■三国志雑感>石井仁『曹操/魏の武帝』を読む(3)
■霊帝の改革 『後漢書』蓋勲伝によると、蓋勲は袁紹に「霊帝はとても聡明だ。しかし側近に惑わされている。周囲を正して王朝を復興しよう。痛快なことだ」と語ったらしい。 霊帝は180年、4本の剣を鋳造し、「中興」と刻ませた。覇気あふれる人物だったようだ。西園軍と牧伯制が、霊帝の改革だ。   188年10月、西園の平楽観に、全国から精兵数万を集め、大軍事演習をした。みずから「無上将軍」と称して、常備軍を作った。このとき後漢の徴兵制は壊れ、義勇兵を募るほどだった。霊帝が蓄財が好きだったのは、軍の維持費だった。 八校尉が任命された。実質は、上中下の三軍編成で、晋の文公に由来する。   州刺史に「使持節、監軍」の権限をくわえて軍政支配を保証し、将軍職を兼任させたのが、州牧の実態。のちに、三公・大将軍のように府を構えて、人材採用を自前でやる「開府辟召偽同三司」を付与された。これが、魏呉蜀のもとになる。 霊帝の意図は、うらはら。   ■曹操の復帰 何進か袁紹のお引きで、「漢の故征西将軍曹侯の墓」を夢見て復帰。 曹操軍の初期は八校尉と同じ官職が設置された。中軍校尉の史カン、典軍校尉の夏侯淵や丁斐といった具合に。曹操が丞相になると、中軍は中護軍になり、外軍がおかれる。 使持節・都督河北諸軍事・征北将軍=薊城に駐屯 使持節・都督揚州諸軍事・征東将軍=寿春に駐屯 使持節・都督荊州諸軍事・征南将軍=宛~新野に駐屯 使持節・都督雍涼二州諸軍事・征西将軍=長安に駐屯 都督+牧伯をセットにしたもの。すなわち霊帝の後継だ、と。   霊帝は、自分に容姿が似ているため、自ら次男を「協」と名づけた。董太妃の子、驃騎将軍の董重は、劉協を推したが、189年5月、蹇碩とともに粛清された。189年6月、董太妃も死去。 何進は、袁紹袁術以外にも、士大夫を登用。王允を大将軍従事中郎、陳琳を主簿、逢紀、何顒、鄭泰、荀攸ら「海内の名士」20人ほどを挙げた。 陳琳が「目隠ししして雀を捕える、すなわち下らんものでも方法を間違えると、失敗しますよ」と言ったが、何進は各地で募兵した。騎都尉の鮑信は兗州、騎都尉の王匡は徐州、司馬の張楊は并州、張遼は河北、曹操は毌丘毅や劉備とともに、沛国・丹陽方面で募兵させられた。 ※このときの命令を受けて動いている人が、同格なんだろうね。   ■董卓の登場 桓帝末「六郡良家子」として、隴西・天水・安定・北地・上郡・西河に前線の選挙法が設定された。孝廉・茂才が制定されると、エリートコースではなく「前代の遺物」になってしまう制度だが、董卓はこれでデビューする。 董卓の郡に含まれた「秦胡」は、梁冀の子孫が羌族と混血したらしい。皇甫規も張奐も懐柔し、董卓も継いだ。八百長戦もあっただろう。   董卓、丁原、東郡太守の橋瑁が洛陽を囲んだ。袁紹が司隷校尉、王允が河南尹になり、洛陽を包囲。宦官は、竇武を倒したクーデターを再現しようとした。何進を殺した。 何進の将校の呉匡らと袁術が、宦官皆殺し!袁紹と袁隗は、宦官側の司隷校尉の樊陵と、河南尹の許相(公弼、汝南郡)を逮捕して処刑。非協力的な何苗も殺された。 董卓が牛耳ると、袁紹は、許攸・逢紀らを連れて出奔。鮑信、盧植も出ていく。
  ■反董卓同盟 董卓は宦官の穴を埋めるため、侍中・黄門侍郎(各6名)を定員化した。これは、中常侍・小黄門に競合する士大夫のポスト。 曹操は、県の功曹(中牟県の現地人)に救われて、張邈が太守をする、陳留郡に逃げた。   曹操は、衛ジと鮑信の支持を得た。「鄭泰伝」によると「董卓さんは異民族を全て旗下にしてるから大丈夫っすよ」と言われ、洛陽を焼いて、郊外の畢圭苑(霊帝が180年に造営)に移った。 陶謙や劉焉は高みの見物。曹操は揚州の「丹陽兵」を集めに行く。揚州刺史の陳温と丹陽太守の周昕が、4000をくれた。周昕は陳蕃に師事し、二人の弟、周昴・周喁は曹操との旧知。周喁は曹操の挙兵に2000で合流し、陳温は曹洪と交友があった。   