■『通俗三国志』考(02/10)>論文のはじめに
■はじめに この論文の目的は、「湖南ノ文山」が著した人気作品『通俗三国志』を主要な題材とし、17世紀後半の日本に於いて、中国文化がどのように受け容れられていたかを示すことである。 ※ただ趣味が高じて「三国志やりてえ!」と思ったのが、執筆の動機。でもそれをボカすために、大風呂敷を広げている振りをしている。社交辞令だ。   ■『通俗三国志』のプロフィール 『通俗三国志』は元禄2年(1689年)孟夏に自序が記され、2年後の元禄4年(1691年)辛未9月吉辰に刊行された。全51冊。 中村幸彦氏が定義した文学史上の「通俗物」というジャンルに当たる。   「通俗物」とは、白話小説の日本語訳で、一般向けに刊行された書物である。江戸時代初期に『後太平記』などの軍記の読み物が流行し、それを背景に成立した。読者は町人だけでなく、藩士・儒学者にも及ぶ。 前期(元禄~享保、演義小説の翻訳が流行さ)と、後期(宝暦~寛政、演義以外の通俗小説に移行)に二分される。『通俗三国志』は「通俗物」の嚆矢であり、「通俗物」人気の牽引役であった。 中村幸彦「通俗物雑談」『中村幸彦著述集 第7巻 近世比較文学攷』 中央公論社 1984.3   『通俗三国志』の内容は主に、明代の羅貫中(貫中は字で、名は本という)が著した『三国志通俗演義』の翻訳である。この論文では日本の慣例に従って、羅貫中の著作を『三国志演義』と呼ぶことにする。 二世紀後半、後漢王朝の末期から筆を起こし、三世紀の司馬炎による中国再統一の歴史的事実に取材した物語である。   ■後日の自分ツッコミ 卒論の完成後、中国旅行に行ったら、あっちのメディアが『三国演義』と口を揃えてた。だから、このサイトでは『三国演義』表記で通してます。 略称は大衆が決めることだから、厳密な定義は難しい。「ミキティ」とは誰のことだ、みたいな議論にも通じる笑 そもそも最初の翻訳物を『通俗三国志』なんてタイトルで出すから、日本人が陳寿『三国志』と『三国演義』を混同することになったんだ。今日のファンの憂鬱は、江戸時代に元凶があった。
   ■翻訳の元ネタにされたのは、どのバージョンか 『通俗三国志』の底本は、『三国志演義』の数ある版本の内、『李卓吾先生批評三国志』と称される系統のものである。 この点は、中村幸彦氏をはじめとして、小川環樹氏、徳田武氏、長尾直茂氏ら先行研究の見解は一致を見ている。 小川環樹「文山訳の原本」『中国小説史の研究』1968年、長尾直茂「江戸時代元禄期における『三国志演義』翻訳の一様相―『通俗三国志』の俗語翻訳を中心として―」(『国語国文』第六十六巻・第八号、1997年)、同氏「江戸時代元禄期における『三国志演義』翻訳の一様相・続稿」(『国語国文』第六十六巻・第十号、1998年   その根拠とされるのが、底本で序文と本文の間に挿入された「読三国志答問」「三国志宗寮姓氏」である。 前者は物語に対する考察で、後者は簡単な肩書きを附した登場人物の一覧である。『通俗三国志』にも、同じ位置に「通俗三国志或問」「通俗三国志姓氏」という同趣旨の項目が設けられている。この共通点を、先行研究は底本を比定する材料として積極的に評価してきた。 私もこの点は妥当であると考える。   ■お坊さんが付けた解説に着目! さて、本稿のテーマに取り組む際に最も注目したいのが「湖南ノ文山」の思想ないしは執筆意図である。それを知るための史料として「通俗三国志或問」を活用する。これは底本収録の「読三国志答問」と比較すると、形式も内容も著しく異なる。 複数人が協力して翻訳を行った(詳細後述)本文に比べ、「通俗三国志或問」は、底本に着想を得た文山が単独でオリジナルに記した物である可能性が高い。   先行研究は、「通俗三国志或問」の内容について、充分な検討を加えていない。