いつか読みたい晋書訳

資治通鑑_晋紀五 孝恵皇帝上之下(二九九-三〇〇)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
作業手順は、以下の1.~4.の通りです。ここに掲載しているのは、翻訳の準備として、1.維基文庫をとりあえず現代語訳して大意をつかみ、4.『資治通鑑証補』の指摘を拾って赤文字で示す、という作業段階のものです。今後、精度を上げます。
1.維基文庫で、『資治通鑑』のテキストを取得。/2.中華書局の『資治通鑑』を底本とし、テキストを修正。/3.胡三省注、『資治通鑑考異』で内容理解を深める。/4.現代語訳をする際は、『資治通鑑』(続国訳漢文大成)、『和刻本資治通鑑』を参考とする。頼惟勤・石川忠久編『資治通鑑選』(中国古典文学大系14、平凡社)に収録されている部分はこれを参照する。/5.石川安貞『資治通鑑証補』(蓬左文庫)が正史等の出典を概ね示しているため、そのまま引用。同書が空格(空欄)としているものは、追加検証しない。6.初出の語彙には、読みがな(ルビ)を付す。

元康九(二九九)年

現代語訳

春正月、孟観は大いに氐族の軍を中亭で破り、斉万年を捕獲した〈恵帝紀〉
太子洗馬である陳留の江統は戎狄が中原を乱すため、早く原因を根絶するよう、『徙戎論』を著して朝廷に警告した〈以下、徙戎論は江統伝〉
「そもそも夷蛮・戎狄は、(『周礼』の定める)周辺地域に住み、禹が九州を平定したとき西戎は帰順しました。その性質は貪欲、凶暴で不道徳です。四方の異民族では、とくに戎狄がひどく、彼らが弱ければ畏れて服従しますが、強くなれば侵略をします。彼らが強くなれば、前漢の高祖は白登山で包囲され、孝文帝は霸上に進軍しました。彼らが弱まれば、(前漢の)元帝・成帝のときに単于が入朝しました。これが彼らのあり方です。そこで有道の君は夷・狄を管理するとき、警戒を怠らず、いつも防御に気を配り、頭を下げて貢ぎ物をしても、辺境の城は守りを固め、にわかに侵略されても、軍隊は遠征を加えず、辺境が安定するのを待ち、国境を越えませんでした。
周室が統治力を失うと、諸侯は独自に軍事行動を起こし、封建の国境が揺らぎ、利害が対立したので、戎狄が隙に付け込み、中原に侵入し、あるものは招いて自分のために利用しようとし、これにより四方の異民族があちこちから浸透し、中原に雑居しました。秦の史皇帝が天下を統一すると、軍の威勢が周辺に到達し、異民族を叩き出し、このときは中原から異民族が居なくなりました。
後漢の建武時代、馬援が隴西太守を領し、反乱した羌族を討伐し、その生き残りを関中に移し、馮翊・河東の空地に住まわせました。数年の後、羌族は休息をとり、肥え太って、ふたたび漢民族を侵攻しました。永初のはじめ、諸種の羌族が反乱し、守軍を覆し、城邑を壊し、鄧騭は敗北し、河内に侵入した。十年のうちに、漢民族も異民族も疲弊し、任尚・馬賢が、僅かに勝ち越した。これ以後、紛争はやまず、ともすれば、反乱をし、時代が下るほど、大きくなりました。曹魏が興ると、蜀と領土を分け合い、境界の異民族は、分かれて味方しました。武帝は武都氐を秦州に移し、国家に強兵を集中させ、蜀軍を防ごうとしたが、これは目先の対処であり、長期的には悪手でした。今日、その弊害を被っております。
そもそも関中の土壌は肥沃であり、帝王の都が置かれ、かつで戎狄の土地だったことがありません。彼らは民族が異なり、心も異なるのです。しかし彼らが衰微したので、中原に移住させ、士庶は馴れあい、弱さを侮ったので、彼らの怨みは骨髄に徹しています。異民族が増えて強まれば、二心を抱くものです。貪欲な人々が、怒りにまかせ、隙に乗じて、国家を転覆させるでしょう。しかも居住地とのあいだに、障壁はなく、無防備なところを襲い、備蓄を奪っているので、禍いが拡大し、その勢いが止まらぬことは、明らかであります。暫定策として、兵を鍛えて盛んにし、各地の異変がやまぬなら、馮翊・北地・新平・安定の領域内部にいる諸羌を移して、先零・罕幵・析支の地を明確にし、撫風・始平・京兆の氐族は、追い出して隴右に移住させ、陰平・武都の境界を明確にし、移動中の食料を支給し、充足させて、各種の異民族は、本来の土地に帰らせ、属国(都尉)と撫夷(護軍)に安寧にさせ結集させなさい。異民族と漢民族が混じらず、住む地域を隣接させれば、もし中原を侵略を企んでも、接近を察知でき、中原から遠ざけ、山河を区切れば、暴虐であっても、被害は広がりません。
