三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
福原啓郎『西晋の武帝』で西晋末を知る。(3)
■司馬遹の泥酔
299年12月、司馬遹の子の司馬虨が死んだ。せっかく調べたのでメモると、「虨」はヒンと読み、虎+彬(模様が並ぶ様子)ということで、虎の毛皮のデザインを指すらしい。
司馬遹は、可哀想な司馬虨のために王爵を求めたが、却下。しくしく泣いて、祈っていた。それに目を付けた賈皇后は、「親展」と書いた文箱を28日に投げ込み、「天(恵帝)が会いたがっている」と伝えた。ニセの恋文作戦ですね。

翌29日、恵帝に会った帰りに賈皇后のところに寄ったが、待たされた。3升の酒とナツメ大盛を無理やり食べさせられた。
「飲めるか!」と断ると、「親不孝じゃありませんか。せっかく天が賜った酒ですよ。まさか毒だとでも」と陳舞(皇后側のチョイ役)が言ったので、泥酔してしまった。
賈皇后は、賈謐のネットワークを使って、おかしな文書を作った。「皇太子、これを書き写すことが、天の命令です」とか言って、フラフラの司馬遹に書き写させた。しかし、途中までしか書けず、けっきょく代筆した。

天(司馬衷、恵帝)は、自殺するが宜しい。もし出来ないなら、子である私(司馬遹)が、殺してあげましょう。賈皇后も殺しましょう。謝妃(生母)と協力して、一気に行動を起こすぞ。そうすれば、亡き司馬虨(司馬遹の子)は王になれるし、愛しい蒋氏(司馬虨の母)は内主になれる」

30日(大晦日、明日から西暦300年)、バカな恵帝が「皇太子がこんなものを書いたらしい。死刑だ」と言った。賈皇后の陰謀をみんな知っていたが、誰も何も言えなかった。
執政である、張華と裴頠(裴秀の子、「頠」はキと読み、丸い顔の意。危は音符なので意味はない)は反論した。
裴頠は「自筆という証拠がありません」と言ったが、賈皇后が司馬遹が書いた啓事を10枚余り出してきて、証拠にした。日が傾いても結論はでない。そうだろうねえ、いくら本人が書いたとはいえ、内容も分からないくらい酔ってたんだから。しかも後半、代筆だし笑
このままでは、西暦200年代が暮れてしまう!ということで、賈皇后は司馬遹を庶人に降とすことで妥協した。
司馬遹は幽閉され、母(謝氏)と妃(蒋氏)は殺された。

■司馬遹の最期
神経質になった賈皇后は、粗末な服で民間の噂を聞いて回った。賈皇后は、民間のイケ面を連れ込むなど、お忍びの大好きな人だったらしい。背が低く、浅黒いブサイクだったのだそうで。
「ちょっと聞いてよ。皇后を捨てて、太子を戻すんだって」という話を聞いてしまった。太医令の程拠巴豆杏子丸という毒薬を作らせて、宦官の孫慮(チョイ役)に持たせた。
だが司馬遹は絶食しており、食べるときは目の前で調理させていた。
300年の3月22日、あまりに太子が慎重なので、ムカついた孫慮は、トイレに入ろうとする司馬遹を棒切れ(薬を調合する槌)で叩き殺した。助けを呼ぶ声が、外まで漏れたという。23歳だった。。

ポイズンという「文明」的な殺害方法を思いついたのに、けっきょくは撲殺って、あまりにお粗末じゃねえか。これじゃあ、「事件性が濃厚です」と宣伝しているようなものです。
■趙王・司馬倫
司馬リンって言うと、あだ名みたいでちょっと可愛いが、彼は司馬師・司馬昭の弟。まだ、古き強き司馬氏の人材が残っていたのか、と期待するが、どうも違うらしい。
車騎将軍・領右軍将軍で強力な軍隊を持ち、文盲で、貪欲で利害と説けばすぐに味方するというキャラ。
文盲の司馬倫には、ブレーンがいる。孫秀という。

