いつか読みたい晋書訳

晋書_載記第三十巻_夏_赫連勃勃

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
主催者による翻訳です。『晋書』の最終巻に何が書いてあるのか気になるため、先取りして着手しました。ここに書かれている赫連夏という国は、「北魏になり損ねた」集団です。赫連勃勃の理解にあたっては、以下の電子書籍(PDF)が参考になりました。
徐冲(板橋暁子・訳)「赫連勃勃―「五胡十六国」史への省察を起点として」(勉誠出版)
http://e-bookguide.jp/item_peace/bs5852267903/

赫連勃勃

原文

赫連勃勃字1.(屈子)〔屈孑〕、匈奴右賢王去卑之後、劉元海之族也。2.曾祖武、劉聰世以宗室封樓煩公、拜安北將軍・監鮮卑諸軍事・丁零中郎將、雄據肆盧川。為代王猗盧所敗、遂出塞表。祖豹子招集種落、復為諸部之雄、石季龍遣使就拜平北將軍・左賢王・丁零單于。父衞辰入居塞內、苻堅以為西單于、督攝河西諸虜、屯于代來城。及堅國亂、遂有朔方之地、控弦之士三萬八千。後魏師伐之、辰令其子3.力俟提距戰、為魏所敗。魏人乘勝濟河、克代來、執辰殺之。勃勃乃奔于叱干部。叱干他斗伏送勃勃于魏。他斗伏兄子阿利先戍大洛川、聞將送勃勃、馳諫曰、「鳥雀投人、尚宜濟免、況勃勃國破家亡、歸命于我。縱不能容、猶宜任其所奔。今執而送之、深非仁者之舉。」他斗伏懼為魏所責、弗從。阿利潛遣勁勇篡勃勃于路、送于姚興高平公沒奕于、奕于以女妻之。
勃勃身長八尺五寸、腰帶十圍、性辯慧、美風儀。興見而奇之、深加禮敬、拜驍騎將軍、加奉車都尉、常參軍國大議、寵遇踰于勳舊。興弟邕言于興曰、「勃勃天性不仁、難以親近。陛下寵遇太甚、臣竊惑之。」興曰、「勃勃有濟世之才、吾方收其藝用、與之共平天下、有何不可。」乃以勃勃為安遠將軍、封陽川侯、使助沒奕于鎮高平、以三城・朔方雜夷及衞辰部眾三萬配之、使為伐魏偵候。姚邕固諫以為不可。興曰、「卿何以知其性氣。」邕曰、「勃勃奉上慢、御眾殘、貪暴無親、輕為去就、寵之踰分、終為邊害。」興乃止。頃之、以勃勃為持節・安北將軍・五原公、配以三交五部鮮卑及雜虜二萬餘落、鎮朔方。時4.河西鮮卑杜崘獻馬八千匹于姚興、濟河、至大城、勃勃留之、召其眾三萬餘人偽獵高平川、襲殺沒奕于而并其眾、眾至數萬。

1.中華書局本に従い、「屈子」を「屈孑」に改める。
2.『魏書』に劉虎伝があり、曾祖父の名は「虎」が正しい。唐代の忌避。
3.『魏書』劉虎伝・『資治通鑑』巻一〇七は「直力鞮」に作る。
4.「河西鮮卑杜崘」は、『資治通鑑』巻一一四は「柔然可汗社崘」に作る。司馬光が「柔然」とした根拠は不明であり、また姓名は「杜崘」でなく「社崘」が正しいという。

訓読

赫連勃勃 字は屈孑、匈奴の右賢王たる去卑の後にして、劉元海の族なり。曾祖の武、劉聰が世に宗室たるを以て樓煩公に封じ、安北將軍・監鮮卑諸軍事・丁零中郎將を拜し、肆に盧川に雄據す。代王猗盧の為に敗られ、遂に塞表に出づ。祖の豹子 種落を招集し、復た諸部の雄と為り、石季龍 使を遣はして就ち平北將軍・左賢王・丁零單于を拜す。父の衞辰 入りて塞內に居し、苻堅 以て西單于と為し、河西の諸虜を督攝し、代來城に屯す。堅の國 亂るるに及び、遂に朔方の地を有ち、控弦の士三萬八千なり。後に魏師 之を伐ち、辰 其の子たる力俟提をして距戰せしめ、魏に為に敗らる。魏人 勝に乘じて河を濟り、代來に克ち、辰を執へて之を殺す。勃勃 乃ち叱干部に奔る。叱干他斗伏 勃勃を魏に送る。他斗伏が兄の子たる阿利 先より大洛川に戍し、將に勃勃を送らんとするを聞き、馳せて諫めて曰く、「鳥雀 人に投じて、尚ほ宜しく濟免すべし、況んや勃勃 國は破れて家は亡し、命を我に歸するをや。縱ひ能く容れざるとも、猶ほ宜しく其の奔る所に任すべし。今 執へて之を送るは、深く仁者の舉に非ざるなり」と。他斗伏 魏の為に責めらるるを懼れ、從はず。阿利 潛かに勁勇を遣はして勃勃を路に篡ひ、姚興が高平公の沒奕于に送り、奕于 女を以て之に妻らす。
勃勃は身長八尺五寸、腰帶は十圍、性は辯慧にして、風儀美たり。興 見て之を奇とし、深く禮敬を加へ、驍騎將軍を拜し、奉車都尉を加へ、常に軍國の大議に參ぜしめ、寵遇 勳舊を踰ゆ。興が弟邕 興に言ひて曰く、「勃勃 天性は不仁にして、以て親近し難し。陛下 寵遇 太だ甚し、臣 竊かに之に惑ふ」と。興曰く、「勃勃 濟世の才有り、吾 方に其の藝用を收め、之と與に共に天下を平らげん、何ぞ不可なること有るか」と。乃ち勃勃を以て安遠將軍と為し、陽川侯に封ず、沒奕于を助けて高平に鎮せしめ、三城・朔方の雜夷及び衞辰の部眾三萬を以て之に配し、魏を伐つ為に偵候せしむ。姚邕 固く諫めて以て不可と為す。興曰く、「卿 何を以て其の性氣を知るか」と。邕曰く、「勃勃 奉ること上慢にして、眾を御すること殘なり、貪暴にして親無く、輕々しく去就を為す、之を寵して分を踰へ、終に邊害と為らん」と。興 乃ち止む。頃之、勃勃を以て持節・安北將軍・五原公と為し、配するに三交五部の鮮卑及び雜虜二萬餘落を以てし、朔方に鎮せしむ。時に河西鮮卑の杜崘 馬八千匹を姚興に獻じ、河を濟り、大城に至り、勃勃 之を留め、其の眾三萬餘人を召して偽りて高平川に獵し、襲ひて沒奕于を殺して其の眾を并せ、眾 數萬に至る。

現代語訳

赫連勃勃は字を屈孑といい、匈奴の右賢王である去卑の子孫であり、劉元海と同族である。曾祖父の劉武(劉虎)は、劉聡の時代に宗室として楼煩公に封ぜられ、安北将軍・監鮮卑諸軍事・丁零中郎将を拝し、ほしいままに盧川に割拠した。代王の猗盧に敗北し、塞外(長城の外側)に出た。祖父の劉豹子は(匈奴の)集落を招集し、諸部の英雄となり、(後趙の)石季龍が使者を送って平北将軍・左賢王・丁零単于を拝した。父の衛辰は塞内に居住し、(前秦の)苻堅が西単于とし、河西の各種の胡族を統括し、代来城に駐屯した。苻堅の国が乱れると、朔方の地を領有し、三万八千人の控弦の士を率いた。のちに北魏の軍から討伐を受け、衛辰は子の力俟提(直力鞮)に防戦をさせたが、敗北した。魏人は勝ちに乗じて河をわたり、代来城を陥落させ、衛辰を捕らえて殺した。勃勃は叱干部のもとに逃げ込んだ。叱干の他斗伏は勃勃を北魏に送還した。他斗伏の兄の子である阿利は以前から大洛川を守っていたが、勃勃の引き渡しを聞き、馳せて諫め、「鳥雀が飛び込んできたら、逃がしてやるものだ、まして勃勃は国が破れて家が滅び、われらを頼ってきた。受け入れてやれずとも、好きに逃がしてやれ。捕らえて送還するのは、仁者の行いではない」と言った。他斗伏は北魏からの追及を恐れ、従わなかった。阿利はひそかに強兵を送って勃勃を道中で奪い、(後秦の)姚興の高平公である没奕于のもとに送り、没奕于は娘を勃勃に嫁がせた。
勃勃の身長は八尺五寸、胴周りは十囲あり、聡明で弁が立ち、風采が美しかった。姚興は会って気に入り、深く礼節と敬意を表し、驍騎将軍を拝し、奉車都尉を加え、常に軍国の重要な会議に出席させ、寵愛が旧来の功臣を超えた。姚興の弟である姚邕は、「勃勃は生来の不仁であり、信頼し近づけてはいけません。陛下は寵遇は度を過ぎ、戸惑っております」と言った。姚興は、「勃勃は世を救う才覚があり、彼の有能さを活用し、ともに天下を平定しようと思う、なぜいけないのか」と言った。勃勃を安遠将軍とし、陽川侯に封じて、没奕于を助けて高平を鎮護させ、三城・朔方の雑夷及び(亡父の)衛辰の部衆三万を配備し、北魏を伐つために前線の偵察とした。姚邕はきつく諫め(厚遇に)反対した。姚興は、「きみはどうして勃勃の本性が分かるのか」と言った。姚邕は、「勃勃の働きぶりは傲慢で、軍勢の統御は残忍であり、乱暴で思いやりがなく、軽々しく進退させます、彼の寵遇は分限を超え、最後には国境の脅威となります」と言った。姚興は思い止まった。しばらくして、勃勃を持節・安北将軍・五原公とし、三交五部の鮮卑及び雑虜二万餘落を配備し、朔方に出鎮させた。このとき河西の鮮卑の杜崘(社崘)は馬八千匹を姚興に献上するため、河を渡り、大城に至ろうとしたが、勃勃がこれを留め置き、兵三万餘人を召して高平川で狩猟すると偽り、没奕于を襲撃して殺し兵員を奪って、軍勢が数万に至った。

原文

義熙1.(二年)〔三年〕、僭稱天王・大單于、赦其境內、建元曰龍昇、署置百官。自以匈奴夏后氏之苗裔也、國稱大夏。以其長兄右地代為丞相・代公、次兄力俟提為大將軍・魏公、叱干阿利為御史大夫・梁公、弟阿利羅引為征南將軍・司隸校尉、若門為尚書令、叱以鞬為征西將軍・尚書左僕射、乙斗為征北將軍・尚書右僕射、自餘以次授任。
其年、討鮮卑2.(薛于)〔薛干〕等三部、破之、降眾萬數千。進討姚興三城已北諸戍、斬其將楊丕・姚石生等。諸將諫固險、不從、又復言于勃勃曰、「陛下將欲經營宇內、南取長安、宜先固根本、使人心有所憑係、然後大業可成。高平險固、山川沃饒、可以都也。」勃勃曰、「卿徒知其一、未知其二。吾大業草創、眾旅未多、姚興亦一時之雄、關中未可圖也。且其諸鎮用命、我若專固一城、彼必并力于我、眾非其敵、亡可立待。吾以雲騎風馳、出其不意、救前則擊其後、救後則擊其前、使彼疲于奔命、我則游食自若、不及十年、嶺北・河東盡我有也。待姚興死後、徐取長安。姚泓凡弱小兒、擒之方略、已在吾計中矣。昔軒轅氏亦遷居無常二十餘年、豈獨我乎。」于是侵掠嶺北、嶺北諸城門不晝啟。興歎曰、「吾不用黃兒之言、以至于此。」黃兒、姚邕小字也。
勃勃初僭號、求婚于禿髮傉檀、傉檀弗許。勃勃怒、率騎二萬伐之、自楊非至于3.支陽三百餘里、殺傷萬餘人、驅掠二萬七千口・牛馬羊數十萬而還。傉檀率眾追之、其將焦朗謂傉檀曰、「勃勃天姿雄驁、御軍齊肅、未可輕也。今因抄掠之資、率思歸之士、人自為戰、難與爭鋒。不如從溫圍北渡、趣萬斛堆、阻水結營、制其咽喉、百戰百勝之術也。」傉檀將賀連怒曰、「勃勃以死亡之餘、率烏合之眾、犯順結禍、幸有大功。今牛羊塞路、財寶若山、窘弊之餘、人懷貪競、不能督厲士眾以抗我也。我以大軍臨之、必土崩魚潰。今引軍避之、示敵以弱。我眾氣銳、宜在速追。」傉檀曰、「吾追計決矣、敢諫者斬。」勃勃聞而大喜、乃于陽武下陝鑿凌埋車以塞路。傉檀遣善射者射之、中勃勃左臂。勃勃乃勒眾逆擊、大敗之、追奔八十餘里、殺傷萬計、斬其大將十餘人、以為京觀、號髑髏臺、還于嶺北。

