いつか読みたい晋書訳

資治通鑑_晋紀一_巻七十九

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
維基文庫から頂いてきたテキストを、中華書局本を見ながら修正しています。修正の漏れ等があるかも知れません。また、このページでは現代語訳を行いません(現代語訳については、別の形で発表します)。現代語訳を行う際に、再び中華書局本を参照し、テキストの修正を現代語訳(のみ)に織り込む場合があります。このページは、現代語訳に至る途中のメモという位置づけです。
全体がメモですので、原文・訓読・現代語訳のあいだで、改行や句読点の位置を揃えていません。訓読・現代語訳が対応していない箇所があります。

泰始元(二六五)年

原文

世祖武皇帝上之上泰始元年(乙酉、公元二六五年)
春三月、呉主使光禄大夫紀陟・五官中郎将洪璆與徐紹・孫彧偕来報聘。紹行至濡須、有言紹誉中国之美者、呉主怒、追還、殺之。
夏四月、呉改元甘露。五月、魏帝加文王殊礼、進王妃曰后、世子曰太子。癸未、大赦。
秋七月、呉主逼殺景皇后、遷景帝四子於呉。尋又殺其長者二人。八月辛卯、文王卒、太子嗣為相国・晋王。九月乙未、大赦。戊子、以魏司徒何曾為晋丞相。癸亥、以驃騎将軍司馬望為司徒。乙亥、葬文王於崇陽陵。
冬、呉西陵督步闡表請呉主徙都武昌。呉主従之、使御史大夫丁固・右将軍諸葛靚守建業。闡、騭之子也。
十二月壬戌、魏帝禅位於晋。甲子、出舎於金墉城。太傅司馬孚拝辞、執帝手、流涕歔欷不自勝、曰、「臣死之日、固大魏之純臣也。」丙寅、王即皇帝位、大赦、改元。丁卯、奉魏帝為陳留王、即宮於鄴。優崇之礼、皆倣魏初故事。魏氏諸王皆降為候。追尊宣王為宣皇帝、景王為景皇帝、文王為文皇帝。尊王太后曰皇太后。封皇叔祖父孚為安平王、叔父幹為平原王、亮為扶風王、伷為東莞王、駿為汝陰王、肜為梁王、倫為琅邪王、弟攸為斉王、鑒為楽安王、機為燕王、又封羣従司徒望等十七人皆為王。以石苞為大司馬、鄭沖為太傅、王祥為太保、何曾為太尉、賈充為車騎将軍、王沈為驃騎将軍。其餘文武増位進爵有差。乙亥、以安平王孚為太宰、都督中外諸軍事。未幾、又以車騎将軍陳騫為大将軍、与司徒義陽王望・司空荀顗、凡八公、同時並置。帝懲魏氏孤立之敝、故大封宗室、授以職任、又詔諸王皆得自選国中長吏。衛将軍斉王攸独不敢、皆令上請。
詔除魏宗室禁錮、罷部曲将及長吏納質任。帝承魏氏刻薄奢侈之後、矯以仁倹。太常丞許奇、允之子也、帝将有事於太廟、朝議以奇父受誅、不宜接近左右、請出為外官。帝乃追述允之宿望、称奇之才、擢為祠部郎。有司言御牛青絲紖断、詔以青麻代之。
初置諫官、以散騎常侍傅玄・皇甫陶為之。玄、幹之子也。玄以魏末士風頽敝、上疏曰、「臣聞先王之御天下、教化隆於上、清議行於下。近者魏武好法術而天下貴刑名、魏文慕通達而天下賤守節、其後綱維不攝、放誕盈朝、遂使天下無復清議。陛下龍興受禅、弘尭・舜之化、惟未挙清遠有礼之臣以敦風節、未退虚鄙之士以懲不恪、臣是以猶敢有言。」上嘉納其言、使玄草詔進之、然亦不能革也。
初、漢征西将軍司馬鈞生豫章太守量、量生穎川太守雋、雋生京兆尹防、防生宣帝。

訓読

春三月、呉主 光禄大夫紀陟・五官中郎将洪璆をして徐紹・孫彧と與に偕来し報聘せしむ。紹 行きて濡須に至り、紹 中国の美を誉めて言ふこと有りて、呉主 怒り、追ひて還し、之を殺す。
夏四月、呉 甘露と改元す。五月、魏帝 文王に殊礼を加へ、王妃を進めて后と曰ひ、世子を太子と曰ふ。癸未、大赦す。
秋七月、呉主 逼りて景皇后を殺し、景帝の四子を呉に遷す。尋いで又 其の長なる者二人を殺す。八月辛卯、文王 卒し、太子 嗣ぎて相国・晋王と為る。九月乙未、大赦す。戊子、魏の司徒何曾を以て晋の丞相と為す。癸亥、驃騎将軍の司馬望を以て司徒と為す。乙亥、文王を崇陽陵に葬る。
冬、呉の西陵督たる步闡 表して呉主に都を武昌に徙すことを請ふ。呉主 之に従ひ、御史大夫の丁固・右将軍の諸葛靚をして建業を守らしむ。闡は、騭の子なり。
十二月壬戌、魏帝 位を晋に禅る。甲子、出でて金墉城に舎す。太傅の司馬孚 辞を拝し、帝の手を執り、流涕し歔欷して自ら勝へず、曰く、「臣 死するの日、固より大魏の純臣なり」と。丙寅、王 皇帝の位に即き、大赦し、改元す。丁卯、魏帝を奉じて陳留王と為し、即ち鄴に宮せしむ。優崇の礼、皆 魏初の故事に倣ふ。魏氏の諸王 皆 降して候と為す。宣王を追尊して宣皇帝と為し、景王を景皇帝と為し、文王を文皇帝と為す。王太后を尊びて皇太后と曰ふ。皇叔祖父の孚を封じて安平王と為し、叔父の幹を平原王と為し、亮扶風王と為し、伷を東莞王と為し、駿を汝陰王と為し、肜を梁王と為し、倫を琅邪王と為し、弟の攸を斉王と為し、鑒を楽安王と為し、機を燕王と為し、又 羣従の司徒望ら十七人を封じて皆 王と為す。石苞を以て大司馬と為し、鄭沖もて太傅と為し、王祥もて太保と為し、何曾もて太尉と為し、賈充もて車騎将軍と為し、王沈もて驃騎将軍と為す。其の餘 文武 位を増して爵を進むるもの差有り。乙亥、安平王の孚を以て太宰と為し、中外諸軍事を都督せしむ。未だ幾ばくらずして、又 車騎将軍の陳騫を以て大将軍と為し、司徒の義陽王望・司空の荀顗と与に、凡そ八公、同時に並置す。帝 魏氏 孤立するの敝に懲り、故に大いに宗室を封じ、授くるに職任を以てし、又 諸王に詔して皆 自ら国中の長吏を選ぶことを得しむ。衛将軍たる斉王の攸 独り敢てせず〔一〕、皆 上請せしむ。
詔して魏の宗室の禁錮を除き、部曲将及び長吏の質任を納るることを罷む。帝 魏氏の刻薄にして奢侈なる後を承け、仁倹を以て矯せんとす。太常丞の許奇、允の子なり、帝 将に太廟に事へんとすること有り、朝議 奇の父 誅を受くるを以て、宜しく左右に接近すべからず、出して外官と為すを請ふ。帝 乃ち追ひて允の宿望を述し、奇の才を称へ、擢して祠部郎と為す。有司 牛を御するに青絲もて紖断すべしと言ふも、詔して青麻を以て之に代ふ〔二〕。
初め諫官を置くに、散騎常侍の傅玄・皇甫陶を以て之と為す。玄、幹の子なり。玄 魏末の士風 頽敝たるを以て、上疏して曰く、「臣 聞くに先王の天下を御するに、教化 上に隆ければ、清議 下に行はる。近者 魏武 法術を好みて天下 刑名を貴び、魏文 通達を慕ひて天下 守節を賤しみ、其の後 綱 維 攝(ととの)はず、放誕 朝に盈ち、遂に天下をして復た清議を無からしむ。陛下 龍興して禅を受け、尭・舜の化を弘め、惟だ未だ清遠有礼の臣を挙げて以て風節を敦くせず、未だ虚鄙の士を退けて以て不恪を懲(こ)らしめざれば、臣 是を以て猶ほ敢へて言有り」と。上 其の言を嘉納し、玄をして詔を草して之を進めしめ、然れども亦た革(あらた)むること能はず。
初め、漢の征西将軍たる司馬鈞 豫章太守の量を生み、量 穎川太守の雋を生み、雋 京兆尹の防を生み、防 宣帝を生む。

〔一〕司馬攸伝の以下の文を踏まえている。詔議籓王令自選國內長吏,攸奏議曰、昔聖王封建萬國,以親諸侯,軌跡相承,莫之能改。誠以君不世居,則人心偷幸……。翻訳に反映する。
〔二〕武帝紀の末尾に「有司嘗奏御牛青絲紖斷,詔以青麻代之……」とあり、これを踏まえている。

現代語訳

泰始元(二六五)年〈晋書 武帝紀〉
春三月、呉主(孫晧)は光禄大夫の紀陟・五官中郎将の洪璆に徐紹・孫彧と同行し(魏王朝に)答礼の使者として赴かせた。徐紹が濡須に到着すると、彼には中原を称賛する言葉があったという者がおり、呉主は怒って、追って彼を殺した〈三国志 巻四十八 孫晧伝〉
夏四月、呉王朝は甘露と改元した〈孫晧伝〉
五月、魏帝は文王(司馬昭)に特別な礼を加え、王妃を進めて王后とし、世子を太子とした。癸未、大赦した〈三国志 巻四 三少帝 陳留王紀〉
秋七月、呉主は迫って景皇后(孫休の朱皇后)を殺し、景帝(孫休)の四人の子を呉郡に移した。ほどなく年長の二人を殺した〈孫晧伝〉。八月辛卯、文王が亡くなり〈陳留王紀〉、太子(司馬炎)が嗣いで相国・晋王となった〈晋書 巻三 武帝紀〉。九月乙未、大赦した。戊子、魏の司徒である何曾を晋の丞相とした。癸亥、驃騎将軍の司馬望を司徒とした〈陳留王紀〉。乙亥、文王を崇陽陵に葬った〈晋書 巻二 文帝紀〉
冬、呉の西陵督である步闡が上表して呉主に武昌への遷都を提案した。呉主はこれに従い、御史大夫の丁固・右将軍の諸葛靚に建業を守らせた。歩闡は、歩隲の子である〈孫晧伝〉
十二月壬戌、魏帝が位を晋に禅譲し、甲子、(宮城を)出て金墉城に移った〈陳留王紀〉。太傅の司馬孚が命令書を受け、魏帝の手を取り、むせび泣いて堪えきれず、「私は死する日まで、ずっと大魏の純臣です」と言った〈晋書 巻三十七 宗室 司馬孚伝に依る〉。丙寅、晋王は帝位に即き、大赦し、(泰始と)改元した。丁卯、魏帝を陳留王とし、鄴に住まわせた。礼制上の優遇は、全て魏初の故事(漢帝の前例)を踏襲した。魏王朝の諸王は全て侯に降格した。宣王(司馬懿)を追尊して宣皇帝とし、景王(司馬師)を景皇帝とし、文王を文皇帝とした。王太后を尊んで皇太后とした。祖父の弟の司馬孚を封建して安平王とし、叔父の司馬幹を平原王とし、司馬亮を扶風王とし、司馬伷を東莞王とし、司馬駿を汝陰王とし、司馬肜を梁王とし、司馬倫を琅邪王とし、弟の司馬攸を斉王とし、司馬鑒を楽安王とし、司馬機を燕王とし、さらに親族の司徒の司馬望ら十七人を封建していずれも王とした。石苞を大司馬とし、鄭沖を太傅とし、王祥を太保とし、何曾を太尉とし、賈充を車騎将軍とし、王沈を驃騎将軍とした。これ以外の文武の官爵の昇進には差等があった。乙亥、安平王の司馬孚を太宰とし、中外諸軍事を都督させた〈武帝紀〉。間を置かず、車騎将軍の陳騫を大将軍とし〈晋書 巻三十五 陳騫伝に依る〉、司徒である義陽王の司馬望・司空の荀顗とともに、全部で八公を同時に設置した。武帝は魏帝が孤立して失敗したことを受け、大いに宗室を封建し、官職を授け〈未詳〉、さらに諸王に詔をして自国で長吏を選任できるものとした。衛将軍である斉王の司馬攸だけが敢えて実行せず、皆が従うように要請した〈晋書 巻三十八 斉王攸伝に依る〉
詔して魏の宗室の禁錮を除き、部曲将及び長吏の質任を入れることを止めた〈武帝紀〉。武帝は魏室が刻薄であり奢侈であった後を受け、仁愛と倹約により是正しようとした。太常丞の許奇は、許允の子である。武帝が太廟に参詣しようとしたとき、朝廷では許奇の父が誅殺されたので、同行させてはいけません、朝廷の外で任官させなさいと言った。武帝は遡って許允の考えをなぞり、許奇の才能をたたえ、抜擢して祠部郎とした。担当官は牛を引くために青い絹の組紐を使おうとしたが、詔して青い麻で代用させた〈武帝紀〉
はじめて諫言の官員を設置し〈武帝紀〉、散騎常侍の傅玄と皇甫陶を任命した。傅玄は、傅咸の子である。傅玄は魏末の風潮が退廃的であったので、上疏して、「わたしが聞きますに先王の天下を統治するとき、教化が上で高ければ、清議は下で行われたといいます。近年は魏武(曹操)が法術を好んだので天下は刑名を重んじ、魏文(曹丕)が風流を好んだので天下は守節を軽んじ、その後は綱紀が引き締まらず、放埒さが朝廷に満ち、天下から清議が失われてしまいました。陛下が禅譲を受け、尭・舜のような教化を広めておられますが、まだ清らかで礼をわきまえた人士を任用して風教を整えておらず、まだ虚妄な人士を遠ざけて不正を懲らしめておりません。ですから敢えて申し上げたのです」と言った。武帝はこの助言を受け入れ、傅玄に詔を作って提出させ、しかし結局は風潮は改められなかった〈傅玄伝に依る〉
これより先、漢の征西将軍である司馬鈞は豫章太守の司馬量を生み、司馬量は穎川太守の司馬雋を生み、司馬雋は京兆尹の司馬防を生み、司馬防は宣帝を生んだのである〈宣帝紀〉

泰始二(二六六)年

原文

世祖武皇帝上之上泰始二年(丙戌、公元二六六年)
春正月丁亥、即用魏廟祭征西府君以下并景帝凡七室。辛丑、尊景帝夫人羊氏曰景皇后、居弘訓宮。丙午、立皇后弘農楊氏。后、魏通事郎文宗之女也。群臣奏、「五帝即天帝也、王気時異、故名号有五。自今明堂・南郊宜除五帝座。」従之。帝、王粛外孫也、故郊祀之礼、有司多従粛議。
二月、除漢宗室禁錮。三月戊戌、呉遣大鴻臚張儼・五官中郎将丁忠来弔祭。呉散騎常侍廬江王蕃、体気高亮、不能承顔順指、呉主不悦、散騎常侍萬彧・中書丞陳声従而譖之。丁忠使還、呉主大会群臣、蕃沉醉頓伏。呉主疑其詐、轝蕃出外。頃之、召還。蕃好治威儀、行止自若。呉主大怒、呵左右於殿下斬之、出、登来山、使親近擲蕃首、作虎跳狼争咋噛之、首皆砕壊。
丁忠説呉主曰、「北方無守戦之備、弋陽可襲而取。」呉主以問群臣、鎮西大将軍陸凱曰、「北方新并巴・蜀、遣使求和、非求援於我也、欲蓄力以俟時耳。敵勢方強、而欲徼幸求勝、未見其利也。」呉主雖不出兵、然遂与晋絶。凱、遜之族子也。
夏五月壬子、博陵元公王沈卒。六月丙午晦、日有食之。文帝之喪、臣民皆従権制、三日除服。既葬、帝亦除之、然猶素冠疏食、哀毀如居喪者。秋八月、帝将謁崇陽陵、群臣奏言、秋暑未平、恐帝悲感摧傷。帝曰、「朕得奉瞻山陵、体気自佳耳。」又詔曰、「漢文不使天下尽哀、亦帝王至謙之志。当見山陵、何心無服。其議以衰絰従行。群臣自依旧制。」尚書令裴秀奏曰、「陛下既除而復服、義無所依。若君服而臣不服、亦未之敢安也。」詔曰、「患情不能跂及耳、衣服何在。諸君勤勤之至、豈苟相違。」遂止。中軍将軍羊祜謂傅玄曰、「三年之喪、雖貴遂服、礼也、而漢文除之、毀礼傷義。今主上至孝、雖奪其服、実行喪礼。若因此復先王之法、不亦善乎。」玄曰、「以日易月、已数百年、一旦復古、難行也。」祜曰、「不能使天下如礼、且使主上遂服、不猶愈乎。」玄曰、「主上不除而天下除之、此為但有父子、無復君臣也。」乃止。
戊辰、群臣奏請易服復膳、詔曰、「毎感念幽冥、而不得終苴絰之礼、以為沉痛。況当食稻衣錦乎。適足激切其心、非所以相解也。朕本諸生家、傳礼来久、何至一旦便易此情於所天。相従已多、可試省孔子答宰我之言、無事紛紜也。」遂以疏素終三年。
臣光曰、三年之喪、自天子達於庶人、此先王礼經、百世不易者也。漢文師心不学、変古壊礼、絶父子之恩、虧君臣之義。後世帝王不能篤於哀戚之情、而群臣諂諛、莫肯釐正。至於晋武独以天性矯而行之、可謂不世之賢君。而裴・傅之徒、固陋庸臣、習常玩故、不能将順其美、惜哉。
呉改元宝鼎。呉主以陸凱為左丞相、萬彧為右丞相。呉主悪人視己、群臣侍見、莫敢挙目。陸凱曰、「君臣無不相識之道、若猝有不虞、不知所赴。」呉主乃聴凱自視、而它人如故。呉主居武昌、揚州之民溯流供給、甚苦之、又奢侈無度、公私窮匱。凱上疏曰、「今四辺無事、当務養民豊財、而更窮奢極欲、無災而民命尽、無為而国財空、臣竊痛之。昔漢室既衰、三家鼎立。今曹・劉失道、皆為晋有、此目前之明験也。臣愚、但為陛下惜国家耳。武昌土地危險[土脊][石角]、非王者之都。且童謠云、『寧飲建業水、不食武昌魚。寧還建業死、不止武昌居。』以此観之、足明民心与天意矣。今国無一年之蓄、民有離散之怨、国有露根之漸、而官吏務為苛急、莫之或恤。大帝時、後宮列女及諸織絡数不満百、景帝以来、乃有千数、此耗財之甚者也。又左右之臣、率非其人、群党相扶、害忠隠賢、此皆蠹政病民者也。臣願陛下省息百役、罷去苛擾、料出宮女、清選百官、則天悦民附、国家永安矣。」呉主雖不悦、以其宿望、特優容之。
九月、詔、「自今雖詔有所欲、及已奏得可、而於事不便者、皆不可隠情。」戊戌、有司奏、「大晋受禅於魏、宜一用前代正朔・服色、如虞遵唐故事。」従之。
冬十月丙午朔、日有食之。永安山賊施但、因民労怨、聚衆数千人、劫呉主庶弟永安侯謙作乱、北至建業、衆萬餘人、未至三十里住、択吉日入城。遣使以謙命召丁固・諸葛靚、固・靚斬其使、發兵逆戦於牛屯。但兵皆無甲冑、即時敗散。謙独坐車中、生獲之。固不敢殺、以状白呉主、呉主并其母及弟俊皆殺之。初、望気者云、「荊州有王気、当破揚州。」故呉主徙都武昌。及但反、自以為得計、遣数百人鼓噪入建業、殺但妻子、云「天子使荊州兵来破揚州賊。」
十一月、初并圜丘・方丘之祀於南北郊。罷山陽公国督軍、除其禁制。十二月、呉主還都建業、使后父衛将軍・録尚書事滕牧留鎮武昌。朝士以牧尊戚、頗推令諫争、滕后之寵由是漸衰、更遣牧居蒼梧、雖爵位不奪、其実遷也、在道以憂死。何太后常保佑滕后、太史又言中宮不可易。呉主信巫覡、故得不廃、常供養升平宮、不復進見、諸姫佩皇后璽紱者甚衆、滕后受朝賀・表疏而已。呉主使黄門徧行州郡、料取将吏家女、其二千石大臣子女、皆歳歳言名、年十五・六一簡閲、簡閲不中、乃得出嫁。後宮以千数、而采択無已。

