いつか読みたい晋書訳

資治通鑑_晋紀三_巻八十一_武皇帝_中(二八〇-二八八)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
維基文庫から頂いてきたテキストを、中華書局本を見ながら修正しています。修正の漏れ等があるかも知れません。また、このページでは現代語訳を行いません(現代語訳については、別の形で発表します)。現代語訳を行う際に、再び中華書局本を参照し、テキストの修正を現代語訳(のみ)に織り込む場合があります。このページは、現代語訳に至る途中のメモという位置づけです。
全体がメモですので、原文・訓読・現代語訳のあいだで、改行や句読点の位置を揃えていません。訓読・現代語訳が対応していない箇所があります。途中、訓読を作成していませんが、現代語訳を作る方法を模索していたからです。とくに意味はありません。

太康元(二八〇)年

原文

【晋紀三】 起上章困敦、尽著雍涒灘、凡九年。 世祖武皇帝中太康元年(庚子、公元二八零年) 春正月、呉大赦。 杜預向江陵、王渾出横江、攻呉鎮・戍、所向皆克。二月、戊午、王濬・唐彬撃破丹楊監盛紀。呉人於江磧要害之処、並以鉄鎖横截之。又作鉄錐、長丈餘、暗置江中、以逆拒舟艦。濬作大筏数十、方百餘歩、縛草為人、被甲持仗、令善水者以筏先行、遇鉄錐、錐輒著筏而去。又作大炬、長十餘丈、大数十厳、灌以麻油、在船前、遇鎖、然炬焼之、須臾、融液断絶、於是船無所礙。庚申、濬克西陵、殺呉都督留憲等。壬戌、克荊門・夷道二城、殺夷道監陸晏。杜預遣牙門周旨等帥奇兵八百泛舟夜渡江、襲楽郷、多張旗幟、起火巴山。呉都督孫歆懼、与江陵督伍延書曰、「北来諸軍、乃飛渡江也」。旨等伏兵楽郷城外、歆遣軍出拒王濬、大敗而還。旨等発伏兵随歆軍而入、歆不覚、直至帳下、虜歆而還。乙丑、王濬撃殺呉水軍都督陸景。杜預進攻江陵、甲戌、克之、斬伍延。於是沅・湘以南、接於交・広、州郡皆望風送印綬。預杖節称詔而緩撫之。凡所斬獲呉都督・監軍十四、牙門・郡守百二十餘人。胡奮克江安。 乙亥、詔、「王濬・唐彬既定巴丘、与胡奮・王戎共平夏口・武昌、順流長騖、直造秣陵。杜預当鎮静零・桂、懐輯衡陽。大兵既過、荊州南境固当伝檄而定。預等各分兵以益濬・彬、太尉充移屯項」。 王戎遣參軍襄陽羅尚・南陽劉喬将兵与王濬合攻武昌、呉江夏太守劉朗・督武昌諸軍虞昺皆降。昺、翻之子也。 杜預与衆軍会議、或曰、「百年之寇、未可尽克、方春水生、難於久駐、宜俟来冬更為大挙」。預曰、「昔楽毅藉済西一戦以並強斉、今兵威已振、譬如破竹、数節之後、皆迎刃而解、無復著手処也」。遂指授群帥方略、逕造建業。
呉主聞王渾南下、使丞相張悌督丹楊太守沈瑩・護軍孫震・副軍師諸葛靚帥衆三萬渡江逆戦。至牛渚、沈瑩曰、「晋治水軍於蜀久矣、上流諸軍、素無戒備、名将皆死、幼少当任、恐不能御也。晋之水軍必至於此、宜畜衆力以待其来、与之一戦、若幸而勝之、江西自清。今渡江与晋大軍戦、不幸而敗、則大事去矣」。悌曰、「呉之将亡、賢愚所知、非今日也。吾恐蜀兵至此、衆心駭懼、不可復整。及今渡江、猶可決戦。若其敗喪、同死社稷、無所復恨。若其克捷、北敵奔走、兵勢萬倍、便当乗勝南上、逆之中道、不憂不破也。若如子計、恐士衆散尽、坐待敵到、君臣俱降、無復一人死難者、不亦辱乎」。
三月、悌等済江、囲渾部将城陽都尉張喬於楊荷。喬衆才七千、閉柵請降。諸葛靚欲屠之、悌曰、「強敵在前、不宜先事其小、且殺降不祥」。靚曰、「此属以救兵未至、少力不敵、故且偽降以緩我、非真伏也。若捨之而前、必為後患」。悌不従、撫之而進。悌与揚州刺史汝南周浚、結陳相対、沈瑩帥丹楊鋭卒・刀楯五千、三沖晋兵、不動。瑩引退、其衆乱。将軍薛勝・蔣班因其乱而乗之、呉兵以次奔潰、将帥不能止、張喬自後撃之、大敗呉兵於版橋。諸葛靚帥数百人遁去、使過迎張悌、悌不肯去、靚自往牽之曰、「存亡自有大数、非卿一人所支、奈何故自取死」。悌垂涕曰、「仲思、今日是我死日也。且我為兒童時、便為卿家丞相所識抜、常恐不得其死、負名賢知顧。今以身徇社稷、復何道邪」。靚再三牽之、不動、乃流涙放去、行百餘歩、顧之、已為晋兵所殺、並斬孫震・沈瑩等七千八百級、呉人大震。
初、詔書使王濬下建平、受杜預節度、至建業、受王渾節度。預至江陵、謂諸将曰、「若濬得建平、則順流長駆、威名已著、不宜令受制於我。若不能克、則無縁得施節度」。濬至西陵、預与之書曰、「足下既摧其西藩、便当逕取建業、討累世之逋寇、釈呉人於塗炭、振旅還都、亦曠世一事也」。濬大悦、表呈預書。及張悌敗死、揚州別駕何惲謂周浚曰、「張悌挙全呉精兵殄滅於此、呉之朝野莫不震懾。今王龍驤既破武昌、乗勝東下、所向輒克、土崩之勢見矣。謂宜速引兵渡江、直指建業、大軍猝至、奪其膽気、可不戦禽也」。浚善其謀、使白王渾。惲曰、「渾暗於事機、而欲慎己免咎、必不我従」。浚固使白之、渾果曰、「受詔但令屯江北以抗呉軍、不使軽進。貴州雖武、豈能独平江東乎。今者違命、勝不足多、若其不勝、為罪已重。且詔令龍驤受我節度、但当具君舟楫、一時俱済耳」。惲曰、「龍驤克萬里之寇、以既成之功来受節度、未之聞也。且明公為上将、見可而進、豈得一一須詔令乎。今乗此渡江、十全必克、何疑何慮而淹留不進。此鄙州上下所以恨恨也」。渾不聴。
王濬自武昌順流徑趣建業、呉主遣游撃将軍張象帥舟師萬人御之、像衆望旗而降。濬兵甲満江、旌旗燭天、威勢甚盛、呉人大懼。呉主之嬖臣岑昏、以傾険諛佞、致位九列、好興功役、為衆患苦。及晋兵将至、殿中親近数百人叩頭請於呉主曰、「北軍日近而兵不挙刃、陛下将如之何」。呉主曰、「何故」。対曰、「正坐岑昏耳」。呉主独言、「若爾、当以奴謝百姓」。衆因曰、「唯」。遂並起收昏。呉主駱駅追止、已屠之矣。
陶浚将討郭馬、至武昌、聞晋兵大入、引兵東還。至建業、呉主引見、問水軍消息、対曰、「蜀船皆小、今得二萬兵、乗大船以戦、自足破之」。於是合衆、授浚節鉞。明日当発、其夜、衆悉逃潰。
時王渾・王濬及琅邪王伷皆臨近境、呉司徒何植・建威将軍孫晏悉送印節詣渾降。呉主用光禄勲薛瑩・中書令胡沖等計、分遣使者奉書於渾・灘・伷以請降。又遺其群臣書、深自咎責、且曰、「今大晋平治四海、是英俊展節之秋、勿以移朝改朔、用損厥志」。使者先送璽綬於琅邪王伷。壬寅、王濬舟師過三山、王渾遣信要濬暫過論事。濬挙帆直指建業、報曰、「風利、不得泊也」。是日、濬戎卒八萬、方舟百里、鼓噪入於石頭、呉主皓面縛輿櫬、詣軍門降。濬解縛焚櫬、延請相見。收其図籍、克州四、郡四十三、戸五十二萬三千、兵二十三萬。
朝廷聞呉已平、群臣皆賀上寿。帝執爵流涕曰、「此羊太傅之功也」。驃騎将軍孫秀不賀、南向流涕曰、「昔討逆弱冠以一校尉創業、今後主挙江南而棄之、宗廟山陵、於此為墟。悠悠蒼天、此何人哉」。
呉之未下也、大臣皆以為未可軽進、独張華堅執以為必克。賈充上表称、「呉地未可悉定、方夏江・淮下濕、疾疫必起、宜召諸軍還、以為後図。雖腰斬張華不足以謝天下」。帝曰、「此是吾意、華但与吾同耳」。荀勖復奏、宜如充表、帝不従。杜預聞充奏乞罷兵、馳表固争、使至轘轅而呉已降。充慚懼、詣闕請罪、帝撫而不問。

訓読

春正月、呉 大赦す。 杜預 江陵に向ひ、王渾 横江に出で、呉の鎮・戍を攻め、向ふ所 皆 克つ。二月戊午、王濬・唐彬 丹楊監の盛紀を撃破す。呉人 江磧の要害の処に於り、並びに鉄鎖を以て之を横截す。又 鉄錐を作り、長さ丈餘、暗かに江中に置き、以て舟艦を逆拒す。濬 大筏数十を作り、方百餘歩、草を縛りて人と為し、甲を被せ仗を持たしめ、水に善き者をして筏を以て先行せしめ、鉄錐に遇へば、錐して輒ち筏を著はして去る。又 大炬を作り、長さ十餘丈、大きさ数十囲、灌するに麻油を以てし、船前に在り、鎖に遇へば、炬を然して之を焼き、須臾にして、液を融かして断絶し、是に於て船 礙る所無し。庚申、濬 西陵に克ち、呉都督の留憲らを殺す。壬戌、荊門・夷道の二城に克ち、夷道監の陸晏を殺す。杜預 牙門の周旨らを遣はして奇兵八百を帥ゐて舟を汎して夜に江を渡り、楽郷を襲ひ、多く旗幟を張り、火を巴山に起つ。呉の都督の孫歆 懼れ、江陵督の伍延に書を与へて曰く、「北来の諸軍、乃ち飛ぶごとく江を渡るなり」と。旨ら楽郷の城外に兵を伏せ、歆 軍を遣はして出でて王濬を拒ぐも、大敗して還る。旨ら伏兵を発して歆の軍に随ひて入り、歆 覚らず、直ちに帳下に至り、歆を虜として還る。乙丑、王濬 殺の呉水軍都督の陸景を撃つ。杜預 進みて江陵を攻め、甲戌、之に克ち、伍延を斬る。是に於いて沅・湘以南、交・広に接するは、州郡 皆 風に望みて印綬を送る。預 節を杖つきて詔と称して之を緩撫す。凡そ斬獲する所の呉都督・監軍は十四、牙門・郡守は百二十餘人なり。胡奮 江安に克つ。 乙亥、詔して、「王濬・唐彬 既に巴丘を定め、胡奮・王戎と共に夏口・武昌を平らげ、流に順ひて長騖し、直ちに秣陵に造る。杜預 当に零・桂を鎮静して、衡陽を懐輯すべし。大兵 既に過ぎ、荊州の南境 固に当に伝檄して定むべし。預ら各々兵を分けて以て濬・彬に益し、太尉の充 屯を項に移せ」と。 王戎 參軍たる襄陽の羅尚・南陽の劉喬を遣はして兵を将ゐて王濬と合して武昌を攻め、呉の江夏太守たる劉朗・督武昌諸軍の虞昺 皆 降る。(虞)昺、翻の子なり。 杜預 衆軍と会議するに、或ひと曰く、「百年の寇、未だ尽く克は可つべからず、方に春水 生じん、久しく駐するに難し、宜しく冬を来るを俟ちて更に大挙を為すべし」と。預曰く、「昔 楽毅 済西の一戦に藉りて以て強斉を並はせ(通鑑巻四)、今 兵威 已に振ひ、譬ふるに破竹の如し、数節の後、皆 刃を迎へて解けば、復た手を著はすの処無きなり」と。遂に群帥に方略を指授し、逕ちに建業に造る。
呉主 王渾の南下するを聞き、丞相の張悌をして丹楊太守の沈瑩・護軍の孫震・副軍師の諸葛靚を督して衆三萬を帥ゐて渡江して逆戦す。牛渚に至り、沈瑩曰く、「晋 水軍を治むること蜀に於いて久し、上流の諸軍、素より戒備無し、名将 皆 死し、幼少 任に当る、御すること能はざるを恐るるなり。晋の水軍 必ず此に至る、宜しく衆力を畜へて以て其の来るを待ち、之と一戦し、若し幸にして之に勝たば、江西 自ら清からん。今 渡江して晋の大軍と戦ひ、不幸にして敗るれば、則ち大事 去らん」と。悌曰く、「呉の将に亡びんとし、賢愚 知る所なるは、今日に非らざるなり。吾 蜀兵 此に至り、衆心 駭懼し、復た整ふ可からざるを恐る。今 渡江するに及び、猶ほ決戦す可し。若し其れ敗喪せば、死を社稷と同にし、復た恨む所無し。若し其れ克く捷たば、北敵 奔走し、兵勢 萬倍し、便ち当に勝ちに乗じて南上し、之を中道に逆かへ、破らざるを憂はず。若し子の計が如くせば、恐らくは士衆 散尽し、坐して敵の到るを待り、君臣 俱に降り、復た一人として難に死する者無く、亦た辱しからずや」と。
三月、悌ら江を済り、渾部の将たる城陽都尉の張喬を楊荷を囲む。喬の衆 七千才り、柵を閉じて降らんことを請ふ。諸葛靚 之を屠らんと欲し、悌曰く、「強敵 前に在り、宜しく先に其の小に事へるべからず、且つ降るものを殺すは不祥なり」と。靚曰く、「此の属 救兵の未だ至らざるを以て、力少なくして敵せず、故に且つ偽降して以て我を緩めんとす、真に伏するに非ざるなり。若し之を捨てて前めば、必ず後患と為らん」と。悌 従はず、之を撫して進む。悌 揚州刺史たる汝南の周浚と、陳を結びて相 対し、沈瑩 丹楊の鋭卒・刀楯五千を帥ひて、三たび晋兵に衝し、動かず。瑩 引退し、其の衆 乱る。将軍の薛勝・蔣班 其の乱に因りて之に乗じ、呉兵 次を以て奔潰し、将帥 止むこと能はず、張喬 自ら後となりて之を撃ち、呉兵を版橋に於いて大いに敗る。諸葛靚 数百人を帥ゐて遁去し、使して過りて張悌を迎へしめ、悌 去ることを肯ぜず、靚 自ら往きて之を牽きて曰く、「存亡 自ら大数有り、卿一人の支へる所に非ず、奈何ぞ故(ことさら)に自ら死を取る」と。悌 垂涕して曰く、「仲思(諸葛靚の字)、今日 是れ我が死するの日なり。且つ我 兒童為りし時、便ち卿家の丞相の為に識抜せられ、常に其の死を得ず、名賢知顧に負くことを恐る。今 身を以て社稷に徇へ、復た何をか道はんや」と。靚 再三に之を牽くも、動かず、乃ち流涙して放ちて去り、行くこと百餘歩、之を顧みるに、已に晋兵の為に殺され、並びに孫震・沈瑩ら七千八百級を斬り、呉人 大いに震ふ。
初め、詔書に王濬をして建平より下らしめ、杜預の節度を受け、建業に至るや、王渾の節度を受うけしむ。預 江陵に至り、諸将に謂ひて曰く、「若し濬 建平を得れば、則ち流に順ひて長駆し、威名 已に著はれ、宜しく我より制を受くるべからず。若し克つ能はざれば、則ち縁ること無く節度を施すことを得たり」と。濬 西陵に至り、預 之に書を与へて曰く、「足下 既に其の西藩を摧し、便ち当に逕ちに建業を取り、累世の逋寇を討ち、呉人を塗炭より釈くべし、振旅して都に還れば、亦た曠世の一事なり」と。濬 大いに悦び、表して預の書を呈す。張悌 敗死するに及び、揚州別駕の何惲 周浚に謂ひて曰く、「張悌 全呉の精兵を挙げて此に殄滅し、呉の朝野 震懾せざる莫し。今 王龍驤 既に武昌を破り、勝に乗じて東下し、向ふ所に輒ち克ち、土崩の勢 見れん。謂はく宜しく速やかに兵を引きて江を渡り、直ちに建業を指すべし、大軍 猝かに至れば、其の膽気を奪ひ、戦はずして禽ふ可きなり」と。浚 其の謀を善とし、王渾をして白せしむ。(何)惲曰く、「渾 事機に暗く、而れども己を慎しみ咎を免れんと欲し、必ず我 従はず」と。浚 固に之に白せしめ、渾 果して曰く、「詔を受け但だ江北に屯して以て呉軍をして抗せしめ、軽々しく進ましめず。貴州 武ありと雖も、豈に能く独り江東を平らげんや。今者 命に違はば、勝つとも多とするに足らず、若し其れ勝たざれば、罪を為すこと已に重し。且つ詔は龍驤をして我が節度を受くると令し、但だ当に君の舟楫を具へ、一時に俱に済るべきのみ」と。惲曰く、「龍驤 萬里の寇に克ち、既成の功を以て来りて節度を受くるとも、未だ之れ聞かざるなり。且つ明公 上将為り、見て進む可し、豈に一一と詔令を須つことを得んや。今 此の渡江に乗じ、十全に必ず克ち、何をか疑ひ何をか慮りて淹留して進まざる。此れ鄙州の上下 恨恨とする所以なり」と。渾 聴さず。
王濬 武昌より流れに順ひて徑ちに建業に趣き、呉主 游撃将軍の張象を遣りて舟師萬人を帥ゐて之を御ぎ、像の衆 旗を望みて降る。濬の兵甲 江に満ち、旌旗 天を燭し、威勢 甚だ盛んにして、呉人 大いに懼る。呉主の嬖臣たる岑昏、傾険し諛佞するを以て、位は九列に致り、功役を興すことを好み、衆の患苦と為る。晋兵 将に至らんとするに及び、殿中の親近たる数百人 叩頭して呉主に請ひて曰く、「北軍 日に近くして兵 刃を挙げず、陛下 将に之を如何とす」と。呉主曰く、「何が故なるや」と。対へて曰く、「正に岑昏に坐するのみ」と。呉主 独言し、「若し爾らば、当に奴を以て百姓に謝るべし」。衆 因りて曰く、「唯」と。遂に並びに起ちて昏を收む。呉主 駱駅して追止し、已に之を屠る。
陶浚 将に郭馬を討たんとし、武昌に至るとき、晋兵 大いに入ると聞き、兵を引きて東還す。建業に至り、呉主 引見し、水軍の消息を問ふ、対へて曰く、「蜀船 皆 小なり、今 二萬の兵を得て、大船に乗じて以て戦へば、自ら之を破るに足る」と。是に於いて衆を合せて、(陶)浚に節鉞を授く。明日 発するに当り、其の夜、衆 悉く逃潰す。
時に王渾・王濬及び琅邪王伷 皆 近境に臨み、呉の司徒たる何植・建威将軍たる孫晏 悉く印節を送りて渾に詣りて降る。呉主 光禄勲の薛瑩・中書令の胡沖らの計を用ゐ、使者を分遣して書を渾・灘・伷に奉じて以て降らんことを請ふ。又 其の群臣に書を遺り、深く自ら咎責し、且つ曰く、「今 大晋 四海を平治す、是れ英俊 展節の秋にして、朝を移り朔を改むるを以て、用て厥の志を損ずること勿かれ」。使者 先に璽綬を琅邪王伷に送る。壬寅、王濬の舟師 三山を過ぎ、王渾 信を遣りて濬に要し暫過して事を論ず。濬 帆を挙げて直ちに建業を指し、報じて曰く、「風は利あり、泊るを得ざるなり」と。是の日、濬の戎卒は八萬、方舟は百里、鼓噪 石頭に入り、呉主皓 面縛して櫬を輿ぎ、軍門に詣りて降る。濬 縛を解きて櫬を焚き、延して相 見ることを請ふ。其の図籍を收め、州四、郡四十三、戸五十二萬三千、兵二十三萬に克す。
朝廷 呉 已に平らぐと聞き、群臣 皆 賀して寿を上す。帝 爵を執りて流涕して曰く、「此れ羊太傅の功なり」。驃騎将軍の孫秀 賀せず、南のかた向きて流涕して曰く、「昔 討逆 弱冠にして一校尉を以て創業す、今 後主 江南を挙げて之を棄つ、宗廟山陵、此に於いて墟と為らん。悠悠たる蒼天、此れ何なる人ならんか」と。
呉の未だ下らざるや、大臣 皆 以為へらく未だ軽々しく進む可からずと、独り張華のみ堅く執るに以為へらく必ず克つと。賈充 上表して称す、「呉地 未だ悉く定むる可からず、方に夏となり江・淮 下濕にして、疾疫 必ず起る、宜しく諸軍を召して還し、以て後図を為すべし。張華を腰斬すると雖も以て天下に謝るに足らず」と。帝曰く、「此れ是れ吾が意なり、華 但だ吾と同じなり」と。荀勖 復た奏し、宜しく充の表が如くせよといひ、帝 従はず。杜預 充の奏を聞きて兵を罷むことを乞ひ、表を馳して固争し、使 轘轅に至りて呉 已に降る。充 慚懼し、闕に詣りて罪を請ひ、帝 撫して問はず。

