いつか読みたい晋書訳

資治通鑑_晋紀十 孝懐皇帝下・孝愍皇帝上(三一二-三一三)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
作業手順は、以下の1.~4.の通りです。ここに掲載しているのは、翻訳の準備として、1.維基文庫をとりあえず現代語訳して大意をつかみ、4.『資治通鑑証補』の指摘を拾って赤文字で示す、という作業段階のものです。今後、精度を上げます。
1.維基文庫で、『資治通鑑』のテキストを取得。/2.中華書局の『資治通鑑』を底本とし、テキストを修正。/3.胡三省注、『資治通鑑考異』で内容理解を深める。/4.現代語訳をする際は、『資治通鑑』(続国訳漢文大成)、『和刻本資治通鑑』を参考とする。頼惟勤・石川忠久編『資治通鑑選』(中国古典文学大系14、平凡社)に収録されている部分はこれを参照する。/5.石川安貞『資治通鑑証補』(蓬左文庫)が正史等の出典を概ね示しているため、そのまま引用。同書が空格(空欄)としているものは、追加検証しない。6.初出の語彙には、読みがな(ルビ)を付す。

永嘉六(三一二)年

現代語訳

春正月、漢の呼延后が卒し、武元と謚した〈前趙録 劉聡伝〉
漢の鎮北将軍の靳沖・平北将軍の卜珝が并州に侵攻した。辛未、晋陽を包囲した〈前趙録 劉聡伝〉
甲戌、漢主の劉聡は司空の王育・尚書令の任顗の娘を左・右昭儀とし、中軍大将軍の王彰・中書監の范隆・左僕射の馬景の娘をいずれも夫人とし、右僕射の朱紀の娘を貴妃とし、すべて金印紫綬とした。劉聡が太保の劉殷の娘を娶ろうとすると、太弟の劉乂が固く諫めた。劉聡は太宰の延年・太傅の景に質問すると、二人は、「太保は劉康公の子孫を自称し、陛下と祖先が異なるため、娶ることは問題ありません」と言った。劉聡は悦び、劉殷の二人の娘である英・娥を左・右貴嬪とし、位は昭儀の上とした。さらに劉殷の孫娘四人を貴人とし、位は貴妃に次ぐものとした。ここにおいて六劉への寵愛が後宮を傾け、劉聡はめったに出てこず、政事は専ら中黄門が決裁した〈劉聡伝〉
もと新野王の司馬歆の牙門将である胡亢は民を竟陵で集め、楚公を自号し、荊土を侵略し、司馬歆の南蛮司馬である新野の杜曾は竟陵太守となった。杜曾(の武勇)は三軍筆頭であり、鎧を着たまま水中を泳げた〈晋書 杜曾伝〉
二月壬子朔、日食が起きた〈懐帝紀〉
石勒は葛陂に塁を築き、農耕し船を建造して、建業を攻めようとした。琅邪王の司馬睿は大いに江南の兵を寿春に集め、鎮東長史の紀瞻を揚威将軍とし、諸軍を都督してこれを討伐させた〈後趙録 石勒伝〉
ちょうど大雨が降り、三ヶ月止まず、石勒の軍に餓えと病が起こり、大半が死に、晋軍の接近を聞き、将佐を集めて会議した。右長史の刁膺は司馬睿に和親の使者を送り、河朔を平定して罪を償うことを約束し、軍の撤退を待ち、出直そうと言ったが、石勒は悲しそうに歌を吟じた。中堅将軍の高台に登って水を避けようといい、石勒は、「将軍は何と臆病なことか」と言った。孔萇ら三十餘将はそれぞれ兵を連れ、道を分かれて拠るに寿春を攻めて呉将の頭を斬り、その城に拠って、敵軍の備蓄を食い、今年に丹陽を破れば、江東を平定できると言った。石勒は笑って、「それは勇将の計だな」と言った。それぞれ鎧馬一匹を賜わった。(石勒は)張賓を顧みて、「どう思う」と聞いた。張賓は、「将軍は京師(洛陽)を攻め落とし、天子を捕らえ、王公を殺害し、妻や妃を奪って娶った。将軍の髪を抜いても、将軍の罪を数えるには足りず、再び晋王朝に臣従できましょうか。去年すでに王弥を殺し、こうしてはいけません。いま天は数百里に大雨を降らせ、将軍はここに留まってはいけません。鄴は三つの宮殿があって守りが固く、西は平陽に接し、山河は四方が塞がり、北上してここに拠り、河北を経営すべきで、河北を平定したら、天下に将軍より優れた者はいなくなります。晋が寿春を守っているのは将軍の進攻を畏れているからです。われらが去ったと聞けば、防衛成功を喜ぶだけで、われらを追撃し、不利をもたらすことはありません。軍事物資を先に北へと運び出し、将軍は大軍を率いて寿春に向かいなさい。物資を運び終えてから、ゆっくり撤退すれば、万全のかたちで収束させられます」と言った。石勒は腕まくりして髯を震わせ、「張君の計は素晴らしい」と言った。刁膺を責めて、きみは補佐であり、ともに大功を成すべきを、なぜ私に(晋への)降服を勧めたのか。斬刑にすべきだ。だがきみは普段から臆病だから、特別に見逃してやる」と言った。刁膺を排斥して将軍とし、張賓を右長史に抜擢し、右侯と号した〈後趙録 石勒伝〉
石勒は兵を率いて葛陂を出発し、石虎に騎二千を率いて寿春に向かわせて晋の輸送線と遭遇し、石虎の将士は争ってこれを奪い、紀瞻に破られた。紀瞻は百里を追撃し、石勒の軍と接触し、石勒は陣を組んで待ち構えた。紀瞻は敢えて攻撃せず、寿春に撤退した〈後趙録 石勒伝〉
漢主の劉聡は懐帝を会稽郡公に封じ、儀同三司を加えた。劉聡は落ち着いて懐帝に、「あなたは豫章王だったとき、朕は王武子(王済)とともに訪問し、武子は朕をあなたに紹介すると、あなたはその名を聞いて久しいと言い、柘弓と銀研を贈ったが、記憶にあるか」と質問した。懐帝は、「忘れましょうか。だがあなたの龍顔を識別するのが遅れたことが残念だ」と言った。劉聡は、「あなたの親族はなぜあれほど無残に争ったのか」と言った。懐帝は、「大漢が天命を受けるので、陛下のために自滅したのです、これは天意であり、人の関知せぬこと。もし武皇帝の事業を継承し、九族が睦まじければ、陛下は今日を得られたでしょうか」と言った。劉聡は喜び、小劉貴人を懐帝の妻とし、「これは名公の孫である、可愛がってくれ」と言った〈前趙録 劉聡伝〉
代公の猗盧が晋陽に援軍を出し、三月乙未、漢軍が敗走した。卜珝の兵卒が先に逃げたので、靳沖が勝手に卜珝を捕らえ、これを斬った。劉聡は大いに怒り、使持節に靳沖を斬らせた〈劉聡伝〉
劉聡は舅の子である輔漢将軍の張寔の二人の娘である徽光・麗光を貴人とし、太后の張氏(劉淵の側室、劉聡の生母)の意向であった〈劉聡伝〉。 涼州主簿の馬魴は張軌に、「将に命じて軍を出し、帝室を奉戴せよ」と説いた。張軌はこれに従い、関中に檄を回付し、ともに晋王を補佐し、「前鋒督護の宋配が歩騎二万を率い、まっすぐ長安に向かう。西中郎将の張寔が中軍三万を率い、武威太守の張琠が胡騎二万を率い、後に続くだろう」と宣言した〈前涼録 張軌伝〉
