いつか読みたい晋書訳

資治通鑑_晋紀七 孝恵皇帝_中之下(三〇三-三〇四)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
作業手順は、以下の1.~4.の通りです。ここに掲載しているのは、翻訳の準備として、1.維基文庫をとりあえず現代語訳して大意をつかみ、4.『資治通鑑証補』の指摘を拾って赤文字で示す、という作業段階のものです。今後、精度を上げます。
1.維基文庫で、『資治通鑑』のテキストを取得。/2.中華書局の『資治通鑑』を底本とし、テキストを修正。/3.胡三省注、『資治通鑑考異』で内容理解を深める。/4.現代語訳をする際は、『資治通鑑』(続国訳漢文大成)、『和刻本資治通鑑』を参考とする。頼惟勤・石川忠久編『資治通鑑選』(中国古典文学大系14、平凡社)に収録されている部分はこれを参照する。/5.石川安貞『資治通鑑証補』(蓬左文庫)が正史等の出典を概ね示しているため、そのまま引用。同書が空格(空欄)としているものは、追加検証しない。6.初出の語彙には、読みがな(ルビ)を付す。

太安二(三〇三)年

現代語訳

春正月、李特はひそかに江水をわたり羅尚を攻撃し、水上の軍はみな逃げ去った。蜀郡太守の徐倹は少城をあげて降り、李特は入ってここを拠点とし、ただ馬を奪って軍に供給し、それ以外は掠奪せず、域内を赦し、建初と改元した。羅尚は太城を保ち、李特に和睦の使者を送った。蜀の民は集まって塢を形成していたが、みな李特に好意的で、李特は使者をめぐらせ慰撫した。軍中に食糧が少なく、六郡の流民を分けて諸塢から食糧をもらった。李流は李特に、「諸塢は味方したばかりで、人心は安定しない。大姓の子弟を人質とし、兵を集めて自守し、不慮のことに備えよ」と言った。また(李流は)李特の司馬である上官惇に文書を与え、「詐りの降服する者を、警戒すべきだ」と言った。前将軍の理由もそう言った。李特は怒り、「大事はすでに定まった、民を安定させるべきだ、なぜ猜疑して、離叛の原因を作るのか」と言った〈蜀録 李特伝〉
朝廷は荊州刺史の宗岱・建平太守の孫阜を派遣して水軍三万をひきいて羅尚を救った。宗岱は孫阜を前鋒とし、進んで徳陽に迫った。李特は李蕩及び蜀郡太守の李璜を送って徳陽太守の任臧とともにこれを食い止めた。宗岱・孫阜の兵の勢いは盛んで、諸塢はみな(李氏に)二心を抱いた。益州の兵曹従事である蜀郡の任叡は羅尚に、「李特は兵を散らして食物にありつかせ、防備が薄い、これは天が彼を亡ぼそうとしています。諸塢と密約し、時期を区切って決起し、内外から攻めれば、必ず撃破できます」と言った。羅尚は任叡に夜に城から脱出させ、諸塢に告げて回り、二月十日に同時に李特を攻撃する約束をした。任叡は李特のもとに詐って降った。李特は城中の虚実を質問し、任叡は、「軍糧が尽きようとし、貨幣と布帛があるばかりです」と言った。任叡は帰宅を願い、李特はこれを許し、その足で羅尚に報告した。二月、羅尚は李特の陣を襲撃し、諸塢が呼応し、李特は大敗し、李特及び李輔・李遠を斬り、死体を焼き、首を洛陽に伝えた〈蜀録 李特伝〉。流民は大いに懼れ、李流・李蕩・李雄は残兵を集めて還って赤祖を保った。李流は大将軍・大都督・益州牧を自称し、東営を保ち、李蕩・李雄は北営を保った。孫阜は徳陽を破り、蹇碩を捕らえ、任臧は退いて涪陵に駐屯した〈蜀録 李流伝〉
三月、羅尚は督護の何沖・常深らに李流を攻撃させ、涪陵の民である薬紳らもまた起兵して李流を攻めた。李流は李驤ともに薬紳を防ぎ、何沖は虚に乗じて北営を攻め、氐族の苻成・隗伯は軍営のなかにおり、呼応して李氏に叛した。李蕩の母である羅氏は鎧を着て防戦し、隗伯は刀で彼女の目を傷つけたが、羅氏の戦意は高まった。軍営が破綻しかけたとき、李流らが常深・薬紳を破り、帰ってきて、何沖らと戦い、大いにこれを破り、苻成・隗伯は仲間を率いて脱出して羅尚のもとを訪ねた。李流らは勝ちに乗じて成都を攻撃し、羅尚は閉門して自守した。李蕩は馬を馳せて北へと追ったが、矛に当たって死んだ〈蜀録 李流伝〉
朝廷は侍中である燕国の劉沈を仮節として羅尚・許雄らの軍を統括させ、李流を討伐した。長安に到着すると、河間王の司馬顒が劉沈を留めて軍師とし、席薳を代わりに行かせた〈蜀録 李流伝〉
李流は李特・李蕩が相次いで死に、宗岱・孫阜が接近しているので、とても懼れた。李含は李流に降服を勧め、李流はこれに従った。李驤・李雄は代わるがわる諫めたが、聞き入れなかった。夏五月、李流は子の李世及び李含の子である李胡を孫阜の軍に人質として送った。李胡の兄である李離は梓潼太守であったが、これを聞き、任地から馳せ還り、諫めようとしたが間に合わなかった。退いて、李雄とともに孫阜の軍を襲おうとし、李雄は、「計画は、この通りだ。しかし二翁が賛成しない、どうしよう」と言った。李離は、「強引にやろう」と言った。李雄は大いに喜び、流民に説いて、「われらは前に蜀の民から掠奪したが、今では手を縛り、他人に命を握られている。ただ心を揃えて孫阜を襲えば、富貴になれるぞ」と言った。流民はみな従った。李雄は李離とともに孫阜の軍を襲い、大いにこれを破った。ちょうど宗岱が墊江で卒し、荊州の軍が撤退した。李雄は(降服するつもりであったことを)ひどく恥じ、李雄の才覚を見出し、軍事を全て預けた〈蜀録 李流伝〉
新野荘王の司馬歆は、為政が厳しく、蛮夷の支持を失い〈新野王歆伝に依る〉、義陽蛮の張昌が党数千人を集めて、乱を起こそうとした。荊州は壬午の詔書により武勇の士を徴発して益州に赴いて李流を討伐するとし、「壬午兵」と号した。民は遠征を嫌がった。詔書して遅刻を厳しく取り締まり、五日間の停留をしたら、二千石を免官した。これにより郡県の長官はみな自ら追い立てた。転々と迷走し、兵が群れて群盗になった。ときに江夏は豊作で、数千人が食糧を頼ってきた。張昌は百姓をたぶらかし、李辰と改名し、兵を安陸の石巖山で募り、流民及び兵役を避けた者が集まってきた。太守の弓欽が討伐したが、勝てなかった。張昌が郡城を攻め、弓欽は破られ、部将の朱伺とともに武昌に逃げ、司馬歆は騎督の靳満にこれを討伐させたが、靳満も敗走した〈張昌伝〉
