■三国志雑感>袁術が事件解決!怪奇190年代の謎(4)
■リーダー袁術の徐州侵攻
話を戻します。
劉備が呂布・陳宮を招き入れた徐州へ、袁術が攻めてくる。
「下っ端の劉備め、州牧とはどういう了見や、そこを退け」というわけ。
思い出してみると、袁術が陶謙急援の指示を公孫瓉に出したおかげで、劉備は柄にもなく徐州を手に入れた。ゆえに劉備のものは袁術のもの。※自分勝手じゃない。※自分勝手じゃない。
劉備は、名士たちに推された形とは言え、徐州に君臨していた。チームの一員として、規律に反した。
ここで名門の袁術に逆らってしまうのが、無鉄砲な劉備の偉さ。この頃は場当たり的に、むかついた相手に牙を向いているだけな気がする。
劉備にも志みたいなものはあるだろうけど、まだ大局に影響を与えるほどの位置には到らない。っていうか、当分は到らない。
 
袁術と石亭で対峙すること一ヶ月。
劉備が留守にしている下邳城が、呂布に奪われる。
 
 
■呂布を突き動かすもの
以下、徐州を巡って一進一退の攻防が繰り返される。呂布が何回も態度を変える。この辺りは歴史がどう流れているのか分からない。読んでて苛立つ。ゆえに「呂布は油断ならぬ変節漢。乱世をいたずらにかき回した」という後世評が出てきたと思う笑呂布を馬鹿者にしてしまうのは簡単だし、戦略以外に呂布の行動原理を設けて「呂布を分かったふり」することも出来る。でもぼくは、呂布は呂布なりの戦略があったと考えてみた。まず、呂布はこんな男だ。
 
 ○主君に従属することを好む。自分の武力を、主君に認められたい。
 ○主君が仕えるに値しなければ斬る。
  また、仕えるに値する主君がいなければ仕えない。
 
従属している状態が好きなのは、丁原・董卓に仕え、袁術・袁紹・張楊のところに留まったことから分かる。死に際して、曹操への臣従を願い出たのも同じ理屈。従属屋さんってことは、主君に認められることが喜びに繋がる。彼の長所は武力である。よって呂布の武力を使いこなして、いい子いい子してくれる人物が呂布にとっての理想の君主像となる。
そこまで主君への依存度が高いと、主君への要望も高くなる。自分の卓越した武力が戦場で証明されるほどに、その欲求の度合いがさらに高くなる。大きな戦場へ赴かせてくれる(天下の合戦に参加している)人物に仕えることが、呂布の願いである。そういう一貫した理由で、一貫しない忠義を撒き散らした。
より優秀な君主に仕えるためには、勲功を立てることを惜しまない。たとえ現在の君主を斬ってでも、転職をする。
董卓は素直に受け容れてくれた。しかし次に、せっかく袁隗を殺した董卓を斬ったのに、袁術も袁紹も認めてくれなかった。これは彼にとって大事件であり、「裏切られた」挫折体験であったに違いない。
 
張楊に親しむも、おそらくは第二・第三志望。ここでは、天下を左右する戦で活躍できない。「大手に入れなかったから、中小でキャリアアップするの。実力をつけたら30歳でスカウトされるんだ」という、あんまり成功した例を聞かないプラン風人生に甘んじていた呂布。そこに陳宮・張邈の誘いがかかった。徐州を手に入れた!
徐州に入った呂布は、独立したように見えて、本心では仕えるべき良さげな君主を探していた。
 
いくら辺境と言われる并州五原郡出身の呂布であれ、彼にとって世界の全ては中原。現状、この中で探すしかないわけ。しかし、天下を二分するのは、彼を一度は拒んだ袁術と袁紹。天下の勢力図が変わるか、どっちかに認めてもらうかしか、活路はない。自ら君主になる気は無いもん。
天下がガラッと変わることなんて、なかなかない。仮にあるにしても、予測しにくい。
だから現実的な生き方として、袁術か袁紹が心変わりして「やっぱりあなたが好きでした」のラブメールを送ってくることを期待していたんだ。陶謙以来の両勢力の干渉地点・徐州は、チャンスを伺うにはいい土地だった。自分の価値を両方に見せつけることが、生きることへのモチベーションだった。 

