■三国志雑感>石井仁『曹操/魏の武帝』を読む(1)
■橋玄のこと 『魏武故事』で曹操が、自分を振り返っている。 若い曹操は、無名で、凡愚だと周囲に見られていた。人に認められたいと思っていたので、済南相になったとき邪悪を討ち、公平な選挙を心がけた。と。 この曹操を唯一評価したのが、故郷近くの梁国の橋玄。170年8月に司空、171年に司徒。その後、尚書令。178年12月に大尉。179年、引退して、183年に75歳で死亡。 『後漢書』には清流と橋玄の接点が語られず、党錮にも連座していない。橋玄は「治世の姦賊」になりかねないと、曹操に注意を促した。   梁冀が159年に滅亡し、大尉の劉矩(字は叔方、沛国の人)は、司徒の种暠、司空の黄瓊と、桓帝を援けた。 このとき种暠が推薦したのが、橋玄と皇甫規だ。 种暠は、辺境に懐柔策も用いて、異民族の統治を行った人物。度遼将軍(護羌校尉、護烏桓校尉、使匈奴中郎将ら、四夷中郎将校尉を統括する)になった。これは、後漢で常設された唯一の将軍職。 度遼将軍は、李膺・种暠・皇甫規・張奐・橋玄がついた。使匈奴中郎将は、皇甫規と張奐。護羌校尉は段熲と皇甫規。鮮卑への牽制として「西北の列将」が重視された。李膺と段熲以外は、曹騰の人脈だ。   張温は列伝がないが、185年に車騎将軍。186年に長安で大尉。乱世を予感させる、出征する「在外三公」は、張温から始まった。 李膺は清流の領袖。辺境の経験を活かし、宦官を討つ以上の大規模な構想があったかも知れない。子の李瓉は、東平相。「動乱だ。英雄は多いが、張邈や袁紹ではだめだ。曹操を頼れ」という遺言を遺した。   辺境では、漢化した胡人と、周辺の漢人の融合実験が始まろうとしていた。橋玄らが、近い将来の動乱を予想したのは、根拠がある。 西北の将軍たちは「入りては相、出ては将」を体現した。种暠や橋玄は、曹操の行動モデルだ。個人の武勇は必要なく、将兵に規律ある行動を取らせる人物が適任。法の厳格な運用と軍隊の統率は、共通する。   橋玄は、上ケイの皇甫禎を汚職で糾弾し、冀城で殺した。有力者も殺すのが「法家」の思考を持っていたことを証明する。 晩年が「橋玄伝」にある。10歳の息子が誘拐され、身代金を要求された。司隷校尉の陽球は手が出せない。しかし橋玄は「子供の命を惜しんで、賊を逃がせるか」と言って、息子ともども殺させた。これで富貴を狙った誘拐が根絶した。 寛仁・仁恩と説明される後漢の基本方針の他にも、「寛猛相済」という法儒の折衷的な態度もあった。曹操や諸葛亮が、この路線だ。 官渡で凱旋した曹操は、太牢(牛羊豚)で最高級に戦勝報告をした。曹操は、橋玄の流れを引く、西北の列将の後継者なのだ。
  ■王吉のこと 174年、曹操は20歳で孝廉に。 太守や相が、20万人に1人推薦するのが、孝廉。刺史が推薦するのが、茂才(もと秀才)。不定期に実施される、賢良方正などの科目を合わせて、郷挙里選という。   隣の陳王の劉寵が事件を起こした。特技は弩射。十発射て、十発とも同じところに当たった。学問し、修身しても、経世済民に役立てる機会がないので、王侯は自暴自棄の生活だった。 沛国相の魏[小音]と陳国相の師遷が、霊帝を呪詛したという。劉寵は、劉悝を誅殺したばかりのため、甘く「詔獄」とされた。2人の相は処刑された。これが173年5月。 この事件は、宦官の王甫が調査した。劉悝を殺したのも、この人。   王甫には、養子の王吉がいた。『後漢書』酷吏伝に立伝された。間引きを禁じ、一万人を殺した。 王吉は、『後漢書』列女伝に、桓氏を顕彰したプラスエピソードもある。あえて本人の伝から外してあるのは、宦官の養子への評価が冷たいからだろう。179年4月、王甫が陽球に弾劾され、王吉は、兄の王萌とともに獄に下された。 王萌は「老父(王甫)の拷問は手を緩めてくれ」と言った。しかし陽球は聞かず。王萌は「かつてキサマは、奴僕のようにわが父子にペコペコしていた。主人に逆らうのか」と怒鳴った。陽球は、王萌の口を土で塞がせた。   ■曹操の挙主 沛国に桓典(字は公雅、~201)がいる。