夏四月丙寅、征南将軍の山簡が卒した〈懐帝紀〉
漢主の劉聡は子の劉敷を渤海王、劉驥を済南王、劉鸞を燕王、劉鴻を楚王、劉勱を斉王、劉権を秦王、劉操を魏王、劉持を趙王に封建した〈前趙録 劉聡伝〉
劉聡は魚と蟹を供さなかったとして、左都水使者である襄陵の王攄を斬った。温明・徽光二殿が完成せず、将作大匠である望都公の靳陵を斬った。汾水で漁のを観察し、真夜中まで帰らなかった。中軍大将軍の王彰が諫め、「最近の陛下を見て、私は心も頭も痛いです。愚民の漢への帰属意識は完全でなく、依然として晋を慕っています。劉琨は間近におり、刺客を自在に使います。帝王が軽率に外出すれば、たった一人の男に殺されます。陛下が行動を改めれば、億兆の民にとって幸いです」と言った。劉聡は大いに怒り、斬れと命じた。王夫人が叩頭して助命し、(王彰は殺害は免れたが)捕らえられた。太后の張氏は劉聡の刑罰が重すぎるので、三日間の断食をした。太弟の劉乂・単于の劉粲は棺を引いて切諫した。劉聡は怒り、「私は夏の桀王・殷の紂王で、お前らはただの泣き虫か」と言った。太宰の延年・太保の殷ら公卿・列侯の百餘人は、みな冠を脱いで涕泣し、「陛下は功は高く徳は厚く、不世出の人君であり、往時の唐尭・虞舜は、今日の陛下です。しかし近年は小さなことで、さっさと王公を斬ります。直言すれば機嫌を損ね、にわかに大将を捕らえます。私たちが承服できず、心配していることで、寝食もままなりません」と言った。劉聡は憤り歎いて、「朕は昨日は酔いすぎた、本心ではなかった、言ってもらわねば、過ちに気づかなかった」と言った。それぞれ帛百匹を賜り、侍中に持節させて王彰を赦し、「先帝はあなたを左右の手のように頼り、二世に功績が表れ、朕は忘れていない。今回の過失は、見逃してほしい。国家を思ってくれるのは、ありがたいことだ。きみを驃騎将軍・定襄郡公に進め、これからも、気づいたことは言ってくれ」と言った〈前趙録 劉聡伝〉
王弥が死ぬと、漢の安北将軍の趙固・平北将軍の王桑は石勒に吸収されることを恐れ、平陽に撤退しようとした。軍糧が乏しく、士卒が食らいあい、コウ磽津から西に渡り、河北の郡県から掠奪した〈前趙録 劉聡伝〉。劉琨は兄の子である劉演を魏郡太守とし、鄴を鎮守させ、趙固・王桑は劉演に迎撃されることを恐れ、長史の臨深を劉琨に人質に出した。劉琨は趙固を雍州刺史とし、王桑を豫州刺史とした〈未詳〉
賈疋らが長安を数ヶ月囲み、漢の中山王の劉曜は連戦連敗し、士女八万餘口を駆り立て、平陽に連れ去った〈前趙録〉。秦王の司馬業は雍から長安に入った〈懐帝紀〉。五月、漢主の劉聡は劉曜を龍驤大将軍、行大司馬に降格した。劉聡は河内王の劉粲に傅祗を三渚で攻撃させ、右将軍の劉参に郭黙を懐で攻撃させた。ちょうど傅祗が病死し、城は陥落し、劉粲は傅祗の子孫と士民二万餘戸を平陽に移した〈前趙録 劉聡伝〉
六月、漢主の劉聡は貴嬪の劉英を皇后に立てようとした。張太后は貴人の張徽光を立てたがり、劉聡はやむを得ず、承諾した。ほどなく劉英は卒した〈劉聡伝〉
漢の大昌文献公の劉殷が卒した。劉殷は相になると、面と向かって反対せず、劉聡のやり方に沿って、多くを補った。漢主の劉聡が郡臣と政事を議論するとき、劉殷は意見を述べなかった。郡臣が退出すると、劉殷だけが残り、条理を説明して、良案を検討し、劉聡は従わぬことがなかった。劉殷はつねに子孫に、「君主に仕えるなら穏やかに諫めるべきだ。凡人ですら正面から批判してはならぬ、万乗の君であれば尚更だ。穏やかに諫めれば、面目を潰さず、君主の過ちを明らかにせず、それとなく導くのだ」と戒めた。官位は侍中・太保・録尚書に至り、剣履上殿・入朝不趨・乗輿入殿の特典を賜った。しかし劉殷が公卿のなかでは、真面目で謙遜し、ゆえに暴虐な国家において、富貴を保ち、令名を失わず、寿命を終えられたのである〈劉聡伝〉
漢主の劉聡は河間王の劉易を車騎将軍とし、彭城王の劉翼を衛将軍とし、兵を掌って宿衛させた。高平王の劉悝を征南将軍とし、離石に出鎮させた。済南王の劉驥を征西将軍とし、西平城を築きてそこに居らせた。魏王の劉操を征東将軍とし、蒲子を鎮守させた〈劉聡伝〉
趙固・王桑は懐から漢に迎えを求め、漢主の劉聡は鎮遠将軍の梁伏疵に兵を率いて迎えに行かせた。到着する前に、長史の臨深・将軍の牟穆が一万を連れて叛いて劉演に帰順した。趙固は梁伏疵に随って西に向かい、王桑は軍を率いて東のかた青州に奔ったが、趙固は兵を遣わして追ってこれを曲梁で殺し、王桑の将である張鳳は残兵を率いて劉演に帰順した。劉聡は趙固を荊州刺史・領河南太守とし、洛陽を鎮守させた〈劉聡伝〉
石勒は葛陂から北に行き、通過したところは堅壁清野を施されており、掠奪しても得られるものがなく、軍中は飢えて、士卒が食らいあった。東燕に至り、汲郡の向冰が民衆数千を集めて枋頭に防壁を築いていると聞き、石勒は黄河を渡りたいが、向冰に迎撃されることを恐れた。張賓は、「聞けば向冰の船はすべて瀆中にあって上陸していません、軽兵を使って間道から奪いなさい、(奪った船で)大軍を対岸に渡し、それが終われば、必ず向冰を捕縛できます」と言った。秋七月、石勒は支雄・孔萇に文石津から筏を縛ってひそかに渡らせ、向冰の船を奪った。石勒は兵を率いて棘津から黄河を渡り、向冰を撃ち、大いに破り、その資財を全て奪ったので、軍の士気が回復し、長駆して鄴に辿り着いた。劉演は三台を固めて自衛したが、臨深・牟穆らは兵を率いて石勒に降った〈後趙録 石勒伝〉
諸将が(鄴の)三台を攻めようとしたが、張賓は、「劉演は弱いが、なお数千の兵がおり、三台は堅固なので、容易に攻め切れません。これを捨て置けば、彼らは自潰します。いま王彭祖・劉越石が、あなたの競合なので、こちらを優先し、劉演は後回しでよい。天下は飢えて乱れており、あなたは大兵を擁し、転戦しているが、人心は安定せず、軍隊を保全し、四方を制圧するのは困難です。好適な土地を選んで本拠地とし、人と食料を集め、西の平陽(劉聡)から命令を受けて幽州(王稜)・并州(劉琨)を征服しなさい、これが霸王の業です。邯鄲・襄国は、形勝の地なので、どちらかを都に選ぶように」と言った。石勒は、「右侯の計が正しい」と言った。進んで襄国を本拠地とした〈後趙録 石勒伝〉
