いつか読みたい晋書訳

資治通鑑_晋紀十一 孝愍皇帝下(三一四-三一六)

翻訳者:佐藤 大朗(ひろお)
作業手順は、以下の1.~4.の通りです。ここに掲載しているのは、翻訳の準備として、1.維基文庫をとりあえず現代語訳して大意をつかみ、4.『資治通鑑証補』の指摘を拾って赤文字で示す、という作業段階のものです。今後、精度を上げます。
1.維基文庫で、『資治通鑑』のテキストを取得。/2.中華書局の『資治通鑑』を底本とし、テキストを修正。/3.胡三省注、『資治通鑑考異』で内容理解を深める。/4.現代語訳をする際は、『資治通鑑』(続国訳漢文大成)、『和刻本資治通鑑』を参考とする。頼惟勤・石川忠久編『資治通鑑選』(中国古典文学大系14、平凡社)に収録されている部分はこれを参照する。/5.石川安貞『資治通鑑証補』(蓬左文庫)が正史等の出典を概ね示しているため、そのまま引用。同書が空格(空欄)としているものは、追加検証しない。6.初出の語彙には、読みがな(ルビ)を付す。

建興二(三一四)年

現代語訳

春正月辛未、日が地に落ちるように見えた。また三つの日が相次いで昇り、西から出て東に向かった。丁丑、大赦した〈晋書 愍帝紀〉
流星が牽牛から出て、紫微に入り、光は地を照らして、平陽の北に墜ち、肉へと変わり、縦は三十歩、横は二十七歩であった。漢主の劉聡はこれを不快に思い、公卿に質問した。陳元達は、「女性への寵愛が盛んになり、国が滅亡する予兆です」と言った。劉聡は、「これは陰陽の理であり、人事とは関わりがない」と言った〈前趙録 劉聡伝〉。劉聡の后の劉氏は賢明であり、劉聡に道に外れた行いがあれば、いつも劉氏が補正した〈前趙録 劉氏伝に依る〉。己丑、劉氏が卒し、武宣と謚した。いれ以降は身分の低い女子が競って進み、後宮は秩序が失われた〈前趙録 劉聡伝〉
劉聡は丞相ら七公を置いた。さらに輔漢ら十六大将軍を置き、それぞれ兵二千を配し、諸子をこれに任命した。さらに左右司隸を置き、それぞれ戸二十餘万を統括し、一万戸ごとに一つの内史を置いた。単于左右輔は、それぞれ六夷十万落を統括し、一万落ごとに一都尉を置いた。左・右選曹尚書は、どちらも官僚人事を管轄した。司隸より以下の六官は、いずれも位は僕射に次いだ。劉聡の子である劉粲を丞相・領大将軍・録尚書事とし、進めて晋王に封じた。江都王の劉延年が尚書六條事を録し、汝陰王の劉景を太師とし、王育を太傅とし、任顗を太保とし、馬景を大司徒とし、朱紀を大司空とし、中山王の劉曜を大司馬とした〈前趙録 劉聡伝〉
壬辰、王子春ら及び王浚の使者が襄国に至ると、石勒は強兵と武具を隠し、弱兵と閑散とした軍府を見せ、北面して(臣下として)使者から文書を受け取った。王浚は石勒に麈尾(鹿の尾をかたどった道具)を贈り、石勒はわざと手に持たず、壁に掛けて、朝夕に拝んで、「私は王公に謁見できぬが、下賜品を見れば、王公にお目にかかれたような気分になれる」と言った。また(石勒は)董肇を派遣して王浚に上表を奉り、三月中旬を期日として自ら幽州を訪問して尊号(皇帝号)を奉ることを約束した。さらに書簡を棗嵩に送り、并州牧・広平公の位を求めた〈後趙録 石勒伝〉
石勒が王浚の政治について王子春に質問すると、子春は、「幽州は昨年に洪水があり、人は穀物を食べず、王浚は粟百万を備蓄しているが、振給できず、裁判や刑罰は苛酷であり、税や賦役は煩瑣で重く、忠賢な人は内で心が離れ、夷狄は外で叛いています。誰もが彼の滅亡が近いことを知っており、しかし王浚は自然体であり、少しも恐怖心がなく、台閣を改築し、百官を整列させ、自ら漢高(劉邦)・魏武(曹操)を超えたと言っています」と言った。石勒は机を撫でて、「王彭祖(王浚)を捕縛できそうだ」と笑った。王浚の使者が薊に還ると、つぶさに、「石勒は兵が弱小で少なく、忠誠心は無二です」と言った。王浚は大いに悦び、ますます油断し、防備を怠った〈後趙録 石勒伝〉
楊虎は漢中の吏民を成(後蜀)に連れ去り、梁州の人である張咸らは兵を起こして楊難敵を追った。難敵が去ると、張咸は領地ごと成に帰順し、ここにおいて漢嘉・涪陵・漢中は全て成の領土になってしまった。成主の李雄は李鳳を梁州刺史とし、任回を寧州刺史とし、李恭を荊州刺史とした〈蜀録 李雄伝〉
李雄は謙虚であり賢者を好み、才能に応じて官職を授けた。太傅の李驤に命じて国内の民を養わせ、李鳳らに国外を招き懐かせた。刑法は簡潔で寛大であり、牢獄には囚人がいなかった。学校を起こし、史官を置いた。民に課した税は、成人男子は一年に穀物を三斛、成人女子はその半分であり、病人はさらに半分とした。戸ごとに課する調の絹は数丈、綿は数両に超えなかった。政務は少なく労役は稀なので、民は財産を蓄積し、新たに臣従した者は負担を免除した。このとき天下は大いに乱れたが、蜀地方だけが平穏であり、年ごとに収穫量が増え、村里の門は開けっぱなしで、落とし物を拾わなかった。漢嘉夷王の沖帰・朱提の審炤・建寧の爨疆らがいずれも帰順した。かつて巴郡が急を告げ、晋兵が襲来したと報告した。李雄は、「私はいつも琅邪王が弱小であり、石勒に滅ぼされることを心配し、心を痛めている、まさか兵を上げ(晋が成を攻め)、他人(石勒)を喜ばせるものか」と言った。李雄の朝廷には礼制の序列がなく、爵位が濫発された。官吏には秩禄がなく、民から直接収入を取った。軍には隊伍がなく、号令は整備されなかった。これらが(成の)欠点であった〈蜀録 李雄伝〉
二月壬寅、張軌を太尉・涼州牧とし、西平郡公に封じた。王浚を大司馬・都督幽・冀諸軍事とした。荀組を司空・領尚書左僕射兼司隸校尉、行留台事とした〈晋書 愍帝紀〉。劉琨を大将軍・都督并州諸軍事とした〈晋書 劉琨伝〉。朝廷は張軌が老年で病気なので、子の張寔を副刺史とした〈未詳〉
石勒の軍は準備万端で、王浚を襲撃しようとしたが、迷っていた。張賓は、「人を襲うなら、不意討ちです。いま軍を引き締めておきながら日数を浪費していますが、劉琨及び鮮卑・烏桓に背後を脅かされることを畏れていますか」と言った。石勒は、「そうだ、どうしたものか」と言った。張賓は、「彼ら三勢力のなかに智勇が将軍に及ぶ者はおりません、遠征しても、きっと動きません、しかも彼らは将軍(石勒)が千里の先まで幽州を取りに行くとは思っておりません。軽軍を往復させれば、二十日に収まりますし、もし彼らに野心があっても、計画し出陣するころには、われらは帰還しております。しかも劉琨・王浚は、形式的には晋臣の同僚ですが、実態は仇敵同士です。劉琨に書簡を送り、人質を送って和睦を申し出れば、劉琨はわれらの服従を悦んで王浚を滅ぼすことに同意し、王浚を救うためにわれらを襲うことはありません。用兵は神速を貴びます、遅れてはなりません」と言った。石勒は、「私が決断できぬことを、右候(張賓)は決断していた、もう迷うまいぞ」と言った〈後趙録 石勒伝〉
