三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
福原啓郎『西晋の武帝/司馬炎』を読む。(3)
■父の死
鄭黙と司馬炎のエピソードだけで、かなり横道に逸れて引っ張ってしまったが、、福原氏の本に返ります。

260年、曹奐を東武陽県に迎えに行って、司馬炎は新昌郷侯。
264年10月、晋の世子になった。265年5月、晋の太子に改称。

歴任した官位の特徴は、2つ。「貴戚」の子弟が就くべき、近侍・宿営の内官。懿や師がついた、司馬氏ゆかりの中撫軍や撫軍大将軍。また、曹丕の例に倣い、昭の副弐になっている。
265年8月9日、司馬昭が死んだ。司馬炎は、晋王と相国を継いだ。

■晋の受け皿
9月7日、魏から晋へ朝廷の人事異動。晋の朝廷に、丞相:何曾、 御史大夫:王沈、 衛将軍:賈充、 尚書令:裴秀、 侍中:荀勖。

魏の朝廷にも晋の朝廷にも、学問・孝行・忠義で知られた宿望が配置された。曹操の「才」を否定し、「性(徳行)」を重視する傾向が伺える。これには、司馬孚、王祥、鄭沖、荀顗、何曾が該当する。
次に、司馬氏の「心膂」と呼ばれた与党。王沈、賈充、裴秀、荀勖、石苞、陳騫、羊祜がこれ。ただし、賈充・裴秀・荀勖は、曹爽に辟召され、司馬懿のクーデターで免官になったことがある。甄徳(郭徳)と甄温は、曹氏の外戚だが、司馬氏のシンパ。
代々学者を輩出した「諸生」の家の連合とも言い換えられる。

范粲は司馬氏には反対で、曹奐が護送されたら、素服(白い喪服)で慟哭して見送った。晋の土を踏みたくないので、車上で36年過ごし、一言も発さずに84歳で死んだ。
こういうキャラ、とても貴重だよね。こういうのが居てくれないと!

■禅譲劇
司馬炎は、数万人が見守る中、柴を焼いて上帝に告類(即位の報告)をした。
3つの構成から成る。
 (1)司馬懿・師・昭はすごいのだ。
 (2)曹奐から司馬炎に、禅譲だ。
 (3)祖父以来の、臣下たちの補佐の功績を忘れない。
ちゃっかりと、空気を読んで締めくくっているあたりが、しっかり練られた原稿を使ったんだね!という印象を受けます。

曹奐は、陳留王になり、西晋の宗室の上国と同じ待遇。
曹志(曹植の子)は、済北王から、甄城県公に降格。
劉康(献帝の孫)は、山陽公のまま。
266年正月27日、楊艶は皇后に。
同じ日に、司馬氏の27名が郡王。司馬懿の代で生き残っているのは、司馬孚のみ。司馬懿と、司馬孚-司馬望の房(血統)が反映している。

■十一公の時代
魏と晋の朝廷は合体しており、上公・三公を濫発する。
太宰(太師)には司馬孚、太傅に鄭沖、太保に王祥、大尉に何曾、司徒に司馬望、司空に荀顗、大司馬に石苞、大将軍に陳騫。福原氏の本を写していて馬鹿らしくなるんだが、「八公」という異常事態だったようです。
飽き足らず、三公に準じる驃騎将軍に王沈、車騎将軍に賈充、衛将軍に司馬攸。いやん。

魏の皇族には、防輔・監国謁者が付き、王淩の曹彪擁立未遂より、鄴で集中管理された。晋では、高位高官に皇族が就き、「宗室選」として、九品官人法の枠外。いきなり三品や四品から起家できた。

■替え歌
散騎常侍の傅玄の作詞、音楽が披露された。
漢魏のメロディーをパクり、詩だけを入れ替えたものらしい。この、にわか仕立てっぷりが、微笑ましくていいねえ。それくらい、禅譲っていうのは、慣れないことだったんだろうね。
叙事詩風に、誇張して司馬氏を賛美するものらしい。スタートが、「霊之祥」というタイトルで、司馬懿が孟達を討ったお話らしい。そこから始まるんだ、ふーん、という程度の感慨なんだけど。
福原啓郎『西晋の武帝/司馬炎』を読む。(4)
■魏との訣別
福原氏曰く、「官人はそのまま抱え込んだのとは対照的に、意識的に魏王朝の色彩を払拭せんとする」と。奢侈を辞めましょう!ということで、265年12月19日(王朝成立3日目)に、倹約の詔勅が出ている。