訓読

春正月丁亥、即ち魏の廟を用ひて征西府君(司馬鈞)以下を祭り景帝と并せて凡そ七室とす。辛丑、景帝の夫人たる羊氏を尊びて景皇后と曰ひ、弘訓宮に居せしむ。丙午、皇后に弘農の楊氏を立つ。后は、魏の通事郎たる文宗の女なり。群臣 奏すらく、「五帝は即ち天帝なり、王気 時に異なれば、故に名号 五有り。今自り明堂・南郊 宜しく五帝の座を除くべし」と。之に従ふ。帝、王粛の外孫なり、故に郊祀の礼、有司 多く粛が議に従ふ。
二月、漢の宗室の禁錮を除く。三月戊戌、呉 大鴻臚の張儼・五官中郎将の丁忠を遣はして来りて弔祭す。呉の散騎常侍たる廬江の王蕃、体気 高亮にして、顔を承け指に順ふこと能はず、呉主 悦ばず、散騎常侍の萬彧・中書丞の陳声 従ひて之を譖る。丁忠 使(ゆ)きて還り、呉主 大いに群臣に会し、蕃 沉醉して頓伏す。呉主 其の詐なるを疑ひ、蕃を轝(の)せて外に出す。頃之、召して還す。蕃 威儀を治むることを好み、行止 自若たり。呉主 大いに怒り、左右に呵して殿下に之を斬らしめ、出でて、来山に登り、親近をして蕃の首を擲ち、虎跳狼争と作りて之を咋噛し、首 皆 砕壊す〔一〕。
丁忠 呉主に説きて曰く、「北方 守戦の備へ無し、弋陽 襲ひて取る可し」と。呉主 以て群臣に問ふに、鎮西大将軍の陸凱曰く、「北方 新たに巴・蜀を并はせ、使を遣はして和を求め、援を我に求むるに非ざるなり、力を蓄へて以て時を俟たんと欲するのみ。敵の勢 方に強く、而れども幸に徼ひて勝を求めんと欲せば、未だ其の利を見ざるなり」と。呉主 出兵せざると雖も、然れども遂に晋と絶つ。凱、遜の族子なり。
夏五月壬子、博陵元公の王沈 卒す。六月丙午晦、日の之を食する有り。文帝の喪、臣民 皆 権制に従ひ、三日にして服を除く。既に葬り、帝 亦た之を除き、然れども猶ほ素冠疏食し、哀毀 喪に居る者の如し。秋八月、帝 将に崇陽陵に謁せんとし、群臣 奏して言ふらく、秋暑 未だ平らかならず、帝 悲感し摧傷することを恐る。帝曰く、「朕 山陵に奉瞻し、体気 自ら佳なるを得るのみ」と。又 詔して曰く、「漢文 天下をして哀を尽くさしめざるは、亦た帝王 至謙の志なり。当に山陵に見ゆべし、何の心にか服すこと無からん。其れ議して衰絰を以て従行せよ。群臣 自ら旧制に依れ」と。尚書令の裴秀 奏して曰く、「陛下 既に除きて服を復す、義に依る所無し。若し君 服して臣 服せざれば、亦た未だ之 敢て安からずや」と。詔して曰く、「患情は跂及すること能はざることにあるのみ、衣服 何にか在らん。諸君の勤勤の至、豈に苟くも相違せん」と。遂に止む。 中軍将軍の羊祜 傅玄に謂ひて曰く、「三年の喪、貴きと雖も服を遂ぐるは、礼なり、而れども漢文 之を除き、礼を毀ちて義を傷なふ。今 主上 至孝にして、其の服を奪ふと雖も、実に喪礼を行ふ。若し此に因りて先王の法を復せば、亦た善からざるか」と。玄曰く、「日を以て月に易へ、已に数百年なり、一旦にして古に復すとも、行なふこと難きなり」と。祜曰く、「天下をして礼の如くせむること能はず、且つ主上をして服を遂げしめれば、猶ほ愈(まさ)らんか」と。玄曰く、「主上 除かずして天下 之を除く、此れ但だ父子有り、復た君臣無きと為すなり」と。乃ち止む。
戊辰、群臣 奏して服を易へて膳を復するを請ひ、詔して曰く、「毎に幽冥を感念し、而れども終に苴絰の礼を得ず、以て沉痛と為す。況んや当に稻を食らひ錦を衣るべきをや。適(まさ)に其の心を激切にするに足り、相 解く所以に非ざるなり。朕 本は諸生の家なり、礼を傳ふること来久、何ぞ一旦に便ち此の情を所天に易ふるや。相 従ふこと已に多く、試みに孔子 宰我の言に答ふるを省る可し、紛紜と事にすること無きなり」と。遂に疏素を以て三年を終ふ。
臣 光曰く、三年の喪は、天子より庶人に達す。此れ先王の禮經にして、百世に不易なる者なり。漢文 心に師(したが)ひて學ばず、古を變じて禮を壞し、父子の恩を絕ち、君臣の義を虧く。後世の帝王 哀戚の情を篤くすること能はず、而して群臣 諂諛し、肯(あえ)て釐正するもの莫し。晉武に至りて獨り天性を以て、矯(た)めて之を行ふ。不世の賢君と謂ふべし。而るに裴・傅の徒、固陋の庸臣なり。常に習ひ故に玩(なら)ひ、將て其の美に順ふこと能はず。惜しきかなと。
呉 宝鼎と改元す。呉主 陸凱を以て左丞相と為し、萬彧もて右丞相と為す。呉主 人の己を視ることを悪み、群臣 侍見するに、敢へて目を挙ぐるもの莫し。陸凱曰く、「君臣 相 識らざるの道無く、若し猝かに不虞有れば、赴く所を知らず」と。呉主 乃ち凱に自ら視ることを聴(ゆる)し、而るに他の人 故の如し。呉主 武昌に居り、揚州の民 流を溯りて供給し、甚だ之に苦しみ、又 奢侈 度無く、公私 窮匱す。凱 上疏して曰く、「今 四辺 事無く、当に民を養ひ財を豊かにすることに務むべし、而れども更に奢を窮め欲を極めれば、災無くして民の命 尽き、無為にして国の財 空しく、臣 竊かに之を痛む。昔 漢室 既に衰へ、三家 鼎立す。今 曹・劉 道を失ひ、皆 晋が有と為り、此れ目前の明験なり。臣 愚へらく、但だ陛下の為に国家を惜むのみ。武昌の土地 危險にして[土脊][石角]たり、王者の都に非ず。且つ童謠に云はく、『寧ろ建業の水を飲むとも、武昌の魚を食はず。寧ろ建業に還りて死すとも、武昌の居に止まらず』と。此を以て之を観るに、民心と天意とを明らかにするに足れり。今 国に一年の蓄へ無く、民に離散の怨み有り、国に露根の漸有り、而るに官吏 務めて苛急を為し、之を或恤すること莫し。大帝の時、後宮の列女及び諸々の織絡 数は百に満たず、景帝以来、乃ち千もて数ふ有り、此れ耗財の甚しき者なり。又 左右の臣、其の人に非ざるを率ゐ、群党 相 扶け、忠を害して賢を隠し、此れ皆 政を蠹し民を病するの者なり。臣 願はくは陛下 百役を省息し、苛擾を罷去し、宮女を料出し、百官を清選すれば、則ち天は悦び民は附き、国家 永く安からん」と。呉主 悦ばざると雖も、其の宿望を以て、特に之を優容す。
九月、詔して、「自今 詔 欲する所有り、及び已に奏して可を得ると雖も、而れども事に於いて便ならざる者は、皆 情を隠す可からず」と。戊戌、有司 奏して、「大晋 禅を魏に受け、宜しく一に前代の正朔・服色を用て、虞 唐に遵ふの故事が如くすべし」と。之に従ふ。
冬十月丙午朔、日の之を食する有り。永安の山賊たる施但、民の労怨するに因り、衆を聚めること数千人、呉主の庶弟たる永安侯の謙を劫して乱を作し、北のかた建業に至り、衆は萬餘人、未だ三十里に至らざるに住まり、吉日を択びて入城す。使を遣はして謙の命を以て丁固・諸葛靚を召すに、固・靚 其の使を斬り、兵を發して逆へて牛屯に戦ふ。但の兵 皆 甲冑無く、即時に敗散す。謙 独り車中に坐し、生きながらに之を獲ふ。固 敢て殺さず、状を以て呉主に白し、呉主 其の母及び弟の俊を并せて皆 之を殺す。初め、望気者 云ふらく、「荊州に王気有り、当に揚州を破るべし」と。故に呉主 都を武昌に徙す。但 反するに及び、自ら以為へらく計を得とし、数百人を遣して鼓噪して建業に入り、但の妻子を殺して、云はく「天子 荊州の兵をして来りて揚州の賊を破らしむ」と。
十一月、初めて円丘・方丘の祀を南北郊に并す〔二〕。山陽公国の督軍を罷め、其の禁制を除く。十二月、呉主 都を建業に還し、后の父たる衛将軍・録尚書事たる滕牧を留めて武昌に鎮せしむ。朝士 牧の尊戚なるを以て、頗る推して諫争せしめ、滕后の寵 是に由り漸く衰へ、更めて牧をして蒼梧に居せしめ、爵位 奪はざると雖も、其の実 遷すなり、道に在りて憂を以て死す。何太后 常に滕后を保佑し、太史 又 中宮 易ふる可からずと言ふ。呉主 巫覡を信じ、故に得て廃さず、常に升平宮を供養し、復た進見せず、諸姫 皇后の璽紱を佩く者 甚だ衆く、滕后 朝賀・表疏を受くるのみ。呉主 黄門をして州郡に徧行せしめ、料りて将吏の家女を取り、其の二千石の大臣の子女、皆 歳歳に名を言ひ、年十五・六に一たび簡閲し、簡閲して中らずんば、乃ち嫁に出づるを得。後宮 千を以て数へ、而るに采択 已むこと無し。

〔一〕『三国志』巻六十五 王蕃伝とその裴松之注が出典。
〔二〕胡三省注によると、円丘と方丘の祭祀を合わせたのであり、これ以後は、円丘と方沢は別に立てられなくなる。

現代語訳

春正月丁亥、魏帝国の廟をもちいて征西府君(司馬鈞)以下を祭り、景帝とともに祭って全部で七室とした〈武帝紀〉。辛丑、景帝の夫人である羊氏を尊んで景皇后とし、弘訓宮に居させた〈武帝紀〉。丙午、皇后に弘農の楊氏を立てた。楊后は、魏の通事郎である楊文宗の娘である〈后妃伝に依る〉。群臣は上奏し、「五帝とは天帝です、王の気は時代ごとに異なりますので、ゆえに名号は五つあるのです。今後は明堂の南郊から、五帝の座を除かれますように」と言った。これに従った。武帝は、王粛の外孫であり、ゆえに郊祀の礼について、担当官は多く王粛の説に基づいのである〈未詳〉
二月、漢帝国の宗室の禁錮を解いた〈武帝紀〉。三月戊戌、呉は大鴻臚の張儼・五官中郎将の丁忠を派遣して(文帝の)弔問をした〈孫晧伝〉。呉の散騎常侍である廬江の王蕃は、誇り高い気質であって、主君の顔色をみて言いなりにならず、呉主(孫晧)はこれを不快に思った。散騎常侍の萬彧・中書丞の陳声も迎合してかれを批判した。丁忠が(晋への)使者の任務を終えて帰ると、呉主はおおいに群臣に酒宴をひらき、王蕃は泥酔して突っ伏した。呉主は詐りであることを疑い、王蕃を室外に担ぎ出した。しばらくして、呼び戻した。王蕃は威厳を正し、態度は整然としていた。呉主は大いに怒り、左右に命じて宮殿のもとで斬り殺させた〈王蕃伝〉。死体を来山に運び出し、身近なものに王蕃の首を投げ捨てさせた。虎や狼が争って群がり、首はこなごなに破壊されてしまった〈王蕃伝 注引『江表伝』〉
丁忠は呉主に説いて、「北方(西晋)は守備が手薄です、弋陽を襲撃したら奪取できます」と言った。呉主が群臣に諮ると、鎮西大将軍の陸凱は、「北方は新たに巴蜀地方を併合し、使者を送って和を求めましたが、われらに援軍を求めたのではありません。力を蓄えて時を待っているだけです。敵の軍勢は強いのであり、幸運にすがって勝利をならっても、得られるものはないでしょう」と言った。呉主は出兵しなかったが、だが西晋との国交を断った〈孫晧伝〉。陸凱は、陸遜の族子であった〈陸凱伝〉
夏五月壬子、博陵元公の王沈が卒した〈武帝紀に依る〉。六月丙午晦、日食がおきた。
文帝(司馬昭)の喪は、臣民は当時の制度にしたがい、三日で喪服をぬいだ。埋葬を終えると、武帝も喪服を脱いだが、まだ衣食を質素とし、悲歎にくれるさまは喪中のようであった。秋八月、武帝は崇陽陵に参詣しようとし、群臣は上奏し、「残暑が厳しく、武帝が体調を損ねるのではないかと心配です。お悲しみも深い折りですので」と言った。武帝は、「朕は山陵に参拝できたならば、気力ともに充実してくるだろう」と言った。さらに詔して、「漢の文帝が自分の死に対する天下の服喪期間を短縮せよと命じたのは、帝王として控えめで、吏民の負担を軽減するためだ。しかし山陵に参詣するには、喪服を着けぬわけにはいかない。いろいろと考えたが、衰絰を着けてゆきたい。群臣はいつものままでよい」と言った。尚書令の裴秀は上奏して、「陛下は喪服を着け直そうと仰いますが、経義に典拠がありません。またもし君主が喪服を着けているが、臣下が着けないというのは、収まりがつきません」と言った。詔して、「(私が喪服にこだわったのは)哀悼の意を表せないことを心配しただけだ。衣服じたいが問題ではない。諸君の真心には感銘を受けた、その考えを覆すつもりはない」と言った。こうして中止した〈礼志に依る〉
中軍将軍の羊祜は傅玄に、「三年の喪は、(天子のように)高位のものも成し遂げるのが、本来の礼制に適っている。しかし漢の文帝はこれを廃止し、礼と義を破壊してしまった。いま主上は至孝であり、喪服を脱いだものの、実態として喪礼を行っているも同然だ。これを受けて先王の礼制が回復されたら、良いことではなかろうか」と言った。傅玄は、「日を月に変え(期間の数え方を変更し)、すでに数百年が経過している。一時的に古制を回復しても、定着させることは現実的でない」と言った。羊祜は、「天下(の吏民)が礼制を守るのが難しくても、主上が服喪を成し遂げさせるのは、良いことではないか」と言った。傅玄は、「主上だけが古制にしたがい、天下がこれを破るならば、(文帝と武帝のあいだで)父子の秩序はあっても、(武帝を頂点とした)君臣のあいだで秩序が無くなってしまう」と言った。中止された〈羊祜伝に依る〉
戊辰、群臣が上奏して衣食を通常にもどすように要請した〈武帝紀〉。詔して、「いつも死者のすがたを思って胸を痛めており、服喪を終えることができない。哀痛の念は深いものがあるのだ。まして新米を食らい錦の美服を着られようか。そんなことをしたら、余計に心が引き裂かれる。平常の衣服に戻す時期ではないのだ。朕はもとは諸生(儒学者)の家柄出身であり、先祖から礼制を伝えてきた。なぜ軽々しく変更できようか。諸君からの提案は、もう多くを受け入れてきた、(三年の喪の当否については)孔子と宰我の受け答えを参照してみよ。もうこれ以上は議論をするまい」と言った。質素な衣食により三年喪をやり遂げた〈礼志に依る〉
臣(わたくし)司馬光は申し上げます。三年の喪は、天子から庶人に共通のものです。これは先王の定めた礼制であって、百世の後まで変わらぬものです。漢の文帝は自分の考えだけに基づいて(儒学を)学ばず、先古の礼制を変更して破壊し、父子の恩愛を台無しにし、君臣の大義を欠落させました。後世の帝王は(父祖に対して)あつい哀痛の心を抱けず、しかし(各時代の)群臣はへつらい、あえて是正するものは出現しませんでした。晋の武帝に至ってかれ自身の天性(の孝)により、是正して三年喪を成し遂げました。不世出の賢君と言うべきでしょう。しかし裴秀・傅玄のような連中は、前例に引き摺られる凡庸な臣です。親しんだ慣習を優先して、武帝の立派なおこないに従うことが出来ませんでした。惜しいことであります。
呉は宝鼎と改元した〈孫晧伝〉。呉主は陸凱を左丞相とし、萬彧を右丞相とした〈孫晧伝〉。呉主はひとから視られることを嫌がり、群臣は接見しても、目を上げなかった。陸凱は、「君臣の面識をなくすという道理はありません。もし突然の事態があれば、どこに駆けつけたらよいか分かりません」と言った。呉主は陸凱にだけは、視線を向けることを許可した。呉主は武昌におり、揚州の民は(長江の)流れを遡って物資を送ったので、とても負担が大きかった。また奢侈に節度がなく、公私ともに困窮した。陸凱は上疏し、「いま四方に兵事がないので、民を休ませて財を蓄えるべき時期です。しかし贅沢と欲望を解放すれば、災難がなくとも民の命は尽き、手を加えずとも財政が枯渇します。私は心配です。むかし漢室が衰えたので、三国が鼎立しました。いま曹氏と劉氏が為政をしくじり、どちらも晋室に征服されました、これが眼前の教訓です。思いますに、ただ陛下のために国家を惜しむのです。武昌の土地は険しく狭小であり、王者の都には適しません。しかも童謡に、『建業の水を飲もうと、武昌の魚を食わない。建業に帰れば死のうとも、武昌に住み続けたくない』とあります。これを踏まえれば、民心と天意は十分に明らかです。いま国庫には一年の備蓄もなく、民には離散の怨みがあり、国は木の根が露出しつつあります。しかし官吏は民を引き締めるばかりで、恵みを施すことはありません。大帝(孫権)の時代、後宮の侍女は百人に満たず、景帝(孫休)以来、千の単位で数えるようになり、消費が激しくなっています。また朝廷の臣は、適任でないものを引き連れ、党派を組んで助けあい、忠賢なひとを妨害しています。これは政治を悪化させ、人民を苦しめる原因です。どうか陛下はあらゆる徭役をへらし、苛烈な政治をゆるめ、宮女の人数をしぼり、百官を適切に選べば、天は喜び民は懐き、呉帝国は長く平穏でありましょう」と言った〈陸凱伝に依る〉。呉主は悦ばなかったが、陸氏の家には名望があるため、特別に(諫言することを)容認した〈未詳〉
九月、詔して、「これ以後は詔で指示を出していたり、すでに上奏して認可されていても、適切でないと思われることは、全て隠さず(再検討のために)報告するように」と言った〈未詳〉。戊戌、担当官が上奏し、「大晋は魏室から禅譲を受けたので、ひとえに前代の正朔・服色を用いて下さい。虞舜が唐尭に従った故事と同様になさいませ」と言った。これに従った〈武帝紀〉
冬十月丙午朔、日食があった。永安の山賊である施但は、民が労役を負担に感じていることを受け、数千人の兵を集め、呉主の庶弟である永安侯の孫謙を担ぎ出して反乱し、北上して建業に到着すると、兵は一万人を超えた〈孫晧伝〉。三十里の手前に留まり、吉日を選んで入城しようとした。使者を送り孫謙の命令として丁固と諸葛靚を召し寄せようとした。丁固と諸葛靚はその使者を斬り、兵を動かして〈孫晧伝に引く呉歴〉牛屯で迎撃した〈孫晧伝〉。施但の兵は甲冑をつけておらず、すぐに敗走して解散した。孫謙だけは馬車にのこり、生け捕りにされた。丁固はあえて殺さず、呉主に状況を報告した。呉主はその母及び弟の孫俊もろとも殺した〈呉歴に依る〉
これより先、望気者は、「荊州に王気があり、きっと揚州を破るだろう」と言った。だから呉主は都を武昌に移したのである。施但が反乱すると、自分がこの予言に当てはまると考え、数百人を送って軍鼓を鳴らして建業に入城し、施但の妻子を殺し、「天子が荊州の兵に揚州の賊を撃破させたぞ」と言った〈孫晧伝に引く漢晋春秋〉
十一月、初めて円丘・方丘の祭祀を南北郊に合わせた〈武帝紀〉。山陽公国の督軍を廃止し、その禁制を除いた〈武帝紀〉
十二月、呉主は都を建業に移し、皇后の父である衛将軍・録尚書事である滕牧を武昌に留めて鎮守させた〈孫晧伝〉。朝臣たちは滕牧が外戚であり高位なので、かれを代表にして諫争させた。このために、滕后への寵愛は衰えた。滕牧を移住させ、爵位を剥奪しないものの、実態は左遷であった。(滕牧は)道中で憂悶して亡くなった。(呉主の実母である)何太后は滕后をかばい、太史も中宮を交代させてはいけませんと言った。呉主は巫覡を信用し、廃位しなかった。だから滕后は升平宮(何太后)を大切にした。孫晧にお目に掛かることはなかった。諸姫で皇后の璽紱を持たされているものが多く、滕后は朝賀・表疏を形式的に受けるだけだった〈妃嬪 滕后伝〉。呉主は黄門に州郡を巡行させ、将吏の娘を連れてきて、二千石の大臣の子女は、年ごとに名前を報告し、年が十五か十六になると面会し、呉主のお気に召さねば嫁に行けた。後宮は千人規模となり、しかし娘の収集を止めなかった〈妃嬪伝に引く江表伝〉

