いつか読みたい晋書訳

資治通鑑_晋紀八 孝懐皇帝下、孝懐皇帝上(三〇五-三〇八)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
作業手順は、以下の1.~4.の通りです。ここに掲載しているのは、翻訳の準備として、1.維基文庫をとりあえず現代語訳して大意をつかみ、4.『資治通鑑証補』の指摘を拾って赤文字で示す、という作業段階のものです。今後、精度を上げます。
1.維基文庫で、『資治通鑑』のテキストを取得。/2.中華書局の『資治通鑑』を底本とし、テキストを修正。/3.胡三省注、『資治通鑑考異』で内容理解を深める。/4.現代語訳をする際は、『資治通鑑』(続国訳漢文大成)、『和刻本資治通鑑』を参考とする。頼惟勤・石川忠久編『資治通鑑選』(中国古典文学大系14、平凡社)に収録されている部分はこれを参照する。/5.石川安貞『資治通鑑証補』(蓬左文庫)が正史等の出典を概ね示しているため、そのまま引用。同書が空格(空欄)としているものは、追加検証しない。6.初出の語彙には、読みがな(ルビ)を付す。

永興二(三〇五)年

現代語訳

夏四月、張方が羊皇后を廃位した〈恵帝紀〉
游楷らが皇甫重を攻めたが、年をまたいでも勝てず、皇甫重は養子の皇甫昌を派遣して外に救援を求めさせた。皇甫昌は司空の司馬越のもとに来て、司馬越は太宰の司馬顒が新たに山東と連和したので、出兵を拒否した。皇甫昌は故殿中人の楊篇に司馬越の命令だと詐り、羊后を金墉城に迎えた。宮殿に入ると、皇后の命令として兵を発して張方を討伐し、(関中から洛陽に)大駕を迎えよと言った。慌ただしく始まったので、百官は一回は従ったが、すぐに詐りと知り、みなで皇甫昌を誅した。司馬顒は御史を派遣して詔であるとして皇甫重に降服せよと説得したが、皇甫重は従わなかった。これより先、城中は長沙厲王及び皇甫商がすでに死んだと知らず〈未詳〉、皇甫重は御史の騶人をつかまえ、「我が弟(皇甫商)は兵を率いて来るだろうか、まだだろうか」と質問した。騶人は、「すでに河間王に殺害されました」と答えた。皇甫重は色を失い、立ちどころに騶人を殺した。ここにおいて城中は外から救援が来ないと知り、皇甫重を殺して降服した〈皇甫重伝〉。司馬顒は馮翊太守の張輔を秦州刺史とした〈張輔伝〉
六月甲子、安豊元侯の王戎が郟で薨じた〈恵帝紀〉
張輔が秦州に至り、天水太守の封尚を殺し、威信を確立しようとした。さらに隴西太守の韓稚を召したが、韓稚の子の韓朴が兵を整えて張輔を攻撃した。張輔の軍は敗れ、死んだ〈張輔伝〉。涼州司馬の楊胤が張軌に、「韓稚はかってに刺史を殺し、明公は一方面を監察する権限がある、討伐しなさい」と言った。張軌はこれに従い、中督護の汜瑗を遣わして兵二万を率いて韓稚を討伐し、韓稚は張軌に降服した。ほどなく、鮮卑の若羅抜能が涼州に侵略し、張軌は司馬の宋配に攻撃させ、抜能を斬り、十餘万口を捕らえ、威名が大いに振った〈張軌伝〉
漢王の劉淵は東贏公の司馬騰を攻め、司馬騰は拓跋猗迤に援軍を求め、衛操は猗迤にこれを助けるようと勧めた。猗迤は軽騎数千を率いて司馬騰を救い、漢将の綦毋豚を斬った。詔して猗迤に大単于を仮し、衛操に右将軍を加えた。甲申、猗迤が卒すると、子の普根が代わりに立った〈北魏序紀〉
東海中尉の劉洽は張方が車駕を脅して移したので、司空の司馬越に討伐を勧めた。秋七月、司馬越は檄を山東の征・鎮・州・郡に回付し、「義軍を糾合し、天子を奉迎し〈未詳〉、旧都に帰還させよう〈東海王越伝〉」と言った。東平王の司馬楙はこれを聞き、懼れた。長史の王脩は司馬楙に、「東海王は、宗室の重鎮です。いま義兵を興すのですから、あなたも徐州を挙げて協力すれば、難を逃れ、謙譲の美徳となります」と言った。司馬楙はこれに従った〈竟陵王楙伝〉
司馬越は司空として、徐州都督を領し、司馬楙は自ら兗州刺史となった(司馬越伝に依る)。詔して使者の劉虔を送ってこれを授けた(未詳)。このとき、司馬越の兄弟はみな地方長官の任にあり〈司馬越伝に依る〉、ここにおいて范陽王の司馬虓及び王浚らはともに司馬越を盟主に推し〈范陽王綏 附虓伝〉、司馬越は刺史以下を人選して設置し、朝士は多くが彼のもとに赴いた〈未詳〉
成都王の司馬穎がすでに廃位されたが、河北のひとは多くが憐れんだ。司馬穎の故将である公師藩らは将軍を自称し、趙・魏の地域で起兵し、兵が数万に至った〈成都王穎伝〉
これより先、上党の武郷の羯人である石勒は、胆力があり、騎射を得意とした。并州が大いに飢えると、建威将軍の閻粋は東嬴公の司馬騰に諸胡を山東で捕らえ、売り飛ばして戦費にあてよと言った。石勒もまた掠われ、売られて茌平の人である師懽の奴隷となり、師懽はその容貌を見込んで解放した。師懽の家のとなりに馬の牧場があり、石勒は牧帥の汲桑と壮士の契りを結んで群盗となった。公師藩が立つと、汲桑と石勒は数百騎を連れて駆けつけた。汲桑は石勒に石という姓、勒という名を与えた〈石勒伝〉
公師藩が郡県を攻め落とし、二千石・長史を殺し、転戦して進み、鄴を攻めた。平昌公の司馬模はひどく懼れた。范陽王の司馬虓は将の苟晞を送って鄴を救わせ、広平太守である譙国の丁紹はともに公師藩を撃ち、敗走させた〈後趙録 石勒伝に依る〉
八月辛丑、大赦した〈恵帝紀〉
司空の司馬越は琅邪王の司馬睿を平東将軍とし、監徐州諸軍事とし、留めて下邳を守らせた〈元帝紀〉。司馬穎は王導に司馬になってもらい、軍事を委任した〈王導伝に依る〉。司馬越は甲士三万をひきい、西のかた蕭県に駐屯し〈東海王越伝〉、范陽王の司馬虓は許から栄陽に駐屯した〈范陽王伝〉。司馬越は承制して豫州刺史の劉喬を冀州刺史とし、范陽王の司馬虓を領豫州刺史とした。劉喬は司馬虓を任命したのが天子でないから、兵を出して拒絶した〈劉喬伝〉。司馬虓は劉琨を司馬とし、司馬越は劉蕃を淮北護軍とし〈劉琨伝〉、劉輿を穎川太守とした(劉輿・劉琨は、劉蕃の子である)〈劉琨伝 附劉輿伝〉。劉喬は尚書にたてまつり、劉輿兄弟の罪悪を述べ〈劉喬伝〉、兵を率いて許を攻め〈未詳〉、長子の劉祐に兵を率いて司馬越を蕭県の霊壁で食い止めさせ〈東海王越伝〉、司馬越の兵は進めなかった。東平王の司馬楙は兗州におり、(荀晞を)徴して仕官させるよう要請したが、郡県は命令を実現できなかった。范陽王の司馬虓は苟晞を兗州に還らせ、司馬楙に青州を都督させた。司馬楙は任命を受けず、山東の諸侯にそむき、劉喬と同調した〈竟陵王楙伝〉