反対者が、「氐族は服属したばかりで、関中は飢饉と疫病があり、百姓は尽く苦しみ、みな休息を願っている。しかし疲弊した民を急かし、異民族を追い出そうにも、強制力が働かず、移住計画は完結せず、さらに新しい混乱を招くのではないか」という批判しました。それに答え、「あなたは、氐族が生活に余裕がありながら、悪を悔いて善に変わり、わが徳に懐いて帰属していると思うか。存続が危ぶまれ、知恵も力も尽き、われらに誅殺されるのを懼れて(仕方がなく)服属していると思うか」と質問しました。「余力がなく、権勢が衰えたからです」と答えました。だから(今ならば)彼らの命運を握り、進退を強制できます。生活が安定しているものは変化を望まず、安住しているものは移動を望みません。不安になって危惧したときなら、恐怖心を煽れば、移住を促すことができ、軍事力で脅せば、異論は出ません。死亡し流浪している者は、離散して集まらず、関中の住民とは、仇敵の関係にあるので、遠くに追いやることができ、中原への未練を断ち切ることができます。聖賢は、未然に物事を行い、予防して、表面化する前に、押さえ込みます。それに次ぐ者は、禍いを福に転じて、失敗を活用し、困ってから、救済をします。(ところが)いま弊害が顕在化しているのに、改善策がなく、古い方法にこだわっているのは、なぜですか。関中の人口は百餘万おりますが、その内訳は、漢民族と異民族が半分ずつで、異民族を移住させるなら、そのための食糧を用意せねばなりません。もし窮乏し、食糧が続かなければ、関中の穀物を全て差し出し、(移動を命ぜられた異民族からの)反発を防がねばなりません。移動を命じ、通過地点で食糧を供給すれば、民族でまとまり、自活するので、秦地の人(関中の漢民族)は半分の穀物を確保できます。移動者に穀物を支給すれば、残留者は穀物を蓄え、関中の緊張を緩和し、盗賊の発生源を断ち、短期的な損失を除き、長期的な利益を得られます。もし目先の面倒さに目を奪われ、長久の方策を忘れるなら、将来への禍根を残し、皇帝の事業が、子孫に継承されぬでしょう。
并州の胡族は、元来は匈奴の凶悪な部族でしたが、建安期、右賢王の去卑に呼廚泉を人質を出させ、部落を六郡に分割して住まわせました。咸煕期、一部では強すぎるので、三率に分割し、泰始の初め、四つに増やしました。これにより劉猛が内地で叛乱し、外地の異民族と結託し、近ごろでは郝散の決起が、穀遠県で起こりました。いま五部の衆は、戸が数万に至り、人口は増えて、西戎よりも人数が多いです。しかも勇敢な性質で、弓馬は巧みで、氐羌を上回ります。もし国境の警備を怠れば、并州の領域が恐怖に落とし入れられるでしょう。
正始期、毌丘倹が句麗を討伐し、生き残りを滎陽に移しました。移住させた当初、戸落は百の単位でした。子孫が増殖し、今では千の単位です。数世代のうちに、繁殖するでしょう。いま百姓が職を失い、亡命して反乱する者がいるのに、犬馬(移民、異民族)がかりが肥え太れば、不平感が高まり、まして夷狄であるから、反乱せぬでしょうか。自身の弱さを顧み、反乱に踏み切らぬだけです。
国家の統治者は、人口の不足ではなく安定のなさを心配すべできあり、四海の広さと、士民の富みがありながら、異民族を内地に居住させ(人口を増やして)満足していてはいけません。彼らには出発を命じ、本来の居住地に帰らせ、移動の安全を確保して現住地への愛着慰め、中原の潜在的な脅威を解きけば、これを中国に恵み、四方を安定させる(『詩経』大雅 民労)という状況となり、将来に恩恵を与える、優れた計略であります」と言った。
朝廷は採用できなかった〈江統伝〉
散騎常侍の賈謐は東宮に侍講し、太子に対して傲慢に振る舞い、成都王の司馬穎はこれを見咎めた。賈謐は怒り、賈后に言いつけた。司馬穎は平北将軍となり、鄴に出鎮させられた〈賈謐伝に依る〉。梁王の司馬肜を徴して大将軍・録尚書事とした。河間王の司馬顒を鎮西将軍とし、関中を鎮守させた〈恵帝紀〉。これより先、武帝は規則を作って石の箱に入れ、近しい皇族でなければ関中に鎮守させるなと命じた。司馬顒は財を軽んじ士を愛し、朝廷は彼を賢者と考えたから、登用したのである〈司馬顒伝〉
夏六月戊戌、高密文献王の司馬泰が薨じた〈高密文献王泰伝〉
賈后の淫らと残虐は日ごとに悪化し、太医令の程拠らと密通した。竹籠に入れて路上から少年を後宮に入れ、漏洩を恐れて、往々にして殺害した。賈模は禍いが自分に及ぶことを恐れ、とても心配した〈賈后伝に依る〉。裴頠は賈模及び張華に皇后廃位を相談し、改めて謝淑妃を立てようとした。賈模・張華は、「主上は廃后の考えがなく、私たちが独断で行ったら、もし主上に反対されたら、どうなるか。しかも諸王は強く、党派に分かれており、もし禍乱が起きれば、自ら国家に危機を招き、社稷にとって益がない」と言った。裴頠は、「その通り。しかし中宮(賈后)の昏迷で残虐ですから、乱は間近です」と言った。張華は、「あなたがた二人は中宮の親族なのだから、発言を信用するとしても、(賈后に)禍福の大小を述べて戒めとし、大きな混乱を無くせば、天下はまだ乱れておらぬのだし、われらは寿命まで逃げ切れるのではないか」と言った。裴頠は旦夕にその(賈后の)従母である広城君に説き、賈后に太子と和解するよう教戒してもらい〈裴秀 附頠伝〉、賈模もまたしばしば賈后のために禍福を述べた。賈后は耳を傾けず、却って賈模に批判されたと考え、疎んじた。賈模は思い通りにならず、憂憤して卒した〈賈充伝 附模伝に依る〉
秋八月、裴頠を尚書僕射とした。裴頠は賈后の親族であったが、声望は高く、四海はかれが権力の座に居れぬことを心配し、すぐに詔して(賈后の意思により)裴頠を門下事に専任させたが、裴頠は上表して固辞し、「賈模が死んだばかりで、私も交代させたら、外戚の声望が高まり、私的な偏りが前面に出て、王朝にも迷惑がかかるのでは」と言った。聞き入れられなかった。あるものが裴頠に、「あなたの発言は適切だから、中宮によく聞かせるべきだ。言って従わねば、遠く去るべきだ。対立したら並存できず、十の上表があっても、命を助けられない」と言った。裴頠はしばらく歎いたが、従うことができなかった〈裴頠伝〉
