三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
福原啓郎『西晋の武帝/司馬炎』を読む。(5)
■もめごと
杜預の祖父は、杜畿。高幹になびく河東郡を治めた。杜畿と賈逵がさあ、どうしても頭の中で混ざるんだよね。杜預と賈充が、一緒になって頭の中をかき混ぜてくる。
杜預の父は、杜恕で、礼の重要性を論じた『体論』を著した。幽州刺史だったが、司馬懿と折り合わずに死去。
杜預は罪人の子だったが、司馬昭の娘を娶って、復活。「杜武庫」だとか大蛇とか、言われた。『春秋左氏伝集解』を著したが、馬に乗れず、弓も下手だった。イメージの一定しない人だなあ笑

武帝は、あんまり征呉に乗り気じゃない。「孫皓が北伐するっぽい。様子を見よう」なんて意見を、採用してしまったり。どうせ、集団ヒステリーを、見間違えたのでしょうが。
山濤は、外敵がある方が、国内が引き締まると言ってる。

朝廷内には3つのグループがあったと、福原氏はいう。
 ○羊祜・杜預・張華・王濬(・裴秀)
  司馬氏に協力的で、呉を討つことに積極的。
 ○賈充・荀勖・馮紞
  司馬氏の信任は厚いが、もう退嬰的・守旧的。
  ただし、武帝と一部の征呉派が功績を独占するのは避けたい。
 ○鄭沖・王祥・何曾
  朝臣の大半を占め、簒奪&征呉に消極・慎重な名族出身者。

■孫皓の降伏
279年11月、武帝と張華は囲碁をしてた。襄陽の杜預から、2通目の上奏が届いた。張華は、碁盤を横に押しのけた。
なんだか、すごく小説的なんだが、おそらく『晋書』にこういう記述があるんだね。さすが、評判の悪い『晋書』ですよ。陳寿だったら、こうは行かせてくれない笑
賈充は反対するために、「耄碌してしまい、大都督はご辞退します」と言ったが、武帝が「キミが行かないなら、オレが直接行くだけだ」と言ったので、ついに観念した。

■王渾と王濬の対立
王濬は、水軍で建業を抜いた。王濬は、王渾の指揮下に入ることになっていた。しかし王濬は、王渾を無視した。
王渾は怒って、王濬の罪状を上奏した。洛陽では、有司が「王濬を檻車で送還せよ」と言った。まるで、鍾会が、諸葛緒や鄧艾を送り返してしまったときと同じ構図ですね。

王渾は、名門。子の王済が、武帝の娘を娶っている権貴。
王濬は、寒門出身の75歳。羊祜にやっと引き上げてもらった。王濬が圧倒的に不利だ。
しかし武帝は、「有司が王渾に迎合したんだろう」と見抜いて、王濬を捕えなかった。さすがだね。司馬炎が、ある段階までは名君で居てくれると、三国志ファンとしては、ハッピーエンドに収まりが付きやすいわけで。感情が慰められる。
ただし王濬も杜預も、権貴の前に、不遇だったそうだ。せっかく呉を討ったのに、扱いが悪いねえ。っていうかさあ!同じ王姓で争わないでほしいよ!ワケ分からん。
■太康元年
人々に「天下に窮人なし」と喜ばれる、統一の時代。
280年3月15日に孫皓降伏。4月29日に「太康」と改元。5月4日に孫皓引見の儀式。9月6日に封禅ノ儀のオススメ(武帝が辞退、先述)。

武帝は、平和体制への切り替えを2つやった。
まず、州軍の撤廃。大郡には100人、小郡には50人のみ残して、軍は帰農。杜預と山濤が一般論から、交州牧の陶璜が「ぼくの任地は不穏っす」という事情から、反対した。
のちに八王・永嘉の乱を対処できなかった「平和ボケ政策」として批判されるが、福原氏は積極的に評価する。武帝は、刺史や牧を、平和時の本来の民政長官に戻そうとしたのだ、有事には魏代の5都(洛陽・長安・許昌・鄴・譙)の都督が鎮圧するつもりだった、とする。

もう1つは、占田・課田制
占田とは、自作農の規定。16~60歳の男(丁男)に70畝、その妻に30畝(合計して100畝=1頃)を耕作地として申告させ、認定する。ただし官僚は、もっとたくさん耕作地を持てる。一品は50頃を認め、1品下がるごとに5頃ずつ逓減する。9品なら10頃となる。課田とは、
旧屯田民の規定。典農部所属の民屯は5都郊外に集中し、軍屯は敵国側(淮水流域、関中・隴西)に集中した。軍屯は魏とともに消え、民屯は呉とともに消えていた。旧屯田民は国有地の小作人として、16~60歳の丁男には50畝、13~15歳&61~65歳の次丁男には25畝、丁女には20畝。
租(田に穀物を課税)庸(戸に絹・綿を課税)を定めた。