司馬遹が殺される前(300年の1~3月)、宮中の司馬雅と許超(ともにチョイ役)は、司馬倫に「皇太子を救いませんか」と持ちかけた。張燕(黒山の飛将)の曾孫である、張林も味方になった。

孫秀は、太子救出作戦にOKを出したものの、思い直した。
「皇太子は、賈皇后派ということになっている、我がバカ殿(司馬倫)を憎んでいる。皇后を討って、太子が復位しても、別に褒められないんじゃないか」と。
そこで、賈皇后に太子を殺させて、その仇討ちと称して、賈皇后を殺そうと、プランに変更した。こうすれば、太子に嫌われている司馬倫は、予定どおり「賈皇后を討った」という功績を手に入れつつ、かつ太子の妨害を受けない。両取りだ。

孫秀は、賈謐に「太子を復活させようとする動きがある。早く殺した方がいい」とリークした。案の定、撲殺に及び、司馬遹は片付いた。
「もうオシマイやー」と泣いて、司馬雅と許超(やはりチョイ役)は、はかりごとを降りた。

■司馬倫のクーデター
4月3日の深更(真夜中)、宮城の内外で太鼓が鳴り響いた。
午前0時に、決起する約束だった。「賈皇后は、我らが皇太子を殺害した。皇后を討てば、関中侯だ。もし皇后を討たねば、三族みな殺しだ」と、三部(前駆・由基・強弩)司馬に言い渡された。
100の兵は、司馬冏(斉王・司馬攸の嗣子、司馬衷の従弟)に率いられて、突入した。
司馬攸は、司馬炎の同母弟で、無念の病死をしたんだが、賈皇后に因縁はないよね。復讐戦ではなさそうだ笑

司馬冏は、恵帝を東堂に迎えた。「陛下、賈謐を呼んで下さい」と頼み、直筆の詔書で賈謐を呼び寄せた。賈謐は恐慌して「阿后(皇后様=おばさん)、私を救って下さい」と言ったが、切り捨てられた。
賈皇后「ガキが何の用か」
司馬冏「皇后を捕えよ!という詔勅が出たのだ」
賈皇后「バカか。詔勅は私が出すものだ
自ら、王朝を乗っ取ってることを告白しているのがおかしいが笑、賈皇后は諦めない。「陛下には、妻がおります。妻を廃させると、ゆくゆくは陛下も廃されますぞ」と言った。錯乱した戯言のようで、実はこれは大正解なのだが笑、恵帝はよく分かってない。

■賈皇后の最期
首謀者は誰かと聞いた賈皇后に、司馬冏は「梁(司馬肜)と趙(司馬倫)」と答えた。
司馬肜も、司馬懿の子。上の世代の在庫一掃セールという感じだ。清廉で慎み深いのが特徴で、逆にそれ以外に何の才能もなかったが、血筋のため大将軍・録尚書事だった。
「肜」はユウと読み、祭りの翌日の祭りのこと。和やかに楽しんでいる、湯気がホワホワ上がっている様子。ノ×3は、飾りの形象みたいです。名は人柄に投影し、仕事はやれなくても、そこにいるだけで(黙っていれば)恰好が付くというお飾りですね。「祭りの翌日の祭り」という、余韻の引きずりまで一致する笑

賈皇后は、名セリフを吐いた。
「梁と趙だと?あんな時代遅れに謀られるとは。イヌは首で繋いでおくべきだった。それなのに、尾を繋いでしまった(逃げられて当然だ)」
皇后は、錯乱したのか、宮殿の西に駆けた。賈謐の死体を見つけ、声を上げて哭き、立ち止まった。
暴室で拷問され、賈氏の一族・一党は逮捕された。
クーデターの翌日、司馬倫は賈皇后を幽閉し、5日後に金屑酒(ポイズン系カクテル)を賜った。
福原啓郎『西晋の武帝』で西晋末を知る。(4)
■司馬倫の輔政
司馬倫は、式乾殿に重臣を集めて、恨みを晴らした。
張華と裴頠を捕え、三族を殺した。福原氏は、何が司馬倫の気に食わなかったか書いていないんだが。彼らは皇太子を救おうとしていたし、孫秀のセコい作戦を見抜いていたと思ったのか。
司馬倫は、相国・使持節・都督中外諸軍事・侍中になり、外戚の楊駿と同じ地位になった。また、大盤振る舞いをした。どうやら、これくらいしか、人気を取る手段がないらしい。