1.中華書局本に従い、「二年」を「三年」に改める。
2.中華書局本に従い、「薛于」を「薛干」に改める。
3.「支陽」は、『漢書』地理志、『後漢書』郡国志では「枝陽」に作る。

訓読

義熙三年、僭して天王・大單于を稱し、其の境內を赦し、建元して龍昇と曰ひ、百官を署置す。自ら匈奴夏后氏の苗裔なるを以て、國を大夏と稱す。其の長兄たる右地代を以て丞相・代公と為し、次兄の力俟提を大將軍・魏公と為し、叱干阿利を御史大夫・梁公と為し、弟の阿利羅引を征南將軍・司隸校尉と為し、若門を尚書令と為し、叱以鞬を征西將軍・尚書左僕射と為し、乙斗を征北將軍・尚書右僕射と為し、自餘 次を以て授任す。
其の年、鮮卑の薛干ら三部を討ち、之を破り、眾萬數千を降す。進みて姚興が三城已北の諸戍を討ち、其の將たる楊丕・姚石生らを斬る。諸將 險を固せんと諫むれども、從はず、又 復た勃勃に言ひて曰く、「陛下 將に宇內を經營し、南のかた長安を取らんと欲す、宜しく先に根本を固め、人心をして憑係する所有らしめ、然る後 大業 成る可し。高平は險固にして、山川は沃饒なり、以て都す可きなり」と。勃勃曰く、「卿 徒だ其の一を知りて、未だ其の二を知らず。吾が大業 草創し、眾旅 未だ多からず、姚興も亦た一時の雄なれば、關中 未だ圖る可からざるなり。且つ其の諸鎮 命を用ゆ、我 若し專ら一城を固くせば、彼 必ず力を我に并はせ、眾 其の敵に非ず、亡 立ちて待つ可し。吾 雲騎を以て風のごとく馳せ、其の不意に出で、前を救はば則ち其の後を擊ち、後を救はば則ち其の前を擊ち、彼をして奔命に疲れしめ、我 則ち游食して自若たれば、十年と及ばず、嶺北・河東 盡く我が有とならん。姚興の死する後を待ち、徐ろに長安を取れ。姚泓 凡弱の小兒にして、之を擒へるの方略、已に吾が計中に在り。昔 軒轅氏も亦た居を遷して常無きこと二十餘年、豈に獨り我のみならんや」と。是に于いて嶺北を侵掠し、嶺北の諸々の城門 晝となく啟く。興 歎じて曰く、「吾 黃兒の言を用ひず、以て此に至る」と。黃兒は、姚邕の小字なり。
勃勃 初めて僭號し、婚を禿髮傉檀に求め、傉檀 許さず。勃勃 怒り、騎二萬を率ゐて之を伐ち、楊非より支陽に至るまで三百餘里、殺傷すること萬餘人、驅掠すること二萬七千口・牛馬羊數十萬にして還る。傉檀 眾を率ゐて之を追ひ、其の將たる焦朗 傉檀に謂ひて曰く、「勃勃 天姿は雄驁、軍を御して齊肅、未だ輕んず可からざるなり。今 抄掠の資に因りて、思歸の士を率ゐ、人 自ら為に戰ひ、與に鋒を爭ひ難し。如かず溫圍より北渡し、萬斛堆に趣き、水を阻みて營を結び、其の咽喉を制すれば、百戰百勝の術なり」と。傉檀の將たる賀連 怒りて曰く、「勃勃 死亡の餘を以て、烏合の眾を率ゐ、順を犯し禍を結び、幸にも大功有り。今 牛羊 路を塞ぎ、財寶 山の若く、窘弊の餘、人 貪競を懷き、士眾を督厲して以て我に抗すること能はざるなり。我 大軍を以て之に臨めば、必ず土崩魚潰せん。今 軍を引きて之を避くれば、敵に弱きを以て示す。我が眾の氣は銳なり、宜しく速追在るべし」と。傉檀曰く、「吾が追計 決せり、敢て諫むる者あらば斬る」と。勃勃 聞きて大いに喜び、乃ち陽武下陝に于いて凌を鑿り車を埋めて以て路を塞ぐ。傉檀 善く射る者を遣はして之を射、勃勃の左臂に中つ。勃勃 乃ち眾を勒して逆擊し、大いに之に敗り、奔を追ふこと八十餘里、殺傷 萬を計へ、其の大將十餘人を斬り、以て京觀を為り、髑髏臺と號し、嶺北に還る。

現代語訳

義熙三(四〇七)年、天王・大単于を僭称し、領内を赦し、龍昇と改元し、百官を設置した。自ら匈奴夏后氏の末裔なので、国号を大夏とした。長兄の右地代を丞相・代公とし、次兄の力俟提を大将軍・魏公とし、叱干阿利を御史大夫・梁公とし、弟の阿利羅引を征南将軍・司隸校尉とし、若門を尚書令とし、叱以鞬を征西将軍・尚書左僕射とし、乙斗を征北将軍・尚書右僕射とし、それ以外も序列どおり任官した。
その年、(勃勃は)鮮卑の薛干ら三部を討って、これを破り、兵一万数千を降した。進んで姚興の(領土の)三城以北の防御拠点を討ち、守将の楊丕・姚石生らを斬った。諸将が(勃勃に)険阻な地で守りを固めよと諫めたが、従わなかった、さらに勃勃に、「陛下は領土経営し、南下して長安を狙ってゆきます、先に根拠地を定め、人々の心の支えとすれば、大業を成せます。高平は堅固であり、山川は肥沃なので、都に最適です」と言った。勃勃は、「きみらは一を知って、二を知らぬ。わが大業は始まったばかりで、軍勢は多くなく、また姚興は当世の英雄なので、まだ関中を征服できない。もし(われらが)一城に固定すれば、きっと(後秦の)諸鎮が兵力を集中させるから、われらは兵数で敵わず、滅亡を待つことになる。雲騎を風のように疾走させ、不意を突き、前方を救えば後方を撃ち、後方を救えば前方を撃ち、振り回して疲弊させ、われらは安穏と食事を摂っていれば、十年もかけず、嶺北・河東の全域を領有できよう。姚興が死ぬのを待ってから、じっくり長安を取ろう。(後継者の)姚泓は凡弱の小児であり、彼を捕らえる作戦は、すでに頭の中にある。むかし軒轅氏も二十年、本拠地を定めなかった、私だけではない」と言った。こうして嶺北を侵掠し、嶺北の諸々の城門は一日も経たず開いた。姚興は、「黄児の意見を用いず、こうなってしまった」と言った。黄児は、姚邕の小字である。
勃勃が僭号すると、禿髪傉檀に婚姻を求めたが、傉檀が許さなかった。勃勃は怒り、騎二万を率いて討伐し、楊非から支陽まで三百餘里、万餘人を殺傷し、二万七千人・牛馬羊は数十万を掠奪して還った。傉檀は軍勢を率いて追ったが、将の焦朗は傉檀に、「勃勃は天性の雄健であり、軍を整然と統御するから、軽んじてはいけない。いま掠奪を追え、本土に帰るのだから、自ずと士気は高い、戦ってはいけない。温囲から北に渡り、万斛堆に行き、水を堰きとめて軍営とし、喉元を抑えれば、百戦百勝できる」と。傉檀の将である賀連は怒り、「勃勃は死にかけの、烏合の衆をつれ、道理を踏みにじり、たまたま成功しただけ。いま牛羊は道路を塞ぎ、財宝は山のようで、疲弊した残党は、強欲なので、号令をかけてわれらに対抗できまい。大軍で望めば、総崩れになろう。いま軍を引いて避ければ、弱みを見せてしまう。わが軍の士気は高い、速やかに追撃すべきだ」と言った。傉檀は、「追撃すると決めた、反対するなら斬る」と言った。勃勃はこれを聞いて大喜びし、陽武下陜で丘を削り車を埋めて道路を塞いだ。傉檀は射術のうまい兵をくり出し、勃勃の左臂に当てた。勃勃は軍勢をまとめて迎撃し、大いに破り、八十餘里追いかけ、殺傷するものは万を数え、大将十餘人を斬り、京観を築き、髑髏台といい、嶺北に還った。

原文

勃勃與姚興將張佛生戰于青石原、又敗之、俘斬五千七百人。興遣將齊難率眾二萬來伐、勃勃退如河曲。難以去勃勃既遠、縱兵掠野、勃勃潛軍覆之、俘獲七千餘人、收其戎馬兵杖。難引軍而退、勃勃復追擊于木城、拔之、擒難、俘其將士萬有三千、戎馬萬匹。嶺北夷夏降附者數萬計、勃勃于是拜置守宰以撫之。勃勃又率騎二萬入高岡、及于五井、掠平涼雜胡七千餘戶以配後軍、進屯依力川。
姚興來伐、至1.三城、勃勃候興諸軍未集、率騎擊之。興大懼、遣其將姚文宗距戰、勃勃偽退、設伏以待之。興遣其將姚榆生等追之、伏兵夾擊、皆擒之。興將王奚聚羌胡三千餘戶于敕奇堡、勃勃進攻之。奚驍悍有膂力、短兵接戰、勃勃之眾多為所傷。于是堰斷其水、堡人窘迫、執奚出降。勃勃謂奚曰、「卿忠臣也。朕方與卿共平天下。」奚曰、「若蒙大恩、速死為惠。」乃與所親數十人自刎而死。勃勃又攻興將金洛生于黃石固、彌姐豪地于我羅城、皆拔之、徙七千餘家于大城、以其丞相右地代領幽州牧以鎮之。
遣其尚書金纂率騎一萬攻平涼、姚興來救、纂為興所敗、死之。勃勃兄子左將軍羅提率步騎一萬攻興將姚廣都于定陽、克之、坑將士四千餘人、以女弱為軍賞。拜廣都為太常。勃勃又攻興將姚壽都于清水城、壽都奔上邽、徙其人萬六千家于大城。是歲、齊難・姚廣都謀叛、皆誅之。姚興將姚詳棄三城、南奔大蘇。勃勃遣其將平東鹿奕于要擊之、執詳、盡俘其眾。詳至、勃勃數而斬之。