(石勒は)火を灯して夜に進み、柏人に到着し、主簿の游綸を殺したが、兄の游統が范陽におり、計画の漏洩を恐れたからである。書簡と人質を劉琨に送り、自らの罪悪を述べ、王浚討伐への協力を要請した。劉琨は大いに喜び、檄文を州郡に回付し、「猗廬とともに石勒討伐を検討していたが、石勒は逃げてきて屈服し、幽州を奪うことで罪を償いたいと言ってきた。六脩に南のかた平陽を襲わせ、僭称している逆賊(劉聡)を除き、死を覚悟した逋羯(石勒)を降そう。天に従い民に沿い、国家を補佐するのは、先年から誠意を積み重ねた神霊の加護を受けられる行いである」と言った〈後趙録 石勒伝〉
三月、石勒の軍は易水に達し、王浚の督護である孫緯は馳せて王浚に報告し、王浚は軍を整えて防ごうとしたが、游統が制止した。王浚の将佐はいずれも、「胡族は貪欲で信用できない、必ず詭計があるから、攻撃させてほしい」と言った。王浚は怒り、「石公が来たのは、私を奉戴するためだ。これ以上言えば斬る」と言った。将佐らは黙らされた。王浚は饗応の準備をした。壬申、石勒は朝に薊に至り、門番に呼び掛けて開かせた。伏兵があることを疑い、先に牛羊の数千頭を駆けさせ、それを献上品と説明し、実際には城内の街巷を埋め尽くすのが目的であった。王浚は恐れ始め、座ったり立ったりした。石勒が入場すると、兵に好き勝手に掠奪させ、王浚の側近が制圧しましょうと言ったが、王浚はまだ認めなかった。石勒が中庭に入り、王浚が政堂から走り出たところを、石勒の兵が捕らえた。石勒は王浚の妻を召し、彼女と並んで座り、王浚を縛ってその前に立たせた。王浚は、「胡奴めを戯れに公にしてやったのに、なぜこのような凶逆を働くのだ」と罵った。石勒は、「公は最高位であり、配下に強兵を擁しておりながら、朝廷の傾覆を見ているだけで、救援をせず、自ら天子になろうとした、これこそ凶逆ではないか。邪悪で貪欲な人々を任用し、百姓を残虐に扱い、賊が忠良な人物を殺害し、燕土(幽州)に毒をまき散らした、これは誰の罪だろうか」と言った。将の王洛生に五百騎で王浚を襄国へと護送させた。王浚は自ら川に飛び込んだが、絡め取られ、襄国の市で斬られた〈後趙録 石勒伝〉
石勒は王浚の麾下の精鋭一万人を殺した〈後趙録 石勒伝〉。王浚の将佐らは競って軍門を訪れて謝罪し、賄賂が飛び交った。前尚書の裴憲・従事中郎の荀綽だけが至らず、石勒が召し出して、「王浚が暴虐なので、私が討ち果たした、諸人は祝福に来ているのに、二君だけが反発している、殺戮から逃れられると思うなよ」と二人を咎めた。返答して、「私たちは晋王朝に仕えてきた家で、その栄誉を受けてきました、王浚は凶逆であろうと、晋王朝の藩臣には違いなく、ゆえに従い、二心を持ちませんでした。もし明公が徳義を修めず、厳罰のみを下すなら、私たちは死刑が相応しく、逃げたりいたしません。どうぞ死刑になさい」と言った。頭を下げず退出した。石勒は召して謝り、客礼で待遇した〈晋書 裴秀伝 附裴憲伝〉。荀綽は、荀勖の孫である〈晋書 荀勖伝〉。石勒は朱碩・棗嵩らが賄賂を取って政治を乱し、幽州の負担になったことを責め、游統は働きぶりが不忠であったことを責め、彼らを斬った〈石勒伝〉。浚の将佐・親戚の家財を没収し、それぞれ巨万に至ったが、ただ裴憲・荀綽だけは書物が百餘帙、塩と米が十餘斛ずつしかなかった。石勒は、「私は幽州を得たことよりも、二人を得たことのほうが嬉しい」と言った。裴憲を従事中郎とし〈裴憲伝〉、荀綽を参軍とした〈荀勖伝〉。流民を分散させ、郷里に帰還させた。石勒は薊に二日だけ留まり、王浚の宮殿を焼き、もと尚書である燕国の劉翰を行幽州刺史として、薊を守らせ、守宰を設置して還った。孫緯が帰路を遮って攻撃し、石勒は辛うじて逃げ延びた〈石勒伝〉
石勒は襄国に至り、使者を送って王浚の首を奉って勝利を漢(前趙)に献上し、漢は石勒を大都督・督陝東諸軍事・驃騎大将軍・東単于とし、封十二郡を増した。石勒は固辞し、二郡だけを受けた〈石勒伝〉
劉琨は拓跋猗盧に兵を要請して漢を攻撃しようとしたが、たまたま猗廬のもとの雑胡一万餘家が石勒に呼応したので、猗廬は彼らを全て誅殺し、劉琨との盟約を果たせなかった。劉琨は石勒に降服の意思がないと知り、大いに懼れ、上表して、「東北の八州のうち、石勒が七州を滅ぼしました。先代の朝廷が任命した州長官は、生き残りが私だけです。石勒は襄国を本拠地とし、私とは山を隔てております、朝に出発すれば夕に到着する距離なので、城や塢は驚き恐れています、忠義と公憤を抱いていても、力が伴いません」と言った〈晋書 劉琨伝に依る〉
劉翰は石勒に従いたくないので、段匹磾のもとに帰順し〈後趙録 石勒伝〉、段匹磾は薊城を拠点とした。王浚の従事中郎の陽裕は、陽耽の兄の子であり、令支に逃げ込み、段疾陸眷を頼った〈未詳〉。会稽の朱左車・魯国の孔纂・泰山の胡母翼は薊から昌黎に逃げ込み、慕容廆を頼った。このとき中原の流民のうちで慕容廆に帰順したものは数万家おり、慕容廆は冀州の人を(出身地により編成して)冀陽郡とし、豫州の人を成周郡とし、青州の人を営丘郡とし、并州の人を唐国郡とした〈前燕録 慕容廆伝〉
これより先、王浚は邵続を楽陵太守とし、厭次に駐屯させた。王浚が敗れると、邵続は石勒に従い、石勒は邵続の子の邵乂を督護とした。王浚が任命した勃海太守である東萊の劉胤は郡を棄てて邵続を頼ったが、邵続に、「大きな功績は、大きな義によって立てるものだ。きみは、晋の忠臣であるのに、なぜ賊に従って自らを汚すのか」と言った〈石勒伝〉。このころ段匹磾が文書を送って邵続を誘って一緒に左丞相の司馬睿に仕えようと言い、邵続はこれに従った。人々は、「いま石勒を棄てて段匹磾に合流したら、子の邵乂はどうなるのか」と言った。邵続は、「わが子を惜しんで叛逆の臣にはなれぬ」と泣いた。異論を述べる数人を殺した。石勒はこれを聞き、邵乂を殺した。邵続は劉胤を江東への使者とし〈石勒伝〉、司馬睿は劉胤を參軍とし〈晋書 劉胤伝〉、邵続を平原太守とした〈晋書 邵続伝〉。石勒は派兵して邵続を包囲したが、段匹磾は弟の文鴦に救援させ、石勒の兵は撤退した。襄国は大いに飢え、穀物は二升あたり銀一斤、肉は一斤あたり銀一両となった〈石勒伝〉
杜苾の将である王真は陶侃を休障で襲撃し、陶侃は灄中に逃げた。周訪が陶侃を救い、杜苾の兵を攻撃し、これを破った。撃苾兵、破之〈未詳〉
夏五月、西平の武穆公である張軌が病に臥せり、「文武の官と将佐は、百姓を安定させることに努め、上は国家に報恩し、下は家を安寧にするように」と遺令した。己丑、張軌が薨じた。長史の張璽らは上表して世子の張寔に父の位を摂らせた〈前涼録 張寔伝〉
