超はその僕射の張華と給事中の宗正元を派遣して長安に入らせ、太楽の伎人一百二十人を姚興のもとに送った。姚興は大いに悦び、張華をまねいて酒宴を開いた。たけなわになり、音楽の演奏が始まった。姚興の黄門侍郎の尹雅は張華に、「むかし殷が亡びようとすると、楽師(楽官)は周に帰属した。いま煌々たる秦国の道は盛んであり、燕国の楽人がわが宮廷に移った。興廃の兆しが、ここに表れている」と言った。張華は、「古の帝王の時代から、道の実現は一様ではなく、権変の理は、実効性を優先します。ゆえに老子は、『これを奪おうと思えば、さきに与えよ』と言いました。いま総章(楽官)が西に入ったとしても、必ず(晋人で秦の穆公の事業を支えた)由余は東に帰る(秦国は衰える)でしょう。禍福の表れは、むしろその前兆ではありませんか」と言った。姚範は怒って、「むかし斉国と楚国は弁舌を競い、二国の軍は戦闘をくり返した。あなたは小国の臣であるにも拘わらず、わが朝廷の人士(尹雅)に張り合うのか」と言った。張華は言葉をへりくだらせ、「使者に任命された当初、上位の国に歓待して頂くことを期待いたしました。しかし上位の国は小国の臣を蔑ろにし、辱めがわが君主の社稷にまで及びました。私もまた、どうして慎ましく応対できましょうや」と言った。姚範は張華の言い分を認め、ここにおいて慕容超の母と妻を帰還させた。
義熙三年、その父を追尊して穆皇帝とし、母の段氏を皇太后に立て、妻の呼延氏を皇后とした。南郊で祭祀し、登壇しようとすると、馬のような大きな獣が出現し、形状はネズミに似てうて赤色で、円丘のそばに集まり、たちまち姿を消した。すぐに大風が起こり、天地は昼なのに暗くなり、慕容超の行宮の羽儀(旌旗)はみな震えて裂けた。慕容超は懼れ、ひそかに太史令の成公綏に質問すると、「陛下は姦臣を信任して用い、賢良を誅戮しました。課税は頻繁で重く、労役の負担のせいで(不吉なことが)起きたのです」と答えた。慕容超は懼れて大赦し、公孫五楼らを譴責した。しかしすぐに(五楼らの)地位を回復した。この年に広固で地震があり、天斉(泉の名)は水が湧き、井水が溢れ、女水は枯れ、黄河と済水は凍結し、しかし澠水は凍らなかった。
慕容超は元旦に群臣と東陽殿で朝見し、宮廷音楽を聞いたが、楽隊の列に欠員があることを嘆き、伎人を(後秦の)姚興に送ったことを後悔し、他国侵略を議論した。領軍の韓𧨳が諫めて、「先帝は旧京が傾覆したことを受け、三斉の地に雌伏しました。時運が巡ってこなければ、知恵者でも計画を中止します。いま陛下は国家を嗣いで秩序を守っておられます。どうぞ関所を閉じて兵士を養い、敵国の隙を待つべきです。南隣(東晋)から怨みを買い、仇敵を作ってはいけません」と言った。慕容超は、「私の考えはすでに決定した、あなたの言うことは聞かない」と言った。ここにおいて将の斛穀提と公孫帰らを派遣して騎兵を率いて宿豫を攻略し、ここを陥落させた。陽平太守の劉千載と済陰太守の徐阮を捕らえ、大いに略奪していった。男女二千五百人を選んで、太楽の配属として(演奏の)練習をさせた。

原文

時公孫五樓為侍中・尚書、領左衞將軍、專總朝政、兄歸為冠軍・常山公、叔父穨為武衞・興樂公。五樓宗親皆夾輔左右、王公內外無不憚之。
超論宿豫之功、封斛穀提等並為郡・縣公。慕容鎮諫曰、「臣聞懸賞待勳、非功不侯。今公孫歸結禍延兵、殘賊百姓、陛下封之。得無不可乎。夫忠言逆耳、非親不發。臣雖庸朽、忝國戚藩、輒盡愚款、惟陛下圖之」。超怒、不答、自是百僚杜口、莫敢開言。
尚書都令史王儼諂事五樓、遷尚書郎、出為濟南太守、入為尚書左丞、時人為之語曰、「欲得侯、事五樓」。
又遣公孫歸等率騎三千入寇濟南、執太守趙元、略男女千餘人而去。劉裕率師將討之、超引見羣臣于東陽殿、議距王師。公孫五樓曰、「吳兵輕果、所利在戰、初鋒勇銳、不可爭也。宜據大峴、使不得入、曠日延時、沮其銳氣。可徐簡精騎二千、循海而南、絕其糧運、別敕段暉率兗州之軍、緣山東下。腹背擊之、上策也。各命守宰、依險自固、校其資儲之外、餘悉焚蕩、芟除粟苗、使敵無所資。堅壁清野、以待其釁、中策也。縱賊入峴、出城逆戰、下策也」。超曰、「京都殷盛、戶口眾多、非可一時入守。青苗布野、非可卒芟。設使芟苗城守、以全性命、朕所不能。今據五州之強、帶山河之固、戰車萬乘、鐵馬萬羣、縱令過峴、至于平地、徐以精騎踐之、此成擒也」。賀賴盧苦諫、不從、退謂五樓曰、「上不用吾計、亡無日矣」。慕容鎮曰、「若如聖旨、必須平原用馬為便、宜出峴逆戰、戰而不勝、猶可退守。不宜縱敵入峴、自貽窘逼。昔成安君不守井陘之關、終屈于韓信。諸葛瞻不據束馬之嶮、卒擒于鄧艾。臣以為天時不如地利、阻守大峴、策之上也」。超不從。鎮出、謂韓𧨳曰、「主上既不能芟苗守嶮、又不肯徙人逃寇、酷似劉璋矣。今年國滅、吾必死之、卿等中華之士、復為文身矣」。超聞而大怒、收鎮下獄。乃攝莒・梁父二戍、修城隍、簡士馬、畜銳以待之。
其夏、王師次東莞、超遣其左軍段暉・輔國賀賴盧等六將步騎五萬、進據臨朐。俄而王師度峴、超懼、率卒四萬就暉等于臨朐、謂公孫五樓曰、「宜進據川源、晉軍至而失水、亦不能戰矣」。五樓馳騎據之。劉裕前驅將軍孟龍符已至川源、五樓戰敗而返。裕遣諮議參軍檀韶率銳卒攻破臨朐、超大懼、單騎奔段暉于城南。暉眾又戰敗、裕軍人斬暉。超又奔還廣固、徙郭內人入保小城、使其尚書郎張綱乞師于姚興。赦慕容鎮、進錄尚書・都督中外諸軍事。引見羣臣、謝之曰、「朕嗣奉成業、不能委賢任善、而專固自由、覆水不收、悔將何及。智士逞謀、必在事危、忠臣立節、亦在臨難、諸君其勉思六奇、共濟艱運」。鎮進曰、「百姓之心、係于一人。陛下既躬率六軍、身先奔敗、羣臣解心、士庶喪氣、內外之情、不可復恃。如聞西秦自有內難、恐不暇分兵救人、正當更決一戰、以爭天命。今散卒還者、猶有數萬、可悉出金帛・宮女、餌令一戰。天若相我、足以破賊。如其不濟、死尚為美、不可閉門坐受圍擊」。司徒慕容惠曰、「不然。今晉軍乘勝、有陵人之氣、敗軍之將、何以禦之。秦雖與勃勃相持、不足為患。且二國連橫、勢成脣齒、今有寇難、秦必救我。但自古乞援、不遣大臣則不致重兵、是以趙隸三請、楚師不出。平原一使、援至從成。尚書令韓範德望具瞻、燕秦所重、宜遣乞援、以濟時艱」。于是遣範與王蒲乞師于姚興。

