サイト「西晋演義」の話の構成をチェック。(3)
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■第14集
孫皓が40人以上の忠臣を殺したので、羊祜は「今こそ討ちましょう」と言った。しかし、賈充・荀勖が反対した。
司馬炎は病に倒れ、馮紞に「司馬攸のことが心配です」と言われた。
汝陰王・司馬駿を、征西大将軍・都督雍涼等州軍事として樹機能に宛てた。征北大将軍・衛瓘に鮮卑の拓跋力微を討たせた。 司馬亮を、宗師にした。
「何か決めるときは、必ず宗師に相談するように」と命じ、王が乱立する一族の統制を取ろうとした。
羊祜は、涙を流しながら「呉を討って下さい」と言って病死した。
ご指名の杜預が継いだ。杜預は、「王済は馬癖、和嶠は銭癖、私は左伝癖です」とコメントする、皮肉の効いた知識人。
再び涼州刺史が殺されたので、李熹は「劉淵にやらせましょう」と言ったが、孔恂が「ミイラ取りがミイラだ。独立するに違いない」と言った。 不自然なくらい、登場しますが、、 劉淵は、王弥という青州の名門と仲良しだった。王弥は「乱世になれば、一国を割拠するだろう」と評された人物。
劉淵は王弥にグチった。「王渾も李憙も、同郷だ。たびたびオレを推薦してくれるが、余計なお世話だ」と。 これを聞いた司馬攸は、「早く劉淵を始末しないと、并州が我が国のものではなくなる」と言ったが、王渾が「そんなわけない」と言い、司馬炎も「そんなに気にするなよ」と受け流した。
おおっと!この会話、史書に載ってるのか?未来を見通した司馬攸を無視ってしまい、西晋は滅びた、という露骨な伏線じゃないか。
司馬督の馬隆が「私が涼州を鎮めて見せましょう」と申し出て、鹿角車を駆使して樹機能を破った。司馬炎は、やっと安心した。
■第15集
益州刺史の王濬から、「呉を討ちましょう」と上表があった。
王渾が反対したので先送りにしようとしたが、張華と囲碁を打っていて、ついに決心した。
宦官・岑昏が「江底に大鎖を張り巡らせば、王濬の船団なんて、粉々っすよ」と言うので、孫皓は喜んだ。対する王濬は、イカダに藁人形を乗せて流し、死者ゼロで水中の鉄錐を回収した。いかにも小説ですが、こんな話はどこから出てきたのだろう?
賈充と荀勖が、なおも水を差して「呉は諦めて、撤退させるべき」なんて言うが、張華が撥ねつけた。孫皓は、ついに降伏した。
■第16集
王濬は王渾を追及した。范通に「鄧艾のように殺されますぞ」と助言され、隠忍自重して285年に80歳で亡くなった。
賈充は「倒せる呉を、倒せないなって言ってて、ごめんなさい」と謝ったが、節鉞を解かれただけだった。
杜預は「泰平になっても、備えを怠ってはいけない」と、軍事・民政・学問に打ち込み、洛陽への賄賂も忘れなかった。
諸葛靚(誕の子、呉に亡命)が、瑯邪王・司馬伷の家にいた。司馬炎が旧交を温めに行くと、諸葛靚は大いに愧じて、晋には仕えなかった。
山濤が病死した。
陶璜は反対したが、州兵を解散させた。異民族に強力な指導者がいないという理由の均衡でしかなかったが、中央軍だけを残して、割拠の時代を終わらせた。
上党郡武郷に、石勒がいた。羯族の彼は、司馬騰に山東へ売り飛ばされた。異民族の呪いは、着実に蓄積していた。
占田・課田を定めた。
273年3月、天下の婚姻を停止させ、1万人の後宮を作った。
郭欽は「平陽、弘農、魏郡、京兆、上党の地から雑胡を徐々に移住させ、出入りを厳しくしましょう」と言ったが、司馬炎は「時代錯誤だ。今は晋の恩徳の時代だ」と言った。どっちが錯誤なんだ笑
張華は、司馬攸を推した。張華を落とそうと思っている荀勖・馮紞は、言った。「鍾会に勝手を許したのは、司馬昭さまだ」と、暗黙のうちに、司馬攸が危険ですと吹き込んだ。
司馬駿、李憙、羊琇、王渾の子である王済、甄徳、曹志が反対したが、司馬攸は病を発して死んだ。司馬炎は人々の支持を失った。
■第17集
晋朝十二功臣というのがあり、石苞が含まれる。ちなみに十二臣というのは、鄭沖、荀顗、石苞、裴秀、王沈、司馬孚、何曾、賈充、陳騫、荀勗、羊祜、司馬攸だ。
石苞の子、石崇は、王愷とゼイタク合戦を始めた。司馬炎も介入して、下らんことになった。
劉毅は「上品に寒門(低い家格)無く、下品に勢族無し」と九品官人法を批判した。衛瓘と司馬亮も、漢代の郷挙里選の復活を説いたが、司馬炎は聞き流した。
衛瓘は「陛下には長生きをしてもらわねば困ります、この席(玉座)が惜しうございます」と、酔ったふりで言った。賈南風は「衛瓘め、そのうち殺してやる」と誓った。司馬炎は「キミは本当に酔ったのかね」と冷静に突っ込んだ笑
司馬炎が死に、司馬衷が即位した。
高平王・司馬沈が『釈時論』を、南陽の魯褒が『銭神論』を、廬江の杜嵩が『任氏春秋』で、時世批判した。
司馬衷はカエルの声を聞き、「官のために鳴くのか、私のために鳴くのか」と聞いた。 「官有地にいれば官のため、私有地にいれば私のために鳴きます」と側近は答えた。「コメがないならニクを食え」とも言った。
楊駿と楊太后は、賈皇后に廃された。東安王・司馬繇と、東平王・司馬楙を解任した。