漢の中山王である劉曜・趙染が長安に侵攻した。六月、劉曜は渭汭に、趙染は新豊に駐屯し、索綝が出撃して(劉曜軍を)防いだ。趙染は索綝を侮っている様子なので、長史の魯徽が、「晋の君臣は、弱者が強者に勝てぬことを理解し、死に物狂いで戦います、侮ってはいけません」と言った。趙染は、「司馬模は強かったが、われらは朽木を折るように容易に撃破できた。索綝は小役人であり、わが馬蹄や刀刃を汚せるはずがない」と言った。夜明けに、軽騎数百で迎え撃ち、「索綝を捕らえてから朝飯にしよう」と言った。索綝と(新豊の)城西で戦ったが、趙染の軍は敗れて帰り、「魯徽の発言を聞かずに敗北した、あわせる顔がない」と後悔し、先に魯徽を斬れと命じた。魯徽は、「将軍の愚かさが敗北を招き、さらに自分より優れた者を侵害し、忠良な人物を逆恨みして誅するなら、天地は広くとも、将軍の死体の安置場所はどこにもないぞ」と言った〈前趙録 劉聡伝〉。詔して索綝に驃騎大将軍・尚書左僕射・録尚書、承制行事を加えた〈晋書 索綝伝〉
劉曜・趙染はさらに将軍の殷凱とともに数万を率いて長安に向かい、麴允が馮翊で迎撃したが、麴允が敗れ、兵を集めた。夜、殷凱の軍営を襲い、殷凱は敗死した。劉曜は引き返して河内太守の郭黙を懐県で攻め、三屯を並べて包囲した。郭黙の食料は尽き、妻子を人質に送り、劉曜に穀物の買い入れを要請した。売買が終わると、また籠城した。劉曜は怒り、郭黙の妻子を河に沈めて攻撃を再開した。郭黙は新鄭の李矩のもとを頼りたいと考え、李矩はおいの郭誦を迎えの使者にしたが、兵が少なく、敢えて進まなかった。おりしも劉琨が参軍の張肇に鮮卑五百餘騎を率いて長安に向かわせたが、道路が通行できず、引き返すところで、李矩の軍営のそばを通過し、李矩は張肇を説得し、漢兵(劉曜軍)を攻撃させた。漢兵は鮮卑を遠くに見て、戦わずに逃げ、郭黙は兵を率いて李矩に合流できた。漢主の劉聡は劉曜を召し還して蒲坂に駐屯させた〈前趙録 劉聡伝〉
秋、趙染は北地を攻め、麴允がこれを防ぎ、趙染は弩に当たって死んだ〈劉聡伝〉。石勒は初めて州郡に戸籍の実態調査を命じ、戸ごとに帛二匹、穀二斛を供出させた〈後趙録 石勒伝〉
冬十月、張寔を都督涼州諸軍事・涼州刺史・西平公とした〈前趙録 張寔伝〉
十一月、漢主の劉聡は晋王の劉粲を相国・大単于とし、政務全般を担当させた。劉粲は若くして優れた才能があったが、宰相になってから、驕慢と奢侈が暴走し、賢者を遠ざけ侫邪と親しみ、処置は厳しく諫言を拒み、国人は彼を憎むようになった〈前趙録 劉粲伝に依る〉
周勰は父の遺言により〈晋書 周処伝 附周玘伝に依る〉、呉人の(中原への)怨みを踏まえ、乱を計画した。呉興の功曹である徐馥が叔父で丞相従事中郎である徐札の命令だと嘘をつかせ、人々を糾合し、王導・刁協の討伐を目標に掲げると、豪族は団結して従い、孫晧と同族である孫弼もまた広徳で兵を起こして呼応した〈晋書 周処伝 附周勰伝〉

建興三(三一五)年

現代語訳

春正月、徐馥は呉興太守の袁琇を殺し、数千の兵が集まり、周札を推戴しようとした。周札は聞いて、ひどく驚き、義興太守の孔侃に報告した。周勰は周札が同意していないと知り、敢えて実行しなかった。徐馥の配下は恐くなり、徐馥を攻め、殺した。孫弼もまた死んだ〈晋書 周勰伝〉。周札の子の周続もまた人を集めて徐馥に呼応したので、左丞相の司馬睿はこれを討伐することを議論した。王導は、「いま少数の兵を出しても鎮圧には足りず、多数の兵を出せば本拠地が手薄になる。周続の族弟である黄門侍郎の周莚は、忠良で頭が切れるから、周莚ひとりに行かせれば、周続を誅殺できましょう」と言った。司馬睿は従った。周莚は昼夜兼行し、郡に至り、入ろうとしたとき、周続と城門で遭遇し、周続に、「一緒に孔府君(孔侃)のところに行こう、話があるのだ」と言った。周続は渋ったが、強引に連れていった。着席すると、周莚は孔侃に、「府君はなぜ賊に座席を与えているのですか」と言った。周続は衣のなかに刀を隠し持っており、周莚に切りつけようとしたが、周莚は郡の伝教(吏の一種)の呉曾に命じて(周続を)殴り殺させた。周莚は周勰を誅殺しなさいと申し出たが、周札は許さず、罪を従兄の周邵にかぶせて誅殺した。周莚は家に帰って母に挨拶することもなく、遠くに去ったので、母があわてて追いかけた〈晋書 周処伝 附周莚伝〉。司馬睿は周札を呉興太守とし〈未詳〉、周莚を太子右衛率とした〈周莚伝〉。周氏は呉の名望家であり、ゆえに責任を追及せず、周勰の待遇を従来通りとした〈周処伝 附周勰伝〉
平東将軍の宋哲に命じて華陰に駐屯させた〈晋書 愍帝紀〉
成主の李雄が任氏を后に立てた〈蜀録 李雄伝〉
二月丙子、琅邪王の司馬睿を丞相・大都督・督中外諸軍事とし、南陽王の司馬保を相国とし〈愍帝紀〉、荀組を太尉・領豫州牧とし〈晋書 荀組伝〉、劉琨を司空・都督并・冀・幽三州諸軍事とした。劉琨は司空を辞退して受けなかった〈劉琨伝〉
南陽王の司馬模が敗れると、都尉の陳安は世子の司馬保に秦州で帰順し、司馬保は陳安に命じて千餘人を率いて叛羌を討伐させ、待遇は手厚かった。司馬保の将である張春がこれに嫉妬し、陳安を批判し、野心があるから、排除せよと言ったが、司馬保は聞き入れなかった。張春は刺客を伏せて陳安を襲った。陳安は負傷し、隴城に馳せ帰ると、司馬保に使者を送り続け、連絡を絶やさなかった〈晋書 南陽王模 附保伝〉
詔して拓跋猗盧の爵位を代王に進め、官属を置き、代・常山の二郡を食邑とした。猗盧は并州従事である雁門の莫含を(代国の臣にしたいと)劉琨に要請し、劉琨は同意した。莫含が嫌がると、劉琨は、「并州が孤立して弱いのは、私の不才ゆえだ、しかし胡族や羯族のあいだで存続しているのは、代王のおかげだ。私は身を傾け財を尽くし、長子を人質を出して代王を奉っているのは、朝廷の大恥を雪ぎたいからだ。きみが忠臣であるなら、なぜ私と一緒にいるという小事にこだわり、国家の大義を忘れるのか。赴任して大王に仕え、腹心となり、一州を支えてくれ」と言った。こうして莫含は赴任した。猗廬は彼を重用し、つねに国家の大計を相談した〈北魏 莫含伝〉
猗盧の法運用は厳格で、法を犯した者がいたら、あるとき部族ごと誅殺することになり、老幼が連れだって行き、人が「どこへ行く」と問うと、「死にに行くのだ」と答えた。一人として逃げ隠れしなかった〈北魏書 序紀に依る〉