現代語訳

春正月、呉は大赦した〈孫晧伝〉
杜預が江陵に向かい〈杜預伝に依る〉、王渾は横江に出て〈王渾伝に依る〉、呉の防衛拠点を攻め、向かうところを全て破った。二月戊午、王濬と唐彬は丹楊監の盛紀を撃破した〈伝は正月とする〉。呉人は長江沿いの要害において、鉄鎖を横にめぐらせて妨害をした。鉄錐を作り、長さは一丈あまり、ひとかに江水のなかに設置し、戦艦を迎撃した。王濬は大きな筏の数十叟を作り、大きさは百歩あまりで、草を縛って人とし、鎧と武器を持たせ、泳ぎが得意なものに筏で先行させた。鉄錐を見つけると、筏で位置を示して去った。さらに大炬を作り、長さは十丈あまり、大きさは数十囲であり、麻油をひたし、船の前方に乗せて、鎖にぶつかると、炬を燃やして着火し、すぐに液を融かして切断した。こうして船は進行できるようになった。庚申、王濬は西陵を打ち破り、呉の都督の留憲らを殺した。壬戌、荊門と夷道の二城を破り、夷道監の陸晏を殺した〈王濬伝〉
杜預は牙門将の周旨らに奇兵八百をひきいて舟を浮かべて、夜に長江を渡り、楽郷を襲い、多くの軍旗を立て、火を巴山で起こした。呉の都督の孫歆は懼れ、江陵督の伍延に文書を送り、「北来の諸軍は、飛ぶように長江を渡った」と言った。周旨らが楽郷の城外に兵を伏せると、孫歆は軍を出撃させて王濬を防いだが、大敗して撤退した。周旨らは伏兵をつかって孫歆の軍に随って(城に付け)入ったが、孫歆は気がつかなかった。すぐに帳下に到着し、孫歆を捕らえて還ってきた〈杜預伝〉
乙丑、王濬は呉の水軍都督の陸景を攻撃して殺した〈王濬伝〉。杜預は進んで江陵を攻めた。甲戌、これを破り、伍延を斬った〈伍延を斬ったことは孫晧伝〉。ここにおいて沅水湘水より以南、交州と広州に隣接している地域は、州郡はすべて風になびくように印綬を(晋に)提出した。杜預は節を杖ついて詔として、かれらを緩撫した。斬獲した呉の都督や監軍は十四人、牙門や郡守は百二十人あまりであった〈杜預伝〉
胡奮は江安を破った。 乙亥、詔して、「王濬と唐彬はすでに巴丘を平定し、胡奮と王戎はともに夏口と武昌を平定した。川の流れに乗って長駆し、まっすぐ秣陵を目指すように。杜預は零陵と桂陽を鎮圧して鎮め、衡陽を懐柔するように。大軍が通過したら、荊州の南半分には文書を回付して平定するように。杜預らは兵を分けて王濬と唐彬の配下を増やし、太尉の賈充は屯所を項に移すように」と言った〈武帝紀〉
王戎の参軍である襄陽の羅尚と南陽の劉喬は、兵をひきいて王濬に合流して〈王濬伝に見える〉、武昌を攻撃し、呉の江夏太守である劉朗と〈未詳〉督武昌諸軍の虞昺はどちらも降服した。虞昺は、虞翻の子である〈呉 虞翻伝に見える〉
杜預が諸軍とともに軍議を開くと、あるひとが、「百年も存続した寇賊には、まだ完全には勝てません。春に水量が増えます。久しく駐屯するのは難しい。冬になるのを待って、改めて大軍を動かすべきです」と言った。杜預は、「むかし楽毅は済西の一戦によって強国の斉を併呑した。いま兵の威気は高く、破竹の勢いがある。いくつか先の節まで、刃を入れるがままに割れるのだから、やり直す必要はなかろう」と言った。こうして諸軍に軍略を指導し、まっすぐ建業を目指した〈杜預伝〉
呉主は王渾が南下していると聞き、丞相の張悌に命じて、丹楊太守の沈瑩・護軍の孫震・副軍師の諸葛靚を督して兵三万をひきいて江水を渡って迎撃をさせた。牛渚に到着すると、沈瑩は、「晋は蜀で長らく水軍を整備してきた。上流の諸軍は、十分な備えがなく、名将はみな死に、幼少なものが任されている。晋軍を防ぐことはできないだろう。晋の水軍は必ずここに到来する。兵の力を集めて待ち構え、これと一戦せよ。もし幸いにも勝てば、長江の西はおのずと鎮静するだろう。いま長江を渡って晋の大軍と戦い、不幸にも敗れたならば、わが国は終わってしまう」と言った。張悌は、「呉が滅亡しそうなことは、賢愚に拘わらず、少し前から分かっていた。蜀からの兵が到着すれば、兵たちは驚き懼れ、統制が取れなくなることが心配である。いま長江を渡っただから、決戦を挑むべきだ。もし敗北したら、社稷に殉じて死ぬことに、なんの不満もない。もし勝利したら、北来の軍が逃げまどい、わが軍の力は万倍する。勝ちに乗じて南から昇ってゆけば、これを途中で妨害されても、負ける心配はない。もしお前の考えのようにすれば、軍兵は蹴散らされ、座して敵の到着を待つことになる。君臣がともに降服し、一人も抵抗しないというのは、恥ずべきことではないか」と言った〈孫晧伝注 襄陽記〉。 三月、張悌らが長江を渡り、王渾の部将である城陽都尉の張喬を楊荷で包囲した。張喬の兵はわずか七千で、柵を閉じて降服しようとした。諸葛靚はこれを殲滅しようとしたが、張悌は、「強敵が前にいる、目先の小さなことに拘るな。降服者を殺すのは不吉だ」と言った。諸葛靚は、「かれらは援軍が到着せず、兵力で及ばないから、偽って降服して、わが軍を油断させようとしている。本当に屈服したのではない。もし捨て置いて前進すれば、きっと後に脅威となるだろう」と言った。張悌は従わず、降服を受け入れて進んだ。張悌は揚州刺史である汝南の周浚と、陣を組んで対峙した。沈瑩は丹楊の鋭卒と武装兵の五千をひきいて、みたび晋軍と衝突したが、さっぱり動揺しなかった。沈瑩が撤退したとき、その兵が乱れた。将軍の薛勝と蒋班はその乱に乗じて攻撃した。呉軍は次々と崩壊し、指揮官には止めることができなかった。張喬が後詰めとなって迎え撃った。呉軍を版橋で大いに破った〈孫晧伝注 干宝晋紀〉
諸葛靚は数百人をひきいて逃げ去り、使者を送って張悌にも逃亡しようと誘ったが、張悌は撤退を拒んだ。諸葛靚はみずから赴いて張悌の手を引っ張って、「国家の存亡は命運により決まっており、あなた一人では支えきれない。なぜ死のうとするのだ」と言った。張悌は涙を流し、「仲思(諸葛靚の字)よ、今日こそわが命日なのだ。私が子供であったとき、あなたの家の丞相(諸葛亮)に見出してもらったが、ふさわしい死に場所を得られず、賢者からの期待に沿えないことを恐れていた。いま身を以て社稷のために働けるのだ。これ以上は言ってくれるな」と言った。諸葛靚はみたび引っ張ったが、動かなかった。涙を流して手を離して去り、百歩あまりで振り返ると、すでに晋兵に殺されていた〈孫晧伝注 襄陽記〉。さらに孫震・沈瑩ら七千八百人の首を斬り、呉人は大いに震撼した〈王渾伝〉
これよりさき、王濬に詔書をあたえて建平から下り、杜預の節度を受け、建業に到着したら、王渾の節度を受けようと命じた。杜預が江陵に到着すると、諸将に向けて、「もし王濬が建平を獲得したら、流れに乗って長駆し、威名が明らかであるから、私が(王濬を)管轄することができないだろう。もし勝てなければ、頼るさきがないので管轄下に入れることができる」と言った。王濬が西陵に到着しすると、杜預はかれに文書を送り、「あなたは敵国の西方の守りを打ち破った。まっすぐ建業を奪い、累世の寇賊を討ち、呉人を塗炭の苦しみから解放せよ。都に凱旋したならば、稀代の事業となる」と言った。王濬は大いに悦び、上表して杜預の文書について述べた〈王濬伝〉
張悌が敗死すると、揚州別駕の何惲は周浚に、「張悌は呉の精兵をあげて立ち向かったが敗北し、呉の朝野は震撼している。いま王龍驤(王濬)がもう武昌を撃破し、勝ちに乗じて東に下ってきており、向かうところで連勝し、土のように崩している。速やかに兵をひきいて長江を渡り、ただちに建業を目指すべきだ。大軍はにわかに到着すれば、その士気を挫き、戦わずに捕らえることができる」と言った。周浚はその考えを善しとし、王渾に提案せよと命じた。すると何惲は、「王渾は戦機の見極めができず、しかし保身だけのために、私の意見を聞いてくれないでしょう」と言った。しかし周浚は、あくまで(何惲から)王渾に提案をさせた。果たして王渾は、「詔を受けて江北に駐屯して呉軍を抑えておればよく、軽々しく進んではならない。あなたは揚州で武名があるかも知れないが、単独で江東を平定する力があるのか。もし詔命に違反すれば、勝ったところで評価されず、勝てなければ重い罪となる。しかも詔は龍驤(王濬)をわが統制下に入れると命じていた。きみは戦艦を調整して、(王渾と)同時に長江をわたり、攻め込むときに備えよ」と言った。何惲は、「龍驤は万里で敵を破り、功績を立てています。そのうえで(王渾の)管轄下に入るとは思えません。あなたは上将です、状況を見て進むべきであり、どうして個々に詔令を待つ必要がありましょうか。いま長江を渡れば、ほぼ勝ちは確実です。どうして留まっているのですか。これは揚州出身者が、苦々しく思っている理由です」と言った。王渾は聴き入れなかった〈周浚伝に依る〉。 王濬は武昌から流れに従って建業に直行した。呉主は游撃将軍の張象に水軍一万人で防がせたが、張像の兵は(晋の)旗を遠くに見ると降服した。王濬の戦艦が長江に満ち、軍旗は天を照らし、威勢はとても盛んなので、呉人はとても懼れた〈王濬伝〉
呉主の寵臣である岑昏は、へつらって、九卿に列せられ、土木工事をするのが好きで、衆民を苦しめていた〈孫晧伝〉。晋軍が接近すると、殿中を護衛する数百人は叩頭して呉主に、「北軍が接近しているが、わが軍は応戦しません。どうしましょう」と言った。呉主は、「なぜだろう」と質問した。答えて、「岑昏のせいです」と言った。呉主は、「もしそうならば、かれを斬って百姓に詫びるか」と独言した。兵たちは、「了解です」と言った。すぐに出発して岑昏を捕らえた。呉主は制止しようとしたが、もう殺した後だった〈孫晧伝注 干宝晋紀〉。 陶浚が郭馬を討伐しようと、武昌に至ったとき、晋兵が大量に進入していると聞き、兵を引いて東に帰った。建業に至ると、呉主が引見し、水軍の状況を質問した。答えて、「蜀の船はどれも小さい。いま二万の兵で、大きな船に乗って戦えば、撃破することができます」と言った。そこで兵を集めて、陶浚に節鉞を授けた。翌日の出発を控えて、その夜に、兵はみな逃げ散ってしまった。このとい王渾・王濬および琅邪王の司馬伷が国境に来ていた〈孫晧伝〉
呉の司徒である何植・建威将軍の孫晏は、いずれも印節を送って王渾のもとを訪れて降服した〈王渾伝〉。呉主は光禄勲の薛瑩・中書令の胡沖らの計略を採用し、使者を分けて派遣し、王渾・王濬・司馬伷に降服したいと告げた〈孫晧伝〉。さらに群臣に文書を送り、自分の責任を追及し、「いま大晋が四海を平定して治める。これこそ英俊が活躍すべき時期であり、国家を移って正朔が変わっても、その志を失ってはならない」と言った〈孫晧伝注 江表伝〉
使者はさきに璽綬を琅邪王の司馬伷に送った。壬寅、王濬の水軍が三山を通過し、王渾は使者を送って、待ち合わせることを命じた。王濬は帆をあげて建業に直行し、返答の使者を送って、「風向きが有利です。止まれません」と言った〈王濬伝〉。この日、王濬の兵は八万、戦艦は百里にわたり、軍鼓を鳴らして〈未詳〉石頭に入った。呉主の孫皓は面縛して棺を担ぎ、軍門に至って降服した〈王濬伝〉。王濬は縛めを解いて棺を焼き、面会しようと招いた〈孫晧伝〉。国家の文書を収容した〈王濬伝〉。州は四、郡は四十三、戸は五十二万三千、兵は二十三万であった〈孫晧伝注 晋陽秋〉
朝廷では呉が平定されたと聞き、群臣は祝賀を述べた。武帝は坏をとって涙を流し、「これは羊太傅の功績だ」と言った〈羊祜伝〉。驃騎将軍の孫秀は祝わず、南方を向いて涙を流し、「むかし討逆(孫策)が弱冠にして、いち校尉の身から創業した。いま後主が江南をあげて(国家を)棄ててしまった。宗廟や山陵は、廃墟となるだろう。はるかなる蒼天よ、かれ(孫晧)は何という人でなしか」と言った〈呉 孫匡伝注〉
呉が降服するまで、高官は軽々しく進軍すべきでないと考えていた。張華だけが必ず勝てると確信していた〈張華伝〉。賈充が上表して、「呉の全土はまだ平定できまい。夏になり長江や淮水は湿度が高く、疫病がきっと起こります。諸軍を召して撤退させ、計画を練り直すべきです。張華を腰斬にしても、天下への謝罪は足りません」と言った〈賈充伝〉。武帝は、「これ(平呉の決行)は私の考えなのだ。張華だけが同じ意見だ」と言っていた〈張華伝〉。荀勖もまた上奏し、賈充の上表の通りして下さいと言った。武帝は聴き入れなかった。杜預は賈充が撤退の上奏をしていると聞き、負けじと上表して意見を述べ、使者が轘轅に到着したときに、呉の降服を知らされた。賈充は恥じて懼れ、宮門に出頭して罪を詫びたが、武帝は慰めて不問とした〈賈充伝に依る〉

