いつか読みたい晋書訳

資治通鑑_晋紀四_巻八十二_世祖武帝下・孝恵皇帝上之上(二八九-二九八)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
作業手順は、以下の1.~4.の通りです。ここに掲載しているのは、翻訳の準備として、1.維基文庫をとりあえず現代語訳して大意をつかみ、4.『資治通鑑証補』の指摘を拾って赤文字で示す、という作業段階のものです。今後、精度を上げます。
1.維基文庫で、『資治通鑑』のテキストを取得。/2.中華書局の『資治通鑑』を底本とし、テキストを修正。/3.胡三省注、『資治通鑑考異』で内容理解を深める。/4.現代語訳をする際は、『資治通鑑』(続国訳漢文大成)、『和刻本資治通鑑』を参考とする。頼惟勤・石川忠久編『資治通鑑選』(中国古典文学大系14、平凡社)に収録されている部分はこれを参照する。/5.石川安貞『資治通鑑証補』(蓬左文庫)が正史等の出典を概ね示しているため、そのまま引用。同書が空格(空欄)としているものは、追加検証しない。6.初出の語彙には、読みがな(ルビ)を付す。

太康十(二八九)年

現代語訳

夏四月、太廟が完成した。乙巳、祫祭をした。大赦した〈恵帝紀〉
慕容廆は使者を遣わして降服を請い、五月〈恵帝紀〉、詔して慕容廆に鮮卑都督を拝した。慕容廆は何龕に謁見し、士大夫としての礼で、巾衣で門に至った。何龕は兵を統御してこれに会見したので、慕容廆は軍服に着替えてから入った。ひとがその理由を質問すると、慕容廆は、「主人は客を礼により迎えなかった、客がなぜ礼を尽くさねばならないか」と言った。何龕はこれを聞き、とても恥じ、敬意を抱いた。ときに鮮卑の宇文氏・段氏が強まり、しばしば慕容廆を侵略し、慕容廆はへりくだり貢ぎ物をして仕えた。段国単于の階は娘を慕容廆の妻とし、皝・仁・昭を生んだ。慕容廆は遼東が隔絶して遠いので、徒河の青山に移住した〈前燕 慕容廆伝〉
冬十月、明堂及び南郊五帝の位を回復した〈礼志〉
十一月丙辰、尚書令である済北成侯の荀勗が卒した。荀勗は才覚と思考力があり、君主の考えを察知し、寵愛を受けた。久しく中書におり、もっぱら機密を管理した。尚書に遷ると、やる気がなくなった。異動を祝福する者がいたが、荀勗は、「わが鳳皇の池を奪っておきながら、どこがめでたい」と言った〈荀勗伝〉
武帝は好きなだけ酒食にふけり、病気になった〈楊駿伝に依る〉。楊駿は汝南王の司馬亮を疎ましく思い、朝廷から追い出した。甲申〈日付は武帝紀〉、司馬亮を侍中・大司馬・仮黄鉞・大都督・督豫州諸軍事とし、許昌に出鎮させた〈司馬亮伝〉。南陽王の司馬柬を秦王、都督関中諸軍事とした。始平王の司馬瑋を楚王、都督荊州諸軍事とした。濮陽王の司馬允を淮南王、都督揚・江二州諸軍事とした。いずれも節を仮して国に赴任させた。皇子の司馬乂を長沙王、司馬穎を成都王、司馬晏を呉王、司馬熾を豫章王、司馬演を代王とし、皇孫の司馬遹を広陵王とした。さらに淮南王の子の司馬迪を漢王、楚王の子の司馬儀を毘陵王とし、扶風王の司馬暢を順陽王に移し、司馬暢の弟の司馬歆を新野公とした。司馬暢は、司馬駿の子である。琅邪王の司馬覲の弟の司馬澹を東武公とし、司馬繇を東安公とした。司馬覲は、司馬伷の子である〈武帝紀に依る〉。 これよりさき、武帝は才人の謝玖を太子に賜り、皇孫の司馬遹を生んだ。宮中でかつて夜に失火があり、武帝は楼に登って眺めていた。司馬遹は五歳であったが、武帝の裾を引っ張って暗がりに移し、「暗夜の突然の事件です、非常時に備えて下さい、人君が照らされて明るい場所にいてはいけません」と言った。この出来事によって(武帝は)太子を特別に評価した。群臣に向けて司馬遹は宣帝に似ていると述べ、天下はみな司馬遹を心を寄せて敬った〈愍懐太子伝〉。武帝は太子(司馬衷)に才覚がないと知っていたが、司馬遹の聡明さを惜しんで、廃立の心を持つには至らなかった。また王佑の考えを採用し、太子の同母弟である司馬柬・司馬瑋・司馬允を要害に配置した。さらに楊氏から危害を加えられないように、王佑を北軍中候とし、禁兵を掌握させた〈武帝紀〉
武帝は皇孫の司馬遹のために補佐を選出し、散騎常侍の劉寔は志操が清潔なので、命じて広陵王傅とした。劉寔は、この時代には昇進を喜ぶ風潮があったが、若いときから(地位を)人に譲り、『崇譲論』を著した。(劉寔が論ずるに)人臣を任命するときは、推薦の文書を作り、賢く有能なものに地位を譲らせ、ある官に欠員があれば、もっとも多く他人に譲ったものを用いるべきだとした。ひとは昇進を競えば自分より優れたものを批判するが、謙譲ぶりを競うならば自分より優れたものを推薦する。ゆえに昇進を競う風潮になれば、人材の優劣が(実態と評価が乖離して)混乱するが、謙譲ぶりを競えば、優れた人材がおのずと浮かび上がる。時流において、自分を抑制し、他者に譲るものが多くなれば、(賢者が)貧賤を守ろうとしても、世に出てしまう。昇進を競いながら謙譲を求めるのは、後退しながら前進しようとするようなものです」と言った〈劉寔伝〉
淮南相の劉頌も上疏して、「陛下は寛治を目指していますが、(治政の傾向は)かねてからの蓄積で決まるのであり、いちどの命令で徹底できるものではなく、状況から影響を受けます。世を弊害から救うことは、徐々に成果を出すものです。たとえば船で進むとき、急流を横切ることはできません。ゆっくり進めば、目標に近づき、渡りきることができます。泰始より以来、三十年になろうとしていますが、前代よりも治政は好転しておらず、陛下の善政があっても、末期の弊害を克服できません。創業者としての役割を成し遂げ、後世に伝えることを、お考えになりませんか。後世に向けて、不安があるならば、その原因は陛下にあります。社稷の計は、親賢を封建するのがよいそうです。 状況の見極めが大切で、もし諸侯が義に基づいて動くならば、京邑を守ってくれます。もし野心を秘めていれば、京邑の防衛には益しません。判断は簡単ではありませんが、陛下は古今の人材に精通したひとと、(封建のあり方を)相談して決めて下さい。周の諸侯は、罪があれば放逐されましたが、封国は存続しました。漢の諸侯は、罪があるか子が絶えるかすれば、封国を滅ぼしました。いま漢の弊害をのぞき、周を手本とすれば、上下ともに安定するでしょう。天下は大きく、政務は多岐にわたります。君主は幼くとも、天の日と同じです。だから聖王の教化は、主導権を握って、下に委任するものです。これは(君主が)労苦を投げ出すのではなく、体制とはそうあるべきです。新しい制度の可否は、判断が難しいですが、結果の功罪は、識別するのが易しいものです。いま陛下は、制度の新設ばかりに目を奪われ、結果に目が届いておりません。これが政事がまだ改善していない理由です。君主が落ち着いて、結果の功罪を見極めるならば、群下への賞罰は遺漏がなくなります。 いにしえは六卿が職能を分割し、冢宰が長官でした。秦漢より以来、九卿が政務をとり、丞相が総管しました。いま尚書が実権をにぎり、諸侯はなぞるだけで、いにしえの制度よりも重すぎます。政事はそれぞれの部署に、分権させるべきです。尚書は大枠だけを握り、丞相がやるように、年末に人事考課や、文書の管理や賞罰をするだけでも、十分でありましょう。いま下のものは上の決定をなぞるだけです。(下が結果を出せないとき)上の過失が原因であれば、下を処罰することができず、その年に功績がなくても、当事者を追及できません。細かい過失は、人間ならば必ずやるものです。これを法で取り締まったら、朝野には人員がいなくなります。近年の監察役は、大局を見ようとせず小さな失敗ばかりを挙げます。権門をはばかり、また監察の怠慢とされることを怖がり、どうでもいい失敗ばかりを、弾劾しています。公務に尽くしているようで、法のこころを外しております。ですから(いにしえの)聖王は細かな報告を受け付けず、凶悪で狡猾なものを取り締まったので、治政に有害なものは、おのずと捕らえられたのです。創業の君の仕事とは、教えを定めて制度を立て、後世に教訓をつたえ、次世代の君主が幼弱でも、国家が存続できるようにし、(君主が)暗愚でも名君の働きができるように整えることです。官僚組織をいじったり、労役を盛んにするのは、安泰を損ねるものです。やり足りないということはなく、陛下でなく後世でもやれることです。(初代が)取り組む必要のないことに励むのは、適切でないと思います」と言った。武帝は採用できなかった〈劉頌伝〉
詔して劉淵を匈奴北部都尉とした。劉淵は財を軽んじて施しを好み、心を傾けてひとに接した。五部の豪傑や幽州と冀州の名儒の多くが、かれを頼りにした〈前趙録 劉淵伝〉
奚軻の男女十万口が降って来た〈武帝紀〉