王敦は陶侃・甘卓らに杜弢を討伐させ、前後数十回にわたって戦い、杜弢の将士が多く死に、丞相の司馬睿への降服を願ったが、司馬睿は許さなかった。杜弢は南平太守の応詹に文書を送り、応詹との昔語りをして、「ともに楽郷を討ち、喜びも悲しみも共有した。のちに湘中におり、死を懼れて生を求め、集団を形成した。もし旧交の情により、曲直を明らかにし、盟府(司馬睿)に取りなしてくれたら、義軍に参加し、北のかた中原を清めたり、西のかた李雄を撃ったりし、贖罪をするつもりだ、(晋王朝のために)死ぬ日がきても、誕生した年のように思う」と言った。応詹はこれを提出し、「杜弢は、益州の秀才です、清潔で名望があり、同郷の人に無理やり担がれただけです。十分に反省していますから、彼を受け入れてやり、江・湘の民を安心させて下さい」と言った。司馬睿は前の南海太守の王運を送って杜弢の降服を受け入れ、反逆の罪を赦し、杜弢を巴東監軍とした。杜弢が任命を受けても、諸将の反発が収まらなかった。杜弢は怒りを抑えきれず、とうとう王運を殺して再び反乱し〈晋書 杜弢伝〉、将の杜弘・張彦に臨川内史の謝擒を殺害させ〈愍帝紀に依る〉、豫章を陥落させた〈周訪伝〉。三月〈愍帝紀〉、周訪が張彦を攻撃し、これを斬り、杜弘は臨賀に逃げ込んだ〈周訪伝〉
漢が大赦し、建元と改元した〈前趙録 劉聡伝〉
漢の東宮の延明殿に血が降ると、太弟の劉乂がこれを不吉とし、太傅の崔瑋・太保の許遐に質問した。崔瑋・許遐は劉乂に、「主上が先日殿下を太弟としたのは、郡臣の心を安定させるためでした。しかし(後嗣選びの)本命はずっと晋王(劉粲)であり、王公以下は彼に迎合しています。さらに晋王を相国とし、官位と威儀が重くなり、東宮(劉乂)を超え、政治全般は、彼が管轄し、諸王はみな営兵を置いて(劉粲の)羽翼となり、情勢はあちらが有利です。殿下はこのまま太弟の地位にあることはできず、眼前に不測の事態が迫っております、早く対策を取るべきです。いま四衛の精兵は五千を下りませんが、相国(劉粲)は軽率なところがあるので、刺客一人で殺せます。大将軍(劉粲の弟である勃海王の劉敷)は毎日のように外出するので、軍営を奪えます。それ以外の王は幼いので、確保は簡単です。殿下の意思があるなら、二万の精兵に指示を出し、軍鼓を鳴らして雲龍門に入りなさい、宿衛の士は、殿下へと寝返るでしょう。大司馬(中山王の劉曜)はこの異変を予測していません」と言った。劉乂は従わなかった。東宮舎人の荀裕は崔瑋・許遐が劉乂に謀反を勧めたことを報告し、漢主の劉聡は二人を詔獄に捕らえ、許遐を別の理由をつけて殺した。冠威将軍の卜抽に東宮を監守させ、劉乂に朝会への出席を禁じた。劉乂は憂懼してどうしてよいか分からず、上表して庶人となり、諸子の封爵を返上し、晋王を褒め称え、彼を継嗣にして下さいと願い出た。卜抽がこれを握り潰した〈前趙録 劉聡伝〉
漢の青州刺史の曹嶷は斉・魯のあいだの郡県をことごとく占領し、自ら臨菑を鎮護し、兵が十餘万おり、黄河沿いに防御拠点を置いた。石勒は、「曹嶷は東方を専有する野心がある、討伐させて下さい」と(漢に)上表した。漢主の劉聡は石勒が曹嶷を滅ぼし、制御不能となることを恐れ、許さなかった〈前趙 劉聡伝〉
劉聡は中護軍靳准の二人の娘である月光・月華を娶り、月光を上皇后、劉貴妃を左皇后、月華を右皇后に立てた。左司隸の陳元達は厳しく諫め、「三皇后を並立させるのは、礼制に外れています」と言った。劉聡は悦ばず、元達を右光禄大夫とし、優遇し尊重していると見せかけ、実際には権限を奪った。ここにおいて太尉の范隆らが皆で官職を元達に譲りたいと言い出したので、劉聡は元達を御史大夫・儀同三司に復位させた。月光に不貞行為があったので、元達がこれを上奏し、劉聡はやむを得ず廃位したが、月光は怒り恥じて自殺し、劉聡は元達を恨んだ〈前趙 劉聡伝〉
夏四月、大赦した〈愍帝紀〉
六月、前漢の覇・杜の二陵及び薄太后陵が盗掘して暴かれ、金帛がとても多く、朝廷は財政赤字を補い、詔して残りを内府に貯蔵した。辛巳、大赦した〈愍帝紀〉
漢の大司馬の劉曜が上党を攻め、八月癸亥、劉琨の兵を襄垣で破った。劉曜は陽曲に進攻しようとしたが、漢主の劉聡が使者を送り、「長安の平定がまだだ、そちらを優先せよ」と言った。劉曜は還って蒲坂に留まった〈前趙録 劉聡伝〉
陶侃と杜弢が抗争しており、杜弢が王貢をくり出して戦いを挑ませると、陶侃は遥かに呼びかけ、「杜弢は益州の小吏で、役所の銭を盗み、父が死んでも葬儀に行かなかった。あなたは本来は才人であり、なぜ杜弢などに従うのか。天下に白髪の賊がいるか(賊は長生きできないぞ)」と言った。王貢は馬上で脚を横たえていたが、陶侃の言葉を聞き、態度を改めて脚を下ろした。陶侃は動揺を見て取り、さらに使者を送って説得した。髪を切って証拠とし、王貢は陶侃に降服した〈晋書 陶侃々伝〉。杜弢の軍は潰走し〈晋書 杜弢伝〉、逃げ去り、道中で死んだ〈愍帝紀〉。陶侃は南平太守の応詹とともに長沙に進んで勝ち〈晋書 応詹伝に依る〉、湘州全土が平定された〈愍帝紀に依る〉。丞相の司馬睿は承制して管轄下を赦し、王敦を鎮東大将軍に進め、加都督江・揚・荊・湘・交・広六州諸軍事・江州刺史を加えた〈晋書 王敦伝〉。王敦は刺史以下を選挙し配属させるようになり、徐々に驕慢になっていった〈王敦伝に依る〉
これより先、王如が降服すると、王敦の従弟である王稜は王如の武勇を愛し、己の麾下にしたいと王敦にねだった。王敦は、「こやつは凶悪なので面倒を見るのが難しい、おまえは寛容性がなく性急である、面倒を見切れねば、問題が起こる」と言った。王稜が強く願ったので、与えられた。王稜は彼をそばに置き、特別の寵遇を加えた。王如はしばしば王敦の諸将と格闘や弓術の腕前を競ったので、王稜が杖で打ち(罰すると)、王如は屈辱に感じた。王敦が秘かに野心を抱くようになると、王稜はいつも諫めた。王敦は反対意見に怒り、王如を焚き付けて王稜殺害へと仕向けた。王如が宴会に侍り、剣舞の出し物を申し出て、王稜に許可された。王如は剣舞をしながら接近し、王稜が危険だと叱ったが、直進して殺した。王敦はこれを聞いて、驚いたふりをし、王如も捕らえて誅した〈晋書 王如伝〉
これより先、朝廷は張光が死んだと知り〈未詳〉、侍中の第五猗を安南将軍とし〈晋書 杜曾伝〉、監荊・梁・益・寧四州諸軍事・荊州刺史とし、武関から出発した〈未詳〉。杜曾は第五猗を襄陽で迎え、兄の子を第五猗の娘と婚姻させ〈晋書 杜曾伝〉、兵一万を集めて、第五猗とともに〈未詳〉漢水・沔水を分けて割拠した〈杜曾伝〉
陶侃が杜弢を破ると、勝ちに乗じて杜曾の攻撃に向かったが、杜曾を侮っていた。司馬の魯恬が、「戦いとは、将軍次第です。いまあなたの諸将は、杜曾に及ぶものがおらず、容易に攻略できません」と諫めた。陶侃は従わず、進んで杜曾を石城で包囲した。杜曾の軍は騎兵が多く、秘かに開門して陶侃の陣を突破し、後ろに抜け、反転して突撃し、陶侃軍の死者は数百人であった。杜曾は順陽に趨ろうとし、下馬して陶侃に拝礼し、挨拶をして去った〈杜曾伝〉
