三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
福原啓郎『西晋の武帝』で西晋末を知る。(11)
■石勒の登場
石勒は、上党郡の羯族(匈奴の別種)部落の小率の出身。
并州刺史・司馬騰の人狩りに遭って、2人1組のクビ枷で、売り飛ばされた。農奴をやり、群盗になった。あまり注目してこなかったけど、異民族統治の難しい并州にいた司馬騰は、重要人物だったんだね。

石勒は、長安から落ち延びる司馬頴に仕えた。
司馬頴が殺されると、「仇討ちだ」と宣言し、何かを決めるとき、いちいち司馬頴の棺にお伺いを立てる部将、汲桑の前駆けになった。
司馬騰を殺し、幽州刺史を殺した。石勒は、司馬越の攻撃を受けて、劉淵に帰順した。あちこちの勢力を説得・詐偽して、味方にしたので、輔漢将軍・平晋王・督山東征討諸軍事にしてもらった。
「輔漢」とは、懐かしい響きだね。そして、晋を平らぐことが期待されてるわけだ。主に黄河の北で、西晋の郡太守と戦った。

■王弥の登場
東莱郡の太守を輩出した家に、王弥は生まれた。
306年、王浚に敗れた戦いに参加しており、群盗になった。敏捷なので「飛豹」と呼ばれた。
307年、劉淵に帰順して、鎮東大将軍・青徐二州牧・都督緑海諸軍事・東莱公になった。流民を集めて、黄河の南(青・徐・兗・豫)を攻撃した。石勒と協力して、鄴を攻略した。

■西晋の布陣
許昌に司馬越、鄴に司馬騰(越の弟)、襄陽に司馬略(騰の弟)、長安に司馬模(略の弟)が出鎮した。見事に4人兄弟で、要所を固めてしまったよ。これを、私物化と言うんじゃないのか。外圧があると、団結するものだ笑
兗州(のち青州)には荀晞、幽州には王浚、并州には劉琨、涼州には張軌が、群雄・軍閥みたいな位置づけでいた。
荀晞は、汲桑・石勒らを破ることがあったが、殺戮が好きだったので、「屠伯」と呼ばれた。
王浚は、鮮卑の段部と結び、石勒をしばしば破った。
劉琨は、賈謐の「二十四友」の1人で、兄は劉輿。司馬越に信頼され、司馬騰が去った後に晋陽へ入り、劉淵・劉聡と対峙した。
張軌は301年に涼州刺史になり、子孫が前涼を建国した。
■司馬越の軋轢
懐帝が306年11月に即位した。
司馬越は、307年1月に輔政の任に就き、3月に許昌へ出鎮、12月に司馬覃を金墉城へ幽閉し、308年2月に司馬覃を殺害した。
307年12月には丞相に就くなど、独断専行を重ねた。

309年6月、司馬越は兵を率いて宮中に入り、恵帝の側近や舅ら10余人を殺した。これで、懐帝との対立が決定的に成った。また、武帝が設置し、八王ノ乱を左右した宮中の武官を放逐した。
いちおう「改革」のつもりだったんだろうが、司馬越は「衆望」を失い、310年4月に天下の兵を徴召したとき、誰も来なかった笑

310年11月、司馬越は「石勒を討伐せよ」と、40000を率いて許昌に行った。大尉の王衍ら、主だった官人を連れ出してしまい、洛陽はカラになった。盗賊が公然と横行し、仏図澄が来てても、ろくなオモテナシも出来ない状態だった笑

311年1月、青州刺史の荀晞に、懐帝からお手紙が着いた。
「司馬越、調子に乗ってるから、討て」
311年3月、司馬越の罪状が列挙され、各方鎮に布告された。

■司馬氏全滅?
311年1月、司馬師・司馬昭の同母弟で、洛陽で交際を一切断ってきた長老、司馬榦が80歳で死んだ。
「榦」は、土壁を築くときに両側に立てる柱、木のみき、物事の中心となるもの、人間の筋金となる強い力、仕事をする能力、正しく治める、取り仕切る、などの意。まさに名前がピッタリだ。

311年3月19日、司馬越は項県で死んだ。王衍が固辞したので、襄陽王・司馬範(楚王・司馬瑋の子)が大将軍になって、東海国に向った。
しかし、4月1日、寧平城で石勒に追いつかれて、10余万人が殺された。何とか逃げた者も、後からきた王弥の弟に食べられた。
司馬越の棺は焼かれてしまった。王衍も、司馬範も、その他司馬一族の大半も、石勒に殺された。
みんな総出で、ぞろぞろと付いて来るから、こんなことになるんだよ。総出の理由は、懐帝から引き離すためだったんだよね。馬鹿らしい災難を招いたものだ。
司馬範は死ぬまで堂々としていて、石勒も惜しんだが、諦めた。おそらく彼の父の司馬瑋も、きちんと成長を見守れば、大物になったと思うんだけどなあ、と今さらながら思うねえ。

