いつか読みたい晋書訳

資治通鑑_晋紀六 孝恵皇帝_中之上(三〇一-三〇二)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
作業手順は、以下の1.~4.の通りです。ここに掲載しているのは、翻訳の準備として、1.維基文庫をとりあえず現代語訳して大意をつかみ、4.『資治通鑑証補』の指摘を拾って赤文字で示す、という作業段階のものです。今後、精度を上げます。
1.維基文庫で、『資治通鑑』のテキストを取得。/2.中華書局の『資治通鑑』を底本とし、テキストを修正。/3.胡三省注、『資治通鑑考異』で内容理解を深める。/4.現代語訳をする際は、『資治通鑑』(続国訳漢文大成)、『和刻本資治通鑑』を参考とする。頼惟勤・石川忠久編『資治通鑑選』(中国古典文学大系14、平凡社)に収録されている部分はこれを参照する。/5.石川安貞『資治通鑑証補』(蓬左文庫)が正史等の出典を概ね示しているため、そのまま引用。同書が空格(空欄)としているものは、追加検証しない。6.初出の語彙には、読みがな(ルビ)を付す。

永寧元(三〇一)年

現代語訳

春正月、散騎常侍である安定の張軌を涼州刺史とした。張軌は時局が多難なので、ひそかに河西を切り取る野心を持ち、ゆえに涼州を求めた。ときに州域では盗賊が横行し、鮮卑が侵略した。張軌は到着すると、宋配・汜瑗を謀主とし、ことごとく討伐し、威信が西土に表れた〈十六国春秋 張軌伝〉。
相国の司馬倫は孫秀とともに牙門の趙奉に詐って宣帝の神語を伝えさせ、「司馬倫は早く西宮に入れ」と言った。散騎常侍である義陽王の司馬威は、司馬望の孫であるが、司馬倫にへつらっており、司馬倫は司馬威に侍中を兼ねさせ、恵帝に逼って璽綬を奪い、禅譲の詔を作らせ、尚書令の満奮に持節して璽綬を奉じて司馬倫に位をゆずらせた。左衛将軍の王輿・前軍将軍の司馬雅らは甲士をひきいて宮殿に入り、三部司馬を説得し、権威と賞与で釣ったので、反対者はいなかった。張林らが諸門を屯守した。乙丑、司馬倫は法駕を備えて宮殿に入り、帝位に即き、天下を赦し、建始と改元した〈趙王倫伝〉。恵帝は華林の西門から出でて金墉城に居り、司馬倫は張衡に護衛させた〈恵帝紀〉。
丙寅、恵帝を尊んで太上皇とし、金墉城を改めて永昌宮とし、皇太孫を廃して濮陽王とした〈恵帝紀〉。世子の荂を立てて皇太子とし、子の馥を京兆王、虔を広平王、詡を霸城王に封じ、いずれも中央に侍って兵をひきいた〈司馬倫伝に依る〉。梁王の司馬肜を宰衡〈宣五王肜伝〉、何劭を太宰〈何曾 附劭伝〉、孫秀を侍中・中書監・驃騎将軍・儀同三司、義陽王の司馬威を中書令、張林を衛将軍とし、その他の党与は、みな卿や将となり、席次を飛びこえた者は、数え切れない。下は奴卒に至るまで、また爵位を加えられた。朝会のたび、貂蟬が座に満ち、当時の人は、「貂が足りず、狗尾が続いた」と噂した。この年、天下の推挙した賢良・秀才・孝廉はみな試験されず、郡国の計吏及び太学生の年十六以上の者はみな署吏になった。守令で赦の日に職にあった者はすべて侯に封じられた。郡の綱紀は並んで孝廉となり、県の綱紀は並んで廉吏となった。府庫の備蓄だけでは、賜与に不足した。侯に応ずる者は多く、印の鋳造が追い付かず、白板を使って封じた〈司馬倫伝〉。
これより先、平南将軍の孫旂の子である孫弼・弟の子である孫髦・孫輔・孫琰はいずれも孫秀にへつらい、合族して、旬月のうちに高位に登った。司馬倫が称帝するに及び、四人の子はみな将軍となり、郡侯に封じられ、孫旂を車騎将軍・開府とし、孫旂は孫弼らが司馬倫から不相応な官爵を受け、必ず家の禍いとなるから、幼子の孫回を遣って忠告させたが、孫弼らは従わなかった。孫旂は取り返しがつかず、慟哭するだけだった〈孫旂伝に依る〉。
癸酉、濮陽哀王の司馬臧を殺した〈恵帝紀〉。孫秀は朝政を専らにし、司馬倫が発行する詔令は、孫秀が改変をし、自ら青紙に詔を書いて、朝令暮改で、百官は右往左往した。張林は孫秀と不仲であり、その怨みにより開府を許されず、ひそかに太子の司馬荂に書簡を送り、「孫秀の専権は支持を得ていない、功臣は小人ばかりで、朝廷を攪乱している、全て誅殺すべきです」と言った。司馬荂はこれを司馬倫に見せ、司馬倫は孫秀に見せてしまった。孫秀は司馬倫に張林を捕らえ、殺して、夷三族にせよと勧めた。孫秀は斉王の司馬冏・成都王の司馬穎・河間王の司馬顒が、それぞれ強兵を擁し、一方面に拠っているので、これを疎ましく思った。親党を三王の部下に送り込み〈司馬倫伝〉、司馬冏に鎮東大将軍〈司馬冏伝〉、司馬穎に征北大将軍を加え〈司馬穎伝〉、開府儀同三司とし、抱き込もうとした〈司馬冏伝〉。
李庠の驍勇は支持を集め、趙廞はこれを疎ましく思ったが言わずにいた。長史である蜀郡の杜淑・張粲は趙廞に、「将軍はここで起兵したが、李庠に外で強兵を掌握させており、彼は異民族なので、きっと心が異なります。戈を逆さまにして人に渡しているようなものです、早く殺しなさい」と言った。このころ李庠が趙廞に尊号を称することを勧めると、杜淑・張粲は、趙廞は李庠を裏切るつもりだと言い、彼を斬って、その子や姪〈蜀録 李特伝に見える〉十餘人も殺した〈華陽国志と漢晋春秋に従うと資治通鑑考異に見える〉。このとき李特・李流は外で兵をひきい、趙廞はひとを派遣して彼らを慰撫し、「李庠のことは言うべきでなく、罪は死に相当した。兄弟には罪を及ぼさぬ」と言った。李特・李流を、ふたたび督将とした。李特・李流は趙廞を怨み、兵をひきいて緜竹に帰った〈蜀録 李特伝〉。 趙廞の牙門将である涪陵の許弇は巴東監軍となることを求め、杜淑・張粲は頑なに許さず、許弇は怒り、手ずから杜淑・張粲を張廞のもとで殺し、杜淑・張粲の側近は許弇を殺した。三人は、いずれも趙廞の腹心であり、趙廞はこれにより衰微した〈蜀録 李特伝〉。