このとき荀崧は都督荊州江北諸軍事として、宛に駐屯し、沮宗は兵を率いてここを囲んだ。荀崧は兵が少なく食料が尽き、故吏である襄城太守の石覧に救いを求めようとした。荀崧の末娘の荀灌は、十三歳だが、勇士数十人を連れ、城壁を越えて包囲を突き抜けて夜に出て、戦いながら進み、石覧のところに到達した。また荀崧の書簡を作り、南中郎将の周訪に救いを求めた。周訪は子の周撫に兵三千を率いさせ、石覧とともに荀崧を救ったので、杜曾は逃げ去った〈晋書 列女 荀崧小女灌伝〉
杜曾はまた荀崧に書簡を送り、丹水の賊を討伐して自らの手柄としたいといい、荀崧はこれを認めた。陶侃は荀崧に文書を送り、「杜曾は狡猾であり、鴟や梟のように(成長したら)母すら食らう種類の人間だ。彼が生きている限り、州土に平和は訪れない、肝に銘じよ」と言った。荀崧は宛の城内の兵が少ないから、杜曾を城外の援軍にしようとしたが、断られた。杜曾は流亡の二千餘人を率いて襄陽を包囲したが、数日して、勝てずに還った〈杜曾伝〉。 王敦の側近である呉興の銭鳳は、陶侃の功績を妬み、しばしば批判した〈未詳〉。陶侃が江陵に還るとき、王敦を訪問しようとした。朱伺及び安定の皇甫方回は諫めて、「一度入ったら出てこられません」と言った。陶侃は従わなかった。到着すると、王敦は陶侃を留めて行かせず、転じて広州刺史に左遷し〈晋書 陶侃伝〉、従弟である丞相軍諮祭酒の王廙を荊州刺史とした〈晋書 王廙伝〉。荊州の将吏である鄭攀・馬雋らは王敦のものを訪れ、上書して陶侃の留任を願ったが、王敦は怒って〈怒の字は陶侃伝に依る〉、許さなかった〈王廙伝に依る〉。鄭攀らは陶侃が大賊を滅ぼしたにも拘わらず、官職を退けられたので、怨恨を抱いた。また王廙は気ままに悪事を働いたので、(鄭攀らは)部下三千人を連れて溳口に駐屯させ(王廙の荊州入りを阻止し)〈未詳〉、西のかた杜曾を迎えた。王廙は鄭攀に襲撃されると、江安に逃げた。杜曾は鄭攀らとともに北の第五猗と連携して王廙を締め出した。王廙は諸軍を督して杜曾を討伐したが、破られた〈王廙伝に依る〉。王敦は鄭攀が陶侃にそそのかされていると考え、鎧を着けて矛を持ち陶侃を殺そうとしたが、(決行できず)四回も往復した。陶侃は顔色を正し、「あなたは英雄としての決断力を備え、天下を裁量できるのに、何を迷っているのですか」と言い、厠所に立った。諮議参軍の梅陶・長史の陳頒は王敦に、「周訪は陶侃と姻戚関係にあり、左右の手のようなもの、左手を切って右手が反応しない人がおりますか(陶侃を殺せば周訪との敵対が不可避です)」と言った。王敦の殺意は解け、盛大に宴を設けて餞とし、陶侃は夜のうちに出発し、王敦は子の王瞻を参軍とした〈陶侃伝〉
これより先、交州刺史の顧秘が卒し、州人は顧秘の子の顧寿に政務を任せた。帳下督の梁碩が起兵して顧寿を攻めて、これを殺し、交州で専制した〈未詳〉。王機は自ら広州を奪って割拠していたので、王敦から討伐されることを恐れ、代わりに交州を欲した〈晋書 王機伝〉。そこに杜弘(杜弢の将)が到着して王機に降服したので、王敦は王機を利用して梁碩を討伐しようとした。杜弘を降したことを王機の功績とし、交州刺史に転任させた。王機が鬱林に至ると〈王機伝〉、梁碩は前刺史の脩則の子である脩湛を迎えて行州事として(王機の赴任を)妨害した。王機は進むことができず〈未詳〉、改めて杜弘及び広州の将である温邵・交州の秀才である劉沈とともに広州に引き返して割拠することを計画した。陶侃が始興に至ると、州人はみな形勢を観察し、軽率に進んではならぬと助言した。陶侃は聞かず、まっすぐ広州に至ったが〈陶侃伝及び王機伝に依る〉、諸郡県はすでに王機を歓迎していた〈王機伝〉。杜弘は偽って降服の使者を送ったが、陶侃はその謀略を見抜き、進んで杜弘を撃って、これを破り、とうとう劉沈を小桂で捕らえた〈陶侃伝〉。督護の許高に王機を討伐させ、これを走らせた。王機は道中で病死し、許高はその死体を掘り出し、斬りつけた〈王機伝〉。諸将はみな勝ちに乗じて温邵を撃ちましょうと言ったが、陶侃は笑って、「わが威名はすでに表れた、兵を動かす必要はない。ただ一通の書状があれば鎮定できる」と言った。書を下して彼を諭した。温邵が懼れて逃げたので、追って始興で捕らえた〈陶侃伝〉。杜弘は王敦のもとに降服し〈王敦伝〉、広州はこうして平定された。
陶侃は広州にいるとき平穏であったが、朝に百枚の瓦を運び出し、夕方に運び入れていた。人がその理由を聞くと、「これから中原で力を発揮しようと思うが、あまりにも平和なので、体力が落ちるのを恐れ、負荷を掛けているのだ」と言った〈陶侃伝〉
王敦は杜弘を将とし、重用した〈王敦伝〉
九月、漢主の劉聡は大鴻臚から石勒に弓矢を賜り、策命して石勒を陝東伯とし、自らの判断で征伐を起こし、刺史・将軍・守宰を任命し、列候に封ずる権限を与え、年ごとに報告するものとした〈前趙録 劉聡伝〉
漢の大司馬である劉曜が北地に侵攻し、詔して麴允を大都督・驃騎将軍として防御させた〈劉聡伝〉。冬十月、索綝を尚書僕射・都督宮城諸軍事とした〈愍帝紀〉。劉曜は進んで馮翊を抜き、太守の梁粛は萬年に逃げ込んだ〈劉聡伝〉。劉曜は転じて上郡に侵攻すると、麴允は黄白城に去り、霊武に進軍したが、兵が弱いため、敢えて進まなかった〈忠義伝〉。 愍帝はしばしば丞相の司馬保から兵を徴発したので、司馬保の左右は、「蛇の毒が手に回れば、壮士は腕を切断し(毒が全身に回るのを防ぎ)ます。いま胡族の侵入が激化しており、隴道を断ち切って(領土を一部放棄して)時間を稼ぎましょう」と言った。従事中郎の裴詵は、「蛇の毒はもう頭に回っている、頭を切り落とせるのか」と言った。司馬保は鎮軍将軍の胡崧を行前鋒都督とし、諸軍が集まるのを待ってから出発した。麴允は愍帝を奉って司馬保と合流しようと考えたが、索綝は、「司馬保が天子を得れば、必ず私的や野心を逞しくする」と言い、制止した〈前趙録 劉聡伝〉。ここにおいて長安以西は、朝廷に税や物品を納めず〈未詳〉、百官は飢えて貧しくなり、野草を採って自活した〈劉聡伝〉
涼州の軍士である張冰が璽を入手し、文に「皇帝行璽」とあり、張寔に献じると、僚属はみな祝賀した。張寔は、「これは人心が留め持ってはならぬ物だ」と言った。これを長安に届けた〈前涼録 張寔伝〉

建興四年(三一六)年

現代語訳

春正月、司徒の梁芬は呉王の司馬晏に追尊することを提議し、右僕射の索綝らは魏の明帝の詔を引用して反対した。太保を追贈し、孝と謚した〈未詳〉