永熙元(二九〇)年

現代語訳

春正月辛酉朔、太熙と改元した〈帝紀〉
己巳、王渾を司徒とした〈帝紀〉
司空・侍中・尚書令の衛瓘の子である衛宣は、繁昌公主をめとった。衛宣は酒をたしなみ、失敗が多かった。楊駿は衛瓘をにくみ、かれを放逐しようとした。黄門とともに衛宣を批判し、武帝に公主を奪うよう求めた。衛瓘は恥じて懼れ、老齢なので官位を辞した。詔して衛瓘の位を太保に進め、公として邸宅に帰らせた〈衛瓘伝〉
劇陽康子の魏舒が薨じた〈魏舒伝に依る〉
三月甲子、右光禄大夫の石鑒を司空とした〈帝紀〉
武帝の病が重くなり、まだ顧命(遺詔)がなかった。旧来の功臣は多くが故人であり、侍中・車騎将軍の楊駿だけが禁中で看病をした。大臣は近づけず、楊駿は都合よく武帝の意思を改竄し、かれの側近で囲い込んだ。武帝の意識が戻ると、顔ぶれを見慣れないから、顔色を変えて楊駿に、「どうしてこんなことをした」と言った〈楊駿伝〉。ときに汝南王の司馬亮はまだ出発しておらず〈司馬亮伝〉、中書に詔を作らせ、司馬亮と楊駿が共同で輔政するものとし〈楊駿伝〉、さらに朝廷の名望家の数人に補佐させようとした〈武帝紀〉。楊駿は中書から尚書の文案を見て、隠してしまった。中書監の華廙は恐懼し、探し求めたが、楊駿は返却しなかった〈楊駿伝〉。たまたま武帝の意識が混濁し〈武帝紀〉、皇后は楊駿の輔政で宜しいですねと念を押し、武帝は頷いた〈楊駿伝〉
夏四月辛丑〈帝紀〉、皇后は華廙および及中書令の何劭を召し、口頭で武帝の遺詔を作成させ、楊駿を太尉・太子太傅・都督中外諸軍事・侍中・録尚書事とした。詔が完成すると、つぎに華廙と何邵と向きあって、武帝は無言であった〈楊駿伝〉。華廙は、華歆の孫である。何劭は、何曾の子である。汝南王の司馬亮を鎮所に赴かせた〈未詳〉。ほどなく武帝が意識を取り戻し、「汝南王はまだ来ていないのか」と言った。左右のものは、まだですと答え、武帝は危篤になった。己酉、含章殿で崩御した。武帝は度量が大きく、聡明で知謀があり、よく直言を受け入れ、機嫌を損ねたことがなかった〈帝紀〉
太子が皇帝の位に即き、大赦し、改元した。皇后を尊んで皇太后といい、妃の賈氏を皇后に立てた〈帝紀〉
楊駿は入って太極殿で寝泊まりし、梓宮で殯するとき、六宮は辞去したが、楊駿だけがそこから離れず、虎賁百人で自衛した〈楊駿伝〉
石鑒に詔して中護軍の張劭とともに山陵の建造を監督させた〈石鑒伝〉
汝南王の司馬亮は楊駿を畏れ、あえて遺体に立ち会わず〈石鑒伝〉、大司馬門の外で哭した〈司馬亮伝〉。司馬亮は城外に出て露営し〈石鑒伝〉、上表して葬送への立ち会いを願い出た〈司馬亮伝〉。あるひとが兵を挙げて楊駿を討とうとしていると言った。楊駿は大いに懼れ、太后に伝え、恵帝の手をとって詔を作り、石鑒・張劭に与えて、遺体を守る兵をつかって司馬亮を討伐しようとした。張劭は、楊駿のおいであり、配下をひきいて石鑒のもとにゆき、決起を促した。石鑒は同意せず、兵を動かさなかった〈石鑒伝〉。司馬亮が廷尉の何勖に計略を問うと、「いま朝野はあなたに心を寄せており、あなたがひと(楊駿)を討たなければ、ひとに討たれることになります」と言った。司馬亮は決行せず、夜に許昌まで馳せ、免れることができた〈司馬亮伝〉
楊駿の弟である楊済および、おいの河南尹の李斌は、どちらも楊駿に司馬亮を留めることを勧めたが、楊駿は従わなかった。楊済は尚書左丞の傅咸に、「わが兄がもし大司馬を徴し、引退して身を隠したら、わが一族は存続できるものを」と言った。傅咸は、「宗室と外戚は、助けあってこそ安定します。ただ大司馬を都に召し、公正を重んじて輔政したら、身を隠すこともありません」と言った。楊済は侍中の石崇から楊駿を説得させたが、楊駿は従わなかった〈楊駿 附楊済伝〉
五月辛未、武帝を峻陽陵に葬った〈武帝紀〉
楊駿は自分に名望がないことを分かっており、だから魏の明帝が即位したときの故事に基づき、爵位をばらまいて衆心を買おうとした。左軍将軍の傅祗は、楊駿に書簡を送り、かつて帝王が崩御したばかりで、臣下に論功したことはありません」と言った。楊駿は従わなかった。傅祗は、傅嘏の子である〈傅祗伝〉
丙子、中外の群臣に詔して、位一等を増し、葬儀に携わったものは二等を増した。二千石より以上は全員を関中侯に封建し、租調を一年免除した〈恵帝紀〉。散騎常侍の石崇・散騎侍郎の何攀はともに上奏し、「皇帝は東宮の地位に二十年あまりおり、いま大業を継承しました。しかし、賞与と封爵は、泰始の革命のときや諸将が呉を平定したときより重く、軽重が正しくありません。大晋の命運は永遠であり、いまの方式では、爵位が進み続け、数世代後には、全員が公侯となります」と言った。(楊駿は)従わなかった〈石崇伝〉
詔して太尉の楊駿を太傅・大都督・仮黄鉞とし、朝政を録し、百官を統括させた。傅咸は楊駿に、「諒闇が行われなくなって久しい。いま聖上は謙譲して、政務をあなたに委任しています。しかし天下は歓迎しておらず、あなたが枠組みをはみ出すことを心配しています。周公は大聖でしたが、(君位を奪うという)あらぬ噂を立てられました。ましてや聖上の年齢は、成王よりも上です。武帝の山陵への埋葬が終わりました。あなたは進退のことを熟考し、その忠義について吟味しても、良いのではありませんか」と言った。楊駿は従わなかった。傅咸はしばしば楊駿を諫めたが、だんだん面白くなくなり、傅咸を郡の太守に転出させようとした。李斌は、「正しい人を追い出せば、人望を失います」と言った。止めておいた。楊済は傅咸に書簡を送り、「ことわざに、『生まれた子が賢くなければ、公務を終えられる』という。公務を終えるのは簡単ではない。命が心配だから、助言しているのですよ」と言った。傅咸は返信をして、「衛公は、『酒色は人を殺す、直言よりもひどい」と言いました。酒食に溺れて死んでも、人は後悔しません。しかし直言による禍いを恐れ、正しいことができず、口をつぐむのが賢いとしています。いにしえから直言して禍いを受けたものは、度が過ぎていたり、忠篤でなかったり、声を荒げて、怒りを買ったのです。慎み深く忠言をしたら、怨みを買うことがありましょうか」と言った〈傅咸伝〉
楊駿は賈后の気が強く、権略が多いため、これを憚り、そのおいの段広を散騎常侍とし、機密を担当させた。張劭を中護軍とし、禁兵を管轄させた。すべての詔命は、恵帝が見終わると、楊太后に提出され、その後に実行された〈楊駿伝〉
楊駿の為政は、独断的であり、内外から憎まれた。馮翊太守の孫楚は楊駿に、「あなたは外戚として、伊尹や霍光の任にあたり、公正と誠実を心がけて謙譲して道理にかなった政治をするべきだ。いま宗室は勢いが盛んであり、しかしあなたは共同して政治をせず、内に猜疑心を抱き、外に私党ばかり立てている。禍いが目前だ」と言った。楊駿は従わなかった。孫楚は、孫資の孫である〈楊駿伝〉
弘訓少府の蒯欽は、楊駿の姑の子である。しばしば楊駿に正論をぶつけ、周囲は肝を冷やした。蒯欽は、「楊文長(楊駿)は知恵が暗いが、無罪のものを殺してはいけない、というくらいなら分かる。私はせいぜい、(楊駿に殺されることはなく)遠ざけられるだけだ。もし遠ざけられたら、巻き込まれて死ぬことはない。遠ざけられなければ、まとめて族殺をされるだろう」と言った〈楊駿伝〉
楊駿は匈奴東部のひとである王彰を辟召して司馬とした。王彰は逃避して受けなかった。その友である新興の張宣子は怪しんで理由を聞くと、王彰は、「いにしえより一姓が二后を輩出すると、かならず敗亡した。まして楊太傅はつまらぬ人材を近づけ、君子を遠ざけ、専権しており、敗亡まで日数がありません。私は海を越えて塞外に逃れても、なお禍いが及ぶことが心配です。なぜ辟召に応じられましょう。しかも武帝は社稷の大計を思わず、継嗣は職責に堪えられません。次代に適任者を据えないなら、天下の乱を待っているようなものです」と言った〈未詳〉。 秋八月壬午、広陵王の司馬遹を皇太子に立てた。中書監の何劭を太子太師とした〈恵帝紀〉。衛尉の裴楷を少師とした〈裴楷伝〉。吏部尚書の王戎を太傅とし、前太常の張華を少傅とした。衛将軍の楊済を太保とした〈恵帝紀〉。尚書の和嶠を少保とした〈未詳〉
太子の母である謝氏を淑媛とした。賈后はいつも謝氏を別室に居らせ、太子との面会を許さなかった〈外戚 謝夫人伝〉。これよりさき、和嶠は従容として武帝に、「皇太子はいにしえの純朴さがありますが、今日は政事は偽りが多いのです。帝業に適応できないのではありませんか」と言った。武帝は黙然とした。のちに荀勖らとともに武帝に侍り、武帝が、「太子はこのごろ入朝して進歩したようだ。きみたちは見てきて、時事について話してみてくれ」と言った。還ってくると、荀勖らは太子の見識と度量を褒めたたえ、ご指摘のとおりですと言った。和嶠は、「性質は少しも進歩がありませんでした」と言った。武帝は不満そうに席を立った。恵帝が即位すると、和嶠は太子の司馬遹に従って入朝した。賈后が恵帝から質問をさせ、「きみはむかし私が帝業になじまないと言ったが、今日はどう思っているか」と言った。和嶠は、「私はむかし先帝に仕え、そのように申しました。実現していなければ、国家にとって幸いです」と言った〈和嶠伝〉
冬十月辛酉、石鑒を太尉とし、隴西王の司馬泰を司空とした〈恵帝紀〉。劉淵を建威将軍・匈奴五部大都督とした〈前趙録 劉淵伝〉