泰始三(二六七)年

原文

世祖武皇帝上之上泰始三年(丁亥、公元二六七年)
春正月丁卯、立子衷為皇太子。詔以「近世毎立太子必有赦、今世運将平、当示之以好悪、使百姓絶多幸之望。曲恵小人、朕無取焉。」遂不赦。
司隸校尉上党李憙劾故立進令劉友・前尚書山濤・中山王睦・尚書僕射武陔各占官稻田、請免濤・睦等官、陔已亡、請貶其謚。詔曰、「友侵剝百姓以謬惑朝士、其考竟以懲邪佞。濤等不貳其過、皆勿有所問。憙亢志在公、当官而行、可謂邦之司直矣。光武有云、『貴戚且斂手以避二鮑。』其申敕群寮、各慎所司、寛宥之恩、不可数遇也。」睦、宣帝之弟子也。
臣光曰、政之大本、在於刑賞、刑賞不明、政何以成。晋武帝赦山濤而褒李喜、其於刑・賞兩失之。使喜所言為是、則濤不可赦。所言為非、則喜不足褒。褒之使言、言而不用、怨結於下、威玩於上、将安用之。且四臣同罪、劉友伏誅而濤等不問、避貴施賤、可謂政乎。創業之初、而政本不立、将以垂統後世、不亦難乎。
帝以李憙為太子太傅、徴犍為李密為洗馬。密以祖母老、固辞、許之。密与人交、毎公議其得失而切責之、常言、「吾独立於世、顧影無儔。然而不懼者、以無彼此於人故也。」呉大赦、以右丞相萬彧鎮巴丘。
夏六月、呉主作昭明宮、二千石以下、皆自入山督伐木。大開苑囿、起土山・楼観、窮極伎巧、功役之費以億萬計。陸凱諫、不聴。中書丞華覈上疏曰、「漢文之世、九州晏然、賈誼独以為如抱火厝於積薪之下而寝其上。今大敵拠九州之地、有太半之衆、欲与国家為相吞之計、非徒漢之淮南・済北而已也、比於賈誼之世、孰為緩急。今倉庫空匱、編戸失業。而北方積穀養民、専心向東。又、交趾淪沒、嶺表動搖、胸背有嫌、首尾多難、乃国朝之厄会也。若舎此急務、尽力功作、卒有風塵不虞之変、当委版築而応烽燧、駆怨民而赴白刃、此乃大敵所因以為資者也。」時呉俗奢侈、覈又上疏曰、「今事多而役繁、民貧而俗奢、百工作無用之器、婦人為綺靡之飾、転相倣傚、恥独無有。兵民之家、猶復逐俗、内無甔石之儲而出有綾綺之服、上無尊卑等級之差、下有耗財費力之損、求其富給、庸可得乎。」呉主皆不聴。
秋七月、王祥以睢陵公罷。九月甲申、詔増吏俸。以何曾為太保、義陽王望為太尉、荀顗為司徒。禁星気・讖緯之学。呉主以孟仁守丞相、奉法駕東迎其父文帝神於明陵、中使相継、奉問起居。巫覡言見文帝被服顔色如平生。呉主悲喜、迎拝於東門之外。既入廟、比七日三祭、設諸倡伎、昼夜娯楽。是歳、遣鮮卑拓跋沙漠汗帰其国。

訓読

春正月丁卯、子の衷を立てて皇太子と為す。詔して以へらく、「近世 太子を立つる毎に必ず赦有り、今 世運 将に平らがんとし、当に之を示すに好悪を以てし、百姓をして多幸の望を絶たしむべし。小人に曲恵するは、朕 焉を取ること無し」と。遂に赦せず。
司隸校尉たる上党の李憙 故の立進令たる劉友・前の尚書たる山濤・中山王の睦・尚書僕射の武陔を劾して各々官稻田を占すれば、濤・睦らの官を免ずることを請ひ、陔 已に亡ければ、其の謚を貶めんことを請ふ。詔して曰く、「(劉)友 百姓を侵剝して以て朝士を謬惑し、其れ考竟して以て邪佞を懲らしむ。(山)濤ら 其の過貳ならず、皆 問ふ所有る勿れ。(李)憙の亢志 公に在り、当に官にありて行ふべし、邦の司直と謂ふ可し(詩経 鄭風)。光武 云ふ有り、『貴戚 且に手を斂めて以て二鮑を避けよ』と(建武十一年)。其れ群寮に申敕し、各々司る所を慎み、寛宥の恩、数遇す可からざるなり」と。(司馬)睦は、宣帝が弟の子なり。
臣 光曰く、政の大本は、刑賞に在り。刑賞 明ならざれば、政 何を以て成らんか。晉武帝 山濤を赦して李憙を褒む。其れ刑賞に於て兩(ふたつ)ながら之を失ふ。憙をして言はしむ所もて是と為せば、則ち濤 赦す可からず。言す所もて非と為さば、則ち憙 褒むるに足らず。褒めて言を使ひ、言へども用ひざれば、怨もて下に結び、威もて上に玩ぶ。將に安んぞ之を用ゐんか。且つ四臣 同罪なり。劉友 誅に伏して濤ら不問なり。貴を避け賤に施すは、政と謂ふ可きか。創業の初にして、而れども政本 立たず、將て以て後世に垂統するは、亦た難からずか。
帝 李憙を以て太子太傅と為し、犍為の李密を徴して洗馬と為す。密 祖母の老なるを以て、固辞し、之を許す。密 人と交はり、毎に公に其の得失を議して之を切責し、常に言はく、「吾 世に独り立ち、影を顧み儔無し。然而れども懼れざるは、人に於いて彼此無き故なり」と。呉 大赦し、右丞相の萬彧を以て巴丘に鎮せしむ。
夏六月、呉主 昭明宮を作り、二千石以下、皆 自ら山に入りて伐木を督す。大いに苑囿を開き、土山・楼観を起こし、伎巧を窮極し、功役の費 億萬を以て計ふ。陸凱 諫むれども、聴さず。中書丞の華覈 上疏して曰く、「漢文の世、九州 晏然たれども、賈誼 独り以為へらく火を抱きて積薪の下に厝きて其の上に寝るが如しとす(文帝六年)。今 大敵(西晋) 九州の地に拠り、太半の衆を有ち、国家と相吞の計を為さんと欲し、徒だ漢の淮南・済北のみに非ざるなり、賈誼の世に比ぶるに、孰れか緩急と為すか。今 倉庫 空匱にして、編戸 業を失ふ。而るに北方 穀を積み民を養ひ、心を専らにして東に向かふ。又、交趾 淪沒し、嶺表 動搖し、胸背に嫌有り、首尾に難多り、乃ち国朝の厄会なり。若し此の急務を舎き、力を功作に尽くせば、卒に風塵 不虞の変有り、当に版築を委てて烽燧に応じ、怨民を駆りて白刃に赴かしむ、此れ乃ち大敵の因りて以て資と為す所の者なり」と。時に呉俗 奢侈にして、覈 又 上疏して曰く、「今 事は多くして役は繁く、民は貧しくして俗は奢なり、百工 無用の器を作り、婦人 綺靡の飾を為す、転た相 倣傚し、独り有る無きを恥づ。兵民の家、猶ほ復た俗を逐ひ、内(い)りて甔石の儲〔一〕無くして出でて綾綺の服有り、上に尊卑等級の差無く、下に耗財費力の損有り、其の富給を求むるは、庸ぞ得る可きか」と。呉主 皆 聴さず。
秋七月、王祥 睢陵公を以て罷む。九月甲申、詔して吏の俸を増す。何曾を以て太保と為し、義陽王望もて太尉と為し、荀顗もて司徒と為す。星気・讖緯の学を禁ず。呉主 孟仁を以て守丞相とし、法駕を奉じて東のかた其の父たる文帝の神を明陵に迎へ、中使 相 継ぎ、起居に奉問す。巫覡 文帝の被服顔色 平生が如くあるを見ると言ふ。呉主 悲喜し、東門の外に迎拝す。既に廟に入り、七日比に三たび祭り、諸々倡伎を設け、昼夜に娯楽す。是の歳、鮮卑の拓跋沙漠汗を遣はして其の国に帰らしむ。

〔一〕応劭によると、斉人は小さい甕のことを「甔」と呼び、二斛が入る。

現代語訳

春正月丁卯、(武帝は)子の司馬衷を皇太子に立てた。詔して、「近年は立太子するたびに大赦があった。しかし今日は天下が太平に向かっており、善悪を明確にし、百姓にあらぬ期待をさせてはならない。小人に余計な恵みを与えようとは思わない」と言った。大赦しなかった〈武帝紀〉
司隸校尉である上党の李憙は、「もと立進令の劉友・前の尚書の山濤・中山王の司馬睦・尚書僕射の武陔は、かれらは官有の稲田を占有しており、罷免すべきです。武陔はすでに故人なので、かれの諡を貶めて下さい」と告発した。詔して、「劉友は人民を虐げて朝廷の士を惑乱した。取り調べて、不心得を懲らしめよ。山濤らは過失を反省している、追及してはならない。李憙は堅い意思を持って、公務に奉仕している。国の司直と言ってより(詩経 鄭風)。光武帝は、『君主の親戚すら恐れ憚り、二鮑(鮑永・鮑恢)に遠慮をしている』と言った(建武十一年)。群臣に申し渡し、担当の職務に励むようにせよ。寛容な恩恵は、何回も施してやれない」と言った〈李憙伝に依る〉。司馬睦は、宣帝の弟の子である〈宗室伝に依る〉
臣(わたくし)司馬光が申し上げます。政治の根本は、刑罰と褒賞です。刑罰と褒賞が明らかでなければ、政治は成立しません。晋の武帝は山濤を赦しつつも李憙を褒めました。これでは刑罰と褒賞がどちらも当を失しています。李憙の言い分を正しいとするなら、山濤を赦してはいけません。言い分を退けるならば、李憙を褒めてはいけません。言い分を称賛しておきながら、それを実現させなければ、下では不満が生まれ、上では威権が弄ばれます。なぜ刑罰と褒賞を適切に用いなかったのでしょう。四人の臣は同罪でした。劉友は誅に伏したが山濤は不問とされました。身分の高い者に刑罰を行い、低い者には刑罰を行うというのは、正しい政治と言えるのでしょうか。創業の初期において、すでに政治の根本が確立していません。まして後世に皇統を継承するのは、難しいことではありませんか。
武帝は李憙を太子太傅とした〈武帝紀〉。犍為の李密を徴して太子洗馬とした。李密は祖母の老年を理由に、固辞し、これが認められた。李密はひとと交際するとき、いつも公然とその得失を議論して包み隠さず批判し、つねに、「わたしは世に独りで立ち、影を顧みる仲間はいない。しかし恐れないのは、ひとに対して裏表がないからだ」と言った〈楊戯伝に引く華陽国志〉
呉が大赦し、右丞相の萬彧を巴丘に出鎮させた〈孫晧伝〉
夏六月、呉主は昭明宮を建造した〈孫晧伝に依る〉。二千石以下はみな、みずから山に入って樹木の伐採を監督した。おおいに園邑を切り開き、土山・楼観を建て、技巧を尽くし、建造の費用は億万の単位となった。陸凱が諫めたが、聴き入れなかった〈孫晧伝に引く江表伝〉
中書丞の華覈は上疏し、「漢の文帝の時代、九州は平穏でしたが、賈誼だけが火を燃やしてそれを積み上げた薪の下において、その上で寝そべっているに等しいと考えました(文帝六年)。いま大敵(西晋)が天下の中心を支配し、過半の兵を持ち、国家を併呑する計画を練っています。漢代の淮南王と済北王など比較になりません。賈誼の時代と対比し、どちらが危機的状況だと思いますか。いま国庫は空っぽであり、戸籍の民は生業を失っています。しかし北方では穀物を積みあげ民力を養い(内憂がなく)、専心して東に向かうことができます。また交趾は反乱者の手におち、嶺表の地方は動揺し、前にも後ろにも敵が迫っており、上にも下にも困難が待ち受け、国家の存亡のときです。もし緊急のことを放置し、宮殿造営に励むなら、ちょっとした不測の事態があれば、建築現場を投げ出して、狼煙を上げねばならず、不平感のつのる民を戦場に投入することになります。これでは強大な敵を有利にするばかりです」と言った。このとき呉の習俗は奢侈であり、華覈はさらに上疏し、「いま事業は多く労役は頻繁です。民は貧しいにも拘わらず、習俗は奢侈に流れています。職人は役に立たない器物を作り、婦人はきらびやかな装飾を作っています。互いに模倣しあい、自分だけが見窄らしいことを恥じています。兵民の家も、この風俗を追いかけ、収入があれば僅かも蓄えず、支出して綺麗な服を買っています。上では尊卑の等級による区別がなく、下では浪費をして空っぽです。国力を富ませる政策など、実現のしようがないのです」と言った〈華覈伝〉。呉主はすべて聴き入れなかった〈未詳〉
秋七月、王祥は睢陵公として官職を去らせた〈王祥伝に依る〉
九月甲申、詔して官吏の俸給を増やした〈武帝紀〉。何曾を太保とし、義陽王の司馬望を太尉とし、荀顗を司徒とした。星気・讖緯の学問を禁じた〈武帝紀〉
呉主は孟仁を守丞相とし、霊の乗り物を奉じて東にむかい父の文帝(孫和伝)の神霊を明陵に迎えた〈孫和伝〉。宮中からの使者が往復し、その様子を伺った。巫覡は文帝の被服や顔色が生前のままでしたと言った。呉主は泣いて喜び〈孫和伝に引く呉書〉、東門の外で迎拝した。廟に入り、七日のうちに三たび祭り、倡伎たちを侍らせ、昼夜に歌舞をさせた〈孫和伝〉
この年、鮮卑の拓跋沙漠汗をその国に帰らせた〈未詳〉

泰始四(二六八)年

原文

世祖武皇帝上之上泰始四年(戊子、公元二六八年)
春正月丙戌、賈充等上所刊修律令。帝親自臨講、使尚書郎裴楷執読。楷、秀之従弟也。侍中盧珽・中書侍郎范陽張華請抄新律死罪條目、懸之亭傳以示民、従之。又詔河南尹杜預為黜陟之課、預奏、「古者黜陟、擬議於心、不泥於法。末世不能紀遠而専求密微、疑心而信耳目、疑耳目而信簡書。簡書愈繁、官方愈偽。魏氏考課、即京房之遺意、其文可謂至密、然失於苛細以違本体、故歷代不能通也。豈若申唐尭之旧制、取大捨小、去密就簡、俾之易従也。夫曲尽物理、神而明之、存乎其人。去人而任法、則以文傷理。莫若委任達官、各考所統、歳第其人、言其優劣。如此六載、主者總集、采案其言、六優者超擢、六劣者廃免、優多劣少者平敘、劣多優少者左遷。其間所対不鈞、品有難易、主者固当准量軽重、微加降殺、不足曲以法尽也。其有優劣徇情、不葉公論者、当委監司随而弾之。若令上下公相容過、此為清議大頽、雖有考課之法、亦無益也。」事竟不行。丁亥、帝耕籍田於洛水之北。戊子、大赦。
二月、呉主以左御史大夫丁固為司徒、右御史大夫孟仁為司空。三月戊子、皇太后王氏殂。帝居喪之制、一遵古礼。夏四月戊戌、睢陵元公王祥卒、門無雑吊之賓。其族孫戎歎曰、「太保当正始之世、不在能言之流。及間与之言、理致清遠、豈非以徳掩其言乎。」已亥、葬文明皇后。有司又奏、「既虞、除衰服。」詔曰、「受終身之愛而無数年之報、情所不忍也。」有司固請、詔曰、「患在不能篤孝、勿以毀傷為憂。前代礼典、質文不同、何必限以近制、使達喪闕然乎。」群臣請不已、乃許之。然猶素冠疏食以終三年、如文帝之喪。
秋七月、衆星西流如雨而隕。己卯、帝謁崇陽陵。九月、青・徐・兗・豫四州大水。大司馬石苞久在淮南、威恵甚著。淮北監軍王琛悪之、密表苞与呉人交通。会呉人将入寇、苞築塁遏水以自固、帝疑之。羊祜深為帝言苞必不然、帝不信、乃下詔以苞不料賊勢、築塁遏水、労擾百姓、策免其官。遣義陽王望帥大軍以征之。苞辟河内孫鑠為掾、鑠先与汝陰王駿善、駿時鎮許昌、鑠過見之。駿知台已遣軍襲苞、私告之曰、「無与於禍。」鑠既出、馳詣寿春勧苞放兵、步出都亭待罪、苞従之。帝聞之、意解。苞詣闕、以楽陵公還第。
呉主出東関、冬十月、使其将施績入江夏、萬彧寇襄陽。詔義陽王望統中軍歩騎二萬屯龍陂、為二方声援。会荊州刺史胡烈拒績、破之、望引兵還。呉交州刺史劉俊・大都督脩則・将軍顧容前後三攻交趾、交趾太守楊稷皆拒破之、鬱林・九真皆附於稷。稷遣将軍毛炅・董元攻合浦、戦於古城、大破呉兵、殺劉俊・脩則、餘兵散還合浦。稷表炅為鬱林太守、元為九真太守。十一月、呉丁奉・諸葛靚出芍陂、攻合肥、安東将軍汝陰王駿拒卻之。以義陽王望為大司馬、荀顗為太尉、石苞為司徒。

訓読

春正月丙戌、賈充ら刊修する所の律令を上る。帝 親自ら講に臨み、尚書郎の裴楷をして読むことを執らしむ。楷は、秀の従弟なり。侍中の盧珽・中書侍郎たる范陽の張華 新律の死罪の條目を抄し〔一〕、之を亭傳に懸けて以て民に示すことを請ひ、之に従ふ。又 詔して河南尹の杜預をして黜陟の課を為らしめ、預 奏すらく、「古者は黜陟、心に擬議し、法に泥まず。末世 遠なることを紀すこと能はずして専ら密微を求め、心に疑ふとも耳目を信じ、耳目を疑ひて簡書を信ず。簡書 愈々繁く、官方(方は術である)愈々偽たり。魏氏の考課、即ち京房の遺意にして、其の文 至密と謂ふ可し、然して苛細を失ひて以て本体と違ひ、故に歷代 通ずること能はざるなり。豈に若し唐尭の旧制を申し、大を取り小を捨て、密を去りて簡に就けば、之に従ふこと易からしむ。夫れ物理を曲尽し、神にして之を明らかにするは、其の人に存せざるか。人を去り法に任せれば、則ち文を以て理を傷つく。達官に委任し、各々統むる所を考し、歳ごとに其の人を第し、其の優劣を言ふに若くは莫し。此の如くして六載(載は年である)なれば、主者 總て集ひ、其の言を采案し、六優なる者(六年とも評価が高いもの)は超へて擢し、六劣なる者は廃して免じ、優 多くして劣 少なき者 平敘とし、劣 多くして優 少なき者は左遷せよ。其の間 対ふる所 鈞しからず、品 難易有れば、主者 固より当に軽重を准量し、微かに降殺を加ふべし、曲げて法を以て尽すに足らざるなり。其の優劣に情を徇ふること有りて、公論を叶へざる者は、当に監司に委ねて随ひて之を弾ずべし。若令 上下の公相 過を容るるは、此れ清議の大いに頽ると為し、考課の法有ると雖も、亦 益無きなり」と。事 竟に行はず。丁亥、帝 籍田を洛水の北に耕す。戊子、大赦す。
二月、呉主 左御史大夫の丁固を以て司徒と為し、右御史大夫の孟仁もて司空と為す。三月戊子、皇太后の王氏 殂す。帝 居喪の制、一に古礼に遵ふ。夏四月戊戌、睢陵元公 王祥 卒し、門に雑吊の賓無し。其の族孫たる(王)戎 歎じて曰く、「太保 正始の世に当り、能言の流に在らず。間(このごろ) 之と与に言ふに及び、理は清遠に致る、豈に徳を以て其の言を掩ふに非ざるか」と。已亥、文明皇后を葬る。有司 又 奏すらく、「既に虞(虞は葬日のこと)なり、衰服を除け」と。詔して曰く、「終身の愛を受けて数年の報無くんば、情 忍びざる所なり」と。有司 固く請ひ、詔して曰く、「篤孝なる能はざるに在ることを患ひ、毀傷を以て憂ひと為す勿かれ。前代の礼典、質文 同じからず、何ぞ必ずしも限るに近制を以てし、達喪をして闕然たらしめんか」と。群臣 請ひて已まず、乃ち之を許す。然るに猶ほ素冠疏食して以て三年を終ふ、文帝の喪の如し。
秋七月、衆星 西のかた流れて雨の如くして隕つ。己卯、帝 崇陽陵に謁す。九月、青・徐・兗・豫の四州 大水あり。大司馬の石苞 久しく淮南に在り、威恵 甚だ著はる。淮北監軍の王琛 之を悪み、密かに苞を表して呉人と交通すといふ。会 呉人 将に入寇せんとし、苞 塁を築きて水を遏して以て自ら固め、帝 之を疑ふ。羊祜 深く帝の為に苞 必ず然らざるを言ふも、帝 信ぜず、乃ち詔を下して苞 賊の勢を料らず、塁を築きて水を遏し、百姓を労擾するを以て、策して其の官を免ず。義陽王望を遣はして大軍を帥ゐて以て之を征せしむ。苞 河内の孫鑠を辟して掾と為し、鑠 先に汝陰王駿と与に善く、駿 時に許昌に鎮し、鑠 過りて之に見ゆ。駿 台 已に軍を遣はして苞を襲ふことを知り、私かに之に告げて曰く、「禍に与(あづか)ること無かれ」と。鑠 既に出で、馳せて寿春に詣りて苞に兵を放ち、步きて都亭に出でて罪を待つことを勧め、苞 之に従ふ。帝 之を聞き、意 解けり。苞 闕に詣り、楽陵公を以て第に還る。
呉主 東関に出で、冬十月、其の将たる施績をして江夏に入りて、萬彧 襄陽を寇す。詔して義陽王望 中軍の歩騎二萬を統べて龍陂に屯し、二方の為に声援せしむ。会 荊州刺史の胡烈 績を拒ぎ、之を破り、望 兵を引きて還る。呉の交州刺史たる劉俊・大都督の脩則・将軍の顧容 前後に三たび交趾を攻め、交趾太守の楊稷 皆 拒みて之を破り、鬱林・九真 皆 (楊)稷に附す。稷 将軍の毛炅・董元を遣はして合浦を攻め、古城に於いて戦ひ、大いに呉兵を破り、劉俊・脩則を殺し、餘兵 散じて合浦に還る。稷 炅を表して鬱林太守と為し、元を九真太守と為す。十一月、呉の丁奉・諸葛靚 芍陂に出で、合肥を攻め、安東将軍たる汝陰王の駿 拒みて之を卻く。義陽王望を以て大司馬と為し、荀顗もて太尉と為し、石苞もて司徒と為す。