漢の中常侍の王沈・宣懐・中宮僕射の郭猗らは、みな寵愛されて政治を参加した。漢主の劉聡は後宮で宴遊し、三日間起きず、百日出てこないことがあった。昨年冬から朝廷に現れず、政治は一切を相国の劉粲に委ね、ただ殺生と任免だけは王沈らに枕元で報告させた。王沈らは多くを報告せず、私的な意向で結論を変え、ゆえに元勲が叙任されず、奸佞な小人物が数日で二千石に昇進したりした。毎年外征が行われたが、将士には銭帛の褒賞がなく、他方で後宮の家には、召使いの少年まで賞賜が及び、数千万に至った。王沈らの車服や邸宅は諸王を上回り、(王沈らの)子弟のうちで守令になった者は三十餘人、みな利権を貪って民を迫害した。靳准は一族をあげて諂った〈前趙録 劉聡伝に依る〉
郭猗は靳准とともに太弟乂(劉乂)を怨んでおり、郭猗は相国の劉粲に、「殿下は光文帝の世孫であり、主上の嫡子です、四海から支持されているにも拘わらず、なぜ天下を太弟に与えてしまうのですか。聞けば太弟は大将軍(劉驥)とともに三月上巳の大宴での反乱を計画しており、成功すれば、主上を太上皇とし、大将軍を皇太子とし、衛将軍(劉勱)を大単于とするそうです。三王は確固たる地位におり、兵権を握っているので、決行すれば、必ずや成功します。二王は一時の利を貪り、父兄を顧みませんから、成功すれば、主上の命は危険に晒されます。殿下の兄弟(が殺されること)は、言うまでもありません。東宮・相国・単于は、武陵の兄弟(劉乂の諸子)が独占し、他に与えないでしょう。禍いは目前に迫っております、早く手を打つべきです。しばしば主上に申し上げましたが、主上は友愛に厚く、私は囚人の生き残りだからか、信用されません。殿下は漏らすことなく、状況を主上に告げて下さい。信用なさらぬなら、大将軍従事中郎の王皮・衛軍司馬の劉惇を召し、恩意を施すふりをして、投降をほのめかせば、全てが分かると思います」と言った。劉粲はこれを認めた。郭猗はひそかに王皮・劉惇に、「二王の反逆計画を、主上及び相国(劉粲)は詳しく知っている、きみらも共謀者か」と言った。二人は驚き、「(計画は)ありません」と答えた。郭猗は、「事態はすでに決した、きみらの親族や旧知が族殺されるのを可哀想に思う」と言った。むせび泣いた。二人は大いに驚き、叩頭して憐みを求めた。郭猗は、「方策を授けよう、できるな。相国から質問されたら、ただ(反乱の計画が)ありますとだけ答えよ。もし先に追及されて質問が来なければ、すぐに、私たちは死罪を犯しました。主上の寛仁と、殿下の敦睦さを頼るばかりです、信じて頂けない場合、誣告の罪により誅殺される懸念があったので、言い出せなかったのですと言え」と教えた。王皮・劉惇は合意した。劉粲が二人を召して質問すると、別々に訊問されたが、回答がぴったり同じなので、劉粲は(反逆計画の存在を)信用をした〈前趙録 劉聡伝に依る〉
勒准はさらに劉粲に、「殿下は東宮(劉乂の居所)におり、相国を領し、天下の支持を繋いで下さい。いま巷間では、大将軍・衛将軍が太弟を奉って政変を計画し、季春に決行するらしいと噂されています。もし太弟が天下を得れば、殿下は居場所がなくなります」と言った。劉粲は、「どうしたらよい」と聞いた。靳准は、「他人が太弟が政変を起こすと言っても、主上は絶対に信じません。東宮の禁令を緩め、賓客の往来を認めなさい。太弟は高雅なひとで士人を待遇し、軽薄な小人も拒まないので、太弟の意思に迎合する者の出現を防げません。その後に私が殿下のために(太弟の)罪を上表します、殿下は太弟と交際する賓客を捕らえて取り調べ、証言を取れば、主上も信じない理由がないでしょう」と言った。劉粲は卜抽に命じて兵を率いて東宮に行った〈前趙録 劉聡伝に依る〉
少府の陳休・左衛将軍の卜崇は、人となりが清直で、以前から王沈らを憎んでおり、公の席でも、会話をせず、王沈らは不愉快であった。侍中の卜幹が陳休・卜崇に、「王沈らの勢力は天地を反転させるほどだ、あなたたちの(主上からの)信頼と賢さは(後漢の)竇武・陳蕃と比べてどうだね」と聞いた。陳休・卜崇は、「われらは五十歳を過ぎ、職位はすでに高く、もう死ぬだけだ。忠義のために死ねれば、本望である。宦官に媚び諂うことなんてできようか。卜公よ去りたまえ、もう言わないでくれ」と言った〈晋書 卜崇伝〉
二月、漢主の劉聡は出て上秋閣に臨み、陳休・卜崇及び特進綦毋達・太中大夫の公彧・尚書の王琰・田歆・大司農の朱諧を捕らえて誅殺せよと命じたが、彼らは宦官との敵対者であった。卜幹は泣いて諫め、「陛下は側近に賢者を求めておりながら、一度に卿大夫を七人も殺戮し、いずれも国家の忠良であり、悪手でした。もし陳休らに罪があったとしても、陛下は担当官に検討させず、にわかに罪状を明らかにしました、天下はどのようにして知り得るでしょうか。詔はまだ私の役所にあり、公表されていません、陛下は熟慮なさって下さい」と言った。叩頭して流血した。王沈は卜幹を叱り、「卜侍中が詔に逆らうぞ」と言った。劉聡は衣を払って下がり、卜幹を罷免して庶人とした〈劉聡伝〉
太宰である河間王の劉易・大将軍である勃海王の劉敷・御史大夫の陳元達・金紫光禄大夫である西河王の劉延らは宮殿を訪れて上表して諫め、「王沈らは詔の趣旨を玩び、日月を欺き、内では陛下に諂うが、外では相国に媚びており、権威の重さは、主上に等しく、奸悪な仲間を官僚として送り込み、海内に毒を流しています。陳休らは忠臣であり、国家に忠節を尽くし、政変の計画をあばき、ゆえに冤罪に陥れられました。陛下は事情を察せず、あわてて極刑を加えましたが、天地を痛みが貫き、賢愚ともに傷つき懼れています。まだ晋王朝の残党がおり、巴・蜀とは国交がなく、石勒は趙・魏への割拠を画策し、曹嶷は斉の全域をうかがい、陛下の心腹や四肢は、疾患だらけです。さらに王沈らが政乱を助長して、巫咸(殷の巫者)を誅し、扁鵲(古の良医)を戮せば、不治の病となり、後から治療しようにも、助からぬでしょう。どうか王沈らの官位を免じ、担当官に罪を裁かせなさい」と言った。劉聡はこの上表を王沈らに示し、笑って、「諸児が陳元達にそそのかされ、愚かなことをした」と言った。王沈らは頓首して泣き、「私たち小人は、陛下の過分の抜擢により、宮廷を掃き清めようとしています。しかし王公・朝士から仇敵のように憎まれ、陛下のためにも残念です。鼎鑊(煮殺すための刑具)を潤すことを許して頂ければ、、朝廷はおのずと静謐となります」と言った。劉聡は、「彼らの狂言はいつものことだ、そこまでしなくてよい」と言った。劉聡が王沈らのことを相国の劉粲に質問すると、劉粲は盛んに王沈らの忠誠を称えた。劉聡は悦び、王沈らを列侯に封じた〈劉聡伝〉
太宰の劉易はふたたび宮殿にきて上疏して極諫し、劉聡は大いに怒り、手でその上疏を叩き折った。三月、劉易は憤激して卒した。劉易は忠実でまっすぐな性格で、陳元達が彼に助けられて、諫言を提出できた〈劉聡伝〉。卒するに及び、元達は慟哭し、「上に立つものが亡び、国中は病み苦しむ(詩経 大雅 瞻卬篇)と言う。もう私は言えることがない、黙って生き存えようか」と言った。帰って自殺した〈前趙録 陳元達伝〉