元康元(二九一)年

現代語訳

春正月乙酉朔、永平と改元した〈恵帝紀〉
これよりさき、賈后が太子妃となると、嫉妬により、手ずから数人を殺し、戟を妊婦に投げつけ、胎児が転がり落ちた。武帝は大いに怒り、金墉城を整備し、廃位にしようとした〈賈后伝〉
荀勖・馮紞〈荀勖伝〉・楊珧および充華(官名)の趙粲はともに擁護して、「賈妃はまだ若く、嫉妬は婦人につきもの。成長したら落ち着きます」と言った〈賈后伝〉。楊后は、「賈公閭(賈充)は社稷に大勲があります。その娘を妃としながら、嫉妬を理由に廃位するのは、先人の徳を忘れたことになりませんか」と言った〈悼楊后伝〉。賈妃はおかげで廃位を免れた〈賈后伝〉。楊后はしばしば賈妃を教戒し、賈妃は楊后に助けられたことを知らず、かえって楊后が武帝に悪口を吹き込んだと思い、怨みを抱いた〈楊后伝に依る〉。恵帝が即位すると、賈后は婦道により太后に仕えることを拒否し、政事への関与を望んだが、太傅の楊駿に妨げられた。殿中中郎である渤海の孟観・李肇は、どちらも楊駿に礼遇されないため、対抗心を持ち、楊駿が社稷を危うくすると喧伝した。黄門の董猛は、(恵帝が太子だった時代から)東宮に給事しており、寺人監となったが、賈后はひそかに董猛に、孟観と李肇と結託して、楊駿を誅殺し、楊太后を廃位にしようとした。董肇から汝南王の司馬亮に連絡させ、楊駿の討伐を持ちかけたが、司馬亮は断った。董肇は都督荊州諸軍事である楚王の司馬瑋に持ちかけると、司馬瑋は喜んで同意し、入朝したいと求めた。楊駿は司馬瑋の勇敢さを憚っていたので、入朝させることを躊躇したが、結局は許可をした〈楊駿伝に依る〉。二月癸酉、司馬瑋および都督揚州諸軍事である淮南王の司馬允が来朝した〈恵帝紀〉
三月辛卯、孟観と李肇は恵帝に伝え、夜に詔を作り、楊駿の謀反をでっちあげ、内外を厳戒態勢とした。使者が詔を奉じて楊駿を廃位し、侯として邸宅に帰らせた。東安公の司馬繇に命じて殿中の四百人をひきいて楊駿を討伐させた〈楊駿伝〉。楚王の司馬瑋は司馬門に駐屯し〈司馬瑋伝〉、淮南相の劉頌を三公尚書とし〈劉頌伝〉、殿中に屯衛させた。段広は跪いて恵帝に、「楊駿は爵位の後継者がおらず、造反する理由がありません。陛下は再考なさいませ」と言った。恵帝は答えなかった〈楊駿伝〉
このとき楊駿は曹爽の故府におり、武庫の南であったが、変事があると聞き、衆官を召して議論した。太傅主簿の朱振は楊駿に説いて、「いま変事があるかは、赴けば分かります。きっと宦官が賈后とともに謀略を設けたのであり、あなたは不利な状況です。雲龍門を焼いて脅し、謀反の主導者の首を要求し、万春門を開き、東宮及び外営の兵を使って皇太子を担ぎ、宮殿に入り姦人を捕らえなさい。宮殿は震え懼れ、きっと首を斬って送ってきます。さもなくば、危難を乗り切れません」と言った。楊駿は怯懦なので決断せず、「雲龍門は、魏の明帝が建造したものだ。工数と費用が甚大である。どうして焼いてよいものか」と言った。侍中の傅祗は楊駿に提言し、尚書の武茂とともに宮殿に入って事勢を観察した。群僚に向け、「宮中を手薄にしてはいけない」と言った。立って礼をして階段を下りた。すると兵衆が逃げてしまった〈楊駿伝〉
武茂はまだ座っていた。傅祗は顧みて、「きみは天子の臣ではないのか。いま内外が隔絶し、国家の所在が分からない。なぜ座っていわれるのだ」と言った。武茂は驚いて立ち上がった〈傅祗伝〉。楊駿の党派に属する左軍将軍の劉豫は兵を門に配置し、右軍将軍の裴頠と遭遇した。太傅(楊駿)の所在を問うと、裴頠はあざむいて、「西掖門に向かって素車に乗っているのを見た。二人を従えて西に出た」と言った。劉豫は、「私はどこに行けばいいか」と言った。裴頠は、「廷尉のところに行くべきだ」と言った。劉豫は裴頠の言に従い、裴頠に守備を委ねて去った。ほどなく詔して裴頠を劉豫の後任の領左軍将軍とし、万春門に駐屯させた。裴頠は、裴秀の子である〈裴頠伝〉
皇太后は布に筆で文字を書いて、城外に射込み、「太傅(楊駿)を救った者には褒賞がある」と伝えた。賈后はこれを受けて楊太后も反逆したと宣言した〈悼楊后伝〉。 ほどなく殿中の兵が出撃し、楊駿の府(役所)を焼き、弩士を閣上に配備して楊駿の府を狙撃したので、楊駿の兵は出られなくなった。楊駿は馬廐に逃げたところを殺された〈楊駿伝〉
孟観らは楊駿の弟の楊珧と楊済、張劭・李斌・段広・劉豫・武茂および散騎常侍の楊邈・中書令の蒋俊・東夷校尉の文鴦を捕らえて、みな夷三族とし〈恵帝紀〉、死者は数千人であった〈楊駿伝〉
楊珧は刑を執行されるとき、東安公の司馬繇に訴えて、「上表が(宗廟の)石の箱にある、張華に確認してほしい」と言った。みな鍾毓の前例に依拠して、審理を尽くすべきだと言った〈楊珧伝〉。司馬繇は許さず、しかし賈氏の族党が死刑執行を促した。楊珧は訴え叫んでやまず、執行者は刀でその頭を打ち砕いた。司馬繇は、諸葛誕の外孫である。ゆえに文鴦を嫌っており、楊駿に協力したと誣告して、これを誅殺した。この夜、誅殺も褒賞もすべて司馬繇の判断のもとで行われ〈司馬繇伝〉、威信は内外に振るった。王戎は司馬繇に、「大きな政変の後です、権勢を慎重に遠ざけなさい」と言った。司馬繇は従わなかった〈王戎伝〉
壬辰、天下を赦し、改元した〈恵帝紀〉
賈后は詔を曲げて、後軍将軍の荀悝に楊太后を永寧宮へ移送させた。(恵帝は)特別に皇太后が実母の高都君龐氏の面倒をみるため、太后と同居することを許可した。賈后は群公や担当官に吹き込んで上奏し、「皇太后はひそかに姦悪なはかりごとを進め、社稷を危うくしようと図りました。飛矢で文書を(宮殿の外に)射込み、将士を募集して、悪者同士でかばいあい、自ら天との関係を断ち切りました。(春秋時代に)魯侯が文姜を遠ざけたのは、『春秋』において(孔子が)認めたことです。おそらく祖先を奉り、天下で至公を実現するためです。陛下は(楊太后への寛大な措置を)やむを得ないと考えたかも知れないが、臣下は同意していません」と言った。詔して、「重要なことだ、改めて議論せよ」と言った。担当官は、「楊皇太后を廃して峻陽庶人となさいませ」と上奏した〈悼楊后伝〉
