三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
福原啓郎『西晋の武帝』で西晋末を知る。(7)
■司馬乂の死
何だか、予想を裏切って、強い司馬乂。
念のために確認すると、恵帝の弟で、楚王・司馬瑋の同母弟だ。司馬瑋は、「お前は乱暴者だから」と自分を遠ざけた司馬亮と衛瓘を、賈皇后の差し金で殺した。しかし、報いてくれるべき賈皇后に21歳のとき殺された。強いけど、浅慮だった人。

さて司馬乂ですが、洛陽城内で捕えられました。守りにくくて仕方がない洛陽で、ここまで防禦戦を熱心にやった例を、後漢末以降ぼくは知らないんだが、残念な幕引きです。

304年1月25日、司空・領中書監の東海王・司馬越が、殿中の軍(三部司馬)を使って、深夜に司馬乂を拘束した。免官され、例の金墉城に連れ込まれた。奪還を図る動きがあったので、28日、司馬越は先手を打った。
「張方さん、金墉城の司馬乂、捕えるチャンスですよ」と吹き込んだ。張方は、司馬乂を焚き殺した。寃痛は響き渡り、敵であるはずの張方の兵も泣いた。まだ28歳だった。
福原氏が使っている「寃」ですが、冤罪のエンの異体字で、無実の、理由なく押し付けられた、屈従を強いられた恨みの、などの意。囲いの中に無理やり押し込められたウサギが字の由来。

■司馬頴の繁栄
このサイクルは、もう飽き飽きなんですが、史実なんだから仕方がない。なんだが、未成熟の20代・30代の若者達が、血筋ゆえにいきなり大きな権力を握らされ、持て余して滅びて行くようにしか見えません。
八王の享年を並べてみたい。あとでやりましょう。

3月8日、司馬頴は、孫秀(司馬倫の参謀)が立てた、羊皇后を金墉城に幽閉し、司馬冏が立てた皇太子・司馬覃を清河王に下げた。
立太子のとき字典を引かなかったが、「覃」は、ずっしりと下の深い、のびる、遠くに広がって行くという意味。
下半分の「早」みたいな字は、もともとは「高」をひっくり返したものだった。「高」をひっくり返したから、下に広がるということ。名前的には、こんなところで廃されちゃダメなんだが笑 ※伏線です

3月11日、司馬顒が上表した。司馬頴を、丞相・都督中外諸軍事のまま、皇太弟に冊立。司馬顒は、太宰・大都督・雍州牧に進んだ。
恵帝の子孫は絶えたんだから、司馬顒が次ぎの皇帝を約束されるのは、自然なことで。司馬冏が曲げただけだもんね。

司馬乂の残党が、冀城に残っていたが、305年までかかって、司馬顒が片付けた。
今まで、チョイ役かと思って名前は出してなかったけど、皇甫重・皇甫商の兄弟で、司馬冏から司馬乂に乗り換えた人。亡き李含が対立していたのも、こいつら。皇甫嵩と同郷なんだが、関係性はよく分からん。

■陸機の死の背景
陸機は、司馬頴の都督だったわけですが、司馬頴の下の2つの派閥争いに巻き込まれて死んだ。「敗戦の責任を取って」なら分かりやすいが、話はそう単純じゃ、なかった。
これが、チーム司馬頴の限界を、早くも表しているそうで。しかし、芸人よりサイクル早いなあ。

1つは、宦官と士大夫。
司馬頴が寵愛する宦官・孟玖が「オレのオヤジを、邯鄲令にして」と分を超えたワガママを言い、陸機はそれを止めた。同じ幕下の盧志でさえ、必要悪だと思ってスルーしてたのに!
また、宦官・孟玖の弟が10000を率いる小督のくせに、軍律に背いた。自軍の兵に掠奪を許すとか、軽装の兵で突っ込んで、勝手に討ち死にするとか。死ぬのは自由だが、陸機は逆恨みされた。
牽秀(魏の牽招の孫)は、宦官・孟玖に媚びる奴で、「陸機が、司馬乂に勝てないのは、敵に通じて手抜きをしているからです」と言った。

2つには、南北の士大夫の対立。
陸機は、河北の盧志(盧植の曾孫)と、仲が悪かった。呉郡出身の陸機は、中途入社組だ。
あるとき盧志が、陸機に聞いた。「陸遜・陸抗とは、キミの何になるのかね」と。祖父・父の諱を故意に呼び捨てるのが、致命的なマナー違反だとは、ぼくですら知っている笑
これに対する陸機の答えは、「卿(あんた)の、盧毓・盧珽のようなもんだよ」だった。悪口には悪口で、皮肉たっぷりに応酬してやった。
後から、弟の陸雲が「今のは、オトナ気なかったんじゃないか、兄上。本当に知らなかったのかも知れない」といった。
だが陸機は目を吊り上げて、「わが父祖は、海内に名が響いている。知らないわけない。鬼子(化け物の子孫)め、ワザと呼び捨てやがって」