1.中華書局本によると「三城」は「二城」に作るべきである。

訓読

勃勃 姚興の將たる張佛生と青石原に戰ひ、又 之を敗り、俘斬すること五千七百人。興 將の齊難を遣はし眾二萬を率ゐて來伐せしめ、勃勃 退きて河曲に如く。難 勃勃を去ること既に遠きを以て、兵を縱にし野を掠め、勃勃 軍を潛めて之を覆し、俘獲すること七千餘人、其の戎馬兵杖を收む。難 軍を引きて退き、勃勃 復た木城に追擊し、之を拔き、難を擒へ、其の將士萬有三千、戎馬萬匹を俘ふ。嶺北の夷夏 降附する者 數萬を計へ、勃勃 是に于いて守宰を拜置して以て之を撫す。勃勃 又 騎二萬を率ゐて高岡に入り、五井に及び、平涼の雜胡七千餘戶を掠めて以て後軍に配し、進みて依力川に屯す。
姚興 來伐し、三城に至り、勃勃 興の諸軍 未だ集はざるを候し、騎を率ゐて之を擊つ。興 大いに懼れ、其の將の姚文宗を遣はして距戰し、勃勃 偽はりて退き、伏を設けて以て之を待つ。興 其の將の姚榆生らを遣はして之を追ふに、伏兵 夾擊し、皆 之を擒にす。興の將 王奚 羌胡三千餘戶を敕奇堡に聚め、勃勃 進みて之を攻む。奚 驍悍にして膂力有り、短兵もて接戰し、勃勃の眾 多く為に傷つけらる。是に于て堰して其の水を斷ち、堡人 窘迫し、奚を執へて出でて降る。勃勃 奚に謂ひて曰く、「卿は忠臣なり。朕 方に卿と共に天下を平らげん」と。奚曰く、「若し大恩を蒙れば、速やかに死して惠と為さん」と。乃ち所親の數十人 自刎して死す。勃勃 又 興の將の金洛生を黃石固に、彌姐豪地を我羅城に于いて攻め、皆 之を拔き、七千餘家を大城に徙し、其の丞相たる右地代を以て幽州牧を領して以て之に鎮せしむ。
其の尚書の金纂を遣はして騎一萬を率ゐて平涼を攻め、姚興 來救し、纂 興の為に敗られ、之に死す。勃勃が兄の子たる左將軍の羅提 步騎一萬を率ゐて興の將たる姚廣都を定陽に攻め、之に克ち、將士四千餘人を坑し、女弱を以て軍賞と為す。廣都を拜して太常と為す。勃勃 又 興が將の姚壽都を清水城に攻め、壽都 上邽に奔り、其の人萬六千家を大城に徙す。是の歲、齊難・姚廣都 謀叛し、皆 之を誅す。姚興の將たる姚詳 三城を棄て、南のかた大蘇に奔る。勃勃 其の將たる平東の鹿奕于を遣はして之を要擊し、詳を執へ、盡く其の眾を俘ふ。詳 至り、勃勃 數めて之を斬る。

現代語訳

勃勃は姚興の将である張仏生と青石原で戦い、破り、五千七百人を斬獲した。姚興は将の斉難に二万で征伐をさせ、勃勃は河曲に退いた。斉難は勃勃が遠くに去ったので、兵を野に放ち掠奪を許したが、勃勃が軍を潜めて(斉難を)攻撃し、七千餘人を斬獲し、軍馬や兵器を得た。斉難が軍を退くと、勃勃は木城に追撃して、突破し、斉難を捕らえ、将士一万三千、戎馬一万を獲得した。嶺北にいる夷夏(胡族と漢族)のうち降附(降服し帰順)する者は数万を数え、勃勃は守宰(各署の長官)を設置して管理した。勃勃は騎二万を率いて高岡に入り、五井に及び、平涼の雑胡七千餘戸を掠めて後軍に置き、進んで依力川に駐屯した。
姚興は征伐して、三城(正しくは二城)に至り、勃勃は姚興の諸軍がまだ集まっていないと探知し、騎兵を率いて攻撃した。姚興は大いに懼れ、将の姚文宗に防戦させ、勃勃は偽って退き、伏兵で待ち受けた。姚興は将の姚榆生に追わせたが、伏兵に挟撃され、皆が捕らわれた。姚興の将の王奚は羌胡三千餘戸を敕奇堡に集め、勃勃が進んでここを攻撃した。王奚は勇猛果敢で腕力が強く、剣戟で接近戦をし、勃勃の軍は傷ついた。そこで川の水を堰きとめ、敕奇堡の人を窮迫させると、王奚を突き出して降服した。勃勃は王奚に、「あなたは忠臣だ。朕と一緒に天下を取ろう」と言った。王奚は、「(姚興から)大恩を受けた、早く殺してくれ」と言った。側近の数十人は自刎して死んだ。勃勃はさらに姚興の将の金洛生を黄石固で、弥姐豪地を我羅城で攻め、いずれも突破し、七千餘家を大城に移住させ、丞相である右地代に幽州牧を領して統治させた。
尚書の金纂に騎一万を率いて平涼を攻撃させたが、姚興が来援し、金纂は姚興に破れ、戦死した。勃勃の兄の子である左将軍の羅提が歩騎一万を率いて姚興の将である姚広都を定陽で攻めて、打ち破り、将士四千餘人を穴埋めにし、女子や子供を自軍の褒賞とした。姚広都を太常とした。勃勃は姚興の将である姚寿都を清水城で攻め、姚寿都は上邽に逃げ、その配下であった一万六千家を大城に移した。この歳、斉難・姚広都が謀反したので、彼らを誅した。姚興の将である姚詳が三城を棄て、南のかた大蘇に逃げた。勃勃は将の平東の鹿奕于に待ち伏せをさせ、姚詳を捕らえ、その軍勢を全て捕らえた。姚詳が至ると、勃勃は斬った。

原文

其年、勃勃率騎三萬攻安定、與姚興將楊佛嵩戰于青石北原、敗之、降其眾四萬五千、獲戎馬二萬匹。進攻姚興將党智隆于東鄉、降之、署智隆光祿勳、徙其三千餘戶于貳城。姚興鎮北參軍王買德來奔。勃勃謂買德曰、「朕大禹之後、世居幽朔。祖宗重暉、常與漢魏為敵國。中世不競、受制于人。逮朕不肖、不能紹隆先構、國破家亡、流離漂虜。今將應運而興、復大禹之業、卿以為何如。」買德曰、「自皇晉失統、神器南移、羣雄岳峙、人懷問鼎、況陛下奕葉載德、重光朔野、神武超于漢皇、聖略邁于魏祖、而不于天啟之機建成大業乎。今秦政雖衰、藩鎮猶固、深願蓄力待時、詳而後舉。」勃勃善之、拜軍師中郎將。
乃赦其境內、改元為鳳翔。以叱干阿利領將作大匠、發嶺北夷夏十萬人、于朔方水北・黑水之南營起都城。勃勃自言、「朕方統一天下、君臨萬邦、可以統萬為名。」阿利性尤工巧、然殘忍刻暴、乃蒸土築城、錐入一寸、即殺作者而并築之。勃勃以為忠、故委以營繕之任。又造五兵之器、精銳尤甚。既成呈之、工匠必有死者、射甲不入即斬弓人。如其入也、便斬鎧匠。又造百鍊剛刀、為龍雀大環、號曰大夏龍雀、銘其背曰、「古之利器、吳楚湛盧。大夏龍雀、名冠神都。可以懷遠、可以柔逋。如風靡草、威服九區。」世甚珍之。復鑄銅為大鼓、飛廉・翁仲・銅駝・龍獸之屬、皆以黃金飾之、列于宮殿之前。凡殺工匠數千、以是器物莫不精麗。于是議討乞伏熾磐。王買德諫曰、「明王之行師也、軌物以德、不以暴。且熾磐我之與國、新遭大喪、今若伐之、豈所謂乘理而動、上感靈和之義乎。苟恃眾力、因人喪難、匹夫猶恥為之、而況萬乘哉。」勃勃曰、「甚善。微卿、朕安聞此言。」
其年、下書曰、「朕之皇祖、自北遷幽朔、姓改姒氏、音殊中國、故從母氏為劉。子而從母之姓、非禮也。古人氏族無常、或以因生為氏、或以王父之名。朕將以義易之。帝王者、係天為子、是為徽赫實與天連、今改姓曰赫連氏、庶協皇天之意、永享無疆大慶。係天之尊、不可令支庶同之、其非正統、皆以鐵伐為氏、庶朕宗族子孫剛銳如鐵、皆堪伐人。」立其妻梁氏為王后、子璝為太子、封子延陽平公、昌太原公、倫酒泉公、定平原公、滿河南公、安中山公。又攻姚興將姚逵于杏城、二旬、克之、執逵及其將姚大用・姚安和・姚利僕・尹敵等、坑戰士二萬人。
遣其御史中丞烏洛孤盟于沮渠蒙遜曰、「自金晉數終、禍纏九服、趙魏為長蛇之墟、秦隴為豺狼之穴、二都神京、鞠為茂草、蠢爾羣生、罔知憑賴。上天悔禍、運屬二家、封疆密邇、道會義親、宜敦和好、弘康世難。爰自終古、有國有家、非盟誓無以昭神祇之心、非斷金無以定終始之好。然晉楚之成、吳蜀之約、咸口血未乾、而尋背之。今我二家、契殊曩日、言未發而有篤愛之心、音一交而懷傾蓋之顧、息風塵之警、同克濟之誠、勠力一心、共濟六合。若天下有事、則雙振義旗。區域既清、則並敦魯衞。夷險相赴、交易有無、爰及子孫、永崇斯好。」蒙遜遣其將沮渠漢平來盟。