原文

夏四月、甲申、詔賜孫皓爵帰命侯。 乙西、大赦、改元。大酺五日。遣使者分詣荊・揚撫慰、呉牧・守已下皆不更易、除其苛政、悉従簡易、呉人大悦。 滕修討郭馬未克、聞晋伐呉、帥衆赴難、至巴丘、聞呉亡、縞素流涕、還、与広州刺史閭豊・蒼梧太守王毅各送印綬請降。孫皓遣陶璜之子融持手書諭璜、璜流涕数日、亦送印綬降。帝皆復其本職。 王濬之東下也、呉城戍皆望風款附、独建平太守吾彦嬰城不下、聞呉亡、乃降。帝以彦為金城太守。 初、朝廷尊寵孫秀・孫楷、欲以招来呉人。及呉亡、降秀為伏波将軍、楷為渡遼将軍。
琅邪王伷遣使送孫皓及其宗族詣洛陽。五月、丁亥朔、皓至、与其太子瑾等泥頭面縛、詣東陽門。詔遣謁者解其縛、賜衣服・車乗・田三十頃、歳給銭谷・綿絹甚厚。拝瑾為中郎、諸子為王者皆為郎中、呉之旧望、随才擢敘。孫氏将吏渡江者復十年、百姓復二十年。
庚寅、帝臨軒、大会文武有位及四方使者、国子学生皆預焉。引見帰命侯皓及呉降人、皓登殿稽顙。帝謂皓曰、「朕設此座以待卿久矣」。皓曰、「臣於南方、亦設此座以待陛下」。賈充謂皓曰、「聞君在南方鑿人目、剝人面皮、此何等刑也」。皓曰、「人臣有弑其君及奸回不忠者、則加此刑耳」。充黙然甚愧、而皓顔色無怍。
帝従容問散騎常侍薛瑩孫皓所以亡、対曰、「皓暱近小人、刑罰放濫、大臣諸将、人不自保、此其所以亡也」。它日、又問吾彦、対曰、「呉主英俊、宰輔賢明」。帝笑曰、「若是、何故亡」。彦曰、「天禄永終、歴数有属、故為陛下禽耳」。帝善之。
王濬之入建業也、其明日、王渾乃済江、以濬不待己至、先受孫皓降、意甚愧忿、将攻濬。何攀勧濬送皓与渾、由是事得解。何惲以渾与濬争功、与周浚箋曰、「《書》貴克譲、《易》大謙光。前破張悌、呉人失気、龍驤因之、陥其區宇。論其前後、我実緩師、既失機会、不及於事、而今方競其功。彼既不吞声、将虧雍穆之弘、興矜争之鄙、斯愚情之所不取也」。浚得箋、即諫止渾。渾不納、表濬違詔不受節度、誣以罪状。渾子済、尚常山公主、宗党強盛。有司奏請檻車征濬、帝弗許、但以詔書責譲濬以不従渾命、違制昧利。濬上書自理曰、「前被詔書、令臣直造秣陵、又令受太尉充節度。臣以十五日至三山、見渾軍在北岸、遣書邀臣。臣水軍風発乗勢、逕造賊城、無縁回船過渾。臣以日中至秣陵、暮乃被渾所下当受節度之符、欲令臣明十六日悉将所領還厳石頭、又索蜀兵及鎮南諸軍人名定見。臣以為皓已来降、無縁空厳石頭。又、兵人定見、不可倉猝得就、皆非当今之急、不可承用、非敢忽棄明制也。皓衆叛親離、匹夫独坐、雀鼠貪生、苟乞一活耳、而江北諸軍不知虚実、不早縛取、自為小誤。臣至便得、更見怨恚、並云、『守賊百日、而令他人得之。』臣愚以為事君之道、苟利社稷、死生以之。若其顧嫌疑以避咎責、此是人臣不忠之利、実非明主社稷之福也」。
渾又騰周浚書云、「濬軍得呉宝物」。又云「濬牙門将李高放火焼皓偽宮」。濬復表曰、「臣孤根独立、結恨強宗。夫犯上干主、其罪可救。乖忤貴臣、禍在不測。偽郎将孔攄説、去二月武昌失守、水軍行至、皓案行石頭還、左右人皆跳刀大呼云、『要当為陛下一死戦決之。』皓意大喜、意必能然、便尽出金宝以賜与之。小人無状、得便持走。皓懼、乃図降首。降使適去、左右劫奪財物、略取妻妾、放火焼宮。皓逃身竄首、恐不脱死。臣至、遣參軍主者救断其火耳。周浚先入皓宮、渾又先登皓舟、臣之入観、皆在其後。皓宮之中、乃無席可坐、若有遺宝、則浚与渾先得之矣。等雲臣屯聚蜀人、不時送皓、欲有反状。又恐動呉人、言臣皆当誅殺、取其妻子、冀其作乱、得騁私忿。謀反大逆、尚以見加、其餘謗□沓、故其宜耳。今年平呉、誠為大慶。於臣之身、更受咎累」。 濬至京師、有司奏濬違詔、大不敬、請付廷尉科罪。詔不許。又奏濬赦後焼賊船百三十五艘、輒敕付廷尉禁推。詔勿推。 渾・濬争功不已、帝命守廷尉広陵劉頌校其事、以渾為上功、濬為中功。帝以頌折法失理、左遷京兆太守。
庚辰、増賈充邑八千戸、以王濬為輔国大将軍、封襄陽縣侯。杜預為当陽縣侯。王戎為安豊縣侯。封琅邪王伷二子為亭侯。増京陵侯王渾邑八千戸、進爵為公。尚書関内侯張華進封広武縣侯、増邑萬戸。荀勖以専典詔命功、封一子為亭侯。其餘諸将及公卿以下、賞賜各有差。帝以平呉、策告羊祜廟、乃封其夫人夏侯氏為萬歳郷君、食邑五千戸。
王濬自以功大、而為渾父子及党与所挫抑、毎進見、陳其攻伐之労及見枉之状、或不勝忿憤、逕出不辞。帝毎容恕之。益州護軍范通謂濬曰、「卿功則美矣、然恨所以居美者未尽善也。卿旋旃之日、角巾私第、口不言平呉之事、若有問者、輒曰、『聖人之徳、群帥之力、老夫何力之有。』此藺生所以屈廉頗也、王渾能無愧乎」。濬曰、「吾始懲鄧艾之事、懼禍及身、不得無言。其終不能遣諸胸中、是吾褊也」。時人鹹以濬功重報軽、為之憤邑。博士秦秀等並上表訟濬之屈、帝乃遷濬鎮軍大将軍。王渾嘗詣濬、濬厳設備衛、然後見之。

訓読

夏四月甲申、詔して孫皓に爵帰命侯を賜ふ。 乙西、大赦し、改元す。大酺すること五日。使者を遣はして分かれて荊・揚に詣りて撫慰し、呉の牧・守已下 皆 更めて易へず、其の苛政を除き、悉く簡易に従ひ、呉人 大いに悦ぶ。 滕修 郭馬を討ちて未だ克たず、晋の伐呉を聞き、帥衆 難に赴き、巴丘に至り、呉の亡ぶを聞き、縞素して流涕し、還り、広州刺史の閭豊・蒼梧太守の王毅と与に各々印綬を送りて降を請ふ。孫皓 陶璜の子たる融を遣はして手書を持して璜を諭し、璜 流涕すること数日、亦た印綬を送りて降る。帝 皆 其の本職を復す。 王濬の東下するや、呉の城戍 皆 風に望みて款附し、独り建平太守の吾彦のみ城を嬰りて下らず、呉の亡ぶを聞き、乃ち降る。帝 彦を以て金城太守と為す。 初め、朝廷 孫秀・孫楷を尊寵し、以て呉人を招来せんと欲す。呉 亡ぶに及び、秀を降して伏波将軍と為し、楷を渡遼将軍と為す。
琅邪王伷 使を遣はして孫皓及び其の宗族を送りて洛陽に詣らしむ。五月丁亥朔、皓 至り、其の太子瑾らと与に泥頭面縛し、東陽門に詣る。詔して謁者を遣はして其の縛を解かしめ、衣服・車乗・田三十頃を賜ひ、歳給の銭穀・綿絹 甚だ厚し。瑾を拝して中郎と為し、諸子の王者為りしは皆 郎中と為し、呉の旧望は、才に随ひて擢敘す。孫氏の将吏 江を渡る者は十年を復し、百姓は二十年を復す。
庚寅、帝 軒に臨み、大いに文武の位有るもの及び四方の使者、国子学生に会して皆 焉に預す。帰命侯皓及び呉の降人に引見し、皓 殿を登りて稽顙す。帝 皓に謂ひて曰く、「朕 此の座を設けて以て卿を待つこと久し」と。皓曰く、「臣 南方に於いて、亦た此の座を設けて以て陛下を待す」と。賈充 皓に謂ひて曰く、「聞くに君 南方に在りて人の目を鑿き、人面の皮を剝くと、此れ何等の刑なるや」と。皓曰く、「人臣の其の君を弑する及び奸回にして不忠なる者有らば、則ち此の刑を加ふるのみ」と。充 黙然として甚だ愧ぢ、而して皓の顔色 怍無し。
帝 従容として散騎常侍の薛瑩に孫皓の亡びたる所以を問ふに、対へて曰く、「皓 小人を暱近し、刑罰 放濫たり、大臣諸将、人は自ら保たず、此れ其の亡ぶ所以なり」と。它日、又 吾彦に問ふに、対へて曰く、「呉主は英俊にして、宰輔は賢明なり」と。帝 笑ひて曰く、「是の若くんば、何故 亡ぶ」と。彦曰く、「天禄 永く終はり、歴数 属する有り、故に陛下の為に禽はるるのみ」と。帝 之を善しとす。
王濬の建業に入るや、其の明日、王渾 乃ち江を済り、濬の己を待たずして至り、先に孫皓の降を受くるを以て、意 甚だ愧忿し、将に濬を攻めんとす。何攀 濬に皓を送りて渾に与ふることを勧め、是に由り事 解を得たり。何惲 渾の濬と功を争ふことを以て、周浚に箋を与へて曰く、「《書》は克譲を貴び、《易》は謙光を大とす。前に張悌を破り、呉人 気を失ひ、龍驤 之に因り、其の區宇を陥す。其の前後を論ずるに、我 実に師を緩し、既に機会を失ひ、事に及ばず、今 方に其の功を競ふ。彼 既に声を吞まず、将に雍穆の弘を虧き、矜争の鄙を興こさんとす、斯れ愚情の取らざる所なり」と。浚 箋を得て、即ち渾に諫止す。渾 納れず、濬を表して詔に違ひて節度を受けず、誣するに罪状を以てす。渾の子たる済、常山公主に尚(しよう)し、宗党 強盛なり。有司 奏して檻車もて濬を徴すことを請へども、帝 許さず、但だ詔書を以て濬を責譲するに渾の命に従はず、制に違ひて利を昧くするを以てす。濬 上書して自ら理して曰く、「前に詔書を被り、臣をして直ちに秣陵に造らしめ、又 太尉の充の節度を受けしむ。臣 十五日を以て三山に至り、渾の軍 北岸に在るを見、書を遣はして臣を邀へしむ。臣の水軍 風 発して勢に乗じ、逕ちに賊城に造りて、船を回して渾を過ぐるに縁ること無し。臣 日中を以て秣陵に至り、暮に乃ち渾の下す所 当に節度を受くるべきの符を被り、欲令臣をして明十六日 悉く所領を将ゐて還りて石頭を囲ましめ、又 蜀兵及び鎮南諸軍の人名を定見するを索む。臣 以為へらく皓 已に来降し、空しく石頭を囲むに縁る(従うこと)こと無し。又、兵人 定見し、倉猝に就くを得る可からず、皆 当今の急に非ざれば、承用す可からず、敢へて明制を忽棄するに非ざるなり。皓の衆 叛して親ら離れ、匹夫 独坐し、雀鼠 生を貪り、苟くも一活を乞ふのみ、而るに江北の諸軍 虚実を知らず、早く縛取せざれば、自ら小誤と為らん。臣 便ち得るに至り、更めて怨恚せられ、並びに云く、『賊を守ること百日、而るに他人をして之を得しむ』と。臣 愚かにも以為へらく君に事へるの道、苟しくも社稷を利り、死生 之を以てす。若し其の嫌疑を顧みて以て咎責を避くれば、此に是れ人臣の不忠の利にして、実に明主社稷の福に非ざるなり」と。
渾 又 周浚の書を騰げて云はく、「濬軍の呉の宝物を得たり」と。又 云はく、「濬の牙門将たる李高 火を放ちて皓の偽宮を焼く」と。濬 復た表して曰く、「臣 孤根独立するも、恨を強宗に結ぶ。夫れ上を犯し主を干すは、其の罪 救ふ可し。貴臣に乖忤するは、禍 測らざるに在り。偽中郎将の孔攄 説くらく、去る二月 武昌 守を失ひ、水軍 行至し、皓 石頭を案行して還り、左右の人 皆 刀を跳して大呼して云はく、『要に当に陛下の為に一たび死戦して之を決すべし』と。皓の意 大いに喜び、必ず能く然ると意ひ、便ち尽く金宝を出して以て之に賜与す。小人 状無く、得て便ち持ち走る。皓 懼れ、乃ち降首せんと図る。降使 適に去るに、左右 財物を劫奪し、妻妾を略取し、焼宮に放火す。皓 身を逃れて首を竄み、死を脱せざるを恐る。臣 至るに、參軍主者を遣はし其の火を救断するのみ。周浚 先に皓の宮に入り、渾 又 先に皓の舟に登り、臣の入観するは、皆 其の後に在り。皓が宮の中、乃ち席の坐する可き無く、若し遺宝有らば、則ち浚 渾と与に先に之を得ん。浚等 云ふらくは臣 蜀人を屯聚し、皓を送ること時ならず、反状有らんと欲すと。又 呉人を恐動し、言ふらくは臣 皆 当に誅殺すべし、其の妻子を取り、其の作乱を冀ひ、私忿を騁することを得ると。謀反大逆、尚ほ以て加へられ、其の餘の謗[□沓]、故に其の宜なるのみ。今年 呉を平らげ、誠に大慶為り。臣の身に於いて、更めて咎累を受けん」と。 濬 京師に至り、有司 濬を奏して詔に違ひ、大いに不敬なれば、廷尉に付して罪を科するを請ふ。詔して許さず。又 濬を奏して赦するの後 賊船百三十五艘を焼きて、輒ち敕して廷尉に付して推を禁ぜよとと。詔して推すること勿し。 渾・濬 功を争ひて已まず、帝 守廷尉たる広陵の劉頌に命じて其の事を校せしめ、渾を以て上功と為し、濬を中功と為す。帝 頌の法を折し理を失ふを以て、京兆太守に左遷す。
庚辰、賈充の邑八千戸を増し、王濬を以て輔国大将軍と為し、襄陽縣侯に封ず。杜預を当陽縣侯と為す。王戎を安豊縣侯と為す。琅邪王伷の二子を封じて亭侯と為す。京陵侯の王渾に邑八千戸を増し、爵を進めて公と為す。尚書たる関内侯の張華 進みて広武縣侯に封じ、邑萬戸を増す。荀勖 専ら詔命を典るの功を以て、一子を封じて亭侯と為す。其の餘 諸将及び公卿以下、賞賜 各々差有り。帝 呉を平らぐを以て、策して羊祜の廟に告げ、乃ち其の夫人の夏侯氏を封じて萬歳郷君に封じ、食邑は五千戸なり。
王濬 自ら功の大なるを以て、而れども渾の父子及び党与の為に挫抑せられ、進見する毎に、其の攻伐の労及び見枉の状を陳べ、或いは忿憤に勝へず、逕ちに出でて辞せず。帝 毎に之を容恕す。益州護軍の范通 濬に謂ひて曰く、「卿の功 則ち美なり、然るに恨むことは美に居りて未だ善を尽さざる所以なり。卿 旋旃の日、角巾にて私第し、口に平呉の事を言はず、若し問ふ者有らば、輒ち、『聖人の徳、群帥の力、老夫 何の力 之れ有らん』と曰へ。此れ藺生の廉頗に屈する所以なり、王渾 能く愧づること無きか」と。濬曰く、「吾 始めて鄧艾の事に懲り、禍 身に及ぶを懼れ、言ふこと無きを得たり。其れ終に諸々胸中のを遣ること能はず、是れ吾が褊なり」と。時人 咸 濬の功は重く報は軽きを以て、之の為に憤邑す。博士の秦秀ら並びに上表して濬の屈を訟へ、帝 乃ち濬を鎮軍大将軍に遷す。王渾 嘗て濬に詣り、濬 厳かに備衛を設け、然る後に之に見ゆ。

