三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
宮城谷版で『三国志』の起点を探す。(5)
■栄枯
劉保は、押し込められた。
曹騰は、自分がなぜここにいるのか。考えてみれば奇妙であった。(中略)宦官に意思はない。意志のない世界に自分の子を投げこんだ父母の意志とはどういうものであったのか。曹騰の目がうるんだ。
望まずして宦官になった人の内面描写は、なかなかお目にかかれない。こうやって、サンプルが見れて嬉しいね。
主人と生死をともにするだけである。他人の褒詞は要らない。主人の褒詞だけがあればよい。(劉保を陥れた )江京や樊豊を憎んでいるが、おそらくかれらもおなじおもいで生きているのであろう。宦官とは、それだけの人生である。
意志がなく、ただ主人に殉じるだけ。そう宦官の生き方を決めつけているが、どこまで当たっているのかな。曹操の祖父という意味で、この少年宦官の内面の変化がどう描かれるか、見守りたいところ。

安帝は巡狩に出かけた。閻皇后が、皇帝に子供を作られないように連れ出したのだ。だが葉県で、安帝は崩じた。江京は死を伏せて、閻顕は望みどおり北郷侯・劉懿の即位を手配した(少帝)。樊豊は「趙高」役として、死んだ皇帝と楽しく会話を続けた。
閻太后の摂政が始まった。
閻顕は、車騎将軍になった。弟たちは順に、閻景が衛尉、閻耀が城門校尉、閻晏は執金吾になって、宮城を固めた。

閻氏は、対抗勢力を一掃セール。
安帝の養母の兄で大将軍の耿宝、安帝の乳母とブスの娘、宦官の樊豊が、退けられた。乳母は、「人はどうせ死ぬ。一度も富貴を知らずに死ぬ人もいる中で、我が母子は幸運だった」と言った。けっこうこのセリフ、ぼくは好きです。樊豊は毒を飲む度胸もなかった。
閻太后は、劉保を目の敵にしてくるだろう。曹騰は、ビビりまくった。

宮城谷氏は「鄧太后のときは、まだ節操があったよなあ」と、懐かしがるわけです。外戚が執政するのは、竇憲、鄧騭、閻顕で3度目。こうやってカウントしてないと、分からなくなるからねえ笑
最後は、何進、曹操で締めくくり。この間に、あと何人はさまるのかな。

少帝は「閻太后に、政治は任せる。でも、ボクの子には親政をさせてほしい」と、皇后をもらう前のくせに要望した。屈折した妥協だわ。
それを聞いた閻顕は、「皇子が出来たら、オレが教育してやろう」なんて言ってたが、その甲斐なく、少帝は即位200日で病気に倒れた。少帝という諡号を出してしまってる時点で、ネタバレなんだが笑
江京と閻顕は、次の皇帝は誰がいいかな。殤帝 ・安帝・少帝と同世代から、適当に探そう」と言ってた。
作者は、激烈な波風を立たした男(というか宦官)の中常侍・孫程の影を、ちらっと見せて、「次月を待て」と。
■謀計
光武帝は、「宦官(王侯の私臣)ことごとく閹人(原義は門番、やがて去勢男子)を用い、また他の士を雑調せず」と言った。組織は創業者の人格が反映される、という例の主張なのか。
次の明帝は、中常侍4名、小黄門10人と定めた。安帝のときに中常侍10人、小黄門20人に増員。鄧太后が執政したので、マンパワー不足だったからだ。「チュージョージとジュージョージの混乱の始」なり笑

孫程は心ならずも小過を犯している。「勘のよさ」で主流に味方し続け、鄧氏・楊震・劉保を排斥する側い回ってきたことを、宮城谷氏は責めたいらしい。ちょっと酷な作者である笑
少帝が助からないことを見て、「閻氏に、次の皇帝もコントロールさせてはいかん。劉保に返り咲いてもらおう」と言った。宦官4人で組み、「我ら4人で、閻顕と江京を倒す。2対1だから、我らが有利だ」と、励ましあった。「胆勇の人だ」って、大丈夫かよ。
少帝が死んだら、隠密に勝負をつけるつもりだ。宦官らしい笑