■司馬允のクーデター
300年8月、司馬允(淮南王、恵帝の弟、驃騎将軍・開府儀同三司・領中護軍)が叛乱した。彼は、沈着・剛毅な性格で、宿営の将兵の畏敬と心服を得ていた。司馬遹が殺されたとき、皇太弟に推す声もあった。死士を養い、司馬倫を倒そうとしていた。
なぜなら、司馬倫が帝位簒奪の異心を抱いていると見抜いていたから。
孫秀は「淮南王を大尉にして、洛陽に呼びましょう(兵権を奪いましょう)」と計画を立てた。
デジャヴがよぎりますねえ。そう、諸葛誕!あのときと比べてみると、司馬昭:賈充:諸葛誕=司馬倫:孫秀:司馬允。
司馬允は詔勅を見たが、孫秀の筆だった。怒って使者2名を切り捨て、「オレに味方する者は左袒せよ」と言った。
「袒」は、着物の袖を脱ぐこと。衣偏に、地平上に太陽が顔を出した「旦」をくっ付けた文字。前漢の周勃が、「呂氏に味方みるなら右袒せよ、劉氏に味方するなら左袒せよ」と言った故事から、皇帝に忠誠を誓うことを指す。700人が、左袒した。

司馬允は宮城を囲んだが、門を閉じられたので、入れず。だが司馬倫は、1000人以上の死者と内応者を出してしまった。承華門の前で弩を斉射し、司馬倫に覆いかぶさって守った臣下の背中に、矢が生えていたほど。午前8時から、午後2時まで戦った。

■司馬允の失敗
恵帝はバカだ。
西晋では、2種類のサインがあった。「もっと闘いなさい」と煽るのが、白虎幡というフラグ。「和せよとの勅命です」が、仁獣を縫い取った騶虞幡というフラグだ。
圧している司馬允を勝たせようとして、恵帝に「戦闘はいけませんよね。白虎幡を遣わしましょう」と提案した人がいた。持って行かせるフラグがあべこべなんだが、恵帝は気づかない笑

「闘え」フラグの使者が、司馬倫の子(汝南王・司馬虔)と仲良しだった。司馬允に勝たせたくない。わざと白紙の詔勅を持ち、司馬允に「詔勅を持ってきました。お助けします」と言って面会を求めた。司馬允は喜び、面会に現れたところで殺された。
逆の逆は順だ。戦闘終結という恵帝の意志は、たまたま完遂された笑

数千人が連座した。孫秀の私刑もドサクサに紛れさせて実行!
藩岳は、孫秀が本籍の瑯邪郡で小役人をしていたとき、太守の子として、孫秀を人間扱いしなかった。それを、ずーっと怨まれていた。
石崇(石苞の子で、金持ち)は、緑珠という菜の笛の名手(愛妾)がいたが、孫秀の横取りを断ったため、このとき殺された。
■司馬倫の即位
孫秀の差し金で、司馬倫に九錫が与えられた。 301年、「倫よ、西宮(皇帝の居住地)に入れ」という司馬懿の神語があった。東宮(本当は皇太子の居場所、空位)で、相国府を開いていた司馬倫は、ラッキー!と即位した。
あの仲達さん、もう神の領域なんだねえ。
司馬威(司馬望の孫、義陽王)はへつらって、恵帝から力づくで璽綬を奪った。同じ司馬さんなのに、禅譲の形式がとられた。陸機(陸遜の孫、陸抗の子)が、禅譲の詔勅を作製したとも言われる。