川勝義雄氏の論文を引き、国家と課田民の関係は、貴族・豪族と佃客の関係を、国家もパクったとする。貴族制社会の国家的体現なんだってさ。引用されているだけなので、詳しくは分からないんだけど。。
■斉王、司馬攸
282年12月13日、斉王の司馬攸に、帰藩を命ずる詔勅が下った。
ここから、司馬炎の時代に闇が始まるようです。すなわち、三国を統一したイイ時代は、たった2年半しか続かなかったと。福原氏はそう言っているようです。

司馬攸、字は大猷、炎の10歳下の同母弟。幼いときから「岐嶷(才知すごい)」と言われ、大きくなっては「清和平允(清く穏やかで公平)」と言われた。司馬懿が期待して、司馬師(5人の娘がいるだけ)の後継に定めた。司馬懿の引退試合である、王淩討伐にも従軍させた。数えで4歳じゃねえか笑
懿・師が受け継いだ舞陽侯を襲い、義母の羊氏と一緒に住んで孝行した。師が死んだとき、昭が攸を後嗣にしたとも言う。司馬昭は「弟のオレが相国をやっちゃってるが、ゆくゆくは兄を継ぐ司馬攸に、大業を返すべきだ」「いまの天下は兄のもの。どうしてオレが与っていいのか」と口癖し、自分の席を叩いて「これは桃符(攸ちゃん)のものだ」と言った。
司馬昭が死ぬと、司馬攸はルール(礼)以上にやつれ、杖でやっと立ったらしい。乾飯を勧められても食べず、母の王元姫が口に突っ込んだ。

晋の太子を決めるときは、何曾・裴秀・賈充・山濤が反対してくれたので、炎が指名された。
司馬昭は、あくまで司馬攸を推したんだが。まあ兄の後嗣という名目も立つし、結局は自分の次男だし、年少の子の方が可愛いし、気持ちは分かる笑
晋朝になってから司馬攸は、衛将軍のままがんばり、驃騎将軍、鎮軍大将軍をやり、276年に司空!侍中と太子太傅を兼ねて、積極的に建策した。
大司馬に進み、都督青州諸軍事を任せ、斉王の食邑をプラスした。

■しょぼい司馬衷
司馬炎は「太公望みたく、斉の地でがんばって」と言った。例えにも慰めにもなってないが、そんなことは道行く人でも(以下略)笑
こんなことになったのは、司馬炎の子の司馬衷が、パッとしなかったかららしい。曹丕と曹植を思い出し、不安になったんだと。

司馬炎は236年生まれ、弟の司馬攸は248年生まれで、司馬衷が259年生まれ。だいたい一回りずつ違う。弟のくせに年下すぎて、自分の子のライバルになると思ってしまったんだね。
司馬攸にしてみれば、ヤブからスティックというやつだねえ。
福原啓郎『西晋の武帝/司馬炎』を読む。(6)
■リミッター解除
275年末から翌年に、洛陽で伝染病が流行った。半分以上死んだ。司馬炎も寝込み、朝臣が司馬攸に期待をしたのがいけなかった。司馬衷は17歳だったんだから、それなりに判断力もありそうなものだが、孫呉が生き残り、鮮卑が恐ろしかったので、賢い弟が嘱望されても不自然じゃない。

282年正月、中書令で平呉に功績のある張華が北方に左遷された。安北将軍、都督幽州諸軍事です。「陛下が後事を託すなら、斉王です」と発言したのが原因。
同じ282年4月、賈充が死んだ。賈充の娘が司馬攸に嫁いでいたので、司馬炎は遠慮してたらしい。っていうか、賈充の娘と婚姻してたという点では、司馬攸(弟)と司馬衷(子)は義兄弟じゃないか。全くもう、ややこしいよ。賈充が、息子がいない腹いせに、節操なく娘をバラまくから、人間関係がギクシャクするじゃないか!
同じ282年12月に、司馬攸に帰藩命令だから、時期的には露骨。あんまりいいイメージがない賈充だが、実は大切なリミッターだった。

■しずむ司馬攸
司馬攸は塞いだ。司空府主簿の丁頤が、「太公望や斉ノ桓公と同じじゃないっすか」と励ましたが、「オレは要らん子なんや。黙れ」と言い返される始末。福原氏は指摘してないけど、曹植が突っ込まれたのも斉国でした笑

■王渾の熱弁
尚書左僕射の王渾(建業で王濬に苛立った名族)が、司馬攸の留京を求めた。
「周では姫姓を大々的に封建しました。しかし、武帝の弟、周公旦は任国に行かず、朝廷で幼い成王を補佐しましたよねー。周公旦と斉王は、シンクロします。都督青州諸軍事なんて虚号を借りて、飛ばしちゃうのは良くないっすわ。
文帝(司馬昭)や文明太后(王元姫)に遺志とも、ズレとります。異民族対策に、どうしても皇族から青州に人が要るなら、汝南王(司馬亮、炎の叔父)に出鎮してもらいましょ。汝南王(亮)は、 瑯邪王(伷、同じく炎の叔父)と扶風王(駿、同じく炎の叔父)と同じように、地方を立派に治められます」
まだまだ、王渾は吼えますよ笑
「故事を見ると、外戚に任せても、宗室に任せても、政治はロクなことがありません。斉王(司馬攸)と、宗師(現時点での一族の長老)である汝南王(亮)と、外戚で衛将軍の楊珧の位を等しくして、三頭政治をやっとけば、陛下が死んでもこの国は平和でしょうなあ」
たっぷり喋ったね。これを原文で読むと、無間地獄に突き落とされたような気持ちになるんだろうね。怖いぜ。