司徒の李郃(まだ生きていた!)も、孫程の作戦に同意した。
だが宦官を頼るつもりはない。「閻氏が次の皇帝を勝手に立てたら、閻氏兄弟を分断し、兵権を取り上げます。高官&地方の諸王たちで論戦を張り、閻氏を責めましょう」というデカいものだった。呂氏を誅した先例をパクると、このように大袈裟になるらしい。正攻法だ。

どちらにしろ、危ない橋を渡らされる劉保は、また泣いた。曹騰も一緒に泣いた。しくしく、しくしく。不幸な役だねえ。

江京は孫程など眼中になく、閻顕は弟が門を固めているので安心しまくっている。
宦官の服飾は「高冠長剣」と言われ、皇帝を守るための宦官の武術をあなどってはならぬなんて、作者は伏線を張ってくれる。ワクワク。孫程の宦官同志は、19人に増えていた。だが閻氏が動かせるのは1万人以上。そら、油断もするよね。
少帝が死んだ!
江京は「蒲柳の質(早死の家系)じゃないはずだ。毒殺か」といぶかしんだ。皇太子未定につき、王子を集めて一斉に健康チェックをしようとした。閻顕は「元気な子を選べば、あと20年は安泰だ」と、飲酒した。王子の到着待ちなんだ。

孫程は仲間に「西鐘下(劉保の居場所)で会いましょう」と言った。
曹騰は、同僚がソワソワしていることから、計画を知った。曹騰は劉保に報告した。劉保は言った。
「ボクは計画を知らなかったけど、臣下の監督責任は、ボクにある。孫程がミスったら、ボクも死のう。そのときは、曹騰も一緒に死んでくれ」
このとき劉保は11歳。名君の予感(成功すれば、だが)。
宮城谷版で『三国志』の起点を探す。(6)
■光明
孫程は、鄭衆を思った。4代和帝のために、外戚の竇憲を倒した。
江京さえ倒せば、閻顕も閻太后も、ふにゃふにゃになるだろう、と孫程は読んだ。作者は、孫程が謀計に踏み切った理由を、ついに見つけなかった。「自分をつき動かす力があった。その力がどこからきたのか、これも、あきらかにできない」と。それを作るのが、作家の仕事の1つだと思うんだが。
作品としては、囚われの少年(劉保と曹騰)を助ける勇者様という位置になるから、この構図だけで満足してしまったのだろうか。宮城谷版の特長であると同時に、限界でもある。

劉保と曹騰は、長い夜を待ち続けた。孫程らが帰ってくれば吉、閻太后の使者がくれば凶である。(中略)「騰よ、孫程が帰ってくるぞ」
あえて孫程の側の活躍を抜書きしませんでしたが、物語の趣としては、ぼくはこれで満足なんだ笑
劉保は、西鐘下で即位した(順帝)。曹騰は、宦官になって初めて「血が沸いた」が、劉保が遠い人になったことを淋しがった。

閻顕は、「皇太后の詔命」で軍を動かした。だが、分断された閻氏の兄弟は、それぞれ囚われた。
曹騰の守る門が破られそうになったとき、順帝からもらった短剣を取り出して、「よく、みよ、天子の剣である。(中略)いまからでも遅くはない。天子の兵となり、閻氏を討て」と叫んだ。敵は圧倒された。
孫程に帰順した年長の宦官は、「孫程が亡くなるころには、なんじが中常侍、いや大長秋になっているかもしれぬな」とコメントした。
曹騰に、ものすごい伏線が用意されましたねえ。やや明け透けだが。

