サイト「西晋演義」の話の構成をチェック。(1)
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いろいろ勉強できそうなサイトを見つけたので、それを眺めた感想を残しておこうと思います。
小説で学ぶ世界史と中国歴史 http://www.geocities.jp/shokatusei/
の中に、「西晋演義」というコンテンツがありました。西晋の歴史を、1本の流れに編集したお手本として、いろいろ感嘆してみたいと思います。全部で34回で、西晋の歴史を学ぶことができるようなので、構成を見守りつつ、初めて知ったことがあったら、『晋書』を読むとっかかりにさせて頂きたいと思います。
■第1集
251年8月、司馬懿が死んだ。
「あいつは、簒奪するんじゃないかと、周りに疑われるのが辛かった」と言って司馬懿を死なせます。 いきなり司馬懿を殺してしまうわけですが、彼に「国を奪うな」と言わせるのが、ものすごく皮肉な伏線なんですね。本当に国を奪わなければ、この作品そのものが成立しないわけで笑
次はなぜか鄧艾の上奏で、「劉豹の国を2つに分裂させ、力を殺ぎましょう。内地の異民族は、外に出しましょう」と。またしても、ものすごく皮肉な伏線
です。開始30秒で、西晋の成立と滅亡の原因を、仄めかしてしまった!すごいね。
鄧艾にこういう上奏があったのか、いちおうウラを取ってみたいですが、ここに配置したのが卓見。
251年秋、孫権は諸葛恪に託して死んだ。
司馬師と司馬昭に会話させ、「今こそ呉を討つ好機」だと、王昶が10万で江夏、胡遵10万が東興、毌丘倹10万が武昌。しかし東興での丁奉の奮戦で、撤退。逆に攻めてきた諸葛恪を、合肥新城で撃退。
敗れた諸葛恪は、孫峻に殺された。 ここまでは、よく知っている『三国志』のストーリーです。どう滑らかに西晋に入るのか、お楽しみ。
■第2集
253年冬、姜維5万出陣。廖化・張翼が左右の先鋒、夏侯覇が参謀、張疑が兵站。郤正の説得で、羌将・俄何焼戈が援軍。夏侯覇は、南安を狙うことを提案した。
司馬昭は猛将・徐質を使うが、ワナで包囲された。「丞相は司馬懿に逃げられたが、今度は逃がさん」と息巻く姜維。
郭淮は、陳泰の意見を容れ、羌族の裏切りを促した。姜維は悔しがり、撤退しながら郭淮を射殺した。これは『三国演義』の踏襲ですね。郭淮には、フィクションな災難です。
司馬師におびえる曹芳は、夏侯玄・李豊・張緝(皇后の父)と謀ったが、腰斬。張皇后も死。 曹芳は廃され、郭皇后は曹拠ではなく曹髦を推したので、司馬昭は認めた。ここまでも、よく知っているとおり。
■第3集
255年正月、毌丘倹と文欽が背いた。文鴦の奮戦も虚しく、敗れた。
翌月、司馬師は眼の病が悪化して、死。司馬昭に「絶対に他人を信用するな」と遺言した。
姜維が「司馬師が死んだ好機」と、外征した。張翼は反対したが、夏侯覇は賛成した。雍州刺史・王経は敗れて、狄道城に逃げ籠もった。張翼の話も聞かず、攻城戦を続けた姜維は、陳泰と鄧艾に敗れた。
■第4集
安西将軍・領護東羌校尉となった鄧艾は、姜維がまた出てくる5つの理由を語り、陳泰と「忘年の交わり」を結んだ。
姜維は、魏を討てる5つの理由を上げたが、全て鄧艾に見通されており、段谷(断谷に通ず)に追い込まれた。張嶷が身代わりとなり、姜維を救った。姜維は降格を申し出た。
飢饉の呉は、文欽の提案を認め、青州・徐州を攻めようとした。孫峻は、驃騎将軍・呂拠の陣営を見てビビり、諸葛恪に殴られる夢を見て死んだ。孫綝が継いだが、呂拠は「滕胤さんが継ぐべきだった」と憤った。
■第5集
256年、賈充の発言に怒った諸葛誕は、叛乱した。
司馬昭は、石苞・州泰・王基・陳騫を使って寿春城を追い込んだ。呉の朱異は、諸葛誕の急援に失敗した。
寿春城が落ちると、裴秀は「呉の兵は皆殺し」と言ったが、鍾会は、「呉に帰れと命じましょう。だが孫綝が無茶するので、彼らは魏に降伏するでしょう」と言った。