訓読

其の年、勃勃 騎三萬を率ゐて安定を攻め、姚興の將たる楊佛嵩と青石北原に戰ひ、之を敗り、其の眾四萬五千を降し、戎馬二萬匹を獲たり。進みて姚興が將たる党智隆を東鄉に攻め、之を降し、智隆を光祿勳に署し、其の三千餘戶を貳城に徙す。姚興の鎮北參軍たる王買德 來奔す。勃勃 買德に謂ひて曰く、「朕 大禹の後なり、世々幽朔に居す。祖宗 重暉して、常に漢魏と敵國と為る。中世 競はず、制を人に受く。朕に逮びて不肖にして、先構を紹隆する能はず、國 破れて家 亡び、流離し漂虜す。今 將に運に應じて興り、大禹の業を復さんとす、卿 以為へらく何如」と。買德曰く、「皇晉 統を失ひてより、神器 南移し、羣雄 岳峙し、人 問鼎を懷く、況んや陛下 葉を奕し德を載し、光を朔野に重ね、神武 漢皇を超え、聖略 魏祖に邁り、而れども天啟の機に于いてせずんば大業を建成さんか。今 秦の政 衰ふると雖も、藩鎮 猶ほ固く、深く願はくは力を蓄へ時を待ち、詳らかにして後舉せよ」と。勃勃 之を善とし、軍師中郎將を拜す。
乃ち其の境內を赦し、改元して鳳翔と為す。叱干阿利を以て將作大匠を領し、嶺北の夷夏十萬人を發し、朔方水北・黑水の南に于いて都城を營起す。勃勃 自ら言ふ、「朕 方に天下を統一し、萬邦に君臨し、統萬を以て名と為す可し」と。阿利 性は尤も工巧にして、然るに殘忍刻暴にして、乃ち土を蒸して築城し、錐 一寸入れば、即ち作者を殺して并せて之に築く。勃勃 以て忠と為し、故に營繕の任を以て委ぬ。又 五兵の器を造り、精銳 尤も甚し。既に成りて之を呈し、工匠 必ず死者する有り、甲を射て入らざれば即ち弓人を斬る。如し其れ入るや、便ち鎧匠を斬る。又 百鍊の剛刀を造り、龍雀の大環を為り、號して大夏龍雀と曰ひ、其の背に銘して曰く、「古の利器、吳楚 湛盧なり。大夏の龍雀、名は神都に冠たり。以て遠きを懷く可し、以て逋を柔す可し。風の草を靡くが如く、威は九區を服す」と。世 甚だ之を珍とす。復た銅を鑄して大鼓を為り、飛廉・翁仲・銅駝・龍獸の屬、皆 黃金を以て之に飾り、宮殿の前に列す。凡そ工匠を殺すこと數千、是を以て器物 精麗ならざる莫し。是に于いて乞伏熾磐を討つことを議す。王買德 諫めて曰く、「明王の師を行ふや、物に軌するに德を以てし、暴を以てせず。且に熾磐 我の與國にして、新たに大喪を遭ひ、今 若し之を伐たば、豈に謂ふ所の理に乘じて動き、上は靈和の義に感ずるや。苟くも眾力を恃み、人の喪難に因るは、匹夫 猶ほ之を為すことを恥づ、而んに況んや萬乘をや」と。勃勃曰く、「甚だ善し。卿微(な)かりせば、朕 安んぞ此の言を聞かんや」と。
其の年、書を下して曰く、「朕の皇祖、北のかた幽朔より遷り、姓は姒氏に改め、音は中國と殊なり、故に母氏に從ひて劉と為す。子にして母の姓に從ふは、禮に非ざるなり。古人 氏族 常無く、或いは因りて生するを以て氏と為し、或いは王父の名を以てす。朕 將に義を以て之を易えんとす。帝王なる者は、天に係(つ)きて子と為し、是を徽赫と實に天と連なると為し、今 姓を改めて赫連氏と曰ひ、皇天の意に協ひ、永く無疆の大慶を享けんことを庶ふ。天に係くるの尊、支庶をして之を同じうす可からず、其れ正統に非ざれば、皆 鐵伐を以て氏と為し、朕の宗族子孫 剛銳たること鐵の如く、皆 伐に堪ふるの人を庶ふ」と。其の妻たる梁氏を立てて王后と為し、子の璝を太子と為し、子の延を陽平公に、昌を太原公に、倫を酒泉公に、定を平原公に、滿を河南公に、安を中山公に封ず。又 姚興の將たる姚逵を杏城に攻め、二旬にして、之に克ち、逵及び其の將たる姚大用・姚安和・姚利僕・尹敵らを執へ、戰士二萬人を坑にす。
其の御史中丞の烏洛孤を遣はして沮渠蒙遜と盟ひて曰く、「金晉の數 終りて、禍 九服を纏して自り、趙魏は長蛇の墟と為り、秦隴は豺狼の穴と為り、二都神京、鞠りて茂草と為り、蠢爾たる羣生、憑賴を知ること罔し。上天 禍を悔ひ、運は二家に屬し、封疆 密邇にして、道に會し義は親し、宜しく和好を敦くし、弘く世難を康にすべし。爰に終古より、國を有ちて家を有ち、盟誓に非ざれば以て神祇の心を昭らかにすること無く、斷金に非ざれば以て終始の好を定むること無し。然れども晉楚の成、吳蜀の約、咸 口血 未だ乾かざるに、尋いで之に背く。今 我ら二家、契 曩日に殊なり、言は未だ發せずして篤愛の心有り、音は一たび交はりて傾蓋の顧を懷き、風塵の警を息み、克濟の誠を同にし、力を勠せ心を一にし、共に六合を濟ふ。若し天下 事有らば、則ち義旗を雙べ振はん。區域 既に清かれば、則ち並びに魯衞を敦くせん。夷險 相 赴き、有無を交易し、爰に子孫に及びて、永く斯の好を崇くせん」と。蒙遜 其の將たる沮渠漢平を遣はして來盟せしむ。

現代語訳

その年、勃勃は騎三万を率いて安定を攻め、姚興の将である楊仏嵩と青石北原で戦い、破り、兵士四万五千を降し、戎馬二万匹を得た。進軍して姚興の将である党智隆を東郷で攻め、これを降し、智隆を光禄勲に任命し、その三千餘戸を貳城(二城)に移した。姚興の鎮北参軍である王買徳が投降した。勃勃は王買徳に、「朕の一族は大禹の子孫だが、代々幽朔の地に居住してきた。祖先が輝きを重ね、つねに漢魏と敵対をした。途中の世代は振るわず、人から統制を受けた。不肖なる朕の代に、祖先の栄光を復興できず、国は破れ家は亡び、流浪し漂泊した。いま天運に応じて興隆し、大禹の王業を取り戻そうと思うが、どうだろうか」と聞いた。王買徳は、「晋王朝が正統性を失い、神器は南に移され、群雄が角逐し、人は鼎の重みを問うことに慣れており、陛下が先祖からの徳を継ぎ、光を朔方の地で重ね、神武が漢の高祖(劉邦)を超え、聖略が魏の太祖(曹操)に勝るのであろうと、天与の機会でなければ偉業を達成できましょうか。いま後秦(姚興)の政治は衰えたりといえど、藩鎮は依然として強固なので、力を蓄えて時を待ち、見極めて決起しなさい」と言った。勃勃はこの意見に賛同し、(王買徳に)軍師中郎将を拝した。
領内を赦し、鳳翔と改元した。叱干阿利に将作大匠を領させ、嶺北の夷夏十万人を動員し、朔方水北・黒水の南に都城を造営した。勃勃は自ら、「朕は天下を統一し、万邦に君臨するつもりだ、だから統万という名にする」と言った。阿利は製造品質にこだわり、しかも残忍酷薄であったから、土を捏ねて築城すると、錐が一寸でも(城壁に)入れば、工事担当を殺して練り込んだ。勃勃はこれを忠とし、工事監督を委ねた。さらに五種の武器を作り、かなり鋭かった。完成したら提出させ、職人から必ず死者が出たが、鎧を射て貫かねば弓手を斬った。もし突き立てば、鎧の製作者を斬った。百錬の剛刀を造り、龍雀の大環を付け、大夏龍雀と呼び、背面に銘を、「先古の最強の剣は、呉楚の湛盧である。大夏の龍雀は、神都で第一であった。これで遠き懐け、逃げた者を慰めよう。風が草を靡かせるように、威光が全土に届く」と刻んだ。人々は珍しがった。さらに銅を鋳して大鼓を作り、飛廉・翁仲・銅駝・龍獣などを、黄金で飾り、宮殿の前に並べた。工匠は数千人が殺されたが、おかげで器物はもれなく精麗となった。ときに乞伏熾磐の討伐を議論した。王買徳が諫め、「名君が王の戦いを起こすのは、徳に則るべきで、暴ではいけません。熾磐は同盟者であり、国君を失ったばかりなのに、いま討伐すれば、道理に沿い、霊性に適いません。兵力で押し切り、ひとの死を利用するのは、匹夫でも恥じることで、まして万乗(皇帝)のなさることではありません」と言った。勃勃は、「そうだな。あなたが居らねば、この助言を聞けなかった」と言った。
その年、書を下して、「朕の祖先は、北の幽朔から遷り、姓を姒氏に改め、音は中国と異なり、ゆえに母方に従い劉氏とした。子が母の姓に従うのは、礼を外れる。先古のひとは氏族が定まらず、生まれた地名を氏としたり、王父の名を取ったりした。朕は義によりこれを変えよう。帝王は、天の子とされ、赫々と(はっきり)天に連なるから、いま姓をを赫連といい、皇天の意に適い、永遠の祝福を受けたいと思う。天に連なるという尊称は、士庶には使わせず、嫡統でなければ、鉄伐を氏とし、朕の一族が鉄のよう剛健で、伐って耐久があるように願う」と言った。妻の梁氏を王后に立て、子の璝を太子とし、子の延を陽平公に、昌を太原公に、倫を酒泉公に、定を平原公に、満を河南公に、安を中山公に封建した。姚興の将である姚逵を杏城で攻め、二十日で、撃破し、姚逵及びその将である姚大用・姚安和・姚利僕・尹敵らを捕らえ、戦死二万人を穴埋めにした。
御史中丞の烏洛孤を派遣して沮渠蒙遜と盟約し、「金徳の晋王朝の命運が終わり、災禍が全土を覆ってから、趙魏は長蛇の住処、秦隴は豺狼の巣穴となり、二都の神京は、雑草が生い茂り、うごめく群衆は、頼る相手がいない。上天は禍いを悔い、運を二家(赫連氏と沮渠氏)に授け、領土は近接し、道義を共有するから、両国は和親し、世の困難を救うべきである。古来より、国と家を保つには、盟誓しなければ神祇の心が明らかにならず、断金でなければ始終の同盟が定まらぬ。だが晋楚や、呉蜀の交わした約束は、口の血が乾く前に、裏切った。いまわれら二家は、先例と異なり、言わずとも篤愛の心があり、ひとたび話せば旧知のように親しく、戦乱を鎮め、平和のため、力と心を合わせ、ともに天下を救おう。天下が有事なら、義旗を並べて振ろう。領域が無事なら、(春秋の)魯衛のように守り合おう。険しい地に同行し、足りぬものを交換し、子孫に及ぶまで、友好関係を育てよう」と言った。蒙遜は将の沮渠漢平を遣って盟誓させた。

原文

勃勃聞姚泓將姚嵩與氐王楊盛相持、率騎四萬襲上邽、未至而嵩為盛所殺。勃勃攻上邽、二旬克之、殺泓1.秦州刺史姚平都及將士五千人、毀城而去。進攻陰密、又殺興將姚良子及將士萬餘人。以其子昌為使持節・前將軍・雍州刺史、鎮陰密。泓將姚恢棄安定、奔于長安、安定人胡儼・華韜率戶五萬據安定、降于勃勃。以儼為侍中、韜為尚書、留鎮東羊苟兒鎮之、配以鮮卑五千。進攻泓將姚諶于雍城、諶奔長安。勃勃進師次郿城、泓遣其將姚紹來距、勃勃退如安定。胡儼等襲殺苟兒、以城降泓。勃勃引歸杏城、笑謂羣臣曰、「劉裕伐秦、水陸兼進、且裕有高世之略、姚泓豈能自固。吾驗以天時人事、必當克之。又其兄弟內叛、安可以距人。裕既克長安、利在速返、正可留子弟及諸將守關中。待裕發軫、吾取之若拾芥耳、不足復勞吾士馬。」于是秣馬厲兵、休養士卒。尋進據安定、姚泓嶺北鎮戍郡縣悉降、勃勃于是盡有嶺北之地。
俄而劉裕滅泓、入于長安、遣使遺勃勃書、請通和好、約為兄弟。勃勃命其中書侍郎皇甫徽為文而陰誦之、召裕使前、口授舍人為書、封以答裕。裕覽其文而奇之、使者又言勃勃容儀瓌偉、英武絕人。裕歎曰、「吾所不如也。」既而勃勃還統萬、裕留子義真鎮長安而還。勃勃聞之、大悅、謂王買德曰、「朕將進圖長安、卿試言取之方略。」 買德曰、「劉裕滅秦、所謂以亂平亂、未有德政以濟蒼生。關中形勝之地、而以弱才小兒守之、非經遠之規也。狼狽而返者、欲速成篡事耳、無暇有意于中原。陛下以順伐逆、義貫幽顯、百姓2.以君命望陛下義旗之至、以日為歲矣。青泥・上洛、南師之衝要、宜置遊兵斷其去來之路。然後杜潼關、塞崤陝、絕其水陸之道。陛下聲檄長安、申布恩澤、三輔父老皆壺漿以迎王師矣。義真獨坐空城、逃竄無所、一旬之間必面縛麾下、所謂兵不血刃、不戰而自定也。」
勃勃善之、以子璝都督前鋒諸軍事、領撫軍大將軍、率騎二萬南伐長安、前將軍赫連昌屯兵潼關、以買德為撫軍右長史、南斷青泥、勃勃率大軍繼發。璝至渭陽、降者屬路。義真遣龍驤將軍沈田子率眾逆戰、不利而退、屯劉迴堡。田子與義真司馬王鎮惡不平、因鎮惡出城、遂殺之。義真又殺田子。于是悉召外軍入于城中、閉門距守。關中郡縣悉降。璝夜襲長安、不克。勃勃進據咸陽、長安樵採路絕。劉裕聞之、大懼、乃召義真東鎮洛陽、以朱齡石為雍州刺史、守長安。義真大掠而東、至于灞上、百姓遂逐齡石、而迎勃勃入于長安。璝率眾三萬追擊義真、王師敗績、義真單馬而遁。買德獲晉寧朔將軍傅弘之・輔國將軍蒯恩・義真司馬毛脩之于青泥、積人頭以為京觀。于是勃勃大饗將士于長安、舉觴謂王買德曰、「卿往日之言、一周而果效、可謂算無遺策矣。雖宗廟社稷之靈、亦卿謀猷之力也。此觴所集、非卿而誰。」于是拜買德都官尚書、加冠軍將軍、封河陽侯。