中書監の張華は、「皇太后は先帝から罪を得ていません。いま味方を集め、皇帝の母として不適切とするなら、漢が趙太后を廃して孝成后とした故事に準拠し、皇太后の号を貶め、武皇后にもどし、貴位(皇后)のまま終わらせるべきです」と言った〈張華伝〉。左僕射の荀愷は太子少師である下邳王の司馬晃らと建議して、「皇太后は社稷を脅かした、先帝と合祀すべきではないから、尊号を貶めて、廃位して金墉城に移しなさい」と言った。ここにおいて担当官は司馬晃らの意見に従い、太后を廃して庶人にすることを申請した〈悼楊后伝〉。詔により許可された。さらに上奏し、「楊駿が反乱をしたので、家族は誅殺すべきです。(ところが)詔があって楊駿の妻の龐氏(太后の母)を助命し、太后の心を慰めました。いま太后を廃位して庶人としたのですから、龐氏を廷尉に引き渡して刑を執行して下さい」と言った。詔して許さなかった。担当官が強く要請したので、許可が下りた。龐氏が処刑されるとき、太后が抱きあって泣き叫び、髪を切って額を地につけ、賈后に面会して妾と自称し、母の命乞いをしたが、顧みられなかった〈悼楊后伝〉
董養は太学に遊学し、堂上で歎じ、「朝廷はこの堂を立てたが、むなしいことだ。いつも国家の赦しの文書を見ていると、謀反して大逆したものを赦し、祖父母や父母を殺したものを赦さない。王法に背いているのではないか。公卿の会議の内容は、礼典をもてあそぶだけで、こんな事態になってしまった。天人のことわりは滅び、大きな乱が起こるだろう」と言った〈隠逸 董養伝〉
担当官は楊駿の官属を捕らえ、全て誅殺しようとした。侍中の傅祗は、「むかし魯芝は曹爽の司馬であったが、関所を突破して曹爽のもとに赴き(忠誠を見せたので)、宣帝はかれを青州刺史に用いました。楊駿の僚佐を、皆殺しにするのは待ちなさい」と言った。詔してかれらを赦した〈傅祗伝〉
壬寅、汝南王の司馬亮を徴召して太宰とし、太保の衛瓘とともに録尚書事、輔政とした。秦王の司馬柬を大将軍とし、東平王の司馬楙を撫軍大将軍とし、楚王の司馬瑋を衛将軍・領北軍中候とし、下邳王の司馬晃を尚書令とした。東安公の司馬繇を尚書左僕射とし、爵位を王に進めた〈恵帝紀〉。司馬楙は、司馬望の子である。董猛を武安侯に封建し、三人の兄もまた亭侯とした〈未詳〉
司馬亮は群臣を悦ばせようと、楊駿を誅殺した功績を論じ〈司馬亮伝に依る〉、督将で侯になったものは千八十一人であった〈恵帝紀〉。御史中丞の傅咸は司馬亮に書簡を送り、「いま封賞が過剰であり、天地を震動させ、いにしえ以来、なかったことです。功績がないが褒賞を厚くすれば、国の禍いが期待され、混乱の原因となります。これを決定したのは、東安公です。ひとは殿下が来たからには、修正されると考え、さすれば落ち着きます。群臣が高ぶっているのは、不公平だからです。ところが、褒賞をさらに倍増させたら、全員から失望されます」と言った。司馬亮は権勢を独占していた。みなが諫め、「楊駿は主君を脅かす勢威があり、親族で政権を固めたので、天下が騒いだのです。いま重任におられ、この失敗を訂正なさいませ。冷静さを保てば、大きな失敗があっても、政権を維持できます。重大なことでなければ、放置しても構いません。自閥を尊重し、車馬に天蓋をつけ、街道に満ちあふれていますが、このような風潮は、収束をさせて下さい。また夏侯長容は功績がないのに、にわかに少府に抜擢されました。論者らは夏侯長容は、あなたの姻戚なので、出世したと言っています。これが四方に伝播するのは、国家の不利益です」と言った。司馬亮はいずれも従わなかった〈傅咸伝〉
賈后の族兄である車騎司馬の賈模、従舅である右衛将軍の郭彰、女弟の子の賈謐は、楚王の司馬瑋・東安王の司馬繇とともに、国政を統括した。賈后の暴虐は日ごとに悪化し、司馬繇はひそかに賈后の廃位を計画したので、賈氏はかれを警戒した。司馬繇の兄である東武公の司馬澹は、司馬繇と不仲であったので、しばしば太宰の司馬亮にかれを誹謗し、「司馬繇は誅賞を勝手におこない、朝政を専断しています」と言った。庚戌、詔して司馬繇を免官とした。不適切な発言があったとして、廃位して帯方に移された〈司馬繇伝〉
ここにおいて賈謐・郭彰の権勢はいよいよ盛んになり、賓客は門に満ちた。加筆は奢侈であるが学問を好み、士大夫を好んで招いた。郭彰・石崇・陸機・陸機の弟の陸雲・和郁および滎陽の潘岳・清河の崔基・勃海の歐陽建・蘭陵の繆征・京兆の杜斌・摯虞・琅邪の諸葛詮・弘農の王粋・襄城の杜育・南陽の鄒捷・斉国の左思・沛国の劉瑰・周恢・安平の牽秀・穎川の陳眕・高陽の許猛・彭城の劉訥・中山の劉輿・劉輿の弟の劉琨は、みな賈謐と交際があり、二十四友と呼ばれた〈賈充 附賈謐伝に依る〉。和郁は、和嶠の弟である〈和嶠伝〉。石崇と潘岳は、とくに賈謐に接近し、いつも賈謐および広城君の郭槐の外出に同行し、馬車を降りるときは道路に待機し、塵をかぶって頭を下げていた〈石苞 附石崇伝〉
太宰の司馬亮・太保の衛瓘瓘は、楚王の司馬瑋が強情で殺人を好むので、かれを憎み〈司馬瑋伝に依る〉、兵権を取り上げようとした〈司馬亮伝〉。臨海侯の裴楷を、司馬瑋に代えて北軍中候にしようとした。司馬瑋は怒った。裴楷はこれを聞き、あえて拝命しなかった〈裴楷伝〉。司馬亮はさらに衛瓘と相談し、司馬瑋を諸王とともに封国に赴任させようとした〈裴楷伝〉。司馬瑋は、ますます怒り狂った。司馬瑋の長史の公孫宏と舎人の岐盛は〈司馬瑋伝〉、どちらも司馬瑋から寵用されており、司馬瑋に、賈后への接近を勧めた。賈后は司馬瑋を留めて領太子太傅とした〈未詳〉
