三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
福原啓郎『西晋の武帝/司馬炎』を読む。(7)
■司馬攸の死
283年正月、「攸は斉に行け」
283年3月、司馬攸死去。享年36。
まじか。もう死んでしまうのか。全然関係ないけど、『そうか、もうきみはいないのか』という本のタイトルに強烈に惹かれています。まだ読んでないけど、司馬攸の最期は、福原氏の解説・論文調の文章で読んでいても、呆然としてしまいました。小説だとしたら、きっと必ず泣ける笑

武帝は、せっかく弟が赴任するのだからと、済南郡を斉国にくっ付けた。攸の子で、長楽亭侯の司馬寔を北海王にした。いろんな栄典もプレゼントした。
司馬攸は「母の陵を(洛陽周辺?で)守りたい」と願ったが、却下された。噴怨して発病した。御殿医が診断したが、武帝が怖いので、誰もが「仮病っすわ」と報告した。病気だったら、出立を遅らせる正当な理由になっちゃうからね。
武帝は出発を催促した。司馬攸は武帝の前に威儀を正して現れ、「お暇を頂きたく」なんて堂々とやった。武帝は「弟は元気じゃねえか。やっぱり仮病か」と納得し、別れた。
洛陽を退出してから2日後の3月14日に、血を吐いて死んだ。

■斉王の亡き後
司馬攸の遺子、司馬冏は号踊し、「医者が、父の病を偽ったのです。誤診もしくは嘘つきです」と訴えた。武帝は、医者達を誅殺した。どっちの味方やねん、という感じですが、司馬攸が脅威じゃなくなり、判断軸も変わったのでしょう。
司馬攸の後は、司馬冏が継いだ。

武帝は「哀慟」した。
しかし、馮紞が「斉王は虚名を得ていました。死んでくれたのは、社稷の福ですよ。泣き過ぎだと思いますがね。フフフ」と言ったら、冷静に戻った。
演技だとは言わないけれど、やってしまったことの重大さに、武帝はビビったんだろうね。殺すつもりまではなかった、と。唯一の同母兄弟だったからね。馮紞の言ったことに、心底同意したわけじゃないけど、気持ちの整理(合理化)ができたんだろう。
■武帝の孤立
朝廷に、武帝を諌める者がいなくなった。羊琇・王済は寵遇から転落した。斉王帰藩を入れ知恵した佞臣、荀勖・馮紞は、しだいに疎んじられた。逆恨みもいいところですが、武帝自身も、コントロールが効いてないんだろうなあ。
荀勖は中書監として、長年機密を預かった。しかし尚書に遷されて、つまらん文書処理をさせられ、ボーッとして過ごした。「転任おめでとう」と言われたが、「オレの鳳凰の池を奪われてしまったのに、何がおめでとうだ」と詰った。よほど、仕事にヤリガイを感じていたんだね。自分の仕事を「鳳凰の池」なんて言ってみたい笑
荀勖は、289年11月にガッカリしたまま死んだ。武帝より4ヶ月早い死だったんだって。

反比例して強くなったのは、外戚の「三楊」。すなわち、皇后の父の楊駿、その弟の楊珧楊済だった。

■1人目の楊皇后
「三楊」とは、なぞなぞ王子を輩出した、弘農郡の楊氏の傍流です。本筋は、楊修の方なんだろうけど、曹操に滅ぼされてしまった。

 ┌楊炳-楊艶(字は瓊芝。司馬炎のはじめの皇后で、司馬衷の母)
 ├楊駿-楊芷(字は季蘭。司馬炎の次の皇后で、男子は夭折)
 ├楊珧
 └楊済

観相家が楊艶を見て「高貴を極めるはず」と言うので、司馬昭が炎に娶わせた。楊氏の野心というより、司馬昭の野心のために、縁起を担いだという感じかな。266年正月27日、皇后に冊立された。ときに楊艶、29歳。
武帝は、楊艶に「衷で太子は大丈夫かなあ」と聞いた。実父が実母に息子の素質を訪ね、「ダメっしょ」なんて結論にはなるまい笑 武帝としても、背中を押して欲しかったんだね。楊艶は、「後嗣は、年長で決めるのものです。賢さで決めるものではありません」と紋切り型の返答をして、267年正月に無事に立太子。