恵帝の人となりは知恵が足りず、恵帝はかつて華林園におり、蝦蟆(がま)の声を聞き、近臣に、「この鳴き声は官のものか、私(し)のものか」と言った。天下が荒廃して乱れており、百姓は餓死したが、恵帝は、「どうして肉がゆを食べないのか」と言った〈恵帝紀〉。 これにより実権は群下にあり、政治は権門から出て、高位の家は、推薦しあい、互市のようであった。賈氏と郭氏は権勢を持ち、賄賂が横行した〈恵帝紀に依る〉
南陽の魯褒は「銭神論」を作って批評し、……〈隠逸 魯褒伝〉
福原啓郎「魯褒『銭神論』訳注」参照。※あとで埋めます。
また、朝臣は追及が厳しく、判決を下しにくい事案があるごとに、それぞれ私見を打ち立て、刑罰法律の適用が一定せず、裁判は頻繁となった。(尚書の)裴頠は上表し、「先王は刑罰と褒賞を規準を設けて運用し、軽重がまちまちになりませんでした。だから、下々が聴従するのに定まった拠りどころがあり、役人たちは安んじて職務に励みました。去る元康四(二九四)年、大風が吹いた後、宗廟の楼門の屋根瓦が、数枚抜け落ちることがあったので、太常の荀寓を罷免しました。ことがらは軽いのに責任追及が重く、常法にたがうところがあると思いました。元康五(二九五)年二月、大風が吹きました。蘭台の担当官は、前の事件(荀寓)を恐れて、棟のあたりを望み見て、瓦が少しく歪んでいるところを十五箇所見つけました。太常に閉門の措置を取り、また裁判沙汰にしました。今年八月、御陵の上のいばら一枝、まわり七寸二分のものが切られました。司徒・太常は道路を走り回りました。ことがらの小さいことは分かっていたが、罪の詮議だてがどのようになるか測りがたいので、大騒ぎして駆けずりまわり、おのおの競って落ち度を免れようとしました。今においても太常に対して取られた閉門の処置はいまだ解除されていません。刑書の文には限界があるが、違反のことがらは多様です。ですから時に応じて討議し処置する制度があるのであって、確かに皆が皆まで常典に従うことが出来るわけではありません。このようなことは、担当官の処置がいずれも度を過ぎ、恐らくは奸吏が恣意的に、法を軽くも重くも適用することが出来るでしょう」と言った。この上表をしたが、法を曲げて罪を議することがなお続いた〈刑法志〉
三公尚書の劉頌はまた上疏して、「近世より以来、法の運用が次第に多様になり、令の適用が甚だしく統一を失っています。官吏は守るべき基準を知ることができず、下民は何を避けるべきか知ることができません。姦悪なやからは、これを利用して私情を行うので、上にあるものは下を取り締まることが困難になっています。ことがらは同一であるのに、罪の論議は異なったものとなり、裁判は公正さを欠いています。そもそも君臣には分があり、それぞれ掌るところがあります。法は必ず奉じなければならず、法を掌る役人には必ず法の条文を忠実に守らせます。(しかし)法の理は行き詰まる場合がありますので、そのときには大臣にその滞りを解かせます。ことには時の宜しきに従うべき場合があるから、そのときには人主がこれを臨機に処断するのです。法を掌る役人が法の条文を守るというのは、たとえば張釈之が天子の行列を犯した者を公正に裁いたことが該当します。大臣が法理の滞りを解くというのは、公孫弘が郭解の事件に下した判決が該当します。人主が臨機に処断するというのは、漢の高祖が丁公の行為に誅を加えたことが該当します。天下の万事において、これに類せぬものは、私意によって妄りに議論することは許されません。それ以外は全て律令によって事に従わなければなりません。かようにして初めて、法はしもじもに信頼され、人々は聴従するところに惑わず、官吏も不正を行う余地がなくなり、立派な政治ということができるのである」と言った〈刑法志〉
これを受けて詔を下し、「郎・令史で、これ以後に法の外に出て異論を唱えた場合には、その事が発生するごとに上聞せよ」と言った。しかし依然として改革ができなかった〈刑法志〉
劉頌は吏部尚書に遷り、九班の制を建て、百官の異動の経路、人事考課、賞罰を明らかにしょうとした。賈氏と郭氏が権力を用い、仕える者は迅速な昇進を望むので、実行に移されなかった〈劉頌伝〉
裴頠は平陽の韋忠を張華に薦め、張華がこれを辟召したが、韋忠は病で起きられないと辞退した。ひとがその理由を聞くと、「張茂先は華があるが実がなく、裴逸民は欲に際限がなく、典礼を棄てて賊のような賈后にへつらっている、これが一廉の人物のやることか。逸民はつねに私を頼りにしているが、私は深い淵に溺れて水しぶきをかぶることを恐れており、まして裳裾を払う(色男に)付いてゆけるか」と言った〈忠義 韋忠伝に依る〉
関内侯である敦煌の索靖は、天下が乱れようとしているのを知り、洛陽の宮門の銅駝を指さして歎き、「きみも荊棘に埋もれてしまうだろう」と言った〈索靖伝〉
冬十一月甲子朔、日食があった〈恵帝紀〉