現代語訳

夏四月甲申、詔して孫皓に帰命侯の爵位を賜った。乙西、大赦して、改元した。五日間の酒盛りをした。使者を送って荊州と揚州を慰問して懐け、呉の州牧や太守より以下を留任とし、その苛政を除き、すべて簡素とした〈武帝紀に依る〉。呉のひとは大いに悦んだ。
滕脩は郭馬を討伐したがまだ勝っておらず、晋が呉を討伐したと聞き、軍を苦戦しそうな場所に移した。巴丘に到着すると、呉が滅亡したと聞き、喪服をつけて涙を流し、撤退した。広州刺史の閭豊と蒼梧太守の王毅とともに印綬を送って降服を願い出た〈滕脩伝〉
孫皓は(人質としていた)陶璜の子である陶融を派遣して直筆の文書で陶璜を説得した。陶璜は数日泣いて、また印綬を送って(晋に)降った。武帝はかれらを現状の官職に復帰させた〈陶璜伝〉
王濬が東に下ると、呉の城や拠点は風に靡くように帰服したが、建平太守の吾彦だけが城を守って降服しなかった。呉の滅亡を聞き、降服をした。武帝は、吾彦を金城太守とした〈吾彦伝〉。これよりさき朝廷では孫秀と孫楷を厚遇し、呉人を招き寄せようとした〈未詳〉。呉が滅ぶと、孫秀を伏波将軍に降格し〈呉 宗室伝注 干宝晋紀〉、孫楷を渡遼将軍とした〈呉宗室伝注 晋諸公賛〉
琅邪王の司馬伷は使者を送って孫晧とかれの宗族を洛陽に届けた。五月丁亥朔、孫晧が到着し、かれの太子である孫瑾らとともに顔に泥を塗って自縛し、東陽門にいたった。詔して謁者に縄をほどかせ〈未詳〉、衣服・車乗・田三十頃を賜わり、生活のための銭穀や綿絹をたっぷり支給した。孫瑾を中郎に拝し、諸子で王だったものは郎中とし〈孫晧伝〉、呉で声望のあったものは、才能にしたがい任用した。孫氏の将吏で長江を渡ったものは十年の税を免除し、百姓は二十年間を免除とした〈武帝紀〉
庚寅、武帝は軒先に立って〈武帝紀〉、大いに文武の官僚や四方からの使者、国子学生と謁見をして、みながこの場を楽しんだ。帰命侯の孫皓および呉の降伏者と引見し、孫晧は宮殿に登って額をこすり付けた。武帝は孫晧に、「朕はこの座席を設けて、きみを長く待っていた」と言った。孫晧は、「私も南方で、座席を設けて陛下を待っていたのですが」と言った。賈充は孫晧に、「あなたは南方で人の目をくりぬき、顔の皮を剥いでいたそうだな。何に対する刑罰であったのか」と質問した。孫晧は、「人臣のうち君主を弑殺したものや、奸悪であり不忠なものがいたら、この刑を加えただけです」と(賈充にあてこすって)言った。賈充は黙然として恥じたが、孫晧は気後れがなかった〈未詳〉
武帝は落ち着いて散騎常侍の薛瑩に孫皓の滅びた理由を質問した。答えて、「孫晧はつまらぬ人材を近づけ、刑罰がでたらめで、大臣や諸将は、生き延びることができず、これが滅亡の原因となりました」と答えた〈呉 薛綜 附薛瑩伝注 干宝晋紀〉。べつの日、吾彦にも同じ質問をすると、「呉主は英俊であり、宰相は賢明でした」と答えた。武帝は笑って、「それならば、なぜ滅んだのか」と聞き返した。吾彦は、「天命が尽きて、暦数が晋に帰属したのです。だから陛下に捕らえられたのです」と言った。武帝はこれを善しとした〈吾彦伝に依る〉
王濬が建業に入り、その翌日、王渾が長江を渡った。王濬が王渾を待たずに到着し、さきに孫晧の降服を受け入れてしまったので、恥じて怒り、王濬を攻撃しようとした。何攀が王濬に、孫晧の身柄を王渾に引き渡すことを勧め、おかげで緊張が緩和した〈何攀伝〉
何惲は王渾と王濬が功績を競っているので、周浚に書簡を送り、「『尚書』は辞譲を尊いとし、『易経』は謙遜が大切だと述べています。さきに(王渾が)張悌を撃破し、呉人の士気を挫いたので、龍驤(王濬)はその勢いにのり、領土を攻略できたのです。その前後を論じても、わが軍の規律をゆるめ、好機を逃すでしょう。成功する前から、功績を競っており、かれは発言を慎まず、調和を欠いており、下らない競争を始めています。これはまことに頂けません」と言った。周浚は書簡を受け取り、王渾を諫止した。王渾は聴き入れず〈周浚伝〉、上表して王渾には詔に逆らって節度を受けなかったと、無実の罪をでっちあげた〈王濬伝〉。 王渾の子である王済は、常山公主を妻としており〈王渾 附王済伝〉、一族は勢いが盛んであった〈通鑑による補足〉。担当官は上奏して檻車で王濬を護送することを求めたが、武帝は許さなかった。ただ詔書により、王濬が王渾の命令に従わず、統制を乱して手柄を求めたことだけを責めた。王濬は上奏し、自らを弁解して、「さきに詔書を受け、私にはまっすぐ秣陵に向かい、太尉の賈充の節度を受けよと命ぜられました。ですから私は十五日に三山に至りました。王渾の軍が北岸にいるのを見て、文書を送って待ち受けさせました。水軍を発して勢いに乗り、ただちに賊の城を目指しており、途中で船を止めることができず、王渾より先に進んでしまいました。私はその日のうちに秣陵に至りましたが、同じ日の夕方に、王渾の指揮のもとに入れという命令を受けました。(王渾の指示で)翌日の十六日、すべての兵を退いて石頭を包囲し、さらに蜀兵と鎮南(杜預)が率いていた兵の名前と数を報告せよと命じられました。(ところが)私はすでに孫晧が降服しており、(戦術的に)無意味な石頭城の包囲をしませんでした。さらに兵の名前と数の確認は、すぐに出来ることではなく、事態は急を要するので、王渾の指示を聞けませんでした。わざと命令に違反したのではありません。呉兵は離叛して解体し、匹夫(孫晧)がひとりだけで、雀や鼠のように生をむさぼり、助命を嘆願していました。しかし長江の北の諸軍は実態を把握しておりませんでした。早く(孫晧を)捕らえてしまわねば、手違いが起こりそうでした。かくして孫晧を捕らえたのですが、怨みと怒りを買いましたが、(王渾の指示に従っていれば)賊を(余計に)百日存続させ、他人に手柄を与える、というような状況でした。私が思いますに、君主に仕える道は、社稷の役に立つことを優先し、これに命を賭けるものです。もし嫌疑によって譴責を受けるならば、不忠な臣に味方することになり、名君が社稷を守ることの妨げとなります」と言った〈王濬伝〉
王渾はまた周書の書簡を持ち上げ、「王濬の軍は、呉の宝物を奪ったのだ」と言った。さらに、「王濬の牙門将である李高は放火して、孫晧の宮殿を焼いた」と言った。王濬は上表して、「私は家柄が孤立しており、権門から怨みを買いました。君主に楯突いたならば、罪から助かる場合があります。しかし権勢の家に逆らったら、禍いは予測ができません。呉の中郎将の孔攄によると、さる二月に武昌の守りを失うと、水軍が到着し、孫晧は石頭城をめぐって帰り、側近たちは刀を振るって、『陛下のために死ぬ気になって決戦をしよう』と言ったそうです。孫晧はとても喜び、きっとできると思い、金銀や宝を放出して賜与したそうです。つまらぬ兵たちは節操がなく、持ち逃げをしました。孫晧は懼れて、晋に降服しようと考えました。降服の使者を送りましたが、左右のものが財物を奪い、妻妾を奪いとり、宮殿に放火しました。孫晧が死にたくない一心で、逃亡する恐れがありました。私は到着してから、参軍の官に消火活動をさせただけです。周浚がさきに孫晧の宮殿に入り、王渾もまたさきに孫晧の船に乗りました。私が宮殿に入ったのは、それらの後です。孫晧の宮殿のなかは、座れるところがなく、もし残留した宝があったのなら、周浚と王渾が先に手に入れてしまったのでしょう。周浚らは、私が蜀の兵を囲いこみ、孫晧の引き渡しが遅れ、反乱の意思があったとのことです。また呉人を扇動することを恐れ、私たちを誅殺し、妻子を人質にとり、乱を起こそうと願い、野心を発揮しようと言っております。謀反や大逆は、でっちあげですし、それ以外のことは、憎しみから発したものです。今年は呉を平定し、めでたいはずです。私は甘んじて追及を受けるつもりです」と言った。王濬は京師に至り、担当官は王濬が詔に違反したと上奏し、大いに不敬であるから、廷尉に引き渡して処罰せよと述べた。詔して許さなかった。さらに(王渾の派閥が)王濬が赦されたのち、王濬は呉船の百三十五艘を焼いたから、廷尉に引き渡しなさいと上奏した。詔して追及を禁じた〈王濬伝〉。王渾と王濬は功績を奪いあって収まらず、武帝は守廷尉である広陵の劉頌に命じて査定をさせ、王渾を上功とし、王濬を中功とした。武帝は劉頌が法を曲げて道理を失ったとして、京兆太守に左遷した〈劉頌伝に依る〉
庚辰、賈充の食邑を八千戸増やし〈賈充伝〉、王濬を輔国大将軍とし、襄陽県侯に封建した〈王濬伝〉。杜預を当陽県侯とした〈杜預伝〉。王戎を安豊県侯とした〈王戎伝〉。琅邪王の司馬伷の二子を亭侯に封建した〈宣五王 司馬伷伝〉。京陵侯の王渾の食邑を八千戸増やし、爵位を公に進めた〈王渾伝〉。尚書である関内侯の張華を広武県侯に進めて封建し、食邑を一万戸増やした〈張華伝〉。荀勖はもっぱら詔命を掌ってきた功績により、一子を亭侯に封建した〈荀勖伝〉。それ以外の諸将および公卿以下は、賞賜がそれぞれ差等があった〈武帝紀〉。武帝は呉を平定したので、羊祜の廟に報告し、その夫人の夏侯氏を万歳郷君に封建し、食邑は五千戸とした〈羊祜伝〉
王濬は功績が大きいにも拘わらず、王渾の父子およびその党与に抑圧されたので、謁見のたびに、労苦を述べて誤解を解こうとし、憤激を堪えきれず、主張を押し通そうとした。武帝はいつも容認してやった。益州護軍の范通は王濬に、「あなたの功績は立派だが、怨むことで立派さを損ねている。あなたは幔幕を下ろし、角巾をかぶって自宅におり、呉の平定について口にせず、もし質問されても、『聖人(武帝)の徳、郡将たちの力であり、老夫(私)の力ではありません』と言いなさい。これこそ藺相如が廉頗を屈服させた方法であり、王渾は恥じずにはいられません」と言った。王濬は、「私は鄧艾(の冤罪)のことがあったから、禍いが自分に及ぶことを恐れ、口に出さずにおれなかった。他人の考えを推し量ることができず、見通しが狭かった」と言った。当時のひとは王濬の功績が思いが褒賞が軽いため、このことに憤慨していた。博士の秦秀らは上表して王濬への扱いの不当さを訴えたので、武帝は王濬を鎮軍大将軍に遷した。王渾はかつて王濬を訪問したが、王濬は厳重な警護を整えてから、その後に面会した〈王濬伝〉

原文

杜預還襄陽、以為天下雖安、忘戦必危、乃勤於講武、申厳戍守。又引滍・淯水以浸田萬餘頃、開揚口通零・桂之漕、公私頼之。預身不跨馬、射不穿札、而用兵制勝、諸将莫及。預在鎮、数餉遺洛中貴要。或問其故、預曰、「吾但恐為害、不求益也」。
王渾遷征東大将軍、復鎮寿陽。 諸葛靚逃竄不出。帝与靚有旧、靚姊為琅邪王妃、帝知靚在姊間、因就見焉。靚逃於廁、帝又逼見之、謂曰、「不謂今日復得相見」。靚流涕曰、「臣不能漆身皮面、復睹聖顔、誠為慚恨」。詔以為侍中。固辞不拝、帰於郷里、終身不向朝廷而坐。
六月、復封丹水侯睦為高陽王。 秋八月、己未、封皇弟延祚為楽平王、尋薨。 九月、庚寅、賈充等以天下一統、屢請封禅。帝不許。 冬十月、前将軍青州刺史淮南胡威卒。威為尚書、嘗諫時政之寛。帝曰、「尚書郎以下、吾無所假借」。威曰、「臣之所陳、豈在丞・郎・令史、正謂如臣等輩、始可以粛化明法耳」。 是歳、以司隸所統郡置司州、凡州十九、郡国一百七十三、戸二百四十五萬九千八百四十。
詔曰、「昔自漢末、四海分崩、刺史内親民事、外領兵馬。今天下為一、当韜戢干戈、刺史分職、皆如漢氏故事。悉去州郡兵、大郡置武吏百人、小郡五十人」。交州牧陶璜上言、「交・広州西数千里、不賓属者六萬餘戸、至於服従官役、才五千餘家。二州脣歯、唯兵是鎮。又、寧州諸夷、接拠上流、水陸並通、州兵未宜約損、以示単虚」。僕射山濤亦言「不宜去州郡武備」。帝不聴。及永寧以後、盗賊群起、州郡無備、不能禽制、天下遂大乱、如濤所言。然其後刺史復兼兵民之政、州鎮愈重矣。
漢・魏以来、羌・胡・鮮卑降者、多処之塞内諸郡。其後数因忿恨、殺害長吏、漸為民患。侍御史西河郭欽上疏曰、「戎狄強獷、歴古為患。魏初民少、西北諸郡、皆為戎居、内及京兆・魏郡・弘農、往往有之。今雖服従、若百年之後有風塵之警、胡騎自平陽・上党不三日而至孟津、北地・西河・太原・馮翊・安定・上郡尽為狄庭矣。宜及平呉之威、謀臣猛将之略、漸徙内郡雑胡於辺地、峻四夷出入之防、明先王荒服之制、此萬世之長策也」。帝不聴。