陸機のところに、牽秀がやってきた。陸機は観念して、鎧を脱いで白い着物に代えた。「故郷・華亭の鶴の声を、もう一度聞きたいものだ」と呟いた。牽秀は、陸機とその子はもちろん、弟の陸雲も殺した。
江統らは「陸一族を、不確かな証拠で殺してはいけません」と、額から血を流して諌めたが、司馬頴はやめなかった。なぜなら、孟玖や盧志が「殺ればいいのに」と言ったから。
公正な判断ができて、清廉なイメージを放っていた盧志ですが、けっこう私情に走るね。「私権化」がキーワードの、時代のせいだろうなー

■蕩陰ノ戦
304年7月1日、洛陽で北伐軍が編成された。
謀主は東海王・司馬越。彼は、洛陽を超人的に守る司馬乂を、内側から捕えた人だ。こんどは、鄴にいる司馬頴を討つことにした。 血筋が少し遠く、司馬懿の弟・馗(季達)の孫だ。
3月4日、司馬頴の部将として洛陽に駐屯していた、石超(石崇の子)は、鄴へ逃げ帰った。
司馬越の軍は、魏郡安陽県に来たとき、100000を越えた。光武帝以来、河北から攻め下ることはあっても、洛陽から出て行く例はないから、どんな戦いになるか楽しみですよ笑
司馬越は、恵帝まで連れ出して、北伐を始めた。司馬昭と同じ手法だ。福原氏は触れていないけど、長安にいる司馬顒に、恵帝を持っていかれるのを警戒したのだろう。

司馬繇(例のお調子者キャラ)は、「ご親征に歯向かうのは、ダメです。縞素(白絹の喪服)で、天子をお迎えしましょう」と言った。だが司馬頴は、石超50000に迎撃させた。
後日談だが、優勢になった司馬頴に、「あのとき降伏しろって言っただろ」と怨まれて、司馬繇は殺されます。いいねえ。

3月24日、石超が蕩陰で、司馬越を急襲した。
従軍?してた恵帝までヤバくなり、嵇紹(嵇康の子)が鎧も着けずに、覆いかぶさって守った。恵帝が「忠臣だ。殺すな」と言ったが、「陛下以外は、全員殺せとの命令だ」と兵士が切り付けた。嵇紹の血飛沫が、恵帝の衣に飛び散った。
3月25日、鄴城に入った恵帝だが、衣を洗うことを許さなかった。これは、司馬頴に対する、無言の抗議なのだね。恵帝なりの。
福原啓郎『西晋の武帝』で西晋末を知る。(8)
■司馬頴の盛り返し?
司馬越は、しょぼーんとして、司馬楙(司馬望の子、東平王)を頼ったが、下邳に入れてもらえなかった。
夏侯惇の不肖の息子で知られている「楙」の字ですが、木が盛んに成長する、茂る、という意味がある。面白いのが、ボケ(バラ科の落葉低木)という植物名にも宛てられていること。そうそう、いかにも夏侯楙は、ボケだった笑
司馬越は、封国である東海に帰った。司馬頴に、「あなたは人望がある。出てきて、私を助けてくれないか」なんて言われたが、気まずいこと至上なので、断った。
瑯邪王の司馬睿は、叔父の司馬繇が殺されるのを見て危機を感じ、逃げた。関所は「高貴な人物を通すな」と封鎖されていたが、従者の機転で切り抜けた。福原氏じゃなくても、安宅関を思い出すよね。
この司馬睿は、のちの東晋の初代皇帝です。苦労したんだ笑

■そのころの洛陽
司馬越の同志たち(司馬乂の故将を含む)は、留守の洛陽を、司馬覃を皇太子にして守っていた。やっと、しっかりと根を張るべき、司馬覃の捲土重来ですよ。長続きするかなあ笑
司馬乂の故将が好き勝手に掠奪するので、彼らの内部で対立を深めた。敵は外なのに。

彼らが怖れていた長安の司馬顒は、右将軍・馮翊太守の張方(また出てきた)に20000を預け、司馬頴の援軍に向った。
しかし、恵帝が鄴に入った(司馬頴が勝った)と聞いて、洛陽に入城した。司馬越側の留守番係は、大敗した。再び、羊皇后と司馬覃が廃された。無念。。
■反則技=異民族
寧朔将軍・持節・都督幽州諸軍事の王浚が、やっちゃいけないことをやる。魏の王淩と紛らわしい名前ですが、それはいい笑
「浚」は、水の底を掘って深くさらう、すらりと縦に穴や水を通す、さらえるように物を奪い取る、水が深い、の意。 悪い意味もあるんだが、彼の振る舞いはそっちだ。漢民族から、中原ををさらいとってしまった。。

王浚は、薊県にいたが、三王起義の召募にはシカトを決め込んだ。幽州だけは、独立静観するよーという態度だった。
司馬頴は、三王の勝者なので、王浚の態度が気に食わない。それはよく分かる。いつか王浚を殺そうと思い、和演(チョイ役)を幽州刺史にして送り込んだ。ダブル刺史作戦は、袁紹・袁術が好きだったが、その再現だ。しかし、和演は返り討ちにされた。

