■三国志雑感>日本版『資治通鑑』で、黄巾の乱を読む。(3)
■おまけの曹操 波才は長社に皇甫嵩を、10万で包囲してる。その助っ人が、新人・曹操。 「(朱儁と皇甫嵩の)両将が呼応するきっかけをつくればよいとおもっている曹操にとっては、黄巾は大軍でも、やりにくい戦いではない」というのが曹操の見通しだと宮城谷氏は言ってる。   二万余で籠城戦をやる皇甫嵩は「田単」のように、包囲軍の後方から放火した。城門を開けて突撃し、波才を追撃した。そこに曹操が合流した。『蒼天航路』では曹操が見方を燃やしてるんだけど、これは皇甫嵩の作戦だったんだね。っていうか、そうやって宮城谷さんは書いてるんだね。『後漢書』とかを読まないと分からないけど、おそらく皇甫嵩の功で正しいのでしょう。 曹操は敗退してショゲてた朱儁を拾って、追撃軍に加えた。頴川郡と汝南郡と陳国は平穏に戻った。 天から舞い降りた援軍のようなイメージのある曹操ですが、まあ調整役と加勢というのが精一杯だったのだろう。孫堅は朱儁の下で、しょーもなく時間を潰していたみたい。後世の活躍を根拠にして、この時期の曹操や孫堅を英雄に仕立て上げてしまうのは危険だよ。   8月、皇甫嵩は東郡に入り、倉亭で黄巾を七千余斬った。東郡と言えば、曹操が太守として招待される場所じゃん。後々の雄飛のきっかけになったところ。倉亭と言えば、官渡の戦いの後に曹操と袁紹がもう1回ぶつかるところじゃん。河北平定の重要な衝突ポイントですね。 もし200年前後の袁紹が、曹操を踏み潰して洛陽を奪おうとしたら、こんな段取りになったであろう、という中華大陸の使い方を黄巾と官軍は見せてくれました。   ■盧植から董卓へ これまでの話とは同時進行です。 盧植が行ったのは冀州。張角の出身である鉅鹿あり、馬元義が拠点にしようとした鄴県もある。「冀州の半分は黄巾の勢力圏であると認識すべきである」と宮城谷氏が言ってる。 「皇帝よりも尊い張角が本陣にいるのである」のに「黄巾の軍はあっけなく敗北した」と。この時点では波才が快進撃をやってるから、ガッカリしちゃったんだろうね。張角は広宗城に籠もった。 6月、まるで諸葛亮の陳倉城攻めのような攻城戦。しかし素人目にはサボってる膠着戦は、宦官・左豊に讒言されて選手交代。いやあ、城攻めって本当に難しいんですね。     全体像をまとめれば、盧植は黄巾の本拠地を潰しに行き、朱儁と皇甫嵩は洛陽を守った。『三国演義』もこうやって書いてくれれば分かりやすいのに、中途半端に三国の祖を活躍させるから、大局がさっぱり見えねえよ!   ■皇甫嵩が、張角・張宝・張梁を斬る 物語はここから宮城谷『三国志』3巻に入ります。 盧植が罷免されて、副将の宗員が代わった。宗員も城攻めを行わず、董卓が到着したら戦場を去った。宮城谷版の董卓は「張角を殺しては、つまらない」と行って、見せ掛けの攻撃しかしない。 黄巾の本拠地では、戦局が膠着してる。   霊帝は、倉亭で勝った皇甫嵩を高く評価して、董卓と代えた。どれだけ選手交代をさせればいいのやら。試合中にタイムを取れる回数を決めておけばいいのに。 宮城谷版では、到着した皇甫嵩に対して董卓は「君子づらをした走狗め。攻めぬが勝ちということもある」と言った。皇甫嵩は「攻めぬが勝ちか。董仲頴は、気のきいたことをいう」と微笑を浮かべたことになってる。   張角が死んだ。弟の張梁が代わった。冀州の広宗は張梁が総大将。まだ2月に決起してから、半年ちょいじゃん。官軍も黄巾も、戦場の指揮官が目まぐるしく変わりすぎだよ。   10月、皇甫嵩は広宗を落として、張梁を斬った。張角の棺を掘り出して、首を切った。 11月、鉅鹿郡に北上して太守・郭典を斬り、張宝を下曲陽に斬った。鉅鹿郡は張角たちの故郷です。故郷は次兄の張宝が守っていて、長兄と末弟は広宗まで進出していたんだね。やっと全体像が見えてきたよ。   ■朱儁が南陽郡を平定する 漫然と読んでると頭が混乱しますよー。物語の時間を戻すから、頭をリセットして下さい笑 ここから朱儁の話です。 長社で包囲された皇甫嵩は波才を破砕し、そこで曹操のコーディネートで朱儁と合流した。皇甫嵩はそこから黄巾の本拠地へと北東に突っ走った。一方の朱儁は何をしていたかと言えば。   朱儁は南陽郡に転じた。 南陽郡は3月に黄巾の張曼成が郡守を殺した。上にも一回書いたけど、洛陽包囲網の一環ですね。6月、官軍が張曼成を斬ったが、趙弘を帥将として盛り返して宛に立てこもった。6月~8月、朱儁は攻めあぐねた。 皇甫嵩が東郡で勝ったものだから、皇甫嵩を南陽郡に回そうという意見があったが、張温が却下させた。 宮城谷さんは解説してないけど、皇甫嵩が常に勝つと仮定した場合、「洛陽に近い南陽郡をすぐにでも平定するのが先か」「張角の本拠地を潰しに行かせるのが先か」という議論なんだね。   朱儁は粘った。趙弘は、朱儁の兵に斬られた。しかし黄巾は怯まず、韓忠をトップに仕立てて宛城を保った。孫呉の大都督のバトンタッチが霞んでしまうほどの継承ぶりだよ。 朱儁は作戦を練り、孫堅に突っ込ませて宛城を落とした。ぼくが孫呉の悪口を言ったから、さっそく孫堅ががんばったのでしょう笑 朱儁は降伏してきた韓忠を赦さなかった。韓忠は官軍に負けて斬られた。 しかし地縛霊のような黄巾。韓忠が死んだら、孫夏をリーダーにして宛城を奪い返した。 11月、朱儁は宛城を奪い返して、やっと南陽郡の黄巾は壊滅した。   「皇甫嵩と朱儁からほとんど同時に捷報がとどけられたので、胸をなでおろした霊帝は、十二月に大赦をおこない、中平と改元した。」 宮城谷さんは、2月から11月の戦闘をこの一文で締めくくった。
  次回は、絵入りで黄巾の乱をまとめます。
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