■後漢の死期を冷静に見据える、侯覧伝
『後漢書』党錮伝、張倹伝、侯覧伝などで活躍が見られるそうです。
桓帝(147-167)の初めに中常侍となった。
「ずる賢く阿り権威を頼んで欲深く巨万の財貨を貯めこんだ」と侯覧伝に残されている。
曹節が霊帝を連れてきた頃には、もう1周り上の大御所として、確立した地位の上で安穏としてたんじゃないかな。すごく頭が良くて、ただの卑しい金の亡者じゃない。自分の屋敷を博物館にするのが野望かも知れなくて、冷静に蓄えた財を把握してた。
博物館はジョークとしても、王朝が傾いていることを怜悧に感づいてて、世がどうなっても生き延びられる準備をしてたのだろう。
延熹年間(158-166)羌族征伐を繰り返し、府庫が欠乏。侯覧は上質の絹五千匹を献上して埋め合わせたので、関内侯。
桓帝に協力して梁冀を誅殺に功あり、高郷侯。
小黄門段珪と侯覧は、済陰郡に家があり、済北国の近郊で従僕や賓客が百姓から略奪を行っていた。※略奪って本当か?重めの徴発は茶飯事だし。
済北相騰延は、段珪と侯覧に連なる一切を逮捕し、数十人を殺して屍を道路に並べて晒した。侯覧・段珪は大いに怒り、「無辜の民を多く殺した」と皇帝に訴えたので滕延は免官となった。
侯覧らは増長し、兄の侯参は益州刺史となった。おお独立の香り笑!
延熹八年(165)、太尉楊秉・司空周景は宦官を責めたが、侯覧は復位。
■王侯並の生活発覚事件
建寧二年(169)、母の喪に遭い家に還ると巨大な墓を建てさせた。
山東郡東部督郵張倹は、侯覧のことを訴えようとしたが、ことごとくブロック。このときの侯覧の罪状として数え上げられた贅沢は、非常に豪勢で痛快。よくぞやった、という感じで笑
他人の邸宅381戸・田118頃を奪い、屋敷を16の区画に建てそれぞれに高楼や池・庭園があり、堂閣を連ねて朱色で描かれた絵を飾った。
石棺に双門を構え部屋の周囲の廊下の高さは100尺もある寿冢を作ったが、そのため人の家を壊し墓を掘り返した。夫を奪って奴隷とし、婦女子を略して妻とした。
むしろ返り討ち。侯覧は張倹を誣告し、故長楽少府李膺・太僕杜密らを皆誅滅した。曹節に代わって長楽太僕を領した。
熹平元年(172)、朱雀門の落書に数え上げられ、侯覧は印綬を取り上げられ自殺した。党派の者は皆免じられた。
えらくあっけない最期だが、若く見積もって150年に30歳で中常侍になったとすると、このとき52歳。下手すると60歳に近いかも知れず、そろそろ病で潮時だったのかも?党人に味方して書くのが歴史書の常だから、実は病死だったんじゃないのかなあ。
もしくは、斜陽の王朝で生き続ける虚しさを見透かしてしまったのかも。
礼儀志や五行志の注にも名前が見える。宋皇后即位や霊帝即位の儀式に役割があったようで、影響力の大きさが伺えるそうです。
■我が父、張譲伝
張譲の活躍は、『後漢書』王允伝、何進伝、張譲伝などで見れるそうです。三国志らしい名前が出てきました。さすが「十常侍」筆頭。
若くして省中の給事、桓帝のとき小黄門。梁冀誅殺の功績で都郷侯。
延熹八年(165)、関内侯に降格となり、食邑は一県の租税千斛。
桓帝の末年、張譲の弟張朔を、司隷校尉李膺が柱から暴いて処刑。
李膺が「罰をあと五日待ってもらえば元凶を滅してみせましょう」と答えたので、桓帝は張譲を顧みて「これは汝の弟の罪だ」と言った。
張譲の父の葬儀を、郷里の潁川郡で営んだが、名士は参加せず張譲は恥をかいた。陳寔はただ一人参加した。陳寔は党錮ノ禁で手加減された。