趙廞は長史である犍為の費遠・蜀郡太守の李苾・督護の常俊を遣わして一万餘人を督して北道を断ち、緜竹の石亭に駐屯させた。李特はひそかに兵を収容して七千餘人を得て、夜に費遠らの軍を襲い、これを焼き、十人に八九が死に、ついに進んで成都を攻めた。費遠・李苾及び軍祭酒の張微は、夜に関守を斬って逃げ、文武の官は全員が散った。趙廞は妻子だけを連れて小船に乗って逃げ、広都に至り、従者に殺された。李特は成都に入り、兵を放って掠奪させ、使者を洛陽に送り、趙廞の罪状を報告した〈蜀録 李特伝〉。
これより先、梁州刺史の羅尚は、趙廞が反したと聞き、上表し、「趙廞は素より雄才でなく〈蜀録 李特伝〉、蜀人は懐かず、敗亡は時間の問題であった」と言った。詔して羅尚に平西将軍・益州刺史を拝し〈羅憲 附羅尚伝に依る〉、督牙門の王敦・蜀郡太守の徐倹・広漢太守の辛冉ら七千人餘人を蜀に入らせた。李特らは羅尚が来ると聞き、ひどく懼れ、弟の李驤に道に出迎えさせ、珍宝を献上した。羅尚は悦び、李驤を騎督とした。李特・李流もまた牛酒をもって羅尚を緜竹でねぎらい、王敦・辛冉は羅尚に、「李特らは盗賊ですから、面会して斬りなさい。さもなくば、後の脅威となります」と言った。羅尚は従わなかった。辛冉は李特と旧知であり、李特に、「旧知が再会したことは、吉でなければ凶だろうな」と言った。李特は強く警戒をした〈蜀録 李特伝〉。
三月、羅尚は成都に至った〈蜀録 李特伝〉。汶山羌が反し、羅尚は王敦にこれを討伐させたが、羌族に殺された〈考異は華陽国志に従うとしている〉。
斉王冏は趙王倫の討伐を計画し、実行に移す前に、離狐の王盛・穎川の処穆は兵を濁沢に集め、万民がこれに従い、日ごとに万を数えた。司馬倫はその将の管襲を斉王の軍司とし、王盛・処穆を討伐させ、これを斬った。司馬冏は管襲を捕らえ、これを殺し〈考異に拠れば三十国春秋に従っている〉、豫州刺史の何勖・龍驤将軍の董艾らとともに起兵し、使者を送って成都王の司馬穎・河間王の司馬顒・常山王の司馬乂及び南中郎将である新野公の司馬歆に告げて、檄文を征鎮・州郡県国に回付し〈司馬冏伝〉、「逆臣の孫秀が、趙王を惑わして誤らせた、一緒に誅殺しよう。命令に従わねば、夷三族とする」と言った〈未詳〉。
使者が鄴に至り、成都王の司馬穎は鄴令の盧志を召して相談した。盧志は、「趙王は僭逆し、人神はともに憤り、殿下は英俊を集めて人々の望みに従い、道理に基づいてこれを討伐すれば、百姓は召さずとも自発的に至り〈盧志伝に依る〉、袖をめくって争って進み、必ずや勝利するでしょう〈未詳〉」と言った。司馬穎はこれに従い、盧志を諮議参軍とし、左長史に補した。盧志は、盧毓の孫である。司馬穎は兗州刺史の王彦・冀州刺史の李毅・督護の趙驤・石超らを前鋒とし、遠近は呼応した。朝歌に至り、兵は二十餘万となった〈司馬穎伝〉。石超は、石苞の孫である〈石苞 附超伝〉。常山王の司馬乂は藩国におり、太原内史の劉暾とともに兵をひきいて司馬穎の後詰めとなった〈司馬乂伝及び劉暾伝に依る〉。
新野公の司馬歆は司馬冏の檄文を受け取り、従ったものか判断ができなかった。嬖人の王綏が、「趙王は血縁が近くて強く、斉王は遠くて弱い、趙王に従いなさい」と言った。参軍の孫洵は皆のまえで大声で、「趙王は凶逆であり、天下はこぞって誅殺すべきです、親疏や強弱が何でしょうか」と言った。司馬歆は司馬冏に従った〈新野荘王歆伝〉。
前安西参軍の夏侯奭は始平におり、兵数千人をまとめて司馬冏に呼応し、使者を送って河間王の司馬顒のもとに向かった〈司馬顒伝〉。司馬顒は長史である隴西の李含の意見を用い〈李含伝に見える〉、振武将軍である河間の張方に夏侯奭及びその一味を討伐させ、腰斬した。司馬冏の檄文が至ると、司馬顒は司馬冏の使者を捕らえて司馬倫に送り、張方を派遣して司馬倫を助けた。張方が華陰に至り、司馬顒は二王の兵が盛んであると聞き、張方を召して返し、一転して二王に味方した〈司馬顒伝〉。
司馬冏の檄文が揚州に至ると、州人はみな司馬冏に味方しようとした。刺史の郗隆は、郗慮の玄孫であるが、兄の子である郗鑑及び諸子が全て洛陽にいるため、決断できず、僚吏を召集して相談した。主簿である淮南の趙誘・前秀才の虞潭は、「趙王は僭逆し、海内は疎ましく思っています。いま義兵が四方で起こり、その敗北は必至です。あなたのために計略を立てるなら、自ら精兵をひきい、許昌(司馬冏の鎮所)に直行するのが、上策です。将軍を派遣するのが、中策です。小規模な軍を出して、形勢を見て勝ったほうに味方にするのが、下策です」と言った〈「諸子」以下は趙誘伝に依る〉。