王浚は(ここからが反則なんだが)鮮卑の段務勿塵、烏桓の羯朱と協力した。并州刺史の新蔡王・司馬騰も味方にした。北方で、そもそも洛陽から自立しようとする動きか。

■鄴の陥落
司馬頴は、王斌と石超に迎撃させたが破れ、王浚の斥候の騎馬が顔を出すと、鄴は恐慌をきたして陥落した。司馬頴の母・程太妃が「離れたくない」と言っているのに付き合っているうち、みるみる配下が逃げてしまった。わずか数十騎で、恵帝を抱えて洛陽に落ち延びた。宦官から財布を借りて、飢えを凌ぐほどだった。
8月16日、張方(司馬顒の臣下)が守る洛陽に入った。
烏桓の羯朱が、司馬頴にギリギリまで迫ったが(=恵帝のクビも危うかったってこと?)何とか逃げた。

鄴に入った鮮卑が、婦女をつかみ放題。「女を隠したら斬る」と言い、それでも嫌がった8000人が易水に沈められた。漢民族が、鮮卑を御しきれなくなって女を奪われるなんて、次の時代の伏線みたい。

■洛陽を放棄
司馬頴・恵帝が洛陽に来たものの、駐屯が長引くと、剽掠を尽し、軍内部も喧喧囂囂という状態。
張方はイヤケが差して、11月1日、兵士を率いたまま入殿し、恵帝に「洛陽にこれ以上いても、しゃあない。うちの軍で保護してあげます」と言った。保護というか、拉致だ。
恵帝は後園の竹林に隠れたが、兵士が探し回り(子供かよ)シクシク泣いてる恵帝を、張方がしょっぴいた。後宮も収奪の対象になり、魏晋以来の宝物が全て吐き出された。せっかく曹操が復興したのに、またリセットですよ。これにて、ぼくの『三国志』の後日談が終わってしまった感があります。
張方は、返顧の念を断たん(未練になりそうなものは、残さない)と、宗廟と宮殿を焼き払おうとした。しかし「董卓と同じことをしたら、100年過ぎても怨まれますよ」と盧志が止めて、思いとどまった。そういえば、董卓が洛陽を焼いたのが190年だから、100年以上経ってるんだね。

恵帝は、張方の陣で3日過ごし、長安に向った。長安の征西将軍府を行宮にした。カラになった洛陽では、尚書僕射の荀藩(荀勖の子)らが、承制行事(皇帝代行)として、山東を管轄した。長安の西台、洛陽の東台と号した。

12月24日、街のイルミネーションが綺麗で、司馬頴は皇太弟を剥奪されて、司馬熾(予章王、恵帝・司馬頴の弟)が皇太弟になった。
司馬炎の兄弟で生きているのは、他には司馬晏(呉王だが、凡庸くん)だけ。男子は25人いたのに、惨いことだ。消去法で、温和で学問を好む、司馬熾が選ばれた。
司馬頴・司馬顒は、司馬越と和解したかったので、司空から太傅に進めた。もう分立は辞めて、司徒の王戎と朝政を統べませんか?というお誘いだ。しかし、司馬越は「遠慮しますー」と言った。

■司馬越の挙兵
いよいよ八王の乱も終息に向います。
305年7月、司馬越は「長安の恵帝を、洛陽にお迎えせよ(司馬頴と司馬顒を干せ)」と檄を飛ばした。
自らは、司馬楙(司馬望の子)から徐州都督を奪い取り、兄弟で山東を席捲した。つまり、并州は司馬騰、青州は司馬略、冀州は司馬模の方鎮に拠った。また、豫州(許昌)の司馬虓(司馬越の従弟)、幽州の王浚も味方してくれた。
長安に皇帝がいて、虎牢関で東西で対立するという、董卓VS袁紹が再現された。
惜しむらくは、呂布役がいないことかな。華がない。

305年8月、司馬越は、瑯邪王・司馬睿を下邳に置いて、平東将軍・監徐州諸軍事として本拠地を預け、30000を率いて沛郡に進駐した。
長安側は、鄴と洛陽に軍を遣り、張方を大都督に精鋭100000を与えた。山東に食い込んでいる豫州刺史の劉喬が長安側に味方し、許昌の司馬虓は敗れて、豫州を追われた。長安側の勝利かと思われたが、、

司馬虓は冀州で、王浚から鮮卑・烏桓の突騎を借り受け、形勢を逆転した。反則技だ。石超が攻殺され、劉喬の子も殺された。主力だった劉喬の軍は、壊滅した。
長安側は、洛陽と滎陽のみを残して、関中に閉じ込められた。司馬越は、鮮卑・烏桓を先鋒にして、洛陽に迫った。

こういうとき、局外中立してイニシアティブを握るのは、劉表がいた荊州。鎮南大将軍・都督荊州諸軍事の劉弘は、双方向に書簡を送った。いやらしいね。しかし、調停に失敗。
張方が残忍暴虐なので、司馬越の味方すると、旗幟を明らかにした。
もうそろそろ、結末が近い感じですね。
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