太宰の司馬顒は山東が決起したと聞き、とても懼れた〈河間王顒伝に依る〉。公師藩が成都王の司馬穎のために起兵したので〈未詳〉、壬午、司馬穎を上表して鎮軍大将軍・都督河北諸軍事とし、兵千人を給した〈成都王穎伝〉。盧志を魏郡太守とし、司馬睿に随って鄴を鎮守させ、安撫させようとした〈盧志伝〉。建武将軍の呂朗を派遣して洛陽に駐屯させた〈恵帝紀〉
司馬顒は詔を発し、東海王の司馬越らにそれぞれ藩国に赴任させようとしたが、司馬越らは従わなかった。たまたま劉喬の上書を得たので〈東海王越伝に依る〉、冬十月丙子、詔を下し、「劉輿は范陽王の司馬虓を脅迫し、凶逆なことをさせた。そこで鎮南大将軍の劉弘・平南将軍である彭城王の司馬釈・征東大将軍の劉准は、それぞれ配下をまとめ、劉喬と力を合わせよ。張方を大都督とし、精兵十万を率いさせ、呂朗とともに許昌で落ちあい、劉輿の兄弟を誅せよ」と称した〈恵帝紀に征東大将軍の劉準の字がなく、劉喬及び劉輿伝から取っている〉。司馬釈は、宣帝の弟の子である穆王の司馬権の孫である〈彭城穆王権伝〉。丁丑、司馬顒は成都王穎に将軍の楼褒らを領させ、前車騎将軍の石超に北中郎将の王闡らを領させ、河橋に拠り、劉喬の後詰めとした。劉喬を鎮東将軍、仮節に進めた〈河間王顒伝に依る〉
劉弘は劉喬及び司空の司馬越に書簡を送り、怨むのをやめて武装解除し、ともに王室を支えよと説得したが、両者とも聞き入れなかった。劉弘は上表し、「このごろ兵乱が入り乱れ、猜疑と禍害により、郡王が対立し、災難が宗族に広がっている。夜に忠臣でも、翌朝に逆臣となり、立場が一定せず、戦争の首謀者となる。有史以来、今日ほどの骨肉の争いはなく、とても悲しい。いま辺境に備蓄がなく、中原も体制が壊れ、股肱の臣が、国家を思わず、官職を競い、蹴落としている。もしも四夷が虚に乗じて異変を起こせば、猛虎がつぶしあい(春秋時代の勇士)卞荘に手柄を取らせたのと同じことが起こる。速やかに司馬越に詔を出し、対立をほぐし、それぞれの職責を果たせ。これ以後、詔を受け取っていないにも拘わらず、かってに軍事行動を始めたら、天下でともに討伐しなさい」と言った。このとき太宰の司馬顒は関東の軍を防いでいたが、劉喬を頼って助けとし、その発言を聞き入れなかった〈劉喬伝に依る〉
劉喬は虚に乗じて許を襲い、これを打ち破った。劉琨は兵を率いて許を救ったが、間に合わず、兄の劉輿及び范陽王の司馬虓とともに河北に逃亡した。劉琨の父母は劉喬に捕らわれた〈劉琨及び附輿伝〉。劉弘は張方が残虐なので、司馬顒はきっと失敗すると思い、参軍の劉盤を督護とし、諸軍を率いて司空の司馬越の統制下に入った〈劉弘伝に依る〉
ときに天下は大いに乱れ、劉弘はは専ら江・漢の地域を督し、南方が権威に服した。計画が成功したら、「誰それの功績だ」と言った。失敗したら、「この老いぼれの罪だ」と言った〈計画の成否のことは劉弘伝にない〉。動員や徴発があることに、守相に直筆の書状を送り、真心を尽くし親密であった。人々は感激し、急いで駆けつけ、「劉公から一枚の書状をもらうほうが、十の部従事よりも効果がある」と言った。前広漢太守の辛冉が劉弘に天下取りの計略を説き、劉弘は怒り、これを斬った〈劉弘伝に依る〉
星孛が北斗に出現した〈恵帝紀〉
平昌公の司馬模は将軍の宋冑を河橋に行かせた。十一月、立節将軍の周権が、檄文を受け取ったと詐り、平西将軍を自称し、羊后を復位させた。洛陽令の何喬が周権を攻め、これを殺し、また羊皇后を廃位した〈恵帝紀〉
太宰の司馬顒が詔を偽造し、羊后はしばしば奸人に担がれるから、尚書の田淑に命じて留台で皇后に死を賜った。詔書がしきりに至り、司隸校尉の劉暾らが上奏し、固執して、「羊庶人の門戸は残破し、空宮に放り出され、門は固く閉ざされ、奸人の反乱に担がれることはない。人々はみな、冤罪と言っています。いま一人の追い詰められた人を殺し、天下から批判を買うのは、政治にとって無益です」と言った。司馬顒は怒り、呂朗を遣わし、劉暾を捕らえた。劉暾は青州に逃げ、高密王の司馬略を頼った。しかし羊后はまた免れることができた〈羊后伝〉
十二月、呂朗らは東のかた栄陽に駐屯し、成都王の司馬穎は進んで洛陽に拠った〈恵帝紀〉
劉琨は冀州刺史である太原の温羨に説き、位を范陽王の司馬虓に譲らせた。司馬虓は冀州を領し、劉琨を遣わして幽州にゆき王浚に援軍を求めた。王浚は突騎を援軍として差し出し〈劉琨伝〉、王闡を河上で撃ち、これを殺した〈未詳〉
劉琨は司馬虓とともに兵を率いて河水を渡り、石超を栄陽で斬った〈劉琨伝〉。劉喬は考城から撤退した。司馬虓は劉琨及び督護の田徽を派遣して〈司馬越伝〉東のかた東平王の司馬楙を廩丘で攻撃し〈劉琨伝〉、司馬楙は逃げて国に還った〈宗室附 竟陵王楙伝〉。劉琨・田徽は兵と率いて東のかた司馬越を迎え、劉祐を譙で攻撃した。劉祐は敗れて死に、劉喬の軍は潰走し、劉喬は平氏に逃げた。司空の司馬越は進んで陽武に駐屯し〈司馬越伝に依る〉、王浚はその将の祁弘に突騎の鮮卑・烏桓を率いさせて司馬越の先駆を務めさせた〈王浚伝〉
これより先、陳敏は石冰を破り、自ら勇略は無敵といい、江東に割拠する志を持った。その父は怒り、「わが家門を滅ぼすのは、必ずこの子である」と言った。とうとう心配して卒した。陳敏は父の喪により官職を去った。司空の司馬越は陳敏を右将軍・前鋒都督とした〈陳敏伝〉。司馬越が劉祐に破られると〈司馬越伝に依る〉、陳敏は東に帰って兵を集めたいと言い、とうとう歴陽にを拠点として叛した〈陳敏伝に依る〉。呉王常侍の甘卓は、官職を捨てて東に帰り、歴陽に至り、陳敏は子の陳景に甘卓の娘をめとらせ〈甘卓伝に依る〉、甘卓に皇太弟令を仮称させ、陳敏を揚州刺史に拝した。陳敏は弟の陳恢び及別将の銭端らに南のかた江州を攻略させ、弟の陳斌に東のかた諸郡を攻略させ、江州刺史の応邈・揚州刺史の劉機・丹楊太守の壬曠はみな官職を捨てて逃げた〈陳敏伝に依る〉
