三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
福原啓郎『西晋の武帝』で西晋末を知る。(5)
■三王起義
本そのままなんだが、カッコいいタイトルです。司馬倫の管理キャパを超えた孫秀の暴走に、掣肘を加える3人の王が登場します。
許昌に出鎮した、斉王・司馬冏(司馬攸の子)
に出陳した、成都王・司馬頴(司馬炎の子、恵帝の弟)
長安に出陳した、河間王・司馬顒(司馬孚の孫、炎のまたいとこ)

「冏」は明らかで、遠くまでキラキラ分散して光る様子、鳥が飛び立つこと。「頴」は、穀物の穂先、尖ったものの先、筆の先、他より優れていること。「顒」は、大きな頭、おごそかな様子、ふり仰ぐ・仰ぎ見る様子。
どこまで字義に適った生き様を見せてくれるのか、楽しみ笑
骨肉の争いではあるものの、3人の血筋が微妙に遠いです。恐らく、重要拠点を任された働き盛りということで、実力が伴っているのでしょう。

孫秀は、三王に自派を送り込んで掣肘する一方で、司馬冏に鎮東大将軍・開府儀同三司の特権を与えるなどして、硬軟両用の対策を立ててきた。
だが、賈謐を殺して賈皇后を捕えたのに、許昌に追い払われていた司馬冏は、納得していなかった。「趙王を誤らせた、孫秀をシバケい」と、全国の征・鎮や州に号令した。孫秀が送り込んでいた部将も斬った。
301年3月、司馬倫が即位してたった2ヶ月での、暴発だった。

■王たちの反応
鄴の成都王・司馬頴には、盧志という参謀がいた。盧植の曾孫。
彼が、「司馬冏さんには、応じるべきです」と説いたので、兗州刺史、冀州刺史を連れ出して、朝歌に20数万で駐屯した。

司馬冏のお手紙は、長沙王・司馬乂にも届いた。楚王・司馬瑋の同母弟なので、常山国に封じ込められていたが、司馬頴の後続になった。
この「乂」という字は、張郃のあざなで初めて知ったが、伸びた草を刈り取る、余計な部分や悪いところを切り捨てて形を整える、という意味。ハサミのシルエットから来ているらしい。

荊州の新野王・司馬歆は、扶風王・司馬駿の子で、武帝の従兄。どっちに味方すべきか、迷っていた。
「司馬倫は親しくて強く、司馬冏は疎遠で弱い」と言う人があれば、「親しさや強さで決めてはいけない。凶逆な司馬倫をともかく討つべきだ」と言う人もいる。司馬冏に味方することを決めた。
強弱じゃなくて、正邪を根拠にして、軍事的なジャッジを下して大丈夫なのか?という気もするが笑
「歆」は、お供えやご馳走を喜んで受け容れる、むさぼる、受け容れたいと願う、ほしがる、ショックを受けた感じがする、などの意味。すごくパッシブな印象のある名前で、逡巡した生き様にピッタリ。

長安の河間王・司馬顒ははじめ、司馬倫に味方した。
司馬冏に呼応した太守を腰斬にし、司馬冏の使者を司馬倫に送り、部将の張方を司馬倫の援軍に送った。
だが、司馬冏が優勢と聞いて、張方を呼び戻した。

■孫秀の迎撃
司馬冏に対して、孫輔(孫秀の子)らが率いる24000を向わせた。司馬頴には、孫会(孫秀の子)に30000を向けた。司馬倫の子らが率いる8000を後詰にした。
司馬倫と孫秀は、昼夜とも祈祷・厭勝(敵を負かすおまじない)をやり、羽衣を来た周代の仙人を召還して、自派の永続を陳べさせた。
遊んでいる場合ではないのだが、いかんねえ笑

