■『通俗三国志』考(03/10)>第一章の前編
第一章『通俗三国志』とその成立について   ■翻訳者を追うヒント 『通俗三国志』がどのような動機で、誰によって、いかなる経緯で作られたかは、「通俗三国志或問」を読む上で有力な手がかりとなる。 まず作者についてであるが、四点の史料的手がかりがある。   ◆手がかり1 1点目は『通俗三国志』の序。著者は湖南ノ文山とあり、「夢梅軒章峯」という印章がある。 長尾直茂「通俗物研究史略―附『通俗三国志』解題―」『漢文学解釈と研究』1998年、で元禄四年版の奥付の写真を確認できる。 夢梅軒章峯という印章は、『通俗漢楚軍談』(元禄8年刊)、『通俗唐太宗軍鑑』(元禄9年刊)という翻訳作品にも押されている。ちなみに『通俗漢楚軍談』と『通俗唐太宗軍鑑』には、「通俗三国志或問」に類似するような独自の考察は添付されていなかった。   ◆手がかり2 2点目は、『通俗漢楚軍談』の跋文(元禄七年)である。 ここには、前半七巻を兄の夢梅軒章峯が執筆し、後半八巻は弟の称好軒徽庵が訳したとある。   ◆手がかり3 3点目は、弟の徽庵が著した『通俗両漢紀事』の叙(元禄十二年)である。 「先人既ニ幼学ノ解シ難キヲ憂ヒ、漢楚三国ノ人物ヲ論ジ、訓解ヲ作リ(後略)」とある。   ◆手がかり4 4点目は、時代が下り、享保期の田中大観が著した『大観随筆』である。 田中大観とは、京都に住み、唐話・唐音の学に通じた小説通である。関連箇所を抜粋する。 近世国語書、有通俗三国志、蓋、因羅貫中演義、而以国語訳之者也、天竜寺僧義轍著、義轍失其字、称轍蔵主、地蔵院其長老弟子也、有弟亦為僧、字月堂失其名、蓋義轍草創之、未成而逝、月堂継而成之、遂以上梓、而其刻本多月堂手書云。 ここから、『通俗三国志』は天龍寺の禅僧□□義轍が着手し、彼の病没後に弟の月堂□□が完成させた、ということが読み取れる。「□」というのは不詳箇所で、史料の「失其字」「失其名」に対応させた。   ■翻訳者は何者か 長尾直茂氏は『通俗三国志』と『通俗漢楚軍談』が、2人以上の訳者より成ったことを明らかにした。   すなわち長尾直茂氏は前掲論文で、『通俗三国志』が複数の翻訳者から成ったことを、張飛の科白に見られる俗語語彙等の訳語から検討した。18世紀初頭には唐話・唐音の研究が盛んになるが、『通俗三国志』はそれ以前の作品である。 (1)同じ語彙でも正しい訳と誤訳があり、一貫性がない。(2)俗語を「翻訳する」という意識が希薄。(3)禅の語録に見られる仏教用語への理解が深い、等の特徴を指摘した。 また同氏は「「前期通俗物」小考―『通俗三国志』『通俗漢楚軍談』をめぐって」(上智大学『国文学論集』二四、1991年)において、『通俗漢楚軍談』前半の章峯の訳は原文に忠実・簡潔で、名言名句を適宜補っているのに対し、後半の徽庵は、底本にない修辞を軍記物語に影響を受けて挿入していることを指摘された。   訳者が2人以上だという限りでは、同時代史料ではない『大観随筆』も信憑性を持つが、兄の湖南ノ文山(夢梅軒章峯)が『通俗三国志』の制作中に死んだという記事が、他の史料との矛盾点を孕む。 『大観随筆』をどう読むかは、先行研究が一致していない。 ここでは、夢梅軒章峯と称好軒徽庵の兄弟が、そのまま天竜寺の禅僧□□義轍と月堂□□に相当する、という断定は避ける。翻訳者と天竜寺との関連性を指摘するに留めたい。
   ■出版した人について 刊行にあたった書肆は、西川嘉長と、同じく京都の書肆で西堀川三条二町下の栗山伊右衛門の2名である。 印章と同様、長尾直茂「通俗物研究史略―附『通俗三国志』解題―」『漢文学解釈と研究』1998年、で元禄四年版の奥付の写真を確認できる。   ■出版のモチベーション 刊行を動機づけた出来事は、湖南ノ文山の序にある、以下の記述に発見できる。ここから「通俗三国志或問」を読む手がかりを探したい。 有嘉長翁、淳樸而好古、与予結方外之交、累次請予鋟諸(通俗三国志)梓而流後昆矣。 歴史を好む嘉長翁という人物と親交があり、彼に頼まれて『通俗三国志』を著した。そう説明されている。   中村幸彦氏は、この「嘉長翁」という人物に関して、雨森芳洲文庫に収められた古藤文庵の随筆『閑窓独言』から以下の史料を発見された。 一、西川嘉長、京都ノ飾屋(初名長兵衛、後剃髪)、細工上手故今ニモ世上秘蔵セリ、御国ニ下リ、日吉少林庵口東頬ノ角ニ寓居セリ、年久シクシテ帰京セリ、偖其比輪番ノ以酊庵ニ(定テ辰長老、郁長老ニテ可有之カ)、三国志ノ講釈ヲ聞テ帰京後、三国志開板、即三国志ノ序ニ嘉長翁ト有之(下略)   西川嘉長は京都の飾屋で、細工が上手かった。