王吉が孝廉にあげた。 王吉の死体を引き取り、3年の喪に服した。桓典は王吉の「故孝廉」で、王吉は桓典の「挙主」「挙将」にあたる。「辟召」(部下を自選する権利)が長官には認められ、私的なコネが切れることはなかった。 三公・将軍をやれば、多くの辟召をするので、「師君-門生」の関係が生まれる。桓典のように、王吉に尽したのは、士大夫の要件だ。   曹操を孝廉に挙げた人は、残っていない。 173年5月に沛国相の魏[小音]が死に、王吉は179年4月。曹操を孝廉に挙げたのは、王吉ではないか。獄死したから、伏せられたのではないか。 曹操の「吉利」というのは「吉を利する」と読める。名声を求め、法令遵守して風紀粛清したのは、王吉と曹操に共通することだ。 王吉は「曹操になれたかもしれない人物」だ。
  ■梁鵠への恨み 178年2月、鴻都門学が開かれた。文学の士を1000人集め、のちの刺史・太守、侍中・尚書を養成した。 曹操は、張奐の子(張芝・張昶)につぐ草書の名手とされ、他にも才能を示した。梁鵠は、師宜官の名人芸を盗み、選部尚書(官僚人事担当)になった。 曹操は、洛陽令(千石)を希望したが、選部は洛陽北部尉(四百石)にした。梁鵠の判断だ。   梁鵠は劉表に身を寄せた。荊州を攻めたとき、曹操は、旧友の蔡瑁(字は徳珪)を訪ねた。「蔡瑁、覚えているか。一緒に孝廉に挙げられ、梁鵠に会ったときのことを。やつは人を見る目がなかった。どんな顔で我らに会うのかな」と言った。襄陽キ旧記より。 曹操と蔡瑁は「同歳」で、どちらも梁鵠に評価をしてもらえなかった人間だ。 梁鵠は体を縛って出頭し、「軍仮司馬」という下級武官にさせられ、ひたすら書をかかされた。蔡瑁は、丞相司馬、長水校尉を歴任した。蔡瑁の父、蔡諷の姉は、大尉張温に嫁いでいる。   曹操の同歳には、韓遂もいた。 他には宗承(字は世林、南陽郡の人)もいたが、曹操を嫌った。曹操が司空になっても交際を拒否した。曹丕は宗承に拝礼し、賓客とした。世語より。   ■宋皇后の族殺 178年10月、宋皇后が廃位された。曹操の従妹の夫、宋奇も殺された。曹操は連座した。 扶風の宋氏は、後漢室と縁戚ある名門。しかし劉慶が廃太子になったり、劉悝の妃になっていて曹節・王甫に殺されたり、政治的失策が多い。曹騰の縁で、有力な宋氏と繋がっていたんだろう。   ■体制内の叛乱 後漢はダメだという役人が出てくる。 涼州従事の辺章・韓遂、中山太守の張純と泰山太守の張挙。皇甫嵩に即位を進めた閻忠(涼州叛乱の盟主に担がれ、車騎将軍を自称して188年に病死)、張温に即位を進めた張玄(字は処虚、蜀郡の人、~189頃)。 冀州刺史の王芬は、陳蕃の子の陳逸をブレインに、合肥侯を担ごうとしたが、自殺した。許攸も加担し、曹操・華歆・陶丘洪も、誘われたが応じなかった。 許攸は、何顒に評価されていた。袁術は「性行不純な許攸を評価するとは、何顒はダメだ」と言ったが、陶丘洪が「許攸は任侠だから評価は妥当だ」と弁護した。
  ■袁紹の登場 「累世三公」「四世五公」の家柄。袁紹は濮陽令で名を挙げたが、趙忠に目を付けられたので、何進に辟召され、虎賁中郎将。許劭の誹りを受けないように、供回りを減らす苦労をした(許劭伝) 袁紹が慕ったのが、何顒。何顒は、郭泰・賈彪にめをかけっれた。第二次党錮で、汝南で潜伏して党人の逃走を支援した。のちに董卓暗殺を狙い、獄死。   袁紹の「奔走の友」とされたのは、何顒と許攸の他、張邈、伍瓊(大節ありとされ、董卓の元で綱紀粛正したが、袁紹の内通を疑われて殺される)、呉子卿。 呉子卿とは、おそらく呉匡のこと。蜀の車騎将軍の呉懿、驃騎将軍の呉班の父で、何進の幕僚。宦官皆殺しのときに一緒に行動している。 崔烈の子、崔鈞は、衣冠をつけずに伊達男として袁紹とともにならした。   主流ではなかった「奔走の友」は、ポスト党錮、ポスト宦官として、主流派になった。曹操は、袁紹の庇護の下にいた。
  次回は、第三節「挙兵」を読みます。
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