岐盛は楊駿と関係がよく、衛瓘はその無節操ぶりを憎み、かれを捕らえようとした。岐盛は公孫宏と謀り、積弩将軍の李肇に司馬瑋の命令を偽造させ、司馬亮と衛瓘が賈后を批判し、廃立を計画していると言わせた〈司馬瑋伝〉。賈后は衛瓘を嫌っており、また二公(司馬亮と衛瓘)が執政し、目の上のこぶと思っていた〈衛瓘伝〉
夏六月、家屋は恵帝に直筆の詔を作らせて、司馬瑋に向けて、「太宰と太保は、伊尹と霍光の事業(皇帝の廃位)を計画している。王は詔を広め、淮南王と長沙王と成都王とともにそれぞれ宮門に兵を配備し、司馬亮および衛瓘の官位を剥奪せよ」と書いた。夜、黄門に伝達させて司馬瑋に(詔を)授けた。司馬瑋は、確認のための上奏をしようとしたが、黄門は、「計画が漏洩したら、詔の意味がなくなる」と言った〈司馬瑋伝〉
司馬瑋もまた私怨を報復したいと思っていたので〈衛瓘伝に依る〉、本軍をととのえ、偽造の詔により三十六軍を召し、「二公は反逆を企んでいる。わたしは詔を受け、中外の諸軍を都督する権限を与えられた。警備の兵たちは、持ち場を厳重に固めよ。城外にある兵は、すぐに行府に赴いて、逆賊の討伐に加わるように」と言った。また詔を偽造し、「司馬亮と衛瓘の部下は、一切を不問にする。みな役割を離れよ。もし詔に従わないならば、軍法で処罰する」と言った〈司馬瑋伝〉
公孫宏と李肇に司馬亮の役所を包囲させ〈司馬亮伝〉、侍中の清河王の司馬遐に衛瓘を捕らえさせた〈司馬瑋伝に依る〉。司馬亮の帳下督の李龍は、「外で兵変があります、対処して下さい」と言った。司馬亮は許さなかった。にわかに兵が垣根を登ってきて叫んだ。司馬亮は驚き、「わたしに二心はない。なぜ攻めてくるのだ。詔書があるなら、見せてくれ」と言った。公孫宏らは聞く耳を持たず、兵を向けて攻撃した。長史の劉準は司馬亮に、「どうやら姦謀のようです。政府には賢者がおります(弁解して挽回できます)。応戦すべきです」と言った。司馬亮は許さなかった。こうして李肇に捕らわれた。司馬亮は歎じて、「わが赤心を、胸を破って天下に示したい」と言った。世子の司馬矩とともに死んだ。衛瓘の左右もまた、司馬遐が詔を曲げていることを疑い、応戦をして〈司馬亮伝〉、弁解の上表をしてから、死刑に遭っても遅くありませんと言った。衛瓘は聴き入れなかった。ましょうと言った。衛瓘は聴き入れなかった。これよりさき、衛瓘が司空となると、帳下督の栄晦が罪を犯し、追放された。ここにいたり、栄晦は司馬遐に従って衛瓘を捕らえ、衛瓘および子孫の九人を皆殺しにした。司馬遐はそれを制止できなかった〈衛瓘伝に依る〉
岐盛は司馬瑋に、「兵勢に乗って、賈后と郭氏を誅殺し、王室を正せば、天下は安泰です」と言った。司馬瑋は迷って決められなかった。ちょうど夜明けになり〈司馬瑋伝〉、太子少傅の張華は董猛を使わして賈后に、「楚王はすでに二公を誅殺し、天下の威権は、すべてかれに帰属しました。君主はどうして安心できましょう。司馬瑋には二公を殺した罪がありますから、かれを誅殺しましょう」と言った。賈后もまた、司馬瑋を排除したいと思っていたから、心から同意した。このとき内外は騒ぎ乱れ、朝廷は恐怖に陥り、判断が停止していた〈未詳〉。張華は恵帝に、殿中将軍の王宮に騶虞幡を持たせて兵たちの前に靡かせ、「楚王が詔を偽造したのだ、許してはならぬ」と言った。みな武装を解いて逃げ出した。司馬瑋のそばには一人も残らず、追い詰められ、捕らわれて廷尉に下された〈司馬瑋伝〉。乙丑、これを斬った。司馬瑋は懐中から青い紙の詔を取り出し、涙を流して監刑尚書の劉頌に見せて、「幸いにも先帝の子として生まれたが、不当な罪により死刑になるのか」と言った。公孫宏と岐盛も夷三族とされた〈司馬瑋伝〉。 司馬瑋が兵を起こすと、隴西王の司馬泰は兵を戒めて司馬瑋を助けた。祭酒の丁綏が諫めて、「公は宰相です。軽々しく動いてはいけません。夜中の突然のことです、ひとを派遣して実情を検分すべきです」と言った。司馬泰は中止した〈宗室 司馬泰伝〉
衛瓘の娘は国臣に文書を送り、「先公(衛瓘)の諡号がまだ定まっていないのに、国家から音沙汰がありません。『春秋』の義が失われています。責任はどこにあるのでしょうか」と言った。〈衛瓘伝〉。 ここにおいて太保主簿の劉繇らが黄色の旗を手にとり、諫言をする鼓を鳴らし、上言し、「これよりさき、偽造された詔が到着すると、衛瓘はすぐに奉って章綬を送り、単車で命令に従いました。もし偽造の詔の通りなら、免官だけで済むはずです。(ところが)もと給使の榮晦は、衛瓘の父子と孫を捕らえ、まとめて斬殺しました。正確な裁判により、刑罰を明らかにして下さい」と言った。詔して榮晦を族誅とした〈衛瓘伝〉。司馬亮の爵位を回復し〈司馬亮伝〉、文成と諡した〈未詳〉。衛瓘を蘭陵郡公に封建し、成と諡した〈衛瓘伝〉
ここにおいて賈后は朝政を専らにし、親党に委任し、賈模を散騎常侍とし、侍中を加えた〈賈模伝〉。賈謐は賈后と謀をめぐらせ、張華は庶姓(寒門)の出身で、上位者に逆らわず、優雅で見識があり、衆望から支持されているから、朝政を委任しようとした。迷って決断ができず、裴頠に相談すると賛成であった。そこで張華を侍中・中書監とし〈張華伝〉、裴頠を侍中とし〈裴秀 附裴頠伝〉、安南将軍の裴楷を中書令とし、侍中を加え、右僕射の王戎とともに政権の中枢を管掌させた〈裴楷伝〉。張華は帝室に忠を尽くし、失敗を補ってくれたから、賈后は凶悪であったが、張華を尊重した。賈模は張華・裴頠と協力して輔政したので、数年のうちは、恵帝が暗愚であったが、朝野は安泰であり、これは張華らのおかげであった〈張華及び賈模伝に依る〉
秋七月、荊州と揚州の十郡を分けて江州とした〈恵帝紀〉
八月辛未、隴西王の司馬泰の世子である司馬越を東海王に立てた〈恵帝紀〉
九月甲午、秦献王の司馬柬が薨じた〈恵帝紀〉
辛丑、征西大将軍である梁王の司馬肜を徴して衛将軍・録尚書事とした〈恵帝紀〉