衛瓘は、剣履上殿を許されたが、司馬瑋は衛瓘を憎んだ。司馬瑋は賈皇后に漬け込まれ、清河王・司馬遐を使って衛瓘を殺した。衛瓘は72歳だった。ともに輔政していた、司馬亮も殺された。
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■第18集
張華は司馬瑋の勘違いを弁護したが、賈皇后は司馬瑋を殺した。
296年8月、斉万年の乱。孫秀・夏侯駿・周処が迎え撃った。
周処(周魴の子)は、梁王・司馬肜でさえ剛直に罰した人。晋の人たちに怨まれ、わざと死地に送られた。伏波将軍・孫秀は、「断れるんだよ」と言ったが、周処は「ここが死に場所です」と言った。斉万年は「周処が大将なら勝てん」と彼を恐れた。
梁王・司馬肜が征西大将軍・都督関中諸軍事になった。
297年、果たして周処は、司馬肜にムチャを命じられて、討ち死にした。恵帝は残念がって、老母の面倒を見るようにと命じた。
張華に「司馬倫が、孫秀にそそのかされています」と伝えた者があった。張華は孫秀を殺そうとしたが、「斉万年の叛乱は、孫秀のせいではない」という、弁護にもなっていない弁護があったので、孫秀は死罪を免れた。
張華は、武器庫が火事なったとき、孫秀がクーデターするのではないかと警戒した。
■第19集
鮮卑の、慕容部(慕容廆が率いる)と段部、宇文部が強くなった。
慕容廆は、東方の扶餘国を攻めた。扶餘国は、東夷校尉・何龕(晋の軍人)を頼った。扶餘国は、晋の援助を受けて復興できた。
怒った慕容廆は、晋を恐喝して鮮卑都督の位を分捕った。慕容廆は、旧敵の何龕に会いに行ったが、無礼な扱いを受けたので、戎服(軍服)で会見した。
「主(何龕)が無礼なのに、なぜ客(慕容廆)が礼を尽さねばならんか」
と指摘したので、何龕は慚愧して、慕容廆を慕うようになった。
楊茂捜は、斉万年の乱から逃げた人たちを匿った。
子の楊難敵は、人を密売する罪を刺史に咎められて、梁州刺史・張光にムチで撃ち殺された。「オレたちは、たくさんの民を救ったのに、なんて仕打ちだ」と怨んだ。
298年、斉万年に苦しんだ人が、漢川に流れ込んだ。この連鎖反応が、とても重要で面白いですね。
その中にいた李特は、剣閣から見下ろして、「このような土地を持ちながら、劉禅(蜀の後主)は囚われの身となったのか。愚か者めが!」と叫んだ。いかにも伏線ですなあ。
299年、左積弩将軍・孟観が、斉万年を、中亭ノ戦で破って捕らえた。
征西大将軍の梁王・司馬肜は、録尚書事へ。北中郎将の河間王・司馬顒は、鎮西将軍として関中へ。成都王・司馬穎を鎮北大将軍とし、鄴に置いた。
300年3月、賈皇后が司馬倫に打たれ、8月は叛乱した司馬允が討たれた。
11月、賈皇后の縁戚・趙廞は益州刺史で、賈皇后が討たれたのを聞いたので、同じ巴西出身で同郷の李特を爪牙にして暴れた。
成都内吏・耿騰は、「益州の流民を強制送還して下さい」と言った。趙廞は、「せっかくいい調子に独立できそうなのに」と、耿騰を憎んだ。
■第20集
朝廷は「趙廞を大長秋として洛陽に呼び戻し、益州刺史は耿騰に代えよ」と命令した。
趙廞は刺史として入城しようとしたが、趙廞に殺された。
次に趙廞は、西夷校尉・陳総を攻める構えを見せた。陳総は、主簿・趙模の「戦いましょう。金に糸目は付けず、募兵するのです。益州を取るチャンスでもあります」という助言を無視して、「戦闘にはなるまいよ」と決め込んでいた。趙廞に殺された笑
趙廞は大都督・大将軍・益州牧を自称し、李特の弟・李庠を陽泉亭侯に任命した。ちなみに李庠の妹婿・李含も一緒にいた。 桟道を焼き払って、独立した。お前は劉焉か。益州は自立を誘うお土地柄ですね。
李庠は趙廞に「皇帝におなりなさい」と言ったが、「大逆無道を吹き込んだ」として、李庠は殺された。兄の李特は漢中で道路分断工事をしていたが、趙廞を怨んだ。
301年正月、司馬倫が帝位を簒奪。
李特は趙廞を討ち、掠奪を働いた。 さすがに対策が必要なので、梁州刺史・羅尚が7000で益州に入ってきたので、李特は大歓迎した。 李特は中原に戻らねばならなかったが、兄からの情報で「洛陽は乱れている。帰り時ではない」と判断した。羅尚に賄賂して、益州残留を認めてもらった。
中原は八王ノ乱の真っ最中なのだが、こうして李特が益州に残り続けることが、次の波乱のタネになるんですね。
301年7月が、流民たちの送還期限だったが、中原が平和になる見通しがないので、延長を申し出た。
羅尚の下に辛再がいた。李特と旧知だが、「お前に再会したのは不吉だ。まさしく凶である」と、李特が嘆息した人。彼は羅尚を誘導し、李特の要望を却下する黒幕だった。
辛再は「李特が奪った財宝を没収すべきです」「盗賊の李特を捕えよ」と命じた。羅尚は民のために寛大な処置をしようとしたが、辛再に操られてダメだった。
益州や梁州で日雇いで食いつなぐ民たちは、行き場を失わせる采配に、もはや暴発寸前だ。
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