姜維は、蒋舒と傅僉を育て、諸葛誕征伐でガラ空きの魏を攻めようと言った。長城を守るのは司馬望だ。司馬望の不利を鄧艾が救い、決戦の誘いをのらくら延ばした。そのうち、諸葛誕は破れ、姜維は撤退せざるを得なくなった。
呉では、孫綝が丁奉に斬られた。
■第6集
孫休は五教博士を置き、国力充実に努めた。孫亮復帰の噂が流れたので、孫亮は殺された。
姜維は、胡済を漢寿まで退かせ、王含を楽城、蒋斌を漢城に置いた。兵力補充の方便として、布陣が変更されたのだが、これで蜀の守りはカスカスになった。
鄧艾は「君臣が離れた今、蜀を討てます」と言い、司馬望と司馬昭を喜ばせた。だが賈充は反対し「それより曹髦が不穏だ」と言った。
王経の諌めも聞かず、曹髦は逆クーデターを敢行。矛で貫かれた。陳泰は「賈充の仕業だ。殺せ」と言ったが、司馬昭は賈充を守った。
司馬孚は「曹髦は王の格式で弔えば、充分でしょう」と言った。 260年6月、曹奐が即位した。
孫休は学問にかぶれ、韋曜・盛沖と交わった。危機感を持った張布は、「讒言でも囁き合ってるだろうと、みな心配しています。学者どもを遠ざけて下さい」と言った。孫休は認めたが、創作漢字で遊んだ笑
姜維は、廖化の制止も聞かず、また出撃。しかし鄧艾にバレバレ。夏侯覇が洮陽城で、空城ノ計にかかって落命した。
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サイト「西晋演義」の話の構成をチェック。(2)
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■第7集
鄧艾と司馬望に挟み撃ちにされた姜維は、「きっと手薄な祁山を攻めよ」と張翼に命じた。また先手を取られた姜維は、沓中に籠もった。
黄皓は、右大将軍・閻宇と結託して、姜維を除こうとした。
司馬昭は、「ウザい姜維は、何とかならんか?」と怒った。従事中郎・荀勖は、「鄧艾を主将、鍾会を副将」と言った。だが鍾会がゴネて、2人は別ルートで攻めることになった。
263年5月、蜀討伐の詔。
辛憲英は一族の羊祜に「鍾会は勝手なことをします。我が子、羊琇を従軍させるのは不安だ」と言った。羊祜は「お静かに」と制した。
司馬望が羌族を押さえ、雍州刺史諸葛緒、天水郡太守王頎、隴西郡太守牽弘、金城郡太守楊欣にも進軍させた。
相国参軍・劉寔が、「鍾会も鄧艾も洛陽に還れまい」と冷笑した。太尉・王祥は、不気味がった。
作者は、許儀の桟道工事に欠陥があったことを、あわや鍾会の戦死の危機に仕立て、ドラマチックにした。 蜀将の傅僉は、魏に降った蒋舒を責めて、忠烈に自刃した。
■第8集
蒋舒は鍾会に、諸葛亮の廟を教えた。敢えて降伏シーンが創作されたのは、そういう役回りだったのね。鍾会は、諸葛亮の幻に「むやみに人を殺すな」と諭された。この辺が、小説がかってきて面白いね。
鄧艾は、絶壁を隔てて、江油に迫った。
■第9集
江油城を守る馬邈は、「守備は姜維の仕事だもーん。関係ないもーん」と、酒を飲んでいた。妻の李氏は、馬邈にツバを吹きかけ、首を吊った。鄧艾は、江油城を占拠した後、李氏を手厚く葬った。 ・・・こんなエピソード、どこから出てきたんだ?
緜竹で、諸葛瞻・尚と、鄧艾に死戦を命じられた師纂・鄧忠が戦った。諸葛武侯の旗を持ち出したが、諸葛亮の子と孫は首を斬られた。
降伏をとく譙周を、ついたての陰から劉諶が罵った。 劉禅は降伏した。
劉諶の妻の崔氏は柱に頭を打って死に、劉諶もこってり死に様を描かれて自刎した。しかし、なぜについたての陰から登場したんだろう笑
■第10集
賈充は「鍾会に恩賞を与え、鄧艾を牽制させましょう」と言った。
鄧艾と鍾会と姜維は、それぞれ志破れて死んだ。よく描かれる場面ばかりなので、あえて抜書きはしません。
孫休は、陸抗・歩協・留平・盛曼に命じて、巴東(守将は羅憲)を6ヶ月も包囲した。意外に長かった!