これより先、広城君の郭槐は、賈后に子がないから、つねに賈后に太子を可愛がれと言っていた。賈謐が驕慢であり、しばしば太子に無礼をなし、広城君はきつく叱責した〈賈后伝〉。広城君は韓寿の娘を太子妃にしようと考え、太子もまた韓氏と婚姻して立場を固めようと考えた。韓寿の妻である賈午及び賈后はこれを許さず、太子には王衍の末娘を娶らせた。太子は王衍の長女のほうが美しいと聞き、しかし賈謐に末娘を宛がわれたので、面白くなかった〈愍懐太子伝〉。広城君が病み、臨終に及び、賈后の手を取り、太子に心を尽くせと、切実に伝えた。さらに、「趙粲・賈午は、必ずあなたの家を乱す。私の死後、彼らの意見を聞くな。記憶に刻むように」と言った。賈后は従わず、改めて趙粲・賈午とともに太子の殺害を計画した〈賈后伝〉
太子は幼いときから令名があり、成長すると、学問を好まず、左右のものと戯れてばかりだった。賈后は黄門に太子をそそのかし、贅沢と暴虐に導き、これよりに名声がぜんげんし、驕慢はますます表れた。あるときは(気まぐれに)朝廷の侍官を廃し、つねに後宮の庭園にいて遊戯した。宮中に市場をひらき、従者に肉を裁いて酒を販売させ、自分の手で重さをはかり、寸分も狂いがなかった。彼の母はもとは屠家(肉屋)の娘であり、だから太子はこれを好んだのである。東宮では月ごとに銭五十万を支給があったが、太子はつねに二ヵ月分を前借りし、それでも足りなかった。西園で葵菜・藍子・鶏・綿といった商品を販売させ、利益をあげた。陰陽家の迷信を好み、忌み嫌われた。洗馬の江統が上書して五事を述べ、「一に、軽い病であっても、我慢して出仕する。二に、指導役の言うとおり、善道を心がける。三に、室内に描かれる功臣でも、質素なのだから、庭園の美術品を取り除く。四に、西園で野菜などを販売すると、国家の威信を損ねる。五に、壁や瓦を修築するとき、細かなことに拘らない」と言った。太子はどれも従わなかった〈江統伝〉。中舎人の杜錫は、太子が地位が不安定だと心配し、忠諫を尽くし、太子に徳行を勧め、名声を保てと、丁寧に伝えた。太子は煩わしく思い、針を杜錫の敷物に紛れこませ、刺して流血させた。杜錫は、杜預の子である〈愍懐伝〉
太子は気が強く、賈謐が中宮で驕り高ぶっていると知り、黙認できなかった。賈謐が侍中になり、東宮に来たが、これを放置して、後庭で遊んでいた。詹事の裴権が諫めて、「賈謐は、皇后と昵懇なので、喧嘩をしたら、危険ですよ」と言った。従わなかった。賈謐はひそかに賈后に太子をそしり、「太子は私財を蓄えて小人と交わるのは、賈氏に対抗するためです。もし恵帝が崩御し、太子が帝位に即けば、楊氏の故事のように、私たちを誅殺し、賈后を金墉城に廃するのは、手を返すようなもの。早く手を打ち、従順な者と交代させれば、安心でしょう」と言った。賈后はその提言を入れ、太子の短所を、遠近に言い触らした〈愍懐伝〉。妊娠したと詐り、蒿を腹に入れて産具を用意し、妹の夫である韓寿の子の韓慰祖を養い、太子に代えようとした〈賈后伝〉
このとき朝野はみな賈后に太子への害意があると知り、中護軍の趙俊は太子に皇后廃位を勧めたが、太子は許さなかった。左衛率である東平の劉卞は、賈后の謀略について張華に質問し、張華は、「聞いていない」と言った。劉卞は、「私はつまらぬ少吏ですが、須昌県の小吏ですが、あなたに抜擢されたおかげで今日に至っております。士は知己のために、真心を尽くします、しかし張華さまは私の発言を疑うのですか」と言った。張華は、「もし計画があるとして、私にどうせよと」と言った。劉卞は、「東宮には優秀な人材が多く、四方に精兵一万をひきいています。あなたは阿衡の任にあり、もしあなたが命令すれば、太子は朝廷に入って録尚書事となり、賈后を金墉城に追いやり、二つの黄門に力が呼ぶだけになります」と言った。張華は、「いま天子は陽たるべきで、太子は、人の子である。それに私は阿衡の命を受けていない(伊尹とは立場が違う)。そんなことをすれば、君主と父を蔑ろにし、天下に不孝を示すだけだ。成功させられても、罪を免れない。まして権臣が朝廷に満ち、権力が集中していない、成功するかも疑わしい」と言った〈張華伝〉。賈后はいつも腹臣を微服して外で情報収集させており、劉卞の発言を聞き、彼を雍州刺史に移した。劉卞は発言が洩れたと知り、服毒自殺した〈劉卞伝〉
十二月、太子の長子である司馬虨が病気になり、太子は司馬虨に王爵を求めたが、許可されなかった。司馬虨の病気が重くなり、太子は祈祷した。賈后はこれを聞き、詐って恵帝が重篤だと言い、太子を召して入朝させ、到着したが、賈后は会わず、別室に置き、婢の陳舞に恵帝から太子に酒三升を賜ったと言い、飲み干させた。太子は辞退して三升も飲めないと言ったが、陳舞が逼り、「不孝ですね。天子が賜った酒を飲まないとは。毒入りを疑っているのですか」と言った。太子はやむを得ず、むりして飲み、泥酔した。賈后は黄門侍郎の潘岳に草稿を作らせ、小婢の承福が、紙と筆尾を届け、太子は酔ったが、詔と称して書かせ、その文に、「陛下は自ら悟るべきだ。悟らぬなら、私が教えてやろう。中宮(賈皇后)も速やかに悟るべきだ。悟らぬなら、私がこの手で教えてやろう。(わが実母)謝妃とともに時期を区切って二人を廃位しようと思う、疑うなかれ先延ばしにすれば、後に災いとなるだろう。毛を食らい血を三辰の下に飲んで誓います、皇天は害悪を排除することをお許し下さい、(わが子)道文を立てて王とし、(わが妻)蒋氏を内主(諸侯夫人)とします。願いが成就したら、三種の犠牲を北君を祭り、天下に大赦するでしょう。確かに履行しますよう」とあった。太子は酩酊して不覚となり、寄りかかって書き写した。半分も完成しなかったので、賈后が補わせ、恵帝に提出した〈愍懐伝に依る〉