陳敏はついに江東を領有し〈陳敏伝に依る〉、顧栄を右将軍とし、賀循を丹楊内史とし、周玘を安豊太守とし、およそ江東の豪傑・名士は、みな加わって礼を収め、将軍・郡守となる者は四十餘人であった〈顧栄伝及び陳敏伝〉。老齢や病気であっても、任命する場合があった。賀循は詐って気狂いといい、任命を免れた〈賀循伝〉。顧栄には丹楊内史を領させた〈顧栄伝〉。周玘もまた病気を称し、郡に赴任しなかった〈周玘伝〉
陳敏は名士から任命を拒絶されることを不安に思い、全員を殺そうとした。顧栄は陳敏に、「中原が喪乱し、胡夷が内地を脅かしている。今日の状況を見るに、復興しがたく、百姓は子孫を残せない。江南は石冰の乱を経験したが、人材は保全され、顧栄はいつも孫氏・劉氏のような主君が登場せぬことを心配してきた。いま将軍の神武は不世出であり、功績は顕著であり、武装した兵は数万、艦隊は列をなし、もし君子に委ねれば、思いを尽くし、不満を解消し、讒言を予防すれば、江水上流の数州は、檄文を回せば平定される。そうせねば、立ち行かぬ」と言った。陳敏は思い止まった〈顧栄伝〉
陳敏は僚佐に命じて己を推薦させて都督江東諸軍事・大司馬・楚公とし、九錫を加え、列上尚書とし、中詔を受けたと称し、江水から沔・漢に入り、天子を奉迎すると唱えた〈陳敏伝に依る〉
太宰の司馬顒は張光を順陽太守とし、歩騎五千を率いて荊州に向かい陳敏を討伐させた〈張光伝〉。劉弘は江夏太守の陶侃・武陵太守の苗光を夏口に駐屯させ、さらに南平太守である汝南の応詹に水軍を督させて後続とした〈劉弘伝〉
陶侃は陳敏と同郡であり、また同年に吏に挙げられた〈劉弘伝〉。随郡内史の扈懐は劉弘に、「陶侃は大郡におり、強兵をもち、もし野心を持てば、荊州は東門を失います」と言った。劉弘は、「陶侃は忠義で有能であり、長く働いてくれた、謀反はあり得ない」と言った。陶侃はこれを聞き、子の陶洪及び兄の子である陶臻を劉弘のもとに送って(忠義の)固さを示し、劉弘はこれを招いて参軍とし、物資を与えて帰らせた〈陶侃伝〉。「あなたの叔父は出征し、きみの祖母は高齢だから、帰りなさい。匹夫の交わりですら、なお裏切らない。まして大丈夫ならば」と言った〈劉弘伝〉
陳敏は陳恢を荊州刺史とし、武昌を侵略した。劉弘は陶侃に前鋒督護を加えてこれを防がせた。陶侃は輸送船を戦艦としたが、あるひとが反対した。陶侃は、「官船を用いて官賊を撃つのだ、なぜ問題があろう」と言った。陶侃は陳恢と戦い、しばしばこれを破った〈陶侃伝〉。さらに皮初・張光・苗光とともに銭端を長岐で破った〈張光伝に依る〉
南陽太守の衛展は劉弘に、「張光は、太宰(司馬顒)の腹心です、あなたはすでに東海(司馬越)と結んでいます、張光を斬って敵味方を明らかにしなさい」と言った。劉弘は、「宰相たちの得失は、張光のせいではない。他人を脅かして自分を安定させるのは、君子のやることではない」と言った〈劉弘伝〉。張光の殊勲を上表し、昇進を申請した〈張光伝に依る〉
この年、離石で飢饉があり、漢王の劉淵は黎亭に移って駐屯し、邸閣の穀物を頼った。太尉の劉宏を離石に留めて守らせ、大司農の卜豫に食糧を運ばせて供給した〈前趙録 劉淵伝〉

光熙元(三〇六)年

現代語訳

春正月戊子朔、日食があった〈恵帝紀〉
これより先、太弟中庶子である蘭陵の繆播は司空越から寵用された。繆播の従弟の右衛率の繆胤は、太宰の司馬顒の前妃の弟である。司馬越が起兵すると、繆播・繆胤を長安に行かせて司馬顒を説得し、恵帝を奉じて洛陽に還らせ、司馬顒と分陝して伯にすると約束した。司馬顒は繆氏兄弟を信頼しており、これに従った。張方が自らの罪が重く、誅殺されることを恐れ、司馬顒に、「いま形勝の地に拠り、国は富み兵は強く、天子を奉じて号令しており、誰であろうと服従するのに〈繆播伝に依る〉、なぜ他人の制御を受けるのですか」と言った。司馬顒は思い止まった〈未詳〉。劉喬が敗れると、司馬顒は懼れ、兵を解除し、山東と和解しようとした。張方の反対を恐れ、決断できなかった〈張方伝〉
張方は長安の富人である郅輔と仲が良く、帳下督とした。司馬顒の参軍である河間の畢垣は、かつて張方に侮られたので、司馬顒に、「張方は久しく霸上に駐屯し、山東の兵が盛んだと聞き、引き返して進まず、その反乱の予兆を防ぐべきです。親しい郅輔をは知謀を具えています」と言った〈張方伝〉。繆播・繆胤も司馬顒に説き、「急ぎ張方を斬って謝れば、山東は労せずして鎮定できます」と言った〈繆播伝〉。司馬顒は人をやって郅輔を召し、畢垣は迎えて郅輔に説き、「張方は反乱しそうだ、あなたも関知しているそうだな。河間王がもしあなたに質問したら、どうやって答えるのだ」と言った。郅輔は驚き、「本当に張方の反乱なんて聞いていない、どうしよう」と。畢垣は、「河間王から質問されたら、ただそうですと言え。さもなくば禍いを免れまい」と言った。郅輔が入り、司馬顒は彼に、「張方の反乱は、あなたは知っているか」と質問した。郅輔は、「そうです」と言った。司馬顒は、「あなたを派遣すれば、捕縛できるか」と。「そうです」と。司馬顒は郅輔から張方に文書を送らせ、これを殺した。郅輔は張方と親しいので、刀を持ったまま入室しても、警備は怪しまなかった。張方が点火して箱を空けると、張方はその頭を斬った。還って報告し、司馬顒は郅輔を安定太守とした〈張方伝〉。張方の頭を司空の司馬越に送って和睦を請うた〈東海王越伝〉。司馬越は許さなかった〈恵帝紀〉
宋冑が河橋を襲い、楼褒は西に逃げた〈恵帝紀及び河間王顒伝に依る〉。平昌公の司馬模は前鋒督護の馮嵩を遣わして宋冑と合わさって洛陽に迫った。成都王の司馬穎は西のかた長安に奔り〈恵帝紀〉、華陰に至った〈司馬穎伝に依る〉、司馬顒がすでに山東と和親したと聞き、留まって敢えて進まなかった〈未詳〉。呂朗は栄陽に駐屯し、劉琨が張方の首を示すと、降服した〈司馬顒伝〉。司空の司馬越は祁弘・宋冑・司馬纂を派遣して鮮卑をひきいて西のかた車駕を迎えさせ〈恵帝紀に依り、鮮卑は司馬越伝に見える〉、周馥を司隸校尉・仮節とし、諸軍を都督し、澠池に駐屯した〈周馥傳〉