これより先、代王の猗盧は末子の比延を愛し、後嗣にしようと考え、長子の六脩を出して新平城に住まわせ、その母を退けた。六脩は駿馬を持ち、日に五百里走れたが、猗盧はこれを奪い、比延に与えた。六脩が来朝すると、猗廬は比延へと頭を下げさせたが、六脩は従わなかった。猗盧は比延を自分の歩輦に座らせ、案内させて出遊した。六脩は遠くから見て、猗廬だと誤認し、道路の左に伏して謁した。到着すると、比延であったので、六脩は恥じて怒って去った。猗盧が召してもやって来ず、大いに怒り、討伐をさせたが、六脩に返り討ちにされた。猗盧は微服して民間にまぎれたが、賤しい婦人に顔を識別され、六脩に弑殺された。拓跋普根は外境を守っていたが、政難を聞いて駆けつけ、六脩を攻め、これを滅ぼした〈未詳〉
普根が代わりに立ったが、国中が大乱し、新旧が対立し、互いに滅ぼし合った。左将軍の衛雄・信義将軍の箕澹は、久しく猗盧を補佐し、配下に支持され、劉琨への帰順を計画し、「旧人(索頭部)は新人(晋人及び烏桓)が戦さに強いことを嫌い、皆殺しにしようとしている、どうしたものか」と言った。晋人及び烏桓は驚き懼れ、「死ぬも生きるも二将軍に随います」と言った。劉琨の人質である劉遵を送り返して晋人〈未詳〉及び烏桓三万家・馬牛羊十万頭を率いて劉琨に帰順した。劉琨は大いに喜び、みずから平城に迎えて撫納し、劉琨の兵は活性化した〈晋書 劉琨伝〉
夏四月、普根が卒した。その子は生まれたばかりなので、普根の母である惟氏(祖母)がこれを代王に立てた〈未詳〉
張寔は、部下の吏民が政治の過失を指摘できたら、布帛羊米を賜与すると命じた。賊曹佐である高昌の隗瑾は、「いま明公の為政は、巨細となく、みな主上が決定し、軍事も発令も、官僚たちは知りません。もし遺失があれば、批判が主上に集中します。群下は威を畏れ、成功を祈るしかありません。もし、(過失の指摘を)千金で賞しても、結局は提言しないでしょう。聡明さを少しだけ出し惜しみ、凡百の政治案件は、群下にも委任し、担当範囲で全力を尽くさせて、採用し施行すれば、良き提言はおのずと寄せられ、賞与で釣る必要もありません」と言った。張寔は悦んで、これに従い、隗瑾に位三等を増した〈前涼録 張寔伝〉
張寔は将軍の王該に歩騎五千を率いて長安に援軍として入れ、諸郡の貢計を納めた。詔して張寔に都督陝西諸軍事を拝し、張寔の弟である張茂を秦州刺史とした〈前涼録 張寔伝〉
石勒は石虎に劉演を廩丘で攻撃させ、幽州刺史の段匹磾は弟の文鴦に救援させた。石虎は廩丘を抜き、劉演は文鴦の軍に逃げ込み、石虎は劉演の弟である劉啓を捕らえて帰った〈後趙録 石勒伝に依る〉
寧州刺史の王遜は、刑罰を濫用し誅殺することを好んだ。五月、平夷太守の雷炤・平楽太守董霸は三千餘家を率いて叛き、成(李雄)に降った〈愍帝紀〉
六月丁巳朔、日食が起きた〈愍帝紀〉
秋七月、漢の大司馬の劉曜が北地太守の麴昌を囲み、大都督の麴允は歩騎三万でこれを救援した。劉曜が城を囲んで火を大量に灯したので、煙が天をおおい、(劉曜は)連携を阻害して麴允を欺き、「郡城はもう陥落した、間に合わない」と告げた。兵は懼れて潰走した。劉曜は麴允を磻石谷で破り、麴允は霊武に逃げ帰り、こうして劉曜は北地を奪った〈前趙録 劉聡伝に依る〉
麴允は仁厚な性格で、決断力がなく、爵位を与えて人を悦ばせた。新平太守の竺恢・始平太守の楊像・扶風太守の竺爽・安定太守の焦嵩は、いずれも征・鎮(の将軍号)を領し、節に杖り、侍中・常侍を加えられた。村塢の主帥は、小さなところでも銀青将軍の号を仮した。ところが恩が下位者のまで及ぶせいで、諸将は驕慢となり兵卒が怨んで離脱した。関中が混乱すると〈晋書 忠義 麴允伝〉、麴允は焦嵩に急を告げた。焦嵩は麴允を侮っていたので、「麴允が困窮するのを待ち、救えばよい」と言った〈前趙録 劉聡伝〉
劉曜は進んで涇陽に至り、渭北の諸城はことごとく潰えた。劉曜は建威将軍の魯充・散騎常侍の梁緯・少府の皇甫陽を捕らえた。劉曜は魯充が賢いと聞いていたので、生け捕りを命じており、会って、酒を賜り、「あなたを得た、天下だって平定できる」と言った。魯充は、「私は晋将だ、国家が敗れて失われた以上、生きていたくない。恩を下さるなら、速やかに殺してくれ」と言った。劉曜は、「義士だ」と言い、剣を賜り、自殺させた。梁緯の妻である辛氏は、美しく、劉曜は彼女を見て、娶ろうとした。辛氏は大いに哭き、「わが夫は死んだ、義において一人で生き残れぬ、しかも一人の婦人が二人の夫に仕えることを、あなたは容認するのか」と言った。劉曜は、「貞女だ」と言い、自殺を許し、どちらも礼により葬った〈前趙録 劉聡伝〉
漢主の劉聡は張后の侍婢であった樊氏を上皇后とし、三后の外とし、皇后の璽綬を帯びるものは七人となった。側近政治により、刑罰と賞与がでたらめになった。大将軍の劉敷はしばしば涕泣して切諫したが、劉聡は怒り、「お前は俺を早く殺したいのか、なぜ生きている俺の前に哭人を呼ぶのか」と言った。劉敷は憂憤し、発病して卒した〈前趙録 劉聡伝〉
河東の平陽で大規模な蝗害があり、民の十人に五六人が流亡した。石勒は将の石越に騎二万を率いて并州に駐屯させ、流民を招き入れ、二十万戸の民が(前趙に)帰順した。劉聡は使者を送って石勒を責めたが、石勒は命令を受けず、ひそかに曹嶷と同盟を結んだ〈前趙録 劉聡伝〉
八月、漢の大司馬の劉曜が長安に逼った〈愍帝紀〉
九月、漢主(劉聡)は群臣と光極殿で宴飲し、太弟の劉乂を招いた。劉乂の容貌は憔悴し、鬢髪は蒼然とし、涕泣して陳謝し、聡もまた彼のために慟哭した。酒を振る舞って楽しみ、まるで昔のようであった〈前趙録 劉聡伝〉
焦嵩・竺恢・宋哲は兵を率いて長安を救い、散騎常侍の華輯は京兆・馮翊・弘農・上洛の四郡の兵を監督し、霸上に駐屯したが、みな漢兵の強さを畏れ、敢えて進まなかった。相国の司馬保は胡崧に兵を率いて援軍に合流させ、漢の大司馬の劉曜を霊台で攻撃し、これを破った。胡崧は(晋の)国威が回復すれば再び麴允・索綝の権勢が盛んとなることを恐れ、城西の諸郡の兵を率いて渭北に駐屯して進まず、槐里に引き返した〈愍帝紀〉