1.「王薄」は、『資治通鑑』巻一百十五は「王蒲」に作る。

訓読

時に公孫五樓 侍中・尚書と為り、左衞將軍を領し、專ら朝政を總し、兄の歸 冠軍・常山公と為り、叔父の穨 武衞・興樂公と為る。五樓の宗親 皆 左右を夾輔し、王公の內外 之に憚らざるは無し。
超 宿豫の功を論じ、斛穀提らを封じて並びに郡・縣公と為す。慕容鎮 諫めて曰く、「臣 聞くらく懸賞は勳を待ち、功非ざれば侯とせず。今 公孫歸 禍を結び兵を延べ、百姓を殘賊するに、陛下 之を封ず。得て可ならざること無きか。夫れ忠言は耳に逆らひ、親に非ざれば發せず。臣 庸朽なると雖も、國の戚藩たるを忝くせば、輒ち愚款を盡す。惟だ陛下 之を圖れ」と。超 怒り、答へず、是より百僚 口を杜ざし、敢て言を開く莫し。
尚書都令史の王儼 五樓に諂事し、尚書郎に遷り、出でて濟南太守と為り、入りて尚書左丞と為る。時人 之の為に語りて曰く、「侯を得んと欲さば、五樓に事へよ」と。
又 公孫歸らを遣はして騎三千を率ゐて濟南に入寇し、太守の趙元を執へ、男女千餘人を略して去る。劉裕 師を率ゐて將に之を討たんとし、超 羣臣に東陽殿に引見し、王師を距ぐことを議す。公孫五樓曰く、「吳兵 輕果にして、利する所は戰ひに在り、初鋒は勇銳にして、爭ふ可からざるなり。宜しく大峴に據り、入るを得ざらしめ、日を曠くし時を延べ、其の銳氣を沮け。徐に精騎二千を簡び、海を循りて南し、其の糧運を絕つ可し。別に段暉に敕して兗州の軍を率ゐ、山に緣りて東下せしめよ。腹背に之を擊つは、上策なり。各々守宰に命じ、險に依りて自固し、其の資儲の外を校べ、餘は悉く焚蕩し、粟苗を芟除し、敵をして資する所無からしめよ。堅壁清野して、以て其の釁を待つは、中策なり。縱ひ賊 峴に入らば、城を出でて逆戰す、下策なり」と。超曰く、「京都 殷盛にして、戶口は眾多なり。一時すら入守す可きには非ず。青苗は野に布し、卒芟す可きには非ず。設使し苗を芟し城守して、以て性命を全するは、朕 能はざる所なり。今 五州の強に據り、山河の固を帶し、戰車は萬乘、鐵馬は萬羣あり。縱ひ峴を過ぎしめ、平地に至り、徐ろに精騎を以て之を踐まば、此れ擒と成すなり」と。賀賴盧 苦諫すれども、從はず、退きて五樓に謂ひて曰く、「上は吾が計を用ひず、亡ぶに日無し」と。慕容鎮曰く、「若し聖旨の如くんば、必ず須らく平原に馬を用ひて便と為すべし。宜しく峴を出でて逆戰すべし、戰ひて勝たざれば、猶ほ退守す可し。宜しく縱に敵をして峴に入らしめ、自ら窘逼を貽すべからず。昔 成安君 井陘の關を守らず、終に韓信に屈す。諸葛瞻 束馬の嶮に據らず、卒に鄧艾に擒はる。臣 以為へらく天の時は地の利に如かず。大峴を阻守するは、策の上なり」と。超 從はず。鎮 出で、韓𧨳に謂ひて曰く、「主上 既に苗を芟し嶮を守る能はず、又 人を徙して寇より逃ぐるを肯ぜず。酷きこと劉璋が似し。今年に國 滅び、吾 必ず之に死せん。卿ら中華の士は、復た文身と為らん」と。超 聞きて大いに怒り、鎮を收めて獄に下す。乃ち莒・梁父の二戍に攝し、城隍を修め、士馬を簡び、銳を畜ひて以て之を待つ。
其の夏、王師 東莞に次ぢ、超 其の左軍の段暉・輔國の賀賴盧ら六將の步騎五萬を遣はし、進みて臨朐に據らしむ。俄かにして王師 峴を度(わた)り、超 懼れ、卒四萬を率ゐて暉らを臨朐に就かしめ、公孫五樓に謂ひて曰く、「宜しく進みて川源に據るべし。晉軍 至りて水を失はば、亦た戰ふ能はざるなり」と。五樓 騎を馳せて之に據る。劉裕の前驅將軍の孟龍符 已に川源に至り、五樓 戰ひて敗れて返る。裕 諮議參軍の檀韶を遣はして銳卒を率ゐて攻めて臨朐を破り、超 大いに懼れ、單騎もて段暉に城南に奔る。暉の眾 又 戰ひて敗れ、裕の軍人 暉を斬る。超 又 奔りて廣固に還り、郭內の人を徙して入りて小城に保でせしめ、其の尚書郎の張綱を使はして師を姚興に乞はしむ。慕容鎮を赦し、錄尚書・都督中外諸軍事に進む。羣臣に引見し、之に謝りて曰く、「朕 成業を嗣奉するに、賢に委ね善を任ずる能はず、而れども專固して自ら由り、覆水 收めず、悔ゆるとも將た何ぞ及ばん。智士 謀を逞しくするは、必ず事の危ふきに在り、忠臣 節を立つるも、亦た難に臨むに在り。諸君 其れ勉めて六奇を思ひ、共に艱運を濟へ」と。鎮 進みて曰く、「百姓の心は、一人に係る。陛下 既に躬ら六軍を率ゐ、身ら先んじて敗に奔る。羣臣 心を解き、士庶は氣を喪ふ。內外の情、復た恃む可からず。如し西秦の自ら內難有るを聞かば、恐らく兵を分けて人を救ふに暇あらず。正に當に更めて一戰を決して、以て天命を爭ふべし。今 散卒の還る者は、猶ほ數萬有り、悉く金帛・宮女を出し、餌として一戰せしむ可し。天 若し我を相くれば、以て賊を破るに足る。如し其れ濟はざれば、死すら尚ほ美と為る、閉門して坐して圍擊を受く可からず」と。司徒の慕容惠曰く、「然らず。今 晉軍 勝に乘じ、陵人の氣有り。敗軍の將、何を以て之を禦がん。秦 勃勃と與に相 持すると雖も、患と為すに足らず。且つ二國 連橫し、勢は脣齒と成る。今 寇難有らば、秦 必ず我を救はん。但だ古より援を乞ふは、大臣を遣はさざれば則ち重兵を致さず。是を以て趙 三請を隸するも、楚師 出でず。平原の一使あらば、援 至りて從りて成らん。尚書令の韓範 德望 具瞻たりて、燕秦の重ずる所なり。宜しく遣はして援を乞ひ、以て時艱を濟ふべし」と。是に于て範を王薄を與に遣はして師を姚興に乞ふ。