張昌は江夏に拠って妖言を作り、「聖人が現れて民の主になる」と言わせた。山都県の吏である丘沈は、姓名を劉尼と変え、漢帝の子孫と詐り、奉って彼を天子とし、「これは聖人だ」と言い、張昌は自ら相国となり、鳳皇・玉璽の瑞祥を捏造し、神鳳と改元した。祭祀や服色は、漢の故事に依った。召集に応ぜぬ者は、族誅とし、士民は全員が従わされた。さらに流言し、「江・淮より以南は全て反した、官軍が大いに起こり、ことごとく誅殺するだろう」と言った。相互に扇動し、人心は恐慌した。江・沔の一帯は各地で兵を起こして張昌に呼応し、旬月の間に兵は三万に至り、みや赤い帽子をかぶり、馬の尾を付けてひげとした。詔して監軍の華宏に討伐させたが、障山で破れた〈張昌伝〉
司馬歆は上言し、「妖賊や犬羊が万をかぞえ、赤い頭にひげ面で、武器を振り回し、戦える相手ではない。朝廷は諸軍に命じて三道から救助してほしい」と言った。朝廷は〈張昌伝〉屯騎校尉の劉喬を豫州刺史とし〈劉喬伝〉、寧塑将軍である沛国の劉弘を荊州刺史とした〈劉弘伝〉。さらに河間王の司馬顒に詔して雍州刺史の劉沈に州兵一万人をひきい、征西将軍府の五千人と合わせて藍田関から出て、張昌を討伐させた。司馬顒は詔に従わなかった。劉沈は自ら州兵を領して藍田に至ると、司馬顒はその軍勢を強奪した。於是(ここにおいて)劉喬は汝南に駐屯し、劉弘及び前将軍の趙驤・平南将軍の羊伊は宛に駐屯した。張昌はその将の黄林に二万人をひきいて豫州に向かわせ、劉喬はこれを返り討ちにした〈「於是」以下は張昌伝に依る〉
これより先、司馬歆は斉王の司馬冏と親しく、司馬冏が敗れると、司馬歆は懼れ、大将軍の司馬穎に接近した。張昌が乱をなすと、司馬歆は討伐したいと上表した。ときに長沙王の司馬乂はすでに司馬穎と対立し、司馬歆と司馬穎が共謀していると疑い、司馬歆に出兵を許さなかった。張昌は日増しに盛んになった。従事中郎の孫洵は司馬歆に、「あなたは州牧となり、地方を委任されておりますが、朝廷の命令どおり動くのは、全く問題がありません。しかし凶悪な者をのさばらせ、被害を拡大させていては、王室の藩屏として地方を平穏にする役割を果たしていると言えますか」と言った。司馬歆は兵を出そうとすると、王綏は、「張昌らは弱小な賊で、僻地に拠って立っているだけ、なぜ詔を無視して、みずから戦陣に立つ必要がありますか」と言った。張昌は樊城に至り、司馬歆は出撃してこれを食い止めた。軍が潰走し、張昌に殺された〈新野王歆伝〉
詔して劉弘を司馬歆の後任として鎮南将軍、都督荊州諸軍事とした。六月、劉弘は南蛮長史である廬江の陶侃を大都護とし、参軍の蒯恒を義軍督護とし、牙門将の皮初を都戦帥とし、進んで襄陽に拠った。張昌は軍をあわせて宛を囲み、趙驤の軍を破り、羊伊を殺した。劉弘は退いて梁に駐屯した〈劉弘伝〉。張昌は進んで襄陽を攻めたが、破れなかった〈張昌伝〉
李雄は汶山太守の陳図を攻めて殺し、郫城を奪った〈蜀録 李流伝〉
秋七月、李流は移って郫に駐屯した。蜀の民はみな険地に塢を作り、あるいは南のかた寧州、あるいは東のかた荊州に移った。城邑はみな空虚になり、野に炊煙がなく、流浪しても掠奪するものがなく、みな飢えて貧しくなった。ただ涪陵の千餘家だけは、青城山の処士である范長生を頼りにした。平西参軍である涪陵の徐輿は羅尚に説き、汶山太守にしてもらい、長生と結んで、ともに李流を討伐しようとした。羅尚は許さず、徐輿は怒り、脱出して李流に降り、李流は徐輿を安西将軍とした。徐輿は長生を説得し、軍糧の供給を依頼し、長生はこれに従った。李流の軍は復活した〈蜀録 李流伝〉
これより先、李含は長沙王の司馬乂が弱体化し、必ず斉王の司馬冏に殺されるので、その罪により司馬冏を討伐し、さらに恵帝を廃し、大将軍の司馬穎を立て、河間王の司馬顒を宰相にし、自分が実権を握ろうとした。司馬冏が司馬乂を殺してしまうと〈長沙王乂伝〉、司馬穎・司馬顒はまだ藩国を守ったままで、計画どおりにならなった〈李含伝〉。司馬穎は功績を誇って傲慢になり、政治が廃れて緩み、司馬冏のときより悪化した。ただし朝廷のなかで司馬乂を嫌い、思い通りにできず、去ろうとした〈成都王穎伝〉
このとき皇甫商が司馬乂の参軍にもどり、皇甫商の兄である皇甫重が秦州刺史であった。李含は司馬顒に説き、「皇甫商は司馬乂が任命したもので、皇甫重は使い道がないので、早く排除すべきです。上表して中央の重職に転任させ、長安を通過したところで捕らえましょう」と言った。皇甫重はこれを知り、露檄を尚書にたてまつり、隴上の兵を発して李含を討とうとした。司馬乂が兵が少し静まったとき、使者を送って皇甫重に武装解除させ、李含を徴して河南尹とした。李含が従ったが皇甫重が詔に従わず、司馬顒は金城太守の游楷・隴西太守の韓稚らに四郡の兵を合わせてこれを攻撃させた〈皇甫重伝〉
司馬顒はひそかに李含と侍中の馮蓀・中書令の卞粋に命じて司馬乂を謀殺させようとした。皇甫商が司馬乂に告げ、李含・馮蓀・卞粋を捕らえ、これを殺した〈河間王顒伝に依る〉。驃騎従事である琅邪の諸葛玫・前司徒長史である武邑の牽秀は鄴に出奔した〈未詳〉
張昌の一味である石冰が揚州を侵略し、刺史の陳徽を破り、諸郡はことごとく陥落した。さらに江州を攻め破り、別将の陳貞らは武陵・零陵・豫章・武昌・長沙を攻め、全て陥落させ、臨淮の人である封雲は起兵して徐州を侵略して石冰に呼応した。ここにおいて荊・江・揚・豫・徐の五州の領域は、多くが張昌の支配下に置かれた。張昌は牧守を置き換え、みな盗人の出身であり、任地で掠奪だけをした〈張昌伝〉。 劉弘は陶侃らを派遣して張昌を竟陵で攻め、劉喬は将の李楊らを江夏に向かわせた。陶侃侃らはしばしば張昌と戦い、大いにこれを破り〈張昌伝〉、前後に数万級を斬首し〈未詳〉、張昌は下儁山に逃げ〈張昌伝〉、その兵は全て降服した〈劉弘伝〉
これより先、陶侃は若いとき孤児で貧困で、郡の督郵となった。長沙太守の萬嗣は廬江をよぎり、彼をを見出し、子供に友になれと言って去った。のちに孝廉に察せられ、洛陽に至り、豫章国の郎中令の楊卓は彼を顧栄に推薦し、陶侃の名はこれにより知られた。張昌に勝つと、劉弘は陶侃に、「私は羊公(羊祜)の参軍であったが、わが子孫はきみに身を寄せるだろうと言った。いまきみを見て、わが後継者になると思う」と言った〈陶侃伝〉