壬戌、恵帝は式乾殿に行幸し、公卿を召して入れ、黄門令の董猛に太子の書いたものと青紙を示させ、「司馬遹はこのように書いている、死を賜る」と言った。諸公王に広く示したが、発言する者はいなかった〈愍懐伝に依る〉。張華は、「これは国の大きな禍いであり、先古より、正嫡を廃すれば争乱が起きました。国家が天下を支配して日が浅く、陛下には再考を願いたい」と言った。裴頠は筆跡の調査をすべきだと言い、太子の筆跡と比べると、一致せず、偽造が疑われた。賈后は太子が提出した十餘の紙を示し、みなで見比べたが、敢えて(筆跡の)不一致を言うものはいなかった〈張華伝〉
賈后は董猛に以長広公主の言葉を偽作させて恵帝に伝え、「早く決断なさい、郡臣の見解は揃わないが、詔に従わぬ者は、軍法で裁きなさい」と言った。議論は夕方まで続き、結論が出なかった〈愍懐伝〉。賈后は張華らの意思が揺らがぬと分かり〈張華伝〉、事態の変化を懼れ、太子を免じて庶人とせよとし、詔はこれを許した。ここにおいて尚書の和郁らが持節して東宮にいたり、太子を廃して庶人とし、太子は服を改めて出て、再び詔を承り、歩いて承華門を出て、粗犢車に乗り、東武公の司馬澹が儀仗兵をひきい、太子及び妃の王氏・三子の虨・臧・尚をともに金墉城に幽閉した〈愍懐伝〉。王衍は離婚を上表し、許され〈王衍伝〉、妃の王氏は慟哭して生家に帰った〈烈女王氏伝〉。太子の母である謝淑媛及び司馬虨の母である保林の蒋俊を殺した〈愍懐伝〉

永康元(三〇〇)年

現代語訳

春正月癸亥朔、天下を赦し、(永康と)改元した〈恵帝紀〉
西戎校尉司馬の閻纘は棺を運んで上書し、「前漢の戻太子は軍事的に決起して命令を拒みましたが、論者は笞の刑が妥当としました。いま司馬遹は罪を受けましたが、それほど道理から外れたのではなく、戻太子よりも罪は軽いはず。師傅(指導係)を選任し、厳しく反省を促し、改悛せねば、廃位しても遅くありません」と言った。文書は上奏されたが、見られなかった。閻纘は、閻圃の孫である〈閻纘伝〉
賈后は黄門に「太子とともに反逆を企みました」と自首させた。詔して黄門の自首の言葉を公卿に広く示し、東武公の司馬澹に千の兵で太子を護衛させ、許昌宮に幽閉した。持書御史の劉振に持節してこれを守らせ〈愍懐伝〉、宮臣に詔して見送りを禁じた。洗馬の江統・潘滔・舎人の王敦・杜蕤・魯瑤らは禁止を破って伊水に至り、別れを告げてむせび泣いた〈王敦伝に依る、伊水に至ったというのは江統伝にに見える〉。司隷校尉の満奮は江統らを捕らえて獄に送った。河南尹の獄に繋がれた者は、楽広が全員を釈放した〈楽広伝〉。洛陽県の獄に繋がれた者は、まだ釈放されずにいた。都官従事の孫琰は賈謐に、「太子を廃して移したのは、悪さを働いたからです。いま宮臣が罪だと分かって上で見送り、これを死刑にしたら、四方に広く、太子の徳を伝えることになります。釈放するほうが宜しい」と言った。賈謐は洛陽令の曹攄に語って、釈放をさせた〈江統伝に依る〉。楽広も無罪とされた〈楽広伝〉。王敦は、王覧の孫である。曹攄は、曹肇の孫である〈未詳〉。太子が許に至ると、王妃に文書を送り、自らの無罪を弁明し、王妃の父である王衍は敢えて関与を避けた〈王衍伝に依る〉
丙子、皇孫の司馬虨が卒した〈恵帝紀〉
三月、尉氏で天から血が降り、妖星が南方に現れ〈恵帝紀〉、太白が昼に見え、中台星の並びがくずれた〈天文志〉。張華の末子である張韙が、張華に官位の返上を勧めたが、張華は従わず、「天道は奥深くて計り知れぬ、静かに待機するのがよい」と言った〈張華伝〉
太子がすでに廃位され、世論は憤怒した。右衛督の司馬雅・常従督の許超は、かつて東宮に仕えたことがあり、殿中中郎の士猗らとともに賈后を廃し、太子を復することを計画した。張華・裴頠は地位を守るだけで、協力的と思われず、右軍将軍の趙王の司馬倫は兵権を握り、野心家であったから、味方に引き入れようと考えた。孫秀に説き、「中宮(賈后)は凶悪で嫉妬深く、賈謐らとともに無罪の太子を落とし入れた。国に嫡子がおらず、社稷が危険であり、高官が決起しようとしています。しかしあなたは中宮を奉り、賈氏や郭氏と仲が良く、太子の廃位を、予め知っていた噂されています。もし決起があれば、禍いが必ず及びます。なぜ先手を打たないのですか」と言った。孫秀は同意し、司馬倫に伝え、司馬倫も同意した。通事令史の張林及び省事の張衡らに告げて、(決起に)内応すると約束した〈司馬倫伝〉
決起しようというとき、孫秀は司馬倫に、「太子は聡明で意思が強く、もし東宮に帰還したら、他人の言いなりになりません。あなたは賈后の一派であり、道行くひとも知っています。いま太子を立てるという功績を立てても、太子はあなたの主体性を評価せず、却ってこれまでの罪を許すだけで、従来の怨みを抑えても、あなたへの感謝までは至らず、わずかな隙があれば、死罪にするかも知れません。決起の時期を遅らせば、賈后はきっと太子を殺害します。その後に賈后を廃し、太子の報仇とすれば、禍いを免れるだけでなく、政権を握ることができます」と言った。司馬倫は同意した〈司馬倫伝〉