郗隆は退席してから、ひそかに別駕の顧彦に相談すると、「趙誘らのいう下策が、上計です」と言った。治中の留宝・主簿の張褒・西曹の留承はこれを聞き、謁見を求め、「あなたのすべきことが分からぬのですか」と言った。郗隆は、「私は二帝(胡三省によると宣帝・武帝のことであり、恵帝と趙王倫とするのは非であるという)から恩を受けた、片方の肩を持ちたくない、この州を維持したいだけだ」と言った〈「私は二帝…」以下は趙誘伝〉。留承は、「天下は、世祖の天下です。太上(恵帝)はこれを継承して久しく、今上(趙王倫)がこれを奪ったが、適正なことでなく、斉王は時勢にしたがい義挙をした、勝敗は明らかでしょう。速やかに兵を出して呼応せず、あれこれ思い悩めば、異変が発生し、この州の維持すら出来ません」と言った。郗隆は応じなかった。虞潭は、虞翻の孫である。郗隆は檄文を六日間滞留して下さず、将士は憤怒した。参軍の王邃は石頭を鎮守し、将士が争って彼ののもとに集まり、郗隆は従事を牛渚に送って禁じたが、制止できなかった。将士は王邃を担ぎあげて郗隆を攻撃し、郗隆の父子及び顧彦は死に、首は司馬冏に届けられた〈未詳〉。
安南将軍・監沔北諸軍事の孟観は、紫宮の帝坐に異変がないから、司馬倫が必ず敗れないと考え、彼のために固守した〈孟観伝〉。
司馬倫・孫秀は三王の兵が起ったと聞き、大いに懼れ、詐って司馬冏の上表を作り、「どこの賊だか分からないが突然現れて包囲され、私は惰弱なので防衛できず、中軍の助けが欲しい、死罪に相当します」と言った。その上表を内外に広く示した〈未詳〉。上軍将軍の孫輔・折衝将軍の李厳は、兵七千をひきいて廷寿関から出て、征虜将軍の張泓・左軍将軍の蔡璜・前軍将軍の閭和は、兵九千をひきいて崿阪関から出て、鎮軍将軍の司馬雅・揚威将軍の莫原は、兵八千をひきいて成皋関から出て、司馬冏を防ぎ止めた〈司馬倫伝〉。孫秀の子である孫会に将軍の士猗・許超を督させて宿衛の兵三万をひきいて司馬穎を食い止めさせた〈司馬穎伝に依る〉。東平王の司馬楙を召して衛将軍として、諸軍を都督させ、さらに京兆王の司馬馥・広平王の司馬虔は、兵八千で三軍の後方支援とした。孫倫・孫秀は日夜祈祷して勝利を願い、巫覡に戦うべき日を占わせ、ひとに嵩山に羽衣が現れたと言わせ、詐って仙人の王喬と称し、司馬倫の寿命が長いという予言書を作らせ、人々を惑わそうとした〈司馬倫伝〉。 閏月丙戌朔、日食があった。正月からのこの月に至るまで、五星が天を横切り、縦横に不規則に動いた〈恵帝紀〉。
張泓らは進んで陽翟に拠り、斉王の司馬冏と戦い、しばしばこれを破った。司馬冏は穎陰に軍を置いていたが、夏四月、張泓は勝ちに乗じて逼り、司馬冏は迎撃した。諸軍は動かず、しかし孫輔・徐建の軍が夜に乱れ、洛陽に帰り、「斉王の兵は盛んで、対処できず、張泓らはすでに滅びました」と報告した。趙王倫は大いに恐れ、これを秘密にし、子の司馬虔及び許超を召して還った。たまたま張泓が司馬冏を破ったという露布が至り、司馬倫は再び行かせた。張泓らは諸軍をひきいて潁水を渡って司馬冏の軍営を攻め、司馬冏はその別将である孫髦・司馬譚らを攻撃し、これを破り、張泓らは退いた。孫秀は詐ってすでに司馬冏の軍営を破り、司馬冏を捕らえたと言い、百官に祝賀させた〈司馬倫伝〉。
成都王の司馬穎の前鋒は黄橋に至り、孫会・士猗・許超に破られ、万餘人が殺傷され、兵士は震え騒いだ。司馬穎は退いて朝歌に拠ろうとしたが、盧志・王彦は、「いまわが軍は敗れ、敵軍は志を得たばかりで、油断しています。もし退けば、士気が挫け、挽回できなくなります。戦えば勝ちも負けもつきもの。精兵を選び直し、二倍速で移動し、敵の不意を突くのが、優れた用兵であります」と言った。司馬穎はこれに従った〈盧志伝に依る〉。司馬倫は黄橋の戦功に対する褒賞を与え〈未詳〉、士猗・許超は孫会とともに持節となり、これにより互いに命令を聞かず〈未詳〉、指揮系統が乱れ〈未詳〉、司馬穎に勝ったことを誇って防備を怠った。司馬穎は諸軍をひきいてこれを攻撃し、大いに〈司馬穎伝に依る〉湨水で戦い〈恵帝紀〉、孫会らは大敗、軍を棄てて南下して逃げた。司馬穎は勝ちに乗じて長駆して黄河を渡った〈司馬穎伝〉。
司馬冏らが起兵してから、百官将士はみな司馬倫・孫秀を誅殺したいと考え、孫秀は懼れ、敢えて中書省に出なかった。河北の軍が敗れたと聞き、憂慮して何も手につかない。孫会・許超・士猗らが至り、孫秀と策略をねった。あるひとが残兵を集めて出撃しようと言い、あるひとは宮室を焼き、不服従者を誅せといい、司馬倫を捕らえて南のかた孫旂・孟観を頼れと言うものもいた。または船に乗って東にゆき海に逃げ込めといい、結論が出なかった〈司馬倫伝〉。辛酉、左衛将軍の王輿は尚書である広陵公の司馬漼とともに〈瑯邪王 附淮陵王漼伝〉営兵の七百餘人をひきい、南掖門から宮殿に入り、三部司馬が内側から呼応し、孫秀・許超・士猗を中書省で攻め、すべて斬り、こうして孫奇・孫弼及び前将軍の謝惔らを殺した〈司馬倫伝〉。司馬漼は、司馬伷の子である〈瑯邪王伝〉。王輿は雲龍門を屯守し、八坐を召して皆を殿中に入れ、司馬倫に詔を作らせ、「私は孫秀のせいで誤り、三王を怒らせたが、すでに孫秀を誅した。太上皇を帝位にもどし、私は農耕をして余生を過ごしたい」と言った。詔を伝えて騶虞幡をもって将士に武装解除を命じた。黄門は司馬倫を連れて華林の東門から出て、及び太子の司馬荂は汶陽里の邸宅に帰り、甲士の数千人が恵帝を金墉城に迎えた。百姓はみな万歳を称した。恵帝は端門から入り、殿上に登り〈司馬倫伝〉、群臣は頓首して謝罪した〈恵帝紀〉。詔して司馬倫・司馬荂を金墉城に移した。