■霊帝を迎えた曹節伝
『後漢書』曹節伝、竇武伝、陳球伝、陽球伝などで活躍が見れるそうです。
霊帝に取り入るのが最高に巧かった、絵に描いたような「宦官」でしょう。目端が利いて、保身のためにどんな手段でも取れるという、ある意味では優れた人間だね。
順帝(126-144)の初期に西園の騎馬役人から小黄門に遷った。
桓帝の頃(147-167)に中常侍となり、奉車都尉となった。
130年くらいに15歳で出仕したとして、霊帝を迎えに行くときは50歳過ぎなんだね。
168年、霊帝を迎えて長安郷侯六百戸に封じられた。竇太后に媚びた。
竇武と対立したので、王甫に張奐を騙させ、竇武・陳蕃を討たせた。この変の模様は、宮城谷『三国志』で活写されてましたね。印象的だったなあ。
曹節と侯覧が双璧で、党人外戚の圧力が強いから協調してたと考えられるそうです。
169年、病気になって車騎将軍になる。何のこっちゃ笑
10月、侯覧が張倹を誣告したのをキッカケに、第2次党錮ノ禁。
これにより、曹節は大長秋に昇進した。何のこっちゃ笑
171年、黄門令董萌が幽閉されてる竇太后に味方したので、曹節・王甫らは董太后に誣告して、董萌を獄死させた。トウ太后とトウ太后の争いって、ややこしいね。桓帝の皇后と霊帝の母の対立ですね。
172年、竇太后の死体を、宦官たちが晒した。曹節は貴人の礼で葬儀を行うよう奏上した。
朱雀門に「曹節・王甫は太后を幽殺し、侯覧は党人を多く殺した」と落書があった。司隷校尉劉猛が捜査したが、手抜きした。代わりに段熲が司隷校尉になり、数千人を逮捕した。曹節は劉猛を恨み、罪に落とした。
曹節・王甫は、桓帝の弟の勃海王劉悝を誣告し誅殺した。
桓帝の生前、劉悝は不道を行って、王から降格されてた。劉悝は王甫に「オレが復位できたら銭五千万を進呈する」と言っていた。劉悝はめでたく復位したが、王甫には鐚一文わたさず。
なぜなら、だが桓帝が「劉悝を許してもOK」と遺言してたから。「王甫のおかげじゃないもん」が、劉悝の理屈。
王甫は劉悝を恨み、「劉悝が霊帝の即位を妨害した」という、ありそうな噂を拾ってきて弾劾。10月、劉悝に結びついていた中常侍鄭颯・董騰を逮捕した。詔させて、冀州刺史に劉悝の取調べを命じ、節を持たせて大鴻臚・宗正・廷尉を勃海に向かわせた。劉悝は自殺し妻子は獄死した。
この功績で王甫は侯、曹節は三千四百戸を増邑され七千四百戸。
曹節らの父兄子弟ら一党は、天下に蔓延した。
178年、嘉徳殿の前で昼間に虹が降った。
霊帝は蔡邕に諮問したら「宦官のせいです」と封印して上書した。曹節は盗み見て、蔡邕を朔北に流刑にした。やりたい放題ですね。
179年、司隷校尉陽球が王甫を弾劾して、一党は誅殺された。曹節は磔にされた王甫を見て涙を流し「陽球め」と恨み、陽球を衛尉に落とした。
曹節は尚書令を領した。
その冬、司徒劉郃と陽球が、曹節と張譲を告発しようとした。曹節は返り討ちにし、劉郃・陽球は洛陽の獄に下され誅殺された。
光和四年(181)、曹節が亡くなると車騎将軍を追贈。
■曹節とペアで立ち振る舞った王甫伝
『後漢書』曹節伝、竇武伝、陳蕃伝、范滂伝などで活躍が見れるそうです。
曹節のことを信望していて、曹節の謀略を完成させるために、情報収集部隊とか暗殺集団みたいのを抱えているのかも。曹節が霊帝の機嫌を取るのが馬鹿馬鹿しいわーなんて言うと、一生懸命曹節をよいしょするのが王甫なんだと思う。腰巾着の腰巾着です。
166年、第1次党錮ノ禁のとき中常侍で、元汝南郡功曹范滂を調べた。范滂の毅然とした覚悟に振れて、釈放した。
※あれ?意外とイキだよね?後に曹節に傾倒することから見ても、根は真面目で一本気な奴なのでしょうか。人を信じやすいのね。一度正しいと信じたら、視野狭く突っ走るのかも?
のちに長楽宮の食監を兼務した。
168年、竇武と陳蕃を討つのに参加。
曹節に黄門令に任じられ、偽詔で尚書令尹勲・小黄門山冰を逮捕しようとして、バレたから逆ギレして撲殺。中常侍鄭颯を救出した。鄭颯と共に、長楽宮で玉璽を奪取。陳蕃を逮捕した。陳蕃に全く物怖じしない王甫の大弁舌はカッコいいと思う。さすが一本気。
171年、黄門令董萌の排除と、朱雀門の件は曹節に同じ。
172年、桓帝弟の劉悝を殺したのも曹節と一緒に行動。
178年、蔡邕の流刑も曹節と一緒に行動。
178年9月、王甫は霊帝の宋皇后を暴室で憂死させた。劉悝の妃の宋氏が、宋皇后の父の姉妹であったので、王甫が恨みを怖れて保身に奔ったようです。想像ですが、曹節もきっと裏で糸を引いてます。
179年、河南尹楊彪が、黄門令王甫が官財七千余万を横領していることを知り、司隷校尉陽球に報告した。陽球は、王甫とその一党を悉く誅殺した。王甫は獄中で撲殺されて死体を磔にされ、妻子は皆比景に移された。
曹節は助けてくれなかった。使い捨ての駒くらいにしか思われていなかったのか。でも王甫はそれでも幸せだったんだと思う。忠義な男だから。
■斬り込み隊長の鄭颯
長楽尚書。竇武らを討って、小黄門。
168年、竇武と陳蕃を討つときに、北寺獄から救出され、王甫と一緒に偽勅を作った。
172年、勃海王劉悝と任侠を囲っているのを曹節・王甫に見咎められ、司隷校尉段熲に逮捕されて北寺獄で獄死した。
勝手な想像ですが、宦官の中の急進派なんだね。
学生運動で先頭切って突っ込んでいって、いつも逮捕されてた人みたいな。妄想だけれども。行動力があり、強い意志もあって、実行部隊としては曹節に評価をされていた。
でも、曹節が霊帝の下で権力をどんどん膨らましていくのに対して、反発を覚えた。曹節が強いのは、霊帝を迎えに行ったから。傍流で貧乏だった霊帝は、曹節に感謝をしてるんだ。だから霊帝は、曹節と一緒になって先代桓帝にまつわる竇武・竇太后を遠ざけてる。
対抗馬として鄭颯が選んだのが、桓帝の弟だったわけですね。
劉悝をオレで皇帝にしてあげて、ポスト曹節を狙っていたと考えると、非常にすんなりと理解できます。
それを、曹節付の実行部隊、王甫が摘み取ったんだ。