〔一〕胡三省注によると、「抄」は「騰写」であり、書き写すこと。

現代語訳

春正月丙戌、賈充らが整理した律令を上程した。武帝はみずから説明に出席し、尚書郎の裴楷に読み上げさせた。裴楷は、裴秀の従弟である。侍中の盧珽・中書侍郎の范陽の張華は、新律の死罪の条目を書き写し、これを亭伝にかけて民に示しなさいと提案し、これが実行された〈晋書 刑法志〉
また詔して河南尹の杜預に人事考課の基準を作らせ、杜預は上奏して、「いにしえにおいて人事の査定は、ひとが判断したもので、法制化に馴染みません。時代が下ると、壮大なものを(官名として)用いることができず、親しみのある官名をつけ、(人を評価するときは)心を疑って耳目の官(監察官)を信じるようになり、耳目を疑って文書を信じるようになりました。文書行政はますます煩雑になり、人材に対する毀誉褒貶は、実態を反映しなくなりました。魏氏の考課は、(前漢の)京房の遺意にかなうものであり、緻密だと言うことができますが、しかし細部にこだわりすぎて本質が見失われ、ゆえに歴代において適切に用いられませんでした。唐尭の旧典にならい、大枠を用いて細部を除き、緻密さを除いて簡略とすれば、これを適用することは現実的です。そもそも万物の理に通暁し、神妙な働きを明らかにするには、運用者しだいです。運用者を軽んじて法規で締め上げようにも、その理を損ねます。査定は熟練した官に任せ、それぞれ管轄する役人を査定させ、年ごとに順序をつけ、その優劣を報告させるのが最良でしょう。これを六年間続け、中央の人事担当が集まり、評価コメントを確認し、六年とも評価が高いものは飛び級させ、六年とも評価が低いものは罷免し、優が多くて劣がないものは通常どおり(の昇進)とし、劣が多くて優が少ないものは左遷しなさい。この期間の仕事は同じでなく、難易度も異なるので、人事担当はそのバランスも考慮し、手心を加えなさい。ここまでやっても全てをマニュアル化するのは難しいでしょう。評価に感情が混じり、公平でないものは、監察官に糾弾をさせなさい。もし上下の同僚たちが失敗を見逃すならば、これでは清議が損なわれてしまいますから、人事考課の法を整備しても、仕方のないことであります」と言った。この提案は結局は実行に移されなかった〈杜預伝に依る〉
丁亥、武帝は籍田を〈武帝紀〉洛水の北で耕した〈礼志に依る〉。戊子、大赦した〈武帝紀〉
二月、呉主は左御史大夫の丁固を司徒とし、右御史大夫の孟仁を司空とした〈孫晧伝〉
三月戊子、皇太后の王氏が殂した〈武帝紀〉。武帝は喪に服する方法は、もっぱら古礼を遵守した〈礼志に依る〉
夏四月戊戌、睢陵元公の王祥が卒した。門前には雑多な弔問客はいなかった。その族孫である王戎が歎じ、「太保(の王祥)は正始の世に、弁舌が巧みな連中とつるまなかった。だがかれと話すと、理は清らかで深遠であった。徳によって言葉を覆っていたのではないか」と言った〈王祥伝に依る〉
已亥、文明皇后を葬った〈武帝紀〉。担当官は上奏し、「すでに埋葬が済みました、衰服を脱いで下さい」と言った。詔して、「終身の愛を受けたにも拘わらず、たった数年のお返し(三年の喪)をしないなら、感情に収まりがつかぬ」と言った。担当官が強く求めると、詔して、「至孝でないことを心配しても、死を哀しんで体調を崩すことを心配してはならぬ。前代の礼典において、質と文は同じではない。なぜ近年の慣習にこだわり、正規の喪礼を廃れさせてしまうのか」と言った。群臣は要請を続けたので、これを受け入れた〈礼志に依る〉。しかし衣食を質素にして三年間をやり遂げたのは、(父の)文帝のときと同様であった〈未詳〉
秋七月、衆星が西にむけ流れて雨のように降り注いだ。己卯、武帝が崇陽陵に参拝した〈武帝紀〉
九月、青・徐・兗・豫の四州で洪水があった〈武帝紀〉
大司馬の石苞が久しく淮南にあり、威恵が行き渡った。淮北監軍の王琛はこれを警戒し、ひしかに石苞は呉人と通じていると密告した。たまたま呉人が侵略しようとし、石苞は防塁を築いて川の水を堰き止めて守ったので、武帝はかれを疑った。羊祜は武帝に対して絶対に違いますと弁護したが、武帝は信用しなかった。詔を下して、石苞が賊軍の形勢を踏まえずに、防塁を築いて水を堰き止め、百姓に労役の負担をかけたとして、その官職を罷免した。義陽王の司馬望に大軍を連れて、かれを徴させた〈石苞伝に依る〉
石苞は河内の孫鑠を辟して掾としていた。孫鑠はこれ以前から汝陰王の司馬駿と仲が良かった。司馬駿はこのとき許昌を鎮守し、孫鑠は通過したとき、かれに会った。司馬駿は朝廷がすでに軍を派遣して石苞を襲うつもりだと知り、ひそかにこれを告げて、「禍いに巻き込まれてはならぬ」と教えた。孫鑠は脱出して、馬を飛ばして寿春に到着して〈孫綽伝に依る〉石苞に、兵権を手放して、歩いて都亭に出て裁きを受けなさいと勧めた。石苞はこれに従った。武帝はこれを聞き、疑いを解いた。石苞は宮殿に出頭し、楽陵公として邸宅に帰った〈石苞伝〉
呉主は東関に出て、冬十月、その将である施績を江夏に入らせ、萬彧に襄陽を侵略させた〈武帝紀〉。詔して義陽王の司馬望に中軍の歩騎二萬を統率して龍陂に駐屯し、二方面を後背から援護させた。このとき荊州刺史の胡烈が施績を防いで、これを破った。司馬望は兵をひきいて還った〈司馬望伝に依る〉
呉の交州刺史である劉俊・大都督の脩則・将軍の顧容は前後にわたり三たび交趾を攻撃し、交趾太守の楊稷はすべて防ぎ止めて撃破した。鬱林と九真はどちらも楊稷に帰付した。楊稷は将軍の毛炅と董元を派遣して合浦を攻撃し、古城で戦い、大いに呉軍を破り、劉俊と脩則を殺し、残りの兵は散って合浦に還った。楊稷は上表して毛炅を鬱林太守とし、董元を九真太守とした〈孫晧伝及び帝紀に見える〉
十一月、呉の丁奉と諸葛靚は芍陂に出て、合肥を攻めた。安東将軍である汝陰王の司馬駿はこれを退けた〈武帝紀〉。義陽王の司馬望を大司馬とし〈司馬望伝に依る〉、荀顗を太尉とし〈荀顗伝に依る〉、石苞を司徒とした〈石苞伝に依る〉

泰始五(二六九)年

原文

世祖武皇帝上之上泰始五年(己丑、公元二六九年) 春正月、呉主立子瑾為皇太子。二月、分雍・涼・梁州置秦州、以胡烈為刺史。先是、鄧艾納鮮卑降者数萬、置於雍・涼之間、与民雑居、朝廷恐其久而為患、以烈素著名於西方、故使鎮撫之。青・徐・兗三州大水。帝有滅呉之志、壬寅、以尚書左僕射羊祜都督荊州諸軍事、鎮襄陽。征東大将軍衛瓘都督青州諸軍事、鎮臨菑。鎮東大将軍東莞王伷都督徐州諸軍事、鎮下邳。
祜綏懐遠近、甚得江・漢之心。与呉人開布大信、降者欲去、皆聴之。減戍邏之卒、以墾田八百餘頃。其始至也、軍無百日之糧、及其季年、乃有十年之積。祜在軍、常軽裘緩帯、身不被甲、鈴閣之下、侍衛不過十数人。
済陰太守巴西文立上言、「故蜀之名臣子孫流徙中国者、宜量才敘用、以慰巴・蜀之心、傾呉人之望。」帝従之。己未、詔曰、「諸葛亮在蜀、尽其心力、其子瞻臨難而死義、其孫京宜随才署吏。」又詔曰、「蜀将傅僉父子死於其主。天下之善一也、豈由彼此以為異哉。僉息著・募没入奚官、宜免為庶人。」帝以文立為散騎常侍。漢故尚書犍為程瓊、雅有徳業、与立深交。帝聞其名、以問立、対曰、「臣至知其人、但年垂八十、稟性謙退、無復当時之望、故不以上聞耳。」瓊聞之、曰、「広休可謂不党矣、此吾所以善夫人也。」
秋九月、有星孛於紫宮。冬十月、呉大赦、改元建衡。封皇子景度為城陽王。
初、汝南何定嘗為呉大帝給使、及呉主即位、自表先帝旧人、求還内侍。呉主以為楼下都尉、典知酤糴事、遂専為威福。呉主信任之、委以衆事。左丞相陸凱面責定曰、「卿見前後事主不忠、傾乱国政、寧有得以寿終者邪。何以専為奸邪、塵穢天聴。宜自改厲、不然、方見卿有不測之禍。」定大恨之。凱竭心公家、忠懇内発、表疏皆指事不飾。及疾病、呉主遣中書令董朝問所欲言、凱陳「何定不可信用、宜授以外任。奚熙小吏、建起浦里田、亦不可聴。姚信・楼玄・賀邵・張悌・郭逴・薛瑩・滕修及族弟喜・抗、或清白忠勤、或資才卓茂、皆社稷之良輔、願陛下重留神思、訪以時務、使各尽其忠、拾遺萬一。」邵、斉之孫。瑩、綜之子。玄、沛人。修、南陽人也。凱尋卒。呉主素銜其切直、且日聞何定之譖、久之、竟徙凱家於建安。
呉主遣監軍虞汜・威南将軍薛珝・蒼梧太守丹楊陶璜従荊州道、監軍李勖・督軍徐存従建安海道、皆会於合浦、以撃交趾。十二月、有司奏東宮施敬二傅、其儀不同。帝曰、「夫崇敬師傅、所以尊道重教也。何言臣不臣乎。其令太子申拝礼。」

訓読

春正月、呉主 子が瑾を立てて皇太子と為す。二月、雍・涼・梁州を分けて秦州を置き、胡烈を以て刺史と為す。是より先、鄧艾 鮮卑の降る者 数萬を納れ、雍・涼の間に置き、民と雑居せしめ、朝廷 其の久しくして患と為るを恐れ、烈の素より名を西方に著はすを以て、故に之を鎮撫せしむ。青・徐・兗三州 大水あり。帝 滅呉の志有り、壬寅、尚書左僕射の羊祜を以て都督荊州諸軍事となし、襄陽に鎮せしむ。征東大将軍の衛瓘もて都督青州諸軍事として、臨菑に鎮せしむ。鎮東大将軍たる東莞王の伷もて都督徐州諸軍事として、下邳に鎮せしむ。
祜 遠近を綏懐し、甚だ江・漢の心を得たり。呉人と与に大信を開布し、降る者 去らんと欲せば、皆 之を聴す。戍邏の卒を減らし、以て田八百餘頃を墾く。其の始めて至るや也、軍 百日の糧無く、其の季年に及び、乃ち十年の積有り。祜 軍に在り、常に裘を軽くして帯を緩め、身に甲を被せず、鈴閣の下(胡三省注に説明あり)、侍衛 十数人を過ぎず。
済陰太守たる巴西の文立 上言すらく、「故の蜀の名臣が子孫 中国に流徙する者、宜しく才を量りて敘用し、以て巴・蜀の心を慰さめ、呉人の望を傾くべし」と。帝 之に従ふ。己未、詔して曰く、「諸葛亮 蜀に在り、其の心力を尽し、其の子たる瞻 難に臨みて義に死し、其の孫たる京 宜しく才に随ひて吏に署するべし」と。又 詔して曰く、「蜀将の傅僉が父子 其の主に死す。天下の善一なり、豈に彼此に由りて以て異と為さんか。僉が息たる著・募 没して奚官(少府の管轄下)に入る、宜しく免じて庶人と為すべし」と。帝 文立を以て散騎常侍と為す。漢の故の尚書たる犍為の程瓊、雅に徳業有り、立と与に深く交はる。帝 其の名を聞き、以て立に問ふに、対へて曰く、「臣 其の人を知るに至るまで、但だ年 八十に垂んとし、稟性 謙退にして、復た当時の望無く(胡三省注に訳あり)、故に以て上聞せざるのみ」と。瓊 之を聞き、曰く、「広休(文立の字) 不党と謂ふ可し、此れ吾 夫(か)の人を善しとする所以なり」と。
秋九月、星の紫宮に孛する有り。冬十月、呉 大赦し、建衡と改元す。皇子の景度を封じて城陽王と為す。
初め、汝南の何定 嘗て呉の大帝の給使と為り、呉主 即位するに及び、自ら先帝の旧人を表して、内侍に還ることを求む。呉主 以為へらく楼下都尉、酤糴の事を典知し、遂に専ら威福を為す。呉主 之を信任に、委ぬるに衆事を以てす。左丞相の陸凱 面して(何)定を責めて曰く、「卿 見るに前後に主に事へるに不忠にして、国政を傾乱し、寧ぞ得て寿を以て終はること有るか。何を以て専ら奸邪を為し、天聴を塵穢する。宜しく自ら改厲すべし、然らずんば、方に見るに卿 不測の禍有らん」と。定 大いに之を恨む。凱 心を公家に竭くし、忠懇 内より発し、表疏 皆 事を指して飾らず。疾病あるに及び、呉主 中書令の董朝を遣はして言はんと欲する所を問はしめ、凱 陳べて「何定 信用す可からず、宜しく授くるに外任を以てせよ。奚熙は小吏にして、浦里田を建起す、亦た聴す可からず。姚信・楼玄・賀邵・張悌・郭逴・薛瑩・滕修及び族弟の(淕)喜・抗、或いは清白にして忠勤なり、或いは資才 卓茂たり、皆 社稷の良輔なり、願はくは陛下 重く神思を留め、時務を以て訪ね、各々其の忠を尽さしめ、萬一を拾遺せよ」と。(賀)邵、斉の孫なり。(薛)瑩、綜の子なり。(楼)玄、沛の人なり。(滕)修、南陽の人なり。凱 尋いで卒す。呉主 素より其の切直するを銜み、且つ日に何定の譖を聞けば、久之、竟に凱の家を建安に徙す。
呉主 監軍の虞汜・威南将軍の薛珝・蒼梧太守たる丹楊の陶璜を遣はして荊州道従りし、監軍李勖・督軍の徐存をして建安の海道従りし、皆 合浦に会して、以て交趾を撃たしむ。十二月、有司 奏して東宮 二傅を施敬し、其の儀 同じからず。帝曰く、「夫れ師傅を崇敬するは、道を尊び教へを重んずる所以なり。何ぞ臣不臣(上奏の語より)と言ふか。其れ太子に令して拝礼を申せしめよ」と。

現代語訳

春正月、呉主は子の孫瑾を皇太子に立てた〈孫晧伝〉
二月、雍・涼・梁州を分けて秦州を置いた〈武帝紀〉。胡烈を秦州刺史とした。是より先、鄧艾は鮮卑からの降伏者を数万人受け入れ、雍州と涼州のあいだに置き、漢族と雑居させた。朝廷は時間がたって脅威となることを恐れ、胡烈は名声が西方に表れているから、ここを鎮撫させたのである〈未詳〉
青・徐・兗の三州で洪水があった〈武帝紀〉。武帝は呉を滅ぼそうという考えがあり〈羊祜伝〉、壬寅、尚書左僕射の羊祜を都督荊州諸軍事とし〈武帝紀〉、襄陽に出鎮させた〈羊祜伝に依る〉。征東大将軍の衛瓘を都督青州諸軍事とし〈武帝紀〉、臨菑に出鎮させた。鎮東大将軍である東莞王の司馬伷を都督徐州諸軍事とし、下邳に出鎮させた〈瑯邪王 司馬伷伝に依る〉
羊祜は遠近を懐柔し、長江や漢水の一体で支持を得た。呉人に向けて信義を広め、降服したが去ろうという者がいたら、行かせてやった。守備兵を減らし、田の八百餘頃を開墾した。かれが着任したとき、兵糧は百日の蓄えもなかったが、末年のころは、十年の備蓄があった。羊祜は軍中におり、いつも軽装の皮衣をつけて帯をゆるめ、鎧を着けず、その居場所には、護衛が十数人しか居なかった〈羊祜伝〉
済陰太守である巴西の文立は上言し、「もと蜀の名臣の子孫で中原の移住した者は、才能を査定して任用し、巴蜀地方の心を慰め、呉人に希望を持たせさない」と言った。武帝はこれに従った〈儒林 文立伝〉。己未、詔して、「諸葛亮は蜀にいて、精力を尽くした。その子である諸葛瞻は難(蜀漢の滅亡)に臨んで忠義のために死んだ。その孫である諸葛京を才能に基づき吏に採用せよ」と言った〈諸葛亮伝に引く晋泰始起居注〉。さらに詔して、「蜀将の傅僉の父子は主君のために死んだ〈未詳〉。天下の善臣の第一である〈諸葛亮伝に引く晋泰始起居注〉。国が替わっても価値は変わらぬ。傅歛の子である傅著と傅募は、(身分を)失い奚官(少府の管轄下)に入っている。解放して庶人とせよ」と言った〈未詳〉。武帝は文立を散騎常侍とした。蜀漢のもと尚書である犍為の程瓊は、もとより徳業があり、文立と深い交友があった。武帝はその名を聞き、文立に質問すると、答えて、「私はかれを知っていますが、年齢が八十になろうというのに、つつましい性格で、栄達して豊かになろうという希望がなく、ゆえに名前を挙げなかったのです」と言った。稟性 謙退にして、復た当時の望無く(胡三省注に訳あり)、故に以て上聞せざるのみ」と。程瓊はこれを聞き、「広休(文立の字)は党派的な偏りがないな。だからこそ好人物なのだ」と言った〈儒林 文立伝に依る〉
秋九月、彗星が紫宮に現れた〈武帝紀〉。冬十月、呉は大赦し、建衡と改元した〈孫晧伝〉。皇子の司馬景度を封じて城陽王した〈武帝紀〉
これより先、汝南の何定は呉の大帝(孫権)の給使となった。呉主(孫晧)即位が即位すると、先帝から仕えているから、宮仕えに戻りたいと求めた。呉主は楼下都尉とし、穀物や酒の買い入れを管轄させた。すると(何定は)威権を振りかざした。呉主はかれを信任し、多くのことを委任した〈孫晧伝に引く江表伝〉。左丞相の陸凱が対面で何定を責めて、「きみは歴代に仕えているが不忠だ。国政を傾けて乱しておきながら、寿命で死ねると思っているのか。なぜ奸悪なことばかりして、主君の意向を台無しにするのか。行動を改めよ。さもなくば、予測できない禍いに見舞われるぞ」と言った。何定はひどく陸凱を恨んだ。陸凱は公のために心を砕き、忠誠心は厚くて内面から発し、上表や上疏では直言をして飾らなかった。病気になると、呉主は中書令の董朝を派遣し、言いたいことを聴き取らせた。陸凱は、「何定を信用してはいけません。朝廷の外の仕事をさせなさい。奚煕は小役人でありながら、浦里に水田を開くことを提案していますが、認めてはいけません。姚信・楼玄・賀邵・張悌・郭逴・薛瑩・滕修及び族弟の陸喜・陸抗は、あるものは清廉で勤勉であり、あるいは素質と才能が豊かです。みな社稷の良き補佐です。陛下は配慮をお加えになり、時々の問題について意見を求めなさい。かれらは忠臣として力を尽くし、万に一つの過失も補ってくれるでしょう」と言った。賀邵は、賀斉の孫である。薛瑩は、薛綜の子である。楼玄は、沛の人である。滕修は、南陽の人である。陸凱はほどなく亡くなった。呉主はかれの物言いが疎ましく、また何定からの(陸凱への)批判を聞かされていたので、しばらくして陸凱の遺族を建安に移住させた〈陸凱伝〉
呉主は監軍の虞汜・威南将軍の薛珝・蒼梧太守である丹楊の陶璜を荊州の道から進ませ、監軍李勖・督軍の徐存を建安の海道から進ませ、全軍を合浦で集合させ、交趾を攻撃した〈孫晧伝〉
十二月、担当官は上奏して東宮に二人の傅(太子の指導係)の官を設置せよと言ったが、意見の内容が一致しなかった。武帝は、「師傅を尊敬するのは、道と教えを大切にするからである。なぜ(上奏にあるように)臣だの不臣だのと騒ぐのか。太子に命じて拝礼をさせよ」と言った〈未詳〉