現代語訳

このとき公孫五楼が侍中・尚書となり、左衛将軍を領し、専ら朝政を総覧した。兄の公孫帰が冠軍・常山公となり、叔父の公孫穨は武衛・興楽公となった。五楼の氏族はみなで左右を夾輔し、王公は内外ともに公孫氏を憚らないものはなかった。
慕容超は前代以来の功績を論じ、斛穀提らを封建して郡・県公とした。慕容鎮が諫めて、「聞きますに褒賞を与えるには勲功があるのを待ち、功績がなければ侯にしないと言います。いま公孫帰は禍いを起こして兵を連ね、百姓に残虐行為をしているのに、陛下はかれを封建しました。不適切ではありませんか。そもそも忠言は耳に逆らい、信頼関係がなければ発しません。私は凡庸な老いぼれですが、国家から藩屏の地位を頂いているので、愚かな真心を尽くしました。どうか陛下はお考え下さい」」と言った。慕容超は怒り、答えなかった。このことがあってから、百僚は口を閉ざし、あえて口を開くものがいなくなった。
尚書都令史の王儼は公孫五楼にへつらい、尚書郎に遷り、出ては済南太守、入りては尚書左丞となった。当時の人々はこれを見て、「侯を得たければ、五楼に迎合せよ」と言った。
また公孫帰らを派遣して三千騎を率いて済南に侵入し、太守の趙元を執らえ、男女千人あまりを略奪して去った。劉裕は軍を率いて討伐しようとした。慕容超は群臣と東陽殿で引見し、王師(劉裕の東晋軍)を防ぐことについて議論した。公孫五楼は、「呉兵は軽はずみで勇ましく、戦いを得意とします。最初に衝突するときは勇敢で鋭く、戦うのは不利です。大峴山を拠点に、敵軍が入って来られないようにし、日数を費やして、敵軍の鋭気を挫きなさい。おもむろに精騎二千を選抜し、海をめぐって南下し、敵軍の糧道を断つのがよいでしょう。別働隊として段暉に命じて兗州の軍を率い、山に沿って東下させなさい。腹背から挟み撃ちにするのが、上策であります。各地の守宰(郡県の長官)に命じ、険しい地形を利用して守りを固め、兵糧の備蓄を計算し、余剰はすべて焼き捨て、粟の苗を抜いて、敵軍による現地調達を防ぎなさい。堅壁清野によって、敵軍の弱みを待つのが、中策であります。もし賊が大峴山に入れば、城を出て迎撃しますが、それは下策であります」と言った。 慕容超は、「首都は殷賑しており、人口が多い。一時ですら敵軍を引き入れて防戦の舞台にしてはいけない。成育中の苗が野の広がり、刈り取ってはいけない。苗を刈り取って城を守り、国家の命脈を守ることを、朕はできない。いま五州の強兵を擁し、山河の堅固さを頼みにし、戦車は万乗、鉄馬は万羣がいる。もし(劉裕が)峴山を通過し、平地に到達したならば、おもむろに精騎で蹂躙し、捕虜にできる」と言った。賀頼盧がきつく諫めたが、従わなかった。(賀頼盧は)退いて五楼に、「主上はわが計略を用いなかった、滅亡の日は迫っている」と言った。慕容鎮は、「もし聖旨(陛下の考え)の通りならば、必ず平地で騎馬隊を使うのが有利なはずです。峴山から打って出て迎撃すべきです。戦って勝てなければ、退いて守ればよい。敵の好きなように峴山に入らせ、自軍を追い詰めてはいけません。むかし成安君(陳余)は井陘の関を守らなかったせいで、韓信に屈服しました。諸葛瞻は束馬の嶮に拠らなかったので、鄧艾の捕虜となりました。私の考えでは天の時は地の利に敵いません。大峴で食い止めて守るのが、策の上です」と言った。慕容超は従わなかった。慕容鎮は退出し、韓𧨳に、「主上は苗を刈り取らず険地を守らず、人民を移動させて敵軍から逃げることにも同意しない。ひどさは(後漢末の)劉璋のようだ。今年きっと国が亡び、私は死ぬだろう。きみたち中華の士は、(罪人として)入れ墨をされる」と言った。慕容超は聞きて大いに怒り、慕容鎮を捕らえて獄に下した。こうして莒と梁父の二つの防衛拠点を設け、城に空堀をもうけ、士馬を選び、鋭気を養って待ち受けた。
その夏、王師(劉裕の東晋軍)が東莞に停留すると、慕容超はその左軍の段暉・輔国の賀頼盧ら六将の歩騎五万を派遣し、進んで臨朐に拠らせた。にわかに王師が峴山を通過したので、慕容超は懼れ、兵四万を率いて段暉らを臨朐に向かわせ、公孫五楼に、「進んで川の水源に拠るように。晋軍が到着して(わが軍が)水を失えば、もう戦えなくなる」と言った。五楼は騎兵を馳せてそこに拠ろうとした。劉裕の前駆将軍の孟龍符がすでに水源地に到着しており、五楼は戦ったが敗れて帰った。劉裕は諮議参軍の檀韶を派遣して鋭兵を率いて臨朐を攻め破った。慕容超は大いに懼れ、単騎で段暉のいる城南に逃げこんだ。段暉の軍もまた戦って敗れ、劉裕軍の兵が段暉を斬った。慕容超はさらに逃げて広固に還り、城郭のなかの人を小城に移して籠もらせ、その尚書郎の張綱を派遣して援軍を(後秦の)姚興に要請した。慕容鎮を赦し、録尚書・都督中外諸軍事に昇進させた。群臣に引見し、彼らに謝って、「朕は立派な事業を継承したが、賢者に委ね善人を任命できず、もっぱら自分の判断だけに固執した。覆水は盆に返らず、後悔は先に立たない。智謀の志が謀略を思い付くのは、必ず危機に陥ったときであり、忠臣が節義を立てるのも、危難に臨んだときである。諸君はどうか六種の奇計を思い、ともに苦しい運命を救ってほしい」と言った。慕容鎮が進んで、「万民の心は、ひとり次第です。陛下はみずから六軍を率い、先に敗戦して逃げてきました。群臣の心が離れ、士庶は気概を失っています。内外の求心力は、もう宛てになりません。もし西秦の側に危機があるなら、恐らく兵を分けて援軍を出す余裕はないでしょう。改めて(南燕軍のみで)ひとたびの再決戦し、天命の有無を争うべきです。いま逃げ去った兵卒のうち、なおも数万が帰還しています。ことごとく金帛と宮女を供出し、これを褒賞として一戦させるべきです。天がもしわれらを助けるならば、賊を破ることができます。もし天が救わなくとも、戦って死ねば美事であります。閉門して包囲されるに任せてはいけません」と言った。司徒の慕容恵は、「そうではありません。いま晋軍は勝ちに乗じ、他人をしのぐ気迫があります。敗軍の将が、どうしてこれを防げましょうか。後秦は赫連勃勃と対峙していますが、それは懸念材料ではありません。二国(後秦と南燕)は同盟しており、形勢は唇歯の関係です。いまわが国が敵軍から攻撃を受ければ、後秦はきっとわが国を救うでしょう。ただし古から援軍を求めるならば、高位高官を派遣しないと大軍を呼ぶことはできません。ですから(戦国の)趙が三たび要請したとき、楚軍は援軍を出さなかったが、平原君が一たび使者になれば、援軍が成立しました。尚書令の韓範は徳望がそなわっており、燕でも秦でも重んじられています。かれを派遣して援軍を求め、時局の艱難を突破するのがよいでしょう」と言った。ここにおいて韓範を王薄をともに派遣して(後秦の)姚興に援軍を求めた。