301年1月9日、恵帝は追い出されて、幽閉先の定番、金墉城(永昌宮と改称)に突っ込まれた。
「墉」は、城壁を設けた城のこと。棒で突き固めた壁が、字形の由来。金城湯池という四字熟語があるから、「金墉」とはガッチガチにガードされた、セキュリティが完全な場所という意味かな。外からの攻撃というより、脱走に備えたプリズンか。

後の祭り=司馬肜が、殷の伊尹が就いた「阿衡」になった。
またしても、官位の大盤振る舞いが行われた。奴卒にまで、爵位が与えられた。貂蝉(高官の冠の飾り)が、座に満ち溢れた。「貂(テン)が足らず、狗尾(イヌのシッポ)が続く」と皮肉られた。急発注に、材料の供給が追いつかなかったのだね笑

■皇太子交代
1月17日、司馬臧(司馬遹の子、濮陽王)が殺された。いちおうこれまで臨海王に封じられて、皇太孫の待遇だった。しかし、司馬倫は即位に成功し、「司馬遹の敵討ち」の建前が要らなくなったので、正統な皇帝候補者は邪魔だった。
都合よく「神」にされてしまった司馬懿も、司馬遹には期待していたが、その子の司馬臧の素質にまで目が行き届くわけもなく、あの世でどう思ってたのかは不明。「懿、昭、炎、衷、遹、臧」だから、秋風五丈原から65年くらいで、もう5代も下の話をしてるのか。感慨深いね。

司馬倫の子、司馬荂が皇太子になった。

■孫秀の「志」
司馬倫が簒奪すると、孫秀は、驃騎将軍・開府儀同三司・侍中・中書監となった。好きなままに詔勅を発行した。
はじめ瑯邪王だった司馬倫と、プライベートに結びつき、福原氏の表現を借りれば、「文才」をいかんなく発揮した。
孫秀の子孫には、東晋で宗教叛乱した、孫恩がいる。本籍の瑯邪は、天師道(五斗米道)が盛んで、孫秀も司馬倫も入信していた形跡があるらしい。共通の趣味どころか、共通の信条を持てば、そりゃキズナも強固だよね。

孫秀は、300年11月7日に、新しく羊献容を皇后にした。
新皇后の父は、楽安郡の孫氏の娘を娶っていた。寒門出身の孫秀と、楽安の孫氏は、血縁はない。孫秀は、名門と「合族」することで、自らを貴族化しようとした。
また孫秀は、子の孫会(背が低くて下品で、一見すると奴僕より劣っている)に、恵帝の娘を娶った。帝室との婚姻も、貴族化の手段。司馬倫から自立しようとしたそうで。

瑯邪郡の名族・王衍は、はじめ孫秀に郷品を求められたが、拒否ろうとした。しかし、従兄の王戎の勧めで、仕方なく郷議にかけてやったという経緯がある。
杜預の子、杜錫に交際を申し出て、断られたこともある。
孫秀は、門閥貴族に対するコンプレックスを持っており、宗室に私的に結びついて、満たされようとした。著しい、上昇志向を生み出した。

■チーム司馬倫の限界
趙王倫の一党はみな邪(よこし)まで阿(おもね)り、ただただ富貴をめざし栄利を求める輩であり、将来に対する深慮遠謀もなく、各人は好き勝手に行動し、ばらばらであり、たがいに憎み妬みあっていた。
引用してみたが、福原氏のコメントは、ボロクソですね。

張林(張燕の曾孫)は、血筋をひけらかし、孫秀と対立した。司馬倫の即位バブルで、衛将軍になれたが開府できず、恨みに思った。皇太子(倫の子、司馬荂)に「孫秀を討ちましょう」と持ちかけたが、倫を経由して孫秀に漏れ、殺された。
ちなみに「荂」はフと読み、枝葉が重なりあう様子を指すらしい。ひとの親らしい、子孫繁栄の願いですなあ。
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