三月、惤令の劉柏根が反し、兵は万を数え、惤公を自称した〈恵帝紀〉。王弥は家僮をひきいてこれに従い、柏根は王弥を長史とし〈前趙録 王弥伝〉、王弥の従父弟の桑を東中郎将とした〈未詳〉。柏根は臨淄を侵略し〈恵帝紀〉、青州都督である高密王の司馬略は劉暾に兵をひきいて食い止めさせた。劉暾の軍は敗れ、洛陽に逃げ〈劉暾伝〉、司馬略は逃げて聊城を保った〈孝王略伝〉。王浚は将を派遣して柏根を討伐し、これを斬った〈司馬略伝〉。王弥は逃げて長広山に入り群盜となった〈王弥伝〉
寧州は連年にわたり飢餓と疫病がはやり、死者は十万を数えた。五苓夷が強盛となり、州兵はしばしば敗れた。交州に流入する吏民がとても多く、夷は州城を包囲した。李毅は病気になり、救援は期待できず、上疏して、「盗賊を制圧できず、滅亡を待つばかり。よろしければ、高位の使者を下向させ、私が生きていれば、私を死罪にして下さい。もし私が死んでいれば、死体を壊して下さい」と言った。朝廷からの返信がなく、数年がたち、子の李釗が洛陽から(寧州に)向かい、到着する前に、李毅が卒した。李毅の娘である李秀は、聡明で父の遺風があり、郡臣は李秀を推して寧州の政治を領させた。李秀は戦士を激励し、籠城した。城中の食糧が尽き、鼠をあぶり草をぬいて食らった。包囲軍が衰えると、出撃して追い込み、これを破った〈華陽国志南中志に依る〉
范長生が成都に至り、成都王の李雄が門に迎え、木札を取り、丞相を拝し、范賢と尊称した〈李雄伝〉
夏四月己巳、司空の司馬越が兵を率いてに温県に駐屯した〈恵帝紀〉。これより先、太宰の司馬顒は張方が死んだから、東方の兵が解除されると考えた。ところが東方は張方の死を知ると、争って関に侵入したので、司馬顒は後悔し、郅輔を斬り〈張方伝に依る〉、弘農太守の彭随・北地太守の刁黙に兵をつれて祁弘らを湖県で食い止めさせた。五月壬辰、祁弘らは彭随・刁黙らを攻撃し、大いに破った〈恵帝紀〉。西に向かって関に入り、司馬顒の将である馬瞻・郭偉を霸水で破り、司馬顒は単馬で太白山に逃げ入った。祁弘らは長安に入ると〈河間王顒伝〉、所部の鮮卑が大いに掠奪し、二万餘人を殺し〈恵帝紀〉、百官は逃亡し、山中に入り、くぬぎの実を拾って食べた〈未詳〉。己亥、祁弘らは恵帝を奉じて牛車に乗せて東に還った〈恵帝紀〉。太弟太保の梁柳を鎮西将軍とし、関中を守らせた〈司馬顒伝〉。六月丙辰朔、恵帝は洛陽に至り、羊后を復位させた。辛未、大赦し、改元した〈恵帝紀〉
馬瞻らは長安に入り、梁柳を殺し、始平太守の梁邁とともに太宰の司馬顒を南山に迎えた。弘農太守の裴廙・秦国内史の賈龕・安定太守の賈疋らは起兵して司馬顒を撃ち、馬瞻・梁邁を斬った〈司馬顒伝〉。賈疋は、賈詡の曾孫である(賈疋伝)。司空の司馬越は督護の麋晃を派遣して司馬顒を攻撃し、鄭に至ると〈司馬顒伝〉、司馬顒は平北将軍の牽秀に馮翊に駐屯させていた。司馬顒の長史である楊騰は、司馬顒の命令だと詐り、牽秀に兵を解除させ、楊騰は牽秀を殺し〈牽秀伝〉、関中はすべて司馬越に帰服し、司馬顒は一城を保つのみであった〈司馬顒伝〉
成都王の李雄が皇帝の位に即き、大赦し、晏平と改元し、国号を大成とした。父の李特を追尊して景皇帝とし、廟号を始祖とした。王太后を尊んで皇太后とした。范長生を天地太師とした。部曲を免税とし、徴税をしないものとした。諸将は恩を頼み、席次を争い、尚書令の閻式が上疏し、漢・晋の故事を参照し、百官の制度を立てよと言い、これに従った〈蜀録 李雄伝〉
秋七月乙酉朔、日食があった〈恵帝紀〉
八月、司空の司馬越を太傅、録尚書事とした。范陽王の司馬虓を司空とし、鄴に鎮守させた〈恵帝紀〉。平昌公の司馬模を鎮東大将軍とし、許昌に鎮守させた〈南陽王模伝〉。王浚を驃騎大将軍・都督東夷・河北諸軍事とし、幽州刺史を領させた〈王浚伝〉。司馬越は吏部郎である穎川の庚敳を軍諮祭酒とし〈王浚伝 附庚敳伝〉、前太弟中庶子の胡母輔之を従事中郎とし〈胡薄輔之伝〉、黄門侍郎である河南の郭象を主簿とし〈郭象伝〉、鴻臚丞の阮脩を行参軍とし〈阮脩伝〉、謝鯤を掾とした〈謝鯤伝〉。輔之は楽安の光逸を司馬越に推薦し、司馬越は彼も辟した〈未詳〉。庾敳らはみな虚玄を好み、世務に関心がなく、酒を飲んで放縦であった。庾敳は財産運用に熱心だった〈庾敳伝〉。郭象は徳が薄く、権力を濫用した〈郭象伝〉。司馬越は彼らの名声が重いので、辟したのである〈未詳〉。 祁弘が関中に入ると〈未詳〉、成都王の司馬穎は武関から新野に逃げた〈成都王穎伝〉。このとき新城元公の劉弘が卒し、司馬の郭勱が乱をなし、司馬穎を盟主に迎えようとし、郭舒は劉弘の子である劉璠を奉って郭勱を討伐し、これを斬った〈劉弘伝に依る〉。詔して南中郎将の劉陶に司馬穎の逮捕を命じた。司馬穎は北のかた渡河し、朝歌に逃げ、もとの将士を集め、数百人を得て、公師藩を頼ろうとした。九月、頓丘太守の馮嵩がこれを捕らえ、鄴に送った。范陽王の司馬虓は殺すに忍びず匿った〈司馬穎伝〉。公師藩が白馬から南のかた渡河すると、兗州刺史の苟晞が討伐してこれを斬った〈未詳〉
東贏公の司馬騰の爵位を東燕王に進め(恵帝紀)、平昌公の司馬模を南陽王とした〈高密王泰 附南陽王模伝〉
冬十月、范陽王の司馬虓が薨じた〈范陽王綏 附虓伝〉
長史の劉輿は成都王の司馬穎が鄴人から支持されているので、秘して喪を発せず、詐って台使に詔と称し、夜に、司馬穎に死を賜るとし、二人の子も殺した。司馬穎の官属は先に逃散し、ただ盧志だけが随従し、死んでも離れず、死体を収容して殯をした〈司馬穎伝〉。太傅の司馬越は盧志を召して軍諮祭酒とした〈盧志伝〉