原文

未幾、裕師圍城、四面皆合。人有竊告裕軍曰、「若得張綱為攻具者、城乃可得耳」。是月、綱自長安歸、遂奔于裕。裕令綱周城大呼曰、「勃勃大破秦軍、無兵相救」。超怒、伏弩射之、乃退。右僕射張華・中丞封愷並為裕軍所獲。裕令華・愷與超書、勸令早降。超乃遺裕書、請為藩臣、以大峴為界、并獻馬千匹、以通和好、裕弗許。江南繼兵相尋而至。尚書張俊自長安還、又降于裕、說裕曰、「今燕人所以固守者、外杖韓範、冀得秦援。範既時望、又與姚興舊昵、若勃勃敗後、秦必救燕、宜密信誘範、啗以重利、範來則燕人絕望、自然降矣」。裕從之、表範為散騎常侍、遺範書以招之。時姚興乃遣其將姚強率步騎一萬、隨範就其將姚紹于洛陽、并兵來援。會赫連勃勃大破秦軍、興追強還長安。範歎曰、「天其滅燕乎」。會得裕書、遂降于裕。裕謂範曰、「卿欲立申包胥之功、何以虛還也」。範曰、「自亡祖司空世荷燕寵、故泣血秦庭、冀匡禍難。屬西朝多故、丹誠無效、可謂天喪弊邑而贊明公。智者見機而作、敢不至乎」。翌日、裕將範循城、由是人情離駭、無復固志。裕謂範曰、「卿宜至城下、告以禍福」。範曰、「雖蒙殊寵、猶未忍謀燕」。裕嘉而不強。左右勸超誅範家、以止後叛。超知敗在旦夕、又弟𧨳盡忠無貳、故不罪焉。是歲東萊雨血、廣固城門鬼夜哭。
明年朔旦、超登天門、朝羣臣于城上、殺馬以饗將士、文武皆有遷授。超幸姬魏夫人從超登城、見王師之盛、握超手而相對泣。韓𧨳諫曰、「陛下遭百六之會、正是勉強之秋、而反對女子悲泣、何其鄙也」。超拭目謝之。其尚書令董銳勸超出降、1.董銳 超大怒、繫之于獄。于是賀賴盧・公孫五樓為地道出戰王師、不利。河間人玄文說裕曰、「昔趙攻曹嶷、望氣者以為澠水帶城、非可攻拔、若塞五龍口、城必自陷。石季龍從之、而嶷請降。後慕容恪之圍段龕、亦如之、而龕降。降後無幾、又震開之。今舊基猶在、可塞之」。裕從其言。至是、城中男女患腳弱病者太半。超輦而升城、尚書悅壽言于超曰、「天地不仁、助寇為虐、戰士尩病、日就凋隕、守困窮城、息望外援、天時人事、亦可知矣。苟曆運有終、堯舜降位、轉禍為福、聖達以先。宜追許鄭之蹤。以全宗廟之重」。超歎曰、「廢興、命也。吾寧奮劍決死、不能銜璧求生」。於是張綱為裕造衝車、覆以版屋、蒙之以皮、并設諸奇巧、城上火石弓矢無所施用。又為飛樓・懸梯・木幔之屬、遙臨城上。超大怒、懸其母而支解之。城中出降者相繼。裕四面進攻、殺傷甚眾、悅壽遂開門以納王師。超與左右數十騎出亡、為裕軍所執。裕數之以不降之狀、超神色自若、一無所言、惟以母託劉敬宣而已。送建康市斬之、時年二十六、在位六年。
德以安帝隆安四年僭位、至超二世、凡十一年、以義熙六年滅。

1.『資治通鑑』巻一百十五は、「銳」を「詵」に作る。

訓読

未だ幾もなくして、裕の師 城を圍み、四面 皆 合す。人の竊かに裕の軍に告ぐるもの有りて曰く、「若し張綱を得て攻具を為らば、城 乃ち得可きのみ」と。是の月、綱 長安より歸り、遂に裕に奔る。裕 綱をして城を周りて大呼せしめて曰く、「勃勃 大に秦軍を破り、兵の相 救ふ無し」と。超 怒り、弩を伏せて之を射て、乃ち退く。右僕射の張華・中丞の封愷 並びに裕の軍の獲ふる所と為る。裕 華・愷をして超に書を與へ、早く降らんことを勸めしむ。超 乃ち裕に書を遺り、藩臣と為り、大峴を以て界と為し、并せて馬千匹を獻じ、以て和好を通ぜんことを請ふに、裕 許さず。江南 兵を繼ぎて相 尋いで至る。尚書の張俊 長安より還り、又 裕に降る。裕に說きて曰く、「今 燕人 固守する所以は、外は韓範に杖り、秦の援を得んことを冀ふ。範 既に時望にして、又 姚興と舊昵なり。若し勃勃 敗るるの後、秦 必ず燕を救はん。