劉弘が退いて梁に駐屯すると、征南将軍である范陽王の司馬虓は前長水校尉の張奕を派遣して荊州を領させた。劉弘が至ると、張奕は交替を拒否し、兵を挙げて劉弘に対抗した。劉弘は張奕を討伐し、これを斬った。ときに荊州の各地の長官は欠員が多く、劉弘は人員を補充(する権限)を願い出て、詔により許され、劉弘は功と徳、才覚に随い任命し、人はその公正さに感服した。劉弘は皮初を襄陽し襄陽太守としたが、朝廷は皮初には功績があるが声望が軽いので、代わりに劉弘の女婿である前東平太守の夏侯陟を襄陽太守にせよと言った。劉弘は、「一国を治めるなら、一国の心を持つべきだ、婚姻してから登用すべきなら、荊州には十郡があるから、十人の女婿を設けてから政治をするのか」と言った。さらに上表し、「姻族は、旧制では監察できない。皮初の勲功こそ、報いられるべきです」と言った。詔はこれを認めた。劉弘は農桑を勧め、刑罰と賦役を減らし、公私は収支が足り、百姓は悦んだ〈劉弘伝〉
河間王の司馬顒は李含らが死んだと聞き、起兵して〈河間王顒伝〉長沙王の司馬乂を討伐しようとした。大将軍の司馬穎は上表して張昌の討伐を求め、許可された。張昌がすでに平定されたと聞き、司馬顒とともに司馬乂を攻撃しようと考えた。盧志が諫め、「あなたは以前に大功があって権限を預けられ、世論から賛美されました。いま郊外に軍を留め、文服で朝廷に入ることこそ、霸主のやり方です」と言った〈盧志伝〉。参軍である魏郡の邵続は、「人に兄弟がいるのは、左右の手のようなもの。あなたが天下の敵に当たろうというのに、片手を切り落として、良いはずがありません」と言った。司馬穎は従わなかった〈邵続伝〉。八月、司馬顒・司馬穎はともに上表し、「司馬乂の論功行賞は不公平で、右僕射の羊玄之・左将軍の皇甫商が朝政を専制し、忠良を殺害しています〈成都王穎伝〉。羊玄之・皇甫商を誅殺し、司馬乂を帰国させて下さい」と言った。詔して、「司馬顒は敢えて大兵を起こし、内は国都に向かい、私はみずから六軍を率いて奸逆を誅殺しよう。そこで司馬乂を太尉、都督中外諸軍事とし、これを統御せよ」と言った〈河間王顒伝〉
司馬顒は張方を都督とし、精兵七万を率い、函谷から東のかた洛陽に趨った〈河間王顒伝〉。司馬穎は兵を率いて朝歌に駐屯し、平原内史の陸機を前将軍・前鋒都督とし〈司馬穎伝〉、督北中郎将の王粋・冠軍将軍の牽秀・中護軍の石超ら二十餘万の軍が、南のかた洛陽に向かった。陸機は客寓して司馬穎に仕えたが、飛びこえて諸将の上位に置かれたので、王粋らの心は穏やかでなかった〈陸機伝〉。白沙督の孫恵は陸機と親しく、陸機に都督の役割を王粋に譲れと助言した。陸機は、「彼は私のことをどっち付かずと言っており、禍いを引き寄せるだろう」と言った。そのまま進軍した。司馬穎は軍を整列させて朝歌から河橋に至り、軍鼓の音は数百里に聞こえた〈陸機伝〉
乙丑、恵帝は十三里橋に行った。太尉の司馬乂は皇甫商に万餘人を率いて張方を宜陽で食い止めさせた。己已、恵帝は軍を宣武場に還し、庚午、石楼に停泊した。九月丁丑、河橋に駐屯した。壬子、張方は皇甫商を襲い、これを破った。甲申、恵帝は芒山に進軍した。丁亥、恵帝は偃師に行幸した。辛卯、豆田に停泊した〈恵帝紀〉。大将軍の司馬穎は進んで河南に駐屯し、清水に防塁を作った〈司馬穎伝〉。癸巳、羊玄之は憂懼して卒し〈外戚伝〉、恵帝は軍を城の東に返した。丙申、緱氏に行幸し、牽秀を攻撃し、これを走らせた。大赦した。張方が京城に入ると、大いに掠奪し、死者は万を数えた〈恵帝紀〉。 李流は病が篤く、諸将に、「驍騎将軍(李驤)は仁に明るく、大事を任せされる。しかし前将軍(李雄)の英雄性は、天の助けであり、彼とともに取り仕切れ」と言った。李流が卒すると、李雄を推して〈蜀録 李流伝〉大都督・大将軍・益州牧とし、郫城を本拠とした〈蜀録 李雄伝〉
李雄は武都の朴泰に羅尚を欺かせ、郫城を襲撃したら、内応すると約束した。羅尚は隗伯に郫城を攻撃させ、朴泰は火を上げて呼応の合図とし、李驤は道に伏兵を置き、朴泰は長梯を外に垂らした。隗伯の兵は火が起こるのを見て、争って梯子に登り、李驤の兵はほしいままに攻撃し、大いにこれを破った。夜に城下まで追い、詐って万歳と称し、「郫城を奪ったぞ」と言い、少城に入った。羅尚は実態を悟り、退いて太城を保った。隗伯の傷がひどく、李雄はこれを生け捕りにし、赦して殺さなかった。李驤は犍為を攻め、羅尚の糧道を断った。太守の龔恢を捕らえ、これを殺した〈蜀録 李雄伝〉
石超は進んで緱氏に逼った〈恵帝紀〉。冬十月壬寅、恵帝は宮殿に還った。丁未、牽秀を東陽門外で破った〈恵帝紀〉。大将軍の司馬穎は将軍の馬咸を遣わして陸機を助けさせた〈未詳〉。戊申、太尉の司馬乂は恵帝を奉じて陸機と〈陸機伝〉建春門で戦った。司馬乂の司馬である王瑚は数千騎に戟を馬に結びつけ、陣に一斉に突撃し、敵軍は乱れ、これを捕らえて斬った〈未詳〉。陸機の軍が大敗すると、七里澗に赴くと、死体が積み重なり、川が流れなかった〈陸機伝〉。その大将の賈崇ら十六人を斬り、石超は逃げ去った〈恵帝紀〉
これより先、宦人の孟玖は大将軍の司馬穎に寵愛され、孟玖は父を邯鄲令に登用してほしかったが、左長史の盧志らは反対しなかったが、右司馬の陸雲だけが強硬に反対し、「この県の長官になるのは、公府掾のレベルの人材です、宦官の父を任命してよいものですか」と言った。孟玖は深く怨んだ〈陸雲伝〉
孟玖の弟の孟超は、一万人を領して小督となり、戦う前から、兵に掠奪をさせ、陸機がその責任者を捕らえた。孟超は鉄騎百餘人をひきいて陸機の麾下に突撃し、それを奪い返し、陸機を顧みて、「この貉め、取り締まれるか」と言った。陸機の司馬である呉郡の孫拯は陸機に彼を殺せと勧めたが、陸機は実行できなかった。孟超は人々に、「陸機が反乱するぞ」と広く伝えた。文書を孟玖に与え、陸機は敵と通じているから、決戦を避けているのだと言った。戦いに及び、孟玖は陸機から節度を受けず、軽兵で突っ込み、潰滅した。孟玖は陸機が彼を殺したと考え、司馬穎にそしり、「陸機は長沙王(司馬乂)に内通しています」と言った。牽秀もまた孟玖に迎合し、将軍の王闡・郝昌・帳下督である陽平の公師藩も孟玖に取り立てられたので、(内通を)証言した。司馬穎は大いに怒り、牽秀に陸機を捕らえさせた〈陸機伝〉