司馬越は劉輿を召そうとし、あるひとが、「劉輿は二心があるようで、近づければ人を汚染します」と言った。やって来たが、司馬越は疎んじた。劉輿はひそかに天下の兵簿及び倉庫・牛馬・器械・水陸の状況を見て、こっそり暗記した。ときに軍国は事案が多く、会議のたび、長史の潘滔より以下、答えられなかった。劉輿は機に応じて受け答えし、司馬越は膝を傾けて付き合い、左長史とし〈劉琨伝 附劉輿伝〉、軍国の務めを、すべて委任した〈未詳〉。劉輿は司馬越に弟の劉琨を派遣して并州を鎮護させ、北面の抑えにして下さいと言った〈劉輿伝〉。司馬越は劉琨を上表して并州刺史とし〈劉琨伝〉、東燕王の司馬騰を車騎将軍・都督鄴城諸軍事とし、鄴を鎮守させた〈新蔡王騰伝〉
十一月己巳の夜、恵帝は餅を食べて毒にあたり、庚午、顕陽殿で崩じた〈恵帝紀〉。羊皇后は太弟の司馬熾の嫂にあたり、太后になれないため、清河王の司馬覃を立てようとした〈懐帝紀及び羊皇后伝〉。侍中の華混は諫め、「太弟が東宮に長くおり、民望は定まっています、軽々しく変更してはいけない」と言った。露版により太傅の司馬越に告げ、太弟を召して〈未詳〉宮殿に入れた。皇后はすでに司馬覃を召して尚書閣に来ており〈懐帝紀〉、異変を感じ、病気と称して引き返した〈未詳〉
癸酉、太弟は皇帝の位に即き、大赦し、皇后を尊び恵皇后とし、弘訓宮に居らせた。母の王才人を追尊して皇太后とした。妃の梁氏を皇后に立てた〈懐帝紀〉
懐帝は当初は旧制に従い、東堂で聴政した。宴会に出るごとに、群官と政務について議論し、経籍について考察した。黄門侍郎の傅宣は歎じて、「今日また武帝の世を見るとは」と言った〈懐帝紀〉
十二月壬午朔、日食があった〈懐帝紀〉
太傅の司馬越は詔書により河間王の司馬顒を徴して司徒とし、司馬顒がやって来た。南陽王の司馬模は将の梁臣に新安で待ち受けさせ、車上で扼殺し、その三子も殺した〈河間王顒伝〉
辛丑、中書監の温羨を左光禄大夫とし、司徒を領させた。尚書左僕射の王衍を司空とした〈懐帝紀〉
己酉、恵帝を太陽陵に葬った〈懐帝紀〉
劉琨が上党に至り、東燕王の司馬騰は井陘から東に下った。このとき并州は飢饉で、しばしば胡族に侵略され、郡県は自存できなかった〈劉琨伝に依る〉。州将の田甄・田甄の弟である田蘭・任祉・祁済・李惲・薄盛らは民一万餘人を遣わし、司馬騰に随って冀州の穀物にすがり、「乞活」と号し〈東海王越伝〉、残りの戸数は二万に満たず、寇賊があばれ、道路は断絶した。劉琨は上党で兵を募り、五百人を得て、転戦して進んだ。晋陽に至ると、役所の建物が焼けて壊れ、原野は物寂しく、劉琨が慰撫すると、流民が集まってきた〈劉琨伝に依る〉

永嘉元(三〇七)年

現代語訳

春正月癸丑、大赦し、改元した〈懐帝紀〉
吏部郎の周穆は、太傅の司馬越の姑子であるが、その妹の夫である御史中丞の諸葛玫とともに司馬越に、「主上が太弟になったのは、張方の考えでした。清河王が本来の太子です、公は彼を即位させなさい」と説いた。司馬越は許さなかった。重ねて言うと、司馬越は怒って、これを斬った〈東海王越伝に依る〉
二月、王弥が青・徐二州を侵略し、征東大将軍を自称し、二千石を攻めて殺した。太傅の司馬越は公車令である東萊の鞠羨を出身郡の太守とし、王弥を討伐させたが、王弥はこれを殺した〈前趙録 王弥伝〉
陳敏の刑罰や政治は明らかでなく、英雄たちは味方しなかった。子弟は凶暴であり、現地で患いとなった。顧栄・周玘らは憂いた。廬江内史の華譚が顧栄らに文書を送り、「陳敏は呉会の地を盗み取ったが、命は朝露よりも危うい。諸君は名郡の割符を預かったり、朝臣として列席したりしたが、身を奸人の政権に辱め、節を叛逆の一味に降し、恥ずかしくないのか。呉の武烈(孫堅)の父子はいずれも英傑の才であり、大業を継承した。いま陳敏は狡賢い賊で、七弟は頑迷でありながら、桓王(孫策)や、大皇(孫権)をまねて、遠くから諸賢を招いており、とても許容できない。皇帝が(長安から洛陽に)東帰し、俊才が朝廷に満ちて、六師を挙げて建業を平定しようとしている、諸賢はどのような顔で中原の士と向き合うのか」と言った。顧栄らは陳敏に服従せぬ意思があったが〈華譚伝に依る〉、この文書を受け取ると、とても恥ずかしく思い、秘かに征東大将軍の劉准に連絡し、兵を発して江水に臨ませた。己は内応し、髪を切って誓いを立てた。劉准は揚州刺史の劉機らを派遣して歴陽に出て陳敏を討伐させた。陳敏は弟である広武将軍の陳昶に兵数万を率いて烏江に駐屯させ、歴陽太守の陳宏は牛渚に駐屯した。陳敏の弟である陳処は顧栄らに二心があるのを知り、陳敏に殺害せよと勧めたが、陳敏は従わなかった〈『資治通鑑考異』に依り『晋春秋』に従う〉
陳昶の司馬である銭広は、周玘と同郡の人であるが、周玘は秘かに銭広に陳広を殺害させて、州下に向けてすでに陳敏を殺したから、敢えて動けば三族を誅すると宣言した。銭広は兵を朱雀橋の南にまとめた〈陳敏伝〉。陳敏は甘卓に銭広を討伐させ〈甘卓伝〉、精兵を全て彼に委ねた〈顧栄伝〉。顧栄は陳敏に疑われることを心配し、陳敏のもとに行った。陳敏は、「あなたは四方で守りを固めるべきなのに、なぜ私のもとに来たのか」と行った。顧栄が退出してから〈未詳〉、周玘と〈周玘伝に依る〉共に甘卓に説いて、「もし江東の事態を成就させられるなら、ともに実行しよう。しかしきみが事態を見るに、成功するだろうか。陳敏の才覚は平凡で、政令は覆り、計略は定まらず、子弟は驕慢であり、その失敗は必定である。しかしわれらは陳敏から官禄を受けており、失敗したら、江西の諸軍は首を箱に入れて洛陽に送り、逆賊の顧栄・甘卓の首と書かれる、これこそ万世の恥辱ではないか」と言った〈顧栄伝〉。甘卓は病気と詐り、娘を迎え、橋を落とし、船を南岸に集め〈甘卓伝〉、周玘・顧栄及び前松滋侯相である丹楊の紀瞻とともに陳敏を攻めた〈未詳〉
陳敏は自ら一万餘人を率いて甘卓を討ったが、軍人は川を隔てて陳敏の兵に、「もともと陳公のために力を尽くしたのは、顧丹楊(顧栄)・周安豊(周玘)だけだ。いま二人とも離叛した、お前たちはどうしようというのだ」と言った。陳敏の兵は動揺して決断できなかったが〈未詳〉、顧栄が白羽扇を振るうと、兵はみな潰走した。陳敏は単騎で北に逃げた〈陳敏伝〉。追って彼を江乗で捕らえ、歎じて、「諸人に道を誤らされ、今日のようになったのだ」と言った。弟の陳処に、「私がきみに負(そむ)いた、きみが私に負いたのではない」と言った〈未詳〉。こうして陳敏を建業で斬り、夷三族とした〈周玘伝〉。ここにおいて会稽らの郡は尽く陳敏の弟たちを殺した〈陳敏伝〉