広平王の司馬虔が河北から還り、九曲に到着し、事変を聞き、軍を棄て、数十人をひきいて私邸に帰った〈司馬倫伝〉。 癸亥、天下を赦し、改元し、五日の酒宴をして〈恵帝紀〉、使者をそれぞれ送って三王を慰労した〈未詳〉。梁王の司馬肜らは上表し、「趙王の司馬倫は父子が凶逆であり、誅に伏すべきです」と言った。丁卯、尚書の袁敞が持節して司馬倫に死を賜り、その子である荂・馥・虔・詡を捕らえ、みな誅した。およそ百官で司馬倫に登用された者はみな解任して退けられ、台・省・府・衛は、僅かな者しか残らず〈司馬倫伝〉、この日、成都王の司馬穎が至った。己巳、河間王の司馬顒が至った〈未詳〉。司馬穎は趙驤・石超に斉王冏を助けて張泓らを陽翟で討伐させ、張泓らは降った〈司馬穎伝に依る〉。兵が興ってから六十餘日で、戦闘で死んだ者は十万人に近かった。張衡・閭和・孫髦を東市で斬り、蔡璜は自殺した〈司馬倫伝〉。五月、義陽王の司馬威を誅した〈恵帝紀〉。襄陽太守の宗岱は司馬冏の檄文を受けて孫旂を斬り〈孫旂伝〉、永饒冶令の空桐機は孟観を斬り〈孟観伝〉、いずれも首を洛陽に届け、夷三族とした〈孫旂伝及び孟観伝〉。
襄陽王の司馬尚を皇太孫に立てた〈恵帝紀〉。 六月乙卯、斉王の司馬冏が兵をひきいて洛陽に入り、軍を通章署に停泊させ、兵士数十万が、京都を震え上がらせた〈司馬冏伝〉。
戊辰、天下を赦した〈恵帝紀〉。
賓徒王の司馬晏を呉王に回復した〈恵帝紀〉。
甲戌、詔して斉王の司馬冏を大司馬とし、九錫を加え、備物や典策は、宣・景・文・武帝が魏王朝を輔政した故事に基づいた〈司馬冏伝〉。成都王の司馬穎が大将軍、都督中外諸軍事となり、黄鉞を仮し、録尚書事、九錫を加え、入朝不趨・剣履上殿とした〈司馬穎伝〉。河間王の司馬顒を侍中・太尉とし、三賜の礼を加えた〈司馬顒伝〉。常山王の司馬乂を撫軍大将軍、左軍を領した〈司馬乂伝〉。広陵公の司馬漼の爵位を進めて王とし、尚書を領し、侍中を加えた〈淮陵王漼伝〉。新野公の司馬歆の爵位を進めて王とし、都督荊州諸軍事とし、鎮南大将軍を加えた〈新野荘王歆伝〉。斉・成都・河間の三府は、それぞれ掾属四十人を置き〈司馬冏伝〉、武官の号は森のように並び、文官は定員を揃えるのみで、見識者は兵争がまだ続くと悟った。己卯、梁王の司馬肜を太宰とし、司徒を領した〈司馬肜伝〉。
光禄大夫の劉蕃の娘は趙王の世子である司馬荂の妻であり、ゆえに劉蕃及び二子である散騎侍朗の劉輿・冠軍将軍の劉琨はどちらも司馬倫に信任された。大司馬の司馬冏は劉琨の父子に才望があるから、特別に見逃し、劉輿を中書郎とし、劉琨を尚書左丞とした〈劉琨伝〉。さらに前司徒の王戎を尚書令とし〈王戎伝〉、劉暾を御史中丞とし〈劉暾伝〉、王衍を河南尹とした〈王戎伝〉。
新野王の司馬歆は鎮所に向かおうとし、司馬冏と同乗して陵墓に参詣し、司馬冏に、「成都王は極めて親しく、ともに大勲を立てた、彼を留めて一緒に輔政しなさい。それができぬなら、兵権を奪いなさい」と説いた〈司馬歆伝〉。常山王の司馬乂は成都王の司馬穎とともに陵墓に拝謁し、司馬穎に、「天下は、先帝の事業の結果であり、王はこれを是正しなければならない」と言った。その発言を聞いて、憂い懼れぬ者はいなかった〈司馬乂伝に依る〉。
盧志は司馬穎に、「斉王の軍は百万と号しているが、張泓らと対峙して久しく決着がつけられなかった。大王は前進して黄河を渡り、功績は無二でした。しかしいま斉王は大王とともに輔政をしようと考えています。私が聞きますに両雄は並び立ちません、太妃の病を理由に、帰宅を申請し、斉王に政権を委任し、四海からの支持を得るのが、上策です」と言った。司馬穎はこれに従った〈盧志伝〉。
恵帝は司馬穎と東堂で会い、かれを慰労した。司馬穎は拝謝し、「これは大司馬の司馬冏の勲功です、私は何もしていません」と言った〈司馬穎伝〉。司馬冏の功績と徳を上表し、政務全般を委任せよと述べ、母の病気を理由に、帰藩を願い出た〈未詳〉。すぐに辞去し、軍営に還ることがなく、太廟に謁した足で、東陽城門から出て、鄴に帰った。文書を送って司馬冏に別れを述べると、司馬冏は大いに驚き、馳せて司馬冏を見送り、七里澗で、追い付いた。司馬穎は馬車を止めて別れを言い、たっぷりと涙を流し、太妃の病気が心配とだけ言い、時世については言及しなかった。これにより士民からの期待は司馬穎に集まった〈司馬穎伝に依る〉。 司馬冏は新興の劉殷を辟して軍諮祭酒とし〈孝友 劉殷伝〉、洛陽令の曹攄を記室督〈良吏 曹攄伝〉、尚書郎の江統〈江統伝〉・陽平太守である河内の苟晞を参軍事〈荀晞伝〉、呉国の張翰を東曹掾〈文苑 張翰伝〉、孫恵を戸曹掾〈孫恵伝〉、前廷尉正の顧栄及び順陽の王豹を主簿とした〈顧栄及び忠義 王豹伝〉。孫恵は、孫賁の曾孫である〈孫恵伝〉。顧栄は、顧雍の孫である〈顧栄伝〉。劉殷は幼いとき父を亡くして貧しく、曾祖母に養われ、孝によって聞こえ、人は穀帛を贈り、劉殷はもらっても礼を言わず、悪びれず、「出世したらお返しします」と言った。成長すると、経書や史書に精通し、才気が人より優れて大志があり、倹約しても下品でなく、清廉でも疎略でなく、会うと物静かであるが侵し難かった〈孝友 劉殷伝〉。
司馬冏は何勖を中領軍とし、董艾に枢機を掌らせ、また将佐で功績のあった葛旟・路秀・衛毅・劉真・韓泰を県公とし、腹心として、五公と呼んだ〈司馬冏伝〉。