長尾直茂氏が僅かに「大概ね(ママ)文山独自の論が展開されており、文山の歴史観なり人生観なりを見る上での好個の資料を提供している」と叙述したに留まる。 長尾直茂「『通俗三国志』述作に関する二、三の問題」(上智大学『国文学論集』二六、1993年) その論文に於いて、長尾氏の問題関心の主眼は「通俗三国志或問」には無いため、氏の指摘の浅薄性のみを論って批判するのは妥当ではなかろう。だが、過分に大雑把な分析に終始してしまった感は拭えない。   そこで私は、全文で四千五百字に及ぶ、文山が三国志の物語に寄せた考察「通俗三国志或問」を、精緻に吟味する必要があると考える。   ■サイト転載作業をしながら、思い出話 ほんの好奇心で『通俗三国志』を読んでたわけです。特に論文の題材にしよう、なんて思ってなかった。そしたら、いきなり冒頭に飛び出してきたのが、「通俗三国志或問」でした。 その内容が、面白いんだ。 しかも、ぼくが調べた範囲では、これに関する研究論文がない。チャンスじゃん!と奇跡に感謝したものでした。   卒論の参考に読んだ長尾氏が「後日また考えなきゃね」みたいなことを、1993年の論文に書いている。長尾氏は、この分野の権威(のよう)だから、先に料理されていたら、ぼくには食べる部分が残ってない。 長尾氏の著作物を検索しながら「見つかるなー見つかるなー」と願った。片目を閉じて、検索結果を見てた。 禁断の鏡を覗いてみよう。ぼくはあのとき、先行研究がないことを、本当に調べつくしたのか。胸に手を当てて、やましいコトがないか、振り返ってみた。徐々に自信がなくなってきたぞ。背筋が寒くなってきた。 もう卒業して就職しちゃったんだけど笑、長尾氏の93年以降の仕事を本気を出して、調べてみよう。今更かよ!という感じだが。   ぼくが卒論を書いてたのが2005年。 現在(2007年初夏)に、恐る恐る長尾氏の名前をググってみた。所属大学のHPが整備されたらしく、当時は見られなかった著作一覧が見られる。便利になったね(苦笑) 2000年に入ってからも、関係ありそうなテーマで書いていらっしゃるようで。「近世における『三国志演義』-その翻訳と本邦への伝播をめぐって」が2001年6月。「諸葛孔明批判論とその本邦における受容をめぐる一考察」が2005年3月。 うーん。2001年の論文は、目を通したような記憶がある。というか、ない?あれ?どっちだったかなあ。2005年の論文は見てないね。やべ! タイトルから想像するだけだが、見とくべきだったよ。 全く同じテーマを同じ切り口で扱う、という交通事故は起きてないと思う。でも、きっとすごく参考になったはず。惜しいことをしました。   国立大学の論文検索データベースの更新が遅れていて(と他人のせいにして)発見できなかったんだ! 今からでも遅くないよ。大学に戻って、論文雑誌の書庫に行ってこようかなあ。気になってきた。
  ■ぼくの論文の構成 この論文では、まず第一章で『通俗三国志』の成立に到る経緯や背景を確認する。 第二章では、前章を踏まえて「通俗三国志或問」を読み解く。その際に、同時代の思想家の著作等との比較対照を行いながら、私の仮説の根拠を積極的に示して行きたい。 第三章では視野を広げ、『通俗三国志』がいかに近世社会で受け容れられたか描き出す。 最後に論点を再び一七世紀に戻し、『通俗三国志』の成立が近世の中国文化受容を捉える際にどのような歴史的意義を持っていたか明らかにしたい。   ■再び自分ツッコミ ここまでがイントロダクション。 次回から本文に突入です。ホームページに転載するために、1年半ぶりに読み返してます。恥ずかしいね。載せて大丈夫なんだろうか。 不安になってきた笑
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