 
■呂布の人材活用術
なんかパラドキシカルなタイトルですが、真面目な話です。呂布は巧みに二人の文官を使い分けた。時系列で徐々に解き明かしてみたいけど、それは邪魔臭いから結論から書きます。
 
 ○陳宮:袁術への窓口。陳宮が袁術派の重鎮になりたがってるのを利用。
 ○陳珪:袁紹への窓口。チーム袁紹の曹操と連絡を取り合ってる。
 
二人とも陳姓だから、改めて並べると紛らわしい。陳宮は兗州攻めの立役者。陳珪は劉備を徐州牧に推戴した人物で、名士ゆえに袁紹シンパです。どちらも前に書きました。陳珪は袁術を支持しない。次男の陳応を人質の取られて「味方してくれ」と言われたが、袁術にはつかなかった。
呂布は袁術と袁紹に自己PRしつつ、同時に敵にしたら怖い人材であることをPRしたかった。だから、徐州にいる陳宮と陳珪をバランスを取りながら活用し、どちらかへの再就職の機会を狙っていた。
 
このバランスは、一般的なイメージとはギャップがあるだろう。一般にはおそらくこうだ。「陳宮は呂布に全面的に協力をした軍師」「陳珪・陳登は曹操に内通して呂布を滅亡させた埋伏の毒」と。
こういうイメージをぼくはあちこちで目にしたと思う。これは理由のないことではない。理由は主に3つである。
 ○呂布には袁術側につく動きが目立ったから。
   ※弱ってるチーム袁術を叩けば、中原の争いが終わってしまう。
    これは呂布にとって、雇用機会損失でNG。
   ※強い袁紹側と張り合えば、両チームに呂布の実力が誇示される。
   ※袁術に味方するたびに、作戦立案担当の陳宮が活躍する。
 ○陳珪らは、呂布に重用されてるわりに派手なシーンがない。
   ※意外にも「呂布伝」で外交等を活発にこなしてるのに。
 ○呂布は袁紹方(曹操)に斬られ、陳宮は殉じた。
   ※印象的なラストシーンによって、キャラの相関図が固定化した。
   ※結末から「陳珪は呂布抹殺のための潜入者」と単純化された。
 
呂布が陳珪と付き合うメリットがなければ、彼のことだから早々に殺しているだろう。一州を実力で保ってるんだから、自分の意思で会わないことだって出来る。しかし呂布は、陳珪を離さない。息子・陳登の詭弁にも付き合っている。
あるとき呂布は、陳登に曹操へのお遣いを命じた。「オレを徐州牧に任じるように頼んでこい」と。しかし陳登はお遣いに失敗した。呂布は激して戟で机を叩き切った。劇なら、ここで五人くらい死ぬ(笑)だが陳登は顔色を変えずに諭した。
「私は曹操に言いました。『呂布将軍を扱うのは、虎を飼いならすのと同じだ。満腹にしておかないと、人を噛む。だから徐州牧にしてあげて』とね。しかし曹操はそれは違うと言いました。曹操は『呂布将軍を扱うのは、鷹を飼うのに等しい。腹が減れば役に立つが、満腹になれば飛んでいってしまう。だから徐州牧にはしてやんないよ』だってさ。だから徐州牧をもらってくることは出来ませんでした」
これを聞くと、呂布の気持ちはほぐれた。以上「呂布伝」より☆
ええー!
まず陳登が何を言ってるかよく分からんよ。ぼくの引用が下手なわけじゃないと思う。ちくま訳も、やりようがなかったのだろう。でも呂布は納得してしまったよ。ちょっと考えれば、動物の例えの意味くらいは分かるけど、お遣いに失敗したことの弁明にはなってないよ。でも許された。呂布は曹操(チーム袁紹)との接点を保っておくことが必要だったんだね。
自分を勇猛な動物に例えられたのは嬉しかったのでしょう。そして「飼いならす」という比喩で自分が扱われたことは、きっともっと嬉しかった。呂布は使われるのが好きだから。呂布の心をほぐしたのは、むしろそこかも知れない。そこまでは知らんけど。
 