張賓はさらに石勒に、「いま私はここにいるが、彭祖・越石が深く嫌った地であり、城と堀は守りが薄く、資財は足りず、二人の敵が交替で到来します。速やかに野の穀物を集め、平陽に使者を送り、ここを守る意向を伝えなさい」と言った。石勒はこれに従い、諸将に命じて手分けして冀州を攻めたところ、郡県の壁塁は多くが降服し、穀物を襄国に運び込んだ。漢主の劉聡に上表し、劉聡は石勒を都督冀・幽・并・營四州諸軍事・冀州牧とし、進めて上党公に封じた〈後趙録 石勒伝〉
劉琨は州郡に檄を回付し、十月に平陽に集まり、漢を攻撃する約束をした。劉琨は贅沢で派手好きで、声楽を好んだ。河南の徐潤は音律の歌い回しにより劉琨に愛され、晋陽令となった。徐潤は傲慢であるが、政事に関与した。護軍の令狐盛はしばしば忠告し、徐潤を殺すように進言したが、劉琨は従わなかった。徐潤が劉琨に対して令狐盛を批判したので、劉琨は令狐盛を捕らえ、殺した〈前趙録 劉聡伝〉。劉琨の母は、「あなたは豪傑を招いて遠大な戦略を広げることができず、自分より優れた人間を排除するばかりだ、禍いが私にも及ぶだろう」と言った〈晋書 劉琨伝〉
令狐盛の子の令孤泥は漢に奔走し、真実を述べた。漢主の劉聡は大いに喜び、河内王の劉粲・中山王の劉曜に并州を侵略させ〈劉粲・劉曜の名は劉琨伝ではここに見えない〉、令狐泥に故郷を案内させた〈劉琨伝〉。劉琨はこれを聞き、東に出て、兵を常山及び中山で集め、将の郝詵・張喬に劉粲を防がせ、さらに代公の猗盧に救いを求めた。郝詵・張喬はともに敗死した〈前趙録 劉聡伝〉。劉粲・劉曜は虚に乗じて晋陽を襲い、太原太守の高喬〈劉琨伝〉・并州別駕の郝聿は晋陽をあげて漢に降服した。八月庚戌、劉琨は晋陽に還って救おうとしたが、及ばず、左右数十騎を率いて常山に逃げた。辛亥、劉粲・劉曜は晋陽に入った。壬子、令狐泥は劉琨の父母を殺した〈劉琨伝及び前趙録〉
劉粲・劉曜は尚書の盧志・侍中の許遐・太子右衛率の崔瑋を平陽に送った。劉復は劉曜を車騎大将軍とし、前将軍の劉豊を并州刺史とし、晋陽を鎮護させた。九月、劉聡は盧志を太弟太師とし、崔瑋を太傅とし、許遐を太保とし、高喬・令狐泥は二人とも武衛将軍とした〈劉聡伝〉
己卯、漢の衛尉である梁芬が長安に逃げ込んだ〈劉聡伝〉
辛巳、賈疋らは秦王業を奉って皇太子とし、行台を長安に建て、登壇して天に報告し、宗廟・社稷を建て、大赦した〈愍帝紀〉。閻鼎を太子詹事とし、政務全般を担当させた〈晋書 閻鼎伝〉。賈疋に征西大将軍を加え、秦州刺史である南陽王の司馬保を大司馬とした〈愍帝紀〉。司空の荀藩に命じて遠近を監督させ〈荀藩伝〉、光禄大夫の荀組を領司隸校尉・行豫州刺史とし、荀藩とともに開封を守らせた〈荀組伝〉。 秦州刺史の裴苞は険地に籠もって涼州の兵を防ぎ、張寔・宋配らはこれを撃破し、裴苞は柔凶塢に逃げ込んだ〈前涼録 張軌伝〉
冬十月、漢主の劉聡は子の劉恒を代王、劉逞を呉王、劉朗を穎川王、劉皋を零陵王、劉旭を丹楊王、劉京を蜀王、坦を九江王、晃を臨川王とした。王育を太保、王彰を太尉、任顗を司徒、馬景を司空、朱紀を尚書令、范隆を左僕射、呼延晏を右僕射とした〈前趙録 劉聡伝〉
代公の猗盧は子の六脩及び兄の子の普根・将軍の衛雄・范班・箕澹を遣わして数万を率いて前鋒として晋陽を攻めさせ、猗盧が自ら二十万を率いて後続となり〈北魏書 序紀〉、劉琨は離散した兵数千を集めて道案内をした。六脩は漢の中山王である劉曜と汾水の東で戦い、劉曜の軍が敗れて、落馬し、劉曜は七つの傷を負った〈前趙録 劉聡伝〉。討虜将軍の傅虎が馬を授けたが、劉曜は受け取らず、「自分で乗って逃げよ、私は重傷だ、ここで自決する」と言った。傅虎は泣いて、「私は代王に抜擢され、恩を返したかった、今がその時です。漢室は建国直後です、天下に私がおらずとも、大王はおらねばなりません」と言った〈載記 劉聡伝に依る〉。劉曜を助けて馬に乗せ、駆けて汾水を渡らせ、(傅虎は)戦地に戻って死んだ。劉曜は晋陽に入り、夜に、大将軍の劉粲・鎮北大将軍の劉豊とともに晋陽の民を掠奪し、蒙山を越えて帰った。十一月、猗盧がこれを追い、藍谷で戦い、漢軍を大いに破り、劉豊を捕らえ、邢延ら三千餘級を斬り、数百里にわたって死体が転がった。猗盧は寿陽山で大規模な狩猟を行い、獲物の皮や肉を並べたので、山が赤く見えた。劉琨が軍営の門から徒歩で入ってきて拝謝し、進軍するよう強く要請した。猗盧は、「私が遅れたせいで、あなたの父母は殺害された、まことに申し訳ない。あなたの国境付近は回復できた、わが軍は遠くから来て、兵馬が疲弊している、少し時間を空けよう、劉聡はまだ撃滅できない」と言った。劉琨に馬・牛・羊を千餘匹ずつと、車百乗を賜って帰らせ、将の箕澹・段繁らを留めて晋陽を守らせた〈前趙録 劉聡伝〉
劉琨は居を陽曲に移し、逃げ散った兵を集めた〈劉琨伝〉。盧諶は劉粲の参軍であったが、亡命して劉琨のもとに戻り〈晋書 盧諶伝〉、漢人は彼の父の盧志及び弟の盧謐・盧詵を殺した〈晋書 盧志伝に依る〉。傅虎に幽州刺史を贈った〈未詳〉
十二月、漢主の劉聡が皇后張氏を立て、其の父の張実を左光禄大夫とした〈前趙録 劉聡伝〉
彭仲蕩の子である天護は群胡を率いて賈疋を攻め、天護は負けたふりをして逃げ、賈疋が追うと、夜に澗中に落ち、天護は捕らえて殺した〈晋書 賈疋伝に依る〉。漢は天護を涼州刺史とした〈未詳〉。郡臣は始平太守の麴允を推して雍州刺史を領させた〈愍帝紀〉。閻鼎は京兆太守の梁綜と主導権を争い、閻鼎は梁綜を殺してしまった。麴允は撫夷護軍の索綝・馮翊太守の梁粛と軍をあわせて閻鼎を攻め、閻鼎は雍に出奔し、氐竇首に殺された〈晋書 閻鼎伝に依る〉
広平の游綸・張豺は兵数万を擁し、苑郷を拠点とし、王浚から仮署(承制による任命)を受けた。石勒は夔安・支雄ら七将を遣わしてこれを攻め、その外塁を破った。王浚は督護の王昌を派遣して諸軍及び遼西公の段疾陸眷・疾陸眷の弟である匹磾・文鴦・従弟の末柸に兵五万を率いて石勒を襄国において攻撃した〈後趙録 石勒伝〉