宜しく密信もて範を誘ひ、啗するに重利を以てせよ。範 來たらば則ち燕人 絕望し、自然と降らん」と。裕 之に從ひ、範を表して散騎常侍と為し、範に書を遺はして以て之を招く。時に姚興 乃ち其の將の姚強を遣はして步騎一萬を率ゐ、範に隨ひて其の將の姚紹に洛陽に就き、兵を并せて來援す。會々赫連勃勃 大いに秦軍を破り、興 強を追ひて長安に還る。範 歎じて曰く、「天 其れ燕を滅さんや」と。會々裕の書を得て、遂に裕に降る。裕 範に謂ひて曰く、「卿 申包胥の功を立てんと欲するに、何を以て虛しく還るか」と。範曰く、「亡祖の司空より世々燕の寵を荷ひ、故に血を秦の庭に泣し、禍難を匡さんと冀ふ。西朝の多故なるに屬ひ、丹誠 效無し。天 弊邑を喪して明公を贊すと謂ふ可し。智者は機を見て作す、敢て至らざるや」と。翌日、裕 範を將ゐて城を循り、是に由りて人情は離駭し、復た志を固むる無し。裕 範に謂ひて曰く、「卿 宜しく城下に至り、告ぐるに禍福を以てすべし」と。範曰く、「殊寵を蒙ると雖も、猶ほ未だ燕を謀るに忍びず」と。裕 嘉して強ひず。左右 超に範の家を誅して、以て後叛を止むること勸む。超 敗 旦夕に在るを知り、又 弟の𧨳 忠を盡すこと無貳なれば、故に焉を罪せず。是の歲に東萊 血を雨り、廣固の城門に鬼 夜に哭くあり。
明年の朔旦に、超 天門に登り、羣臣に城上に朝し、馬を殺して以て將士を饗し、文武 皆 遷授有り。超の幸姬の魏夫人 超に從ひて城に登り、王師の盛なるを見て、超の手を握りて相 對して泣く。韓𧨳 諫めて曰く、「陛下 百六の會に遭ひ、正に是れ勉強の秋なり、而れども反りて女子の悲泣に對す、何ぞ其れ鄙ならんや」と。超 目を拭ひて之を謝る。其の尚書令の董銳 超に出でて降らんことを勸むるに、超 大いに怒り、之を獄に繫ぐ。是に于て賀賴盧・公孫五樓 地道を為りて出でて王師と戰ふも、利あらず。河間の人の玄文 裕に說きて曰く、「昔 趙 曹嶷を攻め、望氣者 以為へらく澠水 城に帶び、攻拔す可きに非ず。若し五龍口を塞がば、城 必ず自ら陷ちんと。石季龍 之に從ひ、而れども嶷 降らんことを請ふ。後に慕容恪の段龕を圍むや、亦た之の如くして、而して龕 降る。降る後に幾も無く、又 震 之を開く。今 舊基 猶ほ在あり、之を塞ぐ可し」と。裕 其の言に從ふ。是に至り、城中の男女 腳を患ひ弱病なる者 太半なり。超の輦 城に升るに、尚書の悅壽 超に言ひて曰く、「天地 仁ならず、寇を助けて虐を為し、戰士 尩病し、日ごとに凋隕に就き、困を窮城に守り、外援を望むを息ましむ。天時・人事、亦た知る可きなり。苟も曆運 終り有らば、堯舜 位を降り、禍を轉じて福と為し、聖達 以て先んずるなり。宜しく許鄭の蹤を追ひて、以て宗廟の重を全すべせい」と。超 歎じて曰く、「廢興は、命なり。吾 寧ろ劍を奮ひて決死すとも、璧を銜みて生を求む能はず」と。是に於て張綱 裕の為に衝車を造り、覆ふに版屋を以てし、之を蒙ふに皮を以てし、并せて諸々の奇巧を設け、城上の火石弓矢 施用する所無し。又 飛樓・懸梯・木幔の屬を為り、遙かに城上に臨む。超 大いに怒り、其の母を懸けて之を支解す。城中より出でて降る者 相 繼ぐ。裕 四面に進攻し、殺傷すること甚だ眾く、悅壽 遂に門を開きて以て王師を納る。超 左右の數十騎と與に出でて亡げ、裕の軍の執ふる所と為る。裕 之を數むるに降らざるの狀を以てするも、超 神色は自若たりて、一に言ふ所無く、惟だ母を以て劉敬宣に託すのみ。建康の市に送りて之を斬り、時に年二十六、在位すること六年なり。
德 安帝の隆安四年を以て僭位し、超に至るまで二世、凡そ十一年、義熙六年を以て滅ぶ。