しかし意外にも、司馬倫の軍は強い。約束が違う。
河南では、孫秀側が陽翟を拠点とし、頴陰の司馬冏と一進一退を演じた。閏3月から4月まで、泥沼化した。
河北では、司馬頴が黄橋で敗れて、10000超を斬られた。軍は恐慌をきたしたが、盧志は「まだ負けたわけじゃありません。ムチャを駆けして、精鋭で不意を突きましょう」と言った。
湨水ノ戦ではじめて三王側が勝ち、黄河を渡って、洛陽に迫った。

■司馬倫の最期
孫秀は、自分のやってきたことが分かってるので、中書省から一歩も出なかった。湨水ノ戦で負けたことを聞くと、ドキドキして何も手につかなくなった。逃げ場所ばかりは、ポンポン思い浮かぶのに、それじゃダメなことも分かっていた。
4月7日、尚書の営兵700が突入し、宮中の三部司馬も裏切り、孫秀たちは殺された。司馬倫は「ごめん。恵帝(司馬衷)に返すよ」と言い、騶虞幡を掲げた。間違えたら命取りだが、さすがに間違えない笑
皇帝を降りた司馬倫は、「田舎に帰って、田畑を耕し、しわしわのおじいちゃんになって、孫に囲まれて死にたいの」なんて言ってた。だが、4月9日、後の祭りの司馬肜が、司馬倫に死を賜った。
司馬肜は、賈皇后を討ったとき司馬倫と組み、「シッポを繋いでしまった脱走犬」と言われた。クーデター後、またジミ道に邁進した。でも、一族の落とし前だけは付けたようだ。

■司馬衷復活!
4月9日、恵帝が再即位し、大赦した。せっかく道を正したのに、戻ってくるのはアンタかよ、というツッコミを入れたいが。

最大の功労者・司馬頴がこの日に洛陽に入った。4月15日に司馬顒が長安から到着。恵帝は、「三王、お疲れさん」と言った。
河南でベトナム戦争をしてた司馬冏は、司馬頴の助けをもらって残党を掃討し、6月2日に到着した。60数日で、10万の死者を出してしまった。乱世でもないのに、国の損失だよ。
5月、司馬威(司馬望の孫)が誅殺された。バカ恵帝も「アイツは、ボクの指をネジって、璽綬を奪った。殺さずにおられるか」と、ひどい憎悪だった。指を捩って、取り合いのケンカをするなんて、大人ゲないねえ。皇帝権力って、そうやってガキみたく取り合うものだったか。

司馬冏:大司馬・九錫(起義を提唱したからエラい)
司馬頴:大将軍・九錫(盧志の助言で、戦功第一)
司馬顒:大尉・三錫(はじめ敵だったし、血筋も遠いし、2人より下)
やめとけばいいのに、対等なトップを2人も作ってしまった。波乱含み。。

■対立を煽るトリマキ
鎮南大将軍・都督荊州諸軍事になった司馬歆は、司馬冏と同乗して、余計なことを吹き込んだ。司馬歆は、例の受身さんです。
「司馬頴は、至親(恵帝の弟)で、大勲(湨水ノ戦)を建てました。彼に全て任せるか、彼から兵権を奪うか、2つに1つですよ」と。また、煽るような、しかもやらなくていい二者択一を迫ってくれたものですよ。

長沙王・司馬乂は、弟の司馬頴に吹き込んだ。「武帝の偉業を、維持して治めるのは、キミだからな」と。
司馬乂と司馬冏は、ともに司馬炎の子だ。司馬炎は、司馬冏の父である司馬攸を憤死させた。チャンスを掴んだ弟に「叔父の家とは、父のときから仲が悪い。従弟に負けるな」と吹き込んでるだけ。
福原啓郎『西晋の武帝』で西晋末を知る。(6)
■司馬冏の勝ち、司馬頴の負け?
盧志は、アンバランスを嫌って、司馬頴に帰藩を提案した。
「ライバルの司馬冏は、軍事的にショボショボでした。焦ることありません。いま太妃様(司馬頴の生母)が病気ですから、一旦は鄴に帰って、様子をみましょう。衝突しても、碌なことがありません」と言った。
司馬頴はイカニモと思い、恵帝に「万機は、司馬冏に任せます」と言って、洛陽を去った。
嬉しすぎるものの、逆にビックリした司馬冏は、せっせと追いかけた。司馬頴は、あえて時事に触れず、ただ「ママが死ぬかも知れないのー」と泣きまくった。真心はある人なんだ。