成都王の司馬穎が鄴に至ると、詔して使者に前の命令を伝えさせた。司馬穎は大将軍を受けたが、九錫の殊礼を辞退した。上表して義を興した功臣を論じ、みなを公侯に封じさせた。さらに上表し、「大司馬はかつて陽翟におり、賊との持久戦となり、百姓は困窮したので、河北の備蓄米を十五万斛、陽翟の飢えた民に施そう」と言った。棺を八千餘つくり、成都国の費用で衣服をつくり、黄橋で戦士した兵士を収容して祭り、旗をその家に立てて示し、戦死者には二等の爵位を与えた。さらに温県に命じて趙王倫の戦士の一万四千餘人を埋葬させた。すべて盧志の発案であった。司馬穎は外見が美しいが精神の働きが鈍く、書を知らず、しかし気性は温厚で、盧志に政治を委任し、ゆえに賛美を受けられた。詔して使者を送って司馬穎に中央で輔政せよと命じ、九錫を授けさせた。司馬穎の嬖人である孟玖は洛陽に還りたくなく、また程太妃も鄴都に愛着があるので、司馬穎は最後まで断った〈司馬穎伝に依る〉。
これより先、大司馬の司馬冏は中書郎の陸機が趙王倫のために禅譲の詔を作ったのではないかと疑い、捕らえて、殺そうとした。大将軍の司馬穎は彼のために弁明し、死を免れることができ、上表して平原内史とし、その弟の陸雲を清河内史とした。陸機の友人である顧栄及び広陵の戴淵は、中原が多難なので、陸機に呉へ還ることを勧めた。陸機は司馬穎から命を救われた恩があり、また司馬穎に時望があるから、功績を立てようと考え、去らずに留まった〈陸機伝に依る〉。
秋七月、また常山王の司馬乂を長沙王に封じ〈恵帝紀〉、開府・驃騎将軍に遷した〈司馬乂伝〉。
東萊王の司馬蕤は、凶暴で酒に任せ、しばしば大司馬の司馬冏を軽侮し、また司馬冏に開府を求めたが許可されなかったことを怨み、密かに司馬冏の専権を上表し、左衛将軍の王輿とともに司馬冏を排除する計画を立てた。ことが発覚し〈斉献王 附蕤伝〉、八月〈考異に依ると三十国春秋を取っている〉、詔して司馬蕤を廃して庶人とし、王輿の三族を誅し〈恵帝紀〉、司馬蕤を上庸に移した。上庸内史の陳鐘は司馬冏の指図を受けてひそかに司馬蕤を殺した〈司馬蕤伝〉。
天下を赦した〈恵帝紀〉。
東武公の司馬澹は不孝であるとして遼東に移された〈武陵王澹伝〉。九月、その弟である東安王の司馬繇を召して旧爵を回復し、尚書左僕射を拝した〈東安王繇伝〉。司馬繇は東平王の司馬楙を挙げて平東将軍・都督徐州諸軍事とし、下邳に出鎮させた〈宗室 安平王 附楙伝〉。
これより先、朝廷は命令を秦州と雍州に下し、流民で蜀に入った者を召還させ、さらに御史の馮該・張昌を派遣して監督させた。李特の兄の李輔は略陽から蜀に至り、中原が乱れそうだから、帰還には及ばないと言った。李特は同意し、天水の閻式を派遣して羅尚に秋まで一時停止することを求めて、また羅尚及び馮該に賄賂をした。羅尚・馮該はこれを許した。朝廷は趙廞を討伐した功績を論じ、李特に宣威将軍を拝し、弟の李流を奮武将軍とし、二人を侯に封じた。璽書を益州に下し、六郡の流民で李特とともに趙廞を討伐したものを列挙すれば、封賞を加えるとした。広漢太守の辛冉は趙廞を滅ぼしたことを己の功績に横取りしようとし、朝命を寝かせ、実情を報告せず、みなから怨まれた〈蜀録 李特伝〉。
羅尚は従事を派遣して流民の移送を監督させ、七月を期限と申請した。このとき流民は梁州や益州に分布し、ひとに雇われ、州郡が移動を命じると聞き、落胆して怨み、どうしてよいか分からなかった。しかも川の水が溢れ、穀物が実らず、移動中の食料が無かった。李特は再び閻式に羅尚を訪れさせ、冬までの延期を願い出た。辛冉及び犍為太守の李苾は許可しなかった。羅尚は別駕である蜀郡の杜苾を秀才に挙げ、閻式は杜苾に移動を無理強いすることの利害を述べ、杜苾もまた一年の猶予を与えるべきと考えた。羅尚は辛冉・李苾の考えを用い、(延期を)許さなかった。李苾は秀才の板を送り、辞職して家に還った。辛冉は貪欲で凶暴な性格で、流民の首領を殺し、その財産を奪おうとし、李苾とともに羅尚に、「流民は前に趙廞を頼って乱を起こし、多く窃盗しました、移動させるとき関所を設けて没収しましょう」と言った。羅尚は文書を回して梓潼太守の張演に要所に関を設けさせ、財貨を探索して求めた〈蜀録 李特伝〉。
李特はしばしば流民のために停留を要請し、流民は感激して李特を頼りにし、連れ合って李特のもとに集まった。李特は大きな営所を綿竹に作って流民を収容し、辛冉に猶予を求めた。辛冉は大いに怒り、人をやって街路に立て札を立て、李特の兄弟に懸賞金をかけ、重い褒賞を約束した。李特はこれを見て、全て回収して帰り、弟の李驤とともに懸賞の内容を変更し、「六郡の豪族である李・任・閻・趙・楊・上官及び氐・叟の侯王一首を届けたら、百匹を賞す」とした。ここにおいて流民は大いに懼れ、李特を頼るものは増え、旬月のうちに二万人を超えた。李流はさらに兵数千人を集めた〈蜀録 李特伝〉。
