三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
サイト「西晋演義」の話の構成をチェック。(5)
■第21集
都でのお話。
司馬倫は、孫秀を使って、石崇が寵愛する緑珠を奪おうとした。「私はおまえの為に死ぬだろう」「御前で死なせていただきます、あの世でお会いしましょう」と、心中をやらかしてくれた。
石崇の友人で、潘岳がいた。「潘郎」と親しまれ、夏侯湛と共に「連璧」とも称された。彼は、孫秀の旧怨を勝って、刑場に引き立てられた。
石崇は「ああ、君もか」と言い、潘岳は「白髪首の帰する所を同じくせん、ということさ」と答えた。かつて、永久の友情を誓った詩の一節だった。こういう、小説的な演出、いいですねえ!

司馬倫は、司馬冏と司馬顒、迷いつつも味方した司馬歆に殺された。
散騎常侍・張軌は、涼州刺史になることを認められ、鮮卑を平定した。

辛再たち、羅尚の取り巻きは「李特は強い。攻めないと、こちらが殺されるぞ。羅尚さまは決断力がないから、困ったものだ」と危機感を持った。羅尚の追認をもらって李特を攻めたが、却って負けた。
羅尚は、「辛再たちが将軍たちをかってに駆り立てて、逆に李特らを増長させた。しまったああ」と悔やんだ。李特に攻められた辛再は逃げて、羅尚は戦うたびに負けた。
李特たちの言い分は「進退窮まった民に、大らかな処置を採らなかったからだ。今さら、もう交渉の余地はない」だった。

302年、遼東で慕容廆は、宇文部に10万で包囲された。慕容廆は「敵は統制が取れていないから、勝てるぞ」と呼びかけ、数万を捕えた。
司馬顒は、李特討伐の軍を編成したが、敗れた。李特は、大将軍・益州牧・都督梁益二州諸軍事を僭称した。

八王ノ乱と、益州の李特、遼東の慕容廆が平衡して描かれているのが、面白いところですね。なかなか横並びに見えにくかったので。

■第22集
成都に帰還できた羅尚の軍は、1、2割だった。
建寧郡と朱提郡も、李特に呼応して背いた。南夷校尉・李毅は2郡を平定し、302年11月に再設置された寧州刺史になった。

司馬乂が実権を握った。
陸機に「もう呉郡に帰ろう」という同郷人がいたが、「俺はこの国を正すために、洛陽にいるのだ」と頑張った。
羅尚をいよいよ追い込んで少城を得た李特は、各地の自警団を抱え込もうとした。「人質を取るべきだ」「身内に敵を取り込むのか」と、李雄(李特の子)や司馬は反対したが、「民を敵に回せるか」と李特は怒った。

どういうわけか分からないが、このサイトでは、李特と羅尚の間の小競り合いまで、かなり拡大して物語にしてある。成漢の建国史を重視することは、季漢の建国史である『三国演義』を意識した作りなのか。
ぼくは、そんなに成漢に興味の中心はないので、今回は省略しまくっているが、将来興味を持ったら、このサイトは史料「李特伝」などを読む、いい助けなんだろうね。

司馬歆が過酷なので、江夏で異民族の支持を受けて、張昌が叛乱した。執政する司馬乂は、司馬歆が敵対するのを疑い、兵の動員を許さなかった。
「司馬乂なんか無視して攻めましょう」という人と、「司馬乂の意見は、皇帝の意見です。従いましょう」という双方の意見を聞いているうちに、樊城を破られて司馬歆は死んだ。三王起義のときも臣下や寵姫の発言に左右された人だったよね。
劉弘が鎮南将軍・都督荊州諸軍事として乗り込み、張昌を斬った。っていうか、張昌の扱いはそれだけか笑