孫秀はひとを使って関係を揺るがし〈司馬倫伝〉、殿中のひとが皇后を廃し、太子を迎えるつもりだと言わせた〈愍懐伝〉。賈后はしばしば後宮の女を民間に紛れこませ、噂を聞き知って懼れた〈賈后伝〉。司馬倫・孫秀は賈謐に早く太子を殺し、世間の希望を絶てと勧めた〈司馬倫伝〉。癸未、賈后は太医令の程拠に毒薬を調合させた。詔を偽造して黄門の孫慮に許昌にゆき太子に毒を飲ませようとした。太子は自ら失脚したので、毒殺を恐れ、いつも煮沸してから食べた。孫慮が劉振に告げ、劉振は太子を小坊のなかに移し、食糧を与えなかったが、宮人がひそかに壁越しに食糧を投げ込んだ。孫慮は太子に服薬をせまり、太子は拒絶したので、孫慮は薬をつくる杵で殴り殺した。担当官は庶人の礼による葬儀を申請したが、賈后は広陵王の礼によって葬った〈愍懐伝〉
夏四月辛卯朔、日食があった〈恵帝紀〉
趙王の司馬倫・孫秀は賈后を討とうとし、右衛佽飛督の閭和に告げ、閭和はこれに従い、癸巳の丙夜に時期を定め、鼓の音で内応するとした〈司馬倫伝〉。癸巳、孫秀は司馬雅から張華に告げさせ、「趙王はあなたとともに社稷を立て直し、天下の害を除こうとし、私を使者に立てました」と言った。張華はこれを拒否した。司馬雅は怒り、「刃が首を斬ろうというのに、まだそんなことを言っているのか」と言った。振り返らずに退出した〈張華伝〉
約束の時間に、司馬倫は詔を偽造して三部司馬に勅し、「中宮は賈謐らとともに太子を殺した。いま車騎を突入させて中宮を廃位する、わた命令に従え。成功したら、関中侯を賜る、従わねば三族を誅する」と言った。みな命令に従った。詔と詐って開門し、夜に入り、兵を道南に配置し、翊軍校尉の斉王の司馬冏が百人をひきいて侵入し、華林令の駱休が内応した。恵帝を東堂に移し〈司馬倫伝〉、詔により賈謐を殿前に召して、誅殺しようとした。賈謐は西鐘下まで逃げ、「阿后よ助けてくれ」と言った。そこで斬られた〈賈充 附謐伝〉。賈后は斉王の司馬冏を見て、驚いて、「何をしに来たのですか」と言った。司馬冏は、「詔がありあなたを逮捕します」と言った。賈后は、「詔は私から出るものだ、詔があるものか」と言った。賈后は上閤に至り、遥かに恵帝に呼ばわり、「陛下には婦人がいてこそ。他人に廃位にさせれば、陛下自身も廃位になります」と言った。このとき、梁王の司馬肜も計画に参加しており、賈后が司馬冏に、「だれが首謀者か」と聞いた。司馬冏は、「梁王・趙王(司馬肜・司馬倫)です」と答えた。賈后は、「犬を繋ぐなら首を結ぶべきであったが、反対に尻尾を結んでしまった、なぜそうしなかったか」と言った〈賈后伝〉。かくして賈后を廃して庶人とし、建始殿に幽閉し、趙粲・賈午らを逮捕して暴室で取り調べた。尚書に詔して賈氏の親族や党与を捕らえ、中書監・侍中・黄門侍郎・八座を召して夜に宮殿に入らせた。尚書ははじめ詔の偽造を疑い、尚書郎の師景は手詔の開示請求をしたが、司馬倫らはかれを斬って(勝者と正義の所在を)明らかにした〈司馬倫伝〉。 司馬倫はひそかに孫秀とともに帝位簒奪を計画し先に朝廷から名望家を除き〈裴秀 附頠伝に依る〉、しかも宿怨に報いようと〈解系伝に依る〉、張華・裴頠・解系・解結らを捕らえて殿前に引き据えた〈司馬倫伝〉。張華は張林に、「きみは忠臣を殺害するのか」と言った。張林は詔と称して難詰し、「卿は宰相でありながら、、太子が廃されるとき、死節を尽くさなかったのは、なぜだ」と言った。張華は、「式乾のことは、私は諫争したのだ、よく確認せよ」と言った。張林は、「諫めても意見が却下されておきながら、なぜ官職を去らなかったのだ」と言った。張華は答えなかった。こうして彼らを斬って、夷三族とした〈張華伝〉。解結の娘は裴氏に嫁ぎ、嫁入りの前日にこの事件が起こり、裴氏は嫁を生かしたいと考えたが、嫁は、「家はこうなってしまった、生き残ったところでどうしようもない」と言って、連坐して死んだ。朝廷は旧制を改革し、娘は連坐して死なぬものとした〈解決伝〉
甲午〈恵帝紀〉、司馬倫は端門に座し、尚書の和郁に持節して賈庶人を金墉城へ護送させた〈司馬倫伝〉。劉振・董猛〈董猛の名は司馬倫伝〉・孫慮・程拠らを誅殺した〈愍懐伝〉。司徒の王戎〈王戎伝〉及び内外の官で張華・裴頠の親党として連坐して罷免された者はとても多かった〈司馬倫伝に依る〉。閻纘は張華の遺体を撫でて慟哭し、「早くきみに引退を勧めたが言うことを聞かず、いま罪を被った、運命なのか」と言った〈閻纘伝〉
ここにおいて趙王の司馬倫は詔と称して天下を赦し、自ら使持節・都督中外諸軍事・相国・侍中となり、もっぱら宣帝と文帝が魏王朝を補佐した故事に準拠した。府兵として一万人を置き、その世子である散騎常侍の司馬荂に冗従僕射を領させ、子の司馬馥を前将軍とし、済陽王に封じた。司馬虔を黄門郎とし、汝陰王に封じた。司馬詡を散騎侍郎とし、霸城侯い封じた。孫秀らはみな大郡に封建され、並びに兵権を有し、文武の官僚で侯に封ぜられた者は数千人、百官の官職は司馬倫によって任命された。司馬倫は凡庸であったので、孫秀からに操縦された。孫秀は中書令となり、威権は朝廷を振わせ、天下は孫秀に言いなりになり司馬倫には期待しなかった〈司馬倫伝〉