訓読

杜預 襄陽に還り、以為へらく天下 安かると雖も、戦を忘れれば必ず危し、乃ち講武に勤め、厳を申して戍守す。又 滍・淯水を引きて以て田萬餘頃に浸し、揚口を開きて零・桂の漕に通じ、公私 之に頼る。預 身ら馬に跨らず、射るとも札を穿たず、而れども用兵制勝、諸将 及ぶもの莫し。預 鎮に在り、数々洛中の貴要に餉遺す。或ひと其の故を問ふに、預曰く、「吾 但た害と為るを恐る、益を求めざるなり」と。
王渾 征東大将軍に遷り、復た寿陽に鎮す。 諸葛靚 逃竄して出でず。帝 靚と旧有り、靚の姊を琅邪王妃と為り、帝 靚 姊の間に在るを知り、因りて就ち焉に見ゆ。靚 廁に逃げ、帝 又 逼りて之と見え、謂ひて曰く、「今日 復た相 見るを得ると謂はず」と。靚 流涕して曰く、「臣 身を漆し面を皮する能はず、復た聖顔を覩るは、誠に慚恨為り」と。詔して以て侍中と為す。固辞して拝さず、郷里に帰り、終身 朝廷に向ひて坐らず。
六月、復た丹水侯睦を封じて高陽王と為す。 秋八月己未、皇弟延祚を封じて楽平王と為し、尋いで薨ず。 九月庚寅、賈充ら天下の一統を以て、屢々封禅を請ふ。帝 許さず。 冬十月、前将軍・青州刺史たる淮南の胡威 卒す。威 尚書と為り、嘗て時政の寛を諫む。帝曰く、「尚書郎以下、吾 假借する所無し」と。威曰く、「臣の陳ぶる所、豈に丞・郎・令史のみに在らんや、正に臣らが如き輩を謂ふ、始めて粛化を以て法を明らかに可きなるのみ」と。 是の歳、司隸の統ぶる所の郡を以て司州を置き、凡そ州は十九、郡国は一百七十三、戸は二百四十五萬九千八百四十なり。
詔して曰く、「昔 漢末より、四海 分崩し、刺史 内に民事に親しみ、外に兵馬を領す。今 天下 一と為り、当に干戈を韜戢し、刺史 職を分け、皆 漢氏の故事の如くすべし。悉く州郡の兵を去り、大郡に武吏百人、小郡に五十人を置け」と。交州牧の陶璜 上言すらく、「交・広州 西のかた数千里、賓属せざる者 六萬餘戸なり、官役に服従するに至るは、才(わづ)かに五千餘家なり。二州 脣歯なり、唯だ兵のみ是れ鎮せ。又、寧州の諸夷、上流に接拠し、水陸 並せて通じ、州兵 未だ宜しく約損すべらず、以て単虚を示せ」と。僕射の山濤 亦た言はく、「宜しく州郡の武備を去るべからず」と。帝 聴さず。永寧以後に及び、盗賊 群起し、州郡 備へ無く、禽制する能はず、天下 遂に大乱す、濤の言ふ所が如し。然れども其の後 刺史 復た兵民の政を兼ね、州鎮 愈々重し。
漢・魏以来、羌・胡・鮮卑の降る者は、多く之を塞内の諸郡に処らしむ。其の後 数々忿恨に因り、長吏を殺害し、漸く民の患と為る。侍御史たる西河の郭欽 上疏して曰く、「戎狄 強獷にして、歴古 患と為る。魏初 民は少なく、西北の諸郡、皆 戎の居と為り、内に京兆・魏郡・弘農に及び、往往にして之有り。今 服従すると雖も、若し百年の後 風塵の警有らば、胡騎 平陽・上党より三日とせずして孟津に至り、北地・西河・太原・馮翊・安定・上郡 尽く狄庭と為らん。宜しく平呉の威を及ぼし、謀臣猛将の略、漸く内郡の雑胡を辺地に徙し、四夷を峻して出入の防とし、先王の荒服の制を明らかにすべし、此れ萬世の長策なり」と。帝 聴さず。

現代語訳

杜預は襄陽に帰還すると、「天下は安泰となったが、戦いを忘れれば必ず危険になる、軍事訓練を辞めず、引き締めて防衛に当たらせよ。さらに滍水や淯水から引いて耕地の一万頃あまりを潤し、揚口を開いて零陵や桂陽との水運を開通させれば、公私ともに利用できます」と言った。杜預は自分では馬に乗らず、射術も下手であったが、兵を用いて勝ちを制することについて、諸将は敵うものがいなかった。杜預は鎮所におり、しばしば洛陽の高官に贈り物をした。あるひとが理由を聞けば、「私は危害を加えられるのが恐いだけで、利益を得ようとは思っていないよ」と答えた〈杜預伝〉
王渾が征東大将軍に遷って、寿陽に出鎮した〈王渾伝〉。諸葛靚は逃げ隠れて出仕しなかった。武帝は諸葛靚と旧知であり、諸葛靚の姉は琅邪王(司馬伷)の妃であった。武帝は諸葛靚が姉に匿われていると知り、諸葛靚に面会した。諸葛靚は厠所に逃げたが、武帝はむりに会い、「今日また会えたとは言えないな」と言った。諸葛靚は涙を流し、「私は(豫譲のように)体に漆を塗り、(聶政のように)顔の皮をめくれなかった。ふたたび聖顔を見るのは、恥じて怨むばかりです〈本伝は恥じて怨むという文はない〉」と言った。詔して侍中とした。固辞して拝さず、郷里に帰って、死ぬまで朝廷の方角を向いて座らなかった〈諸葛恢伝〉
六月、丹水侯の司馬睦を高陽王に封建した〈武帝紀〉
秋八月己未、皇弟の司馬延祚を楽平王に封建し、ほどなく薨じた〈武帝紀〉
九月庚寅、賈充らは天下が統一されたので、封禅を勧めた。武帝は認めなかった〈武帝紀〉。冬十月、前将軍・青州刺史である淮南の胡威が卒した。胡威は尚書となり、かつて寛治の行き過ぎを諫めた。武帝は、「尚書郎以下に対して、大目に見てやったことはないぞ」と言った。胡威は「私が述べたのは、どうして尚書丞・尚書郎・尚書令史のことでございましょうか。まさに私たちのような(尚書という高位にある)ものに適用することで、教化を整えて法を明らかにできるのです」と言った〈良吏 胡威伝〉
この年、司隸校尉が管轄する郡に司州を置き、全部で州は十九、郡国は一百七十三、戸は二百四十五万九千八百四十となった〈地理志〉
詔して曰く、「むかし漢末から、四海は分裂して崩れ、刺史は内では民事を直接おこない、外では軍事を掌握した。いま天下は統一され、武装を解除し、刺史の職分を分割し、すべて漢代のように戻すように。州郡の兵を廃止し、大郡には武吏を百人、小郡には五十人を置くように」と言った〈未詳〉
交州牧の陶璜は上言し、「交州と広州は東西が数千里におよび、服属しないものが六万戸あまりいます。徭役を負担しているのは、わずかに五千家あまり。二州は隣接しており、守兵を置くべきです。さらに寧州の蛮族たちは、上流にあって、水陸から連絡をとっています。州兵を削減し、弱みを見せてはいけません」と言った〈陶璜伝〉。僕射の山濤もまた、「州郡の軍備を除いてはいけません」と言った。武帝は聴き入れなかった。永寧年間より以後に、盗賊が群れをなして起こり、州郡に軍備がないから、鎮圧することができず、天下は大いに乱れたが、山濤の言うとおりであった〈山濤伝〉。しかし後に刺史はふたたび軍事と民政を合わせ、州の規制力はますます重くなった〈未詳〉
漢魏より以来、羌胡や鮮卑の降服したものは、多くを長城の内側の諸郡に居住させた。その後に怨みが溜まり、長吏を殺害し、民の脅威となり始めた。侍御史である西河の郭欽は上疏し、「戎狄は獰猛であり、古来より脅威となりました。魏初に漢族の人口が少なく、西北の諸郡は、いずれも戎狄の住居となり、内地の京兆・魏郡・弘農ですら、同じような状況でした。いま服従しても、もし百年の後(武帝の死後)に兵乱により騒がしくなれば、胡族の騎兵が平陽や上党から三日とかからずに孟津に到達し、北地・西河・太原・馮翊・安定・上郡はすべて戎狄の領土となるでしょう。呉を平定した兵威を差し向け、謀臣や猛将のもつ軍略により、内郡に住んでいる雑胡を辺地に強制退去させ、国境を画定させて出入りを制限し、先王による荒服の制を明らかにして下さい。これこそ万世の良策であります」と言った。武帝は聴き入れなかった〈匈奴伝〉

太康二(二八一)年

原文

世祖武皇帝中太康二年(辛丑、公元二八一年) 春三月、詔選孫皓宮人五千人入宮。帝既平呉、頗事游宴、怠於政事、掖庭殆将萬人。常乗羊車、恣其所之、至便宴寝。宮人競以竹葉插戸、鹽汁灑地、以引帝車。而後父楊駿及弟珧・済始用事、交通請謁、勢傾内外、時人謂之三楊、旧臣多被疏退。山濤数有規諷、帝雖知而不能改。
初、鮮卑莫護跋始自塞外入居遼西棘城之北、号曰慕容部。莫護跋生木延、木延生渉帰、遷於遼東之北。世附中国、数従征討有功、拝大単于。冬十月、渉帰始寇昌黎。 十一月、壬寅、高平武公陳騫薨。 是歳、揚州刺史周浚移鎮秣陵。呉民之未服者、屢為寇乱、浚皆討平之。賓礼故老、搜求俊乂、威恵並行、呉人悦服。

訓読

春三月、詔して孫皓の宮人五千人を選びて宮に入れしむ。帝 既に呉を平らげ、頗る游宴に事し、政事を怠く、掖庭 殆ど将に萬人なり。常に羊車に乗り、其の之く所を恣にし」、至りて便ち宴寝す。宮人 競ひて竹葉を以て戸に插し、鹽汁もて地に灑し、以て帝の車を引く。而るに后の父たる楊駿及び弟の珧・済 始めて用事し、交通して謁を請ひ、勢 内外を傾け、時人 之を三楊と謂ひ、旧臣 多く疏退せらる。山濤 数々規諷有り、帝 知ると雖も改むること能はず。
初め、鮮卑の莫護跋 始めて塞外より入りて遼西棘城の北に居し、号して慕容部と曰ふ。莫護跋 木延を生み、木延 渉帰を生み、遼東の北に遷る。世々中国に附し、数々征討に従ひて功有り、大単于を拝す。冬十月、渉帰 始めて昌黎に寇す。
十一月壬寅、高平武公の陳騫 薨ず。 是の歳、揚州刺史の周浚 鎮を秣陵に移す。呉民の未だ服せざる者、屢々寇乱を為し、浚 皆 討ちて之を平らぐ。故老を賓礼し、俊乂を搜求し、威恵 並びに行はれ、呉人 悦服す。

現代語訳

春三月、詔して孫皓の宮人五千人を選んで(晋の)後宮に入れさせた〈武帝紀〉。武帝は呉を平定し終えると、遊興と酒宴にふけり、政事を顧みなかった。後宮の女は一万人に近く、いつも羊車に乗り、気ままに行く先を決め、そこで一晩を過ごした。宮人は競って竹葉を戸に差し、塩水で地を塗らし、武帝の車を招いた〈后妃 胡貴嬪伝〉。皇后の父である楊駿及び弟の楊珧と楊済が政事を見るようになり、謁見の口利きをし、権勢は内外を傾け、当時のひとは、かれらを三楊とよび〈楊駿伝〉、旧臣は多くが退けられた〈未詳〉。山濤はしばしば諫めたが、武帝は改める気配がなかった〈山濤伝〉
これよりさき鮮卑の莫護跋が初めて塞外から入って遼西棘城の北に住みつき、慕容部といった。莫護跋は木延を生み、木延は渉帰を生み、遼東の北に移住した。代々中国に服属し、しばしば征討に従って功績があり、大単于を拝した〈前燕録 慕容廆伝〉。冬十月、渉帰が初めて昌黎を侵略した〈武帝紀〉
十一月壬寅、高平武公の陳騫が薨じた〈武帝紀〉
この年、揚州刺史の周浚は鎮所を秣陵に移した。まだ心服していない呉の民が、しばしば反乱を起こしたが、周浚は討って平定した。故老を賓客として礼遇し、優れた人材を捜し求め、威恵がバランスよく行われ、呉人から歓迎された〈周浚伝〉