疾陸眷は渚陽に駐屯し、石勒は諸将に出撃をさせたが、すべて破られた。疾陸眷は兵器を建造し、城を攻めたから、石勒の兵はひどく懼れた。石勒は将佐を召して、「まだ城壁や堀が強固でなく、食料も少ない、兵数でも劣り、援軍を期待できない、全軍で決戦を挑もうと思うが、どうか」と相談した。諸将は、「守りを固めて敵の疲労を待つのがよく、撤退をするところを撃ちましょう」と言った。張賓・孔萇は、「鮮卑の種族では、段氏が最も勇敢であり、なかでも末柸が最強なので、精鋭が末柸のもとに集まっています。聞けば疾陸眷は期日を決めて北城を攻めるそうで、大軍が遠くから集まり、連日の戦闘で、わが軍は孤立して弱く、出撃しないのを見て、油断しています。出撃せず、怯懦を示しながら、北城に穴を作って突門(突撃の出口)を二十餘道を作り、待ち構え、敵の攻め手の態勢が整う前に、不意を突けば、末柸の居場所を直撃することができ、彼らは驚き震え、立て直す間もなく、撃破できます。末柸さえ破れば、残りは自壊します」と言った。石勒はこれに従い、ひそかに突門を作った。疾陸眷が北城の攻撃を始めると、石勒は城壁に登って観察し、敵軍の将士が武器を手放して寝ているの見て、孔萇に命じて精兵を督して突門から出撃させ、城壁の上で軍鼓を鳴らして士気を高めた。孔萇は末柸を攻めて追い、その塁門に入って、石勒の兵が末柸を捕らえると疾陸眷らの軍は敗走した。孔萇は勝ちに乗じて追撃し、死体が三十餘里に横たわり、鎧馬五千匹を得た。疾陸眷は残兵を収め、還って渚陽に駐屯した〈後趙録 石勒伝〉
石勒は末柸を人質とし、和親の使者を疾陸眷に送り、疾陸眷は受け入れた。文鴦が諫めて、「いま末柸一人のために国家を滅亡に導く敵を自由にさせ、王彭祖(王浚)からの怨みを解けば、将来に禍根を残します」と言った。疾陸眷は従わず、鎧馬や金銀を石勒に贈り、末柸の三弟との人質交換を求めた。諸将みな石勒に末柸を殺せと勧めたが、石勒は、「遼西鮮卑は強健な国であり、われらの宿敵ではなく、王浚に使役されていただけだ。いま一人を殺して一国から怨みを買うのは、良計ではない。彼を返還すれば、わが徳に感じ、もう王浚のために働かぬだろう」と言った。厚く金帛で返報し、石虎と疾陸眷は渚陽で盟約し、兄弟の誓いを結んだ。疾陸眷が帰還すると、王昌らは単独で留まれないから、薊に兵を帰還させた。石勒は末柸を召し、ともに宴飲し、父子の誓いをし、遼西に帰還させた。末柸は道中で、日を拝み南を向いて三たび拝した。これにより段氏は専ら石勒に味方し、王浚の勢力は衰えた〈後趙録 石勒伝〉
游綸・張豺は石勒に降服を申し入れた。石勒は信都を攻め、冀州刺史の王象を殺した。王浚は邵挙を行冀州刺史とし、信都を保たせた〈後趙録 石勒伝〉
この年、疫病が大流行した〈懐帝紀〉
王澄は若くして兄の王衍と名声が海内の第一であった。劉琨は王澄に、「あなたは見かけはさっぱりしているが、実は頑なな強い心の持ち主だ。そのまま世を渡るなら、まともな死に方はできまい」と言った〈晋書 王澄伝〉。荊州に滞在するとと、成都内史の王機に気に入られ、自分に次ぐと言われ、内では腹心、外では爪牙として用いられた〈晋書 王機伝〉。王澄はしばしば杜弢に敗れ、期待も実績も失われたが、なお自信たっぷりで、憂懼の心はなく、王機とともに飲酒と博奕に明け暮れ、人々からの支持が離れた。南平太守の応詹がしばしば諫めたが、却下された〈王澄伝〉
王澄が自ら杜弢を攻撃するため、作塘に進軍した。もと山簡の参軍であった王沖は兵を擁して応詹を刺史に迎えたが、応詹は王沖が無法なので、拒否して、南平に還ったので〈晋書 応詹伝〉、王沖が刺史を自称した。王澄は懼れ、将の杜蕤に江陵を守らせ、治所を孱陵に移し、ほどなく沓中に逃げ込んだ。別駕の郭舒が諫めて、「あなたは州に赴任しても特段の成果がなく、しかし一州の心を繋いでいるのは、西に華容の兵を持っており、盗賊を逮捕できるからです、兵を手放せば、亡命せざるを得なくなります」と言った。王澄は従わず〈王澄伝に依る〉、郭舒を連れて東に下った。郭舒は、「私は万里の規律(州の別駕)でありながら、不正を直せず、あなたを亡命させました、とても江水を渡れません」と言い、沌口に留まった〈晋書 郭舒伝〉。琅邪王の司馬睿はこれを聞き、王澄を召して軍諮祭酒とし〈王澄伝〉、軍諮祭酒の周顗を交替させ〈周顗伝に依る〉、王澄が赴いて周顗を召し出した〈周顗伝〉
周顗が初めて荊州に到着すると、建平の流民である傅密らは叛乱して杜弢を迎え〈周顗伝〉、杜弢の別将である王真が沔陽を襲い〈未詳〉、荀顗は狼狽して拠点を失った〈周顗伝〉。征討都督の王敦は武昌太守の陶侃・尋陽太守の〈周訪伝に依る〉周訪〈王敦伝〉・歴陽内史の甘卓〈甘卓伝〉を派遣して杜弢を攻撃させ、王敦は進軍して豫章に駐屯し、諸軍の後方支援をした〈王敦伝〉
王澄は王敦を訪問し、自分の名声が王敦を上回っていたから、以前のように王敦を侮った。王敦は怒り、王澄が杜弢と連絡を取りあっていると言い掛かりをつけ、壮士に扼殺させた〈王澄伝に依る〉。王機は王澄の死を聞き、禍いを懼れ、父の王毅・兄の王矩が広州刺史の経験者であったから、王敦に広州刺史の地位を求めたが、王敦は認めなかった。このとき広州の将である温邵らが刺史の郭訥に叛乱し、王機を刺史として迎えたので、王機は奴客や門生千餘人を連れて広州に入った。郭訥が兵を使って妨害したが、将士は王機の父兄の時代に部曲であったから、戦わずに迎えて降服し、郭訥は官位から降りて、刺史を王機に授けた〈王機伝〉
王如の軍中は飢え、官軍がこれを討伐すると、多くが降服した。王如は計が窮まり、王敦に降服した〈晋書 王如伝〉。 鎮東軍司の顧栄・前太子洗馬の衛玠がどちらも卒した。衛玠は、衛瓘の孫であり、風采が美しく、清談を得意とした。いつも人には欠点がつきものだから、寛大であるべきで、信頼関係がなければ、大目に見たので、死ぬまで喜怒を表さなかった〈衛玠伝〉
江陽太守の張啓は、行益州刺史の王異を殺してこれに代わった。張啓は、張翼の孫であり、ほどなく病死した。三府の文武はともに上表して涪陵太守の向沈を行西夷校尉とし、南のかた涪陵を本拠地とした〈未詳〉
南安の赤亭羌である姚弋仲は東のかた榆眉に移り、戎族や夏族のうち老幼を連れて随う者は数万であった。護羌校尉・雍州刺史・扶風公を自称した〈後秦 姚弋仲伝〉

建興元(三一三)年

現代語訳