参軍事の王彰は諫めて、「今日のことは、強弱は移ろい、凡人ですら勝ちを知っております、まして陸機のような聡明な人ならばどうでしょう。ただ陸機は呉人でありながら、殿下が重く用い過ぎたので、北土の旧将が嫉妬したのです」と言った。司馬穎は従わなかった。陸機は牽秀が向かっていると聞き、軍服をぬぎ、白い帽子をつけ、牽秀と会見し、司馬穎への謝罪状を書いて、歎じて、「華亭の鶴の声を、また聞きたいな」と言った。牽秀は陸機を殺した〈陸機伝〉。司馬穎はさらに陸機の弟である清河内史の陸雲・平東祭酒の陸耽及び孫拯を捕らえて、全員を獄に下した〈陸雲及び陸機 附孫拯伝に依る〉
記室の江統・陳留の蔡克・穎川の棗嵩らは上疏し、「陸機は謀略が浅はかで敗戦しました、彼を殺すのは仕方ありません。しかし反逆のことは、みな否認しています。陸機の反乱について取り調べ、証拠が見つかってから、陸雲らを殺しても遅くありません」と言った。江統らが懇願したので、司馬穎は三日延期した。蔡克が入り、司馬穎の前に進み、叩頭して流血し、「陸雲は孟玖に落とし入れられたと、遠近は知っています。殺すのは、名工のためにも惜しいです」と言った。属僚がつぎつぎと数十人入って来て、流涕して願ったので、司馬穎は思い止まり、陸雲を許そうとした。そこに孟玖が来て、陸雲・陸耽を殺せと促し〈陸雲伝〉、陸機を夷三族にせよと言った〈成都王穎伝〉。獄吏は孫拯を数百の拷問にかけ、足の骨が露出したが、陸機の冤罪を訴えた。獄吏は孫拯の義烈を悟り、孫拯に、「二陸の罪は、みな知っている、なぜ身を惜しまぬのか」と言った。孫拯は天を仰ぎ、「陸君の兄弟は、当世の奇士であり私は知愛をこうむり、いまその命を救えず、冤罪に加担などできようか」と言った。孟玖は孫拯が屈さぬと悟り、獄吏に孫拯の供述を偽作させた。司馬穎は陸機を殺してから、いつも後悔していたが、孫拯の供述を見て、大いに喜び、孟玖に、「きみのような忠臣がおらねば、罪人を見極めることができなかったぞ」と言った。こうして孫拯を夷三族とした。孫拯の門人である費慈・宰意の二人は、獄に出向いて冤罪を主張し、孫拯は二人に諭し、「私は二陸を裏切らず、死ぬのは自分の節義のためだ。きみたちが巻き込まれることはない」と言った。「あんたが二陸を裏切らなかったように、われらもあなたを裏切れぬ」と言った。孫拯の冤罪を主張し続け、孟玖は彼らも殺した〈陸機 附孫拯伝〉
太尉の司馬乂は恵帝を奉じて張方を攻め、張方の兵は恵帝の乗輿を遠くから見て、みな逃げ去り〈張方伝〉、張方は大敗し、死者は五千餘人ばかりであった〈河間王顒伝〉。張方は退いて十三里橋に駐屯したが、兵は懼れ、夜に逃げようとしたので、張方は、「勝負は兵家の常であり、用兵が上手ければ負けても挽回できる。私は改めて塁を作って進み、敵軍の不意を突けば、奇策となろう」と言った。夜にひそかに進み、洛城から七里に迫り〈張方伝〉、塁を数重に築き、外から穀物を補給した〈司馬顒伝〉。司馬乂は戦いに勝ち、油断をした。塁を作ったと聞き〈張方伝に依る〉、十一月、兵を率いて攻めたが、勝てなかった〈恵帝紀に依る〉。朝廷では司馬乂・司馬穎が兄弟であるから、説得により和解させようと、中書令の王衍らに司馬穎を説得させ、司馬乂と(周公と召公のように)並存せよと伝えたが、司馬穎は従わなかった。司馬乂から司馬穎に書簡を送り、利害を述べ、和解を試みたが、司馬穎は返書して、「皇甫商らの首を斬れば、兵を率いて鄴に帰る」と言った。司馬乂は受け入れられなかった〈未詳〉
司馬穎は兵を進めて京師に逼り、張方は千金堨を決壊させ、水車が枯れた。王公や奴婢は手で水車を回し、一品以下の出征していない者は、男子の十三歳以上はみな働かせ、奴隷にも手伝わせた〈恵帝紀〉。公私は窮迫し、米は一石あたり万銭にとった。詔命が執行されるのは、一城のみとなった〈未詳〉。驃騎主簿である范陽の祖逖は司馬乂に、「劉沈は忠義であり果敢であり、雍州の兵力ならば河間(司馬顒)を制圧できる、恵帝に申し上げて詔を作って劉沈に与え、兵を発して司馬顒を襲撃させなさい。司馬顒が切迫すれば、必ず張方を召して救援させる、これが良策です」と言った。司馬乂はこれに従った。劉沈は詔を奉って四方に檄を飛ばし、諸郡は多くが起兵して呼応した。劉沈は七郡の兵を合わせて万餘人とし、長安に向かった〈忠義 劉沈伝〉
司馬乂は皇甫商に間道から向かわせ、恵帝の直筆の詔を届け、游楷らに武装解除を命じ、皇甫重に進軍して司馬顒を討伐せよと命じた。皇甫商は間道から新平に至り、その従甥に会い、従甥は皇甫商を憎んでいたから、司馬顒に告げて皇甫商を捕らえ、これを殺した〈皇甫重伝〉
十二月、議郎の周玘・前南平内史である長沙の王矩は江東で起兵して石冰を討伐し、前呉興太守である呉郡の顧秘を推して都督揚州九郡諸軍事とし、州郡に檄文を回し、石冰が任命した将吏を殺害した〈周処 附周玘伝、檄文のことは賀循伝に依る〉。ここにおいて前侍御史の賀循が会稽で季平し〈賀循伝に依る〉、廬江内史である広陵の華譚〈華譚伝〉及び丹揚の葛洪〈葛洪伝〉・甘卓〈甘卓伝〉はみな起兵して顧秘に呼応した。周玘は、周処の子である。循は、賀邵の子である。甘卓は、甘寧の曾孫である〈各伝に依る〉
石冰は将の羌毒に兵数万で周玘を防がせたが、周玘はこれを斬った〈周玘伝〉。石冰は臨淮から退いて寿春に走った。征東将軍の劉準は石冰がやって来たと聞き、恐れてどうしてよいか分からない。広陵度支である廬江の陳敏は兵を統べて寿春にあって劉準に、「彼らは本来は遠征を好んでおらず、迫られて賊になっただけの、烏合の衆です、形勢は逆転しやすく、私に用兵を任せてもらえたら撃破してみせます」と言った。劉準は陳敏の兵を増やし、撃退させた〈陳敏伝〉
閏月、李雄は羅尚を急攻した。羅尚の軍は食糧がなく、牙門の張羅を留めて城を守らせた。夜に、牛鞞水から東に逃げ、張羅は開門して降った。李雄は成都に入り、軍士は飢えており、郪城の備蓄を食わせ、原野の芋を掘って食べた〈蜀録 李雄伝〉。許雄は賊の討伐に消極的なので、徴されて有罪となった〈未詳〉