泰始六(二七〇)年

原文

世祖武皇帝上之上泰始六年(庚寅、公元二七零年) 春正月、呉丁奉入渦口、揚州刺史牽弘撃走之。呉萬彧自巴丘還建業。
夏四月、呉左大司馬施績卒。以鎮軍大将軍陸抗都督信陵・西陵・夷道・楽郷・公安諸軍事、治楽郷。抗以呉主政事多闕、上疏曰、「臣聞徳均則衆者勝寡、力侔則安者制危、此六国所以并於秦、西楚所以屈於漢也。今敵之所拠、非特関右之地・鴻溝以西、而国家外無連衡之授、内非西楚之強、庶政陵遅、黎民未乂。議者所恃、徒以長江・峻山限帯封域。此乃守国之末事、非智者之所先也。臣毎念及此、中夜撫枕、臨餐忘食。夫事君之義、犯而勿欺、謹陳時宜十七條以聞。」呉主不納。
李勖以建安道不利、殺導将馮斐、引軍還。初、何定嘗為子求婚於勖、勖不許、乃白勖枉殺馮斐、擅徹軍還、誅勖及徐存、並其家屬、仍焚勖屍。定又使諸将各上御犬、一犬至直縑数十匹、纓紲直銭一萬、以捕兔供廚。呉人皆帰罪於定、而呉主以為忠勤、賜爵列侯。陸抗上疏曰、「小人不明理道、所見既浅、雖使竭情尽節、猶不足任、況其奸心素篤而憎愛移易哉。」呉主不従。
六月戊午、胡烈討鮮卑禿髪樹機能於萬斛堆、兵敗被殺。都督雍・涼州諸軍事扶風王亮遣将軍劉旂救之、旂観望不進。亮坐貶為平西将軍、旂当斬。亮上言、「節度之咎、由亮而出、乞丐旂死。」詔曰、「若罪不在旂、当有所在。」乃免亮官。遣尚書楽陵石鑒行安西将軍、都督秦州諸軍事、討樹機能。樹機能兵盛、鑒使秦州刺史杜預出兵撃之。預以虜乗勝馬肥、而官軍縣乏、宜並力大運芻糧、須春進討。鑒奏預稽乏軍興、檻車征詣廷尉、以贖論。既而鑒討樹機能、卒不能克。
秋七月乙巳、城陽王景度卒。丁未、以汝陰王駿為鎮西大将軍、都督雍・涼等州諸軍事、鎮関中。冬十一月、立皇子東為汝南王。呉主従弟前将軍秀為夏口督、呉主悪之、民間皆言秀当見図。会呉主遣何定将兵五千人猟夏口、秀驚、夜将妻子・親兵数百人来奔。十二月、拝秀驃騎将軍・開府儀同三司、封会稽公。是歳、呉大赦。初、魏人居南匈奴五部於并州諸郡、与中国民雑居。自謂其先漢氏外孫、因改姓劉氏。

訓読

春正月、呉の丁奉 渦口に入り、揚州刺史の牽弘 撃ちて之を走らす。呉の萬彧 巴丘自り建業に還る。
夏四月、呉の左大司馬たる施績 卒す。鎮軍大将軍の陸抗を以て信陵・西陵・夷道・楽郷・公安の諸軍事を都督せしめ、楽郷を治とす。抗 呉主の政事 多く闕くことを以て、上疏して曰く、「臣 聞くに徳 均しければ則ち衆き者は寡なきに勝ち、力 侔しければ則ち安なる者は危ふきを制す、此れ六国 秦に并はせらるる所以にして、西楚 漢に屈する所以なり。今 敵の拠る所、特に関右の地、鴻溝以西に非ず、而れども国家 外に連衡の授無く、内に西楚の強非く、庶政 陵遅し、黎民 未だ乂せず。議者 恃む所、徒だ長江・峻山の帯を限り域を封ずるを以てするのみ。此れ乃ち守国の末事にして、智者の先ずる所に非ざるなり。臣 毎に此に及ぶことを念ひ、夜に中りて枕を撫し、餐に臨みて食を忘る。夫れ君に事ふる義、犯すとも欺くこと勿かれ、謹みて時宜十七條を陳べて以て聞かしむ」と。呉主 納れず。
李勖 建安の道を以て利あらず、導将の馮斐を殺し、軍を引きて還る。初め、何定 嘗て子の為に勖に求婚し、勖 許さざれば、乃ち勖 馮斐を枉殺し、擅に軍を徹して還すと白(まふ)し、勖及び徐存、並びに其の家屬を誅し、仍りて勖の屍を焚く。定 又 諸将をして各々御犬を上らしめ、一犬 縑数十匹に直たり、纓紲 銭一萬に直たるに至り、以て兔を捕らへて廚に供す。呉人 皆 罪を(何)定に帰し、而れども呉主 以て忠勤と為し、爵列侯を賜ふ。陸抗 上疏して曰く、「小人 理道に明らかならず、所見 既に浅く、情を竭くし節を尽せしむと雖も、猶ほ任ずるに足らず、況んや其の奸心 素より篤くして憎愛 移ろひ易きをや」と。呉主 従はず。
六月戊午、胡烈 鮮卑の禿髪樹機能を萬斛堆に討ち、兵 敗れて殺さる。都督雍・涼州諸軍事たる扶風王亮 将軍劉旂を遣はして之を救はしめ、旂 (司馬)望の進まざるを観る。亮 坐して貶めて平西将軍と為り、旂 当に斬るべし。亮 上言すらく、「節度の咎、亮由り出で、旂の死を丐すことを乞ふ」と。詔して曰く、「若し罪 旂に在らざれば、当に所在に有るべし」と。乃ち亮の官を免ず。尚書たる楽陵の石鑒を遣はして行安西将軍、都督秦州諸軍事として、樹機能を討たしむ。樹機能の兵 盛んにして、鑒 秦州刺史の杜預をして兵を出して之を撃たしむ。預 虜の勝に乗じて馬 肥え、而れども官軍 縣乏するを以て、宜しく力を並せて大いに芻糧を運び、春を須ちて進み討つべしとす。鑒 (杜)預 軍興を稽乏するを奏し、檻車もて征して廷尉に詣らしめ、以て贖論す。既にして鑒 樹機能を討つも、卒に克つこと能はず。
秋七月乙巳、城陽王景度 卒す。丁未、汝陰王駿を以て鎮西大将軍と為し、雍・涼等州諸軍事を都督し、関中に鎮せしむ。冬十一月、皇子の東を立てて汝南王と為す。呉主の従弟たる前将軍の(孫)秀 夏口督為(た)り、呉主 之に悪み、民間に皆 秀 当に図らるべしと言ふ。会 呉主 何定を遣はして兵五千人を将ゐて夏口に猟せしめ、秀 驚き、夜に妻子・親兵数百人を将ゐて来奔す。十二月、秀に驃騎将軍・開府儀同三司を拝し、会稽公に封ず。是の歳、呉 大赦す。初め、魏人 南匈奴五部をして并州諸郡に居せしめ、中国の民と与に雑居せしむ。自ら其の先を漢氏の外孫と謂ひ、因りて姓を劉氏に改む。

現代語訳

春正月、呉の丁奉が渦口に入った。揚州刺史の牽弘は攻撃してこれを敗走させた〈武帝紀〉。呉の萬彧は巴丘から建業に還った〈孫晧伝〉
夏四月、呉の左大司馬である施績が卒した〈孫晧伝〉。鎮軍大将軍の陸抗に信陵・西陵・夷道・楽郷・公安の諸軍事を都督させ、楽郷を治所とした。陸抗は呉主の政治に多くの欠点があるので、上疏し、「聞きますに徳が等しければ兵の多い国が勝ちます。力が等しければ、安定した国が勝ちます。これが(戦国)六国が秦に併合された事情であり、西楚(項羽)が漢に屈服した理由です。いま敵(晋)の領土は、関右の地(秦)や鴻溝以西(西楚)よりも広大であり、しかしわれらは外に同盟国(六国)がおらず、内に西楚のような強さもなく、政治は衰退し、領民は安定していません。わが国の論者は、ただ長江や山岳地帯の地形を頼りにするばかりです。これは防衛に関する最低限のことで、知恵のある人がまっさきに挙げることではありません。心配で仕方がなく、寝食もままなりません。君主に仕えるならば、意に沿わずとも、欺いてはならぬものです。謹んで時事問題の十七条を申し上げます」と言った。呉主は聴き入れなかった〈陸抗伝〉
李勖は建安からの経路が不利なので、道案内の将である馮斐を殺し、撤退して還った〈孫晧伝〉
これより先、何定はかつて子のために李勖に婚姻を求めたが、李勖が認めなかった〈孫晧伝に引く江表伝〉。李勖は馮斐を理由なく殺し、かってに軍を撤退させたと報告した。李勖及び徐存は、その家族を誅殺され〈孫晧伝〉、李勖の死体を焼き捨てた。何定は諸将に命じて犬を献上させ、一匹の犬の値段が絹数十匹と同じになり、犬のひもが一万銭に高騰した。(犬に食わせる)兎を捕らえて宮中で調理させた。呉人はこれを全て何定のせいだと考えた。しかし呉主はかれを忠勤と見なし、爵列侯を賜わった〈孫晧伝に引く江表伝〉
陸抗は上疏し、「つまらぬ人物は政治の道が分かっておらず、見識は浅いのです。情を尽くして節を全うさせようとしても、任務に堪えません。まして邪悪な心をもち、愛憎が安定せぬもの(何定)ならば尚更です」と言った〈陸抗伝〉。呉主は従わなかった〈未詳〉
六月戊午、胡烈が鮮卑の禿髪樹機能を萬斛堆で討伐したが、軍が敗れて殺された〈禿髪烏孤伝〉
都督雍・涼州諸軍事である扶風王の司馬亮は将軍の劉旂に救援させた。だが劉旂は、見守るだけで進まなかった。司馬亮はこの失敗により平西将軍に降格された。劉旂は死罪とされた。司馬亮は上言し、「軍隊の指揮の不備は、この私の責任です。かれの生死は私に預けて下さい」と言った。武帝は、「もし罪が劉旂にないなら、罪はそなたにあるだろう」と言った。司馬亮の官を免じた〈汝南王亮伝〉
尚書である楽陵の石鑒を行安西将軍・都督秦州諸軍事とし〈武帝紀〉、樹機能を討伐させた。樹機能の兵は盛んであり、石鑒は秦州刺史の杜預に出撃をさせた。杜預は敵軍が勝ちに乗じて馬が肥え、しかし官軍は軍資が不足しているので、力をあわせて糧秣を運び、春になるのを待ってから討伐すべきですと言った。石鑒は杜預が理由をつけて出撃をしぶったとして、檻車で廷尉のもとに護送し、かれの罪を論じさせた。石鑒は樹機能を攻撃したが、結局は勝てなかった〈杜預伝に依る〉
秋七月乙巳、城陽王の司馬景度が卒した〈武帝紀〉。丁未、汝陰王の司馬駿を鎮西大将軍とし、都督雍・涼等州諸軍事として、関中を鎮守させた。冬十一月、皇子の司馬柬を汝南王に立てた〈武帝紀〉
呉主の従弟である前将軍の孫秀は夏口であるが、呉主はかれを嫌悪し、世論では孫秀は殺されると噂した。このとき呉主が何定に兵五千人をひきいて夏口で狩猟をさせた。孫秀は驚き、夜に妻子と親兵の数百人をつれて出奔した。十二月、孫秀に驃騎将軍・開府儀同三司を拝し、会稽公に封建した〈呉 宗室 孫匡伝〉
この年、呉は大赦した〈孫晧伝〉
これより先、魏人は南匈奴の五部を并州の諸郡に居住させ、漢民族と雑居した。祖先は漢の皇帝の外孫だと自称し、姓を劉氏に改めた〈十六国春秋 前趙録に依る〉

泰始七(二七一)年

原文

世祖武皇帝上之上泰始七年(辛卯、公元二七一年)
春正月、匈奴右賢王劉猛叛出塞。豫州刺史石鑒坐撃呉軍虚張首級、詔曰、「鑒備大臣、吾所取信、而乃下同為詐、義得爾乎。今遣帰田里、終身不得復用。」
呉人刁玄詐増讖文云、「黄旗紫蓋、見於東南、終有天下者、荊・揚之君。」呉主信之。是月晦、大挙兵出華里、載太后・皇后及後宮数千人、従牛渚西上。東観令華覈等固諫、不聴。行遇大雪、道塗陥壊、兵士被甲持仗、百人共引一車、寒凍殆死、皆曰、「若遇敵、便当倒戈。」呉主聞之、乃還。帝遣義陽王望統中軍二萬・騎三千屯寿春以備之、聞呉師退、乃罷。
三月丙戌、巨鹿元公裴秀卒。夏四月、呉交州刺史陶璜襲九真太守董元、殺之。楊稷以其将王素代之。北地胡寇金城、涼州刺史牽弘討之。衆胡皆内叛、与樹機能共厳囲弘於青山、弘軍敗而死。初、大司馬陳騫言於帝曰、「胡烈・牽弘皆勇而無謀、強於自用、非綏辺之材也、将為国恥。」時弘為揚州刺史、多不承順騫命、帝以為騫与弘不協而毀之、於是徴弘、既至、尋復以為涼州刺史。騫竊歎息、以為必敗。二人果失羌戎之和、兵敗身没、征討連年、僅而能定、帝乃悔之。
五月、立皇子憲為城陽王。辛丑、義陽成王望卒。侍中・尚書令・車騎将軍賈充、自文帝時寵任用事。帝之為太子、充頗有力、故益有寵於帝。充為人巧諂、与太尉・行太子太傅荀顗・侍中・中書監荀勖・越騎校尉安平馮紞相為党友、朝野悪之。帝問侍中裴楷以方今得失、対曰、「陛下受命、四海承風、所以未比徳於尭・舜者、但以賈充之徒尚在朝耳。宜引天下賢人、与弘政道、不宜示人以私。侍中楽安任愷・河南尹穎川庾純皆与充不協、充欲解其近職。乃薦愷忠貞、宜在東宮。帝以愷為太子少傅、而侍中如故。会樹機能乱秦・雍、帝以為憂、愷曰、「宜得威望重臣有智略者以鎮撫之。」帝曰、「誰可者。」愷因薦充、純亦称之。秋七月癸酉、以充為都督秦・涼二州諸軍事、侍中・車騎将軍如故。充患之。
呉大都督薛珝与陶璜等兵十萬、共攻交趾、城中糧尽援絶、為呉所陥、虜楊稷・毛炅等。璜愛炅勇健、欲活之、炅謀殺璜、璜乃殺之。脩則之子允、生剖其腹、割其肝、曰、「復能作賊不。」炅猶罵曰、「恨不殺汝孫皓、汝父何死狗也。」王素欲逃帰南中、呉人獲之、九真・日南皆降於呉。呉大赦、以陶璜為交州牧。璜討降夷獠、州境皆平。
八月丙申、城陽王憲卒。分益州南中四郡置寧州。九月、呉司空孟仁卒。冬十月丁丑朔、日有食之。十一月、劉猛寇并州、并州刺史劉欽等撃破之。賈充将之鎮、公卿餞於夕陽亭。充私問計於荀勖、勖曰、「公為宰相、乃為一夫所制、不亦鄙乎。然是行也、辞之実難、独有結婚太子、可不辞而自留矣」。充曰、「然孰可寄懐」。勖曰、「勖請言之」。因謂馮紞曰、「賈公遠出、吾等失勢。太子婚尚未定、何不勧帝納賈公之女乎」。紞亦然之。初、帝将納衛瓘女為太子妃、充妻郭槐賂楊后左右、使后説帝、求納其女。帝曰、「衛公女有五可、賈公女有五不可、衛氏種賢而多子、美而長・白。賈氏種妒而少子、醜而短・黒」。后固以為請、荀顗・荀勖・馮瓘皆称充女絶美、且有才徳、帝遂従之。留充復居旧任。
十二月、以光禄大夫鄭袤為司空、袤固辞不受。是歳、安楽思公劉禅卒。呉以武昌都督広陵范慎為太尉。右将軍司馬丁奉卒。呉改明年元曰鳳凰。

訓読

春正月、匈奴の右賢王たる劉猛 叛して塞を出づ。豫州刺史の石鑒 呉軍を撃ちて首級を虚張するに坐し、詔して曰く、「鑒 大臣たるを備へ、吾 信じて取る所、而るに乃ち下と同に詐り為す、義 爾(しか)る(爾るは、此の如きと同じ)を得るか。今 田里に帰らしめ、終身 復た用ゐることを得ざれ」と。
呉人の刁玄 詐りて讖文を増して云はく、「黄旗・紫蓋、東南に見はれ、終に天下を有つ者は、荊・揚の君なり」と。呉主 之を信ず。是の月の晦、大いに兵を挙げて華里に出で、太后・皇后及び後宮数千人を載せ、牛渚従り西上す。東観令の華覈ら固く諫め、聴さず。行きて大雪に遇ひ、道塗 陥壊し、兵士 甲を被て仗を持し、百人 共に一車を引き、寒凍して殆ど死し、皆 曰く、「若し敵に遇はば、便ち当に戈を倒すべし」と(殷の紂王が周の武王をと牧野で戦ったときの故事)。呉主 之を聞き、乃ち還る。帝 義陽王望を遣はして中軍二萬・騎三千を統べて寿春に屯して以て之に備へしめ、呉師 退くと聞きて、乃ち罷む。
三月丙戌、鉅鹿元公の裴秀 卒す。夏四月、呉の交州刺史陶璜 九真太守の董元を襲ひ、之を殺す。楊稷 其の将たる王素を以て之に代ふ。北地胡 金城を寇し、涼州刺史の牽弘 之を討つ。衆胡 皆 内に叛し、樹機能と共に(牽)弘を青山に囲み、弘の軍 敗れて死す。初め、大司馬の陳騫 帝に言ひて曰く、「胡烈・牽弘 皆 勇にして謀無し、自用を強くし(自分の意見を押し通し)、綏辺の材に非ざるなり、将に国恥と為らん」と。時に(牽)弘 揚州刺史と為り、多く騫の命に承順せず、帝 以為へらく騫 弘と不協にして之を毀つとし、是に於いて弘を徴し、既に至りて、尋いで復た以て涼州刺史と為す。騫 竊かに歎息し、以為へらく必ず敗ると。二人 果して羌戎の和を失ひ、兵は敗れて身は没し、征討 連年なりて、僅かにして能く定む、帝 乃ち之を悔む。
五月、皇子憲を立てて城陽王と為す。辛丑、義陽成王望 卒す。侍中・尚書令・車騎将軍の賈充、文帝の時自り用事に寵任せらる。(武)帝の太子と為るとき、充 頗る力有り、故に益々帝に寵有り。充 人と為り巧諂にして、太尉・行太子太傅の荀顗・侍中・中書監の荀勖・越騎校尉たる安平の馮紞と与に相 党友と為り、朝野 之を悪む。帝 侍中の裴楷に方今の得失を以て問ふに、対へて曰く、「陛下 命を受け、四海 風を承くるに、未だ徳を尭・舜に比べざる所以は、但だ賈充の徒を以て尚ほ朝に在らしむるのみ。宜しく天下の賢人を引き、与に政道を弘くし、宜しく人に私を以てせざるを示すべし。侍中たる楽安の任愷・河南尹たる穎川の庾純 皆 充と不協にして、充 其の近職を解かんと欲す。乃ち(任)愷の忠貞たるを薦めて、宜しく東宮に在らしむべし。帝 愷を以て太子少傅と為し、而るに侍中たること故の如し。会 樹機能 秦・雍を乱し、帝 以て憂と為すに、愷曰く、「宜しく威望の重臣にして智略有る者を得て以て之を鎮撫すべし」と。帝曰く、「誰ぞ可き者か」と。愷 因りて充を薦め、(庾)純 亦 之を称ふ。秋七月癸酉、充を以て都督秦・涼二州諸軍事と為し、侍中・車騎将軍たること故の如し。充 之を患ふ。
呉の大都督たる薛珝 陶璜らと兵十萬にして、共に交趾を攻め、城中の糧は尽きて援は絶え、呉の為に陥され、楊稷・毛炅らを虜とす。(陶)璜 炅の勇健を愛し、之を活かさんと欲し、炅 璜を殺さんと謀れば、璜 乃ち之を殺す。脩則の子の允、生きながらに其の腹を剖し、其の肝を割きて、曰く、「復た能く賊と作るや不や」と。炅 猶ほ罵りて曰く、「汝の孫皓を殺さざるを恨む、汝の父 何ぞ死狗ならんや」と〔一〕。王素 逃げて南中に帰せんと欲し、呉人 之を獲らへ、九真・日南 皆 呉に降る。呉 大赦し、陶璜を以て交州牧と為す。璜 夷獠を討ち降し、州境 皆 平らぐ。
八月丙申、城陽王憲 卒す。益州南中の四郡を分けて寧州を置く。九月、呉の司空たる孟仁 卒す。冬十月丁丑朔、日の之を食する有り。十一月、劉猛 并州を寇し、并州刺史の劉欽ら之を撃破す。賈充 将に鎮に之かんとし、公卿 夕陽亭に餞す。充 私かに計を荀勖に問ふに、勖曰く、「公 宰相と為りて、乃ち一夫の為に制せらる、亦 鄙ならざるか。然して是れ行くや、之を辞すること実に難く、独り太子と結婚すること有らば、辞せずして自ら留まる可し」と。充曰く、「然れ孰れか寄懐す可き」と。勖曰く、「勖 請ひて之を言はん」と。因りて馮紞に謂ひて曰く、「賈公 遠く出でれば、吾ら勢を失ふ。太子の婚 尚ほ未だ定らず、何ぞ帝に賈公の女を納るることを勧めざるか」と。(馮)紞 亦 之を然りとす。初め、帝 将に衛瓘の女を納れて太子妃と為さんとし、充の妻たる郭槐 楊后の左右に賂し、后をして帝に説かしめ、其の女を納るることを求む。帝曰く、「衛公の女 五可有り、賈公の女 五不可有り、衛氏の種 賢にして子多く、美にして長・白たり。賈氏の種 妒にして子少なく、醜にして短・黒なり」と。后 固く以て請を為し、荀顗・荀勖・馮瓘 皆 充の女の絶美にして、且つ才徳有るを称へ、帝 遂に之に従ふ。充を留めて復して旧任に居らしむ。
十二月、光禄大夫の鄭袤を以て司空と為し、袤 固辞して受けず。是の歳、安楽思公の劉禅 卒す。呉 武昌都督たる広陵の范慎を以て太尉と為す。右将軍司馬の丁奉 卒す。呉 明年を改めて元して鳳凰と曰ふ。