1.「秦州刺史姚平都」は、姚泓載記は姓名を「姚軍都」に作り、『資治通鑑』巻百十七は「平涼太守姚軍都」に作り、一致しない。
2.中華書局本によると「以君命」は不可解で、衍字が疑われるという。

訓読

勃勃 姚泓の將たる姚嵩 氐王楊盛と與に相 持すると聞き、騎四萬を率ゐて上邽を襲ひ、未だ至らずして嵩 盛の為に殺さる。勃勃 上邽を攻め、二旬にして之に克ち、泓の秦州刺史の姚平都及び將士五千人を殺し、城を毀ちて去る。陰密に進攻し、又 興の將たる姚良子及び將士萬餘人を殺す。其の子たる昌を以て使持節・前將軍・雍州刺史と為し、陰密に鎮せしむ。泓が將たる姚恢 安定を棄て、長安に奔り、安定の人たる胡儼・華韜 戶五萬を率ゐて安定に據り、勃勃に降る。儼を以て侍中と為し、韜もて尚書と為し、鎮東の羊苟兒を留めて之に鎮し、配するに鮮卑五千を以てす。進みて泓が將たる姚諶を雍城に攻め、諶 長安に奔る。勃勃 師を進めて郿城に次り、泓 其の將たる姚紹を遣はして來距せしめ、勃勃 退きて安定に如く。胡儼ら襲ひて苟兒を殺し、城を以て泓に降る。勃勃 引きて杏城に歸り、笑ひて羣臣に謂ひて曰く、「劉裕 秦を伐ち、水陸 兼進し、且つ裕 高世の略有り、姚泓 豈に自ら固する能はんや。吾 天時人事を以て驗るに、必ず當に之に克つべし。又 其の兄弟 內叛し、安んぞ以て人を距ぐ可きや。裕 既に長安に克ち、利は速やかに返ることに在れば、正に子弟及び諸將を留めて關中を守る可し。裕の軫を發するを待てば、吾 之を取ること芥を拾ふが若きのみ、復た吾が士馬を勞はすに足らず」と。是に于いて馬に秣し兵を厲し、士卒を休養す。尋いで進みて安定に據り、姚泓が嶺北の鎮戍郡縣 悉く降り、勃勃 是に于いて盡く嶺北の地を有つ。
俄かにして劉裕 泓を滅し、長安に入り、使を遣はして勃勃に書を遺り、和好を通じ、約して兄弟と為らんと請ふ。勃勃 其の中書侍郎の皇甫徽に命じて文を為りて陰かに之に誦し、裕の使を前に召し、舍人に口授して書を為り、封じて以て裕に答ふ。裕 其の文を覽じて之を奇とし、使者 又 勃勃の容儀 瓌偉にして、英武 絕人たるを言ふ。裕 歎じて曰く、「吾 如かざる所なり」と。既にして勃勃 統萬に還り、裕 子の義真を留めて長安に鎮せしめて還る。勃勃 之を聞き、大いに悅び、王買德に謂ひて曰く、「朕 將に進みて長安を圖らんとす、卿 試みに之を取るの方略を言へ」と。 買德曰く、「劉裕 秦を滅すは、謂ふ所の亂を以て亂を平らげ、未だ德政有りて以て蒼生を濟はず。關中は形勝の地なり、而れども弱才の小兒を以て之を守らしむは、經遠の規に非らざるなり。狼狽して返る者、速やかに篡事を成さんと欲するのみ、暇ありて意を中原に有ること無し。陛下 順を以て逆を伐ち、義は幽顯を貫き、百姓は君命を以て陛下の義旗の至るを望むは、日を以て歲と為すなり。青泥・上洛、南師の衝要なり、宜しく遊兵を置きて其の去來の路を斷て。然る後 潼關を杜し、崤陝を塞ぎ、其の水陸の道を絕て。陛下 聲もて長安に檄し、申して恩澤を布せば、三輔の父老 皆 壺漿して以て王師を迎へん。義真 獨り空城に坐し、逃竄して所無く、一旬之間に必ず麾下に面縛し、謂ふ所の兵 血刃せず、戰はずして自ら定まるなり」と。
勃勃 之を善とし、子の璝を以て都督前鋒諸軍事、領撫軍大將軍とし、騎二萬を率ゐて南のかた長安を伐ち、前將軍の赫連昌 兵を潼關に屯し、買德を以て撫軍右長史と為し、南のかた青泥を斷ち、勃勃 大軍を率ゐて繼發す。璝 渭陽に至り、降者 路に屬ぐ。義真 龍驤將軍の沈田子を遣りて眾を率ひて逆戰し、利あらずして退き、劉迴堡に屯す。田子 義真の司馬たる王鎮惡と平ならず、因りて鎮惡 城を出づるに、遂に之を殺す。義真 又 田子を殺す。是に于いて悉く外軍を召して城中に入れ、閉門し距守す。關中の郡縣 悉く降る。璝 夜に長安を襲ひ、克たず。勃勃 進みて咸陽に據り、長安の樵採の路 絕つ。劉裕 之を聞き、大いに懼れ、乃ち義真を召して東のかた洛陽に鎮せしめ、朱齡石を以て雍州刺史と為し、長安を守らしむ。義真 大いに掠して東し、灞上に至る、百姓 遂に齡石を逐ひ、而して勃勃を迎へて長安に入らしむ。璝 眾三萬を率ゐて義真を追擊し、王師 敗績し、義真 單馬にて遁る。買德 晉の寧朔將軍の傅弘之・輔國將軍の蒯恩・義真の司馬の毛脩之を青泥に獲らへ、人頭を積みて以て京觀を為る。是に于いて勃勃 大いに將士を長安に饗し、觴を舉げて王買德に謂ひて曰く、「卿 往日の言、一周にして果たして效あり、算に遺策無し謂ふべし。宗廟社稷の靈と雖も、亦た卿が謀猷の力なり。此の觴の集まる所、卿に非ざれば誰なるか」と。是に于いて買德に都官尚書を拜し、冠軍將軍を加へ、河陽侯に封ず。

現代語訳

勃勃は姚泓の将である姚嵩が氐王の楊盛と対峙していると聞き、騎四万を率いて上邽を襲ったが、到着する前に姚嵩が楊盛に殺された。勃勃は上邽を攻め、二十日で破り、姚泓の秦州刺史である姚平都(姚軍都)及び将士五千人を殺し、城を破却して去った。陰密に進攻し、姚興の将である姚良子及び将士一万餘人を殺した。勃勃の子の赫連昌を使持節・前将軍・雍州刺史とし、陰密を鎮護させた。姚泓の将である姚恢が安定を棄て、長安に逃げ、安定の人である胡儼・華韜が戸五万を率いて安定の城ごと、勃勃に降った。胡儼を侍中とし、華韜を尚書とし、鎮東(将軍)の羊苟児にここを鎮護させ、鮮卑五千を配置した。進んで姚泓の将である姚諶を雍城で攻め、姚諶は長安に逃げ込んだ。勃勃が進軍して郿城に停泊すると、姚泓は将の姚紹を派遣して防がせたので、勃勃は安定に退いた。胡儼らが襲って羊苟児を殺し、城をもって姚泓に降った。勃勃は引いて杏城に帰り、笑って郡臣に、「劉裕が後秦を討伐するべく、水陸から並進しており、しかも劉裕は世に傑出した才略があるから、姚泓は防衛できまい。天の時と人の事から分析するに、劉裕の勝ちだ。しかも姚氏兄弟は内部分裂しており、どうして外敵を防げようか。劉裕が長安を陥落させたら、彼は利のため(江南に)すぐに帰還するはずだ、きっと子弟や諸将を関中に留めて守らせるだろう。劉裕の出発を待てば、(長安の)奪取はごみを拾うようなもの。わが士馬を(後秦との戦いに)煩わせる必要はない」と言った。馬に餌を与えて兵を励まし、士卒を休養させた。ほどなく安定に進んで拠点としていると、姚泓(後秦)の嶺北にある鎮戍や郡県は全て降服し、かくして勃勃は嶺北の全域を領有した。
にわかに劉裕が姚泓を滅ぼし、長安に入ると、勃勃に使者を送って文書を届け、和好を通じ、兄弟の誓いを求めた。勃勃は中書侍郎の皇甫徽に命じて文を作らせ(自分で)秘かに暗誦し、劉裕の使者を前に召し、口頭で告げて舎人に記録させ、封書で劉裕に返答した。劉裕はその文を見て感心し、使者は勃勃の容姿が魁偉であり、英武が並外れていると報告した。劉裕は「敵わぬ相手だ」と歎じた。勃勃は統万城に還ると、劉裕は子の義真を留めて長安を鎮護させて(江東に)帰還した。勃勃はこれを聞いて、大いに悦び、王買徳に「朕は長安に進撃しよう、試しに攻略法を言え」と言った。 王買徳は、「劉裕が後秦を滅ぼしたのは、乱で乱を平らげたというもので、徳政で万民を救ったのではありません。関中の地勢は優れていますが、未熟な小児に守らせるのは、遠大な経略とは言えません。(劉裕が)慌ただしく帰還したのは、(東晋からの)簒奪を急いだからで、中原に関与する余裕は無いのです。陛下は道理に従い、正義は当代を貫き、百姓は(君命により)陛下の義旗を待ちわび、一日千秋の思いです。青泥・上洛は、南方軍(劉裕)の要衝です、遊撃兵で退路を断ちなさい。その次に潼関を封鎖し、崤陝を塞ぎ、水陸の路を断ちなさい。陛下の言葉を長安に告げ、恩沢を広めれば、三輔の父老は飲み物を献じて王師を迎えます。劉義真は空城に孤立し、逃げ場もなく、十日のうちに面縛してやって来ます、刀を血で汚さぬというやつで、戦わずに鎮定できます」と答えた。
勃勃はこの案を採用し、子の赫連璝を都督前鋒諸軍事、領撫軍大将軍とし、騎二万を率いて南下して長安を伐たせ、前将軍の赫連昌は兵を潼関に駐屯させ、王買徳を撫軍右長史とし、南下して青泥を断たせ、勃勃は大軍で後に続いた。赫連璝は渭陽に至り、降伏者が道路に相次いだ。劉義真は龍驤将軍の沈田子を送って迎撃したが、勝てずに退き、劉迴堡に駐屯した。沈田子は劉義真の司馬である王鎮悪と不仲なので、王鎮悪が城を出たとき、彼を殺した。劉義真は沈田子も殺した。外軍を全て城中に入れ、閉門して守った。関中の郡県は全て(勃勃に)降服した。赫連璝は夜に長安を襲ったが、勝てなかった。勃勃は進んで咸陽を拠点とし、長安の薪をとる道を断った。劉裕はこれを聞き、とても懼れ、劉義真を召して東のかた洛陽を鎮護させ、朱齢石を雍州刺史とし、長安を守らせた。義真は掠奪しながら東に移り、灞上に至るころ、万民は手齢石を追い出し、勃勃を長安に迎え入れた。赫連璝は兵三万で劉義真を追撃し、王師(東晋の義真軍)は敗北し、劉義真は単馬で逃れた。王買徳は東晋の寧朔将軍の傅弘之・輔国将軍の蒯恩・義真の司馬の毛脩之を青泥で捕縛し、人頭を積んで京観を作った。こうして勃勃は長安で将士と盛大に饗宴し、さかずきを王買徳に挙げ、「先日のあなたの言葉は、すべて有効であった、計略に遺漏がないと言える。宗廟や社稷の霊ですら、あなたの謀略に協力している。このさかずきを向けるのは、あなたしかおらぬ」と言った。王買徳に都官尚書を拝し、冠軍将軍を加え、河陽侯に封じた。