福原氏曰く、与論における人物評価(司馬亮も司馬攸すげえ)と、現政権担当者(司馬亮も司馬攸もいない)が乖離しているため、士大夫たちに心の動揺を与えて、国家に存亡の危機をもたらす、と。王渾は、司馬攸を飛ばしたら、国家転覆ですよ!とワザワザ危機感を持って警告しているそうで。

■途切れない反対論者
驃騎将軍の扶風王(駿)、かつての太子太傅で司馬衷冊立の面倒を見た李憙、司馬師正妻の従父弟で機密を預かっている羊琇、王渾の子で司馬氏を娶った王済、曹氏の外戚ながら司馬氏を援助した甄徳、河南尹の向雄が諌めた。
羊琇は、外戚の楊珧が斉王をつぶそうとしてると勘繰って、楊珧を殺そうとした。王済と甄徳は、ともに妻の司馬氏を宮中に行かせ、一緒に額をこすりつけて「斉王をお留め下さい」と泣かせた。

■司馬炎の対応、、
王渾は無視。司馬駿と李憙も無視。
羊琇は、楊珧に返り討ちに遭って、太僕卿に左遷。
王済と甄徳は、「オレの目の前で、親類に泣かせたな。まるでオレが死んだみたいな扱いじゃねえか。哭礼のマネゴトか!」と怒られて、左遷。侍中の王戎に、「あいつら、オレのプライベート(家事)に、口出ししやがって」と漏らした。おっさん、自分が皇室だと忘れたらしい笑
■ユフの注文不履行
283年正月「攸よ、斉に行け」と策命が下った。

下賜品(いやらしい餞別)について議論された。太常博士のユフら7名が、やめておけばいいのに、また吼えた。
「斉王は三公です。三公は名誉職で、本来は仕事などありません。仕事もないのに、地方で実務に就け!などという命令はクレイジーです。また、斉王が賢者なら、藩屏なんてダメです(もっと上級なタスクをさせるべきです)。また、もし斉王が愚者なら、藩屏なんてダメです(もっと下級のタスクで充分です)」
どっちにしろ、斉王を送り出すことに反対なんじゃねえか笑 司馬炎としては、斉王を外に出す前提で、下賜品を問うているのに、今さら議論の蒸し返しだよ。

ユフの父のユ純は、校閲をしたが、スルーした。すなわち、同意したということだね。
これを受けて武帝は、「博士は、問うてもいないことを答え、異論をでっち上げた」と言い、廷尉に引き渡した。
斉王の件の判断には疑義がありますが、ユフのコミュニケーションスキルの低さは、怒られても仕方がないと思うのです笑 わざわざ名前の漢字を探す気にもならん。
あっ!でも、晋書の列伝20に、ユ純は伝が立てられているんだね。仕方ない。文字コード?が微妙だが、漢字で書こう。
父が庾純(ユジュン)で、子が庾旉(ユフ)です。意外に重要人物?

■鄭黙の再登場
太常卿の鄭黙(ぼくがこの稿でやたらとこだわった人物が、みごと再登場ですよ)、博士祭酒の曹志も反対した。
武帝は「曹志は、オレの心でさえ分かってない。まして、天下のコトが分かるのか」と言った。都合のいいときだけ天下の代表者になる、武帝さん。福原氏がすでに言っているように、曹植の無念を継いだ人物に、同意を求めるなよ。KYかドSなのか笑
鄭黙と曹志は、大不敬の罪状により、棄市(公開処刑)を廷尉に主張され、尚書八座の多くがOKした。しかし、尚書の夏侯駿が反対し、大赦による免官で助かった。この議論で、宮中が7日間もフリーズした。

鄭黙、けっこう重要キャラじゃないか。嬉しいよ笑
(結果論として)正常な思考を失った武帝=かつての同輩に対して、死を覚悟した諫言をする。1回は、棄市を言い渡されてほしいね。頭脳明晰な少年同士が、刺激しあって張り合っていた時代が、フッと頭を掠めるね。あのとき、まだ司馬懿も存命で、一族は日の出の勢いだったなあ。河内郡で評判のライバルでした。

さらにいいことに、つるんだのが曹志。曹植の切なさを、こんなところに持ち込めるなんてね。『曹操残夢』の著者でも、ここまでは思いつかなかっただろう笑
武帝は「誰もオレの気持ちを分からねえのか」なんて嘆いている。鄭黙とも曹志とも、いつの間にか乗り越えられない壁ができてしまっていて。いいねえ。本当にいい笑
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