司馬頴は文盲だったが、盧志のプロデュースは完璧だった。
九錫を辞退し、「起義に参加した功臣を公侯に」と提案した。
「司馬冏が持久戦したので、困窮しています。15万石を運び出して、賑恤したいです」と言い、「司馬冏が負けた黄橋ノ戦の戦死者を祭れ」「遺族を2等引き上げろ」「14000を埋葬せよ」と命じた。
誠意に溢れる対応なんだが、どれも司馬冏が泥沼戦争をやってしまった醜態を、強調するような施策ばかりに見えます。「冏さんが、無能な戦いをするから、こんなに民が困っているんだ」と。

結果オーライで、司馬冏は政治を総攬した。
呉郡の張翰、孫恵、顧栄ら名士を辟召し、許昌からの同志に禁軍と枢機を任せた。「五公」というお気に入り部将で固めた。

■司馬冏の軋み
8月、司馬冏の兄の司馬蕤(東莱王)が庶人に降された。酒乱で司馬冏を批判し、狂暴で、陰謀を巡らせていたらしい。弟がトップになっちゃったら、複雑だよねえ。
「蕤」は、草木の花や葉がしなやかに垂れ下がる様子、冠や旗から垂れ下がった飾り。生活も、ぐでーんとしてたんだろう笑

司馬伷の子、司馬澹(東武公)が不孝なので遼東に流され、弟の司馬繇(東安王)が配流先からカムバックした。ほぼ誰も覚えていないが、司馬亮が楊駿を討ったとき、好き勝手に賞罰をやっちゃった人だ。
また、孫秀を直接殺した王輿が殺された。

302年3月、皇太孫・司馬尚が死んで、恵帝の子孫が耐えた。
恵帝の筋がダメなら、司馬頴を皇太弟に!というのが自然な流れだ。
わずかに傍流の司馬冏は、ライバルに出てこられては都合が悪い。適当な代打を立てて、太子太師も自分で兼ねた。
代打は、司馬覃(恵帝の甥。清河王・司馬遐の子)で、まだ8歳。
司馬冏は上り詰め、大リフォームをし、天子並の住まい・楽団を率いて、遊びまくった。1年以上も入朝しなかった。ニセ皇帝になった司馬倫とそっくりだった。

南陽郡の在野の鄭方は、司馬冏の「五欠」を批判した。
 1)司馬冏はゼイタクしすぎだ。
 2)宗室の中のゴタゴタが見苦しいぜ。
 3)異民族の侵入、手を打ててませんが。
 4)長期戦で疲れた民を補償しろ。
 5)好き嫌いで、論功行賞するな。
司馬冏は「あなたがいなければ、過ちを耳にしなかった」なんて言ったが、反省しなかった。
陸機は司馬頴のところにいて、「豪士賦」を作った。時勢に乗っただけの司馬冏は、身の程を知れ!という内容だった。
嵇紹(嵇康の子)、孫恵、曹攄、江統、王豹、張翰、顧栄らは、言ったり言わなかったりだったが、司馬冏を批判した。
それにしても、あれだけ惜しまれて死んでしまった司馬攸の子が、こんなことになってしまうとは、残念です。司馬衷じゃなくて司馬攸が継いでいたら、西晋の寿命はもしや?と思っていたけれど、どちらにしろ、同じだったのかも。次代に用意されているのは、やさぐれる司馬蕤か、驕慢な司馬冏か。その辺なんだから。