元康二(二九二)年

現代語訳

春二月己酉、故の楊太后が金墉城で卒した〈恵帝紀〉。是の時、太后はまだ侍御が十餘人いた。賈后は全てを奪い、膳を八日間出さずに卒した。賈后は太后に霊があることを恐れ、先帝に冤罪を訴え、覆して殯し、諸々の厭劾符書・薬物らを施した〈武悼楊后伝〉
秋八月壬子、天下を赦した〈恵帝紀〉

元康三(二九三)年

現代語訳

夏六月、弘農で雹が降り、三尺積もった〈恵帝紀〉
鮮卑の宇文莫槐が部下に殺された。弟の普撥が立った〈北魏序紀〉
拓跋綽が卒し、弟の子である弗が立った〈北魏序紀〉

元康四(二九四)年

現代語訳

春正月丁酉、安昌元公の石鑒が薨じた〈恵帝紀〉
夏五月、匈奴の郝散が反し、上党を攻め、長吏を殺した。秋八月、郝散は兵を率いて降り、馮翊都尉はこれを殺した。この年、大いに飢饉があった〈恵帝紀〉
司隸校尉の傅咸が卒した。咸の性格は剛強であり、厳格で荘重であった。司隸校尉になると上言し、「賄賂が横行してます、根絶されるべきです」と言った。このとき朝政は弛緩しており、権勢家が欲しいままにしており、みな傅咸は上奏して河南尹の応澹らの官を罷免し、京師は粛然となった〈傅咸伝〉
慕容廆は居を大棘城に移した〈前燕録〉
拓跋弗が卒し、叔父の禄官が立った〈北魏序紀〉