原文

赫連昌攻齡石及龍驤將軍王敬于潼關之曹公故壘、克之、執齡石及敬送于長安。羣臣乃勸進、勃勃曰、「朕無撥亂之才、不能弘濟兆庶、自枕戈寢甲、十有二年、而四海未同、遺寇尚熾、不知何以謝責當年、垂之來葉。將明揚仄陋、以王位讓之、然後歸老朔方、琴書卒歲。皇帝之號、豈薄德所膺。」羣臣固請、乃許之。于是為壇于灞上、僭即皇帝位、赦其境內、改元為昌武。遣其將叱奴侯提率步騎二萬攻晉并州刺史毛德祖于蒲坂、德祖奔于洛陽。以侯提為并州刺史、鎮蒲坂。
勃勃歸于長安、徵隱士京兆韋祖思。既至而恭懼過禮、勃勃怒曰、「吾以國士徵汝、柰何以非類處吾。汝昔不拜姚興、何獨拜我。我今未死、汝猶不以我為帝王、吾死之後、汝輩弄筆、當置吾何地。」遂殺之。羣臣勸都長安、勃勃曰、「朕豈不知長安累帝舊都、有山河四塞之固。但荊吳僻遠、勢不能為人之患。東魏與我同壤境、去北京裁數百餘里、若都長安、北京恐有不守之憂。朕在統萬、彼終不敢濟河、諸卿適未見此耳。」其下咸曰、「非所及也。」乃于長安置南臺、以璝領大將軍・雍州牧・錄南臺尚書事。

訓読

赫連昌 齡石及び龍驤將軍の王敬を潼關の曹公故壘に攻め、之に克ち、齡石及び敬を長安に送る。羣臣 乃ち勸進するに、勃勃曰く、「朕 撥亂の才無く、兆庶を弘濟すること能はず、自ら戈に枕し甲に寢し、十有二年、而れども四海 未だ同せず、遺寇 尚ほ熾んにして、何を以て責を當年に謝し、之を來葉に垂るるやを知らず。將に仄陋を明揚して、王位を以て之に讓り、然る後 朔方に歸老して、琴書して歲を卒らんとす。皇帝の號、豈に薄德の膺くる所ならんや」と。羣臣 固く請ひ、乃ち之を許す。是に于いて壇を灞上に為り、僭して皇帝の位に即き、其の境內を赦し、改元して昌武と為す。其の將叱奴侯提を遣はして步騎二萬を率ゐて晉の并州刺史たる毛德祖を蒲坂に攻め、德祖 洛陽に奔る。侯提を以て并州刺史と為し、蒲坂に鎮せしむ。
勃勃 長安に歸り、隱士たる京兆の韋祖思を徵す。既に至りて恭懼して禮に過ぎ、勃勃 怒りて曰く、「吾 國士を以て汝を徵す、柰何 非類を以て吾を處する。汝 昔 姚興を拜せず、何ぞ獨り我を拜すや。我 今 未だ死せず、汝 猶ほ我を以て帝王と為さず、吾 死するの後、汝輩 筆を弄して、當に吾を何の地に置くや」と。遂に之に殺す。羣臣 長安に都せんことを勸め、勃勃曰く、「朕 豈に長安は累帝舊都にして、山河四塞の固に有ることを知らざらんや。但だ荊吳 僻遠にして、勢 人の患と為ること能はず。東魏 我と壤境を同にす、北京を去ること裁(わづ)かに數百餘里、若し長安に都せば、北京 恐らくは不守の憂有らん。朕 統萬に在らば、彼 終に敢て河を濟らず、諸卿 適に未だ此を見ざるのみ」と。其の下 咸 曰く、「及ぶ所に非ざるなり」と。乃ち長安に南臺を置き、璝を以て領大將軍・雍州牧・錄南臺尚書事とす。

現代語訳

赫連昌は朱齢石及び龍驤将軍の王敬を潼関の曹公故塁で攻め、これに勝ち、朱齢石及び王敬を長安に送った。郡臣が(皇帝号を)勧進したが、勃勃は、「朕は乱を治める才覚がなく、万民を救済できず、自ら戈に枕し甲に寝て、十二年、四海は統一されず、残党がなお盛んで、この責任をどうやって取り、次世代に継承してよいか。微賤な者を抜擢し、王位を譲り、その後に朔方に隠居し、音楽と読書で寿命を終えようとしていた。皇帝の号は、徳の薄い私は受けられぬ」と言った。郡臣が強く要請し、勃勃は受諾した。(即位儀礼をする)壇を灞上に作り、不当に皇帝の位に即き、その領内を赦し、昌武と改元した。将の叱奴侯提に歩騎二万を率いて東晋の并州刺史である毛徳祖を蒲坂で攻撃させ、毛徳祖は洛陽に逃げた。叱奴侯提を并州刺史とし、蒲坂を鎮護させた。
勃勃は長安に帰り、隠士である京兆の韋祖思を徴した。会うと韋祖思が礼制を超えて恭懼するので、勃勃は怒り、「私は国士としてあなたを徴したが、どうして異民族として接するのか。あなたはかつて姚興の徴しに応じなかったが、どうして私には応じたのか。私は生きているが、この私を帝王として扱わない、私の死後、あなた方は筆をもてあそび、私を(史書の)どこに配置するつもりか」と言った。彼を殺した。郡臣は長安を都とせよと勧めたが、勃勃は、「長安が歴代皇帝の旧都であり、山河に四方を囲まれた要害であることを知っている。しかし荊呉(東晋)から隔絶し、やつらは脅威とならない。むしろ北魏が国境を接し、北京(統万城)から数百餘里しか離れていない。もし長安を都とすれば、北京は守りが手薄になる。朕が統万城にいれば、北魏は河を渡ってこないだろう、諸卿はこれが分かっていない」と言った。郡臣らは、「ご見識に敵いません」と言った。長安に南台を置き、赫連璝を領大将軍・雍州牧・録南台尚書事とした。

原文

勃勃還統萬、以宮殿大成、于是赦其境內、又改元曰真興。刻石都南、頌其功德、曰、 夫庸大德盛者、必建不刊之業。道積慶隆者、必享無窮之祚。昔在陶唐、數鍾厄運、我皇祖大禹以至聖之姿、當經綸之會、鑿龍門而闢伊闕、疏三江而決九河、夷一元之窮災、拯六合之沈溺、鴻績侔于天地、神功邁于造化、故二儀降祉、三靈叶贊、揖讓受終、光啟有夏。傳世二十、歷載四百、賢辟相承、哲王繼軌、徽猷冠于玄古、高範煥乎疇昔。而道無常夷、數或屯險、王桀不綱、綱漏殷氏、用使金暉絕于中天、神轡輟于促路。然純曜未渝、慶緜萬祀、龍飛漠南、鳳峙朔北。長轡遠馭、則西罩崐山之外。密網遐張、則東絚滄海之表。爰始逮今、二千餘載、雖三統迭制于崤函、五德革運于伊洛、秦雍成篡弒之墟、周豫為爭奪之藪、而幽朔謐爾、主有常尊于上。海代晏然、物無異望于下。故能控弦之眾百有餘萬、躍馬長驅、鼓行秦趙、使中原疲于奔命、諸夏不得高枕、為日久矣。是以偏師暫擬、涇陽摧隆周之鋒、赫斯一奮、平陽挫漢祖之銳。雖霸王繼蹤、猶朝日之升扶桑、英豪接踵、若夕月之登濛汜、自開闢已來、未始聞也。非夫卜世與乾坤比長、鴻基與山嶽齊固、孰能本枝于千葉、重光于萬祀、履寒霜而踰榮、蒙重氛而彌耀者哉。 于是玄符告徵、大猷有會、我皇誕命世之期、應天縱之運、仰協時來、俯順時望。龍升北京、則義風蓋于九區。鳳翔天域、則威聲格于八表。屬姦雄鼎峙之秋、羣凶嶽立之際、昧旦臨朝、日旰忘膳、運籌命將、舉無遺策。親御六戎、則有征無戰。故偽秦以三世之資、喪魂于關隴。河源望旗而委質、北虜欽風而納款。德音著于柔服、威刑彰于伐叛、文教與武功並宣、俎豆與干戈俱運。五稔之間、道風弘著、暨乎七載而王猷允洽。乃遠惟周文、啟經始之基。近詳山川、究形勝之地、遂營起都城、開建京邑。背名山而面洪流、左河津而右重塞。高隅隱日、崇墉際雲、石郭天池、周緜千里。其為獨守之形、險絕之狀、固以遠邁於咸陽、超美於周洛。
若迺廣五郊之義、尊七廟之制、崇左社之規、建右稷之禮、御太一以繕明堂、模帝坐而營路寢、閶闔披霄而山亭、象魏排虛而嶽峙、華林靈沼、崇臺祕室、通房連閣、馳道苑園、可以蔭映萬邦、光覆四海、莫不鬱然並建、森然畢備、若紫微之帶皇穹、閬風之跨后土。然宰司鼎臣、羣黎士庶、僉以為重威之式、有闕前王。于是延王爾之奇工、命班輸之妙匠、搜文梓于鄧林、採繡石于恒嶽、九域貢以金銀、八方獻其瓌寶、親運神奇、參制規矩、營離宮于露寢之南、起別殿于永安之北。高構千尋、崇基萬仞。玄棟鏤榥、若騰虹之揚眉、飛簷舒咢、似翔鵬之矯翼。二序啟矣、而五時之坐開。四隅陳設、而一御之位建。溫宮膠葛、涼殿崢嶸、絡以隨珠、綷以金鏡。雖曦望互升于表、而中無晝夜之殊。陰陽迭更于外、而內無寒暑之別。故善目者不能為其名、博辯者不能究其稱、斯蓋神明之所規模、非人工之所經制。若乃尋名以求類、跡狀以效真、據質以究名、形疑妙出、雖如來須彌之寶塔、帝釋忉利之神宮、尚未足以喻其麗、方其飾矣。
昔周宣考室而詠于詩人、閟宮有侐而頌聲是作。況乃太微肇制、清都啟建、軌一文昌、舊章唯始、咸秩百神、賓享萬國、羣生開其耳目、天下詠其來蘇、亦何得不播之管弦、刊之金石哉。乃樹銘都邑、敷讚碩美、俾皇風振于來葉、聖庸垂乎不朽。其辭曰、 於赫靈祚、配乾比隆。巍巍大禹、堂堂聖功。仁被蒼生、德格玄穹。帝錫玄珪、揖讓受終。哲王繼軌、光闡徽風。道無常夷、數或不競。金精南邁、天輝北映。靈祉踰昌、世葉彌盛。惟祖惟父、克廣休命。如彼日月、連光接鏡、玄符瑞德、乾運有歸。誕鍾我后、應圖龍飛。落落神武、恢恢聖姿。名教內敷、羣妖外夷。化光四表、威截九圍。封畿之制、王者常經。乃延輸爾、肇建帝京。土苞上壤、地跨勝形。庶人子來、不日而成。崇臺霄峙、秀闕雲亭。千榭連隅、萬閣接屏。晃若晨曦、昭若列星。離宮既作、別宇云施。爰構崇明、仰準乾儀。懸甍風閱、飛軒雲垂。溫室嵯峨、層城參差。楹彫虬獸、節鏤龍螭。瑩以寶璞、飾以珍奇。稱因褒著、名由實揚。偉哉皇室、盛矣厥章。義高靈臺、美隆未央。邁軌三五、貽則霸王。永世垂範、億載彌光。