李特は閻式を派遣して羅尚に延期を求め、閻式は防御柵が要地に立てられ、流民を囲い込もうとするのを見て、歎じて、「民の心は安定せず、それを煽れば、乱が起きてしまう」と言った。さらに辛冉・李苾が考えを変えないと知り、羅尚に綿竹に帰りますと告げた。羅尚は閻式に、「あなたは私の考えを流民たちに伝えてほしい、延期を認めてやろう」と言った。閻式は、「あなたは邪悪な言葉で惑わすのですか、恐らく認めるつもりはありませんね。弱いが軽視すべきでないのが民です、いま道理を破って接すれば、民衆は怒って制御できず、災禍が深まりましょう」と言った。羅尚は、「そうだ。私はあなたを欺かぬ。行きなさい」と言った。閻式は綿竹に至り、李特に、「羅尚はこのように言っていますが、信じられません。なぜか。羅尚の規制力は弱く、辛冉らがそれぞれ強兵を擁し、いちど異変があれば、羅尚は統制が取れません、念入りに備えて下さい」と言った。李特はこれに従った。冬十月、李特は分けて二営とし、李特は北営におり、李流は東営におり、兵器を修繕し兵員を訓練し、警戒しつつ待機した〈蜀録 李特伝〉。
辛冉・李苾は相談し、「羅侯は貪欲だが決断力がなく、対処が遅れたら、流民は姦計を実現させるだろう。李特の兄弟は英雄の才があり、わが属将は捕虜になるだろう。計略を決行し、羅侯の決断を待つ必要はない」と言った。広漢都尉の曾元・牙門の張顕・劉並らにひそかに歩騎三万をひきいて李特の軍営を襲撃させた。羅尚はこれを聞き、督護の田佐を派遣して曾元を助けさせた。曾元らが至ると、李特は横になって動かず、敵軍の半分が入るのを待ち、伏兵を発して攻撃し、多くを死なせた。田佐・曾元・張顕を殺し、首を羅尚・辛冉に届けて示した。羅尚は将佐に、「この流民は移動の目算があったのに、広漢は私の意見を用いずに賊を勢いづかせた、どうしたものか」と言った〈蜀録 李特伝〉。
ここにおいて六郡の流民である李含らはともに李特を推戴して行鎮北大将軍とし、承制して封拝した〈蜀録 李特伝〉。その弟の李流を行鎮東大将軍とし、東督護を号し〈蜀録 李流伝に依る〉、それぞれ統率させた〈李特伝〉。兄の李輔を驃騎将軍とし〈蜀録 李輔伝〉、弟の驤を驍騎将軍とし〈蜀録 李驤伝〉、進軍して辛冉を広漢で攻撃した。羅尚は李苾・費遠を派遣して辛冉を救援したが、李特を畏れ、進まなかった。辛冉は出撃したが、敗北を重ね、包囲を解いて徳陽に走った。李特は広漢に入り、李超を太守とし、進軍して羅尚を成都で包囲した。羅尚は文書で閻式を説諭したが、閻式は返書して、「辛冉は小狡く、曾元は小物であり、李叔平は将帥となる人材ではありません。私はかつてあなたと杜景文のために留まらせるか移らせるかについて論じましたが、ひとは郷里に愛着があるので、移動を嫌がりました。しかし先日初めて(蜀に)至ると、食糧を得るため賃労働し、一家が五つに離散し、また秋の長雨にあい、冬まで猶予することを、許されませんでした。彼らを追い込んではいけません、追い詰められた鹿は虎とも戦います。流民は安穏と斬られることはなく、きっと異変を起こします。私の提言を聞き、寛大にして出発を準備させれば、九月の期限に遅れた者が尽く集まり、(冬の)十月にはきちんと道に進み、郷里に到達させれば、問題がないのではありませんか」と言った〈李特伝〉。
李特は兄の李輔・弟に李驤・子の李始・李蕩・李雄及び李含・李含の子である李国・李離・任回・李攀・李攀の弟である李恭・上官晶・任臧・楊褒・上官悖らを将帥とし、閻式・李遠らを僚佐とした。羅尚は貪欲で残虐であり、百姓に不安をもたらした。李特は蜀の民と法三章を約し、振給と貸与をして労役を減らし、礼賢な人材を抜擢して集め、軍政は粛然として、蜀の民は大いに悦んだ。羅尚はなんども李特に敗れ、防衛陣を張り巡らせ、郫水に沿って軍営を築き、七百里に渡り、李特と対峙し、梁州及び南夷校尉に救援を求めた〈蜀録 李特伝〉。
十二月、穎昌康公の何劭が薨じた〈恵帝紀〉。大司馬の司馬冏の子である司馬冰を楽安王、司馬英を済陽王、司馬超を淮南王に封じた〈恵帝紀〉。

太安元(三〇二)年

現代語訳

春三月、沖太孫の司馬尚が薨じた(沖は謚)〈恵帝紀〉。
夏五月乙酉、梁孝王の司馬肜が薨じた〈恵帝紀〉。
右光禄大夫の劉寔を太傅としたが、すぐに老病により罷免した〈恵帝紀〉。
河間王の司馬顒は督護の衙博を派遣して李特を討伐し、梓潼に進軍した。朝廷は張微を広漢太守とし、徳陽に進軍した。羅尚は督護の張亀を繁城に進軍させた。李特はその子である鎮軍将軍の李蕩らに衙博を襲撃させた。さらに自ら張亀を攻撃し、これを破った。李蕩は衙博の軍を陽沔で破り、梓潼太守の張演は城をすてて逃げ、巴西丞の毛植は郡をあげて降った。李蕩は進んで衙博を葭萌で攻め、衙博は逃げ、その兵はことごとく降った〈蜀録 李特伝〉。河間王の司馬顒は改めて許雄を梁州刺史に任じた〈未詳〉。李特は大将軍・益州牧、都督梁・益二州諸軍事を自称した〈李特伝〉。
大司馬の司馬冏は長く専制したいが、恵帝の子孫が死に絶えたので、大将軍の司馬穎が継嗣となる流れがあった。清河王の司馬覃は、司馬遐の子であり、八歳になり〈未詳〉、この子を立てよと上表した〈司馬覃伝に依る〉。癸卯、司馬覃を皇太子に立て、司馬冏を太子太師とし、東海王の司馬越を司空〈恵帝紀〉、領中書監とした〈司馬越伝〉。
秋八月、李特が張微を攻めたが、張微はこれを撃破し、李特の軍営に向けて進軍した。李蕩は兵をひきいてこれを救い、山道が険しく狭いので、李蕩は力戦して進み、とうとう張微の軍を破った。李特は涪に還りたいと考え、李蕩及び司馬の王幸は諫めて、「張微の軍は破れ、智勇はともに尽きた、鋭気を利用して捕縛なさい」と言った〈蜀録 李蕩伝〉。李特はふたたび進んで張微を攻め、これを殺し、張微の子である張存を捕らえ、張微の遺体を返還した〈蜀録 李特伝〉。