安北将軍・都督幽州諸軍事の王浚は、天下が乱れそうなので、夷狄を味方にしようと、一人の娘を鮮卑の段務勿塵の妻とし、一人の娘を素怒延の妻とし、さらに遼西郡に務勿塵を封じて遼西公とするよう上表した。王浚は、王沈の子である〈王沈 附王浚伝〉
毛詵が死ぬと、李叡は五苓夷の帥である于陵丞のもとを頼り、于陵丞は李毅を訪問して李叡のために命令を求め、李毅はこれを許した。李叡が至ると、李毅はこれを殺した。于陵丞は怒り、諸夷をひきいて反乱し李毅を殺した〈未詳〉
尚書令の楽広の娘は成都王の妃となり、あるひとが太尉の乂に楽広のことを批判した。司馬乂は楽広を詰問すると、楽広は顔色を変えず、おもむろに、「私は一人の娘のために(司馬穎に味方し)五人の息子を犠牲にすることはありません」と言った。司馬乂はなおも疑っていた〈楽広伝〉

永興元(三〇四)年

現代語訳

春正月丙午、楽広は思い悩んで卒した。
長沙厲王の司馬乂はしばしば大将軍の司馬穎と戦い、これを破り、前後に六七万人を斬獲した。しかし司馬乂はまだ恵帝への敬意を欠かさなかった。城中の食糧が日に日に欠乏したが、士卒の心が離れなかった。張方は洛陽を攻略できないので、長安に還ろうとした。しかし東海王の司馬越は事態が収束せぬことを恐れ、癸亥、ひそかに殿中の諸将とともに夜に司馬乂を捕らえて〈長沙王乂伝〉別の庁舎に移した〈東海王越伝に依る〉。甲子、司馬越は恵帝に、詔をして司馬乂の官職を免じ、金墉城に置けと提言した。大赦し、改元した〈未詳〉。開城すると、殿中の将士は外の兵が盛んでないから、後悔し、改めて司馬乂を担ぎ出して司馬穎を食い止めようと考えた。司馬越は懼れ、司馬乂を殺してその思惑を絶とうとした。黄門侍郎の潘滔は、「いけません、私が静めます」と言った。張方に連絡を取った。丙寅、張方は司馬乂を金墉城で捕らえ、軍営に至り、焼き殺したので、張方の軍士もまた(司馬乂のために)流涕した〈司馬乂伝〉
公卿はみな鄴に行って謝罪した〈未詳〉。大将軍の司馬穎が京師に入り、再び鄴に還って鎮守した〈司馬穎伝〉。詔して司馬穎を丞相とし〈恵帝紀〉、東海王の司馬越に守尚書令を加えた〈司馬越伝〉。司馬は奮武将軍の石超らをに兵五万をひきいて十二城門に駐屯させ、殿中のかねてからの対立者は、司馬穎がこれを皆殺しにし、宿衛の兵を(己の部下に)交代させた〈恵帝紀〉。盧志を上表して中書監とし、鄴に留め、参署丞相府事とした〈盧志伝〉
河間王の司馬顒は軍を鄭に留め、東軍を支援していたが、劉沈が兵を起こしたと聞き、還って渭城を鎮守し、督護の虞夔が好畦で迎撃した。虞夔の軍が破れると、司馬顒は懼れ、退いて長安に入り、急ぎ張方を召した〈劉沈伝〉。張方は洛中の官私の奴婢一万餘人を西に連れ去った〈張方伝〉。軍中は食糧に欠き、人を殺し牛馬の肉に混ぜて食べた〈劉沈伝〉
劉沈は渭水を渡って進軍し、司馬顒と戦い、司馬顒はしばしば敗れた。劉沈は安定太守の衙博・功曹の皇甫澹に精兵五千をひきいて長安を襲撃させ、その城門に入り、奮戦して司馬顒の幕下に到達した。劉沈の兵が来るのが遅く、馮翊太守の張輔は後続がないと思い、兵をひきいて縦横に攻撃し、衙博及び皇甫澹を殺し、王沈の兵は敗退し、残兵を集めて退いた。張方は将の敦偉に夜襲をかけさせ、劉沈の軍は驚き潰え、劉沈は麾下とともに南に走げ、追ってこれを捕らえた。劉沈は司馬顒に、「己の恵みが軽いことを知り(司馬顒は劉沈を留めて軍師とし、ついに雍州刺史にした)、君臣の義は重く、私は天子の詔に逆らうことができず、強弱を測って命を全うします。決意するときは、必ず命がけであり、どんな辛苦も、甘いと感じます」と言った。司馬顒は怒り、これを鞭で打ってから腰斬にした〈劉沈伝〉。新平太守である江夏の張光はしばしば劉沈のために計略をめぐらせたので、司馬顒は彼を捕らえて詰問し、張光は、「劉雍州は私の計略を用いず、ゆえに王の今日があるのです」と言った。司馬顒はその意気を認めた。招いて宴飲し、上表して右衛司馬とした〈張光伝〉
羅尚は逃げて江陽に至り、使者に状況を上表させ、詔して羅尚にかりに巴東・巴郡・涪陵を統括して軍資を供給させた。羅尚は別駕の李興を遣わして鎮南将軍の劉弘に食糧を要請し、劉弘は荊州をあずかる責任があり道路が険しく遠すぎ、荊州自身に余裕がないので、零陵の米五千斛を羅尚に与えようとした。劉弘は、「天下は一つの家であり、州をまたいでも一体なので、(零陵から)分けてやれば、西方の心配がなくなる」と言った。こうして三万斛を約束し、羅尚はおかげで存続できた〈蜀録 李雄伝〉。李興は(荊州に)留まって劉弘の参軍になることを願い、劉弘は手版(古笏)を奪って(羅尚のもとに)還らせた。治中の何松に兵を領して巴東に駐屯させ、羅尚の後方支援とした〈未詳〉。このとき流民で荊州にある者は十餘万戸であり、移動者は貧乏で、多くは盗賊となり、劉弘は大規模に耕地と種籾を支給し、賢才を抜擢し、素質に応じて任命し、流民は安寧となった〈劉弘伝に依る〉
三月乙酉、丞相の司馬穎は上表して皇后の羊氏を廃し、金墉城に幽閉し、皇太子の司馬覃を廃して清河王とした〈恵帝紀に依る〉
陳敏は石冰と数十回の戦闘をして、石冰の兵は陳敏に十倍であるが、陳敏がこれを攻撃すると、全戦全勝であり〈陳敏伝〉、周玘とともに石冰を建康で攻めた。三月、石冰は北に逃走し、封雲(徐州の賊で石冰に呼応した者)のもとに投じ、封雲の司馬である張統は石冰及封雲を斬って降服し、揚州と徐州は平定された。周玘・賀循は兵を解散させて家に還り、功賞について言わなかった〈周玘伝〉。朝廷は陳敏を広陵相とした〈陳敏伝〉
河間王の司馬顒は上表して丞相の司馬穎を太弟に立てよと言った。戊申、詔して司馬穎を皇太弟とし、都督中外諸軍事、丞相は従来通りとした。大赦した。乗輿や服御はすべて鄴に移し、制度はすべて魏武帝(曹操)の故事と同じとした〈司馬穎伝、大赦の二字は司馬顒伝に見える〉。司馬顒を大宰・大都督・雍州牧とした〈司馬顒伝〉。前太傅の劉寔を太尉とした〈恵帝紀〉。劉寔は老齢なので、固辞して拝さなかった〈劉寔伝に依る〉
