三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
宮城谷版で『三国志』の起点を探す。(3)
■没落
安帝は27歳だが、鄧太后の摂政。
107年に推挙され、郎中となった杜根が「皇帝はもうチビじゃない。親政であるべきだ」と直諫した。鄧太后は怒り、杜根の撲殺を命じた。だが、刑吏が杜根を慕い、手加減した。
生きていた杜根は、眼にウジを生じさせて、太后側のチェックを通過して生き延びた。78歳まで生き、のちに鄧氏が一掃されたあと(ネタバレかよ)、安帝に優遇された。こういう杜根を、宮城谷先生は大好きだ。

太后の言い分は、「安帝は失徳者だから、私と兄が執政するんだ。我らがいる内は、この国は大丈夫。でも、竇氏の例(鄭衆に殺された)があるから、宦官には要注意だわ」だった。

劉保(生母の李氏は閻皇后に殺された)が、皇太子になった。曹騰が宛がわれたとき3歳だった、あの子だね。当然に、子供ができない閻皇后は「待ってくれ」と太后を憎んだが、敵わない。

太后は「可愛らしい翼ちゃんを帝位に即けたいわ」と、鄧騭に言った。
「安帝は、彼が13歳のとき私が選んだわ。でも人間のクズに成長してしまった。閻皇后なんて愛してさ。霍光の例に倣い、郡臣を皆殺しにして手足をもぎ、廃位にしましょう。ねえ、兄さん、やってよ」と。
太后は自分の陰謀に、不潔ななまぐささはない、と信じている。だいいち皇帝を廃して鄧騭を帝位に登らせようとする驕易の計画ではない。
太后は、皇太子(劉保)が閻皇后に殺されないように、宦官を侍らせた。選ばれたご学友に、曹騰も含まれた。
自分の生死は、皇太子とともにある。と曹騰は誓ったという。

太后は、李郃が賄賂を収めたと聞き、司空を罷免した。
王朝における外戚の勢力の伸張を肯定しない李郃の心底をみぬいて、鄧太后が毛を吹いて疵を求めたといえる。という評価です。李郃はかつて、ゆったり歩いて竇憲の滅亡を待ったことがあったけど、ちょっとコジツケではないのか。
宮城谷氏は、李郃の賄賂を「慣習とよんでさしつかえないつけとどけ」だと弁護している。徹底して太后を悪者にしたいらしい。かなり高尚ぶった筆運びが展開されるけど、彼がこの小説でやりたいことは、勧善懲悪の分かりやすい物語なのかも知れないねえ。

鄧騭に批判的な司徒の劉愷が、引退した。鄧騭が引退するようにしむけたにちがいない。
マジかよ。ちょっと宮城谷先生、決めつけに入りすぎていないか?外戚は悪いことをするに違いない、ほら!ほら!しやがったぞ!と喜んでいるようにしか見えないのだが。

鄧兄妹は、安帝廃位に反対しない人物を探した。
太后は、司徒の後任に、楊震を推した。
鄧騭は、大司農に、朱寵を推した。
ここで、一斉に伏線を回収するわけです。コウノトリとウミヘビもそうなんだけど笑、あんまり存在感のなかったサブキャラの朱寵が登場してくれました。
ただ、見方を変えれば、鄧騭は大人しい与党に高位を独占させるために、手っ取り早い中途採用(というよりヘッドハント)を巧妙にやったということにならないか。それが結実しただけ。
常道なら、若者を推挙して、じっくり育てるもの。数代かけて、絆を深めるものだ。しかし突然、50歳の隠逸君子ばかり、9人も召還したのがおかしかった。邪道じゃ。
この召還を、宮城谷氏はベタ褒めていたが。うーん。

宮城谷楊震は、決意を固めた。
「鄧騭さんは、皇帝をすげ代えるつもりだろう。霍光本人は安静に死んだが、一族はロクな目にあってない。法度としてダメだし、天意から見てもダメだ。死ぬ覚悟で、鄧氏のために、諌めよう」と。
だがこれは、未遂に終わる笑
史実の楊震は、単なる鄧騭の支持者として、ずるずると出世しただけかも知れない。しかし、作者の代弁という大任を背負ったこのキャラは、いちいちズレを修正し、葛藤せねばならん笑
楊震の代わりに諌めたのは、越騎校尉の鄧康(兄妹の従兄弟)だった。太后の不興を買って、属籍を断たれた。

いきなりだが、鄧太后が死んだ。まだ41歳。あーあ。
劉保は、養母が死んだので泣いた。曹騰は恐れた。「太后の庇護がなくなりました。太子は殺されるかも知れません」と。そして泣いた。

