福原啓郎『西晋の武帝』で西晋末を知る。(9)
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■張方の死
チョイ役だと思ってナメていましたが、ここまで司馬顒の手足となって、張方はよく働きました。『演義』で活躍する張苞(張飛の子)と同じ読みなので、ファンは付きにくそうだけどね。
福原氏の評価では、司馬倫の孫秀に比せられる。寒門出身ながらも、必死こいて宗室と結びついて、地位向上に成功した人として。
たびたび司馬顒と司馬越の間で、和平工作があった。荊州の劉弘もやったし、劉喬の敗北の後には、長安側から切実に行われた。
しなみに前出の劉弘ですが、306年8月に襄陽で死んでしまった。さんざん日和見して、肝心なときに自分だけラクになるところまで、劉表譲りかよ!と突っ込みたくなる笑 どこの劉氏かと思えば、曹操のとき合肥をゼロから建設した、劉馥の孫だったみたい。失礼しました笑
さて、急進派として攻めまくってきた張方は、どのルートから和平が成っても、自分が不利になる。腕一本でせっかく偉くなったから、執心も凄かろう。だから、縁談を潰してきた。
また幕下には、張方と同郷&張方より家柄が上&役職が下という、いかにも嫉妬して讒言して下さい!と言わんばかりの人材がいた。ステレオタイプだわ。畢垣(ヒツエン)という名前だけメモっておきますが。
司馬顒は「なんか邪魔になってきたんだよね」と、張方を殺して、司馬越に首を送った。「悪いのはコイツ。だから許して」という、シッポ切りをやったのです。だが司馬越は「もうオレが勝ちそうなんだから、和平とかウザくね?今さらセコくね?」と、却下した。
張方は無駄死にし、強い将軍を失った長安側は、風前の灯火。
■司馬越の輔政
306年5月7日、潼関が突破され、司馬顒の長安城は陥落した。鄴の悪夢が再来し、鮮卑が長安でも掠奪し、漢民族20000を殺した。
5月14日、恵帝は牛車でトロトロ出発し、6月1日に洛陽に帰還した。
司馬顒の残党が長安を奪い返したが、安定太守の賈疋(賈詡の曾孫!)が奪い返した。牽秀(司馬頴の下で宦官に媚び、陸機を殺した奴)は殺され、関中は司馬越に完全に帰した。
8月、新人事が発表された。
司馬越は、司空から太傅・録尚書事に進み、恵帝を補佐。鄴は司馬虓に任せ、許昌は司馬模が出鎮した。
王浚は、驃騎大将軍・都督東夷河北諸軍事・領幽州刺史として、軍閥化した。黄河より北は、その先の朝鮮半島や日本列島を含めて、異民族の調教が上手なあんたのもんだ!という恩賞です。
竹林七賢の後継者を自任する、老荘思想にかぶれた名士がたくさん招かれた。
劉輿(魏の侍中・劉廙の孫)は「脂染みだ。近づくと汚れます」と酷評され、朝廷から外されたが、オンリーワンの職能を見せ付けて、左長吏に就職した。「あんたがいないと、仕事が回らん」と言わせた者が勝ちだ。興味深い人だね。『晋書』32巻の列伝を読んでみたいなあ。
■司馬頴の死
八王ノ乱の総決算が近づいてきました。
司馬頴は、母と妻を捨て、2人の子と関中から逃亡した。劉弘(劉馥の孫)の死で混乱する荊州に逃げたが、捕らわれて司馬虓に送られた。
306年10月、司馬虓が急死したが、劉輿(魏の侍中・劉廙の孫)は喪を伏せて、司馬虓から詔勅ということにして、司馬頴を斬った。
司馬頴「私が死んだ後、天下は安定するだろうか」
獄吏「・・・・・・」
司馬頴「皇太弟から降ろされて3年経つが、からだや手足を洗っていない。お湯を持ってきてくれ」
彼は手足を清めると、東を向いて横になり、縊殺させた。司馬乂と同じ28歳だった。八王たちは、揃って若いよなあ。盧志が、遺体を収容した。
■恵帝の死
バカな司馬衷こと恵帝が、死にます。
306年11月17日、餅(むぎもち)を食べて中毒を起こし、翌日に顕陽殿で死んだ。48歳だった。
福原氏は、司馬越が梁冀みたく毒殺したんじゃないかと言っている。司馬氏は短命の家系じゃないので、あり得る。 「恵帝が暗愚だから、戦乱が続いた。だが暗愚ゆえに、恵帝本人は生き続けた」というのが、福原氏の評価。
福原氏の行間を読み取れば、この暗殺は司馬越の世直しということか。恵帝さえ死んじゃえば、輔政を巡って骨肉相食まなくて済むというジャッジだろう。また、事実、歴史はそうなるのです。
恵帝さん、孫たちが殺されて絶えるところまで見届けたんだから、もう大往生だと言ってもいいと思うんだが。
306年12月28日、西南近郊の太陽殿に葬られた。
■司馬顒の死
長安で余喘を保っていた司馬顒は、「司徒にしまっせ」と誘われて、南陽王・司馬模(司馬越の弟)に殺された。112月18日だから、恵帝の死から丸1ヵ月後だ。司馬顒の3子も、その場で扼殺された。
三王がここに片付き、八王ノ乱は終焉した。福原氏は、政権を担う人物が輿論の人物評価と乖離している状況だったと分析している。
身内の殺し合いを追いかけ終わったね!あー疲れた!