太康三(二八二)年

原文

春正月、丁丑朔、帝親祀南郊。礼畢、喟然問司隸校尉劉毅曰、「朕可方漢之何帝。」對曰、「桓・靈。」帝曰、「何至於此。」對曰、「桓・靈賣官錢入官庫、陛下賣官錢入私門。以此言之、殆不如也。」帝大笑曰、「桓・靈之世、不聞此言、今朕有直臣、固為勝之。」
毅為司隸、糾繩豪貴、無所顧忌。皇太子鼓吹入東掖門、毅劾奏之。中護軍・散騎常侍羊琇、与帝有旧恩、典禁兵、豫機密十餘年、恃寵驕侈、数犯法。毅劾奏琇罪当死。帝遣斉王攸私請琇於毅、毅許之。都官従事広平程衛徑馳入護軍營、收琇屬吏、考問陰私、先奏琇所犯狼籍、然後言於毅。帝不得已、免琇官。未幾、復使以白衣領職。琇。景獻皇后之従父弟也。後将軍王愷、文明皇后之弟也。散騎常侍・侍中石崇、苞之子也。三人皆富於財、競以奢侈相高。愷以□台澳釜、崇以蠟代薪。愷作紫絲步障四十里、崇作錦步障五十里。崇塗屋以椒、愷用赤石脂。帝毎助愷、嘗以珊瑚樹賜之、高二尺許、愷以示崇、崇便以鉄如意砕之。愷怒、以為疾己之宝。崇曰、「不足多恨、今還卿。」乃命左右悉取其家珊瑚樹、高三・四尺者六・七株、如愷比者甚衆。愷心光然自失。
車騎司馬傅鹹上書曰、「先王之治天下、食肉衣帛、皆有其制。竊謂奢侈之費、甚於天災。古者人稠地狹、而有儲蓄、由於節也。今者土曠人稀、而患不足、由於奢也。欲時人崇倹、当詰其奢。奢不見詰、転相高尚、無有窮極矣。」
尚書張華、以文学才識名重一時、論者皆謂華宜為三公。中書監荀勖・侍中馮紞以伐呉之謀深疾之。会帝問華、「誰可托後事者。」華對以「明徳至親、莫如斉王。」由是忤旨、勖因而譖之。甲午、以華都督幽州諸軍事。華至鎮、撫循夷夏誉望益振、帝復欲征之。馮紞侍帝、従容語及鐘会、紞曰、「会之反、頗由太祖。」帝変色曰、「卿是何言邪。」紞免冠謝曰、「臣聞善御者必知六轡緩急之宜、故孔子以仲由兼人而退之、冉求退弱而進之。漢高祖尊寵五王而夷滅、光武抑損諸将而克終。非上有仁暴之殊、下有愚智之異也、蓋抑揚与奪使之然耳。鐘会才智有限、而太祖誇獎無極、居以重勢、委以大兵、使会自謂算無遺策、功在不賞、遂構凶逆耳。向令太祖録其小能、節以大礼、抑之以威権、納之以軌則、則乱心無由生矣。」帝曰、「然。」紞稽首曰、「陛下既然臣之言、宜思堅冰之漸、勿使如会之徒復致傾覆。」帝曰、「当今豈復有如会者邪。」紞因屏左右而言曰、「陛下謀畫之臣、著大功於天下、拠方鎮・總戎馬者、皆在陛下聖慮矣。」帝默然、由是止、不征華。
三月、安北将軍厳詢敗慕容涉歸於昌黎、斬獲万計。
魯公賈充老病、上遣皇太子省視起居。充自憂謚傳、従子模曰、「是非久自見、不可掩也。」夏四月、庚午、充薨。世子黎民早卒、無嗣、妻郭槐欲以充外孫韓謐為世孫、郎中令韓鹹・中尉曹軫諫曰、「礼無異姓為後之文、今而行之、是使先公受譏於後世而懷愧於地下也。」槐不聴。鹹等上書、救改立嗣、事寢不報。槐遂表陳之、雲充遺意。帝許之、仍詔「自非功如太宰、始封・無後者、皆不得以為比。」及太常議謚、博士秦秀曰、「充悖礼溺情、以乱大倫。昔鄫養外孫莒公子為後、《春秋》書『莒人滅鄫』。絶父祖之血食、開朝廷之乱原。按《謚法》、『昏乱紀度曰荒』、請謚『荒公』。」帝不従、更謚曰武。
閏月、丙子、広陸成侯李胤薨。
斉王攸徳望日隆、荀勖・馮紞・楊珧皆悪之。紞言於帝曰、「陛下詔諸侯之国、宜従親者始。親者莫如斉王、今独留京師、可乎。」勖曰、「百僚内外皆歸心斉王、陛下万歳後、太子不得立矣。陛下試詔斉王之国、必挙朝以為不可、則臣言験矣。」帝以為然。冬十二月、甲申、詔曰、「古者九命作伯、或入毘朝政、或出御方岳、其揆一也。侍中・司空斉王攸、佐命立勳、劬労王室、其以為大司馬・都督青州諸軍事、侍中如故、仍加崇典礼、主者詳案旧制施行。睄以汝南王亮為太尉・録尚書事・領太子太傅、光禄大夫山濤為司徒、尚書令衛瓘為司空。
征東大将軍王渾上書、以為、「攸至親盛徳、侔於周公、宜贊皇朝、与聞政事。今出攸之国、假以都督虚号、而無典戎干方之実、虧友於款篤之義、懼非陛下追述先帝・文明太后待攸之宿意也。若以同姓寵之太厚、則有呉・楚逆乱之謀、漢之呂・霍・王氏、皆何人也。歷観古今、苟事之輕重所在、不無為害、唯当任正道而求忠良耳。若以智計猜物、雖親見疑、至於疏者、庸可保乎。愚以為太子太保缺、宜留攸居之、与汝南王亮・楊珧共干朝事。三人斉位、足相持正、既無偏重相傾之勢、又不失親親仁覆之恩、計之尽善者也。」於是扶風王駿・光禄大夫李喜・中護軍羊琇・侍中王済・甄徳皆切諫。帝並不従。済使其妻常山公主及徳妻長広公主俱入、稽顙涕泣、請帝留攸。帝怒、謂侍中王戎曰、「兄弟至親、今出斉王、自是朕家事、而甄徳・王済連遣婦来生哭人邪。」乃出済為国子祭酒、徳為大鴻臚。羊琇与北軍中候成粲謀見楊珧、手刃殺之。珧知之、辞疾不出、諷有司奏琇、左遷太僕。琇憤怨、發病卒。李喜亦以年老遜位、卒於家。喜在朝、姻親故人、与之分衣共食、而未嘗私以王官、人以此称之。
是歳、散騎常侍薛瑩卒。或謂呉郡陸喜曰、「瑩於呉士当為第一乎。」喜曰、「瑩在四五之間、安得為第一。夫以孫皓無道、呉国之士、沈默其体、潛而勿用者、第一也。避尊居卑、禄以代耕者、第二也。侃然体国、執正不懼者、第三也。斟酌時宜、時獻微益者、第四也。溫恭修慎、不為謅首者」第五也。過此以往、不足複数。故彼上士多淪沒而遠悔吝、中士有声位而近禍殃。観瑩之處身本末、又安得為第一乎。」

現代語訳

春正月丁丑朔、武帝はみずから南郊を祭った。礼が終わると、歎息して司隸校尉の劉毅に、「朕は漢代でいえば何帝に該当するか」と質問した。劉毅は、「桓帝や霊帝です」と答えた。武帝は、「なぜそんな(低い)評価になるのだ」と質問した。答えて、「桓帝と霊帝は官位を売って公庫に入れていました。陛下は官位を売って私財としています。この評価は、まだ言い尽くせてもおらぬのです」と言った。武帝は大いに笑い、「桓帝と霊帝の世には、このような批判を聞かなかった。朕には直言の臣下がいるから、かれらより勝っているぞ」と言った。
劉毅は司隸校尉となり、権勢家も取り締まり、遠慮がなかった。皇太子の鼓吹が東掖門から入ったので、劉毅はかれを劾奏した〈劉毅伝に依る〉。中護軍・散騎常侍の羊琇は、武帝と長年の親交があり、禁兵を掌り、機密を十年あまり預かっていた。寵愛を頼みにして、しばしば法を犯した。劉毅はかれを死刑にすべきですと上奏した〈外戚 羊琇伝に依る〉。武帝は斉王攸を使わして劉毅をなだめ、劉毅はこれを認めた。都官従事である広平の程衛は、護軍の営所に駆けこみ、羊琇の属吏をとらえ、こっそり取り調べをした。さきに羊琇の蝋石を上奏してから、あとで劉毅に報告をした〈程衛伝〉。武帝はやむを得ず、羊琇を免官とした。ほどなく、白衣の領職に復帰させた。羊琇は、景献皇后の従父弟である〈羊琇伝に依る〉
後将軍の王愷は、文明皇后の弟である。散騎常侍・侍中の石崇は、石苞の子である。三人は財に富み、奢侈を競いあった。石愷は麦芽の飴を燃料にして釜を焚くと、石崇は蝋燭で飯を炊いた。王愷は紫の絹地の幔幕を四十里つくると、石崇は錦の幔幕を五十里つくって対抗した。石崇は山椒を壁土に混ぜると、王乂は赤石脂(石が風化した赤い樹脂)を壁に塗った。武帝は(おじの)王愷をいつも応援し、かつて珊瑚の樹を賜り、高さは二尺ばかりであった。王愷はこれを石崇に見せびらかすと、石崇は鉄の如意でこれを打ち砕いた。王愷は怒り、石崇に宝を妬まれたと考えた。石崇は、「残念がることもあるまい。いまきみに返そう」と言った。側近に命じて家から珊瑚の樹を運ばせ、高さは三四尺のものが六七株あり、王愷のものより豪華であった。王愷はあっけに取られた〈石崇伝〉
福原啓郎『西晋の武帝 司馬炎』p213を参考にした。
車騎司馬の傅咸は上書し、「先王が天下を収めると、衣食は節制されていました。奢侈による弊害は、天災よりも甚大です。いにしえは人口が多くて耕地が狭く、だから備蓄して、節約をしました。いま耕地は広くて人口が少ないので、将来を心配せず、浪費しています。倹約の風潮を回復し、奢侈を禁止すべきです。奢侈を禁止しなければ、際限が無くなります」と言った〈傅咸伝〉
尚書の張華は、文学の才識によって名声が重く、みな張華こそ三公になるべきだと期待していた。中書監の荀勖と侍中の馮紞は、伐呉の計画について、かれを疎ましく思っていた。あるとき武帝は張華に、「後のことは誰に託するべきか」と質問した。張華は、「徳があり親しいという点で、斉王に勝るものはいません」と言った。武帝の考えと異なったので、荀勖は張華を批判した。甲午、張華を都督幽州諸軍事とした。張華は鎮所に到着すると、胡族も漢族も慰撫したので声望が高まるばかりで、武帝は朝廷に呼び戻そうとした。馮紞は武帝にはべり、話題が鍾会のことに及ぶと、馮紞は、「鍾会の反乱は、太祖(司馬昭)が原因を作ったのですよ」と言った。武帝は顔色をかえ、「なにが言いたいのだ」と言った。馮紞は冠をぬいで謝り、「聞きますに、すぐれた御者は六本の手綱をもち、適切に緩急を使い分けます。ゆえに孔子は仲由がひとに勝ろうとするから退け、冉求は控えめであるから奨励しました(『論語』先進篇)。前漢の高祖は五王を優遇しましたが皆殺しにし、後漢の光武帝は諸将を抑制しましたが寿命を終えさせました。君主に仁と暴のような違いはなく、臣下に愚と智のような違いがなくても、結果にこのように差が生じるのです。鐘会は才智に限界がありましたが、太祖がとても重く用い、重要な任務をあたえ、大軍をまかせました。鍾会は自分が失敗しないと思い込み、功績が褒賞よりも大きいと考え、謀反をするに至ったのです。もしも太祖がかれの能力の限度をわきまえ、礼義を抑えて、大きな権限を与えず、適度に活用していれば、謀反の心を抱かなかったのです」と言った。武帝は、「そうだな」と言った。馮紞は地に頭をつけ、「陛下は私の意見に同意して下さいました。兆候が現れるのを見張り、鍾会の二の舞を防いで下さい」と言った。武帝は、「今日に再び鍾会が出るものか」と言った。馮紞は側近を遠ざけ、「陛下の謀臣として考えますに、天下で大きな功績をあらわし、方鎮に拠って軍事を掌るものは、みな陛下が警戒なさるべきです」と言った。武帝は黙りこくり、張華を朝廷に徴召するのを辞めた〈張華伝〉
三月、安北将軍の厳詢は慕容渉歸を昌黎で破り、斬獲は万を数えた〈未詳〉
魯公の賈充が老齢で病み、武帝は皇太子に見舞いにゆかせた〈賈充伝〉。賈充は(魏帝曹髦を弑逆したため)悪い諡をつけられ史家に必誅を受けることを心配した。従子の賈模い、「善悪はやがて明らかになるもの、隠し通せない」と言った〈賈充伝 附賈模伝〉。夏四月庚午、賈充は薨じた〈武帝紀〉。世子の賈黎民は早くに亡くなっており、継嗣がいなかった。妻の郭槐は賈充の外孫である韓謐を世孫としたいと願い出た。郎中令の韓咸・中尉の曹軫は諫めて、「礼の規定には、異姓を後嗣とするという文がありません。これを実行すれば、先公が後世から譏られ、地下で恥をかかせることになります」と言った。郭隗は聴き入れなかった。韓咸らは上書し、賈充の後嗣に立てることを申請した。裁可は下さらなかった。郭隗は上表して述べ、賈充の遺志なのですと言った。武帝はこれを許し、詔して、「太宰ほどの功績がなく、封建されたばかりで後嗣が居らねば、同様の処置はしないものとする」と特例を認めた〈賈充伝〉。太常が謚号を議論し、博士の秦秀は、「賈充は礼にもとり情におぼれ、大倫を乱しました。むかし鄫(諸侯国の名)は外孫の莒公の子を養って後嗣としましたが、『春秋』(公羊伝 襄公六年)はこれを『莒人が鄫を滅ぼした』と書きました。父祖の祭祀を絶やし、朝廷の乱の原因を作りました。『謚法』に、『昏乱紀度を荒という』とあります。賈充には荒公と諡なさいませ」と言った。武帝は従わず、〈秦秀伝〉改めて武と諡した〈賈充伝〉
閏月丙子、広陸成侯の李胤が薨じた〈武帝紀〉
斉王攸の徳望は日ごとに高まり、荀勖・馮紞・楊珧はこれを疎ましく思った。馮紞は武帝に、「陛下は諸侯に封国に行くように詔し、親しきものから始めなさい。親しさでいえば斉王が最上です。かれだけを京師に留めては、筋が通りません」と言った。荀勖は、「百僚は内外ともに斉王に心を寄せております。陛下の崩御した後、太子(司馬衷)は帝位に即けません。陛下は試みに斉王を国に行かせなさい。きっと朝臣たちは反対します。それこそが私の予想の裏づけとなります」と言った。武帝はこれに合意した〈司馬攸伝〉
冬十二月甲申、詔して、「いにしえの九命は伯となり、あるときは朝廷を朝廷に入って政治を助け、あるときは地方に出て方岳を守ったが、統治の原理は繋がっている。侍中・司空である斉王攸は、佐命して功績を立て、王室のために力を尽くした。そこで大司馬・都督青州諸軍事とし、侍中は従来どおりとし、典礼を高めて追加する。担当官は礼制について議論せよ」と命じた〈司馬攸伝〉。汝南王の司馬亮を太尉・録尚書事・領太子太傅とし〈司馬亮伝〉、光禄大夫の山濤を司徒とし、尚書令の衛瓘を司空とした〈武帝紀〉
征東大将軍の王渾は上書し、「司馬攸は武帝の近親であり徳が盛んであり、立場が周公旦に等しいので、朝廷を補佐し、政治に参加させて下さい。いま司馬攸を藩国に行かせ、都督の虚号をかぶせていますが、四方を鎮護するという実態はなく、誠意と親しみに欠けた措置です。先帝(司馬昭)と文明太后(王氏)の遺志に背くのではありませんか。もし同姓の待遇を厚くし過ぎれば、(前漢の)呉楚七国の乱が起きましたが、前漢には呂氏や霍氏や王氏による乱は、誰が起こしたのでしょう(外戚楊氏の厚遇も適切ではありません)。古今の歴史を見れば、だれかを親任すれば、害とならぬことはなく、ただ正しい政道のもとで忠良なものに任せるしかありません。もし知恵があり親しいもの(司馬攸)ですら疑うのならば、疎遠なものは立場を保つ方法がありません。太子太保に欠員があります。汝南王の司馬亮と楊珧とともに三人で朝政を任せなさい。三人の地位が等しければ、均衡が取れて、権力が偏在することはなく、親族への仁恩が失われることがなく、これが最上の策だと考えます」と言った〈王渾伝に依る〉
ここにおいて扶風王の司馬駿〈司馬駿伝〉・光禄大夫の李憙〈李憙伝〉・中護軍の羊琇〈外戚 羊琇伝〉・侍中の王済〈王済伝〉・甄徳はきびしく(司馬攸の赴任を)諫止した。武帝はいずれも従わなかった〈司馬駿伝〉
王済は妻である常山公主及び甄徳の妻である長広公主に連れだって(皇帝の生活場所に)入り、額を擦りつけて涙を流し、武帝に「司馬攸を朝廷に留めて下さい」と哀願した。武帝は怒り、侍中の王戎に、「兄弟は近しい親族であり、かれを地方に出すのは、朕の家庭のなかのこと。しかし甄徳と王済は婦人を送りこんで、生きながらに哭礼をさせた」と言った。そこで王済を(内朝から)追い出して国子祭酒とし〈王済伝〉、甄徳を大鴻臚とした。羊琇は北軍中候の成粲とともに楊珧と顔をあわせる機会をつくり、刃を振るって殺そうとした。楊珧はこれを知り、病気といって外出しなかった。担当官に吹き込んで奏琇を左遷し、太僕とした〈楊駿 附楊珧伝〉。羊琇は憤って怨み、病死した〈羊琇伝〉。李憙もまた老年により官位を退き、家でなくなった。李憙は朝廷にあって、姻戚である旧知に、衣食を分け与えたが、公職にあっては口利きをすることはなく、人々から公正さを称賛された〈李憙伝〉
この年、散騎常侍の薛瑩が亡くなった。あるものが呉郡の陸喜に、「薛瑩は呉の士人のなかで第一であろうか」と言った。陸喜は、「薛瑩は四か五のあいだであり、第一と認定することはできまい。孫晧は無道であり、呉国の士人のなかで、沈黙を守って、登用されなかったものが、第一である。高い位を避けて、耕作をしたものが、第二である。正論を吐いて、(孫晧を)憚らなかったものが、第三である。時勢に順応し、せめてもの良策を献上したものが、第四である。ただ従順であり、諂ったものは、第五である。このような状況であるから、数に入れる価値がない。(呉の末期において)上級の人士は身を滅ぼして後悔がないようにし、中級の人士は名声を得て災難を近づけた。薛瑩の処世術を、いったいなぜ第一と認定することができようぞ」と言った〈陸機伝 附陸喜伝〉

