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『史記』巻五 秦本紀 武王・昭襄王を読む

『史記』秦本紀 武王・昭襄王

戦国秦の武王元年~四年

惠王卒,子武王立。韓、魏、齊、楚、越皆賓從。
武王元年,與魏惠王會臨晉。誅蜀相壯。張儀、魏章皆東出之魏。伐義渠、丹、犂。二年,初置丞相,㯉里疾、甘茂為左右丞相。張儀死於魏。三年,與韓襄王會臨晉外。南公揭卒,㯉里疾相韓。武王謂甘茂曰:「寡人欲容車通三川,窺周室,死不恨矣。」其秋,使甘茂、庶長封伐宜陽。四年,拔宜陽,斬首六萬。涉河,城武遂。魏太子來朝。

恵王が卒して、子の武王が立った。韓・魏・斉・楚・越がすべて賓従した。
武王元年、魏の恵王と臨晋で会盟した。(この年)蜀相の陳荘を誅殺した。張儀・魏章が東に出て魏に行った。義渠・丹・犂を伐った。
二年、はじめて丞相を設置し、㯉里疾・甘茂が左右丞相となった。張儀が魏で死んだ。
三年、韓の襄王と臨晋の城外で会盟した。南公揭が死んだ。

『新釈漢文大系』では南公揭(南公掲)は武王元年に死んだとする。南公掲は、どんなひとか未詳だという。

㯉里疾が韓の相となった。武王が甘茂に、「わたしは兵車を引き入れて三川(河水・伊水・洛水)の地を通過し、周の王室を窺い(滅ぼして天下を取り)たい。成功したら死んでも怨むことがない」と言った。その年の秋、甘茂・庶長封に命じて、(韓の邑)宜陽を討伐させた。

宜陽を抜けば、三川への道が通じるため。

四年、宜陽を抜き、斬首すること六万。河水をわたり、(韓の邑)武遂に築城した。魏の太子が来朝した。

武王有力好戲,力士任鄙、烏獲、孟說皆至大官。王與孟說舉鼎,絕臏。八月,武王死。族孟說。武王取魏女為后,無子。立異母弟,是為昭襄王。昭襄母楚人,姓芈氏,號宣太后。武王死時,昭襄王為質於燕,燕人送歸,得立。

(さて)武王は力比べを好み、力の強い任鄙・烏獲・孟説らは高官に取り立てられた。

烏獲は、『孟子』告子下に「烏獲の任」という言葉があり、いにしえの力が強いひととしての用法。

王は孟説と鼎を持ち上げる力比べをして、ひざの蓋骨(もしくは脛骨)を折った。八月、それが原因で武王は死んだ。孟説を族殺した。武王は魏の公女をめとって后としていたが、子がなかった。異母弟を立て、これが昭襄王である。昭襄王の母は楚の出身で、姓は芈氏で、宣太后と号した。武王が死んだとき、昭襄王は燕に人質になっていたが、燕の人に送り返されて、立つことができた。

昭襄王元年~五年

昭襄王元年,嚴君疾為相。甘茂出之魏。二年,彗星見。庶長壯與大臣、諸侯、公子為逆,皆誅,及惠文后皆不得良死。悼武王后出歸魏。三年,王冠。與楚王會黃棘,與楚上庸。四年,取蒲阪。彗星見。

昭襄王元年、嚴君疾(樗裡疾)が宰相になった。甘茂が秦を去って魏に言った。二年、彗星があらわれた。庶長荘が大臣や諸侯や公子らとともに反逆をくわだて、全員を誅殺した。その罪は恵文后(昭襄王の生母)まで及んで、おおくの人が非業の死を遂げた。悼武王后(武王の后)は秦を去って魏に帰った。

即位にまつわる政変はよく起こります。冠礼の直前に、母を巻き込んだ政変が起きているのは、『キングダム』の秦王政と同じです。いま読んでいる昭襄王は、『キングダム』で王騎・白起が仕えた王として回想シーンによく登場します。

三年、昭襄王は(二十歳に達し)冠礼をおこなった。楚王と(河南の)黄棘(新野県)で会盟した。楚に上庸の地を与えた。四年、(魏の邑)蒲阪を奪った。彗星があらわれた。

五年,魏王來朝應亭,復與魏蒲阪。六年,蜀侯煇反,司馬錯定蜀。庶長奐伐楚,斬首二萬。涇陽君質於齊。日食,晝晦。七年,拔新城。㯉里子卒。八年,使將軍羋戎攻楚,取新市。齊使章子,魏使公孫喜,韓使暴鳶共攻楚方城,取唐眛。趙破中山,其君亡,竟死齊。魏公子勁、韓公子長為諸侯。九年,孟嘗君薛文來相秦。奐攻楚,取八城,殺其將景快。十年,楚懷王入朝秦,秦留之。薛文以金受免。樓緩為丞相。