■第11集
建寧郡太守・霍弋は、喪服で西を向き、「正確な情報があるまで、どうにも動けないよ」と言った。霍弋は、劉禅の降伏を聞いて投降した。
司馬昭は、晋王に進んだ。そして、司馬攸を後継者に、と仄めかした。 山濤・賈充・何曽・裴秀・荀顗が「長幼の序を乱すのは、良くない」と揃って反論したので、司馬炎が世嗣になった。
264年7月、羅憲を抜けず、交州の呂興の乱は終息せず、越の後方撹乱が続く中で、孫休は30歳で死んだ。自分の子、孫湾(ウソ字ですが)を指差して死んだ。
だが万彧・濮陽興の意向で、孫皓が即位した。
司馬昭は、寿春で投降した呉将、徐紹・孫彧を返却し、「さあ孫皓、降伏せよ」とプレッシャーをかけた。
返礼に魏へ言った紀陟は、劉禅や単于が宴席に並んでいるのを見せ付けられた。だが気後れせずに会話した。
4.6メートルの巨人が告げたので、司馬昭が即位か?と思ったが、病に倒れた。太尉王祥・司徒何曽・荀顗が見舞ったが、口が聞けない。
司馬炎が晋王となり、何曾は晋の丞相、司馬望は司徒、石苞は驃騎将軍、陳騫は車騎将軍となった。
賈充・裴秀は、禅譲を勧めた。司馬炎は簒奪をやってのけた。太保の鄭沖は、策命を作った。
黄門侍郎・張節が、「曹操はすごい人だった。禅譲反対!」と言ったが、司馬炎は「魏だって、漢から奪ったじゃねえか」と開き直った。張節って、いいキャラですね。こういうのがいないと!
■第12集
司馬炎は、曹髦に殉じた王経について「彼は法律で裁かれたが、忠君愛国の人だった。彼の孫を官吏にする」とコメントした。
段灼は、鄧艾を今さら弁明した。司馬炎は「確かに鄧艾は立派だった。赦して、後継者を立ててやれ」とコメントした。
司馬炎が、恩徳の政治を始めたとき、孫皓は東関に出撃し、丁奉と諸葛靚に合肥新城(守将は石苞)を攻めさせた。内政の充実に心を砕く司馬炎に対して、まだ『三国志』的な戦闘をしかける当たり、すでに1周遅れな印象ですが、丁奉に秘策があるようです笑
■第13集
石苞は偽りの手紙のせいで、合肥新城から召還された。
作戦は成功したんだが、相変わらず合肥新城の守りは堅く、勝てなかった。だめじゃん笑
269年、孫皓は交州を大々的に攻めたが、失敗。陸凱が死に、諫言する人がいなくなった。司馬炎は好機と見て、羊祜を都督荊州諸軍事にした。
271年、寿春の流行り歌を刁玄から聴いて、孫皓は「オレが天下統一しちゃう!」と勘違いし、集団ヒステリーで洛陽を目指した。寒すぎたので、大ブーイングを食らって、建業に還ってきた。丁奉が死んだので、遺族を強制移住させた。
272年、禿髪樹機能が造反し、胡烈を殺した。扶風王・司馬亮が都督雍涼軍事となり、救援に向ったが、途中で挫けてしまって免官。杜預と石鑑が置かれたが、反目しあって要領を得ない。牽弘が討たれた。
司馬衷の妻が探された。 賈充の妻の郭槐が、自分の娘を推薦したが、司馬炎は強硬に反対した。「顔もブス、性格もブスだ」と。司馬炎の嫌いっぷりが、長々と語られているのが、こういう小説の面白いところです。
歩闡が孫皓に反発し、西陵が揺れたが、陸抗が守った。
王渾・王済の親子は、「劉淵(劉豹の子)に任せれば、呉は討てます」と言ったが、異民族に功を取られることを孔恂と楊兆がもっともらしい理由をつけて反対した。
陸抗と羊祜は、国境を隔てて友情を育てた。
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