安帝は、大斂(太后の納棺)を待たずに、人事を発令した。祖母の仇である蔡倫を裁いた。復讐と報恩を、私情で乱発した。側近の宦官が、安帝をそそのかした。
鄧氏5人が庶人に落とされ、鄧騭が追放された。鄧騭は、子の鳳と絶食して、死んだ。鄧氏は次々と自殺した。ときは121年。
宮城谷版で『三国志』の起点を探す。(4)
■謳歌
宮城谷氏は、安帝の政治を「情実人事」と言った。さすがです。
鄧氏を順に片付け、喜んだ。度遼将軍の鄧遵も自殺した。だが閻皇后に、「彼は鄧氏だけど、私の母系の親類だから、いじめちゃイヤ」と言われたら、許した。鄧太后を諫言して、籍を外された鄧康は許された。
太后が寵愛した、劉翼は平原王から降ろした。退場!

朱寵が上半身裸で、棺を背負って「楊震が言わぬから、オレが言う。陛下、鄧氏に謝れ!」と上書した。
安帝は、鄧太后がいた方が気楽だった。強烈な政治思想などなく、囚人に似た不自由さを感じていただけだった。太后がいなくなると、解放感をあじわったとたん、自己を喪失した。皇帝に個はないのである。というわけで、朱寵はウヤムヤに許されて終わった。
朱寵の勇気により、鄧騭の「枉(無実)」が叫ばれ、王朝が「枉(まがった)」と民衆が叫んだ。鄧騭を改葬して宥めた。
しかし、思わぬところで朱寵がいいキャラになってきた。宮城谷さんが書きたかった「楊震」とは、史実の朱寵と楊震を足して1で割ったような人物だったのだろう。

安帝は、宦官の江京を中常侍、大長秋(皇后府の長官)にした。15年前に、父と離れた安帝を迎えに来てくれた恩返しらしい。それから、鄧騭を誹ったという功績。
また、安帝の乳母が実質の参謀となり、ブスの娘とともに、我が物顔で法を犯した。御史大夫もビビってる。ブスの娘は、ルックスのいい末端皇族が好きになり、彼に封土を約束した。
これを、我らが楊震が上書して「九徳の見地から、乳母・宦官を許せませんぞ。また、功績がない傍流に、封地を与えるのも論外」と責めた。
しかし安帝は「うるさいなあ。乳母も宦官も、オレを助けてくれる。彼らをそう悪く言うな」という感想。
天候が優れないので、改元を繰り返した。孝行が足りないのかと、安帝は乳母の娘を代理に立て、墓参りをさせた。

なんか、あんまり面白くない回でした笑
121年内から時間も進まなかったしね。鄧氏への思い入れが、ここまでの面白さのソースだったのか。しかし楊震、しぶといよ笑
■天意
122年、洛陽は水浸しになった。王朝はどこかが狂いはじめている。またこの謎かけです。
乳母は、野王君に封じられた。楊震は反論したいが、安帝はろくに読まない。味方を探すのは、バイブル『尚書』が戒めているから美学違反。
閻皇后は、兄の閻顕を長社侯に引き上げた。
ついに楊震は、宦官の樊豊に罪をでっち上げられ、自殺した。

貴族ではなく、門閥をもたぬ布衣の学者が、三公の位に登ったことは、中国全土の民に政治の公平さを印象づけ、大いなる望みをあたえたのである。(中略)宦官というえたいのしれぬ存在は、外戚への抑止力であったのに、ここからは民意を代弁する者に敵対し、姦狡なものであるときめつけられてしまうことになった。
「宦官を許す皇帝=民の敵」という疑念が懐かれ、三国時代への伏流が生じた、と宮城谷氏は1人目の主人公の死を締めくくった。

楊震が消え、乳母と宦官と閻氏が馴れ合った。うげ。
ある日、10歳の皇太子、劉保は乳母に招待された。「行きたくない」と言ったが、許されない。劉保は少数を伴って出発した。
■廃替
劉保は、乳母の家を早々に退散した。だが、皇太子の保護者は、誣告されて殺された。劉保と曹騰は泣いた。
大長秋の江京は、地位を脅かす樊豊を陥れるため、「皇太子が成長したら、復讐をされるだろう」と吹き込んだ。
劉保は廃太子、済陰王に移された。閻皇后は喜び、江京と「次の太子は懿(安帝の従弟)がいいわね」と言った。
高官が押しかけ、抗議行動をしたが、安帝は無視った。

読んでて思うけど、主人公の視点が定まらないと、なかなか楽しめないね。名前も紛らわしくて覚えられないし。楊震が死に、曹騰がチビだと、感情移入できない。宮城谷氏をして、こうなんだから、叙事的な小説って、ハードルが高いんだなあ。
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