現代語訳

ほどなく、劉裕の軍が城を囲み、すっかり四面の包囲が固められた。秘かに劉裕の軍に告げたものがいて、「もし張綱を引き入れて攻城兵器を作れば、城を獲得できます」と言った。この月、張綱が長安から帰り、劉裕のもとに逃げこんだ。劉裕は張綱に城壁をめぐって大声で呼ばわり、「赫連勃勃が大いに秦軍を破った、救援の兵はもう来ないぞ」と言った。慕容超は怒り、弩を伏せてかれを射たので、後方に退いた。右僕射の張華と中丞の封愷が二人とも劉裕の軍の捕らえられた。劉裕は張華と封愷に慕容超への書簡を書かせ、早急に降服せよと勧めた。慕容超は劉裕に返書し、(東晋の)藩臣となり、大峴山を境界とし、馬千匹を献上するから、和親を通じたいと要請したが、劉裕は許さなかった。江南(東晋)の後続の軍が続々と到着した。尚書の張俊は長安から還り、かれも劉裕に降った。張俊が劉裕に説くには、「いま燕人(慕容超)が堅守する理由は、外は韓範を頼みにし、秦からの援軍を期待しているからです。韓範は当世の名望家であり、また姚興と旧知の仲です。もしも赫連勃勃が敗れたら、秦はきっと燕を救うでしょう。内密に書簡を送って韓範を誘い、大きな利益で釣って陥れなさい。韓範が(東晋軍に)来たならば燕人は絶望し、おのずと降服するでしょう」と言った。劉裕はこれに従い、韓範を上表して散騎常侍とし、韓範に書簡を送って招いた。このとき(後秦の)姚興はその将の姚強を派遣して歩騎一万を率いさせ、韓範に随ってその将の姚紹を洛陽に向かわせ、兵を合わせて(南燕の)救援に向かった。たまたま赫連勃勃が大いに後秦軍を破ったので、姚興は姚強を追って長安に還った。韓範は歎じて、「天は燕を滅すというのか」と言った。同じころ劉裕の書簡が届いて、劉裕に降服した。劉裕は韓範に、「あなたは(祖国に援軍を呼び込む)申包胥のような功績を立てようとしながら、どうして虚しく帰還したのか」と言った。韓範は、「亡き祖父の司空より代々燕国の恩寵を受け、ゆえに秦の地で血の涙を流し、祖国の危機を救おうと願っていました。しかし西朝(援軍を期待した後秦)が多難であり、真心を実現できませんでした。天がわが国(南燕)を消滅させて明公(劉裕)に味方したと言えましょう。智者は時節をみて行動を起こします。投降しないことなどありましょうか」と言った。翌日、劉裕は韓範をつれて城壁をめぐり、これを見て城内の人心は離れ驚き、動揺が抑えられなくなった。劉裕は韓範に、「城壁の下に行き、禍福を告げてこい」と言った。韓範は、「(劉裕から)特別な恩寵を受けましたが、それでも(祖国の)南燕を計略にかけるのは忍びありません」と言った。劉裕は褒めたたえて強制しなかった。側近たちは慕容超に韓範の家族を殺し、これ以上の離叛を防止するように勧めた。慕容超は敗北が旦夕に迫っていると悟り、また弟の韓𧨳が無二の忠誠を尽くしたので、韓範の家族を咎めなかった。この年に東萊で血の雨が降り、広固の城門で夜に死者が泣いた。
翌年の元旦に、慕容超は天門に登り、群臣に城壁の上から朝見し、馬を殺して将軍に振る舞い、文武の官に異動や任命をした。慕容超の寵姫の魏夫人は慕容超に従って城門に登り、王師(劉裕の東晋軍)が盛んなのを見て、慕容超の手を取りあって泣いた。韓𧨳が諫めて、「陛下は百六の会(災厄)に巡りあい、まさに忍耐と努力の時期です。しかし却って女子と向きあって泣くとは、なんとひどいことですか」と言った。慕容超は目をぬぐって謝った。その尚書令の董鋭は慕容超に城を出て降服することを勧めたが、慕容超は大いに怒り、董鋭を獄に繫いだ。ここにおいて賀頼盧・公孫五楼は地下道を作って出撃して王師と戦ったが、勝てなかった。河間の人の玄文が劉裕に説いて、「むかし後趙が曹嶷を攻めたとき、望気者の見立てで、澠水が城に沿って流れており、攻め落とせない、もし五龍口を塞げば、城は自ずから陥落すると言いました。石季龍がこれに従った結果、曹嶷は降服を申し出ました。のちに慕容恪が段龕を包囲すると、同じ方法により、段龕は降服しました。降服して間もなく、また地震があって流れが再開しました。いま先年の工事の基礎が残っているので、五龍口を塞ぐべきです」と言った。劉裕はその言に従った。ここに至り、城中の男女は足を患って衰弱するものが大半となった。慕容超の輦(手車)が城壁に登ったとき、尚書の悦寿は慕容超に、「天地は仁でない、寇賊を助けて残虐に手を貸し、戦士は足なえの病気となり、日ごとに衰弱しています。孤立した城を守りて追い詰められ、外からの救援の希望を絶たれれました。天の時と人の事を、悟るべきです。もしも天の暦数が極まったならば、尭舜ですら位を降りました。禍いを転じて福となし、聖なる賢者は先んじて実行するのです。どうぞ(君位を辞退した)許由や鄭氏(¥)を踏襲し、大切な宗廟を保全させなさい」と言った。慕容超は歎じて、「興廃は、天命である。私は剣を振るって死戦を挑むことがあっても、璧をくわえて命乞いはできない」と言った。ここにおいて張綱は劉裕のために(攻城兵器の)衝車を造り、上面を版屋でおおい、表面に皮をかぶせ、さまざまな特殊機構を設けたので、城壁の上からの火石や弓矢が通用しなかった。また飛楼・懸梯・木幔の類いを作ったが、これが遥か城壁の上から見えた。慕容超は大いに怒り、張綱の母を吊り下げて手足を切り落とした。城中から出て降服する者が相次いだ。劉裕は四方面から同時進攻し、殺傷者がとても多かった。悦寿はついに門を開いて王師を入れた。慕容超は左右の数十騎とともに逃げたが、劉裕の軍に捕らえられた。劉裕は降服しなかったことを問い詰めたが、慕容超の態度は泰然とし、一言も述べず、ただ母を劉敬宣に託しただけだった。建康の市に送りて慕容超を斬り、このとき二十六歳で、在位すること六年であった。
慕容徳は安帝の隆安四年に帝位を僭称し、慕容超に至るまで二世、十一年間で、義熙六年に滅亡した。