このとき平東将軍の周馥が劉准に代わって寿春に出鎮した〈周馥傳〉。三月己未朔、周馥は陳敏の首を京師に届けた〈懐帝紀に依る〉。詔して顧栄を徴して侍中とし、紀瞻を尚書郎とした〈紀瞻伝〉。太傅の司馬越は周玘を辟して参軍とし、陸玩を掾とした。陸玩は、陸機の従弟である〈陸玩伝〉。顧栄らは徐州に至り、北方の乱が悪化していると聞き、進むまいか悩み、司馬越は徐州刺史の裴盾に文書を与え、「もし顧栄が状況を見守ろうとしたら、軍礼で引っ立てろ」と言った。顧栄らは懼れ、逃げ帰った〈紀瞻伝〉。裴盾は、裴楷の兄の子であり、司馬越の妃の兄である〈未詳〉
西陽夷が江夏を侵略し、太守の楊珉は督将に議論を命じた。諸将は争って方略を述べたが、騎督の朱伺だけが発言しなかった。楊珉は、「朱将軍はなぜ発言しないのか」と言った。朱伺は、「諸人は口先で賊を撃っているが、私は力を行使するだけだ」と言った。楊珉はさらに、「将軍は前後に賊を攻撃してきたが、なぜ常勝なのか」と質問した。朱伺は、「二者が拮抗したとき、忍耐をするのです。あちらが耐えられず、こちらが耐える。それで勝てます」と言った。楊珉はこれを善しとした〈朱伺伝〉
詔して追って楊太后の尊号を回復した。丁卯、改葬し、武悼と謚した〈后妃伝〉
庚午、清河王の司馬覃の弟である豫章王の司馬詮を皇太子に立てた。辛未、大赦した〈懐帝紀に依る〉
懐帝が自ら政治を見て、多くのことを気に留めた。太傅の司馬越は面白くなく、強く藩国への赴任を求めた。庚辰、司馬越は許昌に出鎮した〈東海王越伝に依る〉
高密王の司馬略を征南大将軍、都督荊州諸軍事とし、襄陽を鎮守させた。南陽王の司馬模を征西大将軍、都督秦・雍・梁・益四州諸軍事とし、長安を鎮守させた。東燕王の司馬騰を新蔡王とし、都督司・冀二州諸軍事として、鄴を鎮守させた〈懐帝紀〉
公師藩が死ぬと、汲桑は逃げて苑中に還り、改めて兵を集めて郡県を劫掠し、大将軍を自称し、成都王の敵討ちを唱えた。石勒を前駆として、向かうところを破り、石勒を掃虜将軍に署し、進んで鄴県を攻めた。ときに鄴の府庫は空っぽで、だが新蔡武哀王〈この五字は載記石勒伝に依り、後趙録は東瀛公に作る〉の司馬騰は財物がとても豊かであった。司馬騰はけちで、振給せず、事態が切迫しても、将士に米数升ずつ、帛を丈尺ずつを賜与するだけで、人々にとって足りなかった。夏五月、汲桑はおおいに魏郡太守の馮嵩を破り、長駆して鄴に入り、司馬騰は軽騎で脱出し、汲桑の将の李豊に殺された。汲桑は成都王の司馬穎の棺を出し、馬車に乗せ、ことあるごとに報告してから実行した。鄴の宮殿を焼き、火は十日間消えなかった。士民一万餘人を殺し、大いに掠めてから去った。延津から渡り、南のかた兗州を撃った。太傅の司馬越は大いに懼れ、苟晞及び将軍の王讃らにこれを討伐させた〈後趙録 石勒伝〉
秦州の流民である鄧定・訇氐らは成固に拠り、漢中に侵略し、梁州刺史の張殷は巴西太守の張燕に討伐させた。鄧定らは窮迫し、詐って張燕に降服し、賄賂をしたので、張燕は軍の警戒を緩めた。鄧定はひそかに訇氐を送って成に助けを求め、成主の李雄は太尉の李離・司徒の李雲・司空の李璜に兵二万を率いて訇氐を救援させた。張燕と戦い、大いにこれを破り、張殷及び漢中太守の杜孟治は城を棄てて逃げた〈蜀録 李雄伝〉。十餘日たち〈この日数は李雄伝にない〉、李離らは撤退し、ことごとく漢中の民を蜀に移した。漢中の人である句方・白落は吏民を連れて還って南鄭を守った〈李雄伝に依る〉
石勒は苟晞らとともに平原・陽平の間で対峙し、数ヶ月間に、大小の三十餘の戦いは、引き分けた。秋七月己酉朔、太傅の司馬越は官渡に駐屯し、荀晞を援護した〈後趙録 石勒伝〉
己未、琅邪王の司馬睿を安東将軍、都督揚州江南諸軍事、仮節とし、建業を鎮守させた〈懐帝紀〉
八月己卯朔、苟晞は汲桑を東武陽で撃ち、大いにこれを破った。汲桑は退いて清淵をとりでとした。荊州・江州の八郡を分けて湘州とした〈懐帝紀に依る〉
九月戊申、琅邪王の司馬睿は建業に到着した〈元帝紀〉。司馬睿は安東司馬の王導を謀主とし、誠意を持って信頼し、万事を相談した。司馬睿の声望は軽く、呉人は味方せず、しばらく居ても、士大夫が訪問してくれないから、王導はこれを心配した。ちょうど司馬穎がお祓いを視察するとき、王導は司馬睿を肩輿に乗せ、威儀を整え、王導は現地の名士たちと騎馬で従ったので、紀瞻・顧栄らはこれを見て驚き、連れだって道路で拝謁した。王導は司馬睿に、「顧栄・賀循は、この地の名望家であり、彼らを招けば支持を得られます。この二人さえ出てきたら、残りの人は集まってきます」と言った。司馬睿は王導に賀循・顧栄を迎えさせ、二人は命令に応じてやって来た〈王導伝〉。賀循を呉国内史とした〈賀循伝〉。顧栄を軍司とし、散騎常侍を加え、軍府のの政事は、みな彼らに相談した〈顧栄伝に依る〉。紀瞻を軍祭酒とし〈紀瞻伝〉、卞壺を従事中郎とし〈汴壺伝〉、周玘を倉曹属とし〈周玘伝〉、琅邪の劉超を舎人とし〈劉超伝〉、張闓〈張闓伝〉及び魯国の孔衍を参軍とした〈儒林 孔衍伝〉。汴壺は、汴粋の子である〈汴壺伝〉。張闓は、張昭の曾孫である〈張闓伝〉。王導は司馬睿に、「謙って士人に接し、費用を節約し、政治を清めれば、新旧ともに協力してくれる」と言った〈王導伝に依る〉。ゆえに江東の人々は心を寄せた〈元帝紀〉。司馬睿が到着したばかりのとき、司馬睿は酒飲みであったが、王導が助言し、司馬睿が酒を注げと命じても、さかずきを手で覆ったから、酒を飲むのを止めた〈未詳〉
苟晞は汲桑を追撃し、その八塁を破り、死者は一万餘人であった。汲桑は石勒とともに残兵を集め、漢に逃げようとしたが、冀州刺史である譙国の丁紹が赤橋で迎え撃ち、これを破った。汲桑は馬牧に逃げ、石勒は楽平に逃げ込んだ〈後趙録 石勒伝〉。太傅の司馬越は許昌に還り、苟晞に撫軍将軍・都督青・兗諸軍事を加え〈荀晞伝〉、丁紹を寧北将軍、監冀州諸軍事とし、どちらも仮節とした〈丁紹伝〉