李特はその将である騫碩に徳陽を守らせた。李驤は毘橋に進軍し、羅尚はこれを攻撃し、なんども李驤に敗れ、李驤は成都に進攻し、その城門を焼いた。李流は成都の北に進軍し、羅尚は精勇一万人で李驤を攻めて、李驤は李流と合わさって攻撃し、大いにこれを破り、帰還した者は十人に一二であった。許雄はしばしば李特を攻撃し、勝てず、李特の勢いは益々盛んになった〈蜀録 李特伝〉。
建寧の大姓である李睿・毛詵は太守の杜俊を放逐し、朱提の大姓である李猛は太守の雍約を放逐し、李特に呼応し、兵はそれぞれ数万であった。南夷校尉の李毅はこれを討ち破り、毛詵を斬った。李猛は文書を奉って降服したが、言葉が不遜であったから、李毅は誘い出してこれを殺した〈蜀録 李特伝〉。冬十一月丙戌、ふたたび寧州を設置し、李毅を刺史とした〈未詳〉。
斉武閔王の司馬冏はすでに志を得て、傲慢になり強権を振るい、邸宅を拡張し、公私の建物を百単位で壊し、形式は西宮と等しくし、内外は失望した〈司馬冏伝〉。侍中の嵇紹は上疏して、「生きており死を忘れぬのは、易にみえる教訓です。陛下が金墉のことを忘れず、大司馬が穎上のことを忘れず、大将軍が黄橋のことを忘れなければ、禍乱の予兆が生じることはありません」と言った〈忠義 嵇紹伝〉。さらに司馬冏に文書を送り、「唐虞(尭と舜)は、夏禹は粗末な建物に住みました。いま大いに宮殿を建築し、三王の邸宅を作っておりますが、優先すべきことですか」と言った。司馬冏は言葉を濁し、従わなかった〈忠義 嵇紹伝〉。
司馬冏は宴楽に耽り、朝見しなかった。坐して百官に拝し、三台に指示をした。人選は不公平で、朝臣が登用された。殿中御史の桓豹が上奏したとき、先に司馬冏の役所を経由させなかったので、刑罰を加えられた。南陽の処士である鄭方は上書して司馬冏を諫め、「いま大王は安泰であり危険を想定せず、酒宴に耽っています、過失その一です。宗室の近親者は、小さな対立がないことが理想ですが、そうなっておらず、過失その二です。蛮夷は静かでないが、大王の功業は高いため、警戒を怠っております、過失その三です。兵役の後に、百姓が困窮しても、振給をすることなく、過失その四です。大王は義兵とともに盟約しましたが、成功した後、褒賞が贈れており、まだ功績に報いられていないものがおります、過失その五です」と言った。司馬冏は感謝し、「あなたが居らねば、その助言は聞けなかった」と言った〈司馬冏 附鄭方伝〉。
孫恵は上書し、「天下に五つの難事と四つの不可があり、明公はすべて該当します。武力闘争をするのが、一の難。英雄を召集するのが、二の難。将士と労苦を分け合うのが、三の難。弱者が強者に勝つのが、四の難。皇帝の事業を復興するのが、五の難。尊い名号を長く称さず、大きな役割に長く任ぜず、大きな権力を長く持たず、大きな権威に長く居ない(のが四つの不可です)。大王は難事を難とせず、不可を可としており、ひそかに私は心配をしています。あなたは成功して引退なさいませ。近親を推薦し、政権を長沙王・成都王に委任し、帰藩して見守れば、呉の太伯・曹子臧にならぶ美事です。いま優れた処世を忘れたら危うく、権勢を貪れば疑われ、宮殿の上で遊び、垣根の中を歩いても、危機は目前に迫っており、潁川や陽翟にいたときより危険です」と言った。司馬冏は用いることができなかった〈司馬冏伝に依る〉。孫恵は病気だとして辞去した〈孫恵伝〉。
司馬冏は曹攄に、「私に権限を手放して帰国せよという者がいたが、どうかな」と言った。曹攄は、「物事は栄え過ぎを嫌い、大王は高位にいて警戒を怠らず、裾を払って立ち去れば、これは至高のことです」と言った。司馬冏は聞き入れなかった〈良吏 曹攄伝に依る〉。
張翰・顧栄は禍いが及ぶのを心配し〈顧栄伝に依る〉、張翰は秋風が起こると、菰榮・蓴羹・鱸魚鱠(故郷の食べ物)を懐かしみ、歎じて、「人生は心に適うことを大切にする、富貴ではどうにもならん」と言って、立ち去った〈文苑 張翰伝に依る〉。顧栄は酒に酔い、政治を省みず、長史の葛旟は職務怠慢なので、司馬冏に報告して顧栄を中書侍郎に移した〈顧栄伝〉。穎川の処士である庾袞は司馬冏が一年間も朝廷に出仕しないので、歎じて、「晋室は失墜し、禍乱が起こるだろう」と言った。妻子を連れて林慮山に逃げた〈孝友 庾袞伝〉。
王豹は司馬冏に書簡を送り、「元康(二九一~二九九)以来、宰相は位におり、一人も寿命を終えておらず、時勢のせいであり、不善を為したからではありません。いま禍乱を平定し、国家を安定させ、しかし失敗の前例を踏み、長期政権を願うのは、いかがなものでしょう。いま河間王は関右に基盤を築き、成都王は魏でぐずぐずし、新野王は江漢地域で広い領土を持ち、三王は強盛となり、軍馬を掌握し、要害の地に居り、しかしあなたは、賞しがたい功績により、君主を震わせる権威を持ち、ひとり京師に拠り、大権を握り、進んでも安全を保てず(易の乾、上九の爻辞)、退けば荊の道で(易の困、六三の爻辞)、長久を願っても、福を見ることはありません」と言った。全ての王侯を国に行かせ、周公旦と召公奭の体制を踏まえ、成都王を北州伯とし、鄴に赴任させ、司馬冏は自ら南州伯となり、宛に赴任することを求めた。黄河を境界とし、それぞれ王侯を統括し、天子を挟輔するものとした。司馬冏は丁寧に返答させた。長沙王は王豹の意見書を見て、司馬冏に、「小物が骨肉を離叛させるつもりだ、なぜ宮殿のもとで打ち殺さぬのか」と言った。司馬冏は王豹が内外の関係を壊すものだと上奏し、猜疑心を抱いて嫌悪し、不忠不義とし、鞭で殺した。王豹が死ぬとき、「私の首を大司馬門に懸けろ、兵が攻め寄せるのを見届けてやろう(伍子胥が出典)」と言った〈忠義 王豹伝〉。