五年、魏王が(臨晋の?)応亭に来朝し、魏に蒲阪を返還した。六年、蜀侯煇が謀反したので、司馬錯が蜀を平定した。庶長奐が楚を討伐し、斬首すること二万。(弟の)涇陽君が斉の人質となった。日食があり、昼でも暗かった。
七年、(楚の地で河南の)新城を抜いた。樗裡子が亡くなった。八年、将軍の羋戎に楚を攻めさせ、新市を奪った。斉は章子に命じ、魏は公孫喜に命じ、韓は暴鳶に命じてともに楚の(湖北の)方城を攻め、(楚将の)唐眛を捕らえた。趙が中山国を破り、中山君は逃げて、斉で亡くなった。魏の公子勁・韓の公子長が諸侯の待遇を受けた。九年、孟嘗君の薛文が来朝して秦の宰相となった。庶長奐が楚を攻めて、八城を奪い、その将の景快を殺した。十年、楚の懐王が秦に入朝し、秦はこれを抑留して帰国させなかった。薛文が金の賄賂をうけて罷免された。楼緩が丞相となった。

昭襄王十一年~二十年

十一年,齊、韓、魏、趙、宋、中山五國共攻秦,至鹽氏而還。秦與韓、魏河北及封陵以和。彗星見。楚懷王走之趙,趙不受,還之秦,即死,歸葬。十二年,樓緩免,穰侯魏冄為相。予楚粟五萬石。十三年,向壽伐韓,取武始。左更白起攻新城。五大夫禮出亡奔魏。任鄙為漢中守。十四年,左更白起攻韓、魏於伊闕,斬首二十四萬,虜公孫喜,拔五城。十五年,大良造白起攻魏,取垣,復予之。攻楚,取宛。

十一年、斉、韓、魏、趙、宋、中山の五国がともに秦を攻めた。(山西の)鹽氏まできて引き返した。秦は韓・魏に、河北の地と(山西の)封陵を与えて和睦した。彗星があらわれた。

中山は趙に属していたので、五国という。
三晋のうち、韓と魏は秦に服従し、趙だけが秦への敵対姿勢をつらぬいて孤立する、みたいな時代です。なぜ五ヵ国の連合軍が引き返したか分かりませんが、韓と魏が切り崩されたのか。

楚の懐王が出奔して趙に行ったが、趙が受け入れず、ひき返して秦にゆき、まもなく死んだ。死体を楚に帰して葬った。十二年、楼緩を罷免され、穣侯の魏冄が宰相になった。楚に粟五万石を与えた。十三年、向寿が韓を討伐し、(河南の)武始を奪った。左更の白起が新城を攻めた。

白起伝によると、このときはまだ左更ではなかった。

五大夫の呂礼が亡命して魏に奔った。任鄙が漢中守となった。
十四年、左更の白起が韓・魏を伊闕で攻め、斬首すること二十四万。魏の公孫喜を捕らえ、五城を抜いた。十五年、大良造の白起が魏を攻め、垣城を取ったが、返還してやった。楚を攻めて、宛を取った。

白起は、爵位の上昇がくわしく記されている。なぜ?


十六年,左更錯取軹及鄧。冄免,封公子市宛,公子悝鄧,魏冄陶,為諸侯。十七年,城陽君入朝,及東周君來朝。秦以垣為蒲阪、皮氏。王之宜陽。十八年,錯攻垣、河雍,決橋取之。十九年,王為西帝,齊為東帝,皆復去之。呂禮來自歸。齊破宋,宋王在魏,死溫。任鄙卒。二十年,王之漢中,又之上郡、北河。

十六年、左更の司馬錯が(魏の河南の)軹及び鄧を奪った。魏冉が宰相を罷免された。

列伝と表では、魏冉の罷免は十五年とされる。十二年から十五年、十六年から二十一年、二十六年から四十二年まで、丞相を三回つとめた。

公子市(涇陽君)を宛に、公子悝(高陵君)を鄧に、魏冄を陶に封建し、諸侯とした。十七年、(韓の)城陽君(成陽君にも作る)が入朝し、また東周君が来朝した。秦は(魏から奪った)垣を蒲阪・皮氏と改名した。秦王が宜陽に行った。十八年、司馬錯が垣・河雍・決橋を攻めて奪った。