春正月丁丑朔、漢主の劉聡は群臣と光極殿で宴飲し、懐帝に青衣を着けて酒を注がせた。庾珉・王雋らは悲憤に堪えず、号泣した。劉聡はこれを憎み。庾珉らは平陽で劉琨に呼応する計画があるとし、二月丁未、劉聡は庾珉・王雋らもと晋臣十餘人を殺し、懐帝もまた殺害された。大赦し、会稽の劉夫人を貴人に復した〈前趙録 劉聡伝及び晋書 庾珉伝〉
荀崧曰く…省く〈懐帝紀〉
乙亥、漢の太后である張氏が卒し、光献と謚された。張后は悲しみに堪えず、丁丑、彼女も卒し、武孝と謚された〈前趙録 劉聡伝〉
己卯、漢の定襄忠穆公の王彰が卒した〈前趙録 劉聡伝〉
三月、漢主の劉聡は貴嬪の劉娥を皇后に立て、彼女のために䳨儀殿を建てた。廷尉の陳元達が切諫し、「天は民を生んでそれに君を立てるのは、統治させるためで、兆民の命を、一人の欲望に利用するためではない。晋氏が徳を失い、大漢がこれを受け、民衆は連れ立ち、休息を願っています。光文皇帝は粗末な服で、敷物を重ねず、后妃は着物を飾らず、乗輿の馬には粟を食わせなかったのは、民を愛するがゆえです。陛下は継位して以来、すでに殿観を四十餘つくり、軍旅も頻繁に起こし、物品の授受が盛んで、飢饉と疫病が流行り、死者が相次ぎ、しかし造営の意欲が膨らみ、民の父母となるつもりがありますか。いま晋王朝の生き残りが、西は関中に割拠し、南は江表を支配しています。李雄は巴蜀を領有し、劉琨は側面で隙を窺っています。石勒・曹嶷からの納税や貢献は滞りがちです。陛下はこれを顧みず、追加して中宮に宮殿をつくるが、優先すべきことですか。むかし太宗(前漢の文帝)は平和な世にあり、穀物や布帛が充足していても、なお百金の費用を惜しみ、露台の労役を辞めました。陛下は荒乱の世にあり、その領地は、太宗の二郡に過ぎず、防備を敷く相手は、匈奴・南越だけではありません。しかし宮殿の奢侈はこれほどで、私は命を覚悟して諫言を申し上げます」と言った。劉聡は大いに怒り、「朕は天子でありながら、宮殿一つ立てるのに、つまらん鼠子にお伺いを立て、郡臣から文句を言われねばならんのか。鼠子を殺さねば、宮殿は完成せぬのか」と言った。左右に命じ、「引き立てて斬れ。祭祀とともに東市に首級を晒し、鼠と同じ穴に埋めろ」と言った。このとき劉聡は逍遙園の李中堂におり、元達は腰に鎖を巻き、その鎖を堂下の樹に結び、「この発言は、社稷の計です、しかし陛下はわれらを殺す。(前漢の)朱雲は、龍逢・比干とともに交遊できれば、それで十分ですと言いました」と叫んだ。左右が引っ張っても、動かなかった〈前趙録 劉聡伝〉
大司徒の任顗・光禄大夫の朱紀・范隆・驃騎大将軍である河間王の劉易らが叩頭し出血して、「元達は先帝の知己であり、受命した当初、門下に招いて、忠義と思慮を尽くし、あらゆる助言をしました。われらは官僚として従順なだけで、彼の真剣さに対して負い目があります。今回の発言は狂直かも知れませんが、受け入れて下さい。諫めるたび列卿を斬れば、後世はどうなるのでしょうか」と訴えた。劉聡は黙然とした〈前趙録 劉聡伝〉
劉后はこれを聞き、左右に密勅して刑を停止させ、疏を直筆して、「いま宮室はすでに備わり、造営は不要です、四海はまだ統一されず、民の力を確保すべきです。廷尉(陳元達)の言は、社稷の福です、陛下は封賞を加えて下さい。彼を誅すれば、四海は陛下をどのように思うでしょう。諫言を進める忠臣はわが身を顧みず(命を投げ出し)、諫言を拒む人主もわが身を顧みない(反省が足りない)ものです。陛下が私のために宮殿を作って忠臣を殺せば、忠良の舌を結んだのは私であり、遠近の怨嗟が私に向かい、公私ともに困窮する原因も私ということになり、社稷を傾危させるのも私であり、天下の罪はすべて私に集まりますが、とても責任が取れません。先古より国家の敗亡は、婦人から始まります、とても心を痛めています。自覚はなくとも、後世から見れば私は先古の悪女と同じです。何の面目があって陛下の妻でいられましょう、この堂で死を賜り、陛下の過失を訂正したいと思います」と上言した。劉聡はこれを見て顔色を変えた〈前漢 聡后劉氏伝〉
任顗らは叩頭して流涕して已まなかった。劉聡は徐ろに、「朕は近年、軽い風邪にかかり、喜怒が暴走し、自制できなかった。元達が忠臣であると、理解していなかった。諸公は頭から血を流して教えてくれた、まことに輔弼の義である。朕は恥じて心を収め、忘れるまいぞ」と言った。任顗らは冠と靴をぬいで座り、元達を引き連れ、劉氏にこれを示し、「外に公(陳元達)のような補佐、内に劉后のような補佐がおり、朕はなんの心配も要らぬ」と言った〈前趙 聡后劉氏伝〉。任顗らに穀物や布帛をそれぞれ賜り〈未詳〉、逍遙園を納賢園、李中堂を愧賢堂と改称した〈劉聡伝〉。劉聡は陳元達に、「きみは朕を畏敬すべきだが、却って朕にきみを畏敬させたな」と言った〈陳元達伝〉
西夷校尉の向沈が卒し、配下は汶山太守の蘭維を西夷校尉に推戴した。蘭維は吏民を率いて北に出て、巴東に向かおうとした。成将の李恭・費黒が迎撃し、捕獲した〈蜀録 李雄伝〉
夏四月丙午、懐帝の訃報が長安に至り、皇太子が哀を挙げ、元服を加えた。壬申、皇帝の位に即き、大赦し、改元した。衛将軍の梁芬を司徒〈愍帝紀〉、雍州刺史の麴允を尚書左僕射・録尚書事〈晋書 麴允伝〉、京兆太守の索綝を尚書右僕射・領吏部・京兆尹とした〈晋書 索綝伝〉。このとき長安の城中は、戸は百に満たず、草や荊が生い茂っていた。公私に車が四乗しかなく、百官は章服(格式を示す衣冠)・印綬がなく、ただ桑の板に官号を書くだけであった〈愍帝紀〉。ほどなく索綝を衛将軍・領太尉とし、軍国の事は、すべて彼に委任した〈索綝伝〉
漢の中山王の劉曜・司隸校尉の喬智明が長安を侵略し、平西将軍の趙染が兵を率いて駆けつけた。詔して麴允に黄白城に駐屯させて防がせた〈前趙録 劉聡伝〉
石勒は石虎に鄴を攻撃させ、鄴が陥落すると、劉演は廩丘に逃げ、三台の流民はすべて石勒に投降した。石勒は桃豹を魏郡太守とし鎮撫させた。しばらくして、石虎を桃豹と交替させて鄴を鎮守させた〈後趙録 石勒伝〉
これより先、劉琨は陳留太守の焦求を兗州刺史とし〈未詳〉、荀籓もまた李述を兗州刺史とした。李述は焦求を攻撃しようとしたが、劉琨は焦求を召し還した。鄴城が失陥すると、劉琨は劉演を兗州刺史とし、廩丘を鎮守させた。さきの中書侍郎の郗鑒は、若くして志が清く曲げないので名声があり、高平の千餘家を連れて乱を避けて嶧山に籠もり、琅邪王の司馬睿は郗鑑を兗州刺史とし、鄒山に鎮守させた。三人がそれぞれ一郡に拠り、兗州の吏民は従う相手を見失った〈晋書 郗鑑伝に依る〉
