■三国志雑感>三国志を知るための後漢「宦官」講座(4)
■我が母、趙忠伝 『後漢書』霊帝紀、傳燮、何進、張譲伝などに活躍が記されるそうで。 幼くして省内の給事となり、桓帝のとき小黄門。 梁冀誅殺の功績で、郷侯。※張譲と完全同格の人事。   袁紹が三公の招聘も受けず、広く友誼を結んでた。宦官たちが「袁紹は声望を高め命知らずの連中を飼っている。一体何をするつもりか」と言った。袁隗は「お前は我が一族を滅ぼす気か」と袁紹を責めた。 袁隗に袁赦の筋から漏れたらしいけど、ぼくには分かりません。   永康元年(167)、黄河が氾濫し、数十万戸が流される被害がおきて流民が多く出た。 趙忠は父の喪に遭っており、安平郡に帰って宝玉・宝器を供えた豪華な葬式を執り行った。冀州刺史朱穆はそれを聞くと怒って墓を暴き宝物を没収した。桓帝は朱穆を逮捕させた。 ※父親が死ぬタイミング(桓帝崩御直前)まで、張譲と趙忠は同じ!   ■霊帝の時代 熹平元年(172)、竇太后が崩御。太后を恨む宦官から、貴人の礼で葬儀を行うよう奏上。趙忠は議長を勤めた。 病身を押して太尉李咸が駆けつけたが、既に会議は決定しており趙忠も「既に決定したことです」と言った。そのことで廷尉陳球と舌戦を交え、通例の葬儀を行うことで議は定まった。 けっきょく宦官の意見が通ったのか?曹節の項でもこの話があったけれど、よく分からん。どうやら宦官の意見が認められたっぽいが。「通例の葬儀」って、太后待遇の立派なものじゃなく、ただの貴人レベルってことか。それとも太后は太后らしく葬ったってことなのか。   宦官達は規則破りに高い屋敷を建て、皇帝の宮殿を習い豪華な部屋を作っていた。 霊帝が高台に上ってそれを見ることを恐れ、趙忠は「天子たる者が高い所に登るものではありません。もし高い所に登れば百姓は天子の威光を信じなくなるでしょう」と諌めたので霊帝は敢えて高台に登ろうとはしなかった。 我が母ぶりを発揮してるね!   ■黄巾以降 黄巾の乱が起きると、中常侍呂強が「張譲と趙忠を除け」と上申。 趙忠は、中常侍夏惲と結んで、呂強を自殺させた。「お召しを受けただけで自殺することが反逆の証拠」と中傷し、呂強の家族まで害せられた。   黄巾賊討伐の為に冀州に向かった皇甫嵩は趙忠の豪華な邸宅を見て没収するよう奏上した。趙忠は冀州安平郡の人だもんね。   中平二年(185)7月、車騎将軍。皇甫嵩の後任。 執金吾甄挙らが趙忠に「傅燮の軍は東で功績がありながら、列侯とならなかったので人々は失望しました。論功行賞は公平にね」と諫言した。趙忠は認めて、弟の城門校尉趙延を遣わして慇懃に「車騎将軍は身に余りますわ」と断った。 翌年(186)6月に車騎将軍を罷免された。通過儀礼!   ■宦官滅亡へ 中平六年(189)、霊帝が崩御。 何進のことを不安になった上軍校尉蹇碩が趙忠に「共に何進一党を誅殺すべし」という書簡を送ってきたが、趙忠は蹇碩の計略を(逆に)何進にリークしたので、蹇碩は誅殺された。張譲と趙忠は何進を討った。 司隷校尉袁紹は叔父袁隗とともに偽の詔で宦官派の樊陵・許相を誘き出して斬った。何苗・袁紹は朱雀門の下に兵を留め、趙忠らを捕縛して斬った。   ■趙忠の遺産 初平二年(191)、弘農王(劉弁)は趙忠と同じ成壙に葬られた。 冀州牧韓馥は袁紹に地位を譲ると安平郡にある趙忠の元の館に居住した。   建安元年(196)七月、長安から脱出した献帝は洛陽に到着した当初、洛陽の城の西にある故中常侍趙忠の邸宅に行幸した。邸宅を修理させ揚安殿と名づけ居住した。   今回資料を頂いてる「三國志事典15X-31X」さんは、 董卓の長安遷都後も家が残っていたとは、趙忠だけは董卓にも根回ししていたのかも。それとも趙忠の息のかかった者が当時の董卓政権下にいたか、それとも案外洛陽の人民には人気があったとか? 袁紹が趙忠を斬ったということと、洛陽に残っていた袁家一党を皆殺しにした董卓の思惑を結びつけると面白そうな想像が出来そう。 とおっしゃってます。 ぼくは、豪華だったから礎も強かっただけなんじゃないかと思う笑   ■趙忠の人物像 霊帝に「我が母」と言わしめたぐらいだから、母性的な取り入り方をしたんじゃないかな。 張譲が歴代大長秋のように、諭しなのか脅しなのか分からない接し方をするのに対して、優しく包み込むように褒めながら皇帝を操ったんじゃないかな。「高い所に昇ったら危ないですよ」も然り笑 模擬店の趣向を一緒に考えてる微笑ましい絵が、ぼくには浮かぶのです。
  ■趙忠につるんだ夏惲 あんまり詳しいことは分かりませんが、趙忠の子分かな。 大将軍何進の檄文に「董太后は故中常侍夏惲・永楽太僕封諝を遣わし地方の珍品宝物を悉く納めさせている」とあるそうです。霊帝のママと繋がっていたみたいで。 中平六年(189)の霊帝崩御からの一連の政変前に他界したらしいです。
  次回は、黄巾の乱のときに趙忠を弾劾した呂強を見ます。 呂強については、偽黒武堂の三国志探訪さんの後漢書の翻訳を参考にさせて頂きました。ほんとに『後漢書』買わなきゃねえ。 http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/
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