さらに引き続き、第二章 湖南ノ文山と「通俗三国志或問」
■宋学の日本化と並行した動き(4/6)
文山が翻訳作業をしたのと同時代、朱子学(宋学)に代表される政治や哲学が、続々と日本風にアレンジされた。
文山は、朱子学(宋学)から距離を置きつつも、文学の面でアレンジの潮流に乗った。
■文山と政治思想
文山は後漢末期の歴史的背景を「漢室すでに衰へて奸雄きそひ起り、曹操孫権が徒、位を僭し威を震て、天下みな漢あることを知らず」と記した。
『三国志演義』は霊帝の時代から書き起こされるが、国教である儒教道徳に基づいた孝廉・茂才の形骸化、儒教徒である清流派と宦官・外戚との対立、霊帝による売位売官等、政治が大いに乱れた時期であった。
だが!
儒教に関わる政治問題に対する文山の考察は非常に淡白である。
それどころか「天下みな漢あることを知らず」とは、陳寿『三国志』のみならず小説『三国志演義』や『通俗三国志』本文の内容とも異なっていて、単なる事実誤認である。
興味がないから、強引にまとめちゃった感じなんだよね。
■日中の政治・哲学の違い
(中略:卒論はここで、元祖・朱熹の著作を要約する。見苦しいから省く)
渡辺浩氏は近世日本の宋学受容の限定性を提唱したが、その論拠として両国での担い手の相違を挙げた。
渡辺浩「宋学と近世日本社会-徳川前期儒学史の一条件」、同氏「伊藤仁斎・東涯―宋学批判と『古義学』」『近世日本社会と宋学』東京大学出版会1985年
中国で宋学を学んだのは、「民」の中から個人として選抜された士大夫で、任地に赴いてほぼ独力で政治を行った階層である。哲学的体系や政策論を必要とした立場であった。
対して近世初期の日本で宋学を論じたのは為政者ではなく、読書人・「遠慮がち」な評論家だった。武士の生活形態も、先祖から子孫へ「家」を引き渡すべき「譜代」でしかなかった。故に当時の宋学は、具体的な為政の現場に向けて強く働きかけはしなかった、という説である。
湖南ノ文山は外交現場に関わりを持つ人物ではあるが、儒教の政治的役割を考察し、権力の腐敗を糺す立場には居ない。
後漢末の政情への無関心は文山のポジションを反映しており、渡辺氏の展開した議論に矛盾しない。
■同時期の日本朱子学について
荒木見悟氏は、朱子学の批判者である王陽明の陽明学と伊藤仁斎・荻生徂徠などの古学派を比較して、両者が朱子学にどのような工夫を加えたか明解に説いた。
荒木見悟「朱子学の哲学的性格―日本儒学解明のための視点設定―」『日本思想大系34 貝原益軒 室鳩巣』岩波書店1970年
(中略:陽明学を古学派がどうアレンジしたか要約してる。やはり省く)
こうした古学派が形成されたのが『通俗三国志』成立と同時期である。
「通俗三国志或問」では、古学派が行ったような朱子学に対する深い洞察は見られない。
『三国志演義』の儒教色を積極的かつ単純化して継承したということは、同時に文山が独自の考察を新たに深めなかったという指摘にも繋がろう。
■自分つっこみ
『通俗三国志』と朱子学があんまり関係ないデス。それだけを言うためだけに、長々と朱子学の話をしてた。ずっぱりと省略したけどね。
でも卒論制作中の自分を思い出すと、同情の余地もあるのです。
文山の思想は、同時期に発展した朱子学と深く関連してるはずだ。そういう仮説のもと、たくさんの文献を読み漁ったのです。半分も理解できないまま、宇宙の哲学に触れました。白状します。字面を追いかけるだけで、精一杯でした。
しかし、読めども読めども、相関関係が出てこない。
徒労に終わったことが悔しいものだからさ、こうやって朱子学に関する話を残したのだと思います。そうやって教授に哀れみを乞うたのですね。
次からの段で、「天」と「理」の話をする。どちらも朱子学の重要概念。