■賈南風の皇太子妃
272年2月、皇太子妃を立てる。
はじめ、武帝は衛瓘の娘を考えていた。
衛瓘は、もと鍾会の監軍。鍾会の指示で鄧艾を護送していたが、鍾会の謀反を平定する側に回る。しかし助かった鄧艾から恨まれることを恐れ、鄧艾を殺させた。杜預にそれを非難されると、恥じた。
武帝に用いられ、司空。
この時点では、まだ「未来」なのだが、275年と277年に鮮卑を内輪もめさせて、力を削いだ。武帝の死後、楊駿が賈南風に粛清されると、司馬亮と執政したが、賈南風にハメ殺された。そういう人物。

しかし、賈充の妻(郭氏)が皇后に賄いを送り、賈南風を勧めた。太子太傅の荀顗(荀彧の六男、低評判)も賛成したので、そっちに流れた。色黒で不女だけど、いいじゃん!と。
楊氏は武帝死後に、賈南風に滅ぼされるのだから、賄賂で気をよくしている場合じゃなかったね笑

■2人目の楊皇后
274年7月6日、楊艶が武帝の膝の上で死んだ。
武帝は、胡芳(位は貴嬪)が好きだったが、楊艶が息を引き取りながら「私の従妹を、代わりに皇后にして下さい」と言った。それを、武帝は容れてしまう。最強の外戚の誕生ですが、かなり確信犯でバレバレな展開だよねえ。

276年10月21日(喪が明けるまで、かなり待ったみたい)、楊芷が皇后になった。18歳。
283年に司馬恢を生んだが、翌年に死んでしまった。バカな司馬衷が、そのまま皇太子としてキープされることになります。
福原啓郎『西晋の武帝/司馬炎』を読む。(8)
■ヒツジの後宮
司馬昭の妻(王氏)は268年3月に死に、司馬師の妻(羊氏)は278年6月に死んだ。それ以降、楊艶と楊芷の天下。
せっかく皇帝になったので、武帝は後宮を大増設した。

273年7月、高位高官の娘全員をターゲットにして、大募集をかけた。娘を隠したら不敬罪。天下の婚姻を停止させ、司州・冀州・兗州・豫州で候補者をハントした。
楊艶は、色白で大柄はブサイクばかりを候補者から選んだので、武帝は自分で目利きするようになった。よさげ!と思ったら、深紅の紗をひじに結んだ。

281年3月に、孫皓コレクションを5000人仕入れた。出降するときの乗り物「羊車」に乗って、武帝はうろうろした。
福原氏は、もともと高貴な人は馬車にのり、霊帝から牛車が好まれ、ついに羊車に成り下がったことを「軟弱になっていく象徴」と言ってる。

■胡貴嬪
武帝が2人目の皇后にしたかった胡芳は、胡遵の孫で、胡奮の子。胡遵は司馬懿に従って戦い、胡奮は匈奴の劉猛を破った。
273年のハントで獲物となり、号泣した。「陛下に聞こえます」と注意されると、「死ぬのも平気なのに、どうして皇帝が怖いものですか」と言い返した。一緒に遊び、矢で武帝の指を傷つけてしまった。
武帝が「将種(武将の血筋)だなあ」と言うと、胡芳は「公孫を討ち、諸葛を防いだのは、将種じゃないんですか」と言った。うまいこと共通点を指摘したのか、仲達に比べると軟弱で女好きな武帝をからかったのか、単にムカついてやり込めたのか、どういう意味だろうねえ。