司馬冏は河間王の司馬顒がもとは趙王の司馬倫の味方であったから、心ではつねにに恨んでいた〈未詳〉。梁州刺史である安定の皇甫商は、司馬顒の長史である李含と不仲であった。李含は徴されて翊軍校尉となり、このとき皇甫商は司馬冏の軍事に参じており、夏侯奭の兄もまた司馬冏の府所にいた。李含は不安になり、また司馬冏の右司馬である趙驤と対立していたので、単馬で司馬顒のもとに走り〈李含伝〉、密詔を受けたと詐り、司馬顒に司馬冏を誅殺させようとし〈司馬冏伝〉、司馬顒に説いて、「成都王は最も近しい親族で、大功があり、謙譲して藩国に還り、世論の支持があります。斉王(司馬冏)は親族の序列を越えて専政し、朝廷では目配せしています。いま長沙王に檄文を送って斉王を討伐させれば、斉王は必ず長沙王を誅殺するでしょうから、これを斉王の罪として彼を討伐し、きっと捕縛できるでしょう。斉王を除いて成都王を立てれば、強引な者を除いて親しい者を立てることになり、社稷を安寧年、大勲であります」と言った。司馬顒はこれに従った〈李含伝〉。このとき、武帝の族弟である范陽王の司馬虓は都督豫州諸軍事であった〈宗室 范陽王 附虓伝〉。司馬顒は上表して司馬冏の罪状を述べ、さらに、「兵十万をまとめ、成都王の司馬穎〈司馬冏伝〉・新野王の司馬歆・范陽王の司馬虓と〈未詳〉ともに洛陽に集合し、長沙王の司馬乂に要請して司馬冏を廃位とし邸宅に帰らせ、司馬穎を司馬冏に交代させて輔政をさせましょう」と言った。司馬顒はこうして挙兵し〈司馬冏伝に依る〉、李含を都督とし張方らをひきいて洛陽に向かい、司馬穎に使者を送って迎えようとし〈司馬顒伝〉、司馬穎も呼応しようとしたが、盧志が諫めて、思い止まらせた〈盧志伝〉。
十二月丁卯、司馬顒の上表が到着した。司馬冏は大いに懼れ、百官と会議し、「私は最初に義兵を唱え、臣子の節は、神にも明らかだ。いま二王が難癖を付けてきた、どうしたらよいか」と言った〈司馬冏伝〉。尚書令の王戎は、「あなたの功業はまことに大きく、しかし褒賞が労うには十分でなく、ゆえに反感を招いています。いま二王の兵は盛んで、対抗できません。もし王が邸宅に帰り、権限を委譲すれば、安泰ではありませんか」と言った〈王戎伝〉。司馬冏の従事中郎である葛旟が怒り、「三台納言(尚書)は、王の事業を大切にしていない。褒賞が不十分なのは、責任はこの府にない。讒言や反乱は、誅殺すべきであり、なぜ偽作した部署を真に受け、(司馬冏が)邸宅に退かねばならぬのか。漢魏以来、王侯が邸宅に帰り、妻子を保全できた者がいたか。反論する者は斬りなさい」と言った。百官は恐れて顔色を失い〈司馬冏伝〉、王戎は偽薬を飲んで腹を下し、退席できた〈王戎伝〉。 李含は陰盤に駐屯し〈李含伝〉、張方は兵二万をひきいて〈張方伝〉新安に進軍し、長沙王の司馬乂に檄を送り司馬冏を討伐させた〈司馬顒伝〉。司馬冏は董艾に司馬乂を襲わせ、司馬乂は左右の百餘人をひきいて宮殿に駆けこみ、諸門を閉じ、天子を奉じて〈司馬乂伝〉大司馬の府を攻め、董艾は兵を宮殿の西に布陣させ、千秋神武門に放火した。司馬冏はひとに騶虞幡を持って、「長沙王が詔を偽造したぞ」と唱えさせ、さらに「大司馬が謀反した」と言った。その夕方、城内で大いに戦い、飛矢が雨のように集まり、火が天まで届いた。恵帝は上東門に行幸し、矢は御前に集中し、群臣の死体が折り重なった。連戦すること三日〈司馬乂伝〉、司馬冏の軍が大敗し、大司馬長史の趙淵は何勖を殺し、司馬冏を捕らえて降った〈未詳〉。司馬冏は殿前に至り、恵帝は憐れんで、命を救おうとした。司馬乂は左右を叱って引き出させ、閶闔門外で斬り、首を六軍に示し、味方は全て夷三族とし〈司馬冏伝〉、死者は二千餘人であった〈司馬乂伝に依る〉。司馬冏の子である超・冰・英は金墉城に移され、司馬冏の弟の北海王の司馬寔を廃位した〈恵帝紀〉。天下を赦し、改元した〈恵帝紀〉。李含らは司馬冏が死んだと聞き、兵をひきいて長安に還った〈司馬穎伝〉。
長沙王の司馬乂は朝廷にいるが、事案は大小となく、みな鄴の大将軍の司馬穎に相談した〈司馬穎伝〉。司馬穎は孫恵を参軍とし〈孫恵伝〉、陸雲を右司馬とした〈陸雲伝〉。
この年、陳留王が薨じ、魏元皇帝と謚された〈魏元帝紀注世譜〉。
鮮卑の宇文の単于である莫圭は部族が強盛であり、弟の屈雲を遣わして慕容廆を攻め、慕容廆はその別帥の素怒延を攻撃し、これを破った。素怒延はこれを恥じ、ふたたび兵十万を動かし、慕容廆を棘城において囲んだ。慕容廆の兵はみな懼れ、慕容廆は、「素怒延の兵は多いが統制が取れていない、すでにわが計略は的中した、諸君はただ力戦せよ、心配はいらぬ」と言った。こうして出撃し、大いにこれを破り、百里を追撃し、俘斬は万を数えた。遼東の孟暉は、先に宇文部に滅ぼされていたが、配下の数千家をひきいて慕容廆に降り、慕容廆はこれを建威将軍とした。慕容廆はその臣である慕輿句が勤勉で清廉なので、財政を管理させた。慕輿句は数字を暗記し、帳簿を見ずとも、遺漏がなかった。慕輿河は明敏で判断力があったので、裁判や刑罰を掌らせ、審議は公正であった〈前燕録 慕容廆伝〉。