詔して追って故太子の司馬遹の位号を回復し、尚書の和郁に東宮の官属をひきいて太子の遺体を許昌に迎えにゆかせ、司馬遹の子の司馬虨を追封して南陽王、司馬虨の弟の司馬臧を臨淮王、司馬尚を襄陽王とした〈愍懐附伝に依る〉
担当官は上奏し、「尚書令の王衍は位は大臣を備え、太子が誣告され、無罪と知っていた、終身にわたり禁錮とせよ」と。これに従った〈王衍伝〉
相国の司馬倫は声望を集めようと、海内の名徳の士を登用し、前平陽太守の李重・滎陽太守の荀組を左・右長史とし、東平の王堪・沛国の劉謨を左・右司馬とし〈荀勗 附組伝〉、尚書郎である陽平の束皙を記室とし〈束皙伝〉、淮南王文学の荀崧・殿中郎の陸機を参軍とした〈荀崧及び陸機伝〉。荀組は、荀勖の子である〈荀勗附伝〉。荀崧は、荀彧の玄孫である〈荀崧伝〉。李重は司馬倫に野心があると悟り、病気を理由に就官せず、司馬倫に逼られたので、憤って病気になり、引き摺られて拝命したが、数日で卒した〈李重伝〉。 丁酉、梁王の司馬肜を太宰とし、左光禄大夫の何劭を司徒とし、右光禄大夫を劉寔を司空とした〈恵帝紀〉
太子の司馬遹が廃せられると、淮南王の司馬允を太弟に立てようとしたが、意見がまとまらなかった。趙王倫が賈后を廃すると、司馬允は驃騎将軍・開府儀同三司、領中護軍となった〈武十三王 淮南王允伝〉
己亥、相国の司馬倫は詔を偽造して〈恵帝紀〉尚書の劉弘を使わして金屑の酒をもたらし、賈后に金墉城で死を賜った〈賈后伝〉
五月己巳、詔して臨淮王の司馬臧を皇太孫に立て〈恵帝紀〉、妃の王氏を還してこれの母とした。太子の官属は転じて太孫官属となり、相国の司馬倫は行太孫太傅となった〈愍懐附伝〉
己卯、故太子に愍懐と謚した〈愍懐伝〉。六月壬寅、顕平陵に葬った〈恵帝紀〉。清河康王の司馬遐が薨じた〈恵帝紀〉
中護軍である淮南王の司馬允は、性格は冷静で断固としており、宿衛の将士は畏服していた。司馬允は相国の司馬倫及び孫秀に野心があるのを知り、ひそかに死士を養い、討伐を計画した。司馬倫と孫秀は警戒した。秋八月、司馬允を太尉に転任させ、優遇したように見せかけ、実態は兵権を奪った。司馬允は病気と言って拝命しなかった。孫秀は御史の劉機を使わして司馬允に催促し、その官属以下を捕らえ、詔を拒否したことを弾劾し、大逆不敬とした。司馬允は詔を見て、孫秀が書いたものだったので、大いに怒り、御史を捕らえ、斬ろうとした。御史は走って逃げたから、その令史二人を斬った。顔色を変えて左右に、「趙王が司馬家を破壊しようとしている」と言った。国兵及び帳下七百人をひきいて出動し、大呼し、「趙王が反した、討伐にゆく、従う者は左袒せよ」と言った。味方する者はとても多かった。司馬允は宮殿に行こうとし、尚書左丞の王輿が掖門を閉じ、司馬允は入ることができず、相府を包囲した。司馬允の将兵は精鋭であり、司馬倫と戦い、しばしば破り、死者は千餘人であった。
太子左率の陳徽は東宮の兵を勒し、軍鼓を鳴らして司馬允に内応した。司馬允は陣を承華門の前で組み、弓弩を一斉に発射し、司馬倫を射て、矢が雨のように注いだ。主書司馬の眭秘は身をもって司馬倫をおおい、背中に矢を受けて死んだ。司馬倫の官属はみな樹木に隠れて立ち、樹木ごとに数百の矢が突き立った。辰の刻から未の刻まで戦闘が続き、中書令の陳準は、陳徽の兄であるが、司馬允に呼応しようとし、恵帝に、「白虎幡を持ち出して戦闘を停止させなさい」と言った。司馬督護の伏胤に騎四百をひきいて旗を持って宮中から出させた。侍中である汝陰の王虔は門下省におり、ひそかに伏胤と、「富貴を共有しよう」と約束していた。伏胤は懐から無地の板を出し、淮南王を助けよという詔があったと詐って記した。司馬允はこれに気づかず、陣を開いて引き入れ、車を降りて詔を受けた。伏胤はこれを殺し、司馬允の子である秦王郁・漢王迪を殺し、司馬允に連坐して夷滅させられた者は数千人であった〈淮南王伝に依る〉
洛陽に曲赦した〈恵帝紀〉
これより先、孫秀が小吏だったころ、黄門郎の潘岳に仕え、潘岳はしばしば彼を鞭で叩いた〈潘岳伝〉。衛尉の石崇の甥である歐陽建は司馬倫と仲が悪く、石崇は緑珠を愛玩していたが、孫秀はこれおを欲しがり、石崇は断った。淮南王の司馬允が敗れると、孫秀は石崇・潘岳・歐陽建が司馬允を奉って乱を為したといい、彼らを捕らえた。石崇は歎じて、「わが財産が目当てなんだ」と言った。捕吏が、「財産が禍いとなると分かっていれば、なぜ早くに手放さなかったのか」と言った。石崇は答えられなかった〈石崇伝〉
これより先、潘岳の母はいつも潘岳を責めて咎め、「足るを知るべきだ。なぜ利殖を辞められないのか」と言った。敗れると、潘岳は母に謝り、「母さんの言うことを聞かなかったからだ」と言った。石崇・欧陽建とともに族誅された〈潘岳伝に依る〉。石崇の家財は没収された〈石崇伝に依る〉。相国の司馬倫は淮南王の同母弟である呉王の司馬晏を捕らえ、殺そうとした。光禄大夫の傅祗が朝堂で食らいつき、郡臣が司馬倫を諫止したので、司馬倫は司馬晏を賓徒県王に降格した〈武十三呉王晏伝〉