元康五年(二九五)年

現代語訳

夏六月、東海に雹が降り、五寸積もった〈恵帝紀〉
荊・揚・兗・豫・青・徐の六州で洪水が起きた。冬十月、武庫で火災があり、累代の宝及び二百万人の武具が焼けた。十二月丙戌、新たに武庫を作り、大いに兵器を整えた〈恵帝紀〉
拓跋禄官がその国を分けて三部とし、一つは上谷の北・濡源の西に居住し、自ら統治した。一つは代郡の參合陂の北に居住し、兄の沙漠汗の子である猗□に統治させた。一つは定襄の盛楽故城に居住し、猗□の弟の猗廬に統治させた。猗盧は用兵を得意とし、西では匈奴・烏桓の諸部を攻撃し、これを撃破した〈北魏序紀〉
代人の衛操は従子の衛雄及び同郡の箕澹とともに移動して拓跋氏を頼り、猗□・猗廬に晋人を招き入れるよう説いた。猗□はこれを悦び、国政を任せ、晋人で帰付する者は増えていった〈北魏 衛操伝〉

「猗□」の「□」は、「施」という字の、旁のみ。

元康六(二九六)年

現代語訳

春正月、天下を赦した〈恵帝紀〉
下邳献王の司馬晃が薨じた。中書監の張華を司空とした。太尉である隴西王の司馬泰を行尚書令とし、移して高密王に封じた〈高密王泰伝〉
夏、郝散の弟である度元は馮翊・北地の馬蘭羌・盧水胡とともに反し、北地太守の張損を殺し、馮翊太守の歐陽建を破った〈恵帝紀〉
征西大将軍である趙王の司馬倫は嬖人である琅邪の孫秀を信任し、雍州刺史である済南の解系とともに軍事を争った。それぞれ上奏した〈解系伝〉。歐陽建もまた司馬倫の罪悪を上表した。朝廷は司馬倫が関右を騒ぎ乱したから、司馬倫を徴して車騎将軍とした〈司馬倫伝〉。梁王の司馬肜を征西大将軍・都督雍・涼二州諸軍事とした〈恵帝紀〉。解系はその弟の御史中丞の解結とともに、上表して孫秀を誅殺して、氐族と羌族に謝罪しなさいと述べた〈解系伝及び解結伝〉。張華は梁王の司馬肜に告げ、かれを誅殺させようとし、司馬肜は許諾した。孫秀の友人である辛冉は、司馬肜に対して孫秀を弁護し、「氐族と羌族は自発的に反乱したのであり、孫秀の罪ではありません」と言った。孫秀はこれにより命が助かった〈張華伝〉
司馬倫が洛陽に至ると、孫秀の計略を用い、深く賈氏と郭氏と交際し、賈后は大いにかれを信用した〈司馬倫伝に依る〉。司馬倫は録尚書事と、尚書令の官職を求めた。張華・裴頠がこれに強硬に反対したので、司馬倫と孫秀はこれにより怨むようになった〈張華伝〉
秋八月、解系は郝度元に敗れ、秦雍の氐族と羌族は全体が反乱し、氐帥の斉万年を皇帝に立て、涇陽を包囲した〈恵帝紀〉。御史中丞の周処は、弾劾する相手は権戚を避けず、梁王の司馬肜がかつて法に違反し、かれを追及した〈周処伝に依る〉。冬十一月、詔して周処を建威将軍とし、振威将軍の盧播とともに安西将軍の夏侯駿の配下とし、斉万年の討伐に行かせた〈恵帝紀〉
中書令の陳準は朝廷で、「夏侯駿及び梁王はどちらも貴戚であり、将帥の才ではありません。進んで名を求めることなく、退いても罪を畏れません。周処は呉の人です。忠直で勇敢であり、諸将と対立して援護が受けられません。積弩将軍の孟観に詔して、精兵の一万人で周処の前鋒とすれば、必ず敵を打ち破れます。さもなくば、梁王は周処を先駆けとして用い、苦戦しても救援をせず、きっと敗北します」と言った。朝廷はこれに従わなかった。斉万年は周処が来ると聞き、「周府君はかつて新平太守であり、文武の才があった。もし指揮権を握っていれば、敵わなかった。しかし他人の指揮下ならば(才覚を発揮できないから)、捕獲できる」と言った〈周処伝〉
関中で飢饉と疫病があった〈恵帝紀〉
これより先、略陽の清水氐である楊駒は初めて仇池に居住した。仇池は広さ百傾の耕地があり、その傍らに平地二十餘里があり、四面は断絶して高く、羊腸のような曲がりくねった道を三十六回曲がって登る地形であった。其の孫の千万のときに曹魏に帰付し、百頃王に封建された。千万の孫である飛龍は徐々に勢力を蓄え、略陽に移住した。飛龍は甥の令狐茂捜を子とし、茂捜は斉万年の乱を避け、十二月、略陽から部落四千家を連れて仇池に帰って籠もり、自ら輔国将軍・右賢王を号した。関中の人士で乱を避ける者は多くがこれを頼り、茂捜は歓迎して面倒を見て、立ち去ろうとする者には、護衛して物資を持たせてやった〈未詳〉
この年、揚烈将軍である巴西の趙廞を益州刺史とし、梁州と益州の兵糧を用いて雍州を支援して氐族や羌族を討伐した〈未詳〉