荀晞はしばしば強敵を破り、威名が盛んであり〈荀晞伝〉、難しい地を統治し、法の運用は厳峻であった。従母が彼を頼ると、荀晞は手厚く仕えた。従母の子が将になりたいと求めたが、荀晞は許さず、「私は王法を私的に利用しない、きっと後悔するから」と言った。それでも強く要請したから、荀晞は督護にしてやった。のちに法を犯し、荀晞はこれを裁いて処断とし、従母が叩頭して助命したが、許さなかった。素服して哭し、「あなたを殺すのは、兗州刺史である。弟のために哭するのは、(私人としての)苟道将である」と言った〈荀晞伝〉
胡の部大(部族の長)である張㔨督・馮莫突らは、兵数千を擁し、上党に籠もり、石勒は訪問して、張㔨督らに、「劉単于は挙兵して晋を撃ち、部大は拒んで従わないが、独立を貫けると思っているのか」と説いた。「無理だ」。石勒は、「それならなぜ早く従属しない。いま部落たちは単于から募兵され報酬を受け取り、集まっては、部大から離叛して単于に帰順する相談をしているぞ」と言った。張㔨督らはその通りだと思った。冬十月、張㔨督らは石勒に随って単騎で漢に帰属し、漢王の劉淵は㔨督を親漢王とし、莫突を都督部大とし、石勒を輔漢将軍・平晋王とし、これを統括させた〈後趙録 石勒伝〉
烏桓の張伏利度は兵二千を持ち、楽平に籠もり、劉淵がしばしば招いたが、やって来なかった。石勒は偽って劉淵政権で罪を犯したとし、伏利度に帰服した。伏利度は喜び、兄弟の誓いを結び、石勒に諸胡をひきいて(周囲を)攻略をさせ、全戦全勝し、諸胡は畏服した。石勒は支持が集まったのを見届けてから、伏利度を拘束し、諸胡に、「いま大いなる事業を始めるにあたり、私と伏利度のどちらを盟主にする」と問いかけた。諸胡は石勒を担いだ。ここにおいて石勒は伏利度を説き伏せ、兵を率いて漢に帰属させた。劉淵は石勒に督山東征諸軍事を加え、伏利度の兵を配下に付けた〈後趙録 石勒伝〉
十一月戊申朔、日食が起きた〈懐帝紀〉
甲寅、尚書右僕射の和郁を征北将軍とし、鄴を鎮守させた〈懐帝紀〉
乙亥、王衍を司徒とした。王衍は太傅の司馬越に、「朝廷は安貞せず、地方官に頼るしかない。文武を兼ね備えたひとを任命しなさい」と言った。弟の王澄を荊州都督とし、族弟の王敦を青州刺史とし、彼らに、「荊州は江水・漢水の堅固さがあり、青州は海を背にした険しい地であり、きみら二人が地方におり私が中央におれば、三窟(戦国策の言葉)となれる」と言った〈王衍伝〉。王澄は鎮所に至り、郭舒を別駕とし、府事を委任した。王澄は日夜に酒にふけり、実務をせず、外敵が迫っても、気に留めなかった。郭舒はいつも厳しく諫め、民を愛し兵を養えば、州土を保全できると言ったが、王澄は従わなかった〈未詳〉
十二月戊寅、乞活の田甄・田蘭・薄盛らが起兵し、新蔡王の司馬騰の報仇を唱え、汲桑を楽陵で斬った〈懐帝紀〉。成都王の司馬穎の棺を井戸に投げ入れ、司馬穎の故臣は収容して埋葬した〈成都王穎伝〉
甲午、前太傅の劉寔を太尉とし、劉寔は老齢なので固辞したが、許さなかった〈劉寔伝〉。庚子、光禄大夫の高光を尚書令とした〈懐帝紀〉
前北軍中候の呂雍・度支校尉の陳顔らは、清河王の司馬覃を太子に立てようと計画した。発覚し〈未詳〉、太傅の司馬越は詔を偽造して司馬覃を金墉城に収容した〈懐帝紀及び司馬越伝〉
これより先、太傅の司馬越は苟晞と仲がよく、招いて堂に昇り、兄弟の誓いをした。司馬の潘滔が司馬越に、「兗州は要衝であり、魏武(曹操)がここで創業しました。苟晞には大志があり、純臣ではなく、長く居らせれば、野心を持つでしょう。もし青州に移せば、名前の格が上がるので、荀悦は悦ぶはず。あなたが自ら兗州牧となり、中原を統括して、朝廷の垣根となり、これこそ戦乱を予防する措置と言えましょう」と言った。司馬越は同意した〈荀晞伝に依る〉。癸卯、司馬越は自ら丞相となり、兗州牧、都督兗・豫・司・冀・幽・并諸軍事を領した。荀晞を征東大将軍・開府儀同三司とし、侍中・仮節・都督青州諸軍事を加え、青州刺史を領し、東平郡公に封じた〈荀晞伝〉。司馬越・荀晞はこれにより対立を含んだ〈東海王越伝〉
荀晞は青州に至り、厳格であり威信を確立し、毎日のように死刑を執行し、州人は「屠伯」と呼んだ。頓丘太守の魏植は流民に迫られ、兵五六万で、大いに兗州を掠めたが、荀晞は無塩に駐屯して討伐した。弟の荀純に青川を領させると、刑殺は荀晞よりもひどかった。荀晞は魏植を討伐し、これを破った〈荀晞伝〉
これより先、陽平の劉霊は、若いとき貧賤で、力は奔牛をおさえ、走れば奔馬に追いつき、みなから注目されたが、活躍の場がなかった。劉霊は胸を撫でて、「天よ、どうして乱を起こすのだ」と歎じた。公師藩が起つと、劉霊は将軍を自称し、趙・魏を侵略した。このとき王弥が苟純に破られ、劉霊もまた王讃に破られ、まとめて漢に降服した〈前趙録 劉霊伝〉。漢は王弥を拝して鎮東大将軍・青徐二州牧・都督縁海諸軍事とし、東萊公に封じた〈前趙録 王弥伝〉。劉霊を平北将軍とした〈劉霊伝〉
李釗が寧州に至り、州人は李釗を奉じて州事を領させた。治中の毛孟は京師に至り、刺史を任命してくれと求め、しきりに上奏したが、省みられなかった。毛孟は、「君が亡び親が喪し、窮城に幽閉され、万里から哀訴したが、無視をされるなら、死んでいるも同然だ」と言った。自刎しようとし、朝廷はこれを憐れみ、魏興大守の王遜を寧州刺史とし〈王遜伝に依る〉、交州に詔して兵を出して李釗を救わせた。交州刺史の吾彦は子の吾咨を送って兵をひきいてこれを救わせた〈未詳〉
慕容廆が鮮卑大単于を自称した〈前燕録 慕容廆伝〉。拓跋禄官が卒し、弟の猗盧が三部を総括し、慕容廆と外交を結んだ〈前燕録 慕容廆伝〉

永嘉二(三〇八)年

現代語訳

春正月丙午朔、日食が起きた〈懐帝紀〉
丁未、大赦した〈懐帝紀〉
漢王の劉淵は撫軍将軍の劉聡ら十将を南に向かわせて太行山脈を拠点とし、輔漢将軍の石勒ら十将を東のかた趙・魏に向かわせた〈前趙録 劉淵伝〉
二月辛卯、太傅の司馬越が清河王の司馬覃を殺した〈懐帝紀〉
庚子、石勒が常山を侵略し、王浚がこれを撃破した〈懐帝紀〉