太弟の司馬穎の専横と奢侈は日ごとにひどくなり、近臣に政治をさせ、世論は失望した。司空である東海王の司馬越は、右衛将軍の陳眕、及び長沙王の故将である上官已らとともに討伐を計画した〈司馬穎伝に依る〉。秋七月丙申朔、陳眕は兵を編成して雲龍門に入り、詔により三公百僚及び殿中(三部諸将)を召して、戒厳体制として司馬穎を討伐し〈恵帝紀に依る〉、石超は鄴に逃げた〈未詳〉。戊戌、大赦し、皇后の羊氏及び太子の司馬覃を復位させた。己亥、司馬越は恵帝を奉じて北征した〈恵帝紀〉。司馬越を大都督とした〈司馬越伝〉
(司馬乂の死後、庶人となっていた)前侍中の嵇紹を恵帝の行在所に徴した。侍中の秦準は嵇紹に、「いま行けば、安危は予測できない、あなたは良馬を持っているのか」と言った。嵇紹は色を正して、「臣子が乗輿を護衛するとき、生死を覚悟している、(逃げるための)良馬など使うものか」と言った〈忠義伝に依る〉
司馬越は檄して四方の兵を召し、雲のように集まってきて、安陽に至るころ、兵は十餘万となり、鄴中は震え恐れた。司馬穎は群僚を集めて会議し、東安王の司馬繇は、「天子が親征しています、武装を解いて喪服で出迎え、罪を請いなさい」と言った。司馬穎は従わず、石超に兵五万をひきいて食い止めさせた〈司馬穎伝〉。折衝将軍の喬智明は司馬穎に恵帝の乗輿を奉戴せよと勧めると、司馬穎は怒り、「そなたは名声があり物事をよく理解し、身を投じて私に仕えた。陛下は小人たちに迫られ、私に謂われ無き罪を押し付けようとしているのに、そなたはどうして私に大人しく刑に服させようとするのか」と言った〈良吏伝〉
陳眕の二弟である陳匡と陳規は、鄴から恵帝の居所に赴き、鄴中はみなが離散し、備える必要はないと言った。己未、石超の軍が急襲し、乗輿は蕩陰で敗北し〈司馬穎伝〉、恵帝は頬を傷つけられ、三矢があたり〈恵帝紀〉、百官や侍御は逃げ散った。嵇紹は朝服をきて、下馬して輿に乗って、身をもって恵帝をかばい、兵人は嵇紹を引き下ろして斬った。恵帝は、「忠臣だ、殺すな」と言った。「太弟の命令は、陛下一人以外は殺せとのこと」と言った。嵇紹を殺した。血が恵帝の衣を汚した〈忠義 嵇紹伝に依る〉。恵帝は草中に落ち〈司馬穎伝に依る〉、六璽を紛失した。石超は恵帝を奉じて軍営に行幸させ、恵帝は飢えており、石超が水を進め、左右は秋桃を奉った〈恵帝紀〉。司馬穎は盧志を派遣して恵帝を迎えさせた〈盧志伝〉。庚申、鄴に入った。大赦し、改元して建武とした〈恵帝紀〉。左右が恵帝の衣を洗おうとしたが、恵帝は、「嵇侍中の血だ、洗うな」と言った〈嵇紹伝〉
陳眕・上官巳らは太子の司馬覃を奉って洛陽を守った〈周馥伝に依る〉。司空の司馬越は下邳に逃れ、徐州都督である東平王の司馬楙は入城を拒み、司馬越はまっすぐ東海に還った。太弟の司馬穎は司馬越の兄弟が宗室の望なので、令してこれを招いたが、司馬越は応じなかった〈司馬越伝〉。前奮威将軍の孫恵は上書して司馬越に諸藩と同盟し、ともに王室を推戴することを勧めた。司馬越は孫恵を記室参軍とし、謀議に預からせた〈孫恵伝〉。北軍中候の苟晞は范陽王の司馬虓のもとに走り、司馬虓は承制して荀晞を行兗州刺史とした〈荀晞伝〉
これより先、三王が起兵して趙王の司馬倫を討つと、王浚は兵を擁して両方に通じ、所部の士民に三王の召募に応じることを禁じた。太弟の司馬穎はこれを討とうとしたが実現せず、王浚は司馬穎を殺そうと考えた。司馬穎は右司馬の和演を幽州刺史とし、秘かに王浚を殺害させた。和演は烏桓単于の審登とともに謀って王浚とともに薊城の南の清泉に出かけて、これを殺そうとした。にわか雨があり、兵器が湿って、実行せずに還った。審登は王浚に天の助けがあったので、和演の密謀を王浚に教えた。王浚は審登とともに密かに兵を訓練し〈王沈 附王浚伝〉、并州刺史である東贏公の司馬騰と盟約して〈新蔡王騰伝〉和演を包囲し、これを殺し、自ら幽州の営兵を領した〈王浚伝〉。司馬騰は、司馬越の弟である。太弟の司馬穎は、詔と称して王浚を討伐し〈成都王穎伝〉、王浚は鮮卑の段務勿塵〈王浚伝〉・烏桓の羯朱及び東嬴公の司馬騰とともに〈司馬穎伝〉兵を起こして司馬穎を討伐し〈王浚伝〉、司馬穎は北中郎将の王斌及び石超にこれを攻撃させた〈司馬穎伝〉
太弟の司馬穎は東安王の司馬繇が前に提議したことを怨み、八月戊辰、司馬繇を捕らえ、これを殺した〈東安王繇伝に依る〉。これより先、司馬繇の兄である琅邪恭王の司馬覲が薨じ、子の司馬怨が嗣いだ。司馬睿は沈着で度量があり〈元帝紀〉、左将軍となり、東海参軍の王導と仲が良かった。王導は、王敦の従父弟である。見識を備えて高潔で、朝廷が多事なので、いつも司馬睿に藩国への赴任を勧めた〈王導伝に依る〉。司馬繇が死ぬと、司馬睿は恵帝に従い鄴にいたが、禍が及ぶのを恐れ、逃げ帰ろうとした。司馬穎は先に各地の関津に命じ、貴人を脱走させるなと命じた。司馬睿が河陽に至り、津吏が足止めした。従者の宋興が後からきて、司馬睿をはたきで打ち、「舎長よ、官は貴人の脱出を禁じているが、お前ごときが捕まったのか」と言った。津吏は通過を許した。洛陽に至り、太妃の夏侯氏を連れて帰国した〈元帝紀〉。丞相従事中郎の王澄は孟玖の利益誘導を告発し、太弟の司馬穎に誅殺を勧め、司馬穎はこれに従った〈王澄伝〉
上官巳が洛陽におり、残虐を極めた。守河南尹の周馥は、周浚の従父弟であり、司隸の満奮らとともに彼の殺害を計画した。計画がもれ、満奮らは死に、周馥は逃げ、難を逃れることができた〈周馥傳〉。司空の司馬越が太弟の司馬穎を討伐すると、太宰の司馬顒は右将軍・馮翊太守の張方に兵二万をひきいて救援させ、恵帝がすでに鄴に入ったと聞くと〈河間王顒伝〉、張方に洛陽を鎮守せよと命じた。上官巳は別将の苗願とともにこれを拒み、大敗して還った。太子の司馬覃は夜に上官巳・苗願を襲い、上官巳・苗願は脱出した。張方は洛陽に入った。司馬覃は広陽門で張方を迎えて拝し、張方は下車して(拝礼を)止めさせた〈張方伝〉。ふたたび司馬覃及び羊皇后を廃位した〈恵帝紀〉
これより先、太弟の司馬穎は匈奴左賢王の劉淵を上表して冠軍将軍、監五部軍事とし、兵をひきいて、鄴に居らせた。劉淵の子の劉聡は、驍勇が人より優れ、広く経史に通じ、文を作るのが上手く、弓三百斤を引いた。弱冠にして京師に遊学し、名士と交際した。司馬穎は劉聡を積弩将軍とした〈前趙録 劉淵伝〉