董卓は、大コウロの韓融、少府の陰脩、執金吾の胡毌班(泰山郡、王匡の妹夫、八厨の1人)を和睦の使者にした。袁術は陰脩を殺し、袁紹は胡毌班を殺し、王匡は2人の遺児を抱きしめて号泣した。橋瑁が劉岱に殺された。 袁紹は劉虞に妥協し、「承制封拝」百官の任用と爵位の授与をするように頼んだが、それも得られず、同盟は求心力を失った。   袁術は南陽で挙兵し、光武帝をなぞろうとしていた。 191年秋、袁紹は劉虞を諦め、冀州牧を奪いにきた。上党郡にいた張楊、亡命中の南単于於夫羅、韓馥の将の麹義が合流した。 劉虞の指揮下にあった公孫瓉は、公孫越を袁術に送って、メインキャラ昇格を狙っていた。袁紹は公孫瓉に冀州を攻めさせ、高幹・辛評・荀諶・郭図を韓馥に送って説得させた。 青州黄巾が渤海に侵入し、公孫瓉が討って威名を高めた。張楊と於夫羅は袁紹を離脱し、董卓から建義将軍・河内太守に任じられた。関西と関東の通路を押さえて、政局のキャスティングボードを握る。   ■同盟崩壊 袁紹は、周喁を豫州刺史にして、洛陽の孫堅を襲わせた。公孫越を殺したが、周喁は敗れた。しかし袁術と袁紹の対立は決定的に。 袁術についた公孫瓉は、厳綱を冀州刺史に、田楷を青州刺史に、単経を兗州刺史、劉備を平原相にして河北を狙った。 193年3月、鄴で袁紹の留守部隊が叛乱。数万の黒山を引き入れた。彼らは、李傕の任命した冀州牧の台寿(魏郡の人)を推戴していた。袁紹は反撃に転じ、張燕を黒山に封じ込めた。 公孫瓉は劉虞を討ち、露骨に士大夫を圧迫した。子の劉和を推した鮮于輔、閻柔に叛乱され、幽州支配は崩れた。あとは引きこもり。
  ■兗州へ 曹操に、鮑信が言った。「袁紹から早期離脱しましょう。河南を獲りましょう」と。東郡太守の王肱は黒山を防ぎかね、于毒や眭固は曹操が討った。於夫羅を撃破した。曹操は東郡太守で、鮑信は済北相。 公孫瓉に敗れた青州黄巾が、兗州にきた。鮑信は劉岱に「守ればよい」と言ったが、戦死。こんど鮑信は曹操に「派手に勝って、メインキャラ」になりましょう!と言った。勝って、兗州牧。 のちに于禁が、青州兵に略奪を黙認するのを許さなかった。 ※この本には書いてないけど、于禁にとって青州兵は、鮑信のカタキじゃないか!だから特権に対して、嫌悪していたのでは?   193年春、袁術は陳留郡の封丘県に進み、配下の劉詳を匡亭(平丘県)に駐屯させた。黒山・於夫羅と連合して、曹操の甄城を狙った。袁術は揚州まで、とことん追撃された。 192年頃に陳温が死ぬと、袁紹は従兄の袁遺を揚州に入れた。袁術は、鄭泰(すぐ病死)や陳瑀を楊州刺史とした。袁遺は敗北し、沛国で部下に殺された。袁術は、陳瑀を追い出し、九江郡寿春県を本拠とした。「揚徐二州牧」を自称して、李傕とも結んだ。江南の充実へと、戦略を焼きなおす。 曹操は、定陶に凱旋した。   ■荀彧 何顒から「王佐」と言われたが、立場が微妙。唐衡の養女を妻としていたから。父の荀コンが権勢に阿ったのだろう。士大夫と宦官の境界線にいるのは、曹操と同じ。 曹操は、頴川の荀氏という看板が欲しかった。 鍾繇は、陰脩(董卓の使者で袁術に殺された)が頴川太守のとき、荀彧・荀攸・郭図らと一緒に仕事をした。 曹操の才重視は、呂布に寝返った畢諶、張楊に寝返った魏[禾中]を許したことから顕著。「唯才」は、魏[禾中]のときのセリフ。士大夫の礼教から自由な、曹操と荀彧のコンビネーションの賜物だろう。   日本で言う「軍師」は、「謀主」とか「股肱」という。「軍師」は官名。赤眉討伐のとき、鄧ウが「軍師1名と軍師祭酒3名を随行させた」にちなむ。198年正月に「軍師祭酒」を設置。軍師はずっと荀攸が居座っていた。軍師祭酒は建安七子を含め、いろんな人が就いてる。 軍師は、張昭、龐統、辛毗、劉琰、魏延、張悌がいる。袁紹は盧植を、袁術は馬日磾を、劉表は蔡瑁を軍師にした。高官や地元の名士を招く流れは、三国の独創ではない。
  次回、徐州で虐殺します。
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