霊帝の頃(168-189)、張譲は趙忠とともに中常侍となり、列侯に封じられ、曹節・王甫らとともに暗躍。一歩先行く曹節・王甫ペアと、仕官年数や年齢的にビハインドな張譲・趙忠ペアという構図のようです。
光和二年(179)冬、司徒劉郃・陽球が張譲・曹節を責めたのは記述済。
■張譲と趙忠のターン
光和四年(181)、曹節が亡くなり、趙忠が大長秋。張譲・趙忠派の中常侍12人が列侯、父兄子弟は州郡の長官。貪りぶりが「蝗害と変わることがなかった」そうで。
中平元年(184)、黄巾の乱。侍中張鈞が「張角が兵乱を起こしたのは宦官の縁者が地方の長官となって搾取したからです。今十常侍を斬れば叛乱は自然となくなるでしょう」と言った。
十常侍は辞官して、洛陽の獄に出頭。軍費の助けにと家財を売却。
霊帝は十常侍を復帰させ、張譲らは張鈞を返り討ち。
張譲も太平道の信者で(!)予州刺史王允が報告して露見した。霊帝は怒って張譲らに詰め寄り「汝らが党人は危険だというので禁錮したのにこの有様だ。今一度党人を用い、張角に通じた汝らを斬るべきか?」と詰問した。十常侍は叩頭して「王甫と侯覧の仕業でございます」と言った。
張譲は怒って王允を中傷し、翌年王允は逮捕された。※知らなかった!
中平二年(185)、南宮に火災。
張譲・趙忠は、天下の田畝に10銭の税をかけろと提案。材木や石が州郡から京師に送られたが、規定に沿ってないと咎め、代価の10分の1しか払わず、賄賂を強要した。積まれた材木は腐った。
涼州の平定に向った、左車騎将軍皇甫嵩。
張譲は皇甫嵩に私的に五千万銭を要求したが断られたことがあり、趙忠も皇甫嵩の奏上から邸宅を没収されたことがあった。よって皇甫嵩を讒言して、降格処分とした。
■宦官全滅へのカウントダウン
中平六年(189)、霊帝が崩御。
何進が「宦官討つべし」と言うから、何太后はビビって宦官を遠ざけた。
張譲の子の妻は何太后の妹だったので(噂の養子か!)張譲は「この老いぼれが罪に問われ、郷里に帰らねばならなくなった。何代もの間恩顧を受け今宮殿から離れるのは心残りでならない。今一度伺候して太后様にお目にかかりたい」と頭を下げた。何太后は感激して詔で中常侍達を復帰させた。
中軍校尉袁紹は大将軍何進を説き伏せ、天下に宦官誅殺の命令を発した。張譲・趙忠らは何太后が呼んでいると何進を宮殿に誘い出して殺した。
袁紹が兵を率いて宮内に進入したので張譲は弘農王・陳留王を脅して北宮徳陽殿に逃げた。趙忠が殺され、追い詰められた張譲らは再び弘農王・陳留王を脅して徒歩で洛陽を出て小平津に逃げた。
尚書盧植が張譲らを追って数人を斬り、何進の部将呉匡も追ってきたので張譲らは泣いて「臣らが悉く死ねば、天下の乱は払われます。陛下はご自愛くださいませ」と言い、黄河に身を投げて死んだ。
■張譲の悲劇
孫程とか曹騰が基礎を作って、侯覧や曹節まで順調に受け継がれてきた宦官帝国。
張譲・趙忠ペアも、同じように死ぬまで安眠を貪る予定だったのだと思います。それが出来なくなってしまったのは、黄巾の乱のせいだね。周辺民族の叛乱は(やばいものの)桓帝のときからわりに頻繁にあったから、きっと決定的な要因ではなくて。
張譲はきっと曹節と同じタイプで、頭が切れて返り討ちが得意だったのでしょう。何進を討ったところまでは、定石どおりで。董卓だって、張奐や段熲みたいに丸め込めたはずで。でも黄巾の乱で沸き立った連中が、宮中に切り込んじゃったものだから。。
そういう意味では、袁紹と袁術は時代の革命児ですよ。