劉淵の従祖である右賢王の劉宣はその族人に、「漢が滅亡して以来、わが単于は虚号になってしまい、僅かな領土もない。それ以下の(匈奴の)王侯は、降格して民と同じになってしまった。わが軍は衰えたが、まだ二万を下回らず、なぜ手をこまねいて他人のために働き、百年をむだにできようか。左賢王(劉淵)の英武は世を超え、天がもし匈奴を復興させるつもりがなければ、この人材を輩出させなかっただろう。いま司馬氏は骨肉で争っており、四海は鼎のごとく沸いている、呼韓邪の事業を、いまこそ実現しよう」と言った。そこで戦略をねり、劉淵を大単于に推戴し、その党である呼延攸に鄴に行って報告させた〈前趙録 劉淵伝〉
劉淵は司馬穎に、帰って葬儀をしたいと言い、司馬穎は許さなかった。劉淵は呼延攸を先に帰らせ、劉宣らに五部及び雑胡を招集させ、司馬穎を助けることを名目とし、しかし実態は謀反を命じた。王浚・東嬴公の司馬騰が起兵するに及び、劉淵は司馬穎に、「いま二鎮がのさばり、兵は十餘万おり、恐らく宿衛及び近郡の部隊では防御できません、殿下のために帰還して五部を説得し、国難に赴きたいと思います」と言った。司馬穎は、「五部の衆は、果たして動員できるのか。できれば、鮮卑・烏桓は、容易には(われらに)当たれまい。私は乗輿を奉って洛陽に帰って脅威を避け、おもむろに天下に檄を回付し、道理に基づき制圧しようと思うが、どうだろうか」と言った。劉淵は、「殿下は武皇帝の子で、王室に大勲があり、威恩が遠くまで表れ、四海のうち、だれが殿下に従って死力を尽くさぬでしょう。動員することは難しいものですか。王浚は豎子であり、東嬴公(司馬騰)は皇統の傍流ですから、なぜ殿下と天下を争うことができましょう。殿下がひとたび鄴の宮殿から出発し、人に弱みを見せれば、洛陽に到達できません。洛陽に至らずとも、威権は殿下に戻ってきません。殿下は士卒を慰撫して励まし、落ち着けて鎮守しなさい。私は殿下のために二部をひきいて東嬴公を撃ち、三部をひきいて王浚をさらし首とし、二人の逆賊の首を、日のもとに懸けてやりましょう」と言った。司馬穎は悦び、劉淵に北単于・参丞相軍事を拝した〈前趙録 劉淵伝〉
劉淵は左国城に至り、劉宣らは大単于の号をたてまつり、二十日のうちに、兵は五万となり、離石を都とし、劉聡を鹿蠡王とした。左於陸王の劉宏に精騎五千をひきい、司馬穎と合流して王粋をひきいて東嬴公の司馬騰を防ぎ止めた。王粋はすでに司馬騰に敗れ、劉宏は(助勢が)間に合わずに帰った〈前趙録 劉淵伝〉
王浚・東嬴公の司馬騰が軍を合わせて王斌を攻撃し、大いにこれを破った〈未詳〉。王浚は主簿の祁弘を前鋒とし、石超を平棘で破り、勝ちに乗じて進軍した〈王浚伝〉。候騎が鄴に至ると〈未詳〉、鄴中は大いに震え、百僚は奔走し、士卒は分散した〈司馬穎伝〉。盧志は司馬穎に恵帝を奉じて洛陽に還るように勧めた。ときに甲士はまだ一万五千いたが、盧志は夜に部隊を分け、夜明けに出発しようとしたが、程太妃は鄴が恋しく行きたがらず、司馬穎は逡巡して決めかねた。にわかにして軍が潰乱し〈盧欽 附盧志伝〉、司馬穎は帳下の数十騎をひきいて盧志とともに恵帝を奉じて〈司馬穎伝〉犢車を御して〈盧志伝〉南に向かって洛陽に逃げた。慌ただしく隊列が形をなさず、中黄門が持っていた私銭三千を、詔してこれを借り、道中で食糧を買い、夜に中黄門に布団をかけさせ、食事は瓦盆に盛りつけた。温県に至り、陵墓に参詣しようとし、従者から履き物をもらい、下拝して流涕した〈恵帝紀〉。黄河を渡るとき、張方は洛陽から子の張羆を派遣して騎三千をひきい、持っていた馬車ごと恵帝を迎えた。芒山のもとに至り、張方は自ら万餘騎をひきいて恵帝を迎えた。張方は恵帝に拝謁するとき、恵帝が下車したが自ら止めた〈張方伝〉。恵帝は皇宮に還り、逃げ去った者が少しずつ集まってきて、百官はだいたい揃った〈盧志伝〉。辛巳、大赦した〈恵帝紀〉
王浚が鄴に入ると、士卒がにわかに掠奪し、死者がとても多かった〈王浚伝〉。烏桓の羯朱は太弟の司馬穎を追い、朝歌に至ったが、追いつけなかった〈未詳〉。王浚は薊に還り、鮮卑が多く婦女の掠奪したから、「隠し持っている者は斬る」と命じた。ここにおいて易水に静められた者は八千人であった〈王浚伝〉
東嬴公の司馬騰は拓跋猗迤に援軍を求めて劉淵の攻撃を依頼し、猗迤は弟の猗盧とともに兵を合わせて劉淵を西河で攻撃し、これを破り、司馬騰と汾東で盟約して還った〈未詳〉
劉淵は太弟の司馬穎が鄴を去ったと聞き、歎じて、「わが発言を用いず、却って自滅した、ほんとうに無能だ。しかし口を出したからには、救わねばならぬ」と言った。兵を動かして鮮卑・烏桓を攻撃しようとすると、劉宣らが諫めて、「晋人は匈奴を奴隷扱いし、いま骨肉で殺しあっている、これは天が彼らを見棄てて、われらに呼韓邪の事業を復興させようとしているのだ。鮮卑・烏桓は、われらの同類であり、助けるべき相手であり、なぜ攻撃などするのか」と言った。劉淵は、「宜しい。生まれたからには漢高祖・魏武帝になるべきで、呼韓邪ではまだ足りぬ」と言った。劉宣らは頭を地につけ、「敵わぬな」と言った〈前趙録 劉淵伝〉
荊州の兵は張昌を捕らえて斬り、一味もみな夷三族とした〈張昌伝に依る〉
李雄は范長生に名声と徳があり、蜀人に尊重されているので、君主に奉って彼に臣従しようとしたが、長生が断った。諸将は李雄に尊位に即くよう要請した。冬十月、李雄は成都王の位に即し、大赦し、改元して建興とした。晋の法を除き、法七章を約した。叔父の李驤を太傅、兄の李始を太保、李離を太尉、李雲を司徒、李璜を司空、李国を太宰、閻式を尚書令、楊褒を僕射とした。母の羅氏を尊んで王太后とし、父の李特を追尊して成都景王とした。李雄は李国・李離に智謀があるため、万事を諮問してから実行し、しかし李国・李離は李雄に慎ましく仕えた〈蜀録 李雄伝〉
劉淵は都を左国城に遷し、胡族と漢族の帰順者はますます増えた。劉淵は群臣に、「むかし漢王朝が天下を長く支配し、恩を民に結んだ。私は漢氏の甥であり、兄弟の盟約を結んだ。何が滅びて弟が継ぐことに、なんの問題があろうか」と言った。国号を建てて漢とした。劉宣らは尊号をたてまつり、劉淵は、「いま四方は平定されず、高祖を踏襲して漢王を称しよう」と言った。漢王の位に即き、大赦し、元熙と改元した。安楽公の劉禅を追尊して孝懐皇帝とし、漢の三祖・五宗の神主を作って祭った。妻の呼延氏を王后に立てた右賢王の劉宣を丞相、崔游を御史大夫、左於陸王の劉宏を太尉、范隆を大鴻臚、朱紀を太常、上党の崔懿之・後部人の陳元達をみな黄門郎とし、族子の劉曜を建武将軍とした。游固は辞退し就官しなかった。