順帝は、19人の宦官全員を列侯に封じた。順帝は宦官に、絶対の信頼を置いたが、有司の反発もあった。10歳ちょいの曹騰も、小黄門に挙げられ、600石。作者は「夢はまだ終わっていない」と曹騰に言わせているが、主人公は消えないルールなんだ笑
順帝は、諫言を繰り返してきた不遇者(来歴さん等の楊震キャラ)や、安帝の乳母に害された保護者の家人を、賞賜した。
これらを作者は「配慮」と言っているが、ぼくから見れば、作者が批判してきた安帝の親政開始や閻太后のときと、何が違うのか分からん。近いものは愛しく、遠いものは憎らしい。それだけじゃないか。

この作品で決して省略されないのが、楊震の後日譚。 順帝は楊震の改葬を許し、楊震の子2人を郎にした。
作者はよほど嬉しいらしいが、ぼくも嬉しい。楊氏には復活してもらわないと、5代後にナゾナゾ王子・楊修が登場しないからね。
楊震とセットだった朱寵も、きっちり大尉になった。

「たしかな意志をもって任免と賞罰をおこなった」という順帝は、作者がギラギラと睨みつけているため、閻太后を特に慎重に扱った。
「閻一族は滅びちゃったけど、気落ちしないで下さい。お引越しなど、いかがですか。怨みはありますが、決して復讐はしませんよ」なんて言っているうちに、失意で太后は死んだ。死んだことには変わりないんだから、真相は闇の中。曲筆かも。
李郃は司徒を罷免されたが、順帝は後から味方だったことを知り、「やっぱゴメン、戻って。作者に怒られる」と言った。しかし李郃は「すでに充分に出番をもらいました。もういいっすわ」と断って、80余歳で死んだ。
■寵栄
大殊勲の孫程だが、悲劇の少年を救った勇者のその後に、スポットライトは当たらない。7年後(132年、順帝18歳)に話を一気に飛ばされ、たった1行で殺されてしまった笑
車騎将軍を追贈し、孫程の遺言を叶え、弟の孫美・養子の孫寿に封邑を継がせた。曹騰はうらやましがった。
おいおい、いいのかよ。作者は、こういう私的な馴れ合いを嫌うんじゃなかったのか。『三国志』の屋台骨、曹操を登場させるためには、これは必要悪か。これは後漢じゃなく、三国のお話なんだから。

梁氏という、9歳で『論語』と『韓詩』をマスターした才華の持ち主を皇后にした。父の梁商が、執金吾になった。
曹騰(というか作者)はビビったが、順帝は「梁商は寡欲にして謙柔の人である」と言って、心配しない。

135年、梁商が大将軍(三公の上)になった。
梁商は、李郃の子、李固を辟召した。
李固は、父のモヤモヤを継ぎ、頭が「鼎角匿犀」に変形した。頭頂が三角形で、額が角のように出っ張っていた。
「順帝を担ぎ出すには、父(李郃)がプランニングしたように、高官と諸王が堂々とやるべきだった。19人の宦官をのさばらせてしまい、残念だ。梁商さんの下で、体制を作り直そう」と思った。
だが梁商は、「宦官と争った外戚は、いつも負けるもん」という理由で、李固を無視った。順帝に「無害だ」と評価された梁商は、「威にとぼしく決断力のない人」と書かれる。

梁商の嫡子は、梁冀(あざなは伯卓)といった。
「鳶肩豺目」だから、羽を広げたように肩がイカり、目はヤマイヌのように険悪。董卓の悪逆さえ、かれの悪業のすざまじさにおよばないであろう。中国の十大悪人には含まれるはずだし、「時代と組織の衰退が産んだ悪霊」と作者が書き立てる。
にごった暗さを眼窩はもち、目容には落ち着きがない。舌のまわりが悪いせいで発音される言語が不明確であり、知能が低いためか読み書きと計算ができる程度である。ああ、劉保くん。。
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