劉曜が長安の外城を陥落させると、麴允・索綝は退いて小城の守りを固めた。内外が断絶し、城中がひどく飢え、米は一斗あたり金二両となり〈愍帝紀〉、人が食らい合い、大半が死に、逃亡者を抑えきれず、ただ涼州の義兵千人のみが、死を辞せずに踏み止まった。太倉に麴が数十餅だけあり、麴允はこれを砕いて粥にして愍帝に飲ませたが、これが最後の食料であった。冬十一月、愍帝は麴允に泣き付いて、「これほどに窮乏し、外に救援が期待できない、恥を忍んで投降し、士民の命を助けよう」と言った。さらに、「私を誤らせたのは、麴允・索綝の二公であった」と歎じた。侍中の宗敞を遣って劉曜に降伏文書を届けた。索綝はひそかに宗敞を留め、子を劉曜のもとに送り、「いま城中は一年以上の食料があり、余裕で持ち堪えられる、もし索綝を車騎将軍・儀同・万戸郡公にするなら、城を降服させてやる」と交渉した。劉曜はこれを斬って送り返し、「帝王の師は、義によって行動する。私は十五年間にわたり兵を率い、かつて詭計で人を破ったことがなく、必ず武力で追い詰めてから、撃破して奪ってきた。いま索綝の発言は、天下において最悪であり、誅戮に相当する。もしも兵員と糧食が十分ならば、せいぜい防御に励むがよい。もしも糧食が尽きて兵員が少ないなら、速やかに天命を悟れ」と言った〈前趙録 劉聡伝〉
甲午、宗敞は劉曜に軍営に到着した。乙未、愍帝は羊車に乗り〈三字(乘羊車)のみ帝紀に依る〉、肌脱ぎになり、璧を口にふくみ、棺を持って東門から出て投降した。群臣は号泣し、車によじ登って愍帝の手をとり、愍帝もまた悲しみに堪えなかった。御史中丞である馮翊の吉朗は、「わが智では謀れず、わが勇では死ねず、なぜ君臣そろって、賊虜に服従するものか」と歎じて自殺した。劉曜は棺を焼いて璧を受けとり、宗敞に愍帝を連れて宮殿に還らせた。丁酉、愍帝及び公卿以下を軍営に移した。辛丑、平陽に送った。壬寅、漢主の劉聡は光極殿に臨み、愍帝は前で稽首した。麴允は地に伏せて慟哭し、助け起こせなかった。劉聡は怒り、捕らえたので、麴允は自殺した。劉聡は愍帝を光録大夫とし、懐安候に封じた。大司馬の劉曜を仮黄鉞・大都督・督陝西諸軍事・太宰とし、秦王に封じた。大赦し、麟嘉と改元した。麴允が忠烈であったから、車騎将軍を贈り、節愍候と謚した。索綝は不忠であったから、街の市で斬った。尚書の梁允・侍中の梁浚ら及び諸郡守は全て劉曜に殺され、華輯が南山に逃げた〈前趙録 劉聡伝〉
干宝論曰…(頼惟勤・石川忠久編『資治通鑑選』参照)
石勒は楽平太守の韓拠を坫城で囲み、韓拠は劉琨に救いを求めた。劉琨は新たに拓跋猗盧の兵を得たばかりで、その精鋭を使って石勒を討とうとした。箕澹・衛雄が諫めて、「これは晋の民ではありますが、久しく異域で生活し、明公の恩信に懐いておらず、活用は難しいでしょう。内では拓跋鮮卑の余剰食糧を回収し、外では胡賊の牛羊を奪い取り、関所を閉じて険しい地を守り、農事に努めて兵を休ませ、徳化の浸透を待ちなさい。その後、これを活用すれば、きっと功績が立てられます」と言った。劉琨は従わず、全ての兵を出発させ、箕澹を歩騎二万を率いて先駆けとし、劉琨は広牧に駐屯し、後方から支援した〈後趙録 石勒伝〉
石勒は箕澹の到着を聞き、迎撃しようとした。ある人が、「箕澹の兵馬は精強です、衝突してはいけません、兵を引いて避け、溝を深くし塁を高くし、その勢い削ぐほうがよく、自軍を保全できます」と言った。石勒は、「箕澹の兵は多いが、遠くから来て疲弊し、号令には従わず、精強ではあるまい。敵軍が来ようというとき、なぜ後に引けようか。大軍が一度動けば、中立に戻すのは簡単ではない。もし箕澹がわが撤退に乗じて逼ったら、たちまち逃げ散り、溝や塁を築く時間はない。自滅の道である」と言った。即座に発言者を斬った。孔萇を前鋒都督とし、三軍に、「遅れる者は斬る」と命令した。石勒は険要の地に拠り、疑兵を山上に設け、前方に二部隊を伏兵とし、軽騎をくり出して箕澹と戦い、負けたふりををして逃げた。箕澹がそのまま追撃し、伏兵のなかに入った。石勒は前後に箕澹の軍を挟撃し、大いに破り、獲得した鎧や馬は万を数えた。箕澹・衛雄は騎千餘を率いて代郡に逃げ、韓拠は城を棄てて逃げ、并州の地は驚き震えた〈後趙録 石勒伝〉
十二月乙卯〈二字は宋志に依る〉朔、日食が起きた〈愍帝紀〉
司空長史の李弘は并州をあげて石勒に降服した。劉琨は進退して本拠地を失い、どうしたらよいか分からず、段匹磾が書簡を送って受け入れ、己未、劉琨は兵を連れて飛狐に従って薊に逃げ込んだ〈後趙録 石勒伝〉。段匹磾は劉琨と会い、親しみ尊重し、婚姻を結び、兄弟の誓いをした〈劉琨伝に依る〉。石勒は陽曲・楽平の民を襄国に移し、守宰を設置して還った。
孔萇は箕澹を代郡で攻め、これを殺した。
孔萇らは賊帥の馬厳・馮チョを攻めたが、久しく勝てず、司・冀・并・兗州の流民の数万戸が遼西にいたが、(馬厳らが)扇動するので、民の生業は安定しなかった。石勒は濮陽侯の張賓に計略を問い、張賓は、「馬厳・馮チョはあなたの宿敵ではなく、流民は本籍地を懐かしむものなので、いま軍を出して移動させ、優れた長官を選んで招き寄せれば、幽州・冀州の寇賊はすぐに解消し、遼西の流民も連れだって訪れるでしょう」と言った。石勒は孔萇らを召して帰らせてから、武遂令の李回を易北督護とし、高陽太守を兼ねさせた。馬厳の士卒は李回の威徳に敬服していたから、多くが馬厳に叛いて集まり、馬厳は懼れて逃げ出し、川に赴いて死んだ。馮チョは配下を連れて(李回に)投降した。李回は易京に移住させ、帰順する流民が相次いだ。石勒は喜び、李回を弋陽子に封じ、張賓に邑千戸を増し、前将軍に位を進めた。張賓は固辞して受けなかった〈後趙録 石勒伝に依る〉
丞相の司馬睿は長安の守りが破られたと聞き、軍を出して野外に宿し、甲冑に身を包んで、四方に檄を回付し、北征の期日を決めた〈晋書 元帝紀に依る〉。水運が遅滞したので、丙寅、督運令史の淳于伯を斬った。刑の執行者が刀で柱を拭うと、血が噴き出し、柱の上方の二丈餘りに届き、見た人はみな冤罪だと思った〈晋書 劉隗伝の上言文に依る〉。丞相司直の劉隗が上言し、「淳于伯は死罪に相当しませんでした、(判決を誤った)従事中郎周莚らの官を免じて下さい」と言った。ここにおいて右将軍の王導らは上疏して責任を取り、辞職を申し出た。司馬睿は、「政治と刑罰が適切さを失うのは、全て私に見識が無いからだ」と言い、一切を不問とした〈劉隗伝〉
劉隗は剛直な性格で、当時の名士は多くが彼から弾劾され、司馬睿は大目に見ていたが、これにより皆からの怨みが劉隗に集中した〈未詳〉。南中郎将の王含は、王敦の兄であり、一族が強く高位にあるので、驕慢がひどく、いちどに参佐及び守長に口利きした者が二十人ばかりに至り、ほとんどが才能のない不適任者であった。劉隗が上奏して王含を弾劾し、文言は辛辣であったので、事案は寝かされたが、王氏は劉隗を疎ましく思った〈劉隗伝〉
丞相の司馬睿は邵続を冀州刺史とした。邵続の娘婿である広平の劉遐は河水・済水のあいだで人々を集約し、司馬睿は劉遐を平原内史とした〈晋書 邵続伝〉
托跋普根の子がまた卒し、国人は従父の鬱律を立てた〈北魏書 序紀〉