斉王の司馬冏は功績により游撃将軍に遷ったが、司馬冏は不満に思い、恨みの色があった。孫秀はこれを見て、彼を宮廷内に置くことを嫌がり、朝廷から出して平東将軍とし、許昌を鎮守させた〈司馬冏伝〉
光禄大夫の陳準を太尉、録尚書事とし、ほどなく薨じた〈恵帝紀に依る〉
孫秀は相国の司馬倫に九錫を加えることを議論し、百官は敢えて反対しなかった。吏部尚書の劉頌は、「むかし漢が魏に、魏が晋に九錫を与えたのは、、どちらも一時の便宜であり、定例ではない。周勃・霍光は、功績が大きいが、九錫の命はありませんでした」と言った。張林は怒りを募らせ、劉頌は張華の党派だとして、これを殺そうとした。孫秀は、「張・裴を殺してすでに世論を損ねている、さらに劉頌を殺してはならん」と言った。張林は思い止まった。劉頌を光禄大夫とした〈劉頌伝〉
ついに詔を下して司馬倫に九錫を加え、さらに子の司馬荂に撫軍将軍、司馬虔に中軍将軍、司馬詡に侍中を加えた。さらに孫秀に侍中・輔国将軍を加え、相国司馬・右率は従来通りとした。張林らはみな高位に並んだ。相府兵を増やして二万人とし、宿衛と同じとし、さらに秘匿した兵を合わせると、数は三万を越えた〈司馬倫伝〉
九月、司徒を改めて丞相とし、梁王の司馬肜をこれに任じたが、司馬肜は固辞して受けなかった〈司馬肜伝〉
司馬倫及び諸子はみな愚鈍で鄙陋であり見識に乏しく、孫秀は狡猾で貪欲であり、かれに協力したのは、みな邪悪でへつらった者ばかりで、繁栄と利益を競うだけで、深謀遠慮はなく、目標や考えは一致せず、互いに憎み嫉妬した。孫秀の子である孫会は射声校尉となり、容貌は短小で冴えず、卑しい奴僕にしか見えなかった。孫秀は(孫会に)恵帝の娘の河東公主を娶らせた〈司馬倫伝〉
冬十一月甲子、皇后の羊氏を立て、天下を赦した〈恵帝紀〉。皇后は、尚書郎である泰山の羊玄之の娘である。外祖父の平南将軍である楽安の孫旂は、孫秀と仲が良く、だから孫秀が彼女を立てたのである〈羊皇后伝〉。羊玄之は光禄大夫・特進・散騎常侍を拝し、興晋侯に封じられた〈外戚 羊玄之伝〉
詔して益州刺史の趙廞を徴して大長秋とし、成都内史である中山の耿滕を益州刺史とした。趙廞は、賈后の姻戚である。徴されたと聞き、ひどく懼れ、しかも晋王朝が衰え乱れているから、蜀に割拠しようという野心を持ち、国庫を開いて、流民に支給し、支持を稼いだ。李特の兄弟は武の才能があり、その一族が巴西の人で、趙廞と同郡なので、これを厚遇し、爪牙となった。李特は趙廞の権勢を頼りにし、兵を集めて盗賊行為をし、蜀のひとから疎まれた。耿滕がしばしば密かに上表し、「流民は剛強であり、蜀人は軟弱であり、主が客を制御できず、乱の端緒です、本籍地に還しなさい。もし険阻な土地に留めたら、秦州と雍州の災禍は、梁州と益州にも広がります」と言った。趙廞はこれを聞いて(上表をした耿滕を)憎んだ〈蜀録 李特伝〉
益州では詔書を受け、文武千餘人で耿滕を迎えた。このとき、成都県は少城を治所とし、益州刺史は太城を治書とした。趙廞は依然として太城におり、立ち去らなかった耿滕は益州に入ろうとすると、功曹の陳恂が諫めて、「いま州郡は法令が破綻して久しく、太城に入ればきっと大きな禍いがあります、少城に留まって異変を見ているのがよく、諸県に檄文を出して村保を糾合して秦州の氐族(李特ら)に備え、陳西夷(西夷都尉の陳総)が至るのを、待ちなさい。さもなくば、退いて犍為に拠り、西のかた江源に渡り、不測の事態を防ぎなさい」と言った。耿滕は従わなかった。この日、兵をひきいて益州に入り、趙廞が迎撃し、西門で戦い、耿滕は敗れて死んだ。郡吏はみな逃げ去り、ただ陳恂だけが面縛して趙廞のもとに耿滕の遺体返還を求め、趙廞はこれを義として許した〈蜀録 李特伝〉
趙廞は西夷校尉の陳総をも迎撃した。陳総は江陽に至り、趙廞に野心があると聞き、主簿である蜀郡の趙模に、「いま州郡は協調せず、異変が起こるから、早く行くべきです。あなたは蜀地方の軍のかなめです。あなたが道理に従わねば、誰が動くのですか」と言った。陳総は道に沿って停留し、南安の魚涪津に至るころ、趙廞の軍と遭遇し、趙模は陳総に、「散財して兵を募集し防戦しましょう。もし州軍(趙廞)に勝てば、益州を獲得できます。勝てねば、流れに沿って撤退すれば、殺害されません」と言った。趙模は、「趙益州(趙廞)は耿侯(耿滕)に怒ったから、彼を殺したのだ。私は彼と不仲ではない、なぜ抗戦せねばならんのか」と言った。趙模は、「いま事を起こさねば、趙廞はあなたを殺して権威を打ち立てます。戦いを避けても、利益はありません」と言った。泣きながら説得したが、陳総は耳を傾けず、軍隊は自壊した。陳総が草中に逃げると、趙模は陳総の服をきて格闘した。趙廞の兵は趙模を殺し、当人ではないのを知り、さらに陳総を探し求め、これを殺した〈蜀録 李特伝〉
趙廞は大都督、大将軍・益州牧を自称し、僚属を設置し、守令を任命し直した。王官は召されても、敢えて行かなかった。李庠は妹婿の李含・天水の任回・上官昌・扶風の李攀・始平の費他・氐族の苻成・隗伯ら四千騎をつれて趙廞に帰属した。趙廞は李庠を威寇将軍とし、陽泉亭侯に封じ、腹心とし、六郡の勇敢な兵を招き集めさせ、一万餘人までになり、北への道を断った〈蜀録 李特伝〉