〔一〕脩則は毛炅に殺された。泰始四年に見える。

現代語訳

春正月、匈奴の右賢王である劉猛が叛して塞外に出た〈武帝紀〉
豫州刺史の石鑒は呉軍との戦いで得た首級を、虚偽報告したとして罰せられた。詔して、「石鑒は大臣として、私の信任する人物である。しかし詐欺をなした。筋道が通るまい。いま郷里に帰らせ、終身にわたり任用してはならぬ」と言った〈石鑒伝に依る〉
呉人の刁玄が詐って讖文を書き足し、「黄旗と紫蓋が東南に出現する。最後に天下を支配するのは、荊揚の君である」とした。呉主はこれを信じた〈孫晧伝に引く江表伝〉。この月のみそか、大いに兵を挙げて華里に出て〈孫晧伝〉、太后や皇后及び後宮の数千人を連れ出し、牛渚から西に遡った〈江表伝〉。東観令の華覈らが強く諫めたが、聴き入れなかった〈孫晧伝〉。大雪に見舞われ、道路が陥没して壊れ、兵士は武装したまま、百人で一台の車を引っぱり、ほとんどが凍死した。みな、「もし敵に遭遇したら、戈の向きを変えよ」とと言った(殷の紂王が周の武王をと牧野で戦ったときの故事)。呉主はこれを聞き、帰還した〈江表伝〉
武帝は義陽王の司馬望に中軍二万と騎三千を統率して寿春に駐屯し、呉の進軍に備えさせた。呉軍が撤退したと聞き、中止した〈宗室 安平王孚 附望伝〉
三月丙戌、鉅鹿元公の裴秀が卒した〈武帝紀〉
夏四月、呉の交州刺史である陶璜が九真太守の董元を襲い、これを殺した〈孫晧伝〉。楊稷はその将である王素をこれに代えた〈未詳〉
北地胡が金城を侵略し、涼州刺史の牽弘はこれを討伐した。胡賊たちが内地で叛乱し、樹機能とともに牽弘を青山で包囲した。牽弘の軍は敗れて死んだ〈武帝紀に依る〉
これより先、大司馬の陳騫は武帝に、「胡烈と牽弘は勇敢だが謀略がない。意見を押し通すので、辺境を綏撫できる人材ではありません。国の恥となるでしょう」と言っていた。このとき牽弘は揚州刺史となり、陳騫の命令に逆らってばかりであった。武帝は、陳騫が牽弘と不仲なので批判しているのだと考え、ゆえに牽弘を徴召した。中央に到着すると、すぐに涼州刺史とした。陳騫はひそかに歎息し、敗北は必至だと言った。二人は果たして羌戎と和親せず、軍が敗れて命を落とした。連年にわたり征討したが、平定できたのは僅かであり、武帝はこの人事を後悔した〈陳騫伝に依る〉
五月、皇子の司馬憲を城陽王に立てた〈武帝紀〉。辛丑、義陽成王の司馬望が卒した〈武帝紀〉。侍中・尚書令・車騎将軍の賈充は、文帝のときから信頼されて中枢を任されていた。武帝が太子になるとき、賈充が手を尽くしてくれたので、ますます寵用された。賈充は君主に取り入るのがうまかった〈賈充伝に依る〉。太尉・行太子太傅の荀顗〈荀顗伝に依る〉、侍中・中書監の荀勖〈荀勖伝〉、越騎校尉である安平の馮紞は賈充と党友となり〈馮紞伝に依る〉、朝野から疎まれていた。
武帝が侍中の裴楷に政治の得失について意見を求めた。答えて、「陛下は天命を受け、四海は教化に染まっていますが、まだ尭や舜に徳が及ばないのは、賈充のようなものを朝廷に置いているからです。天下の賢人を招き、ともに政道を広め、私心のないことを示すべきです〈裴楷伝に依る〉。侍中である楽安の任愷と、河南尹である穎川の庾純は、どちらも賈充と不仲です。賈充は二人を解任しようとしています。任愷は忠貞ですから、東宮に仕えさせて下さい」と言った。武帝は任愷を太子少傅とし、侍中は従来どおりとした。たまたま樹機能が秦州と雍州を乱し、武帝は憂慮した。任愷は、「威名と声望のある重臣で智略をそなえたものに、かの地を鎮撫させなさい」と言った。武帝は、「だれが適任か」と質問した。任愷は賈充を推薦し、庾純もまた同意した〈任愷伝に依る〉。秋七月癸酉、賈充を都督秦・涼二州諸軍事とし、侍中・車騎将軍は従来どおりとした。賈充はとても嫌がった〈賈充伝に依る〉
呉の大都督である薛珝は陶璜らと兵十万をひきい、ともに交趾を攻めた。城中の食糧は尽きて援軍は絶えた。呉が(州城を)陥落させ、楊稷・毛炅らを捕縛した。陶璜は毛炅の勇健さを惜しみ、かれを生かそうとした。毛炅が陶璜を殺そうと計画したので、陶璜はかれを殺した。(泰始四年、毛炅に殺された)脩則の子の脩允は、生きながらに(毛炅の)腹を切り開き、その肝を裂いて、「また賊となれるか、どうだ」と言った。毛炅はなおも罵り、「お前たちの君主、孫晧を殺せなかったことが残念だ。お前の父は、死んだ犬ではないか」と言った〈孫晧伝注〉
王素は南中に逃げ込もうとしたが、呉人に捕らえられた〈未詳〉。九真と日南はどちらも呉に降った。呉は大赦した〈孫晧伝〉。陶璜を交州牧とした。陶璜は夷獠を討伐して降服させ、州境は平定された〈陶璜伝に依る〉
八月丙申、城陽王の司馬憲が卒した〈武帝紀〉。益州の南中四郡を分けて寧州を設置した〈武帝紀〉
九月、呉の司空である孟仁が卒した〈孫晧伝〉
冬十月丁丑朔、日食があった〈武帝紀〉
十一月、劉猛が并州を侵略し、并州刺史の劉欽らはこれを撃破した〈未詳〉
賈充は任地(長安)に行くにあたり、公卿は夕陽亭で餞別をした。賈充はひそかに荀勖に(赴任を免れる)計略を質問した。荀勖は、「あなたは宰相でありながら、たかが一人の男に主導権を奪われ、まずいことです。しかし赴任の辞退は難しい。太子と婚姻できれば、辞退して都に留まれるはずですが」と言った。賈充は、「だれを頼ったらよい」と聞いた。荀勖は、「私から言いましょう」と言った〈賈充伝に依る〉。馮紞に、「賈公が遠くに出れば、われらは権勢を失う。太子の婚姻は、まだ決まっていない。なぜ帝に賈公の娘を推薦せぬのだ」と言った。馮紞は同意した〈荀勖伝に依る〉。これより先、武帝は衛瓘の娘をむかえて太子妃としようと考えていた。賈充の妻である郭槐は楊后の左右に賄賂し、楊后から武帝を説得させ、自分の娘を推薦した。武帝は、「衛公の娘には五つの長所があり、賈公の娘には五つの短所がある。衛氏の血統は賢くて子が多く、美しく長身で色白だ。賈氏の一族は嫉妬ふかくて子が少なく、醜くて短身で色黒だ」と言った。楊后はねばり強く説得し、た。荀顗と荀勖〈后妃 賈氏伝〉と馮瓘も賈充の娘こそ極めて美しく〈荀勖伝に依る〉、才徳を備えていると称えた。武帝は受け入れた。賈充を旧来の官職に残留させた〈賈充伝に依る〉
十二月、光禄大夫の鄭袤を司空とした〈武帝紀〉が、鄭袤は固辞して受けなかった〈鄭袤伝に依る〉
この年、安楽思公の劉禅が卒した〈後主伝及び注蜀記〉
呉は武昌都督である広陵の范慎を太尉とした。右将軍司馬の丁奉が卒した〈孫晧伝〉。呉は明年を鳳凰元年とした〈孫晧伝〉

泰始八(二七二)年

原文

世祖武皇帝上之上泰始八年(壬辰、公元二七二年) 春正月、監軍何楨討劉猛、屢破之、潛以利誘其左部帥李恪、恪殺猛以降。二月、辛卯、皇太子納賈妃。妃年十五、長於太子二歳、妒忌多権詐、太子嬖而畏之。壬辰、安平献王孚卒、年九十三。孚性忠慎、宣帝執政、孚常自退損。後逢廃立之際、未嘗預謀。景・文二帝以孚属尊、亦不敢逼。及帝即位、恩礼尤重。元会、詔孚乗輿上殿、帝於阼階迎拝。既坐、親奉觴上寿、如家人礼。帝毎拝、孚跪而止之。孚雖見尊寵、不以為榮、常有憂色。臨終、遺令曰、「有魏貞士河内司馬孚字叔達、不伊不周、不夷不恵、立身行道、終始若一。当衣以時服、斂以素棺」。詔賜東園温明秘器、諸所施行、皆依漢東平献王故事。其家遵孚遺旨、所給器物、一不施用。帝与右将軍皇甫陶論事、陶与帝争言、散騎常侍鄭徽表請罪之、帝曰、「忠讜之言、唯患不聞。徽越職妄奏、豈朕之意」。遂免徽官。
夏、汶山白馬胡侵掠諸種、益州刺史皇甫晏欲討之。典学従事蜀郡何旅等諫曰、「胡夷相残、固其常性、未為大患。今盛夏出軍、水潦将降、必有疾疫、宜須秋・冬図之」。晏不聴。胡康木子焼香言軍出必敗、晏以為沮衆、斬之。軍至観阪、牙門張弘等以汶山道険、且畏胡衆、因夜作乱、殺晏、軍中驚擾、兵曹従事犍為楊倉勒兵力戦而死。弘遂誣晏、云「率己共反」、故殺之、伝首京師。晏主簿蜀郡何攀、方居母喪、聞之、詣洛証晏不反、弘等縦兵抄掠。広漢主簿李毅言於太守弘農王濬曰、「皇甫侯起自諸生、何求而反。且広漢与成都密邇、而統於梁州者、朝廷欲以制益州之衿領、正防今日之変也。今益州有乱、乃此郡之憂也。張弘小豎、衆所不与、宜即時赴討、不可失也」。濬欲先上請、毅曰、「殺主之賊、為悪尤大、当不拘常制、何請之有」。濬乃発兵討弘。詔以濬為益州刺史。濬撃弘、斬之、夷三族。封濬関内侯。
初、濬為羊祜參軍、祜深知之。祜兄子暨白濬「為人志大奢侈、不可専任、宜有以裁之」。祜曰、「濬有大才、将以済其所欲、必可用也」。更転為車騎従事中郎。濬在益州、明立威信、蛮夷多帰附之。俄遷大司農。時帝与羊祜陰謀伐呉、祜以為伐呉宜藉上流之勢、密表留濬復為益州刺史、使治水軍。尋加龍驤将軍、監益・梁諸軍事。
詔濬罷屯田兵、大作舟艦。別駕何攀以為「屯田兵不過五六百人、作船不能猝辦、後者未成、前者已腐。宜召諸郡兵合萬餘人造之、歳終可成」。濬欲先上須報、攀曰、「朝廷猝聞召萬兵、必不聴。不如輒召、設当見却、功夫已成、勢不得止」。濬従之、令攀典造舟艦器仗。於是作大艦、長百二十歩、受二千餘人、以木為城、起楼櫓、開四出門、其上皆得馳馬往来。時作船木柿、蔽江而下、呉建平太守呉郡吾彦取流柿以白呉主曰、「晋必有攻呉之計、宜増建平兵以塞其衝要」。呉主不従。彦乃為鉄鎖横断江路。王濬雖受中制募兵、而無虎符。広漢太守敦煌張斆收濬従事列上。帝召斅還、責曰、「何不密啓而便收従事」。斆曰、「蜀・漢絶遠、劉備嘗用之矣。輒收、臣猶以為軽」。帝善之。壬辰、大赦。
秋七月、以賈充為司空、侍中・尚書令・領兵如故。充与侍中任愷皆為帝所寵任、充欲専名勢、而忌愷、於是朝士各有所附、朋党紛然。帝知之、召充・愷宴於式乾殿而謂之曰、「朝廷宜一、大臣当和」。充・愷各拝謝。既而充・愷以帝已知而不責、愈無所憚、外相崇重、内怨益深。充乃薦愷為吏部尚書、愷侍覲転希、充因与荀勖・馮紞承間共譖之、愷由是得罪、廃於家。八月、呉主征昭武将軍・西陵督歩闡。闡世在西陵、猝被徽、自以失職、且懼有讒、九月、拠城来降、遣兄子璣・璿詣洛陽為任。詔以闡為都督西陵諸軍事・衛将軍・開府儀同三司・侍中、領交州牧、封宜都公。
冬十月、辛未朔、日有食之。敦煌太守尹璩卒。涼州刺史楊欣表敦煌令梁澄領太守。功曹宋質輒廃澄、表議郎令狐豊為太守。楊欣遣兵撃之、為質所敗。呉陸抗聞歩闡叛、亟遣将軍左奕・吾彦等討之。帝遣荊州刺史楊肇迎闡於西陵、車騎将軍羊祜帥歩軍出江陵、巴東監軍徐胤帥水軍撃建平、以救闡。陸抗敕西陵諸軍築厳囲、自赤谿至於故市、内以厳闡、外以御晋兵、昼夜催切、如敵已至、衆甚苦之。諸将諫曰、「今宜及三軍之鋭、急攻闡、比晋救至、必可抜也、何事於囲、以敝士民之力」。抗曰、「此城處勢既固、糧谷又足、且凡備御之具、皆抗所宿規、今反攻之、不可猝抜。北兵至而無備、表里受難、何以御之」。諸将皆欲攻闡、抗欲服衆心、聴令一攻、果無利。厳備始合、而羊祜兵五萬至江陵。諸将鹹以抗不宜上、抗曰、「江陵城固兵足、無可憂者。假令敵得江陵、必不能守、所損者小。若晋拠西陵、則南山群夷皆当擾動、其患不可量也」。乃自帥衆赴西陵。初、抗以江陵之北、道路平易、敕江陵督張鹹作大堰遏水、漸漬平土以絶寇叛。羊祜欲因所遏水以船運糧、揚声将破堰以通歩軍。抗聞之、使鹹亟破之。諸将皆惑、屢諫、不聴。祜至当陽、聞堰敗、乃改船以車運糧、大費功力。
十一月、楊肇至西陵。陸抗令公安督孫遵循南岸御羊祜、水軍督留慮拒徐胤、抗自将大軍憑厳対肇。将軍朱喬營都督兪賛亡詣肇。抗曰、「賛軍中旧吏、知吾虚実。吾常慮夷兵素不簡練、若敵攻厳、必先此処」。即夜易夷兵、皆以精兵守之。明日、肇果攻故夷兵処。抗命撃之、矢石雨下、肇衆傷・死者相属。十二月、肇計屈、夜遁。抗欲追之、而慮歩闡畜力伺間、兵不足分、於是但鳴鼓戒衆、若将追者。肇衆兇懼、悉解甲挺走。抗使軽兵躡之、肇兵大敗、祜等皆引軍還。抗遂抜西陵、誅闡及同謀将吏数十人、皆夷三族、自餘所請赦者数萬口。東還楽郷、貌無矜色、謙沖如常。呉主加抗都護。羊祜坐貶平南将軍、楊肇免為庶人。呉主既克西陵、自謂得天助、志益張大、使術士尚広筮取天下、対曰、「吉。庚子歳、青蓋当入洛陽」。呉主喜、不修徳政、専為兼併之計。
賈充与朝士宴飲、河南尹庾純酔、与充争言。充曰、「父老、不帰供養、卿為無天地」。純曰、「高貴郷公何在」。充慚怒、上表解職。純亦上表自劾。詔免純官、仍下五府正其臧否。石苞以為純栄官忘親、当除名、斉王攸等以為純於礼律未有違。詔従攸議、復以純為国子祭酒。呉主之遊華里也、右丞相萬彧与右大司馬丁奉・左将軍留平密謀曰、「若至華里不帰、社稷事重、不得不自還」。呉主頗聞之、以彧等旧臣、隠忍不発。是歳、呉主因会、以毒酒飲彧、伝酒人私減之。又飲留平、平覚之、服他薬以解、得不死。彧自殺。平憂懣、月餘亦死。徙彧子弟於廬陵。
初、彧請選忠清之士以補近職、呉主以大司農楼玄為宮下鎮、主殿中事。玄正身帥衆、奉法而行、応対切直、呉主浸不悦。中書令領太子太傅賀邵上疏諫曰、「自頃年以来、朝列紛錯、真偽相貿、忠良排墜、信臣被害。是以正士摧方而庸臣苟媚、先意承指、各希時趣。人執反理之評、士吐詭道之論、遂使清流変濁、忠臣結舌。陛下処九天之上、隠百里之室、言出風靡、令行景従。親洽寵媚之臣、日聞順意之辞、将謂此輩実賢而天下已平也。臣聞興国之君楽聞其過、荒乱之主楽聞其誉。聞其過者過日消而福臻、聞其誉者誉日損而禍至。陛下厳刑法以禁直辞、黜善士以逆諫口、杯酒造次、死生不保、仕者以退為幸、居者以出為福、誠非所以保光洪緒、熙隆道化也。何定本僕隸小人、身無行能、而陛下愛其佞媚、假以威福。夫小人求入、必進奸利。定間者忘興事役、発江辺戍兵以駆麋鹿、老弱饑凍、大小怨歎。《伝》曰、『国之興也、視民如赤子。其亡也、以民為草芥。』今法禁転苛、賦調益繁、中官・近臣所在興事、而長吏畏罪、苦民求辦。是以人力不堪、家戸離散、呼嗟之声、感傷和気。今国無一年之儲、家無経月之蓄、而後宮之中坐食者萬有餘人。又、北敵注目、伺国盛衰、長江之限、不可久恃、苟我不能守、一葦可杭也。願陛下豊基強本、割情従道、則成・康之治興、聖祖之祚隆矣」。呉主深恨之。於是左右共誣楼玄・賀邵相逢、駐共耳語大笑、謗訕政事、俱被詰責。送玄付広州、邵原復職。既而復徙玄於交趾、竟殺之。久之、何定奸穢発聞、亦伏誅。
羊祜帰自江陵、務修徳信以懐呉人。毎交兵、刻日方戦、不為掩襲之計。将帥有欲進譎計者、輒飲以醇酒、使不得言。祜出軍行呉境、刈谷為糧、皆計所侵、送絹償之。毎会衆江・沔遊猟、常止晋地、若禽獸先為呉人所傷而為晋兵所得者、皆送還之。於是呉辺人皆悦服。祜与陸抗対境、使命常通。抗遺祜酒、祜飲之不疑。抗疾、求薬於祜、祜以成薬与之、抗即服之。人多諫抗、抗曰、「豈有鴆人羊叔子哉」。抗告其辺戍曰、「彼専為徳、我専為暴、是不戦而自服也。各保分界而已、無求細利」。呉主聞二境交和、以詰抗、抗曰、「一邑一郷不可以無信義、況大国乎。臣不如此、正是彰其徳、於祜無傷也」。
呉主用諸将之謀、数侵盗晋辺。陸抗上疏曰、「昔有夏多罪而殷湯用師、紂作淫虐而周武授鉞。苟無其時、雖復大聖、亦宜養威自保、不可軽動也。今不務力農富国、審官任能、明黜陟、慎刑賞、訓諸司以徳、撫百姓以仁、而聴諸将徇名、窮兵黷武、動費萬計、士卒調瘁、寇不為衰而我已大病矣。今争帝王之資而昧十百之利、此人臣之奸便、非国家之良策也。昔斉・魯三戦、魯人再克、而亡不旋踵。何則。大小之勢異也。況今師所克獲、不補所喪哉」。呉主不従。
羊祜不附結中朝権貴、荀勖・馮紞之徒皆悪之。従甥王衍嘗詣祜陳事、辞甚清辯。祜不然之、衍拂衣去。祜顧謂賓客曰、「王夷甫方当以盛名処大位、然敗俗傷化、必此人也」。及攻江陵、祜以軍法将斬王戎。衍、戎之従弟也、故二人皆憾之、言論多毀祜、時人為之語曰、「二王当国、羊公無徳」。