しかし文山は、まるで朱子学を踏まえないで、この言葉を使っている。思想史に関連づけたい!という未練を断ち切る。トドメを刺す。
■「天」について
(このサイトでは省略したけど)朱子学は「天」を説いた。
文山は「天」という語が好んで使ったが、日本で「自然発生的に」広まったという天道思想等との類似性が見られるのみである。
「天」という言葉は、「通俗三国志或問」に3回登場する。
1つ目が、「害逆の心を生」じた劉璋を破って、劉備が益州を得たのが「これみな天の与うるなり」。2つ目が、孔明が赤壁で東南風を起せたことに「天なんぞ私なるや」と問題設定すると、『易経』の「天の助くるところの者は順なり」という理由で、「天の高祖、光武の助くる所以なり。孔明たとい風を祈らずとも、天もし正しきを助ければ、曹操が罪逆を疾んで昭烈の大順を助けざらんや」。3つ目は、孔明が「天の時を楽し」んで出処進退を弁えており、劉備の招聘を受けて活躍した。
文山の用いる「天」とは、以下の性質を持つ。
(A)与える・助けるなどの主語となるように、人格的性質を持つ。
(B)天が支持するのは、衰えた漢王室(=既存の体制)である。
(C)高祖や光武など、王朝の祖がいて、かつ力を行使する場所である。
文山が使う「天」の(A)の性質は、天道思想に近い。
不干斎ファビアンによれば、天道とは、無形で不可視だが、人格的絶対者である。万物を生じて四季を巡らし、慈悲の根源であると同時に善悪因果応報の主催者という性格を持つ。
この点については、石毛忠「『心学五倫書』の成立事情とその思想的特質-『仮名性理』『本佐録』理解の前提として-」石田一良・金谷治校注、日本思想大系23『藤原惺窩 林羅山』岩波書店1975年、石毛忠「戦国・安土桃山時代の思想」大系日本史叢書『思想史Ⅱ』、石毛忠「戦国・安土桃山時代の倫理思想-『天道』思想の展開-」参照。
また(B)や(C)の性格は、東照大権現が祭られたことに通じる。
家康の天下統一を朝臣としての天皇に対する忠功・忠義と称することで神格を認め、皇族を門跡として迎えることで貴種性と宗教的権威を取り入れながら、東照宮は、公武一体の守護神として崇められた。
杣田善雄「近世の門跡」『岩波講座 日本通史 第11巻』1993年
弱肉強食を肯定した天道思想が、近世に入って、創業の君の「積善」が体制を維持してくれるという思想に変化した。
石田一良「前期幕藩体制のイデオロギーと朱子学派の思想」日本思想大系23『藤原惺窩 林羅山』岩波書店1975年
天にいる高祖劉邦や光武帝によって王朝の存続が助けられるという考え方は、見事にこの思想の投影ではないか。
■「理」について
(このサイトでは省略したが)「理」は朱子学のキーワード。
「理」という語は、一度だけ使用された。
孫権の元から来た龐統が手始めに「県の中の政を理せしめ」才能を測られた、という部分である。ここでの用法は、龐統に理屈に叶った適切な政治を行わせ、という程度の意味であろう。
■文山の思想史?的ポジション
以上より朱子学史において湖南ノ文山は有意義な位置を占めぬことが明らかとなったが、これは決して文山が古学派に劣るという意味ではない。
中国の為政者の哲学であった朱子学を近世日本社会に適合的にアレンジしたのが古学派であるが、中国の講談物を日本の教養書として紹介した文山であった。17世紀の中国文化受容に於いて、各々が異分野で軽からぬ存在感を示したと結論付けたいと思う。
思想史をやるという当初の予定はずっこけたけど、示唆を含む結論に達することは出来ました。自分ではそう思っております。
当たり前のことを蒸し返して、何回も同じことを言っただけ、という気もする。だが、いいんだ。それは論文の常なんだ。