琅邪王の司馬睿は前廬江内史の華譚を軍咨祭酒とした。華譚はかつて寿春にいて周馥を頼っていた。司馬睿は華譚に、「周祖宣(周馥)はなぜ(晋王朝に)反したのか」と言った。華譚は、「周馥が死んでも、なお天下には直言の士がいます。周馥は寇賊がはびこるのを見て、都を移して国難を緩和しようとし、しかし為政者(司馬越)は悦ばず、兵を起こして彼を討ちました、周馥が死んですぐに洛陽が陥落しました。もしこれを反したと言うなら、でっち上げです」と言った。司馬睿は「周馥は征鎮の位におり、強兵を握るが、(中央政府が)召しても行かず、危うくなっても責任を取らず、天下の罪人ではないか」と言った。華譚は、「そうです、危うくても責任を取らないのは、天下の全員に当てはまることで、周馥だけの罪ではありません」と言った〈指摘モレ、晋書 周浚 附周馥傳か〉
司馬睿の部下たちは多くが実務から逃れたので、録事参軍の陳頵は司馬睿に、「洛陽が平和なとき、朝廷の士は小心で慎み深いことを凡俗とし、気が大きく傲慢なことを優雅とし、その風潮が浸透した結果、国家(西晋)が敗亡しました。いまも僚属はその風潮を引き摺っており、虚名で自らを飾り、同じ失敗を(司馬睿の政府が)くり返します。これ以降は使者に病気と称し(実務を避け)た者を、罷免しなさい」と言った。司馬睿は従わなかった。三王が趙王倫(司馬倫)を誅殺すると、己亥格を定めて功績を賞し、以降の基準となった。陳頵は、「むかし趙王が簒逆し、恵皇帝が位を失ったとき、三王が起兵して討伐し、ゆえに賞を厚くして義挙を奨励しました。いま功績の大小に拘わらず、己亥格で判定した結果、金紫の佩を兵卒ごときに与え、命令書の発行を奴隷の家柄に委ね、朝廷の権威が軽くなり、秩序が乱れています、一切を停止しなさい」と言った。陳頵は寒門の出身で、しばしば正論を述べたので、政府のなかで憎まれ、譙郡太守に転出させられた〈晋書 陳頵伝に依る〉
呉興太守の周玘は、宗族が強盛であり、琅邪王の司馬睿は疑いを持ち憚った。司馬睿の左右の役人は、多くが中原で官位と土地を失った人であり、(移住者が)呉人を支配したので、呉人はひどく怨んだ。周玘は官職を失い、また刁協に軽んじられ、恥と怒りが爆発しそうで、ひそかに仲間たちと執政者を殺し、南方出身者に交替させようとした。ことが発覚し、周玘は憂憤して卒した。死に際に、子の周勰に、「私を殺したのは、中原のやつらだ。復讐できるのは、わが子だ」と言った〈晋書 周玘伝〉
石勒は李惲を上白で攻め、これを斬った〈後趙録 石勒伝〉。王浚は薄盛を青州刺史とした〈指摘モレ〉
王浚は棗嵩に諸軍を督して易水に駐屯させ、段疾陸眷を召し、ともに石勒を攻撃しようと持ちかけた。疾陸眷は到来せず、王浚は怒り、拓跋猗盧に厚く金品を贈り、慕容廆にも呼び掛けて疾陸眷を討伐しようとした。猗盧は右賢王の六脩に合流させたが、疾陸眷に敗れた。慕容廆は慕容翰を送って段氏を攻め、徒河・新城を奪い、陽楽に至ったが、六脩が敗れたと聞いて引き還し、慕容翰は留まって徒河を鎮守し、青山を防壁とした〈前燕録 慕容廆伝〉
これより先、中国の士民は乱を避け、多くが北上して王浚を頼り、王浚は避難民の生活を設計できず、政治も法制も失敗し、士民はまた彷徨った。段氏の兄弟はもっぱら武勇を尊び、士大夫を礼遇しなかった。ただ慕容廆だけは政治を身につけ、人材を大切にし、ゆえに士民の多くが帰属した。慕容廆は英俊を抜擢し、才能に応じて官職を与え、河東の裴嶷・北平の陽耽・廬江の黄泓・代郡の魯昌を謀主とし、広平の游邃・北海の逄羨・北平の西方虔・西河の宋奭及び封抽・裴開を股肱とし、平原の宋該・安定の皇甫岌とその弟の真・蘭陵の繆愷・昌黎の劉斌及び封奕・封裕が枢要を預かった。封裕は、封抽の子である〈前燕録 慕容廆伝〉
裴嶷は清廉で実務に優れて謀略があり〈晋書 載記〉、昌黎太守となり、兄の裴武は玄菟太守となった。裴武が卒すると、裴嶷は裴武の子の裴開とともに葬儀に向かったが、慕容廆のもとを通過すると、敬意を払われ、出発にあたり、物資を支援された。遼西に行くと、道路が断絶しているから、裴嶷は慕容廆のもとに還ろうとした。裴開は、「郷里は南であるのに、なぜ北(慕容氏)に行くのですか。しかも流寓し、段氏は強く、慕容氏は弱く、なぜ強者を去って弱者を頼るのですか」と言った。裴嶷は、「中原が喪乱し、どこかを頼るのは、虎口に入るようなもの。道は遠く、到達できる保証もない。道中の治安が回復するのはは、いつになるか分からない。いま寄寓する相手は、人物を基準に選ぶべきだ。段氏を見るに、遠大な戦略があり、人材を厚遇するだろうか。慕容公は仁義を実践し、覇王の志があり、国は富み民は安定している、彼を頼れば、功名を立て、宗族を守れる、そう思わぬか」と言った。裴開はこれに従った。到着し、慕容廆から歓迎された。〈前燕録 裴嶷伝〉
陽耽は清廉で沈着であり、遼西太守となった。慕容翰が段氏を陽楽で破ると、彼を捕らえたが、慕容廆は礼により登用した〈前燕録 陽鶩伝〉。游邃・逄羨・宋奭は、みな昌黎太守の経験者であったが、黄泓とともに薊に避難し、のちに慕容廆を頼った。王浚はしばしば手筆の書簡で游邃の兄の游暢を召し、游暢は赴こうとしたが、游邃が、「彭祖(王浚)は刑罰と政治がでたらめで、華族も戎族も離叛しています。思うに、かの政権は長続きしません、行かずに状況を見守るべきです」と言った。游暢は、「彭祖は疑い深く、北来の流民を、殺害せよと命じている。いま丁寧に招いてきたが、もしも私が行かねば、禍いが血縁全体に及ぶ。乱世においては宗族は分散し、子孫を残さねばならぬ」と言った。游邃は招きに従い、間もなく王浚とともに死亡した〈游邃伝〉。宋該は平原の杜羣・劉翔とともに以前に王浚を頼り、さらに段氏も頼ったが、どちらも頼りにならぬので、流寓する民を連れて慕容廆のもとに帰着した〈宋該伝〉。東夷校尉の崔毖は皇甫岌に長史になってくれと願い、丁寧に説得したが、招けなかった。ところが慕容廆がこれを招くと、皇甫岌と弟の皇甫真はすぐに来てくれた〈皇甫真伝〉。遼東の張統は楽浪・帯方の二郡に拠り、高句麗王の乙弗利と抗争したが、連年にわたり決着しなかった。楽浪の王遵は張統を説得して民千餘家とともに慕容廆に帰着し、慕容廆は彼らのために楽浪郡を設置し、張統を太守とし、王遵を参軍事とした〈慕容廆伝〉