慕容鍾

原文

慕容鍾字道明、德從弟也。少有識量、喜怒不形于色、機神秀發、言論清辯。至于臨難對敵、智勇兼濟、累進奇策、德用之頗中。由是政無大小、皆以委之、遂為佐命元勳。後公孫五樓規挾威權、慮鍾抑己、因勸超誅之、鍾遂謀反。事敗、奔于姚興、興拜始平太守・歸義侯。

訓読

慕容鍾 字は道明、德の從弟なり。少くして識量有り、喜怒 色に形さず、機神は秀發にして、言論は清辯たり。難に臨み敵に對するに至り、智勇 兼濟し、累りに奇策を進め、德 之を用ふれば頗る中たる。是に由り政は大小と無く、皆 以て之に委ね、遂に佐命の元勳と為る。後に公孫五樓 威權を挾まんと規るや、鍾の己を抑ふるを慮り、因りて超に之を誅せんことを勸め、鍾 遂に謀反す。事 敗れ、姚興に奔り、興 始平太守・歸義侯を拜す。

現代語訳

慕容鍾は字を道明といい、慕容徳の従弟である。若くして見識があり、喜怒を顔に出さず、風采が秀でて優れ、言論は清らかで明解であった。苦難に臨み敵軍と対峙すると、智勇を兼ね備え、いくども奇策を進言し、慕容徳がこれを採用すれば必ず的中した。これにより政事は事案の大小となく、すべて慕容鍾に委ね、かくして佐命の元勲となった。のちに公孫五楼が威権を掌握しようとし、慕容鍾に押さえ込まれることを嫌い、慕容超に慕容鍾を誅殺するように勧めたので、慕容鍾は謀反に踏み切った。失敗して、姚興のもとに逃げ、姚興は慕容鍾を始平太守・帰義侯に拝した。

封孚

原文

封孚字處道、渤海蓨人也。祖悛、振威將軍。父放、慕容暐之世吏部尚書。孚幼而聰敏和裕、有士君子之稱。寶僭位、累遷吏部尚書。及蘭汗之篡、南奔辟閭渾、渾表為渤海太守。德至莒城、孚出降。德曰、「朕平青州、不以為慶、喜于得卿也」。常外總機事、內參密謀、雖位任崇重、謙虛博納、甚有大臣之體。及超嗣位、政出權嬖、多違舊章、軌憲日頹、殘虐滋甚、孚屢盡匡救、超不能納也。後臨軒謂孚曰、「朕于百王可方誰」。孚對曰、「桀紂之主」。超大慚怒。孚徐步而出、不為改容。司空鞠仲失色、謂孚曰、「與天子言、何其亢厲、宜應還謝」。孚曰、「行年七十、墓木已拱、惟求死所耳」。竟不謝。以超三年死于家、時年七十一。文筆多傳于世。

訓読

封孚 字は處道、渤海蓨の人なり。祖の悛は、振威將軍なり。父の放は、慕容暐の世に吏部尚書たり。孚 幼くして聰敏和裕にして、士君子の稱有り。寶 僭位するや、累りに吏部尚書に遷る。蘭汗の篡するに及び、南して辟閭渾に奔り、渾 表して渤海太守と為す。德 莒城に至るや、孚 出でて降る。德曰く、「朕 青州を平らぐるに、以て慶と為さず、卿を得るを喜ぶなり」と。常に外に機事を總べ、內に密謀に參じ、位任 崇重なると雖も、謙虛にして博く納れ、甚だ大臣の體有り。超 位を嗣ぐに及び、政は權嬖より出で、多く舊章に違ひ、軌憲は日々頹れ、殘虐 滋々甚し。孚 屢々匡救を盡すも、超 能く納れざるなり。後に軒に臨みて孚に謂ひて曰く、「朕 百王に于て誰に方ぶ可きか」と。孚 對へて曰く、「桀紂の主なり」と。超 大いに慚怒す。孚 徐ろに步いて出で、為に容を改めず。司空の鞠仲 色を失ひ、孚に謂ひて曰く、「天子の言に、何ぞ其れ亢厲するや。宜しく應に還りて謝るべし」と。孚曰く、「行年七十、墓木 已に拱す。惟だ死する所を求むるのみ」と。竟に謝らず。超の三年を以て家に死し、時に年七十一なり。文筆 多く世に傳はる。