蒲阪・皮氏を魏に返却し、魏が垣に名を復したが、秦がふたたび奪ったという説あり。滝川亀太郎氏はこの説を否定。

十九年、秦王を西帝とし、斉王を東帝とし、ともにまた帝号をやめた。呂礼が秦にきて、秦に帰服した。斉が宋を破ったので、宋王が魏にいたが、(河南の)温で死んだ。

魏世家年表その他では、宋王の死は昭襄王二十一年。

(漢中守の)任鄙が卒した。二十年、秦王が漢中にゆき、上郡・北河にも行った。

昭襄王二十一年~三十年

二十一年,錯攻魏河內。魏獻安邑,秦出其人,募徙河東賜爵,赦罪人遷之。涇陽君封宛。二十二年,蒙武伐齊。河東為九縣。與楚王會宛。與趙王會中陽。二十三年,尉斯離與三晉、燕伐齊,破之濟西。王與魏王會宜陽,與韓王會新城。二十四年,與楚王會鄢,又會穰。秦取魏安城,至大梁,燕、趙救之,秦軍去。魏冄免相。二十五年,拔趙二城。與韓王會新城,與魏王會新明邑。

二十一年、司馬錯が魏の河内を攻めたので、魏は(河東の)安邑を献じた。秦はその(安邑に住んでいた)人民を出して、(秦の民で)安邑に移住するものを募って(応募すれば公士の)爵位を賜り、罪人は赦免してこの地に移した。涇陽君を宛に封じた(十六年に既出)。
二十二年、蒙武(正しくは蒙驁)が斉を伐った。河東の地を(分けて)九県とした。楚王と宛で会盟した。趙王と中陽で会盟した。二十三年、尉(都尉)の斯離が三晋・燕と力をあわせて斉を伐ち、(斉を)済水の西で破った。秦王は魏王と宜陽で会盟し、韓王と新城で会盟した。二十四年、楚王と鄢で会盟し、また(秦の地、河南の)穣でも会盟した。秦が魏の安城を奪い、さらに(魏の都の)大梁まで至った。燕・趙が魏を救援したので、秦軍は去った。魏冄が宰相を罷免された。二十五年、趙の二城を抜いた。韓王と新城で会盟し、魏王と新明邑で会盟した。

二十六年,赦罪人遷之穰。侯冄復相。二十七年,錯攻楚。赦罪人遷之南陽。白起攻趙,取代光狼城。又使司馬錯發隴西,因蜀攻楚黔中,拔之。二十八年,大良造白起攻楚,取鄢、鄧,赦罪人遷之。二十九年,大良造白起攻楚,取郢為南郡,楚王走。周君來。王與楚王會襄陵。白起為武安君。三十年,蜀守若伐楚,取巫郡,及江南為黔中郡。

二十六年、罪人を赦免して(穣に)遷した。〔穣〕侯の魏冉がまた宰相となった。二十七年、司馬錯が楚を攻めて(南陽を奪い)、罪人を赦免して南陽に遷した。白起が趙を攻めて、(山西東北部の)代の光狼城を取った。また司馬錯に命じて隴西から出発し、蜀を通って楚の黔中を攻めさせて、これを抜いた。二十八年、大良造の白起が楚を攻め、鄢・鄧を取り、罪人を赦免してこの地に移住させた。二十九年、大良造の白起が楚を攻め、(楚の都の)郢を奪って南郡とし、楚王(頃襄王)は逃げ(陳に亡命し)た。周君が来朝した。秦王は楚王と(魏の河南の)襄陵で会盟した。

この年、秦が楚を攻めて郢城をうばい、先王の墓と夷陵を焼いた。楚の頃襄王は、陳にのがれた。どうして昭襄王の二十九年に秦と楚が会盟することがあろうか。年の誤りであると。

白起を封して武安君とした。三十年、蜀守の張若が楚を伐ち、巫郡と江南を奪って黔中郡とした。

白起伝と春申君伝には、「起之(これを起こして?)」これを取るとあり、張若がやったとしない。巫郡をとったのは、白起と張若が共同でやったのか。不詳。


昭襄王三十一年~四十年

三十一年,白起伐魏,取兩城。楚人反我江南。三十二年,相穰侯攻魏,至大梁,破暴鳶,斬首四萬,鳶走,魏入三縣請和。三十三年,客卿胡(傷)〔陽〕攻魏卷、蔡陽、長社,取之。擊芒卯華陽,破之,斬首十五萬。魏入南陽以和。三十四年,秦與魏、韓上庸地為一郡,南陽免臣遷居之。三十五年,佐韓、魏、楚伐燕。初置南陽郡。三十六年,客卿竈攻齊,取剛、壽,予穰侯。三十八年,中更胡(傷)〔陽〕攻趙閼與,不能取。四十年,悼太子死魏,歸葬芷陽。