訓読

春正月、監軍の何楨 劉猛を討ち、屢々之を破り、潛かに利を以て其の左部帥の李恪を誘ひ、恪 猛を殺して以て降る。二月、辛卯、皇太子 賈妃を納る。妃の年十五、太子より長ずること二歳、妒忌にして権詐多く、太子 嬖して之を畏る。壬辰、安平献王孚 卒す、年九十三なり。孚の性 忠慎にして、宣帝 執政すうるや、孚 常に自ら退損す。後に廃立の際に逢ひ、未だ嘗て謀に預らず。景・文二帝 孚の属尊たるを以て、亦 敢て逼らず。帝 即位するに及び、恩礼 尤も重し。元会に、孚に詔して輿に乗りて殿に上り、帝 阼階に於いて迎拝す。既に坐し、親ら觴を奉りて寿を上し、家人の礼が如くす。帝 拝する毎に、孚 跪きて之を止む。孚 尊寵せらると雖も、以て榮と為さず、常に憂色有り。終りに臨み、令を遺して曰く、「有魏の貞士たる河内の司馬孚 字は叔達、伊ならず周ならず、夷ならず恵ならず、身を立て道を行ひ、終始 一の若し。当に衣するに時服を以てし、斂むるに素棺を以てせよ」と。詔して東園温明の秘器を賜ひ、諸々の施行する所、皆 漢の東平献王の故事に依る。其の家 孚の遺旨に遵ひ、給ふ所の器物、一に施用せず。帝 右将軍の皇甫陶と与に事を論じ、陶 帝と言を争ひ、散騎常侍の鄭徽 表して之を罪とせんと請ふに、帝曰く、「忠讜の言(忠善の言のこと)、唯だ聞かざるを患ふのみ。徽 職を越えて妄りに奏す、豈に朕の意ならんや」と。遂に徽の官を免ず。
夏、汶山の白馬胡 諸種を侵掠し、益州刺史の皇甫晏 之を討たんと欲す。典学従事たる蜀郡の何旅ら諫めて曰く、「胡夷 相 残たるは、固より其の常性、未だ大患と為らず。今 盛夏にして軍を出さば、水潦 将に降らんとし、必ず疾疫有り、宜しく秋・冬を須ちて之を図るべし」と。晏 聴さず。胡康木子焼香 軍 出れば必ず敗れんと言ひ、晏 以て衆を沮すと為し、之を斬る。軍 観阪に至り、牙門の張弘ら汶山の道 険しきを以て、且つ胡の衆を畏れ、夜に因りて乱を作し、晏を殺し、軍中 驚擾し、兵曹従事たる犍為の楊倉 兵を勒して力戦して死す。弘 遂に晏を誣し、「己を率ゐて共に反す」と云ひ、故に之を殺し、首を京師に伝ふ。(皇甫)晏の主簿たる蜀郡の何攀、方に母の喪に居り、之を聞き、洛に詣りて晏の反せず、弘ら兵を縦にして抄掠すと証す。広漢主簿の李毅 太守たる弘農の王濬に言ひて曰く、「皇甫侯 諸生自り起ち、何を求めて反くや。且つ広漢 成都と密邇なり、梁州を統むる者は、朝廷 以て益州の衿領を制め、正して今日の変を防がんと欲するなり。今 益州 乱有り、乃ち此の郡の憂なり。張弘 小豎にして、衆 与(くみ)せざる所、宜しく即時に討に赴きて、失ふ可からざるなり」と。濬 先に上請せんと欲し、毅曰く、「主を殺すの賊、悪の尤も大為(な)り、当に常制に拘るべからず、何ぞ之を請ふこと有らんか」と。濬 乃ち兵を発して弘を討つ。詔して濬を以て益州刺史と為す。濬 弘を撃ち、之を斬り、夷三族とす。濬を関内侯に封ず。 初め、濬 羊祜の參軍と為り、祜 深く之を知る。祜が兄の子たる暨 濬に白すらく、「人と為りは志は大きく奢侈たり、専ら任ず可からず、宜しく以て之を裁くこと有るべし」と。祜曰く、「濬 大才有り、将に以て其の欲する所を済はんとす、必ず用ふる可きなり」と。更に転じて車騎従事中郎と為る。濬 益州に在るに、明らかに威信を立て、蛮夷 多く之に帰附す。俄かに大司農に遷る。時に帝 羊祜と与に陰かに伐呉を謀り、祜 以為へらく伐呉 宜しく上流の勢を藉るべしとし、密かに表して濬を留めて復た益州刺史と為し、水軍を治めしむ。尋いで龍驤将軍、監益・梁諸軍事を加ふ。
濬に詔して屯田の兵を罷め、大いに舟艦を作る。別駕の何攀 以為へらく、「屯田の兵 五六百人を過ぎず、船を作るに猝辦すること能はず、後者 未だ成らざれば、前者 已に腐る。宜しく諸郡の兵を召して萬餘人を合せて之を造らしめよ、歳終に成る可し」と。濬 先に上して報を須(ま)たんと欲するに、攀曰く、「朝廷 猝かに萬兵を召すを聞けば、必ず聴さず。輒(もつぱ)ら召すに如かず、設くれば当に却せらるとも、功夫 已に成り、勢 止むことを得ざるべし」と。濬 之に従ひ、攀に令して舟艦器仗を造ることを典らしむ。是に於て大艦を作り、長さ百二十歩、二千餘人を受け、木を以て城と為し、楼櫓を起て、四出門を開き、其の上に皆 馬を馳せて往来することを得たり。時に船を作るの木柿、江を蔽ひて下り、呉の建平太守たる呉郡の吾彦 流るる柿を取りて以て呉主に白して曰く、「晋 必ず攻呉の計有り、宜しく建平の兵を増して以て其の衝要を塞ぐべし」と。呉主 従はず。彦 乃ち鉄鎖を為りて江路に横断せしむ。王濬 中制を受けて兵を募ると雖も、而れども虎符無し。広漢太守たる敦煌の張斆 濬の従事を收めて列ねて上す。帝 斅を召して還らしめ、責めて曰く、「何ぞ密かに啓さずして便ち従事を收むる」と。斆曰う、「蜀・漢 絶遠にして、劉備 嘗て之を用へり。輒ち收むるは、臣 猶ほ以て軽しと為す」と。帝 之を善とす。壬辰、大赦す。
秋七月、賈充を以て司空と為し、侍中・尚書令・領兵 故の如し。充 侍中の任愷と与に皆 帝の為に寵任せられ、充 名勢を専らにせんと欲して、愷を忌み、是に於て朝士 各々附する所有り、朋党 紛然とす。帝 之を知り、充・愷を召して式乾殿に於いて宴して之に謂ひて曰く、「朝廷 宜しく一なるべし、大臣 当に和するべし」と。充・愷 各々拝謝す。既にして充・愷 帝の已に知りて責めざるを以り、愈々憚る所無く、外は相 崇重し、内は怨 益々深し。充 乃ち愷を薦めて吏部尚書と為し、愷 侍覲すること転じて希なり、充 因りて荀勖・馮紞と与に間を承けて共に之を譖り、愷 是に由りて罪を得て、家に廃せらる。八月、呉主 昭武将軍・西陵督の歩闡を徴す。闡 世々西陵に在り、猝かに徴され、自ら職を失ふを以て、且つ讒有ることを懼れ、九月、城に拠りて来降し、兄が子の璣・璿を遣はして洛陽に詣りて任(質任)と為す。詔して闡を以て都督西陵諸軍事・衛将軍・開府儀同三司・侍中と為し、交州牧を領し、宜都公に封ず。
冬十月、辛未朔、日の之を食する有り。敦煌太守の尹璩 卒す。涼州刺史の楊欣 敦煌令の梁澄を表して太守を領せしむ。功曹の宋質 輒ち澄を廃し、議郎の令狐豊を表して太守と為す。楊欣 兵を遣はして之を撃ち、質の為に敗らる。呉の陸抗 歩闡 叛すると聞き、亟やかに将軍左奕・吾彦らを遣はして之を討つ。帝 荊州刺史の楊肇を遣はして闡を西陵に迎へしめ、車騎将軍の羊祜 歩軍を帥ゐて江陵に出で、巴東監軍の徐胤 水軍を帥ゐて建平を撃ち、以て闡を救ふ。陸抗 西陵の諸軍に敕して厳囲を築き、赤谿自り故市に至るまで、内に以て闡を囲ひ、外に以て晋兵を御し、昼夜 催切たりて、敵 已に至るが如く、衆 甚だ之に苦しむ。諸将 諫めて曰く、「今 宜しく三軍の鋭を及ぼし、急ぎ闡を攻むれば、晋の救 至る比、必ず抜く可きなり、何ぞ囲むを事にし、以て士民の力を敝れしむる」。抗曰く、「此の城 處勢は既に固く、糧谷も又 足る、且つ凡そ備御の具、皆 抗 宿て規る所にして、今 反りて之を攻むるとも、猝かに抜く可からず。北兵 至りて備へ無く、表裏に難を受け、何ぞ以て之を御さん」と。諸将 皆 闡を攻めんと欲すれば、抗 衆心を服せんと欲し、一たび攻むることを聴令し、果して利無し。囲備 始めて合し、而して羊祜の兵五萬 江陵に至る。諸将 咸 抗を以て宜しく(楽郷から西陵に)上るべかざるとするに、抗曰く、「江陵の城は固く兵は足り、憂ふ可きこと無し。假令 敵 江陵を得るとも、必ず守る能はず、損ずる所の者は小なり。若し晋 西陵に拠れば、則ち南山の群夷 皆 当に擾動すべし、其の患ひ量る可からざるなり」と。乃ち自ら衆を帥ゐて西陵に赴く。初め、抗 江陵の北、道路の平易なるを以て、江陵督の張咸に敕して大堰を作らしめ水を遏し、平土に漸漬(浸潤のこと)して以て寇叛を絶つ。羊祜 水を遏する所に因りて船を以て糧を運ばんと欲するに、声を揚げて将に堰を破りて以て歩軍を通さんとす。抗 之を聞き、咸をして亟やかに之を破らしむ。諸将 皆 惑ひ、屢々諫むるとも、聴さず。祜 当陽に至り、堰 敗るるを聞き、乃ち船を改めて車を以て糧を運び、大いに功力を費す〔一〕。
十一月、楊肇 西陵に至る。陸抗 公安督の孫遵に令して南岸を循りて羊祜を拒ぎ、水軍督の留慮をして徐胤を拒がしめ、抗 自ら大軍を将ゐて囲みに憑りて(胡三省注に翻訳あり)肇に対ふ。将軍の朱喬が營都督の兪賛 亡して肇に詣る。抗曰く、「賛は軍中の旧吏にして、吾が虚実を知る。吾 常に夷兵を慮りて素より簡練せず、若し敵 攻囲すれば、必ず此処を先にせん」と。即ち夜 夷兵を易へ、皆 精兵を以て之を守る。明日、肇 果して故の夷兵の処を攻む。抗 命じて之を撃たしめ、矢石 雨のごとく下り、肇の衆 傷・死する者 相 属す。十二月、肇の計 屈し、夜に遁ぐ。抗 之を追はんと欲し、而れども歩闡 力を畜へて間を伺ふことを慮り、兵 分かつに足らず、是に於いて但だ鼓を鳴らして衆を戒め、将に追はんとするが若くす。肇の衆 兇懼し、悉く甲を解きて挺走す(挺は抜、身を抜いて走ること)。抗 軽兵をして之を躡せしめ、肇の兵 大いに敗れ、祜ら皆 軍を引きて還る。抗 遂に西陵を抜き、闡及び同謀の将吏数十人を誅し、皆 夷三族とす、自餘の赦しを請ふ所の者 数萬口なり。東のかた楽郷に還り、貌に矜色無く、謙沖たること常の如し。呉主 抗に都護を加ふ。羊祜 坐して平南将軍に貶し、楊肇 免じて庶人と為す。呉主 既に西陵に克ち、自ら天助を得たりと謂ひ、志 益々張大し、術士の尚広をして天下を取らんことを筮せしめ、対へて曰く、「吉なり。庚子の歳、青蓋 当に洛陽に入るべし」と。呉主 喜び、徳政を修めず、専ら兼併の計を為す。
賈充 朝士と与に宴飲し、河南尹の庾純 酔ひ、充と言を争ふ。充曰く、「父 老なるに、帰りて供養せず(面倒をみず)、卿 天地無しと為す」と〔二〕。純曰く、「高貴郷公 何にか在る」。充 慚ぢて怒り、職を解くことを上表す。純も亦 上表して自ら劾む。詔して純の官を免じ、仍りて五府に下して其の臧否を正さしむ。石苞 以為へらく純 官を栄んにして親を忘る、当に除名すべしと、斉王攸ら以為へらく純 礼律に於いて未だ違ふこと有らず。詔 攸の議に従ひ、復た純を以て国子祭酒と為す。呉主の華里に遊ぶや、右丞相の萬彧 右大司馬の丁奉・左将軍留平と与に密かに謀りて曰く、「若し華里に至りて帰らずんば、社稷の事 重し、自ら還らざるを得ず」と。呉主 頗(かたよ)りて之を聞き、彧ら旧臣たるを以て、隠忍して発せず。是の歳、呉主 会に因り、毒酒を以て彧に飲ましめ、酒人 私かに之を減ず。又 留平に飲ましめ、平 之を覚り、他薬を服して以て解き、死せざるを得。彧 自殺す。平 憂懣たりて、月餘にして亦た死す。彧の子弟を廬陵に徙す。
初め、彧 忠清の士を選びて以て近職に補ふことを請ふに、呉主 大司農の楼玄を以て宮下鎮と為し、殿中事を主らしむ。玄 身を正して衆を帥ゐ、法を奉じて行ひ、応対 切直たりて、呉主 浸(やうや)く悦ばず。中書令・領太子太傅の賀邵 上疏して諫めて曰く、「頃年自り以来、朝列 紛錯たりて、真偽 相 貿はり、忠良 排墜し、信臣 害せらる。是を以て正士 摧方して(角が取れて丸くなり)庸臣 苟媚し、意に先んじて指を承け、各々時趣を希ふ。人 反理の評を執り、士 詭道の論を吐き、遂に清流をして変濁せしめ、忠臣をして舌を結ばしむ。陛下 九天の上に処り、百里の室(堂上のなか)に隠れ、言は風靡を出し、令は景従を行ふ。親ら寵媚の臣を洽し、日に順意の辞を聞き、将に此の輩 実に賢くして天下 已に平らぐと謂はんとす。臣 聞くに興国の君 其の過を聞くことを楽しみ、荒乱の主 其の誉を聞くことを楽しむ。其の過を聞く者は過は日ごとに消えて福は臻り、其の誉を聞く者は誉は日ごとに損じて禍は至る。陛下 刑法を厳しくして以て直辞を禁じ、善士を黜けて以て諫口に逆らひ、杯酒 造次し、死生 保たず、仕ふる者 退を以て幸と為し、居る者 出づるを以て福と為し、誠に光を保ち緒を洪ひにし、熙隆道化する所以に非らざるなり。何定 本は僕隸の小人なり、身に行能無く、而るに陛下 其の佞媚を愛し、假るに威福を以てす。夫れ小人 入ることを求むれば、必ず奸利を進む。定 間者 妄りに事役を興すし、江辺の戍兵を発して以て麋鹿を駆り、老弱 饑凍し、大小 怨歎す。《伝》に曰ふ、『国の興るや、民を視ること赤子の如し。其れ亡ぶや、民を以て草芥と為す』と(春秋左氏伝)。今 法禁 転た苛なりて、賦調 益々繁く、中官・近臣 所在に興事し、而るに長吏 罪を畏れ、民を苦しめ辦を求む。是を以て人力 堪へず、家戸 離散し、呼嗟の声、和気を感傷す。今 国に一年の儲無く、家に経月の蓄はへ無く、而れども後宮の中 坐して食らふ者 萬有餘人なり。又、北敵 目を注ぎ、国の盛衰を伺ひ、長江の限、久しく恃む可からず、苟しくも我 守る能はざれば、一葦もて杭とす可きなり(詩経より)。願はくは陛下 基を豊かにし本を強うし、情を割きて道にへば、則ち成・康の治興、聖祖(孫権)の祚 隆ならん」と。呉主 深く之を恨む。 是に於いて左右 共に楼玄・賀邵 相 逢ひ、駐まりて共に耳語して大いに笑ひ、政事を謗訕すと誣し、俱に詰責せらる。玄を送りて広州に付し、邵 原して職に復せしむ。既にして復た玄を交趾に徙し、竟に之を殺す。久之、何定の奸穢 発聞し、亦た誅に伏す。
羊祜 江陵自り帰り、務めて徳信を修めて以て呉人を懐かしむ。兵を交へる毎に、日を刻りて方に戦ひ、掩襲の計を為さず。将帥 譎計を進めんと欲する者有れば、輒ち飲むに醇酒を以てし、言ふを得ざらしむ。祜 軍を出して呉境に行き、谷を刈りて糧と為し、皆 侵す所を計り、絹を送りて之に償ふ。毎に衆を江・沔に会して遊猟するに、常に晋地に止め、若し禽獸 先に呉人の為に傷つけられ晋兵の得る所と為れば、皆 之を送り還す。是に於て呉辺の人 皆 悦服す。祜 陸抗と与に境に対し、使命 常に通ず。抗 祜に酒を遺り、祜 之を飲みて疑はず。抗 疾あれば、薬を祜に求め、祜 薬を成すを以て之に与へ、抗 即ち之を服す。人 多く抗を諫むるに、抗曰く、「豈に人の羊叔子を鴆するもの有るか」と。抗 其の辺戍に告げて曰く、「彼 専ら徳を為し、我 専ら暴を為す、是れ戦はずして自ら服すなり。各々分界を保つのみ、細利を求むること無し」と。呉主 二境 交和するを聞き、以て抗を詰るに、抗曰く、「一邑一郷に以て信義無かる可からず、況んや大国をや。臣 此に如かず、正に是れ其の徳を彰らかにし、祜に傷無きなり」と。
呉主 諸将の謀を用て、数々晋辺を侵盗す。陸抗 上疏して曰く、「昔 有夏 罪多くして殷湯 師を用てし、紂 淫虐を作して周武 鉞を授く。苟しくも其の時に無ければ、復た大聖なると雖も、亦た宜しく威を養ひ自保すべし、軽々しく動く可からざるなり。今 農に力め国を富ませ、官を審らかにして能を任じ、黜陟を明らかにして、刑賞を慎しみ、諸司に訓ふるに徳を以てし、百姓を撫するに仁を以てするに務めず、而して諸将の名を徇へ、兵を窮め武を黷することを聴し、動費 萬を計へ、士卒 調瘁するは、寇 衰を為さずして我 已に大いに病めり。今 帝王の資を争ふに十百の利に昧にして、此れ人臣の姦便にして、国家の良策に非ざるなり。昔 斉・魯 三たび戦ひ、魯人 再び克ち、而れども亡して旋踵せず。何則(なんとなれば)、大小の勢 異なればなり。況んや今 師の克く獲る所、喪ふ所を補はざるをや」と。呉主 従はず。
羊祜 中朝の権貴に附結せず、荀勖・馮紞の徒 皆 之を悪む。従甥たる王衍 嘗て祜に詣りて事を陳べ、辞 甚だ清辯なり。祜 之を然りとせず、衍 衣を拂ひて去る。祜 顧みて賓客に謂ひて曰く、「王夷甫 方に当に盛名を以て大位に処り、然るに俗に敗れて化を傷つく、必ず此の人なるべし」と。江陵を攻むるに及び、祜 軍法を以て将に王戎を斬らんとす。衍、戎の従弟なり、故に二人 皆 之に憾じ、言論 多く祜を毀ち、時人 之の為に語りて曰く、「二王 国に当たり、羊公 徳無し」。