元達は若くして志操があり、劉淵は彼を招き、元達は答えなかった。劉淵が漢王となると、元達に、「あなたは懼れているのか」と言うものがあった。元達は笑い、「私は長く彼を知っているが、彼もまた私の心を理解している。二三日もせず、駅書が届くだろう」と言った。その日の暮れ、劉淵はやはり元達を徴した。元達は劉淵に仕え、しばしば進みては忠言し、退いては起草し、子弟でも中身を知らなかった〈前趙録 陳元達伝〉
劉曜は生まれたとき眉が白く、目が赤く輝き、幼くして聡明で、胆力があり、早くに父を亡くし、劉淵に養われた。成長すると、威厳があり、性格は開放的で、人々と群れなかった。読書を好み、文を作るのがうまく、鉄の厚さ一寸を、射抜けた。つねに自分を楽毅及び蕭何と曹参になぞらえ、周囲は認めなかった。ただ劉聡だけが尊重し、「永明(劉曜)は、漢の世祖や魏の武帝と同類であり、数公どころではない」と言った〈前趙録 劉曜伝〉
恵帝は洛陽に還っており、張方は兵を擁して朝政を専制し〈未詳〉、太弟の司馬穎は締め出された。豫州都督である范陽王の司馬虓・徐州都督である東平王の司馬楙らは上言し、「司馬穎では重任を担えません、封爵を一邑に降格し、その使命を全うさせなさい。太宰(司馬顒)には関右のことを委任し、州郡より以下、選挙と任免を、委譲しなさい。朝廷の重要なこと、興廃や利害について、すべて判断を仰ぎなさい。張方は国のために忠節があるが、臨機応変でなく、まだ西に還っていないから、郡に還らせ、官位を加増し、全てを従来通りにしなさい。司徒の王戎と司空の司馬越は、どちらも忠臣であり気が回るので、政治の全般について、彼らに委任しなさい。王浚は社稷を定めた勲功があるので、特別に尊重して、北方を安寧とし、北の藩屏に育てなさい。私たちは力を尽くして城を守り、皇室の防壁となり、陛下はご心配なさらず、四海は適正となるでしょう」と言った〈范陽康王 附虓伝〉
張方は洛陽に長くおり、兵士は窃盗しつくし、世論は反発したが、(西に)還る意志がなく、恵帝を長安に遷そうと言い出した。恵帝及び公卿が従わぬことを恐れ、恵帝の外出を待ってから連れ去ろうとした。恵帝に謁廟を求めたが、断られた。十一月乙未、張方は兵をひきいて宮殿に入り〈張方伝〉、馬車ごと恵帝を迎えようとし、恵帝は後宮の竹中に逃れた。兵は恵帝を連れ出そうとし、逼って乗車させ〈恵帝紀〉、恵帝は泣きながら従った〈盧欽伝 附志伝に依る〉。張方は馬上で首をめぐらせ、「いま盗賊がのさばり、宿衛は弱小なので、陛下を私の防塁にお招きし、死力を尽くしてお守りします」と言った〈張方伝〉。このとき群臣はみな逃げて隠れ〈未詳〉、ただ中書監の盧志のみ離れず、「陛下は今日のところは、右将軍(張方)の言うことを聞かれますように」と言った〈盧志伝〉。恵帝は張方の防塁にゆき、張方は馬車に宮人や宝物を乗せた。兵士は後宮の女性を奪い、倉庫の品物を奪いあい〈恵帝紀〉、流蘇・武帳を裂いて馬のほろとし〈張方伝〉、魏晋以来の蓄積は、地を掃いて残らなかった〈恵帝紀〉。張方は宗廟・宮室を焼いて、懐かしむ心を消滅させようとし、盧志は、「むかし董卓は無道にして、洛陽を焼いて、怨嗟の声は、百年後も残っている、なぜ同じことをするのか」と言った。張方は思い止まった〈盧志伝〉
恵帝は張方の塁に三日間留まり〈盧志伝〉、張方は恵帝及び太弟の司馬穎・豫章王の司馬熾らを擁して長安に逃げ〈成都王穎伝〉、王戎は郟に出奔した〈未詳〉。太宰の司馬顒は官属と歩騎三万をひきいて霸上で迎え、司馬顒は進んで拝謁し、恵帝は馬車を下りて止まった。恵帝は長安に入り、征西府を皇居とした。ただ尚書僕射の荀藩・司隸の劉暾・河南尹の周馥らは洛陽にいて留台とし、政治を承制し、東台と西台と号した。荀藩は、荀勖の子である。丙午、留台は大赦をし、改元して永安に戻した。辛丑、皇后の羊氏を復位させた〈恵帝紀〉
羅尚は移って巴郡に駐屯し、兵を遣わして蜀中を掠め、李驤の妻である昝氏及び子の李寿を捕らえた〈未詳〉
十二月丁亥、太弟の司馬穎に詔して成都王として邸宅に帰らせた。改めて豫章王の司馬熾を皇太弟に立てた。恵帝の兄弟は二十五人おり、このとき存命者は司馬穎・司馬熾及び呉王の司馬晏のみであった〈未詳〉。司馬晏は才能が凡庸であった〈武十三王伝に依る〉。司馬熾は幼いときから学問を好み〈懐帝紀〉、ゆえに太宰の司馬顒はこれを立てた〈未詳〉。詔して司空の司馬越を太傅とし、司馬顒とともに帝室を支え、王戎は朝政を参録した。らに光禄大夫の王衍を尚書左僕射とした。高密王の司馬略を鎮南将軍とし、司隸校尉を領させ、かりに洛陽を鎮守させた。東中郎将の司馬模を寧北将軍とし、都督冀州諸軍事とし、鄴に鎮守させた。百官はそれぞれ本来の官職に還した。州郡に苛政を除かせ、民を愛して本業に務め、治安が回復したら、洛陽に還るとした。大赦し、改元した〈恵帝紀〉。司馬略・司馬模は、どちらも司馬越の弟であった。王浚はすでに鄴を去り、司馬越は司馬模にここを鎮守させた。司馬顒は四方が乖離し、禍難が已まぬので、この詔を下して和解に導き、鎮静化させようとした〈未詳〉。司馬越は太傅を辞退して受けなかった。さらに詔して太宰の司馬顒を都督中外諸軍事とした〈恵帝紀〉。張方を中領軍・録尚書事とし、京兆太守を領させた〈張方伝〉
東嬴公の司馬騰は将軍の聶玄に漢王の劉淵を攻撃させ、大陵で戦い、聶玄の軍は大いに敗れた〈前趙録 劉淵伝〉
劉淵は劉曜に太原を侵略させ、泫氏・屯留・長子・中都を奪った〈前趙録 劉淵伝〉。さらに冠軍将軍の喬晞に西河を侵略させ、介休を奪った。介休令の賈渾は降らず、喬晞はこれを殺した。その妻の宗氏を娶ろうとすると、宗氏は罵喬を罵って哭き、喬晞は彼女も殺した。劉淵はこれを聞き、大いに怒り、「天道に知があれば、喬晞は子孫を残せるだろうか」と言った。追って還し、秩四等を降格し、賈渾の屍を収容し、葬った〈前趙録 喬晞伝〉