三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
宮城谷版で『三国志』の起点を探す。(7)
■梁冀
梁冀は、逸遊と自恣を続けた。
酒が好きで、遊びに膂力を活かし、動物をいじくり、一年中遊んでいた。弟の梁不疑怜質で、兄を哀れんで家督争いには踏み切らなかった。「好きにやってろ」という感じ?
136年、梁冀は河南尹(九卿と同格)。瘴毒のかたまりである彼は、父の監視が外れたので、暴恣を始めた。作者の漢語のボキャブラリを引用するだけで、雰囲気は残る。漢字ってすごい笑
梁商は「我が子が、そんなだとは」と愧じ、梁冀を叱った。梁冀はリークした人を殺し、しかし父にバレぬよう、殺害を他人のせいにした。冤罪を被った人は、宗族や賓客100余人が殺された。

138年、おそらく30歳を過ぎてる曹騰は、中常侍になった。詔令を伝達する高位に、最年少で就いた。激貧の夏侯氏から、まだ10歳に満たぬ曹嵩を養子にもらったのが、この頃だと作者は推測した。やっと『三国志』らしくなってきた。
曹騰には兄が3人いたし、同母弟の曹鼎(曹休の祖父)もいたが、わざわざ夏侯氏から拾ってきた理由は、謎のまま。
このあたりは、曹操の宗族の設定に迫るテーマなので、自分でも系図を組み立ててみないとね。正解がない=やり放題(笑)
「これで蓄財に意義が生じた」「二代目は守りの人であればよい」「みせかけの孝行は要らぬ。忌憚なくわたしを批判しなさい」と曹騰に言わせているが、どこまで宮城谷オリジナルなのかは要確認。

梁商と曹騰を暗殺・捕縛しようとした者がいたが、順帝は震怒して曹騰らを助けた。順帝は、黒幕の誅殺に乗り出したが、梁商は「そんなに大勢を連座させると、政事が遅れます」と進言した。
さすが梁商!ということで、順帝は次子の梁不疑を歩兵校尉にしようとした。しかし梁商は「不疑はガキです。あんまり一族が栄爵を受けると、かえって滅びてまいます」と断った。
順帝は、さらに感心し、梁不疑を侍中(皇帝秘書)、奉車都尉にした。
けっきょく初めよりも高位に就いてるじゃねえか。順帝、ちゃんと話を理解したのかい。作者は順帝を咎めませんが、ぼくは咎めます笑
■八俊
羌族が、三輔を犯した。鄧太后のときから不敗で、順帝が一度は引退を許した征西将軍の馬賢を出撃させたが、老いて討たれた。吏民が殺しまくられて、順帝はがっかりした。

141年8月、梁商が死んだ。
順帝は、梁冀を大将軍、梁不疑を河南尹にした。この人事を、いち早く「ダメだ」と感じたのは、かの李郃の子、李固だった。
李固をジャマに感じた梁冀は、進言した。
「(武名のない)賢知なる李固には、(盗賊の寇偸が烈しい)荊州の刺史が適任でしょう(せいぜい死にやがれ)」と。
順帝は容れた。しかし李固は荊州盗賊のキーパーソンの信頼を得て、半年ちょいで見事に清平した。
梁冀は「クソつまんねー」と思った。
梁冀は、「実績ある李固には、(もっと盗賊がひどい)泰山郡を治めてもらいましょう」と言い、順帝は容れた。またまた李固は、盗賊を帰順させ、皇帝の民とした。まるで、昔話の「正直じいさん」状態だが、出来ちゃったものは、褒めるしかない笑

順帝は、142年8月、8人の臣に「州郡を巡察してこい」と特命した。
その八俊の1人が、父を鄧騭に見出された張綱だった。
張綱は旅立たず、すぐ車を止め、「豺狼(梁冀と梁不疑)が中央に居るのに、地方なんか見に行けとは、どういうボケやねん」と上書した。
梁冀は、「張綱ウゼー」というわけで、1万以上の盗賊がいる広陵郡に飛ばした。李固と同じパタン。張綱はトップを口説き落として、盗賊を解散させた。これも、李固と同じパタン。
梁冀の耳にまで届く大盗賊団は、トップダウンの指揮系統ができてるから、文官の「徳」攻撃が効くんだね。

他の八俊メンバー、杜喬は兗州に行き、梁冀の季父や仲間が、太守として腐敗していることを暴露した。
まず順帝は、「曹騰よ、梁兄弟は悪いヤツか」と聞き、めったに他人を批判しない曹騰も、仕方なく「そうですね」と答えた。
順帝は悩んで、答えを出した。「梁冀をつぶせば、対立勢力がでてくる。対立勢力は、梁皇后に連なる宦官を責めるはず。宦官は、ボクを帝位に押し上げてくれた。守らなきゃならん。やっぱり、梁冀はつぶせない。杜喬を太子太傅にして、梁冀を牽制させよう。ナイスな対策だなあ」と。