〔一〕『三国志』陸抗伝が出典。やや難解のため、訳文を作る際は参照。
〔二〕『晋書』巻五十 庾純伝に論争の全体像が見える。「又以純父老不求供養」

現代語訳

春正月、監軍の何楨が劉猛を討伐し、しばしばこれを破った〈武帝紀〉。ひそかに利益で釣って、その左部帥の李恪を誘った〈匈奴伝に依る〉
二月辛卯、皇太子は賈妃をめとった。妃は十五歳で、太子より二歳上であった。嫉妬ぶかく、権謀が多いので、太子は親しみつつ畏れもした〈賈皇后伝〉
壬辰、安平献王の司馬孚が卒した〈武帝紀〉。九十三歳であった。司馬孚の忠臣であり慎みがあり、宣帝が(魏で)執政すると、司馬孚はみずから退いて地位を下げた。のちに廃立のときに、計画に参加しなかった。景帝と文帝は司馬孚が尊属なので、あえて協力を強いなかった。武帝が即位すると、恩礼はもっとも重かった。正月の宴会で、詔して司馬孚には輿に乗ったまま殿に上らせ、武帝は階下で迎拝した。着席すると、みずから酒杯を奉って祝いを述べ、家人の礼とした。武帝が拝するたび、司馬孚は膝をついて止めた。司馬孚は尊寵されたが、これを栄誉とせず、いつも憂いていた。死に際に、遺言をして、「有魏の貞士である河内の司馬孚、字は叔達は、伊尹や周公旦(のように魏帝を補佐する)でなく、伯夷や柳下恵(のように節度を貫く)でなく、身を立て道を行っただけの、一介の人間に過ぎない。この季節の服を着せ、質素な棺に収めよ」と言った。詔して東園温明の秘器を賜わり、葬儀の段取りは、もっぱら漢の東平献王の故事に準拠させた。その遺族は司馬孚の遺志どおり、賜った器物は、ひとつも使用しなかった〈司馬孚伝に依る〉
武帝は右将軍の皇甫陶とともに議論し、言い争いになった。散騎常侍の鄭徽は上表してこれを罪としなさいと言ったが、武帝は、「忠善の言は、耳に届かないことだけが心配だ。鄭徽の上奏こそ越権行為である。朕の考えに合わない」と言った。鄭徽の官職を免じた〈武帝紀に依る〉
夏、汶山の白馬胡が諸族を侵略し、益州刺史の皇甫晏はこれを討伐しようとした。典学従事である蜀郡の何旅らは諫めて、「胡夷が残酷なのは、かれらの本来の習性です、たいした脅威ではありません。この盛夏に軍を動員すれば、大雨に降られ、疫病にかかるでしょう。秋か冬を待ちなさい」と言った。皇甫晏は聴き入れなかった。胡康木子焼香は軍を出せば必ず敗れますと言った。皇甫晏は軍務を妨害しているといい、かれを斬った。軍が観阪に至ると〈未詳〉、牙門の張弘らは汶山の道が険しく、また胡族の兵を畏れ、夜に規律が乱れて、皇甫晏を殺した。軍中は驚いて騒ぎ、兵曹従事である犍為の楊倉は兵を整えようとしたが奮戦して死んだ。張弘は皇甫晏の罪を捏造し、「私たちに反乱を命じた」とし、だから殺したのですと言い、首を京師に届けた。皇甫晏の主簿である蜀郡の何攀は、母の喪に服しており、これを聞き、洛陽に行って皇甫晏は反乱などしておらず〈何攀伝に依る〉、張弘らが兵を暴れさせて反逆したのですと証言した。広漢主簿の李毅は、太守である弘農の王濬に、「皇甫侯は儒学者として仕官しました、何が目的で反乱などするものですか。しかも広漢は成都と緊密で、(州治として)梁州を統治しています。朝廷にとって益州の襟首であり、まさしく今日のような事変を防ごうとしています。いま益州で混乱があれば、この郡にとっての脅威となります。張弘はつまらぬ人物であり、きっと味方を得られません。すぐに討伐に赴けば、負けることはありません」と言った。王濬はさきに朝廷の許可を取ろうとしたが、李毅は、「上官を殺した賊は、もっともひどい悪人です。通常の手続きにこだわる必要はありません。なぜ事前申請をするのですか」と言った。王濬は兵を発して張弘を討った〈未詳〉。詔して王濬を益州刺史とした。王濬は張弘を攻撃して、これを斬り、夷三族とした〈武帝紀及び王濬伝〉
王濬を関内侯に封建した。これより先、王濬は羊祜の参軍となり、羊祜はかれの才能を見抜いた。羊祜の兄の子である羊暨は王濬について、「人となりは志が大きく奢侈です。強い権限を与えてはいけません。処罰することになるでしょう」と言った。羊祜は、「王濬には大きな才能がある。高い志に見合った活躍をするだろう。きっと登用すべきだ」と言った。改めて車騎従事中郎に転じた。王濬が益州にいるとき、堂々とした威信を獲得し、多くの蛮夷がかれに帰附した。にわかに大司農に遷された〈王濬伝〉。このとき武帝は羊祜とともに、ひそかに伐呉の計画をしていた。羊祜は、上流から攻め下る勢いが必要だと考えた〈羊祜伝に依る〉。ひそかに上表して王濬を留めて益州刺史にもどし〈王濬伝〉、水軍を編成させた。ほどなく龍驤将軍、監益・梁諸軍事を加えた。王濬に詔して、屯田のの兵を廃止し〈未詳〉、おおいに戦艦を建造させた〈王濬伝に依る〉
別駕の何攀は、「屯田の兵は五百か六百人を過ぎず、船を作るには不十分です。あとに作る船が完成せぬうちに、はじめに作った船が老朽します。諸郡の兵を召して一万人あまりを合わせて建造させなさい。今年の末には完成するでしょう」と言った。王濬は上奏して返答を待っていたが、何攀は、「朝廷は突然に一万の兵を召すと聞けば、きっと許可をしません。さっさと召してしまえば宜しい。着手してしまえば、かりに却下されても、作業員は集まっており、中断させることはできません」と言った。王濬はこれに従い、何攀に舟艦や兵器の製作を管掌させた。こうして大艦を作り〈未詳〉、長さ百二十歩、二千人あまりを乗せられ、木を城とし、楼櫓を建て、四つの出門を開き、その上で馬を駆けて往来させることができた。このとき造船の木くずが、長江の水面をおおって下った〈王濬伝〉。呉の建平太守である呉郡の吾彦は、流れてきた木くずを採取して呉主に、「晋は必ず攻撃の計画を持っております。建平の兵を増やして要衝を封鎖すべきです」と申請した。呉主は従わなかった〈孫晧伝注 干宝 晋紀〉
呉彦は鉄鎖を作って長江の水路に横断させた〈吾彦伝に依る〉。王濬は武帝の意向を受けて兵を募っていたが、虎符を持たなかった。広漢太守である敦煌の張斆は王濬の従事を捕らえて連ねて報告をした。武帝は張斅を中央に呼び戻し、「なぜ隠密に報告をせずに、従事を捕らえたのか」と責めた。張斆は、「蜀漢は絶遠であり、かつて劉備が独立した地です。(王濬の専横を警戒し)従事を捕らえたのは、まだ甘かったと思っています」と言った。武帝はこれを認めた〈未詳〉
壬辰、大赦した〈武帝紀〉
秋七月、賈充を司空とし、侍中・尚書令・領兵は従来どおりとした〈賈充伝に依る〉。賈充は侍中の任愷とともに武帝に寵用されたが、賈充は権勢を独占したいので、任愷を煙たがり、朝廷の臣はそれぞれに味方し、派閥争いが複雑になった。武帝はこれを知り、賈充と任愷を召して式乾殿で酒宴をもうけ、「朝廷は一つであってほしい。大臣には仲良くしてほしい」と言った。賈充と任愷はそれぞれ頭を下げて謝った。賈充と任愷は、対立へのおとがめが甘いので、ますます遠慮せず、表面では尊重しあい、内心は怨恨がますます深くなった。賈充は任愷を吏部尚書に推薦し、任愷は武帝のそばに仕える頻度が下がった。さらに賈充は荀勖と馮紞とともに(任愷を)批判した。任愷は罪を受け、自宅に謹慎させられた〈任愷伝に依る〉
八月、呉主は昭武将軍・西陵督の歩闡を徴召した〈孫晧伝〉。歩闡は代々西陵にいたが、にわかに中央に呼ばれたので、官職を失って、讒言を受けることを懼れ、在り、猝かに徴され、自ら職を失ふを以て、且つ讒有ることを懼れた。九月、居城にいたまま(晋に)来降し、兄の子である歩璣と歩璿を、使者として洛陽に送って質任とした。詔して歩闡を都督西陵諸軍事・衛将軍・開府儀同三司・侍中とし、交州牧を領させ、宜都公に封建した〈歩隲 附歩闡伝〉
冬十月辛未朔、日食があった〈武帝紀〉
敦煌太守の尹璩が卒した。涼州刺史の楊欣は上表して敦煌令の梁澄に太守を領させた。功曹の宋質は梁澄を廃位し、上表して議郎の令狐豊を太守とした。楊欣は兵を動かしてこれを攻撃し、宋質に破られた〈未詳〉
呉の陸抗は歩闡が叛したと聞き、すみやかに将軍の左奕と吾彦に討伐をさせた。武帝は荊州刺史の楊肇に歩闡を西陵で迎えさせ、車騎将軍の羊祜に歩兵をひきいて江陵に出て、巴東監軍の徐胤に水軍をひきいて建平を撃ち、歩闡を救援した。陸抗は西陵の諸軍に命じてきつく包囲を築き、赤谿から故市に至るまで、内では歩闡を囲み、外では晋兵を防ごうとした。昼夜問わず迅速に対応し、敵がもう到着しているかのようで、兵はとても苦労した。諸将は諫めて、「三軍の精鋭を差し向け、急ぎ歩闡を攻撃すれば、晋の援軍が到着するころには、歩闡を抜くことができます。なぜわざわざ包囲を築き、士民の力を浪費するのですか」と言った。陸抗は、「この城の地理と構えは堅固であり、糧食も足りている。防衛の備えも、かつて私が準備したものである。いま突撃をかけても、突破はできまい。北兵が来たときに備えがなければ、前後から攻撃を受け、防ぎ止められなくなる」と言った。諸将が歩闡に攻撃を仕掛けたがったので、陸抗はみなを納得させようと、一回だけ攻撃を許可した。やはり戦果はなかった。包囲が完成したころ、羊祜の兵五万〈ここだけ羊祜伝に依る〉が江陵に至った。諸将は陸抗に、楽郷から西陵に遡るべきでないと言った。しかし陸抗は、「江陵の城は固く兵は足りている。心配はない。もし敵が江陵を得ても、きっと守ることはできず、損失があっても小さい。もし晋軍が西陵に拠れば、南山の蛮夷たちは動揺するだろう。その脅威は計り知れない」と言った。陸抗は兵をひきいて西陵に赴いた。これより先、陸抗は江陵の北が、道路が平坦なので、江陵督の張咸に命じて大きな堤防を作らせて水を堰き止め、平地を水浸しにして(通行を困難にし)反乱を根絶した。羊祜は貯まった水のうえに船を走らせて食料を運ぼうとし、声をあげて堤防を破ってから歩兵部隊を通過させようとした。陸抗はこれを聞き、速やかに堤防を決壊させた。諸将はみな混乱し、何度も諫めたが、聴き入れなかった。羊祜は当陽に到着すると、堤防が破られたのを聞き、船から馬車に乗せ替えて食糧を運び、余計な労力がかかった。 十一月、楊肇が西陵に到着した。陸抗は公安督の孫遵に命令して南岸をめぐって羊祜を食い止め、水軍督の留慮に徐胤を食い止めさせ、陸抗はみずから大軍をひきいて囲みに沿って楊肇に対処した。将軍の朱喬と營都督の兪賛は亡命して楊肇のもとに来た。陸抗は、「兪賛は軍中の旧吏であり、わが虚実を知り尽くしている。わが兵は蛮夷が混ざっており精鋭が揃っていない。もし敵が攻めて囲むならば、真っ先にここを狙うだろう」と言った。そこで蛮夷の兵の配置を変え、精鋭を代わりに置いた。翌日、楊肇は果たしてもとは蛮夷が配置されていた場所を攻撃した。陸抗はこれを迎撃させ、矢石が雨のように降り、楊肇の軍の死傷者は連なった。十二月、楊肇の計略は尽きて、夜に逃げた。陸抗はこれを追いたいと考えたが、歩闡が力を蓄えて隙を窺っており、分割できるほど兵数がないので、軍鼓を鳴らして部隊を引き締め、追撃の姿勢だけを示した。楊肇の兵は恐懼し、鎧を捨てて身軽になって逃げた。陸抗は軽兵で追跡した。楊肇の軍は大いに敗れ、羊祜らは軍を撤退させた。陸抗は西陵を抜き、歩闡及びかれに同調した将吏の数十人を誅殺し、みな夷三族とした。これ以外で赦しを請うたものは数万人であった。東にゆき楽郷に還ったが、戦功を誇る様子はなく、いつもどおり慎んでいた。呉主は陸抗に都護を加えた〈陸抗伝〉
羊祜はこの平南将軍に降格され、楊肇を罷免して庶人とした〈羊祜伝に依る〉
呉主はすでに西陵を打ち破り、みずから天の助けを得たと考え、志をますます膨張させ、術士の尚広に天下の獲得について占わせた。答えて、「吉です。庚子の年、青蓋が洛陽に入るでしょう」と言った。呉主は喜び、徳政を行わず、もっぱら(晋を)併呑する作戦ばかりを練った〈孫晧伝注 干宝 晋紀〉
賈充は朝臣たちと宴飲していると、河南尹の庾純が酔い、賈充と言い争いになった。賈充は、「父が老年なのに、帰って面倒を見ていない。きみには天地も無いのだな」と言った。庾純は、「高貴郷公(曹髦)はどこにおわすのだ」と言った。賈充は恥じて怒り、免職を上表した。庾純も上表し、過失を自己申告した。詔して庾純の官職を罷免し、五府に命じて処遇を検討させた。石苞は、「庾純は高い官職を誇って、親への孝を忘れました。除名すべきです」と言った。斉王の司馬攸らは、「庾純は、礼や律の基準を破っていません」と言った。詔して司馬攸の建議に従い、庾純を国子祭酒とした〈庾純伝に依る〉
呉主が華里に出かけると、右丞相の萬彧は、右大司馬の丁奉・左将軍の留平とともに密かに謀り、「もし(孫晧が)華里に留まって帰ってこなければ、国家の政務は重大であるから、われらだけでも都に還るしかない」と言った。呉主はこれを聞きつけ、萬彧らが旧臣であるので、とりあえず我慢をした。この年、呉主は宴会で、毒酒を萬彧に飲ませた。酒の給仕役は、ひそかに毒を減らした。また留平にも飲ませた。留平は毒に気づき、解毒薬を飲んだので死なずに済んだ。萬彧は自殺した。留平は憤懣が溜まり、一ヵ月あまりで死んだ〈孫晧伝に引く江表伝〉。萬彧の子弟を廬陵に移した〈孫晧伝〉
これより先、萬彧は忠清の士を選んで近臣に任命しなさいと要請した。呉主は大司農の楼玄を宮下鎮とし、殿中の政務を掌らせた。楼玄は身を正して兵をひきい、法に従って行動し、受け答えはまっすぐであり、呉主から疎まれるようになった〈呉 楼玄伝〉。中書令・領太子太傅の賀邵は上疏して諫め、「この数年来、朝臣の秩序は乱れ、偽物がすり替わり、忠良なものは失脚し、信義あるものは殺害されました。正義の士は現実に折りあい、取り柄のないものが媚び、陛下の気持ちに先回りし、時流に乗ろうとしています。道理にもとる判断をし、人士は詭弁を吐き、清流を汚濁させ、忠臣の口を封鎖しています。陛下は帝位にあり、百重の宮殿のなかにおりますが、発言は風のように伝播し、命令は光に沿う影のように実現されます。しかし寵臣ばかりに囲まれ、心地よいことばかりを聞いています。その連中こそ賢者であり、天下はもう平定されたと勘違いしておられます。聞きますに国を興隆させる君主とは、批判を聞かされることを楽しみ、国を荒廃させる君主は、称賛を聞くのが好きです。欠点を批判されれば、日ごとに改善されて福が至ります。褒められ続ければ、日ごとに頽廃して禍いが至ります。陛下は厳罰を課して直言を禁じ、善良な士を退けて諫言に逆らっています。酒に酔ったついでに、死刑を執行しました。仕官しているものは、罷免されると幸いとし、中央にいるものは、地方に転出になると福としています。大いなる帝業を保ち、教化を盛んにする状況ではありません。何定はもとは使いっ走りであり、立派な行いなどなく、しかし陛下は媚びへつらわれ、かれに威福を授けております。つまらぬ人物は取り入るとき、不正な利益を進めるのです。何定は近ごろみだりに労役を起こし、長江沿いの守兵を動員して狩猟をもよおし、老弱な兵は飢えて凍え饑凍し、上下とも怨恨し歎いています。古典に言います、国が興るとき、民を赤子のように可愛がる。国が滅ぶとき、民を雑草のように見なすと(春秋左氏伝)。いま禁令は厳しくなり、徴用や課税が繁くなり、朝廷の近臣は各地で建築工事を始めています。しかし長吏は罪をおそれ、民に負担を押しつけています。民は堪えきれず、家戸は離散し、怨嗟の声が、秩序と調和を損ねています。いま国庫には一年の蓄えもなく、家には一ヵ月の蓄えもありません。しかし後宮では、一万人あまりが養われています。さらに北方の敵に目を向け、国の盛衰を考えれば、長江の防衛線も、永続的ではありません。もしも守れなければ、一たばの一葦があれば渡れます(詩経より)。どうか陛下は国の土台を固め、不本意であっても道義に従うならば、周の成王や康王のように中興し、聖祖(孫権)の国運を盛んにできましょう」と言った。呉主は深く恨んだ〈呉 賀邵伝〉
近臣たちは楼玄と賀邵が密会し、耳打ちして大笑いし、政治を誹謗していると誣告した。呉主はふたりを咎め、楼玄を広州に送り〈呉 楼玄伝〉、賀邵をゆるして官職に復帰させた〈賀邵伝〉。さらに楼玄を交趾に移すとし、殺してしまった。しばらくして、何定の汚職が発覚し、かれも誅に伏した。
羊祜が江陵から帰ると、徳と信頼によって呉人を懐柔しようと努めた。交戦するときはいつも、日程を決めてから戦い、奇襲しなかった。将帥がだまし討ちを進言したら、濃厚な美酒を飲ませ、これを黙らせた。羊祜が軍を出して呉との国境にゆき、穀物を現地調達してしまったときは、その分量を計算し、絹を送って代金を支払った。長江や沔水のあたりで狩猟や軍事訓練をすると、必ず晋の領土にとどめ、もし呉人がさきに傷つけた獣を晋人が捕らえたら、これを送り返した。こうして呉の国境付近は、羊祜に心服をした。羊祜は陸抗と対峙し、使者をつねに往来させた〈羊祜伝に依る〉。陸抗が酒を贈ると、羊祜は疑わずに飲んだ〈陸抗伝に引く晋陽秋〉。陸抗が病気になると、羊祜に薬を求めた。羊祜は薬をつくって贈り、陸抗は迷わずに飲んだ。多くの人が陸抗を諫めた〈陸抗伝に引く漢晋春秋〉。陸抗は、「羊叔子(羊祜)がどうして人を毒殺するものか」と言った〈羊祜伝に依る〉。防衛の部隊に、「あちらがもっぱら徳を用いているが、こちらがもっぱら暴を用いている。戦わずして自ら屈服することになる。せめて境界を守ることに専念し、小さな戦果を求めてはいけない」と言った。孫晧は国境地帯で交流があると聞いて、陸抗をとがめた。陸抗は、一邑や一郷ですら信義がなければ治まりません。大国であれば尚更です。信義で報いなければ、敵方の徳ばかりを顕彰することになり、羊祜の一人勝ちとなります」と言った〈陸抗伝に引く漢晋春秋〉
呉主は諸将の提案を採用し、しばしば晋の国境を侵盗した。陸抗は上疏し、「むかし夏王朝の罪が大きくなると(初めて)殷の湯王が征討しました。殷の紂王が淫虐をなすと(初めて)周の武王が征伐を命じました。時宜を得ていなければ、(湯王や武のような)大聖であろうと、兵力を養って休息をしたのです。軽々しく動いてはいけません。いま農事に努めて国を富ませ、官僚を能力に応じて任命し、昇進と降格を適切に行い、刑罰と褒賞を濫発せず、役人を徳によって指導し、百姓を仁愛によって綏撫しなさい。しかし諸将ときたら武名を広めようと、兵を追い込んで武を汚しており、軍事費用は万を数え、士卒は疲弊しています。敵に国力を削られるでもなく、わが国は損失を被っています。いま中長期的な利益に目が向かないのは、人臣が短期的な目標ばかりを追うからであり、国家にとって良策ではありません。むかし斉と魯が三度戦ったとき、魯人は二回勝ちましたが、ほどなく壊滅しました。なぜなら、国力に差があったからです。まして今日の小競り合いの戦果は、採算が取れておりません」と言った。呉主は従わなかった〈陸抗伝〉
羊祜は朝廷の権勢家と癒着しなかったので、荀勖や馮紞はかれを憎らしく思った。従甥である王衍は、かつて羊祜のもとに赴き意見を伝えたが、論旨は明瞭であった。しかし羊祜が同意しなかったので、王衍は衣を払って去った。羊祜は賓客を顧みて、「王夷甫は名声を得て高位にいるが、風俗と教化を傷つけるのは、あの男だろう」と言った。江陵を攻めるとき、羊祜は軍法により王戎を斬ろうとした。王衍は、王戎の従弟である。ゆえに二人は羊祜に怨みを持ち、たびたび口汚く批判した。当時は人物評に、「二人の王氏は国政に当たっているが、羊公には徳がない」と言った〈羊祜伝〉