太康四(二八三)年

原文

春正月、甲申、以尚書右僕射魏舒為左僕射、下邳王晃為右僕射。晃、孚之子也。
戊午、新沓康伯山濤薨。
帝命太常議崇錫斉王之物。博士庾敷・太叔広・劉暾・繆蔚・郭頤・秦秀・傅珍上表曰、「昔周選建徳以左右王室、周公・康叔・聃季、皆入為三公、明股肱之任重、守地之位輕也。漢諸王侯、位在丞相・三公上、其入贊朝政者、乃有兼宮、其出之国、亦不復假台司虚名為隆寵也。今使斉王賢邪、則不宜以母弟之親尊居魯・衛之常職。不賢邪、不宜大啟土宇、表建東海也。古礼、三公無職、坐而論道、不聞以方任嬰之。惟宣王救急朝夕、然後命召穆公征淮夷、故其詩曰、『徐方不回、王曰旋歸。』宰相不得久在外也。今天下已定、六合為家、将数延三事、与論太平之基、而更出之、去王城二千里、違旧章矣。』敷、純之子。暾、毅之子也。敷既具草、先以呈純、純不禁。
事過太常鄭默・博士祭酒曹志、志愴然歎曰、「安有如此之才、如此之親、不得樹本助化、而遠出海隅。晋室之隆、其殆矣乎。」乃奏議曰、「古之夾輔王室、同姓則周公・異姓則太公、皆身居朝廷、五世反葬。及其衰也、雖有五霸代興、豈与周・召之治同日而論哉。自羲皇以来、豈一姓所能独有。当推至公之心、与天下共其利害、乃能享国久長。是以秦・魏欲独擅其権而才得沒身、周・漢能分其利而親疏為用、此前事之明験也。志以為当如博士等議。」帝覽之、大怒曰、「曹志尚不明吾心、況四海乎。」且謂、「博士不答所問而答所不問、横造異論。」下有司策免鄭默。於是尚書朱整・褚等奏、「志等侵官離局、迷惘朝廷、崇飾晋言、假托無諱、請收志等付廷尉科罪。」詔免志官、以公還第。其餘皆付廷尉科罪。
庾純詣廷尉自首、「敷以議草見示、愚淺聴之。」詔免純罪。廷尉劉頌奏敷等大不敬、当棄市。尚書奏請報聴廷尉行刑。尚書夏侯駿曰、「官立八座、正為此時。」乃独為駁議。左僕射下邳王晃亦従駿議。奏留中七日、乃詔曰、「敷是議主、應為戮首。但敷家人自首、宜並広等七人皆丐其死命、並除名。」
二月、詔以済南郡益斉国。己丑、立斉王攸子長楽亭侯寔為北海王、命攸備物典策、設軒轅之楽、六佾之舞、黄鉞朝車、乘輿之副従焉。
三月、辛丑朔、日有食之。
斉獻王攸憤怨發病、乞守先後陵。帝不許、遣御醫診視。諸醫希旨、皆言無疾。河南尹向雄諫曰、「陛下子弟雖多、然有徳望者少。斉王臣居京邑、所益実深、不可不思也。」帝不納、雄憤恚而卒。攸疾転篤、帝猶催上道。攸自強入辞、素持容儀、疾雖困、尚自整厲、挙止如常、帝益疑其無疾。辞出数日、嘔血而薨。帝往臨喪、攸子冏号踴、訴父病為醫所誣。詔即誅醫、以冏為嗣。
初、帝愛攸甚篤、為荀勖・馮紞等所構、欲為身後之慮、故出之。及薨、帝哀慟不已。馮紞侍側、曰、「斉王名過其実、天下歸之、今自薨殞、社稷之福也、陛下何哀之過。」帝收淚而止。詔攸喪礼依安平獻王故事。
攸挙動以礼、鮮有過事、雖帝亦敬憚之。毎引之同處、必択言而後發。
夏五月、己亥、琅邪武王伷薨。
冬十一月、以尚書左僕射魏舒為司徒。
河南及荊・揚等六州大水。
歸命侯孫皓卒。
是歳、鮮卑慕容涉歸卒。弟刪篡立、将殺涉歸子廆、廆亡匿於遼東徐郁家。

現代語訳

春正月甲申、尚書右僕射の魏舒を左僕射とし、下邳王の司馬晃を右僕射とした。司馬晃は、司馬孚の子である〈武帝紀〉
戊午、新沓康伯の山濤が薨じた〈山濤伝〉
武帝は太常に命じて斉王に賜与する礼物について議論させた。博士の庾旉(ゆふ)・太叔広・劉暾・繆蔚・郭頤・秦秀・傅珍は(下問に答えず)上表して、「むかし周は建徳を選んで王室を補佐させました。周公・康叔・聃季は、いずれも朝廷で三公となり、股肱の任が重く、守地の位は軽いことを明らかにしました。漢の諸王侯は、位は丞相や三公の上でしたが、その朝政に参加したものは、宮殿をあわせ、朝廷を出て国に赴任したものは、また三公の虚名をかりて栄誉を受けることはありませんでした。いまもし斉王が賢いならば、同母弟だからといって魯や衛で藩国を任せてはいけません。もし賢くなければ、広大な領土を与えて、東海に封建をしていはいけません。古礼によれば、三公は職責がなく、座して道を論ずるものです。方任として外藩になったと例はありません。いにしえの宣王は朝夕に急を救い、その後に召穆公に命じて淮夷を征伐させました。ゆえに『詩』に、『徐方 回(たが)はざれば、王 曰(ここ)に旋帰す』とあるのです(江漢・常武篇)。宰相は長く外に居てはいけません。いま天下はすでに平定され、天地四方は一家となりました。しばしば万事をすすめて、太平の基礎を論じようというのに、却って(司馬攸を)朝廷から追い出し、王城から二千里に行かせるのは、旧章に合致しません」と言った。庾旉は、庾純の子である。劉暾は、劉毅の子である。庾旉が草稿をつくると、さきに庾純に確認をさせ、庾純は差し止めなかった〈庾純伝 附庾旉伝〉
回答書は太常の鄭黙・博士祭酒の曹志に回付された。曹志は愴然として歎じ、「(司馬攸に)これほどの才能があり、これほど血縁が近いにも拘わらず、朝廷で補佐ができず、遠く海べりに追い出されてしまうのか。晋の国運は、危ういのではないか」と言った。(曹志は)上奏して、「いにしえに王室を支えたのは、同姓では周公旦、異姓では太公望でした。どちらも朝廷に身を置き、五世にわたり中央に葬らせました。周王朝が衰退し、(地方で)五霸が交替で勃興しましたが、周公や召公と同日に論じられましょうか。羲皇より以来、一姓のみが天下を独占することはありませんでした。天下の世論を推しはかり、天下と利害を共有してこそ、国家は長続きします。だから秦と魏は権力を独占しようとしたために勝手に没落し、周と漢は利益を分配して親疎を活用できたのは、確かな前例であります。私は博士らと議論すべきだと考えます」と言った。武帝はこれを見て、大いに怒り、「曹志はわが心すら理解できておらぬ。まして四海のことが理解できようか」と言った。さらに、「博士は質問に答えず、聞いてもいないことを答えた。みだりに反対意見を述べている」と言った。担当官に命じて鄭黙を罷免した〈曹志伝〉。これを受けて尚書の朱整・褚□らは上奏し、「曹志らは官職の務めを果たさず、朝廷を惑わし、悪言を飾りました。他事に託けて遠慮がありません。曹志らを廷尉に引き渡して罰して下さい」と言った〈庾旉伝〉。詔して曹志を免官し、公として邸宅に帰した。それ以外は廷尉に引き渡した〈曹志伝〉
□は、「契」の上半分に「石」を下に置いたもの。
庾純は廷尉に至って自首し、「庾旉は草稿を私に見せましたが、私が提出を許したのです」と言った。詔して庾純の罪を免じた。廷尉の劉頌は庾旉らは大不敬であるから、棄市すべきですと述べた。尚書は上奏して廷尉によるの執行に賛成した。尚書の夏侯駿は、「この官位の定員が八名なのは、こんなときのためだ」と言った。単独で反対を述べた。左僕射である下邳王の司馬晃もまた夏侯駿に合意した。上奏は七日留められ、詔して、「庾旉は反対論の首謀者であるから、首を斬るべきだ。しかし庾旉の家族が自首したから、太叔広ら七人と合わせて死罪を保留し、官職を免ぜよ」と言った〈庾旉伝〉
二月、詔して済南郡を斉国に編入した。己丑、斉王攸の子である長楽亭侯の司馬寔を北海王とした。司馬攸に礼物を持たせ、軒轅の楽と六佾の舞を設けることを許し、黄鉞朝車をつかい、乗輿の副もこれに従うものとした〈司馬攸伝〉
三月辛丑朔、日食があった〈武帝紀〉。 斉献王攸は憤って怨んで発病し、実母の陵墓を守る役を願い出た。武帝は許さず、医師に診察をさせた。医師は武帝の考えを忖度し、健康ですと答えた〈司馬攸伝〉。河南尹の向雄は諫めて、「陛下の子弟は多いですが、徳望があるひとは少ない。斉王は洛陽に留めれば、朝廷の助けになります。ご再考を」と言った。武帝は聴き入れず、向雄は激憤して亡くなった〈向雄伝〉。司馬攸の病気も一転して悪化したが、武帝は出発を催促した。司馬攸は別れの挨拶にいったが、威儀を正し、病気であったが、挙動がしっかりして見えた。武帝はやはり健康ではないかと疑った。出発して数日で、吐血して薨じた。武帝は遺体を前にし、司馬攸の子の司馬冏は号踊し、亡父の診断を医師が詐ったと主張した。詔して医者を誅殺し、司馬冏を後嗣とした〈司馬冏伝〉
これよりさき、武帝は司馬攸をとても可愛がったが、荀勖・馮紞らに仕組まれて、おのれの死後のことを心配して、地方に転出させた。薨去すると、武帝は悲しんで泣き止まなかった〈馮紞伝に依る〉。馮紞は武帝のそばで、「斉王は名声が実態を超えていました。天下から支持を得ておりました。かれが薨去したのは、社稷にとって幸福なことです。陛下は哀しみ過ぎではありませんか」と言った。武帝は涙をおさめた。詔して司馬攸の葬儀は、安平献王の故事に準拠した。司馬攸の挙動は礼に準拠しており、鮮やかで派手であり、武帝ですら敬い憚った。同じところに居合わせると、言葉を選んで話していた〈司馬攸伝〉
夏五月己亥、琅邪武王の司馬伷が薨じた〈武帝紀〉
冬十一月、尚書左僕射の魏舒を司徒とした。河南及び荊・揚ら六州で洪水があった〈武帝紀〉。歸命侯の孫皓が卒した’〈孫晧伝〉
この年、鮮卑の慕容渉歸が卒した。弟の刪が篡立し、渡帰の子の廆を殺そうとした。慕容廆は亡命して遼東の徐郁の家に匿われた〈前燕録 慕容廆伝〉

太康五(二八四)年

原文

世祖武皇帝中太康五年(甲辰、公元二八四年) 春正月、己亥、有青龍二、見武庫井中。帝観之、有喜色。百官将賀、尚書左僕射劉毅表曰、「昔龍降夏庭、卒為周禍。《易》称『潛龍勿用、陽在下也。』尋案旧典、無賀龍之礼」。帝従之。 初、陳群以吏部不能審核天下之士、故令郡国各置中正、州置大中正、皆取本士之人任朝廷官、徳充才盛者為之、使銓次等級以為九品、有言行修著則升之、道義虧缺則降之、吏部憑之以補授百官。行之浸久、中正或非其人、奸敝日滋。劉毅上疏曰、「今立中正、定九品、高下任意、栄辱在手、操人主之威福、奪天朝之権威、公無考校之負、私無告訐之忌、用心百態、營求萬端、廉譲之風滅、争訟之俗成、臣竊為聖朝恥之。蓋中正之設、於損政之道有八。高下逐強弱、是非随興衰、一人之身、旬日異状、上品無寒門、下品無勢族、一也。置州都者、本取州里清議鹹所帰服、将以鎮異同、一言議也。今重其任而軽其人、使駁違之論横於州里、嫌仇之隙結於大臣、二也。本立格之体、為九品者、謂才徳有優劣、倫輩有首尾也。今乃使優劣易地、首尾倒錯、三也。陛下賞善罰悪、無不裁之以法、独置中正、委以一国之重、曾無賞罰之防、又禁人不得訴訟、使之縦横任意、無所顧憚、諸受枉者、抱怨積直、不獲上聞、四也。一国之士、多者千数、或流徙異邦、或取給殊方、面猶不識、況尽其才。而中正知与不知、皆当品状、采誉於台府、納毀於流言、任己則有不識之蔽、聴受則有彼此之偏、五也。凡求人才者、欲以治民也、今当官著效者或附卑品、在官無績者更獲高敘、是為抑功実而隆空名、長浮華而廃考績、六也。凡官不同人、事不同能。今不状其才之所宜而但第為九品、以品取人、或非才能之所長、以状取人、則為本品之所限、徒結白論而品状相妨、七也。九品所下不彰其罪、所上不列其善、各任愛憎、以植其私、天下之人焉得不懈徳行而鋭人事、八也。由此論之、職名中正、実為奸府。事名九品、而有八損。古今之失、莫大於此。愚臣以為宜罷中正、除九品、棄魏氏之敝法、更立一代之美制」。太尉汝南王亮・司空衛瓘亦上疏曰、「魏氏承喪乱之後、人士流移、考詳無地、故立九品之制、粗且為一時選用之本耳。今九域同規、大化方始、臣等以為宜皆蕩除末法、鹹用土断、自公卿以下、以所居為正、無復縣客、遠属異土、尽除中正九品之制、使挙善進才、各由郷論、則華競自息、各求於己矣」。始平王文学江夏李重上疏、以為、「九品既除、宜先開移徙、聴相並就、則土断之実行矣」。帝雖善其言而終不能改也。
冬十二月、庚午、大赦。 閏月、当陽成侯杜預卒。 是歳、塞外匈奴胡太阿厚帥部落二萬九千三百人来降、帝処之塞内西河。 罷寧州入益州、置南夷校尉以護之。