 
■呂布伝説の再構成
ここからは呂布に起きた出来事を順番に見て、呂布の人材活用ぶりを追います。もちろん基調には、袁紹と袁術の対立があります。そこはガチです。
 
徐州に居座った劉備を、袁術が攻めた。
陳宮はチーム袁術のレギュラーになりたいので、下邳城を乗っ取った。呂布というツールを活用して、成り行きで居座った劉備を退去させた。
劉備は撤退して、呂布に降伏。
陳宮は袁術の覚えを良くするために、劉備を殺したかった。しかし呂布の思惑は違う。ここで劉備を斬ってしまえば、徐州は袁術が回収して終わり。陳宮は華々しくFA移籍に成功するだろうが、自分は違う。現段階では、空城をヒゲの酔っ払いから奪っただけなので、ろくな功績を上げてない。かつて門前払いされたときと、自分に対する評価は変わってない。きっと袁術は自分をメンバーに加えてくれない。それは困る。
劉備を支城の小沛に行かせた。
名前を売る期間を得るために、自ら徐州刺史を名乗って「独立」した。 
 
袁術が紀霊を派遣して、劉備を殺しにきた。
「劉備なんて、よー分からんサブキャラだし、殺っちゃいましょう」と、袁術に協力を求める呂布旗下の将軍たち。これに呂布は反論した。「袁術は、劉備を破ったらオレを包囲する(=徐州を回収する)。そしたらオレら解散じゃん。だから劉備を助けるべきなんだ」と冴えを見せた。
呂布は紀霊と劉備を仲裁する。
呂布にとっては、武勇を轟かせるチャンス。紀霊に言う。「劉備はオレの弟だ。弟が困ってるので助けに来た。オレは争いごとが嫌いなので、仲直りさせるのが好きなんだ」と。狂戦士にあるまじき発言だと言われているセリフですが、ちゃんと根拠はあったのだ。
「でも、ただ仲直りするだけじゃ面白くないから、オレが遠くの戟の小枝を射る紙芝居をしてやる。もし当たったら、仲直りするんだよ。分かった?」という伝説のシーンです。
これで呂布は名前を売った。同時に、徐州という活躍の舞台をキープすることに成功した。
 
呂布が強いのは事実。紀霊は撤退。
しかし衰退するチーム袁術としては、呂布率いる徐州を敵にするわけにはいかない。『英雄記』では袁術が呂布を賞賛する手紙を送り、食料・武具を送り届けたとある。この手紙で袁術は「この世に劉備という人間がいることなど聞いたこともなかったのですが」と言っている笑
陳宮の外交も下地にはあるのだろうけど、袁術に一目置かせることに成功した呂布でした。
 
『英雄記』はこうも言います。196年6月、呂布の政庁で謀反が起きた。無事に鎮圧され、首謀者が陳宮であることが発覚した。席上の陳宮は顔を真っ赤にした。
陳宮の狙いは、呂布から徐州を奪って袁術に献上することだろう。呂布が紀霊を退けたせいで、袁術は徐州を回収できなかった。それを成功させて袁術に奔れば、かなりの高待遇が約束されているはずだ。それが彼が曹操を裏切ったときからの狙いだ。
しかし呂布は陳宮を許した。袁術への窓口、陳宮だから許した。
二人は一枚岩ではない。このことからも分かると思う。陳宮は赤心で呂布を補佐しているわけじゃないのだ。呂布は、陳宮と対立する陳珪も手元において、バランスを置く必要性はここにある。陳宮だけを大切にしたら、自分は徐州から除かれる。陳宮は「陣営」と漢字が紛らわしいので、あんまり勝手な戦をされると、サイトが読みにくくなるというリスクもある笑
 
袁術の息子と呂布の娘の縁談が上がった。
これに陳珪がストップをかける。徐州がチーム袁術に偏りすぎるからだ。呂布の天秤が傾いた。すでに出発した花嫁を連れ戻し、袁術からの使者・韓胤を斬った。陳珪は息子・陳登を曹操への使者に立てたがったが、それは呂布が承知しない。そこまでサービスしない。チーム袁紹に肩入れしない。自分を安売りしない。
曹操から呂布を左将軍に任じる使者が到着し、やっと陳登の出発を許した。呂布の、袁紹か袁術に認めてもらいたい作戦は順調に進行中。
陳登は曹操に会った。曹操は陳登の手をとって「呂布に天秤で遊ばせるのは危険だ。早く滅ぼさなければならない。中二千石・広陵太守にしてやるから、協力してね」と言った。呂布による呂布のための出世計画を手放しで見守ってくれるほど、中原は甘くなかった。
 
次回は、曹操にスポットを当てます。
いつまでも袁紹に従っているオレだと思うなよ、がテーマ。つづく。

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