本当にそれで充分なのか?次回のタイトルが「順帝」だけに、ずっと明君として描かれてきた彼の、次の打ち手が楽しみ。
宮城谷版で『三国志』の起点を探す。(8)
■順帝
せっかく八俊が報告書を上げたのに、順帝は梁氏を除かない。
侍御史の秧暠やあの李固さんが、「宦官が情報をブロックしているようですが、八俊がエラーを報告した(梁冀に連なる)地方官は、クビにして下さい」と言った。
順帝は無視できず、クビにした。もちろん梁冀は怒った。
李固は大司農となり、梁冀とバランスを取ることが期待された。

144年4月、皇太子に劉炳が立った。順帝の子だから、平和人事。
曹騰は、梁冀に呼び止められた。曹騰を順帝の寵臣のなかの寵臣とみている梁冀は、別人のごとくやわらかい態度をみせる。
梁冀「主上は病気ですか」
曹騰「いいえ」
梁冀「2歳で立太子とは、早くないですか」
このとき梁冀は「まだオレの妹が子供を産むかもしれないのに」と、不服だ。だが順帝は、梁冀が力を持ちすぎたので、梁皇后を遠ざけていた。やることはやってるね。偉いねえ。

30歳の順帝が、寝込んだ。
曹騰は殉死を願ったが、順帝は許さなかった。鄧太后に愛された劉保は、地震の日に即位し、地震の日に崩じてしまった。

2歳の沖帝が即位した。
李固が大尉になった。 九江郡の盗賊たちは、無上将軍、皇帝を称した。嬰児の皇帝&バカの梁冀をナメたらしい。順帝の憲陵が盗掘された。

翌145年、沖帝が死んだ。曹騰も梁太后も困った。
李固は「皇帝の死を隠してはいけません」と言上した。
次の皇帝候補は2人。梁冀が連れてきた渤海王子の劉纘(まだ子供)と、後から李固が呼んだらしい清河王の劉蒜(すでに小壮)。曹騰は梁冀に「どっちに挨拶しといた方がトクですか?」と聞いた。梁冀が答えたとおり、渤海王子にだけ曹騰は顔を出した。もともと宦官嫌いの清河王は、キレた。
梁太后は李固の言うとおり、「年長で高明で有徳の人」の清河王を支持した。梁冀が「操りやすいチビの方がいいって」と言っても、太后は説得されない。だが、いよいよ決めかねたので(順帝に問うつもりで)曹騰に聞いた。すると曹騰は「渤海王子も、かなりアリですよ」と言った。

渤海王子は、少帝の死後18日後に即位。質帝という。

■急逝
清河王は「曹騰ゆるさん」と言って洛陽を去った。別人の観があった。かれは欲望にさいなまれはじめた。怨恨のかたまりにもなった。
梁太后は「夙夜勤労」し、李固の意見をよく聞いた。
広陵では、張綱がせっかく治めた賊が再決起。三公の推挙で滕撫が、九江郡もセットで圧勝。だが後に宦官と対立し、乾された。天下はこの処置を怨んだ。

益州刺史の秧暠が、永昌太守の劉君世が黄金のヘビを梁冀に賄いしようとしてるのを察知し、咎めた。梁冀はキレて、セオリーどおり秧暠に難しい討伐を任せ、失敗させた。「これで秧暠を罰せる」と喜んだが、太后ストップがかかった。
大司農・杜喬がヘビを没収した後も、梁冀はモノ欲しそうに見ていた。呆れた杜喬は、梁冀の末娘の会葬をボイコットした。梁冀は、「李固の子分だからって、いい気になるな」と歯噛みした。

質帝は9歳で、韜晦という行蔵の玄理など理解できない。6月の朝会で梁冀を指差し、「これは跋扈将軍だ」と言った。恥をかかされた梁冀は、毒ダンゴを質帝に食わせた。
質帝は胸を掻き毟って「李固ー」と言った。梁冀は「水を飲めば、吐いてしまいます。陛下、水を飲んではいけません」と言った。
皇帝を殺したのは、趙高・王莽に続いて、梁冀が3人目だった。梁太后は、兄の正体を知らない。
この暗殺劇は、梁冀の見せ場なので、是非とも自分でも描いてみたいねえ。王朝の末期症状の象徴だ。李儒の仕組んだ「劉弁、飛び降り自殺」よりも、文明的だ笑

李固と杜喬は、「今度こそ清河王だ。宦官も外戚も、彼に皇帝になってもらい、一掃しよう」と期待した。
洛陽の夏門亭に、蠡吾侯の劉志(15歳)が到着した。彼の父は、鄧太后が愛しまくった劉翼だ。こんな伏線だったとはね。宮城谷氏に、見事にやられた、ここばかりは、完璧に降伏しました。
前頁 表紙 次頁
(C)2007-2008 ひろお All rights reserved. since 070331xingqi6