訓読

勃勃 統萬に還り、宮殿の大成するを以て、是に于いて其の境內を赦し、又 改元して真興と曰ふ。石を都南に刻み、其の功德を頌して、曰く、夫れ庸大に德 盛なる者、必ず不刊の業を建つ。道 積もり慶 隆き者、必ず無窮の祚を享く。昔在 陶唐、數々厄運に鍾まり、我が皇祖の大禹 至聖の姿を以て、經綸の會に當たり、龍門を鑿りて伊闕を闢き、三江を疏して九河を決し、一元の窮災を夷し、六合の沈溺を拯ひ、鴻績 天地に侔き、神功 造化に邁れ、故に二儀 祉を降し、三靈 叶贊し、揖讓して終を受け、光に有夏を啟く。世を傳ふること二十、載を歷ること四百、賢辟 相 承ぎ、哲王 軌を繼ぎ、徽猷 玄古に冠たり、高範 疇昔に煥なり。而れども道 常夷なること無く、數 屯險或り、王桀 綱あらず、綱 殷氏を漏し、用て金暉をして中天に絕え、神轡 促路に輟せしむ。然れども純曜 未だ渝らず、慶 萬祀に緜(つらな)り、漠南に龍飛し、朔北に鳳峙す。長轡 遠く馭すれば、則ち西のかた崐山の外に罩す。密網 遐に張れば、則ち東のかた滄海の表に絚(つな)ぐ。爰より始めて今に逮るまで、二千餘載、三統 崤函に迭制し、五德 伊洛に革運し、秦雍 篡弒の墟を成し、周豫 爭奪の藪を為すと雖も、而れども幽朔 謐爾として、主 上に常尊有り。海代 晏然として、物 下に異望無し。故に能く控弦の眾百有餘萬、馬を躍らせて長驅し、秦趙に鼓行し、中原をして奔命に疲れ、諸夏をして高枕するを得ざらしめ、日を為すこと久し。是を以て偏師 暫擬すれば、涇陽 隆周の鋒を摧く。赫斯して一たび奮へば、平陽 漢祖の銳を挫く。霸王 蹤を繼ぎ、猶ほ朝日の扶桑に升るがごとく、英豪 踵を接し、夕月の濛汜に登るが若しと雖も、開闢より已來、未だ始めより聞かざるなり。夫れ卜世と乾坤とを長に比し、鴻基と山嶽とを齊しく固とするに非ずんば、孰れか能く千葉に本枝りて、萬祀に重光し、寒霜を履みて踰(いよ)々榮え、重氛を蒙て彌(いよ)々耀く者あらんや。
是に于いて玄符 徵を告げ、大猷 會有り、我が皇 命世の期に誕にし、天縱の運に應じ、仰ぎて時來に協ひ、俯きて時望に順ふ。北京に龍升するときは、則ち義風 九區に蓋ふ。天域に鳳翔するときは、則ち威聲 八表に格る。姦雄鼎峙の秋、羣凶嶽立の際に屬きて、昧旦に臨朝し、日旰まで膳を忘れ、籌を運し將を命じて、舉げて遺策無し。親ら六戎を御すれば、則ち征有りて戰ひ無し。故に偽秦 三世の資を以て、魂を關隴に喪ふ。河源 旗を望みて委質し、北虜 風を欽みて納款す。德音 柔服に著はれ、威刑 伐叛に彰はれ、文教と武功と並びに宣し、俎豆と干戈と俱に運らす。五稔の間、道風 弘に著はし、七載に暨びて王猷 允に洽し。乃ち遠く周文を惟ひて、經始の基を啟く。近く山川を詳らかにし、形勝の地を究め、遂に都城を營起して、京邑を開建す。名山を背として洪流に面し、河津を左にして重塞を右にす。高隅 日を隱し、崇墉 雲に際(いた)り、石郭天池、周緜千里なり。其の獨守の形、險絕の狀を為し、固を以(すで)に遠く咸陽に邁へ、美を周洛に超えしむ。
若し迺ち五郊の義を廣くし、七廟の制を尊び、左社の規を崇び、右稷の禮を建て、太一に御して以て明堂を繕ひ、帝坐に模して路寢を營み、閶闔 霄を披て山のごとく亭(たか)く、象魏 虛を排して嶽のごとく峙(そばだ)ち、華林の靈沼、崇臺の祕室、通房の連閣、馳道の苑園、以て萬邦を蔭映し、四海を光覆す可し、鬱然として並び建ち、森然として畢に備へ、紫微の皇穹を帶び、閬風の后土に跨ぐが若くあらざる莫し。然れども宰司鼎臣、羣黎士庶、僉 以為へらく重威の式、前王に闕く有りと。 是に于いて王爾の奇工を延き、班輸の妙匠を命し〔一〕、文梓を鄧林に搜り、繡石を恒嶽に採り、九域 貢するに金銀を以てし、八方 其の瓌寶を獻じ、親ら神奇を運び、規矩を參制し、離宮を露寢の南に營し、別殿を永安の北に起す。高構は千尋、崇基は萬仞なり。玄棟鏤榥、騰虹の眉を揚くが若く、飛簷舒咢、翔鵬の翼を矯むるに似る。二序 啟きて、五時の坐 開く。四隅 陳設して、一御の位 建つ。溫宮 膠葛として、涼殿 崢嶸たり、絡むに隨珠を以てし、綷(めぐ)らすに金鏡を以てす。曦望 互いに表に升すると雖も、中に晝夜の殊無し。陰陽 迭に外に更れども、內に寒暑の別無し。故に善く目る者も其の名を為ること能はず、博く辯ずる者も其の稱を究むること能はず、斯れ蓋し神明の規模する所にして、人工の經制する所に非ざるなり。若し乃ち名を尋ねて以て類を求め、狀を跡ねて以て真に效ひ、質に據りて以て名を究め、形は疑しく妙出し、如來須彌の寶塔、帝釋忉利の神宮と雖も、尚ほ未だ以て其の麗に喻えて、其の飾を方ぶるに足らず。
昔 周宣 室を考(な)して詩人に詠して〔二〕、閟宮 侐たる有りて〔三〕頌聲 是れ作る。況んや乃ち太微 制を肇め、清都 啟建し、軌一に文昌にして、舊章 唯れ始め、咸 百神に秩し、萬國を賓享し、羣生 其の耳目を開き、天下 其の來蘇を詠し、亦 何ぞ得て之に管弦を播し、之を金石に刊らざるや。乃ち銘を都邑に樹て、敷きて碩美を讚して、皇風をして來葉に振ひ、聖庸をして不朽に垂れしむ。其の辭に曰く、 於(あ)あ赫々たる靈祚、乾に配し隆を比ぶ。巍巍たる大禹、堂堂たり聖功。仁を蒼生に被して、德は玄穹に格る。帝 玄珪を錫ひ、揖讓して受終す。哲王 軌を繼ぎ、光に徽風を闡にす。道に常夷無く、數 競はざる或り。金精 南に邁みて、天輝 北に映る。靈祉 踰々昌にして、世葉 彌々盛なり。惟祖 惟父、克く休命を廣む。彼の日月の如く、光を連ね鏡を接ぎ、玄符 瑞德、乾運 歸する有り。誕に我が后に鍾まり、圖に應じて龍飛す。落落たる神武、恢恢なる聖姿。名教 內に敷き、羣妖 外に夷く。化 四表に光き、威 九圍に截たり。封畿の制は、王者の常經なり。乃ち輸爾を延き、肇めて帝京を建つ。土 上壤に苞ひ、地 勝形を跨ぐ。庶人 子來し、日あらずして成る。崇臺 霄に峙ち、秀闕 雲のごとく亭し。千榭 隅を連ね、萬閣 屏を接す。晃たること晨曦が若く、昭たること列星が若し。離宮 既に作り、別宇 云に施す。爰に崇明を構へ、仰ぐこと乾儀に準らふ。懸甍 風のごとく閱れ、飛軒 雲のごとく垂る。溫室 嵯峨として、層城 參差なり。楹に虬獸を彫り、節に龍螭を鏤す。瑩するに寶璞を以てし、飾るに珍奇を以てす。稱は褒に因りて著れ、名は實に由りて揚ぐ。偉なるかな皇の室、盛なるかな厥の章。義 靈臺に高く、美 未央に隆し。軌を三五に邁しめ、則を霸王に貽(のこ)す。永世に範を垂れ、億載に彌々光あらん。

〔一〕王爾は『淮南子』に見える工人の名。班輸は春秋魯の工人のこと。
〔二〕『毛序』小雅 鴻雁之什 斯干に、「斯干、宣王考室也(斯干は、宣王 室を考(な)すなり)」とあり、王侯が宮殿を築いたときの祝いの詩であるという。
〔三〕『毛詩』魯頌 駉之什 閟宮に、「閟宮有恤」とある。