■司馬冏の死
もうこのパターンは飽きてきたんですが笑
洛陽には、翊軍校尉・李含がいた。長安の司馬顒の懐刀だ。彼が、司馬冏の配下と対立したので、いそいそ長安に帰って、司馬冏を倒す作戦を提案した。
「洛陽にいる司馬乂に檄を飛ばせば、彼は(弟可愛さに)司馬冏を攻めるでしょう。しかし司馬冏の方が強いから、返り討ちに遭います。司馬乂殺害の罪で、司馬冏を討ちましょう。どうです?手が汚れず、諸王の支持が得られる、2段作戦です」

司馬顒はOKでした。ろくでもないのに、、
恵帝に「司馬冏を、諸王の兵10万で挟撃します。まずは司馬乂に命じ、司馬冏を私邸に引き下がらせて下さい。代わりに、(対等なトップだった)司馬頴に輔政させてはいかがでしょ?」と上表した。
李含を都督にして、洛陽に進ませた。合わせて、使者を司馬頴に送った。盧志は「お辞めなさい」と言ったが、司馬頴は「やっと雄飛のとき!」と、乗ってしまった。

12月22日、司馬顒の上表が届いた。見た司馬冏は「どないしよ?」と諮った。
尚書令・王戎は、「謙譲して、大人しく私邸に還れば、後難はありません」と言った。だが司馬冏の私党が、「漢魏以来、トップに上り詰め、穏便に引退できた人など居たか?そんな議論をするなら、斬る!」と反発した。百官は黙り込んだ。
王戎は「お薬の時間ですよってに」と席を立って、トイレから逃げた。

李含は京兆郡陰盤県に駐屯し、張方(かつて司馬倫に援軍しようとして、方針転換で引き返した将軍)率いる20000を、洛陽から西に120里(48キロ)の河南郡新安県に進めた。
張方の陣から司馬乂に、檄を飛ばした。
司馬冏はただちに司馬乂を攻め、司馬乂も慌てて宮城内で応戦した。千秋門と神武門が焼け、3日で死者2000人を出し、恵帝の目の前にも火矢が飛び、郡臣が枕を並べて死んだ。

司馬冏が負けた。李含の当初の予想と違うじゃん笑
縛られた司馬冏は、縛られて引っ立てられながら、何度も恵帝を振り返った。恵帝は「やっぱり助けろ」と言いそうになったが、司馬乂が大声で叱責したので、言い出せなかった。
司馬冏は、朋党ともども斬られた。確かにキラキラっと煌いて、あちこちに光を照り返したが、

■司馬乂の奮闘
また、勝者が死ぬんですか。
驃騎将軍・司馬乂は、大人しく司馬頴の指示を仰いだ。
ただ、自分を殺そうと陰謀を巡らす李含を許せず(正当防衛)、李含を河南尹にして招き、殺した。幾重もの害意も、司馬乂のハサミにかかれば、チョキンと刈り取ることができるのだ。強い。
李含の糸を引いていたのは、もちろん司馬顒。司馬顒は「オレの可愛い李含を、よくもぉお」と口実を見つけ、司馬乂を攻めた。
また司馬頴は、「司馬乂はいい心がけだが、お前が洛陽にいたら、思いどおりにならねえよ」という弱い理由で、司馬乂を攻めた。

司馬顒は、張方70000を函谷関から出す。司馬頴は、陸機200000を朝歌県から進めた。この軍容の盛大さは、漢魏以来初だった。
8月24日、先端が開かれた。だが司馬乂、強い。洛陽を東西から挟み撃ちなのに、負けない。
10月8日、建春門ノ戦で、司馬乂の将軍は馬に矛を括りつけて数千で突撃した。陸機の戦死者は川を堰き止め、陸機は処断された。
張方は、遠くに乗輿(皇帝)を見て尻込み、5000人以上を失った。11月、ひそかに作った塁壁から攻め寄せたが、洛陽は落ちない。張方が、堤防を切ったので水車が止まり、穀物の値が高騰した。
司馬乂は、70000を斬獲した。そんな中でも、恵帝には奉上ノ礼を欠かさず、糧食が減っても士気は衰えなかった。
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