王如の残党である涪陵の李運・巴西の王建らは襄陽から三千餘家を連れて漢中に入り、梁州刺史の張光は参軍の晋邈にこれを食い止めさせた。晋邈は李運・王建から賄賂を受けとり、張光に彼らの受け入れを勧めたので、張光はこれを認め、成固に住まわせた。晋邈は李運・王建が財宝を持ち込むと、全てを奪ってやろうと、再び張光に、「李運・王建のやつらは、農業をせず、専ら武芸のみなので、何を考えているか分かりません、早く殺すべきです。さもなくば、乱を起こします」と言った。張光は従った。五月、晋邈は兵を率いて李運・王建を攻め、殺した。王建の婿である楊虎が残兵を集めて張光に対抗し、厄水に駐屯した。張光は子の孟萇にこれを討伐させたが、勝てなかった〈張光伝〉
壬辰、琅邪王の司馬睿を左丞相・大都督とし、陝東の諸軍事を督させた。南陽王の司馬保を右丞相・大都督とし、陝西諸軍事と督させた。詔して曰く、「いま巨悪を排除し、(懐帝の)棺を都に帰還させるべきだ。幽・并の二州に兵三十万を整えて平陽を直撃させ、右丞相は秦・涼・梁・雍州の兵三十万で長安に向かい、左丞相は配下の精兵二十万で洛陽に向かい、大集結して、大功を立てよう」と言った〈愍帝紀〉
漢の中山王の劉曜が蒲板に駐屯した〈前趙録 劉聡伝〉
石勒は孔萇に定陵を攻撃させ、田徽を殺した。薄盛は部下を率いて石勒に降り、山東の郡県は、相次いで石勒に奪われた。漢主の劉聡は石勒を侍中・征東大将軍とした。烏桓もまた王浚から叛き、ひそかに石勒に味方した〈後趙録 石勒伝〉
六月、劉琨は代公の猗盧と陘北で合流し、漢の攻撃を計画した。秋七月、劉琨は進んで藍谷に拠り、猗盧は拓跋普根を送り出して北屈に駐屯させた。劉琨は監軍の韓拠を派遣して西河から南下し、西平に攻めかかろうとした。漢主の劉聡は大将軍の劉粲らに劉琨を防がせ、驃騎将軍の劉易らは普根を食い止め、蕩晋将軍の蘭陽らが助けて西平を守った。劉琨らはこれを聞き、兵を撤退させた。劉聡は諸軍に所在地に駐屯し、進攻の計画を練った〈前趙録 劉聡伝〉
愍帝は殿中都尉の劉蜀を送って左丞相の司馬睿に詔して時機を見計らって進軍させ、乗輿(愍帝)と中原で合流することを目指した。八月癸亥、劉蜀は建康に至ったが〈愍帝紀〉、司馬睿は江東を平定することで手一杯であり、北伐の余裕がないと断った〈祖逖伝〉。鎮東長史の刁協を丞相左長史とし、従事中郎である彭城の劉隗を司直とし〈劉隗伝〉、邵陵内史である広陵の戴邈を軍咨祭酒とし〈戴邈伝〉、参軍である丹楊の張闓を従事中郎とし〈張闓伝〉、尚書郎である穎川の鐘雅を記室参軍とし〈鐘雅伝〉、譙国の桓宣を舎人とし〈桓宣伝〉、豫章の熊遠を主簿とし〈熊遠伝〉、会稽の孔愉を掾とした〈孔愉伝に依る〉。劉隗は文や歴史に精通しており、司馬睿の意図をくみ取ったから、特別に親愛された〈劉隗伝に依る〉
熊遠は上書し、「軍を興してから、律令が運用されず、競って新解釈を作り、事案ごとに制度を作って、朝令暮改で、担当官は法制を根拠とせず、いつも各自が検討しており、政権の体裁を成しておりません。議論をする人は、みな律令・経伝を根拠とすべきです、個別の事情に流され、典拠に基づかず、旧典が蔑ろになっています。臨機応変にやり過ぎると、やりたい放題になりますが、これは人君がやるべきことで、臣下に勝手に決断をさせてはいけません」と言った。司馬睿は(創業期で)まだ課題が多いので、採用しなかった〈晋書 刑法志〉
これより先、范陽の祖逖は、若くして大志があり、劉琨とともに司州主簿となった。一緒に寝て、夜中に鶏が鳴くのを聞き、劉琨を蹴って起こし、「これは不吉な声ではないか」と言い、起きて舞った。渡江すると、左丞相の司馬睿は祖逖を軍咨祭酒とした。京口に居し、強兵を集め、司馬睿に、「晋王朝の乱は、上が無道だから下が怨んで叛いたのではなく、宗室内部の、権力争いであり、戎狄が隙に乗じ、中原を犯しました。遺民は残党の被害にあい、自ら奮い立っており、大王が命令すれば、私のような者が中原を回復し、軍国の豪傑は、同調してくれるでしょう」と言った〈祖逖伝〉。司馬睿には北伐の意思がないので〈未詳〉、祖逖を奮威将軍・豫州刺史とし、千人の食料と、布三千匹を与え、武器を与えず、自給させた。諸将は部曲の百餘家を連れて江水を渡り、水上で、かじを叩いて、「中原を回復して万民を救済せぬ限り、江水を行くようなものだ」と誓った。淮陰に駐屯し、鋳造部隊を編成し、募って二千餘人を集めてから進んだ〈祖逖伝〉
胡亢は疑い深く、配下の驍将の数人を殺した。杜曾は懼れ、ひそかに王沖(荊州の賊)の兵を使って胡亢に対抗させた。胡亢は全ての精兵で食い止め、城中は空虚となり、杜曾は胡亢を殺して配下の兵を吸収した〈杜曾伝〉
周顗は潯水城に駐屯し、杜弢に迫られた。陶侃は明威将軍の朱伺に救援に行かせ、杜弢は退いて泠口を固めた。陶侃は、「杜弢は必ず歩いて武昌に向かう」と言った。自ら郡に帰還して待ち受け、果たして杜弢が来攻した。陶侃は朱伺に迎撃させ、大いにこれを破り、杜弢は長沙に逃げ帰った〈晋書 陶侃伝〉。周顗は潯水から出て豫章に王敦で投じ、王敦は彼を留めた〈周顗伝〉。陶侃は参軍の王貢を遣って王敦に勝利を告げ、王敦は、「もし陶侯がおらねば、荊州を失っていた」と言った。上表して陶侃を荊州刺史とし、沔江に駐屯させた〈陶侃伝〉。左丞相の司馬睿は周顗を召し、改めて軍諮祭酒とした〈周顗伝〉
これより先、氐王の楊茂捜の子の難敵は、子を養って梁州に販売し、私的に良人の子一人を買っていたが、(梁州刺史の)張光にこれを鞭で殺された。難敵は怨み、「あなたが来た当初、戦乱と飢饉のあとで、兵民を助けたのはわれら氐族だ、氐族の小さな罪すら、猶予されぬのか」と言った。張光と楊虎が抗争を始めると〈未詳〉、それぞれ茂捜に助けを求め、茂捜は子の難敵に張光を助けさせた。難敵は張光に財貨を求めたが、張光が応じなかった。一方で楊虎は難敵に手厚く賄賂を送り、「流民や財宝は、すべて張光のところにある、私を伐つより、張光を伐ったほうが得だぞ」と言った。難敵は大いに喜んだ〈張光伝〉。張光と楊虎が戦うとき、張孟萇を前軍、難敵を後軍とした。難敵は楊虎とともに孟萇を挟撃し、大いに破り、孟萇及びその弟の張援が戦死した〈未詳〉。張光は籠城して自衛した。九月、張光は憤激して病気になり、僚属から張光に(梁州から)撤退をして魏興を本拠地とするよう勧めた。張光は剣を按じ、「私は国から重任を受けたが、賊を討伐できなかった、死んで登仙しようとも、一歩でも退くものか」と言った。声が絶えて卒した。州人は彼の幼子の張邁に州事を領させたが、氐族と戦って死んだので〈張光伝に依る〉、始平太守の胡子序に梁州を領させた〈未詳〉