現代語訳

勃勃は統万城に帰り、宮殿が完成すると、領内を赦し、真興と改元した。都南に石碑を刻み、その功徳を称えて、言うには、偉大な徳の盛んな者は、必ず不朽の事業を立てる、道義に適う者は、必ず永遠の祝福を受ける。むかし陶唐(帝尭)は、治世の課題を抱えていたが、わが祖先の大禹が、治水を担当し、龍門を削り伊闕を開き、三江と九河を制御し、天下の災難をなくし、各地の水害を救ったので、功績は天地に等しく、手柄は万物に優れたから、陰陽が天命を降し、天地人が賛同し、禅譲を受け、夏王朝を開いた。二十代、四百年を経て、明君や、賢王が相次いで出現し、優れた政策は、先古の規範となった。しかし政道は常態を保てず、困難が訪れ、王桀は綱紀がなく、殷王朝に明け渡し、輝きは中天に絶え、馬は隘路で止まった。しかし栄光は消えず、祭祀が万世に連なり、漠南で雄飛し、朔北に割拠した。遠征し、西方は崐山の外を制圧した。空白地帯を攻め、東方は滄海に達した。当時から現在まで、二千餘年、三統が関中で交替し、五徳が伊洛で持ち回り、秦雍が簒逆で廃墟となり、周豫で争奪で荒地となっても、幽朔の地は安定して、主君をいただき続けた。沿岸は静かで、臣下は野心を持たなかった。だから精鋭が百餘万、馬を長駆させて、秦趙に進攻し、中原を疲弊させ、漢族を振り回し、好機を待った。いざ一軍を動かし、涇陽で隆周を上回った。軍を奮って、平陽で漢祖を圧倒した。覇王が、東から朝日が昇るように続々と現れ、英雄が、西から月が昇るように次々と現れているが、世の始まり以来、これほどの前例はない。天命の支持と、堅固な領土を併せ持たねば、基礎を築いて、万世の始祖となり、霜を踏んで栄え、悪気を受けて輝けようか。
かくして符命が徴証を告げ、大道が集まり、わが皇統は大いなる天命を受け、それに応じ、上は時代の流れを受け、下は万民の願いに答えた。北京(統万城)で皇帝になり、義の教化は九域をおおった。上天を飛翔し、声望が八方面から寄せられた。群雄割拠の時代、凶悪なものが乱立したので、朝に政務を始め、夜まで食事を忘れ、良策をめぐらせ諸将に命じて、失策は一つもなかった。自ら六軍を統御し、戦わずとも帰順をさせた。そうして偽秦(後秦)は三代目に、関隴で滅亡した。黄河の水源は、(赫連氏の)軍旗を見るだけで人質を出し、北方の胡族は風を受けて帰属した。仁徳により恭順を促し、刑罰が反徒に及び、文教と武功が行き渡り、礼法と兵法が充足した。五年のうちに、風化が及び、七年たてば、王道は浸透するだろう。遠く周文王を模範とし、建国し基礎を築いた。近く地形を調査し、形勝の地を見極め、都城を造営し、京邑を創建した。名山を背にして大きな川に面し、左に渡し場があり右に要害を備える。高い城壁は日を隠し、雲に届くほどで、外城と水路は、千里を取り囲む。防衛の構えは、無二の形であり、咸陽より堅固で、洛陽より美しい。
もし五郊の義を広げ、七廟の制を尊び、左に社、右に稷を設け、太一を奉り明堂を作り、帝坐に模して正殿を築き、正門は空に拡がって山のように高く、宮門は虚を排して嶽のようにそばだち、華林の霊沼、崇台の秘室、通房の連閣、馳道の苑園に、万国を投影し、四海を光で覆い、盛んに並び立ち、多くを完備して、北極星のある空、閬風山のある地を織り込んだ。ところが郡臣や、庶民たちは、権威の格式が、古代の帝王に及ばぬと言った。 そこで王爾、班輸のような腕のよい工人を招き、模様がある木を鄧林で、石を恒嶽で採取し、九域に金銀を献上させ、八方に名産品を提出させ、自ら名品を運び、計測を監督し、離宮を露寝の南に、別殿を永安宮の北に造営した。高さは千尋、広さは万仞である。窓の彫刻は、騰虹が眉を揚げ、軒先の造形は、翔鵬が翼を曲げている。東西を啓き、五時の座を開いた。四隅に敷設し、一御の位を建てた。温宮は広く複雑で、涼殿は深く険しく、随珠を絡ませ、金鏡を巡らせた。日光は当たるが、屋内は昼夜の区別がない。外で陰陽が移っても、屋内は寒暑が変化しない。物知りでも名付けられず、雄弁なひとでも形容できず、神がかりの構造で、人工物とは思えない。名を求めて似たものを探し、形を本物に近づけ、性質を探究しても、捉えどころがなく、如来や須弥山の宝塔、帝釈や忉利天の神宮であっても、その壮麗さ、装飾とは比較にならない。
むかし周宣王が宮殿を建てると詩人が歌い、霊廟が清静になれば賛美の文が作られた。まして皇帝の居所、清らかなる都を創設し、揃って功績が高まり、先例を踏まえ、百神を祭り、諸侯に支持され、万民が耳目を開き、天下は復興を歌うのだから、どうして管弦を演奏し、金石に記録しないのか。石碑を都邑に立て、広く美事を称賛し、皇帝の威風を後世に表し、聖代を永遠に伝えよう。その碑文に、 ああ赫々たる国運は、天のように高い。巍巍として(嵩高な)大禹は、堂堂たる功績がある。仁愛を万民に施し、徳政は天に届いた。帝王は黒玉を賜わり、禅譲を受けた。賢王が(夏王朝を)世襲し、美風を広めた。だが運命の変遷には、逆らえない(桀が出現した)。星が南に進み、北の空(朔北)で輝いた。霊性は盛んになり、代々栄えた。(勃勃の)祖父と父は、よき使命を受けた。日月のように、交替で輝いた。符瑞が、天運の到来を告げ、領土に現れ、これに呼応して雄飛した。度量のある神武、ゆったりとした聖姿をもつ。名教を領内に広め、悪党を領外で倒した。教化が四方を輝かせ、兵威が九囲を断ち切った。首都圏の区画は、王者がつねに定めるもの。そこで名工を招き、帝王の都を創建した。肥沃で、防衛に優れる地を選んだ。庶民が駆けつけ、すぐに完成した。崇台は空にそびえ、秀闕は雲のように高い。千や万の建物が、密集している。朝日のように眩しく、列星のように明るい。離宮ができ、別殿を計画した。聡明な臣を集め、帝王の儀礼を行った。懸甍は風のよう、飛軒は雲のようである。温室は鋭く高く、層城が入り乱れる。柱に虬虎を、節に龍螭を彫刻した。宝璞を施し、珍宝で飾った。称賛が寄せられ、実物はより優れている。偉大なる皇室よ、秀逸な言辞よ。義は霊台に高く、美は未央宮に表れている。模範を帝王に示し、規則を覇王に遺す。永遠に手本となり、億年に輝くようにといった。

原文

其祕書監胡義周之辭也。名其南門曰朝宋門、東門曰招魏門、西門曰服涼門、北門曰平朔門。追尊其高祖1.訓兒曰元皇帝、曾祖武曰景皇帝、祖豹子曰宣皇帝、父衞辰曰桓皇帝、廟號太祖、母苻氏曰桓文皇后。勃勃性凶暴好殺、無順守之規。常居城上、置弓劍于側、有所嫌忿、便手自殺之、羣臣忤視者毀其目、笑者決其脣、諫者謂之誹謗、先截其舌而後斬之。夷夏囂然、人無生賴。在位2.十三年而宋受禪、以宋元嘉二年死。子昌嗣偽位、尋為魏所擒。弟定僭號于平涼、遂為魏所滅。自勃勃至定凡3.二十有六載而亡。
史臣曰、赫連勃勃獯醜種類、入居邊宇、屬中壤分崩、緣間肆慝、控弦鳴鏑、據有朔方。遂乃法玄象以開宮、擬神京而建社、竊先王之徽號、備中國之禮容、驅駕英賢、闚𨵦天下。然其器識高爽、風骨魁奇、姚興覩之而醉心、宋祖聞之而動色。豈陰山之韞異氣、不然何以致斯乎。雖雄略過人、而凶殘未革、飾非距諫、酷害朝臣、部內囂然、忠良卷舌、滅亡之禍、宜在厥身、猶及其嗣、非不幸也。
贊曰、淳維遠裔、名王之餘。嘯羣龍漠、乘釁侵漁。爰創宮宇、易彼氊廬。雖弄神器、猶曰凶渠。

1.「訓兒」は、「訓兜」の誤りが疑われるという。
2.「十三年」は、「十四年」に作るのが正しいという。
3.「二十有六載」は、「二十有五載」に作るのが正しいという。

訓読

其の祕書監たる胡義周の辭なり。其の南門を名づけて朝宋門と曰ひ、東門を招魏門と曰ひ、西門を服涼門と曰ひ、北門を平朔門と曰ふ。追尊して其の高祖たる訓兒を元皇帝と曰ひ、曾祖の武を景皇帝と曰ひ、祖の豹子を宣皇帝と曰ひ、父の衞辰を桓皇帝と曰ひ、廟を太祖と號し、母の苻氏を桓文皇后と曰ふ。勃勃の性 凶暴にして殺すことを好み、順守の規無し。常に城上に居し、弓劍を側に置き、嫌忿する所有れば、便ち手づから自ら之を殺し、羣臣 視に忤らふ者 其の目を毀し、笑ふ者は其の脣を決き、諫むる者は之を誹謗と謂ひ、先に其の舌を截ちて後に之を斬る。夷夏 囂然とし、人 生賴する無し。在位十三年にして宋 受禪し、宋の元嘉二年を以て死す。子の昌 偽位を嗣ぎ、尋いで魏の為に擒へらる。弟の定 平涼に僭號し、遂に魏の為に滅ぼさる。勃勃より定に至るまで凡そ二十有六載にして亡ぶ。
史臣曰く、赫連勃勃は獯醜の種類にして、入りて邊宇に居し、中壤の分崩するに屬きて、間に緣りて慝を肆にし、控弦鳴鏑して、朔方を據有す。遂に乃ち玄象に法りて以て宮を開き、神京に擬へて社を建て、先王の徽號を竊み、中國の禮容を備へ、英賢を驅駕し、天下を闚𨵦す。然して其の器識は高爽にして、風骨は魁奇、姚興 之を覩て心を醉はせ、宋祖 之を聞きて色を動す。豈に陰山の異氣を韞むるか、然らざれば何を以て斯に致るか。雄略 人に過ると雖も、凶殘 未だ革めず、非を飾り諫を距け、朝臣を酷害し、部內 囂然として、忠良 舌を卷き、滅亡の禍、宜しく厥の身に在るべし、猶ほ其の嗣に及びては、不幸ならずんば非ざるなり。
贊に曰く、淳維の遠裔、名王の餘。羣龍を漠に嘯き、釁に乘じて侵漁す。爰に宮宇を創め、彼の氊廬を易ふ。神器を弄すと雖も、猶ほ凶渠と曰はん。

現代語訳

(前段は)秘書監である胡義周の作品である。統万城の南門を朝宋門、東門を招魏門、西門を服涼門、北門を平朔門と名付けた。追尊して勃勃の高祖父の訓児(訓兜)を元皇帝、曾祖父の武を景皇帝、祖父の豹子を宣皇帝、父の衛辰を桓皇帝といい、廟を太祖とし、母の苻氏を桓文皇后といった。勃勃の性格は凶暴で殺人を好み、道理を守らなかった。いつも城壁の上におり、弓剣をそばに置き、不愉快な者は、手ずから殺し、郡臣が直視したら目をつぶし、笑えば唇を裂き、諫めれば誹謗と捉え、舌を切ってから斬り殺した。胡族も漢族も騒がしく、人々の生存は脅かされた。在位十三年(正しくは十四年)のとき南朝宋が東晋から受禅し、宋の元嘉二(四二五)年に死んだ。子の赫連昌が偽位を嗣ぎ、ほどなく北魏に捕らわれた。弟の赫連定が平涼で僭号したが、北魏に滅ぼされた。勃勃から赫連定まで通算で二十六年(正しくは二十五年)で滅亡した。
史臣がいう、赫連勃勃は醜悪な異民族の出身で、(後秦に)入朝して辺境におり、中原が崩壊すると、隙に付け込んで、遠征をくり返し、朔方を領有した。ついには天体を象って宮殿を作り、聖なる都をまねて宗廟を建て、先王の称号を盗み、漢族の礼制を整え、英賢を招致し、天下を窺った。その素質は優れて心地よく、容姿は特別に美しく、姚興は一目で心酔し、宋祖(劉裕)は様子を聞いて動揺した。陰山の異気を吸収したのだろうか、さもなくば成功に説明が付かぬ。雄略が人に勝ったが、凶逆さを改めず、非道を美化して諫言を拒絶し、朝臣を残酷に殺して、領内は騒がしく、忠良な人は口を塞いだ、滅亡の結末は、自ら引き寄せたものであり、子供たちが、不幸にならぬ訳がないと。
賛にいう、淳維(匈奴)の後裔、名王(禹)の傍流の生き残り。漠北の群龍をうそぶき、隙に乗じて侵略した。宮殿を創設し、遊牧民のテントと取り替えた。皇帝号を盗もうとしたが、凶悪な首領と言うべきだろうと。