現代語訳

封孚は字は処道といい、渤海蓨の人である。祖父の封悛は、振威将軍である。父の封放は、慕容暐の世に吏部尚書となった。封孚は幼いときから聡明で和やかでゆったりとし、士君子として称された。慕容宝が僭位すると、しきりに吏部尚書に遷った。蘭汗が簒位すると、南下して辟閭渾のもとを頼り、辟閭渾は上表して渤海太守とした。慕容徳が莒城に至ると、封孚は(渤海の城を)出て降服した。慕容徳は、「朕は青州を平定した。平定したことをを慶びとは思わないが、あなたを得たことが喜びである」と言った。つねに外で機密を総括し、内で密謀に参与し、席次や官位が高く重かったが、謙虚で広く意見を聞き、立派な臣としての風格があった。慕容超が位を嗣ぐと、政治で寵臣が用いられ、多く先例に逆らい、統治の秩序は日々に廃れ、残虐さが益々悪化した。封孚はしばしば是正や救済をしようと尽力したが、慕容超は聞き入れることができなかった。のちに(慕容超が)軒に臨んで(座を離れて平台に御し)封孚に、「朕は百王のなかで誰に比較されるか」と言った。封孚は答えて、「夏の桀王や殷の紂王の類いの君主です」と言った。慕容超は大いに恥じて怒った。封孚は徐ろに立ち去り、(君主の怒りを買っても)顔色を変えなかった。司空の鞠仲が血相を変えて、封孚に、「天子の言葉に、どうして強硬に逆らったのか。引き返して謝罪しなさい」と言った。封孚は、「私は七十歳となり、すでに墓木を抱えている。ただ死に場所を求めるのみだ」と言った。最後まで謝らなかった。慕容超の三年に自家で死に、このとき七十一歳であった。文筆が多く世に伝わった。

原文

史臣曰、慕容德以季父之親、居鄴中之重、朝危未聞其節、君存遽踐其位、豈人理哉。然稟俶儻之雄姿、韞從橫之遠略、屬分崩之運、成角逐之資、跨有全齊、竊弄神器、撫劍而爭衡秦魏、練甲而志靜荊吳、崇儒術以弘風、延讜言而勵己、觀其為國、有足稱焉。
超繼已成之基、居霸者之業、政刑莫恤、畋游是好、杜忠良而讒佞進、暗聽受而勳戚離、先緒俄穨、家聲莫振、陷宿豫而貽禍、啟大峴而延敵、君臣就虜、宗廟為墟。迹其人謀、非不幸也。
贊曰、德實姦雄、轉敗為功、奄有青土、淫名域中。超承偽祚、撓其國步。廟失良籌、庭悲霑露。

訓読

史臣曰く、慕容德 季父の親を以て、鄴中の重に居り、朝 危ふけれども未だ其の節を聞かず、君 存するに遽かに其の位を踐む。豈に人の理なるや。然れども俶儻の雄姿を稟け、從橫の遠略を韞(をさ)め、分崩の運に屬ひ、角逐の資を成し、全齊を跨有し、神器を竊弄し、劍を撫して衡を秦魏に爭ひ、甲を練りて荊吳を靜めんと志し、儒術を崇ぶに弘風を以てし、讜言を延て己を勵す。其の國を為むるを觀るに、稱するに足る有り。
超 已成の基を繼ぎ、霸者の業に居るに、政刑 恤み莫く、畋游 是れ好み、忠良を杜(と)ぢて讒佞 進み、聽受に暗くして勳戚 離れ、先緒 俄かに穨れ、家聲 振ふ莫く、宿豫に陷りて禍を貽(のこ)し、大峴を啟きて敵を延べ、君臣 虜に就き、宗廟 墟と為る。其の人謀を迹(かんが)ふるに、不幸に非ざるなり。
贊に曰く、德は實に姦雄なり、敗を轉じて功と為し、青土を奄有し、名を域中に淫りにす。超 偽祚を承け、其の國步を撓(みだ)す。廟は良籌を失ひ、庭は霑露に悲しむ。

現代語訳

史臣はいう、慕容徳は季父という血縁により、鄴城のなかで重職におり、朝廷が危機となってもその節義を果たさず、君主がいるにも拘わらず自分が即位した。人としての理があるのだろうか。しかし才気にめぐまれ、外交の遠大な計略を採用し、国家が分裂し崩れた時期にめぐりあい、闘争に勝ち抜いて、斉の全域を支配し、神器を盗み弄び、剣を手にして後秦や北魏と覇権を争い、鎧を固めて荊や呉(桓玄や東晋)を静めようと志し、寛大な気風で儒学を尊重し、讒言を遠ざけて己を励ました。その国の統治を見るに、称賛に値する。
慕容超は完成された国家を継承し、霸者の事業を預かったが、政治と刑罰に憐れみがなく、狩猟を好み、忠良なことばを排除して讒言や佞言を進め、意見を聞き入れないので建国の功臣や親族が離れ、先代からの事業が崩壊し、一家の名望が振るわず、宿豫県で危機に陥って禍いを残し、大峴山で敵を勢いづかせ、君臣は捕虜となり、宗廟は廃墟となった。その人となりや考えかに照らせば、(滅亡は当然の結果で)不幸ではない。
賛にいう、慕容徳はまことに姦雄であり、敗北を転じて勲功とし、青州の地を領有し、名望を領内でむさぼった。慕容超は不当な帝国を継承し、国家の命運を乱した。廟算はすぐれた謀略を失い、宮廷が露に濡れたことを悲しんだ。