■第23集
303年8月、司馬乂は皇甫商を使い、司馬顒と司馬頴を防いだ。しかし司馬越が司馬乂を裏切ったので、司馬乂は焼き殺された。

李流が病死し「李雄は天才的だ。彼に従え」と遺言した。李雄は、大都督・大将軍・益州牧を名乗り、羅尚を卑城で騙し、成都を手に入れた。梁州刺史の許雄は、責任を問われた。 304年正月、羅尚は巴東、巴郡、陪陵の統率権を与えられ、荊州の劉弘から三万斗の援助を受けた。
恵帝は、雍州刺史・劉沈秦州刺史・皇甫重に司馬頴を攻めさせたが、司馬顒の将軍・張方に長安で防がれた。司馬頴が、皇太弟になった。
3月、陳敏が石冰を斬り、揚州と徐州の二州を平定した。
司馬越が北伐したが、司馬頴の石超に迎撃され、恵帝は鄴に入った。

■第24集
司馬頴が心服を寄せるのは、劉淵。任子で洛陽にいたこともある。王渾、王済の親子に可愛がられ、李憙にも推されたが、迷惑がった。
劉淵の従祖の右賢王・劉宣は、劉淵を頂いて、ちりぢりの南匈奴2万を集め、并州に還ろうと言った。劉淵もその気になった。
「司馬頴どの、幽州・并州が、鮮卑の段部を味方にした王浚・司馬騰に荒らされています。私が鎮圧します」
司馬頴は、劉淵を北単于、参丞相軍事にして、并州に還らせた。
大単于になった劉淵に、15日で50000人が集った。離石を都にした。

王浚が烏桓を使って鄴を攻め、大勝した。司馬騰は敗北していた。
劉淵は「あれほど鄴を大切にと言ったのに、司馬頴は守らなかった。とんまだ。だが、味方すると言った手前、無視はできない」と云った。
劉宣が「司馬頴を追った烏桓・鮮卑は、むしろオレたちと同類です。彼らを攻めず、自分で覇業を成しては?」と諌めた。劉淵は「そうだな。しかし覇業と言っても、呼韓邪単于や曹操のやり方じゃダメだ。劉邦でなくては」と言い、劉宣は感心した。

10月、李雄は成都王を名乗り、改元し、法7章を定めた。父の李特へは、成都景王を贈った。巴郡に羅尚は根拠地を移したが、決定打に欠いた。 劉淵は、漢を建国し、「我々は漢の甥。恩愛で民に接する」と宣言して、大勢の胡漢を保護した。
「劉邦と劉秀は立派で、劉備は力が及ばなかったが、よく頑張った」と宣言した。安楽公・劉禅に孝懐皇帝を追尊した。丞相は劉宣。
陳元達は招聘を断ったが「怖くなってなんかない」と言い、仕えてからも毅然とした態度で、諫言も密封した。
サイト「西晋演義」の話の構成をチェック。(6)
■第25集
劉曜は、生まれつき眉が白く、目には赤い光があり、幼い頃から聡明で肝が据わっていた。そのまま引用してしまったんだが、こういう伝説が出てくる時点で、建国者なんだな、と推測できてしまいますね。身寄りがなくて、養子になっていた。
恵帝は、張方に脅かされ、長安に移った。
游楷が皇甫重を攻めた。皇甫重は、急援がないことを知って、降伏した。皇甫重は、『晋書』に列伝があるので、ちょっと注目してみたい人物。
刺史になった張軌が、涼州を平定した。

劉淵が司馬騰を攻めたが、拓跋猗らが助けたので、劉淵が敗れた。
東平王・司馬楙は、司馬越の呼びかけに従って、司馬頴を攻めるのに味方した。兗州刺史になった。劉喬と劉輿は、荊州の劉弘の説得を試みたが、ミスった。この2人の司馬頴側の劉氏も、要チェックですね。劉弘の下の陶侃もチェックです。陶侃は、陳敏の乱を平定した。
■第26集
司馬顒は郅輔に命じて、張方を殺させた。
恵帝が死に、司馬熾(懐帝)が立った。
顧栄は甘卓に「陳敏を討とう」と持ちかけて成功し、建業には琅邪王・司馬睿が、安東将軍・都督揚州江南諸軍事として乗り込んだ。司馬の王導に「現地の名族を尊重しないと、立ち行きません」とアドバイスされ、賀循や顧栄をサプライズで喜ばせた。
石勒は、劉淵に咎められた振りをして、敵である烏桓の張伏利度と仲良くなり、騙し殺して部下を吸収した。