元康七(二九七)年

現代語訳

春正月、斉万年は梁山に駐屯し、兵は七万であった。梁王の司馬肜・夏侯駿は周処に五千兵の撃で攻撃させた。周処は、「軍に後続がいなければ、必ず敗れます。無駄に死ねば、国に恥をかかせます」と言った。司馬肜・夏侯駿は許さず、出撃を強制した。癸丑、周処は盧播・解系とともに斉万年を六陌で攻めた。周処の軍士は兵糧を食べる前に、司馬肜に督促され、朝から暮れまで戦い、多くが斬り獲らえられた。弓は絶え矢は尽きても、救援の兵は来なかった。左右は周処に撤退を勧めたが、周処は剣に手をかけ、「今日は私が忠節を尽くして命を棄てる日だ」と言った。奮戦して死んだ〈周処伝〉。朝廷は司馬肜を咎めたが、罪と認定することはできなかった〈司馬肜伝に依る〉
秋七月、雍・秦の二州で干害があり、疫病が流行り、米は一斛あたり万銭に値上がりした〈恵帝紀〉
丁丑、京陵元公の王渾が薨じた。九月、尚書右僕射の王戎を司徒とし、太子太師の何劭を尚書左僕射とした〈恵帝紀〉
王戎が三公となると、時とともに浮沈し、救済することがなく、属僚に政務を委任し、軽々しく外出して遊んだ。吝嗇家であり、園田を天下のあちこちに持ち、いつも計算道具を自ら使い、昼夜に計算し、つねに(財産が)足りないと言っていた。家においしい桃の木があったが、買った人が種を取るのを恐れ、穴を開けて種を除いてから売った。賞与や抜擢は、もっぱら虚名に従って行った〈王戎伝〉
阮咸の子の阮瞻はかつて王戎に会った。王戎は、「聖人は名教を尊重し、老荘は自然を明らかにしているが、その思想は同じなのか」と質問した。阮瞻は、「同じでないでしょうか」と言った。王戎は長く感嘆し、かれを辟召し(掾とし)た。当時の人は「三語掾」と呼んだ〈阮瞻伝〉
是の時、王衍は尚書令となり〈王衍伝〉、南陽の楽広は河南尹となり、みな清談を得意とし、心を現実の外におき、名は当世に重かった〈楽広伝〉。朝野の人は、争って慕い見習おうとした。王衍は弟の王澄とともに、人物の品評を好み、世をあげて基準とした。王衍の聡明で優れ、若いとき、山濤は会って、しばらく感嘆してから、「あんな老婆が、これほど優れた子を産んだ。しかし天下の万民を誤らせるのは、必ずしもこの人物ではないのではないか」と言った〈王衍伝〉
楽広の性格は淡白で清らかであり、張り合わなかった。いつも談論し、少ない言葉で真理を言い当て、人の心を厭い、理解できないことは、黙っていた。人物を論じるときは、必ず長所を先に称え、さすれば短所は言わずとも浮かび上がった〈楽広伝〉
王澄及び阮咸、阮咸の従子である阮脩〈阮籍附咸及び脩伝〉、泰山の胡毋輔之、陳国の謝鯤、城陽の王夷、新蔡の畢卓は、みな気ままに振る舞い〈胡毋輔之伝〉、裸で酔って狂い、それを良しとした〈光逸伝に依る〉。胡毋輔之はかつて酒を飲み、その子の謙之は様子を窺って声を励まして父の字を呼び、「彦国よ。老齢になっても、そんなことも出来ないか」と言った。輔之は歓んで笑い、呼び入れて共に飲んだ〈胡毋輔之附謙之伝〉。畢卓はかつて吏部郎となり、近くの家で仕込んだ酒が熟成すると、畢卓は飲んで酔っており、夜に甕のあいだに入って盗み飲み、酒の管理者に縛られた。翌日に見てみると、畢吏部(畢卓)であった〈畢卓伝〉。楽広は聞いて笑い、「人倫の教えのなかにも楽しい部分がある。どうして必ずしもそうであろうか」と言った〈楽広伝〉
これより先、何晏らは老荘を祖述し、論を立てて、「天地万物は、全て無を根本とする。無というのは、あらゆる物を開発しあらゆる事業を成就するが、無は去って存在しないものである。陰陽はその変化と発生により、賢者はその徳を成すことによる。ゆえに無の効用は、無爵であるが尊いのである」と言った。王衍の仲間はみなこの説を尊重した〈王戎附衍伝〉
これにより朝廷の士大夫はみな浮ついた虚妄を賛美し、政務を怠った。裴頠は『崇有論』を著し、その弊害について分析し、「過剰な欲望は減らすことができるが、根絶はできない。費用は節約できるが、完全には無くせない。けだし言葉を飾り崇高な談論をする者は、形が有るものの欠点を深く指摘し、盛んに空無の美を称えている。形が有るものは認知できるが、空無の意味を把握するのは難しい。技巧を凝らした文を賛美し、意味ありげな文が大衆を惑わしている。大衆はこれを聞いて幻惑させられ、その言説に心酔してしまう。虚無の説に同意しないものは、明瞭な言説を作ることができず、流行に引き摺られ、虚無の説を論破できない。一つを唱えれば百人が同調し、偏ったままで戻らない。世俗の実務を軽んじ、功績を卑しいものとし、浮ついた生活を賛美し、実直な賢者を軽んじている。人のさがは、名声や利益に従う。(虚無の説は)余計な言葉を費やし、凡人はそれを賛美する。虚無という語句を使えば、玄妙とされる。官僚が仕事を投げ出せば、雅遠とされる。他人をまねて節操を捨てれば、曠達とされる。こうして勤勉さは、衰退してしまった。これを容認にすれば、吉凶の礼に違反し、容止の表を軽視し、長幼を序を冒瀆し、貴賤の区別が混ざってしまう。ひどいものは裸身で淫らであり、その風俗が広まって、士大夫の行いは損なわれた。
そもそも万物の形有るものは、無から生じたが、発生した後は(無から)有に区別され、有のなかに無は残っていない。ゆえに発生の段階を終えて有となったものは、無に全てを掌握されない。安定して有となったものは、無為に回収されない。そうでないものについて思慮するとき、万事は思慮を経由している。思慮を無とは見なせない。工匠は道具ではなく、道具を使いこなすのが工匠である。工匠は存在しないとは言えない。深い淵で魚を捕らえたければ、休息しているだけでは捕獲できない。高い所にいる鳥を射落としたければ、手を拱いていては命中しない。以上から考えるに、有を成すものは全て有であり、虚無が既存の有のなかに発生するのではない」と言った。しかし(虚無を重んじる)習俗はすでに定着しており、裴頠の論は風潮を改善することはできなかった〈裴秀附顔伝〉
拓跋猗迤が砂漠を越えて北巡し、西にゆき諸国を侵略し、五年間で、降附した者は三十餘国であった〈北魏 序紀〉

元康八(二九八)年

現代語訳

春三月壬戌、天下を赦した〈恵帝紀〉
秋九月、荊・豫・徐・揚・冀の五州で洪水が起きた〈欠あり〉
これより先、張魯が漢中におり、賨人の李氏は巴西の宕渠からここに移って頼りにした。魏武帝(曹操)が漢中を平定すると、李氏は五百餘家をつれて帰順し、将軍を拝し、略陽の北土に移り、巴氐と呼ばれた。その孫である李特と、李庠・李流は、みな武の才能があり、騎射を得意とし、任侠を重んじる性格で、州の人々から頼りにされた。斉万年が反乱すると、関中は連年にわたり飢饉となり、略陽・天水ら六郡の民は食糧を求めて漢川に入る者が数万家にのぼり、道路には病気や窮乏したものがあふれた。李特の兄弟は、いつも営所を作って救護し振給したから、人々から支持された。流民が漢中に至ると、上書して巴蜀の地方に寄食することを求めた。朝廷は許さず、侍御史の李苾が持節して慰労し、また監察を加え、剣閣を封鎖した。李苾は漢中に至ると、流民から賄賂を受け取ったので、上表して、「流民は十万餘口おり、漢中の一郡では賄えません。蜀には貯蓄があり、人々は裕福ですから、そこで養うのが宜しいでしょう」と言った。朝廷はこれに従った。これにより梁州や益州に散らばっている人々の、移動を禁止できなくなった。李特は剣閣に至ると、溜息をつき、「劉禅はこのような地を領有しながら、他人に降服した、凡庸な才能しかなかったのだな」と言った。聞いた人は、李特に注目した〈欠あり〉
張華・陳準は趙王・梁王が、相次いで関中に来たが、どちらも緊張感がなく傲慢であり、決断力がなく功績がないので、判断力と文武の才能がある孟観を推薦し、斉万年を討伐させた。孟観は戦場に出て、十数回戦い、大いに斉万年を破った〈孟観伝に依る〉