三十一年、白起が魏を伐ち、城を二つ奪った。楚人が江南で秦に反乱した。

岡白騎は、昭襄王三十年に秦が江南を奪って郡としているから、「反乱」というとする。

三十二年、相の穣侯が魏を攻め、大梁に至り、魏将の暴鳶(ぼうえん)を破り、首を斬ること四万。暴鳶は逃げて、魏は秦に三県を割譲することで和睦を求めた。
三十三年、客卿の胡傷(胡陽か)が将となり、魏国の巻・蔡陽・長社を攻めて、これを取った。(魏将の)芒卯を(河南の)華陽で撃って、これを破り、斬首すること十五万。魏は秦に南陽の地を献上して和睦した。三十四年、秦は、魏に対して韓の上庸の地を与えて一郡とした。

一説に、秦が、魏・韓に味方して、上庸の地を一郡にした、と読む。魏・韓はさうでに秦に味方し、秦もそれを受け入れた。秦が韓・魏と協力して、楚を攻めようとしたが、楚の春申君が説いて中止させたと『資治通鑑』に見える。
春申君が、秦の昭襄に、楚への攻撃を辞めるように説得する文は、『史記』春申君伝でも見覚えがある。

南陽で官職を免じられた臣を移してここ(南陽)に住まわせた。三十五年、韓・魏・楚をたすけて燕を伐った。はじめて南陽郡を置いた。三十六年、客卿の竈が斉を攻めて、剛城・寿城を奪って、そこを穣侯に与えた。三十八年、中更の胡傷(胡傷)が(韓の)閼与を攻めたが、奪えなかった。四十年、悼太子が魏で死んだ。(陜西の)芷陽に帰り葬られた。

昭襄王四十一年~

四十一年夏,攻魏,取邢丘、懷。四十二年,安國君為太子。十月,宣太后薨,葬芷陽酈山。九月,穰侯出之陶。四十三年,武安君白起攻韓,拔九城,斬首五萬。四十四年,攻韓南(郡)〔陽〕,取之。四十五年,五大夫賁攻韓,取十城。葉陽君悝出之國,未至而死。四十七年,秦攻韓上黨,上黨降趙,秦因攻趙,趙發兵擊秦,相距。秦使武安君白起擊,大破趙於長平,四十餘萬盡殺之。

四十一年夏、魏を攻めて、邢丘・懐城を奪った。四十二年、安国君を太子とした。十月(正しくは七月か)、宣太后が薨じたので、芷陽の酈山に葬った。九月、穣侯の魏冉が(朝廷から)出て(封地の)陶に行った。四十三年、武安君の白起が韓を攻め、九城を抜いた。斬首すること五万。四十四年、韓の南郡(六国表では南陽、南陽が正しい)を攻めてこれを奪った。四十五年、五大夫の賁が韓を攻めて、十城を奪った。葉陽君悝が(朝廷から出て)封国(鄧)に行ったが、到着しないうちに死んだ。
四十七年、秦が韓の上党を攻めたが、上党は趙に降ったので、これにより秦は趙を攻めた。趙は兵を発して秦を迎撃し、防ぎ止めた。秦は武安君の白起に攻撃させ、大いに趙を長平で破り、四十万あまりをすべて殺した。

四十八年十月,韓獻垣雍。秦軍分為三軍。武安君歸。王齕將伐趙(武安)皮牢,拔之。司馬梗北定太原,盡有韓上黨。正月,兵罷,復守上黨。其十月,五大夫陵攻趙邯鄲。四十九年正月,益發卒佐陵。陵戰不善,免,王齕代將。其十月,將軍張唐攻魏,為蔡尉捐弗守,還斬之。

四十八年十月、韓は垣雍の地を秦に献上した。秦軍は分かれて三軍(白起伝では二軍)に編成された。武安君の白起が趙から帰還した。王齕(王齮、王騎と同一人物か)が将となって、趙の(武安・)皮牢を伐って、これを抜いた。司馬梗が北上して太原を平定し、ことごとく韓の上党を領有した。正月(誤りか)、戦いが止んで、また(趙が)上党を守備した。その十月、五大夫の陵が趙の邯鄲を攻めた。四十九年正月、ますます兵を送って陵を助けたが、陵の戦いは思わしくなく、罷免され、王齕が代わりに将軍となった。その十月、将軍の張唐が魏を攻めたが、(部将の)蔡尉が陣を捨てて守らなかったので、帰還してから蔡尉を斬った。220313
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