司馬越は丞相となり、荀晞を征東大将軍・開府儀同三司、侍中・仮節・都督青州諸軍事、青州刺史、東平郡公とした。荀晞は青州で人殺しを好み、「屠伯」と呼ばれた。頓丘太守の魏植が、5-6万の流民を連れて叛乱したが、鎮圧された。
308年2月、張軌が病んだ。南陽王・司馬模を巻き込む叛乱の芽はあったが、推戴されようとした秦州刺史の賈龕が辞退した。

■第27集
308年10月、劉淵が皇帝となり、劉聡を車騎大将軍として、養子の劉曜を龍驤大将軍とした。
石勒が、魏郡、汲郡、頓丘を併呑した。
309年正月、漢の都が平陽になった。
3月、司馬越が滎陽から洛陽に入った。中書監の王敦(後に司馬睿を助けるが、叛乱)は、「司馬越も長くないね」とコメントした。
劉淵は、滅晋将軍の劉景が民3万を殺したのを聞いて、激怒した。「オレは司馬氏を討ちたいだけなんだ。零細な民に何の罪があるか」と。
王弥・劉聡が壷関を攻め、石勒も攻め続けた。
劉淵の次に、子の劉和が立ったが、人望がなく、劉聡が継いだ。

司馬越と苟晞は不仲で、周馥は司馬越を侮った。
石勒は「天下を乱したのはお前だ」と言い、司馬越の棺を両断した。洛陽が陥落すると、劉曜は、王弥が劉曜を待たずに攻め入ったことを憎んだ。
王弥は「洛陽は天下の中心です。ここに遷都しましょう」と言ったが、劉曜は「ここま守りにくいからダメ」と、洛陽を焼いた。王弥は怨みに思い、仲違いした。王弥は、劉暾に「青州で割拠すれば宜しかろう」と耳打ちされた。
劉琨は、石勒の母を見つけてやり、「異民族のあんたは、支配者にはなれないが、将軍として尽すがいい」と言った。石勒は「お前の言うことなんか聞けるか」と言ったが、母を見つけてくれた恩には報いた。
劉琨に帰順するものは数千ずつあったが、見限って離れていった。劉琨も『晋書』に列伝があるので、要チェックです。
王浚は皇太子を立てて、天を祭った。荀晞は、石勒に攻められて捕らわれた。

■第28集
王弥は石勒を疎ましく思った。それに気づいた石勒は、王弥を斬った。劉聡はこれを怒ったが、并州刺史・石勒に鎮東大将軍・督并幽二州諸軍事を加えて、宥めた。
■終わりに
だんだん、異民族に話の主体が移っていったので、そろそろサイトを追いかけるのを辞めます。
教訓としては、「ただダラダラ書いても、本当にタイクツだ」というのが、分かったということでしょうか。
AがBを討ち、Cと共闘したが、Dが使者となり、Eを牽制したところ、子のFが立った、みたいな羅列は読みたくない笑

あくまで『三国志』の後日談なので、キャラを絞り込んで、細かい戦の流れというよりは、人間的な個性を重点的に描きたいですね。そして、洛陽が落ち、漢民族の皇帝が終わったという結末は省略してはいけない。異民族の間で、いろんな議論があり、闘争があり、葛藤があったんだろうが、それは『三国志』のテーマではない。。
別に民族和平とか、そんなことを描きたいのではないからね。異なる民族の間に起きた、価値観の摩擦というのも、いいテーマかも知れない。世界史の多くの戦争(っていうか現在進行形の戦争)だって、民族の対立が根底にあるでしょう。
でも、日本で暮していて、歴史を読んでいて、それほど強烈に惹かれるテーマじゃない。なんか、取ってつけたみたいな、ニセモノしか作れないと思うのです。ぼくが書くことではないと思う。

ぼくは漢民族でも何でもないけれど、皇帝という「あるべき論」を打ちたて、その忠実な遂行に苦しんでいった主体として、当時の漢民族たちの動向に共感を覚えるのです。懐帝の降伏に、その興味深い「自殺」を見るのです。
だから異民族は、興味の対象外なのです。無理に漢字に当てはめたような、当て字の名前に、美学は感じないしねえ。
東夷の子孫が何を言ってるんだか笑
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