■三国志雑感>孟達は誠意に溢れた男だ(1)
この文章を書こうと思ったのは、以下のサイトで着想を得たからです。 『それとも三国志?』に掲載中の「転職」の美学―孟達・黄権より。 「転職」には機を掴むことが重要である。 その例として、孟達と黄権が挙がっている。二人には共通点がある。二人とも初めは劉璋の配下、次に劉備、さらに曹丕の下へ「転職」した。しかし孟達は司馬懿に殺され、黄権は魏で厚遇を受けた。そういう指摘だ。 黄権と孟達を比較するというのが面白いと思ったので、ぼくも二人について考えてみたい。二人が好対照を為していることに、気づいてなかったよ!   ■本稿の狙い 黄権と孟達の評価を再検討したい。あわよくば、ひっくり返したい。 黄権の一般的なイメージは忠義者。孟達のイメージは裏切者。そう相場が決まっている。しかしそんなに単純に割り切っていいのだろうか。もしかしたら黄権が「裏切者」で、孟達が「忠義者」なんじゃないか。 詭弁を弄びつつも、二人の素顔を解き明かしていく笑   いきなり黄権と孟達をメインキャラのように扱ってるけど、いま一度、彼らが何をやったか確認しておかないとね。どんな人だったか分からん笑 歴史事実は端折って、書簡や台詞はかなり主観で抄訳してます。故事も適当に料理してます。おかしかったらご指摘下さい。
  ■黄権の忠義ライフ 黄権の伝記は蜀書「黄権伝」を見ればいい。ラク!   若いころ黄権は、劉璋が召し出しされて主簿になった。  張松が劉璋に進言した。「張魯を討つために劉備を、益州に迎えましょう」と。これに対して黄権は反論した。「劉備を迎え入れてはいけません。劉備は勇名がある。一部将として遇したら不満を持つ。賓客として迎えれば、劉璋殿とカチ合う。どっちにしろ危険です。累卵の危です」と。黄権の指摘は的確!しかも名文句のオマケ付き! だが内通者が続出して、まんまと劉備が乗り込んできた。劉備は劉璋を包囲して、益州を乗っ取った。黄権は門を閉ざして固守した。劉璋が降伏して初めて(やむを得ず)出頭した。《転職1:劉璋から劉備》   劉備は黄権を偏将軍に任じた。黄権は漢中を攻める必要性を説いた。その計略は的中した。 関羽の死後、劉備は荊州に孫呉を攻めようとした。黄権は諌めた。「孫呉を攻めてはいけません。撤退するときに長江を遡上することになりますから、危ない。先鋒は私が務めるので、劉備殿は後詰をしてて下さい」と。黄権の指摘は的確! だが劉備は黄権の言うことを聞かず、自ら攻め込む。夷陵の戦いで惨敗して、病死。言わんこっちゃない。このとき黄権は、鎮北将軍として魏に備えていた。しかし余りの蜀の負けっぷりに、帰路断絶。仕方なしに、曹丕へと投降した。《転職2:劉備から曹丕》   黄権の妻子を逮捕したいという蜀の官吏を、劉備が止めた。「オレが黄権を裏切ったのだ。黄権がオレを裏切ったのではない(原文:孤負黄権、権不負孤也)」。残された黄権の家族は、以前と同様に扱われた。 黄権の妻子が蜀で処刑されたという話が出たが、黄権は嘘だと悟った。『漢魏春秋』曰く「私と劉備殿・諸葛亮殿は、信頼し合ってます。彼らが、そんなことするわけがない」と答えた、らしいです。 曹丕は黄権を同じ馬車に乗せた。司馬懿は諸葛亮に手紙を送って、「黄権は立派な奴ですわ」と述べた。 蜀の残った黄権の息子・黄崇。彼は蜀の最期の戦いで諸葛瞻に従って戦い、殉死するという勲章まで付いた。    以上から、黄権の「転職」は止むを得ない事情が付きまとう。どっちのパタンも、主君が黄権が諌めるのを無視した。そのせいで、黄権は追い込まれて君主を鞍替えした。しかし旧主に心を寄せることを忘れない。 そういう絵になる。   ■蜀の立場からの雑談 『蜀記』にいう。曹丕が死んで、曹叡が黄権に聞いた。「三国のどれを正統とすべきか」と。黄権が答えて曰く「天文に従って正統を判断すべきです。不吉な火星の動きで、曹丕殿は死んじゃいましたね。呉・蜀の君主は何事もなかったですね」と。 遠回しに言ってるけど、実は蜀が正統だと言っているように読める。 ※出典が『蜀記』なので、内容を無批判に飲み込んではいけない。黄権が蜀に心を寄せていた証拠にするのは早計。魏の皇帝の前で、こんなことを言ったら首が飛ぶでしょう。創作かも知れない。真偽は確定できない。 ただこの逸話は、旧主を思いやる黄権をよく表している。
   黄権については以上です。 次回は、裏切りの孟達の人生を見ていきます。(2)へお進み下さい。   参考:それとも三国志? http://homepage2.nifty.com/o-tajima/san/sanhome.html
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