人材面でも、魏の「刻薄」から、「仁徳」に基づく「寛厚」な政策を志したと、福原氏はまとめている。
265年12月に魏の宗室(曹氏)、266年2月には漢の宗室(劉氏)の任官をOKにした。曹志が、楽平郡太守になった。あれだけ不遇をかこった曹植が聞いたら、どんな詩を書いてくれたんだろう笑
旧蜀漢の人士も任用し、諸葛瞻の次子、諸葛京を郿県令とし、江州刺史まで登らせた。郿と言えば、諸葛亮が北伐で、もの欲しそうにウロウロした場所じゃないか。スパイスが効いた人事ですね。
司馬氏に誅殺された子弟も、登用した。七賢の1人、嵇康は刑死だったが、子の嵇紹を山濤が秘書郎に推挙。司馬炎は「秘書丞(六品)でも出来るんじゃないか」と言って引き上げた。嵇紹は、恵帝に忠義を尽した。また、許允は、李豊に連座して流刑だったが、子の許奇を司馬炎は側に置いた。「受害ノ門」だからと言って、避けなかった。
地方官・遠征中の武将の子弟を、洛陽に人質にする「質任ノ制」も、段階的に廃止していった。

司馬炎の、オリジナルな善政を見ると、三国志は終わったんだなあ、と安心できるね。すぐ後に、暗黒の時代が口を開けて待っていることは分かっているけれど、せめてもの救いですよ。
■泰始律令の完成
267年12月、星気と讖緯の学が禁止。革命の根拠になるので、もう要らないということだね。しかし完廃は、隋の煬帝の弾圧まで待たねばならんらしい。九錫も緯書『礼含文嘉』(『礼記』のパチもん)が出典らしい。

268年正月18日、泰始律令が完成。
264年5月以来、3年半も作業をしていたらしい。顧問は鄭沖、リーダーは賈充。メンバーは荀顗、荀勖、羊祜、王業、杜友、杜預、裴楷(以下略!)の全14名。
刑法(律)と行政法(令)からなり、もう散ってしまったが、東アジアの律令体制の根幹。陳羣の魏律を継ぎつつ、完成。126300字、60巻。別に、故事が30巻。死罪の条目のみ、亭(警察)伝(宿場)に掲示した。すごいパワーのかけ方です。

礼儀については、荀顗のもと、羊祜・任愷らが165編、15余万語の「晋礼」を完成し、269年以降に施行。 官制については、裴秀のもと取り組んだが、271年に彼が没してしまい、沙汰やみ。
■呉への抑え
淮水と漢水を軸に、下邳・広陵・寿春・(新旧)合肥・六安・苑(新野)・襄陽・江夏に、重兵を置いて絞めていた。
呉は、皇帝と将軍(督)のきずなで成り立っていた。孫皓のときは、自壊作用を起こしていた。

羊祜に嘱望された王濬が、272年に益州刺史。
王濬は、以前に羊祜の征南将軍府の参軍、車騎将軍府の従事中郎というつながり。へー。
274年の秋、陸抗が死んだ。
王濬は、艦隊を建造し始めた。羊祜は司馬炎に、王濬の留任を懇願した。へー。益州からの攻めは、羊祜のシワザだったとは。
全長174メートル、2000余人が乗れる戦艦もあったらしい。ちなみにタイタニック号は全長270メートル。他に比べるものがなかったんだが、言わないほうが良かったね笑

276年10月、征南大将軍に復した羊祜は、「呉を討ちましょう」と、具体的な侵攻経路を進言した。しかし、秦州・涼州で、鮮卑の禿髪樹機能に負けまくっていたため、慎重論が勝った。
権貴の賈充・荀勖・馮紞らが、反対派の急先鋒。度支尚書の杜預や中書令の張華が賛成するのみ。
278年6月、羊祜は「孫皓が君主のうちに」と征呉を説くが、11月26日に没。羊祜が後任として推挙した杜預が、鎮南大将軍・都督荊州諸軍事。寒い日で、武帝のヒゲは涙で凍った。
(C)2007-2008 ひろお All rights reserved. since 070331xingqi6