■三国志雑感>石井仁『曹操/魏の武帝』を読む(1)石井仁『曹操/魏の武帝』新人物往来社2000年
この本の内容で、気になったところを抜き出します。今回は、ほぼ私見を交えずに、本をまとめるのに終始します。
ぼくの勉強のメモという感じですが…HPに載せてときどき見返せるようにアップさせて頂きました。
■曹騰まで
劉秀は、息子の劉輔を沛郡に封じたので、後漢ではここを沛国という。劉輔は『沛王通論』を著すほどの学者で、後漢末まで家を保った。
沛国は豫州に配属され、刺史は譙県に陳留した。これが曹操の本籍地。
王沈『魏書』曰く、曹参の子孫は、封邑(年金)を世襲し、断絶しては復活し、容城に封国を保ってる、と。
曹操は、曹参の嫡流ではなく、一介の農民を祖先とする。!
司馬彪『続漢書』には、曹騰の父、曹節が「豚を盗まれたと疑われても、そんなこと気にしませんよ」と言った、仁徳者だと書かれている。
曹騰は、桓帝を即位させた功で、147年に費亭公。沛国サン県の犬丘城に封じられた。桓帝と梁冀に恩を売り、大長秋に昇進した。このときから、曹氏が官界に進出。
兄の子、河間相の曹鼎が、冀州刺史の蔡衍に弾劾された。けっきょく曹鼎は免官されたが、宦官一族の進出を阻む清流の動きだ。
159年、桓帝が梁冀にクーデターし、5人の宦官が活躍。このとき、曹騰が生きていたかは不明。『水経注』には160年に曹騰の墓が建立されたとあり、曹騰の死はその頃か。ただし、梁冀に癒着していた曹騰だが、曹氏はクーデターでダメージを受けてない。予防線を張ったか?
曹騰が推薦した「海内の名士」は、司空の虞放、陳国相の辺韶、京兆尹の延固、大尉の張温、太常の張奐、五官中郎将の堂ケイ典。
清流派揃いだが、『後漢書』の編集方針により、宦官との関わりをカットされた。
堂ケイ典は『春秋』の専家で、蔡邕・楊賜・馬日磾・単ヨウとともに、六経の校定に参加した。張奐は、皇甫規、段熲とともに「涼州の三明」と呼ばれた。『春秋』の研究者でもあった。
益州刺史の秧暠(姓は[禾中]ですが代用)は、順帝に曹騰を告発した。相続した3千万銭を喜捨して名声を買った人物。161年に司徒になったが、「今日の私があるのは、曹騰さんのおかげ」と言った。
■曹嵩のこと
出自がよく分からない。
同姓不婚、異姓不養だが、夏侯氏と曹氏の関係は、それを何重にも犯したいたっぽい。
曹騰は四人の末っ子。頴川太守の曹褒(曹仁の祖父)以外は、早世していた。一族の男子が薄く、曹操は、曹真(秦邵の子)や秦朗(杜氏の連れ子)や何晏(尹氏の連れ子)が政権を支えることを期待した。
仮子や義児のタブーに触れざるを得なかった。
『春秋讖』の「代漢者、当塗高也」に絡めて、もと曹忠(字は巨堅)から曹嵩に改名した可能性がある。重大な野望が秘められていたかも。
曹嵩は、司隷校尉、大鴻臚を歴任し、187年に崔烈から大尉を継いだ。一億銭を使った。崔烈が五百万銭しか払わず、霊帝が「2倍は取れたのに」と悔しがったが、それを補って余りあり過ぎる。
ちなみに、宦官の子弟・縁戚が三公になることは、170、180年代には他に例がある。曹嵩が特異じゃない。
■曹操の夫人
曹嵩の正室は、丁氏。曹丕が「太王后」を贈っている。曹操の初めの正室も、同じ丁氏。曹操の2人目の夫人は劉氏で、曹昂の母。
夏侯淵は、曹操の「内妹」すなわち劉氏の妹を娶った。沛国相県の劉馥がいて、夏侯氏と通婚している。劉馥の孫の劉弘は、八王の乱のとき荊州に経一をもたらした。沛国の劉岱(曹操の部下のほう)も同郷だ。
沛国で、曹氏と夏侯氏、丁氏や劉氏で団結をしていた。
沛国譙県の丁儀・丁廙がいる。
2人の父は丁沖で、曹操と旧知。献帝とともに長安にいて、曹操に「献帝を担ぎな」とアドバイスした。司隷校尉になり、病没。
丁沖を讃え、丁儀に娘(劉氏の子、清河公主)を与えようとする。しかし曹丕が「女性はイケ面が好きだ。丁儀は片目が見えない。妹は夏侯楙(夏侯惇の子)に嫁がせたらどうか」と妨害した。これは、曹植との後継争いが表面化する以前のこと。
陳寿は、丁儀・丁廙の子孫に、賄賂を要求したと『晋書』にある。
沛国の丁氏には、丁斐・丁謐の父子がある。丁斐は挙兵以来の重臣で、典軍校尉で金に汚かった。丁謐は曹爽のブレーンで、司馬懿を太傅にするシナリオを書いた。司馬懿に殺された。
陳寿が司馬氏に遠慮して、『三国志』に列伝がないのかも。
■丁沖のこと
丁沖は長安で、黄門侍郎・侍中を歴任。董卓は両官を6名ずつおき、宦官のポストを補完しようとした。公卿以下の子弟が宛てられたため、丁沖も父兄が公卿だったはずだ。
霊帝のときの三公を歴任した、沛国の丁宮(字は元雄)がいる。187年5月に司空、8月に司徒、188年7月に罷免。9月に董卓が乱入したとき、尚書令として劉弁降ろしを指示した。丁沖が親族でも不自然じゃない。
丁宮は交州刺史をしていて、部下の士壱に「オレが三公になれば、キミを推薦しよう」と言った。約束は履行された。士壱は、兄の士燮とともに交州に割拠。士氏は曹操と太いパイプを持っていたが、丁宮の人脈の為せるワザだろう。
丁沖は、198年か199年にアル中で死んだ。『太平御覧』に曹操の文章が載っている。
「同じ県の丁幼陽という親友がいた。彼は神経を病んだ。私は彼に帰りなさいと言った。もし発作でも起こして、武器を振り回されたら敵わないからね。あっはっは」と。
曹操と丁沖は「往来同宿」の関係で、義兄弟の結盟みたいなもんだ。
丁沖と曹操の丁夫人は同世代。曹操に離縁を突きつけたのは、この丁沖の親しさにもの言わせてだろう。曹嵩の妻は、丁宮と同世代。丁儀と清河公主は同世代。さも縁談が当たり前のように出ている。
沛国でしか顔が利かない丁氏と、都でしか顔が利かない曹氏。補完するために、婚姻関係を重ねていた。
曹丕は卞氏の子で、次男。母ではなく、丁氏が力を持つと困る。曹昂が生きていても、困る。だから、丁氏を夏侯楙に宛がって、丁氏の力を削ごうとした。自分の嫡子としての正統性を高めるためだ。
次回は、第二節「曹操の起家」を読みます。
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