司馬越が死んだと聞いて、彼の一派は洛陽から東に逃げ始めた。夫人の裴妃や、司馬眦(司馬越の子)も混じっていた。洛陽の人々が、競って付き従った。
頴川郡で石勒軍と遭遇して、36王(もしくは48王)がみな殺された。洛陽から出てきた人々は、全滅した。なんてこと。。
福原啓郎『西晋の武帝』で西晋末を知る。(12)
■洛陽陥落
洛陽は飢饉。8、9割の人が流亡した。盗賊が跋扈し、宮城から出られなくなってしまった。
311年5月11日、洛陽は漢軍の本隊27000に攻められた。6月11日、王弥や劉曜が到着し、洛陽が落ちた。

この瞬間をもって、ぼくの『三国志』は終わると思います。やっと見届けることが出来ました。ここまで知って、やっと落ち着くことができるよ。漢民族の今後を考えると、落ち着いている場合じゃないけれど。

懐帝は、洛水を伝って黄河に逃げようとしたが、船を焼かれてしまった。長安に向おうとしたが、劉曜に捕まり、端門に閉じ込められた。
6月12日、司馬詮(皇太子)司馬晏(懐帝の兄、呉王)ら宗室のメンバー以下30000人余りが殺され、歴代の諸陵が発(あば)かれ、宮城・宗廟が焼き払われ、官府もすべて灰燼に帰した、と。

■羊皇后の運命
羊皇后(司馬覃にこだわってた人)は、漢の後に前趙を建てた劉曜の皇后にさせられた。
劉曜「オレと司馬家の児は、比べてどうか」
羊皇后「あなたは開基の聖主。あっち(恵帝・司馬衷)は亡国の暗夫
劉曜「ふむ」
羊皇后「あなたに会うまで、血筋のいい男はクズだと思っていました」

なんとも言えない会話だねえ。
国の勝ち負け以前に、「前夫(もしくは元カレ)と比べて、オレはどうか」と聞く神経が、何とも好きになれませんが。そして、羊皇后は、これ以外の答えを許されていたのでしょうか。
寵愛されて、2人の子供ができたらしいですが。

■懐帝の末路
懐帝は、会稽郡公に封じられ、平陽(漢の都)の宴席に招かれた。
司馬炎が、劉禅や孫皓を宴席でからかってたんだから、こういうのは、歴史の常らしい。史書に残りやすいような、パフォーマンスが好きなんだね。
劉聡(皇帝)は、かつて洛陽の王済の屋敷で、弓の腕前を競った思い出話をした。どうやら、劉聡の方が上手だったとか。そういう自慢話の類いなんだ。うんざりだ笑

313年正月元旦、光極前殿で、宴席が設けられた。
懐帝は、青衣(腰元が着るもの)を強要され、酌をさせられた。これをみた旧晋臣が哭したのを憎まれてた。
313年2月1日、チン毒で殺された。30歳。
■愍帝の即位
陥落する前に洛陽を離れていた、司空の荀藩光禄大夫の荀組(2人は兄弟で、荀勖の子)が、建業に出ている司馬睿を盟主にした。
青州の荀晞は、司馬覃の弟を皇太子にした。幽州の王浚も、別の太子を立てた。

そうした流動的な状況下で、呉王・司馬晏の子の、司馬鄴(秦王、あざなは彦旗)が皇帝になった。彼は、滎陽郡に避難しており、舅の荀氏兄弟(外戚だったんだなあ)と会い、長安を目指した。

312年9月3日に立太子、313年4月1日に懐帝の凶報を聞き、4月27日に即位した。
関中の長安一帯だけにしか威令が及ばないが、他の地域の宗室や軍閥に官爵を授けることで、辛うじて結びつき、王朝の体を成していた、と。

313年から316年にかけて、劉曜の漢軍が長安を攻めた。
愍帝は316年11月11日に降伏した。
(武帝が好きだった)羊車に乗り、肌脱ぎして、口に璧を含み、棺を担がせて出降した。

317年12月20日に、愍帝は殺害された。18歳。
とりあえず福原氏の本は読み終わったものの、ここからいろいろ考え始めるのは、後日ということで。愍帝のところは、そんなに熱心に本を写しませんでしたが。
愍帝の時代は、『三国志』というよりは、西晋の最後を惜しむ人にとって興味深いものでしょう。東晋とのリンクとかね。

司馬仲達の家の後日談としては、もう「八王ノ乱」のあたりで、充分に満足しました。ごちそうさまでした。
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