彼が対馬に逗留した折、以酊庵に輪番で勤めていた僧侶に、三国志の講釈を聞いた。京都に戻り、三国志の出版に携わった、という内容である。 文山の序と矛盾しない。   ■三国志が講釈された背景 『閑窓独言』にある以酊庵は、天正から慶長年間にかけて、博多聖福寺第一〇九世景轍玄蘇によって瞎驢山に開かれた機関だ。 玄蘇とは、宗義智、後に秀吉の要請で朝鮮との修好に努めた人物である。   寛永十二年(一六三五年)の柳川一件で、直参旗本柳川氏が敗北し、対馬宗氏が外交担当の地位を確立した。このとき、国書改竄を防ぐため、南禅寺を除く京四山(天龍・相国・建仁・東福寺)の僧が輪番で、外交文書査察・朝鮮使節接待・漂流民の送迎をこの以酊庵で行うこととなった。 田代和生『近世日朝通航貿易史の研究』創文社1981年 ※特に「序論」、第五章「日朝外交体制の確立」(「日朝関係の展開」/中田易直編『近世対外関係史論』有信堂1977年初出)、第七章「草梁倭館の設置と機能」(「十七・十八世紀日朝貿易の推移と朝鮮渡航船」/『朝鮮学報』七九輯、1976年初出)を参照した。 三国志を講釈した僧は、朝鮮との大きな接点を持っていたことが指摘できよう。   以酊庵で講釈を行ったとされる人物は、中村武彦氏が考察・特定した。 上村観光氏の『禅林文芸史』を根拠に、「辰長老」は東福寺の南宗祖辰(延宝六年に輪番主任)、「郁長老」は天竜寺の文礼周郁(元禄九年に主任)だとした。 輪番には複数回赴任することもあったから、『通俗三国志』刊行後に主任に就任した文礼周郁が「郁長老」である可能性は皆無ではない。 前掲、中村幸彦「通俗物雑談」『中村幸彦著作集 第7巻』   ■京都五山からは追跡失敗 中世以来、五山僧が外交に大きな役割を果たし、中国文化に通じていたことは研究史によって明らかだが、特に『三国志演義』の講釈が行われた時期の以酊庵・天竜寺については、泉澄一氏の論考が詳しい。 泉澄一「天龍寺第二〇九世・中山玄中和尚について―対馬以酊庵輪番時代を中心にして―」(ヒストリア、1973年)、泉澄一「天龍寺第二百十一世月心性湛和尚について―享保三~五年、―対馬以酊庵輪番時代の行実―」   『大観随筆』では翻訳者が天竜寺僧とされているし、「郁長老」も天竜寺僧だと思われることから、大いに参考になり得る。 泉氏によれば、近世の天竜寺は幕府直轄下である対馬の以酊庵住持に碩学僧を多数送り込み、経営維持を図った。天龍寺僧の輪番時代の足跡は『以酊庵取次』(『通航一覧』所収)、『毎日記』(対馬藩の詳細な公的日記で、寛永十二年以降が残存)、対馬厳原町万松院文庫所蔵の『以酊庵輪番記』・『輪番和尚衆下向覚書』・『以酊輪番記』などで辿れる。   しかしこれらの中に、湖南ノ文山の経歴など、「通俗三国志或問」を読むのに直接参考となりそうな史料はなかった。また、天竜寺は火災に幾度もあい(近くは元治元年薩摩兵の焼討ちで全山焼失)、個々の事績・寺史に乏しいという側面もある。
  ■翻訳者はこんな人だね ある人物の思想を読み解くとき、歩んだ人生が有力な材料を提供してくれることが多い。だが、湖南ノ文山の個人的な事績について、西川嘉長や対馬との関わりから直接的に明らかにすることには限界があった。   ただし文山は、以酊庵で五山僧に講釈を聞いた西川が、翻訳者として選んだ人物である。西川が鉄牛道機を通じて黄檗宗に接近し、中国文化への理解も豊かだったことも加味すると、彼に認められた湖南ノ文山は、輪番の経験者ないしはそれと同等の碩学だと想定してよかろう。 翻訳において禅の語録に見られる仏教用語への理解が深いのも、文山が学問に長じていたことの証左である。 朝鮮外交の最前線に人材を送り込む天竜寺で、何らかの国際意識を自己の中に培っていた人物と考えたい。   ■自分で読み返した感想 あくまで先行研究を整理してるから、まあ、いいじゃん。 ただし、1つ確信を得たことがある。隔靴掻痒という言葉は、こういう論文を読んだときのために作られた言葉なんだ笑 gooの辞書で調べました。 「靴の上からかゆいところをかく」の意から、思いどおりにいかなくて、もどかしいこと。うん、ぴったり。これだけ周辺情報を調べてある。にも関わらず、文山がどんな奴なのか、よく分からんもん笑
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