■左貴嬪
福原氏は、「容姿でもって選ばれた訳ではない」という事例として、左芬が挙げた。
兄は『三都賦』の左思。病気がちで薄室(療養ルーム)にいたが、武帝は立ち寄って文義を質問したらしい。詩をせがんだりした。
こんな話を聞くと、武帝が立体的に見えてくるねえ。『三国志』 の最後に登場して、「かくして三国は司馬炎が一とした」みたいなチョイ役じゃ、見えてこないよ。
■典型的な外戚政治
楊芷が276年に皇后になると、父の楊駿は鎮東将軍、車騎将軍に飛び、同年12月に臨晋侯。福原氏曰く、楊氏を「公然と請託する者が跡を絶たず」だって。山濤が武帝に、「ちょっとマズくないすか?」と言っても、武帝は黙認した。
楊珧は兄より人望があり、尚書令、衛将軍を歴任した。
楊済は、王済(王渾の子)と並び、武帝の御前で猛獣を倒した。さすが、同名の2人が協力すれば、強いわけです笑 鎮南将軍、征北将軍、太子太傅を務めた。
このあたりは、もう武帝が政治にやる気がなくなっている証拠なんだろうね。外戚に丸投げするなんて、後漢とそっくりで。

■劉毅の辛口コメント
呉を平らげた後に、武帝は、司隷校尉の劉毅(『晋書』に列伝あり)に聞いた。武帝「オレは漢のどの皇帝に似ているかな」、劉毅「桓霊です」、武帝「ひどくね?」、劉毅「霊帝は売官し、銭を官庫に入れました。売官して、銭を私庫に入れてる陛下は、もっと最低でしたわ」と。
司馬炎としては、高祖、武帝、光武帝のどれかが欲しかったはず。それなのに、この否定のされっぷり。時代が近いから似やすかったというのもあるだろうが、これじゃあ封禅ノ儀も断るよねえ。
ただ、この晩年を見ると、「なるほど、桓霊か」とも思えてくる。
■楊駿の蠢動
289年11月、「長年にわたる荒淫が祟り」、寝込んだ。
楊駿は、チャーンス!というわけで、大尉の汝南王(司馬亮)と、司空の衛瓘を遠ざけた。
まず、武帝が寝込んだその月内に、汝南王は許昌に出鎮させられた。衛瓘は、司馬氏を娶っている息子の衛宣が酒好きであることを、楊駿に漬け込まれた。楊駿は「衛宣から、公主を取り上げましょう」と言い、衛瓘は羞じて「自己都合」で退職した。

■王佑の謀
司馬衷の弟達が、長安・宛県・建業に、出された。封国と都督エリアを合致させて、「帰藩」のスタイルが取られた。その他8人の皇子・皇孫が地方に封建された。
これは、北軍中侯の王佑がやったこと。武帝が死んだとき、楊駿の簒奪を防ぐために、全国に司馬氏を散りばめたのだそうで。
太原郡の王氏出身で、王渾・王済と同族。晩年の武帝が、外戚を牽制させるために、禁軍を統括させたらしい。
■武帝の死
290年3月、武帝が混濁から目を覚ました。
楊駿が側近を勝手に入れ替えてしまった。武帝が「お前らは誰か。どうなっているんだ」と問い、楊駿を叱った。汝南王(亮)を都に留めて、楊駿を牽制させようとした。しかし楊駿は、その詔書を隠してしまった。
中書監の華廙は恐れて「詔書をお出しなさい」と言ったが、楊駿は惚けた。
また武帝の意識がボケた。楊皇后が「楊駿1人に輔政させる、で宜しいですね」と迫ると、武帝はただ頷いた。4月12日、口述で詔書が作り直された。「楊駿を、大尉・太子太傅・都督中外諸軍事・侍中・録詔書事にして、皇帝に代わる全権を与える」と。武帝は書きあがった詔書を見ても、何も言わなかった。
楊皇后は、司馬亮に許昌へ行くよう促した。武帝は「汝南王はまだ来ないのか」と言って、4月20日に没した。

まるで霊帝や曹叡の末期を思い起こさせますが、、これでもって「三国志が終わった」とぼくは思いますねえ。恵帝のとき、洛陽内で外戚が殺し合いを煽るのは、類似ネタが桓霊のときでお腹いっぱいなので、『三国志』を延長してまでも見守るものじゃない。
司馬氏のダイナミックな同族殺し合いは、『三国志』では同じ例がないので、ちょっと興味がありますが、また今度。
八王ノ乱の顛末を、こってり書き込んでもいいけど、書いてる本人も、読んでる人も、皇族の名前の区別が付かなくなるだろうけど。
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