■懐帝の即位
司馬熾、あざなは豊度。武帝の第25子で、恵帝の異母弟。
母は王氏だが、子を失った2人目の楊皇后に養われた。284年生まれで、289年に予章王になった。304年12月に皇太弟になり、306年11月に即位した。まだ23歳なので、まだ未来が期待できる。
大騒ぎしているから、すごく時代が過ぎた感じがするけど、武帝が死んでから14年しか経ってないんだ笑
ちょうど100年前の、190年(虎牢関ノ戦)から204年(曹操の鄴平定)まででも、こんなにモメたっけ笑
■司馬覃の抵抗
深く根を張る男、司馬覃。まだ消えません!
恵帝の皇后・羊氏(孫秀が300年11月に立てた)が、次の皇帝選びについて抵抗した。 「私が皇太后になって権力を握るには、1世代下の子が即位してくれないとダメなの。先帝の弟が即位するなんて、聞いてないわ」と。そして、司馬覃を推した。がんばれ。
しかし、侍中の華混(チョイ役)が「お腹いたた」と言って引っ込み、裏手から司馬覃の即位の芽を摘んでしまった。
恵帝が死んで3日後の11月21日に、懐帝が即位。羊皇后は、恵皇后と称され、弘訓宮に遷った。すなわち、皇太后になりそこねた。どうしても欲しかった皇太后の称号は、懐帝の亡き母・王氏に与えられた。死人に権勢なし。ナイス回避。
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福原啓郎『西晋の武帝』で西晋末を知る。(10)
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■胡の動向
当時の非漢民族は、3つの存在形態をとった。
1)周辺に居住し、侵寇や交易で関与してくる。
2)内側に居住するが、あくまで地理的に取り込まれただけ。
3)討伐されたり、服従したりして、内地に移住した。雑居。
内徙の異民族のために、護(使)匈奴中郎将、護羌校尉、南蛮校尉などが置かれ、保護・監視した。都督や刺史が兼務していることが多かった。
武帝のとき、侍御史の郭欽が「ひとたび兵乱が起これば、胡騎が平陽郡・上党郡から、孟津(洛陽の北の黄河の渡し場)まで、3日もかからずに姿を現すでしょう。并州は、匈奴に領有されるでしょう」と警鐘を鳴らした。近いね。
太子洗馬の江統が、299年に斉万年が平定されたとき、『徙戎論』を著した。「関中の百余万の人口のうち、氐・羌が半数を占めています。并州の匈奴や、滎陽の高句麗族も、帰還させるべきです」と。 だが、却下された。
■武帝のときの異民族
269年から、鮮卑の禿髪樹機能が叛旗を翻し、279年まで手を取られた。こっちが片付いて、やっと呉討伐へと行けた。
このあいだ、秦州刺史の胡烈(武帝が愛した胡氏の叔父)が270年に討たれ、涼州刺史の牽弘(魏の牽招の子)が271年に討たれ、涼州刺史の楊欣(鄧艾の下で姜維と戦った)が278年に討たれた。
だが、平虜護軍の文鴦(文欽の子、諸葛誕から離脱)が277年に、鮮卑に大打撃を与えた。279年、討虜護軍の馬隆(『晋書』に列伝あり)が、武威で樹機能を討った。
271年正月、匈奴の右賢王・劉猛が、長城を越えて北帰し、同年11月に并州を侵寇した。だが、2ヶ月で鎮定された。
■恵帝のときの異民族
294年に匈奴の郝散が上党郡に来たが、翌年鎮圧。
296年、弟の郝度元が馮翊郡・北地郡で、馬蘭羌・盧水胡を率いて挙兵した。秦州・雍州の、氐・羌がすべて背き、斉万年は推戴されて「皇帝」を称した。 建威将軍の周処が派遣されたが、長安の司馬肜と折り合いがつかず、297年に六陌ノ戦で戦死した。 299年、積弩将軍の孟観が、中亭ノ戦で斉万年を生け捕った。直後から、狭義の八王ノ乱が始まるんだけどね。『徙戎論』はこのとき。