訓読

春正月己亥、青龍二有り、武庫の井中に見はる。帝 之を観、喜色有り。百官 将に賀せんとするに、尚書左僕射の劉毅 表して曰く、「昔 龍 夏庭に降り、卒に周禍と為る。《易》に称すらく、『潛龍 用ゐる勿れ、陽 下に在るなり』と。尋いで旧典を案ずるに、賀龍の礼無し」と。帝 之に従ふ。
初め、陳群 吏部の審らかに天下の士を覆ふこと能はざるを以て、故に郡国を令して各々中正を置き、州をして大中正を置かしめ、皆 本土の人を取りて朝廷の官に任じ、徳の充ちて才の盛なる者 之と為し、等級を銓次せしめ以て九品と為し、言行 修著なるもの有れば則ち之を升し、道義 虧缺するものは則ち之を降し、吏部 之に憑りて以て百官を補授す。之を行ふこと浸久たりて、中正 或いは其の人に非ず、奸敝 日に滋し。劉毅 上疏して曰く、「今 中正を立て、九品を定むるに、高下 意に任せ、栄辱 手に在り、人主の威福を操り、天朝の権威を奪ひ、公に考校の負無く、私に告訐の忌無く、用ゐるに百態を心とし、營して萬端を求め、廉譲の風 滅び、争訟の俗 成り、臣 竊かに聖朝の為に之を恥づ。蓋し中正の設くるは、政を損ぬるの道 八有り。高下 強弱を逐ひ、是非 興衰に随ひ、一人の身、旬日にして状を異にし、上品に寒門無く、下品に勢族無し、一なり。州都に置くは、本は州里の清議 咸 帰服する所を取り、将に以て異同を鎮め、言議を一にせんとするなり。今 其の任を重んじて其の人を軽んじ、駁違の論をして州里に横せしめ、嫌仇の隙 大臣に結ぶ、二なり。本は立格の体もて、九品と為すは、才徳に優劣有り、倫輩に首尾有るを謂ふなり。今 乃ち優劣をして易地し、首尾をして倒錯せしむ、三なり。陛下の善を賞し悪を罰するは、之を裁くに法を以てせざること無きに、独り中正を置き、一国の重を以て委ね、曾て賞罰の防無く、又 人に禁じて訴訟するを得ず、之をして縦横に意に任せしめ、顧憚する所無く、諸々の枉を受くる者は、怨を抱き直を積み、上聞するを獲ず、四なり。一国の士、多き者は千を数へ、或いは流徙して邦を異にし、或いは殊方に取給し、面 猶ほ識らず、況んや其の才を尽すをや。而るに中正 知ると知らざると、皆 品状を当て、誉を台府に采り、毀を流言に納る、己に任せれば則ち不識の蔽有り、聴受せば則ち彼此の偏有る、五なり。凡そ人才を求むるは、以て民を治めんと欲す、今 官に当りて效を著はす者は或いは卑品に附し、官に在りて績無き者は更めて高敘を獲て、是れ為に功実を抑へて空名を隆くし、浮華を長じて考績を廃す、六なり。凡そ官の人を同じくせざれば、事 同じくする能はず。今 其の才の宜しき所を状せずして但だ第して九品と為し、品を以て人を取り、或いは才能の長ずる所非らざるに、状を以て人を取れば、則ち本品の限る所と為り、徒らに白論(素論)に結びて品状 相 妨ぐ、七なり。九品 下る所 其の罪を彰らかにせず、上る所 其の善を列ねず、各々愛憎に任せ、以て其の私を植す、天下の人 焉ぞ得て徳行に懈して人事に鋭ならざる、八なり。此に由りて之を論ずるに、職は中正を名とするも、実は奸府と為る。事 九品を名とするも、而るに八損有り。古今の失、此より大なるは莫し。愚臣 以為へらく宜しく中正を罷め、九品を除くべし、魏氏の敝法を棄て、更めて一代の美制を立てよ」と。太尉たる汝南王亮・司空たる衛瓘 亦た上疏して曰く、「魏氏 喪乱の後を承け、人士 流移し、考詳 地無く、故に九品の制を立て、粗に且つ一時選用の本と為るのみ。今 九域 同規し、大化 方に始まり、臣ら以為へらく宜しく皆 末法を蕩除し、咸 用て土断し、公卿より以下、居る所を以て正と為し、復た縣客の、遠く異土に属するもの無く、尽く中正九品の制を除き、善を挙げて才を進むるに、各々郷論に由らしめば、則ち華競 自ら息み、各々己を求めん」と。始平王文学たる江夏の李重 上疏して、以為へらく、「九品 既に除かば、宜しく先に移徙を開き、相 并就するを聴すべし、則ち土断の実 行はれん」と。帝 其の言を善しとすると雖も終に改むる能はず。
冬十二月庚午、大赦す。 閏月、当陽成侯の杜預 卒す。 是の歳、塞外の匈奴 胡太阿厚 部落二萬九千三百人を帥ゐて来降し、帝 之を塞内の西河に処らしむ。寧州を罷めて益州に入れ、南夷校尉を置きて以て之を護す。

現代語訳

春正月己亥、青龍が二つおり、武庫の井中に現れた〈武帝紀〉。武帝はこれを見て、喜んだ。百官が祝賀しようとすると、尚書左僕射の劉毅は上表し、「むかし龍が夏庭に降り、にわかに周に滅ぼされました。易に、潜んだ竜は用いることはできない、陽の下にいるとと称します。旧典を見ますに、龍を祝う儀礼はありません」と。武帝はこれに従った〈劉毅伝〉
これより先、陳羣は吏部が天下の士を網羅的に把握できないので、郡国を命じてそれぞれ中正を設置し、州に大中正を設置し、みな現地の出身者を採用して朝廷の官に任命させた。徳と才に満ちあふれたものを中正官につけ、等級を序列化して九品とし、言行が優秀なものは昇格させ、道義が欠落したものは降格させた。このおかげで吏部は百官を任命できるようになった。運用が長期化すると、中正官は適任者が就かず、弊害が日ごとに拡大した〈未詳〉
劉毅は上疏し……〈劉毅伝〉
太尉である汝南王の司馬亮と司空である衛瓘もまた上疏して、「魏氏の喪乱の後を受け、人士は流離して移住し、人材を知るための基準がなく、ゆえに九品の制を立てたが、一時的に人材登用の基盤としました。いま九域は規律が整い、大いなる教化が始まりました。乱世の法を解除し、戸籍を再編成し、公卿より以下、現在の住処を本籍地とすれば、居住地と本籍の乖離が解消されます。中正九品の制を除き、徳と才のあるものは、郷論に準拠して登用すれば、華美を競いあわず、本来へと向かいます」と言った〈衛瓘伝〉。始平王文学である江夏の李重は上疏して、「九品を除くなら、先に移住を自由にし、統合することを許可すべきです。土断に実態が反映されます」と言った。武帝はその発言に同意したが、結局は実行できなかった。
『九品官人法の研究―科挙前史』により修正する。
冬十二月庚午、大赦した〈武帝紀〉
閏月、当陽成侯の杜預が卒した〈武帝紀〉。この年、塞外の匈奴の胡太阿厚が部落の二万九千三百人をひきいて来降した。武帝はこれを塞内の西河に居住させた〈匈奴伝に依る〉。寧州を廃止して益州に統合し、南夷校尉を設置してここを護させた〈華陽国志に依る、華陽国志が出てきた〉

太康六(二八五)年

原文

世祖武皇帝中太康六年(乙巳、公元二八五年) 春正月、尚書左僕射劉毅致仕、尋卒。 戊辰、以王渾為尚書左僕射、渾子済為侍中。渾主者処事不当、済明法縄之。済従兄佑、素与済不協、因毀済不能容其父、帝由是疏済、後坐事免官。済性豪侈、帝謂侍中和嶠曰、「我将罵済而後官之、如何」。嶠曰、「済俊爽、恐不可屈」。帝乃召済、切譲之、既而曰、「頗知愧不」。済曰、「『尺布』・『斗粟』之謠、常為陛下愧之。他人能令親者疏、臣不能令親者親、以此愧陛下耳」。帝黙然。嶠、洽之孫也。 青・梁・幽・冀州旱。
秋八月、丙戌朔、日有食之。 冬十二月、庚子、襄陽武侯王濬卒。 是歳、慕容刪為其下所殺、部衆復迎涉帰子廆而立之。涉帰与宇文部素有隙、廆請討之、朝廷弗許。廆怒、入寇遼西、殺略甚衆。帝遣幽州軍討廆、戦於肥如、廆衆大敗。自是毎歳犯辺、又東撃扶餘、扶餘王依慮自殺。子弟走保沃沮。廆夷其国城、駆萬餘人而帰。

訓読

春正月、尚書左僕射の劉毅 致仕し、尋いで卒す。 戊辰、王渾を以て尚書左僕射と為し、渾の子たる済を侍中と為す。渾 主る者 事に処して当ならず、済 法を明らかにして之を縄す。済が従兄たる佑、素より済と協はず、因りて済の其の父を能く容れざることを毀り、帝 是に由りて済を疏んじ、後に事に坐して免官す。済の性 豪侈なれば、帝 侍中の和嶠を謂ひて曰く、「我 将に済を罵りて後に之を官とせんとす、如何」と。嶠曰く、「済は俊爽なり、恐らくは屈す可からず」と。帝 乃ち済を召すに、切りに之を譲し、既にして曰く、「頗る愧を知るや不や」と。済曰く、「『尺布』・『斗粟』の謠、常に陛下の為に之を愧づ(武帝が斉王攸を許容できなかったことを当てこすっている)。他人 能く親しき者をして疏とせしむ、臣 親を親とせしむること能はず〔一〕、此を以て陛下に愧づるのみ」と。帝 黙然とす。(和)嶠、洽の孫なり。 青・梁・幽・冀州 旱あり。
秋八月丙戌朔、日の之を食する有り。 冬十二月庚子、襄陽武侯の王濬 卒す。 是の歳、慕容刪 其の下の為に殺され、部衆 復た涉帰の子たる廆を迎へて之に立つ。涉帰 宇文部と素より隙有り、廆 之を討たんと請ひ、朝廷 許さず。廆 怒り、遼西に入寇し、殺略すること甚だ衆し。帝 幽州軍を遣はして廆を討たしめ、肥如に戦ひ、廆の衆 大いに敗る。是より毎歳ごとに辺を犯し、又 東のかた扶餘を撃ち、扶餘王の依慮 自殺す。子弟 走りて沃沮に保す。廆 其の国城を夷し、萬餘人を駆りて帰る。

〔一〕他の人(司馬炎)は、親しき者(同母弟の司馬攸)を遠ざけた。だから私(王済)も、親を親として尊重できません。私は自分の親を侵害したことに対して批判を受けていますが、私がやっていることは、あなた(司馬炎)と同じですという意味か。『晋書』王済伝によると、王済は、司馬炎が司馬攸を遠ざけるときに激しく抗議している。

現代語訳

春正月、尚書左僕射の劉毅が職を辞し、ほどなく卒した〈劉毅伝〉。戊辰、王渾を尚書左僕射とし〈武帝紀〉、王渾の子である王済を侍中とした。王渾の職務が不適切であったので、王済は法を明らかにして逮捕した。王済の従兄である王佑は、王済と気が合わず、王済がその父に不寛容であったことを批判した。武帝は王済を疎んじ、のちに理由をつけて免官した。王済は豪奢に振る舞い、武帝は侍中の和嶠に、「王済を罵ってから、後に官位を与えようと思うが、どうかね」と聞いた。和嶠は、「王済は人品が高いので、恐らくは屈服せぬでしょう」と言った。武帝が王済を召したが、しきりに辞退し、「恥を知っているか」と言った。王済は、「尺布と斗粟の謠を聞くたび、いつも陛下のために恥じています(斉王攸を許容できなかったことを当てこすっている)。ある人(武帝)は親しき者(司馬攸)を遠ざけました。だから私は親しい者(実父の王渾)を親しく扱うことができません。だから陛下のために恥じているのです」と言った。武帝は黙然とした。和嶠は、和洽の孫である〈王渾伝 附王済伝〉
青・梁・幽・冀州で干害があった〈武帝紀〉
秋八月丙戌朔、日食があった〈武帝紀〉
冬十二月庚子、襄陽武侯の王濬が卒した〈武帝紀〉
この年、慕容刪が部下に殺され、部族は渉帰の子である慕容廆を迎えて後継者とした。渉帰は宇文部と対立していたので、慕容廆はこれを討ちたいと願ったが、朝廷は許さなかった。慕容廆は怒り、遼西に入寇し、さかんに殺害や略奪をした。武帝は幽州の軍に慕容廆を討伐させ、肥如で戦った。慕容廆の兵は大いに敗れた。これより毎年、辺境を侵犯し、さらに東では扶餘を攻撃し、扶餘王の依慮が自殺した。子弟が逃げて沃沮に籠もった。慕容廆はその国城を破壊し、一万人あまりを捕らえて帰った〈前燕録 慕容廆伝及び載記慕容廆伝、十六国春秋と載記の並記はめずらしい〉

太康七(二八六)年

原文

世祖武皇帝中太康七年(丙午、公元二八六年) 春正月、甲寅朔、日有食之。魏舒称疾、固請遜位、以劇陽子罷。舒所為、必先行而後言、遜位之際、莫有知者。衛瓘与舒書曰、「毎与足下共論此事、日日未果、可謂『瞻之在前、忽焉在後』矣」。 夏慕容廆寇遼東、故扶餘王依慮子依羅求帥見人還復旧国、請援於東夷校尉何龕、龕遣督護賈沈将兵送之。廆遣其将孫丁帥騎邀之於路、沈力戦、斬丁、遂復扶餘。
秋匈奴胡都大博及萎莎胡各帥種落十萬餘口詣雍州降。 九月、戊寅、扶風武王駿薨。 冬十一月、壬子、以隴西王泰都督関中諸軍事。泰、宣帝弟馗之子也。 是歳、鮮卑拓跋悉鹿卒、弟綽立。

訓読

春正月甲寅朔、日の之を食する有り。魏舒 疾と称し、固く遜位を請ひ、劇陽子(爵位)を以て罷む。舒 為す所、必ず先に行ひて後に言ひ、遜位の際、知ること有る者莫し。衛瓘 舒に書を与へて曰く、「毎に足下と共に此の事を論ずるに、日日 未だ果てず、謂ふ可し『之を瞻るに前に在れば、忽焉として後に在り』(論語の顔淵の語)」と。
夏、慕容廆 遼東を寇し、故扶餘王の依慮の子たる依羅 求めて見人を帥ゐて旧国に還復し、援を東夷校尉の何龕に請ひ、龕 督護の賈沈を遣はして兵を将ゐて之を送る。(慕容)廆 其の将たる孫丁を遣はして騎を帥ゐて之を路に邀へ、(賈)沈 力戦し、(孫)丁を斬り、遂に扶餘に復す。
秋、匈奴の胡都大博及び萎莎胡 各々種落十萬餘口を帥ゐて雍州に詣りて降る。 九月戊寅、扶風武王駿 薨ず。 冬十一月壬子、隴西王泰を以て関中諸軍事を都督せしむ。泰は、宣帝の弟たる馗の子なり。 是の歳、鮮卑拓跋悉鹿 卒し、弟の綽 立つ。

現代語訳

春正月甲寅朔、日食があった〈武帝紀〉。魏舒が病気と称し、辞職を願い、劇陽子として免官になった。魏舒という人は、先に行動してから後で発言した。辞職のことも、だれも知らなかった。衛瓘が魏舒に文書を送り、「いつもあなたと議論したが、何日も終わらなかった。前にいるのを見かけたかと思えば、捉え所のないまま後ろにおられる(論語 子罕篇にある顔淵の言葉)というものか」と言った〈魏舒伝〉
夏、慕容廆が遼東を侵略した〈武帝紀〉。もと扶餘王の依慮の子である依羅が生きているひとを連れて旧国に還りたいと言った。援軍を東夷校尉の何龕に求めた。何龕は督護の賈沈を派遣した。慕容廆はその将である孫丁に騎兵に、途中で迎撃をさせた。賈沈は力戦して、孫丁を斬り、こうして扶餘を回復した〈前燕録 慕容廆伝〉
秋、匈奴の胡都大博及び萎莎胡がそれぞれ種落十万口あまりを連れて雍州にきて降服した〈匈奴伝〉
九月戊寅、扶風武王の司馬駿が薨じた〈武帝紀〉
冬十一月壬子、隴西王の司馬泰に関中諸軍事を都督させた〈武帝紀〉。司馬泰は、宣帝の弟である司馬馗の子である。
この年、鮮卑拓跋悉鹿が卒し、弟の綽が立った〈北魏 序紀〉

太康八(二八七)年

原文

世祖武皇帝中太康八年(丁未、公元二八七年) 春正月、戊申朔、日有食之。 太廟殿陥、秋九月、改營太廟、作者六萬人。 是歳、匈奴都督大豆得一育鞠等復帥種落萬一千五百口来降。

訓読

春正月戊申朔、日の之を食する有り。 太廟殿 陥し、秋九月、改めて太廟を營し、作る者 六萬人なり。 是の歳、匈奴都督たる大豆得一育鞠ら復た種落萬一千五百口を帥ゐて来降す。

現代語訳

春正月戊申朔、日食があった〈武帝紀〉
太廟殿が壊れ、秋九月、改めて太廟を造営し〈武帝紀〉、六万人で作った〈未詳〉
この年、匈奴都督である大豆得一育鞠らが、また種落の一万一千五百口をひきいて来降した〈匈奴伝〉

太康九(二八八)年

原文

世祖武皇帝中太康九年(戊申、公元二八八年) 春正月、壬申朔、日有食之。 夏六月、庚子朔、日有食之。郡国三十三大旱。 秋八月、壬子。星隕如雨。 地震。

訓読

春正月、壬申朔、日の之を食する有り。 夏六月、庚子朔、日の之を食する有り。郡国三十三 大旱あり。 秋八月、壬子、星 隕つること雨の如し。 地震あり。

現代語訳

春正月壬申朔、日食があった〈武帝紀〉。夏六月庚子朔、日食があった。三十三の郡国で日照りの害があった。秋八月壬子、流れ星が雨のようであった〈以上、武帝紀〉。地震があった〈五行志〉