涼州刺史の張軌が風疾により、言語が不自由になり、子の張茂の政治を代行させた。隴西内史である晋昌の張越は、涼州の豪族であるが、張軌を追い落とそうと、兄である酒泉太守の張鎮及び西平太守の曹祛とともに、使者を長安に送って南陽王の司馬模に連絡をとり、張軌は病気が悪いので、秦州刺史の賈龕に交替させなさいと言った。賈龕が拝命しようとすると、兄は賈龕に、「張涼州(張軌)は当世の名士であり、権威が西州にあらわれ、あなたでは後任が務まらぬ」と言った。賈龕は思い止まった。張鎮・曹祛は上疏し、あらためて刺史の任命を求めたが、返答がなかった。とうとう檄を回付して張軌を廃位し、軍司の杜耽に代行させ、杜耽に上表させて張越を刺史にするよう朝廷に求めた〈前涼録 張軌傳〉。 張軌は文書を下し、位を譲り、宜陽に引退しようとした。長史の王融・参軍の孟暢は張鎮の檄文をへし折り、門をくぐって、「晋王朝は混乱しているが、明公は河西の地を安定させてきました、張鎮の兄弟は凶逆をはたらいています、軍鼓を鳴らして誅殺しなさい」と進言した。退出し、戒厳を布いた。このとき張軌の長子である張寔が京師から還ってきたので、張寔を中督護とし、兵を率いて張鎮を討伐させた。張鎮の甥である太府主簿の令狐亜が先に赴いて張鎮を説得し、利害を述べると、張鎮は流涕し、「他人のせいで道を誤った」と言った。張寔のもとに出頭して罪を引き受けた。張寔は南のかた曹祛を攻撃し、彼は逃げた〈前涼録 張軌傳〉
朝廷は張鎮・曹祛の疏を受けて、侍中の袁瑜を涼州刺史とした。治中の楊澹が長安に駆けつけ、耳を切り落として皿に置き、張軌への誹謗があったと説いた。南陽王の司馬模は上表して袁瑜の任命を止め、武威太守の張琠もまた張軌の留任を上疏した。詔して司馬模の上表に基づき、曹祛を誅殺せよと命じた。ここにおいて張軌は張寔に命じて歩騎三万を率いて曹祛を討伐し、これを斬った。張越は鄴に逃げ、涼州は鎮まった〈前涼録 張軌傳〉
三月、太傅の司馬越が鎮所を許昌から鄄城に遷した〈懐帝紀〉
王弥が逃走したひとを集め、軍の勢いが復活した。諸将を分けて派遣して青・徐・兗・豫四州を攻略し、通過したところで郡県を陥落させ、多く守令を殺し、兵は数万にふくれた。苟晞が連戦したが、勝てなかった〈前趙録 王弥伝〉。夏四月丁亥、王弥が許昌に入った〈懐帝紀〉
太傅の司馬越は司馬の王斌に甲士五千人を率いて京師を防衛させ、張軌もまた督護の北宮純を派遣して京師を護衛させた。五月〈五月という二字は懐帝紀より取る〉、王弥が轘轅から入り、官軍を伊北で破り、京師はおおいに震え、宮城の門は昼でも閉ざされた。壬戌、王弥が洛陽に至り、津陽門に駐屯した。詔して王衍を都督征討諸軍事とした。甲子、王衍は王斌らとともに出撃し、北宮純は勇士百餘人を募って陣に突撃し、王弥の軍は大いに敗れた。乙丑、王弥は建春門を焼いて東に向かい、王衍は左衛将軍の王秉に追撃させ、七里澗で戦い、またもやこれを破った〈前趙録 王弥伝〉
王弥は逃げて渡河し、王桑とともに軹関から平陽に行った。漢王の劉淵は侍中兼御史大夫に郊外へ出迎えさせ、令して、「私がみずから将軍の館にゆき、席を整えて爵を洗い、将軍をもてなそう」と言った。到着すると、司隸校尉を拝し、侍中・特進を加え、王桑を散騎侍郎とした〈前趙録 王弥伝〉
北宮純らは漢の劉聡と河東で戦い、これを破った。詔して張軌を西平郡公に封じたが、張軌は辞退して受けなかった。このとき州郡からの使者は、到達する者がおらず、張軌のみが財物を納入し、年月ごとに絶えなかった〈載記 張軌伝に依る〉
秋七月甲辰、漢王の劉淵が平陽を侵略し、太守の宋抽が郡を棄てて逃げ、河東太守の路述が戦死した〈懐帝紀及び前趙録 劉淵伝〉。劉淵は都を蒲子に移した。上郡鮮卑の陸逐延・氐酋の単征はどちらも漢に降服した〈前趙録 劉淵伝〉
八月丁亥、太傅の司馬越は鄄城から濮陽に移った。ほどなく、栄陽に移った〈東海王越伝〉
九月、漢の王弥・石勒が鄴を侵略し、和郁は城を棄てて逃げた。豫州刺史の裴憲に詔して白馬に駐屯して王弥を防がせ、車騎将軍の王堪に東燕に駐屯して石勒を防がせ、平北将軍の曹武に大陽に駐屯して〈未詳〉蒲子に備えさせた〈王弥伝に依る〉。裴憲は、裴楷の子である〈裴楷伝に依る〉
冬十月甲戌、漢王の劉淵が皇帝の位に即き、大赦し、永鳳と改元した。十一月、子の劉和を大将軍とし、劉聡を車騎大将軍とし、族子の劉曜を龍驤大将軍とした〈前趙録 劉淵伝〉
壬寅、并州刺史の劉琨が上党太守の劉惇に鮮卑を率いて壺関を攻撃させ、漢の鎮東将軍の綦毋達が戦って亡命してきた〈未詳〉
丙午、漢の都督中外諸軍事・大司馬・領丞相右賢王である劉宣が卒した〈未詳〉
石勒・劉霊は兵三万で魏郡・汲郡・頓丘を侵略し、風に靡くように五十餘塁が降服して帰順した。みな塁の当主に将軍・都尉の印綬を仮にあたえ、強壮な五万人を選んで兵士とし、老人や病弱なものは従来どおり安堵した。己酉、石勒は魏郡太守の王粋を三台で捉え、これを殺した〈後趙録 石勒伝〉
十二月辛未朔、大赦した〈懐帝紀〉
乙亥、漢主の劉淵は大将軍の劉和を大司馬とし、梁王に封じた。尚書令の歓楽を大司徒とし、陳留王に封じた。皇后の父である御史大夫の呼延翼を大司空とし、雁門郡公に封じた。宗室であれば親疏に関わりなく郡県王に封じ、異姓は功績により郡県公侯に封じた〈前趙録 劉淵伝〉
成の尚書令の楊褒が卒した。楊褒は直言を好み、成主の李雄が蜀を得たばかりのとき、財源が不足し、諸将は金銀を納めると官職をもらえたが、楊褒が諫めて、「陛下が官爵を与える相手は、天下の英豪で満たすべきであり、売官してはいけません」と言った。李雄は謝った。李雄が酔ったとき、中書令に命じて太官令を杖で打たせ、楊褒が進み出て、「天子が穆穆として温和であれば、諸侯は皇皇として威信が輝きます、天子が酒乱でよいのですか」と言った。李雄は恥じて止めた〈蜀録 楊褒伝〉
成の平寇将軍の李鳳が晋寿に駐屯し、しばしば漢中を侵略し、漢中の民は〈未詳〉東のかた荊沔に逃散した〈蜀録 李雄伝〉。詔して張光を梁州刺史とした〈張光伝に依る〉。荊州の寇賊や盗賊を取り締まることができず、詔して劉璠を順陽刺史としたところ、江水・漢水の一帯はそろって帰順した〈劉弘伝〉