■成漢の成立
斉万年の叛乱(299年)と飢饉から逃れるため、漢中に胡漢の流民が入った。
その中にいた巴氐の李特は、300年、益州刺史の趙廞に従った。趙廞は、司馬倫に滅ぼされた賈皇后の姻戚で、大都督・大将軍・益州牧を名乗り、自立して賈氏との共倒れを防ごうとした。
だが趙廞は、李特の弟を殺したので、背かれた。
301年、李特は、新しい益州刺史の羅尚(羅憲の甥)に従った。だが、彼が流民を強制送還しようとしたので、李特は背いた。
302年、李特は大将軍・益州牧・都督梁益二州諸軍事を自称した。梁州って聞きなれないけど、雍州のあたりらしい。翌年、李特は羅尚に殺された。だが、子の李雄が303年閏12月に成都を征圧した。
304年10月、李雄は成都王を称し、306年6月、帝位について「成」を建国した。
李氏は、五斗米道に入信しており、道教風の尊称を持つ人物を、招いている。張魯の宗教立国の後を、受け継ぐのかも知れない、と。
■張昌の乱
バラバラのピースが繋がっていく快感です。
巴氐の李氏の影響を受けて、303年、義陽蛮の張昌が叛乱した。新野王の司馬歆(ミスター受身さん)が、厳酷に異民族を苦しめたかららしい。張昌は奇跡のミワザを起こして、求心した。
詔勅の日付から「壬午兵」と名づけられた、李雄討伐のための軍が、荊州で編成された。その徴発から逃れるために、張昌の下に人が集った。不幸な不幸な玉突き事故だね笑
司馬歆は樊城で殺され、石冰は揚州まで攻めた。乱は荊・江・徐・揚・豫の5州に広がった。司馬乂が洛陽を護り、司馬頴・司馬顒と対立している時期だ。
羊祜の故吏であった、劉弘(劉馥の孫)が荊州刺史として入り、豫州刺史の劉喬(のちに司馬越と奮戦)が、それぞれ宛と汝南に駐屯し、304年に張昌を捕えた。石冰も、平定された。普通にすごくないか。
荊州は劉弘の死後に叛乱が絶えない。
揚州は、石冰を討った陳敏が305年に自立しようとした。孫呉再来。
顧栄ら、江南の豪族は合意したが、寿春の周馥が指弾したので、307年に鎮圧された。代わりに送り込まれてきたのが、安東将軍・都督揚州諸軍事の司馬睿だった。ほおお、こうやって繋がるんだなあ、と感心するのみです。
■漢(前趙)の成立
304年、并州で漢王を称したのが、匈奴の大単于の劉淵。
虎連題氏で、漢朝帝室との通婚で、姓を「劉」に変えていた。祖父の於夫羅は、南単于として黒山賊や袁紹と結んだ。父の劉豹は、魏の左部帥だった。劉淵は、幼いときから中国文化の素養を身に付け、司馬昭に可愛がられた。
太原郡の王渾が、しばしば司馬炎に劉淵のことを語り、交流した。
司馬頴の下で、監五部軍事として、八王ノ乱に加わった。この優遇の背景には、司馬騰・王浚が鮮卑を用いていたことに対抗して、南匈奴のパワーを借りようとした司馬頴の狙いがあった。
304年、鄴に済んでいたが、大単于に推戴されて、曹操によって5つに分解されていた南匈奴を統合した。 并州に戻り、あくまで中国内で自立した。
当初は、司馬頴との誼みで、司馬騰らと戦っていた。
306年、司馬頴・恵帝が死んだ頃から、平陽郡・河東郡を攻略するようになった。309年にかけて、河北の諸将が帰順し、漢の官爵を授けられた。「漢」対「晋」の対決姿勢が濃くなった。
308年5月、309年8月と10月、310年10月と、洛陽を攻めた。西晋は、涼州に出鎮している張軌(『晋書』56巻を独占している!)らが辛うじて防いだ。
308年10月、劉淵は帝位に即き、309年1月に平陽に遷都した。だが、310年7月に劉淵が死んだので、洛陽攻撃の総司令官を務めていた実力者、劉聡(劉淵の子)が継いだ。
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