荀藩が開封で薨じた〈荀藩伝〉
漢の中山王の劉曜・趙染は麴允を黄白城で攻撃し、麴允は連戦連敗し、詔して索綝を征東大将軍とし、兵を率いて麴允を助けさせた〈前趙録 劉聡伝〉
王貢は王敦が帰還してから、竟陵に至り、陶侃の命令を偽造して、杜曾を前鋒大都督とし、王沖を攻撃して、これを斬り、配下を全て降服させた。陶侃は杜曾を召したが、杜曾は応じなかった。王貢は偽造の罪を問われることを恐れ、とうとう杜曾とともに叛乱して陶侃を攻撃した。冬十月、陶侃の軍は大敗し、彼一人だけ辛うじて逃れた。王敦は上表して陶侃を白衣領職とした(刑罰の一種)。陶侃は周訪らを率いて杜弢を攻め、大いにこれを破り、王敦は上奏して陶侃の官職を回復させた〈陶侃伝〉
漢の趙染は中山王の劉曜に、「麴允は大軍を率いて外におり、長安は空虚です、襲撃しましょう」と言った。劉曜は趙染に精騎五千で長安を襲わせ、庚寅の夜、外城に入った。愍帝は射雁楼に逃げた。趙染は龍尾(通路の名)及び諸営を焼き、千餘人を殺し掠奪した。辛卯の旦、退いて逍遙園に駐屯した。壬辰、将軍の麴鑒が阿城から五千を率いて長安を救いにきた。癸巳、趙染は撤退し、麴鑒がこれを追い、劉曜と零武で遭遇し、麴鑒の軍は大敗した〈前趙録 劉曜伝〉
楊虎・楊難敵は梁州を急襲し、胡子序は城を棄てて逃げ、難敵は刺史を自称した〈未詳〉
漢の中山王の劉曜は勝ち誇って防備を怠った。十一月、麴允がこれを襲い、漢軍は大敗し、漢の冠軍将軍の喬智明を殺した。劉曜は平陽に引き上げた〈前趙録 劉曜伝〉
王浚は父の字が処道なので、自らが当塗高という讖文に該当するとし、皇帝号の自称を計画した。前勃海太守の劉亮・北海太守の王摶・司空掾の高柔が切諫し、王浚は彼らを殺した。燕国の霍原は、志節が清らかで高く、しばしば辟召を断った。王浚が皇帝号について質問すると、霍原は答えなかった。王浚は霍原が群盗と通じていると誣告し、殺して首を晒した。ここにおいて士民は驚き怨み、しかし王浚の傲慢さは日ごとに増し、政事を顧みず、酷薄な小役人を任用し、棗嵩・朱碩は、横暴さがひどかった。北州では歌謡があり、「府中で(声望が)赫赫たるは、朱丘伯(朱碩)。十囊・五囊(巨額の銭は)、棗郎(棗嵩)に入る」といった〈後趙録 石勒伝〉。課税や徴発の負担が重く、民は堪えられず、多くが鮮卑に逃げ込んだ。従事の韓咸は柳城を監護し、慕容廆が士民の統治がうまいと宣伝し、王浚を批判した。王浚は怒り、これを殺した〈未詳〉
王浚は当初はただ鮮卑・烏桓の強さを利用していたが、離叛されてしまった。しかも蝗害と日照りが続き、兵勢はますます弱まった。石勒は襲撃を計画したが、虚実が分からず、使者に偵察に行かせ、参佐は羊祜・陸抗の故事を踏まえ、王浚に文書を送った。石勒は張賓に質問すると、張賓は、「王浚は名は晋臣ですが、実は晋を廃して自立しようと思い、ただ四海の英雄が服従せぬことを心配しています。将軍の人材を待ち望む気持ちは、項羽が韓信を欲したことに等しい。将軍は天下に威を振るい、いま礼を厚くし、謙って仕えても、まだ信用されず、羊祜・陸抗の(対等関係の故事は)当てはまりません。人を謀れば本心を悟ることはできますが、その志を得させるのは難しいのです」と言った。石勒は、「善し」と言った。十二月、石勒は舎人の王子春・董肇に珍宝を持たせ、王浚に上表を奉り、「私めはもとは弱小の胡族で、世の飢乱にあい、流離して苦難を味わい、命を冀州に盗み、ひそかに人民の救済に取り組んできました。いま晋王朝の国運が断絶し、中原に主君がいません。殿下は州郷の名望家であり、四海に支持され、帝王となる者は、公を除いておりません。私は身を捨てて起兵し、暴徒を討伐してきたのは、まさに殿下の手先としてです。殿下は天に応じ人にしたがい、早く皇帝になりなさい。私は殿下を天地や父母のように奉戴し、もし許されるなら、私を子のように目を掛けて下さい」と言った。棗嵩に書を持ってゆかせ、厚く贈り物をした〈石勒伝〉
王浚は段疾陸眷が新たに叛し、士民の多くが自分を棄ててゆくので、石勒の臣従を聞き、とても喜び、子春に、「石公は一時の英傑であり、趙・魏を領有し、私に称藩してきたが、信用できるかな」と質問した。子春は、「石将軍は才能も力量も強盛であり、ご認識の通りです。殿下は中原の名望家であり、胡族と漢族に権威が浸透していますが、先古より胡人を輔佐の名臣として、帝王になった者はいません。石将軍は帝王(晋帝)が殿下に禅譲しないことを憎み、帝王には天が定めた暦数があり、人間の智力では変更できず、強者であってもこれを掠奪すれば、天や人に支持されないと思ったのです。項羽は強者でしたが、結局は漢が天下を取りました。石将軍は殿下との関係を、陰の気が太陽とともにあることに準え、遠く前代の故事に鑑み、殿下に帰属しました、これは石将軍の見識が前代の英雄より優れている点です、殿下は何を怪しむのですか」と言った。王浚は大いに悦び、子春・肇を列侯に封じ、返使を送り、石勒に厚く報いた。游綸の兄である游統は、王浚の司馬となり、范陽を鎮守し、使者を送り私的に石勒を頼っていた。石勒はその使者を斬って王浚に送った。王浚は游統の罪とはしなかったが、石勒の忠誠を信じ、疑いを払拭した〈石勒伝〉
この年、左丞相の司馬睿は世子の紹を広陵に出鎮させ、丞相掾の蔡謨を参軍とした。蔡謨は、蔡克の子である〈晋書 明帝紀及び蔡謨伝〉
漢の中山王の劉曜は河南尹の魏浚を石梁で包囲し、兗州刺史の劉演・河内太守の郭黙は救援の軍を出し、劉曜は兵を分けて河北で迎撃し、これらを破った。魏浚は夜に逃げ、捕まって殺された〈前趙録 劉曜伝〉
代公の猗盧は盛楽に城を築いて北都とし、もと平城を改修して南都とした。さらに新平城をルイ水の北に作り、右賢王の六脩に鎮護させ、南部を統領した〈北魏書 序紀〉